北條霞亭 森鴎外 その一  わたくしは伊沢蘭軒を伝するに当つて、筆を行る間 に料らずも北条霞亭に逢著した。それは霞亭が福山侯 阿部正精に仕へて江戸に召された時、菅茶山は其女姪 にして霞亭の妻なる井上氏敬に諭すに、蘭軒を視るこ と猶父のごとくせよと云ふを以てしたからである。  霞亭の事蹟は頼山陽の墓褐銘に由つて世に知られて ゐる。文中わたくしに興味を覚えしめたのは、主とし て霞亭の嵯峨生活である。霞亭は学成りて未だ仕へざ る三十二歳の時、弟碧山一人を章して嵯峨に棲み、其 状隠逸伝中の人に似てゐた。わたくしは嘗て少うして 大学を出でた比、此の如き夢の胸裡に往来したことが ある。しかしわたくしは其事の理想として懐くべくし て、行実に現すべからざるを謂って、これを致す道を 講ずるにだに及ばずして罷んだ。彼霞亭は何者ぞ。敢 てこれを為した。霞亭は奈何にしてこれを能くしたの であらうか。是がわたくしの曾て提起した問である。  原来此問は墓に銘した山陽の夙く発した所で、山陽 も亦あからさまに解釈するには至らずして已んだ。試 に句を摘んで山陽の思量の迩を尋ねて見よう。  「北条君子譲。慕唐陽城為人。自命一字景陽。嘗徴 余書其説。時酒間不違詳其旨。諾而不果。」按ずるに 霞亭の嵯峨は尤宗の及第後に隠れた中条山である。碧 山惟長は冗宗の弟増域である。北条が起つて阿部氏の 文学となつたのは陽が起つて徳宗の諌官となつたと相 類してゐる。しかし山陽も終に霞亭の口づから説くを 聞くことを果さなかつた。  「君蓋欲自験其所学者也。其慕陽城。堂非慕其錐求 適己。亦能済物哉。不然。烏能舎其所楽。而役役以没 也。」是が山陽の付度する所の霞亭の心事である。山 陽は霞亭の自ら説くを聞かなかつたので、已むことを 得ずして外よりこれを推求した。霞亭が済物の志は他 をして嵯峨生活の適、嵯峨生活の楽を棄てしめたので あらうと謂ふのである。  問ふことは易い。しかし答ふることは難い。わたく しは書を読むこと五十年である。そしてわたくしの智 識は無数の答へられざる問題の集団である。霞亭は何 者ぞ。わたくしは今敢て遽にこれに答へむと欲するの では無い。わたくしは但これに答ふるに資すべき材料 を蒐集して、なるべく完全ならむことを欲する。霞亭 の言行を知ること、なるべく細密ならむことを欲する。 此稿は此希求より生じた一堆の反故に過ぎない。  わたくしは此稿を公衆の前に開披するに臨んで独り 自ら悲む。何故と云ふに、景陽の情はわたくしの嘗て 霞亭と与に借にした所である。然るに霞亭は、縦ひ褐 を福山に解いてより後、いかばかりの事業をも為す二 とを得なかつたとはいへ、猶能く少壮にして嵯峨より 起つた。わたくしの中条山の夢は嘗て徒に胸裡に往来 して、忽ち復消え去つた。わたくしの遅れて一身の間 を得たのは、衰残復起つべからざるに至つた今である。 その二  霞亭の事蹟にして既に世の人に知られてゐるのは、 上に記した山陽の墓隅銘の云ふ所である。銘は山陽遺 稿に載せてある。  わたくしは巣鴨真性寺に霞亭の墓を弔つた時、墓石 の刻する所を以て対校して見た。  寺は巣鴨行電車の終点より北行すること数歩の処に ある。街の左側に門があつて、入つて本堂前より右折 すれば墓地になつてゐる。東西に長く南北に狭い地域 の中程に「霞亭先生北条君墓」がある。山陽の自ら撰 んで自ら書した墓隅銘は左右背の三面に刻してある。 末には「友人頼嚢撰井書、孤子退建」と署してある。 浜野知三郎さんは此銘が恐くは山陽の絶筆であらうと 云ふ。果して然らば是は今少し広く世に知らるべき筈 の金石文字ではなからうか。  今石刻の文を以て対校するに、刊本遺稿には二三の 異同がある。「君病残於江戸。」石には「病」字が無い。 「給三十口。准大監察。」石には「准」が「班」に作つ てある。「学主洛閲。而輔以博覧。」石には上に「其」 字がある。「有霞亭摘稿、渉筆、嵯峨樵歌、薇山三観及 杜詩播註等。」石には上に「所著」の二字がある。要す るに皆小異同である。わたくしは此に其得失を論ずる ことを欲せない。  山陽の文に見えてゐる霞亭の著述中、杜詩の註を除 く外は、皆著者の事蹟を知る資料たるに足るものであ る。わたくしは蘭軒伝を草するに当つて、夙く霞亭渉 筆、嵯峨樵歌、薇山三観三書の刊本を浜野氏に借りて 引用することを得た。薇山三観は後に帰省詩嚢と合刻 せられたが、わたくしは後者の単行本を横山廉次郎さ んに借りて読んだ。剰す所は未見の霞亭摘稿があるの みである。  別に歳寒堂遺稿三巻があつて、浜野民は将にこれを 校刻せむとしてゐる。巻之一、詩古今体二百六十二首、 巻之二、詩古今体二百十五首、巻之三、文三十二首で、 末に行道山行記を均したものである。わたくしは今こ れを浜野氏に借ることを得た。  霞亭の事蹟を知ること詳ならむを欲するときは、 遺稿は読まざるべからざる書である。わたくしが此文 を草するに当つて遺稿を引用することを得るのは、前 に刊本三種を読むことを得たと同じく、並に皆浜野氏 の賜である。  わたくしは此に先づ当に蘭軒伝中に引くべくして引 くに及ばなかつた詩三首を遺稿中より抄する。霞亭と 蘭軒との関係は既に上に見えてゐるが故である。「過 蘭軒。孤旅天涯誰共親。官居幸是接芳隣。清風一楊玲 君話。洗尽両旬征路塵。」「従蘭軒処寛梧桐芭蕉。梅李 三根対小寮。園庭十畝太鵡条。聞愁剰欲聴秋雨。為乞 青桐与緑蕉。」「雪日書況、寄伊沢濃父、潅父久臥病、 予亦因疾廃酒。重裏囲続護衰躬。坐看雪華瓢急風。篁 竹尽眠遮灰径。楼台如画出遙空。独醒長学幽憂客。高 臥更憐同病翁。憶得他年乗興処。墨江晩霧掲寒蓬。」 共に遺稿第二巻の収むる所である。 その三  山陽撰の墓隅銘と、霞亭が著す所の詩文雑録とより して外、霞亭の事蹟を徴すべきものは当時の書順であ る。  霞亭が故郷志摩国的矢を去つたので、父適斎道有は 霞亭の弟碧山惟長をして家を継がしめた。碧山の子が 一可、一可の子が新民、新民の子が新助である。此北 条新助さんが霞亭の書順一簾を蔵してゐる。わたくし は島田賢平さんに由つて此書順を借ることを得、頃日 これを読み尽した。書順は二百余通あつて、大半は霞 亭が適斎と碧山とに与へたものである。的矢の北条氏 が歴世これを愛護して一も散侠することなからしめ、 今の新助さんに至つたのは、其ピエテエの深厚なるこ と、実に敬重すべきである。此二百余通の書腰は、わ たくしの新に獲た資料中最大にして最有力なるもの である。  霞亭が福山藩の文学となつて江戸に客死した時、同 藩河村民の子悔堂退が来つて其箕裏を継いだ。山陽に 請うて養父の墓に銘せしめたのは此悔堂である。悔堂 の子が笠峰念祖、笠峰の子が徳太郎である。徳太郎さ んは頃日に至るまで近江国蒲生郡苗村村立川守尋常小 学校長であつた。笠峰に弟洗蔵があつて高橋氏を冒し、 現に神辺にゐる。わたくしは浜野知三郎さんに由つて 高橋洗蔵さんの所蔵の書憤数通をも借ることを得た。 是は諸友の霞亭に与へたものである。  前記の外、わたくしは福田禄太郎さんの手より許多 の系譜、行状、墓表等の謄本を贈られた。霞亭の事蹟 を徴すべき資料は概此の如くである。就中わたくし を促して此稿を起さしめたのは、的矢北条氏所蔵の霞 亭書順一簾である。  さて霞亭伝を作るには、いかなる体例に従ふべきで あらうか。今わたくしの知る所のものを筆に上せて罫 漏なからしめむことを欲したなら、わたくしは霞亭を 叙すること猶渋江抽斎を叙し伊沢潅父を叙するがごと くなるを便とするであらう。しかし既往はわたくしを して懲比必せしめた、わたくしは簡浄を努めなくてはな らない。播叙する所の書順の如きは、いかに価値大に 興趣饒しと以為ふものと錐、わたくしは敢て其全文を 写し出すことをなさぬであらう。  幸なるは霞亭の生涯に多少の波欄があつて、縦ひい かなる省筆を用ゐて記述せむも、彼蔵儲家校讐家とし て幕医の家に生没した小島宝素の事蹟の如く荒涼落奥 なる虞の無い事である。  わたくしは此より前記の材料に拠つて、霞亭の祖先 より、霞亭自己の生涯を経て、其後喬に至るまで、極 て簡潔に叙述しようとおもふ。若し其文字の間に、彷 彿として霞亭の陽城に私淑した所以が看取せられたな ら、わたくしの願は足るであらう。 その四  山陽が霞亭の祖先を叙した文はかうである。「其先 出於早雲氏、後仕内藤侯。侯国除、曾祖道益。祖道可。 考道有。皆隠医本邑。」本邑とは志摩国的矢である。  霞亭の遠祖は北条早雲である。霞亭は渉筆を著すに 当つて、祖宗の逸事として早雲の事を語つた。世の普 く知る所の、早雲が人の三略を講ずるを聞いて、「夫 主将之法、務撹英雄之心」に至り、復他を説かしめな かつたと云ふ伝説である。  わたくしはこれを読んで、霞亭が名将の種と云ふを 以て一種のフイエルテエを感じてゐたものかと想ふ。 霞亭は恐くはアリストクラチツクな人であつた寸らう。 是は後の嵯峨生活の由つて来る所を知るために、等閑 視すべからざる事実である。  しかし文献は早雲より霞亭の曾祖道益に至るまでの 連鎖の幾節を闘いてゐる。福山藩に伝ふる所の「北条 系図」の首にはかう云つてある。「天正十八年七月小 田原落城せしかば、同年秋北条家の一門家老悉く高野 山に登りしが、同年冬山を下り、麓の天野に居住す。 其後家祖は志摩鳥羽の城主内藤志摩守忠重に仕へ、其 子道益斎の時、内藤家断絶して浪人となり、同国的屋 に隠れ、医を業とす。」此に「家祖」と云ふものは、 其名こそ詳ならね、即霞亭の高祖である。  内藤家の断絶は和泉守忠勝の時であつた。延宝八年 六月二十六日に、芝増上寺に於て前将軍徳川家綱の四 十九日の法要が営まれた。此日に忠勝は宿怨あるを以 て、丹後国宮津の城主永井信濃守尚長を寺中に斬つた。 二十七日忠勝の三万三千二百石、尚長の七万石は並に 官没せられ、忠勝は芝青松寺に於て切腹せしめられた。  此時道益は忠勝に仕へてゐたので、的矢に徒つて医 となつた。道益と云ひ、道益斎と云ふは、固より医と なつた後の称であらう。是が霞亭の曾祖である。  道益には僧俗二人の兄弟があつた。的矢北条氏蔵霞 亭書順中に首尾の裂けて失はれた一書がある。是は渉 筆に拠つて考ふるに、西村及時に与へたものであらう。 今其一節を抄する。「曾祖以医隠於志州的屋村。其節 省北条為北。或称喜多。同胞三人。弟市之丞某東遊一 諸侯へ仕宙いたし候処、不幸にして讃死いたし候。没 落のせつ道益斎兄薙髪出家いたし、則真英師に候。」 是に由つて観れば、同胞三人の順位は僧真英、医師道 益、侍市之丞である。  然るに渉筆には「曾祖父道益弟、有了普禅師」と云 つてある。そして市之丞の事は見えない。了普は即真 英であらう。此僧は書順に従へば道益の兄となり、渉 筆に従へば其弟となる。渉筆は後年の剛定を経たもの なるを思へば、是を定説とすべきであらうか。果して 然らば道益に真英、市之丞の二弟があつたとすべきで あらう。  渉筆に拠るに、霞亭は及時に請うて了普の事蹟を記 せしめた。上に云つた書順の断簡に、猶真英の事が書 してある。わたくしは此を以て及時の記の根本史料と なすが故に、此に録存する。「則真英師に候。(此句重 出。)書をもとめ候人多く、常に潤筆の資満嚢有之候 処、人に施し又は仏寺を創建いたし候よし。はじめ青 の峰辮天の社を建立、又同州三箇所村棲雲庵建立。共 外にも有之候へとも相しれ不申。弊家墳墓へ、手写の 千部経蔵画いたし、今に埋み有之候。其外に尺八をよ くふかれ候事も申つたへ候。これ等は皆々ほんの児女 子口碑に御坐候。御取捨可被下候。村松に大般若経の 書写有之候よし承り及候。」 その五  霞亭の曾祖道益は享保十一年十月二十八日に残した。 法識三友道益庵主である。其同胞僧了普は自ら創する 所の三箇所村棲雲庵に住んで、遅るること十七年、寛 保三年に寂した。  道益に次いで医業を的矢に行つた道可は、霞亭の祖 父である。名は俊立、又玄と号した。明和七年十二月 十八日に妻を喪ひ、安永五年十一月二十八日に残した。 法認を可卯至道庵主と云ふ。孫霞亭の生るるに先だつ こと四年である。  道益の後は道有が襲いだ。是が霞亭の父である。  道有には孫福公蓑撰の墓表があつて、梢其事蹟を詳 にすることが出来る。蓑は裕字の変体である。わたく しの記憶にして欺かずば、渉筆には剤剛氏に誤られて ゐたかとおもふ。  道有、名は寛、字は士紳、適斎と号した。延享四年 に生れ、二十四歳にして侍を失ひ、三十歳にして枯を 失つた。その長男霞亭をまうけたのは、霞亭の生日安 永九年九月五日なるより推すに、三十四歳の時である。 霞亭の母は中村氏である。想ふに適斎道有は父の残し た後に始て取女つたのではなからうか。中村氏は十六歳 にして霞亭を生んだ。  わたくしは霞亭のいかなる家庭に鞠育せられたかを 知らむがために、此に墓表中より適斎の人となりを抄 する。「先生為人。気宇爽朗。聞人一善。若享大餐、 聞一不善。若有所失。或読古人書伝。談前言往蹟。甘 心於忠良。切歯於姦侵。宛如吾眼前事。慨然歎詑不措。 性嗜酒。但不喜独飲。日夕趣客対酌。率以為常。其飲 量過人。老而不衰。」霞亭の父は庸人ではなかつたら しい。  わたくしは又墓表に拠つて、適斎の医にして儒であ つたことを証することが出来る。「里中弟子。嘗問字 学書者。凡七十余人。」適斎は間里にあつて人の師と なつてゐたのである。適斎は後年其子霞亭をして験足 を伸べしめむがために廃嫡した。わたくしは此非常の 挙の由つて来る所を推して、公蓑が談墓の文を作らな かつたことを知る。  天明四年に霞亭の弟内蔵太郎が生れた。名は彦、字 は子彦である。適斎三十八、中村氏二十の時の子であ る。兄霞亭は既に五歳になつてゐた。  渉筆に雪で塑ねた布袋和尚の融けたのに泣いた内蔵 太郎の可憐な姿が写されてゐる。是は天明八年霞亭九 歳、彦五歳の時の事である。  寛政三年四月三日に適斎の三男貞蔵が天折した。其 生日を知らない。恐くは生れて未だ幾ならぬに死した のであらう。時に父四十五、母二十七、両兄は十二歳 と八歳とであつた。  五年には霞亭が十四歳になつた。行状一本に、士人 某がこれを相した逸事を載せてゐる。「先生幼にして 重遅、戯嬉を好まず。惟演史を読むを以て歓となす。 年十四、里中の児と出て遊ぶ。一士人あり、熟視久う して其同行に謂て日く。此子挙止凡児に異なり。他時 必ず大名を成さむ。」 その六  わたくしは霞亭が寛政五年十四歳にして一士人に相 せられたことを記した。次年六年閏十一月十四日に は偶霞亭同胞の女子英の残したことが伝へられてゐ る。按ずるに霞亭の同胞には四女があつた。山陽は 「考嬰中村氏、生六男四女」と云つてゐる。長女を縫 と云ひ、二女を英と云ひ、三女は死産であつたために 名が無く、四女を通と云つた。わたくしは唯英が霞亭 十五歳の時に死んだことを知るのみで、其他の女子の 生残を明にしない。通は長じて植田氏に嫁したさうで ある。  七年には霞亭の弟碧山が生れた。父は四十九、母は 三十一、長兄霞亭は十六、仲兄子彦は十二であつた。 碧山、名は惟長、字は立敬、通称は大助である。碧山 は霞亭が李白の詩に取つて命じたものである、按ずる に後霞亭が郷を去るに及んで、子彦は既に残してゐた ので、此碧山が立嫡せられたのである。  九年に霞亭は京都に遊学した。渉筆の「予年十八、 遊京師」の文より推すことが出来るのである。山陽は 単に「幼喜読書、考以次子立敬承家、聴君遊学、入京 及江戸」と云つてゐる。しかしわたくしは碧山立敬の 立嫡は霞亭が始て京都に遊んだ年に於てせられたので はあるまいとおもふ。父適斎が十八歳の子彦を措いて、 十四歳の碧山を立てたとは信じ難いからである、況や 子彦は有望な子で翌年踵を兄霞亭に接して京都に往く のである。若し碧山の立嫡が真に此年に於てせられた なら、それは適斎が霞亭子彦の二人をして斉しく郷を 去つて身を立てしめようとおもひ、ことさらに最少な る碧山を以て嗣子としたと看倣すより外無からう。是 も亦必ずしも想像すべからざる事ではない。  霞亭は京都にあつて経を皆川洪園に学ぴ、医を広岡 文台に学んだ。事は載せて渉筆中にある。洪園は当時 六十四歳であつた。文台の事は多く世に顕れてをらぬ が、呉秀三さんの検する所に拠るに、宇津木益夫の日 本医譜に、名は元、字は子長、伊賀の人、古医方を以 て自ら任じ、名を四方に馳す、著す所家刻傷寒論あり と云つてある、霞亭が渉筆に「長予二十五歳、折輩行 交予」と云ふより推せば、その霞亭を引見したのは四 十三歳の時である。按ずるに霞亭が儒を以て立たむと 欲する志は、当時猶未だ決せなかつたであらう。  霞亭は京都にあつて山口凹巷、鈴木小蓮、清水雷首、 下田芳沢、本山仲庶等と相識つた。就中凹巷は最親 く、後に霞亭の弟を迎へ女婿とするに至つた。次に親 かつたのは小蓮であつたらしい。  京都は的矢を距ること遠くもないので、霞亭は屡 省親のために帰つたらしい。此丁巳の歳には十二月に 帰つたことが渉筆に見えてゐる、  十年は霞亭の京都にあつた第二年である。洪園に従 つて東山に遊んだことが渉筆に見えてゐる。文台は此 年伊賀に帰つた。渉筆を閲するに、霞亭は「居無幾、 先生帰伊州」と云ふのみであるが、後庚午に文台を伊 賀に訪ふ時、「以十三年膜離之久、期一見於二百里外」 と云つてゐる。凹巷も亦「蓋相別十有三年」と云つて ゐる。分扶の戊午にあつたことが知られる。  霞亭の弟子彦は此年に的矢より来た。渉筆に「彦、 字子彦、通称内蔵太郎、予次弟、寛政戊午遊学京師、 師事友人源攻塊先生」と云つてある。子彦の師源政 塊名は寵、字は天爵、一号は梅荘、北小路氏、肥後守、 後大学介と称した。  此年的矢に於て霞亭の弟良助が生れた。父五十二、 母三十四、兄霞亭十九、子彦十五、立敬四歳の時であ つた。 その七  寛政十一年は霞亭の京都にあつた第三年である。夏 に入つて弟子彦が尼崎に往つて某寺に寓してゐたのを、 霞亭は京都から訪ねに往つて、伴つて的矢に帰つたじ 子彦は九月十九日に家に残した。年僅に十六であつた。 此年田口氏の女礼以が生れた。後に碧山に適く女であ る。  十二年は霞亭が滝京の第四年で、事の記すべきもの が無い。  享和元年に霞亭は京都を去つたらしい。後に帰省し た時、霞亭は「経八年南帰」と云つてゐる。そして其 帰省の年は文化五年なるが如くである。是は渉筆中の 文である。山口凹巷も亦嵯峨樵歌題詞に「別来已八 年」と云つてゐる。「厳慈」に別れてよりの意で、凹巷 霞亭の別を謂つたものではない。二友は文化紀元に江 戸で別れたから、南帰後林崎時代に至る間に、いかに しても八年を閲する筈がない。初めわたくしは同じ文 より推して、霞亭の京都を去つた年を享和二年とした が、今はその元年なるべきを思ふ。是は後に記すべき 証迩がある故である。  享和二年には霞亭の既に江戸に来てゐたことが確証 せられる。的矢書償中に此年の書一通がある。此書は 霞亭が壬戌七月二十五日に江戸にあつて裁したもので ある。  わたくしは此書の全文を写すことのタンタシヨンを 感ずる。書の的矢書順中最古のものなるを思へば、此 タンタシヨンは愈大い。しかしわたくしは此念を剋 拝してこれを略抄するに止める。  書は霞亭の北条大弐に与へたものである。その云ふ 所より推すに大弐は別人ではない。父適斎である。わ たくしは此に由つて、後に碧山の子撮が大弐と称レた のは、祖父の称を襲いだものなることを知る。  書は七月二十五日に作られてゐる。何を以てその壬 戌なることを知るか。「此節諸国出水之噂都下日々に 御座候。別而上方辺京大坂江州大水之よしに承り候。 御国辺は如何に候哉無心元奉存候、委細御様子等御示 し可被下候。九州にても有馬様御領には山つなみ等も 有之候よし。御当地は左程までも無之候へども先月廿 一二日より晦日頃迄雨降つづき申候。下総辺笠井猿が 股杯切れ候而、大川筋もあづま橋永代橋新大橋落申候。 漸う両国ばかりの二り申候。三囲土手杯は一面に水つ き申候。近年未曾有之事に候。」是は享和二年六七月 の交の森雨洪水を叙したものである。武江年表の「大 川は両国橋のみ通行成る」と符合する。  書は七月二十五日に作られた。しかしそれが江戸よ り発せられた最初の書ではない。「小子無変勤学罷在 候。乍慮外御安意奉希候。然者当二日頃書状差上申候。 相達候哉。」霞亭は七月二日頃にも亦既に書を父に寄 せたのである。是が江戸に於ける霞亭の最古の消息で、 其前年辛酉に霞亭が京都を去つただらうと云ふは、後 の南帰の年より推算するに過ぎない。  書には始て霞亭の弟敬助の名が見えてゐる。敬助は 壬戌に生れたのである。父五十六、母三十八、兄霞亭 二十三、碧山八、良助五歳の時に生れたのである。敬 助、初の名は惟寧、後沖、字は潅人と改めた。山口凹 巷が迎へて女婿とするのが此敬助である。「御小児は 名慶助と御呼被遊候由承知仕候。慶を敬の字に御かへ 被遊候方可然奉存候。其わけは当時西丸大納言様家慶 公と被仰候得者此一字を俗称に相用候儀揮多く候。下 々にては構も無之儀に候へども、読書生等は其心得も 可有事に御坐候間、敬助之方可宜候。」是に由つて観 れば適斎は慶助と命じ、霞亭が敬助と更めさせたので ある。 その八  わたくしは霞亭が享和二年七月二日頃に、既に江戸 にあつたことを確証し、又其去洛の前年辛酉にあるべ きことを言つた。霞亭は江戸にあつて誰に従つて学ん だか。行状の一本にはかう云つてある。「後江戸に遊 び、亀田鵬斎の塾に寓す。鵬斎深く先生を愛敬す。忘 年忘義、視る朋友の如し。其妻に謂て日。子譲年少と 錐ども、志行端殻心なり。恨、一女子の之に配するなき を。」霞亭が鵬斎の塾に寓したことは、行状の云ふ所 の如くであらう。しかし霞亭が果して蟄を執つて師事 したかは疑なきことを得ない。何故と云ふに、これを 文書に徴するに、蕾に鵬斎が朋友として霞亭を遇した のみでなく、霞亭の言にも亦鵬斎を師とした迩が無い からである。霞亭の鵬斎に従遊したのは何年より何年 に至る間であつたか不明である。しかし後に北遊の途 に上る前に亀田の塾にゐたことは明である。或は想ふ に江戸にある初には未だ鵬斎を見なかつたのではなか らうか。霞亭の書順に鵬斎に言及してゐることは後に 引く所に就いて見るべきである。渉筆は「先師洪園先 生」を説いて絶て鵬斎を説かない。  享和三年は霞亭が在府の徴証せられてゐる第二年で ある。此歳癸亥には閏正月があつた。的矢書順に偶 霞亭が閏正月十六日に母中村氏に寄せた書がある。そ してその云ふ所は霞亭の志を知らむがために極て重要 なるものである。「私などは世上の事も左のみ何とも ぞんじ申さず候。万事気づよく心をもち候やふにいた し候。そのわけは左様に無之候ては、江戸おもてなど には住ひ不被中候。と申て人と争ふと申様なる事はす こしもいたし不申候。学問等に精力いだし候へども、 これは元来このみ候事故、苦労とはぞんじ不申、かゑ つてたのしみ候事に候。た寸く運をひらき候て、少 々の禄をももらひ候はじ父母様兄弟一所にくらし候は んと、それのみたのしみ申候。それとてもつかみ付様 にも出来候はねど、いづれ今暫三十ぢかくもなり侯は じ、ずいぶん出来候やうに相見え候。此頃友達の松崎 太蔵と申人二十人扶持に而太田備中様へ御抱に相成候。 無左とも学問成就いたし、勢さへよろしく候は寸、人 のすて置申物には無之候。たビくつとめが第一に候。 御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所など にては所せん業わ出来不申、かつ又無用之物になりし まひ候。其段いか計かなげかわしくぞんじ為参候。何 分こゝろざし候事故、金石をちかひ修業こゝろがけ申 候。」  霞亭は大志ある人物であつた。此一書は次年の避膀 北遊の上にも、八年後の嵯峨幽棲の上にも、一道の光 明を投射する。禄を干むるには「つかみ付様」には出 来ない。先づこれを避くるは、後に一層大なるものを 獲むと欲するが故である。先づ隠るゝは、後に大に顕 れむと欲するが故である。人の行為の動機は微妙であ る。縦ひ霞亭の北遊と幽棲とに些のポオズに似たる処 があつたとしても、固よりこれが累となすには足らな い。  霞亭は母の望を繋がむがために、一友人の発迩を例 に引いた。松崎太蔵は廉堂復である。行述に「退蔵」 に作つてある。太田備中守は遠江国佐野郡掛川の城 主太田資愛である。廉堂の解褐は前年の事であつた。 行述に所謂「享和二年、掛川城主大隆公辞為藩教授、 食俸廿人口」は即是である。 その九  わたくしの上に引いた享和癸亥閏正月十六日に霞亭 が母に寄せた書は、わたくしに種々の新事実を教へた。 其一は松崎僚堂が霞亭の友人であつたと云ふことであ る。其二は霞亭の母中村氏の賢であつたことである。 中村氏が賢でなかつたなら、共子が書信中に此の如く 意を櫨べ情を尽すには至らなかつたであらう。  霞亭は書を裁した時二十四歳であつた。学既に成つ て師友に推称せられながら、軽しく質を委ぬることを 欲せずして、「いづれ今暫三十ちかくもなり候はゞ、ず いぶん出来候やうに相見え候」と云つてゐる。避膀北 遊の好註脚である。曹に然るのみではない。霞亭は三 十を瞼えても猶持重して、自ら讐ることを欲せなかつ た。嵯峨生活ある所以である。  わたくしは前に霞亭の廃嫡が必ずしも初て京都に遊 んだ年に於てせられなかつただらうと云つた。此書の 如きも、わたくしをして此疑を増さしむるものである。 引く所の文に拠るに、的矢の家の継嗣は未だ定まつて をらぬ如くである。「少々の禄をももらひ候は寸、父 母様兄弟一処にくらし侯はん」と云ひ、「御在所へか へり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せ ん業わ出来不申」と云ふを見るに、霞亭は大諸侯に仕 へ、家を挙げて任に赴かむと欲してゐたらしい。是は 廃嫡せられたものの言に似ない。  且同じ書の未だ引かぬ一節を見るに、霞亭は何事を か父適斎に謀つてゐる。「此節少々ぞんじよりもおわ し候て親父様迄御相談申上候義も候」と云つてある。 所謂相談は或は即継嗣問題ではなかつただらうか。後 の書に拠れば、霞亭は曾て父に謀つた事に手を下さず、 父の与へた金を人に委託した。是に由つて観れば、相 談即継嗣問題にはあらざりし如くである。しかしわた くしは尚其事の或は継嗣問題に関繋するにはあらざる かを思ふ。  尋で三月二十三日に適斎は書を霞亭に与へ、霞亭は 四月十五日にこれに答へた。後者は的矢書墳中にある。 此書が癸亥の作に係ることは、霞亭の弟良助が六歳に なつてゐるより推すことが出来る。「良助、敬助義は 庖瘡無悲御済被成候由、御同然に目出度奉存候。乍去 良助危症等有之、其上怪我等も仕候由、驚入候事に御 座候。庖瘡之義は天運に候得者、軽重共に是非もなき 事に候得共、怪我杯いたし候は如何之事に候哉。此後 は決而小供に負戴致させ候義乍悼御無用に奉存候。嚥 々御心労奉察候。最早日数も過候而常体之由、先々安 心仕候。(中略。)良助義もはや六歳に相成候得者、を われ候はずとも可宜候。もし足にてもかよはく候哉如 何と奉存候。」良助は明治五年に七十五歳にして残し た故、其六歳は享和三年に当る。  霞亭は前に某の事を父に謀り、父は其言を容れて金 二両を与へた。しかし霞亭は姑く其事を畷めて金を人 に委託した。事は関係する所頗重大なるものの如く である。わたくしは下に書債の一節を引かうとおもふ。 その十  霞亭が享和癸亥の歳に為さむと欲して果さなかつた 事は、その何事なるを知らぬが、父適斎はこれを許し て金を遺つた。「黄白二円御恵投難有拝受仕候。無拠 申上候処、御聞捨も不被下、毎々感謝仕候義に候。夫 に家政も何歎と御逼窮に乍揮可有御座候。実に不本意 之至、万々恐入梶入候事に候。右御相談申上候義も、 先書今頃取計可申と奉存候処、今少し見合候義も有之、 先々暫時延引仕候。兎角にせひては事を誤ると申候得 ば、万端相考申候。夫故御恵投之金子も当分入用に無 之候故、直様新兵衛殿へ預け置申候。御返上可仕と奉 存候得共、様子未分明に候故、差控申候。猶又御了簡 之程被仰聞可被下候。誠にわづか計之事に候得共、盆 前近き候而は、門人等之謝義等もさつはりとれ不中候。 しかし是は各別にとんぢやくに及不申候得共、今暫思 案仕候事有之候故さしひかへ候。当地熟交之人新兵衛 殿杯へも少しも口外いたし不申候。金子被下侯義少々 不審に思ひ候やうすに候。」  新兵衛は鈴木芙蓉で、霞亭が京都に於て交を結んだ 小蓮の父である。霞亭は江戸に来てより、最も親しく 此人に交つたと見える。前に母に寄せた書の末にも、 「尚又御めんどうながら、鈴木新兵衛殿御内室へ、を くれには候へども、御礼労御文一通、どのやうにても よろしく候間、御遣可被下候、それにてわたくし義理 相済候、まいくちそうになり申候、これも始終不快 にをられ候、かしこ」と云つてある。又父に寄せた此 書の首にも、「先月廿三日御状当五日相達、幸と其日 芙蓉宅へ参合、直様拝見仕候」と云つてある。霞亭は 屡芙蓉を訪うて其病妻の欺待を受け、剰へ芙蓉の家 を以て郷書の届先となしてゐたのである。  霞亭は癸亥の歳に、既に徒に授け謝を受けてゐた。 「門人等之謝義等もさつはりとれ不申候」の文はこれ を証して余ある。然れば霞亭は亀田鵬斎の門人ではな かつたであらう。  或は想ふに、霞亭は当時既に北遊せむと欲し、盤纏 足らざるがために、金を父に請うたのではなからうか。 学問は既に成つた。的矢へは帰りたくない。仕宙は必 ずしも嫌はない。しかし璃を待つて直に就きたくはな い。仕ふるには君を択んで仕へたい。遊歴は緩にこれ が謀をなす所以である。北遊は避聰の遊である。此 心事は「熟交之人」たる芙蓉と錐、与り聞くことを得 なかつた。此推想は中らずと錐遠からざるものではな からうか。  霞亭の癸亥に父に寄せた書には、猶名士数人の名が 見えてゐる。先づ昌平讐儒員より抄出する。「薩摩赤 崎源助も当年死去いたし候。志村藤蔵も死去。聖堂御 頼之人物、最早頼弥太郎一人に相成候。弥太郎拙者詩 作ほめ申候。先書之中に写し入御覧候。」  わたくしは下に赤崎、志村、頼の三人のために数語 を註して置かうとおもふ。 その十一  享和癸亥に霞亭が父適斎に寄せた書には、赤崎源助 の名が見えてゐる。源助は薩摩の儒臣にして幕府に徴 された海門禎幹である。其詳伝は不日刊行せらるべき 加藤雄吉さんの薩州名家伝に見えてゐる。海門は享和 壬戌八月九日六十四歳にして残した。  青柳東里の続諸家人物誌に「文化中に六十余にして 残す」と云つてあつて、人名辞書はこれに従つてゐる が、誤である。  次に霞亭は志村藤蔵の死を報じてゐる。わたくしは 此人の事に関して疑を懐いてゐる。わたくしの蔵する 初板人名辞書には志村藤蔵、志村東蔵の二人を載せて ゐて、藤蔵の下には名字道号並同胞の名が無い。これ に反して東蔵は陸奥国羽黒堂の人志村五城の弟、志村 石渓の兄で、名は時恭、号は東喫となつてゐる。藤蔵 も東蔵も皆仙台の儒員である。  又藤蔵の下には幕府に徴されたこと、失明して死ん だことがある。東蔵の下には此等の事を記さない。そ して彼は樺島石梁の文に拠り、此は仙台史伝に拠つた のである。  わたくしは藤蔵と東蔵とは同人ではなからうかとお もふ。果して然らば五城士轍の残した時、石渓弘強が 順養子となつて家を継いだのは、東喚時恭が失明して さきだ 先ち残した故であらう。五城の名士轍、石渓の名弘強 は仙台風藻に従ふ。  霞亭の書に云ふ如く、藤蔵も亦享和中に残した。仙 台風藻には「二年壬戌五月廿四日残、年五十一、葬仙 台新坂永昌寺」と云つてある。若し五城の弟ならば、 兄に先つこと二十九年であつた。五城は天保三年五月 十八日に残した。  霞亭癸亥の書には、赤崎志村が死して頼弥太郎が 独存じてゐると云つてある。春水弥太郎は時に年五 十八であつた。  春水は霞亭の詩を称讃した。書順の云ふ所に従へば、 霞亭は曾て春水の評した詩稿を父に寄示したことがあ る。  次に霞亭は古賀氏の事を言つてゐる。書順中適斎の 若布を鈴木芙蓉に贈つたことを記して、其下にかう云 つてある。「残りは如仰古賀先生へも差上可申候。当 春は古賀へも彼是と大に無沙汰に打過候。何様近日に 参手土産に相成候而至極よろしく候。」  古賀先生は精里撲であらう。是歳精里年五十四、始 て経を昌平蟹に講じてより十三年、幕府の儒員となつ てより九年である。霞亭は後に共長子穀堂と親善にな つた。  次に霞亭は鈴木芙蓉父子の事を言つてゐる。「芙蓉 も画事大分行はれ候。文蔵も随分壮健に候。妻にても 迎へ候やうに申候。」  文蔵は恐くは小蓮の俗称であらう。時に父芙蓉確五 十五、子小蓮恭二十五であつた。小蓮は霞亭の此書を 作つた四月十五日の後四十六日にして麻疹のために早 世した。其残日は六月二日である。此年は四月小、五 月大、六月小であつた。 その十二  霞亭が享和癸亥に父適斎に寄せた書には、次に山口 凹巷の名が見えてゐる。「山口徴二郎よりも早春便有 之候而より来書も無之候。如何に候哉。もし山田へで も御赴之義も候はじ、御尋可被下候。」是は霞亭が京 都に於て交を訂した凹巷旺であらう。通称の徴二郎は 始て此に見えてゐる。凹巷は伊勢の郷里にゐたと見え る。  人名の書中に見えたるものは概ね此の如きに過ぎな い。的矢の親戚故旧中猶「中西御母君」は残し、「道快 様」は血属なる「弥八悼」を養つて子とし、「喜代助」 は此に由つて幸を得、「弥八妻」は残し、「兵吉」の女 は痘に嬰つて治した。皆大関係なきものゆゑ省略に従 ふ。  最後に一事の録存して他日の参照に資すべきものが ある。即博愛心鑑序の事である。「博愛心鑑序乍御労 煩御吟味可被下奉頼候。美濃紙半枚許に認有之候。」 按ずるに是は霞亭の曾て艸する所の文歎。遺稿には見 えない。  癸亥父に寄する書の事は此に終る。  六月二日に鈴木小蓮が痂疹に罹つて残した。年僅に 廿五であつた。霞亭の「題小蓮残香集尾」にも、「鳴乎 遠恥不幸短命、享年綾廿有五」と云つてある。小蓮、 名は恭、字は遠恥、通称は文蔵であつた。又同じ人の 「祭木遠恥文」にも「年紀差一、登策同科」と云ひ、 「君長予一歳」と註してある。安永九年生の霞亭は廿 四歳になつてゐたのである。  霞亭が小蓮と京都に相識つたのは、その初て京都に 入つた寛政九年である。癸亥に残香集に践して、「六 年前、余遊学在京師、会木遠恥自江戸来、一見称知己、 三冬同硯席」と云つてゐる。  霞亭は寛政九年十二月に志摩に帰省した時、小蓮を 伴つて京都を出た。残香集の践には、「余帰省父母乎 志州、遠恥僧与行、其往還所経歴、摂和江勢諸州名山 勝区、古蹟遺縦、摩処不到」と云ひ、祭文には、「我観 父母、君謀同征、蹄矯担笠、山駅水程、登於叡岳、観 乎琶湖、瞼乎仙坂、遊於神都」と云つてある。  先づ京都を去つたのは小蓮である。次で霞亭も亦郷 に帰つた。践に「無幾遠恥東帰、余亦相踵帰家郷」と 云つてある。霞亭が京都を去つて江戸に来た時、一た び的矢の家を過つたことは推知するに難くないが、霞 亭は此に自ら語つてゐるのである。其下に「別来瞼年、 余亦遂来干江戸」と云ふを見れば、享和辛酉に小蓮は 京都より江戸に帰り、又霞亭は同じ年に京都より的矢 に帰り、尋で壬戌に江戸に来たのではなからうか。若 し残香集を検したら、或は年月を徴すべき語があるか も知れない。  霞亭は江戸に来て小蓮に再会し、其父芙蓉と親むに 至つた。その鈴木氏の家に往来することの頻であつた ことは、上に引いた数通の簡順に由つて知るべきであ る。文化甲戌諸家人名録(扇面亭編、亀田鵬斎序)を検 するに、「画家、鈴木芙蓉、名薙、字文熈、又号老蓮、 信濃人、深川三角油堀」と云つてある。霞亭の往来し たのは此深川の家歎。然らずんば芙蓉は壬戌癸亥の頃 より甲戌に至る間に其居を移したこととなるであらう。 その十三  霞亭の鈴木父子に於ける、親呪上記の如くであつた から、小蓮の逮に疾んで忽ち死した時、霞亭の痛惜は 尋常でなかつただらう。二月の前には老蓮が其子のた めに婦を迎へむとしてゐた。是も此年少の才子に徒に 属せられた幾多の望の一つになつたのである。残香集 践の「方行万里、出門車軸折」は、用ゐ来つて切実で ある。祭文の「入君之室、不見君顔、巻秩堆几、君胡 不繕、毫管満架、君胡不援」も、決して虚構ではなか らう。  此よりわたくしの叙事は霞亭の避聰北游の事に入ら なくてはならない。初めわたくしは北游を以て次年甲 子の年となした。しかし今はその癸亥なることを知つ てゐる。  わたくしは嘗て山口凹巷の嵯峨樵歌に題して五古中 より「下毛路向東、十月朔風吹」の句を引いて、霞亭 凹巷二人が十月に下野より東行したことを証した。同 じ詩に就いて旅程を考ふるに、二人は多賀城、塩釜、 富山、石巻、高館、中尊寺、泉城、一関を経歴し、帰 途常陸の潮来に小留した。わたくしの詩中より求め得 た所は此の如きに過ぎなかつた。  頃日浜野知三郎さんは備後に往来し、途次神宮文庫 を訪うて凹巷の東奥紀行を閲した。此より紀行がわた くし等に何事を教ふるかを一顧しよう。  凹巷の北游の途に上つたのは、癸亥八月二十九日で あつた。紀行に「癸亥八月廿九日故人饒余於南岳楼」 と云つてある。  此より下紀行の云ふ所は、浜野氏が考へて月日を誤 つてゐるものとなした。紀行の十月は実は九月なるが 如くである。  十月(九月)の条に下の文がある。「十三日館干江戸。 故人北子譲来訪。本志州人。与余有旧。余将遊奥。要 与倶。子譲方被磐城辟。難之。余謂日。昔者孟嚢陽。 与故人飲。違韓朝宗期。終身不達而不悔。子何以此辞。 為遂定約。」凹巷の引く所の故事は新唐書の文褻列伝 に見えてゐる。「孟浩然、字浩然。裏州裏陽人。少好 節義。喜振人患難。隠鹿門山。年四十。乃游京師。嘗 於大学賦詩。一座嵯伏。無敢抗。張九齢、王維雅称道 之。、維私逆入内署。俄而玄宗至。浩然匿沐下。維以実 対。帝喜日。朕聞其人。而未見也。何櫻而匿。詔浩然 出。帝問其詩。浩然再拝。自諦所為。至不才明主棄之 句。帝日卿不求仕。而朕未嘗棄卿。奈何証我。因放還。 採訪使韓朝宗約浩然。借至京師。欲薦諸朝。会故人至。 劇飲歓甚。或日。君与韓公有期。浩然叱日。業已飲。 違仙他。卒不赴。朝宗怒辞行。浩然不悔也。」旧唐書 の伝は僅に四十四字である。孟は後荊州の従事となり、 開元の末に疽背を病んで卒した。凹巷は北条を以て孟 に比したのである。  霞亭の北游が避聰の為だと云ふことは、山陽が已に 云つてゐる。「一藩侯欲膀致之。会聯玉来。借遊奥。 以避之。」しかし霞亭を膀せむと欲したものゝ誰なる かを詳にしない。そのこれを記するものは独凹巷の紀 行あるのみである。「子譲方被磐城辟」と云ふものが 即是である。  是に由つて観れば、霞亭を聰せむと欲したものは磐 城侯である。陸奥国磐城郡岩城平の城主は、宝暦五年 より文化七年に至るまで、安藤対馬守信成であつた。 信成は五万石を食んで、江戸の上屋敷は大名小路にあ つた。 その十四  霞亭と山口凹巷とが享和癸亥九月に将に江戸を発せ むとした時、偶河崎敬軒が江戸に来てゐた。敬軒は 二人を柳橋に饒した。東奥紀行に「十四日(九月)夜、 以良佐留江戸、酌別干柳橋酒楼」と云つてある。凹巷 の詩がある。「癸亥十月(九月)十四日。河良佐、北子 譲、田仲雄及余、飲柳橋酒楼、子譲与余別三年、相見 喜甚、約同遊松島、以良佐当竣事先還、是夜叙別、分 柳橋酌別四字為韻、余得酌字。松島風姻懸遠想。柳橋 雨月対離酌。千里錐従別在今。三年復見情如昨。故人 東去路漫々。断雁南蹄雲漠々。岐蘇桟道誰回首。微雪 満蓑迷限葎。」角田仲雄も亦与に倶に北遊することと なつてゐるのである。仲雄、名は敬之である。  九月十七日に霞亭等は江戸を発して北行した。一行 の一の関を経たのは十月七日である。そして二十五日 には皆帰つて江戸にゐた。  十月三十日に霞亭は凹巷と品川の酒楼に別を叙した。 紀行に日く。「冊日。雨中別子譲干品川酒店。乗晴更 酌。子譲赴磐城。官期在近。磐城前日所道、距江戸五 十里。明日復労各天夢想。不得不泣下也、、良佐以十月 初旬。帰自木曾道。余(凹巷)帰家。実仲冬十一日也。」 凹巷に「品川留別子譲」の詩がある。「南州久客宣遊 人。東奥行程共数旬。千里相随疑是夢。一宵将別恐非 真。海郷疲馬噺憐夕。山駅寒燈語到農。腸断従今顔色 遠。離亭坐雨品川浜。」  十二月二十九日に霞亭は舟を隅田川に涯べて遊んだ。 事は渉筆に見えてゐる。遺稿を閲するに、当時同遊者 は河崎敬軒、池上隣哉の二人で、香を懐にして来て舟 中に熱いたのは隣哉である。詩引にかう云つてある。 「余昔在都下。社友河良佐、池隣哉砥役自勢南至。一 日快雪。余与二子潭舟墨水遊賞。酒酎、隣哉出所齋香 熱炉。纏姻畏長。如坐画図中。実享和癸亥十二月除日 也。」上に引いた東奥紀行に拠るに、敬軒は十月初旬 に江戸を発して伊勢に帰つた。その十二月に江戸にあ るは怪むべきが如くである。しかし此人の来往の頻で あつたことは、茶山集等にも見えてゐる。又霞亭は磐 城に赴かむとすと云つてあるが、遂に往かなかつたと 見える。  是年癸亥には霞亭は二十四歳であつた。  文化元年には霞亭が五月に武蔵国羽生にゐた。行道 山行記に「文化紀元夏五月、余再来客武州羽生里」と 云つてある。江戸を距ること僅に十六里の地で、門下 生の家があつたのだから、是より先にも一遊したと見 える。七月十七日に霞亭は下野の行道山に登らむがた めに、羽生を発した。同行者は二人、「井説、字仲健、 井常、字子明、皆羽生人」と云つてある。利根川を済 り、梅原、中谷、茶釜森、大島を経て堀工に至つた。 茂林寺のある村である。館林、岡野、高根、日向、高 松、久保田、梁田を経、渡瀬川を渉り、除川を渡つて 足利に宿した。十八日に足利学校を訪ひ、月谷を経て 行道山に上り、浄因寺に宿した。十九日に大岩山に上 り、毘沙門堂に憩ひ、大岩、吾妻坂を経て、再ぴ除川 を渡り、和泉、中里、渋垂、県、羽刈、小曾根、鶉、 日向、家場口、館林を過ぎて羽生に帰つた。行道山行 記は遺稿に附載してある。末に鵬斎、洪園の評がある。 鵬斎は「子譲、名譲、号霞亭、五瀬人、少遊京師、受 学於漠園先生、東来荏土、以儒為業、余山水友也」と 云つてゐる。その霞亭を友として遇したことは明であ る。此羽生の游を除く外、わたくしは事の此年に繋く べきものを見ない。霞亭は甲子二十五歳であつた。  二年は霞亭が相模上総に遊んだ年である。渉筆に拠 るに、十二月には上総国湯江にゐた。今の君津郡貞元 村である。此年にも亦新資料の採るべきものが無い。 霞亭は乙丑二十六歳であつた。 その十五  文化三年は霞亭が前年に相模上総に遊ぴ、又将に信 濃越後に遊ばむとする時であつた。  饅亭は此年四月五日に書を父適斎に寄せた。書の此 年に作られた証は、三月の江戸大火を記してゐると、 ふるやせき舟う 古屋普陽の死を記してゐるとの二つを見て足るのであ る。江戸大火は三月四日に芝車町より出た火事である。 普陽の事は下に註する。書は的矢書憤の一である。  此丙寅の歳には霞亭が亀田鵬斎の塾にゐたことが確 である。是が此書のわたくしに教へた最要緊事件であ る。  此年には三月四日の大火の後、四月三日に「ぼや」 があつた。「一昨日も私罷在候近辺上野下山崎町出火 に而三町四方ほどやけ申候。とかく火災のはなしのみ にてうるさき事に御坐候。乍併最早四月にも相成候故、 各別の事も有まじく候。」山崎町は今の万年町である。 霞亭はこれを近辺と称してゐる。  霞亭は北遊の計画を語つて、さてかう云つてゐる。 「御便はやはり亀田鵬斎先生迄被遊可被下候。」又書 中に別に小切が巻き籠めてあつて、それに「江戸下谷 金杉中村亀田文左衛門内北条譲四郎」と書してあるU 是は霞亭が念のために父に示した宛名である。  亀田塾の遺吐は今のいづれの地に当るか、わたくし は精しくは知らない。下谷金杉中村は恐くは当時の 公の称呼であつただらう。そして世俗は単に根岸の 亀田と云つてゐたであらう。文化の諸家人名録には 「学者詩書画、鵬斎、亀田文左衛門、名長興、字穆竜、 又号善身堂、下谷根岸」と記してある。霞亭が亀田の 許にゐて、山崎町を近辺と称したのも、げにもと頷か れる。且霞亭が既に亀田の許にゐて日を経たことも、 文中の「やはり」に由つて証することが出来る。  霞亭は後に神辺より鵬斎に詩を寄せて、鵬斎の居を 時雨岡と云つてゐる。「夕陽村居寄鵬斎先生。曾期歳 晩社為隣。何事離居寂奥浜。海内論交常自許。尊前吐 気与誰親。夕陽村裏三秋日。時雨岡頭十月春。千里相 思難命駕。恨吾長作負心人。」しぐれが岡はしぐれの 松のある処で、金杉中村の方位も略想ふべきである。 「十月春」の三字も亦等閑看過すべきではないが、わ たくしは事の余りに臆測に亘るを避けて敢て言はない。  次にわたくしは書中より第二北游即丁卯北游の旅程 を見出す。「私も去年御噂申上候通、先当分此表は騒 々敷も有之候故、暫時越後へ参り可申歎と奉存候、も つとも芙蓉子の参り候処とは方角違に御坐候。同道も 一両人可有之候。先最初参り候処は越後新潟と申処に 御坐候。夫より高田辺迄参り候積りに御坐候。(中 略。)越後には鵬斎の門人多く候故、甚たよりいたし よく候。」他日北游摘稿を見ることを得たなら、計画 と実施との同異を辮ずることが出来るであらう。 その十六  わたくしは次に霞亭が文化丙寅に父適斎に寄せた書 の中より、諸名流の動静を窺ふべき文を抄出しようと おもふ。  其一は亀田父子である。「亀田氏火災に免かれ候而 甚相悦申候。これも此間子息三蔵子相応之女子有之、 新婚相済候。」  鵬斎が金杉の家は丙寅の火を免れた。三蔵は鵬斎の 養子綾瀬長梓である。綾瀬の婦を迎へたのは此頃の 事であつたと見える。鵬斎の継嗣は世に謂ふ取子取婦 であつた。此年鵬斎五十五歳、綾瀬二十九歳であつた、 「これも」の語は上に何人かの婚姻の事を言つたもの ゝ如くに読まれる。しかしこれに応ずる文を闘いてゐ る。此書は首が断れて亡はれてゐるから、或は此の如 き文が亡はれた中にあつたかも知れない。  其二は古屋昔陽である。「細川儒臣古屋十次郎此間 死去いたし候。」熊本の蔚山町に古屋七左衛門安親と 云ふものが住んでゐて、それに鼎助、重次郎兄弟の子 があつた。鼎助は愛日斎鼎で、熊本に住んで江戸に往 来し、天明十年に六十八歳で残した。重次郎は昔陽扇 で、江戸に住んで熊本に往来し、文化三年四月朔に七 十三歳で残した。扇は鼎の順養子である。扇の家は文 化諸家人名録に「日本橋十九文横町」と云つてある。 霞亭の書は昔陽残後四日に作られた。  其三は鈴木芙蓉である。「鈴木芙蓉子、これはやけ 不申候得共、此節弟子両人相つれ候而越後へ参られ候 よし。」芙蓉の火を免れたことを想へば、或は既に深 川に住んでゐたのではなからうか。丙寅に二弟子を率 て越後に遊んだことが知られる。  其四は恐くは益田勤斎であらう。「勤斎も越後に参 り申候。」名は濤、字は万頃、通称は重蔵、下谷和泉橋 通に住んだ蒙刻家で、亦文化諸家人名録に見えてゐる。 是は延焼を免れなかつたことゝ想はれる。  丙寅江戸の大火は諸書に記載せられてはゐるが、わ たくしは猶霞亭の書中より数行を抄することの全く無 用なるにあらざるべきを思ふ。「此度の大火に而ます く江戸の大そうなる事相しれ候。三里余に横七八丁 より一里許もやけ候得共、畢覚十分之三分許に御坐候。 越後屋白木などは直に翌日六日商売はじめ候よし。浅 草門跡のやけ灰三百両に相成よし、尤金物釘の類に直 段有之候而の事に御坐候。木挽町芝居やけ、堺町ふき や町は残り候。しかしいづれも此節は皆休み居申候。」 「災後は世間一統騒敷、干今一同相片付不申候。(中 略。)乍併(中略)町家も五分通はかり(仮)宅出来居候。 乍去今にやけ原同然に御坐候。困窮の者共御たすけの ため公儀より上野山下、本庄、芝赤羽根、護持院原、 神田橋外、処々に小屋がけ出来候而、夫にをき候而食 物は町々たきだし下され候。是も当四日迄に段々引払 ひ申候。尤此度之大火に付大工旦雇之類はかへつて仕 合のよしに候。江戸近国並に上方筋等一統のうるをひ には相成候事に御坐候。御老中方へは公儀より一万両 宛之拝借被仰付候。薩州侯は当秋琉球人参り候に付、 別而普請相いそぎ候よし、大体二十万両位之入用に相 聞え候。江戸に相限らず、尾州、津島もやけ、勢州桑 名、阿波の徳島等皆々余程之火災に相聞え候。」琉球 の使は十一月に至つて綾に来た。 その十七  霞亭が文化丙寅に父適齋に寄せた書には、尚次弟立 敬を教育する方鐵が示してある。「大助素読等いたし 候と奉存候。何卒乍御面倒傷寒論を最初より少々宛御 教授可被下候。大体空によみ候位には被成置被下度候し 大方今年は十二歳に相成候と覚え申候。定而成長可仕 とおもひやられ候。」此語は霞亭が広岡文台の旧門人 であつたことを思はしめる。  此年丙寅は上に云つた如く、霞亭が将に信濃越後に 遊ぱむとする時であつた。此遊の詩は恐くは霞亭摘稿 に載せてあるであらう。摘稿は世に刊本があるのに、 わたくしは未だ寓目しない。北游の日次道程を審に することを得ぬ所以である。  わたくしは霞亭渉筆を読んで摘稿を読まない。しか し鵬斎が凹巷の北陸游稿に序して、霞亭の北游を以て 次年丁卯の事となしてゐる。今歳寒堂遺稿を閲すれぱ、 霞亭は早く丙寅八月に越後にあつた。遊は丙寅より丁 卯に亘つたのであらう。そしてその江戸を発したのは 恐くは丙寅夏秋の交でもあつただらうか。  北游は関根仲舞の趣招に応じたものである。仲舞名 は聖民、通称は司馬助、越後国蒲原郡茨曾根村の人で ある。初めわたくしは霞亭が京都にある時仲舞と交を 結んだことゝ謂つた。山口凹巷の嵯峨樵歌に題する詩 に、「憶曾長儒宅、逆君奏墳箆、豪爽人倶逝、長儒及仲 舞」と云ひ、下に直に「瓢忽君東去、去舟汎不維」を 以て接してある故である。今にして思へば此豪爽の十 字は播叙に過ぎずして、長儒の死を説くに当つて、併 せて仲舞に及んだものではなからうか。  遺稿に載する「関根仲舞墓誌」にはかう云つてある。 「仲舞為人。温柔愛人。性解風流。暇則品茶評香。迫 遙乎泉石花竹之間。又好丹青之技。揮写自娯。毎謂人 生不可不読書講学。而僻郷乏師。莫所就問。常以為憾。 嘗聞予之客江戸。千里馳書。使人介請其北下。予諾之。 久而不果。仲舞掃楊。日候予或不至。至神銭卜之。其 篤志亦如此云。」是に由つて観れば、仲舞は未だ嘗て 閻門を出でなかつた如くである。  霞亭は越後に入つて、仲舞が茨曾根村の家に舎つた。 「予始踵其家。仲舞大喜。揖予執弟子之礼。自此与其 弟錫。並案対休。朝諦夕読。日進受業。兼以誘後進為 務。適逢中秋。把酒玩月。分韻賦詩。仲舞作七絶。」 霞亭は八月十五日には既に関根氏の家にあつた。  既にして仲舞は還に病に嬰つて死んだ。「居数日。 偶感微疾。猶在我側。予戒以宜慎調護。其翌予出寝。 碑僕驚慌告急。予就臥内視之。儘然橿伏乎被褥。扶起 之。口喋不能言。但微笑而已。家人馳駅。百方祈治。 然神益虚。気益耗。寛不可救。属纏之際。予親臨之。 父母坐於首。妻児坐於足側。愴然無柳。饗慕岡極。視 之籔鮫泣下不可禁。是為文化三年丙寅八月晦日。距生 安永八年己亥九月某日。享年二十有八歳。」霞亭と仲 舞とは八月に初て相見て、未だ其月を終へずして死別 したらしい。鈴木小蓮と云ひ、関根仲舞と云ひ、霞亭 の友人弟子には不幸の人が多かつた。 その十八  文化四年三月に霞亭が越後国茨曾根村の関根氏にゐ たことは、渉筆に見えてゐる。是は其友仲舞の既に残 した後である。  仲舞の父関根五左衛門栄都は、初妻建部氏が仲舞を 遺して去つた後、継妻吉川氏をしてこれを鞠育せしめ、 長ずるに及んで「分産別居」せしめてゐたと云ふ。按 ずるに前年丙寅に霞亭の舎ってゐた家は仲舞の家であ つた。然るに丙寅八月晦に仲舞が急に病んで残した時、 跡に婦阿部氏と子女五人とが遺つた。「男女五人。長 日達太郎。甫六歳。末産双男。尚在裾裸。」霞亭は此 家に留まつて歳を越すべきではない。  初め仲舞は霞亭を家に迎へた時、弟錫と倶に霞亭の 教を受けた。錫は栄都の家より来て講席に列したこと であらう。既にして仲舞は残した。其父栄都は必ずや 霞亭を宗家に請じて、錫をして業を受けしめたであら う。此故に丁卯三月に霞亭の寓してゐた家は栄都の家 であらう。渉筆の関根氏と書して、仲舞の名を載せぬ のも、恐くはこれがためであらう。  此にわたくしは一事を附記して置きたい。上に云つ た如く、山口凹巷は嵯峨樵歌の題詩に長儒の死を説い て、併せて仲舞の死に及んだ。長儒はわたくしは初め その何人なるを詳にせなかつた。その雷首清水平八な るべきことを聞いたのは、堀見克礼さんの賜である。 頃日浜野氏所蔵の河崎誠宇受業録を閲するに、文化十 一年甲戌の巻中に「故眉山先生、名公或、字長儒」の 文がある。惜むらくは其氏を載せない。眉山は清水氏 の一号歎。猶考ふべきである。  第二北游の時の霞亭の年齢は丙寅二十七歳、丁卯廿 八歳であつた。  文化五年は霞亭の故郷的矢に帰つた年である。事は 渉筆の「経八年南帰」の文に聯繋してゐて、わたくし の嘗て最も決することを難んじた所である。経八年と 云ふ如き計算には二様の法を用ゐることが出来る。今 享和紀元辛酉を以て霞亭が京都を去つた年とする。そ して此辛酉の歳を連ねて算するときは経八年は文化五 年戊辰となり、此辛酉の歳を離して算するときは六年 己巳となる。わたくしは反復思慮した後、霞亭が偶 連算法に従つたものとなして看るに至つた。  霞亭は四年丁卯に越後にあつた。わたくしの最初に 索め得た其後の消息は、霞亭が七年庚午に伊勢林崎に あつて渉筆を刻せしめたことであつた。共中間には実 に戊辰己巳の二年が介在してゐる。  既にしてわたくしは霞亭が林崎にあつて山口凹巷を せん 饒したことを知つた。そして是は必ず凹巷己巳の游の 祖莚でなくてはならない。霞亭は六年己巳に既に林崎 にゐなくてはならない。  わたくしは後更に己巳よりして戊辰に源ることの或 は実に近かるべきを思つた。下に略わたくしの思索の 経過を言はう。 その十九  わたくしは初め霞亭南帰の年を以て、その渉筆を林 崎に刻した文化庚午となし、次でその山口凹巷の北游 を饒した己巳となし、後には更に派つて戊辰に至つた。 わたくしは下の如くに思量した。霞亭は林崎に寓して 凹巷と往来し(腿尺寓林崎)、尋で相牽へて京都に遊ん だ。(中間又何楽。伴我游京師。)その大坂を経て林崎 に帰つたのは春尽くる候であつた。(上舟航浪華。雨 湿蓬不推。勢南春尽帰。花謝緑陰滋。)此春は渉筆を 刻した七年庚午の春ではない。庚午は三月初に霞亭が 伊賀に往き、林崎に還つた後、春尽くるまで出遊しな かつた年である。又六年己巳の春でもない。己巳三月 には凹巷は北游の途に上つてゐた。降つて八年辛未の 春となると、霞亭は既に嵯峨に入つてゐる。剰す所は 只五年戊辰あるのみである。是がわたくしの霞亭南帰 の年を求めて戊辰に湖つた最初の論証である。  次でわたくしは凹巷己巳游稿中細嵐山の条を読んで、 その或は間接に霞亭の戊辰に京都に赴いたことを証す るものなるべきを思つた。游稿の文に日く。「春尽日 発松本。三里到岡田。此間有細嵐山。花木盛開。下臨 幽澗。坐巌久憩。因憶去歳三月。与不審輩游洛。俳掴 嵐山之祉。今又北遊遇舷勝。細嵐之名与彼有符。」凹 巷の戊辰三月に京都に遊んだことは明である。此游は 即嵯峨樵歌題詞の「伴我游京師」を謂ふものではなか らうか。果して然らば霞亭凹巷不竃皆一行中の人であ つたかも知れない。  しかし此等の証拠は皆未だわたくしの心を厭飲せし むるに足らなかつた。わたくしの想像は霞亭の南帰を 思ふ毎に戊辰己巳の間に彷僅してゐた。  以上わたくしは此問題の時間方面を語つた。しかし 問題は蕾に時間方面にのみ存するのではない。わたく しは丁卯に霞亭の足跡を追うて越後に至つた。上に記 した其後の消息は皆霞亭に伊勢に遭遇してゐる。林崎 と云はむも、凹巷不審等の山田詩社と云はむも、皆伊 勢に外ならない。京都の游の如きも亦伊勢よりして游 んだものである。  そして此越後と伊勢との間に問題の空間方面があつ て存する。霞亭南帰の道は越後、江戸、的矢、伊勢で あつただらうか。又は旅程が江戸を経なかつたであら うか。又は霞亭は先づ伊勢に往つて、然る後に的矢に 帰省したであらうか。  年月が既に数へ難く、旅程も又尋ね難い。わたくし はとつおいつして輻ち筆を下すことを得なかつた。  此時に方つて浜野氏はわたくしに河崎敬軒の子誠宇 松の雑記十一冊を借した。受業録と題するもの八冊、 見聞詩録と題するもの二冊、聞見詩文と題するもの一 冊である。皆浜野氏の新に獲た所である。わたくしは これを読みもて行くうちに、聞見詩文中に霞亭の「祭 菊池儒人詩並引」を得た。そして此一篇が料らずも上 の問題の時間空間両方面を併せて、一斉に解決の緒に 就かしめた。  霞亭が戊辰の歳に的矢に帰つたことは、此に由つて 略推窮することが出来る。  霞亭が越後より江戸を経ずして的矢に帰り、然る後 に伊勢に往つたことは、此に由つて明確に証すること が出来る。 その二十  河崎誠宇の聞見詩文に載する所の霞亭が菊池儒人を 祭る詩並に引は、蕾にわたくしをして霞亭南帰の年の 文化戊辰なるべきを推知せしめ、又その帰程の越後よ り江戸を経ずして志摩に至つたことを確認せしめたの みではない。わたくしは此に由つて霞亭が入府当初の 生計を知つた。其貧蜜困随の状を知つた。是より先、 わたくしは既に霞亭が父に二両金を乞ふを以て一大事 となすを見た。しかし未だ其貧困のいかばかりなりし かを悉さなかつたのである。わたくしは又これに由つ て霞亭の亀田塾に於ける境遇を知つた。当時亀田一家 のこれを器遇することの例に異なるものがあつたのを 知つた。わたくしは既に鵬斎が女の妻すべきなきを憾 んだことを聞いてゐた。しかし未だ一家の傾倒此の如 くなりしことを想はなかつたのである。最後にわたく しは所謂菊池儒人に於て一の客を好む女子を識ること を得て頗るこれを奇とする。ホスピタリテエは尋常女 性の具へざる所の徳なるが故である。  聞見詩文中の一篇は詩並に引と題してあるが、実は 引が有つて詩が無い。わたくしは深く其詩の供亡を惜 む。  「祭菊池儒人詩並引。(詩闘。)菊池氏亀田士竜先生 内人也。君為人貞潔周致。善愛人。又意気懐慨。有丈 夫気象。出入其家者。無大小莫不服其徳。凡世間婦女。 見他盛服絃濯者。目逆送之。無不艶羨者。君自為幼稚 時。錐見道路衆人中。有縞羅奪目者。不少顧晒。是其 大異干尋常者。其行率類此。予在江府日。与先生結忘 年交。因屡得接儀範。予時落魂甚。先生及君憐遠客無 帰処。館予其家半年余。相愛之厚。猶親子昆弟。君恐 予之窮困或墜志。百方慰籍。勉糟学。予不事事。典衣 沽酒。数至於不能禦寒暑。君輯親針裁以与予。不辞共 労。予嘗游上毛。盤纏甚乏。君憂之。脱所御服。以資 其費。毎謂人日。吾恨無一女子以配子譲。当予之落魂 無帰処之日。錐平生親友。不掲背軽侮者殆希夷。而君 之信而不疑者。終始如此。宣不亦異乎。後予游越。不 復出府下。直帰郷。居無幾。先生書至云。儒人以三月 廿六日病残。其平居。語屡及子。予読之。驚樗失措。 痛芙働絶。実若喪父母。初予謂。不出数年。再游府下。 拝儒人於堂。以謝昔年之恩。不意忽爾遭凶変。鳴呼此 恨何時已。追憶往昔。百感交至。殆難為情夷。今舷三 月廿六日当其小祥之辰。道路相隔。不得親掃其墓。因 趣社友諸君干某精舎。謹献時差之奥。柳寓祭墓之儀云。 文化己巳三月廿六日。北条譲拝撰。」  詩は鵬斎の妻菊池氏の小祥日に成つたものである。 此日霞亭は社友を某寺に会して菊池氏の霊を祭つた。 社友の山田詩社、所謂恒心社の同人なることは言を須 たない。  此より逆推すれば菊池氏の死は戊辰三月二十六日で ある。そして霞亭は自ら郷にあつて計を得たと云ふ。 霞亭が戊辰に的矢に帰つてゐたことは明かである。さ て次年己巳に菊池氏を祭つた時には、霞亭は既に林崎 書院の長となつてゐたであらう。  因に云ふ。わたくしの浜野氏に聞く所に拠れば、鵬 斎の菊池氏の死を報じた書は現に高橋洗蔵さんの蔵儲 中にあるさうである。又云ふ。霞亭を見て女の配すべ きなきを恨んだのは、行状に云ふ如く鵬斎ではなくて、 其妻菊池氏である。しかし鵬斎の見る所も蓋菊池氏と 同じかつたであらう。  霞亭は此年戊辰には二十九歳であつた。 その二十一  文化六年には霞亭が既に林崎にゐた。わたくしは上 に此年己巳三月二十六日にその亀田鵬斎の亡妻を祭つ て、社友を寺院に会したことを挙げた。社友は伊勢山 田詩社の同人でなくてはならない。  しかし霞亭が伊勢に来たのは前年戊辰であらうか、 将己巳の歳に入つた後であらうか。是も亦新に生ずる 問題である。  此に林崎に於ける霞亭の一門人竹田定珠が「辛未仲 春」霞亭の嵯峨に徒るを送つた詩がある。其引を読む に、「霞亭先生教授於林崎学三年、幸不棄非材如昭者 親災」云云と云つてある。昭は定珠の名である。辛未 より派つて三年と云ふを見れば、霞亭の林崎書院に教 授した期間は己巳、庚午、辛未の三年であつて、上戊 辰には及ばなかつたであらう。わたくしは竹田の五古 を全録するに邊がないから、篇中霞亭の林崎にあつた 年数を言ふ二句を抄する。「自君林崎寓。歳序已三 移。」即小引の云ふ所と同じである。  以上記し畢つた後、浜野氏はわたくしに山口凹巷の 詩題を寄示した。「秋晩従錦江書院、経野蓬、訪盟兄 子譲干林碕講堂、席上同賦、戊辰晩秋十七日、山口班」 と云ふのである。是に由つて観れば、霞亭は早く戊辰 九月に林崎に来てゐた。定珠の詩は辛未に作つたもの ではあるが、其三年は辛未を離して算したものであら う歎。  叙して此に至れば、久しく用をなさなかつた的矢書 順が再び用をなすのである。わたくしは先づ其中より 「北条御氏御台所」と云ふ異様なる宛名のある霞亭の 書を挙げる。日附は単に「五日」としてあつて、年も なく月もない。しかし此書は己巳三月五日林崎に於て 作られたものゝ如くである。「上方酒参り合有之候は ゞ、毎々御面倒恐入候得共、八升許御調被遊可被下奉 願候。これは五升を聯玉君饒別として宴集の節差出し 申候。一升は岩淵の易家箕曲半太夫老人へをくりたく、 いつぞやより以人ねんごろに招かれ候故、近日参り候 約束に候。其節の土産に仕度候間、何卒随分よき処御 世話奉希候。代物これにて不足に候はば、跡より御勘 定可申上候。もし良助此方へ御遣被下候とても、母様 御一処に被参侯には及申さず候。跡より別段に御越候 やう御取計可被下候。」わたくしが此書を以て己巳三 月五日の作とするのは凹巷が北游の日程より推すので ある。  亀田鵬斎は凹巷の北陸游稿に序して、霞亭と凹巷と 自己との北游の前後を説いてゐる。先づ丁卯に霞亭が 信越に遊ぴ、次で己巳に凹巷が往き、最後に庚午に自 己が往つたと云ふのである。「聯玉之北游、則己巳歳 也、先余者僅一年、而後子譲者既三年夷。」霞亭が是 より先丙寅に早く越後にあつたことは、関根氏墓誌に 見えてゐる。然らば丁卯はその国内を遊覧した年であ らうか。凹巷の游稿は首に年月日が註してないが、郷 を発して桑津を過ぎたのが己巳三月であつたことは明 である。わたくしが霞亭の所謂「宴集」を以て凹巷の 所謂「清渚饒宴」となすのは、恐くは牽強ではなから う。三月五日は霞亭の鵬斎の妻菊池氏を祭つた日に先 つこと二十日で、是が霞亭の林崎に於ける最古の消息 である。  次に霞亭が父適斎に寄せた七月四日の書がある。 「此節虫干最中に而そう人て敷罷在候」と云つてある。 庚午七月には霞亭が既に書院を辞してゐるから、此書 は己巳でなくてはならない。  適斎は霞亭に海松を贈り、霞亭はこれを西村及時に 分つた。「先日乍序ミルの義申上候処、態と御さし遣 被下、其上八蔵御遣被下候。御労煩之義甚恐入候。西 村君に遣し候処、悦び申候由に御坐候。私共も賞翫仕 候。」私共とは自己と弟碧山とを謂ふ。碧山の伊勢に 来てゐたことは下に引く所の書に徴して知るべきであ る。  霞亭は父に香魚を贈つた。「香魚差上たくあつらへ 置候得共、今年は殊之外払底に候。やうく少もとめ 候。余り小さく侯而味も如何に哉、気の毒に奉存候。 今年は一統すくなきよしに而、私共も一度山田にてた べ候のみに御坐候。又々其内よき便も侯はじ差上申た く心掛可仕候。」気の毒の義が梢今と異なるを覚える。 魚小なるが故に恕ぢて陳謝する意である。書中に「土 佐屋の叔母」の厚情を謝する語がある。「叔母」の二 字が学者の下す所なるを思へば、或は適斎の弟の妻か。 其人を詳にしない。  次にわたくしは霞亭が七月十四日に母に寄せた書を 挙げようとおもふ。是も亦庚午のものでないことが明 なるが故に、わたくしはこれを己巳の下に繋ける。 その二十二  霞亭が文化己巳七月十四日に母に寄せた書も、亦林 崎文庫にあつて作つたものである。「文庫にてはもは や朝夕は余程す寸しく相成をり候。御手すきにも相成 候はじちとく御越被遊候様ねがひ上為参候。当盆に はわたくし義はさん上不仕候間其段御免被遊下さるべ く候。」  霞亭の弟碧山大助が林崎に来てゐたことは上にも云 つて置いた。「大助文之助両人共はきものそんじ候間、 此方にては箇やうの類かへつて高くも有之候間、二足 御もとめ被遣下さるべく候。料は跡よりさし上可申 候。」霞亭は弟の学資を辮じてゐた。文之助は親戚の 子か。碧山と共に書院に来り寓してゐたことと見える。  次に九月六日に父に寄せた書がある。「衣物類樋に 接手仕候。大助きる物類御序に御便候節御投被下候様 奉頼候。乍併各別入用も無之候間、母様御肩背痛之節 と奉存候故、いつにてもよろしく候。風邪流行之由、 御労煩奉察候。尊体随分御自玉奉祈候。御閑暇にも相 成候は寸、少し御柾駕奉希候。」  霞亭は父の酒と黒菜とを贈つたのを謝してゐる。 「八蔵態と御遣被下辱奉存候。佳酒沢山御恵投万々難 有仕合、早速外へも配当仕、尚又一酌大に発散欝陶仕 候。(中略)あらめ調法之品難有奉存候。」  八日には霞亭が書院を出でて還らず、重陽に前田光 明寺の詩会に荏んだ。留守の碧山に与へた書がある。 「此方色々用事有之、序に相勤帰申候。夜前は風宮御 遷宮物見故又々滞留いたし候。今日重陽故社友集会前 田光明寺に罷在候間、もし用事出来候はじ前田迄多吉 遣可被成候。尤晩方には帰院可仕候。」  十七日に霞亭の父に寄せた書も、その己巳九月の作 なることが梢確である。「当月下旬は春木氏菊圃宴集 有之、来月初旬は私共方鳩口紅葉宴有之、何れも詩文 出来候事に御坐候。」次年に適斎が春木氏の菊苗を乞 ふのは、恐くは此に胚胎してゐるであらう。  適斎は将に道可夫妻の法要を修せむとしてゐた。 「霜月には御祖父母様御遠忌被遊候御噂、其節は拙者 も参上進香可仕候。先達而御咄被遊候通、恭敬之意は 倹素の方が却而可然奉存候。御子はもとより孫にあた り候までの人まで計を御招被遊可然候。他族は御略し 被遊候て可然と存候。」道可は安永五年十一月二十八 日に、其妻は明和七年十二月十八日に残したのである。  霞亭は例に依つて父母に来遊を勧めてゐる。「林碕 鳩口辺紅葉もはや大分そめかゝり候。鹿声も毎夜うけ たまわり候。私共ばかりおもしろき幸を得候も余り勿 体なく奉存候。何卒御小閑も侯はゞ二三日御遊行奉希 候。山中の盃献上可仕候。又は何方にても御供可仕候。 偏にく奉希候。大人御入相成不申候はじ、母様へ御 ねがひ申上候。」  霞亭は母に薄荷油を贈つた。恐くは京坂より獲たも のであらう。書籍を買つた料金の弔銭が薄荷油となつ て来たのである。「薄荷油又々参り候間、母様へ差上 候。先達而書物もとめ候代銀の残りだけ参り候にて候。 費なるものゝやうに奉存候得共、母君御用ひ候てよろ しく候は寸、一段之事に奉存候。」 その二十三  文化己巳九月十七日の書には、霞亭が尚自己と弟碧 山と文之助との勤学の状を告げてゐる。「文之助大助 共に近頃は甚出精仕候。夜半迄はいつも勤学仕候。詩 作等も余程上り候やうに候。御悦被遊可被下候。却而 私義は読書はかどり不申、是耳苦心仕候。来月よりは 一段出精も可仕と心懸罷在侯。短日たわいも無之、教 授に暇を費し候義かへす人\も可惜と奉存候。又々了 簡も仕可申候。」  又父に良助敬助の二弟を教へむことを請うてゐる。 「良助慶助素読不怠候やうに乍御苦労御教授奉願候。 良助論語等そらによみ候やうに仕度候。此間やすき五 経素読本有之候ゆへ求め置候。何卒皆々相応の人物に 仕立たきものに候。貧しき等は各別憂ふるにもたり不 申候。学業等の出来不申候事、誠に可悲事と奉存候。 私此節の心だのしみは我業は勿論大助など成業にも相 成可申やうと是耳相たのしみ候事に候。」  次に十一月二十一日に霞亭の父に寄せた書がある。 わたくしはその己巳の作なること殆ど疑なきものかと 思ふ。果して然らば遠忌の事の畢つた後の書か。「池 上氏帰郷被致、先達而之荷物皆々為御持被下候。余程 之荷物之処、態々堀の御屋敷へ被参御受取被参候由、 夫に此節之使者は献上等無之候故荷つゐで無之、別段 人足等かかり候やうすに相見え申候。いづれ懇意中故 心配にも及不申候得共、兼々折節先き方よりは賜物等 有之候義故、此度は何ぞ謝し申度候。何も思付無之込 (困)り入候。毎々申上兼候へども名酒二升許所望仕度 奉願候。余り度々に候故甚御気之毒奉存候。酒料御算 用仕度候。」池上氏は池上隣哉である。山口凹巷は隣 哉が己巳の春江戸より帰るを期待してゐた。「池上隣 哉。前赴東府。計其帰期。与余北游。倶在三月之初。」 想ふに帰期が春より遅れて冬に至つたのではなからう か。隣哉は江戸より帰り、大坂に於て貨物を受け取つ たものか。献上は幕府に献ずる謂であらう。堀の屋敷 は大坂蔵屋敷であらう。  霞亭は此書中に渉筆上梓の計画を語つてゐる。渉筆 は庚午の秋刻成せられた書である。計画の前年己巳の 冬に於てせられたのは、さもあるべき事である。是も 亦わたくしをして此書順の己巳の作なることを想はし める。  わたくしは此に一の播記したい事がある。それは霞 亭摘稿上梓の事である。わたくしは其刊本を見ぬので、 何れの年に刻成せられたかを知らない。しかし摘稿は 渉筆に先だつて刻せられたものの如くである。的矢書 順中に和気柳斎の霞亭に与へた書がある。霞亭は東国 より的矢に還つて、某年十一月七日に摘稿一部を江戸 なる柳斎に贈つた。柳斎は次年正月七日に書を寄せて 謝したのである。「僕亦未死候。過三日木芙蓉へ年賀 に立寄候処、不図老兄去霜月七日従志州的屋と云へる 一封を得たり。即開封候へば霞亭摘稿也。去十月鵬斎 海曇寺行之次手立寄、老兄一先江戸御帰、其後御帰省 のよし。(中略。)何卒御書面之通二三年中是非々々御 再遊之事奉祈候。(中略。)久々に而御帰省御渾家様御 歓喜不料候由被仰聞、定而之御儀と奉察候。」鵬斎が 十月に柳斎を訪ひ、霞亭が十一月に摘稿を柳斎に贈つ たのは何年か。霞亭の的矢にあるを見れぱ、戊辰でな くてはならない。そして柳斎のこれを謝したのは、此 年己巳の初であらう。只怪むべきは霞亭が越後より江 戸に帰り(一先江戸御帰)、次で南帰した(其後御帰省) と云ふ鵬斎の語である。霞亭の「游越、不復出府下、 直帰郷」と云つたのと相反してゐる。或は柳斎が錯り 聴いたのか。わたくしは姑く疑を存して置く。 その二十四 文化己巳十一月二十一日に霞亭の父に寄せた書に、 渉筆上梓の計画が見えてゐること上に云つた如くであ る。「霞亭渉筆不遠取かかり候積りに御坐候。越後関 根氏四両加銀承知被致侯。すり立候までは余程入用も 可有之候。(中略)御加銀可被下奉願候。成就之上は 追々集り可申候。何卒其御心当て可被下候。」是に由 つて観れば渉筆は林崎書院の板と称してはあるが、霞 亭が賞を損てて自ら刻し、親戚故旧がこれに助力した のである。  書院にゐる弟碧山は旧に依つて勤学してゐた。「大 助此節傷寒論会読はじめ候。卯之助甚柔和なる者にて よろしく候。何にても俗用之手本類有之候はじ御かし 可被下候。板物にてもよろしく候。」卯之助は何人な るを知らない。新に的矢より来院したものか。  的矢の商質才がやと云ふものが僧妙超の書を装演す ることを霞亭に託した。「才がやより頼みの表具、た より急に相成、とゞき候時延引いたし候故、間に合申 間敷とぞんじ、其儘にてかへり候。如何いたし可申哉。 山田にても為致可申や。御聞可被下候。金百疋私方へ 預り置候。かの大燈と申は此間一書にて見当り候。京 都紫野大徳寺開基にて、余程の高僧に候。一休などよ り前の人に候。右序に御咄可被下候。」才がやは雑賀 屋である。装演は京都の匠人にあつらへようとしたも のであらう。  適斎は二十五日に霞亭の此書に答へた。是も亦的矢 書順にある。霞亭は書を卯之助に託したが、卯之助は 的矢に至る途上足を痛めて復命することを得なかつた。 「大助と同年扱々気性弱者」と云つてある。適斎は僕 八蔵を林崎へ遣り、復書と共に池上氏に贈るべき「伊 丹高砂」三升を送致した。  適斎は渉筆の事をも、妙超書幅の事をも言つてゐる。 「渉筆不遠取かかり候積り之由、且越後関根氏よりも 加銀等有之候由、実に(此間四字不明)至而厚情之趣是 又感心仕候。雑賀屋より頼之表具間違に相成候由、右 之訳合才がやに咄候処、急に無之候而も宜敷京都へ遣 扱被下様被申候。」刻費の事は末に「正月に至り候得 ば出来可申候」と云つてある。  己巳の歳暮は林崎が大雪であつた。霞亭は的矢より 母を迎へてゐた。其間霞亭は詩社の友に抑留せられて 帰院せざること二三日であつた。留守の碧山に与へた 書がある。「十八日」と書してあるから、恐くは十二 月十八日であらう。「御母様御機嫌能可被遊御入奉存 候。一昨日より社中諸君強而被留、今日かへり可申候 処、此雪に而又々興趣有之、暫時吟酌仕居候。いづれ 午後迄には帰り可申候。母様御参宮にても被遊候はf、 足下御供にても、又は多吉御供いたし候てなりとも御 参宮可被遊候。しかし明日の事に可被成方よろしから むか。」此年霞亭年三十であつた。  文化七年には霞亭が春伊賀に旧師広岡文台を訪うた。 わたくしは初め此年を以て霞亭南帰の年となした。そ れは渉筆に戊辰己巳の記事を闘いてゐる故である。  正月二日霞亭は書を的矢の家に遣つて、三日に帰省 すべきを報じた。例の「北条様御台所」と云ふ宛名で ある。卯之助が「疫症」を患へて久しく治せぬので、 己巳十二月二十七日に人を雇つて送り帰さうとした。 しかし雪に阻げられて果さなかつた。是日同行者を得 て、書を携へて帰らしめたのである。「兎角病身者故 心配に存候。何れ明日参上委曲御咄可申上候。」 その二十五  的矢書順中に北条適斎が子霞亭に与へた書がある。 末に「二月廿八日、北条道有、内宮林崎書院北条譲四 郎丈」と書してあり、文中に「伊州行も来月え御延し 候由承知仕候」と云つてある。庚午三月に霞亭が旧師 広岡文台を伊賀に訪うたことは渉筆に見えてゐて、此 書の庚午のものたることは明である。  霞亭は文台を訪ふに先つて、これに書を寄せ、著す 所の摘稿を贈つた。高橋洗蔵さんは現に文台のこれに 酬いた書を蔵してゐる。わたくしは浜野氏を介して其 謄本を借ることを得た。しかし古人の国字順は読み易 からざるものである。故に謄写に誤謬なきことを保し 難い。わたくしの例を破つて此に全文を録するものは、 その希有の筆蹟なるを以ての故である。若し人あつて 高橋氏の家に就き、その愛護する所の原本を目脂して 伝写の誤を正したなら幸であらう。  文台の書は三月廿五日に作られた。わたくしはリての 前年己巳三月なるべきを思ふ。「本月(己巳三月)十日 発之芳書、自林宗相達拝見、如来示蕨后御疎潤、如何 被成御坐候哉と時々存居候へ共、一斎物故、元常も下 之関とやらむへ参居候由、何をたつきに御尋申上候様 も無之罷在候所、浮世に存生候得ば、又々御手簡拝見 仕侯仕合、扱々不存寄御事、未来世に而得貴意候心地、 扱東国彼是御遊学之条、刮目候而御著述等拝見、驚入 候御事多々恭存候。小子も無拠故国へ引取罷在、大凡 十箇年を経、何事も心外之事共、犬馬相加、伏握千里 之志(此四字、謄本は不可読として閾きたるが故に、 仮に填む)干今難相止、又々近日出京仕度、種々計画 罷在侯得共、所謂足手まとひにて消日仕候心事御推恕 可被下候。乍然当年中には出京可仕相楽罷在候。扱摘 稿熟読仕候、句々金玉、亀田子(鵬斎)へも御逢之趣、 先達江州中山之一生望月左近と申者江戸へ参候而、鵬 斎へ御目にかかり候由申候而、彼是承及申候所、面白 き人物之由に候。何卒小子も一度は関東へ罷出度、諸 君子へも御尋申上度奉存候得共、最早知命過候而残念 而已に御坐候。万綾期後音候。御地よりは便不宜候。 洞津迄御出被下候はビ相達可申候。三月廿五。在所伊 賀国上野万町、広岡文台。北条譲四郎殿。」  書中文化間に残したらしい一斎、都会より下の関に 往つたらしい元常、並に逮に考ふることが出来ない。 霞亭摘稿に応酬の亀田鵬斎に及ぶもののあるべきは言 を須たない。鵬斎の平生は、夙く近江国中山の諸生望 月左近に由つて文台に伝へられてゐた。霞亭の書を文 台に致した林宗は商頁の略称歎。  霞亭は此年庚午三月六日に文台を伊賀の上野万町に 訪うた。然るに文台は其月朔に五十六歳にして残した のであつた。高橋氏に存する一書は死する前一年に作 られたものである。  霞亭が文台の家を訪うた時の事は渉筆に見えてゐる。 前に霞亭が自ら遭逢の縦を叙し、後に凹巷がその霞亭 に聞く所のものを記し、係くるに詩一篇を以てしてゐ る。「山城客到会君終。悲椀唯疑与夢同。幽火夜燃丹 竈雨。落花春送素車風、張元伯墓今誰㎜犬。玩歩兵途昔 独窮。遺巻済人新副墨。一生心血在斯中。」 その二十六  文化庚午三月朔に広岡文台が伊賀の上野に残し、六 日に霞亭が其家に至つたことは既に云つた。霞亭は伊 賀より還つて書を父適斎に寄せた。書は的矢書順中に 存してゐるが、惜むらくは末幅が断ち去られて、日附 署名宛名等が閥けてゐる。  書中云ふ所に拠れば、霞亭は六日七日の夜を広岡氏 にあつて過し、文台の墓に詣でて後林崎に還つた。  伊賀の旅は強烈なる感動を霞亭に与へたらしい。そ して霞亭はこれを筆に上せて父に報じ、又山口凹巷を 訪うてこれを語つた。父に寄する書中事の文台に関す るものは下の如くである。  「先頃申上候通、伊州上野へ尋参、久々に而開積思 可申と相楽しみ罷越候処、彼文台先生当月朔日病死被 致候。私参り候処六日待夜の処へ参り候。誠に驚入候 次第に御座候。病中は綾に七八日の事に候よし、其中 も私事申出され候よし不堪落涙候。医術学業におゐて は無双之人に候得共、段々不幸相続、貧困に而被終候 義実に感慨之至奉存候。無定人世はかなき事共に御坐 候。家刻傷寒論当年京大坂の披露相済、其後東行被致 候積りに御坐候処、右之仕合可惜可悲此事に御坐候。 小子義も右に付二夜滞留墓参等いたし、直様罷帰申候。 先達而者順により、大坂へ一寸出可申奉存候得共、文 台君残去に付甚力落心持あしく候故、先々帰院仕候。 小弟義当月中者留主にいたし度、外へは帰院之様子不 申候。其故は春時に候故、閑人参り妨げいたし二まり 入候、夫に家刻傷寒論校合並に碑銘序文等之義、伊州 に而無拠被頼候故、当分者先々閉居可仕候。」  是に由つて観れば霞亭は三月上旬に伊賀の広岡氏よ り帰り、戸を閉ぢ客を謝すること二旬許であつたらし い。  文台の学術は霞亭の推重すること此の如くであるが、 其事蹟は渉筆を除く外、只宇津木益夫の医譜に見えて ゐるのみである。富士川游さんの云ふを聞くに、医譜 は未見の書を引かぬさうである。然らば家刻傷寒論は 世に行はれたことであらう。其本には霞亭の序があり や否や。又後藤掃雲さんは伊賀上野の富山専一さんに 問ふに、文台後喬の事を以てしたが、今は住んでをら ぬさうである。しかし墓石は或は猶存してゐるであら う。其石には霞亭の誌銘が刻まれたりや否や。  頃日恒軒先生遺詩を閲するに、「弔広岡文台先生」の 一篇がある。霞亭に由つて文台を識つたものは、独凹 巷のみではなかつた。「山沢隠医有瘤仙。一朝跨鶴入 蒼姻。濠洲閲苑紗何処。青松白石寛荘然。人間遊戯音 容遡。神理独将遺編伝。早悟仙凡路終隔。何至歳月少 周旋。」恒軒は東氏、名は吉矛である。  霞亭は例の如く的矢の父母を迎へて春のなごりを惜 ませようとした。「当地花も最早十二三分に相成申候。 二三日中には散乱仕候間、何卒明日か明後日あたり、 御閑暇に候は寸一寸御来駕奉希候。(追書。)もし大人 様御出出来兼候はじ、母様にても御越可被下奉希候。 両三日過候はゞ、花も空しく相成候間、緩々御越可被 下候。右御迎ひ申上度、今日大助わざく差上候。」 書を的矢に齎したのは碧山大助であつた。  次に的矢書順中霞亭の三月廿三日に郷里に寄せた書 がある。宛名は閾けてゐるが、其語気と云ひ、その仮 名文字多き書様と云ひ、母に寄せたものではなからう か。  此書に拠れば、前に立敬が林崎に来り寓した如く、 今は弟濃人が踵いで至つた。「敬助義此頃は大になれ 候而きげんよくいたし居申候。御安意可被下候。昨日 は宮川を見せに参り、大塚君へ立寄候処、種々御馳走 かつ御同道に而宮川一覧いたし候。帰路山口へ留主見 舞により候。翁に懸御目賛談仕候。御菓子等被下候。 其外所々にて菓子等もらひ、夕暮には中の地蔵に而う なぎをたべさしくたびれ候様子御坐侯故、駕籠にのせ かへり候。おもしろがり侯間、おかしき事に候得共、 御はなし申上候。弥西村様ヘニ日にさし遣可申候。西 村には同じやうなる子供有之候而、其上河崎民御子息 など往来、却而文庫よりはよろしく可有之とぞんじら れ候。とかく私を甚をそれ候やうす有之候。西村君は 子供などに甚愛相よき御方に御坐候ゆへ、けつくなれ やすく可有御坐、被仰下候通、一両日は滞留可仕候。 (追書。)晦日には八蔵早天に御遣可被下候。山口迂斎 翁被見候約束に御坐候間、少々用事申付たく侯。」 その二十七  わたくしは霞亭が文化庚午三月二十三日に母に寄せ た書と覚しきものを上に引いた。書は季弟惟寧(沖)漕 人を林崎に招致した時の事を報じたものである。是よ り先次弟碧山惟長は已に林崎に来てゐた。此年惟長は 十六、惟寧は九歳であつた。  霞亭は四月二日を期して潅人を西村氏の家に寄寓せ しめようとしてゐる。西村氏は西村及時である。名は 維棋、字も維棋、孤節、看雲、看松、宜堂、鶏肋道人、 甘露堂主人、濫巾居士、友石の諸号がある。素封家に 生れて禅を修し、詩文手跡を善くした。幼き港人は霞 亭を畏れてゐるが、「愛相よき」及時には或は馴れ易 からうと云つてある。  及時には齢鼠の児があつて、そこへ河崎氏の子など が往来するから、濃人がゐなじむに宜しからうと云つ てある。河崎氏とは敬軒良佐を謂ふ。  霞亭は潅人を率て宮川を見せに出て、「大塚君へ立 寄」つたと云ふ。大塚氏、名は寿、字は士贈、不驚と 号し、東平と称した。  霞亭は又宮川に遊んだ帰途に、港人を率て「山ロヘ 留主見舞に」立ち寄り、「翁」に逢つたと云ふ。又同 じ書に晦日に「山口迂斎翁被見候約束」があると云つ てゐる。凹巷の留守は北遊の留守である。翁と云ひ、 山口迂斎翁と云ふは凹巷の養父である。凹巷班は本と 遠山白堂の次男長二郎と云つたもので、十四歳にして 山口氏に養はれた。玉田耕次郎さんの写して贈つた東 夢亭撰の墓誌には凹巷の養父を迂里と書してある。迂 斎の即迂里なることは疑を容れない。  霞亭は晦日に来べき迂斎を歎待せむがために、僕八 蔵を的矢より呼ぴ寄せて準備しようとした。父適斎は 二十五日に八蔵を林崎へ遣つた。此時八蔵の齋した適 斎の書が的矢書順中に存してゐる。  適斎は霞亭が幼弟漕人の世話をしたのを謝してゐる。 「実に敬助義も此度は大に相馴居申候由承知仕、大慶 仕候。何かと御心遣被成下候段遠察仕、千万恭存候。」 潅人は安んじて及時の許に居るらしく見えたのである。  適斎は八蔵を林崎に留むること四日なることを許し た。「八蔵事廿五日に遣様被為申越、則今日差出し申 候。定而何かと御用事等可有之候。廿八日頃帰し可被 成候。」迂斎の霞亭を訪うた事は伝はつてゐない。適 斎は又河崎敬軒に縁つて春木某の菊苗を求めようとし た。「菊苗河崎氏に、如何様之品に而も不苦候、春木氏 之作手に二十株許も御無心申くれられ候様御頼可被下 候。」春木某は前年霞亭を招いて菊を賞せしめたこと がある。河崎誠宇の受業録に春木南山がある。未だ其 同異を詳にしない。京都図書館に伊勢の神職春木氏の 寄附に係る書籍が多く存してゐるさうである。或は其 家か。  三十日には霞亭が父母に書を寄せた。二書皆的矢書 順中に存してゐる。例の如く父若くは母を四月十日前 に林崎に招請しようとしたのである。 その二十八  霞亭は文化庚午三月尽に書を二親に寄せて、例の如 くこれに的矢より林崎に来むことを勧めた。伊賀より 帰つて後、身体違和であつたのが、此二三日稻本に復 し、陪遊の興が動いたのである。「私義此節は聞暇に 御座候故、御伺可申上奉存候へども、伊州より帰後、 兎角不快に而万事疎略仕候。御海容奉希候。此両三日 は随分快き方に御坐候。先日も申上候通御手透も御座 候はば、御参宮勇乍御苦労三四日御来臨可被下様奉願 候。朝熊又は二見の辺にでも御供可仕侯。(中略。)可 成は十日前に御越可被下候。」是が父適斎に謂つた語 である。「此せつはわたくし方殊の外ひまにおはし候 あひだ、何とぞ御見合せ被遊御参宮かた人\たけ山開 帳御さんけい御かけ被遊、四五日御とうりう御入被遊 候やうねがひ上為参候。私義もとかく気分あしくこま り入候。さりながら此両三日はよほどよろしく候。 (中略。)もし御こし被遊候はじ、三四五日のころよろ しく候。十日過には何歎と事しげく候而よろしからず 候。おつう迩をしたひ候はじ、やはり御つれ可被下候。 去年の通りに留主御たのみ被遊候やう可然ぞんじ上候。 (中略。)立入候事に候へども、御小遣等は此方にてま かなひ可申上候。御用意には及び不申候。御こし被遊 候はゞ、はりといとなど御持下さるべく候。ほころび 候もの大分有之候。」是が母に謂つた語である。  後者中「たけ山」は朝熊山である。霞亭の書憤に妹 通の名の見えたのは此を始とする。霞亭が同胞の女子 には、流産の女一人を除く外、縫英通の三女があつた。 縫はわたくしの頃日検し得た所に拠れば、十一年前に 死んだらしい。英はこれに先つて十六年前に死んだ。 推するに庚午に生存してゐたものは此通のみであつた だらう。年紀は不詳である。  前二書を裁した次日、四月朔に霞亭は又書を父に寄 せた。その報ずる所を数へむに、先づ三月廿六日に詩 会があつた。「廿六日持法寺集会も無滞相済候。諸君 御作写し入御覧候。此内東佐藤二君は御出無之候。」 寺号の二字は草体不明である。東は夢亭肇か、若くは 恒軒吉弄か、佐藤は子文であらう。次に海老屋の招飲 があつた。「廿八日は海老屋隠居へ参り申候。画など かき、いとく面しろき老人に御坐候。山口桜葉館詩 会へも相赴申候。」桜葉館は凹巷の居処である。同じ 日に又濾人が西村及時の家に寄寓した。此寄寓は初め 四月二日を以てすべきであつたのを繰り上げたものと 見える。「敬助入門廿八日首尾能相済大慶仕候。御安 意可被下候。私義昨日(晦)迄彼家に罷在候。追々なじ み可申候。西村君御夫婦並御老母君あつく御憐愛被成 下候段不堪感侃候。尚又明後日あたり参り可申候。」 此書の末に碧山を的矢に遣ると云つてある。書を齎し て往つたのであらう。「大助遣申候。明後日御かへし 可被下候。」  越えて三日には碧山が適斎の書を持つて林崎に還つ た。九歳の潅人は西村方に居附かぬので、四日に的矢 へ還された。事は霞亭が四日に父に遣つた書に見えて ゐる。「敬助儀とかくなじみがたく、一昨日長大夫君 御携被下候処、何分文庫へ参りたり山田へ行たり、か れこれいたし、其上大助にても良助にても一処に当分 西村へ参り居申候はじなれもいたすべきやとの事に候。 色々御家内一統の御深切に被仰聞、わたくしも色々と たらし見候得共、何を申も子供の義、一向聞訳無之、 何分二三日的矢へかへりたきよし申侯間、ながき事強 候も無益の事故、無是非今日かへし申候。扱々いたし 方も無之、先頃よりだんくこん気をつくし候へども、 うまれ付うすく相見え、つよき事もいたしがたく候。 最早御遣被下候義御やめ可被下奉希候。」長大夫は及 時の通称歎。 その二十九  わたくしは上に霞亭が文化庚午四月四日に父適斎に 寄せた書を引いて、弟潅人が西村及時の家より的矢の 親許へ還されたことを言つた。此書には猶春木氏の菊 苗の事が見えてゐる。菊苗は適斎が河崎敬軒の手に籍 つて請ひ得むと欲したものである。  「菊廿田之義は先頃より被仰聞候へども、春木氏は近 付には候得共心やすく無之、久良助君などはあの様な る事には別の人に而申出しにくく候。とかく菊を作候 人などには得ては俗気有之、苗などををしみ候きみ有 之物に候。申出し候而くれ不申候へば恥に相成、かつ 於私心あしく候。此義は気之毒に候得共御断申上候。 松坂辺のつてなどに御もとめ被遊候処は無之候哉、共 方が可然奉存候。」栽培家の心を付度し得て妙である。 霞亭には愛菊説がある。その言ふ所は或は適斎と語る べくして、春木氏と語るべからざるものであつただら う。久良助は敬軒の通称歎。  四月二十四日に山口凹巷の父迂翌が霞亭に与へた書 と、二十七日に及時が霞亭に与へた書とは、並に的矢 書憤中にあつて、わたくしの姑く此に播入せむと欲す る所のものである。  迂曳の書は霞亭所蔵の鉄函心史を借りて、孫福公裕 が謄写したことを言つてゐる。「鉄函心史二巻直に孟 緯へ遣し申候。然る所一巻は孟緯写し可申やうに申 候。」  鉄函心史は宋末の人鄭思肖の著す所で、明末に至つ て発見せられたと云ふことである。思肖、字は億翁、 所南と号した。宋史勢文志補に「鄭思肖錦箋集、一百 二十図詩文集一巻」を載せ、知不足斎叢書第二十一集 に「一百二十図詩集、錦箋余笑附後、鄭所南先生文集」 が収めてある。心史は此鄭氏の著だとせられてゐるの である。  霞亭は此書に叙してかう云つてゐる。「鳴呼所南先 生於行事。可謂悲夷。宋鼎既移。国破家喪。荘々彊土。 四顧無人。猶且欲奮一胃伸大義。至事不可為。窮餓以 死。布衣之節。何其至於此也。夫患難之際。身赴水火。 僅償臣子之責。議者且有所憾焉。何況以帝室之冑閥閲 之子。委身憲庭。醗面目。栄其爵甘其禄者。視先生何 如哉。余更愛先生一心於宋。視異方。不蕾犬饒。然似 特注意我神皇伝統之国。其泣秋賦日。東望蓬莱分。峰 姻昏於日本。其指胡元冠我時歎。又日。天地之大分。 既無所容身。所思不可往分。今将安之。其欲望援於我 耶。彼元兵之暴。絶海来襲也。神明赫怒。起大風。覆 没全軍。十万衆得還者僅三人。足以寒外人之胆。而長 絶観観之心。当其時。先生作歌快之。大意謂。醜虜狂 惇。敢犯礼義之国。其敗固理也。識亦遠夷。若其遺史。 天地鬼神。照臨加護。歴三百年。一旦出人間。一片血 誠。貫三光。不可磨滅。其言明白。扶持千古綱常。可 以為天下臣子之法。登可徒詞章視也哉。」 その三十  宋末鄭所南の著と称せられてゐる鉄函心史は、我国 に於て昔日より稀観の書であつた。此書が霞亭の手に 入つたには来歴がある。  心史は初野間柳谷が蔵してゐた。白雲書庫の典籍が 散じた時、亀田鵬斎がこれを獲た。霞亭は江戸にあつ てこれを鵬斎に借り、携へて郷に還つた。そして霞亭 が林崎に寓するに及んで、山口凹巷はこれを霞亭に借 りたのである。  霞亭の借りた亀田氏の心史には所々に朱書の評語が あつた。霞亭はその或は鵬斎の手に出でたるを疑つて 鵬斎に問うた。しかし朱書は白雲書庫蔵儲の日に既に 有つたのであつた。  浜野氏は高橋氏蔵鵬斎手簡の一節を抄してわたくし に示した。鵬斎の霞亭に答へたものである。「鉄函心 史之事被仰下、いつまでも被差置候而不苦候。殊字の 評は僕に而無御坐候。是本は百年以前東都に野間安節 と申官医御坐候。是人は都下の蔵書家に而、白雲文庫 と称候。珍書奇籍移敷持居候との事に候。是人の本に 而僕二百巻余り手に入れ橘架いたし居候所、窮窪之節 転売いたし、漸七八部残り居候までなり。是一部に御 坐候。評も其節より有之趣に候。」  凹巷は心史を借りて閲読し、評の足らざるを補つて これを校刻せむことを謀つた。霞亭の序は此時に成つ たのである。序に日く。「余昔遊関東。獲之亀田碑竜 氏。喜猶得宝錬。携而南帰。示吾友韓聯玉。聯玉慨然 謀梓以広伝。原本有朱書評語。而不完。不知出何人手。 聯玉校読之次。間書所感。続成之。併存入刻。刻成。 属余序之。(下略。)皇文化十三年歳次丙子秋八月。志 州後進北条譲謹撰。」  山口板の心史は果して霞亭の序に云ふ如く、此より 後六年丙子の歳に至つて刊行せられたであらうか。  市村器堂さんの云ふを聞くに、内閣には現に明藁の 完本がある。「内閣文庫図書目録漢書門類別二、詩文 部テ」の下に「鉄函心史七巻、宋鄭思肖撰、明版二」 と云ふものが是である。それから本邦活字本が東京帝 国大学の図書館にあり、又市村氏の文庫にある。彼此 皆三巻本で、市村氏蔵本は三巻を合して一本としてあ る。三巻本は「成淳集、大義集、中興集等に止まり、 久々書、雑文、大義略序等を闘」いてゐる。そして「巻 尾奥附に出板年月及出板者の姓名を記さ」ない。按ず るに此等の本邦活字本は山口板にはあらざるものゝ如 くである。  彼本邦活字本は果して何人が何処に於て刻したもの であらうか。又山口板にして果して世に行はれたとす るなら、これを刻した書騨は京都か大坂か。其書は今 存せりや否や。若し存するならば、其刻本は木彫か、 活字か、其巻首には霞亭の序が載せられたりや否や。 凡此等の事は皆わたくしの未だ審にすること能は ざる所である。 その三十一  わたくしは文化庚午四月二十四日に山口凹巷の父迂 曳が霞亭に与へた書を引いて、その鄭所南の鉄函心史 の事を言ふ一段を抄し、附するに心史略考を以てした。 その浅随観るに足るものなきは固よりである。わたく しは惟霞亭と心史との関係を明にせむと欲して、料ら ずも多言の謂を免れざるに至つたのである。  迂隻は彼書中に於て蕾に鉄函心史の事を言つたのみ でなく、又傷寒論の事を言つた。是より先凹巷は傷寒 論に関して、何事をか西村及時に托したものゝ如くで ある。或は想ふに霞亭は凹巷をして及時に託せしむる に、広岡文台の校本を覆検することを以てしたのでは なからうか。是は梢端摩に亘る嫌があるが、思ひ寄つ たまゝに、姑く此に録して置く。迂隻はかう云つてゐ るc「傷寒論は維棋へ向頼置申候由に候。」  要するに鉄函心史と云ひ、傷寒論と云ひ、皆凹巷が 霞亭に借りてゐて、これを還さずに北游の途に上つた ので、霞亭は留守の迂隻に其書のなりゆきを問うたも のであらう。  最後に迂隻は佐藤子文のために画讃を霞亭に請うて ゐる。「竹画之詩、上に御認被下、佐藤へ御遣し可被 下候。」  わたくしは迂里の四月二十四日の書と共に、及時が 同月二十七日に霞亭に与へた書を挙げようとおもふ。 此及時の書は霞亭の曾祖道益の同胞であつた僧了普の 事を言つてゐる。「了普尊者事跡(中略)如仰建碑等之 事は大そうに可有之、御文集中御記録先々被成置候て、 尚追て御取計も出来可申奉存候。」  霞亭渉筆に僧真栄と僧了普との事を記する一文があ つて、それを作つたものは及時である。  真栄は大世古町酒谷氏の家に生れた。得度の後、菊 潭の顕証に従ひ、密教を旧御室に受け、諸流儀軌一千 百九十本を手写して、一はこれを御室に蔵し、一はこ れを伊勢の無量寺に蔵した。次で大僧都に任ぜられ、 高野大師将来三杵の一と、桂昌院寄施大筆二枝、古硯 一枚とを賜はつた。真栄は又書を善くし、筆法を島沢 氏に受けた。島沢氏は径山の哲長老の教を伝へたので ある。晩年に至り、真栄は喜見竜を無量寺の境内に営 んで棲息した。酒谷氏の宅後に古井があつて、真栄洗 研水の称がある。真栄は後越坂に移り、享保七年九月 七日、八十八歳にして寂した。是が世に伝ふる所の真 栄の事蹟である。  然るに北条氏と的矢故老との口碑に伝ふる所に拠れ ば、北条道益の同胞了普も亦栄公と称し、無量寺と称 した。北条氏の家に昔より元且に懸くる所の掛軸があ る。其コ天膏雨、千里仁風」の八字は真栄の筆であ る。北条氏の螢域に石経塔があつて、其書も亦真栄で ある。了普の建つる所に青峰山労の天女祠があつて、 青峰山には真栄の匠額がある。  是に於て及時は真栄と了普との或は同一人物なるべ きを思つた。しかし了普の残年は寛保三年である。及 時は遂にかう云つた。「或疑了普学書於真栄。以共善 書。世亦直称無量寺也歎。」  按ずるに霞亭が及時をしてこれを記せしめたのは、 及時が内典に精しかつた故であらう。及時の此東に徴 するに、霞亭は当時碑を了普の旧居棲雲番の吐に立て ようとしてゐたと見える。  及時の書を霞亭に寄せた二十七日には、蓮台寺に集 会があつた。「今日蓮台精舎御出席も無御座遺憾奉存 候。」 その三十二  文化庚午四月四日より二十八日に至る間に、霞亭は 的矢より母と叔母とを林崎に迎へた。事は二十八日に 霞亭が父適斎に寄せた書に見えてゐる。書は的矢書順 中にある。「先日は母様並に叔母被見候処、無何風情 残念奉存候。」  わたくしは先づ此書が庚午の作だと云ふ証を示さう とおもふ。「仙洞御所七十御賀(去十二月廿五日)御酒 宴の御肴裏松家へ拝領、山田春木氏へすそわけ被下候 をいたじき候。ありがたき事に存候間、母様並に子供 へ御いたビかせ可然候。」当時の仙洞御所は女帝後桜 町天皇でおはしました。降誕の日元文五年八月三日よ り推せば、七十の賀儀は文化六年に於てせられたであ らう。その特に十二月二十五日を以てせられたは何故 か未だ考へない。裏松家は裏松前中納言謙光卿であつ た。賀莚の肴が裏松、春木の手を経て北条氏の家に至 つたのは、中三月を隔てて、次年庚午四月である。所 謂肴は恐くは賜、昆布などの類であつただらう。  霞亭の此書を作つた庚午四月の末には、林崎書院は 繁劇の最中であつた。それは幕府が書目を録進するこ とを命じた故である。「此節御老中より当所御奉行へ 被仰付、両文庫書籍目録しらべ御坐候に付、何歎と両 宮共に多用、私方も日々会集御坐候。迷惑なる事に而、 私は断申度候得共夫なりに(相成)、さわがしく候而こ まり入候。夫に付書籍皆々取寄せ御坐候。御宅へ参り 候書籍等も何卒早便に皆々御返納可被下、乍御面働奉 希候。又々追而はかり上可申候、参向人立合に而相し らべ候。乍去別段御遣被下候には及不申、朔日二日あ たり迄に御便に御遣可被下候。」両文庫とは内宮の林 崎文庫、外宮の宮崎文庫である。幕府の命を受けた山 田奉行は小林筑後守であつた。  霞亭は此忙中にあつて、尚例の如く父の来遊を請う てゐる。「もし御小聞も侯はビ其内両三日御来駕奉希 候。」しかし適斎は此請に応ぜなかつたらしい。  五月朔に霞亭は又折簡して母を招いた。「此節は芝 居もはじまり候。しかし各別おもしろくなきよしに候。 芝居はともあれ、からすか二見か、どこぞ御供仕たく 候。私も久しく他出やめ居申候。二三日許旅行いたし 度候。御参宮労、それにほころぴ又は仕立物も御ねが ひ申上たく候。三四日がけに御こし被遊たく候。あつ うならぬ内がよろしく、節句過頃袷とひとへ物にて御 こし被遊たく候。どこへも御噂なしに、つい忍びに御 出可被下候。おつう御めしつれ候てもよろしく候。八 蔵におぱし候而、御きがへは六左衛門へ御言伝、さき へ御遣被下候てよろしく侯。どこへも御出に及不申候 故、御衣類も入申まじく、手がるく御こしまち上候。 御遷宮の時は又々かくべつ、かへつてそうく\敷候て よろしからず候。其節は又々御こし可被下候。なんで も事ははやくいたし候方がかちに被存候。鴨の長明が 無名抄と申書云々。」からすは辛洲であらう。霞亭の 妹通の名が再び見えてゐる。「八蔵におば」せは負は することであらう。或は方言歎。無名抄云々は登蓮法 師が薄の事を問はむがために雨中蓑笠を借りて出たと 云ふ故事である。文長きが故に省く。  此書の初に「良助も大分おとなしくいたし居申侯、 御あんじ被下問敷候」の文がある。是に由つて観れば、 蕾に立敬潅人の二弟のみならず、今一人の弟良助さへ 林崎に来てゐたと見える。良助は立敬の弟、潅人の兄、 此年十三歳であつた。 その三十三  文化庚午五月朔に霞亭は母に書を寄せて、切にその 的矢より林崎に来遊せむことを請うたが、母のこれに 応じたか否かは不明である。  二十四日には霞亭が書を某に与へて酒肴を贈られた ことを謝した。某は誰なるを知らぬが、その的矢の二 親でないことは、語気より推すべく、又伊勢人でない ことは、「此方より便無之、乍思御無音打過候、御免可 被下候、何れ近内幸便委曲可申上候、此便待遠故、幻 々」と云ふ文より推すべきである。此書は殆ど抄出す るに足らざるが如きものではあるが、わたくしは其中 より霞亭の友人二人の名を見出した。  「今日は、毎々被為掛尊慮、色々重宝之品々御恵投、 千万難有仕合奉存侯。先月五日に御遣被下候ものも無 相違相達申候。其日高木、宇仁館など参合居、ひもの、 ちまき別而賞翫仕候。此酒甚めづらしく別而奉謝侯。 社友を延候而鰹魚に而引杯可仕候。」  高木、名は舜民、字は厚之、通称は勘助、呆翁と号 した。疏譜、竹譜の著がある。宇仁館、名は信富、字 は清蔚、通称は太郎大夫、雨航と号した。雨航の此人 なることは、三村清三郎さんの教を受けて知つた。二 人の姓氏は始て此に見えてゐる。  六月二十日には霞亭が書を弟碧山に与へて林崎を去 る時の計画を告げた。是より先碧山が的矢より林崎に 来て、書院に寓してゐたことは上に見えてゐる。碧山 が林崎にゐた間屡郷里的矢に往来したことも亦同じ である。わたくしは今将に霞亭庚午六月二十日の書を 抄せむとするに当つて、尚一事の播記すべきものがあ る。それは碧山が伊勢にゐた間、終始林崎にのみゐた のでなく、一時佐藤子文の許に寓してゐたかと云ふ問 題である。  的矢書順中に年月の無い霞亭の書がある。口上書の 如きもので、紙を巻き畢つた端に、「宇治畑佐藤吉太 夫様にて北条大助様、用事、同譲四郎」と書してある。 「愈御安康珍重奉存候。然者拙者儀五日に御地方へ参 り候積りに御坐候。少々用事有之候間、其方一寸御帰 宅可被成候。明日六右衛門殿被帰候間、よりもらひ候 間、六右衛門と同道に而御帰可被成候。吉太夫様へ其 訳被仰可被下候。今日は別紙、上不申、可然奉頼候。 急便早々以上。」吉大夫は子文の通称である。茶山の 大和紀行にも亦通称が書してある。此書を見れば碧山 は既に久しく佐藤氏にあるものの如くである。霞亭は 将に自ら宇治畑に往かむとして、碧山に一たび帰らむ ことを命じてゐる。帰るとは何れの地に帰るのであら うか。林崎か、将的矢か。或は想ふに此書は霞亭が林 崎を去り的矢に帰つた後のものではなからうか。若し 然らぱ霞亭は弟碧山を佐藤氏に託して林崎を去つたも のか。尚考ふべきである。  六月二十日に霞亭の碧山に与へた書は、林崎より的 矢へ遣つたものである。霞亭はその撤去すべき林崎を 斥して「此表」と云つてゐる。又的矢へ帰ることが、 「御郷里へ参上」と云つてあり、二親への言伝が書し てあるを見れば、碧山の的矢にゐたことも亦明である。 書は的矢書順の一で、その林崎撤退の事を言ふ文は下 の如くである。 その三十四  文化庚午六月二十日に霞亭が弟碧山立敬に与へて林 崎撤退の事を言つた文はかうである。「此表之義も廿 五六日迄に相片付、河崎氏隠宅へ一先三四日引取居可 申相談仕候。其訳は先当月中に此方の暇乞並に用事は 一切相仕廻、そふいたし候而朔日二日の内に御郷里へ 参上可仕候。荷物之義どういたし候而も、当分之品は 各別、河崎迄出し置、貴郷よりの船便へ差出候やう可 仕候。左様思召可被下候。それに付一人に而もたれ候 程の物当用之品は八蔵にもたせ遣可申候。廿三四日五 日あたり迄に是非御遣し可被下候。拙者帰り候節は独 行に而よろしく候。ふと存じ候には盆後備後行荷物等 之順も有之、貴郷より大坂舟相頼乗船大坂迄参り可申 やと存候。此節海上穏にも有之、労煩をまぬかれ、且 は大船にのり候事終に無之、一奇観ならんと被存候。 しかし如何可有之哉、是はいづれ参上之上相談可仕候。 いづれとも山田表は当月限にいたし候而、郷里より直 様出装之積りに御坐候。社中も凹巷色々心配之筋有之、 とかく送行などの義かれこれとおつこうにならぬやう いたしたき小生下心に候。」  霞亭は六月二十五六日の頃、林崎書院を辞して河崎 敬軒の別業に寄寓せむと欲してゐる。しかし此寄寓は 一時の事である。霞亭は此より一たぴ的矢に還つて告 別し、「直様出装」しようと云ふ。是は何所へ往くの であるか。  霞亭は「大坂迄参り可申哉と存候」と云つた。しか し大坂は目的地ではなささうである。「盆後備後行荷 物」とは何であらうか。霞亭が菅茶山の廉塾に往つた のは三年の後である。或は想ふに霞亭の備後行の端緒 は早く此時に萌してゐて、事に阻げられて果さなかつ たのであらうか。  霞亭は将に林崎を去らむとする時、校讐抄写のため に忙殺せられた。同じ書にかう云つてある。「此節色 女立前の仕事、欧陽公本義等うつしかかり候。詩補伝 書き入候、其外何歎と多事、暑中独居殆困入候。鉄函 心史先に差上候分、乍御苦労勿々御うつし可被下候。」 欧陽公本義は欧陽修の毛詩本義十六巻である。詩補伝 は清代に至つて宋の萢処義の撰とせられた書で、凡 三十巻ある。並に通志堂経解中に収められてゐる。霞 亭は文庫本に就いて、或はうつし、或は書入をしてゐ たのである。その碧山に課して鉄函心史を写さしめた のは、原本を亀田氏に還さむがためか。果して然らば、 上に見えた孟紳の謄写も、孟紳自己のためにしたので はなくて、諸友が分担して校本完成の業を成したので あらうか。  六月二十日の書には霞亭の友人の名を載すること僅 に一人のみである。「瓦全よりも書通、これもすぐれ 不中候よし、被案候ものに御坐候。」瓦全は柏原氏、 名は員伽、字は子由、橘姓、京都の人である。  越て六月二十二日に霞亭は書を父適斎に寄せた。 「八蔵御遣被下候はじ、廿六七日に御遣可被下候。其 節良助も遣申たく侯。」霞亭は林崎を去る時、弟良助 をも的矢へ還さうとしてゐるのである。  書中には尚二三の雑事がある。半兵衛と云ふものが 的矢より林崎に来た日に、霞亭は山田の詩会に赴いて ゐて、欺待することを得なかつた。又霞亭は的矢の某 に問ひ合せた事があつて、其報復を待つてゐる。それ ゆゑ父に彼半兵衛に謝せむことを請ひ、又彼報章の到 れりや否やを問うてゐる。文は此に賛せない。 その三十五  文化庚午六月二十八日に、霞亭は既に河崎敬軒の別 業にあつて書を的矢なる弟碧山立敬に与へた。是も亦 的矢書順の中にある。文中に「河崎良佐君隠居に暫時 罷在候」と云ひ、末に「大世古川崎善五様宅にて北条 譲四郎」と署してある。大世古は町名で、既に僧真栄 の生家酒谷氏の事を記した条に見えてゐる。敬軒の通 称は上に引いた書に拠れば久良助なるが如くである。 或は別に善五の称があつたか。米山宗臣さんの記には 敬軒が「善弼」と称したと云つてある。猶考ふべきで ある。  此書も亦主として旅行計画を説いてゐる。「今日荷 物片付居候。河崎行荷等仕たて申候。(中略。)いづれ 小生は来月五日夜宇治佐藤氏迄参り、翌六日貴宅へ罷 出候。扱舟之儀は如何可仕哉。盆後相応なる便船有之 候はゞ、大坂迄のり見申たく候。しかし御双親様方並 に足下思召は如何。小生は大船はじめてとも存、気遣 なき時節、それに荷物等直様積入まゐり候義便理かと ぞんじ候故に候。舟にいたし候て不苦思召候はv、早 々御便一寸御しらせ可被下候。さすれば此方にのこし 有之候両がけ二つ直に大坂飛脚に差出し置参り候義や めにいたし、やはり郷里に持参、一所に舟積可仕候。 いつも度々御煩労に候得共、八蔵ならでもよろしく候、 五日に川崎氏迄御遣し可被下候。その節両がけもたし、 六日同道にていそべ迄参り可申候。もし不被遣侯は寸、 荷物飛脚に差出すか、又は其儘預け畳参り可申候。此 度の川崎舟に積候而はこゝ五六日の間入用の物有之不 自由に候故に候。かわご二、一つは備後行書物に候。 御受取置可被下候。(中略。)陸にても海にても、先盆 後十七八日頃出立と存候。船なれば直ゆへ、此表暇乞 等は両三日中済し可申候。」要するに霞亭は七月五日 夜宇治なる佐藤子文の家に往き、六日に的矢に帰らう としてゐる。さて孟蘭盆後、七月十七八口に旅程に就 かうとしてゐる。その志す方はいづこか、果して備後 であつたか、是は上に云つた如く未決の問題である。  霞亭は旅行の準備のために、母を煩すことの甚だし からむを恐れた。書中にかう云つてある。「衣類夜具 甚かぴ参り候。御母様御ひとりに而何歎手ばり候而恐 入候。外人御やとひ被遊可被下様奉頼候。」  此書も亦文庫本抄写の事を云々してゐる。「鉄函心 史はやく御筆取被下御苦労奉存候。此方にも色々抄録 ものさしつかへ、いまだ片付兼、少々加勢いり候位に 御坐候。詩補伝一冊何卒三四日迄に是非々々御うつし 取可被下候。これは至而秘し候而、向へ参らねばうつ させぬ位に秘重いたし候。其方へ差上候は極内々に而、 やはり小生手前に而うつし候積りにいたし候間、小生 此方出装迄に是非に御遣し可被下候。(中略。)何分に も補伝は三日か四日の内御遣し可被下候。右五日に人 御遣し被下候は∵、其便にて随分よろしく候。」鉄函 心史は初より霞亭が碧山をして謄写せしめむと欲した 所である。然るに霞亭は後詩補伝を写すことをさへ、 碧山に併せ託したのである。当時詩補伝の希観書であ つた状況が、此書に由つて窺知せられる。  次は的矢書順中なる西村及時の書で、七月六日に的 矢にある霞亭に与へたものである。此書は菊花を画い た半切に僅女十行の文字を留めたものであるが、わた くしがためには頗る有用のものとなつた。それは霞亭 旅行の目的地を示してゐるが故である。霞亭は備後に 往かむとしてゐたのではない。その荷物を備後に遣る 所以は不明であるが、備後は霞亭の徃むと欲する地 ではなかつた。 その三十六  文化庚午七月六日は霞亭が宇治の佐藤子文の家より 的矢に還るべき日であつた。此日に西村及時が霞亭に 与へた小簡がある。及時は嘱せられた霞亭の曾祖道益 の同胞僧了普の事を記せむことを諾してゐる。霞亭が これを及時に属したことは渉筆に見えてゐるのである。 「了普閣梨之義御疑惑相成候処、難文乍ら文案取かか り可申、決て御同人相違有間敷候。」所謂疑惑は了普 と栄公とは同人なりや異人なりやと云ふに存する。及 時は此時猶その同人なるべきを以て答へたのである。  此書には又上に云つた如く、霞亭の旅行の目的地を 指示する語がある。「東行御思立被成、如何御用事有 之候哉、又は去就かかり候哉覧、無覚束候。」是に由 つて観れば、霞亭は将に江戸に往かむとしてゐたらし いのである。只及時の艸書は頗る読み難きが故に、此 に引く所にも亦誤読なきことを保せない。書の末には 「七夕前一日、維棋拝、霞亭兄梧右」と書してある。 わたくしは因に此に及時の姓氏に就て一言して置きた い。わたくしが及時を西村氏となしたのは、霞亭が 「友人西村及時、名維棋、字維棋、(中略)緬林莫不知 有及時居士」と云つてゐる故である。然るに浜野氏は 凹巷の書中より志毛井維棋を看出した。次で三村米山 の二氏も亦維棋の志毛井氏なるを報じた。その同一人 なることは明である。猶考ふべきである。  わたくしは的矢書順中単に「九日」とのみ記してあ る霞亭の書を此次に列せようとおもふ。何故と云ふに、 わたくしは此書を以て庚午七月九日に作られたものと なすからである。書は父適斎に寄せたもので、霞亭は 再ぴ林崎に帰つてゐる。  霞亭が既に親を的矢に省して、而る後に林崎に帰つ たことは、書中に「誠に此間は寛々御拝顔大慶奉存候」 と云つてあるより推せられる。そして江戸行の事が其 下に明白に説き出されてゐる。  「関東行の義、山口、西村杯へも相談申候処、兎角 いそぎ候方よろしかるべく被申候。九月と申候ても、 却而邪魔等はゐり、又ははり合もぬけ可申被存候。何 れ来月(八月と書して塗抹し、来月と改めてある)一ぱ いにかへり候やう急用申参り候故、無拠出立と世間へ 申置候がよろしからんと皆々被申候。私存侯にも、九 月迄居申候へば五十日余の日数延引候故、物入も多く、 かつは只今にては吉田舟参り候へば、八日めには江戸 著仕候間、かれこれ順よろしく存候間、先盆後二十日 頃出船之積りに相決し候間、其段偏に御免許奉希候。 御一家中へは書物出来候に付急に用事有之参り、無程 帰宅可仕と被仰可被下候。又其外相尋候人も有之候は ば、無拠内急用にて江戸表より申参り候故、暫時出府 いたし候とばかり被仰度存候。左様候へば、何れ霜月 上旬迄には帰国仕可申候。必々御案じ被下間敷候。御 遷宮に逢不中候義、少しも残念には無之候。又々今度 の遷宮にも存命はしれたる事に候。山口は西国游行な らば、直に同伴可仕と、たつてすゝめられ候へども、 私東行は游覧にては無之、畢寛幾分の緊用に候故、其 相談にはのられ不申候。いづれ左様候へば、十七八日 頃又々参上可仕、昨日世話人方へはすでに申出し候処、 各別怪しみも不仕、猶又帰国後住院ねがひ候と申位の 事に候。書生へは未申出し不申候。」  要するに霞亭は七月十七八日に重て帰省し、さて二 十日頃吉田発の舟に上つて江戸に向はうとしてゐるの である。林崎書院を辞する状況は、其世話人が「猶又 帰国後住院ねがひ候」と云ふを見て略推することが出 来る。霞亭は蕾に江戸行の事を及時に諮つたのみなら ず、又これを山口凹巷に諮つた。按ずるに凹巷は既に 北游より帰つてゐたのである。北陸游稿最後の詩は五 月十九日に長柄川の鵜飼を観る七古である。凹巷は美 濃より直に伊勢に帰つたのであらう。 その三十七  文化庚午七月九日に霞亭の父適斎に寄せた書には、 独り江戸行の計画が細説してあるのみではなく、亦林 崎を去る時いかに弟立敬、良助二人を処置すべきかの 問題が顧慮してある。「文之功十日に御かへし可被下 候。何歎と用事も有之、かつ近内朝熊へ参詣為致可申 候。右之順故、大助は先々出立迄書院にさし置可被下 候。西村君被仰候は、私留主中良助にをしへ可申やう に被仰下候。夫にては甚よろしく候へ共、御存之良助 物覚えわるく、もつとも鈍き分は構なしと被仰候。も しくは大助にても御頼可申上やとぞんじ候。箇様なる 義も何れ近日御相談可申上候。」大助立敬は霞亭の去 るに至るまで書院に留め置く筈である。西村及時は霞 亭去後に良助を教へようと云つてゐる。しかし良助は 記性乏しきものゆゑ、これを及時に託せむも徒労であ らう。寧立敬を及時に託せようか。是が霞亭の意見で ある。文之助は霞亭の諸弟と共に林崎に来り寓してゐ て、屡伊勢志摩の間を使として往来したものと見え る。  同じ書に霞亭が帰省の日に文一篇を的矢に遺して置 いたことが云つてある。「此間佐野右近序文わすれ参 り候。文之助へ御遣可被下候。」佐野右近と云ふもの が霞亭のために艸した送序などであらうか。此文は誤 読なきことを保し難い。  七月十七八日の頃に重て的矢に帰省し、二十日の頃 に舟に上つて山田を発せようと云ふのが、霞亭の予定 であつた。霞亭の的矢に往つた日は不明であるが、十 五日には猶林崎にゐた。高橋氏蔵詩箋中、凹巷の七偉 があつて、「庚午七月既望、同敬軒訪霞亭干林崎書院」 云々と題してある。さて的矢に往つた後霞亭は事に阻 げられて稽滝したらしい。七月二十二日には霞亭が猶 未だ途に上らなかつた。的矢書憤中の二書がこれを証 する。其一は河崎敬軒が此日に霞亭に与へた書、其二 は高木呆翁、山口凹巷、西村及時の三人が連署して霞 亭を祖鑓に招請した案内状である。  敬軒の書に拠るに、霞亭は当時的矢にゐた。「二尊 始御挙家御無事之よし、此方相揃無悲罷在候。乍揮御 窒念被下間布候。」是が書順の首の語である。「乍筆末 二尊御始立敬君へ宜被仰可被下候。此度は書状も上げ 不申候。」碧山立敬も亦既に的矢に帰つてゐた。  霞亭は前日使を遣して荷物二箇を河崎氏に送つた。 敬軒は即日、二十一日に筆を把つて此書の前半を作り、 次日又これを補足した。中間に「是より翌朝認」と註 してあり、末に「七月二十二日、河崎良佐、北条譲四 郎様御下」と書してある。使人行李の事は二十一日、 二十二日の両日に書する所に係る。「小生御分挟以来 俗事甚多、今以昼夜奔走仕候。先日(十二日出)御状被 下、早速御返事も可申上処、何角差上候ものも一緒に 人出し可申存候而、彼是延引仕候。御宥恕可被下候。 今日は御飛脚被下恭奉存候。御荷物二箇御預り申上候。 途中大雨に逢しゆへ、荷物大にぬれ申候ゆへ、如何敷 候へ共、凹巷君へ持参、上計開封仕候。中は少しもぬ れ不申候へ共、祇子などはしぼり候程ぬれ申候。何れ 明日上を包直候而増川へ出し置可申候。隣哉より書状 も相添可申候。京への荷は油紙包ゆへぬれ不申候。 (以上二十一日)荷物入用南錬一片御遣し被下落手仕 候。今廿二日便に増川へ出し置可申候。(以上二十二 日)」霞亭は夙く七月十二日に的矢にあつて、書を敬 軒に遣したことがあるやうである。帰省は予定より急 にせられ、東行は却つて緩にせられたもの歎。荷物は 二箇よりして外、尚京に遣るべきものがあつた。隣哉 は池上氏、名は徳隣、字は希白、通称は衛守、隣哉は 其別号である。 その三十八  わたくしは文化庚午七月二十二日に河崎敬軒が霞亭 に与へた書に由つて、又変易せられた霞亭上途の日の 何日なるかを知り、その水路を棄てゝ陸路に就くべき を推することを得た。「廿三四日頃御出装のよし。兼 而此方にても皆々中候通船行は甚宜しからず、大に迂 路、三十里に而ゆかれ申候処を、船にては百里余にも 成候由、其上此節は甚時節あしく、風波も無心元候ゆ へ、是非陸路より御出立可然被存候。此節青山生之送 詩に、陸程従此平於砥、莫上秋風港口船と申句も有之 由承申候。いづれ廿四五日頃御こし被下候うへ御面談 可申上侯。御送之儀も凹巷君へ委細御談申上置候。社 中へは一切噂いたし不申候而、凹巷両人にて宮川むか ひまで罷出可申候。いろく用事も御坐候間、先小生 宅か凹巷かへ向御こし可被下候。御煩に相成不申様に、 人へもしらせ不申、宜取計可申侯。」敬軒は霞亭をし て七月二十三日より二十五日に至る間に伊勢に来らし め、告別した上発靱せしめようとしてゐるのである。 「青山生」は東夢亭である。名は肇、字は伯順、通称 は文亮又一学である。「青山」は霞亭敬軒の記する所 に拠るに氏なるが如くである。その東と云ひ又「青 山」と云ふは何故か、未だ考へない。  次にわたくしは同じ書に由つて、霞亭が備後に往か むと欲するのではないかと云ふ初の推測が、必ずしも 誤らなかつたかと思ひかへした。敬軒の文はわたくし をして、霞亭の先づ備後に往き、それより路を転じて 江戸に向はむとしてゐるかを思はしめる。「凹巷君よ りも御噂申上られ侯哉、備行路資之儀、社中にて差上 可申筈に御坐候へ共、節季後皆々嚢中空虚、心外之至 に御坐候。しかし社中取集二円金許用意仕候。御出立 之節献呈可仕候間、其御積にて不足の処少々御用意可 被下候。備までは多分も入不申候。大抵二円に而可宜 侯へ共、資乏候而は心ぼそきものに御坐候。しかし空 手にて御越に候はじ、尚御越のうへ凹巷相談じ、可然 取計可申候。」備行と云ひ、備までは云々と云ふを見 れば、わたくしは上の如く解せざることを得ない。前 に見えた備後行荷物の事は此に至つて漢釈したものと 看倣しても好からう。且霞亭の備後行は山田詩社の委 託のために行くものなることが、敬軒の文に由つて推 せられる。事の廉塾に聯繋せりや否は未だ考へない。  次に敬軒は同じ書に八景図と其題詩との事を言つて ゐる。「八景いまだ相揃不申候。皆々一図に一人づつ は大形片付申候。詩はいづれも出来、凹巷君に大に御 苦労相掛申候。いづれ明日あたり迄(に)は皆々相揃可 申候へ共、今日の便にはえ上げ不申候。其内立敬君御 認被下候舞子浜ばかり差上申候。」此八景図並に題詩 の事は未詳である。しかしわたくしに一説がある。わ たくしは近ごろ「伊勢十勝詩」乾坤二巻を求め得た。 「一桜木里、二泉水杜、三巌波里、四打越浜、五三津 湊、六藤波里、七河辺里、八岡本里、九関河、十大沼 橋」を十景とし、毎景詩三十首を題したものである。 作者は山田詩社の人々で、中に霞亭の詩が交つてゐる。 或は想ふに此十勝は彼八景を補足して成つたのではな からうか。十勝詩二巻は写本で、詩が指頭大の楷書を 用ゐて書してある。そして毎巻「神辺駅閻塾記」の朱 文蒙印がある。或は想ふに間塾は即ち廉塾ではなから うか。そして此書は霞亭の手を経て山田詩社が贈つた ものではなからうか。 その三十九  文化庚午七月二十二日に河崎敬軒の霞亭に与へた書 には尚数事が条記してある。概ね繁砕言ふに足らざる が如くであるが、或は他日此に由つて何事をか発明す ることがあるかも知れない。  其一。「巻軸漸今日(二十一日)出来仕候。隣哉も此 節は私同様西城の臨時御用にて甚取紛、始終夜中に細 工いたされ候ゆへ、甚出来よろしからず、小生より宜 御断中上候様との事に御坐候。」巻軸は何の書、何の 画であらう欺。池上隣哉が霞亭のために装し成した所 のものである。隣哉は装演の事を善くしたと見える。  其二。「諸子御頼申候扇子、其外御認もの、御苦労之 至、夫々相達し可申候。跡より御礼可申出候、」山田 詩社の諸友は別に臨んで霞亭の書を乞ひ、霞亭はこれ を作つて敬軒の許に送遣し、これをして諸友に交付せ しめた。  其三。「先日御願申上候佐佐木照(原註、昭か)元へ の添書、近頃御苦労之至恐入候へ共、是は私共の別而 御願申上候儀に御坐候間、何卒御出立まで(に)御認被 下候様奉希候。何(れ)料紙さし上申候。何事にても宜 候。唯貴兄御覧被下候儀を御認可被下候。十字許を御 煩し申上候。」佐佐木氏、照元は書家志頭摩の女であ る。志頭摩は加賀侯前田綱紀の策名便覧に二、二十 人扶持、組外、書物役、五十三、佐々木志頭摩」と記 してある。便覧は寛文十一年に成つたもので、名の上 の「五十三」は年齢である。敬軒が特に料紙を遣つて、 霞亭をして書せしめむとした十字許の「添書」とはい かなるものであらうか。「唯貴兄御覧被下候儀を御認 可被下候」と云ふより推するに、敬軒は佐佐木氏蔵儲 品のために識語を霞亭に求めたものか。  其四。「亀卜伝、辱奉存候。謹而恩(此字不明)借、尤 他見いたさせ申間敷候。丹桂籍いつ迄成共御覧被遊候 様御申入可被下候。書経解二冊奉壁、御落手可被下候。 漸卒業仕候。律呂通考奉返、是又御落手可被下候。」 霞亭蔵書にして敬軒の新に借り得たもの一種、曾て借 りて今還すもの二種である。丹桂籍は敬軒の所蔵で、 霞亭は父のためにこれを借りたのではなからうか。丹 桂籍を除く外の三書は恐くは国書であらう。亀卜某伝 と称する書は頗多い。書経解は洪園の繹解ではなか らうか。偉呂通考は、浜野氏に聞くに、太宰春台の著 す所だと云ふ。  其五。「雨航いまだ帰り不申候。」雨航は宇仁館氏で ある。  前に記した如く、的矢書順中には七月二十二日に高 木呆翁、山口凹巷、西村及時の三人が連署して霞亭を 招いた書がある。是は敬軒が書を霞亭に与へたと同日 のものである。「明後廿四日社中御饒別申上度候。草 庵寺山に而開席候。四つ時御来臨可被下侯。右草庵は 山御不案内に御坐候はミ花月楼に而御聞合可被下候。 三君も御同伴被下候へば大悦に候。七月廿二日、高木 舜民、山口穀、西村維旗拝。霞亭詞宗。」署名中山口 の名が珪と書せずして穀と書してある。しかし此二字 は原同じであるから、凹巷はどちらをも用ゐてゐたと 見える。呆翁等は霞亭を草庵寺山に饒せむと欲して、 此書を的矢に遣つたのである。これを書したものは及 時である。霞亭の同伴すべき「三君」とは、大助、良 助、敬助の三弟ではなからうか。 その四十  文化庚午七月二十四日草庵寺山の祖鑓は必ず開かれ たことであらう。しかし的矢書憤を除く外何等の記載 をも留めざる此間の消息は今十分に閲明することが出 来ない。  霞亭は八月九日には江戸に著いてゐる。定て備後を 経て来たことであらうが、是も亦詳悉することを得な い。入府の事は的矢書憤に、八月十一日霞亭が父適斎 に寄せた書があつてこれを証する。惜むらくは此書は はじめすうかう 首数行が糊ばなれのために遺失してゐる。「無事当九 日著府仕候。都而諸子皆々無事のよしに候。未だ一一 尋訪も不仕候。鵬斎君此節北国に被参留主に而甚残念 (に)存候。夫故先々赤坂高林群右衛門方に罷在候。明 後々日は観月労江の島鎌倉辺へ出懸可申候。旧友和気 行蔵同遊仕候。いづれくわしき義は後便可中上候。御 状並に御届物は右申上候高林名当に御遣可被下侯。 (中略。)赤坂御門内堀織部様御屋敷高林群右衛門に 而。」  亀田鵬斎は山口凹巷の北陸游稿に叙して、「余庚午 歳北游、窮覧信越二州之名勝焉」と云つてゐる。又善 身堂詩鉛補遺に「庚午歳、余北游到越後三条、宿某宅」 の七古がある。鵬斎の江戸を発したのは何日なるを知 らぬが、八月九日には既に江戸を去つてゐた。詩紗補 遺に又「留別神保子譲」の七古があつて、其引に「余 遊北越既三年」と云ひ、詩中又「今朝離莚別酒時、始 覚三年身是客」と云つてゐる。然れば鵬斎は少くも三 年北地に滝留してゐた。霞亭の江戸に入つたのは、鵬 斎が途に上つてから多く月日を経ざる程の事であつた だらう。霞亭が鵬斎をして東道主人たらしめむと欲し たことは此書順に徴して知るべきである。鵬斎が家に あらざる故、霞亭は已むことを得ずして高林群右衛門 の家をたよつたのである。高林氏の住所堀織部の屋敷 は文化の分限帳に「二千五百石、赤坂御門内、堀織部」 と記してある。庚午の役人武鑑には見えない。  霞亭は十四日を以て江の島鎌倉に遊ばうとしてゐる。 同行者は和気柳斎である。聖学並に聖学講義大意を閲 するに、彼に「文化七年、歳在庚午、冬十一月朔、江 都柳斎主人和気行蔵古道題」とし、此に「文化七庚午 歳、武蔵鄙人和気行蔵述」と署してある。想ふに庚午 は柳斎が町儒者として盛に門戸を張つてゐた時であら う。柳斎筆記は早く五年前(文化二年乙丑冬)に刻せら れてゐた。  八月十一日の霞亭の書順は猶弟碧山立敬の消息を麗 す。「大助儀佐藤に罷在候間、御便も候はゞ、人御よせ 可被下候。立前も西村君態々御出に而、一二月も立候 は寸、此方へ預り可申様と被仰候。いづれ遷宮過一た ん帰郷可仕候間、よきに御取計可被下候。」  碧山が宇治畑の佐藤子文の許に寓したのは、此文に 拠るに、霞亭東行の直前であつただらう。西村及時は 碧山を佐藤の家より引き取らうとしてゐたのである。 末に遷宮過一旦帰郷する筈だと云つてあるのは、霞亭 にあらずして碧山である。何故と云ふに、直に此文に 接して、霞亭が下の如く云つてゐるからである。「私 義当暮迄には罷帰可申侯。いづれ所々見のこし候処へ 参り可申候。」是が霞亭南帰の予定期日であつた。 その四十一  霞亭は文化庚午八月九日に江戸に来て、九月十四日 に江戸を去つた。初め「当暮迄」と云つてゐた帰郷の 期日は、縦令途上に暫留すべき地があつたとしても、 著く縮められたのである。  霞亭は何事のために此遠路を往反したか。わたくし は未だこれに答ふる所以を知らない。惟此旅行が渉筆 を刊行する事に関係してゐたかと推するのみである。  九月十四日に江戸を発する時、霞亭は書を裁して父 適斎に報じた。此書も亦的矢書順の中にある。「先月 中書通申上候通、鵬斎北遊今に帰府無之、都下も一向 おもしろからず候。夫に先達而よりの荷物一向著不仕、 度々船問屋等吟味いたし候得共、著船無之、如何いた し候哉。段々寒冷におもむき、何歎(と)不都合にて迷 惑いたし候。待合せもはてぬ事故、先々此表出立仕候。 いまだ諏訪湖並に上州辺の鉢形城跡杯一覧不仕候故、 此度は木曾街道をかへり申候。今日出立仕候。月末に は帰家可仕候得共、事により侯ては上州安中辺に滞留 いたし候処も有之候間、おそくなり候とも、必々御案 じ被下間敷候。荷物之儀は高林氏へくわしく頼置候。 是も船の上へ(二字にて「うへ」)ははて不申候故、飛 脚並に冬の春木氏便に頼み可被下候。何の役にもたゝ ざる荷物を出し申候事に候。」  亀田鵬斎の信越地方より帰らぬことは霞亭の帰期を 急にした一因をなしてゐるらしい。霞亭は暫く的矢よ り来べき荷物を待つてゐたが、遂に荷物の事を高林群 右衛門に托して置いて帰途に就いた。そして木曾街道 を経て還らうとしてゐる。それは途上見むと欲するも のが多い故である。霞亭は江戸に留まること僅に三十 六日間であつた。因に云ふ。高橋氏蔵詩箋に池上隣哉、 河崎敬軒の霞亭東行を送る詩歌があつて、己巳初秋と 書してある。しかし前記の如く、霞亭が己巳七月十四 日並に九月六日に林崎より郷親に寄せた書が存してゐ て、其中間に東游のあつた形迩がない。猶考ふベきで ある。  霞亭が木曾路の旅はどうであつたか。その的矢に帰 り著いたのはいつであつたか。わたくしは全くこれを 知らない。的矢書順には此より後次年辛未二月の嵯峨 生活の時に至るまで、一の年月を知るべき書だに見え ない。山陽の墓誌には林崎院長となつてより嵯峨に往 くまでの間に何事も叙してない。  しかし此に奇異なる一紙片があつて的矢書順中より 出た。それは末に「譲拝乞政」と署した詩稿である。 此詩稿は蕾に庚午九月(発江戸)より辛未二月(将入嵯 峨留別)に至るまでの唯一の文書として視るべきのみ でなく、又前に疑問として遺して置いた霞亭凹巷二人 の京游の上に一条の光明を投射するものである。  わたくしは此詩稿に由つて霞亭が庚午十月京都にあ つたことを知る。そして此京遊は凹巷が嵯峨樵歌巻首 の五古中に叙した京遊でなくてはならぬのである。 「中間又何楽、伴我游洛師」は庚午の春ではなかつた が、意外にも庚午の冬であつた。  然らば辛未の二月には霞亭が既に嵯峨に入つてゐた のに、凹巷は何故に「勢南春尽帰、花謝緑陰滋」と云 つたか。此間には幾分の矛盾がある。強て解して所謂 春尽きて帰つたものは凹巷一人であつたとでも云はう か。下に此二句を承けて「依然旧書院、長謂君在舷、 驚鳳辞荊蛛、烏鳶如有疑、ト居択其勝、相送宮水漏」 の数句を以てするはいかゞであらう。此問には幾分の 矛盾がある。  庚午十一月の詩稿は下に録する如くである。 その四十二  わたくしの謂ふ所の詩稿は、文化庚午十月某日に霞 亭が大原寂光院の比丘尼に歎待せられ、寂如軒に宿す る七律一、比丘尼が波玉と銘する桜材の香盆を贈つた 時の七絶二を淡青色の巻紙に書したものである。  「庚午小春、奉訪洛北大原寂光院老尼、見許宿寂如 軒、燈下作。孤庵占静院之西。竹樹近遮流水難。千秋 感憶皇妃詠。一夜情疑仙侶棲。紅葉月埋人没履、青苔 □厚鹿余蹄。暁枕聴鏑五H未睡。残燈影裏雨声凄。寂光 院尼公贈予以香盒一枚、云庭前桜樹所彫、是樹枯已久 ム矢、古時称汀桜者、呑盒銘波玉。小盒玲瀧玉様奇。遺 香況与水沈宜。炉霞一片花何在、髪髭春山雲隔時、又。 無復落花埋碧漣。上皇遺愛詠空伝。請看掌上盈寸盒。 想起春風六百年。譲拝乞政。」  此等の詩は霞亭摘稿刊後の作であるのに、遺稿には 見えない、又嵯峨樵歌も只「寄懐寂光院老尼」の七絶 を載せて、前年の遭遇を註してゐない。それはとまれ かくまれ、此游は山口凹巷の五古に叙する所のものと 同じであらう、「中間又何楽。伴我遊洛師。台嶽共登 臨、淡雲湖色披。鐸声禅院寂。杉月照呆思。朝尋西塔 路り山霧帯軽霧U下嶽過大原U奇縁遇浄尼。梅条横夜 庵。桜渚選春池、采薇弔平后。題石悲侍姫、岩倉又訪 花。林曙聴黄鵬。」大原の浄尼は即寂光院の尼公で、 夜庵は即寂如軒であらう。そして梅条以下の叙事は大 原に宿した時より後の事であらう。知るべし、寂如軒 中の客は霞亭一人ではなくて、霞亭凹巷の二人であつ たことを。  此の如く所謂中問の遊が少くも半ば庚午の冬であつ たとすると、「勢南春尽帰」は次年辛未の三月尽でな くてはならない。然らぱ京坂の遊は庚午冬より辛未春 に亘り、少くも凹巷一人は三月末に及んで、繰に伊勢 に帰ることを得たのであらう。  要するに霞亭凹巷の二人若くは凹巷一人は庚午除夜 の鐘を京師の客舎に聴いたことゝなるのである。是年 霞亭は三十一歳、凹巷は三十九歳であつた。  序に記す。寂光院の尼は、名を松珠と云つた。紀伊 国の産で、当時寂如軒に住し、後大和国宇陀郡宇賀志 村天鶴山の紫雲庵に徒つた。霞亭凹巷の二人は三年後 に吉野に遊んで松珠に再会する。天鶴山は「距芳野綾 五里」である。事は凹巷の芳野游藁に見えてゐる。  以上草し畢つて高橋氏蔵詩箋の謄本を閲するに、庚 午の臆尾には霞亭は林崎に帰つてゐたことが明である。 これを証するものは高木呆翁の詩引である。「霞亭今 秋(二字可疑、霞亭詩引云、小春)遊大原寂光院。院主 尼公贈以香盆一枚云。庭前桜樹所彫。是樹枯已久夷。 古時称汀桜者。霞亭携帰。一日会同社諸君於林崎。出 示之。且索詩。分韻各成一絶。」詩は省く。末に「庚 午冬日、濫巾呆翁」と署してある。  わたくしは辛未の記事に入るに先つて一事を播叙し て置きたい。それは霞亭渉筆印行の顛末に関する事で ある。今刊本を検するに、小引には「頃消暑之暇省覧 一過、因抄若干条其中、衷為冊子」と云ひ、「文化庚午 夏日、天放生北条譲題」と署してある。是は七月に林 崎を去る前に書する所である。表紙の見返には「文化 七年庚午秋新彫、林崎書院蔵」と印し、巻末には「皇 都書林梶川七郎兵衛、東都書林須原屋伊八」と印して ある。梶川は京都西堀川通高辻上る芸香堂、屋号は銭 屋、須原屋は江戸下谷池之端仲町青黎閣、氏は北沢、 所謂二代目須伊である。刻成は霞亭東遊の頃であつた らしい。  的矢書順中に此刻の事を言ふ書二通があつて、一は 首尾共に闘け、一は首あつて尾がない。並に霞亭の筆 迩なることは疑を容れぬが、その何人に与へしものな るかを詳にし難い。二書の断簡には皆多少考拠に資す べきものがあるから、下に引くことゝする。 その四十三 的矢書順中渉筆上梓の事を言つた霞亭の書の一はか うである。「霞亭渉筆上木取かかり度候。先達而梶川 へ申候処、十行二十字にては木とも二朱位にて彫刻い たし候やう申候。もし御もよりの書林御座候はビ、尚 又御掛引可被下候。大体中位のほりにてどれ位のわり にいたし候哉、乍御面働御聞合可被下候。十行二十字、 あき処も間には有之、又ちよつと細書はいり候処も有 之、点も有之候。其御心得に而御相談可被下候。種々 御労煩奉察候得共、無拠御願申上候。」芸香堂梶川七 郎兵衛は上に云ふが如く、京都の書騨で、渉筆を刻し たものである。霞亭がこれに交渉したのは文化庚午秋 以前であつた筈である。書は何人に与へたものなるか 不明なるが故に、所謂最寄の書林の何の地の書林なる かを知らない。書には当時の木板刻費が見えてゐる。  今一通の書はかうである。「態と以大助一筆啓上仕 候。寒冷に御座候処、愈御安泰被遊御座、奉欣拝候。 先日来者毎々調法之品々御恵被下奉謝候。然者渉筆も 最早皆々板刻出来候。兎角校合点等之間違多く、書中 掛合愈わかり兼候。夫に付往来とも十三四日相かかり 候而上京仕度候。幸宇仁館太郎大夫殿出坂被致候故同 道仕候。」以下は切れて無くなつてゐる。此書も亦そ の何人に与へたものかを知らぬが、これを齎し去つた 伜が碧山であつたことを思へば、伊勢若くは志摩の人 に与へたものと看倣すべきである。さて此書の作られ た時は何時歎。京都の梶川は既に渉筆を刻し畢つてゐ る。霞亭は最後の一校を其刻板に加へむがために京都 へ往かうとしてゐる。そして季節は既に寒冷である。 わたくしはその庚午十月以後なるべきを想ふ。然らば 寂光院に松珠を見たのは此旅ではなからうか。若し然 らば此「往来とも十三四日」の旅と「勢南春尽帰」と の間には矛盾があつて、強てこれを解せむとするとき は、凹巷が独り洛に留まつたとするより外ないのであ る。宇仁館太郎大夫は雨航信富である。大坂に往かむ がために、霞亭と共に伊勢を立たうとしてゐたのであ る。  文化八年は霞亭が嵯峨生活に入るべき年である。わ たくしは嚢に嵯峨樵歌の詩引を引いて、霞亭入京の日 を推さむことを試みた。今は頗るこれを詳にしてゐる。 霞亭は二月六日に伊勢山田を発し、十一日に京都に入 り、敷屋町六角下る東側伊勢屋喜助の家に宿つた。既 にして天竜寺の役人加藤寿闇の所有なる下嵯峨藪之内 の廃宅を借り、これに修繕を加ふる間、釈迦堂前鍵屋 喜兵衛の家に寓した。藪之内の家は前年庚午の冬に物 色した所の家である。此事実は二月十一日に霞亭が父 適斎に寄せた書に見えてゐる。書は的矢書順の一であ る。  「小子共種々用事出来候而漸う六日山田出立仕候而、 立敬始而之義、所々旧迩等もあらかた見せ、夫に関辺 より始終大雪に而、道中も殊之外日数相かかり、十一 日入京仕候。尤私始宇仁館様並に立敬皆々無事罷在候。 去冬一見いたし候嵯峨居宅早速かりうけ候而夫々相悦 申候。尤四五年来無住之家故、思之外造作相かかり、 干今大工日傭等相いり居申候。しかし大方相片付候而、 十九日廿日の間に移居いたし候。御安意可被下候。太 郎大夫殿も右に付今に御滞留被成下御世話御苦労被下 候。共外色々取込候而、此便委曲不申上候。嵯峨は下 嵯峨藪之内と申所に而、加藤寿銀殿と申天竜寺役人の 家に候。天竜寺の裏手に御坐候。しかし御便等はやは り伊勢屋喜助宅迄御遣可被下候。いつにても便御坐候。 (中略。)今日も嵯峨行仕候。尤此間より嵯峨釈迦堂前 鍵屋喜兵衛と申方に居申候。此度の世話人家に候。」 その四十四  霞亭は文化辛未二月六日に伊勢山田を発し、十一日 に京都に入つた時、途上雪に逢つた。弟碧山の同行者 であつたことは勿論であるが、宇仁館雨航も亦これに 伴つて入京したらしい。霞亭が此書を父適斎に寄せた のは、番匠側役の嵯峨藪の内の家に集つてゐた間の事 である。しかし霞亭は偶これに月日を註することを忘 れた。  同じ書に霞亭の弟碧山立敬の従学の事が見えてゐる。 「立敬吉益入門も先々卜居相済候後と、今暫延引仕 候。」吉益は東洞為則の嗣子南涯猷である。庚午の歳 に六十一歳になつてゐた。霞亭が何故に碧山を掌へて 入京したかは、此を見て知るべきである。  わたくしは姑く霞亭が下嵯峨藪の内に移つた日を二 月十九日として看た。是は書に「十九日廿日の間に移 居いたし候」と云つてあるのと、嵯峨樵歌の詩引とを 併せ考へたのである。「予卜居峨阜、宇清蔚借来助事。 適井達夫在都。亦来訪。留宿三日。二月念一日。修営 粗了。夜焚香賦詩。」わたくしは詩を賦した廿一日の 夜を以て留宿の第三日となしたのである。按ずるに竹 里と云ひ、幽篁書屋と云ふ、皆藪の内より来た称であ る。井達夫は浅井氏、名は毅、通称は十助である。  二月三十日に霞亭は又書を父に寄せた。是も亦的矢 書腰の中にある。  書は先づ幽篁書屋の事を叙してゐる。「扱先書申上 候通、嵯峨の辺は借宅無之地に候故、臨川寺役人加藤 寿闇殿家借用いたし候。四五年はあき候処故、殊之外 造作相かかり、大工日傭四十五工も相かかり、漸う廿 日に移居仕候。至極閑静の地に而、うしろは臨川寺、 つい出候へば天竜寺渡月橋に御坐候。家は六畳二聞、 四丈二間、台所、玄関共に拾畳敷ほど、風呂場、菜園 等も御坐候。井戸はかけひに而とり候。すべて一面竹 林に而、竹をへだて候而桂川の水声よくきこへ侯。し かし花過候までは京都近付其外一切しらし不申候。心 おもしろく読書修業出来可申候。なじみ候程至極住よ き処に被思候。右之順故太郎大夫殿も始終手つだひ、 殊之外日数かさなり、漸う廿五日夜大阪へ被出候。浅 井十助殿其外京都よりも伊勢喜、嵯峨八百喜等皆々出 精手伝くれ候。」  卜居の顛末は概ね前書と異なることが無い。只家主 加藤の名は初め寿銀に作つてあつたが、今寿闇と正し てある。又匠人の事を言ふ条に「工」と云ふは恐くは 工手間の略であらう。幽篁書屋の房数席数は始て此に 見えてゐる。「井戸はかけひに而とり候。すべて一面 竹林に而、竹をへだて候而桂川の水声よくきこへ候。」 此数句は特に人をしてその懐しさを想はしめる。宇仁 館雨航の辞し去つた期は「漸う廿五日」であつた。樵 歌にこれに贈る絶句がある。「可想今宵君去後。不堪 孤寂守青燈。」霞亭は雨航を送つて京都に至つた。「客 舎尋君送遠行。何時帰馬入京城。」  書に奥居の費用が載せてある。「此度卜居並に道中、 何歎思之外入用有之、十両余も入用いたし候。」  既に移居した後も、郵書等は京都の伊勢屋喜助をし て接受せしめた。「御状等はやはり伊勢喜迄御遣し可 被下候。此方へ大方の日たより御坐候。御国産ひじき、 あらめ、わかめの類折節御恵投奉希候。世話のいらぬ やうに菜にいたしたく、大坂迄船つみ、淀川運賃さが 払に御かき付可被成下候。同家の壁へ名当等しるし置 候。」 その四十五  霞亭が文化辛未二月三十口に父適斎に寄せた書には、 猶弟碧山立敬の吉益を見るべき期日が記してある。 「立敬も当五日(三月五日)吉益先生へ入門仕候つもり にいたし、御約束申候。入門式はかれこれ三百匹許も 入用に候。外医家よりは心やすき方に御坐候。やはり 四五日め会業、嵯峨よりかよはせ可申、大抵太秦通京 道一里半許御坐候。家つづきに御坐候。」霞亭は二月 三十日に書を裁するに当つて、ふと「当五日」と書い た。しかしその来月五日なるべきことは疑を容れない。 会業云々は初謁より第四五日に至つて、始て授業せ らるる謂であらうか。  吉益南涯の家は、的矢書順中に交つてゐた京都の宿 所書に「三条東洞院北東角、吉益」と註してある。初 め南涯の父東洞は、元文三年に京都に入つた時、万里 小路春日町南入るに住み、延享三年に東洞院に徒つて 東洞と号した。明和七年に東洞は又皇城西門外に徒つ て、安永二年に此に残した。天明八年に嗣子南涯は火 災に遭つて、大坂船揚伏見町に徒り、南涯と号した。 京都の南に居り、その居る所が水涯であつた故である。 寛政五年に南涯は伏見町の家を弟辰に譲つて、京都三 条東洞院に帰り住した。是が碧山の通つて行つた吉益 の家である。  同じ霞亭の書には又弟良助を宇仁館雨航に託せよう とすることが言つてある。「良助義太郎大夫殿へうわ さいたし候処、かの方へしばらく御預り申上、素読等 いたさせ可中様申くれられ候。三四月中は道者に而い そがしく、五六月頃か盆あたりより夫に御頼可被遊侯。 宇仁館に被居候へば、山口河崎東などへも参り候而各 別所益可有之候。宇君御宅にても近頃月六日許宛御講 釈はじまり候。勇よろしく候。」良助を雨航の家に寓 せしめ、又凹巷敏軒夢亭の家に往来せしめようと云ふ のである。  次に同じ書に凹巷上京の期日が記してある。「四月 朔日頃には山口様出京被致侯。左様御心得可被下候。」  次に梅谷某上京の期日が記してある。「梅谷生は大 方当月(二月)末頃上京と奉存侯。梅谷に孟宗竹約束い たし置候。五月頃御とりよせ可被下候。」  三月の末に霞亭は又書を父に寄せた。的矢書順中の 此書は後半が断ち去られてゐて、宛名もなく月日もな い。しかしその父に寄する書なることは語気に由つて 知ることを得べく、その三月末に作られたことは首の 数句に由つて知ることを得べきである。「当月廿日之 尊簡今日相達、辱拝見仕候。時分柄春暖相催候処、愈 御安泰被遊御入珍重奉存候。」此数句中「春暖相催」は 人をして二月にはあらざるかと疑はしむるが、下に碧 山が既に南涯の門に入つてゐるより見れば、三月でな くてはならない。  霞亭は漸く竹里の住ひに馴れて来た。「段々居馴染 候が、ますく清閑に而甚おもしろく罷在候。処がら と申、閑静に候故、著述事等も甚だ将明候やうに覚え 候。(中略。)買物小遣等は近所出入の百姓の子供等始 終まわりくれ候ゆへ殊の外自由に候。」  弟碧山は既に南涯の家に往来してゐる。「立敬も吉 益へ隔日に参り候。朝五つの会故、少しくらき内に出 候而、昼前に帰宅いたし候。凡二里に三四丁ぬけ候。 太義にはぞんじられ候へども、その位あるき候はから だの補養にもよろしく候。甚出精、此節傷寒論会御坐 候。会の所拙者相手になり、下見いたさせ、又々かへ り候而も吟味いたし置候。至極何事もはやくのみ込め 候やうすに御坐候。御悦可被下候。」 その四十六  霞亭が窓曙篇序を作り、又題任有亭の五古を作つ たのも亦文化辛未の三月である。窓の曙は僧似雲の著 す所である。霞亭は林崎書院にある時これを読み、一 本を抄写して蔵してゐた。さて嵯峨に来て三秀院の僧 月江と交を結んだ。三秀院に任有亭がある。是は八十 年前に似雲の住んだ処である。霞亭は窓の曙の写本を 出して月江に贈り、任有亭に蔵せしめた。序は此時の 作である。高橋氏蔵箋に月江のこれに酬いた五古があ る。其引に云く。「霞亭北条先生。近自勢南来。行李 挑窓之曙一本。以余寺有似雲故居。遂見贈焉、且附以 践及詩。因次共韻謝呈。」末に署して云く。「月江宜草 稿。」  窓曙篇序は歳寒堂遺稿に載せてある。題任有亭の五 古は嵯峨樵歌に出でてゐる。しかし此文此詩の草稿は 的矢書贋中に交つて存してゐる。そして文の末に「文 化辛未春三月勢南北条譲題」と署してある。文中に 「今舷辛未春辞林崎来嵯峨」の句はあるが、その三月 であつたことは題署に由つて始て知らるるのである。  序文には的矢書順中のものと遺稿中のものと、殆 毎句に異同がある。按ずるに彼は初稿にして此は定稿 であらう。何を以て謂ふか。的矢書順中のものは助字 が多いのに、遺稿中のものは半ばこれを剛り去つて簡 浄に就かしめてあるからである。  題任有亭の詩には嵯峨樵歌の載する所に約二百言の 小引がある。的矢書贋中のものは此小引を闘いてゐて、 十六行の国文が窓曙篇序の後、此詩の前にある。按ず るに霞亭は此詩を樵歌中に収むるに当つて、これを漢 訳したものであらう。わたくしは下に其国文を抄出す る。  「五升葦瓦全子予にかたりし似雲法師の逸事、ちな みにこゝにしるす。似雲法師任有亭におはせし頃、入 江若水翁渡月橋の南櫟谷に閑居をしめ、方外の交むつ まじかりける。ある雪の朝、若水翁法師をむかへける に来らざれば、待わびたるに。跡つけてとはぬもふか き心とは雪に人まつ人やしるらむ。といひおこせしと なむ。予この頃樵唱集をよみ侍るに、中に雪朝寄無心 道人の詩をのす。おもふにその時の作なるべし。日。 前渓多折竹。夢断促農興。渡口殆盈尺。山頭更幾層。 宣無乗艇客。応有立庭僧。宿得一星火。茶炉独煮烹。 この風流いとしたはしくおぼゆれば、此事を書つゞく る問に、つたなき一首を口ずさぴ侍りぬ。」  漢文の小引には瓦全の名を削つて、「一老人語予日」 と書してある。西山樵唱集の詩中末の二句は、小引に 「留得一星火、茶炉独煮氷」に作つてある。今樵唱集 は手許に無い故に検することを得ない。国文に所謂 「つたなき一首」は即五古の長篇である。  五古にも亦的矢本と嵯峨本との異同がある。此に挙 げて遺忘に備へる。的矢本。「円窓代仏寵。念諦礼其 中。」嵯峨本は「円相」に作つてゐる。是は執が是執が 非であらう。指月録の円相は月である。的矢本。「曙 賞定無窮。有時為歌詠。」嵯峨本は「悟賞」に作つて ゐる。是は刊本が是であらう。張雨対月詩に「悟賞 在舷久」の句があるさうである。的矢本。「師亦因歌 答。思君朝云終。欲出旋留履。応解惜玲璃、」嵯峨本 は「朝云終」を「椅窓檎」に作り、「留」を「停」に作 つてゐる。是も亦刊本に従ふべきであらう。  わたくしの註する所は草率の考に過ぎない。若し誤 謬があつたなら、読者の教を請ひたい。元来文も詩も 全篇を写し出だして、二本の異同を説くべきであるが、 わたくしは人を倦ましめむことを恐れて敢てしない。 しかし上に挙げた詩句の是非の如きは、必ずしも全篇 を読まずして断ずることを得べきものであらう。  霞亭は前に山口凹巷の四月朔に至るべきを郷親に報 じた。しかし其期の或は短縮すべきを料り知つたもの の如く、三月廿八日に粟田まで出迎へたことが樵歌に 見えてゐる。此記事は樵歌中任有亭の詩の後にある。 わたくしの窓の曙と任有亭との事を先づ記した所以で ある。 その四十七  文化辛未の春尽くる頃、霞亭は下嵯峨藪の内の幽篁 書屋にあつて、四月朔に至るべき山口凹巷を待つてゐ た。嵯峨樵歌に「聞凹巷来期在近」の七絶がある。是 は或はその至る期が四月朔より早かるべきを聞知した 昨の作ではなからうか。「心中暗喜期将近。錨認人声 復僑門。」既にして三月二十八日に及び、霞亭は粟田 まで出向いて凹巷の至るを候つてゐた。「粟田旗亭遅 凹巷入京即事」の七絶がある。「眼穿青樹林陰路。杖 響時疑君出来。」  凹巷は晦日に来た。同行者に幸田伯養、孫福孟紳が あつた。加栴越後へ往く河崎敬軒、池上希白が路を 柾げて共に来た。霞亭は一人を待つてゐて、五人の来 るに会したのである。希白はわたくしは初め隣哉の字 なるべきを謂つた。しかし帰省詩嚢に「過池隣哉家、 敬軒凹巷希白勇進源一尋至」の語がある。希白が隣哉 の家に来たのである。その別人なること明である。  霞亭は五人を率て幽篁書屋に帰つた。「壮遊人五傑。 快意酒千鍾。」五人は即日嵐山に花のなごりを轟ねた。 「任他花落随流水。愛此樽携共故人。」  四月三日に五人は西近江より越前敦賀へ出で、此に て河崎、池上は挟を分つて去り、三人は若狭小浜に往 き、丹後の天の橋立に遊ぴ、丹波を経て嵯峨に帰つた。 時に十六日であつた。「帰舎終無事。曲肱燈影低。」  わたくしは蘭軒伝中に於て已に一たび当時の事を記 した。しかし樵歌の一書を除く外、参照すべきものが なかつたので、月日も人名もおぼろけであつた。今わ たくしは的矢書憤中の四月二十四日の書を見ることを 得た。亦霞亭が弟碧山と連署して父適斎に寄せたもの である。  「山口角大夫、並に幸田要人、孫福内蔵介二君御同 道、先晦日御著、河崎良佐、池上衛守二君も見えられ (これは越後行を極内々にてさがへ立よられ候也)、三 日皆々御同道に而、いまだ見ず候故、西江州より越前 敦賀へこえ、河崎池上とわかれ、夫より若狭小浜へ参 り、丹後へ出、天の橋立を一覧いたし、丹波路をまい り、当十六日さがへ罷帰申候。所々名所古蹟巡覧いた し、大慶無此上奉存候。小浜に而若狭小だゐもとめ差 上たく尋ね候処、冬ならではなきよし、残念に奉存候。 此度の紀行等は跡より出来次第入御覧候。」  凹巷の通称は霞亭が前に徴次郎と書してゐた。是は 墓碑に「小字長次郎」と云つてあるに符する。長又徴 に作つたのであちう。然るに今角大夫と書してある。 茶山集に「覚大夫」と云つてあるに符する。角又覚に 作つたのであらう。  幸田要人は樵歌の田伯養である。孫福内蔵介は樵歌 の孫孟練である。名を蓑と云ひ、包蒙と号した。包蒙 の孟紳なることは三村氏蔵箋に拠る。孟紳は北陸游稿 に凹巷の内姪と自署してゐる。又米山氏記を参考する に、孫福内蔵介セニヨォル、名は公或、字は長儒、道 号損斎又眉山は孟紳の父若くは兄なるが如くである。 文化甲戌の誠宇受業録に「故眉山先生」と云ふは此人 である。樵歌題詞の長儒は清水平八か、孫福内蔵介セ ニヨオルか、猶考ふべきである。池上衛守は樵歌の池 希白である。  四月二十四日の書には、上に抄する所を除きては、 記すべきものが少い。酉光寺住職某が霞亭を訪うて鐘 銘を閲せむことを乞うた。「西光寺見え候処、私留守 に而掛違ひ候。津とやらに鐘出来候而、其銘を直しく れとのこし置候。せわしくいまだ見不申候。」霞亭の 親戚「せや叔母」が善光寺に詣でた。「せや叔母善光 寺へ被参候よし、悦候。」霞亭は山田の喜助と云ふも のゝ手より吸物椀十人前を価二十五匁にて買はむとし て罷めた。此椀が錨つて的矢へ送られた。霞亭は父に これを買ひ取るとも山田へ返すとも随意に処置すべき 由を言つてゐる。又父が金四両二朱と裾帯菜とを遺つ たことを謝してゐる。共文は略する。 その四十八  霞亭は文化辛未四月十六日に、山口凹巷、幸田伯養、 孫福孟紳の三人と天の橋立より還り、下嵯峨藪の内の 幽篁書屋に三人を留めてゐた。二十四日に書を父適斎 に寄せた時には、客は未だ去らなかつたであらう、何 故と云ふに、若し已に去つた後ならば、書中にその去 つた日を言ふべきだからである。  三人の辞し去つたのは何れの日なるを詳にしない。 しかし凹巷は二十六日に去つたU伯養孟緯も亦或は同 じく去つたであらう。高橋氏蔵箋に凹巷の石山杯の詩 があつて、其引にかう云つてある。「霞亭有嵐山杯。 為西峨幽居中之一物。今又新製一小杯贈余。杯面描飛 螢流水。題背口。辛未四月廿六。石山水楼酌別凹巷韓 君。(中略。)因効霞亭命名日石山杯。追賦一絶、以謝 厚既。」酌別の事は嵯峨樵歌に見えてゐる。「長橋短橋 多少恨。満湖風雨送君帰。」尋で覆亭は詩を凹巷に寄 せて別後の情を仔べた。「始知人意向来好。却恋相期 未見時。」  六月に霞亭は藪の内の居を撤して、京都市中に留ま ること二十余日であつた。樵歌に「晩夏冒夜到北野」 の聯句があつて、次の七絶一首に小引がある。「予因 事徒居都下二旬余。不堪擾雑。復返西峨。寓任有亭。 翌賦呈宜上人。」市中に移つたのが六月中であつたこ とは、下に引く八月十八日の書に由つて知られる。  七月前半に霞亭は任有亭に寄寓した、任有亭は僧月 江の寺の中で、上の詩引に所謂宣上人は即月江である。 月江、名は承宣である。霞亭の嵯峨生活は竹里の第一 期より任有亭の第二期に入る。その七月前半であつた ことは、樵歌が宣上人に呈する前詩の次に「七月既 望」の作を載するを以て知られる。七月既望には霞亭 碧山の兄弟が月江等僧侶と与に舟を大井川に潭べて月 を賞した。  八月十五日の夕は樵歌中に「中秋独坐待月」の七絶 を遺してゐる。次の「月色佳甚、遂与惟長、拉承芸師 佐野生、遊広沢池亭」の七律も、亦恐くは同じ夜の作 であらう。承芸は月江の侍者、佐野生、名は憲、字は 元章、通称は少進、山陰と号した。  十八日に霞亭は書を父に寄せた。的矢書順中の此書 は弟碧山と連署してある。且「北条霞亭拝、同立敬拝」 と署した霞亭の名の右傍に、「此節直に号を通称仕候」 と細書してある。  書中に霞亭が居所の事を言つた条はかうである。 「先々小生も当年中は任有亭に罷在可申、又々来年は いかやうとも可仕候。いづれ後々は京住にも相成可申 や。山中殊之外心しづまり、万事出精仕候。」  次に弟碧山の事が言つてある。霞亭は京都市中に移 つた時、碧山を伴ひ行き、七月に任有亭に入るに及ん で、碧山をぱ伊勢喜に残して置いた。尋で三秀院の一 室を借り受けて碧山を迎へ取つたのは八月八日であつ た。「立敬義は六月より当八日迄いせきに差置候。吉 益方講釈毎日出席此頃金匿等も一とまわり済、又傷寒 論は凡三度許に相成申候故、先づ当分此方へ呼寄せ置 候。右両書等追々吟味会読仕候処、中々よく会領仕居 候。今一度宛も参り候はじ最早大抵よろしく、其上は 自分の眼目次第に御坐候。此方にてはやはり三秀院の 一と間かり受読書いたし居申候。時々京都へ遣申候。 随分両人共達者罷在候。(中略。)立敬殊之外静なる性 質、よく辛苦にたへ候人物故、於小生大悦仕、相楽し み罷在候。」霞亭の京都市中に移つたのが六月であつ たことは、此条より推すことが出来る。 その四十九  文化辛未八月十八日の霞亭碧山兄弟の書は次にわた くしに上に見えた梅谷と云ふものの事を教へた。「内 宮梅谷生今に上京無之、尤脚気のよし、此義も上るか 上らぬかを得と相糺し遣し、もし上られ侯は寸もとの 通に藪の内三人住居可仕候。無左候はじ、立敬計に侯 へば、任有亭にさしかけ二三丈の間をこしらへ候は寸、 朝夕飯等もそこにて出来候故、別而よろしく候。これ は随分頼み候へば出来も可仕候。少しの物入に候。材 木等はもらはれ中候。いづれ梅谷生の上返事の上之事 に候。」是に由つて観れば竹里の家は霞亭碧山の兄弟 のみが住んだのではなくて、梅谷某が共に住んだもの である。又霞亭が京都市中より帰つて、竹里の家に入 らずに任有亭に寓したのは、某が伊勢に帰つて再び未 ぬが故である。霞亭は某が来るならば竹里の家に入ら うかとさへ云つてゐる。某は内宮のものである。  同じ書は次に田巻と云ふものの事を言つてゐる。 「越後田巻彦兵衛一旦常安寺にて僧となり候へども、 僧は本望にも無之、やはり還俗修業仕たきよしにて、 時々書物もち参り候。此節は三条通の借屋に居申候。 此方は遠方にも有之、京都に而佐野か北小路などへ頼 遣べき様申候へども、何分私へ随身仕たきよし申候。 尤梅谷生など上り候て藪之内又々居住仕候はじ、夫に 同居願ひたきと申候。飯費等の義は用意もいたし候よ し、これも未だ得とは引受不申候。常安寺などにては いかやうに被思居候や。私申候はいづれ国元並常安寺 などへ書通得といたし候上世話も可仕と申置候。如何 仕べきや御伺申上候。」田巻彦兵衛は越後の人で、鳥 羽箆山の常安寺に入つて僧となつてゐた。既にして還 俗し、霞亭に従学せむとしてゐる。霞亭は田巻が京都 市中に居るを以て、佐野山陰若くは北小路梅荘に紹介 しようとしたが、田巻は聴かない。霞亭は越後の親元 と常安寺とに問ひ合せた上で授業しようとしてゐるの である。佐野山陰の家は、文化の平安人物志に拠るに、 「衣棚竹屋町北」にあつた。上に引いた嵯峨樵歌の詩 引に、三日前に霞亭と倶に月を広沢の池に賞したと云 ふのは此佐野生であらう、しかし山陰は長者なるを以 て、霞亭が「佐野生」と称するは少しく疑ふべきであ る。北小路梅荘は即ち源政塊で、其家は的矢書績中の 京都宿所留に「車屋町丸太町下る面側」と書してある。 文化の平安人物志にも亦「車屋町丸太町南」と云つて ある。松崎懐堂の係堂日暦文政乙酉九月廿二日の条に 「北小路大学介、六十以上老儒、質実可語、詩文亦粗 可観、樫宇云」と云つてある。林銑の評である、佐野 と北小路とは皆姓を自署するを例とした。佐野は「藤 原憲」と署し、北小路は「源寵」と署したのである。  同じ書に又友之進と云ふものが俳句の巻を霞亭に託 して瓦全をして加点せしめようとした事が見えてゐる。 「友之進様御頼之発句の巻物、これは当春八蔵跡より 宇仁館へ持参いたし候処、其節は送別莚に而殊之外幻 々敷、荷物之処う仁たち出入之人へ飛脚出し、こしら へもらひ候。其内いかvいたし候哉、かの巻物封と江 戸表より参り候大封書状紛失、其後吟味候てもしれ不 申候。甚申訳も無之事に候。可然御断可被下候。又々 御遣し候はじ、瓦全方へ遣し可申候。其訳左様乍悼御 言伝奉頼候。巻物等御贈候は寸、何にても産物にても 御添可被下候し瓦全にても其外京都などにては、私共 扇面其外認もの、詩文の評点いたし候も、それ相応に 進物参り候故、何もなく候てはかつこうあしく候。」 その五十  霞亭碧山が文化辛未八月十八日に父に寄せた書には 猶伊勢の諸友の消息がある。「山田山口其外よりも此 頃追々書状参り候。山口は殊に寄九月上京も有之べき やに候。西村は盆中江戸へ被参居候よし、光明寺行脚 に奥州へ被赴候処、江戸に而大病のよし、見舞に被参 候よしに候。」山口凹巷九月の京遊は遂に果されなか つたらしい。西村及時は江戸に往つてゐた。及時に病 を訪はれた光明寺の僧、名は謙堂、下に見えてゐる。  同じ書に又僧丹崖の対馬より帰つたことが見えてゐ る。丹崖は田辺玄玄の次瓦印譜の「南山寺務丹崖乗如慧 克」である。克は或は充でなからうか。猶考ふべきで ある。「当十四日対州碩学和尚帰山、夜前小生も招か れ候。色々おもしろき物一見いたし候。」樵歌に霞亭 がこれに贈つた詩があつて、小引にかう云つてある。 「賀丹崖長老終馬島任帰山。是歳五月韓使来聰竣礼事。 長老与韓客唱和詩若干。余得寓観。」丹崖は五月に対 馬に往き、八月十四日に帰り、霞亭は十七日にこれを 訪うたのである。  共他道悦、主税、半兵衛等不明の人名が同じ書に見 えてゐる。「たしから道悦様永々御病気のよし御案じ 申上候。先達而書通も仕候。主税義急に八月朔日此方 出発仕候。」たしからは志摩の槌柄であらうか。しか し仮名の「ら」文字が不明である。半兵衛は霞亭に託 して吸物椀を買はうとした。然るに半兵衛はこれを不 れん 廉なりとした。文長きを以て、下に一部分を抄する。 「しかし高直に被存候而は甚気の毒に御坐候間、先々 十人前の分はらひ候。十人前は御かへし候てもよろし く候。(中略。)それも気に入不申候は寸、皆々かへし 候ても不苦候。只々余り度々永く留置候問、上下駄賃 小生方より払遣可申候。」  八月十八日の書順は此に終る。わたくしは今樵歌中 に見えてゐる春日亀蘭洲の事を附記して置きたい。樵 歌はこれを十五夜看月の詩と十七日丹崖に贈る詩との 間に載せてゐるのである。  春日亀政美、字は子済、蘭洲と号した。其通称は坦 斎であつた。平安人物志に拠るに、蘭洲は「四条小橋 西」に住んでゐた。  蘭洲は詩を霞亭に贈つた。此詩は的矢書順中に交つ て遺つてゐる。「渉筆元奇筆。那論陳腐編。締交差我 拙。接語憶君賢。雅量徐沈密。博覧楊太玄。守愚唯蝟 縮。難到較竜淵。」霞亭はこれに和答した。樵歌の載 する五律が是である。わたくしは此に詩を略して惟其 自註を挙げる。「翁齢七十八。早歳善詩及書。平生所 交。多一時聞人。就中洪園先生、六如上人其同庚。今 皆下世。」文化辛未七十八歳だとすると蘭洲の生年は 享保十九年でなくてはならない。近世儒林年表を検す るに、享保十九年生の儒者中に皆川洪園が載せてある。 しかし僧六如の生年は此より三年の後、元文二年であ つたらしい。他日を待つて細検すべきである。  九月には霞亭が重陽の日に病んでゐた。「九日有登 七老亭之期、臥病不果口占」の五絶が樵歌に見えてゐ る。  十九日に霞亭は亡弟に詩を手向けた。寛政十一年九 月十九日に残した内蔵太郎彦の十三回忌辰である。三 秀院の僧月江も亦同じく詩を賦して薦した。並に樵歌 に載せてある。  樵歌に拠るに、霞亭が相識る所の僧謙堂が江戸に残 したのも亦九月中の事であるらしい。謙堂は前に引い た書憤の光明寺である。西村及時は特に其病を訪はむ がために東行したのであつた。樵歌に載する七律の引 はかうである。「謙堂禅師游方在関東。近報其病。計 音忽至。(中略。)聞吾友看松居士与僧侶数輩故東下問 疾。至則已遷化。蓋不出両日。幽明一隔不及相見云。」 その五十一  文化辛未十月八日に霞亭は任有亭より梅陽軒に移つ た。樵歌の詩引に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移 梅陽軒、援筆題干壁間」と云つてある。時に藪の内の 家は既に他人が徒り住んでゐた。「聞竹裏旧盧人已蹴 居、予曾不知、戯賦」の七絶が樵歌中にある。山口凹 巷は此移徒の事を聞いて詩を賦して寄せた。中に「曾 従竹下開三径、更向梅辺借一庵」の聯がある。  的矢書順中に当時の事を知るに便なる書一通がある。 是は十一月二日に霞亭が父適斎に寄せたもので、最初 に梅陽軒に移つたことが言つてある。「小子共も任有 亭余りせまく御坐候間、先月(十月)八日天竜門前に方 丈の隠居有之、夫に引移居住仕候。左様御承知可被下 候。(中略。)只今居住の処は梅陽軒と申(処)に御座候。 渡月橋の通、聴琴橋と申橋の近辺に候。天竜寺勅使門 の前にあたり候。御状はやはり伊せき方へ御遣可被下 候。大方の日たより有之候。」梅陽軒は天竜寺の隠居 所であつた。  霞亭は同じ書に拠るに、梅陽軒に入つた初に、巳に 他日京都市中に住むべきことを考慮してゐた。「先書 申上候通、兎角私の身分は甚只今の通りに而よろしく 候得共、立敬医学修業今一息不便理、と申ても京都い づかたも御頼申候程の処も無之候。山田社中へも此頃 及相談候処、先月末宇仁館君大坂の序態々峨山へ被参、 また山口其外の口上等も承り候。いづれとも両方よろ しき様取計可有之様との事に候。夫故先々小生もいづ れ京都に而静かなる座敷体の処見つくろい住居可仕と 奉存候。いづれ正月中頃移居可仕候。大体富小路か柳 馬場あたり、中京にいたし可申候。尚又御賢慮御指揮 奉仰候。」是に由つて観れば霞亭が後に京都市中に移 つたのは、少くも半ば弟碧山の講学の便を謀らむがた めであつたらしい。宇仁館の梅陽軒を訪うた時、霞亭 の贈つた詩が樵歌中にある。「謝清蔚赴浪華、柾路過 訪峨山」と題するものが是である。  此頃大家不審が亀井南渓を筑前に訪ふ途次に、梅陽 軒を訪うた。上の十一月二日の書にかう云つてある。 「山田大家東平、筑前亀井道載先生へ来年一年も従学 仕候つもりのよしに而、此間うがた尾間慶蔵同道に而 被見、私方にも両夜止宿、最早此節大阪へ発足被致候。 源作亀井の縁者に候故の事に候。尤亀井位の人も京都 には無之候。一段壮遊と奉存候。京都も此頃は清田謙 蔵、中野三良、小粟文之進など申儒生皆々死去、ます く人物もすくなく相成候やうすに御坐候。」大塚不 審の東平と称したことが此に由つて知られる。尾間慶 蔵は志摩の鵜方のものであつた。樵歌には単に「尾間 生」とのみ記してある。樵歌の詩は七律で、「家不鷹 僧尾間生将游学筑紫、過訪峨山、賦饒、兼寄南冥先生」 と題してある。  霞亭は亀井の事を父に報ずるに当つて、京洛諸儒の 凋落に説き及んだ。清田元基は本播磨の人で伊藤氏を 嗣ぎ、緒、綬、絢の三子をまうけた。緒が伊藤錦里、 綬が江村北海、絢が清田借隻、綬の子にして絢の家を 嗣いだものが竜川勲である。勲が文化五年に残した。 謙蔵とは或は勲であらうか。勲の通称は大太郎として 伝へられてゐる。或は後に謙蔵と改めたか。中野換、 字は季文、竜田と号した。文化辛未四月に残した。三 郎とは或は換であらうか。小栗文之進は未詳である。 文化中に残した十洲光胤は画家である。文之進は恐く は別人であらう。  同じ書は早く樵歌の事を言つてゐる。「来春は嵯峨 樵歌と申拙詩集板行に出候。此節追々とりあつめ仕候。 しかし出来あがり候迄は御噂被下まじく奉願候。」 その五十二  文化辛未の冬には此より後多く記すべき事が無かつ た。樵歌に拠れば、山口凹巷は新に書斎を造つた。宇 仁館雨航は大坂より伊勢に帰つた。凹巷の書斎の事は 「聞凹巷処士近開小吟窩、日坐其中」と云つてある。 本凹巷とは山田上の久保に住んだ故に号したと、墓誌 に見えてゐる。書斎も必ずや同じ所に築かれたことで あらう。雨航は前に伊勢より梅陽軒を過訪して大坂に 往き、今又伊勢に帰つたのである。樵歌に「立春後一 日送清蔚還郷」の詩がある。  又的矢書順中、下に引くべき書に拠るに、霞亭は歳 晩に薄つて弟碧山を京都の伊勢喜より梅陽軒に迎へ取 つた。  霞亭は辛未の歳を梅陽軒に送つた。「迎春身計知何 事。先為探梅買緑蓑。」是年霞亭は三十二歳であつた。  文化九年は霞亭が歳を梅陽軒に迎へた。「大堰川頭 敏暁罪、小倉山外捧春輝」の句がある。  正月十一日に霞亭は書を父適斎に寄せた。書には京 都市中に移り住む計画が載せてある。「旧冬はけしか らぬ寒気に御坐候。春に相成侯而は少々ゆるまり候様 覚え候。御地等は如何に哉。将又御宅よりの書状此方 へ一向相届不申、朝夕掛慮仕候。八月初旬御書簡在し より以来絶而相達し不申、もし途中浮沈等は不仕候哉。 兼而十月頃御書簡被下候様相待居候に、当月迄も相達 し不申、もしや御故障にても無之哉と両人申いで居候。 私義も旧冬より寒気あたりの気味、四五十日も出京仕 かね候。夫故万事失礼仕候。去年申上候通、今年は又 々京都へ出張可仕奉存候。静かなる処京都へ聞合せ置 侯。いづれすこし暖気に相成候はじ、早々取計可申奉 存候。当月末、来月上旬中には相定まり可申候。立敬 も旧冬より此方へ罷越居候。当十二日師家会始のよし にて出席いたし侯。先に立敬京都へ遣し置可申候。此 辺も嵐山花さき候へば、殊之外騒々敷、何卒其前方に 移居可仕奉存候。」碧山立敬の前年の暮に梅陽軒に移 つたことは此に見えてゐる。  書は又凹巷と梅谷某との事を言つてゐる。「来月中 旬には山口氏此方に御上京之よし相聞え候。梅谷御子 息も当月末歎来月上旬には発足のよし申来候。」  霞亭は正月十一日に此書を父に寄せた後僅に一日に して、急に的矢に帰省することを思ひ立つた。事は十 二日に重て父に寄せた書に見えてゐる。「小生も当年 は京都へ罷出門戸丈張見可申奉存(此下に「候得共」の 三字あれども文脈下に接せざる如きを以て省く)此頃 段々相謀申候。然る処去々月より御宅より御書状一向 到来不仕候故、不安心に奉存候。霜月末も差出候処、 今以御消息相しれ不申侯故、右万端御相談も申上たく、 且又御伺申上たく候而、京都へ移居いたし可申前に立 かへりに一寸御宅へ参上可仕存立候。尤山田山口氏へ も内々御相談に及ぴ侯儀も有之、労参上仕候得共、此 度は誠に立帰りの義に候て、且は立敬一人跡へのこし 置候故不安心にも有之、御宅一両日滞留、山田一宿、 これもどれへも噂不仕様にいたし候。山口氏、西村氏、 東君、是は山口に而御目にかゝり候のみにいたし、外 へはすこしもしれ不申候様いたし可申候。無左候ては 義理あしく候。御宅へも夜にいり、参り可申候間、何 卒其前方に左様御心得可被下候。外御親類とても御噂 被下間敷、又々其内表むきに而参り候節、諸方へも逢 可申候。色々物事労煩に相成候而、又々よろしからざ る事も有之候故に候。右一寸前方御しらせ可申為、 如斯御坐候。此表廿六七日の中に発足いたし候。(中 略。)何卒暫時御座敷に罷居申たく奉存候。一両日の 事故、無拠人にのみ逢可申候。」此書は奇怪なる書で ある。前書を発した後僅に一日にして帰省を思ひ立つ たのが既に怪むべく、其文脈も亦例に似ず、しどろも どろなるが愈怪むべきである。蕾に然るのみではな い。霞亭は又十数日の後此帰省を思ひ止まつたのであ る。 その五十三  霞亭は文化壬申正月十一日に書を父適斎に寄せて、 嵯峨の梅陽軒より京都市中に移るべきを告げ、十二日 に又書を寄せて市中に移るに先だつて的矢に帰省すべ きを報じた。既にして二十六日に至り、霞亭は書を門 生梅谷某の父に与へ、これに託して的矢に帰寧せざる ことを言はしめた。  「当月廿二日山田迄急飛脚書状差出し、且郷里への 書状等貴館迄差出し候。相達候哉。其書中山田並に郷 里へも少々用事有之、立かへり(に)参り可申、申上候 処、此節宇仁館氏浪華へ被罷出候処、態々西峨へ山田 社友より使者に被相立候而御出被下、かね而申上候通、 先に居宅京都に而かり受可申、去冬より心かけ候処、 左まで思わしき事も無之、幸柳馬場蛸薬師下る処にか つこうなる家有之、家賃等二分余もかかり候而すこし 高価にも被存候へども、甚静かなる家居故、先にかり 受中候。来三日移居いたし候積りにて急に相計申候。 尤小生嵯峨本意之事故、やはり任有亭の(「の」は「を」 の誤か)本居といたし置、京都は立敬並に御子息、外 に山田より一人、当地に而一人、以上四人の居住と相 定め、小生折ふしは嵯峨へも参り可申、畢寛京都は旅 宿と相定め可申候。其方万事、事すくなく侯而よろし く候故、右相計可申候。左様思召可被下候。然る処此 間一寸立かへり(に)参り可申、郷里へ申遣候間、是は 先々当分相やめ可申候間、かの書状的屋へ未御出し不 被下候は寸、其儘御返却奉希候。もし未御遣し不被下 候はじ、何卒此書状御一覧之上此儘的屋へ御遣し被下 候様被仰遣可被下候。別段書状相認可申候処、明朝発 足の人急帰故不得其意候。いづれ跡より委曲可申遣候 間、くるかとぞんじ候て相待候も心がかりに候間、右 之段被仰聞可被下候。くれにかゝり書状相認、甚乱書 御免可被下候。いづれくわしくは奉期後便候。乍去先 に京都卜居いたし候義今暫御触被下間じく御内々奉頼 候。幻々以上。尚々郷里へは此書状直に御封じ被下御 遣可被下候。跡より別書くわしく差出可申候。」宛名 は「梅谷上羽様文案」と記してある。「羽」字は不明 ながら姑く形似を以て写し出すこととする。  わたくしは先づこれを読んで霞亭の帰郷を罷めたの を怪んだ。遽に思ひ立つた帰郷の何故に罷められたか を怪んだ。しかし前に帰郷を報じた書は、此文に拠れ ぱ十二日にあらずして二十二日に発せられたるが如く である。わたくしは前書を誤読せしかと疑つて再検し た。原字はすなほに読めば明に「十」である。「廿」の 艸体として視むことは頗難い。或は猶著意して強ひ て此の如くに視るべきであらうか。わたくしは第く疑 を存して置く。  それはとまれかくまれ、霞亭が初に入市を言ひ、中 ころ入市に先だつて帰郷すべきを言ひ、最後に帰郷せ ずして入市すべきを言つたことは明白である。そして わたくしは今その逓次に意を齢した一々の動機を知る ことを得ない。的矢書順中壬申正月の三書は到底奇怪 の書たることを免れない。  わたくしは尚此に書中に見えた入市の期を一顧して 置きたい。霞亭は二月三日を期して京都市中に移らう としてゐたのである。 その五十四  霞亭が文化壬申二月を期して京都市中に移らうとし たことは上に云つた。即ち嵯峨生活の第三期に入らう としてゐるのである。しかし果して期の如く移つたか 否かは未詳である。  嵯峨樵歌の巻末に歳寒堂の事が言つてある。「今舷 壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已為一年之寄 客、山縁水契固不浅。将辞也。猶爾聰恋故山不忍去。 乃欲移松梅竹。吟楊相対。游焉息焉。柳慰其情。三種 皆名干地産也。三秀宣上人聞而嘉之。特贈亀山松堰汀 梅峨野竹。各附一絶リ適院屏有売茶翁松梅竹三字。併 見恵寄。(中略。)昔元張伯淳呼松梅竹為三友。明人又 有歳寒之称。予既栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。遂命 日歳寒堂。」  仮に霞亭が二月に市中に入つたとすると、わたくし は其市中の家を知らぬが、此の不知の家は歳寒堂では なささうである。  的矢書順中に四月廿四日に霞亭が父に寄せた書があ つて、それが京都木屋町三条上る処の家に移る前日に 裁せられたものである。木屋町の家は帰省詩嚢に所謂 錯薪里の家である。霞亭は弟碧山と此書に連署してゐ る。そして惜むらくは書の中間幾行かが断れて亡はれ てゐる。  「幸木屋町三条上る処相応の家有之、是は表にても しづかなる処にて格好もよろしく、尤家賃は一月四十 四匁宛、一年七両内外に御坐候而、只今の処より高価 に候故、太儀に被存候得共、直様世話なしにはいられ 候故、先々それに決し候、明廿五日転居仕候。此段左 様思召可被下候。木屋町は御案内の通東よりにてすこ し町とは違ひ候故如何とも存候へども、諸方の通行に は甚勝手よろしく候。三条上ると申ても、先々二条三 条の間にて、町にては御地あたりにあたり、高瀬川と 鴨川の間に有之候に御坐候。家主は大坂鴻の池の持に 候。座敷六丈敷、台所五丈半板敷、次の間四丈半、玄 関三丈じき、以上四間に御座候。ながしも内井戸、甚 よろしくひろく候。座敷庭もすこし有之候。」  所謂「只今の処」は、事情より推しても語脈より推 しても、梅陽軒ではなささうである。霞亭は恐くは二 月に市中に入つて、所謂只今の処に住み、更に木屋町 に移らうとしてゐるのであらう。  此書に云ふ移転は期の如くにせられたことが明かで ある。それは後の書憤に由つて証せられてゐる。そし てわたくしは此木屋町の家を以て歳寒堂だとする。霞 亭に松梅竹を贈つた三秀院の僧月江は、嵯峨樵歌の後 に書して「賢父母在堂、君因其命、今教授於京師」と 云つてゐる。此践は七月に草したもので、文中の教授 の所は歳寒堂であるらしく、当時の霞亭の家は木屋町 にあつたのである。  霞亭は正月の書に、嵯峨を本居として市中の家に往 来しようと云つてゐた。其家は歳寒堂でなく、後木屋 町に移るに及んで、嵯峨の家を撤したことであらう。 松梅竹は嵯峨の家を撤した後に、木屋町の家に褻ゑら れたことであらう。  木屋町に移る前日に作られた此書には猶二三の記す べき事がある。それは次の如くである。 その五十五  文化壬申四月二十四日に霞亭碧山兄弟が父適斎に寄 せた書は、独り次日に移り住むべき京都市中の新居を 報じてゐるのみでなく、又こんな事を載せてゐる。  其一は河崎敬軒が当時京都に滝留してゐたことであ る。「裏松殿御亮去に付、河崎良佐君此節御入京、大 方当月中は滞留被致候。山田のやうすくわしく承り候。 右之御供など参り居、明日転宅はこびもの等人やとひ なしに出来悦申候。」敬軒の滝京は裏松前中納言謙光 の喪のためであつた。霞亭は次日木屋町に移らむがた めに物を搬送せしめ、敬軒の従者等がこれを手伝つた。  其二は梅谷某の手より本屋勘兵衛と云ふものに由つ て霞亭に送致した物が濡滞したことである。原文は省 く。本屋は飛脚屋である。  霞亭の木屋町に移ることは、期の如くに行はれたに 違なからう。前日に什具等が昇送せられたことも亦こ れが証に充つべきである。  四月には猶菅茶山が霞亭の嵯峨樵歌に序した。茶山 は霞亭の詩を以て「力写実境、而不逐時尚」となし、 望を前途に属したのである。末に「文化壬申孟夏、備 後菅晋帥撰」と署してある。霞亭が菅氏の通家を識れ る某に托して閲を茶山に請ひ、茶山が僧道光に由つて 此序を霞亭に致したことは後に記すであらう。  五月二十三日に霞亭は書を父に寄せた。此書には弟 碧山は名を署してゐない。亦的矢書順の一である。  わたくしは先づ木屋町新居に関する事どもを其中よ り抄出しようとおもふ。「先月末頃山田尼辻たばこや 弥兵衛殿迄書状一通御頼申候。定而相達し可申奉存候。 其節申上候通、四月末より木屋町三条上る二丁目に居 住仕候。」姻草屋弥兵衛に託せられた書は即上の四月 廿四日の書である。移居の事は既に果されてゐる, 「木屋町三条上る」の下に今「二丁目」の三字が添へ 出された。束順に何丁目何番地なることを報ずるは、 今も多く移前に於てせられずして移後に於てせられる。 「下地よりはひろく候故、涼敷候而よろしく候。」下 地よりは方言で、前よりと云ふと同じである。  次に通信の中継の事を抄する。「此後書状便荷物等 は山田妙見町相可屋善右衛門殿方迄さし出し置申候間、 其御地八百屋にても又は御家来にても御立寄らせ可被 下候。是は小生方へ参り被居候門生弥六宅に御坐候間、 万事序有之候。相可屋は野間因播のむかひに候。」相 可に「あふか」と傍訓してある。門生永井氏相可屋弥 六の名が偶此に録せられた。  偶一門生の名が出でたから、わたくしは他の門生の 事を次に抄する。「高階主計之允殿御子息もひるの聞 塾中に参り読書等いたし候。浅井周助子は此節無拠暫 く帰郷いたされ候。」主計之允は文化の平安人物志に 拠れば、名は経宣、字は子順、枳園と号し、家は「両 替町御池北」にあつた。高階経本さんに質すに、経宣 は青蓮院の坊官鳥居小路経元の子で、始て高階氏と称 し、医を業とした。家譜には字が子春に作つてある。 一に東逸とも称した。経本さんの曾祖父である。浅井 周助は後の書信に徴するに、伊勢山田の人である。十 助毅との同異は猶考ふべきである。  此書の中抄すべきものは未だ娼きない。尚下に続抄 するであらう。 その五十六  文化壬申五月二十三日に霞亭が父適斎に寄せた書に は次に弟碧山の近状が載せてある。「立敬も吉益へ毎 朝かよひ候。夜分は小生友人百百内蔵太子方へ先々月 入門いたさせ、医書会読に遣し申候。時々療治代診等 にもつれられ候。随分堅固に相務居申候。」百々内蔵 太、名は俊徳、字は克明、漢陰と号した。文化の平安 人物志に拠るに、「西洞院竹屋町北」に住んでゐた。 碧山は昼吉益南涯の講鑓に列り、夜漢陰の許に往つて 教を受けてゐた。その漢陰に従遊してゐたのは三月以 後の事である。  次に書中に見えてゐるのは碧山の直次の弟良助の事 である。「良助儀河崎良佐君へ先達而御相談申候処、 先々此方へ被遣置可被成候、随分と御世話申候而、素 読等いたさせ可申、山口東などへも始終往来、彼家御 子息と一しよに読書詩作等いたさせ申候而可然などゝ、 御心切に被申聞候。如何思召候哉、御相談申上候。乍 去いづれ小生も七月中には御見舞勇々帰国可仕候間、 くわしく其節御面上御相談可申上候。尚又御思慮も候 はマ被仰聞可被下候。」河崎敬軒は良助を伊勢山田の 家に迎へ取つて、山口凹巷、東夢亭の家に往来せしめ、 子弟と同じく教へようと云つてゐたのである。  次に嵯峨樵歌の事が書に見えてゐる。「嵯峨樵歌も 此節専ら板木にかかり居申候。六月中には出来上り可 申侯。」霞亭は刻成を六月に期してゐた。  次は霞亭が父に双林寺物語を贈つた事である。「蝶 夢和尚双林寺物語、近頃上木に相成申候。甚おもしろ き物にて評判ものに候。一部進上仕候。御慰に御覧可 被下候。」蝶夢は又幻阿、泊庵、五升庵とも称し、寺 町今出川北阿弥陀寺の子院に住してゐた。人名辞書に 俳林小伝を引いて「寛政四年十二月廿四日残す、年六 十四」と云つてある。平安名家墓所一覧には「寛政八 年」に作つてあつて、月日と年齢とは同じである。墓 は阿弥陀寺にあるさうである。双林寺物語は国書解題 に見えない。残後二十年若くは十六年にして刊行せら れたものと見える。按ずるに霞亭の友柏原瓦全が五升 庵と称するは蝶夢の庵号を襲いだもので、双林寺物語 は瓦全の校を経たことであらう。  最後に伊勢の梅谷氏より来るべくして来らなかつた 物件の始末が書中に見えてゐる。物件は金二両と渋紙 包一つとで、適斎が梅谷氏に託して送つたものであつ たらしい。然るに梅谷氏はこれを本業の飛脚屋に交付 せずして、所謂町飛脚に交付し、金品は町飛脚の所に 濡滞してゐた。霞亭は河崎敬軒をして増川本屋の両飛 脚屋を捜索せしめ、両飛脚屋は町飛脚を糾問し、金品 を発見した。そして五月十七日に金品が京都の伊勢喜 に達した。「乍去梅谷氏へはやはり何がなしに落手い たし候やうに可申遣候。無左候而は彼家の無世話に相 なり風評も不可然候間、先々此方へ落手いたし候へば 子細無之事に候間、ちよつとも左様の御噂被遊被下間 敷候。」わたくしは当時逓伝の実況を徴知すべきと、 霞亭が寛弘の量を見るべきとのために、煩を厭はずし てこれを抄した。  六月十四日に霞亭が父に寄せた書は、恐くは直に前 書に接するものであらう。「伯書大山の香茸少々、土 佐の畔烏二羽、仙台のほや二、長崎野母崎のからすみ 一つ」に添へた書である。大山は所謂伯書富士である。 畔鳥は何鳥なるを知らない。石勃卒、輌哺は註するこ とを須ゐない。書は的矢書順の一で、その言ふ所は下 に抄するが如くである。 その五十七  霞亭が父適斎に寄せた文化壬申六月十四日の書には 先づ祇園祭の事が言つてある。「当地此節は祇園祭に 而騒々敷罷過候。」日次紀事に拠るに、十四日は朝卯. 刻より山渡があり、昼午刻許より神輿が出るのである。 山は即山車、江戸に謂ふ「だし」である。  次に弟良助を託すべき家の事が言つてある。「良助 義河崎か宇仁館の方へ遣し可申やう先達而被申越候。 此度も申来候。別段御状懸御目候。いづれ其方可然奉 存候。御両所様御相談被遊置可被下候。いづれ私義盆 後御見舞労一寸参上仕度奉存候。其節万事可得尊意候。 しかし拙者一寸帰省いたし候事は先々他人へは御暉被 下間敷候。」  次に門人浅井周助が帰塾した。「浅井周助先月むか ひ参り、一寸帰郷いたし、二三日前帰京仕候。山田内 宮辺噂承知仕候。」  次に山口凹巷が男子を挙げた。「山口君又々当月男 子出生有之候よし承知仕候。」凹巷の子は墓誌に拠る に、嫡出が観平、群平の二人、庶出が興平、梅児の二 人で、梅児は天したさうである。月瀬梅花帖にも、「男 観、男群、男興」の三人が署名してゐる。壬申に生れ たのは何れの子歎。「又々」と云ふより見れば、その観 平にあらざることは明である。恐くは群平であらう歎。 以上記し畢つてわたくしは観平の文化丙子七歳であつ た証を得た。然れば此歳壬申には観平三歳で、新に生 れた子は群平なること疑を容れない。  次に菅茶山撰嵯峨樵歌の序が到著した。「嵯峨樵歌 も近々出来上り申候。大方来月(七月)初旬迄には仕立 候積りに御座候。此節雲州の道光上人御上京兼而頼遣 置候備後福山神辺の老儒菅太仲先生の序文出来参り申 候。御聞及も有之候哉、この太仲と被申侯人は那波魯 堂先生(原註、播州の人、宝暦の頃の大儒、京住)門人 に而当時は三都にも肩をならべ候人なき程の詩人にて 候。尤甚名高き人に御坐候。樵歌序文甚おもしろく出 来参り辱奉存候。右の道光上人と申は法華の高徳に而、 詩も余程出来候人に候。これも菅太仲など懇意の人に 候。世間に而甚人の信用いたし候僧に御坐候。」僧日 謙が霞亭のために樵歌の序を霞亭に致したことは此に 由つて知られる。日謙、俗姓は日野氏、大坂の人であ るが、出雲平田の報恩寺の住職であつたので、「雲州 の道光上人」と云はれてゐる。  次に紅葉詩藁が刊行せられたので父に報じた。「山 口君御計に而青山文亮、大家東平、孫福内蔵介、立敬 など林崎に罷在候節、紅葉詩藁、外之少年のはげみに もと被存一冊小さき詩集此節板刻きれゐに出来申候。 漸々此度一冊参り候。追而入御覧可申候。いづれ若き 人の解怠の出来不申候やうとの思召、辱義と奉存候。 一寸御風聴申上候。」東夢亭の通称文亮なることが始 て此に見えてゐる。山田橋村氏の報に拠るに、夢亭は 本青山泰亮の子である。東恒軒の残した時、山口凹巷 は門人青山文亮を以て己が猶子たらしめ、これをして 恒軒の家を嗣がしめた。夢亭の旧宅は山田に繊存し、 其喬は大正五年法学士となり、現に神戸市鈴木商店主 管の一人となつてゐると云ふ。紅葉詩藁は碧山の詩を 載せてゐるので、霞亭は父に報じて喜ぱせようとした。 しかし父の或は名を求むるに急なるを責めむことを恐 れたものと見え、霞亭は反覆して此刻の奨励のためな ることを説いてゐる。  次に霞亭は室町辺住某の束を雑賀屋へ介致した。雑 賀屋は嘗て大燈書幅の装演を京匠に託したことのある 志摩の商質である。原文は略する。 その五十八  文化壬申秋の間は霞亭の消息の徴すべきものが甚 乏い。しかし霞亭は秋より初冬上旬に至る間に家を移 した。木屋町より鍋屋町に徒つたのである。事は下に 引くべき書順に見えてゐる。又嵯峨樵歌は秋の初に刻 成せられた。刻本の末に「文化壬申年七月、京都書林 梶川七郎兵衛」と記してある。樵歌には曾て云つた如 く、僧月江の践があるが、是は刻成の期に迫つて草せ られたものと見え、「文化壬申秋七月、嵯峨釈承宣撰」 と署してある。  十月十日に至つて霞亭の父適斎に寄せた書がある。 亦的矢書順の一である。  此書中先づわたくしの目を惹いたのは移居の事であ る。「先日伊勢喜便に書上呈上仕候。相達候哉。其節 申上候通、此節は鍋屋町(京都河原町三条上る鍋屋町 南側中程)に罷在候。至極物静かに候而、別而住居安 穏に候。別段に三丈の居間有之候故、終日其中に聞坐 読書仕候。何卒此冬も得といたし候成功有之たく願望 仕候。」  霞亭は自ら三冬読書の計を定めて、さて都下の学 風を一顧した。「只今京都の儒生一統軽薄風流、さも なきは見せかけを重んじ候人計、甚悲しむべき可恥事 と被存候。」  嵯峨樵歌刻費の事が此書にある。「山田社中並に宇 治佐藤守屋有志中一般より金三両嵯峨樵歌の祝賀に被 下侯。移居費用並に樵歌刻料それに而相済申候。全体 関東に金主御座候積りに申置候処、其人申分すこし小 生心に叶不申候故相断遣し、其後無何沙汰候。夫故右 刻料仕立等四百目許小生物入に相成居申候処半分のこ り有之候処、右に而相済安心仕候。未越後其外関東辺 へは便無之下し不申候。夫々相遣し候はじ後々相応に 取分可有之候。」守屋氏は未だ考へない。  樵歌は公卿の読むことを求めたものがあつた。「此 間日野殿より御所望有之一部遣申候。百々取次に而小 生詩歌関白家へ上り候よし承り候。実は何も役に立た ざる義に候へども、又しる人はしる事も可有之候。自 愛仕候事に候。もとより詩文は小生の本志には無之、 これは只慰仕業と存候。右等内情申上候得共、一切外 人へ御噂被仰下間敷候。」日野は参議資愛である。関 白は鷹司政熈である。樵歌を鷹司家に呈したのは百々 漢陰であつた。霞亭が詩文は本領にあらずと云ふ意は、 経術を以て自ら任じたのである。樵歌の巻末にも「天 放子聖学管窺二巻」の預告が出してある。  碧山は旧に依つて兄霞亭の監督の下に勉学してゐた。 「立敬も此節は甚出精いたし候。当年限に被遊候哉、 又は来年半年も御差置被遊候哉、御回音之節被仰聞可 被下候。来春よりは眼科外科等も一通心懸いたし候様 入門為致可申や、此段も奉伺候。費用の義は当暮より 来七月帰郷可仕候まで、もはや四両ばかりも御遣し被 下侯はじ、夫にて一切相済可申候。いづれ此義は母様 御相談之上得と被仰聞可被下奉願候。」  霞亭の此書には猶高階枳園の父、僧丹崖、柏原瓦全 の事が見えてゐる。又小沢藍庵が家集の事も書中に出 でてゐる。わたくしは下にこれを抄せようとおもふ。 その五十九  文化壬申十月十日に霞亭の父適斎に寄せた書には洛 医高階枳園の家の消息が見えてゐる。「高階老人も夏 以来病気とくと無之、木屋町に而は介抱行届かね候よ しに而、先日本宅へ被帰申候。此頃は少々快き方の由、 当主計允右老人の七十賀いたし候とて、富豪の事故、 結構なる座敷など追々造作有之候。今二午の事に候。 乍去無覚束候。」枳園の父経元、字は士春は壬申十一 月六日に残したさうである。即ち此書の作られた後二 十六日の事である。家伝には享年六十三歳と云つてあ る。しかし此書に従へば六十八歳でなくてはならない。 猶考ふべきである。  次に僧丹崖の事がある。「寿寧丹崖長老も当春天竜 寺方丈に被命候処、これも八月中遷化、しかたも無之 物に候。」  次に柏原瓦全の事が見えてゐる。「此六日(十月六 日)通天の楓見にむりくとさそわれ参り申候。酒な どのみ候中、瓦全子の前歯落候を何敷といひはやし候 内、ふと小生詩をつくり候。六十八年汝共齢。万千吟 酌飽曾経。可憐辞謝得其処。巧学秋林一葉零。と申候 へば翁甚悦申候而、其歯をすぐに東福寺の紅葉の下に 埋むとて翁も発句有之候。霜の紅葉老がおちばもけふ こゝに。とやられ申候。元来瓦全前方の句に。鹿鳴て ながめられけり夜の山。と申句一生の秀逸とて甚評判 高く、世上にて夜の山の瓦全と呼候位の事のよし。学 問は無之候得共、常の俳譜師と相違、甚物がたく正し き男に候。先日も寺町妙満寺へ仏参いたし候処、さい ふを拾ひ候てこれを其儘かき付いたし候て、当人に渡 したきとて甚わび候。今に其人尋来り不申候由。其節 も小生よぱれ参り居合、席上詩をつくり候。拾金帰主 不為恩。此事於翁何足言。好是柏家無価宝。素行清白 付児孫。柏家はかの人柏原氏に候故に候。」以て瓦全 の小伝に充つべきである。河崎誠宇の受業録に霞亭の 「瓦全真影讃」がある。「尾眉雪白聾吟肩。箇是夜山 柏瓦全。三句社中遺一老。洛陽風月托清権。」平安人 物志に拠るに、瓦全、名は員伍、字は子由、橘姓であ る。  最後に小沢藍庵家集の事を抄する。「小沢藍庵の歌 集黙軒捧流などの世話に而六冊出来申候。歌は近来の 上手に候。先日借覧いたし候。その中に岡崎の庵にあ りし頃ある人の銭三文かしくれとてこひけるに、くま もなくもとめ侍りけれど露あらざりけるけしきをみて、 外にてもかりてんとて出ぬ、いとほいなければと詞書 ありて。津の国の難波のみつのあしをなみこと浦かけ てからせつるかな。甚おもしろく巧なる手段に候。三 津は難波の地名、三文にかけ、あしは藍にて銭のあし にかけ、なみは波に而無といふにかけ、こと浦は外の 所へゆきし也、からせは苅を借の義にかけ候ものと相 見え申候。」黙軒は前波氏、薄流は小川布淑である。  藍庵の歌集六冊は近代名家著述目録の「六帖詠藻 六」である。古学小伝には「六帖詠草七巻」と云つて ある。わたくしは共書を蔵せぬ故、竹柏園主に乞うて 其蔵本を検してもらつた。刻本の題策は「六帖詠草」 に作つてある。本古今六帖にならつて六巻としたもの であるが、雑を上下に分つたため、七冊となつてゐる。 末に「文化八辛未歳晩春、二条通富小路東へ入町、京 師書林吉田四郎右衛門梓行」と云つてある。藍庵の残 年享和元年より算して十年の後綾に刻せられたのであ る。諸書の載する所に別に「藍庵集」があるが巻数を 記さない。独り国書解題は「写本十五巻、春一二三四 五、夏上中下、秋一二三四五、冬上下」と記してゐる。 猶考ふべきである。  的矢の漁の事は霞亭の書順に数見えてゐるが、此 書にはかう云つてある。「今年は鰐魚よくとれ候哉。 あじなどの時節を憶ひ出し候。乍去必々御労煩、飛脚 賃費かかり候間、御上せは御無用に奉存候。」尊櫨の 情懐想ふべきである。又霞亭は此書と共に富士海苔を 故郷に送つた。「富士海苔少々もらひ候まま懸御目候。 此方にても甚すくなく、売買には無之候。いづれ御吸 物に被遊可然候。香気よろしく候。」  十月十五日に霞亭は書を茶山に寄せた。書は漢文で、 末に「十月之望、晩生北条譲頓首百拝、奉茶山菅先生 文壇下」と云つてある。茶山の嵯峨樵歌に序したのを 謝したものである。霞亭が庚午の歳に備後に往つたと しても、その茶山を見なかつたことは此に徴して知る ぺきである。此書は今高橋氏の蔵する所で、他日浜野 氏が歳寒堂遺稿を刊するに至らば、そのこれを補入す べきは疑を容れない。 その六十  文化壬申の歳暮に霞亭は小旅行をなしたらしい。的 矢書順中に「十二月六日、譲四郎、浅井周助様、永井 弥六、北条立敬様各位」と署した一通がある。弟碧山 と浅井永井の二生とに留守せしめて霞亭が家を出でた とすると、其家は鍋屋町の私塾にして其歳暮は壬申の 歳ならざることを得ない。「飛脚便一筆啓上仕候。愈 御安佳珍重に候。然者昨日乗興候而石山小楼一宿仕候。 然る処道人相送申度義有之、夫に故郷に少女相含み候 用事も有之候故、直様同道南帰仕候。尤立帰りに候間、 中旬頃迄に帰京可仕候。其内十三日旧津に而河敬軒東 行饅送仕候やと奉存候。左候へば十六日には入京可仕 候。此度は外人被尋候はじ道人送行いたし、一寸故郷 へ帰省いたし候と被申候而よろしく、暫時留主中折角 御看護頼入候。永井子別而病後御互に御いたわり候様 奉存候。留主中読書作詩不怠候やう第一御用心可被成 候。几上に宇仁館へ遣し候書状、賃銭相添大阪飛脚へ 御出し可被下候。玄安翁より御左右有之候はじ急々飛 脚被仰可被下候。書外拝顔可申上候。今晩石部宿に候。 草津駅亭に而相認候。勿々頓首。」若し霞亭にして此 旅程を改めなかつたとすると、其日次は凡下の如く であらう。  霞亭は十二月五日石山に、六日草津にゐて、其夜石 部に舎らうとしてゐた。十三日に河崎敬軒と津に相会 し、十六日に京都に還る筈であつた。又其問に一旦帰 省しようとしてゐた。霞亭の弟、其二門生よりして外、 書は宇仁館、玄安の事をも載せてゐる。宇仁館雨航は 猶大阪にゐた。  是年霞亭は三十三歳であつた。  文化十年は霞亭が年を鍋屋町に迎へた。歳寒堂遺稿 に「金局巷僑居元日」の七絶がある。「朝市山林事自 分。茅堂婁起看春雲。庭中手掃前宵雪。先賀平安向竹 君。」是は木屋町より再び移し栽ゑた「峨野竹」では なからうか。此年は霞亭が備後に遊ぶべき年である。 山陽は単に「歳癸酉遊備後」と書してゐる。此一年間 の霞亭の事蹟はわたくしをして頗筆を著くるに苦ま しめる。それは的矢書憤に明確に癸酉に作られたと認 むべき霞亭の束順が極て少い故である。  わたくしは霞亭の菅茶山を黄葉夕陽村舎に訪うた月 日を知らない。唯福山諸友の手より得た行状一本に 「文化十年三月菅茶山先生を訪ふ」の文を見るのみで ある。果して然らば往訪の月は三月であつたか。  是より先霞亭は庚午の歳に伊勢より江戸に往くに当 つて、備後を過つたかとおもはれる。しかし菅氏をば 訪はなかつた。次で壬申の歳に霞亭は人を介して、嵯 峨樵歌の序を茶山に請ひ、これを得た。霞亭の茶山を 見むことを欲したことは既に久しかつたであらう。そ して此望が癸酉に遂げられたことは明である。その癸 酉三月なりしや否は稽疑はしい。  癸酉の歳に霞亭は備後に往くに先つて、一たび故郷 に帰り、尋で又吉野に遊んだらしい。高橋洗蔵さんの 所蔵僧承芸の詩幅に「奉送霞亭先生還郷」の五古があ る。「任有亭」「白梅陽」の二寓を叙した末にかう云つ てゐる。「近来在城市。城市声名揚。綾未経一歳。又 将帰故郷。二月漸催暖。別離樫抱傷。従今無人問。空 掩竹間房。行台大天放子。春風道路長。」承芸は月江承 宣の徒弟である、所謂城市の居は木屋町、鍋屋町の家 であらう。霞亭は二月に京都を去つて的矢に帰らうと したのである。次にわたくしは嘗て山口凹巷の芳野游 藁に拠つて霞亭の吉野の遊を叙したことがある。今記 憶を新にせむがために、其月日を此に抄出する。  二月二十日に霞亭は関宿に往つて凹巷の至るを侯つ た。  二十四日に凹巷は河崎敬軒、佐藤子文と共に来り会 し、次で山内子亨が至つた。山内の氏と字とは三村氏 蔵夢亭詩抄に拠つて改めた。  三月三日に一行は吉野に至つた。  七日に霞亭は六田を発し、伊勢の諸友と別れて京都 に還つた。  以上が芳野游稿の日程である。若し霞亭が三月中に 備後に往つて茶山を見たとすると、是は必ず六日より 後の事でなくてはならない。霞亭は吉野より京都鍋屋 町の居に帰つて、未だ幾ならぬに備後へ立つたことで あらう。 その六十一  霞亭は文化癸酉に初て菅茶山を見た。それが癸酉三 月であつたと行状の一本に云つてある。しかしわたく しはその拠る所を知らない。  霞亭が初て茶山を見た時の事は伝へられてゐない。 惟行状の彼一本にかう云つてある。「文化十年先生西 遊せむと欲し、神辺に至る。七日市北側今の油屋前原 熊太郎の屋に当る大なる旅館あり。この旅館に投宿す。 廉塾の諸生来り、経史詩書中の難義を質問し、先生を 辱めむとす。先生答辮明確、循々然として説明す。諸 生赤面して帰り、茶山先生に告ぐ。先生曰く。これ予 て待つ所の人なり。宣汝輩の類ならむや。直に往て先 生を伴ひ帰りしと云ふ。」  若し此説を是なりとすると、霞亭は「西遊せむと欲 し、神辺に至」つたのだと云ふ。西遊とは何処をさし て往かうとしたもの歎、考ふることが出来ない。下に 引く藍舟の記には、茶山を訪ふ詩の前に「三月夜、舟 発浪華、至兵庫」の詩がある。わたくしは此に拠つて 霞亭が三月某日大阪兵庫を経て西したことを推知する のみである。  霞亭が神辺に来て七日市に投宿したのは事実であら う。その宿つた所の家の故祉が口碑に存じてゐて、此 状に上つたことを、わたくしは喜ぶ。  しかしわたくしの付度する所に従へば、霞亭は神辺 に来て直に茶山を訪うた筈である。何故と云ふに、霞 亭は人を介して嵯峨樵歌の序を茶山に請ひ、これを得 て深く茶山を徳とした。今神辺に来た上は、縦ひ先づ 行李を七日市の客舎に卸したのは已むことを得ぬとし ても、又廉塾の諸生が遽に至つて其論戦に応ぜざるこ とを得なかつたとしても、霞亭が茶山の親しく来り迎 ふるを待つたのは怪むべきである。  霞亭の初て茶山を訪うたのが三月だと云ふことには 確拠が無いと、わたくしは云つた。しかし間接にその 三月なるべきを想はしむる証が無いことも無い。それ は霞亭が茶山の家に於て頼春水に再会した事である。 春水霞亭の曾て江戸に於て相識つてゐたことは上に記 した。  遺稿に「訪茶山先生干夕陽村舎、選遁藝藩春水先生、 賦呈二先生」の詩がある。「平生夢繍在豪雄。一世竜 門見二公。元自大名垂宇宙。真当談笑却熊熊。辛夷花 白春園雨。黄鳥声香晩鳩風。安得佳隣移宅去。追随吟 杖此山中。」辛夷は春の末に花を開く。しかし遺稿は 必ずしも厳に編年の体例を守つてはをらぬ故、詩の何 れの時に成つたかを徴するには足らない。  春水遺稿を閲するに、癸酉の部首に「告暇浴有馬温 泉、経京阪而帰」と註してあり、妙正寺の詩の下に 「以下十二首係東遊作」と註してあつて、其第十二首 は「次韻菅茶山」の詩である。「出閻廿里送吾行。聯 載藍輿伊軋声。楊柳渡頭分挟去。白頭相顧若為情。」 知るべし、春水は癸酉に茶山を訪ひ、その去るに当つ て、茶山は神辺より送つて二十里の遠きに至つたこと を。茶山集後編癸酉の春には春水に訪はれた詩は見え ない。  幸に春水の此訪問が癸酉四月前で、此訪問の際に霞 亭が春水を見たことを徴すべき書憤がある。それは的 矢書順中にある柏原瓦全の霞亭に与へた書である。書 は五月二十日に京都に於て裁し、的矢に帰省してゐる 霞亭に寄せたものである。「備後菅氏に而頼老仙に御 出会被成候よし、御本懐、此老仙四月六日頃京著、若 槻氏へ入来、同十日再浪華へ下向、有馬へ入湯のよし 噂承候。」若槻氏は聖護院村の若槻寛堂の家である。 名は敬、字は子寅、通称は幾斎である。春水は神辺を 去つて、四月六日に京都に著いた。その神辺にあつた のは三月であつたらしい。 その六十二  わたくしは霞亭の初て菅茶山を見た時を推して、姑 く文化癸酉三月であつたとする。その頼春水と茶山の 家に相見たのは、必ず初対面の席に於てしたとは云ひ 難いが、霞亭が始て神辺に往つた時に春水が有馬に浴 する途次来合せたことは明である。  さて霞亭は茶山を見た後いかにしたか。わたくしは その神辺に滝留しなかつたことを知つてゐる。浜野氏 は嘗てわたくしに書を与へて、茶山集に就いて霞亭の 直に神辺を去つたことを証した。それは「子晦(藤井 暮庵)宅同頼千秋北条景陽劉大基赤松需道光師賦」の 詩中「斯時誰厭酔、明日各雲程」の句である。霞亭は 去つた。そして四月十日には郷里的矢に帰つてゐた。  既に引いた癸酉五月二十日の柏原瓦全の書順にかう 云つてある。「先月(四月)十日之貴墳無滞相届恭拝諦、 先以御清寧御帰国之趣承知安堵仕候。此節ははや宮川 辺に移居被成候か、委曲承度奉存候。」京都の瓦全が 霞亭の四月十日に的矢にあつて裁した書憤を得たので ある。  此文中「此節ははや宮川辺に移居被成候か」の句は、 霞亭の的矢より何処に往かむとしてゐたかを示すもの である。瓦全は霞亭の四月十日の書に云つた所より推 して、その既に宮川辺に移つたことを想つた。  霞亭は実に的矢に帰つてより幾もあらぬに伊勢に居 をトした。其家は即歳寒堂遺稿に所謂夕罪亭である。 「夕葬亭即事。手中書巻掩昏眸。一枕清風夢転幽。伊 軋時疑門有客。数声柔櫓下前流。」前流の宮川なるこ とは復疑を容れない。  霞亭が故郷より夕罪亭に徒つたのは、恐くは四月十 日の直後であらう。何故と云ふに、霞亭は同じ日に書 を廉塾の諸友に致して、本宅は的矢、居住は山田附近 だと云つてゐる。浜野氏の写して示した一書はかうで ある。「口上。先生家より御投毫被下置候はじ、左之 通名前にて御差下し可被下奉頼候。早速相達し被下度、 尚又先生家へ差上候書状等、便宜いづかたへむけ差上 候而よろしく候哉、何卒御序に御しるし被遣被下候や う、乍御面働奉頼候。以上。四月十日。北条譲四郎。 黄葉夕陽村舎御塾中御取次。京都麩屋町六角下る、伊 勢屋喜助。右之処書に被成下度候。山田へ直様御遣し 被下度候へぱ、勢州山田上之久保、山口角大夫方迄御 名宛可被下候。小生本宅は的屋と申処に而、磯部の辺 に御座候。小生居住は山田には候得共、山居に而市中 より少々隔絶仕候故、不便理に御座候故に御座候。」  霞亭は同じ日に書を京都の五升庵と備後の廉塾とに 遣り、彼には「宮川辺」と云ひ、此には「山田には候 得共山居に而市中より少々隔絶仕候」と云つた。その 斥す所は均しく是れ夕罪亭であらう。  書を廉塾に遣つたのは、茶山との通信の便を謀つた のである。茶山は書を京都の伊勢喜に送るか、又は山 田上の久保町の山口凹巷に送つて、霞亭に伝致せしむ るが好いと云つたのである。  霞亭は瓦全に将に移らむとするものの如くに言ひ遣 り、茶山門人に既に移つたものの如くに言ひ遣つた。 後者は文字の繁冗を避けたものである。それ故わたく しは霞亭の夕罪亭に徒つた期日を四月十日の直後とす る。 その六十三  わたくしは的矢書腰中に分明に文化癸酉に裁せられ た霞亭の書が少いと云つた。霞亭の書は少い。しかし 上に引いた柏原瓦全の書の如く前後の事跡を徴すべき ものは有る。又「癸酉仲夏六日、同陪霞亭先生、従夕 露亭、遊干宮水、分余酎漱晩汀句、得汀字、伏乞郵正、 孫公裕拝藁」と署した詩箋がある。此詩に「高人棲息 地、山水抱孤亭」の句がある。癸酉五月六日に霞亭が 夕罪亭に住んでゐたことは明である。  此よりわたくしは五月二十日瓦全の書中より録存に 値する数件を拾はうとおもふ。先づ瓦全自己の近況が ある。「扱貴君(霞亭)御帰省後、弥生中比より老病差 起り、干今碇と不致全快、欝々と日を消し候。尤高階 診察投剤、浅井にも御世話に相成候。老境無拠事に候 か。されど嵐山へは浅井と罷こし、月江和尚と対酌し て佳興難申候。咋十九日北谷を訪ひ、御噂申出候。数 々及閑談帰りがけ、銅駝新地の家毎より人走り出候故、 何事ぞといふに、四条戯揚歌右衛門が表木戸を火方の あらものらが一統して打こぼち、内へ入て舞台の道具 立も打やぶりしといひて走り行候。狂言は一の谷にて、 熊谷を歌右衛門がして、けしからずはやるに付、勢ひ 猛にのゝしりて無銭のものを入ざる意趣ばらしと相聞 え候。大俗事申もいか寸に存候得共、都には箇程の大 あためづらしき故申入候。(中略。)尚々老婆もよろし く申度申添候。豚児が本宅へ帰れと申て頻にくどき候。 今より帰る事口をしく、足立ぬまでは帰るまじと存候 得共、言を尽してかさね人\申に心惑して決し不申 候。」北谷の隠者は何人なるを知らない。しかし瓦全 が後に同じく北谷に住んだ証迩は的矢書憤に見えてゐ る。瓦全には妻子があつて、子が老爺を本宅へ呼ぴ戻 さうとしてゐた。瓦全の病を療した高階は枳園である。 瓦全と共に僧月江を訪うた浅井は周助であらう。中村 歌右衛門は三代目、後の梅玉である。  瓦全の書には猶北小路梅荘と筑前の俳人魯白との消 息がある。  「北小路は三月末より因幡へ入湯に下向有之候。因 幡の温泉聞及ぬ事に候。」梅荘は是年の初に大学助に 除せられたらしい。わたくしの獲た廉塾の一書生陸奥 の僧藍舟の雑記を閲するに、霞亭の「金局巷僑居元日」 の詩の後に梅荘に次韻した作がある。「予将帰故山(的 矢)、故人北小路肥後守顧草鷹云、聞子隠故山、予家蔵 成斎翁(西依氏)所書陶弘景詩一軸、以子心跡与陶相似、 特以為饒、且贈詩日、翻然帰臥故山雲、恰悦従来久所 聞、海底珊瑚天外鶴、只応不許在人群、因和其韻以謝、 君近除大学助。明時有路上青雲。満世文名聖主聞。双 髪我将如野鶴。低回甘欲逐離群。」  「筑前魯白つくし貝の御返しに御作一章呈せられ可 被下候。此隻今春古稀に候。」歳寒堂遺稿に「筑紫貝 序」があつて、末に「文化辛未初秋、嵐山樵逸北条譲、 書於任有亭楓窓」と署してある。霞亭のこれに序した のは二年前の七月で、任有亭にゐた時である。想ふに 其後刊本が霞亭の手に到つたことであらう。瓦全は更 に魯白のために詩を求めた。霞亭をして魯白の七秩を 賀せしめむとしたのであらう。霞亭の作は遺稿に見え ない。  魯白の筑紫貝は国書解題に見えない。霞亭の序に 「其書彙纂彼土閾州名勝之来由典故、附以諸家所題譜 歌、上自古哲下及当今作者」と云つてある。彼土とは 筑紫である。  霞亭の夕罪亭にあつた時、茶山は書を霞亭と其友山 口凹巷とに寄せて、霞亭を廉塾に膀せむとした。五月 二十一日に霞亭の的矢にある碧山に与へた書がある。 即癸酉の霞亭書順として稀有なる一篇である。惜むら くは其前半は烏有に帰してしまつた。わたくしは下に 梢細に此断簡を検せようとおもふ。 その六十四  前半を失はれた文化癸酉五月二十一日の霞亭の書は、 霞亭を菅氏に繋ぎ、次で阿部家に維ぐ端緒を開くもの にして、事出処進退に関し、頗重大なるが故に、わた くしは例を破つて断簡の全形を此に写し出す。  「小生並に山口君(凹巷)え御状被下候。(按ずるに 書は茶山の備後より伊勢に寄せたものである。)其儀 は何分にも両三年助力いたしもらひたきとの事に候。 御状別に懸御目申候。御覧可被下候。身事におゐては さまでの事も有之間敷候得共、あの通当時天下に高名 の先生、別而四方の人輻湊、歴々諸侯方の儒官の人に ても入門在塾仕候程の人、実は二三日の会面に御心酔 被致、この如く厚意に被仰聞候段、誠に学生之面目に 存候。茶山の門人と申にても無之、先々学風等はすこ し違ひも候拙者を、重く敬待被致候儀、山口君とも申 出し、近世にまれなる事、益以茶山翁の高徳想ひやら れ候。御存じの通、当時京江戸などの諸先生業におゐ ては茶山に及候者無之候得共、皆々傲然とかまへ候人 多く候時節に候。この通り謙虚の思召、実に不堪感偲 候。尤参り候はじ後来の都下などへ発業いたし候基本 にも可然と存候。夫に内々山口君とも御相談申候得共、 山口君も美事可惜際会にも候得共、遠別もつらく被存、 とかくいづれとも決断いたし兼候。尤遠方とは申なが ら江戸などとは大に相違に而、百里たらぬ所之上、通 路も甚いたしやすき道、並に仕宙などとは違ひ候而、 一歳一度か又は不時に勢南帰省は出来候事に御座候故、 案じ候には及不申候得共、何分御両親(適斎夫妻)の意 にまかせ候より外は無之候間、足下より得と御双親様 へ御相談可被下候。山口君も呉々被申候也。小生参上 仕たく候得共、右講釈つい今日はじめ候儀故、留主に いたしがたく候。(按ずるに霞亭の夕罪亭に入つたの は、伊勢人に請はれて書を講ぜむがためであつたと見 える。尺順の前半を侠したために、これを審にするこ とを得ない。)御熟談之上近々足下一夜泊りにても私 寓(夕罪亭)へ乍御苦労御越可被下奉頼候。尤いそぎ不 申候得共、帰後未だ彼方(神辺)へ呈書も不仕に罷在、 却而彼方より寄書いたされ候。甚失敬に相成候間、近 日山口並に小生より返書仕たく候間、急に御相談御出 可被下候。万端可然御勘考可被下候。乍末毫御双親様 へ乍恐宜敷御致声被仰上可被下候。頓首。五月廿一日。 譲四郎。北条立敬様。」  的矢に於ける適斎夫婦と碧山との議は、遂に霞亭を して神辺の聰に応ぜしむることに決し、次で碧山は此 消息を齎して夕葬亭に来たであらう。此間の経過は文 書の徴すべきものが無い。  霞亭は何時夕罪亭を去つたか不明である。遺稿に 「将出夕罪亭即事」の詩がある。「世間無限好青山。 人不争辺我往還、縦跡唯従風捲去。高情一片与雲閑。」 霞亭が嵯峨を経て西したことは、遺稿に「嵯峨宿三秀 院、呈月江長老」の五律を載するを見て知るべきであ る。此詩題が藍舟の記には「仲秋遊三秀院、呈月江長 老」に作つてある。然れぱ夕罪亭を去つたのは癸酉八 月前半で、十五日に嵯峨に宿つたことであらう。  霞亭は此より再ぴ茶山を神辺に訪ひ、遂に廉塾に留 まつた。遺稿の「夕陽村舎寓居秋日」の二律は恐くは 八月下旬若くは九月に成つたものであらう。  霞亭は早く八月二十三日に神辺にゐて、書を的矢へ  遣つた証がある。それは的矢書憤の一なる九月二十七 日の書に見えてゐる。「此方(神辺)より書状、先月(八 月)廿三日笠岡便、京都五升庵(柏原氏)迄差出申候。」  わたくしは此九月二十七日碧山宛の書より、先づ霞 亭の状況を抄する。「此方さして相替候儀も無之候。 当時は塾中出入書生三十人許居申候。菅先生甚勉強い たされ候人に而、毎日講釈等無解怠有之候。小生も先 日より毎朝講釈手伝ひはじめ候。大学中庸大方終り候。 詩経近日にはじめ候。」廉塾に来てより、九月二十七 日に至る間に、幾多の日子があつたことは、学庸を講 じ畢つたと云ふより推すことが出来る。「此方に参り 候より、府中行の外は一切他出も不仕、門外もしらぬ 位に候。短日に候故、何歎といそがしく覚え候。」  次に塾中諸友の事を抄する。「筑前竹田定之丞殿も 一昨日出立帰国被致候。小生送序なども有之候得共副 本無之候。追而懸御目可申候。先日菅翁並塾中両三子 と秋柳の詩作り候。別にうつし入御覧候。門田子作懸 御目候。中々上達に御座候。十七歳のよし、才子に御 座候。此節日向伊東侯の文学落合氏塾中に寄宿いたし 被居候。出精家に而、よきはなし相手に御座候。外は 皆々小児輩多く候。」日竹田器甫、日門田朴斎、日落 合双石、皆注目に値する人物である。  「送竹田器甫序」は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「宣 図予之来無幾、而君之去爾遼」の語がある。朴斎当時 の詩文は稿を存じてゐるものが甚少い。これに反し て双石の「鴻爪詩集巻二」には霞亭の名が累見してゐ て、中に二人の茶山と同じく賦した「秋柳」の七律が ある。「徒使寒潭写月痕。何能病葉蔵鴉叫。」 その六十五  霞亭が文化癸酉に再ぴ神辺に来たのは、前に引いた 書順に拠るに、八月二十三日より前であつた。歳寒堂 遺稿に「呈茶山先生、先生時読易」の詩がある。「楽天 安命髪毛斑。絶跡市朝高養閑。正是林中観易罷。夕陽 門外対秋山。」去つて茶山集を看れば、「次北条景陽見 胎韻」の詩がある。「孤生踊々襲斑斑。好把斯身附等 閑。幸得招君為隠侶。将分一半読書山。」霞亭は秋山 の字を下してゐるのに、茶山の次韻は冬の詩の間に側 つてゐる。茶山は或は稿を留むるに次第に拘らなかつ たか、或は又日を経て慶酬したか。それはともあれ、 茶山が霞亭をして二年前(辛未)に去つた頼山陽の替人 たらしめむとする意は三四の句に露呈してゐる。霞亭 はこれを評して「承春不浅、抱偲実深」と云つた。  茶山より視れば、霞亭は山田詩社の一人であつただ らう。そして山田詩社は皆茶山を景仰し、茶山も亦こ れを善遇してゐた。此年に入つてよりも、山口凹巷は 父のために茶山の寿詩を轟ち得た。「寄祝伊勢山迂隻 先生七十寿」の一絶が是である。又茶山の此年に詩を 題した鵬鵡岩の持主「韓老人」も恐くは迂隻であらう。 冬に至つては佐藤子文が来て、霞亭と共に茶山の客と なつた。茶山に「与佐藤子文同往中条路上口号」の七 律がある。「久留詞客臥田家。偶値晴和命鹿車。澗洞 白沙全解凍。野喧黄菜誤生花。村声有趣聴途好。山路 無程興也加。但恐荒涼使君厭。都人平日慣豪華。」  是年霞亭は三十四歳であつた。遺稿の「除夕廉塾集 得郷字」の頷聯に「人生七十齢将半、客路三千思与長」 と云つてある。此夜茶山が「馬齢垂七十」を以て起つ た五古を作つて、霞亭はこれに和した。「千里従為客。 幻幻節物更。功名他日志。老大此時情。梅媚燈前影。 瞭明村外声。多年丘鷹隔。念至涙空傾。」  文化十一年の元旦は霞亭がこれを茶山の家に迎へた。 茶山の「椒盤一日三元日、薄聚十人九処人」の所謂十 人中に志摩の霞亭と伊勢の佐藤子文とがあつた。そし てわたくしの郷国石見をば市川忠蔵と云ふものが代表 してゐたさうである。忠蔵の事は今詳にし難いが、 佐伯幸麿さんは嘗て津和野養老館に於て其子捨五郎の 教を受けたと云つてゐる。  正月七日に霞亭は郊外に遊んで六言の詩を作つた。 同遊者は「大卿、子文、孟昌、玄寿、尭佐」であつた。 初めわたくしは大卿は鵜鶴春行、俗称は銭屋総四郎、 京の商人だと謂つた。しかし備後の人に聞けば、大卿、 通称は大二、備中国西阿智村の人ださうである。子文 は佐藤である。孟昌は太田全斎の子昌太郎である。実 は第二子であつたが、兄が天したために孟昌と字した。 福山の人である。玄寿は甲原秀義、漁荘又武陵と号し た。豊後吉広村(今国東郡武蔵村)の人である。尭佐は 門田朴斎である。霞亭の六言は絶無僅有の作である。 「茅屋鶏鳴犬吠。柴門竹碧梅香。杯盤世外人日。酔臥 山中夕陽。」  是月霞亭は梅を三原に観た。「薇山三観」は端を甲 戌正月に開いたのである。わたくしは既に一たぴ三観 の事を記したから、今省略に従ふ。同遊者は佐藤子文、 甲原玄寿であつた。  書して此に至つてわたくしは又的矢書順を引く喜に 遭遇する。それは霞亭の碧山に与へた月日の無い書で、 それが此正月の作なることは佐藤子文の消息に由つて 知ることが出来る。「子文も無事罷在候。二月中句頃 迄は此表に被居候よし、金毘羅(讃岐)参詣等いたし帰 国いたされ候よしに御座候。」 その六十六  わたくしは先づ文化甲戌正月の書績中霞亭の自己の 事を告ぐる文を抄する。「余寒に候得共此表旧年より 甚暖気に御座候。(中略。)小生は甚壮健に御座候。平 生素食、夫に酒も少し許宛喫し候事に御座候。」霞亭 は此句の直後に茶山の己を遇することの厚きを説いて ゐる。「茶山翁淡泊の高人に而、御厚意はけしからぬ 事に御座候。貴所(碧山)の事なども折節被尋申候。」 霞亭は身を此境界に置いて、自己のこれに処する所以 を思つてゐたらしく、碧山をして父母の意饗を問はし めようとしてゐる。「尚々大人様にても母様にても、 小生身分の事に付思召寄せられ候儀も有之候はゴ、く わしく御書通可被下候。いづれも足下の取計にて万事 つゝまず御志の儀等被仰聞可被下候。」  次は弟碧山の事である。「御詩作(碧山の詩)毎篇拝 見仕候。おもしろく存候。菅翁(茶山)へ入御覧置候。 追而御返上可申上候。尚又御近作等御便之節御録示可 被下候。聯玉兄(山口凹巷)よりも折角悦被越候。尚万 事御出精可然候。四書集註御熟覧可然候。山田へ被出 候序も候はじ、経書にても歴史類にても、いづ方にて も御借受被成御熟読可然候。書物は多く有之候ても無 詮物に御座候。とかく熟復手に入候やう文章類御心懸 可然候。御本業医事は勿論研究可被成候。(中略。)学 問家業の外、余りに心つめ候事なきやう御心得可然候。 すこしの御病気にても手ばやく御療治可被成候。何分 にも身体壮健に無之候ては何事も出来不申、大に損に 御座候。詩文事其外学業の為にも候はゴ、二月に一度 位は二三日がけに山田へ出候而、山口兄(凹巷)など御 訪申上候もよろしく被存候。いづれ御両親様御計次第 に御座候。敬助、良助など御心懸素読等御指南可被下 候。」此文中碧山の詩を云云する処に一紙片が貼して ある。細検するに西村及時の筆蹟である。及時は書を 霞亭に寄せた次に、其弟碧山の詩を称した。霞亭は其 一段を戴り取つて弟に与ふる書の上に貼し、弟を奨励 する料となしたものである。「尚々昨日来は御令弟(碧 山)御出被下、昨夕は此方へ御止宿、唯今御帰り被成候。 御作等翻々、且御上達被成候様奉存候而甚悦申候。必 御案じ被成間布候。」  次は頼春水の事である。「頼翁の御状京都に而浮沈、 去暮(癸酉歳晩)漸く落手仕候。御丁寧被仰聞奉感候。 今般入御覧候。御接手可被下候。」霞亭は癸酉三月に 春水に再会し、其歳晩に手書に接したのである。春水 の東中には詩があつたので、霞亭はこれに復する時、 贈詩一篇を添へた。「広島頼春水翁書中見録示答人問 京遊状詩、因賦此以寄呈。江頭分手恨幻勿。別後勝遊 書信通。詩酒幾場傾滑洛。文名一代重華嵩。鶴帰湖岸 疎梅外。人立門庭深雪中。琴剣何時尋講舎。重陪語笑 坐春風。」所謂「答人問京遊状詩」は春水遺稿に「帰後 答人問遊状」と題してある。「山陽百里信軽錬」を以て 起る七律が是である。想ふに春水の尺順にして此詩あ るものが猶存じてゐはすまいか。尺順が碧山の許に留 められたら志摩北条氏に、霞亭の許に還されたら備後 高橋氏に。 その六十七  わたくしは霞亭の文化甲戌正月の書を続抄する。次 は大窪詩仏の事である。「高田文之助より旧冬書状到 来、随分無事のよし、貴所(碧山)へ可然申上候様申来 候。兎角勢南へ参りたきやうに申居候よし、いらざる 事と存候。詩仏方の家の図とやらを足下(碧山)へ差上 くれと申参候。江戸人はとかくこのやうの浮華なる事 計多く候。玉池に此位の事出来候やうなし。」  高田文之助、名は淵、字は静沖、越後の人である。 霞亭の林崎時代の門人で、今は亀田鵬斎の塾に入つて ゐるのである。高田は大窪天民のお玉が池の家の図を 獲て珍重がり、霞亭に託して碧山に贈らうとした。霞 亭は図の誇張に出づるを以為ひ、(玉池に此位の事出 来候やうなし)且江戸人の浮華を笑つた。  詩聖堂集十巻が文化己巳の冬より庚午の春にかけて 校刻成を告げ、此歳甲戌の四月に市に上つたことは、 集の序と奥附とに徴して知られる。詩聖堂の図が先づ 頒布せられたのは一種のレクラムである。集中玉池 精舎二十詠があつて、図の必ずしも誇張にあらざる を見ることが出来る。高田が此図を獲て碧山に伝へ示 さうとしたのは、今文勢雑誌の六号記事を嗜読するも のの情と同じである。  此より後幾ならずして所謂番附騒動が起つた。わ たくしは嘗て蘭軒伝中にこれに言ひ及んだが、後に至 つて当時の記録一巻を購ひ得た。記録中最観るべきも のは、太田錦城の天民に与へた書である。その云ふ所 に従へば、番附は詩聖堂末派の画策に成り、主として 此に従事したものは山本北山の子緑陰であつたさうで ある。江戸文壇のレクラム手段は玉池精舎の図より進 んで此番附となつたのである。  次は山口凹巷一家の事である。「山口氏御内人とか くこちのものにはなりかね候やに被存候。何卒本復い たさせ申たきものと存候。無左候而は凹巷の家事甚む づかしく気之毒に存候。」凹巷の妻の病が重かつた。 若し起たずんば「家事甚むづかし」からむと、霞亭は 気遣つてゐる。後の詩に「韓公(凹巷)愛客客成群、家 政平生付細君」と云つた意である。  次は柏原瓦全の事である。「京都瓦全も本復いたし、 本宅へ帰り被居候よし、此間書状参り候。京はけしか らぬ水早に而戸々込り入候由に御坐候。」瓦全は遂に 子の請を拒むことを得なかつたのである。困るを 「込」ると書するは霞亭慣用の仮借である。  甲戌正月の書中より抄すべきものは略此に尽きた。 其他雑事二三がある。其一。「嵯峨樵歌、渉筆此節数 十部梶川より下し申候。御地辺に望候人有之候はじ御 世話可被下候。後便にいなや被仰聞可被下候。」其二。 「御母様御世話に而先達而下向之節外に而金子二両借 用仕候。此節差上可申之処、とかく便は皆々蔵屋敷頼 に候故金子相頼がたく、子文帰装の節頼可申やと存候。 其段被仰上置可被下候。」母を介して二両を人に借り た。的矢宗家の窮乏想ふべきである。其三。霞亭は兵 大夫と云ふものの計を得た。霞亭、碧山の少時世話に なつた人である。文長きが故に省略に従ふ。末にかう 云つてある。「兵大夫殿と御約束仕候菅翁手迩跡に相 成候へども差上候。其上しみものいたし候而気之毒に 存候。表具にいたし候はじ見やすく相成可申哉。」茶 山の書は延陵の剣にせられた。其四。「扱尊大人様に 此方産物何ぞ差上たくぞんじ含み罷在候得共、殊之外 物事不自由の地何も無之、皆京大坂にありふれ候物計 に候。靹の芳命酒(保命酒)と申ても甘味すぎ候もの、 索豹よろしく候得共、箇様之食物類は船中の者ぬすみ 候而、其上各別の物にも無之、夫故何も差上不申候間、 貴所(碧山)より可然御断置可被下候。子文も無僕故言 伝ものも気之毒に御座候。何分如在無之候得共、右之 仕合悦入候。」  此頃より霞亭の郷親に寄する書が殆必ず弟碧山に宛 てられてゐる。そして適斎に謂ふべき事も碧山をして 言はしめられてゐる。碧山の家督は或は此頃に於てせ られたのではなからうか。 その六十八  文化甲戌二月に入つて佐藤子文は茶山の許を辞し去 つたであらう。茶山集中に「伊勢藤子文尋霞亭於余家、 不悼脩途、余因得歓、臨別賦此」の一篇がある。「長路 故来縁恋友、帰期無滞為思親」は其頷聯である。  子文は神辺に滝留した間に、料らずも霞亭が身上に 関繋すること重大なるロオルに任ずるに至つた。それ は茶山が霞亭を廉塾に拘留せむと欲し、又これに妻す に井上氏敬を以てせむと欲して、先づこれを子文に諮 つた故である。  的矢書順中に二月二十日の霞亭の書がある。是は霞 亭が子文の去後に弟碧山に与へたもので、頗此間の 消息を悉すに足るものである。惜むらくは書の前半は 断裂して存じてゐない。  「将又此度極内々御相談申上候一件御坐候。足下 (碧山)より御双親様へ御噂申上、御志之処御心腹とく と御聞可被下候。小生におゐては各別相すゝみ不申候 義に有之候得共、無拠時宜故内々申上候。其義と申は 子文発前茶山翁別段に内々子文を招れ、小生身分並に 故郷家事等相尋候上に被申候は、此方我々最早かくの 如く老衰に及候而、見かけ候通学問所世話いたし候仁 も無之、此方罷在候内はよろしく候得共、跡に而書生 教授相続いたし候人無之候ては、折角取立て候閻塾空 敷相成、気之毒に存候。夫に付北条永く此方学問所世 話いたし呉侯事出来まじきや。かつはかの人もいつま でも独身に而も叶申間敷、此方姪女(敬)配偶いたしも らゐたきとの思召のよしに候。此姪と申は先生のめい にて、二十四五歳の人、もと翁の甥(茶山仲弟汝梗の 子)何某(万年)の妻となり、菅氏の本宅酒造家の主人 に有之候処、二三年以前其夫死去、其遺子五歳許の男 子一人(芯旦二、後自牧斎惟縄)有之、これを成長の後菅 氏の右酒家相たてさせ候積りのよしに候。只今は彼方 の家あけ候而先生家に参り居候人也。この家田地も有 之、酒造のかぶも有之候家也。元来菅氏は酒造家に而 余程の巨家に有之候処、先生は三十年前迄は医を兼而 被致候よし。然る処右本宅両度迄焼失いたし、其内先 生は医をやめられ候而、専ら学問一道に相成候て、本 宅へは弟(茶山季弟)圭二郎(晋宝)相続、先生同居し被 居候処、右圭二郎京都へ出候而客死、先生は右今の廉 塾の方営み候而、引込候而、書生教導いたされ候処、 福山侯より二十人扶持金十五両宛とやらむ相付られ、 今の学問所取建、屋敷等除地除役に相成、永世学問所 といたされ候事に候。其瑚右先生甥(万年)菅の酒家本 宅相続いたし居申候也。先生無欲の人物なれば、右扶 持方等年分入用の余計に而、近々田地等をももとめ、 学問所の方へつけられ、其方よりも年々三十俵ほども 百姓より上り候よしに候。佐藤氏へ先生相談は、北条 氏承知の様子にも候はど、貴様的屋へ罷越、大人(適 斎)へ御相談被下候やう被申候処、佐藤子直に被申候 は、かの人元来嫡子に而的屋本宅相続可仕の人に候処、 学問好に而今の体に被成候義、且又かの人平生之志気、 北条氏をかへ候而はとても承知有之間敷事必然に候と 被申候へば、翁被申候は其義は我々も覚え有之候義、 何分学問所相続、右配偶等いたされ候はじ、其義は意 にまかし可申との事に候。右之段子文より小生へ相談 候処、小生も甚当惑仕候。」  文は未だ尽きない。わたくしは事の重要なるを思ふ が故に敢て檀に筆削することをなさない。 その六十九  わたくしは文化甲戌二月二十日の霞亭の書を続抄す る。文は霞亭が佐藤子文をして茶山に謂はしめた辞令 に入る。  「老人(茶山)の御頼無拠候へども、此義は一身之進 退なれば、とても一分にては参り申間敷候。人づてに て親共御相談申上候ても、内外分り兼、親共の思召も はかりがたく候へば、いづれ七月頃にも帰宅いたし、 御面上相談仕候上、いなや返答可申上候。夫迄は佐藤 君にも社中とても御噂被下間敷、先々夫迄御待被下候 様申置候。右之義足下(碧山)如何御思召候哉。御双親 様之御心中如何あらむや。小生心中にも改姓の事に候 は寸とても承引出来がたく候。夫に尋常仕宙のやうに 勤仕等有之候事に候はゾいやにも候へども、学問事世 話いたし、自分修業専一にいたし候而、外俗事とては 少しも無之義故、学問のためには至極よろしかるべき と存候へども、先自分の事はともあれ、御互に気遣仕 候は御双親様(適斎夫妻)の義に候。御壮健被為入候故、 御長寿之義とは相楽罷在候得共、七十にちかく御入候 大人様を遠方隔居仕居候義、いかにも心苦敷義と被存 候。さすればとて右之身分に相成候はじ、御見舞申上 候とても、二年めか三年めならでは出来申間敷、只今 迄始終遠方へ参り居申候得共、今更後悔千万奉存候。 別而去年来兵大夫殿と申、武内叔父の変故等有之てよ りこのかた、とかく帰郷の念出候而時々凋恨仕候。つ らく存候に当時のありさま仕宣仕候てはわけ而身分 の自由なりがたく、一切学業等の妨にも相成、門戸を はり候而教導いたし候にも、はじめ余程の骨折にも有 之候よし、世の中の浮名微禄おもしろからざる事(に 候へば、)とかく自分著述学業のすゝみ候やう相計、御 双親御存生のながきを相楽み、旧里にても或はいせに ても又は京都にても、偶然と自由に往来いたし居可申 やと段々思慮もいたし候事に候。茶山翁切角御相談に 及候義故、一先申上候わぬも不可然候。御双親様の御 心中次第により秋頃にても帰郷可仕や、又は此書中に 而大略わかり候へば夫にも及不申候哉、御相談之処御 双親様の御心落無之義に候はf不及申相断候而帰郷可 仕候。尤茶山翁被申候は、この事相談なり不申候とも、 永く学問所の滞留いたされ候処は頼可申との事に候へ ども、夫に付候ては小生も今年明年の義は各別、別段 存じ入れも有之候故、又々其節御相談可申上候。何分 あらまし思召被仰越可被下候。佐藤氏へも小生夏秋の 間帰郷までは親共方へも不申候やう申かため置候間、 今暫之処一切御噂御無用に存候。いそぎ不申候問、と くと御返書奉煩候。書外期再信候。頓首。二月廿日。 北条譲四郎。北条立敬様文案。尚々御双親様始、時下 御自愛専一奉祈候。今年は春色も甚はやく候。最早去 年参り候節の園中の辛夷、昨日あたりより盛開に御坐 候。なにかに付御床布奉存候。」  此書の断簡ながらも猶存ずるは洵に喜ぶべきである。 何故と云ふに此に由つて、直接には霞亭を廉塾に繋ぎ、 間接には又これを福山藩に繋いだきづなの、いかにし て結ばれしかが、始て窮尋せられたからである。  霞亭は前年癸酉三月に始て神辺に来て、黄葉夕陽村 舎の園中に辛夷の花の盛に開いてゐるのを見た。暖気 の特に早く回つた甲戌には、二月の未だ尽きぬに辛夷 の花が再び開いた。そして霞亭の足は将に赤縄子の纏 るを免れざらむとしてゐる。 その七十  茶山は闇塾に良師あらしめ、女姪に佳婿を得しめむ と欲して其事未だ集らざるに、福山侯阿部正精は遠く 茶山を江戸邸に召すこととなつた。福山の留守は早く 甲戌三月中に其内議の江戸より至るに会した。事は的 矢書贋中にある霞亭の一書に見えてゐる。此書は甲戌 四月十三日に的矢なる弟碧山に与へたものであるが、 惜むらくは偶中腹を供亡して首尾のみが僅に存じて ゐる。其末幅にかう云つてある。「去月(三月)より菅 翁を江戸へ被召候儀有之、多病甚迷惑被致候由、先断 立候やうすに候。当御屋敷御老母様御忌中に而今に中 陰に御坐候。翁も久敷講談休すまれ居候。」茶山の母 とは佐藤氏であらう。  佐藤子文は神辺を去つてより四月十三日に至るまで に、書を霞亭に寄すること既に両度であつた。「子文 より此頃両度書状承知致候。山田にも社中無事の由に 候。」  頼春水は一たぴ霞亭と相見てより漸く親善なるに至 つた。「頼翁より時々書状参、足下(碧山)へも伝言有 之候。則御一読可被成候。度々かの方へも尋問いたし 候やう被申越候。辱候得共、三十里も有之候処、夫に 講業日々に而不得其意候。」春水は霞亭を広島に迎へ むと欲したが、霞亭は往訪の暇を得なかつた。  霞亭は此度も弟碧山を指導することを忘れなかつた。 「近来御作は無之候哉。ちと御見せ可被下候。書籍不 自由奉察候。何にても佐藤(子文)又は山口(凹巷)など へ御頼申て恩借可然候。御かり被成候物ははやく卒業 御返戻又々御かり被成候様可然候。さなくてはかし主 倦候物に御坐候。御心得可然候。経書熟読肝要之義に 候。外色々意にまかせ可然候。佐藤にても山口にても 漁洋山人詩集精華録御かり被成候て注まで一通御よみ 被成候はゾ大分益可有之候。一度ならずとも両三度に 御かり被成候てもよろしく候歎と被存候。」霞亭が碧 山をして王院亭を読ましめむとするを見れば、当時の 山田詩社が清朝の詩風を追逐してゐたことが知られる。  中三日を隔てて四月十七日に霞亭は又書を碧山に与 へた。是も亦的矢書順中にある。「四五日前山田高木 氏迄書状一通差出申候。定而相達し可申存候。以来此 方何も別条無之候。」乃知る前の書は高木呆翁に由つ て故郷に達したものであつたことを。  此書を見るに山口凹巷の妻は遂に残した。「山口氏 御内人御死去御互に凋恨仕候。甚事に幹たる人に而可 惜事に御坐候。凹巷家政等迷惑可被致と悦々罷在候。」 墓誌に拠るに凹巷の初の妻は藤田氏、後の妻は山原氏 である。山原氏捜して後妾加藤氏を納れた。甲戌に残 したのは山原氏であらう歎。歳寒堂遺稿に「寄慰韓聯 玉悼亡」の四絶がある。其一に元白応酬の詩を摸して かう云つてある。「夢裏音容覚且疑。残燈無焔情閨帷。 深更起坐聞難唱。誰撫弧弧索乳児。」藤田氏には子女 なく、山原氏には二子三女があつた。  わたくしは山原氏の名を知らない。しかし孫福孟紳 の所謂害雨儒人の此人なることは明である。河崎誠宇 の受業録は云はく。「甲戌之春、害雨儒人逝、儒人吾叔 氏韓先生之配也、是秋余過桜葉館、側聴令愛象虎二女、 読藤黄門所撰百人一首、叔氏語余日、二女近学書之暇、 往松村氏、習読倭歌、今請観害雨遺稿、予日、汝未解 歌意、明請之不可、汝有所自試、若能成章、則如所請、 因令象詠月虎詠菊、衝吻各成其辞、錐不属、覚有思理、 叔氏雌黄、便成佳篇、余歎賞窃謂、之女有志吟詠、叔 氏悼内詩云、擁児傍読国風辞、蓋儒人常訓児輩以倭歌 及漢詩、是知其養之所致也、而今儒人既逝、二女嗣前 志之不終、翼叔氏事業之余、朝夕導学、自倭及漢、何 独班氏之有大家而已哉、況使儒人欣然於地下、亦叔氏 之賜也、因賦長句奉呈、時甲戌秋九月。叔氏本儒流。 於詩復盛名。孟光為之配。為人淑且貞。夙夜不言労。 奴碑亦淳誠。内外人称美。義重由利軽。二男及三女。 羅生玉雪清。書燈中餓暇。孜々訓矯嬰。百全長難保。 天命有虚盈。一値不平事。肝胆甚於烹。罹疾秋風薄。 送魂春草螢。男帰声吸々。女解語櫻々。恋母思手沢。 拝告発中情。遺篇何所蔵。暗塵筐中生。悲喜紛不説。 為之試其鳴。当此抄秋時。菊花又月明。繊手把彫管。 黄口吐辞英。側読歎胎教。慧思眉間横。大燧途云遡。 欲酬恩海弘。幸汝侍厳顔。自今遂長成。刀尺有余閲。 硯田時筆耕。登問脂与粉。顕親足光栄。況有双愛弟。 一窓結文盟。吾亦父汝父。大恩仰峰燦。楽哉轟斯化。 与我幾弟兄。因舷報叔氏。庶共振家声。」是に由つて 観れば凹巷の長女は象、二女は虎で、皆観平より長じ てゐたのである。  次に碧山以下三弟の事を抄する。霞亭は先づ碧山の 善く親に事ふるを褒め、後にその善く二弟に海ふるを 称へてゐる。「御両親様益御壮健被遊御坐候由くわし く被仰聞辱奉存候。御老成之御気象有之、万事御油断 無之事と奉存候。甚彊人意候。尚又無御怠御奉事奉願 候。良助慶助(敬助)素読詩作等もいたし候由大悦に存 御苦労奉察候。何歎と御心付奉頼候。」 その七十一  霞亭は文化甲戌四月十七日の書に三原観梅詩の稿を 脱した事を言つてゐる。「三原観梅詩、副本なし、草稿 のまゝ差上候。御一覧相済候はじ、兼而約束に候間、 早速佐藤君へ御遣可被下候。(思召も御坐候はじ、何 卒御書き付御遣可被下候。)かの方より此方へ御返却 被下候やう申上候事に候。聯玉君へ寄慰之拙詩も同前 御遣可被下候。」上に引いた山口凹巷の喪内を慰むる 詩も亦襯梅詩と倶に碧山の許に遣られた。  此書の載する所の雑事には猶下の如きものがある。 其一。長井某の事。「長井子不相替出精のよし、社中 よりも承知仕候。御互に悦申候。元来好生質に候。浮 華の風にうつり候はぬ事尤も可貴被存候。」按ずるに 長井は霞亭が京都にありし時の内塾生永井弥六であら う。其二。北谷翁の事。「北谷翁よりも此間書状参り 候。随分無事のよしに候。」上の柏原瓦全の書にも月 江と「北谷を訪ひ噂申出候」と云つてあつた。未だ其 人を考へない。其三。園部氏の事。大坂土佐堀一丁目 福山蔵屋敷に園部長之助と云ふものが勤めてゐた。其 名は茶山の大和行日記に見えてをり、又茶山のこれに 与へた書順も存してゐる。園部氏は霞亭と京都、山田、 的矢の諸人との間に往反する書信を取り次ぐ家であつ た。霞亭は佐藤子文をして路を柾げて訪はしめ、逓伝 の事を託した。文長きが故に省く。其四。茶山霞亭の 食嗜の事。「此方(神辺)簸、鰻鰯等沢山なる地に候。 菅翁はすべて厚味の物養生に而絶口被申侯。小生は近 辺に里正などしたしき飲友有之、時々喫し候事に候。」 其五。亀石の茶と印籠酒との事。「此茶当国神石郡亀 石と申処の新茶、粗茶に候へども土物故差上候。とて も上方の茶には似より候ものにてはなく、田舎むき茶 づけにこく出し而よきかに候。なら(奈良)菊屋と申名 高き酒屋の印籠酒少しばかり、これは道中にてもいた し、至極酒あしき所に而、この物をみゝかきばかりも 盃にいれ候へば、酒よくなり候とて、旅人の用侍り、 貴郷などの名酒有之候処にてはしかたもなき無用之品 に候得共、博物之一つ故入御覧候。小生なども兼而き ゝしものゝはじめてに候。高価なるものと申候へども、 たわいもなきもの也。」印籠酒は今の味の素の類賦。 霞亭は此物と亀石の茶とを郷里に送遣したのである。  五月に茶山は遂に江戸に赴くべき命を受けた。行状 に「十一年甲戌五月又召赴東邸」と書してある。「梅天 初霧石榴紅。何限離情一酔中。恨殺樽前長命縷。不牽 君輩与倶東。」霞亭も亦此饒莚に列してゐたであらう。 其送別の詩は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「送茶山先生 応藩命赴江都邸。文献有徴思老成。佳招趣起就脩程。 棲遅在野元優遇。趨舎随時不近名。親災二年恩日重。 孤覇千里意新驚。聞知明主多仁沢。帰臥行当遂素情。」  茶山は神辺を発するに臨んで、廉塾を霞亭監督の下 に置いた。後に自ら「志人条子譲(中略)留守余家」と 書してゐる。  茶山は東行の途次桜川を経て、凹巷の事を憶つて詩 を作つた。昔年凹巷は京に上る時此に憩ひ、藤棚の下 で赤小豆粥を食ひ、其幽趣を賞したのである。「藤架 陰中鉦豆粥。却将片事想仙姿。」関宿に至つて、佐藤 子文と再会した。「薇西二月送君時。再会寧知今日 期。」凹巷も亦二姪と共に来り見え、輔を連ねて四日 市に至つた。「数両軽輿断続声。暫時忘却客中情。」茶 山と山田社友との談は屡霞亭に及んだことであらう。  六月七日に霞亭は神辺にあつて駅雨の詩を作つた。 其詩箋が的矢書順中に存してゐる。「甲戌六月七日大 雨志喜。疾雷駆雨雨如麻。聞得歓声満野諦。一段快心 難坐了。出門秩緑紗無涯。」 その七十二  霞亭は文化甲戌の秋に入つて、詩を江戸にある茶山 に贈つた。歳寒堂遺稿の「寄懐茶山翁在江戸邸」の七 律である。「満渓秋色蓬書寮。流水依然古石橋。楊柳 西風疎翠落。芙蓉白露暗香消。夢思燈下人千里。睡起 庭中月半宵。縦是朱門多寵遇。能無回首憶漁樵。」次 で霞亭は園中の菊を見て又詩を主人に寄せた。遺稿の 「園中閑歩有懐茶山翁」の絶句である。  九月九日には鵜鶴大卿に訪はれた。遺稿の「九日鶴 鶴大卿見過」の七絶が此年の重陽なることは、「況復主 人天一方」の句に由つて知られる。  十九日に霞亭は弟子彦を祭つた。的矢書順中に詩箋 がある。「九月十九日亡弟彦忌辰感述以薦。世事浮雲 皆可嵯。君帰冥漠我天涯。上心十五年前事。独拭涙眸 看菊花。又。筆硯依然未段焚。廿年耽学作何勲。形脇 七尺随児戯。却向幽冥漸陸雲。」  わたくしは此に霞亭と山陽との離合を一顧したい。 二人は初て東山に相見た。是は霞亭が嵯峨若くは京の 市中にゐた時であつただらう。嵯峨樵歌に一語のこれ に及ぶなきを思へば、恐くは後者に於てしたと見るべ きであらう。即壬申の春より癸酉の春に至る間でなく てはならない。既にして二人は神辺に再会した。わた くしは此を以て甲戌九月の事としたい。即山陽が父を 広島に省した帰途、茶山の留守を尋ね、期せずして市 河寛斎の長崎より還るに逢つた時である。霞亭の此会 合を紀する詩は遺稿にある。「頼子成見過。和其途上 作韻。東山避遁眼曾青。再会寧期忽此迎。対酌論文永 今夕。燈花一楊落還生。」わたくしの固随なる、山陽 全集の存否をだに知らぬが、所謂途上の作は山陽詩鉛 には見えない。原唱は知らず、和韻は郡青門に従つて 庚青の通韻を用ゐてゐる。  これと相前後して江戸には亀田鵬斎と茶山との奇遇 があつた。善身堂集に「階上酔認骨相奇、云翁得非西 備某」と云ひ、茶山集に「阻上憧々人馬間、瞥見知余 定何縁」と云つて、街上の遅遁が叙してある。そして 二人は暗中の媒介者たる霞亭を憶はずにはゐられなか つた。茶山。「吾郷有客(霞亭)与君(鵬斎)善。遙知思 我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附珪篇。」鵬斎。 「条生(霞亭)落魂遙集西。在君(茶山)廉下荷恩厚。元 是酒伴如弟兄。吹損吹箆和相狂。一別十年隔参商。不 知豪爽猶昔不。老夫老毛夷加疎瀬。因仮佳篇代理玖。」 わたくしの引く所の善身堂集は明治四十四年の活字覆 刻本で誤謬なきを保せない。理玖の句の如きは忽ち八 言をなして読み難きが故に、わたくしは敢て妄に一字 を剛つた。善本を蔵する人は幸に正されたい。  十一月には霞亭が神辺より的矢に帰り、伊勢を経て 大阪に往き、兵庫より塾に還つた。三村清三郎さんの 所蔵の梱内記に、此月十七日に霞亭が河崎敬軒を訪う たと云つてある。十二月十七日には霞亭が大坂より的 矢にある碧山に書を寄せた。書は的矢書順中にある。 「先日来は緩々滞留得物語大慶仕候。殊更遠方御送行 被下御苦労奉存候。小生儀十一日松坂宿、子文一人送 り被申一宿、翌朝わかれ候。十二日椋本、十三日水口、 十四日石山、十五日伏水舟、十六日浪華著仕候。雨航 在坂、二三日会飲、今日屋敷へ参り候。園部氏甚供接 に逢候。明十八日此表発足、大方兵庫宿りと被存候。 此頃甚暖気に而道中も無苦被存候。」滞留の的矢なる ことは論を須たない。日附は「極月十七日」である。 その甲戌の歳なることは、末段に「菅翁はいづれ越年 と被存候」の文あるより推することが出来る。霞亭の 書信を逓伝する園部氏の阿部家大坂蔵屋敷の吏なるこ とは上に見えてゐる。雨航は宇仁館太郎大夫である。  佐藤子文は松坂の別を碧山に報じた。的矢書腰中に 漢文の手束がある。「某啓。別来沮寒。伏惟二尊及足 下起居清勝。近者令兄霞亭先生南帰。庭閲之歓。坦箆 之楽。非言説所能尽。吾郷旧社諸彦叙潤飲宴。如僕下 走。亦陪末席。以慰三秋之思。蓋先生之発備西也。往 来有程。不得不再西。僕難不能担笈遠従。諸彦送者既 散。僕独従到松坂城。同投客舎。欲置酒。永斯一夕。 独奈客舎荒寂。接待甚疎。為之闘々。遂早就寝。翌朝 出送。酌干城西小店。到塚本遂別。僕贈望之間。先生 行色瓢然。意軽千里。所謂天涯比隣。真先生之謂也。 今因便具告足下。報諸二尊人。遠道風霜。莫深為念幸 甚。歳云将除。明春定省之暇。恵然一来。諸容面曙不 馨。十二月念五日。社末藤昭頓首再拝。呈北条君立敬 賢兄足下。」印二頼がある。白文は「佐藤昭印」、朱文 は「子文」。 その七十三  文化甲戌十二月に霞亭の大阪を発すべき期は一日を 緩うせられた。霞亭は十九日に綾に発して、二十五日 に廉塾に帰つた。その二十七日に弟碧山に与へた書が ある。  「小生儀浪華四日程滞留、雨航在坂に而何歎と手間 取候也。蔵邸園部氏へも参候処大預馳走候。当十九日 大坂を立出候而、雨航御送行大仁村に而別酌等いたし、 其日は西宮宿、廿五日無悲帰塾仕候。菅氏家内無別条 候。明日(二十八日)は一寸福山へ罷越申候。帰来未何 方へも得参り不申候。(中略。)此節は書生も皆々帰宅、 綾両人許居申候。菅翁より霜月末之書状参り候。何様 来三月頃でなくては帰装無之様子に候。鵬斎先生より も書状詩など参り候。善身堂一家言と申経義之著述近 々出来候やうすに候。」是が志摩より備後に至る旅程 の後半と帰塾後の状況とである。江戸よりは茶山が帰 期の遅かるべきを報じた。鵬斎は一家言の刊行を告げ た。その寄せた詩は下に引くべき書に見えてゐる。霞 亭の「夕陽村居寄鵬斎先生」の詩は或は復書と倶に寄 せられたもの殿。「曾期歳晩社為隣。何事離居寂奥浜。 海内論交常自許。尊前吐気与誰親。夕陽村裡三秋日。 時雨岡頭十月春。千里相思難命駕。恨吾長作負心人。」  次に霞亭が身上の事を言つたものと郷親に対して情 を櫨べたものとを抄する。「小生身上一決も先老先生 帰宅後に可仕候。本宅普請等いたし候などと申内意有 之候。御地頭より願書下り候はゴ早々御知らせ可被下 候。」此等は霞亭が籍を志摩より備後に移す事に関す るものではなからうか。「尊大人様母様(適斎夫妻)何 れも御機嫌よう御年むかへ可被遊と奉遙賀候。先日数 日滞留仕候へ共、今更又々御なつかしく相成候事一倍 に侯。今少し居ればよかりしと残念奉存候。」霞亭の 親を思ふこと切なりしを見るべきである。  次に例の如く弟を策励する語がある。「貴君(碧山) 前日も縷々申上候通、無御僻怠御業務御勤御孝養御心 遣千万依托仕侯。御苦労之儀は推察仕候。学業わけて 御心懸所祈に候。」  霞亭は碧山と袴を更むことを謀つた。それは京匠を して裁せしめた袴が華美に過ぎた故である。「先旦兄 都へ袴上下頼置候而、帰路大坂迄相達し、持帰候へど も、いづれも余りけつかう過、直段はり候而迷惑仕候。 上下は随分よろしく候へども、袴奥丹後とやらいふも のに而木綿衣裳へ著用不似合、且はよき衣裳国がらか つこうよろしからず候。不苦候はf其許(碧山)御持之 袴と御かへ可被下候。一両二朱程もかかり候。屋敷便 の節御遣可被下候。便次第此方よりも差出し可申候。 いせき(伊勢喜)へは噂御無用。」  次に山田詩社の事がある。「山田社中へは出立後い まだ書通不仕候。いづれ来春の事と先延し候。佐藤子 (子文)先日はひとり松坂迄被参一宿わかれ候。少し小 生と用事も有之故に候。」  次に江原与兵衛の事がある。「当表第一心やすくい たし候江原与兵衛、借財のために家内引あげ、江戸へ 出奔いたし候。気之毒に侯。よき人に候へども、貧困 いたし方無之、小生少し力落に候。」膜姦日記に云く。 「茶山先生族人江原与平、客冬(甲戌冬)遊勢南。」是 が江原東遊の動機であつた。江原は江戸に奔らむと欲 して、途上伊勢に留まつたもの欺。  書には猶的矢より発送した革茸が神辺に至らなかつ たことが見えてゐる。「船の人へ御頼被成候かうたけ とやら今に達し不中候。外に大切の入用物はなく候 哉。」  十二月二十七日の書の事は此に終る。 その七十四  文化甲戌十二月三十日には霞亭が友を廉塾に会して 詩を賦した。的矢書順中の一詩箋に甲戌除夜の作と乙 亥元旦の作とが書してある。除夜の作は歳寒堂遺稿に 補入すべきものである。「歳除与諸子同賦、余時自南 州帰。到舎綾三日。明朝又一春。更驚拠学久。只喜拝 親新。映雪移書秩。播梅清路塵。尊前何寂々。猶有未 帰人。」  是年霞亭は三十五歳であつた。  文化十二年には霞亭が歳を廉塾に迎へた。元旦の詩 は遺稿に見えてゐる。「乙亥元日有懐田孟昌、原玄寿、 藤子文諸君、去年今日、余与諸君探梅於丁谷、故及。 客稀門巷似平時。塵外佳辰独自嬉。午雪罪々半為雨。 春泉決々忽流漸。故情相恋人千里。新恨空看梅一枝。 丁谷風光已堪訪。双柑斗酒好同誰。」遺稿には前年元 旦に丁谷の詩が無くて、却つて人日に南渓の詩があつ た。  正月六日に霞亭の弟碧山に与へた書が的矢書贋中に ある。先づそのいかに自己を語つてゐるかを見よう。 「今年は先生(茶山)留守、書生も蓼々に候。併物事す くなく候而喜申候。十日は毎年開講に候。老先生帰家 も一向しれ不申、いづれ二月下旬にも候哉。霜月下旬 の書以来未便無之候。拙詩つくり棄御笑覧可被下候。 (按ずるに上の除夜元日の作歎。)道中(甲戌十一月帰 省)の詩も近々考可申候。(中略。)道中の癖つき候而、 朝酒すこしのみたき位に候。しかしこれは不遠やめ候 也。御地頭に差上候願書下次第御報可被下候。」  碧山に謂ふ語はかうである。「先日来の詩脱稿候は ゴ御遣し可被下候。凹巷に請正もよろしく候へども、 夫は待遠也。先出来候はじ直に御見せ可被下候。三月 頃にも相成候はど、一寸山田へも御越可被成候。しか し余り御世話にならぬやう御心懸可被成候。先輩へよ くく虚心に請益可被成候。書籍子文方に有之候もの などの内借覧可然候。御双親様へ御孝養第一奉祈候。 医業随分御精研可然候。人命所関係不容易候。誠意を 以人を待候事、学問工夫とも第一也。(中略。)蓬莱に きかばや伊勢の初便。はやく御状御遣し可被下候。」  書中霞亭は前年の暮に亀田鵬斎の寄せた詩を弟に録 示した。「鵬斎の詩懸御目候。昔年河豚を小生にせま りくはせし事有之、此冬も喫し候而憶ひ出し候に付、 小生に寄懐せられ候由。井春経業已紛編。遠入西州還 楽群。鹿洞曾期可人到。豹堂合啓好懐分。三年漫越越 山雪。千里空帰函谷雲。一部河豚典一袴。尊前酔夢幾 逢君。少しきこえがたき処有之候。」  次に高田静沖の消息がある。「文之助事など被申遣 候。(鵬斎の語静沖に及ぶと云ふ意。)やはり彼塾(亀 田塾)に居候。御存じ通の生質難化候而、やはり昔年 之通也などと被申遣候。こまりもの也。」  次に出国数馬と云ふものの事がある。「かの出国数 馬も小生罷在候節入候婦人離絶いたし候由、文之助よ りくだらぬ書状遣し候。」是も亦或は亀田塾中の人歎。  書は世上の風聞に入つて、当時人の視聴を動すこと の最大きかつた小笠原氏の内訂を説いてゐる。「豊前 小倉小笠原侯内乱専ら噂に候。家老小笠原出雲と申倭 人より起り候由、色々の風説に候。」小笠原氏の当主 は大膳大夫忠固で、出雲の名は家老首席に見えてゐる。 その七十五  霞亭は其文化乙亥正月六日の書に世上の風聞として 豊前小笠原氏の内訂を説き、言は一諸侯より他諸侯に 及ぴ、阿部氏の近事が筆に上るに至つた。「御当主も 日光御かかりに付御物入多く、御領分へ御用金かかり 可申之処、府中と申処信藤吉兵衛と申商家一人に而百 五十貫目冥加の為とやらに而上へ献申候。河相周兵衛 と申塾の世話人弟百貫目、右両人に而御用金やめに成 候由。吉兵衛と申ものは味噌屋と申ものの僕に候而、 中年より貨殖、三千貫目程の身上に相成候よし。俗事 ながら商家と申ものは奇なるものに候。」  阿部氏の当主は備中守正精である。前年甲戌九月二 十一日に日光山東照宮修覆正遷宮祝の猿楽があつた。 正精は恐くは此修覆の事に与つたのであらう。荒木義 誉、石井英太郎二家の云ふを聞くに、献金者は延藤吉 兵衛百五十貫、河相周兵衛三十貫、石井武右衛門百二 十貫であつた。武右衛門は周兵衛の弟で、出でて石井 氏を冒した。英太郎さんの曾祖父である。  霞亭は次に渉猟の余偶得たる所を碧山に報じた。 其一。「尾張如来小語中におもしろき話。加納侯臣長 沼国卿。剣師也。弟子三千余人。嘗語日。一士人形質 鼠弱。当初不勝兵。数日能大刀。数月伎大進。歳余弟 子皆日。不易当。窃問。則跡父之讐者也。凡学剣者。 誰不以為死地之用。而不如真有死地者。於是吾亦得進 一歩。此心得学術医術何によらず肝要なり。」長沼国 卿は四郎左衛門と称した。真心影流の剣客である。  其二。「病人の死前に間ひがあり、暫くよくなり候 を、医書には見えず、清人朱鑑池と申に尋候処、回光 反照と申由答候由、周防三田尻の医南部伯民が技慶録 にあり。伯民は此辺九州にて相応之学医なるよし、著 述もあちこち有之、小生などの名もきゝつたへ居候よ し、彼辺の人の参り噂申候。」南部伯民は次年に至つ て霞亭と相見る人である。  其三。「去年(甲戌)御咄申候書は独囎庵徽瘡口訣と 申小冊に候。あらくおもしろく覚候。」霞亭は前年 碧山に永富朝陽の書中の事を語り、偶書名を忘れてゐ たことがあると見える。  書中には猶二三の雑事がある。「をゝの屋(大野屋 歎)伯母」と云ふものが的矢にあつて病んでゐた。「七 十余の人病気とかくはかどり申聞敷、親族段々凋零、 別而大切に御坐候。」霞亭は的矢の家より石決明の味 噌漬を遺られた。「此節迄たべ候。少しはからく候へ ども損じは不致候。五家程の進物にいたし候。粕漬よ りは旨くなけれども、酒客には却而よし。」又佐藤子 文より海老漬を遺られた。「佐藤被遣候海老づけ甚お もしろし。」  二月十五日に霞亭は又書を碧山に寄せた。未だ茶山 の江戸を発すべき期日を知らざる時の書である。当時 井上氏敬との縁談は頻に話題に上つてゐた。所謂地頭 より下るべき願書は此事に連繋したるものの如くであ る。下に的矢書順中の此書を抄する。 その七十六  文化乙亥二月十五日の書より、わたくしは先づ霞亭 自己の身上の事を抄する。「送状願状御遣し被下安心 仕候。先々小生方へ預り置候。送状には及申間敷由に きこえ候。何分追而可申上候。扱一決之義も段々外人 よりは逼り参り候。老先生(茶山)帰後と小生より申候 へども、先生帰期はまだ一向しれ不申候。夫故当月 (二月)中に是非慶事相極め申たくとの事に候。如何相 成申べきや、小生心中はまだ決著不仕候。それは少し 主意も有之候故に候。扱塵累に繋れ侯やとぞんじ候へ ば、今更つらく思ひ候。名教中之人不可奈何候。この 頃ふと儀歌出候。御一笑可被下候。世をばまだそむき はてねどうたたねの夢にぞかよふ峰の松風。いづれも しも慶事相済候はゴ、早速御報可申上候。」覆亭は既 に久しく的矢の地頭より下るべき願書を待つてゐた。 今其願書は下つた。そしてわたくしは、霞亭の忽ち点 出したる「慶事」の二字に由つて、事の井上氏敬の干 帰に関するを知つた。合香の期は既に迫つてゐる。そ れに霞亭は猶とつおいつして輻決せず、夢に入る松 風の音に耳を傾けてゐるのである。  書は此より貝原益軒の養性説に及ぴ、郷親の健康を 希ひ、友朋の安寧を望んでゐる。わたくしは行文の脈 絡を断つに忍ぴずして、略原構の次第を保存し、此に 抄録の筆を下す。「近来養生の道に用心仕候而、貝原 先生の噸生輯要、養生訓等の書、並に医書類摂養に関 係いたし候書よみ候。養生訓、甚謹々おもしろく候。 今度の便に大坂書林へ申遣、一部差上可申候。御大人 様並に母様へも懸御目可被下候。夜分にてもいくたぴ も母様などへ御よみきかせ可被下候。勿論自分の心得 とも相成候。篤実の大儒の作故、虚談は無之候。小生 其中の導引術を先日来ひとり日々いたし候。大分しる し有之候やう覚え候。大人様御疫症有之候。ちと御養 生御服薬等も被成候はfいかじ。余り厚味なるもの御 寝しななどにはよろしかる間敷、疫は別而可畏候。母 様へ御すゝめ申候而、飯後にても又は御気むすぼれ候 節、よき酒二三杯宛めし上られ候やう可被成候。慶助 (敬助沖)顔色始終あしく候。一月一度は是非灸治等い たさせ可然候。扱申に及ばぬ事に候へども、万々一御 双親様の中に御病気等之事侯は寸すこしの事にても早 速御知らせ可被下候。少々の事遠方迄申遣し候にも及 ばぬなどと申事の決而無之様奉願候。夫にかぎらず何 にても緩急の節は大坂屋敷迄三日限御状御差出し可被 下候。遠方隔り候故、夫程たへがたく思ひも不仕候へ ども、とかく御双親様並足下、社中などの夢頻々と見 申候。此頃山口君手書中にも小生を夢に見候而、其夢 中に歌をよまれ候よし被申遣候。其歌は。君来ぬと見 し夢さめてかたらはむ人なき宿の有明の月。小生かへ し。あひみきと聞くもはかなき夢がたりうれしとやい はむかなしとやいはむ。きこえ可申や、御一笑可被下 候。」 その七十七  わたくしは霞亭の文化乙亥二月十五日の書順を抄し て、その自己を説き、父母兄弟朋友を説く一段を終つ たが、文中猶親戚の事に及ぶもの一二がある。其一。 「新屋敷伯母春来如何候哉承度候。三日限御状御差出 し可被下候。」是は前日の書に所謂「をゝの屋の伯母」 であらう。其二。「土佐屋従母御儀御死去誠に驚歎仕 候。(中略。)随俗例七日酒肉相却候而居喪仕候。聞忌 に候故、正月二十三日承知仕候、当二十二日迄服中に 御坐候。」霞亭は金を醜つて茶若くは菓子を供へむこ とを請うた。  書中には又頼氏の近事を報ずる一段がある。「春水 翁令嗣権次郎労症に而此頃死去いたし候由、いまだ二 十五六歳の人、才子に有之候由、可惜又気の毒なるも のに候。是は竹原本家春水弟の春風翁の独り子の由、 久太郎跡へ養子いたし候也。」権次郎は春風惟彊の子 景譲元鼎で、春水惟完の養嗣子となつてゐたのである。 山陽撰の墓表に依れば、元鼎は此年乙亥正月二十八日 に死した。年二十六である。  最後に書籍に関する事二条、飲僕に関する事二条を 抄する。「芭蕉発句集見あたりもとめ置候。大人様へ 御上可被下候。併これも大坂書林便に来月差出し可申 候。」霞亭は既に貝原益軒の養生訓を的矢の家に遺り、 又芭蕉の句集をも遺らうとしてゐる。「樵歌渉筆長井 にまだ八部か六部のこり居候。御入用候はf、御とり よせ可被成候。」長井とは門人長井弥六の家賦。此二 事は書籍の事である。  「おもしろくなきものながら、またさわら子一つ任 有合差上候。」さわら子とは馬鮫魚の鯛歎。是は備後 の産物である。「ついでに申上候。さくちといふこと いつぞや御尋に御座候。これは小生覚え違に候。鯖子 と申はぼらの子をいふなり。外の子はいひがたきに や。」是より先碧山は霞亭に鯖子の何物なるかを問う た。霞亭は答へて魚鮪だと云つた。今前言を改めて、 菩良の子だと云ふのである。按ずるに績には数義があ る。説文には鯖字は見えない。鯖を烏賊とするは、鯖 鯛の相通に因る。正字通から出てゐる。是が一つ。鯖 を鮒とするは籟鱒の相通に因る。博雅、爾雅の註から 出てゐる。是が二つ。此二つは鯛脚の相通に由つて聯 繋してゐる。鯖を小貝とするは績蜻の相通に因る。爾 雅より出てゐる。是が三つ。蹟を魚子とするは蹟蹟の 相通に因る。正字通から出てゐる。是が四つである。 本問題は右の第四義に従つて解すべきものである。さ て鯖子の語は新修余挑県志に見えてゐると云ふ。これ を加良須美に当てたのは重修本草綱目啓蒙の説である。 和名紗には鯖字が無い。新撰字鏡には「子石反、去、 鮪鮒」とのみ云つて、魚子の事に及ばない。しかし和 名鈴箋註は加良須美を以て米奈太の子となし、「謂菩 良子者誤」と云つてゐる。霞亭の斥す所は加良須美で あらう。若し然らば霞亭は箋註に謂ふ誤に陥つてゐた のであらう。加良須美は今績子と書かれずに、鰻と書 かれる。箋註に従へば鰻は繰の調で、繰は奈与之であ る。前段馬鮫魚の鯛は加良須美の劣品である。此二事 は飲解の事である。 その七十八  次に文化乙亥三月五日に霞亭の碧山に与へた書が的 矢書順中にある。霞亭が神辺にあつて此書を裁したの は、茶山が江戸を発して帰途に就いた第十日である。 茶山が藤川駅に宿した日である。  先づ霞亭の奈何に自己の上を語るかを看よう。「小 生無事罷在候。乍慮外御安意可被下候。(中略。)婚事 先月にもいたし候やう外人申候へども、少々主意も違 ひ侯筋に思ひ候人も有之侯やと被存侯故、其一段今一 応菅翁へ申上候上の事と申延し候。いづれ菅翁帰後の 事と申置候。御存之通、小生生来雲水杜多の境涯に罷 在候処、俄に妻奴†の体、且は宵途に拘束せられ候事、 我ながら不似合に被思候而おかしく侯。人倫名教、儒 者第一の事に候へども、山水聞憔悼風流難忘、今更心 迷候。可成は一所不定の方快楽たるべく被存候。併是 は一己之私の事、何分にも御双親様御安心の方に随ひ 可申候。何を申も学業の為に候。」是は二月十五日の 書に云ふ所と大差は無い。しかし「何分にも」以下の 口吻より推すに、霞亭は彼此の問に郷書を得てゐるら しい。そして郷書は霞亭に勧むるに茶山の言に従ふべ きを以てしたらしい。書の首に「二月八日御手簡、晦 日相達し拝見仕候」と云つてある。碧山の二月八日の 書が晦に霞亭の手に到つてゐるのである。  霞亭は上に迎妻の事を言つてゐるが、其他猶禁酒の 事をも一言つてゐる。「当春は例よりは花なども遅く覚 え候。しかし此頃は二三分の開花も見え候。近来養生 の為、酒を止め見申候。各別身体健やかに、脾胃調ひ 候やう覚え候。此序にやめにも被成候は寸ともぞんじ 候へども如何あらむや。」末段は一時の廃飲の功を奏 したるを見て、永くこれを廃せむかと思惟し、又自ら これを能くせむや否やを疑つてゐるのである。  次は碧山の事である。「母様(中村氏)御文足下(碧 山)御出精の義に被存申候。大慶不過之奉存候。何分 とも家業勤学別而御奉養之際に御精勤奉希候。(中 略。)御作拝見仕候。少々加筆仕候。御取捨可被成候。 又々御出来候はゾ御梛示可被下候。随分熟錬被成候様 可然候。 一句の上より全体のととのゐを第一御心掛可 被成候。」  霞亭碧山の袴を更へむとする議は終に行はれた。 「袴御遣被下辱存候。此方の袴今便差出し可申之処、 大坂書林便荷はり候故差拍申候。跡より差上可申候。 此方別段に又々一つこしらへ候。」碧山の神辺に送つ たのは的矢じたての袴、霞亭の的矢に送らむとするの は京都じたての袴である。京都じたての華美を嫌つた 霞亭も、的矢じたての粗野に過ぐるを見て、別に神辺 じたての袴をあつらへたものと見える。  次は霞亭の郷里に遺り、又郷里より得た書籍の事で ある。「芭蕉翁句集大人様(適斎)へ差上候。養生訓書 林へ申遣候間、定而遣し可申候。御心得の為に御熟読 可然候。大人様母様へも入覧可被下候。」是は郷里に 遺つたものである。「大学纂釈掌手仕侯。」大学纂釈と は古賀精里の章句纂釈であらう。是は郷里より得たも のである。  わたくしは霞亭が人参と海苔とを郷里に遣つた事を 此に附記する。「御種人参少々母様へ差上候。御薬用 の節二三分宛も御用被遊候様。畢寛たわゐもなきもの に候へども、先日小生服用にいたし候様一袋もらゐ侯 まゝ少々御すそわけ申上候に候。(中略。)広島のり乍 序少々封入仕候。異郷の風味に候故也。御閑酌御試可 被成候。」 その七十九  文化乙亥三月五日の霞亭の書には二三知人の消息が ある。其一。「及時居士もやはり嵯峨に被居候由、い せき(伊勢喜)より噂申来候。」西村及時は霞亭の住み 棄てた任有亭に居つたらしい。浜野氏蔵河崎誠宇受業 録に「嵯峨任有亭寄懐霞亭」の詩がある。「流憩憶君 楓際寮。壁空無復旧詩瓢。高調任上樵童口。梅発山村 不寂蓼。宜堂先生。」宜堂は及時の一号である。  其二。「当春いせきへむけ藤浪翁へ書状差出し候処、 極月(甲戌十二月)六日御死去のよし、いせきより申来 候。折角心やすくいたし候よき御老人に有之候処残念 に候。弔書さし出し候方もいづかたやらむ、夫故先々 差拍候。」藤浪は未だ考へない。且「浪」字の草体も不 明である。  其三。「此無量寺への書状無拠被頼候。河崎辺へ便 の節御達し可被下候。山田をつ坂に御坐候。貴君(碧 山)御出のせつ被遣候ても又は池上君(隣哉)あたりに 頼候てもよし。あの近辺也。此老僧今は伊賀とやらむ へ隠居いたし候由、此里の出生の由、姪とやらが一人 のこり有之候。」山田無量寺の老僧は名を詳にしない。  書中の抄すべきものは略此に尽きた。最後に天竜寺 の事を附して置く。「此辺(神辺)に而噂には天竜寺焼 失いたし候やう申候。実説に候哉、無覚束候。京都よ り何とも申参不申候。」  此月三月九日に大家不驚が伊勢山田の南岡に葬られ た。名は寿、字は士贈、東平と称した。信濃国伊奈郡 駒揚駅の人大家子躍の子である。河崎誠宇の受業録に 孫福孟紳の詩がある。「三月九日葬家子贈干南岡、是 夜夢与伯順訪士贈、酒間言志、覚後恨然、賦此賑伯順。 雲飛水逝杏無縦。玉骨空堆土一封。名是令君身後著。 来猶与我夢中逢。弔花春事添新恨。背月宵遊歌旧容。 推枕回看燈影暗。耳辺如聴接談鋒。」想ふに霞亭の計 を得たのは数十日の後であらう。しかしわたくしは遺 稿中の輯詩を此に録する。「悼家不審。輝礫気象使人 思。同学行中独数奇。十載交歓帰片夢。一生清苦見遺 詩。峨山雨雪連林夜。紫海春風回樟期。蔵得書筐図酌 別。忍看親自写仙姿。」詩の後半は自註があつて始て 解せられる。「辛未仲冬。君将遊筑紫。問予於嵯峨梅 陽軒。一夜酒間作酌別図。」  験巌日記を閲するに、茶山は此月三月七日に河崎敬 軒と共に四日市駅に宿し、八日に敬軒と別れた。その 神辺に帰つた日を詳にしない。行状に「三月帰国」と 云つてあるのは江戸を発した時である。集に「帰後入 城途上」の詩があつて、「官駅三十五日程」と云つてあ るを見れば、二月二十六日に江戸を発した茶山の神辺 に帰つたのは四月朔であつた筈である。乙亥は二月大、 三月小であつた故である。しかし後に引く江原等の書 に拠るに、三月二十九日であつたらしい。  四月十九日に霞亭は井上氏敬を嬰つた。霞亭は星期 前に碧山に与ふる書を作り、未だ発送せずして妻を取女 り、廿一日に追書して発送した。的矢書順には惟其追 書のみが存してゐる。「追啓。此書状相認置候処、便 無之延引仕候。本書申上候慶事延引と申上候処、茶山 翁急に思召被立候而、本月十九日婚事相調申候。普請 中やはり廉塾に罷在候。右之段御双親様へ被仰上可被 下候。披露之義は菅翁姪甥と申ものに而、小児(苫旦二 惟縄)之義はつれ子と仕候而、則私子分にいたし候。 是又左様思召可被下候。先は此児に菅氏をたてさし候 内意に御坐候。」 その八十  上に抄しかけた霞亭迎妻後の第一書には、三十行に 満たざる断片ながら、猶二事の録存すべきものがある。 大坂の書蝉を弟碧山に紹介したのが其一である。「大 坂に而書物もとめ候処、多少によらず、心斎橋筋北久 太郎町河内屋儀助と申書林へ可被仰遣候。此方より其 訳申遣置可申候。代払は節季にても可宜候。才が屋 (雑賀屋)迄と…ゝけさし候義可然候。」大坂の種玉堂河 内屋儀助は京都の汲古堂河南儀兵衛と共に茶山の詩を 刻した書佑である。北条氏は新に茶山の親戚となつた ために、此の如き便宜を得たのである。其二は霞亭が 碧山に朝詩を作ることを勧めた事である。「大家、守 屋弔詩など御作り可然候。」大家は不審寿である。守 屋は未だ考へない。以上は文化乙亥四月二十一日の書 である。  的矢書順中次に日附を「四月廿六日」とした履亭の 書がある。亦碧山に与ふるものである。此日附には些 の疑がある。何故と云ふに、書の首に「三月念二日御 手教(碧山手書)今日廿五相達拝見仕候」と云つてある からである。然らば二十五日に書きはじめ、二十六日 に書き畢つたものかと云ふに、其墨痕を検すれば一気 に書いたものらしく見える。初の「廿五」は恐くは廿 六の誤であらう。  此書には先づ霞亭夫妻の新居の事が見えてゐる。 「此間(二十一日)書状相認候而京都迄頼遣し候。大抵 此書状と前後に相達し可申侯。爾来無何違状候。其書 中にも申上候通、本月十九日小生婚事相済候。御双親 様へ被仰上可被下候。当分やはり廉塾に罷在侯。新居、 町にざつとしつらひ候。来月(五月)中には落成も可仕 候。出来次第彼方へ引移り候積りに御坐候。此方先生 (茶山)風、何事もざつとと申候事、無造作なる事がす きに候。先日婚事もいひ出し侯而半日間に事を終へ候 と申位の事に侯。」茶山の坦率を見るに足る。  霞亭は碧山の来つて婚を賀することを辞した。「貴 君御出之義被仰聞候へども、小生義いくへにも懸御目 たく侯へども、遠境御苦労、且は費用等も入候事に候 へば、必々態と御越には及不申候。夫よりも山田社中 にてもよき友なども御坐候はじ、御見合御越も侯はゞ 妙にて可有之候。小生非事永住に付、御越之義は決而 夫に及ぴ申まじく候。」霞亭の坦率も亦茶山に譲らな い。  霞亭は廉塾に厭ふべき客と喜ぶべき客とのあること を語つた。「先生(茶山)帰後日々来客迷惑致候。筑前 竹田定之允被見候而新塾に滞留いたし候。此人咄相手 に成候而悦申候。」竹田定之允は茶山集、膜姦日記等 に見えてゐる器甫である。茶山と共に江戸を発して西 したことが験姦日記に見えてゐる。茶山集を閲するに、 竹田は二年前癸酉にも神辺にゐた。「又々被見」と云 ふ所以である。  霞亭は自他のために養性に留意することを忘れない。 「御病用之外御他出も無之御読書はかどり候由、大慶 不過之奉存侯。何分御勉励奉祈候。追々暑蒸、居処御 ゑらぴ被成候而、暑熱の身に伏し不申様御心付可然候。 双親様はもとよりの義、足下(碧山)弟妹共時々御灸治 等被成候様祈候。小生日々独按摩等心懸候。其効か、 一段身体も壮健を覚え候。」わたくしは此に養生訓の 事を附する。「貝原養生訓新本増補の方差上候様申来 候。相達し候哉。」此は大坂書佑の報道である。  霞亭は一の拓本を佐藤子文に贈つた。「此墨本御序 に佐藤へ御達し可被下奉頼候。」その何の拓本なるを 知らない。四月二十六日の書の事は此に終る。 その八十一  文化乙亥五月には霞亭が書を的矢に遣つたが、今存 してゐない。そのこれを遣つた証は六月十一日の書に 見えてゐる。亦弟碧山に与へたもので、的矢書順中に ある。「三月四月五月共に書状差出し候。大坂屋敷並 河儀(河内屋儀助)より一々勢州へ下し候様申来候。定 而浮沈は有之間敷候。才が屋方御聞可被下候。」  霞亭が新居の工事は漸く進捗してゐる。「先書段々 申上候通、以来何の別条も無之候。新宅普請も已に五 十日程日々かかり居候得共、とかく将明不申候。ざつ といたし候修屋にても日数かかり候ものに候。いづれ 当月(六月)中には引移り候事出来可申候。至極涼敷家 に有之、後は菜園など有之、黄葉山を正面に見候。」歳 寒堂遺稿に「移居雑賦」と題する五律七首がある。其 一に「朱蓋峰当旛。紫薇樋隔培」の十字がある。旛に 当る峰は黄葉山であらうか。  霞亭の郷親に摂養を勧めたことは例の如くである。 「当年は例年よりも暑気未だうすく覚え候。御地辺は 如何候哉。七八日以前より葛衣など著し候位に候。暑 中御双親様始足下並に弟妹等随分御用心専一奉祈候。 御灸治等御心懸なされ候やう可然被存候。涼敷処へ御 立まわり被成候方御用心第一に侯。暑中は業務(医業) 等もさまであくせくと被成候わぬやう(被成候)が尤可 宜候。」  山口凹巷、佐藤子文等は久しく消息を絶つてゐた。 「勢州山口より書状三月参り候のみに而、佐藤其外よ りも久敷便無之候。」  門人永井弥六の家は霞亭と郷親との間に立つて、書 信を伝逓してゐたと見える。「永井民相替候儀も無之 候哉、当年は一度も書状参り不申候。書状毎々御世話 之事篤く御礼可被下候。爾来相頼候処やはり永井氏よ ろしく侯哉、御序に御きかせ可被下候。」  六月十一日の書の事は此に終る。  霞亭は六月には新居に移ることを得なかつた。その これに移つたのは七月五日である。事は菅氏の族人江 原与兵衛菅波武十郎の二人が適斎碧山父子に与へた書 に見えてゐる。「誠に先般者就吉辰譲四郎様御婚儀首 尾能御整被成、其後も無程御居馴染被成芽出度、皆様 御満悦之段奉察、於此方一同喜仕候。先生旧宅も今般 普請出来、当月五日譲四郎様御夫婦共日柄能御移被成、 重々芽出度奉存候。随分御安養被成御坐侯。乍悼御休 意可被下候。老先生(茶山)も当三月末無悲帰宅被致候。 是又御安心可被成下候。(下略。)七月十九日。江原与 兵衛。菅波武十郎。北条道有様。御同立敬様御侍者 中。」移居雑賦の詩に就いて新居の方位景物を考ふる に、茶山の家と相距ること遠くはなかつただらう。 「移居伍一鳩。衡宇近相望。(中略。)農昏来往好。路 入稲花香。」新居より茶山の家に往く道は水田の傍 を経たものと見える。又新居には木樺の生簾があつて (木樺半簾秋)、東隣は酒店であつたらしい。(東隣是 酒櫨。)  是より先同じ月の十五日に霞亭は碧山に与ふる書を 作つた。移居後十日の書であるから、必ずや移居を報 じたものであらう。惜むらくは前半は供亡して、的矢 書順中には其後半のみが存してゐる。此断片には南部 伯民の事が見えてゐる。「南部伯民と申周防三田尻の 医人随分名高き人に候。学問もよし、療治もよろしく 候よし。先日此辺へ被遊候而、塾へも被見候而一見い たし、今日西帰、詩をよせられ候。一寸和韻いたし候。 原韻は前後忘却仕候。拙和懸御目候。帰興幻々任短蓬。 暫歓如夢忽西東。扇頭題寄清新句。揮起周洋万里風。 甚幻作に候。」其他には京都浅井周助の事、嵯峨樵歌 の事がある。「京都浅井よりは此間書通有之候。」「嵯 峨樵歌残本有之候はじ屋敷迄御遣し可被下候。段々人 のもとめ多く有之候。」  同じ月の二十三日に霞亭は又碧山に与ふる書を作つ た。茶山の的矢に遣る手書と物品とが此書と共に発送 せられむとした。「京都便荷物等皆々仕立仕廻(しま ひ)候処、太中翁(茶山)より書状包参り候故、一併に 差遣候。足下へ書状なれば足下御返書、大人様へ御状 なれば大人より御返書可被下侯。何やら此中に入居申 候。」 その八十二  文化乙亥七月に霞亭夫婦が神辺の新居に移つた後十 八日の事である。霞亭は書を弟碧山に与へた。上に云 つた七月二十三日の書が是である。  わたくしは此書を見て、霞亭の新婚新居を併せ賀し た菅氏親戚の一人江原与兵衛が霞亭の家に近く住んで ゐたことを知る。「江原与兵衛も先達而帰郷、此節は もとの通役儀等被仰付候。つい隣家に御坐候。」帰郷 は江戸より還つたのである。  又新居雑賦が少くも幾首か早く此時に成つてゐたこ とを知る。霞亭はこれを扇に書して碧山に贈つた。 「扇子の詩は新居の作也。又々近々出来候はじ可差上 候。」  霞亭は茶山の贈る所の物を此書と共に発送したので、 報理のために思を労し、碧山に告ぐるに茶山の食嗜を 以てしてゐる。「急に御報にも及申間敷やに候。もし も被遣候はじ、干瓢などは随分よろしく候へども、去 年来山田より大分参り候而、まだ多く有之候。わかめ、 ぼら等御無用に候。あわぴも段々参り候。菅翁は何も 好のなき人に候。油こき物は皆きらゐに候。しかし海 鰭の白き皮付肉のよき(が)候はビ、御序に御恵可被下 候。山田の便にて可被遣候。是もいかやうにてもよろ しく候。先は小生などたべ候料に充候。」  此書の末に「余(鯨)は本文両通に有之候」の句があ る。わたくしは的矢書憤に就いて所謂本文の何である かを探討して、遂にこれを知ることを得た。是より先 七月十五日に霞亭は的矢に遣るべき書を作つたが、発 遣の便を得ずに、留置した。次で前日二十二日に又一 書を作り、父適斎に献ずる索覇一筐、碧山に送る袴地 と併せて梱包した。二十三日の書は更にこれに副へた ものである。そして七月十五日の書は其前半を侠し、 二十二日の書は全く存してゐる。わたくしは後者に由 つて此顛末を明にしたのである。  二十二日の書は只「七月廿二日」の日附があるのみ で、逮に見れば何の把捉すべき処もない短文である。 「中元(乙亥七月十五日)書簡相認置侯処便無之延引、 此信と一併に相成申候。(中略。)甚麗末之品に候へど も索麺一箱大人様へ進呈仕候。不敗物、何も此方より 差上候ものとては無之、御免可被下候。保命酒は途中 に而間違出来やすく、かつは京よりの賃銭等あまり費 に候間差控申候。」惟此の如きに過ぎない。此時袴地 が同じく送られたことは、後の八月八日の書に由つて 証せられる。  以上三書同発の事を言ふ一段は、わたくしと錐狼 項の甚だしいのを知つてゐる。此篇を読むことを厭は ぬ少数の好事者も、定て都意の存する所を知るに苦む であらう。しかしわたくしは年次なき我国の古人の書 順を読む法を講じてゐるのである。そして講究のメカ ニスムの一隅を暴露して人の観るに任すのである。此 講究の有用無用はわたくしは問ふことを欲せない。世 に偶無用の人があつて好んで無用の事をなすも、亦 必ずしも不可なることは無からう。  前年渋江抽斎を伝した頃、一文士は云つた。森は断 簡を補綴して史伝を作る。此の如きは刀筆の吏をして 為さしめて足ると云つた。是は容易く首肯し難い。且 く広瀬旭荘の語を借りて言はむに、史館は正史を修む る処である。聞史を修むる官癬は無い。縦ひこれを設 けられたとせむも、吏骨の間、忍んで此の如き事をな すものの有りや否は疑はしい。わたくしの此言をなす のが、官癖に於て有用の事が等聞視せられてゐると云 ふ意でないことは固よりである。 その八十三  文化乙亥八月には的矢書順中霞亭が弟碧山に与へた 八日の書が遺つてゐる。方五六寸の紙片に蝿頭の文字 で書いたものである。「半切切れ候而甚細書御免可被 下候」とことわつてある。その乙亥なるを知るは彼三 書同発の事より推すのである。「七月京都舛屋便に索 麺及袴地共外菅氏よりの品物等一併佐藤子文迄頼遣し 候。此節大方相達し可申奉存候。」袴地の同じく往い たことは、此に由つて知られる。霞亭が京都で買ひ求 め、その華美なるを嫌つて碧山の袴と更へたものであ る。舛屋の「舛」字は墨藩に半ば掩れて不明である。  これを書する時霞亭は碧山の風邪に冒されたことを 聞いてゐた。「風邪は当分之事に候哉、早速御慎みの よし、尚々御用意専一奉存候。」霞亭自家の生活は平 穏無事である。「日々会業いそがしく候而、春来いづ かたへも参り不申候。二月に二里許有之候処へ遊行候 外、一切出門不仕候。寂奥御憐可被下候。」恒心詩社 の音耗も断えてゐた。「山田社中より,も一切音信たえ 侯。」的矢の親戚に病む人があつて漉えた。「新屋敷伯 母御快気の由大悦仕候。」  此月八月の二十日に恒心社の一員東恒軒が残した。 誠宇の受業録に孫福孟紳撰の墓表がある。恒軒、名 は吉丑、字は君孚である。父久田常瑛が京都丹羽某の 女を嬰つて二子三女を生ませた。兄を常隼と日ひ、家 を嗣いだ。恒軒は其弟である。女子は長鶴が天し、次 俊が森島氏に適き、季幸が八家氏に適いた。恒軒は宝 暦十三年に生れ、安永九年十八歳にして東重邦に養は れた。初の妻は小田愛忠の女、後妻は洞津の藤川氏で ある。並に子がなかつた。此秋水腫を患へて残した。 年は五十三であつた。  恒軒の著す所は論語解、勢江集、恒軒稿がある。(墓 表。)嵯峨樵歌に日く。「君夙研箪魯論。別為一註解。 今漸已脱稿。嘗謂予日。明春予歯五十。拙著亦適当完 成。吾願会諸君訂議。且柳自賀成業。子其千里命駕。 深所希望。」是は「明春予歯五十」と云ふより推すに 文化辛未の事であつた。恒軒の論語解は上梓せられた か否を知らない。諭語年譜は支那日本の撰述を併せて 「論語解」と題するもの四十八種を櫨列してゐるのに、 恒軒の書は其中に見えない。  恒軒の人となりは墓表にかう云つてある。「先生為 人敦直。平生倹薄自安。与人言。必吐中情。行無虚飾。 或遇非義。錐貴介蒙富。輔面折其不可。無所回避。以 是人亦高其風。敬而慕之。性嗜酒。飲量過人。今舷 (乙亥)自春渉夏。全廃飲。」霞亭の樵歌に云ふ所も略 同じである。「其為人。天真横出。不修辺幅。而逢義 不可。観面罵斥。無所趨避。有酒量。飲則口吃。」口 吃の事は霞亭の一聯にも見えてゐる。「得酒談奇奇或 吃、辞銭守道道曾玄。」  霞亭は計を得て「突東恒軒」の五古を作つた。未刊 の遺稿に載せてある。誠宇の受業録にも亦此詩があつ て末に「乙亥九月、北条譲拝具」と署してある。篇長 きを以て悉く録するに及ばぬが、わたくしは句を摘ん で霞亭と恒軒との交を一顧したい。 その八十四  文化乙亥八月二十日に東恒軒が残したので、霞亭は 九月に五古を作つてこれを弔した。わたくしは詩の云 ふ所より種々の事を知ることを得た。「憶昔初相見。 忘年承盛春。中間十五年。友誼曾無倦。」霞亭の恒軒 に交つた初は、享和辛酉去洛の前後でなくてはならな い。恒軒三十九歳、霞亭二十二歳の時であつた。  二人の交は霞亭が林崎書院長たるに及んで深きを加 へた。「櫟街寄薄迩。来往無農夕。疑義時質問。蔵書 互通借。」恒軒は既に四十七歳、霞亭は三十歳になつ てゐた。「櫟街」は竹柏園主に乞うて伊勢人に問ひ、 山田月読宮の北なる一之木町なることを知つた。昔い ちゐの木の大木ありしよりの名で、元文の頃に至るま で「櫟町」と書したさうである。  霞亭の嵯峨生活は二人の間を隔てたが、雁魚の往来 の絶えなかつたことは樵歌に由つて徴せられる。前年 甲戌の冬霞亭は神辺より帰省して、又恒軒と相会した。 「去年帰省日。同人会一堂。故態嫌猜絶。劇談平昔 償。」霞亭が神辺に帰る時、恒軒は送つて宮川に至つ た。「宮水送我夜。洗愁累千膓。耽々天将曙。班馬噺 路傍。」  此年乙亥に霞亭は河崎敬軒の書を得て、恒軒の酒を 廃めたことを知つた。「前月河子信。報君近状来。春 来乏気力。不復街酒杯。聞之難不安。意謂是偶然。不 日応回復。吾心為自寛。」  未だ幾ならぬに恒軒の計は神辺に至つた。「荘然疑 夢殊。把計再三視。視此良不妄。酸辛満五臓。海内足 交遊。知己斯人喪。」霞亭の哀悼は頗切であつた。 「已夷終天地。何路接容光。容光悦在目。泣向白雲長。 孤鴻叫天際。明月照屋梁。展転不能練。卿卿伴寒蟹。」  東夢亭は恒軒の残後、山口凹巷の世話に由つて青山 氏より入家した恒軒の末期養子ださうである。  九月九日に霞亭は書を碧山に与へた。亦的矢書順の 一である。「小子無事、家内とも無悲候。」有妻の人の 語である。  霞亭の近状を抄する。「此方諸般無別条候。新宅追 々草木等うゑ候。仲秋の月見は居宅にていたし候。日 々昼間は塾へつめ候而、少しも閑時なく候。講書は書 経集伝、左伝等隔日にいたし侯。(中略。)とかく今迄 方外之人となり居申候処、少々宛検束、節句じやの、 親類吉凶などと役しられ候而、時々福山へも参申候。 迷惑仕候。併世の中のさまと、無是非観念仕候。」廉 塾に於ける本業の一端が始て窺はれる。「書経集伝」 は所謂察伝であらう。当時陳師凱9勇通、衰仁の砥察 編、陳櫟の纂疏、董鼎の纂註が已に刻せられてゐて、 就中後の二書は新に市に上つたのであつた。左伝の 如きは秦槍浪の校した流布本が始て四年前に刻せられ たのである。  文中「仲秋の月見は居宅にていたし候」の句は、歳 寒堂遺稿の詩を以て註脚とすることが出来る。是より 先霞亭は微悲があつた。「十四夜、余臥病、不能赴廉 塾詩会」云々の詩がある。次で「十五夜、諸賢集草堂、 得青」の詩がある。「待月黄昏坐小亭。遣然幸破径苔 青。先欣微白生遙嶺。巳見清光可半庭。病況今宵潭似 忘。歓情近歳未曾経。酒残不忍空眠去。護得暁寒依紙 屏。」  次に諸友の消息を抄する。山田詩社の人々は金を醜 つて霞亭の婚姻を祝した。「恒心社十人名前より金五 百疋昏儀祝儀に参り候。子文(佐藤)よりは中元祝儀百 疋被遣候。この十人の名前の人へは御出会之節名々御 礼被仰可被下候。」 その八十五  文化乙亥九月九日の霞亭の書より、今諸友一々の状 況を抄出する。  其一。佐藤子文。「子文的矢紀行及詩冊参り候。驚 入候上進に御坐候。三十韻の的屋より帰途の詩最合作 に候。」  其二其三。東夢亭、孫福孟紳。「文亮(夢亭)、孟紳 駿々の由欽服仕候。」霞亭は以上三人の進益を説いて ゐる。  其四。東恒軒。「恒軒久敷病気の由、何卒回復いの り候。」恒軒の計は九日には未だ至らなかつたのであ る。  其五。山口凹巷。「凹巷兄は迂斎翁物故後はとかく 多事之由に御坐候。」凹巷の父迂斎又迂曳の残したの は此年乙亥四月十二日であらう。河崎誠宇の受業録に 「丁丑孟夏十二日迂隻大祥忌」の文がある故である。  此書には最後に霞亭の同胞二人の年忌の事が言つて ある。そして其一人の残年は今北条氏に於ても浬滅し て復知るべからざるに至つてゐたものである。「尚々 今年はおぬゐ内蔵太郎十七年と存侯。定而感愴奉察候。 已に当月正当に候。薦詩等跡より差出し可申候。」霞 亭の弟子彦は寛政十一年己未九月十九日に残した。此 年乙亥九月が十七回忌「正当」なることは霞亭の云ふ 如くである。是は既知の事実である。これに反して霞 亭の同胞女子、適斎の長女縫の生残は今に至るまで全 く知るべからざるものであつた。然るに此書の云ふ所 に従へば、縫も亦寛政己未九月に残したのである。惟 其残日のみが尚未詳である。  霞亭が「跡より差出し可申候」と云つた詩は歳寒堂 遺稿に見えてゐる。「九月(乙亥)十九日亡弟子彦忌辰 賦薦。姜被難忘当日情。尤憐逐我客京城。僑居逢盗無 衣換。孤寺同僧有菜烹。暮雨渚辺鴻雁下。秋風原上鶴 鴇鳴。天涯沸涙空盈把。不得家山一掃螢。」霞亭の所 謂薦詩は辛未の作が嵯峨樵歌に見え(「露下黄英代辮 香」の七絶)、癸酉(「世事荘然真可嵯」並に「筆硯依然 猶未焚」の七絶二)甲戌(「遠向家山差一庖」等の七絶 六)の作が遺稿に見えてゐる。上の七律は其次である。  的矢書順に九月十五日の霞亭の書があつて、又「索 覇一箱及包物、外に袴差上候」と云つてある。是は前 に裁して未だ発送せずにゐた書(上の九月九日の書歎) と同じく霞亭の手を離れたものである。「此頃書状差 出し可申相認置候故、一併差上候。」宛名は又碧山で ある。  碧山が的矢の中秋を報じた故、霞亭は神辺の中秋を 以て酬いた。「中秋頃時候大抵被仰越候趣に候。しか し十四夜小陰、十五十六は快晴に候。百里外少々の不 同は有之候。拙詩にて略御領知可被下候。」詩は上に 云つた十四夜病中と十五夜草堂集との二律である。  書中霞亭の自己を語ること下の如くである。「兎角 此方も菅翁内人暫時病気、此頃少々快気と相見え候。 塾長の儀故、いづかたへも出遊出来不申候。甚窮屈な る事に侯。」内人は後妻門田氏である。病気の事は茶 山集に見えない。  霞亭は咳逆の志摩に行はれたことを聞知した。「八 月風邪流行いたし候由、御闇敷奉察候。」  霞亭は碧山に託するに敬助惟寧を教ふることを以て した。「敬助へ詩作素読出精いたし候やう、乍御苦労 御心付可被下候。四書五経文章軌範詩類熟読いたさせ 可被下候。」 その八十六  文化乙亥十月には先づ日附の無い霞亭の一書がある。 「只今大坂へ幸便幻々相認候。乱筆御免可被下候。」 是が日附を脱した所以であらう。わたくしが此を十月 の作とするは、八月九月の書の後に発せられたこと、 十月朔に郷書を得た後に発せられたこと等より推すの である。「九月五日御認之御状(碧山の書)十月朔相達 申候。(中略。)此方より御書付(既に的矢に達した霞 亭書順の目録)之外八月九月書状差上候。」此十月の乙 亥なることは下に抄する書中の事件に由つて知るべき である。此書も亦的矢書順の一で、碧山に与へたもの である。  例の如く先づ神辺の事を抄する。「当方無事罷在候。 両家(茶山の家、霞亭の家)依然に御座候。」「別居以来 下地(別居前)よりは多事、いづかたへも出不申、日々 講業に逐れ候計、おもしろくもなんともなく候。」日 常生活に倦めるものの口吻である。山陽をして前に廉 塾を去らしめたものは此倦懸であつた。「この節は御 地鯨魚とれ候頃、嚥御風味可被成と奉察候。」人の性 情には時代もなく国境もない。霞亭の張季鷹たること を得なかつたのは欄むべきである。  適斎と茶山との間には已にコルレスポンダンスが開 かれた。「大人様より菅翁へ御状辱御礼申上候様被申 付候。」  諸弟の講学は霞亭の頃刻も忘るること能はざる所で あつた。然るに良助は蕾に兄碧山に劣るのみでなく、 弟濃人にだに及ばなかつた。「良助素読如何はかどり 候哉。」  東恒軒の死は大いに霞亭の心を傷ましめた。「恒軒 下世之由御しらせ被下候。山田所々よりの便に春来病 状相きこえ如何々々と日夜案じ申候処、右之仕合扱々 残念千万成事に候。年来御存之通の懇意、実に親戚同 前に存じ候。旧感不已、悲歎仕候。いまだ社中(恒心 社中)よりは計音不参候。弔詩此節案じ居申候。情尽 き不申候而、何とも趣向出不申候。」計は十月朔に綾 に至つたものと見える。詩の成つた後、「乙亥九月北 条譲拝具」と署して伊勢へ遣つたのは、残日に後るる こと甚だ遠からざらむを欲した故であらう。文書の日 附は尽く信ずべからざるものである。  柏原瓦全は尚健であつた。「京都北谷瓦全丈へは去 年一別後書通も得いたし不申候。壮健のよし安堵仕 候。」  浅井周助は猶京都にあつて問候を怠らなかつた。 「浅井よりは時々便有之候。」  次に挙ぐべきは的矢書憤中の断簡で、「九月十二日、 北条譲四郎、御母様人々御前へ」と書してあるもので ある。此書は前半が失はれてゐる。その乙亥の作なる ことは、神辺諸家の霞亭夫妻に贈つた祝物が列記して あるのを見て知るべきである。  「江原伊十郎(となりさかや、庄屋也)より郡内島、 荒木市郎兵衛よりきむく小袖、荒木隠居(菅太中様妹 の家)よりふだんぎ一、井上源右衛門(おけう親、以上 並に皆原註)より小袖料二百疋と餅酒肴もらひ候。其 外は皆々酒肴の類ばかりに候。わけなき事に候へども、 何も申上候事なき故かい付候。私も病後はかくべつ達 者になり候やうに御座候。常よりもふとり居候。たべ もの甚うまく候。来春は何卒御見舞申上たく、今より たのしみ居申候。時節切角御いとひ被遊候やういのり 上候。小松どのへも御序によろしく頼上候、其外御親 類中へも同様よろしく願上候。」  霞亭の中村氏に寄せた此書は字々母を慰めむと欲す る子の情より出でたものである。八月中旬の霞亭の不 予が偶母の耳に入つたので、霞亭は極力其迩を滅却 しようとしてゐる。移居雑賦の東隣の酒櫨は江原伊十 郎であつた。千田の荒木氏は茶山の季妹まつ、後の名 みつの適いた家である。井上正信は原註の如く敬の父 である。祝物の数目は其半を失つたもので、上に「小 袖=の三字が残つてゐる。  十一月には「霜月十三日」の日附を以て碧山に与へ た霞亭の書が的矢書順中にある。霞亭の自ら語る所は かうである。「小生無事罷在候。乍揮御安意可被下候。 (中略。)いづれ明年の中には見合帰省仕度存含み罷在 候。」  碧山の詩と書との事が文中にある。「元日の詩御録 し被下辱存候。近来書甚見事に被存候。楷書法帖時々 御心懸御手習可被成候。詩稿は力をきわめてあしく申 候。御改正且は御自得御精思可被成候。」元日の詩を 録したと云ふは、次年丙子元日のために予め作つた詩 の稿であらうか。  霞亭は反復して東恒軒の死に説及んでゐる。「恒軒 下世御報知被下慨歎不少候。社中索落察入候。」  河崎敬軒は北遊してゐる。「河敬軒越後へ砥役、越 前府中より通書、縷々近状等くわしく被仰聞候。」  山口凹巷は新に書斎を営んだ。「河崎君御状に山口 に書斎又々出来侯由うらやましき事に候。かの洗愁処 には文亮始少年多く寄寓いたし候由、弥六も被参居候。 珍重之事に候。」洗愁処は旧書斎であらう。これに寓 してゐる文亮は恒軒の嗣となるべき夢亭である。弥六 は永井氏である。  霞亭は旧門生高田静沖の文稿を碧山に寄示した。 「文之助春来遣候文章懸御目候。あのきよろつき者に はよく出来候。」  霞亭が碧山の問に答へた雑事は何事であつたか不明 である。「被仰越候件々は別紙にしるし申候。御接手 可被下候。其内胎毒欄の事肝要也。」 その八十七  文化乙亥十二月朔に霞亭の家では二客に酒を供し、 韻を分つて詩を賦した。歳寒堂遺稿に「鈴木今村二君 見過、得尤」と云ふものが是である。「客従城府至。 路問早梅不。示句清何甚。呼杯緑已浮。陰陽愁短景。 歳月感東流。予卜臓前雪。尋君続此遊。」鈴木は宜山 圭である。今村は紳夫である。此小宴の月日は的矢書 順中の詩箋に由つて知られる。末に「極月朔也」と書 してある。  九日に霞亭は書を弟碧山に寄せた。亦的矢書順の一 である。霞亭が察伝の講説は既に寛つてゐる。「此方 何も不相替候。講業は書経此間卒業、近思録講釈いた し候。」  霞亭は碧山の山田に往つたことを聞いて、これに海 ふるに益を先輩に請ふべきを以てした。「山田へ御出 被成候由、諸君子御無事被仰聞、辱奉存候。御出之節 はなんぞ平生蓄疑いたされ候義等、山口兄など、其外 河崎、文亮、孫福へ御質問被成候やう可然候。とかく 何に付ても取益有之候様御心懸専一奉存候。御作拝見 仕候。随分おもしろく候。又々御近作御示し可被下 候。」山口兄は凹巷狂、河崎は敬軒、文亮は夢亭製、孫 福は公裕である。  霞亭は此書中に江原与兵衛の死を報じてゐる。「江 原与兵衛労擦終に養生不叶、当五日死去いたし候。可 憐事に候。」江原は乙亥十二月五日に残したのである。 茶山には朝詩が無い。霞亭の遺稿には「春日、酒徒江 原与平亡」の一絶がある。「七十人生今半強。莫喧花 底酔顛狂。南隣愛酒伴何在。如此春光却断腸。」凹巷 にも亦「聞江原君与兵衛計」の詩がある。「宿昔難披備 海雲。三年計至夢中聞。寧知一病成長逝。欲把前書復 寄君。」三年は別後三年の謂であらう。  季冬は的矢に菩良を漁する時である。「此節は鯛魚 漁如何候哉。」碧山は霞亭にたたきを胎り、佐藤子文 はえひたたきと青海苔とを胎つた。「たたき遠方辱奉 存候。しかし箇様之物は不むきに有之候。佐藤よりゑ ひたたき青海苔菅江原小生等へ被遣候。ゑひたたきは 去年のやうに参り不申候。青海苔は調法いたし候。す べてあの様なるいたまぬ物はよく候。」たたきと云ひ、 えひたたきと云ふは、いかなる製品歎。方言を知る人 の教を乞ふ。  二十二日に霞亭は福山に往つた。的矢書順中の詩箋 に遺稿の載せざる所の詩がある。「晩冬念二、携僕定 蔵赴福山、偶憶去年今日播州路上事、因賦。携汝復為 去歳看。行々道旧互相歓。記不白鷺城頭店。一椀茅柴 衝暮寒。」前年十二月には霞亭は十九日に大阪を発し て、二十五日に神辺に帰つた。二十二日には姫路城下 を過ぎたであらう。わたくしは此に北条氏の僕の名を 見出だしたことを喜ぶ。  箋には此詩の次に茶山、田中辞卿に訪はれた作、椀 寮除夜の作が列記せられてゐる。.知るべし、茶山等の 来たのは二十三日以後であつたことを。二詩は遺稿に 譲つて録せない。辞卿は其人を詳にせぬが、霞亭は次 年丙子帰省の途次これに京都に濯遁し、輻湊亭に会飲 する。「一尊今夜晃川月。匹馬明朝鹿嶺雲。」(帰省詩 嚢。)  茶山の集を閲するに、「除夜草堂小酌」の客中霞亭 の名を闘いでゐる。菅氏草堂の宴と魂寮の宴とは或は 所を異にしてゐたもの歎。しかし茶山に「一堂蟻梅気、 環坐到天明」の句があり(分得明字)、霞亭に「華堂酒 正薫、燈壁梅如画」の句がある。(分得画字。)又想ふ に霞亭は已に菅氏の族人たるが故に名を客中に列せな かつた歎。霞亭は乙亥三十六歳であつた。 その八十八  文化十三年の元旦には、茶山が前年乙亥に歳を江戸 の阿部邸に迎へたことを憶ひ出でて一絶を作つた。 「彩画屏前碧澗阿。新嬉両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。 夜会郷親興亦多。」歳寒堂遺稿に霞亭慶韻の作がある。 「元日和茶山翁韻。楽道安貧老澗阿。不知朝市事如何。 梅花香裏人如玉。偏覚春風此際多。」  河崎誠宇の受業録は偶此歳首の茶山の賀帖を写し てゐる。敬軒に与へたものであらう。「単帖。菅晋帥、 竹田珠、甲原義、臼杵愚、同恭賀新嬉。」筑前の竹田定 之允、名は珠、字は器甫であつたと見える。豊後の甲 原漁荘、名は義、字は玄寿で、此人は東涯風に俗称を 以て字としてゐたと見える。佐貫の臼杵黙庵、後の牧 黙庵、名は愚、又古愚、字は直卿であつたと見える。 器甫、玄寿、直卿は茶山集に累見する名であるから、 好事家のために此に註する。  的矢書順中には此正月の書と認むべきものが一も存 してをらぬが、遺稿を閲するに霞亭は此正月に詩を作 ることが極て多かつた。先づ七日には茶山と共に韻を 分つて詩を賦した。茶山に「晴久渓村転凍凝」の律が あれば、霞亭に「他郷他席亦清歓」の律がある。次で 竹田器甫が訪ねて来て、古賀精里に和する畳韻を示し、 霞亭がこれに和したのが「牛日」だと云つてある。此 年丙子は元旦が辛巳であつたから、牛日は九日己丑で ある。  次に「寄韓聯玉」「聞高木呆翁隠梅拗」の二律は並に 遺稿に見えてゐるが、受業録にこれを抄して、末に 「丙子初春正」と書してある。わたくしは特に凹巷韓 氏に寄する詩を録して、遺稿に無き所の茶山の評を一 顧したい。「寄韓聯玉、社友家士贈、東君孚相継倫謝。 書剣瓢零滞海隅。愁中抱病歳年祖。(受業録歳作幾。) 誰人白首交相許。何処青山茅可誌。淡月梅花春似背。 疎燈雨滴夢還孤。替生天後防生没。(受業録玩生作玩 公、似不可従、第八有黄公故也。)忍問黄公旧酒櫨。 (受業録櫨作壇、非。)茶山翁評。合作。但何処一句錐 出真情、而老所不欲聞。」わたくしは此評を読んで老 茶山の胸懐を想ひ遣つた。茶山は廉塾のために一たぴ 山陽を聰してこれを失つた。今又綾に霞亭を膀したの に、其霞亭が若し茅を青山に訣せば奈何。茶山の此語 を聞くことを欲せなかつたのは、ことわりせめてあは れである。  高木呆翁が隠居所を梅拗に営んだのは、恐くは前年 乙亥晩秋の候であつただらう。凹巷に「乙亥十月三日 訪梅拗」の三律があつて、受業録に見えてゐる。今其 一を録する。「菜根霜味肉応譲。登姐裁如肪玉状。屋 浄全無鼠壌遺。池深自可魚苗養。頑詩恐我汚山中。勝 蹟情誰題石上。多謝毎留煩主人。酒添何況樵青餉。」  次に「和看松子過任有亭見懐韻」も亦霞亭が正月の 作であらう。受業録に西村及時の原唱が載せてある。 「嵯峨任有亭寄懐霞亭。流憩憶君楓際寮。壁空無復旧 詩瓢。高調任上樵童口。梅発山村不寂蓼。」結句は霞 亭の和歌を用ゐたものである。「寂しさを忘るるまで にうれしきは梅さきそむる冬の山里。譲。」遺稿に霞 亭の次韻があつて、丙子人日の詩の後に出でてゐる。 「楓陰有蓬蓬書寮。窓裏無人対酒瓢。不是孤高西処士。 寒山誰復問幽蓼。」 その八十九  わたくしは文化丙子の正月に霞亭の多く詩を作つた 事を言つた。しかし此説は未だ尽きない。的矢書順中 には此正月の簡順が無いが、偶詩箋が其中に存して ゐて五律一、七律一が写してある。初なるは歳寒堂遺 稿所載の「送恵美子継帰省広島」の詩で、後なるは遺 稿の収めざる所である。「正月二十九日、東門大夫集、 分韻得麻。大夫文雅厭紛華。為政余聞客満家。厨下烹 差新雁肉。瓶中乱播老梅花。城培小雨催芳草。庭院斜 陽送晩鴉。酒罷燈前揮快筆。刻藤楓々走竜蛇。自註。 大夫有臨池癖。故及。」末に「二首とも甚簾作也、譲」 と署してある。  按ずるに安勢の恵美子継を送る詩は、遺稿に高木氏 梅拗の詩の次に入つてゐる。そして東門大夫の詩に 「正月二十九日」の日附がある。わたくしは二首皆丙 子正月の作なること殆疑なきものかとおもふ。  わたくしは更に一歩を進めて、遺稿中看松子に和す る七絶と恵美を送る五律との間に収めてある諸作は勿 論、其下の数首に至るまで、皆丙子正月に成つたかと おもふ。若し然らば霞亭は正月八日には福山に往き、 (八日福山途上)十一日に法城寺に往き、(十一日法城 寺途上)十二日には霞亭の妻敬が井上氏に帰寧したの である。(十二日内人帰寧、余独居。)  二月朔に至つて的矢書順中に始て霞亭の碧山に与ふ る書がある。此書の丙子のものなることは、適斎七十 の賀の事を言ふを以て証せられる。此に由つて考ふる に、正月にも書を発したが、其書は侠してしまつた のである。「当方よりも極月及当正月両度小簡差出申 候。」上に引いた詩箋はこれに添へられたものであら う。  先づ霞亭一家の近状を抄する。「此地閑には候へど も、唯一友も無之、是而已迷惑仕候。俗物なれど江原 与兵衛飲伴に有之候故、少々はつれになり候へども、 これも物故いたし、益寂蓼無柳、夫に近来とかく酒は 体に合不申候而、大方はのめ不申候。独酌一合半にて 前の量とは甚相違に候。(別項。)小生方拙妻も此節妊 娠仕候。五月か六月には臨盆と申事に候。此節随分壮 健に候。御序之節双親様へ御噂可被下候。(別項。)此 方名所神辺北条譲四郎に而よろしく候。かた書に学問 所と御認被成候てもよろしく候。」  飲伴江原の死は上に見えてゐる。井上氏敬の胎にあ る児は長女梅であらう。廉塾の俗称は「神辺学問所」 であつたか。  次に適斎古稀の事を抄する。「当年は尊大人様七十 に御成被遊候。益御勇健被為入候哉。千鶴万亀至祝拝 舞仕候。何卒当年中帰省仕度奉存候。一鑓開き、親族 打集、寿膓奉献仕候事相計申たく候。兎角小生等業が ら少しも盛んなる事は無之、恥入候次第に御坐候。そ れと申も、我輩世人のいとなみを皆々脱却いたし、只 閑居を愛し候崇と奉存候。何分寂水の歓を奉じ候而、 御安心ありたく侯へば、夫を楽しみと御互に可致候。 尚又くわしき事は追而可申上候。此方はじめ而の居宅、 小生一切不構に有之、先は廉塾にまかし候。甚打つめ 候事にて、漸う一杯の酒に憂を散じ候と申位の事に候。 御憐察可被下候。」霞亭は父を寿せむと欲するに臨ん で、自己の未だ名を揚げ家を興すに至らざるを歎ずる のである。 その九十  わたくしは文化丙子二月朔に霞亭が弟碧山に与へた 書を抄して父適斎の七十の賀の事に及んだ。兄は弟に 寿詩の事を諮つてゐる。「寿詩を相識の先生達へ頼申 たく、江戸京へも追々申遣候。勢州の分は足下御周旋 可被下候。しかし帖にいたし候つもり故、小生方より も又々頼遣可申候。其御心得に頼入候。菊を御愛し被 遊候故陶淵明が秋菊有佳色の句を詩題と可仕歎と奉存 候。御相談申上候。」碧山の此言に従つたことは現に 存する所の諸家の詩に由つて証せられる。  書中に見えてゐる朋友の名は山口凹巷と高田静沖と の二つである。  「凹巷も角大夫の名前を七歳の令児に譲り候而、も との長二郎になられ候よし、様子も有之候義と被存候。 しかし閑にはなられ候義と奉存候。」凹巷は小字を長 次郎と云ひ、後角大夫と称してゐた。今角大夫の称を 七歳の児に譲つて、故の長次郎に復つたのである。長 次郎は霞亭の古い東順に徴次郎に作つてあつた。按ず るに襲称の子は凹巷の嫡男であらう。墓誌に拠るに、 凹巷は「初嬰藤田氏、早没、再嬰山原氏、生二男三女、 日観平、日群平、山原氏亦没、後納加藤氏為妾、生二 男、日興平、日梅児、梅児天」と云ふことである。浜 野氏の閲する所の「月瀬梅花帖」に「男観、男群、男 興」の三人が署名してゐるさうである。是に由つて観 れば、襲称の子、名は観、初の称は観平、後の称は角 大夫であらう。霞亭の書に徴するに観は丙子七歳であ つた。然らば文化七年庚午の生であらう。  霞亭の書は凹巷を以て退隠せるものとなすが如く、 称を譲り間に就いたと云ふ。墓誌に日く。「晩年婚嫁 已畢。退居干先人別業。花竹一区。流水蓬屋。有古棲 逸風。毎遇秋晴。携釣具到北江。与漁人舟子。陶然酔 於荻花楓葉間。」若し此退居が丙子の歳に於てせられ たとすると、凹巷の女は皆観より長ずること十歳余で なくてはならない。  三村氏所蔵の梱内記に年次不明の一巻があつて、河 崎敬軒の子誠宇松の元服の事を記してゐる。文中凹巷 の氏称を書して「山口角大夫」と云ひ、「角大夫」の 三字を抹殺して「長次郎」と傍書してゐる。或は凹巷 の譲称直後に書せられたものではなからうか。若し 然らば誠宇は丙子の歳に元服したこととなるであらう。 梱内記に拠れば、誠宇、名は松、通称は松之允、元服 して景山と字し、木工と改称した。  霞亭の書に見えてゐる今一人の知人は高田静沖であ る。「文之助、鵬斎方に居寓したり、雄二郎と申伯母 次男の方などにも居候よし、小生は二三年書通も不仕 候。」文之助は既に云つた如く静沖の通称である。按 ずるに霞亭は新に鵬斎若くは静沖自家の書を得てこれ を碧山に報じたのであらう。  最後に霞亭は此書中に於て碧山に教ふるに尺順に用 ゐるべき称謂の事を以てしてゐる。「老輩へ御文通勇 書は、梧右は平交の称(故)、画丈とか、侍史或は侍座 下など可然候。」恐くは碧山の問に答へたのであらう。  二月七日に霞亭は又書を碧山に与へた。是も亦的矢 書順中にある。霞亭の自ら語る所はかうである。「小 生無事罷在候。乍揮御安意可被下候。(中略。)帰省之 儀は飛立やうに思候へども、時宜如何、未だ言ひ出し 不申候。何様秋になり可申哉と奉存候。」  適斎の七十を寿すべき詩歌の事が再ぴ見えてゐる。 「尊大人様七十寿詩歌之義は、先書も申上候通、去冬 より相心懸申候。京江戸の相識などへも頼置候。急々 にも集り申間敷候へども、此節専一諸方へ頼遣申候。 先は此方の相識ならぬ方へは頼み申まじき了簡に候。 それとも名家大家は格別之事に候。賢弟方も其心得御 頼可被下候。山田社中へも此節頼遣可申候。帖にいた し候つもりに御坐候。」  碧山は江原与平と菅波武十郎とに寄する書を霞亭に 託した。「江原、菅波への書状は、江原は死去いたし候 故、年始状なれば不吉故、さしひかへ候。江原も跡は 弟など有之候へども、なんとなり可申や。先は書通に 及不申候。菅波は本陣に而、菅家の本家分、夫に小生 婚姻の媒灼に而、親族之第一になり居申候。左様御心 得可被下候。」江原与平には弟があつた。菅波武十郎 の事は此書を得て始て明なることを得た。  以上の二書を除く外には、乙亥二月に作られたと認 むべき書が完存してゐない。惟遺稿に竹田器甫を送る 詩があり、尚二月の末に裁したらしい霞亭手東の断片 が的矢書順中に存するのみである。 その九十一  文化丙子二月二十六日に筑前の人竹田定之允が廉塾 を辞して帰郷した。備後の人藤川葦川の黄葉夕陽村 舎詩欄外書には定之丞に作つてある。当時の人は丞、 允、尉の如きは、自署も区々なることを免れない。竹 田は上に見えた如く名は綜、字は器甫であつた。その 発程の日は茶山が「二月廿六日、竹田器甫、甲原玄寿 西帰」と記してゐる。甲原漁荘と同日に塾を辞したの である。「老衰随触易槍神、一朝況送二故人。」是が茶 山七古中の句である。霞亭の詩は歳寒堂遺稿に見えて ゐる。「送竹器甫帰筑前。故人分手向郷城。千里帰程 草始生。他日相期上堂約。及時堪慰俺門情。春風野館 花光乱。暮雨江天帆影明。路入下関応一笑。家山如黛 馬頭横。」霞亭は又甲原をも送つた。遺稿に「送甲原 玄寿帰豊後」の五古がある。甲原氏、名は義、漁荘と 号した。玄寿は其通称である。是れ亦東涯風に通称を 以て字に充ててゐたと見える。霞亭の詩の題下に「杵 築古市人」と註してある。実は吉広村(今中武蔵村)に 生れたのである。  次に的矢書順中に霞亭書順の断簡がある。此二月の 末に父若くは弟に遣つた書の一節であらう。「頼春水 翁うすくと此辺へ死去のうわさいたし候。未だしら し(為知)は参り不申候。久太郎(山陽)も十八日(二月) 京出立、日夜馳行、廿二日夜神辺へ立寄、直に駕輿に 而夜行いたし候。気之毒なる事に候。大方うわさに違 も有之間敷にや。」  頼春水の死は行状に「残年七十一、実文化十三年丙 子二月十九日也」と云つてある。山陽が母の十二日の 書を得て、十八日に京都を立つたことは周知の事実で ある。二十二日の夜廉塾を過つたことは此書に見えて ゐる。さて二十四日に広島の家に著き、二十七日に比 治山安養院の墓を拝し、三月二十二日に京都に帰つた さうである。  霞亭の遺稿には猶此年正月二月の交に成つたものと 看倣すべき詩がある。「送恵美子継帰省広島」「送山下 顕吾帰讃州」「送田中辞卿遊京」等皆是である。恵美子 継は広島の医家恵美氏の事である。井原市次郎さんの 云ふを聞くに、広島には恵美氏と称する二族がある。 一は馬術の家で、今の戸主を恵美文吾と云ふ。一は医 家で、今の戸主を恵美徳之助と云ふ。後者は文化丙子 には二世三白の時であつた。二世三白、名は貞璋、字 は君達、大笑と号した。実は長尾養意の子で、初世三 白貞栄の養嗣子となつた。その養はれたのは貞栄の実 子三圭が貞栄が残した時(天明元年)弱年であつたため である。丙子の歳には三白貞一璋七十二歳、三圭貞秀五 十五歳であつた。子継は恐らくは貞秀の次男貞績であ らう。後に四世三白となつた。山下顕吾の事は全く不 明である。田中辞卿は後霞亭と京都に於て会飲してゐ る。(帰省詩嚢。)  三月三日に霞亭は藤希淵の兵庫に帰るを送つた。遺 稿に七絶がある。希淵の何人なるを知らない。此月猶 遺稿に「春尽同諸子遊国分寺、得尤」の五律がある。  四月は薇山三観の一なる「山南観漁」の時である。 詩十二首があつて、末に「右丙子初夏」と註してある。 此諸篇中に五人の名が見えてゐて、皆親族である。先 づ桑氏の兄弟がある。兄を伯彦と日ひ、弟を翼叔と日 ふ。伯彦に敏卿、綱次郎の二子がある。残る一人は河 氏君推で、桑翼叔は此君推の「女甥」だと云つてゐる。 女甥は或は女婿ではなからうか。  的矢書順中には此月の書と認むべきものが唯一篇あ る。それは十日に碧山に与へた霞亭の書である。霞亭 の自己身上に就いて言ふ所はかうである。「小生無事 罷在候。乍樺御安意可被下候。(中略。)拙荊随分無事 罷在候。併先頃より少々腫気のきみ有之候。これも大 方よろしく、首尾能分娩いたし候は先運次第、いたし 方もなく候。(中略。)此方此節は年輩の諸生皆々帰省 いたし候而、はなし相手無之候而迷惑仕候。晩間独酌 仕候のみに候。(中略。)当塾は多く小児輩あちこちよ り参り候。十三以上の者多く候。此間備中より入門仕 候一生、書など見事、且は棋の上手に候而、かつて備 前侯様へめされ出候事など有之候由、十四五の子也。 (中略。)此辺も先頃より鯛網はじまり候ゆへに、紅魚 は時々たべ申候。此間藤井料助参宮いたされ候を一寸 送り候詩に、回首能無憶吾輩、杜鵠声裏撃新鶴(下鵬字 恐当作鮮)と云句をいたし候也。実は甚罐作故全篇は 録し不申候。」敬の腫気は妊娠のためであらう。胎に 在る子は長女梅である。藤井料助の何人なるかは不明 である。霞亭は鯛網を説いて山南の遊に及ばない。観 漁は恐らくは十日より後の事であつただらう。  書に杜詩播註の事が見えてゐる。「杜詩論文と申杜 詩の全集の注を見候に付、先頃より別に見候序でに、 播註をざつと認見侯。夫故詩作等など一向出来不申候。 播註四五冊も出来候へども、田舎類書無之不自由に候。 いづれ一遍位にてはとても役に立申間敷候。人に見せ 候程の物は出来不中候とも、先は手前の詩学といたし 候積りにてかかり申候。」  霞亭は又父適斎を寿する詩歌の事を言つてゐる。 「寿詩の儀外へ段々頼置候。遠方のはいまだより不申 候。近辺のはだんくあつまり候。学者、一方に名有 之候人にはぬめ或はきぬを遣候而、帖にいたし候積り に仕侯。山田詩の儀は小生よりも相頼遣可申侯。尤こ れはあとよりきぬ地差出し、夫に認もらゐ可申侯。此 節少々あつまり居候へども、いづれ小生参り候頃一処 にとりあつめ参り可申と存侯。いづれ人に頼候事、夫 に御同前に寿詩はおもしろからぬもの故、とかく将明 兼可申候。先は気長に夫々の手筋へ頼可申候。京都堂 上方へも御頼申上候積りに候。足下も兼而御構案可被 成候。歌などもあつめたく候。」  碧山の詩稿は例の如く痛斧を被つたらしい。「御作 拝吟仕候。随分おもしろく候。随例無遠慮にあしく申 候。外へは箇様に申候事出来不申侯。且亦其内にはあ まりいひすごし可有之哉、何分御取捨可被下候。」  撫松勤学の事も亦霞亭の忘れざる所である。「敬助 素読はもはやどれ位になり侯か被仰聞可被下候。清書 大字など半紙を時々つぎ合せ御かかせ可被成候。この 方へもちと御見せ可被成候。詩作出来候はど、少々宛 にても御遣し可被下候。」  恒心社の事はかう云つてある。「勢南社中も御無事 の由、久敷何方よりも便無之候。いつぞや高木令郎の 手図いたされ侯呆翁隠居図、凹巷兄よりよせられ候。 南帰いたし侯はじ、そこに宿をいたし候などと被申遣 候。おもしろさうなる処也。凹巷の御作も上に認被遣 候。」呆翁隠居は所謂梅助である。これを図した子は 或は梱内記の「高木次郎大夫」歎。  書に清人漂到の事が見えてゐる。「南京船入津いた し候由、めづらしく候。併村中さわぎ迷惑察入候。下 田とやらへ漂著いたし候由、先達而江戸より申来候。 筆談など出来候者は一向無之由、足下御療治に被御頼 被成候は寸どのやうなる様子、なんぞ筆話などは不被 成候哉、夫らも禁じ候事に侯や、再便くわしく被仰聞 可被下候。一昨日とか当地靹浦へ著いたし候由、とり ぐ噂有之候。」 その九十二  文化丙子五月朔に霞亭は書を弟碧山に与へた。わた くしの的矢書順中の此書を以て丙子のものとするのは、 下の一節あるが故である。「三月廿一日、京都天変大 電ふり候由、御受禅の日に候処、のび侯よし、定而御 地にも噂可有之候。」わたくしはその仁孝天皇の受禅 なるを思ふのである。  此書は何故か前半が裁り去られてゐる。糊離れには あらざるが如くである。書中霞亭は母中村氏の婦に対 して敬語を用ゐるを憂へ、碧山をして諌めしめむとし てゐる。「母様へをりを以被仰上(度)候。御文通妻ど もなどへ余り御丁寧過候て恐入候。私共はやはり呼ず てに御認被遊候やう可被仰上候。」想ふに中村氏は菅 氏を尊敬するが故に、井上氏敬を「呼ずて」にするこ とを揮つたのであらう。  霞亭は又花草の種子を的矢の家に送つた。「追而草 花類の種さし上可申候。植木屋の物は俗物の玩物なり。 たじありふれたるものなどおもしろく候。」若し霞亭 をして今の藁駝氏の蔑ぐ所を見しめたなら、果して何 と云ふだらうか。卑著「分身」中に「田楽豆腐」の一 篇がある。霞亭の此語と併せ見るべきである。  書には知人二人の名が見えてゐる。其一。「佐藤も 今に臥暮の由、浅井当春見舞に下り候由、此頃書通に 承り候。」わたくしは思ふ所あつて此下三行を抄せず に置く。佐藤子文のために忌むが故である。子文の病 を問うた人は浅井周助である。其二。「先日烏羽の中 村九皐と申候て画師尋参り候。力松と申候もの也。二 十八九年めに逢申候。京の岸が弟子のよし。外へ添書 いたし遣候。長崎まで参ると申居候。画はかなりにか き候。」岸駒の門人中村九皐である。  七日には霞亭が夢に詩句を獲てこれを足成した。夢 中の句は「橿前一片看雲坐、林外数声聴烏眠」の一聯 である。全篇は遺稿に見えてゐる。  十九日には霞亭の妻敬が分娩した。生れたのは長女 梅である。霞亭は何故か六月朔に至つて方綾これを的 矢に報じた。事は下に見えてゐる。  此月は薇山三観の一なる「竹田観螢」の時である。 七絶八首を作つた。刊本の此部の末に「右丙子仲夏」 と註してある。  此月の末に霞亭が又書を碧山に与へた。しかし女子 の生れたことは言はなかつた。的矢書贋中「五月廿六 日」の日附のあるものが是である。書には又適斎の七 秩を寿する詩歌の事が詳に言つてある。「寿詩、うた、 参り候だけ先々差上候。とかく遠方も近所も将明不申 候。いづれ気長にあつめ可申候。ぬめ、きぬの部は画 帖にしたため候つもりに候。茶山翁、鵬斎翁の分は、 きぬ地ぬめ地表具にいたし候様に頼置候。大頼(春水) へ頼み候半と申候内に、かの病気死去に及ぴ候。遺憾 に候。しかし新死之人故、たのまなんだもよきかとも 被存候。(別項。)寿詩山田へ頼候分、敬軒凹巷宜堂呆 翁孫福山口佐藤宇仁館池上へはぬめきぬ地、以上九つ 差上候而頼遣し候。左様思召可被下候。」山田の九家 中宜堂は西村及時の一号である。他は必ずしも註する ことを須ゐぬであらう。  此書に猶抄すべきものがある。それは碧山撫松の二 弟に対する語である。  碧山にはかう言つてある。「春来御療用御多事のよ し一段之御義と奉存候。山田へ御越被成候由、敬軒よ りも委曲御噂被下候。御作等多く可有之、後便御擬示 可被下候。此節御佳什因例雌黄仕差上候。」  撫松のためには下の語をなしてゐる。「方正学詩う つし、朱子家訓等敬助へ御遣し可被下候。」霞亭の手 写する所は遜志斎集中二巻に就いて抄出したものであ らう。家訓に此詩を添へて授けた用意を見るべきである。 その九十三  文化丙子六月朔に霞亭は書を母に寄せて妻敬の分娩 を報じた。初めわたくしは霞亭が梅の生後に書を碧山 に与へたのに、一語のこれに及ばなかつたことを怪ん だ。しかし是は女子の生れたことを以て、弟に報ずべ き事となさず、母に報ずべき事となした故ではなから うか。二筆申上まゐらせ候。時しも暑気相催し候処、 弥御機嫌能被遊御入、目出度ぞんじ上まゐらせ候。此 方老人(茶山)をはじめ家内皆々無事罷在候。御安心被 遊可被下候。然ばけう(敬)儀先月(五月)十九日安産い たし候。母子ともすこやかに肥立申候て、一とう悦申 候。是又乍揮御安心被下候様ねがひ上まゐらせ候。生 子は女に御座候て梅と名付申候。左様思召可被下候。 子は随分丈夫にて大きなる方に侯。女子にてすこしお もしろからず候へども、いたし方も無之候。親父様 (適斎)始御親類中へも乍揮御つゐでに御うわさ被遊可 被下候。先達而はおけうへ御文下し置れ難有存上まゐ らせ候。此度は文差上不申候間あつく申上候様申出候。 当年わ時候おくれ候而、今にあわせなど著用いたし候 位に候。随分時節御いとゐ御用心いのり上まゐらせ候。 盆頃あつく有之べきやとぞんじ候。先は右御しらせ申 上度如此御座候。くわしくは又々あとより可申上候。 愛たくかしこ。六月朔日当賀。譲四郎。御母上様人々 御中。」  次に霞亭は六月六日に書を碧山に与へた。是は短信 で、「先書(五月二十六日の書であらう)色々くわしく 申上候、此信は何の事も無之候へども、便故消息仕候 計に御座候」と云つてある。茶山の時に用ゐた紅紙に 書してある。  しかし此短信中に却つて有用なる文字がある。それ は薇山三観刊刻の事である。「此節京にて小生の薇山 三観詩上木仕候。大方七月中には出来可申候。浅井周 旋被致候。しかし是は社中始、先々御無言に被成可被 下候。尤土産(に)いたし候積り也。」三観の刊本には 浅井氏の序があつて、末に「文化丙子仲夏井毅達夫識」 と署してある。浅井氏、名は毅、字は達夫、通称は十 助であつたと見える。  次に「六月廿六日」の日附のある碧山に与へた書が 的矢書順中にある。是も亦紅紙である。「当方大小皆 々無事に候。暑中折角御自愛、飲食御用心専一に存候。 小生東上(帰省)もいづれ盆後と被存候。待遠に被存候。 此頃はたぴく夢に見申候。こしをれ歌御目にかけ申 候。ちゝ母の旅なるわれをおもへばやよひくごとの 夢に見えぬる。菅波武十の歌有之候故乍序懸御目候。 何分大暑御用心、乍悼二尊へ可然被仰上可被下候。書 外期再信之時候。恐憧謹言。賀の歌はさぬき金比羅牧 久兵衛なる者の歌也。」菅波氏と牧氏との歌は侠した。 牧氏は棲碧山人歎。此人の通称は一に藤兵衛に作つて ある。尚考ふべきである。  此書には同じ紅紙の詩箋が巻き籠めてある。詩は七 絶二首で、「東窓即事」と題してある。其一は歳寒堂 遺稿に「東園囑目」と題してあるものと同じである。 「思詩閑坐碧林隈。雨気侵簾香始灰。幽鳥不知人熟視。 苔花啄遍近階来。」 その九十四  文化丙子六月二十五日の書に巻き籠められた霞亭の 紅詩箋には猶「東窓即事」の第二首があつて、歳寒堂 遺稿に見えない。「又。一拳菖石小盆池。中畜丁班与 細亀。看弄旋忘亭午熱。游嬉偶爾憶童時。」二詩の後 に和歌一首が書き添へてある。「あつき日のひねもす 待ちし夕風は吹くたぴごとにめづらしきかな。」紙尾 に「譲」の一字が署してある。  夏は過ぎた。わたくしは古賀精里の長子穀堂の神辺 を過ぎて霞亭と相見たのは此夏の事であらうとおもふ。 何故と云ふに、遺稿は丙子諸作の中間に「古賀博卿見 過、賦呈」の七偉を収めてゐて、其頸聯に月緑樹に上 るの語があるからである。「孤身寂奥老荒山。唯喜屡 逢君往還。蘇氏文名動天下。質生経術照朝班。杯伝几 楊青燈畔。月上渓轡緑樹間。明日縦有離別恨。清談一 夜且開顔。」按ずるに霞亭は江戸にあつて夙く精里の 家に於て穀堂と相識つてゐたであらう。且此篇の第二 に徴するに、穀堂の神辺を過つたことは数度であつた と見える。  七月は霞亭が省親の途に上つた月である。帰省詩嚢 の首に、「留別塾子」の七絶がある。「雲山千里一担箪。 暫此会文拠友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書燈。」 結句は七月の句でなくてはならない。  しかしわたくしは発程の十六日以後なるべきを思ふ。 何故と云ふに前に碧山に与へた書に盆後と予報してあ つて、又遺稿中「中元有懐江原与平」の五古の七八に も「劉墳柳一酪、対月恨回頭」と云つてあるからであ る。  此よりわたくしは詩嚢中に就て事実の考ふべきもの を纈取しようとおもふ。わたくしは先づ「出門」の詩 に留目すべきものあることを言はなくてはならない。 「贈望南雲心已馳。趨庭慢指想恰々。出門何事還濡滞。 垂白之人弧泣児。」山陽は評して云つた。「精里詩云。 東已有家西又家。霞亭亦然。」霞亭西家の垂白の人は 誰か、又瓜泣の児は誰か。彼は茶山、此は梅である。 わたくしは前に詩嚢中より霞亭の已婚を見出した。し かし此瓜泣の児をば錯過してゐたのである。書は精読 しなくてはならない。 その九十五  霞亭は父適斎の七十の賀宴に列せむがために、郷里 的矢へ往かむとして、文化丙子七月十六日以後に神辺 を発した。  帰省詩嚢に縁つて路程を求むるに、詩題には高谷、 矢掛、岡山、舟坂、明石、舞子、一谷、須磨、御影、 尼崎の地名が見えてゐて、霞亭は淀舟に乗つて京都に 入つた。  霞亭は京都にあつて浅井達夫の新居を訪ひ、諸友と 輻湊亭に会飲した。達夫を訪ふ詩の引に、「達夫曾寓 予錯薪里僑居」の語がある。錯薪里は木屋町である。 輻湊亭はいづれの旗亭なるを知らない。  京都より伊勢山田に至る途上、詩嚢には夏見、水口、 鈴鹿の地名が見えてゐる。  霞亭は山田に至つて山口凹巷の桜葉館を訪うた。 「千里訂期客始来。主人相見両眉開。」次で諸友と花 月楼に会飲した。わたくしは七律の後半を抄する。 「不見詩窮老東野。依然歌妙旧園桃。感来杯酒還無数。 年少結交多二毛。」詩窮の老東野は恒軒東吉テである。  霞亭の的矢に帰つて適斎の寿宴に列した時の状況は 七古の長篇に写し出されてゐる。わたくしは既に一た ぴ此詩を分析して細論したことがあるから、今復賛せ ない。此には惟家族の年歯を註して置きたい。「游子 省親日。高堂上寿時。小弟及一妹。次第侍厳慈。」厳 君適斎七十、慈君中村氏五十二、霞亭譲三十七、碧山 惟長二十二、良助十九、撫松惟寧十五、女通の年紀は 不詳である。  賀鑓の壁上には諸家の「秋菊有佳色」の詩歌が懸け 列ねられたことであらう。的矢書順中にも詩箋若干葉 が交つてゐる。わたくしは惟河崎誠宇受業録中より獲 た茶山の作を抄出する。本集の載せざる所なるが故で ある。「北条適斎先生七十寿言、同賦秋菊有佳色。秋 菊有佳色。采々潭杯膓。衆賓酬且酢。四坐潅清香。主 人卜適軸。歯操長隣郷。二子倶英発。美行名已揚。主 客皆藻士。歌頗声琳浪。予辱瓜蔓末。拍幌情特長。恨 在千里外。不得歓一堂。願各分君福。家庭致寿昌。願 同師君操。晩節保券芳。」適斎の事を言ふ語中「適軸」 は詩の衛風より出でてゐる。英発の二子は霞亭碧山で、 良助の不肖と敬助の少年とは与らない。茶山自ら叙す る語に「予辱瓜蔓末」と云つてある。適斎は定て感激 に堪へなかつたであらう。  霞亭は的矢にあつて池上隣哉の家を訪ひ、又高木呆 翁の家を訪うた。就中高木氏の梅拗には主客十七人が 来り集つた。「尊空童走市。席満客菌苔。」  詩嚢に拠るに、霞亭は的矢より又京都に至つて少留 した。僧月江を三秀院に問うた詩三首の一に、月江の 事蹟を徴すべきものがある。「三秀院賦呈宣長老。(節 録。)聞説明春向対州。波濤万里去悠々。路過薇海如 思我。為卸高帆靹浦頭。」月江対州行の次年丁丑なる ことが此に由つて知られる。霞亭は又任有亭、含旭軒 に歴游した。  以上神辺を発してより後、霞亭の行住には一も月日 の徴すべきものがない。就中憾むべきは詩嚢の的矢賀 莚の日を註せなかつたことである。賀莚は恐くは適斎 の生日に開かれたことであらう。然るに適斎の墓誌は 残日を書して生日を書せない。 その九十六  霞亭の父適斎は文化丙子の秋七十の賀莚を開き、霞 亭は神辺よりこれに赴いた。わたくしは此賀莚の日の 帰省詩嚢に註せられざるを憾とした。然るに此に佐藤 子文の一書があつて、此欠陥を補ふべきが如くである。 亦的矢書順中の一である。  子文の書には宛名が無い。しかしその適斎の子に与 へたものなることは明である。「御書翰被下恭拝見仕 候。朝夕秋冷、益御全家様御清福被成御座奉恭賀候。 然者十日(丙子閏八月十日)御祝鑓御開被成候に付、香 魚寿苔御申こし被成、香魚水後に而取がたく綾十五頭 得申候(て)さし上申候。明日迄は置がたく候と奉存、 やかせ差上候。寿苔、菊花漬御祝儀迄に呈上仕候。御 祝納可被下候。菊花漬今少し有之侯へば宜候処、是ほ どならでは無之呈上仕候。右今日より水に御醗し塩出 し被成、御したし物に御あしらい被下度候。香魚の料 二匁(一字不明)申受候。残五銭目御返進申上候。(中 略。)御賀章之義、御斧正被下候上認め上申度奉存候。 詩先認め上申候。御風正可被下候。菊有黄花又白英。 侵凌風露帯秋栄。羅家不独呈祥瑞。況復譲君延寿名。 右奉賀適斎北条君七十。佐藤昭拝草。伏乞風正。延寿 客、避邪翁は仙経にありと、狼椰代酔に見え申候。自 註無之候而も宜候哉御尋申上候。何れ近日拝面可申上 候。先は取急ぎ草々如此に御座候。頓首。閏八月九日。 尚以尊大人様へ別段書中御祝詞可申上候処、急ぎ不得 其意候。乍末筆宜被仰上可被下候。尚々此節は近年之 大水、貴郷は無御別条候哉、乍次御尋申上候。当地は 格別之事無之候。鳴海辺は大分当り候処も有之(由)承 り申候。」按ずるに子文の此書は霞亭に与へたもので ある。碧山は後進なるが故に、縦令乞正は辞令に過ぎ ずとせむも、子文はこれに典故の註すべきものなりや 否を質すべきではなからう。  それはとまれかくまれ、適斎七十の賀莚が文化丙子 閏八月十日に開かれたことは疑を容れない。子文の 此書の偶存してゐたのは実に喜ぶべきである。  寿鑓の日が果して閏八月十日であつたとすると、七 月後半に神辺を発して帰省した霞亭は、八月の過半を 父母の膝下に送つたであらう。鉄函心史の序に「文化 十三丙子八月」と書するを見れば、此一文の如きは的 矢帰省中の属稿に係ることが明である。  前にわたくしは寿鑓は適斎の生日に開かれたであら うと云つた。しかし厳密に言ふときは、丙子閏八月十 日は生日ではなからう。残年より逆推するに、適斎は 延享四年に生れた筈である。そして延享四年丁卯には 蕾に閏八月がないのみでなく、此年は閏年でなかつた。 強て推測を遅しうすれば、適斎は丁卯八月十日に生れ たのに、其賀鑓は遅るゝこと一月にして、閏八月十日 に開かれたかともおもはれる。  わたくしは詩嚢に拠つて霞亭の帰省を追叙し、既に 霞亭が的矢を辞し、京都に至つて暫留したと云つた。 此より下、わたくしは京都より神辺に至る旅程を記す るであらう。 その九十七  霞亭は文化丙子七月に神辺を発して的矢に帰省し、 父適斎の七十の賀莚に列して後踵を旋した。そして京 都に入つて少留した。此間帰省詩嚢には一として月日 を詳にすべきものがなかつた。  詩嚢は霞亭が京都を発するに当つて、始て「閏八月 念五日」の文字を点出してゐる。的矢の寿鑓にして果 して閏八月十日に開かれたとすると、霞亭は此より後 既に十五日を経過してゐる。「閏八月念五日。従嵯峨 歩経山崎桜井。(中略。)到芥川宿。翌(二十六日)尋伊 勢寺。(中略。)宿禅師(国常)之院。其翌(二十七日)登 金竜寺。下到前喚、乗舟至浪華。」此より下詩嚢註す る所の地名は、堺、高師浜、信田森、国府、神崎、西 宮の六所に過ぎない。山口凹巷、宇仁館雨航の二人は 送つて神崎に至り、酒を巴江亭に酌んで別れた。「客 意爾条共憶家。重陽時節各天涯。巴江亭上三杯酒。暫 破愁顔対菊花。霞亭。」時は恰も是れ九月九日であつ た。  的矢書順中に百々漢陰の霞亭に寄せた一書があつて、 末に「閏月廿八日、百々内蔵太、北条霞亭様」と書し てある。是は寿詩を寄せた時の書で、そのこれを裁し た日は霞亭の大坂に達した次日である。推するに漢陰 の書は京都より東行して的矢に至り、霞亭はこれに反 して大坂より西行して神辺に向つたであらう。「誠 (に)先比者御来訪被下恭、併紛冗不得寛曙、幻々残念 不少奉存候。其節蒙命候寿詩及延引申候。此節浄写仕、 呈案下候。久絶文雅、藻思荒落、別而拙劣、深(く)梶 入申候。旧交の誼に酬候迄に候。御笑覧可被成下候。 御絹者跡より可呈候。此二枚御勝手の御屏風にも御押 被下候はじ恭奉存候。近所にも候はゞ、蟻末の屏風御 避風の為に進上も可仕候も、遠路不任鄙中候。書は山 脇法眼へ代筆相頼申候。小生拙筆故、代筆にて呈し申 候。画は竹内由右衛門と申人、狩野家にては旧名ある 人に侯。画工之気習無之候故相頼かかせ申候。甚図随 (杜漏か)御海恕可被下候。近日御入京も被成候はじ、 好時節にも候故、久々にて御郊行陪遊仕度奉企翅候。 山口君並賢弟惟長君(に)も宜御致意可被下候。当春賜 書候返書相認め郵亭へ差出し申候。未著候哉。毎々御 懇篤之御投書被下恭、御高作も御見せ被下恭奉存候。 呉々も宜く御致声可被下候。北小路へも申聞候も未詩 作不脱藁侯故、先差上くれ候様被申候故、今便小弟の み申上候。何分御入京之節御知らせ可被下候。草々頓 首。」  是に由つて観れば霞亭は寿詩を北小路攻塊と漢陰と に乞うた。然るに漢陰の詩が先づ成つた。霞亭は往協 に漢陰を西洞院竹屋町北に訪うたが、反路には告げず して京都を過ぎた。霞亭は詩を乞ふ時絹を贈つたのに、 漢陰は敢て受けず、別に書画二枚を製して寄せたらし い。詩は漢陰が作り、山脇東海をして書せしめ、画は 竹内重方をして作らしめた。「蟻末の屏風御避風の為 に進上も可仕候も、遠路不任都中候。」或は辞令に過 ぎざるやも測られぬが、磐勲の至である。絹を受けざ る遠慮と云ひ、此会釈と云ひ、礼俗の厚き今人思料の 及ばざる所である。「進上も可仕候も」、「北小路へも 申聞侯も」、此も文字は「へども」の義である。わた くしは此且遡乎波を以て甚新なるものとなしてゐた が、漢陰の書に徴するに夙く文化中に行はれてゐたと 見える。 その九十八  文化丙子九月十五日に霞亭は省親の旅より神辺に帰 り著いた。事は十月朔に弟碧山に与へた書に見えてゐ る。「浪華より凹巷へ托し一書差上候。凹巷雨航(此二 字不可読、拠詩嚢填之)二君と尼崎に而御別申候而、当 (九月)十五日初更帰宅いたし候。(中略。)凹巷別後は 独行故、夫に短日、渓山中興も有之候へども、いそぎ 候而帰り申候。京都はすぐ通り、嵯峨へ立寄両宿いた し候。浅井宅に一宿いたし候。かの人例の篤実家、何 か(と)よく周旋いたしくれられ候。医事大分行はれ候 やうに見え候。可悦候。急にさむくなり候而孫福のど うぎと浅井の袷著に而やうくふせぎ帰宅いたし候。 御一笑可被下候。(中略。)塾翁始、家族皆々無事罷在 候。乍揮御安意可被下候。此度は凹巷君御寵送、殊之 外御苦労奉存候。かの人の庇蔭に而名勝等色々探索仕 相楽候事に御坐候。宇公へ新宅之方位御尋被成候哉。」  此書は末に「十月朔」と書しながら、文中には神辺 に著いた日を「当十五日」と書してゐる。是は先月十 五日と云ふべきを、ふと誤つたものである。詩嚢に拠 るに嵯峨の両宿は三秀院と含旭軒とである。含旭軒も 亦僧院であつたことが詩に由つて知られる。次の一宿 は浅井達夫が家であつた。達夫は医を業としてゐた。 孫福孟練は送つて此に至つて別れたと見える。次で尼 崎に至つて凹巷が辞し去つた。霞亭は此より独行した のである。「一別今朝独杖黎。」わたくしは上に二字の 読むべからざるものがあることを註した。是は渇筆に あらず、姦蝕にあらず、草体の辮じ難きものである。 或は「観魚」であらう歎。推するに宇仁館氏の一号に してわたくしの未だ知るに及ばざるものであらう。  書には猶寿詩の事がある。「寿詩あつまり候分差上 候。御接手可被下候。山田社中の詩追々まゐり候はf 御写録御遣し可被下侯。」霞亭の送遣したものは、留 守中若くは帰後に神辺に集まつた諸作である。霞亭は 伊勢人の諸作を見むことを欲してゐる。  わたくしは的矢書順中の首尾なき一紙片を此に播入 すべきものかとおもふ。それは云ふ所を以て的矢より 帰つた時の言となす故である。「二白。先達而見受候 処、敬助儀上送(逆上)のためとて元服いたし居申候。 病の事はいたし方も無之候へども、髪有之候ても各別 違ひ候ものにも有之間敷候間、やはりはやさせ(総髪) 医生にしたて候事可然候。尤頭つきにより候ものには 無之候へども、御地など風俗あしき処に而悪少年など の中に居り候事故、人に違ふて身持等正しく無之候へ ば、よき人にはなられ申間敷候。髪など人にちがひ候 へば人も自然とかわり候ものに候。是非見合、のばさ せ可被成候。併頭つき人がらはどのやうになり候ても、 性根あしければなんの益に立不申候。是第一之事也。」  同じ十月二十一日に霞亭は又書を碧山に与へた。前 書と共に的矢書順中にある。書に云ふ所は多く寿詩の 事に係つてゐる。  其一。百々漢陰。わたくしは前にその霞亭に与ふる 書を抄して、詩幅の京都より的矢に送致せらるべきを 思つた。然るに詩幅は却つて神辺に郵寄せられた。恐 くは京都辺に於て霞亭の西帰を知るものの手に落ち、 故に備後に搬遣せられたのであらう。「百々兄より詩 被遣候。此便は余り大きなるものに而人に托しかね候。 追而差上可申候。詩は。金龍翠葉数枝新。老圃秋容巧 写真。要識此花生面目。高堂正有古稀人。題菊画寿北 条霞亭先生尊翁七十。書は山脇道作様御認に而甚大幅、 二枚折屏風になり候位、菊の画も添候。」  其二。北小路政塊。「北小路先生より(の)寿詩うつ し拝見仕候。辱奉存候。未此方へは参り不申候。」政 塊の詩は的矢に送られ、碧山が写して兄に示したので ある。  其三。僧月江。「月江長老の詩並に書状は九月中西 村及時君方迄達し候由に候。」  寿詩の事は未だ馨きない。わたくしは下に続抄しよ うとおもふ。 その九十九  文化丙子十月二十一日の霞亭の書に一、漢陰。二、 攻塊。三、月江の寿詩の事が見えてゐることは既に云 つた。次は  其四。勘解由小路資善。「勘解由小路様御作も被下 候様子、是もまだ参り不申候。御苑御菊、勘解小路殿 より御周旋被遊候由、難有幸と奉存候。菊は参り候様 子に候へども、いかゴいたし候而参り候や承度候。切 り而花かれ候は寸、大切にをし花になりとも被成置度 候。追而拝見仕度候。」  其五六。内藤拡斎、鈴木宜山。「此方より内藤老大 夫並に鈴木文学詩は茶山翁書中山口(凹巷)迄達し候由 に候。しかし其方へ参り不申候はじ、序に御聞可被下 候。詩はうつしをこちらへ御遣可被下候。」内藤大夫 は文化甲戌の献頒篇に見えてゐる内藤景充であらう。 拡斎の印がある。江木鰐水稿本福山風雅集に拠れば、 拡斎の通称は角右衛門である。鈴木文学は圭輔である。  其七。恒心社友。「山田社中御作も其方より御催促 被成、御集録可被下候。」恒心社友の作を蒐むる任は 碧山にあるのであつた。  的矢の家に集まつた詩は、写して一巻となし、高木 呆翁の許に留め、霞亭は副本を作つて携へ帰つた。し かし抄写に広略があつたので、霞亭は更に碧山をして 副本を作らしめ、自抄本と易へようとした。わたくし は下の文を此の如くに読むのである。「梅勘(高木氏) に寿詩巻は有之候。併ながら御手透之節、又々一通り ていねいに御録写可被下奉頼候。此方のはそちらへ差 上可申候。外より段々見せくれ候へと被申候が、小生 幻略にかき候故見苦敷候故に候。かわりめのなき題言 はかくに不及、少し事の有之候題は御書き可被下候。 姓名の下の処附は此方にていたし可申候。」  霞亭の書は報酬の事にも言及してゐる。「北小路百 々へは此方よりも三観(薇山三観刊本)か何ぞ産物にて も挨拶之印に遣し可申候。百々は格別、北小路は折角 御周旋被下候間、当冬伊勢鱒つつこみ一尾にても、大 坂園部迄御遣可被下候。此方へも一尾被仰付可被下候。 いづれもこれは飛脚は御無用、冬の中に船便大坂迄、 とくといたし候船頭御頼可被下候。しかし御面働なら ば御見合可被成候。」  霞亭は前書に、雨航に方位を問ひしや否と云つた。 此書にも亦此言が反復してある。按ずるに的矢の北条 氏は将に新屋を構へむとしてゐたであらう。「雨航に 方位造作(之)事御尋被申候哉。是も大方此節は浪華勤 と被察候。」宇仁館雨航は形法の学に通じてゐたもの と見える。  十一月十七日に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢 書順の一で、その云ふ所は直に武を前書に接してゐる。 先づ寿詩の事を抄する。「寿詩あつまり候分差上候。 御落掌可被下候。内藤は内藤角右衛門と被申候御隠居 之国老に御坐候。鈴木、伊藤とも福山教授文学に御坐 候。北小路より詩参り侯哉、此方へは届不申候。」内 藤大夫は前考の如く角右衛門景充であつた。鈴木君壁 よりして外、今新に伊藤文学が添へ出された。伊藤弘 亨、字は貞蔵、竹披と号した。仁斎の次男が梅宇長英 (東涯弟、介亭竹里及蘭偶兄)、梅宇の次男が蘭碗懐祖。 蘭碗の長男が竹披である。 その百  霞亭の文化丙子十一月十七日の書はわたくしに北条 氏に重要なる一事のあつたことを知らしめた。それは 当時霞亭の一人の弟良助が既に妻を嬰り子を生ませて ゐたと云ふ事である。「良助女子出産之由、目出度悦 候。彼方へもよろしく御祝儀可被下候。なんぞと被存 候へども、遠方故不任心候。又々折も可有之候。二尊 へも御祝詞可然奉頼候。」  既に屡記した如く、適斎の子は譲四郎譲、内蔵太 郎彦、貞蔵、大助惟長、良助、敬助惟寧の六人であつ た。就中内蔵太郎、貞蔵の二人は早世した。丙子の歳 に存してゐたものは、霞亭譲四郎三十七、碧山大助二 十二、良助十九、撫松敬助十五である。  北条氏の家譜に拠るに、良助は谷岡氏を冒してゐる。 按ずるに谷岡某が良助を養つて子としたのは、晩くも 丙子の早春であつただらう。此書に云ふ所の生誕は谷 岡良助の長女の生誕である。良助は適斎諸子中にあつ て、記性鈍く、学業の成り難かつた不肖の子であつた。 想ふに谷岡氏の家業はこれを襲ぐに読書人を求むるこ とを須ゐなかつたのであらう。  此書には諸友の消息が極て乏しい。惟「此間山口氏 (凹巷)宜堂兄(西村及時)などより御状被下」云云の句 を見るのみである。  霞亭述作の事は書中に二条ある。其一。「先日紀行 詩四十首計卒業いたし候へども、副本無之故、又又追 而可入御覧候。山口へ一本遣し候。彼方(山田)にて見 てもらひ候上、其方(的矢)より此方(神辺)へ御返却可 被下候。」紀行詩は的矢に往反した時の作であらう。 刊本帰省詩嚢の載する所は古今体五十四首である。或 は思ふに其四十首許が先づ成つて余の十数首は後に補 作せられたものか。  其二。「山口、宜堂より杜詩註解、詳説、心解等御 恵借被下候。遠方辱奉存候。是は来春中に卒業仕たく 候。」是に由つて観れば杜詩播註は丙子の冬起稿する 所であつた。霞亭はこれがために凹巷及時に書を借り た。  霞亭の次に碧山に与へた書は、末幅が断裂してこれ を作つた月日を知ることが出来ない。しかしその已発 最後の書を「十一月十七日」とするを見れば、直に前 書に継ぐものなることは明である。是も亦的矢書順中 にある。  先づ適斎を寿する詩の事を抄する。「北小路より御 高作被下候。此信呈上仕侯外に勘解由(今次不脱由字) 小路様御染筆等皆北小路御周旋被下候。足下よりも厚 く御礼書状御差出し可被下候。ぼらにても御序に御遣 し可被下候。三紙共緒紳家の御筆に候。いづれ後便御 家号、爵位等尋遣可申候。」所期の北小路政塊、勘解由 小路の詩書の外、公卿の書二枚をも得て郷里に送つた。  霞亭は詩を作つて常安と云ふものに贈つた。「常安 へ此詩御遣可被下候。甚拙作也。只塞責耳。」此詩は 遺稿に見えない。 その百一  文化丙子十一月十七日後の霞亭の書には次年丁丑茶 山七十の賀の事が見えてゐる。「此方茶山翁来春二月 七十寿辰、同伯母(原註、翁妻)も六十一に御座候。夫 妻とも賀年にあたり候。伯母の事は女の事故しらぬふ りにてもよろしかるべく候。翁へは御宅よりも何ぞ御 祝儀可被下候。先達而金子に而酒料参り候と覚え候。 同じやうにてもかつこういかがあるべく、其節の間に 合不申候てもよろしく、いつにても何ぞ思召付之品御 賀進可被下候。大人へ御相談可然候。翁とかくすぐれ 不申候へども、対客講釈はたえず有之候。」  菅氏の家譜に拠るに、茶山の初配は内海氏為で、天 明二年壬寅二月十七日に残した。年僅に二十三であつ た。後妻は門田氏宣で、文政九年丙戌五月十九日に残 した。茶山に先だつこと一年にして残したのである。  此書の云ふ所を見るに、宣は丁丑に六十一歳になる さうである。然らば其生年は宝暦七年で、残した時は 七十歳であつた筈である。  此書は三たぴ雨航家相の事を説いてゐる。「雨航よ り此間書状まゐり候。歳晩(丙子)か初春(丁丑)には御 宅(的矢)へも被参候而家相得と見可申由被申越候。繁 用なる人故、如意被参候哉無覚束候。いづれ可然御頼 可被成候。」  これよりして外、書中の剰す所は二三の雑事のみで ある。其一。「池上隣哉之詩いつぞ御序に御返し可被 下候。」隣哉の詩とはいかなる作であらうか。誠宇の 受業録を閲するに、霞亭の丙子に帰省した時、諸友は 相会する毎に東恒軒を憶ふ詩を作つた。隣哉に二絶が ある。所謂隣哉の詩は或は是歎。「花月楼作。秋風此 夕不籟条。一曲絃歌声欲瓢。縦使幽明路相隔。沈檀一 辮為君焼。」「概蘭社集、憶恒軒先生、時霞亭先生帰省 自備後。逢霧逢君把酒頻。有情有感勢燈親。秋窓閑話 皆依旧。唯是此中少一人。」花月楼集の霞亭の詩は詩 嚢所載「行逼忽忘旬日労」云云の七律である。其二。 「薇山三観御入用も候はじ被仰越可被下候。何部にて も差上可申候。」霞亭は三観を以て帰遺に充てたので、 伝聞して乞ふものもあつたのであらう。  霞亭丙子の書にして的矢書順中に存するものは此に 尽きた。わたくしは的矢書順に交つてゐる一詩筆の事 を補記したい。  箋に三詩が書してあつて、其一は歳寒堂遺稿丙子歳 除の詩の前に見えてゐる。「橘好直送新醸彰祖春数斗、 酒味勤甚、賦此寄謝」と題するものが是である。按ず るに好直は茶山集中の佐五郎である。門田の詩集に拠 れば藤田氏で、兵庫の人歎。酒は茶山と霞亭とに胎ら れた。「故人偶以家醸差。騰味余辛気浮々。」わたくし は余の二首の此に播入すべきものなるを思ふのである。 「弔杉林主鈴。(疑齢。)越中出奇士。落魂滞京城。狙 獄思玩籍。粗豪圧禰衡。抱痢終歳臥。論志万金軽。憶 起生前日。猶聞罵酒声。」「伊藤子直君萱堂七十寿言。 児孫蓬膝霜慈顔。百歳無□意思閑。応是不審添寿算。 君家濫外有南山。」  丙子の歳は云に暮れた。「歳除、是時杜詩卒業。抱 志悠悠何所為。光陰無待棄予馳。年年筋力成衰境。事 事歓情異少時。千里故山拠弟妹。一燈清酌対妻児。朝 来柳有欣然意。注了少陵全部詩。」杜詩播註の初藁が 成つたのである。時に霞亭年三十七。 その百二  文化十四年の元旦には茶山に詩があつて霞亭にない。 彼は「東風吹老老梅林、元日今年春已深」の一篇であ る。  霞亭は二日に郷親に寄する賀正の書を作り、八日に 発送した。発送の事は下の正月十五日の書と認むべき 断片に見えてゐる。亦的矢書順の中にある。  書中に霞亭は弟碧山に筆札の事を海へてゐる。「習 書の思召一段之義と奉存候。法帖類は何と申にても無 之、古人帖なれば皆々よろしく候。其中銘々の好尚も 有之候間御取捨可被成候。よろしくぞんじ候品にても 見当り候はゞ、購求仕差上可申候。併僻境故何もさし たる物無之候。山田辺御出之節御相談可被成候。楷書 習ひ候方甚益多かるべく候。小生輩のやうに狼籍にか き習ひ候癖付候而(は)今更去りがたく後悔仕候。」わ たくしの偶此語を抄するは椿山公の孤松余影を贈ら れた次日である。二宮孤松は霞亭の歌四首と画とを合 装したる一幅を愛蔵してゐた。そして「其書の妙なる 殆ど山陽の俗順に譲らざるものあり」と云つてゐる。 「狼籍に書き習」つた霞亭が百年後に知己を獲たのは 奇とすべきである。  霞亭は又次の二弟の講学に言及してゐる。「良助、 敬助素読等(此下二字不明)出精のよし為御知大悦仕候。 尚又無怠慢様御心懸可被下候。」  又山田詩社の消息がある。「山田よりも河崎、西村、 長井、文亮子などより書状参候而、くわしく様子承知 仕候。山口は何歎檀家の大金出入事間違候而、公辺か かり合等有之候由、河崎より申来候。余程取込筋に候 へども、例の御気質故、其中にも格別御不負著のよし、 よしの詩稿百首計も卒業とやらむの事に候。しかし家 事取込気之毒に存候。」書を寄せた河崎は敬軒、西村 は及時、長井は弥六、文亮は夢亭である。敬軒の書に 凹巷の近状が見えてゐた。訴訟の事は不詳である。 「よしの詩稿百首計」は芳野游稿である。芳野の遊は 文化癸酉であつたが、刊本の末を閲すれば、「文化十 四年丁丑孟春、平安書舗梶川七良兵衛開雛」と書して ある。載する所の詩は九十八首である。  其他書中には碧山の霞亭に寄せた物、霞亭の碧山に 寄せた物が見えてゐる。「霜月末御状除夜に相達し申 候。女院日記樋に受取申上候。」女院日記とは群書類 従収むる所の女院記歎。猶考ふべきである。「近作少 々入御覧候。(中略。)此記は認そこなゐに候。入御覧 候。外へは御示し御無用に奉存候。」詩は丙子歳除の 作等であらう。所謂此記とは何歎。歳寒堂遺稿には飯 後亭記以下四篇の文があつて、皆記である。此時碧山 に示したものは何れの篇であらうか。  越て四日に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢書順 中にある。書は先づ茶山の七十の賀の事を言つてゐる。 「老先生今年二月七十誕辰に候。先達而申上候通御賀 儀可被遣候。且御詩作御達可被成候。伯母菅翁妻も六 十一に候。この人は法成寺村と申大庄屋の姉に候。門 田久兵衛と申人極月末死去いたし候。別段弔書には及 申まじく、小生よりよきやうに申置べく候。老先生の 賀言はをくれても御挨拶可被成侯。大人様へ已に賀有 之候事なれば也。」茶山の事は姑く置く。妻門田氏宣 と齢との事は上に註した。門田氏の家は安那郡西法成 寺村である。宣の父を伝内正峰と云つた。丙子十二月 に残した久兵衛の事は、他日門田氏の系譜に就て検し たい。 その百三  文化丁丑正月四日の霞亭の書には、尚山口凹巷と宇 仁館雨航との名が見えてゐる。  「三月末、四月頃には凹巷播州の回檀の序、此辺へ も柾臨可有やうかねて被申候。何卒如意御越有之候は ば、小生歓意無此上候。尚御出会も候はば、御勧從耳可 然候。」回檀とは檀家を歴訪する義欺。或は思ふに凹 巷は神宮に関する職を奉じてゐたのであらうか。墓誌 は通篇詞章の事を言つて、絶て職業に及ばない。わた くしの解釈に銀む所以である。  雨航の事は前に見えた的矢北条氏の家相の事に聯つ てゐる。「雨航正月に御宅へ被参候様に、小生方へも 被仰遣候。併甚繁用の人故、気之毒千万に候。御出な くとも済候事ならば、労し申さぬ方可然候。先第一申 上候は外の事には無之、随分儀末にいたし、財のかか らぬやうの事に候。此意は先達而も申上候。其御主意 を御ふくみ被成候様御頼申上候。」北条氏は果して土 木を興さうとしてゐるのであつた。  書中に霞亭は弟碧山のために作詩の訣を語つてゐる。 「御詩作随分おもしろく候。さりながら随例賛歎いた し候は不深切なる事也。力を極めわるく申候。そこを 御考可被成候。読書の力なくては、詩もよくは出来不 申候。御用意専一に奉存候。」霞亭は学殖あつて始て 詩を善くするものと信じてゐたのである。要するに語 に来歴あらむことを欲してゐたのであらう。  最後に霞亭は父に土宜を献ぜむとして敢てせぬ事を 言つてゐる。「大人様にこの辺のぶり(海鱒)又はさよ り(轍)などを差上たく心懸候へども、実はたわいもな きもの、且は諸方へ世話かけ候も気之毒に候故、先差 上不申候。いづれ小生参り候節と奉存候。」  此書よりして後、霞亭は正月八日、十五日、二十一 日に書を的矢に遣つた。事は後の三月九日の書に見え てゐる。しかし的矢書憤中には此等の日附の書が存し てゐない。只正月十五日の書の断片と認むべき一紙が 存してゐるが、其事は下に註する。  二月には三日、七日に書を的矢に遣つた。亦三月九 日の書に見えてゐて、今伝はつてゐない。しかし是月 は茶山の寿鑓の開かれた月である。茶山は寛延元年二 月二日に生れた。飲燕の生日に開かれたことは疑を容 れない。現に本集載する所の「酔月迷花七十年」云云 の七律にも「七十誕辰」と題してある。しかし菅氏の 賀客を請じた日は蕾に生日のみではなかつた。霞亭の 三月九日の書に「度々賀客の莚有之」と云つてある。 霞亭の寿詩は「寿茶山先生七秩」と題する五古で、歳 寒堂遺稿に見えてゐる。篇中には月を言つて日を言は ない。「此日寿覧揆。青陽二月初。」此にはその身分を 説いた数句を抄する。「吾躬辱姻族。知愛受恩殊。皐 比分半席。禄米賑窮厨。井舞携児女。一堂侍杯孟。」 妻敬と女梅とを伴つて席に列したのである。  三月三日は梅の初雛であつた。是も亦三月九日の書 に見えてゐる。わたくしは的矢書順中なる九日碧山に 与ふる書を抄する。「今年は塾先生七十に而度々賀客 の莚有之、或は私方初ひななどと、俗事に而日をくら し候。花も殊の外はやく皆々落残いたし候。此辺花な く、一度も出不申候。」梅は鴨村丁谷にあつて、彼は亡 び此は存してゐたが(丁谷幾叢開満岸、鴨村千樹墾成 田、茶山)、桜は神辺の近所に少かつたと見える。 その百四  文化丁丑三月九日の霞亭の書には、的矢北条氏、土 木の事のはかどつた跡が見えてゐる。「御宅普請の図 等御見せ被下大慶仕候。何分ざつと被成候やう可然、 大人様など御心配無之候様御心付可被成候。」  霞亭は書中に良助敬助二弟に尺順の楷式を海へてゐ る。「良助より年始状辱存候。よろしく頼入候。敬助 なども年始暑寒の御見舞状等(此間「塾翁へ」など添へ て看るべきであらう)差出させ可被成候。良助はもと より、敬助にても、平生通用之書面随分俗通之方之文 体可然候。学者は却而手紙書状等にうとく、世の中の 用に立かね候故、わけ而心付可申候。」霞亭は字離句 琢の尺順を喜ばぬのである。  山田詩社の消息は噴疎である。「正月には山田諸君 御宅へ御訪被下候由、いまだ此方へは(此間「いまだ」 重出)書通無之候。御無事と察入候。」九日の書の事は 此に終る。  歳寒堂遺稿を閲するに、霞亭は此春今村蓮披を訪ひ、 又筑前の梶原、月形、吉富等の来り過ぐるに会した。 「訪今村紳夫、主人時閲録旧詩草」の七絶、「晩春筑藩 梶原月形吉富諸君見過、用梶君贈茶山韻」の七律があ る。就中今村の名字は福田氏の教を得て詳にすること を得た。今村勝寛、字は紳夫、一字は子猛、蓮披(披一 作限)又退翁と号した。通称は五兵衛である。居る所 を繭風居と云つた。わたくしは福田氏所蔵の「蓮披詩 稿」並に「繭風居百絶」を寓目することを得た。後者 に「今村完紳夫著、広住翰十五校」と署してある。広 住氏は僧となつて祐慶と称し、最善寺に住した。山陽 の曾て宿した寺である。祐慶、名は翰、静庵と号した。 筑前の三士中、梶原月形の二氏は茶山集に見えてゐる。 茶山集の藤井葦川の註に拠るに、梶原翼、字は子儀、 通称は七大夫、月形質、字は君僕、通称は七助、道号 は鵜棲である。  四月には霞亭が六日に書を碧山に与へた。前の三月 九日の書と此書との間には通信のなかつたことが文中 に見えてゐる。  先づ霞亭の家事を抄する。「正月来里方妻父病気に 而度々妻など罷越候。それや来客、講業等に而、今年 は一度も花も見不申、殺風景罷過候。此節小学詩経講 説に而皆々半になり候。」里方妻の父は井上源右衛門 正信である。わたくしは此に的矢書順中の月日の無い 一束を播みたい。それは是年丁丑の作なることが明だ からである。「此頃は大分暖気相催候。(中略。)妻共 親早戸村源右衛門此頃大病に而、妻お梅携、十日(正月 か)参り居申候。少々よき方にも申候由、併六十有余 の人故、急にも本復出来兼可申候。小生此節独居甚静 に而、詩歌など出来悦候。(中略。)十八日頃より又々 講業にかかり候。」或は上に云つた丁丑正月の十五日 の書であらうか。此断片には猶浅井周助が丙子冬に盗 に逢つた事、前波黙軒が中風に罹つてゐる事が見えて ゐる。「浅井去冬盗に逢候由新居昨今の事故嚥こまり 可申候。狂歌や詩など数々被遣候。何卒ひるみなくと りつづかせたきもの(医業を謂ふか)と黙蒔仕候。」「登 々庵詩、前波宗匠歌差上候。前波も久敷中風、老毫の きみにて、この位の事も余程大義に有之候よし。」(以 下切れて無し。)前波黙軒、名は敬儀、一号は蕉雨軒、 京都両替町二条南に住んでゐた。  諸友の動静にして上の四月六日の書に見えてゐるも のの中、先づ月江承宣の事を挙げる。「月江上人も二 月御乗船のよし、靹へは順風に而寄舟無之、三月八日 予州岩木と申処より書状到来いたし候。承芸、天隠な ど従事いたし候よし、長老より涌蓮歌集、竹(此字不 明)たんざく、くわし等数品たまはり候。」月江は京都 より対馬行の舟に上つたのである。随行には承芸の外 に天隠と云ふものがあつた。涌蓮歌集は「獅子巌集」 であらう。  次は山口凹巷である。「凹巷も春来一度も便無之候 如何。回檀用事も延ばし候哉。」  次は浅井周助である。「浅井もいかがいたし候哉、 今春はたえて便無之候。御地辺へはいかが。病気にて もなきや。此間又々尋遣候。」  次は田口某で、是は或は文字の交にあらざるかとお もはれる。「田口氏書状受取申候。尚又よろしく奉頼 候。鯛魚は被遣ぬが甚妙に候。是のみならず、一切贈 品御無用に被存候。」 その百五  文化丁丑四月六日の霞亭の書より事の郷里的矢に関 するものを拾へば、先づ土木の事がある。「此節土木 事御営作何歎(と)御事多く奉察候。」次は恒心社同人 の適斎を寿する詩の事である。「山田社中の詩先々朽 葉をかるべく候。いづれ其内小生より促し可申候。」 朽葉を苅るとは、己に得た作中に就いて存すべきは存 し、棄つべきは棄つる意であらう。其内促すべしとは、 未だ得ざる作を訣求せむとする意であらう。次は末弟 撫松の教育の事である。「敬助へ之書状先達而差出候。 尚無油断御策励可然候。」  書中に尚碧山の茶山を寿する詩の事が見えてゐる。 「老先生賀詩御序に御浄書被遣可被下候。(中略。)茶 山翁賀詩尚又御序に凹巷兄へも御斧正御頼可被成候。 併いそぎ候はば、それにも及申間敷候也。」碧山の詩 は存せりや否やを知らない。  前書を作つた後七日、四月十二日に霞亭は又書を碧 山に与へた。しかし其書は侠して、次の五月十一日の 書が存してゐる。亦的矢書憤の一である。季候は「此 節少々暑気相催候処、愈御安祥可被成御揃奉仰祝候」 と云つてある。  此書は的矢土木の事を言ふこと梢詳である。「此節 御普請中嚥御取込奉察候。隠居(所)へ御移被成候由、 可然被存候へども、かの隠居(所)は此暑中にむかゐ候 ては、御老人方は勿論、其方皆々あつさに御こまり可 被成候。暑中に風すきあしき、むし候処にこらへ居候 事甚人の毒に御坐候。ひよつと暑熱の入候ては、とり かへしもならず候。普請中はいづれにても近処の宅へ ひとつに御宿し被成侯方可然奉存候。何分足下よく く御心付可被成候。身の不養生は何にもかへがたく 候。此段御心得可被下候。普請出来候のち、壁のかわ かぬ処に起臥、是又よろしからず候。兼好が徒然草に 人の家は夏をむねとしてつくるべしとあり、夏風いれ よく、すずしき処は冬もあたたかなるもの也。草木随 分あき地へ何なりとも多くうへられ候やう可然候。竹 松など猶さら也。是皆人のなぐさみのみにあらず、養 生になり候たすけに候。去年まき候なでしこはさき申 候哉。此方此節一面さき候て見事に候。」朋佳麦の種子 は霞亭が丙子帰省の日に備後より持つて往つたもので あらう。それゆゑ神辺の家の園にも蒔かれ、此書を作 つた時花を開いてゐたのであらう。  此書には又碧山が霞亭と其塾僚二人とに反物を贈つ たことが見えてゐる。「塾へ紬一反御遣被下調法之品 於小生辱奉存侯。塾二位よりも宜敷御礼申上候様申出 候。」一反の紬は三人の衣を裁するに足らない。何の 料に充てしめむとしたもの殿。  此書は末が断たれてゐて日附が無い。中に「三月廿 日の御状四月十三日相達候」と云つてある。後の六月 十七日の書に徴するに、霞亭は此年四月十二日と五月 十一日との間には書を的矢へ遣らなかつた。此書が四 月十三日に達した郷書の事を言つてゐるより推すに、 その五月十一日の書たることが明である。  次は六月十七日の書で、其首に見えてゐる発信の順 序はわたくしをして前書の作られた日を知らしめた。 「此方より四月十二日、五月十一日書状差出し候。追 々相達可申候。」此書も亦霞亭の碧山に与へたもので、 的矢書順の一である。 その百六  わたくしは文化丁丑六月十七日の霞亭の書より、先 づ事の神辺に関するものを抄する。季節は涼しき夏で あつた。「今年はけしからぬ涼しき夏にて、今月迄各 別こまり候あつさも無之候。南国(志摩)は如何候哉。 (中略。)残暑強く有之候半歎。折角御心付肝要に候。 此頃朝夕己に秋涼の心を覚え候位に候。」霞亭の一家 は無事であつた。「此方無事罷在候。乍揮御安意可被 下候。(中略。)何も別段申上候事も無之候。」霞亭は 多く山田諸友の贈遺を受けた。「凹巷より吸物椀よき 品御恵投、呆翁よりも右之類御恵投被下候。御出会之 節御謝可被下候。河崎、雨航などよりも御投贈もの有 之、春来之消息先日一同参り、甚慰遠情申候。」山口凹 巷、高木呆翁、河崎敬軒、宇仁館雨航皆物を贈り書を 寄せたのである。  次に事の的矢に関するものを抄する。「御普請近々 御落成におもむき可申奉存候。御様子承りたく候。」 江戸の和気柳斎が饅亭の父適斎に紙子を贈つた。「和 気行蔵子より紙子被下候由、御地へむけ参り可申候。 御入念之儀と奉存候。何ぞ其内謝答いたしたきものに 候。いづれ其内御見合何ぞ御考置可被下候。いつにて もよし。」是も必ず寿詞と共に贈られたものであらう。  霞亭は此書を幻忙の裏に作つた。「御双親様へ別段 暑中御見舞書状可差上候処、福山より士人参り待受候 (ふ)へ頼候故不克其意候。よろしく御断被仰上可被下 候。」  歳寒堂遺稿に此夏の下に繋くべき事二条がある。一 は「伏日高滝、島田、小野諸君見過」の七絶である。 高滝氏は撲斎詩鈴に累見してゐる「高滝大夫」であら う。そして同集の末に「拝高滝常明墓」と云ふものも 亦恐くは同人であらう。島田氏は献頒篇の「島田遠」 であらう。印文に拠るに「字子広」である。撲斎集に は「島田子広」と云つてある。小野氏は献頒篇の「小 野明」であらう。印文に拠るに字は「士遠氏」である。 撲斎集に拠るに小野士遠は居る所を清音亭と云つた。 二は「寿楢園先生七秩」の五律である。檜園の事は頼 杏坪の墓誌に詳である。「姓源。氏小寺。諦清先。通 称常陸介。楢園其号。備中笠岡人。家世奉其邑稲荷祠。 考諦清続。称豊前守。本磯田氏。来嗣小寺氏。故批小 寺氏。(中略。)文政十年丁亥夏患瘍。閏六月廿六日。 端坐而逝。年八十。葬干館後山下。」是に由つて観れ ば小寺楢園は寛延元年に生れ、此年丁丑に七十歳にな つてゐた。推するに生日は六月某日であつただらう。  七月には記すべき事が無い。八月朔に霞亭の碧山に 与へた書は的矢書順の中にある。丁丑の残暑は果して 烈しかつた。「今年は暑中は各別にも無之侯へども、 残暑の方却而甚しく候。併此頃は朝夕梢涼冷を覚え 候。」  神辺には事がなかつた。「小生無事罷在候。(中略。) 其後諸般相替り候事少しも無之候。」霞亭は世上の事 を聞かむと欲すること頗切であつた。「御地の御様子 等何に付ても御しらせ可被下候。其外世間のうわさ雅 俗にかかわらず説話等御きかせ可被下候。田舎に僻在 いたし候ては、世上の事などきくが甚おもしろく一楽 事に相成候ものに御坐候。」 その百七  文化丁丑八月朔の霞亭の書には、最後に父適斎に土 宜を献ぜざる所以が辮じてある。「大人様へ国産(備後 産)の索豹にても献じたく候得共、さまでもなきもの を遠方へ差上候て、其上立入候事は大阪よりいせまで の賃銭、いせより御郷里へやるのなにかと(「やるのな んのと」の意歎)費なることに奉存候故、先々やめ申 候。産物と申もの、よそへやりて、それほどに人の思 はぬもの多きものに候。備後人がさうめんを人にやる とて、上方人のをりふしわらひ候よし、尤のことに候。 其段御断可被下候。それとも御入用も候はば被仰聞可 被下候。いつにても差上可申候、以上。」  九月七日に霞亭は書を弟碧山に遣り、これに短東一 紙を添へた。後者中「諸事本書に認置候」と云つてあ る。然るに所謂「本書」は存してゐない。  此短東はわたくしに的矢北条氏の人々が新居に移つ た日を教へる。それは七月六日であつた。「七月末御 状今日相達拝見仕候。愈御安康奉賀候。六日(七月六 日)移徒有之候由、重畳目出度奉存候。」其他書中には 的矢より干瓢を霞亭に遺り、神辺より園卉野菜の種子 を郷親に遺つたことが見えてゐるのみである。「乾瓢 条沢山御恵投辱奉存候。何より調法之品別而辱奉存候。 佐藤(子文)より塾へは先達而参り候故、皆私方へ申受 候。(中略。)種物の内、大方皆春の彼岸頃(蒔くが)よ ろしく候。石竹は八月がよろしく候。しも(霜)かかわ り候に及不申候。」  此書の次に列すべき霞亭の書は、末幅が糊離れのた めに失はれて、月日を詳にすることが出来ない。しか しわたくしは下の一段に因つて列次を定めた。「御新 居段々御居馴染被成候哉。御勝手は如何に候哉。内造 作も色々事多きものに御坐候。」此語は移徒の報を得 た直後に書かれたものでなくてはならない。是も亦的 矢書憤の一で、その碧山に与へたものなるは言を須た ない。  此書に備後侯阿部正精の老中になつたことが見えて ゐる。「此方殿様寺社奉行より直に御老中に御昇進被 成候而、領内は一統悦候而、祭などいたし候而、郡中 にぎやかに候。しかし何事も倹約を厳重にいたし候。」 阿部正精の老中に列せられたのは丁丑八月二十五日で あつた。  書に又伊予の人矢野某の事が見えてゐる。「予州西 条家中の医生矢野生が詩懸御目候。大分よくつくりた るものに候。二十二三の男にて、先日尋参候。これ迄 江戸聖堂に居候而、京都にて頼徳太郎が弟子になり候 由。此詩御返しに及不申候。」矢野の事は未だ考へな い。山陽集中には載せざる如くである。茶山集に只矢 野士善と云ふものがあるのみである。  又森岡維寅の事が見えてゐる。「先日来讃州より才 子の童子入門滞留いたし候。森岡綱太と申もの、十二 歳にてふりわけ髪の小児に候へども、書物はよくよみ 候。史記左伝なども一通手を通し居候。先は奇童と申 べきもの也。」綱太、名は惟寅、字は士直、森岡保治の 子である。茶山の墓誌銘に、「綱太年始十二、航海来、 寓余塾、白哲繊痩、如不勝縞、賦詩作書、略已就緒、 而与人応接、如老成人、人皆愛慕焉」と云つてある。  其他書中には抄するに足るものが少い。霞亭は又花 卉疏菜の種子を郷里に送遣した。「あさがほ種少々差 上候。一潭州種の中には常の種、須磨などいふしろき種 もまじり候。来年三月頃御まき可被成候。松なのたね は御地にも可有之候へども差上候。うらのすみか畑の すみに、いつにても御まき置可被成候。先春がよろし く候。」 その百八  文化丁丑の秋には猶歳寒堂遺稿より窺ふべき事二三 がある。其一は霞亭が僧丹崖に次韻したことである。 「和慧充上人韻。禅悦由来厭世欝。風流未必廃吟嘲。 丹崖翠壁秋応好。想掃雲沐対沢蓼。」慧充の丹崖なる ことは次瓦印譜に由つて証せられる。沈蓼は楚辞より出 でた語である。  其二は霞亭懐人の五律に、伊藤藍汀が此年京都に遊 んでゐて、瀬尾緑難と交つてゐたことが見えてゐる。 「懐伊藤文佐在京、兼寄瀬尾子章。京洛故人遙。別来 変涼襖。尋詩誰子同。恋月何辺宿。北雁念音書。東雛 已芳菊。嵯峨経過時。為我題幽竹。」伊藤良柄、字は 文佐、藍汀と号した、本備後の士川越仁左衛門光崇の 弟で、竹披弘亨の養嗣子となつて伊藤氏を冒した。仁 斎より第六世、東涯の弟梅宇より第五世である。瀬尾 文、字は子章、緑難と号した。通称は弥兵衛である。 家は京都中立売新町西にあつた。  其他牽牛花を詠じた「碧花雑題」、題画の数首等も亦 此秋霞亭の作つたものであらう。  冬に入つて十月十日に霞亭の弟碧山に与へた書があ る。亦的矢書順の一である。此書は前半が失はれてゐ る。しかし前半に霞亭が亀田鵬斎に書を寄せ物を贈つ たことが見えてゐた筈である。  霞亭は碧山に託して物を鵬斎と和気柳斎とに贈つた。 断片の首に僅に存してゐる数語はかうである。「そし て北条譲四郎、亀田文左衛門様と上封御書被遣可被下 候。」次に物を柳斎に贈ることが云つてある。「和気へ。 これもかの方より年々何歎被遣候。今年も遣し候也。 去年の賀の礼労、これは小生と足下と連名にて(鵬斎 に寄するものに、碧山が連署せぬゆゑ、これはとこと わつたのである)此書状そへ、鰹節一連、五六日の処御 遣可被下候。是も封じて上へ両人名御書被遣可被下候。 別段足下より紙布等被遣候挨拶礼状御そへ可然候。右 之通御認、霜月末、極月初之内、河崎氏迄御遣置可被 下候。御めんどうながら頼入候。代銀は来年参り候節 勘定可仕候。」所謂去年の賀は、前年丙子適斎七十の 賀である。柳斎は物を適斎に遺つたことであらう。わ たくしは此に由つて書の丁丑に成つたことを知つた。  霞亭は同じ書中に又対馬にある僧月江に言ひ及んだ。 「対州へも此間書状差出し候。例の索勢を遣し候。無 悲相達し可申や。遠境一向便もしれ不申候。京都へは 定而便も可有之候らむ。」  又池上隣哉の病の事が書中に見えてゐる。「池上隣 哉久敷臥尊の由、此頃初而承り候。」  此より後は霞亭の消息にして此冬に繋くべきものが 殆無い。遺稿の「牧百穀、諸子見過」の七律は「落葉 満庭人不践」の句より推してその冬なるべきを思ふの みである。百穀の事は上にも出でてゐたが、わたくし はその棲碧山人の親戚なるべきを想ひつつも、これを 詳にすることを得なかつた。今わたくしは百穀の名を 碩と云つたことを麻渓百絶中より見出し、その信蔵と 通称して、麻渓の妹を嬰り、一時廉塾の長となつてゐ たことを茶山集の葦川註に由つて知つた。遺稿の載す る所は此の如きに過ぎぬが、猶的矢書順中に前半の失 はれたる一東があつて、その丁丑十二月に作られたこ とが証せられる。わたくしの此の如く云ふは、書中に 「論語寛宴、得原壌」の五絶と、「冬日即事、三体詩党 宴、倣一意体、得先」の五律とがあつて、並に遺稿丁 丑の諸作に介まつてゐるものと同じきが故である。彼 は遺稿に「原壌、論語寛宴」と題し、此は単に「冬日 即事」と題してある。書には尚下の如き語がある。 「無程漁猟之秋と奉察候。郷味想像、流誕仕候。しか しつつこみはもはや御恵には及不申候。左思召可被下 候。近作一向無之候。短日講業に駆馳せられ候のみ。 此節孟子杜律隔日、文章軌範などよみ候。(此間有詩 二首。)此外色々可申上候得共、難尽筆頭候。苦寒折角 御自愛奉祈候。御双親様へ可然奉願候。余期再信之時 候。勿々頓首。譲。立敬賢弟。」  遺稿に「除夜和茶山翁」の七絶がある。「城市喧閲人 未還」を以て起るものが是である。茶山集を検すれば、 「放学経旬静掩関」云々の除夜の詩がある。其他遺稿 には「雪中和茶山翁」の五律があつて寒韻を用ゐてあ るが、茶山集は其原唱を載せない。  是歳霞亭は三十八であつた。 その百九  文政元年には霞亭に「戊寅元日」の七律があつて、 歳寒堂遺稿に見えてゐる。「飛騰慕景二毛新。四十今 朝欠一身。漸覚歓情在児女。近疎杯杓養形神。梅開蛙 谷香先動。氷洋鷹川緑自倫。遙拝双親看雲立。東風吹 送故山春。」第二に作者は年歯を点出してゐる。三十 九歳になつたのである。二毛はその記実なりや否を知 らない。意を留めて看るべきは第四の「近疎杯杓養形 神」の句である。題の下にも既に「予因病新禁酒」と 註してある。  遺稿に又これと合せ看るべき七絶がある。「修家書。 意至宛如泉有源。幾回加筆不知煩。写来還恐人添憶。 抹却憂癖止酒言。」是に由つて観れば霞亭は痒を病む ことを慮つたかと疑はれる。「憂痺」の憂は必ずし も杞憂でなかつたとは云はれない。しかし元日の詩の 題下に「因病禁酒」と云ふを思へば、或は夙く中風に 似た病兆が見れたことがあるのではなからうか。  所謂家書は幸に的矢書順中に存してゐる。そして一 語の禁酒に及ぶものがない。書は正月九日に弟碧山に 与へたものである。それが戊寅の春始て作られたもの なることは、首に「改春之御慶重畳申納候」と云ふを 以て知られる。  わたくしは先づ霞亭の自己を語るを聞かむと欲する。 「小生始家内皆々無事越歳仕候。御安意可被下候。旧 冬よりは例よりも暖に而くらしよく候。雪はたえて無 之候。御地は猶更と奉察候。(中略。)私も当年は帰省 可仕と心懸候。いつ頃にいたし候やしれ不申候。とか く小家にても主人となれば何歎と纏累、容易に出かね 候。どふぞ春中と心懸候。春なれば同道なども有之候。 尤同道はいくらも有之候ても、気にいらぬ者はいや故 に候。未一寸も其事は申出不申候。これも順により可 申故、きつと定めかね候。必々御待被下間敷候。」  次に帰省詩嚢刊行の事を一顧する。「去々年(丙子) 帰省詩稿京師にて又々上木いたし候。かの三観(薇山 三観)に附し候つもり、達夫(浅井)周旋いたされ候。 しかしいつ頃出来候哉、近来は信無之候。」刻本には 達夫の丁丑冬の践がある。想ふに霞亭の此言をなした 時、詩嚢は既に副剛氏の手にわたつてゐたことであら う。  次は弟碧山に関する事どもである。「御草稿返壁い たし候。(中略。)唐宋詩醇をどこぞで御かり出し被成 候而御熟読可然候。文庫(林崎)には有之候。是はむづ かしきか。佐藤(子文)へ内々御頼被成候て、一峡づつ にても出来可申や。」碧山惟長は当時二十三歳であつ た。  次は佐藤子文と池上隣哉とに関する事である。「佐 藤より歳末(丁丑)信有之、先は全快のよし、詩など多 く参り候。池上はとかく得と無之候由、気之毒に存 候。」隣哉の病の事は前年十月十日の書に見えてゐた。 子文の病の事は始て此に見えてゐる。  最後に少年詩人上田作の事を抄する。「上田作とい ふ人は誰の子に候哉。御郷里にこの位の詩にても出来 候人はめづらしく候。」詩は碧山と唱和したもので、 碧山の稿中に見えてゐたものであらう。上田の誰なる をば未だ考へない。  十二日には備後に始て雪が降つた。霞亭に「十二日 暁起、看黄葉山雪」の五古がある。「開戸憧驚叫。夜雪 没千峰。」又、「僑軒方一笑。此景無昨冬。」  十三日には霞亭が福山に往つたらしい。後に引く所 の書順がこれを証する。 その百十  文政戊寅正月十三日に霞亭が福山にゐたと云ふこと は、的矢書墳中の月日を閾いた書に拠つ七言ふのであ る。書は霞亭が弟碧山に与へたもので、その月日を闘 いてゐるのは、首あつて尾なきが故である。此書に 「霜月御状正月十三日福山に而接手仕候」と云つてあ る。  此書の戊寅に成つたことは、碧山新居の事が見えて ゐるより推すことが出来る。碧山は前年丁丑に新居を 営んだが故である。「御新居之額の儀色々案申候。前 江後山村舎(或は堂)などは如何候哉。杜詩の古詩(五 字本のまま)に家居所居堂、前江後山根と申すこと有 之候。同号の事、嵐山も亀山も余り漠然か。碧山など は如何。御近辺青峰と申山ある、夫にとり候て、出処 は李白が問君何事棲碧山と申字有之、いづれ御考可被 成候。」惟長立敬の碧山と号した来歴は此に見えてゐ る。  二月朔に霞亭は菅茶山北遊の事を郷里に報じた。 是は初度の報ではない。しかし前書と此書との間に成 つた書は侠亡してゐる。此書も亦碧山に与へたもので 的矢書績の一である。「先書(快亡)申上候通、菅翁二 月末頃上京之由、順に寄候てはいせへも可被参候。い せへ被参候はば貴郷(的矢)へも立寄可被申や。かの人 は余り構候もきらひ被申候。といふて不構もいかが。 飲食は格別このみなき人に候。御地のかまぼこ、をぼ ろなどが口によく合可申候。いづれ両三日も滞留いた され候はば、燈明などへ舟遊御すすめ被成てもよろし く候。しかし本人の意にまかすべし。尤十に七八はい せへは被参申間敷候間、必々御心待御無用と被存候。」  同じ書に又適斎七秩の寿詩の事が見えてゐる。「大 人様寿詩録、小生初録之分一遍此方へ御贈可被下候。 さなくば華山公の処の為天放子と申処御破可被下候。 別段あの通御願可申と存じ候へどもむづかしく候故に 候。あの一枚を反古に被成可被下候。」わたくしは此 文を下の如く解する。霞亭は父のために寿詩を集録し た。其中華山公の詩は霞亭がこれを写すに臨んで小引 を改剛した。是は公に改め書せむことを請はむと欲し たが故であつた。然るに此請をなすことは容易でない ので断念した。霞亭は改剛の痕を後に遺さむことを揮 かつて、弟に破棄せむことを命じたのであらう。華山 公とは花山院内大臣愛徳か、非か。猶考ふべきである。  又霞亭が碧山のために茶山の書を求めた事が書中に 見えてゐる。「菅翁より志州磯辺途中の詩二首、鳥羽 の詩二首、足下よりの頼にいたし、かいてもらひ候。 いつにても御序に御謝辞可被下候。これは屏風か、か らかみの用にもと存候故に候。先々いづれ小生帰省仕 候節の事に可被成候。よき趣向可有之候。」  最後に二三の項事を書中に取つて此に録存する。其 一。「江戸へ木魚御遣被下候儀御世話之至に存候。」木 魚は誰に贈つたものか不詳である。其二。「雑録、詩 文、時喜(此一字不明)録、これは先他へ御見せ被成ぬ やうに被成可被下候。其御心得可被下候。」時喜録の 事は後に見えてゐて、書憤の作られた年を識る資料と なるゆゑ、特に注意に値する。しかし喜字は艸体不明 である。其三。「小生帰省は右先書申上候次第に(而) いまだ申分も立不申候故、いつともしれ不申侯。」霞 亭の帰省の期は猶未定である。其四。「御詩稿例の如 く愚案申上候。弟共書状被遣、皆々へ宜敷(可被申)候。 書状の認方など、一々御指図可被成候。俗通用は随分 俗文ひらたくきこえ候が第一よろしく候。其心得可被 下候。良助などは百姓の儀故、猶更の事なり。」 その百十一  文政戊寅二月中、前書を発した後、霞亭は又菅茶山 の事を弟碧山に告げた。「先書申上候通、菅翁も当廿 日頃上京いたされ候。病人の儀故、京坂の間の名医な どに見せ侯つもりを主意の由、夫によしのの花などか け候事に侯。事により候ては、いせ参宮も可被致候。 よしのは三月中頃廿日迄の内にも可有之候へば、いせ へは中頃か三月末迄の内と被存候。老人の儀故、しか ともいたし不申候へども、山田へ被参候はば、貴郷へ も可被参侯。其御心懸可然候。佐藤へ一寸しらせ候事 を頼遣し申候。尚又足下よりも頼置れ可然候。被見候 噂きこえ侯はば、足下山田へ御越被成候而もよろしく、 何分郷里にも御越被下度儀、親共始御願申上たく候へ ども、僻郷之儀故申上兼候、御苦労にも思召候はば、 山田切にてもよろしくと御挨拶可被成候。其上は翁の 意次第にまかせられ候而可然候。被参候ても格別御構 にも及申問敷候。御膳などは随分ざつといたし候而よ ろしく候。朝夕は茶漬にてよろしく候。珍物はきらひ に候。こわき物口に合不申候。何分被参候はば料理人 御やとひ被成、それに何もかもまかせられ候て可然候。 定而滞留一両日に過申間敷候。舟遊一日御すすめ可被 成候。これもあの方の勝手次第、しゐては被仰まじく 候。書画類床にかけ候(は)何に而もよろしく候。御宅 には何も人に見せ候もの無之候故、一切御出し被成間 敷候。寿詩類は人のみて詮なきもの故、これも御出し 被成ぬがよく候。帰途行厨にても被成候而磯辺辺迄御 送行可被成候。親族中皆々御挨拶に罷出候はづに候へ ども、御面働を悼候故差控候と御断可被仰候。その方 が翁も勝手に候。滞留中足下井に敬助は著袴可被成候。 これも其時の見合にて必とせず。大抵其御心得にて宜 敷候へども、参不参は定められず候間、前方より御用 意は決して入不申候。噂きこえ候はば少し御心懸可然 と申に候。たとへ山田へ被出候ても、翁被参候より前 日さきへ御帰宅可被成候。日しれ候はば迎舟にても御 遣被成候てよろしく候。翁ももはやこれきりの旅行故、 足下少年輩なるたけ周旋被成候て可然候。さとうへ頼 候事失念被成間敷候。人二重になり候故、外へは別段 御頼被成間敷候。」  霞亭の茶山がために意を用ゐること至れりと謂ふべ きである。按ずるに此一紙は霞亭の碧山に与へた書に 副へられたもので、其書は侠したと見える。しかしそ の二月朔後望前に作られたことは疑を容れない。  霞亭の二月十五日に碧山に与へた書は的矢書贋中に 存してゐる。文中「此方より書状正月両(此間姦蝕)度、 内一通金子二方入、二月一通差出し候、内菅翁書入、 夫々相達可申候」と云つてある。しかし推するに霞亭 は二月朔の書を正月の書中に算したのではなからう か。そして「両度」は原「両三度」などに作つてあつ たのではなからうか。霞亭が朔日の書を其前月の書中 に算した例は、既に上にも見えてゐた。  此書は霞亭が河相保平に託したものである。「此書 状近処千田と申処の河相保平と申人に頼候。此人参宮 便なり。ちかく候はば事に寄御尋も申上たきと被申し ことに候。此人は此地に而無二懇意、内外世話いたし くれ候人に候。其御心得に而御挨拶可被下候、以上。 (此下行間に書き入れあり。)被参候はば御取持被成可 被下候。深切づくに態々被参候事に候。併先は参らぬ 様に申居候。」保平は菅氏と親善であつた河相周兵衛 の嗣子である。  書中霞亭の自己を説くことは下の如くである。「小 生講書も杜律をはり候而此頃周易講釈はじめ候。(中 略。)当春帰省は先々延引仕候。翁(茶山)近日上京の よし、未何のうわさもなく候へども、其つもりと被存 候。小生は秋にも相成可申哉。夫に付種々説話も可有 之侯へども、いづれ面上ならでは不分明に候。二尊様 へ可然様被仰上可被下候。」 その百十二  此より文政戊寅二月十五日の霞亭の書に就いて、其 中に見えてゐる二三の人物の事を抄する。其一は中村 九皐である。「中村九皐此地よりとも(靹)へ書状をつ け遣し候。九月頃也。ともに五六十日滞留いたし、長 崎の方へむけだんく参候よし申候。夫故只今何方に 居申候哉、縦跡しれ不申候。聞合候もあてのなきもの に候間無是非候。つまらぬものに候。」九皐は碧山の 知人で、碧山は兄に其行方を問うたのであらう。  其二は佐藤子文である。「子文への詩稿を表具(に) 御遣被下候哉。此間も早春のたより相届、かの人は不 相替鄭重に候。度々書状被遣候。」詩稿は霞亭の子文 に贈るものであらう。  其三は後藤漆谷の事である。「さぬき高松漆谷老人 詩差上候。この人は油屋弥之助と申町家にて、詩と書 とは当時甚高名家也。この詩は旧作を頼候。」霞亭は 漆谷に旧作を書せしめ、これを碧山に致したのである。 漆谷、名は荷簡、字は子易、一字は田夫、又木斎と号 した。氏を修して縢となしてゐた。以上の名字は五山 堂詩話、詩仏集、小野節の書憤等より得たものである。 わたくしは霞亭の此書に由つて俗称の油屋弥之助であ つたことを知つた。  其四は頼山陽の事である。「頼徳太郎もこの十八日 春水翁大祥に付先日下り候。はやきものに候。」春水 の忌日は二月十四日なるが如くである。しかしわたく しは春水の大祥と云ふに由つて、霞亭の此書の戊寅に 作られたことを知つた。  其五は讃岐の神童森岡維寅の事である。「金毘羅の 神童此頃又々再遊いたし候。」維寅の事は既に一たぴ 前の書に見えてゐた。  次に霞亭の碧山に与へた三月六日の書がある。亦的 矢書順の一である。此日は茶山発程の日である。「菅 翁今日出立被致、芳野へ直に被参候と申事に候。順路 にいせへも御立寄も可有之候哉無覚束候。五十日の御 暇を願候との事に候。京都などにて医家に見てもら ひ候事と相きこえ候。」西備新聞社刊する所の茶山の 大和行日記に「三月六日いそぎて門を出づ」と云つて ある。  茶山の同行者は日記に拠るに「牧周蔵、林新九郎、 臼杵直記、渡辺鉄蔵」の四人であつた。偶同郷の人 「別所有俊」が来つて此行に加はつた。  送行者は日記に「井原の滝蔵兄弟、庫右衛門、玄沖、 寛平」と云つてある。茶山集に「平野橋示送者」の絶 句がある。「閑行本自往来軽。不似前遊厳路程。唯為 衰躬重離別。出門已有異郷情。」  霞亭に「送茶山翁之和州、翁時就医干和州」と題す る詩があつて歳寒堂遺稿に見えてゐる。「春風扶瀬出 郷閻。勝践知応養病兼。何処杏林尋董奉。無由藍墨捧 陶潜。花村柳駅行行好。酒思詩懐日日添。想見芳山千 樹賞。満峰香雪照吟髭。」頷聯は王維の「董奉杏成林、 陶潜菊盈把」より出でてゐる。  霞亭が此書の裁せられた時、志摩伊勢よりは賀正の 書が叢り至つてゐた。「良助、敬助より年始状辱、尚よ ろしく被仰可被下候。」又、「佐藤より先日年始状参り 候。其外(山田諸友)はたえて消息不承侯。定而皆々御 無事と奉察候。」 その百十三  文政戊寅三月六日の霞亭の書には、末に詩二篇があ る。歳寒堂遺稿に補入すべきものなるを思ふが故に、 此に録存する。「春思。客舎江南已換衣。梅花零落草 菲菲。誰憐万里春風恨。送尽帰鴻人未帰。」「渓館読書 図。渓館長清寂。読書心自楽。将終秋水篇。独笑看魚 躍。」  書中には猶例に依つて碧山の詩を削正したことが見 えてゐる。「詩例の通愚案申上候。」又書籍二種を的矢 の家に留め置くことを碧山に命じてゐる。其一は亀ト 伝である。其二は某の家集であるらしいが、艸体不明 なるを以て読むことを得ない。  次で十七日に霞亭は又書を碧山に寄せた。是も亦的 矢書腰の中にある。書は西村十左衛門と云ふものに託 して送つたものである。「西村十左衛門殿幸便一筆啓 上仕候。」  中に茶山北遊中廉塾の状況が叙してある。「先書申 上候通、茶山翁当六日発装留主中寂蓼罷在候。殊に留 主故先生講業等迄相務、日間夜分大方在塾いたし、殊 更当春は俗了、花は已に欄落いたし候へども、未だ一 度も出門不仕候。夫に塾生に大病人有之、何歎と詩も 一向無之候。一昨日(三月十五日)みのの山伏体円と申 が尋申候。茶山を態々問参り候もの、十一年前(文化 丁卯)に居申候人のよし、夫に贈り候詩。普門道士月 中山、故来問茶山翁、翁時遊芳山不在、有詩見贈、次 韻以呈。別書煩しく草稿のまま。」此下幅一尺許の空 白が存してある。推するに詩卿を巻き籠め若くは貼り 付けてあつたのが失はれたものであらう。体円と云ひ、 月中山と云ふ、並に山伏の名であらう。詩は遺稿に見 えない。茶山の紀行を按ずるに、体円は神辺より茶山 の跡を追うて京都に往き、四月二十六日に茶山を升屋 の別宅に訪ひ、二十七日には別宅に移つて来て同居し た。西備新聞社の活字本に休丹に作り、又体丹に作つ てあるのは、皆体円の誤である。  十七日の書には別に録すべきものが無い。惟「為蔵 弔書には及不申候」の句がある。しかし為蔵の何人な るを知らない。霞亭の此書を作つた十七日には、大和 行日記に拠るに、茶山は吉野を出でて服部宗侃と云ふ ものの家に宿つた。  次に的矢書憤中に五月四日の霞亭の書がある。亦弟 碧山に与へたものである。  霞亭自己の近状はかう云つてある。「留主(茶山の留 守)中両人講業事有之(茶山と自己との講業歎)昼夜塾 へ引移居申候。多事、何も興趣無之候。」  茶山の事はかう云つてある。「二月三月両度御状(碧 山の書)拝見仕候。茶山翁御待も被成候由、是も私方 への書状(茶山の書)に、伊勢までと存候へども、輿中 とかく眩量のきみ有之、不得已直に京へ引かへし候由 に候。未帰期もしれ不申候へども、大方此節帰計と被 察候。」茶山は三月二十日に京に帰つて升屋に宿り、 二十五日に同じ家の寺町六角下る別宅に移つて、そこ に滞留してゐた。霞亭の此書を作つた五月四日には、 中山言倫が訪ねて来て、伊藤東涯の書などを贈つたと、 日記に云つてある。  次に伏原久童、武元登々庵、頼山陽の事が此書に見 えてゐる。「京都の人々の詩画、ある儒生よりあつめ 遣し候。皆々おかしなるものに候へども、先々差上候。 此内久童卿と申は、伏原三位殿に而、御所の儒家に候。 登々庵も先々月病死いたし候。京都に而詩書にて追々 業のうりひろめ出来候最中を、可憐事いたし候。頼徳 太郎も春水翁三年に二月に下り候。それより直に九州 辺より長崎辺迄漫遊、もふけるつもりにて出懸罷在候。 いまだ帰らぬよしに候。」伏原三位は正三位宣武卿で ある。武元の死は二月二十四日の事で、茶山は三月七 日に宮内でこれを聞いた。「聞登々庵下世。本擬相逢 共酔吟。忽聞君宅北邨陰。遠郷恐有伝言誤。将就親朋 看計音。」山陽の西遊は世の普く知る所で、遂に戊寅 の歳を赤馬関に送つた。 その百十四  文政戊寅五月四日の霞亭の書には猶山口凹巷、河崎 敬軒の事が見えてゐる。「先日は凹巷君より通書有之、 社中近況も承知仕候。敬軒も江戸より去月(四月)上旬 不快にてもどられ候由、此節は快然と奉存候。私も先 達而承り候へども、多事書状差出し不申、漸今日見舞 状遣し候。御便(碧山書信)の節、書中にても御尋可被 遣候。」霞亭は凹巷の書を得て、敬軒の病んで江戸よ り伊勢に帰つたことを知つたのである。敬軒の子誠宇 は験姦日記に践して、「戊寅之春、先人罹疾干東府、輿 而南帰」と云つてある。是が敬軒のためには致死の病 であつた。  碧山の事にして此書より抄出すべきものは下の如く である。「額の儀さしあたりこれと申人も無之候。い づれ見合頼可申候。御号之事は追而面談にて申候。青 峰開帳に而来客等多く有之候由、労擾察し入候。人世 これも不可免儀に候。小生輩なりたけ俗事にはなれ候 積に候へども、とかく時々慶弔事などに近来は役せら れ候而迷惑仕候。」額は碧山が新居の匠額である。霞 亭が堂に名づけたことは前書に見えてゐる。碧山は兄 の撰んだ文字を書すべき人を求めてゐるのである。号 は霞亭が弟のために撰んだ碧山の号である。碧山は重 て此文字の事を兄に質したのであらう。  五月下旬に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢書憤 の一である。此書の日附は卒に見れぱ「六月四日」と 書したるものの如くである。しかし茶山の未だ神辺に 帰つてをらぬを見れば、その非なること明である。 「此間太中翁便宜に京へむけ書状差出し候得共、昨日 大坂書状到来、十七日(五月)浪華に下られ侯よし、然 れぱ行違に相成候而、差出し候状届申間敷被存候間、 又々別段認此書候。(中略。)太中も両三日中に帰家と 被存候。」茶山の日記に徴するに、五月十七日の条に 「大坂に著、蔵屋敷にやどる」と云つてある。即霞亭 の文と符する。然れば日附の「六月」は「五月」にし て、「四日」の上に「廿」を脱したもの欺。  此書には改元の風聞の事、四月晦の天変の事、通 貨改鋳の事などが見えてゐる。「年号文政と改まり候 よし、此辺にてうわさいたし候。四月晦雷雨に、此辺 霧敷電ふり申候。大いなるは七八匁位かけめ有之候。 福山辺は野菜麦穂を大に損じ候。御地辺如何に候哉。 金銀相場ふきかへ有之候而大にさがり候。此節二朱に 而七匁五分位にとりかへのよし、まだもさがり可申や、 金子たくわへ候者は迷惑なるもの也。」試に大坂相揚 を検すれば、金一両に付六十三匁二分四厘である。即 二朱に付七匁九分である。  六月三日に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢書順 の一である。書中には霞亭の語の自己に及ぶを見ない。 惟「当方無事罷在候。乍悼御安意可被下候」と云つて あるのみである。  茶山は既に北遊より帰つてゐる。「茶山翁も五月晦 日帰宅被致候。先々安心仕候。」大和行日記を閲する に、「廿九日(五月)神辺より輿丁二人来り迎へ、薄暮に 家にかへる」と云つてある。戊寅の五月は小であつた から、晦日は無かつた。霞亭の晦日と云つたのは尽日 の義である。  碧山は既に妻を嬰つたと見える。「山田永々御滞留 被成、一瀬辺遊行被成候由、佳興不堪羨望候。定而詩 文等沢山御出来可被成と奉察候。婚事之儀被仰聞、先 は相調候而目出度存候。くわしく被仰聞可被下候。御 双親様へ御助力、御安心被成候様万事御心付可被成奉 願候。」文中「相調候而目出度存候」と云ふを見れば、 碧山の已に嬰つたことは明である。  霞亭は敬軒の病を言つて中山言倫の事に及んでゐる。 「敬軒は病気余程むづかし(き)ものと被存候。何卒本 復いのり候。いづれ酒は厳敷禁ぜねばなり申間敷候。 中山言倫肺癌なれど、粉剤など用ひ、爾来八九年一滴 も胸間に下し不申候故、今に先は生活いたし被居候。 何卒あのやうになりともいたしたきものに候。」敬軒 の死は、其子誠宇の験姦日記の賊に、「是歳(戊寅)五 月廿七日没」と云つてある。然れば霞亭の此書は敬軒 残後五日に作られたものである。誠宇の見聞詩録に 「敬軒先生臨終作、五月廿八日」と題する七絶二首が ある。「河崎良佐勢南人。病肺一朝欲損身。志業未成 年皿川九。梶称文政太平民。」「読書無復一経専。郡志将 修猶未編。徒謂老年期了事。而今何塑彼蒼天。」是に 由つて観れば敬軒は肺を病んで四十九歳にして終つた。 郡志を編せむと欲して果さなかつたのである。中山言 倫、名は懲、字は子徳、自取と号した。父を子幹と云 ふ。並に茶山集に散見してゐる。  十一日に霞亭の女梅が天した、菅家過去帳に「栽玉 童女、文政元年寅六月十一日、北条譲四郎嫡女、名梅」 と云つてある。按ずるに梅は三歳であつた筈である。 的矢書臓中に霞亭の七月六日の書があつて、梅の死を 弟に報じてゐる。 その百十五  文政戊寅七月六日の書は霞亭が弟碧山に女梅の死と 自己の病とを報じたものである。「此地五月末より痢 病流行いたし候。小児など多くいたみ候。等閑に存罷 在候処、八日(六月八日)より少女お梅やみ付候而、段 々重り候而、医療等は手を尽し候得共、未三歳之小児 体もちかね、それにさしこみつよく、終に六月十一日 午時はかなく相成申候。大分愛矯らしくなり、物など もいひ候処、可憐事いたし候。葬送何歎仕上等いたし 候内、十三日より又々小生やみ付候而、小生は余程重 症に而、昼夜大凡百行余に及候事二三日に候。医家も 三四人の配剤に候。三箇角兵衛殿始終療治に預り候。 時疫を兼候症とて熱をさばき候事を第一に被致候。夫 故か二十日頃よりは段々快き方に相赴候而、二一二旦… より大方平常に相成申候。併病後の事故、万事廃却い たし、唯養生のみにかゝり候。最早気遣は少しも有之 間敷医家も皆々被申候。不存寄大病相煩候。大に迷惑 仕候。しかし最早食事等も味よろしく候。此分にては 日々平復可仕候。必々二尊御案じなきやう被仰可被下 候。小児の事は天命無是非候。近隣にても十二三人死 去いたし候位の事故、時節と存じ候。病夜の作章をな し兼候。幾回励志体元屏。多少傷心伏枕聞。千里相関 老親意。一眠猶見病児顔。風驚後夜燈残壁。虫咽幽叢 秋満山。蝦翼繭糸何所況。暁鐘声裏涙濃援。自註、陸 游詩、官情薄似秋螂翼、郷思多於春繭糸。病後読詩作 詩等気のあつまり候事よろしくなきと申事に而、何も かもやみにいたし居申候。閑居摂養送日侯。」  梅の病は所謂疫痢である。霞亭はこれに感染して痢 を患へた。そして治療を三箇角兵衛に託した。わたく しは嘗て伊沢榛軒の書に、福山士人中学殖あるものは 一の三箇氏あるのみと云つてあるのを観た。当時霞亭 の三箇氏を信頼したことを思へば、後年榛軒のこれを 推重したのがげにもと頷かれる。  霞亭は書中又碧山の婚事に及んでゐる。「扱先達而 御婚事首尾能相調候由、目出度存候。此方よりも早速 祝詞等差出し可申候処、右に申上候通之仕合、(女梅 と霞亭との痢疾)延引仕候。いづれ是は来春にても帰 省之節と心懸居申候。乍悼二尊並に新娘へもよろしく 御断置可被下候。」碧山の嬰つた妻は田口氏礼以であ らう。礼以は戊寅に二十歳になつてゐた。  霞亭は又河崎敬軒の死を惜んでゐる。「敬軒下世同 歎之儀、無是非事に候。」是は碧山の書中に哀悼の語  があつたのでこれに答へたものであらう。  八月朔に霞亭は弟に書を与へたが、此回は殆全く前 言を反覆するのみであつた。亦的矢書順の一である。  「先月九日(六日の誤歎)福山便書状差出し申候。相達 候哉。山田山口(凹巷)へむけ相可屋へ達し候。共書中 申上候通小生病気も追々快く相成申候而、此節にては 掲病林候。併病後閑適何もかも廃却罷在候。此辺流行 痢病時疫も大方穏に相成候。先日子文(佐藤氏)より書 中勢南にも疫或は瘡流行いたし候由、御地並に山田社 中は無悲候哉。小生痢疾は三箇氏の見立にては疫痢と 申にて、熱のさばき第一の処、はじめの医家随分巧者 に而最初葛根湯用ひ候へども、はや痢疾の療治にとり かかり、熱の発散かひなく、夫故始終熱気のさしひき 三十日余に及候。いづれ医と申ものは天地の間の大役 'に而人命の関係する所なれば可慎第一に候。精細の工 夫平日相用申さねば相成申間敷候。足下なども詩文の 事よりも先我先業故ひろく医籍療法の上に御用心被成、 良医に御なり被成候様奉祈候。此内拙荊並に菅三など も少々気味も有之、案じ候へども、是は皆々軽症に而 早速本復仕安心仕候。此度拙者病気に付而は、塾二位 はもとより親族其外他所よりも皆々奔走いたしくれ、 のこる方なき介抱に逢申候。併痢後は却而腹部などは よくなり候様にも御坐候。小生も此度にこり侯而、以 来益修摂に心を用ひ可申、当春中酒など思ひ合候処、 先は酒を第一節し侯様心掛可申候。もとより此節は一 滴も入口不仕候。」是に由つて観れば、蕾に女梅と霞 亭とのみならず、敬も菅三も痢に感染したのであつた。  「お梅をいたみ候和文和歌も数々有之候へどもいま だ清書いたし不申候。」霞亭は本文に此の如く書し、 更に行間に細書した。「むすめがいたみの記、歌懸御 目候。御覧後またのたよりにかへし遣され度候。」未 だ浄書せざる稿本が的矢に送り遣られたのである。  此書に帰省詩嚢刻成の事が見えてゐる。「新刻到来、 一部進上いたし候。先達而之三観(薇山三観)と一つに いたし、霞亭二稿と題し発行いたし候。二匁宛にてう り候よし。三観をはづして帰省(帰省詩嚢)ばかりなれ ば一匁二分宛に候。望人あらば御世話可被下候。」薇 山三観、帰省詩嚢には各単行のものと合刻のものと があつたのである。  霞亭は又季弟撫松の年歯を忘れて碧山に問うた。 「敬助はいくつに相成候哉、十六か十七と覚え候。御 序に被仰聞可被下候。」撫松沖は享和二年の生で、十 七歳になつてゐたのである。  最後に河崎敬軒を弔する詩の事が見えてゐる。「河 崎悼詩した書懸御目候。病中ろくな事も出来不申候。」 詩は歳寒堂遺稿載する所の七絶二首である。此に其小 引を録する。「七月六日河崎良佐計音至、賦此遙悼、 用其絶命詞韻、余時嬰病。」 その百十六  文政戊寅九月三日に霞亭は書を弟碧山に与へた。亦 的矢書.順中にある。当時霞亭の病は既に全く撞えてゐ た。「小生此節は全く快復仕候而、日々講業に従事仕 候。乍揮御安意可被下候。(中略。)痢疾此辺は先月 (八月)末頃よりしづまり候。福山は今に少しのこり有 之候よし。小生も病後いづかたへもいで不申、唯静養 仕候。詩も一向出来不申候。此問近野に出候節口号。 出門(歳寒堂遺稿門作戸、可従)看秋色。行々悶漸忘。 虫声陰処早。菊気露中(遺稿中作辺)香。笛遠呼牛谷。 歌喧打稲揚。携来有柑酒。一路興偏長。中秋は此地宵 の間は陰り候。小生も夜坐を畏れ候故、塾に暫時よば れ候而、早く帰りいね申候。詩も有之ども一向悪作 也。」茶山の此中秋の詩に「忽観庭沙白、出歩階除前、 頭上雲行疾、走月在林端、須奥還陰繋、有似差人看」 の数句がある。  霞亭の諸弟が梅を弔する書は既に至つてゐた。「亡 児に香火燈籠等御手向被下候由、御厚意奉謝候。おけ う(敬)へも申きかせ候処、難有がり泣涕いたし候。亡 児へ悼詩辱奉存侯。(以上謂碧山。)二弟(良助、敬助) 弔状辱、宜敷頼申候。」碧山は詩をも寄せたのである。  此書に佐藤子文の消息が見えてゐる。「一両日前佐 藤より来書有之候。近来は壮健之由申来候。」 その百十七  文政戊寅十月十二日に霞亭は又書を弟碧山に与へた。 是は季弟撫松を廉塾に迎へむと欲する書である。わた くしは撫松の齢十七と云ふを以て、その戊寅に作られ たことを知つた。亦的矢書順中に存してゐる。  撫松の事は半切の右下に頁数を記したる四紙の過半 に亘つてゐる。「敬助十七歳に御坐候はば成長の儀一 段之事に候。随分壮健になり候やう心懸第一に候。近 年中には此方塾などへも参り候やういたしたく候。こ れは小生参り侯節御相談申侯而よろしき儀に候へども、 大略のやうす一寸御相談申上置候。廉塾は御上の御所 持に而、太中翁預り分となり居申候。入塾之書生は何 もかも一統ひとつにいたし、一月の上に而総勘定いた し候。大体一人前食物油の代迄に而一日七八歩に而済 候。外には紙筆髪結ちんなど計也。是は親族の子弟に ても外人にても同じやうに勘定たて候事勿論に候。間 ま貧窮の者には扶持方なく置候もの有之候へども、是 は学僕の積りに而家の事色々いたさせ候。敬助参り候 ても、右之扶持をば出し不申候ては叶不申候。私方へ 置候へば夫にも及不申候へども、書生塾の外に置候事 禁じ申候。私もあてがい身上故、家内入用の外に一箇 月廿三四匁の入用出しがたく且は塾へ対し候ても不可 然候。されども一々長き間御宅より御物入御坐候も御 苦労の義とぞんじ候。右に付先達而より小生色々工夫 いたし候処、先一箇月食料一分二朱といたし候而、半 分は私よりいで、半分御宅より御出し可被下候。さす れば一年の飯費四両二歩にいたし候而、其半分を二両 御出し被下候やう奉頼候。小遣紙筆の費、髪結賃等は 此方に而辮じてよく、外に一切入用なし。洗濯物、是 は此方に而世話いたし候。書物は持参に及ばず、当用 のものは此方に有之候。衣類、めん服に而よし。右之 .段二尊へ御相談被成置可被下候。尤これは当分の事に 候。後には又々よきしかた可有之候。くわしくは面談 に可申上候。敬助さし料大小御坐候哉、かつこうよき もの有之候へばよし、なければ其用意被成可被下候。 山口長二郎殿(凹巷)いつぞや大阪へさし被参候大小、 甚手がるにてしかも簡便に有之候。子息の観平にこし らへ遣候由、道具屋平兵衛方にてこしらへ候由、其価 も甚やすく、金一両にて出来候よし、もしこしらへ候 はば山口へ御頼可被成候。其価は私より進じ候てもよ ろしく候。これはいそがぬ事に候へども、ふと気付候 故に候。書生の内は事さへ各別かかねばなんでもよし。 私どものくらし、やはり林崎などに居申候せつにかわ り無之候。家内有之、親類の吉凶事のつとめにうるさ くこまり入候。とかく昔が安心に有之したはしく候。」 わたくしは此に由つて当時廉塾の諸生の生活費を詳に することを得た。一日八分、一月二百四十分一は以て 飲僕より燈油に至る一切の費を辮ずるに足つた。銀相 場を検するに当時金一両は銀六十三匁二分五麓即六百 三十二分四であつた。一月の費は金一分二朱三分一麓、 一年の費は四両二分三匁七分五麓である。今の費の約 百分の一である。そして霞亭一家の生活費も亦剰余を 以て此全額を給するに足らぬので、霞亭は弟碧山をし て其一半を醸出せしめようとした。わたくしは又此に 由つて当時の刀剣の価を知ることを得た。山口凹巷が 其子観平のために作らしめた刀は価金一両であつた。 殆三月を支ふべき生活費に当る。そして霞亭はこれを 廉なりとして、撫松がためにこれを求めようとした。 その百十八  文政戊寅十月十二日の霞亭の書は自己を説くことが 極て少い。上に引く所の文に、姻家慶弔の煩はしきを 厭ひ、林崎時代の生活を追慕してゐる外には、惟例 に依つて「小生方皆々無事罷在候。乍揮御安意可被下 候」と云ふに過ぎない。  的矢に在る弟碧山は当時風邪に冒されてゐた。「御 風邪御用心専一に候。風邪もあなどりて長引候と、人 の性により、労咳のやうになり候ものも御坐候。足下 など少し腹よわきやう見え候。随分用心専一に候。灸 治おこたらず可被成候。弟妹共へも御すすめ可被成 候。」  書に中村九皐の事がある。「九皐画人参り候よし、 これは内分なれど、この人には説あり、参り候ともよ いくらゐに御あしらひ可被成候。御懇意に被成候事は 無用に候。」  末にわたくしは項事二件を抄する。共一。「水松沢 山被遣、辱賞味仕候。水松は腫気などによきと申事故 に申上候。しかしあしらひ、吸物あしらひに専ら用ひ 候。時節過候而申上候而甚御労煩をかけ侯。」按ずる に水松は霞亭が求め、碧山がこれに応じたのである。 其二。「和中丸御序に少し御恵可被下候。来正月出来 候節にてもよろしく候。」按ずるに和中丸は霞亭が家 庭用のために請うたのである。  十一月二日に霞亭は又書を碧山に与へた。神辺の家 には吉事の報ずべきものがあつた。それは妻敬が女子 を産したのである。「当方無事罷在候。先日大阪便書 状差上申候。(此書の事は下に出す。)其節申上候通出 産やすく御坐侯而、母子追々肥立申候。乍揮御安心可 被下候。」按ずるに生れた子は霞亭の第二女虎であら う。戊寅の生であつた故の名歎。此年六月に長女梅が 夫し、十月に虎が生れたことと見える。  霞亭の自ら道ふ所には猶下の語がある。「此頃は短 日、講業等に逐はれ候而好意思もなく、詩も一向出来 不申侯。此間の悪作。題後赤壁図、得箪。臨皐良夜憶 江潭。有客有肴情興酬。斗酒如無細君蓄。千年風月欠 佳談。順輔、辞卿見過、得樵字。有客茅楼問酔樵。挽 留吟袖指山瓢。槍檸莫笑非時様。請坐聴吾酒後謡。」 二詩皆歳寒堂遺稿の収めざる所である。順輔は未だ考 へない。辞卿は田中氏である。  霞亭は季弟撫松来学の事を促した。「先書申談遣候 敬助儀もはやく御相談被成御返辞可被下候。さすれば 来春小生帰省のせつの心積りも有之候。」  高木呆翁、西村及時の書中より、霞亭は山口凹巷耳 病の事を見出だした。「高木、西村両子より通書有之 候而始而承知仕候。聯玉君久敷耳痛に而すぐれ不申候 由、八月頃は余程危篤にも有之候由、併し此節は涼隔 散など適中いたし、先は気遣も無之候由、先々お互に 安心仕候。足下など定而御存じ之事と被存候。御通書 之節一寸被仰聞可被下之処、疎略なる事と被存候。右 故か六月以来一向此方へ通書も無之候。」  霞亭は適斎に海索勢を遺つた。「海ぞうめん少々差 上候。大人様へ御上可被下候。是は但馬城崎より出候 のみとぞんじ候処、先日御領内田島と申処に而とれ候 とて、其土人の手製をくれ候。さしみ、いり酒のわき もりによろしく、京に而よく遣候遣候。(二字術。)少 し前に水に而よくく洗候而御用可被成候。」うみぞ うめんは紅色藻門のネマリオン歎。  虎の誕生を報じた霞亭の「大阪便書状」は、わたく しは初め侠亡したものと謂つてゐた。後に至つてわた くしは.霞亭の母に寄せた書の後半を断ち去られたもの を発見した。そして此断片の大阪便に付せられたもの なることは今や疑を容れない。「扱せん日おけう(敬) も安産いたし候。又々女子に御坐候。母子とも追々肥 立申候。名は虎と名づけ申候。とらのとしの生れの故 に候。さつそく御しらせ申上候はづ(筈)に候処、何殿 と用事しげく、夫に女子ゆへ(故)さほどおもしろくも 無之候故延引いたし候。しかしお梅などより生れだち は丈夫に見え候。産衣七夜に親類より少々もらひ候。 学問所より紫紋ちりめん小袖とつむぎ小袖。本庄屋 (菅波武十郎)よりもゝいろきぬ。」(以下切れて無し。) その百十九  文政戊寅十一月十一日に弟碧山に与へた霞亭の書が 的矢書順中にある。通篇殆皆自己を語つてゐる。「当 方無事、小児(虎)も追々肥立申候。御安意可被下候。 (中略。)此頃看書講業に追れ、詩は一切無之候。夜前 (十一月十日夜)人の索に応じ候双狗児の賛。稗犬日相 嬉。無心殊可喜。不知長大時。還憶同胞否。御一笑可 被下候。最早当年も五十日にたらぬ光陰に候。はやき 歳月、更に驚き候。来二月(己卯二月)頃は何卒帰省果 し申たく候。只今此状認候に付ふと出候。夢のごと過 る月日も故里をおもへばひさしいつか帰らむ。きこえ かね候様に候。」霞亭は次年二月を以て帰期となして ゐた。双狗児賛は歳寒堂遺稿に見えない。  山田詩社の消息は暫く絶えてゐた。「良佐(河崎敬 軒)下世いたされて、山田の信も甚疎潤に候。山口君 (凹巷)耳疾追々全快と被察候。」  書中に医事二三がある。「此頃中風の防ぎ並に中症 になり侯て後にてもよろしきと申名灸伝授うけ候。書 中に(て)はわかりかね候。帰省のせつ可申上候。其内 相しれる人の左様の事も候はば被仰可被下候。書付進 じ可申候。テリアカの製法もつたへ候。是又同段。」 テリアカは希騰語テリアコンの転で、解毒蜜剤である。  此書は十一月十一日の作る所ではあるが、その発せ られたのは或は二十六日であつたかとおもはれる。何 故と云ふに、的矢書順中別に「霜月廿六日」の書があ つて、「別状は先日認置候得共、便間違延引仕候、やは り一併に差上候」と云つてあるからである。此十一月 二十六日の書の戊興に成つた証は、「此方書信」と題し て既発の書を列記した中に「霜月二日、うみそうめん 入」の一信があつて、其海索麺入の書は上に引いた如 く存してゐるのである。  次は霞亭が十二月八日に碧山に与へた書で、亦的矢 書順中にある。神辺の事は初に「小生無事罷在候、左 様御安意可被下候」と云つてあるより外下の数句があ る。「扱今年は此境けしからぬ暖なる冬に而くらしよ く候。今朝梅がこの位にさき候とて、一枝(此下三字 不明)もらひ侯。御地辺は如何に侯哉。私明春帰省も 先二月頃とは思ひ候。故障さへなくば是非発程可仕 候。」  霞亭は帰遺の事を報じてゐる。「大人様へ明春土産 の一物に筑前より到来の帯地(此下三字不明)先御差上 可被下候。良助へ書物一冊、是は頼万四郎殿(杏坪)比 配下へ行ひ候書なりとてもらひ候。嚢州にてけしから ぬ発行の由、教にもなり、手本にならひ候が可然候。 良助へこれも来春の土産のつもり也。左様被仰可被下 候。(京よりは独行のつもり也。)」  池上隣哉が書を霞亭に寄せた。「一昨日(十二月六 日)池上氏よりの信有之候。これも段々快き方に候由、 凹巷も段々御快復之由、いづれも重畳之事に候。」隣 哉は病んでゐたと見える。  次は十二月十八日に霞亭の碧山に与へた書である。 是も亦的矢書順中にある。末に「最早当年は大方此限 に通書不申上侯、万々御自愛奉祈候、頓首、極月十八 日夕燈下書」と云つてある。  書に碧山迎妻の披露の事が見えてゐる。「御婚儀御 披露御坐候由、目出度存候。右御祝詞之印迄書状並に 金子入、先月末大阪書商へ相托し申候。相達し候哉承 度候。すべ而何事によらず、中分より質素に被成候様 可然候。是は足下へ内々心得に候。其方が自他安心な るものと存候。」 その百二十  戊寅十二月十八日の霞亭の書を続抄する。  適斎の妻中村氏は霞亭の女虎に誕衣を贈つた。「お とらへ母様よりけつこうなる誕かけ御送、辱奉存候。 拙内(敬)も早速御礼可申上候処、今夕は甚急故不得其 意候。可然御礼申上候様申出候。」  医生魚沼文佐の事が同じ書中にある。「魚沼文佐、 成程存候ものに御坐侯。菅塾にて大分世話になり候も の、私も心易くはいたし不申候へども、相識には有之 侯。医療も相応にいたし、詩文などもかなりに出来候 由、併甚不人物、大阪に而去々年歎大分悪事いたし候 よし、先は遠ざけ候人物に候。一宿は無拠義に候。す ぺてあのやうなる人物何方ぞ書状にてもそへ頼参り候 はど格別、先は大概にあしらい被遣候様可然候。尤私 をよくしり侯人と申候ても、私書状そへ不申候はゞ、 一宿も御無用に候。乍去これはその人物次第御見計も 可有之候。此辺などは色々なるもの参り候てこまり候。 中には名をかたり侯而人の世話をかけ候類有之候。一 飯一宿の事はいかやうにてもよろしく候へども、それ をつてにいたし、外々へ厄介をかけ候類、書画(家)医 人儒生などに近来多く候間、御心得肝要に候。」魚沼 は曾て廉塾にあつたもので、自ら霞亭の友と称し、的 矢の北条氏をおとづれたものと見える。  霞亭戊寅の尺順にして今存するものは此に尽きた。 そこでわたくしは遺稿を一顧する。その収むる所の詩 中明に戊寅の冬に成つたことを徴すべきものが二三首 ある。先づ「贈浜希卿」「送岡部子道」の七絶二首があ る。茶山集戊寅の部の七律に「送岡浜二子還筑」と題 するものは、希卿子道の二人でなくてはならない。子 道の筑前の人なることは、霞亭の「天辺何処覇家台」 の句がこれを証してゐる。次は「題播秩図」の七絶で ある。是は茶山の「播田図、為恵美玄仙」の五古と同 時に作られたものであらう。恵美玄仙はわたくしの井 原市次郎さんに乞ひ得た譜牒に拠るに、後に四世恵美 三白となつた続斎貞績で無くてはならない。続斎は廉 塾の一書生で、広島より来遊してゐたのである。最後 に「菅岱立至、賦呈」の五律がある。高橋洗蔵さんの 蔵箋に「戊寅臓月七日、北条先生宅夜話」と題する五 律があつて、「菅景知拝」と署してある。又菅氏より出 た書憤に菅野景知と書してあつた。菅野氏、名は景知、 字は岱立である。箋の題する所はかうである。「冊里 来相見。清‡過所聞。言談何梶々。意気共折々。炉火 留人暖。梅花入酒薫。還家春已近。難黍好後君。」「冊 里」と云ひ「復君」と云ふを観るに、その居る所の「西 村」は三備の中でなくてはならない。霞亭の句に「西 村明歳約」と云ひ、下に「西村菅所居」と註してある。 但後の詩には「西村」が「西構村」に作つてある。  戊寅「除夜」の霞亭の詩は遺稿に見えてゐる。「四 十無聞客。百年多病身。悠々思遠道。寂々絶鷺塵。冬 暖梅全吐。燈明酒作倫。不愁厨下冷。欄酔已生春。」 茶山には吉村大夫に寄する詩があつて、除夜の作はな かつた。中に「七十一齢年欲尽、三千余里夢還新」の 一聯がある。大夫は白川の人である。  是年霞亭は三十九歳であつた。「四十無聞客」は将 に迎へむとする歳を謂つたものである。 その百二十一  文政二年には霞亭の元旦の詩が無い。茶山は「村間 相慶往来頻」云云の絶句を作つた。八日に至つて霞亭 に「正月八日夜、睡起看雪」の七絶がある。其三四は 昔年北越の遊に説き及んでゐる。渉筆と併せ看るべき である。  遺稿の「看梅憶亡女二首」は「梅是亡児名」と云ひ、 「梅開似児面」と云ふ、並に此春の初に成つたことは 明である。戊寅に女梅の死して後、始て梅花に対した のは己卯の孟春であつたからである。  的矢書順には己卯正月以下の作と認むべきものが甚 少い。強て求むれば正月十四日の短束があつて、「当 年かけ、冬より大分例よりもあたたかに候へども、梅 ははなはだをそく、漸く一二花開し位の事に候」の語 がある。戊寅十二月八日の書並に除夜の詩の「冬暖梅 全吐」と併せ考ふべきである。  これに反してわたくしは遺稿中より、霞亭が預期の 如く二月に帰省の途に上つたことを推測する。若し此 推測が誤らぬならば、書順の存してゐぬのも怪むこと を須ゐぬこととなるであらう。  歳寒堂遺稿は厳密に編日の体例に従つたものとは云 ひ難い。しかしわたくしは「出門」「倉鋪過鶴鶴大卿僑 居」「岡山早発」「西構村宿菅岱立家」「姫路途上」「途 中口占」「蟹坂」「贈韓聯玉」「宿高厚之家、翌朝携出、 到南坂別壁別」「帰到」の諸篇を読んで、霞亭の神辺よ り山田を経て的矢に帰つた旅程を想像する。  帰到の詩に云く。「帰到仲春十五夜。家人月影共団 団。風光何似天倫楽。真是千金一刻看。」わたくしは 此家庭団轡み光景を的矢北条氏の家庭とする。前に 「出門」の詩があり、後に「将辞」の詩があるを見れ ば、此断定は誤らぬであらう。霞亭は己卯二月十五日 に的矢の家に到著したのである。  此よりわたくしは霞亭出門の時に湖つて、更に細に 其詩を検する。神辺を出でた月日は今知ることが出来 ない。しかし当時神辺には庖瘡が行はれてゐたので、 敬と虎とは親許に往つてゐた。それゆゑ霞亭発靱の日 には母子が告別に帰つて来た。出門の詩の題下に「時 妻(敬)児(虎)避痘、久在他、是日来取別」と註してあ り、詩の初に「児女寄舅里、(井上氏、)舅里非遠程、 不見未旬日、相思魂易驚」と云つてある。霞亭は己が 虎を思ふ情と、適斎夫妻が己を思ふ情と相殊ならざる べきを知り、(因我念児切、転思父母情、)敬と虎との 歎を顧みずして程に上つた。(我私宣足他。掘脱万縁 軽。)  霞亭は倉敷を過ぎ、岡山を過ぎた。そして「西構村」 に菅岱立を訪うた。「梅綻君過我。梅残我問君。(中 略。)隔歳心綾慰。明朝手復分。」  霞亭は姫路を経、蟹坂を楡えた。そして山田に山口 凹巷を訪うた。「贈韓聯玉」の七律がある。「摂西(尼 崎)分手歳三更。(丙子、戊寅、己卯。)長憶旗亭離別情。 相見一罐消積想。倶経万死(凹巷耳疾、霞亭痢病)賀重 生。二毛播岳閑方得。(凹巷退隠。)落歯香山詞既成。 (霞亭痢癌一歯落、作歌。)対酒荘々腸欲断。春風苔緑 故人(河崎敬軒)螢。」  次で伊勢の山田より志摩の的矢に帰り到つたのが、 上に云つた如く二月十五日であつた。丙子帰省の後、 中二年を経て父母弟妹と相見たのである。  霞亭の的矢に滝留したのは十日余であつた。「将辞」 の五古の起首に「膝下来奉歓、旬余忘恨歎」と云つて ある。二月十五日より二十四日後に至る間北条氏に宿 つてゐたのである。 その百二十二  文政己卯二月二十四日後の事である。霞亭は的矢を 発する日を定めて、其前夕に別宴を催した。「将辞」 の詩に「今夜侍坐宴、頓異昨来情、款々情話久、燈花 照面明」と云つてある。  霞亭の的矢を発した日は恐らくは三月朔であつたら しい。次年上巳の詩に家を出でて三日であつたと云つ てある。碧山は送つて伊勢の松坂に至り、別酒を酌ん だ。  霞亭は松坂より京都、大阪を経て神辺に還つた。遺 稿の「天竜寺与古海師夜話」「過三秀院、時月江長老在 馬島」「篠崎小竹、武内確斎命舟遊墨江同賦、分得梅 字」「過瀬尾子章話旧、分得韻東」四篇は此途中の作で ある。中に就いて僧古海と武内確斎とは新に出でた人 物である。  霞亭の神辺に著した日は詳にし難い。わたくしは只 其日の三月二十五日前なることを知るのみである。何 を以てこれを知るか。此に霞亭の碧山に与へた、月日 を書せざる一書が的矢書順中にある。そして此書の四 月に成つたことは、初に「新夏和暖」と云ふより推す べく、その己卯に成つたことは春の帰省後の事を言ふ より推すべきである。此書に「先月(三月)十二日大坂 より書状(原註、梅疾口訣入)帰後廿五六日頃京迄書状 差出し申候」と云つてある。十二日の書は的矢より神 辺に帰る途上に発せられ、二十五六日の書は神辺に帰 つた後に発せられたのである。  此四月の書は更にわたくしに一の重要なる事を教へ る。それは霞亭が的矢より神辺に還る時、季弟撫松が 随ひ来つたことである。「敬助(撫松沖)も昼間は塾(廉 塾)へ参り居申候。随分無事講業に従事いたし候。」  此時の霞亭の状況は下の如くに云つてある。「当方 皆々無事罷在候。(中略。)菅翁中庸、唐詩選隔日、小 生易、古文隔日にいたし候。昨日(四月某日)は諸生山 行、残花を賞しに参り候。私帰後いまだ半丁も出行い たし不申候。」  霞亭は碧山の病を憂へてゐた。「御病気いかが候哉、 くわしく御様子承度候。無御油断御薬治可然候。」  書は小松屋幸蔵と云ふものに託したのである。「小 松屋幸蔵といへる塾出入之仁今夕(四月某日)急に乗舟、 勿々申残し候。」  わたくしは蕾に書の四月に成つたことを知るのみな らず、又その四月十六日以前に成つたことを知ってゐ る。何故と云ふに、四月十七日には霞亭が福山藩の徴 辟を被つたからである。行状の一書にかう云つてある。 「文政二年四月十七日、福山侯(原註、正精公)俸五口 を賜ひ、時に弘道館に出て書を講ぜしむ。」此解褐の 事は「五月二日」の日附のある霞亭の碧山に与へた書 に於て、方綾に郷親に報ぜられてゐる。書は的矢書憤 の一で、実は閏四月二日に作られたものである。わた くしのいかにして此錯誤を知つたかは下に見えてゐる。  「五月二日」(閏四月二日)の日附の書に云く。「小生 無事罷在候。(中略。)先月十七日(四月十七日)御用書 到来、私へ別段五人扶持被仰付、時々は弘道館と申学 校へ罷出、講釈等世話いたし候様被命候。先難有義と、 両三日中御家老や年寄衆へ御礼まわりいたし候。私心 中には甚迷惑にもぞんじ候得共、表向御用に而被仰付 候故、只今のふり合御断も申出がたく候。尤月に両度 位も出席いたし候へば済可申、それが勤と申ものに候。 儒者四家、親子勤も有之、以上五人、私ともに六人を 日わりにいたし勤め候事、私在宅故、遠方故、家中の 人よりすくなく成候様に願置候。塾と両方に相成候故、 只今よりは又々世話しく相成候而、自分の事出来兼侯。 それがつらく候。尤茶山翁最初三人扶持に而被召出、 学校暫つとめ候由、いづれ私も一二年罷出候而、其後 はどふぞ御断申たきものに候。在宅の者へ御扶持に而 も被下候義、御領分の人などは甚栄幸に存候而、此頃 は日々賀客など参り候。これも一つの累に候。御笑可 被下候。」 その百二十三  文政己卯「五月二日」(閏四月二日)の霞亭の書に、福 山藩に於ける同僚を数へて、「儒者四家、親子勤も有之、 以上五人、私ともに六人」と云つてある。此霞亭を除 く五人は誰々であらう歎。浜野氏は「鈴木圭輔、衣川 吉蔵、伊藤貞蔵、同文佐、菅太中」であらうと云つて ゐる。衣川吉蔵、名は広徳、伊藤貞蔵は竹披弘亨、同 文佐は藍汀良柄である。  書中弟碧山の病の事を言ふ条はかうである。「足下 の御病気如何、くわしく御様子承度侯。(中略。)貴郷 最早鰹魚の頃と察し侯。併今年は足下たべられ不申候 故気之毒に存候。(中略。)尚々追々向暑折角御いとひ 可被成候。」  弟撫松の事を言ふ条はかうである。「敬助は甚たつ しや、日々塾へ罷出居候。参り候而以来風ひとつ引不 申候而悦申候。」  其他の項事が二三ある。其一。「田口氏へ此書状御 附属可被下候。外に御写し被成候郡県要略これへそへ 御かし被遣可被下候。」霞亭の田口某に与ふる書は碧 山に与ふる書と倶に発せられた。そして霞亭は碧山の 写した郡県要略を田口某に仮さうとしてゐる。田口氏 は或は碧山の妻礼以の父兄ではなからうか。其二。 「お敬よりそまつの品ながら母様へ進上仕候。中陰中 故書状は上不申候。」  前書の次に霞亭の発したる如き一書が的矢書墳中に あつて「五月三日」の日附になつてゐる。しかしその 載する所を検するに、前書を作つた翌日の作ではない。 わたくしは熟考した末に、前書の日附の誤つてゐるこ とを知つた。前書は「五月二日」の作ではなくて閏四 月二日の作であつた。何故と云ふに霞亭の解褐の四月 であつたことは他の文書の証する所で、前書はそれを 「先月」の事となしてゐるからである。己卯には閏四 月があつて、五月の先月は四月でなくて閏四月だから である。  五月三日の書は下の如く霞亭の近状を見してゐる。 「当方無事罷在候。乍揮御放意可被下候。私も福山出 勤、十一日、十二日、廿五日、廿六日右四日とまりが けに相つとめ候。先廿五日よりはじめて罷出候。つら く候へどもいたしかたなく候。当年は閏月有之候故、 今までは随分すゴしく、一両日前よりひとへもの折々 き候。」按ずるに「先廿五日」は閏四月二十五日であ らう。  事の碧山に関するものは下の如くである。「三月御 出しの両通、先月(閏四月)相達し拝見仕候。御旧疾追 々御快き方の由、折角御摂養奉願候。一たんよきとて 御油断被成まじく候。とかく気体のよく調候やう第一 に候。いりこ(海参)など煮て始終御上り被成候など可 然候。御詩拝見仕候。此度のは皆々かくべつよろし く候。又々御みせ可被成候。」碧山回復の事は霞亭が 「五月二日」(閏四月二日)の書を作つた後に郷書を得 て知つたものである。  事の撫松に関するものは下の如くである。「敬助も 無事出精仕候。いつにてもたより急になり候て、別段 書状得認不申候。」  此月八日に僧月江が霞亭を靹の浦に迎へ、又同じ上 旬の中に僧道光が神辺に来た。道光の事は茶山集には 唯「今雨重歓五月天、紅榴依旧隔簾然」と云つて、下 に「上人七年前来訪、正当五月」と註してあるのみで ある。しかし下に引く霞亭の書に五月初と云つてある。 上旬を下らなかつたものと看るべきであらう。  六月朔に霞亭の碧山に与へた書が的矢書順中にあ る。事の神辺の家に関するものは下の如くである。 「当方無事罷在候。乍揮御安意可被下候。(中略。)弘 道館へも月に両度二日宛四日講書に出候。涼しき処に て悦申候。(中略。)当夏は只今迄は大にくらしよく候。 此方久敷五月中雨ふり候。盆前あつく可有之候。」  上に云つた僧道光の事は此書に見えてゐる。「先月 (五月)初道光上人久々に而被見候。七十四に被成候。 各別衰老之気味も見え不申候。いづれ暫くは滞留之由、 此節は笠岡と申へ被参居候。」道光は七年前に来た故、 「久々」と云つてある。即ち嵯峨樵歌の序を茶山に受 けて京都にある霞亭に授けた文化九年壬申の遊である。 此書に云ふ所より推せば、道光は延享三年の生で、霞 亭の父適斎より長ずること僅に一歳である。  下に引くべき書順に「喜道光師至、次其韻」の七律 がある。「吾師徳望満人天。高臓真乗何倣然。病貌軽 瘤閑白鶴。慈顔微笑接青蓮。新詩可賦塵縁遠。清話屡 参跣坐堅。一娃炉香茅屋底。山如太古日如年。」道光 は覆亭の家をも訪うたのである。詩は遺稿に見えない。 その百二十四  僧月江の文政己卯五月八日に靹の浦に来たと云ふ事 も亦六月朔の霞亭の書に見えてゐる。「先月(五月)八 日月江長老対州より帰帆順風の処、靹浦へつけられ、 人被遣候故、昼後より小生も竹輿にて罷越、其夜は舟 中にて饗応にあづかり、翌日(九日)は対潮楼の隣寺を かり受置酒終日談話仕候。釣首座、承芸など、其外僧 徒五六人居申候。対馬より送船、三百石位の人附来候。 医者なども被添候。以上舟四艘ほどにて、おもきとり あつかいなるものに候。足下(碧山)御噂等もいたし候。 長老随分壮健に候。色々朝鮮の品土宜にもらゐ候。十 日は弘道館出席日故、其夜福山迄帰申候。定而長老は 最早帰山と被察候。」  歳寒堂遺稿に「靹浦途上」の七絶がある。「忽報帰 帆入靹湾。軽輿軋々向江山。江山満眼舟何在。欲見月 師(月江)微笑顔。」題の下に「五月八日、峨山(嵯峨)月 江師自対州帰、卸帆於靹浦、予往見、途中作」と註し てある。書贋は同じ詩を録して、「先日月江師靹浦へ 維舟のせつ途上口号」とはしがきしてゐる。  遺稿に又「靹浦舟中呈月江長老」の七絶がある。「西 州留錫三年役。南浦帰帆一日期。不意柄津新暑夕。柁 楼風月対吾師。」  書憤は上の靹浦途上の詩の次に僧道光に次韻した作 を載せてゐるが、其詩は既に上に録出した。  六月朔の書は碧山病後の事を言ふこと下の如くであ る。「追々御快復の由、一段の儀に存候。猶々御油断 無之御摂養所祈に候。薬ぐひなどいりこ(煎海鼠)など 可然候。かつを(鰹)は少しはかくべつ、先御用捨可被 成候。酒は少々宛は不苦被存候。いづれ油こきものは 毒を激し可申候。」  此書に山口凹巷、宇仁館雨航の名が見えてゐる。 「山口宇仁館などより通書、何歎参居候由、福山迄参 り、いまだ接手不仕候。いづれ皆々無事と被存候。」  書は草木の事二条を載せてゐる。皆霞亭が的矢の家 に送つて栽ゑさせたものである。「姫ぶきはえ候由、 余よろしからぬものに候へども、只めづらしといふ計 の事に候。したしものの外に、備前にては葉を火に表 り醤油打てたべ候由、山の里とやら申候由。」ひめぶ きの何の菜なるを知らない。「柳附候由、夏の間はじ めは余り日にあたらぬやう、生長の後はいかやうにて も不苦候。」是は恐らくは菅氏の西湖柳であらう。  霞亭は此書と倶に文二篇を碧山に寄示した。「鈴木 伊藤送序懸御目候。御序に御かへし可被下候。」按ず るに送序の一は「送鈴木君壁序」なること明である。 君壁は宜山圭の字である。序はその再ぴ江戸に辟され た時に作られたものである。今一つの送序は恐らくは 「送藤希宋序」であらう。「日向藤君希宋、奉君命、辞 母遠遊数年、其人卓異、其志膠々然、方聚首黄備、今 将適安璽」と云つてある。わたくしは此書順に由つて 希宋の伊藤氏なるべきを推すのである。  此より後霞亭は七月四日、同二十二三日頃、八月中 頃、九月朔に書を碧山に与へしことが九月十二日の書 に見えてゐる。しかし的矢書順を検するに、「七月四 日」は「七月九日」、「八月中頃」は「八月三日」の誤 であるらしい。  七月九日の書は短文である。「残暑未退候処、御安 康御揃珍重に奉存候。当方無事罷在候。乍揮御放意可 被下侯。御旧疾(碧山の持病)今頃とくとよろしく候由、 一段之義と奉存候。随分御摂養奉祈候。先月(六月)地 震いづかたも有之候由、此辺は常の事にてさまで覚え 不申侯。江州八幡辺は人死ども有之候由、上方にはめ づらしき地震に候。姫路革きせる筒おかしなるものに 候へども、もらひ候まゝ大人様に差上候。御便はいつ も園部氏(大阪蔵屋敷園部長之助)がよろしく候。何物 にても丁寧に候故間違無之候。高科(二字梢不明)方へ も御療治に御越の由、御苦労に奉存候。とかくひろく どこ迄も通行有之候様御心懸専要に奉存候。何歎申上 候事も可有之候へども、今日急便、明日学館出勤日、 何歎と多事故勾略仕候。余期再信之時候。七月九日。 北条譲四郎。北条立敬様文案。」此書には己卯に成つ た証はなく、偶これが証に充つべき六月の地震があつ ても、手近に検すべき書が無い。しかし次に挙ぐべき 八月三日の書と此書との関聯は、地震に由つて証すべ く、八月三日の書には別に己卯に成つた証があるので ある。  次の八月三日の書はかうである。「残暑未退候処、 愈御安康可被成御座、珍重之至奉存候。先日(七月九 日殿)大阪迄書状相達し申候。無程著可仕候。以来此 方皆々無別条候。乍揮御安意可被下候。先々月(六月) 御地辺地震大雷等有之候、嚥々御驚奉察候。此辺は甚 かすかなる事に候。江州八幡辺、彦城、勢州桑名辺大 分損じ候由承り候。浅井(十助、京都住)も五月中に紀 州より帰り候由通書有之候。先十一日(先月即ち七月 十一日歎)福山御城代佐原作右衛門殿屋敷焼失いたし 候而、此辺甚騒動いたし候。御本丸(福山城本丸)下之 処、幸に御城はまぬかれ候而、国中悦候事に候。近詩 少々、書損に候、御慰に御覧可被成候。乍揮御両親様 へ可然御伺被仰上被下度候。(下略。)」  地震の事は前書と符してゐる。福山佐原氏失火の事 は手近に考証すべき資料を有せない。これに反して京 都の浅井十助が紀伊国より還つたのは、是年己卯でな くてはならない。下に引くべき十月二十一日の書がこ れを確保するが故である。彼書には浅井が紀伊国より 還つた後に居を移したことが言つてあるからである。  浅井は何の故に紀伊国に往つたか、又その往つたの は何時であるか。的矢書憤にこれを知るに足る資料が 存してゐる。それは幅三寸許の巻紙の小紙片で、下の 如き文を記したものである。「浅井も当月(下を見よ) より冬かけて紀州へ下り花輪に外科の事修業に参り候 由、結構なる事に候。医業に出精いたされ候而一段之 事に候。足下(碧山)なども三四箇月の閑暇を得候はじ、 あのあたりにて外科などの事、眼などの事も心得被成 たきもの也。花輪は古今の神医、またもあのやうなる 人は出申間敷との事に候。」花輪は華岡青洲である。 浅井はこれを訪ふために某月より冬にかけて旅行した。 按ずるに其発程の予定期日は前年戊寅の晩秋なるが如 くである。しかし後の書に徴するに、浅井は次年の春 に至つて綾に発程し、仲夏に至るまで紀伊に滝留した のであらう。青洲の事は猶下に註することとする。 その百二十五  わたくしは霞亭の文政己卯九月十二日の書を引くに 先つて、歳寒堂遺稿中に就いて己卯夏秋の詩と認むべ きものを検したい。  「奉追和林祭酒父子(述斎、樫宇)春浅畳韻詩」、「和 頼子成贈茶山韻以呈」の二首は、わたくしはその夏の 作なることを推測する。何故と云ふに、茶山が「新年 奉次林祭酒橋梓畳韻」を作つた時、霞亭は既に帰省の 途に上つて居り、又山陽が西遊の帰途母を広島に省し、 広島より京都に還る途次廉塾に立ち寄つた時、霞亭は 未だ神辺に還らなかつたらしいからである。  山陽は二月二十八日に神辺に来て、晦に去つた。霞 亭は上に云つた如く、二月二十四日後に的矢を辞し、 三月二十五日前に神辺に還つた。相見ることを得なか つた所以である。山陽の「贈茶山」の詩は「肥山雲霧 薩海風」を以て起り、茶山の「次韻頼子成見贈」は「披 襟流鬼万里風」を以て起り、並に本集に見えてゐる。 霞亭の和韻はかうである。「和頼子成贈茶山韻以呈。 西州遊縦雲海重。極目蒼荘送断鴻。帰来一尊談勝概。 奇観躍々抵掌中。太史文思応益壮。莫説周流道術空。」  共他「寄道光師在笠岡」に「未見別来消夏詩」の句 があり、「下宮氏集」の詩に「忘却昼間炎日紅」の句が あり、「高滝彦先君招飲」の詩に「晩楊留人処、涼腱気 正蘇」の句があり、「本間度支家集」に「余酬人掬漱、 涼月満階除」の句がある。皆夏の作であらう。  山口凹巷が月瀬看梅の詩を廉塾に送つて、茶山と霞 亭とに寄題を求めたのは、恐らくは此夏の事であつた だらう。霞亭の「題韓聯玉月瀬詩巻」の五古と七絶と は上に列記した夏の諸作の聞に.面つてゐる。又茶山の 「韓聯玉示遊月瀬梅林詩、賦此却寄」の三絶句も、本 集己卯の「夏日雑詩」の後、「所見」と題する一絶句 の前に出でてゐて、後詩に「秩田万頃緑均女」の句が ある。並に事の己卯の夏にあつたことを証すべきが如 くである。  凹巷の「月瀬梅花帖」は後に刊行せられた。浜野知 三郎さんは前年丁巳に、東京より備後に往反するに当 り、路を托げて伊勢の神宮文庫を訪ひ、此書を閲する ことを得た。凹巷の遊は己卯二月十八日であつた。そ の作る所を繕写して廉塾に送つたのが春夏の交で、茶 山霞亭の寄題が夏に於てせられたと看るは失当ではな からう。  霞亭が寄題の五古はわたくしに一の新事実を教へた。 それは霞亭が己卯の春的矢に帰省した次に、月瀬に立 ち寄つた事である。「吾遊半海内。梅花称西備。曾観 三原林。天下謂無二。読君月瀬詩。舌橋驚絶異。或意 詩人巧。誇言頗放騨。不然勝如許。堂無人標識。信疑 交横胸。思想存夢罧。一見欲得実。今春(己卯春)杖履 試。」  此に至つて霞亭が往路に月瀬を経たか、反路に月瀬 を経たかと問はざることを得ない。霞亭は二月の初に 神辺を出で、十五日に的矢に帰り著き、二十四日後に 的矢を辞し、三月二十五日前に神辺に反つた。観梅に 宜しき季節は往時にあつて反時にあらざるが如くであ る。  しかし凹巷の遊は二月十八日であつた。霞亭が凹巷 の詩の初稿を読むことを得たのは、恐らくは的矢滝留 の日であつただらう。「読君月瀬詩、舌橋驚絶異」は的 矢滝留の日であつただらう。是は霞亭看梅の反路に於 てせられたことを証するに似てゐる。  霞亭は月瀬の勝を凹巷に聞いた。しかし凹巷の霞亭 に此勝を語つたのは、必ずしも己卯二月の遊後に始ま つたのではない。凹巷は曾て書を備後に寄せて月瀬の 勝を説いたことがある。霞亭の季弟撫松沖は長兄の残 後に詩を月瀬梅花帖に題して、其自註にかう云つてゐ る。「亡兄霞亭在備西日、先生(凹巷)寄書、盛説月瀬之 勝」と云つてゐる。霞亭看梅は決して往路に於てせら れなかつたとも云ひ難い。  蕾に然るのみではない。若し霞亭が反路に月瀬を過 ぎたとすると、的矢より神辺に伴ひ帰られた季弟撫松 は同じく梅を見た筈である。然るに撫松撰月瀬梅花帖 の賊には「辛巳歳(文政四年)兄弟省親、自奈良至月瀬」 と云つて、絶て己卯の事を言はない。  或は疑ふ。撫松は己卯の春兄霞亭帰省の後に神辺に 来り寓したが、的矢より神辺に至る間、兄と同行しな かつたか。わたくしは姑く疑を存して置く。 その百二十六  歳寒堂遺稿中文政己卯の秋の作と看るべき詩には、 先づ「及時居士在峨山、与諸禅柄唱和、録以寄示、因 次韻却寄」の一篇がある。「遠寄清詩慰恨人。西山旧 興為君新。秋来石上藤薙月。憶否天辺弔影身。」西村 及時は猶嵯峨に住んでゐたと見える。  前詩と「秋夜」の七絶との中間に、「突池上隣哉」の 詩がある。「奉母長貧蜜。手操農夕炊。病中曾突婦。 身後執収児。聞雁思来信。開筐泣贈詩。重泉逢二老。 聚首尽交期。」是に由つて観れば、池上隣哉の残した のは此秋であつた。わたくしは上に帰省詩嚢を引いて、 隣哉と希白との或は別人なるべきことを言つたが、後 に玉田耕次郎さんに聞けば、「池上徳隣、字希白、号隣 哉」が池上衛守であつたらしい。弔詩に謂ふ泉下の二 老は東恒軒、河崎敬軒である。  此下に九月九日の詩がある。わたくしはこれを録す るに先つて九月七日の霞亭誕辰の事を播記して置きた い。霞亭が四十歳の誕辰である。霞亭は初よりこれを 祝する意がなかつた。しかし茶山は訪ひ来つて酒を酌 み、的矢の生家は此日を祝して物を贈つた。事は下に 引くべき九月十二日の書に見えてゐる。  九月九日には鶴橋の会があつた。「重九与茶山翁聴 松師、会東溝致仕大夫及諸君於鶴橋、客各有行厨之携、 時鈴木文学在江戸、末句故及、分得韻灰。半道相要宴 正開。鶴橋南畔柳楊隈。水味野餐紛几席。丹萸黄菊照 尊欝。僧是耽茶咬然趣。賓皆愛酒孟嘉才。却思朱邸趨 陪客。天末潅々首重回。」茶山霞亭は来遊中の僧道光 を誘つて、東溝氏を鶴橋に迎へたのである。鈴木文学 は宜山圭である。茶山の集は此会の詩を載せない。  重陽鶴橋の詩の次に「聴松上人帰山陰、饅以蒲団 一坐、副此詩」の七絶がある。「三生石上宣無縁。柳把 蒲団贈老禅。却想山陰深夜雪。吟安一字坐能堅。」霞 亭は神辺を去る道光に蒲団を贈つた。道光の去る時、 茶山は送つて府中に至り、翌日明浄寺に別酒を傾け た。本集に「近田道中呈道光上人」、「送光師、同往府 中」、「明浄寺席上限韻」の三絶がある。  道光は何れの日に神辺を去つたか詳にし難い。しか し上に記した三絶と「呈聴松上人」の七律一首とは茶 山集中「中秋有食」と「十三夜楽群館賞月限韻」との 間に介在してゐる。明浄寺の祖莚が九月十三日より前 に開かれたことは明である。然らば霞亭が下の九月十 二日の書を作つた時は、或は茶山が道光を送つて府中 に往つた留守中であつたかも知れない。  九月十二日に霞亭の碧山に与へた書は的矢書順中に ある。書中霞亭の自己を説くことは下の如くである。 「小生無事罷在候。乍揮御放意可被下候。然者為年賀 (四十初度)太織紬一段御恵投被下、御厚意千万難有拝 受仕候。乍揮二尊様(適斎夫妻)へも可然御礼被仰上被 下度候。先達而御断申上置候処、却而御心配をかけ候 而甚痛却仕候。何より調法之品と辱奉存候。外に舷海 苔めづらしく賞味仕候。至極歯ぎれよろしく侯。七日 (九月七日)誕辰に塾翁(茶山)外に備中の一客有之用ひ 候処、皆々悦申候而、すそわけいたし候。御国のみの 産に候や、外にも有之候や。」  書は此より霞亭の的矢、山田、京都の親戚故旧に遺 つた索豹の事に及んで、恒心社友の消息を云々してゐ る。「七月二十三日頃書状、索勢一箱差上候。京都 呉服屋便に候。如何いたし候哉大阪へ此頃達せぬよし に候。いづれ問違は有之間敷候へども、日数かゝり居、 損じ可申候。届候はじ其様子被仰聞可被下候。いせに ても高木佐藤などへ遣し候。大阪屋敷へも遣し候故に 候。損じ居申候はじ気の毒なるものに候。佐藤はかわ り候儀もなく候哉、久敷便きゝ不申候。」 その百二十七  文政己卯九月十二日の霞亭の書には弟碧山の国史を 問ふに答ふる一段がある。「国史は本書等は日本紀以 下六国史と申候而百七十巻も大数有之候。これらはあ まり大きく候而卒業不容易候。水戸の大日本史は結構 なるものに候。神武より後小松天皇迄の事皆々くわし く候。これは山田社中の内に有之と覚え候。少し宛に てもかり候はゞよろしく候。これも百二十巻計も有之 候。古今の大段のかはりめを論じ候ものは白石先生の 読史余論六冊、これはかなにてかけり。同人の作古史 通は神代上古の事を紀せり。御当代(徳川氏)の事は水 戸の烈祖成績、近来竹山の逸史などよく侯。何にても 書物のあるものを心懸よみ候て可然候。いづれ又々面 上いたし侯節御咄可申候。」  是月九月中に碧山は昏礼を行つた。事は下に引くべ き十月二十一日の霞亭の書に見えてゐる。碧山の姿つ たことは早く戊寅六月三日の霞亭の書に見えてゐた。 その「婚事」が調つたと云ふは、或は所謂客分として 迎へたもので、此時に及んで始て礼を行つたのではな からうか。それは兎まれ角まれ、新人は恐らくは田口 氏礼以であらう。碧山二十五、礼以二十一であつた。  十月二十一日の霞亭の書は的矢書順中にある。亦碧 山に与ふるもので、霞亭の自ら語る所は下の如くであ る。「当方無事罷在候。乍悼御放意奉希候。講習私は 詩経朱伝、荘子など隔日也。老先生(茶山)は近思録、 孟子隔日也。いづかたも諸色下直也。わけて米仙は猶 更也。」詩経朱伝は所謂詩集伝で、詩経集註と称する ものと同じである。  廉塾にある季弟撫松の事はかう云つてある。「敬助 も無事日夜勤学いたし候。髪をはやしかけ候やうにみ うけ候。私は何とも不申候。足下より被命候や。只今 の内はいづれにても可然候。」撫松は備後に来る時剃 髪してゐた。それが復剃らなくなつた。恐らくは医を 罷めむことを欲したためであらう。霞亭は碧山の情を 知つてゐるや否を疑つてゐるのである。  碧山婚礼の事はかう云つてある。「母様よりお敬へ 御文中足下婚礼も九月中御調可被成旨珍重に御坐候。 然首尾能相調候哉承度候。先御左右承り候上と存候而 賀状も延引仕候。早々御しらせ可被下候。」  伊勢恒心社の事はかうである。「西村兵大夫より便 有之候而、社中様子もうけたまはり候。干瓢かつをな ど被遣候。」西村及時は猶嵯峨にある筈である。及時 の通称は長大夫であつたらしい。一に左大夫に作つて あるが梢疑はしい。梱内記に長大夫、兵大夫の称が並 に見えてゐる。兵大夫は或は及時の嗣子歎。  書は浅井十助の事を言つて華岡青洲に及んでゐる。 「四五日前(十月十六七日の頃)浅井十助より書状参り、 帰京後東洞院押小路下るへ借宅いたし候由、業事も不 相替相応に行はれ候様子御坐候。紀州華岡の事などく わしく申来候。三月許も居候由、春秋病人霧敷集り候 節治療を見候へば益有之候由、当今の華陀神医なるよ し、足下なども何卒手透も出来候はミちかき処にも 候へば二三箇月も従遊いたし候はゞと存候。もはや六 十歳のよし、来年賀のよし、其子息盆後より廉塾へ参 り居候。大阪に居候良平は瑞賢の弟也。是は私も書生 の頃の相識也。」  華岡氏、一に花輪氏に作る、名は震、字は伯行、随 賢と称し、青洲と号した。霞亭は「瑞軒」と書して塗 抹し、「瑞賢」と改めてゐる。経済雑誌社の人名辞書 も「随軒」と書し、下に「軒一に賢に作る」と註して ゐる。天保六年十月七十六歳にして残した。文政己卯 に六十歳であつたことは霞亭の云ふが如くである。  霞亭は京都にあつた時青洲の弟と交つたと云ふ。此 弟、名は文献、字は子徴、鹿城又中州と号した。霞亭 の「良平」と云ふは其通称である。  青洲の子某が己卯七月に廉塾に入つたことは、霞亭 の書に由つて始て知られた。  わたくしは姑く此に附記して置いて、他日更に考へ 定めたく思ふ事がある。それは嘗て伊沢蘭軒伝に書し、 又霞亭の痢を療したために上にも記した三箇角兵衛の 身分素性である。わたくしの後に見出した霞亭の文化 中の書憤によれば、角兵衛は武士にして医方に通じて ゐた。そして茶山の持病をも療してゐた。又此角兵衛 は大阪の花輪鹿助と云ふものの兄である。霞亭は花岡 民を又花輪氏とも書してゐる。大阪の花輪鹿助とは或 は華岡鹿城ではなからうか。鹿城の通称は良平として あるが、一に鹿助とも云つたのではなからうか。若し 然らば随賢、角兵衛、良平の伯仲季となるであらう。 霞亭の文はかうである。「三箇角兵衛と申福山藩武士、 殊之外医事にくわしく、先其人甚流行、かねて塾(廉 塾)へもよく見え候。先其人の処方(茶山のための処 方)之柴胡剤になにやらむ加減致候。角兵衛殿は大阪 の花輪鹿助の兄なり。」 その百二十八  文政己卯十月二十一日の霞亭の書には猶僧月江の事 が見えてゐる。「是も浅井より申参り候。月江長老此 度台命下り候而、天竜寺住職になられ候よし、当霜月 十四日(己卯十一月十四日)とやらむ登壇儀式有之候由、 先々重畳の儀、紫衣住職天竜に久敷無之候由、長老甚 御手柄と被存候。」  書に又皆川篁斎、三宅橘園二人の事が見えてゐる。 「浅井書中に承り候。皆川猷蔵当夏死亡、三宅又太郎 も八月脚気にて死去のよし、皆々きのどくなるものに 候。」皆川篁斎、名は允、字は君猷、猷蔵と称した。住 所は中立売室町西、残日は夏ではなく、七月十八日で ある。洪園の嗣子で、年を饗くること五十八であつた。 三宅橘園、名は邦、字は元興、又太郎と称した。又威 如斎の号がある。洪園門の人で、五十三歳にして残し、 文景と私誰せられた。家は数屋町二条南にあつた。  前書を発した後、中二日を隔てて、十月二十四日に 霞亭は又小簡を碧山に寄与した。「御祝儀書状(賀婚 書)一々差上可申候処、明朝(二十五日)より学校へ出 勤日に而、夫に只今大阪へ上り候たより申参候故、急 に相認候間、御免可被下候。拙内(敬)も祝状相認可申 候処、右今夜になり何歎ととり込候故、跡より差上可 申候。尚々可然申上候様申出候。十月廿四日夕燈下。」 霞亭は碧山の婚事を報ずるを待つて賀したいと云つて ゐた。此簡は碧山の書を得て作つたもので、上文の前 に「九月廿五日御状(碧山の書)今夕相達し拝見仕候。」 と云つてある。  十月には的矢書順中に霞亭の書が無い。只此頃書し て碧山に示したかと思はれる詩箋が存してゐる。其詩 は七絶三首、第一「今村紳夫小斎分得韻尤」、第二「小 春課題」、第三「孟母断機図、賀佐渡中山顕民母氏」で ある。第一第二は歳寒堂遺稿に載せてあつて、字句も 全く同じである。  第三は遺稿に補入すべき詩である。「蒙養遷居就義 方。母儀千古有遺芳。誰知尺寸刀余布。雲錦天章失彩 光。」そして茶山集に此詩と参照すべき作がある。「孟 母断機図、寿中山言倫叔母七十。七篇微旨本三遷。命 世兼欽母徳賢。機上断糸長幾許。続来聖緒万斯年。」  按ずるに文政己卯に七十歳であつた老娼は、佐渡の 中山顕民がこれを母とし、京都の中山言倫がこれを叔 母としてゐる。然らば顕民と言倫とは従父兄弟でなく てはならない。是より先、佐渡より出でて京都の医と なつた中山氏に蘭渚玄亨がある。言倫は其喬にして、 顕民も亦其族ではなからうか。 その百二十九  的矢書順中に文政己卯十一月二十九日に作つた詩を 書した一小箋がある。「仲冬廿九日大雪、得窓字。騒 屑醒幽夢。曙光明映窓。高眠吟白屋。独釣憶寒江。団 掬濫儒子。走狂輸小老。誰歎乗興客。緑酒湛盈紅。」  わたくしの此を以て己卯の仲冬とするは、箋に猶二 首の詩が併録してあるが故である。そして此二首の己 卯に成つたことは歳寒堂遺稿がこれを証する。先づ其 二首を抄する。「読広瀬子詩巻、和其東楼韻以寄。林 鳥何好声。拭几焚難舌。西州有隠君。高臥抱清節。諦 詩想其人。襟懐螢氷雪。又。近詩日軽浮。競巧在唇舌。 多君真性情。仰饗陶靖節。吟来塵想消。一点紅炉雪。」 二首は遺稿己卯の下に見えてゐて、字句に異同がない。 箋には末に「広瀬求馬、農後日田の儒生、作家也」と 註してある。広瀬求馬は淡窓建で、此年三十八歳、霞 亭より少きこと二歳である。弟旭荘謙は年甫て十三、 その吉甫と字したのが此より七年後、旭荘と号したの が八九年後である。  十二月に入つて後、霞亭は三日に丁谷へ看梅に往つ た。遺稿に「十二月三日与椚鼠子丁谷探梅」の七絶が ある。「一枝初認渓橋曲」の句より推すに、既に花を 開いた一枝があつたと見える。椚轟子は誰なるを知ら ない。  的矢書贋中には十七日碧山に与へた書がある。その 己卯のものたる確証は得難いながら、矛盾なく此に播 入するに堪へたる書である。「以来(十一月書を発して より)何のかはり侯事も無之候。寒前は甚暖かに候処、 寒中は余程寒く有之候処、また両三日以来大分温和を 覚候。梅も已に七八分に及候。御地はわけてはやかる べくと奉存候。御地今年は鱒魚は如何に候哉。郷味想 像仕候。何も申上候事も無之候。学館講釈は此間十一 日に仕廻(仕舞)申侯。塾はいつといふ限なし。諸生あ れば二十七八日頃にいたし候。此信も高木(呆翁)へ頼 遣し申候。左様思召可被下候。何様当冬は大方通信こ れ限に可仕候。来春早々めでたく可申上候。」学館は 福山の弘道館、塾は廉塾である。三日に花一枝を著け た梅が、既に七八分の盛になつてゐる。  二十二日に霞亭は夢に山口凹巷を訪うた。遺稿に其 時に作つた詩があつて、小引に夢が記してある。「十 二月廿二夜。忽夢予在林崎。会中秋。出敲呆翁門。不 在。遂至凹巷。凹巷云。今日事故不可出。因叙話片時。 共歎敬軒、隣哉今則亡。又欲就観魚。意其之浪華。不 果。須奥而夢醒。時沈燈明滅。風雨交作夷。」詩は略 する。宇仁館雨航の一号が観魚であつたことは此に確 保せられた。  此に是月に作られたと認むべき詩があつて、遺稿は これを侠してゐる。わたくしは的矢書憤の間に.側つて ゐる詩箋に於てこれを見出だした。「客到寒喧無費辞。 塔焉隠几写新詩。世間多少聾心者。虚籟満前聞不知。 棲碧山人聾、賦此。譲拝草。」傍に細書してかう云つ てある。「讃岐金比羅牧藤兵衛也。詩集など有之男に 候。」  此詩が己卯十二月に成つたことは茶山集がこれを証 する。茶山集の己卯の部は送窮の詩の後に「棲碧山人 耳聾、因寄」の七絶を載せてゐる。「十歳耽詩厭世営。 恐佗外事撹幽情。疾聾双耳君何恨。免見臥々殿誉声。 (結、楽天成詩。)」霞亭の詩が茶山の詩と同時に成つ たことは殆ど疑を容れない。そして牧麻渓の聾したの が己卯の年であつたことが推知せられる。茶山集の己 卯の部は応酬の諸篇を集めて末に附したものらしい。 果して然らば茶山の詩は己卯に成つたと云ふべくして、 己卯十二月に成つたとは云ふべからざる如くである。 しかし上の詩は十二月に成つた送窮の詩と「牧百穀来 訪、臨去賦此」の詩との間に介まつてゐる。牧百穀 (藤兵衛畏犠妹婿信蔵碩)は菅氏を訪うたのである。此 詩は爾余の応酬の作とは梢趣を殊にしてゐて、尚編日 の順序に従つて録せられたものかとおもはれる。  是年己卯には霞亭は四十歳であつた。 その百三十  文政三年には霞亭に元旦の詩がある。「庚辰元旦口 占、邦俗謂四十一為初老。不羨朝韓越暁天。瓶梅香裏 聴難眠。誰言今日是初老。自賦閑居已十年。」瓶梅の 下には四十一歳の主人、三十八歳の妻敬、三歳の二女 虎の三人がゐた。詩は名は初老ながら老いて已に久し いと云ふ意である。自ら嘲る語とも看るべく、脾肉の 歎を寓した詞とも看るべきである。茶山集を検すれば、 同じ日に成つた七偉二首がある。皆老境を悲む作であ る。わたくしは此に由つて此元旦が晴天で雪の残つて ゐたことを知る。「碕欄郊雪半成姻」「残雪輝々林日 斜」等の句がある。  正月四日は大雪であつた。歳寒堂遺稿に上の元旦の 詩の次に「四日大雪」の七絶がある。  七日の詩がこれに次いで遺稿に見えてゐる。わたく しは「人日」の七律の後半を抄する。「隣里餉魚驚倦 枕。山妻買酒勧携筑。今朝且幸逢初子。好葦女児移稗 松。」酒を買ふ山妻は敬、松を移す女児は虎である。  的矢書順中に二月朔の霞亭の書がある。わたくしは 未だ此の碧山に与ふる書の庚辰のものたるか、次年辛 巳のものたるかを審にせぬが、姑くこれを此年に繋 けて置く。書中に門田朴斎の事がある。「菅太中翁も 此節門田尭佐といへる男(原註、いつぞや御逢被成侯 歎)、久しく塾に罷在候少年、翁の妻の姪に御坐候、こ れを養子にいたしたき願書御上へ差出され候。菅三幼 少、何になり候やらまだしれ不申候故の事と見え候。 尭佐も大分近来学問上り候。もはや廿四五になり候。」  朴斎尭佐は寛政九年丁巳の生であるから、其二十四 歳は庚辰、二十五歳は辛巳である。朴斎詩紗初編を閲 するに、己卯二十三歳に至るまでの詩は干支を註せず に、「以上係在菅茶山先生塾弱冠前後所作」と云つてあ る。そして庚辰二十四歳以後の作は悉く干支が註して ある。わたくしは初めこれを見た時、その「在菅茶山 先生塾」と云ふ期間には養子時代も含まれてゐるもの と以為つた。今按ずるに朴斎が詩を刻する時、塾生時 代と養子時代とを区別したことは明である。惟決し難 いのは養子時代が庚辰に始まつたか、辛巳に始まつた かである。そして此問題は霞亭が二月朔の書を作つた 時、朴斎が二十四であつたか、二十五であつたかの問 題に聯繋してゐるのである。わたくしは姑く庚辰二十 四歳を以て養子時代の始とする。是は詩紗に始て干支 を註した年が、霞亭の「近来学問上り候」と云つた年 に相応するが如く感ずるが故である。  二月朔の書は「何も用事も無御坐候へども、幸便故 平安を報じ候」と云つてある如く、特に抄すべき事が 少いが、上の朴斎養子問題を除く外、猶山田詩社の消 息がある。「吉大夫より此間書通、山田社中は皆々無 別条候由。」吉大夫の佐藤子文なることは茶山の大和 紀行より推することが出来る。  次に的矢書順に霞亭の二月八日に碧山に与へた書が ある。此書にも亦その庚辰のものたる確証は無いが、 猶前の朔の書と相発明するものが無いことも無い。 「此頃も両度程書状差出候。伊勢より佐藤など二度春 来便有之候。高木、西村皆々便有之候。御地の便は未 だ届不申候。嚥御出し可被成と奉察候。此方春来凡四 五度も出し候と覚え候。」佐藤吉大夫の書の事が復此 にも見えてゐるのである。  次に的矢書順に同月二十八日の霞亭の書がある。此 日附は或は二十一日ならむも測られぬが、姑く二十八 日と読む。宛名は「高木勘助様侍史」と云つてあつて、 書信を的矢に伝致せむことを請ふ文である。勘助は呆 翁舜民である。是も亦庚辰のものたる確証は無いが、 権に此に播入して置く。「春暖相催候処、愈御安泰可 被成御揃、奉恭賀候。小生無事罷在候。乍憧御放意可 被下侯。然ば此書状(郷に寄する書)毎々乍御労煩御便 に被仰付可被下候。少々急ぎ之用事に付、何卒早便奉 願候。今般差掛り何事も申残候。書余期再鴻之時候。」 猶紙の端に下の文が書き添へてある。「老人養草一部 並に胎毒丸一封此書状と一併に的屋へ御遣し可被下奉 煩侯。」高木氏との往復は前の八日の書にも見えてゐ る。霞亭の適斎に贈つた老人養草は豊前の香川牛山 の著す所である。胎毒丸は谷岡良助の女などに服せし めむが為であらう歎。  霞亭は二月中に親戚三四人を神辺の家に招いて、四 十一の賀を行つた。事は六月の書に見えてゐる。 その百三十一  文政庚辰三月二日に霞亭は書を碧山に与へた。此書 の庚辰のものたることは下に確証があるが、必ずしも 証を待たずして知るべきである。何故と云ふに次年辛 巳の此頃には霞亭が旅をしてゐるからである。書は正 月二月の的矢の書を得た後に作られた。「正月二月御 書状此間相達拝見仕候。(中略。)正月頃少々御腫物に て御難義被成候由(腫物を患へたのは碧山である)、何 分下地の病気とくと根ぬけいたしかね候と被存候。随 分御用心可被成候。佐藤、弥六などがやうに、いづれ 一旦瘤疾を得候ては、終身の害に相成候ものに候。無 御油断御摂生奉祈候。」痴疾の例に引かれた佐藤は子 文、弥六は永井氏である。  書中に又碧山の詩の事が言つてある。「御近作御示 し、皆々おもしろく被存候。如何敷処へ線を引候。い づれ好文字を御思惟可被成候。多作より推敲の念入候 が詩学の第一。」  霞亭は書と共に出雲十六島と安藝広島との海苔を郷 里に贈つた。「十六島海苔少々大人様(適斎)へ進呈仕 候。雲州道光師より被遣候。これは酒をいれ候而久敷 にるがよく候よし、生にてもよし。広島のり少々、こ れは浅草などにかわりも無之候へども、土地の産故懸 御目候。粗なるのりは伊勢あまのりに少しもかわりな し。」出雲の海苔は僧道光の胎であつた。  二十日に霞亭は書を父適斎に寄せた。是は碧山が家 に在らざる故であつた。的矢書順中の此書は菅にその 庚辰の作たることが確なるのみでなく、又上に引いた 数通の書の上に光明を投ずるのである。わたくしは先 づ霞亭一家の事を抄する。「当方私始家内皆々無事、 敬助(撫松)も壮健に勤学罷在候。乍慮外御放意被遊可 被下候。」  碧山の旅は華岡青洲を紀伊に訪うたのである。恰も 是れ青洲六十一の寿を祝せむために、其子雲平が廉塾 より帰省した時である。「然ば源兵衛より敬助へ(の) 書中承知仕候処、立敬先月三日(二月三日)紀州へ参候 由、御事しげき中よくぞ御許被遊御遣し被遊候。無程 帰宅可仕候得共、御療用等御苦労に奉存候。長くはい らざる事に候得共、当世癌科の名医に候故、暫時見習 候も可然候。併私方へ(の)二月朔日の書状になんとも 申越不申候。甚急におもひたち候義に候哉。以来何事 も先相談いたし候上取計候様、乍悼被仰付可被下候。 掛隔候へども、又何歎の心懸等も気付候事は何に限ら ず申入たく候故に候。華岡子息雲平此方に在塾罷在候。 これも瑞賢先生(青洲)六十一にて年賀のために此節紀 州へ帰省いたし候。此書状はこの仁へ託し申候。」  青洲のためには茶山も霞亭も寿詩を作つた。彼の七 律には「応譜徐福采残薬、非授華佗遺得方」の聯があ り、此の七古にも亦「千里輿病集門下、人道華岡今華 佗」の句がある。青洲は宝暦十年の生で、是年庚辰に 六十一歳になつてゐた。後天保六年に至つて七十六歳 を以て終るのである。青洲は紀伊国那賀郡に住んでゐ た。  青洲の弟鹿城が大坂にあつて外科に名のあつたこと は世に知られてゐるが、青洲の子の事は上にも云つた 如く諸書に見えない。わたくしは霞亭の書に由つてそ の雲平と称したことを知つた。  霞亭は書中に正月下旬以後郷里に遣つた音信の事を 言つてゐる。「正月下旬、京都呉服屋便に金子十両山 田鈴木屋武右衛門へ向け差出し申候。(中略。)鍵屋大 夫手紙の便にそうめんの書状高木氏迄、二月下旬参宮 人便に書状佐藤氏迄、三月上句飛脚便書状うつぶるい のり少々入山口氏迄、右等追々相達し可申候。」金を 醜つたことは前の三月二日の書にも見えてゐたが、わ たくしは抄せなかつたc「高木氏迄」の書が「二月下 旬」の書の前にあるより推すに、わたくしの上に「二 月廿八日」と読んだ日附は猶或は二月二十一日であつ たかも知れない。三月二日十六島海苔入の書が庚辰で あつたことは、此書がこれを確保してゐる。此書は更 に海苔の事を追記してゐる。「うつぶるいのり、此間 出雲の人に承り候処、これも久敷はもちかね候由、(久 敷たてば味もにほひもおち候由、)長くもたすならば 火にあてゝ風のいらぬ様壷などへつめ置候がよろしく 候よし、吸物にいたし候は水にひたし候はよろしく無 之候由、下地の汁こしらへ置、このまゝにきざみ入、 其後はよくく煮候がよきよしに御座候。」  書中には最後に少女虎の眼下の黒子の事が見えてゐ る。「あざの薬、なんぞ妙方は無御座候哉、乍揮御示し 被遊可被下候。少女とら目の下に●ほど計のあざ出候。 構も不仕候へども、目にさわり候而見苦敷候。いつに てもよろしく候。 以上。」 その百三十二  文政庚辰の春は暮れた。わたくしは歳寒堂遺稿に就 いて此春の事件中書信に見えなかつたものを求め、こ れを下に列記しようとおもふ。其一。霞亭は或日小野 明を訪うた。「小野士遠小斎得蒲」の詩がある。頃は 二月の半でもあつただらうか。「一春幽事看将半、且 為残梅叩小寮」と云つてある。其二。霞亭は又双鏡 亭の会に赴いて詩を賦した。亭は誰の営む所なるを知 らない。「双鏡亭集分得韻冬」の詩がある。其三。霞 亭は鈴木宜山の留守をおとづれて、園中の垂糸桜を看 た。宜山は江戸に砥役してゐたのである。「過宜山園、 観垂糸桜、主人時在江戸。庭花不改旧揮娼。独奈糸糸 春恨牽。想得主人官舎睡。香雲一片夢中懸。」其四。 郡宰山岡某が霞亭等を請じて酒を勧めた。「山岡郡宰 招飲、同諸君賦、得杯字」の詩に、「会客勧春杯」の句 がある。其五。京都の瀬尾緑難が退隠して詩を寄示し たので、霞亭はこれに和した。「和瀬尾子章退休志喜 韻」の詩がある。此篇には季節を徴すべき文字は無い が、稿本中春の詩の中間に写された詩を春の詩と看倣 すのである。其六。三月三日に雨中大夫佐原某等が霞 亭を訪うて詩を賦した。「是日(上巳)雨中佐原大夫及 諸子見柾村舎、分得韻陽」の二詩がある。其七。三月 二十日に小野泉蔵が霞亭を訪うた。此日の詩の小引に 「我輩方飲花下、会小野泉蔵携一瓢自長尾来、有詩、 率爾和之、時晩春廿日也」と云つてある。茶山集を検 するに、三月尽の詩と並んで、「小野泉蔵叔姪更迭来宿、 次韻泉蔵」の詩がある。泉蔵は黄葉夕陽村舎に舎つた と見える。「二玩相尋信草堂。吟休並遺語音芳。春来 沿例多人客。能若君曹得未嘗。」其八。浅川棟軒が霞 亭を招宴した。「棟軒招飲」の詩に「晴窓納春野」の句 がある。其九。郡宰森島某が詩会を催し、兼て母の八 十を寿した時、霞亭もこれに与つた。「森島郡宰父子 会諸子、余亦与焉、分得韻虞、兼寿大儒人八十」の詩 に「黄鶯催彩筆、緑柳払金壷、萱草春愈茂、芝蘭日自 敷」の聯がある。森島は撲忠であらう歎。由緒書に拠 れば、撲忠一の名は忠利は「文化八未二月廿三日、御 者頭席、十酉五月七日中山斧助元組郡御奉行寺社兼役、 大御目付兼役、十一戌二月七日、町御奉行兼役、十三 子九月廿七日、大御目付兼役御免、文政元寅十月十七 日、御番頭格」である。然れば大儒人は忠州の女、忠 寛の妻、忠利の母で、父子とは忠利、忠同であらう。 其十。小野伯本が雨中に霞亭を訪うた。「和小野伯本 途上韻。久期相見屡相違。君子有情来款扉。泥路且欣 帰馬滞。属杯閑看雨罪々。」小野が途上の詩は即来路 の詩であらう。そしてわたくしは此廣和の春尽る頃に 於てせられたことを推する。何故と云ふに遺稿は此詩 の次に霞亭の山県、小野、浅野三人を招いた時の詩を 載せて、其中に「春浬留紅薬、夏峰含翠嵐」の句を見 るからである。  庚辰の夏に入つてからは、先づ四月二日に霞亭の父 適斎に寄せた書がある。霞亭は弟碧山の猶紀伊に在る を知るが故に宛名を父にした。此書は文が短いのに、 前後の事実の聯繋を明にするに便なるものである。そ れゆゑわたくしは例を破つて此に全文を載せようとお もふ。「二月廿九日御手簡(適斎の書)三月廿二日福山 へ出勤之節相達拝見仕候。(小野泉蔵来訪の日、前書 を父に寄せた日の後二日である。)愈御安泰被遊御揃 奉恭祝候。当方私共皆々無事罷在候。乍悼御放意奉希 候。金子無間違相達し申候由安心仕候。何分宜敷御取 計奉願候。(是は醜る所の金の用途である。今これを 知ることが出来ない。)立敬紀州行之儀敬助方へ源兵 衛より申来候。立敬紀州よりの書状等皆々一度につき 申候。無程(立敬)帰宅可仕候。嚥々事かけと奉察候。 華岡随賢よりも此方へ書通被致候。かの子息(雲平)去 年(己卯)より在塾故に候。立敬かへり候はf、月瀬の 梅並に紀州へ参り候道すがらのあり様、路はどのやう に通行いたし候や、途中詩なども、くわしくはなし申 こし候様、乍慮外被仰可被下奉願候。二月頃(実は三 月二日)の便に十六島のり少々山口(凹巷)迄むけ差上 候。相達し候哉。其外は去年来当春書状皆々相達し候 由承知仕候。右平安報じ申上度如此御坐候。万々奉期 再信之時候。恐憧謹言。四月二日。北条譲四郎。北尊 大人様左右。尚々時節御自愛万々奉願候。乍悼母様始 立敬夫婦にも可然奉頼候。以上。」 その百三十三  霞亭は弟碧山の書の紀伊より至るに会して、一面東 を的矢の父適斎に寄せ、一面又碧山に講ふる文を草し た。しかし此文は後四月二十四日に至つて綾に神辺よ り発せられた。  此文は現に的矢書憤中にある。惜むらくは其首幾 行かが断裂せられてゐる。「いづれ一度御越、術をみ るもよろしく候。物入の事はさしかかり候事なれぱい たしかたなく候。外之事にて節倹可然候。且又乍内分 少し心得有之候。」此段は前段を闘いてゐて、何物を 承くるかを詳にせぬが、恐くは碧山今回の紀州行を斥 して言ふのであらう。霞亭は要するときは旅費の不足 を補つて遣ることも出来ると云つてゐる。「かの家(華 岡青洲の家)などは老練故、色々奇妙なる術も施し候 由、未熟の内にそのまねいたしては却而しくじりも出 来候。備中西山先生(備中鴨方の拙斎西山正)孫某(孝 淑若くは孝拘の子歎)医になり居申候。華岡弟子にな り候而帰り候而一術を施し候処、手ぎわあしく人死亡 候而、その人(西山)の殺し候様風説出来候而、終には 人もろくに頼まぬやうになり候。医人は何事によらず 大切の心得第一に候。人が此人ならではと信ずる人物 ならではなり不申候。何分京摂其外此辺恵美(安勢広 島の三白貞秀、三世三白)などのふり合も学んで、(学 ぶも可なれどもの意歎)それに久敷つき候とてよき医 にもなられ不申候。所詮は豪傑の士は一分より発明を 出し候より外は有之間敷候。其内知人方書の治療に益 あるものは無御油断読閲可被成候。足下など既に治療 の施に当り候故、それが直に修業の第一に候。いづれ 何の業も小心と放胆と相兼候わねばなり申間敷候。此 度御越被成候路程其外近事追々御報知可被成候。随賢 (青洲)よりも此間拙者へ書状参り候。これは雲平世話 になり候礼状也。雲平たち候跡へとじき候。大方雲平 も備前に少し滝留、四月上句には帰家いたし候由。大 坂の良平(鹿城文献)と申は随賢弟也。これは私二十年 前の相識也。(寛政京遊の日である。)近頃言伝などい たしをこし候。是も大分流行いたし候由。今迄は堺に 罷在候。近頃大坂へ出たり。名手(那賀郡名手村)まで は大坂より泉州へ出てゆけば牛滝(和泉国泉北郡山滝 村南方)の方を通り候而十六七里の路程也。先達而御 こしはどのやうに取路候や。名手まで十日かかり候様 見え申候。定而迂路と被存候。いづれかながきにても 路すがらの様子くわしく被仰可被下候。医事も胸懐高 くなく候ては上手にもなり申間敷候。胸懐高くするは 読書にしくはなし。香川太中(一本堂修徳、庚辰より 六十五年前残)などは聖賢伝中の医などとも申候。近 来蘭方などを治療にまじへ候事世間通用のはやりにな り、外科などは兼用も尤なる事に候。(しかし)実は読 聖賢書ものの余りに信用になり申さざる事。雲平はな しには華岡(青洲)なども書は先外科正治、正宗なども 用ひ候よしに候。これ迄書状(碧山紀伊の書)達し候節 に相認候。四月三日。此書状認置候処、彼此仕候而延 引仕候。一昨日より学館(福山)へ出勤罷在候而船便此 書状差出申候。四月廿四日福山旅寓に書。」  霞亭は医学の宗派を説き、兼て医の処世法に及んで ゐる。上にも云つた如くに、わたくしは霞亭の書に由 つて華岡青洲の弟鹿城が良平と称したことを知り、又 霞亭が少時京都に遊学して鹿城と交つたことを知つた。 文政庚辰より二十年前は寛政十二年である。しかし霞 亭の二十年前と云ふは概算であらう。  わたくしは霞亭の寛政京遊の事を言ふ次に、此に再 びその始て的矢より京都に赴いた年を顧み、前記の足 らざる所を補はうとおもふ。それは新なる資料を閲し て、入京年次の勇証を得た為である。浜野氏は近ろ霞 亭の助字辮を購ひ得た。此書は「霞亭先生述、助字辮 初編、北越仙城院蔵」と題し、「関根」「廓如之印」の 二印がある。即ち霞亭が越後の関根氏に客たりし日に 刊せられたものである。書の「題言」にかう云つてあ る。「年十八。負笈京師。謁大典禅師請教。禅師示以 一隅。後就洪園先生而正焉。」一隅とは助辞法の一隅 を謂ふのである。霞亭は寛政九年に十八歳になつた。 入京の年は霞亭渉筆の「十三年前」と符合する。且霞 亭が皆川洪園に従遊するに先だつて僧大典を見たこと も、霞亭伝中貌視すべからざる事実である。助字辮に は刊行の年月を著さない。 その百三十四  霞亭の庚辰四月二十四日の書には猶僧乗如の事が見 えてゐる。推するに碧山は紀伊に於てこれと相見て兄 に報道したのであらう。「高野の詩僧と申は大方正智 院乗如にて可有之候。茶山の弟子也。神辺近村の生れ の者也。今は大分出世いたし居申候。是は小生も随分 相識に候。かなりに何か出来候。只今高野の碩学職を 被命居候人也。(中略。)此書をかき候処へ茶山翁来り て、乗如の事とひ候へば、即正智院の事の由、それな れば小生も相識也。近年帰省のせつは高野へよられよ と度々言伝いたしをこし候。その弟子の僧は塾に久敷 居申候者も参居候。」此文前後相連らざる所あれども、 それは初の「乗如」の二字、其他数句が後に書き加へ られし故である。霞亭は高野の詩僧の事を聞いて、先 づその正智院なるべきを思ひ、後に茶山の語に由つて 其正智院の即乗如なることを知つたのである。  次に六月三日に霞亭は書を碧山に与へた。霞亭一家 は平穏であつた。単に「当方無事罷在候、乍揮御放意 可被下候」と云つてある。  碧山は兄に紀州の遊を報じて、途に月瀬を経たこと を言つた。霞亭は答へて云つた。「月瀬の奇観健羨仕 候。御作等候はば後便御示可被下候。芳野は花時に候 や。今年は全体花はやく候由承り候。扱今年は三月中 大方陰雨に而、又々梅雨中も四五日ふりつめ候。御地 辺は如何候哉承度候。」  霞亭は弟のために史学を説き、又詩の事を語つてゐ る。「本業の余暇、日本の事実などしるし候もの等御 心懸御覧可然候。此方に生れ候而一向しらぬもつまら ぬもの、詩文などの用、議論の事など面培多きものに 候。大日本史山田社中に所持に候。少々宛なりとも御 恩借御よみ可被成候。しかしそれにも限り不申候。も ちと小さきものにてもよし。(原註、軍書俗談類にて も。)歴史は通鑑など見候へばよし。資治通鑑にても 綱目にても。しかし本まれに可有之候。先御心懸可被 成候。晋書、三国など正史にしくはなけれども、余り 浩博すぎ候而にわかに卒業出来ねば手短き方よりいた し候も一手段に候。詩は唐宋詩醇など先よろしく候。 王玩亭精華録など詩学に益あり。たれぞ社中に所持も 可有之候。」  適斎の妻中村氏は此庚辰の春尾張に遊んだと見える。 「母様尾張へ御遊覧被遊候由、よくぞ御越、御機嫌よ く御帰宅めでたく奉存候。よきつれにても御坐候哉。 ことの外早く御帰りと奉存候。」  碧山は兄に四十一の賀の事を問うたので、霞亭はこ れに答へた。「私四十一の年賀の儀一寸御噂申上候へ ども、二月親類三四人相招き内祝已にすみ候。一切他 人の祝儀等は相断申候。夫故もはや已にすみ候儀故、 御祝意の御心遣は必々御無用に奉願候。」  霞亭は例の如く的矢の郷親のために摂生を説いてゐ る。「暑中にむき候而食物御用心専一に奉存候。此四 五日前弥九郎と申大荘屋(原註、川南藤井料助の兄)平 生積持に候処、ふと章魚をくひ候而あたり死去いたし 候。あたる時はこわきものに候。」暑中の摂生を説く は既に晩い。霞亭は里正の死を聞いて訓戒を郷人に与 へようとしたのであらう。死者の弟藤井料助の事は、 前に偶忘れて其人を知らぬやうに云つたが、浜野氏 木崎氏等は当時直に手書してわたくしにその暮庵なる ことを報じ、就中浜野氏は墓銘を寄示した。暮庵、名 は公顕、字は士晦、備後神辺の人で、生父は潅斎、養 父は蘭水である。暮庵は濃斎の二男に生れ、出でて宗 家を継いだ。二家は皆里正である。弥九郎は恐くは濃 斎の長子であらう。章魚を食つて死んだ例は又永富独 囎庵の漫遊雑記にも見えてゐた。今其病症の同異を 審にし難い。  歳寒堂遺稿には此夏の詩が少い。詩中の人名は山県 某、小野公熈、浅野千春(「招平戸山県某、長尾小野公 熈、浅野千春飲」。)牧麻渓(「寄棲碧山人」)暮渓(「留暮 渓」)僧石峰(「石峰師見過」)の六人があるのみである。 「中山典客招飲」は夏秋のいづれなるかを知らない。  わたくしは此に霞亭の弟撫松の此夏の詩を附記した い。的矢書順中に「北条敬助寧拝、奉呈北条尊大人(適 斎)様、同尊大兄(碧山)様人々御中」と署した書の断片 があつて、七絶二首が記してある。「間居。緑陰深処 読書家。雨歓櫓前喘乳鴉。睡起呼章汲渓水。半簾斜日 煮雲芽。恭敏先生忌祭。一去塵簑十四年。復開遺巻歎 君賢。辮香差罷人無語。穆々清風半沼蓮。」恭敏は廉 塾の都講であつたが、わたくしは未だ其氏名を検出し ない。落合双石の鴻爪詩集にも、「君誰某、私論恭敏、 廉塾都講、苦学罹疾早残」と云つてあるのみである。 文化八年辛未茶山の祭奥の詩に「琴亡忽五年」の句が ある。文化辛未を五年とすれば文政三年は十四年であ る。前の聞居の詩を併せ考ふるに、此書東は庚辰の夏 に作られたものである。若し廉塾の祭が所謂年忌を以 てせられたとすると、恭敏の残年は文化四年丁卯であ つただらう。 その百三十五  文政庚辰の秋は的矢書順が先づ七月四日に霞亭の碧 山に与へた書を伝へてゐる。その自己の上を語るもの は下の如くである。「残暑に相成候得共、却而酷しく 御坐候。(中略。)此方皆々無事罷在侯。乍揮御放意可 被下候。(中略。)今年は例よりは久敷涼しく候而、こ ゝ四五日前各別暑気を覚え候。併已に秋意を催候様子 なれば、さほどの事も有間敷被存候。暑中詩も一向出 来不申候。少々有之候も皆只応酬勉強のみに候。(中 略。)今日上京の人へ急に托し候故何事も略書いたし 候。いづれ盆後書中に申上候。」  恵美三白の死の事が此書に見えてゐる。そして是が 此書の庚辰の作たる確証である。「恵美三白当春御供 (松平斉賢の供)に而出府いたし候。先月(六月)江戸邸 (桜田霞が関浅野邸)に而下世いたし候由、昨日(七月 三日)しらせ参り候。参りがけから余程衰老にみえ候。 七十五六に可有之候。」三白は三世三白で、名は貞璋、 大笑と号した。庚辰六月八日に七十六歳を以て終つた のである。法詮は噸神院換髄霊方居士、赤坂の威徳寺 に葬られたと云ふ。弟潤三郎をして探らしめたが、真 言宗智剣山威徳寺は赤坂区一つ木町十三番地にあつて、 俗に一つ木の不動と呼ばれてゐる。「墓は墓地の中央 部に南面して立てり。鉄石三層あり。石の玉垣を続ら し、前面に扉あり。垣の内左右に石燈籠あり。墓の前 面には「大笑恵美先生之墓」と彫り、左右後三面に 「大笑恵美先生墓誌銘」を刻す。亀井昭陽の撰ぶ所な り。」  次に山口凹巷の事が見えてゐる。「此間は凹巷より 久々に而来書、社中(伊勢恒心社中)近況くわしく承知 致し候。孟緯(孫福包蒙)留主に而多用に御入との事に 候。」玉田氏の云ふを聞くに、孫福公裕、字は孟紳、包 蒙、楓窓、松嬌、齪斎等の号がある。凹巷の実兄眉山 孫福公或の子である。凹巷の書を校して姪と署した所 以である。さて眉山、凹巷の父は孫福白堂、初名雅脩、 後文圭、字は圭甫、後に遠山氏を冒したのである。  書に猶≡二の項事がある。一、「調息養気法、ある医 書中にて検出仕候。幻々敬助(撫松)にうつさし懸御目 候。」此抄本は今伝はつてゐない。二、「唐宋詩醇、ど こぞに所蔵あらば御借覧可然候。林崎文庫には有之候 が、借用如何有之哉、佐藤(子文)などへ御逢之節御咄 可被成候。」  此七月四日の書よりして外、的矢書順は此秋の消息 を伝ふるものが甚乏しい。それ故わたくしは以下歳寒 堂遺稿を以て主なる典拠とせざることを得ない。  七月七日には霞亭が詩を賦した。此七偉の後半には お敬とお虎とが写し出されてゐる。「七夕。倒翻書麓 撲蝉魚。深治井泉労僕夫。一掬晩涼生径草。半鉤新月 在庭梧。年光容易不相待。児女団簗柳可楽。還苦渠儂 妨著睡。問星指漢挽吾髪。」  十五日には七古の長篇を作つて京都の僧月江等に寄 せた。「勝事十年水東流」は文化八年大堰川の舟遊を 追懐したのである。庚辰より逆算すれば文化八年は九 年前である。その十年と云ふは概算に過ぎない。「清 空塵土長相隔。時時幽夢到林丘。」嵯峨生活は夢に入 ることも寝牢である。  八月十五日には廉塾に詩会があつて、霞亭は詩を牧 麻渓に贈つた。遺稿の「社日廉塾席上贈牧詩牛」の七 古が是である。庚辰は中秋が社日に値つた。茶山には 「中秋値秋社」の詩題がある。詩牛の麻渓なることは 「近来其耳燥且聾」と云ふを以て知るべきである。茶 山にも亦「棲碧山人航海来訪、病後耳聾口喝、談話不 似旧日壮快」の詩があつて、中に「三五秋輝喜共看」 と云つてある。廉塾の宴には茶山が藩んだものと見え る。次の霞亭の書はわたくしをして更に中秋の事を補 記せしむるであらう。  霞亭は十七日に書を碧山に与へた。的矢書順中の此 書には「八月十七夜」と記してある。神辺の家の事は 「小生無事、敬助も無慈罷在候、乍揮御安意可被下候」 と云つてある。  撫松の学資が的矢から来た。「七月十五日御手簡当 月(八月)十二日自大坂相達拝見仕候。(中略。)金子二 両一歩槌に落手仕候。御世話之儀に候。」  庚辰は米価の廉い年であつた。「扱米価殊之外下直 に御坐候。貴境辺も同様と被存候。此頃石三十八匁位 と申事に候。私共米にて何もかも受取候故、去年来余 りにやす過候而諸事手支に候。おかしき事に候。乍去 太平のありさま無此上事に候。」米一石銀三十八匁は 銀一匁米二升六合三である。大抵当時の米価は銀一匁 米一升五合乃至二升を例としてゐたのである。  霞亭は中秋前後の事を細報した。「中秋は甚清光に 候。十四夜もよく候。夜前(十六夜)もよく候へども、 すこしくもりごゝちに候。御地辺の様子承度候。十五 夜に木星月にはいり候。をりには有之候事のよし。詩 は一首落成、敬助にうつさし御目にかけ候。歌は。い ぬるまにあけむ夜をしと玉櫛笥ふたゝぴおきて月をみ るかな。」木星の事は茶山に「忽覗一星排戸入、得非后 葬覚妻来」の句がある。霞亭の撫松に写させた詩は、 遺稿の「十五夜渓上即事」の七律であらう。十六夜の 陰は茶山をして「陰嵯今夜月、歓倍咋宵人」と吟ぜし めたのである。  霞亭は通信の中継をする人に謝儀を贈ることを云々 してゐる。「大坂園部(長之助)へは二季に何なりとも 御挨拶の品被遣可被下候。此方は勿論かけず遣し侯。 高木(呆翁)へも其心得、これは至交なれば不必。」  書の末には時候の事が言つてある。「昨今は朝夕冷 気を催し候。追々秋涼、切角御自愛奉祈候。乍悼二尊 様へ可然奉願候。大阪河内屋(書佑儀助)便幻々申残候。 勿々頓首。」 その百三十六  文政庚辰の九月九日には霞亭等は茶山に随つて御領 山に登つた。会僧風林と小野泉蔵とが前日来廉塾に 来てゐたので同行した。午時に雷雨があつたので、一 行は国分寺に避けた。  小野泉蔵の招月亭詩抄には三日前の詩があり(九月 六日至神辺途中戯題)、茶山集と風沐詩稿とには前日 の詩がある。茶山は「忽折恵遠過橋去、遙伴王弘載酒 来」と云ひ(九月八日呈風林上人、小野泉蔵)、風林は 此詩に次韻してゐる。(九月八日同泉蔵遊廉塾、和茶 山先生高韻。)  重陽の遊は茶山集に「九日与二客及諸子遊撃薬澗、 値雷雨入国分寺、晴後再入澗飲石上、分得韻文」と題 する七古があり、風沐詩稿に「重陽同茶山霞亭二先生 及小野泉蔵諸子、登御領山、午時雷雨、急避国分寺、 分韻得五歌」と題する七律があり、歳寒堂遺稿に「重 陽同諸子陪茶山翁登御領山、備中風抹師、小野泉蔵適 在」と題する七律がある。独り招月亭詩抄には詩が無 い。  霞亭の詩に「藍墨争饗三十人」の句があるのを見れ ば、重陽の遊に従つた廉塾の書生の頗多かつたことが 知られる。  歳寒堂遺稿には此秋の詩が猶数首ある。「橋元吉過 訪」は橋本竹下が霞亭の家を訪うた時、偶茶山も座 にあつて、主人と句を聯ねたのである。詩は「秋燈一 点細論詩」(霞亭)の句を以て起つてゐる。竹下、名は 旋、元吉は其字、備後尾道の人である。「廿二日福山 途上」は霞亭が九月二十二日に弘道館に赴いた時の絶 句であらう。詩が秋の作の間に介在してゐて、しかも 重陽の詩の後に出でてゐるからである。此詩に由つて 考ふるに、霞亭は九月下旬に微悲に冒されてゐたらし い。(藍輿朝護病身行。)最後に秋冬その執れなるかを 辮ずべからざる七律一首がある。「高久南谷集、飲既 酷、本問蓉渓牽壷至、四坐歓然、同賦得虞」が是であ る。高久南谷、本間蓉渓、並に初て見えてゐる。浜野 氏蔵本間蓉渓、山岡次隆の詩集に拠るに、高久字は子 盛、荘太郎と称し、靹浦に住み、本間名は長恭、字は 思卿、六左衛門と称し、「密書」の職を奉じてゐた如く である。しかし同姓異人を混ずる虞がないでもない。 詩には一字の季節に関するものがない。  冬に入つて十月二十三日に霞亭の碧山に与へた書の 断片が的矢書順中に存してゐる。初めわたくしはその 何年の作なるかを疑つたが、今権にこれを庚辰の下に 繋ける。断片には詩二首がある。皆遺稿の載せざる所 である。「十月望分韻。為思良夜買村膠。無復雅游浮 野肪。風月清佳客乗興。出門一笑唱山高。」「同前、高 久諸君到、得登字。有客携魚興此乗。喜聞柴戸響登々。 不労江上浮舟去。起掃東軒月正昇。」わたくしの初め 詩の何年の作なるかを疑つたのは、水辺に住んで作つ たらしい語があるからである。しかし客に高久があつ て、高久は前月の後半若くは此月の前半に霞亭等を招 いて宴を設けたものである。此故にわたくしは権にこ れを庚辰の下に繋けた。  詩の後に三行の文字があつて空白を填めてゐる。 「これは甚幻作也、博楽。蘇州集返壁いたし候。」官 版の章蘇州詩には「文政三年刊」と云つてある。推す るに霞亭は碧山の手に由つて、伊勢の社友の蔵弄なる 新刊の章詩を借りて読んだものであらう。果して然ら ば十月望の二絶の庚辰に成つたことは確だと云ふこと が出来よう。 その百三十七  庚辰十一月二十二日に霞亭は書を碧山に与へた。是 書は前半が失はれてゐる。「昨日(十一月二十一日)冬 至なれどもいまだ梅は一花もみえ不申候。これまで暖 なれども三四日前より大分寒気になり申候。御地はい かが。今年冬至転厳凝。憶昨尋梅向馬膣。春入山園人 未省。琴声鰹爾半池泳。(原文失題。)また昨日人の求 に応じて富士の画賛。峰容属且温。独立無衿色。自是 衆山宗。鎮舷君子国。敬助も稽古の為塾中之小生へ隔 日に小学、十八史略など講釈いたし候やうすに候。詩 なども相応に上進いたし候様にて候。先は近状報じた く如此御座候。(従此下追書。)三先生(原註、清田、皆 川、富士谷)一夜百詠と申うすき冊子二巻(原註、終に 和歌あり)如意庵亡師へ久敷前にかし候。かへり候哉。 もし有之候はじ御宅へ御とり置可被下候。紛失いたし 候はじいたし方なし。」  わたくしの此書を以て庚辰に成つたものとするは、 「今年冬至転厳凝」の七絶が歳寒堂遺稿中庚辰冬の諸 作間に介在してゐるからである。題は「冬至偶作」で ある。富士の画賛は遺稿に見えない。当に補入すべき である。季弟撫松の講書の事は始て此に出でてゐる。  霞亭は昔日書を「如意庵亡師」に貸した。如意庵と は誰であらうか。霞亭は軽しく人を称して師となすも のではない。儒には皆川洪園を師とし、医には広岡文 台を師としたのみである。按ずるに如意庵は僧侶では なからうか。  一夜百詠はわたくしは其書を知らない。しかし同撰 者三人中の皆川と富士谷とは洪園層城の兄弟なるべき こと、殆ど疑を容れない。果して然らば此書は或は層 城成章の著述中にある「北辺一夜百首詩歌」と同じで はなからうか。清田は儂由文絢であらう。  二十七日に雪が降つた。歳寒堂遺稿に「十一月念七 朝大雪即事得江」の七律がある。茶山集中「雪日分得 駒冬」の七律も亦恐らくは同時の作であらう。霞亭に 「山妻臥病児号凍」の句がある。敬が病んでゐたもの か。茶山の「雪光侵枕起吾傭」の句はわたくしをして その朝の雪なるを想はしめる。二家の詩の同時に成つ た二とは殆疑無からう。 茶山、霞亭二集の庚辰の詩は、並に皆上の二篇を殿 としてゐる。わたくしは霞亭十二月中の消息を知らな い。  是年霞亭は四十一歳であつた。 その百三十八  文政四年の元旦は霞亭がこれを廉塾に迎へた。歳寒 堂遺稿は先づ「辛巳元旦」の七律を載せて、次に「同 前和茶山先生韻」の五古に及んでゐる。五古には茶山、 霞亭皆年歯を点出してゐる。茶山。「吾年七十四。所 余知幾多。不如決我策。閑行日酔歌。」霞亭。「今朝四 十二。歳月徒爾過。既往不可答。来日已無多。」  七日に霞亭が同人と梅を南郊に探つた。遺稿に「尋 梅」と題する七絶があつて、「芒鮭眼断入深幽」を以て 起つてゐる。しかし二十八字中には時と所とを徴すべ き語がない。わたくしの「七日」と云ひ「南郊」と云 ふは此詩の前に「首春六日、高滝諸君見過、得江」の 五律がある故である。その「佳期在人日、先喜足音遣」 を以て起り、「明逐登臨興、城南摯翠虹」を以て終るを 見れば、霞亭の梅を探つた時と所とが自ら明である。  的矢書順に「芒鞍眼断入深幽」の詩を書した手東の 断片がある。その人日後に作られたことは疑を容れな い。「晩冬廿九日御手簡(碧山の書)今日相達拝見仕候。 愈御安祥珍重奉存候ω此方無事罷在候。乍揮御安意可 被下候。敬助(撫松)入用二両二歩憧に接手仕候。御世 話に奉存候。↑様に厳重にいそぎ御差出し無之候ても 不苦候。此頃より書状相認候而上京の人を相待居候。 何も用は無之候へども御状相達候御請迄に認候。」此 下に「探梅」と題して上の七絶が書してある。  二月に霞亭は的矢に帰省せむがために神辺を発した。 是は恰も廉塾の山県貞三が平戸へ帰り、僧玉産が彦根 へ帰ると同時であつた。茶山集に三人を送る詩がある。 「北条子譲之志州、山県貞三還飛蘭島。玉産上人之江 州、賦贈。梅影娼々柳影軽。東風吹入別離情。花前一 日一尊酒。春半三人三処行。」歳寒堂遺稿にも亦此時 の詩がある。「二月八日送山県貞三帰平戸、僧玉産赴 彦根。余亦帰省、発期在近。一帰海曲一湖辺。吾亦省 親郷国旋。別後半輪今夜月。三人三処各天円。」二詩 の結句を看るに、恐らくは茶山の詩が先づ成つて、霞 亭がこれに倣つて作つたのであらう。  三人の此行と前後して廉塾の僧石峰が僧泥牛を石見 に訪うた。茶山集の「石峰師善病、忽将遍参、来告別、 賦此以呈」の詩は三人を送る詩の次に載せてある。こ れに反して歳寒堂遺稿の「送石峰師問泥牛師干石州」 の詩は山県と玉産とを送る詩の前に載せてある。わた くしの蔵する所に、陸奥の僧藍舟の廉塾雑記一巻があ る。藍舟は前年庚辰の歳に石峰と同じく塾にゐて、石 峰の去る時、猶留つてゐた。石峰は石見国より書を寄 せて、「偶息褥上」と云つたさうである。石峰は安薬 の人である。  霞亭が神辺を発して帰省の途に著いたのは辛巳二月 八日の後である。しかし此行の日程を徴すべき材料は 甚少い。歳寒堂遺稿には「河辺途上」「三石嶺上作」 「魔川途上」「菟原」「楠公墓下作、二十韻」「亡弟子彦 曾寓尼崎某寺、余自京来迎取而帰、翌年(寛政十一年) 九月罹病没干家、距今已二十四年夷」「南京」「桜葉館、 賦呈韓聯玉」の八篇がある。川辺は備中国下道郡河辺 村、三石嶺は備前国和気郡三石村、魔川は播磨国加古 郡加古川町、菟原は摂津国菟原郡、楠公墓は摂津国武 庫郡坂本村(今神戸市)、尼崎は摂津国河辺郡尼崎町、 南京は大和国添上郡奈良町、桜葉館は伊勢国度会 郡山田町である。  河辺を過ぐる時は道傍の柳がめぐみ、野沢の水がぬ るんでゐたが(芹香残野水、柳色入東風)、三石の山駅 に入れば鮭痕を暁霜に印し、鶯の声もまだ渋り勝であ つた。(暁霜料哨春霜白。出谷鴬声恨未円。)三石は鶯 の名所ださうである。加古川は神辺と的矢との略中央 である。(郷国路将半。帰興日陶々。)霞亭が一僕をし たがへて旅行したことは加古川の詩に由つて知られる。 (倦就芳塘憩。憧肩有小瓢。)菟原には紅梅が咲いてゐ た。(霜々盈々遙認来。疑看紅雪万千堆。菟原東北甲 山麓。戸女争栽鶴頂梅。)甲山は兜山ではなくて六甲 山であらう。菟原の街道は六甲山の南麓である。  霞亭は摂津の坂本村を過ぎて「楠公墓下作二十韻」 を得た。集中大作の一である。且五言排律は霞亭の詩 中絶無僅有である。霞亭は先づこれを山陽に寄示した。 山陽は下の如く其後に書した。「高作雄渾厳整。与題 相称。有朱竹琵風。宣小生輩所可容隊。然辱垂示下問。 不敢不言志。嚢妄評。」又これに下の国字順を添へて 還した。「先頃御状被下、且雄篇刮目候。今時かゝる 詩は景雲鳳鳳に候。容啄任貴命候。茶翁へ兄之原稿と 僕鄙見と一併質正、翁之雌黄又々乍御煩御示及被下度、 学問に仕度奉存候。茶翁垂老嬰礫御同慶に候。しかし 余寒残暑、夕陽追黄昏、喜催交集候。碩果一墜、誰当 後生之贈望者。」茶山は原稿と頼の評とを閲し、これ に意見を附して還す時、下の短信を霞亭に寄せた。 「用事。楠公詩、学殖才調ともに見え候而感吟仕候。 都評は思出し次第之事、とり留たる樋なる事はなく候。 御取捨可被下候。近来老老毛之上今春之病に而性根ます くぬけ候而よき分別出不申候。これは居間の壁へで もはりつけおき、時々よき字を見出し候へば改候が宜 候。いづれ大作なれば也。」  尼崎に亡弟彦を憶ふ詩の引に「二十四年」と云つて あるのは、恐らくは二十二年の誤であらう。彦の死は 寛政十一年であつたから、文政辛巳より湖れぱ二十二 年前である。奈良の詩は旧都懐古の作である。山田の 詩は山口凹巷の桜葉館に於て作られた。霞亭は未だ的 矢に到らざるに、殆郷に帰つた念をした。「東帰千里 上君堂。已是爵懐一半忘。」凹巷子女の生年は詳でな いが、象、虎の二女、観平、群平の二子、いづれも長 成してゐたであらう。「人世悲僅無定在。且欣児女薬 成行。」 その百三十九  霞亭の辛巳の帰省はその神辺を発した日を知ること が出来ない。只その二月八日後なるべきを知るのみで ある。さてその的矢に抵つた日をいかにと云ふに、是 も亦知ることが出来ない。只その三月三日前なるべき を知るのみである。  三月三日には霞亭が既に的矢にゐた。歳寒堂遺稿に 「上巳陪宴二尊、賦示諸弟」の七古がある。其起首の 数句はかうである。「至幸得天如我稀。父母倶存旧庭 聞。千里帰来時観省。起居食息和不違。上寿適逢上巳 節。春風桃李照斑衣。弟妹取次更行酒。捧膓深楽接容 輝。」弟妹は碧山立敬、谷岡氏良助、撫松敬助、通の四 人である。  霞亭の的矢を去つた日も亦不詳である。遺稿に「辞 郷」の五古がある。首に「来時一何楽、去時一何悲、 臨行不多語、酸腸涙暗垂」と云ひ、尾に「頼有賢弟妹、 定省無欠鱈、以此排感念、決然拝而辞、扁舟離岸遠、 春江激別思」と云つてある。一の季節の語をだに著け てない。  霞亭は家を辞して社友を山田に訪うた。弟碧山が伊 勢に同行した。遺稿に「楊柳渡別韓聯玉、宇清蔚、藤 子文、孫孟紳、東伯順、弟立敬諸君」の詩がある。 「逢君幾酔故山春。十日歓怯跡已陳。楊柳渡頭何限恨。 落花時節独行人。」わたくしは十日の二字に著目する。 来路に桜葉館を訪うた時より此離別の時に至るまで約 十日になつてゐたかと推せられる。送別の客は碧山を 除く外、山口凹巷、宇仁館雨航、佐藤子文、孫福孟紳、 東夢亭の五人であつた。  霞亭は阪下、石部を経て京都に入り嵯峨に宿つた。 遺稿に「阪下駅舎作」「自石部入京、日尚不哺、遂到嵯 峨宿、山花已尽、綾留一樹而己」の二絶句がある。袋 に後の詩を録する。「不問京城一故人。尋花先向桂河 津。山霊待我非無意。独樹分明尚駐春。」  「不問京城一故人」と云ふと錐、霞亭は行李を嵯峨 に卸して後、特に山陽を鴨川の辺に訪うて留まること ふたよ 二夜であつた。「宿頼子成晃水僑居。春風三月入皇州。 一笑相逢皆旧濤。負看晃川楊柳色。両宵沈酔宿君楼。」 山陽の家は木屋町で、山紫水明処は未だ営まれてゐな かつた。主人も客も共に四十二歳である。是より先文 化丙子に霞亭が帰省した時、山陽を訪はなかつたので、 山陽は不平を茶山の前に鳴らしたことがある。わたく しは浜野氏に借りて一読した「十月廿二日頼裏拝、菅 先生函丈」と書した尺順中の語を是の如くに解するの である。「北条君京へ帰路被柾候様兼約にて、中山(言 倫)などと申合相待居候処、山崎間道より被落候段、其 翌日一僧より伝承、遣一支兵追撃とも奉存候へども不 能其儀、扱々失望、中山などは腹を立居候。」霞亭は 今度往訪して前過を償はなくてはならなかつたのであ る。  霞亭が嵯峨の宿は三秀院であつた。遺稿に嵯峨の二 詩がある。一は五古、一は七古にして並に小引がある。 五古の引。「三秀院賦呈月江長老。己卯五月師従対州 還。繋舟靹浦。報予相見。帰山後賜紫衣。住持天竜 寺。」七古の引。「余在三秀院。瀬尾子章、瓦全曳、井 達夫、皆自京至。共会任有亭。十一年前余暫寓亭中 焉。」十一年の二」は術文である。  五古は旧院主月江承宣に贈つたものである。七古は 旧友瀬尾緑難、柏原瓦全、浅井達夫等と会して作つた ものである。彼には己卯靹浦の事を追憶してゐる。 (却憶激扁樟。涼宵潭靹湾。)此には辛未暫留の事を追 憶してゐる。(惟吾何事拠舷境。来往風塵已十年。)  嵯峨滝留の数日は三月下旬の事であつた。木屋町の 詩には「春風三月入皇州」の句があるが、桜花は既に 落ちて、新緑が目を悦ぱしめてゐた。月江に贈る詩に 「花雨残春寺、烏声新翠山」の聯があり、緑難等と作 つた詩に「山色如新桜葉嫌、渓声依旧爆泉懸」の聯が ある。 その百四十  霞亭は文政辛巳三月下旬と覚しき頃伏水をさして嵯 峨を立つた。柏原瓦全、浅井達夫の二人は送つて太秦 に至つた。遺稿の詩に。「自嵯峨赴伏水、瓦全里、井達 夫携送到太秦、一酌而別。岐路依依牽我衣。蜂岡寺裏 酔斜輝。残花全与離情似。猶惜余春不肯飛。」蜂岡寺 は広隆寺である。  摂津国武庫郡魚崎を過ぐる時は桜花は落ち尽して麦 が穂を抽いてゐた。遺稿に。「魚崎途上。節物風光転 眼忙。残花落尽緑陰涼。去時甦麦方盈寸。驚見満岡抽 穎芒。」  かくて霞亭は神辺に帰つた。遺稿に。「春尽帰家。 九十風光将尽日。一千余里客新帰。佗山花事悦如夢。 臥看清陰満旧扉。又。故山回首又天涯。憶昨高堂日奉 庖。愚佼雲中後飛雁。一家安穏報親知。」家に帰つた のは三月二十九日前であつた。辛巳の三月は小であつ た。  四月十三日に霞亭は藩主に江戸に召された。藩主は 阿部正精で、辛巳は三男寛三郎を立嫡せしめた年であ る。霞亭は十八日に弟碧山に報ずるに入府の事を以て した。「一筆致啓上候。時下新暑相催候処、愈御安健 可被成御揃奉欣祝候。当方無事罷在候。乍揮御放意可 被下候。当月十日頃小簡差出申候。相達候哉。(此書 侠亡。)諸般不相替候。然者当十二日御飛脚(阿部侯使 仇)到著之由に而、十三日江戸屋敷より御用に付出府 仕候様被仰付候。難有仕合と翌十四日城中に罷出御受 申上候。成程栄幸之儀とも存候得共、袋十二三年来閑 放之癖有之、一図に勤仕筋の儀きらひになり居候故、 甚迷惑にも被存候故、内々当役の者へも御辞退申上候 儀願出候得共、已に公命なれば、何分にも一旦は出府 いたし不申候わねば(申さずては)叶不申、もし是非出 ぬ気なれば申出候外無之、さすれば始終病人となり、 外出もみだりに出来申さぬ事と被存候。差当り病気も なきを(ありと)申立侯も欺上且欺心候儀、不可然候。 先出府のつもりに決定仕候。まだとくと日期はしれ不 申候へども、いづれ来月(五月)上旬十日頃の立、中旬 には大坂著可仕候。供まわりの儀これもまだ仰付けら れ無之候へども、大てい内々のかつこう鑓持草履取な どと申やうなる位の事に候由、万事業がらにも候へば 質素にて省略いたし候。敬助(撫松)儀如何いたし可申 哉、若党代りのつもりなれば、弟子などつれられ候故、 彼もめしつれ可申や、外にも段々頼参り候者も多く候。 是は上より御扶持出ず、手前物入也。いまだとくと決 し不申候。官程ならずば、わづか二三日の行程故、一 寸(的矢に)立寄御伺可申候へども、それも参りがけに は出来不申候。御用の筋も何事やらむしれ不申候。い つまで居り候や、江戸へ参らねぱしれ不申候。いづれ 大坂三四日滞留いたし候故、彼地より三日限にても書 状差出し可申候。先心づもり十五六日頃には大坂屋敷 著と被存候。御閑暇に候はゴ、関宿あたりに迄御出懸 被下候はじ、一面御咄も申度候得共如何候哉。それも おつくうなる事にも被存候へぱみ合可被成候。何歎と 取込居候故略書申上候。乍悼二尊様始どなたへも可然 奉頼候。万大坂よりの再信を期し候。恐々謹言。四月 十八日。北条譲四郎。北条立敬様貴下。」此書は的矢 書順中にある。  霞亭は初め発軸前に再び書を碧山に与ふることを期 せなかつた。しかし四月下旬に入つてより些の余裕が あつたと見えて、前書と大差なき書を郷里に遣つた。 その百四十一  的矢書順中霞亭の入府を弟碧山に報ずる第二の書は 文政辛巳四月二十二日に作られたものである。「安達 生便、一筆致啓上候。薄暑相催候処、愈御安祥可被成 御揃珍重奉存候。小生無事罷在候。乍揮御放意可被下 候。然者先日書中略申上候通、出府公命有之、五月十 日髪元出立いたし候。さ様思召可被下候。支度送用金 (三字不明)等一昨日被仰付候。御用の儀は何事とも此 方にてはしれ不申候。随分御手あて結構に被仰付候。 いまだ無格浪人同様故、道中供まわりの儀は如何様と も勝手次第に有之候。供一人若党代りの弟子一人、外 にも弟子一人、其内敬助(撫松)も召連候。扱右に付御 近辺通行いたし候儀故、一寸立寄御見舞も申たく候へ ども、官路はさ様なる事むづかしく、帰路なれば願候 へば叶申候へども、此節はむづかしく候。もし二尊御 許も候はじ、関駅あたり迄乍御苦労御出懸被下候はじ 甚悦候事に候。一夕ゆるく御咄申たく、夫とも御業 用さしかゝり手透無之候はf御無用に候。山田山口 (凹巷)高木(呆翁)佐藤(子文)などは一寸しらせ候。是 は如何候哉。日づもりは別紙に申遣候。万々御考可被 下候。此書状日限にせまり候はゾ必々御無用に候。途 中にては間違出来やすきものに候。乍筆末双親様へ可 然被仰上可被下候。暑蒸折角御自玉祈候。余期再信候。 勿々頓首。四月廿二日。北条譲四郎。北条立敬様侍 史。」  今二書の云ふ所を考ふるに、霞亭は多く望を東行に 属せざるものの如くである。しかし若し霞亭に機に乗 じて才を展べむと欲する意がなかつたものと見倣した なら、それは此人の心を識らざるものであらう。その 筆に上して郷人に告ぐる所は、恐くは期待の最下限で あらう。わたくしは字句の間に霞亭が用心の周密なる ことを窺ひ得たるが如く感ずる。  辛巳東上の旅程は毫も伝はつてゐない。しかし霞亭 は予定の如く五月十日に神辺を発したことであらう。 茶山集は此行を送る詩を載せない。惟弟撫松の随行し たこと、碧山の的矢より関宿に赴いて相会したこと、 六月二日に悲なく江戸に著したこと等は、下の六月四 日の書に由つて知ることが出来る。又門田新六さんの 蔵儲せる詩箋は当時神辺を発するに臨んで書した撫松 が留別の作である。福田氏はわたくしに其詩を録示し た。「将赴東都留別菅尭佐老兄。山村五月棟風時。又 別故人天一涯。滑樹江雲君憶我。鱗鴻為寄幾篇詩。北 条惟寧拝具。」  霞亭の六月四日に碧山に与へた書は、入府後の第一 書で、幸に的矢書順中に存してゐる。「一筆啓上仕候。 暑蒸相加候。愈御揃御平安と奉恭賀候。先日は遠方御 出懸被下(関駅会見)御苦労辱奉存候。別後無志皆々達 者に而、当二日(六月二日)著府仕候。乍憧御安意可被 下候。本郷丸山御屋敷に而長屋相わたり申候。一昨日 家老中などの回勤は相済申候。いまだ君上謁見は被仰 出不申、何事を被仰出候事やらむ一向知れ不申候。滞 留の儀勿論の事に候。しかし諸事御客あしらひのやう すに而、少しも不自由なる事は無御坐候。右之順故朋 友其外へもいづ方へも尋不申、先草臥やすめ居申候。 敬助(撫松)其後は足もいたみ不申(碧山の関駅に来た 時、撫松は足痛に悩んでゐたと見える)至極すこやか に候。乍揮尊親様へ可然被仰上可被下候。余は近日又 々可申上候。著之様子為御知申上度如此御坐候。頓首。 六月四日。北条譲四郎。御状御出し被下候はゾ江戸本 郷丸山阿部備中守様御屋敷(自註、三番長屋、これはか くに不及候)右之通御認可被下候。鳴海途上寄懐立敬 弟。昨逢吾弟旅情忘。新別朝来意更傷。隔海勢山青未 了。白雲親舎転凝望。これは悪詩に候。作りすて候ま ゝ入御覧候。」此書順には宛名が無い。詩題の「寄懐 立敬弟」を以て宛名に代ふべきにもあらざる故、わた くしは霞亭が偶書することを忘れたものと看る。詩 は遺稿に見えない。或は想ふに霞亭は真に稿を留むる ことを欲せなかつたのではなからうか。  霞亭は六月二日に江戸に著いた。然るに後二日に至 るまで、阿部正精はこれを引見せず、又何の命をも伝 へなかつたのである。 その百四十二  文政辛巳六月六日に霞亭は亀田鵬斎を訪うた。鵬斎 は二年前(己卯)より卒中風のために病臥してゐた。年 齢は七十四歳であつた。  七日に至つて霞亭は丸山学問所の儒者を以て命を伝 へられた。命は暫時留め置き、学問所に於て講書せし めるとの事であつた。しかし後に此命は誤伝であつた、 阿部侯の意ではなかつたと云ふことが判明した。  以上の事は的矢書憤中の小紙片二葉によつて知るこ とが出来る。惟霞亭は初め伝へられた命の錯誤に出で たことを知るに及ばなかつたのである。先に書かれた 紙片は下の如くである。「今日迄何とも御用不被仰候。 御上(阿部正精)御事多き歎、又私を休息いたさせ候思 召やらむ、如何難測候。昨日鵬斎へ尋申候。三年来 (己卯、庚辰、辛巳)中風の気味に而言語ろくにわかり 不申候へども、書などは随分出来候。(鵬斎)悦申候而 酒などたべ申候。六月七日。」後の紙片は下の如くで ある。「今日御年寄より被仰渡候趣に而、大目附より 御儒者迄被申出候。暫差留候様、御上御用は近々被仰 出候由、丸山学問所講釈いたし候様との事に有之、 (此)順なれば先当年は在府とみえ候。其上の事はいま だ何ともしれ不申候。六月七日八つ時。」  右の誤伝の命と後(六月十三日)の正しき命との間の 関係は霞亭が茶山に寄せたる「機密」の標記ある書に 由つて知ることが出来る。此書は二通あつて、皆末に 読後焚殿を請ふと書してある。わたくしは浜野氏の手 より借りてこれを一瞥することを得たが、故あつてそ の何人の蔵弄なるを発表することを揮る。  わたくしは先づ誤伝とはいかなる義なるかを言明し て置きたい。所謂誤伝の命は家老より大目附に伝へ、 大目附より丸山学問所の儒者に伝へ、儒者より霞亭に 伝へたものなることが霞亭の書に見えてゐる。按ずる に阿部侯は初よりこれを霞亭に伝へしめむと欲したの ではなくて、学問所の儒者に告げしめむと欲したので あらう。阿部侯は儒者等をして予め新入班のものがあ ることを知らしめようとしたに過ぎなかつたであらう。 要するに此命は逓伝の間に翻嬬して、箭は的の背後に 達したのであらう。  此よりわたくしは記憶をたどつて霞亭の密書の云ふ 所を条記する。六月九日の夜八つ過に太田全斎の子又 太郎が使に書状を持せて霞亭の許に遣した。それは明 朝面談すべき事があるから来て貰ひたいと云ふのであ つた。翌十日の朝霞亭は又太郎を訪うた。又太郎は霞 亭に阿部侯の内意を伝へた。要を摘んで云へばかうで ある。去る七日に霞亭に伝へられた命は全く行違であ つた。真の任命は程なく正式に伝へられるであらう。 しかし侯の霞亭に待つ所は頗重大である。「一藩の 風俗をも正しくし、学問と政事と相通じ、賞罰瓢防の 権やはり学官の方に有之候様との思召之由、」此数句 は密書を一閲した時、わたくしが譜じて置いたのであ る。又太郎は慎重にこれを霞亭に伝へた。霞亭は此の 如き重任は己の能く当る所でもなく、又儒官中には長 者がある事ゆゑ僧越の虞もあると云ふを以て辞退した。 又太郎は侯の信任の極て厚く、其決意の動すべからざ ることを告げた。  此密書は十日に霞亭が書して茶山の許に送つたもの である。霞亭を阿部正精に薦めて此に至らしめたもの の誰なるかは不明であるが、又太郎の語中に、「山岡治 左衛門の主張」に由つて云云と云ふことがあつた。此 歳の武鑑を検するに年寄は「岩野与三右衛門、吉田助 右衛門、山岡治左衛門、高滝左仲、岡半左衛門、三浦 音人、青木勘右衛門、太田八郎」の八人であつた。山 岡治左衛門は次隆か。太田八郎は全斎である。浜野氏 の云ふを聞けば、其子又太郎は此年正月二十一日に学 問所掛を命ぜられてゐた。 その百四十三  文政辛巳六月十三日に霞亭は大目附中より大目附格 儒官兼奥詰を命ぜられ「御前講釈」に従事することに なつた。越て十五日に霞亭は同時にこれを茶山と弟碧 山とに報じた。前者は所謂密書の第二である。しかし 大体は後者と択ぶことが無い。後者は的矢書順中にあ つて引用に便なるが故に、下に全文を載せる。事出処 進退に関して甚重要であるから、これを節略すること を欲せぬのである。  「当十日御物頭交代便、大坂蔵屋敷迄書状差出し申 候。(霞亭の六月十日に的矢に遣つた書は快亡した。 しかし上の神辺に遣つた書は恐くは同じく物頭交代便 に付せられたものであらう。)大暑中愈御安泰可被遊 御揃欣喜之至奉存候。私無事滞留仕候。然者当十三日 (六月十三日)御館へ御召出し、大目附中より申渡し有 之、三十人扶持被下置、大目附格に被仰附、儒官相勤 侯様との事に候。尚又奥詰相兼、月並御前講釈等申上 候様被仰出候。其後家老中列坐御逢、御請申上、即刻 御前(阿部正精)御目見被仰付侯。難有次第に御坐候。 其日御前は御登城より御帰り御休息の処、御小姓頭よ り申上候は御疲にも被為入侯へば、御平服御逢被遊候 様申上侯処、いや初而逢事故、道に対してもと被仰、 御紋服御袴に而御逢、兼々ききつたへ候、此度は大儀 に存ずると御挨拶有之、其儘退出仕候。不肖之一分箇 様に御用之儀、いくへにも任にたへ不申義と、御前内 意有之候節(六月十日)一旦御断も申上候へども、是非 にと之事にて右之仰付に及候。これらわづかの御扶持 にも候得共、太中翁は五十近き時三人扶持被下、其後 五人扶持になり、江戸在番十七年前にいたし候節十人 扶持になり、この六年前在番御用之節二十人扶持に相 成、夫に格式も上下格給人に而、大目附とは七八段も 下に御坐候。右等のかつこう、高名学術太中翁にいく らか減少いたし候私故、色々と御内意御請思惟もいた し候。何分此度は御上之御主意有之、家中一統の風俗 をも正し、学問と政事と相通じ候様との御主意の由、 (太田又太郎伝宣)誠に難有思召に御坐候。当御屋敷儒 官御国江戸かけ候而六七人も御坐候。夫に皆々私格式 よりははるかにひきく候。家中にては大目附以上は貴 官にて、下坐格と申候て、御門出入に御門番足軽総下 坐いたし候。扱末々如何被命候哉、先在番と申事に候。 在番なれば来年此頃迄の滞留に候。万一定府被仰付候 はじ、故郷父母帰省の義は別格にをりく御許容被下 度と願ひ候つもりに候。其儀はうすく相含申出候。 是は定府になり候時の事にて、今より申べき事にも無 之候。何分随分壮健相勤候間、必々御案じ無御坐候様、 両尊様へ被仰上可被下候。右御報じ申上度如此御坐候。 書余期再信之時候。恐憧謹言。六月十五日。北条譲四 郎華押。北条立敬様。尚々本文之儀先々御一家中は格 別、さまでこと人\敷御うわさ被下間敷候。何歎これ らの事にほこり候様俗人のきゝとり候ははづかしく候 以上。敬助(撫松)始、外両人も皆々無事相勤居候。御 上より僕一人わたり居候。」任命後の霞亭の書は、茶 山に呈した所謂機密の書も、弟に与へた此書も略同じ である。此書に機蜜と題せず、又弟に焚殿を命ぜなか つたのは猜忌者を交へた同藩の士のために忌むべき事 も、余所事として聞き流す志摩人のためには必ずしも 忌まざるが故である。文中阿部正精の褻衣もて学士を 見ることを肯ぜざる処は注目に値する。此侯に霞亭を 重用する意志のあつたことは、此一事よりして推すこ とが出来る。独り太田又太郎の伝へた数語のみではな いのである。  霞亭は新に命を受けて、朋友知人のこれを祝賀する ものが少くなかつたであらう。偶高橋洗蔵さんの許 に保存せられてゐる亀田鵬斎の書順があつて、其一例 として看られるのである。霞亭が鵬斎を訪うたことは 既に上に見えてゐた。さて任命の報を得るに及んで、 鵬斎は書を寄せて賀した。其日は恰も霞亭が上の弟に 与ふる書を作つた日と同じであつた。十五日であつた。 「朶雲拝諦、時下無悲被成御座候事雀躍不少候。扱又 十三日貴藩へ被召出候而、儒官(の命)を蒙り、殊に三 十口之月俸被下置候事、実に結構なる事無窮存候。定 而嚥や志州之御両人(適斎夫妻)にも、生前之面目を開 とて感涙(御流し)可被成事と奉察候。先づは御受まで に如此候。いづれ近日奉接貴眉、万々可(申)述候。紛 冗罷在、幻々頓首。六月十五日。亀田興再拝。北条譲 四郎賢弟座右。」後の霞亭の書に拠れば、鵬斎は霞亭 に袴を贈つたさうである。文中に袴の事が見えぬから、 或は此復翰を与へた後に贈つたものであらう欺。  わたくしは此に播叙しなくてはならぬ事がある。そ れは歳寒堂遺稿の「不忍池旗亭、有懐亡友木小蓮」の 詩である。遺稿には此詩が霞亭の三月に的矢より神辺 に帰つた詩の次に見えてゐる。即ち江戸に来てより後 の第一の詩である。  霞亭の池端の料理屋に往つた月日は不明である。し かしわたくしは其日が六月十五日より前であつたのを 知ることを得た。霞亭の十五日に茶山に与へた書に、 「先日」の事として池端に遊んだ事が言つてあつた。 そして此詩に一首の和歌が添へてあつた。今此に詩歌 を併せ録する。「回首前遊思個然。来看六月満池蓮。 蓮香撲酒人何処。擦起清愁二十年。不忍の池の蓮の物 言はfいざ語らなむしのぶ昔を。」  所謂二十年は概算で、実は十八年である。辛巳の十 八年前享和三年癸亥の夏、小蓮鈴木恭が亡くなつたこ とは前に記した。わたくしはその残した日の事を詳に することを得ずに、前の文を草した。  後に至つてわたくしは的矢書順中より、小蓮の残し た時の霞亭の書を見出した。それは享和三年六月四日 に父適斎に寄せた書である。霞亭は下の如く小蓮の死 を報じてゐる。「鈴木文蔵儀、先月(五月)下旬麻疹に 而、甚軽症に而、早速肥立被成候様子に而、先晦日(五 月晦日)杯は序も候て、友人と同道に而談話に参り候 処、常体よりも快く致し被居候。然る処当(六月)朔夜 より乾塵乱に而以之外あしく、翌日八つ時(六月二日 午後二時)死去被致候。甚以急症と申、存外之儀絶言 語候。尤前年来病身に而、別而此度麻疹(後)日数も立 不申、勇もちこみあしく候而之事と被存候。夫に御存 之通母堂(芙蓉鈴木薙妻)長病中、且又御親父(芙蓉)旅 行干今帰宅無之、追々急飛脚参り候。大方明日(六月 五日)は帰宅と被存候。愁傷之体誠に気之毒千万に奉 存候。一体近来元気乏しく候ひしが、箇様之前表と被 存候。未壮年、今より段々業等も成立之め出しに候処、 かへすλ\も遺憾之至に候。小子も力落し侯事各別に 候。何れ不遠御赴弔之御書面御丁寧に相煩可申候。右 之順に候得ば、御相談筋も所詮取込中申出し候(こと) も出来にくゝ候。夫に最早旦那(蜂須賀阿波守治昭歎) 著府、大方めし出しも可有之候。乍残念先々此儘に而 在留可仕候。其内修業専一に可仕候。乍併此度にかぎ らず又々一了簡いたし見可申候。何としても右之混雑 故委曲不申上候。先は右御知しを申度如斯御坐候。」 所謂相談筋は霞亭北遊に関するものであつただらう。 その百四十四 文政辛巳六月十五日前に霞亭は池端に遊んで、亡友 鈴木小蓮を追憶した。わたくしは享和三年六月四日の 書を引いて、小蓮の死を詳叙した。初め享和中の事を 記した時、わたくしは只癸亥四月十五日の書あるを知 るのみで、此より後歳暮に至るまでの間、霞亭の書の 一通をだに引くことを得なかつたのである。  今六月四日の書に就て考ふるに、霞亭は癸亥五月二 十七日頃にも書を適斎に寄せた。「先(癸亥五月)廿七 日頃飛脚便書状差上申候。」しかし此書は伝はらない。 わたくしは既に六月四日の書に言及したから、此機会 に於て此書に見えてゐる享和癸亥の霞亭の身上の事を 追補して置きたい。  霞亭は癸亥二十四歳にして江戸にあつて麻疹に嬰つ た。「小子麻疹後段々順快、甚以快健に御坐候。近頃 は食物等もさまでいみ不申候処、益心持よろしく候。」 此麻疹は蕾に江戸に流行したのみではなく、伊勢志摩 の辺にも蔓延したのである。「山田(伊勢)春木公御名 代石田雄之進儀先月著に而、御国(志摩)辺御様子も承 知仕候。麻疹流行之由、如何に候哉。弟共(立敬、良助、 敬助)何卒軽順に為致(侯様)千万奉祈候。相済候はじ 早速御知らせ可被下候。無左候而は不安心に御坐候。 何分御頼申上候。山田にても西村長太夫(及時)も池上 左織(隣哉か、未考)も(此間二字不明)麻疹のよしに候。 雄之進も道中より麻疹に而、例年よりは大に延著に候。 御当地もチ今流行一統に候。兎角産前後の婦人六か敷 多く死亡仕候。先達而之御柳(樫)初発(に)何様御用ひ 可被遊候。尤葛根湯加味によろしく候。」春木公は、 玉田民の云ふ所に拠るに、名は根光、後に燥光と改む、 字は尭章、象軒又榊亭と号した。通称は隼人である。 御師にして禄千石を食んでゐた。河崎敬軒、池上隣哉、 石田雄之進、皆其家臣であつたさうである。  わたくしは霞亭の事を記して文政辛巳六月十五日に 至り、享和癸亥の事を回顧した。此より又本伝に復す る。的矢書績中に存ずる霞亭の書にして此下に接すべ きものは、六月十八日の後、二十七日の前に作られた らしい書である。「一筆致啓上候。大暑、愈御安泰可 被遊御揃、珍重之至奉存候。小生始皆々無事罷在候。 乍揮御安意可被下候。当十六日(六月十六日、恐らく は上の十五日の書)町飛脚高木(呆翁)へむけ書状差出 し申候。定而相達し可申候。爾来相替儀も無之候。あ つさ故どこへも出不申候。当十七日当番奥詰相勤申候。 (以上既往を語るもの歎。)廿七日御小書院講釈はじめ 候積り、丸山学問所は来月(七月)三日よりはじめ候つ もりに候。(此二条の事は未来を語るものなること明 かである。)甚すこやかにくらし候間必々御案じ被下 間敷候。此間和気行蔵様より剣菱五升、風呂敷など祝 儀参り、鵬斎はけつこうなる袴地。」此下は断ち去ら れてしまつてゐる。霞亭の旧交にして江戸に存してゐ たものは亀田鵬斎と和気柳斎とである。  七月七日は江戸は雨であつた。下に引くべき霞亭の 書に徴して知るべきである。此日の朝神辺の茶山の人 に与へた書が坂紀守さんの蔵弄中にある。福田氏はこ れを写してわたくしに示し、且其書の福山の内藤大夫 に与へたものなるべきを告げた。内藤は茶山集中に見 えたる東門大夫である。「御手教難有拝見仕候。如仰 大暑之候に御坐候処、愈御安祥被遊御坐候由、恭悦之 至奉存候。扱御使者被遣、江戸より参候一箱並に蒲鉾 御恵投被下、両品共結構之品、段々御厚意難有奉存候。 (此間四字不明)旧作相認候事、鵬斎詩御示被下、奉畏 候。近日に差上可申候。(按ずるに受信者は、下に見え たる如く、先づ鵬斎自書の詩を得て、茶山に其旧作を 書せむことを請うたのである。鵬斎の詩は「西備雄鎮 有詩曳」の七古なるべく、又茶山の旧作は「陪上憧々 人馬間」の七古なるべきこと殆ど疑を容れない。)北 条事結構蒙仰難有仕合に奉存候。御恩寵に叶候様に相 勤可申と乍恐黙祷仕候。昨年は不礼之品進貢仕候処、 鄭重御挨拶被仰下、却而恐入奉存候。尭佐へも御書被 下難有仕合に奉存候。私義夏首(辛巳四月)より腰痛、 今以平常に相成不申、久々御伺も不申上恐入奉存候。 いづれ不遠参邸御断ども可申上候。今年の暑はいつも より殊勝に御坐候よし人々申候。御保護被遊(度)千万 奉祈候。恐憧謹言。七夕朝。(自註。今日は芽出度奉 存候。)菅太中晋帥、華押。御侍中様。尚々被遣候鵬 斎書等暫御あづかり申おき候。此頃珍客も有之、海物 不自由に御坐候処、よき物御投被下、別而重宝仕候。 鵬斎は中風いたし候様承候処、中々手蹟も相替不申候。 遠方のうはさ多くは間違申候。」茶山の霞亭任命に対 する態度は僅に此書の徴すべきあるのみである。鵬斎 の筆迩は旧に依つてゐても、中風の事は虚伝でなかつ たのである。 その百四十五  文政辛巳七月十日に霞亭の弟碧山に与へた書は的矢 書憤中に存してゐる。先づ霞亭の自己を語るを聞くに 下の如くである。「私儀無事罷在候。乍悼御放意可被 下候。扱関東当年はめづらしき早に而、私共参り候而 既に四十日にも相なり候処、(六月二日著後第三十九 日)一雨も無之、皆々こまり候事に候。去ながら七夕 より八日かけ大分ふり候而、人物ともに蘇息仕候。先 月(六月)二十七日初而奥詰当番(に)罷出候。朝四つ時 御小書院講釈つとめ候。当時日々御登城故、御前(阿 部侯正精)出御は無之、御年寄御用人番頭物頭衆など 聴聞に出られ侯。昼後八つ時御前内講仕候。講後御前 へ御めし被遊候而、今日は初而拝聴と御挨拶有之、御 麻上下一具拝領被仰付候。是又これまで無之例の由難 有奉存候。御講釈は月に三度なり。丸山学問所家中諸 士子供など(に)講釈、これは月に五、十と三の日、以 上九日(三日、五日、十日、十三日、十五日、二十日、 二十三日、二十五日、三十日ならむ)出勤也。勤仕む きはかれこれいそがしく候へども、先は甚気力すこや かにて、国元出立以来ちつとも気色あしき事なし。此 段悦候。飯なども在宅よりはよくいけ候。諸色前々よ り値段たかきにこまり候。かんひよう(干瓢)其外なん ぞ食物類少々船便に御恵可被下候。飛脚には御状ばか り御出し可被下候。必々外のものは御無用に候。併船 便にても先何も不(被)遣候がよく候。かへつて世話か かり可申候。此方用聞は新川の井上十二郎問屋に候。」  神辺の状況にして書中に見ゆるものはかうである。 「備後よりも両度たより有之候。皆々無事に侯。其内 子供中暑に而わづらひ候由、例のさしこみにて無之や と少々あんじ候。併大分こゝろよきよしに候。御放意 可被下候。」虎には痙轡を発する等の習癖ありしもの ゝ如くである。  書の紙隅に霞亭の歌二首が細書してある。「七月三 日のゆふべ。ひかりそふ秋の三日月いかなればはや山 の端にいらむとすらむ。ふるさとの松にはいかにさわ ぐらむゆめおどろかす秋のはつ風。」此三日月の歌は 霞亭が後に改めたらしく、岡本花亭の書順には「かげ うすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおも ふ」と云つてある。調は舷に至つて始て整つてゐる。 田内月堂のこれを見て詠んだ歌は「月の入る山のはも なきむさしのに千世もとどめむ清き光を」と云ふので ある。  此月七月二十八日に太田全斎の茶山に与へた書があ る。是は某氏の所蔵で、わたくしは浜野氏に就て借覧 することを得た。書中に「先頃は北条譲四郎結構に被 仰付目出度奉存侯」の語がある。末には「太田八郎」 と署してある。  八月八日に霞亭は「江戸表引越」の命を受けた。そ して十二日にこれを的矢の碧山に報じてゐる。報道は 必ずや神辺と的矢とに発せられたであらうが、今存す るものは的矢書順中の一書のみである。「小生輩皆々 無事罷在候。乍慮外御放意奉希候。然る処八日(八月 八日)夕方俄に御上屋敷(西丸下阿部邸)より江戸表引 越可仕旨被仰出侯。先達而は先来(来年壬午)五月迄在 番と被命候処、又々右之様子、随分御前首尾能、一統 御年寄諸役人の揚合もよく候事と相みえ候。乍併余り 急なる儀故当惑仕候。いづれ立帰り御願申上、夫より 妻子共めしつれ江戸住居に相成候儀に候。扱々大混雑、 私は往来になれ候へども妻子など俄に驚き候事と被存 候。いづれ当暮より殿、来春かけ侯而は、御屋敷中に 而地面拝領仕、家造作新に建て可申候。とても長屋に ては始終すまれ申間敷候。格式被下候儀故、此度は参 りかけとは(違ひて)、道中も色々持もの等も有之、私 妻子共皆々乗物等なければ(なくては)表むき並に御関 所等も済不申候。右二百里程往来引越、余程の費用か ゝり可申、尤御上より相応之御手あても被下置候儀に 侯へども、中々家普請など少々よくいたし申までは届 申間敷と被存候。右に付又々願差上、東海道四日市よ り入、親共在所一寸見舞申たき願書差出候積りに御坐 侯。勿論これは無子細御許容の事と被存候。いづれ先 九月朔日出立と存候へども、大方それよりははやき方 にも可相成やと被存候。此度(は)右官命故、御在所へ 御見舞申上候ても、両三夜ならでは滞留出来申間敷、 併是が楽(に)被存候。再び東し候節、妻子共同道御見 舞申上候へば(候はぱ)、妻子共も悦可申候へども、女 にて、わけて家中の女は御関所むづかしく、福山より 別段大阪屋敷迄飛脚たち、其後大阪御留主(松平右京 大夫輝延)、上京御所司代様(松平和泉守乗寛)の御印 をうけ、それを持参仕候事故、日限も可有之候故、不 得其意候。いづれ江戸永住の事に候へば、又々其内二 尊様御気にむき、江戸へ御越被下候はば、其節にても 御目にかけ候てよろしく候。以上の様子くわしく二尊 へ被仰上可被下候。大てい心づもり九月十三四の頃は 的屋へ参り可申哉と被存候。扱往来雑費何歎とざつと 四十金程の費有之候。それに家宅普請にかかり候はば、 又々相応の物入可有之、なりたけ節倹仕候へども、先 達而矢立半右衛門殿へ預け有之候拾八両の金子何卒拙 者参り候節迄(に)返済いたし呉候様かねて被仰可被下 候。今一口の五両の分も、なるべくはとりたて申たく 候。夫とも此節出来がたく候はば、暮までにてもよろ しく候。右等差上置候儀故、私方へ遣(ひ)候つもりは 無之候へども、私も一生のきまり揚処、今度のやうな る物入多き事はもはや有之間敷候、俸禄わづかなれど も定まつてとれ候儀故、段々ふり合よろしくいたし可 申、又々無拠御入用等の儀も候はば、いづれとも可仕 侯間、可相成は右之金子先御間に合せ被下候やう、く れぐも頼入候。いづれ其内拝顔万事可申上候。先は 右御報申上度如此御坐候。若日どり延引故障等も候は ば又々可申上候。(以下細書。)扱私罷帰り候迄は御家 内限参り候うわさ被下間敷候。勿論此度は一切貰(此 字不明)物等きびしく相断申べく、此は主意も有之儀 に候。何卒左様御心得可被下候。以上。」所謂「来五 月迄在番」は六月十三日に命ぜられたものであらうか。 由緒書、行状等に見えない。  二十二日に和気柳斎が書を霞亭に与へた。是は浜野 氏のわたくしに示したものである。「朝夕は少々凌能 相成候。益御餓穀被成御坐奉欣然候。然ば此度急に御 引越被仰付候段、先以重畳目出度奉存候。夫に付御願 之上御国元へ御下、令閨(敬)令愛(虎)御同道之儀愈廿 四五日頃に相成候哉。小生此聞中より御暇乞勇参堂可 仕存居候処、前月中より流行風邪下利有之、一日一日 と延引仕候。今日は繰合参上可仕積に御坐候所、塾生 五人病臥、急に無人に相成、不任心底候間、此度は得 貴顔不申候。御海容可被下候。無程把腎曙言可仕相楽 居候。折角御支度被成御発足被成候様(にと)奉存候。 昼錦之御栄耀一段之儀、為故人雀躍仕候。前日被仰聞 候扇面此間中相認置御届申上候。御落掌可被下候。将 又此一品余り轟末之至に御坐候へ共、今日人差上候印 迄致呈上候。御道中御用も被下候はば本懐仕候。荊婦 御尋被下、不浅奉謝候。宜御礼申上候様申出候。例々 布字。八月廿二日。和気行蔵。霞亭先生侍史。」柳斎 は流行感冒の新に漉えたところで、塾生五人は師に継 いで病臥してゐた。霞亭の問安を被つた柳斎の妻も或 は同じく病んでゐたのではなからうか。 その百四十六 文政辛巳八月二十三日に霞亭は「妻子召致之為福山 に赴くべき旨」を命ぜられ、二十五日に江戸を発した。 事は行状の一本に見えてゐる。わたくしは此発程を叙 するに先つて霞亭と伊沢蘭軒との事を言つて置きたい。  歳寒堂遺稿は鈴木小蓮を憶ふ詩と西帰諸作との中間 に「過蘭軒」の一絶を載せてゐる。「孤旅天涯誰共親。 官居幸是接芳隣。清風一楊聡君話。洗尽両旬征路塵。」  蘭軒信活は茶山の旧友である。後に霞亭の妻敬の入 府する時、茶山は敬に蘭軒を視ること我を視るがごと くせよと謂つた。是に由つて観れば、その霞亭を蘭軒 に紹介したことは言を須たない。霞亭は入府直後に蘭 軒を訪うたであらう。詩の転結も亦これを証してゐる。 蕾に然るのみならず、霞亭が初に住んだ丸山の阿部家 中屋敷の宿舎は伊沢の家と軒を並べてゐたと見える。 「官居幸是接芳隣」の句は是の如くに解すべきである。  霞亭が江戸を発した日は二十五日である。其前日二 十四日に岡本花亭は長文の書を作つて霞亭に託し、こ れを備後なる茶山に致した。書は某氏の蔵する所で、 わたくしは浜野氏の手を経て借覧した。今書中の数事 を左に抄する。  一、前年文政庚辰の三月に茶山は安藝の人吉川某に 託して、花亭に霞亭の帰省詩嚢を胎つた。花亭はこれ を謝してゐる。  二、花亭は門田朴斎の詩才を賞してゐる。「尭佐君 も追々御成立あるべく御たのもしき事、詩もきつとい たしたる事よく御出来被成候。」  三、蠣崎波響は前年庚辰七月に入府し、在府中に母 と孫女とを喪ひ、九月に松前に還り、此年辛巳四月に 松前侯(志摩守章広)に雇随して入府し、八月四日に総 州梁川に往つた。花亭はその九十月の交に江戸に帰る のを待つてゐる。  四、江戸は此年辛巳の八月朔より雨多く、十四日十 五日は無月であつた。十六日に至つて始て晴れ、十七 日も亦好天気であつた。そこで田内月堂は南部伯民を 誘つて舟を情つた。花亭は二男と倶に和泉橋から其舟 に乗り込んだ。さて月を墨田川に賞し、四人は「清風 明月」の四字を分つて韻とし、詩を賦した。花亭は此 時始て伯民と相識になつた。此遊に月堂は霞亭をも請 じた。しかし生憎に霞亭は七の日毎に阿部家の上屋敷 に宿直する例になつてゐたのでことわつた。  五、詩仙堂の募金は、林祭酒(述斎衡)の周旋のた めに、江戸人の応ずるものが多い。又田安殿(権中納 言従三位斉匡)が一橋穆翁(斉匡生父権大納言従二位治 済入道)に勧めて醸出せしめたので、上流の間にも応 ずるものを見る。  六、山口凹巷の月瀬看梅詩巻題詞は花亭は既に脱稿 して送つた。茶山も定て寄題することであらう。  花亭の書中文璽史上の参考に資すべきものは概ね此 の如くである。書の末には「八月二十四日、岡本忠次 郎成。菅太中様函丈」と云つてある。花亭は此書を霞 亭に託するに当つて、霞亭に団扇と詩箋とを贈つた。 二つの品には皆詩が添へてあつた。此詩箋は現に石井 貞之助さんの蔵弄中にある。貞之助の曾祖武右衛門盈 比は菅家と親交のあつた河相周兵衛好祖の弟で、盈比 の子長二郎盈慎は霞亭の相識であつた。盈慎の子が武 右衛門盈武、盈武の子が今健存せる英太郎盈清、字は 士静、号は山屋で、貞之助の父である。「一、月影箋一 巻。重遊賞月豊無期。当月難勝苦別離。収取月明秋満 紙。相思好写月前詩。一、団扇一把。運拙所為多後時。 贈君秋扇亦堪喧。江都八月猶炎暑。此去西風客路秋。 右上霞亭詞伯莞存。岡本成拝具。」霞亭のこれに酬い た詩が遺稿に見えてゐる。「余将西帰、岡本豊洲君見 恵団扇及月影箋、各附以詩、賦此奉謝。両種恵遺荷愛 情。新詩況復与秋清。団々明月蒲々影。先寄愁心送我 行。」  二十五日に霞亭は江戸を発した。遺稿に「出都」の 詩がある。「為取妻児賜暇行。行兼済勝足恩栄。西望 笑指郷関道。無数青山馬首横。」 その百四十七  霞亭の妻子を迎へ取らむがために江戸より備後に還 つた旅は、辛巳八月二十五日を以て江戸を発した日と し、九月二十三日を以て福山に著いた日とする。是は 行状の一本に見えてゐる。  此旅の途上の作と認むべき詩にして遺稿中に存する ものは、「大磯」「平家途上」「函根坂上作」「宿興津」 「宇都山中遅遁刈谷権斎、立交一胃而別」の五絶であ る。霞亭は平家を過ぎて神辺の家を思つた。「前日郷 書報暫還。候門児女想欣顔。輿窓忽納天辺翠。総角艸 如双子山。」興津に宿したのは雨の夜であつた。「客枕 凄涼今夜雨。淋々猶作駅鈴声。」狩谷望之が西遊の事 は、わたくしは嘗て伊沢蘭軒伝中に書した。狩谷は帰 途に東し、北条は往路に西して、偶宇津の山辺に遅遁 したのである。「宇山秋雨客思迷。遅遁逢君麗鼠膜。 空有蔦薙纏別意。相牽恨不与倶西。」  此霞亭の往路には月日を徴知すべき文書が無い。そ の綾にこれあるは九月七日に霞亭が参河の赤坂駅に宿 したと云ふ一事に過ぎない。此夜霞亭は夢をみて、途 次伊勢山田の山口凹巷を訪うてこれを語つた。「霞亭 先生嚢応福山侯璃在江戸、今秋(辛巳秋)賜暇帰観、九 月七日宿赤坂駅、夜夢見一小盧於野草流水之間、中有 老翁、出迎先生、延之坐、贈以倭歌、云、山里盤寸密 与加里計里春毎仁梅咲也止泥幾美乎古曾末氏、意蓋似 欲与先生借隠者、先生受而読之、既覚、奇其事、作和 文一篇記之、以述其志云、九月(此間闘字)日余与山士 亨(山内氏)謁先生干桜葉館、酒間談及、且見示其文、 因賦二絶奉呈。君言赤阪夢中奇。老屋梅花有好詞。任 重転思方外適。不妨冥想訂棲期。又。記得空疑一首吟。 致君身己義如金。登無梅蘂凌寒質。只有葵花向日心。 伏乞慈斧。鷹羽応拝草。」鷹羽応は其人を詳にしない。 応と同じく凹巷を訪うた山子亨は夢亭詩抄に見えてゐ る。河崎誠宇受業録に徴するに山内氏である。霞亭は 此旅の次に的矢に帰省し又友人を伊勢に訪うた。事は 下に引くべき書東に見えてゐる。  霞亭が西下の途上にある間に、神辺の茶山は頼春風 と僧風躰等との訪問を受けた。茶山集に「頼兄千齢 柾過、酒間走賦」「九日風林上人至、分得村字」の二詩 がある。風抹は前年庚辰と此年辛巳との重陽を神辺に 過したのである。風躰の「重陽(辛巳)同小野泉蔵奉訪 茶山先生」の七古に下の語がある。「去歳庚辰重陽節。 嘗共泉翁遊備西。備西行程百里強。遙到先生旧隠棲。 先生門下多英俊。御領山頭共撃麟。(中略。)今年辛巳 重九日。又伴泉翁引杖黎。再到黄葉夕陽村。熟路追々 行不迷。」  同じ頃に山陽は京都にあつて霞亭新任の事を聞知し た。浜野氏のわたくしに示した一書には「九月十七日、 嚢拝、茶山老先生帳下」と署した末に下の数行が添へ 出されてゐる。「尚々北条先生何やら昇進とか、江戸 詰は逢旧友とて可面白候へども、・山野放浪之性、侍講 などは大困と奉存候。可憐々々。」尋常の賀詞を呈せ ぬ処に山陽の面目を見る。  又霞亭の福山に著く前日、九月二十二日に月形鵜棲 の茶山に与へた書がある。是は浜野氏のわたくしに示 したもので、筑前にある鶴棲が霞亭の任命を聞知して 茶山に寄せた賀状である。「霞亭君御栄遇、誠以千万 欣慶仕候。併尊老には賢婿御遠離御寂奥奉察候。近頃 乍粗悪、博多に而近来製出候墨一笏附貢仕候。御笑留 御試被成可被下候。霞亭君にも呈書も不得仕候間、別 包一笏奉托候。」  霞亭は九月二十三日に福山に著いて後、二十九日に 書を弟碧山に与へた。書中に云く。「小生無患本月廿 三日到著仕候。乍憧御放意可被下候。先日は多勢御造 作に相成申候。何歎と被仰付、此節混雑罷在候。併皆 々無事、来月(十月)五日裏元(神辺)発程之積に御坐候。 此つもりなれば十一日大坂著、十三日夜舟ふしみ、十 七日関泊りに参り可申候。左様思召可被下候。足下御 苦労御出懸被下候趣、御宅さわりも無之候はば、御出 懸可被下候。母様御越被成候はば、わけて御苦労千万 奉謝候。道中往来万事よくく御心付、少しは御慰に も相成候様御心得可被成候。十五日山田御泊、十六日 雲津か津あたり、十七日関つる屋へ御著のつもりに被 成可被下候。駕籠人足はいそべより山田迄、山田にて 泊り候節高木氏か山口あたりの出入の人足(原傍註、 かへる迄)御相談可被成候。造用ともに賃御きわめ可 被成候。その方がめんどうになくてよろしく候。一人 五匁か六匁位にて可然や。関より四日市迄御まわりも 被遊候はば、往来とも七日かかり可申候。山田社中、 山口、高木、佐藤なども事により候はぱ、御出懸も可 被下やにきこえ候。是は何の風情なき事、気の毒なる ものに候。しかし先き様の厚意なれば如何様とも、た とへ御越あるとも道すがらははなれて御往来可然候。 お互にめんどうになき様可然候。(中略。)敬助其後如 何いたし候哉。隠居の書物だんすに私幼年のせつうつ し候公載秘録と申もの五冊か可有之候。御越しのせつ 御携可被下候以上。」  此書はわたくしに二三の有用なる事実を教へた。其 一は霞亭が江戸より福山に至る途中必ず的矢に立ち寄 つたと云ふ事である。「先日は多勢御造作に相成申候」 と云ふを以てこれを知る。其二は霞亭が弟撫松を的矢 に伴ひ帰り、的矢に留め置いて福山に往つた事である。 「敬助其後如何いたし候哉」と云ふを以てこれを知る。 其他は多く他日東行の時の事に関してゐる。公載秘録 は公裁秘録の誤記であらう。わたくしはまだ寓目せぬ が、正徳より元文に至る頃の幕府公裁文書を集めた書 だと云ふことである。 その百四十八  文政辛巳九月二十三日に霞亭は江戸より福山に帰り 著いた。そしてその妻子を摯へて備後を発したのは、 行状の一本に拠るに、十月五日である。辛巳の九月は 大なるが故に、霞亭は十三日間備後に居たのである。 此間の手書にして今存してゐるものは、上に引いた九 月二十九日の書のみである。歳寒堂遺稿は此旅の往路 の詩を載せて反路の詩を載せない。又掩留中の一作を だに留めてゐない。  十月五日の発程は、上に引いた前月二十九日の書に も見えた如く、予定せられてゐたもので、霞亭は其期 を想らなかつた。しかし発程の所は福山なるが如くで ある故、その神辺の家を去つたのは五日より早かつた かも知れない。  四日には山岡緑雨の木犀舎に於て饅宴が開かれた。 福田氏の抄して示した棟軒詩集に下の七絶がある。 「五日(恐応作四日、其証見下)木犀舎席上別霞亭先生。 柳開祖席木犀斎。非挙大杯奈別懐。此会他時君記取。 菖蒲薫殺杜茅柴。」同じ詩集に又霞亭を送る七古があ る。「奉送霞亭北条先生携家赴東都邸。(自註、十月五 日。)離膓前日(恐是木犀舎祖宴日)悲且喜。一在別離 一徴起。千里別離悲難忘。一朝徴起喜無已。況復即今 寵命隆。来携妻翠乍復東。重蒙寵命誰不栄。只於道東 心有仲。憐他廉塾青衿子。料知与我同愚侍。別恨愈深 夜亦深。何堪噺馬発郷里。」棟軒浅川勝周の詩は殆ど 詩として視るべからざるが如くである。詩集の原本に 茶山は此七古を評して只「条理分明」と云つてゐるさ うである。しかし霞亭の事蹟を徴するに足るが故に、 わたくしは此に全篇を録出した。  福山より江戸に至る反路に、霞亭は京都に篠崎小竹 を訪うた。霞亭は又予め反路に的矢の生母中村氏及 弟碧山と関宿に会することを約した。其期日は十七日 であつた。そして此約の履行せられたことは後に引く べき霞亭の書順に由つて証せられてゐる。母と兄弟二 人とは同行して桑名に至つて挟を分つた。霞亭は母と 弟の十一月二日に的矢に還るべきを推してゐた。二日 は霞亭の今切の舟中にある時であつた。  浜松に至つて、霞亭は女虎の病のために一日を緩う した。  十一月十三日午刻に霞亭は江戸の藩邸に著した。此 入府の期日は行状の一本に見えてゐて、下の書順の文 も亦これと符する。  書順は的矢書順の一で、十一月二十二日に碧山に与 へたものである。「飛脚便一簡呈上仕候。寒冷相増候 処、愈御安康可被成御揃、珍重奉存候。桑名別後、遠 州浜松にて小児少々発熱、おそれ候而一日滞留致し候。 其後は段々快く、しかし五里、六里、高々八里位の道 中故、十三日午時屋敷著仕候。以来(虎は)おちつき候 而、追々なじみ、機嫌よく遊ぴ候。乍悼御安意可被下 候。先達而は母様遠方御苦労恐入候。二日(十一月二 日)には御帰家と察し入候。私共今切(浜名湖口)をの り候節大方御帰郷と想像いたし候。」  次に霞亭は入府後の数事を報じてゐる。「屋敷其外 皆々無別条候。当御屋敷寛三郎様(阿部正寧)と申御二 男御嫡子若殿様と被成候御願、十三日(十一月十三日) 公儀より御許容に候而、家中一統総出仕有之候。御前 講釈も又々十七日(十一月十七日)より始まり候。短日 著後何歎と多事、一向勤仕の外は外出いたし不申候。 先は無事著之報申上度、幻々如此御坐候。」  中間に茶山の家の消息の事が播んである。「備後(菅 氏)よりも此間便有之候。皆々無事の由に候。」  又紙端に碧山の妻の事が言つてある。当時田口氏は 妊娠してゐた。「令内御近状如何折角御用意祈候。分 娩有之候はば早速御しらせ可被下候。」 その百四十九  文政辛巳十二月七日に霞亭の茶山に寄せた書は某氏 の蔵する所で、わたくしは浜野氏に由つてこれを読む ことを得た。先づ霞亭の自家の事を言ふ条を抄する。 「お虎随分まめに遊び申候。菅三(惟縄)も無事、暫法 成寺(門田氏)へ参居申候由、大慶仕候。嚥淋敷無柳に 思ひ可申と始終噂仕候事に御坐候。お敬並僕一向不案 内故、賎事迄も世話やけ、夫にお上の御祝儀(阿部寛 三郎立嫡)何かと取紛、一首の詩歌も出不申候。」  次に此書に見えたる諸家の消息を抄する。一、田内 月堂、田井柳蔵。「先日御上屋敷(霞が関)より鉄炮洲 白河(松平越中守定永)御屋敷へまわり候。田内(月堂) 折節留主に候。柳蔵(田井氏)に一晒仕帰申侯。」  二、亀田鵬斎。「繍句図あちこち聞糺し可申、鵬斎 へ此間尋遣候。これも急にはしれ不申候。追而相考可 申と申越候。」  三、山口凹巷、孫福包蒙。「聯玉(凹巷)より此額字 濡碧閣の三字御揮毫奉希候。外にかの姪孫福内蔵何に ても一紙頂戴仕度旨、私より願上候様申来候。」  四、狩谷板斎、市野迷庵。「津軽屋、市野屋すべて得 出会不仕候。無事之由に候。市野は中風のきみの由に 候。」  五、牧古愚。「さぬき牧唯助此間見え候。」  六、尾藤絃庵。「尾藤学士(二洲)の子息此間被尋 候。」わたくしは所謂子息の長子絃庵積高なるべきを おもふ。  七、太田全斎。「太田大夫存候よりは御気象に候。」 以上は七日の書に見えたる主なる人名である。  十二月十四日に霞亭は書を茶山に寄せた。浜野氏は わたくしに某氏所蔵のものを示した。中に下の語があ る。「十五日(十二月)限学問所は終会になり候。当番 はやはり廿七日迄相勤申候。」  次に十五日に霞亭の弟碧山に与へた書が的矢書順中 にある。下に其全文を録する。「寒直之節愈御安祥被 遊御揃、珍重之至奉存候。当方無事罷在候。乍揮御放 意可被下候。先月飛脚高木氏(呆翁)迄差出し申候。 (十一月二十二日便。)相達候哉。諸般相替候儀も無之 候。只在番部屋住居に而万事不自由にこまり候。春に 成候はば普請にかかり可申、此節地面拝領願出置候。 屏風たしかに相達可申候。御めんどうの儀に候。味噛 沢山に被仰付、辱奉存候。此方にてはあの"ことき味噌 はめづらしく候。少々宛両三家へすそわけ遣し候。其 実は近来物価たかく候而、厨下大にたすかり、妻ども 殊之外悦申候。此方より何歎と差上申度候へども、船 便はたれと申船へ遣し候てよろしからむや、それも的 屋へよらぬ船なれば間違も出来可申故不得其意候。飛 脚便は甚賃銭の費有之候、是又無益の事に候。何分御 国よりも必々よくくよき便なれぱ各別、船へは御出 し被下間敷、平安信は一月一度宛飛脚へ御出し可被下 候。船にても此間みそ新堀より私方へ持候賃三百文と り候。(原註、これは人やとひ候由也。)持参り候者船 賃済と書付有之候へども、一銭もとらぬなどと恩にき せ候。あらめなど御送はもはや御無用に被成可被下候。 唯無事の御便を承り侯へば夫が何よりの大悦に候。最 早年内無余日、折角御自愛奉祈候。二尊様始、敬助(撫 松)などへよろしく奉頼候。令内(田口氏)は如何、出 産前随分大切に被成御用心専一に候。之かく多用いづ かたへも得出不申候。おとら段々居馴染、よくあそぴ 候。其後不快のきみもなし。全(く)道中あたりとみえ 候。此節は鱒魚如何。郷味想像床敷候。何事も期来春 候。恐々謹言。極月十五日。北条譲四郎、華押。北条 立敬様。」撫松は桑名には往かず、江戸にも随行しな かつたのである。  二十九日に霞亭の茶山に与へた書は某氏の所蔵で、 浜野氏がわたくしに示した。中に下の句がある。「十 月扶持御国(備後)にてわたり可申候。五両位も可有之 候。本荘屋か幸蔵方へなりとも預りくれ候やう被仰可 被下候。出立之節おとらへ賜り候三両、既に幸蔵へ預 け置候。序も有之候故に候。」  歳寒堂遺稿の「丸山寓癖雑詠」と題する七律五首は、 霞亭が辛巳に家を挙げて入府した後の作である。(新 携妻子伍鶴況。又。歌室矯嬰操土語。又。労看山妻検 衣料。)しかもその脱稿は十二月の末に於てせられた ものと見える。(公朝有制近新正。)  寓癖雑詠には浅川棟軒の慶和があるが、此に賛せな い。雑詠中少時の旧遊を憶ふ語がある。(二十年前久 滞東。又。旧歴里門如夢中。)辛巳より二十年を湖れ ば享和元年を得る。即霞亭が京都より江戸に転遊した 年である。  此懐旧の情は霞亭をして除夜に一絶を作らしめた。 「余昔在都下(江戸)。社友河良佐(敬軒)池隣哉砥役自 勢南至。一日快雪。余与二子潭舟墨水遊賞。酒酬。隣 哉出所齎香熱炉。纏姻畏々。如坐画図中。実享和癸亥 (三年)十二月除日也。比歳二子相継就木。今舷余仕官 再来此。会歳除追憶当時。音容在目。風流不可復得。 黄堀之感。殆難作情夷。(以上引。)憶咋買舟楊柳橋。 蓬窓霧雪把香焼。誰知十九年前客。独向江頭泣此宵。」 此遊の「幽遠清澹之趣」は深く霞亭の心に銘してゐた ものと見えて、霞亭渉筆も亦これを「係雪之事数条」 の下に収めてゐる。辛巳除夜の茶山の作は集中に見え て「蛇(巳)年今夜尽、鶴髪幾齢存」の聯がある。  是年霞亭は年四十二であつた。 その百五十  文政五年は霞亭に元旦の詩がない。茶山も亦同じで ある。江戸は元日が雪、しかも初雪であつたと、下の 霞亭の書に見えてゐる。  正月二日に霞亭の弟碧山に与へた書は的矢書憤中に ある。先づその自家の事を言ふ条を抄する。「此方皆 々無事、例よりは暖和なる方に候。昨日(元旦)雪大分 ふり申候。これがはじめての雪に候。(中略。)火事も 先静なる方に候。去霜月(辛巳十一月)池の端やけ、其 後日本橋北方六万坪ほどやけ、飛脚京屋、島屋もやけ 申候。丸山は火事は先わきからくらぶれば用心よき所 なり。屋敷樹林四方をかこひ候故に候。いづれ早春よ り家作にかゝり可申候。江戸は万事高価、中々小屋い となみ候にも田舎三倍も物入有之候。町住居なれば借 宅(又は)古屋買得いたレ候へばやすくすみ候へども、 いたし方無之候。其代りに一度たておけば地代等はく つろぎ可申候。」霞亭は既に丸山邸所属の地を獲て、 将に後の所謂嚢里の家を営まむとしてゐる。前年辛巳 の江戸の火災は武江年表に記載を閾いてゐる。  碧山の事の書中に見えたのはかうである。「御詩稿 (碧山詩稿)毎首批点いたし候。乍揮大分調ひよくみえ 候而大慶仕候。」「令閨(礼以)出産は如何、安産有之候 はゾ早速御報じ可被下候。」  次に伊勢の恒心社の事が書中に見えてゐる。「恒心 社中山口(凹巷)、高木(呆翁)孫福(包蒙)斯波、宇仁館 (雨航)文亮(夢亭)佐藤(子文)文明、丹井、右九輩より 家のみまひとして菓子椀十人前、朱盆一一枚おくり被下 候。山田へでも御こしのせつ、出立のせつ憶ひ出し候 はゴ御礼被仰可被下候。」恒心社中の所謂九輩にして 自ら明なるものは文中に註した。「斯波」は孫福包蒙 の一姓氏なるが如くである。玉田氏の云ふを聞くに、 伊勢人に一人両姓多きは山田奉行所の簿冊に上る姓氏 と、神宮の簿冊に上る姓氏との相同じからざるに因る さうである。レかし此書の斥す所の斯波氏は包蒙にあ らずして別人なる,}と明である。「丹井」は河崎松宇 の見聞詩録に見えてゐるが、その詳なるを知ることが 出来ない。「文明」は未だ考へない。恒心社友は霞亭 の嚢里の家を営むを聞いて物を贈つたのである。  同じ書に拠るに、碧山は是より先霞亭に鹿角菜を寄 せ、某氏長蔵は宮重大根、某氏半兵衛は鱒を贈つた。 又霞亭は碧山に上下一具を遺らうとしてゐる。「ぼら 九頭御恵投被下、遠境別而辱賞味仕候。(森云。鰭非 碧山所胎、閏正月書、当参看。)御当地(江戸)は諸事 高価、中々肴など沢山たべ候事出来不申候。此頃より (彼鱒を)正月肴にいたし、外へも少々宛すそわけいた し候。ひじきは達し不申候。石原屋敷(本所石原阿部 氏下屋敷)より受取候は、ぼら入樽と宮重三本入と太 中(茶山)翁よりの箱入もの計に候。長蔵へあつく御礼 可被下候。宮重、殊に当地にはめづらしく候。種をう ゑて作り候へどもあのやうには出来不申候。(中略。) 何ぞ相応なる用事、もとめ物等も候はじ被仰聞可被下 候。江戸には何でもあるやうなれど、さて御国などへ 献じ候ものとては何も存付無之こまり候。浅草のりは 定而沢山に参り可申候へば上不申候。麻上下足下にて も敬助(撫松)にても入用なれば私去(辛巳)夏こしらへ 候分進上いたし可申候。御前(阿部正精)より両度上下 賜り候故、私紋付を差出し可申候。御入用なれば必ず 遺可申候。閏月(壬午閏正月)にも池上衛守帰国の節言 伝可申候。」此文に拠れば池上隣哉は已に死して池上 衛守は独存してゐる。設し衛守が世襲名ならば、此文 の衛守は隣哉の子であらう歎。しかし霞亭の別の書順 に衛守を希白だとしてゐるを思へば、わたくしは再び 帰省詩嚢の「過池隣哉家、敬軒凹巷希白勇進源一尋至」 の詩引に想ひ到ることを禁じ得ない。頃日浜野氏は三 村氏所蔵の伊勢人物志を看た。此書は天保五年の刊本 で、当時現存者を集録したものであるに、「池上衛守、 菊所、俳、田中中世古町」と云つてある。又同じ三村 氏蔵の写本神境人物志料に「池上菊所、希白又易玄、 詩又俳句」と云つてある。又河崎松宇の手録中同一の 詩を二所に出して、一は易玄の作となし、一は菊所の 作となしてゐる。此等を併せ考ふるに、池上希白又易 玄、号は菊所、通称は衛守は、池上隣哉、諦は徳隣と 別人にして、隣哉の死後天保五年に至るまでも生存し てゐたかとおもはれる。猶考ふべきである。  歳寒堂遺稿は「雪後憶山陽旧況」の七絶を以て辛巳 より壬午に入るものゝ如くである。按ずるに雪後とは 元日の雪の後を謂つたのであらう。  高橋洗蔵さんの許に篠崎小竹の霞亭に与へた正月五 日の書がある。その壬午の正月に成つたことは明であ る。「新年目出度奉存候。徳門御揃御清勝可被成御超 年奉恭祝候。賎族皆無悲加齢仕候。乍揮御放慮可被成 下候。誠に旧年(辛巳)は御引越之節御通行御過訪も被 下候処、錯注不御奉歓、暫時御滞留のよし(なるに)、 僕被冒風邪、不能叩問、失敬之至り、園部(長之助)に 承り候処、此地及道にて令春(女虎)御不例にて頗御聞 関のよし、嚥御困りと存候。乍然此程は追々御棲馴に て大家団簗之楽奉緬想候。為差儀も無之候得ども、年 頭御祝(申上)及旧歳来之御無沙汰を奉謝侯。江都雅事 奇談等も候はじ御示可被下候。万奉期永日候也。正月 五日。篠崎長左衛門。北条譲四郎様侍史。」遺稿に「篠 崎小竹示歳除詩、卒爾和答」の七絶がある。小竹の詩 は此東に添へられたものであらう。霞亭の慶和に曰く。 「移宅不移天性頑。無求随処足安眠。何憂閏厄逢今歳。 薄福如予過去年。(来詩云。栄枯何足煩人意。一任黄 楊厄閏年。自註云。僕明年四十二。而正月閏。故云。)」  此詩と註とに些の錯誤がある。詩の去年は辛巳、今 歳は壬午であるに、註の明年も亦壬午である。恰も詩 の未だ成らざるに、註が早く書せられた如き看を倣し てゐるのである。且霞亭の生年の安永九年であつたこ とは、わたくしの得た行状の二本も山陽撰の墓誌銘も 皆同じきが故に、辛巳四十二歳、壬午四十三歳でなく てはならない。何故に霞亭は閏正月のある壬午を四十 二歳として算したであらうか。怪むべきである。 その百五十一  わたくしは此に歳寒堂遺稿の一詩を播入したい。そ の早くして辛巳の歳暮、晩くして壬午の正月に成つた ことを想ふが故である。詩は題して「近有人目余以満 腔子是瀬惰、因成詠」と云つてある。「瀬性従来吾自 知。無端近日被人窺。不除軒裡昔年夢。已兆半聯雲石 詩。」末に自註がある。「十二年前予与看松居士(西村 及時)宿藤子文(佐藤昭)不除軒。夢中得頽石瀬雲封句。 既覚語之。居士戯日。詩夢固佳。然頽云瀬云。君漂倒 可知耳。相共一笑。」  わたくしは此詩の成つた時を徴するに、的矢書順に 交つてゐる詩箋を以てする。箋は「丸山寓癖雑題」の 七律五首中の第二第四を書し、末に此解嘲の詩を書し たものである。律絶皆多少の異同がある。要するに箋 に書した詩は未定稿なること明である。就中絶句の第 三の昔年が箋に「他年」に作つてあるのは非である。  惟自註の十二年が箋に「十三年」に作つてあるのは 後の考証に資すべきである。解嘲の詩が辛巳の暮に成 つたとすると、十三年前は文化戊辰、十二年前は文化 己巳となる。壬午の初に成つたとすると、十三年前は 己巳、十二年前は庚午となる。霞亭の「五鈴川頭」(茶 山詩自註)の不除軒に宿した時は此に由つて定まるで あらう。  壬午閏正月には霞亭の碧山に与へた書の断片二種 があつて、的矢書順中に存してゐる。しかし二紙皆本 書でなくて、其一は「尚々」を以て起つてをり、其二 は首に「用事」と題してある。  わたくしはその「尚々」を以て起るものに就て、先 づ最初の一条を抄する。言ふ所は碧山の身上に関して ゐる。碧山の妻礼以が新に子を産んだのである。「尚 々無如在小児御そだて、万事よくく御心付可被成候。 お敬もさつそく文にて御祝詞申上侯筈に候へども、先 月より蛆虫のきみにや熱往来いたしはかぐ敷無之、 専ら医薬いたし罷在侯故、此度は書状差上不申候。産 衣可成は一重ねにいたし進じ度、妻共も呉々申候へど も、新居もち一切の物諸道具等だん人てかひたて、物 入つよく、夫に家居もいまだ定まり不申、何歎と不自 由心にまかせ不申候ゆゑ、よろしく御断申上候。(原 註。お敬持病なればさし而気遣候事にはなく候。先々 段々快方に候)」碧山の子は長男新太郎撮であらうか、 未だ審に考へない。  次に霞亭は造営の事を言つてゐる。「居宅普請も御 地面(丸山邸地面)拝領願出候処、丸山屋敷に上屋敷 (霞ケ関〉へ引越候人有之、どうかそれを買とり住し候 へば世話も少なく、新にたて上候よりは物入もすくな からむと見合居申候。これもまだとくときまり不申候 へども大方不遠は分り可申、何卒三月節句前二月中に 引越しいたし安堵いたしたく、これ迄田舎に住候格と は大ちがひ、そ(此字不明)の上やせ身体、何もかも高 直なるにはこまり候。家もち候はじ下男下女なども入 可申こまりものに候。併書籍類は追々当用のものもと め候。右申候古家には土蔵も有之候。火用(心)のため には土蔵も序にもとめ置たく存心に候。いづれ近日き まり候はじ又々可申上候。」霞亭の移り住むべき家屋 も其地所も猶未定であつたのである。以上の一紙には 「閏正月廿七日」の日附がある。  第二紙は首に「用事」と題してある。一、「此方(江 戸)より当年書状正月に河崎杢へ托レ、其後閏月書状 鷹羽平蔵へ托し申候。」河崎杢は誠宇である。梱内記 に松之允が元服して木工と称レ、詩の「防彼景山、松 柏丸々」に取つて、字を景山と命じたと云つてある。 然らば河崎松、字は景山、号は誠宇、小字は松之允、 後に木工と称したのである。鷹羽平蔵は名は応、字は 世誼なるが如くである。しかし是は未だ確証を得ない。 誠字の齎し帰つた霞亭の書は上の正月二日の書なるべ きこと殆ど疑を容れない。平蔵の持ち帰つた書は上の 閏正月二十七日の書と別なることが下に証せられてゐ る。  二、「良助、敬助へ年始状被遣候(礼)宜敷御伝へ可 被下候。」谷岡氏を冒した良助、撫松惟寧の二弟に賀 正の謝を伝へむとしてゐるのである。  三、「ひじきは如何いたし候哉とゞき不申候。ぽら はとじき候。今に用ひ申候。とかく塩からく候而込 (困)り候。半兵衛より被下候由、よろしく御礼(御申) 可被下候。先は(如此物は)御宅にて御遣ひ可被下候。 あの類よりは何ぞひもの類御序も候はじ御恵可被下候。 しかし(干魚も)わざと御遣被下候には及不申候。何ぞ よき船便のついでの節にてよろしく候。ひじきわかめ も同様、(但)わかめもはやおそく候。是もよきのには 及不申候。随分雑物がよく候。家内の食用にいたし 候。」前に碧山は鱒と鹿角菜とを霞亭に遺つた。然る に鱒は至つて鹿角菜は至らなかつた。鱒は某氏半兵衛 の的矢北条氏に胎つたもので、碧山は其一樽を江戸に 送致した。霞亭はその鹸に過ぐるを嫌つて、再ぴ送ら ざらしめむと欲してゐる。  四、「いつぞや備後へ御宅より被下候ふとりつむぎ }反につき、いか程位いたし候哉。御地辺にてかひ取 候直段御しらせ可被下候。ふとりと申ても、いつぞや のはほそく候而、大方本つむぎとみえ候位に候。今に 着用いたし候。つよみはいかじ候哉。」志摩の絶紬 の値を問ふのである。  五、「総じてかさ高なるものは格別、平安信は是非 飛脚へ御出し可被下候。船便は遅速不可定候。」郷信 の期を葱まらずして至らむことを欲するのである。  六、「御宅に壌嚢抄と申かたかな書にいたし候もの 十四五巻有之候と覚え候。少々入用有之(候に)さしあ たり焼板とみえ本無之候。御かし可被下候。外に半紙 本かたかなにて俗諺故事とか申(原註、題名とくと不 覚候)一冊もの、ふる本有之候。是又御一処に御かし 可被下候。右は船手便に御差出し可被下候。」僧行誉 の塔嚢抄が北条の家に蔵せられてゐた。俗諺故事は未 だ考へない。  用事と題した書の云ふ所は略此の如くで、末に「閏 月」と書してある。その壬午閏正月なることは疑を 容れない。 その百五十二  壬午閏正月二十五日に碧山は書を兄霞亭に寄せて、 弟撫松の将に山口凹巷の女婿たらむとする事を報じた。 二月七日に霞亭はこれに答へた。「閏正月廿五日御書 状(碧山の書)今夕(二月七日夕)相達致披見候。春暖相 催候処尊両親様始、皆々御無事御消光、無此上奉賀候。 此方無事罷在候。乍揮御放意可被下候。先廿七日(閏 正月二十七日)山田代官山口権左衛門に書状、産衣一 托し申候。其内相達可申候。(上に引く所の書。)扱此 度敬助入婿之儀被仰渡委細承知仕候。兼々熟友へも私 はなし置候事故右之段に及候と被存候。山口氏は格別 の懇意に候。凹巷の娘に配偶いたし候儀故、於小生わ けて満足いたし候。それとも縁不縁の儀も可有之候へ ども、凹巷よりも高木(呆翁)宇仁館(雨航)よりも縷々 書面(有之)、皆々兄弟親類同然の儀故、何歎と申子細 も無之候。本人も承知、二尊も御許容被遊候はじ、随 分御相談可被成候。乍去人の家を嗣候は我家よりも大 切なるもの、これ義の第一なる事なるべし。敬助儀世 間なれぬ人物故、とくと御垂示可被成候。外にあしき 事無之候。只人は実義実誠、親兄弟は勿論一切の事に 真実に心をもち候へば、少々鈍くても自ら人服し候も のに候。御書面に四季相応の物などこしらへたく被思 召候由、いづれ少々は御用意可然候。それも各別つく ろひ候には及申間敷候。ざつといたし候がよろしく候。 さしあたり著がへ三四つに上下小袖もん付など有之候 はば相済可申候。御宅の御物入も不大方被存候。なり たけ質素なる方よろしく候。凹巷など万事よくのみこ み候人故、つくろひて立派だてするはよろしからず候。 従来貧素の事は人もよくしり候事也。少しも恥べき事 には無之候。併し右等用意の入用御助も仕度候へども、 私手元新世帯万事費用霧敷不得其意候。彼両家へ預け 有之候金九両の内五両程も御用ひ可被成候。是は其訳 とくと被仰含、又は私方に急に入用とか申ても(入用 と申してなりとも)御取立御用ひ可被成候。余金は御 序に御下し可被下候。夫とも無拠当分御差支も候はば、 御用ひ被成候而もよろしく候。私方差くり不自由はこ らへ可申候。高、宇二君の書状も懸御目候。其内凹巷 書状は高、字二君媒の事故、私より書通の儀は内証に いたし候様被申越候間、其御心得可被下候。此書状六 日切なれど大方十四五日頃ならでは届申間敷、余り急 なれば、三月いみ候事ならば、四月にても可然歎、そ こはいづれ共可然候。」伊勢国山田の代官山口権左衛 門は壬午の武鑑に見えない。  的矢書順中には猶此書に附せられたかとおもはれる 一紙片がある。「別啓。これは足下(碧山)へ内々申候。 九とひ縁談相調候とも、とかく御郷里の親族知友など 名乗り候而、各別は手(に)いたし候は不宜候。俗流と 違ひ、凹巷高韻の人なれば、誰にも覚え有之、うるさ く可厭ものに候。その処御心得可被成候。何歎なしに 吉大夫(佐藤子文)呆翁(高木)雨航(宇仁館)へ諸事御ま かせ、可然御願申上候と申がよろしく候。なま中義理 だてを多くするはよくなきものに候。これは私が偏介 の流義故か、人も大方そふ可有と被存候。万事足下御 見計可被成候。二尊へも右等御はなし可被申上候。家 筋の義さし而申分も無之候様に被存候。何分にも此後 いかがと思ふ事、小事大事一応私へ御きかせ可被下候。 ちとは益にも相成可申候。遠方間に合兼可申候へども、 膝とも談合也。」  霞亭は弟碧山に答ふると同時に、書を高木呆翁と宇 仁館雨航とに寄せた。これも亦的矢書順中にある。 「御手教拝見仕候。春好相催候処、愈佳祥被成御揃、 欣芥之至奉存候。小生無事罷在候。乍揮御放慮可被下 候。然者敬助(撫松)儀山口氏へ入賛の儀御周旋被下、 件々(此二字不明)御厚意、千万辱奉存候。御見受も御 坐候通、柔弱性質、とても間に合兼可申候。乍去不外 家の儀、相調候はば於私大慶無此上奉存候。何分相応 いたし候儀に候はば、両兄賢慮に可任候。可然御垂教 可被下、偏奉煩候。急卒御報申上候。余期再信之時候。 恐憧謹言。二月七日。北条譲四郎華押。高木勘助様。 字仁館太郎大夫様侍史下。勘助様へ御願申上候。毎々 乍御煩労此書状郷里へ任便御送被仰付度候。鵬斎へ頼 候書、去(辛巳)冬遣し置候処、(壬午)早春より勝れ不 申、延引仕候。然処竹の詩間違、をかしなる詩認られ 候。これ(鵬斎)も此節余程すぐれ不申候。私一昨日 (二月五日)当春初而相尋候処、殊之外病悩、もはや死 期をまつなどと申候。其故又々と申にくく候。いづれ 本復次第相頼可申候。岡本(花亭)へも昨日(二月六日) 尋候。これも多用と病人とに取紛れ未だ出来不申候由。 雄二郎(館柳湾)へは近日参り頼可申候。宇仁館様へ申 上候。昨(辛巳)冬は浪華に而段々御世話に預り、今に 時々妻どもなどと申出候而難有がり申候。其後御無沙 汰計仕候。御免可被下候。御托しの品、茶山へは申遣 置候。鵬老へは一寸咄のみ出し候。病人故遠慮いたし 罷在候。扱私も到着後一向なにも片付不申、妻ども今 に得と無之、万事拮据、それにあれこれと多用、大方 月半過は他出勤め有之、なにも手を付不申候。住宅も いまだ定り不申候。わけなく送日申候。御憐察可被下 候。宇公に又々申上候。浪華百絶は何分篠崎長左衛門 (小竹)へ一言を御乞可被成候。浪華人なれば、わけて よろしく候。私も申候と被仰、御頼可被成候。」雨航 の浪華百詠は果して梓行せられたであらうか。又梓行 せられたなら、其本に小竹の序が載せられたであらう か。 その百五十三  壬午正月二月の交に霞亭は小学を刻することに著手 した。山陽の墓隅銘に「患東邸士習駁雑、授小学書、 欲徐導之」と云ふもの即是である。霞亭は和気柳斎に 校本を寄視して、副馴氏を紹介せむことを請うた。柳 斎のこれに答へた二月三日の書がある。わたくしは浜 野氏に借りてこれを見ることを得た。「日日欝陶敷天 気御坐候処、益御安泰被為在奉欣服候。令閨君如何被 為在候哉。扱前日留守へ御越被下(致失礼)候。小学之 儀、兼而御咄申上候板木屋総左(に)申遣候所、過日参 候に付、即掛合申候処、何れ拝顔窺度旨申聞候間、明 日(二月四日)貴宅へ上り候様相約候間、御対談可被下 候。前日之小学一本即総左より趙壁仕候。御落掌可被 下候。此節普請に取掛、俗事紛々、幻々布字。二月三 日。」巻き詰めた裏に「北条譲四郎様、和気行蔵」と書 して、左脇に「小学返上」と細注してある。柳斎の此 書はわたくしに当時霞亭の妻敬の病に臥してゐたこと を教へ、又柳斎の屋を営んでゐたことを教へる。離工 総左は必ずや四日に霞亭を見て、小学を刻することを 諾したことであらう。  十四日に霞亭は使を亀田鵬斎の許に遣つて病を問ひ、 重詰の料理と塩とを韻つた。鵬斎の赤穂塩を嗜んだ二 とは人の周く知る所である。鵬斎のこれに酬いた書は 高橋氏の所蔵である。わたくしはその影写を見ること を得たが、二三の読み難き処があつた。今意を以て補 足すること下の如くである。「御尋被下、辱感謝候。 私病気も同様に而堅(此字不明)臥罷在候。細君(敬)御 病気、今以御同様之由、御節(不明)愛可被成候。為御 見舞、赤穂塩一筐並御重之物被下置、(不明)御厚情奉 謝候。何事も拝顔之節(不明)御礼可申陳(不明)候也。 打臥罷在、乱筆を以申述候。幻々頓首。二月十四日。 亀田鵬斎。霞亭様。」霞亭の妻の病の事は再ぴ此に見 えてゐる。  十五日に嵯峨天竜寺の僧月江が霞亭に寄する簡を作 つた。「因幸便一簡呈上仕候。時下逐日春和相催申候 処、愈御清健被成御凌、恭喜之至奉存候。去年(辛巳) 来両回御投書被下、無浮沈相達申候。先達而備後へ御 下り之御様子承知仕、其後如何哉と懸念罷在候処、愈 御内室(敬)等被召連御帰府御座候事と察上候。扱両回 御返書如例瀬惰、追々老境に相赴、執筆迷惑申訳無之、 失敬御海容可被下候。心底に少しも相替儀無之、只々 右之次第に而御不音、何事も御免可被下候。貴境御多 忙、鵬斎先生にも中風之由、此節如何候哉。御風流之 儀も絶而無御坐候由、当境に而も同様、柄近来少々相 悩、寺務多般、佳友無之、対山水殺風景之事共に而消 日罷在候。嵐山花候上巳比に而有之、貴境上野も其比 に而可有之相察申候。旧冬来当地格別之寒気も無之、 先者緩やかにて凌能御座候。此間二両日(本のまゝ)少 々余寒、乍去梅花満開、追々暖和に可相成候。天我(二 字不明)天隠一昨年来病気、うごくと致罷在候。芸 也儀も只今に而は、字は惟芳と相称申候。毎度御噂申 出し、御床敷(由)申居候。古海、文明いづれも無悲罷 在候。毎度御伝声被下、毎輯相達申候。及時居士随分 無事之様子に候得共、音信者絶而無之候。是も只今に 而は畜髪之由に承申候。此度当地出入之もの出府仕、 今日京迄出候由、急に一書相認、前後不文御推覧可被 下候。先者御返事之御断、時候御見廻申上度如此御坐 候。恐々頓首。二月十五日。月江。北条譲四郎様書案 下。尚々御内室へ宜敷御伝可被下候。此書状相托し候 もの、門前立石町と申に居侯こんにやく屋に御坐候。 次郎右衛門と申候而、定而御覚えも可有御坐哉。二白。 惟芳其外院内之銘々、何れも宜敷申上候様申居候。嵐 山桜木盃一つ呈上仕候。侑函之印迄に御座候。」天我 天隠は上の二字草体不明である。推するに一僧の名で あらう。芸也、字は惟芳は月江の侍僧承芸と同人では なからうか。古海と文明とは、「いづれも」と云ふより 推すに、二人の名であらう。西村及時が夙く剃髪して ゐて、此に至つて還髪を蓄へたことは、此書に由つて 知られる。霞亭の漫筆に「外愛仏乗、禅坐習静」とは 云つてあるが、その剃髪したことは未だ証せられてゐ なかつたのである。嵐山杯は霞亭が早く一箇を蔵して ゐた。是は文化八年二月に伊勢より嵯峨に移つた時、 友人の贈つたものである。嵐山杯記に「辛未之春、予 移居洛西、河氏之子以此杯為饅、盃面描落花流水浮嵯 図、蓋摸堰川之景也」と云ふもの即此である。「河氏 之子」とは恐くは河崎松宇であらう。尋で同じ年の四 月に霞亭は別に嵐山杯一箇を作つて山口凹巷に贈つた。 凹巷の嵐山杯詩序に、「今又新製一小杯贈予、杯面描 飛螢流水、題背日、辛未四月、石山水楼酌別凹巷韓君」 と云ふもの即此である。僧月江は十一年の後更に霞亭 に遺るに一嵐山杯を以てした。霞亭伝中嵐山杯の名を 見ること前後凡三たぴである。 その百五十四  文政壬午三月三日に霞亭は前年(辛巳)的矢にゐたこ とを憶ひ出して詩を作つた。歳寒堂遺稿の「上巳憶諸 弟」の七絶が是である。尋で四日若くは六日に日野大 納言資愛に謁した。資愛は勅使として江戸に下つたの で、其随員の中には霞亭が相識の北小路梅荘もゐた。  浜野氏のわたくしに示した書順中に梅荘の書二通が あつて、皆此謁見の事を言つてゐる。先づ其一を此に 録する。「一筆致啓上侯。春気和照相成候処、愈御清 勝被成御勤奉恭祝候。愚夫依旧無異罷在候。然者此般 (擾頭)日野大納言殿御当地御参向被遊候に付、御供被 仰付、我等も一昨日(二月二十八日)無事到著仕候。然 る所貴兄盛名(闘字)大納言殿兼々御聞及御座候に付、 御面会も相成度御含に御座候。御勤向御差支も無御座 候筋に御座候はば、何卒竜の口伝(闘字)奏御屋敷へ向 御入来被下間敷哉、以内意御尋申候様被申付候。御承 諾も被下候はば、御入来御日限一寸と被仰聞被下度候。 此段御承引被下候へば、於愚夫も恭可奉存候。右御尋 申上度如此御座候。館中取込、草々、恐憧謹言。二月 批日。北小路大学助。北条譲四郎様。二白。咋年来御 加増御進格当地御常居被成候旨、御岳丈(茶山)より承 及、重畳目出度奉存候。此度御尋も申上度存候事に御 座候へ共、御入来も可被下候へばと、見合罷在候。以 上。」  梅荘の第二の書は霞亭が上の第一の書に答へた後に 作られたものであらう。然るに日附は顧倒して「二月 廿九日」となつてゐる。所謂「館中取込」の際此錯記 をなしたものではなからうか。「朶雲恭致拝諦候。御 紙面之趣申上候処、来(三月)四日夜と六日昼後計御閑 日にて、其他は御暇も不被為有候。何卒右両日之中御 繰合御入来被進被下候はば於(擾頭)相公御満悦可被成 候。若右日取御勝手不宜候はば、又々後年御下向之節 御出被進候様との御事に御座候。若御入来無御座候は ば、御近作一二首御認御差上被下候様申請候様被申付 候。乍御不肖右両日中御入来偏所奉祈候。尚拝面万々 可申上候。頓首拝復。二月廿九日。北小路大学助。北 条譲四郎様。」  霞亭の資愛に見えたことは、遺稿の詩に徴して知る べきであるが、其日が四日の夕であつたか、六日の午 後であつたか不明である。詩は「奉謁日野相公恭賦」 の五律である。「東下皇華使。文星一位明。糸輪清要 職。忠孝古家名。錐在衣冠会。不忘丘整情。春台延野 父。賜坐聴流鴬。」此時資愛は正二位大納言で、年四 十三であつた。資愛は霞亭と偶同庚の人であつた。  十五日に田内月堂が書を霞亭に与へた。此に由つて、 わたくしは春初に霞亭が岡本花亭を訪うて、席上月堂 に遜遁したこと、霞亭が是より先歌稿を月堂に示した こと、又月堂を介して楽翁侯に書を請うたことを知つ た。其他此書には立原翠軒父子並に南部伯民の名が見 えてゐる。書は浜野氏に借りて見ることを得た。「花 亭にて早春一謁後更に契絶(此一字不明)花鳥之折一入 想慕仕候へども、紛劇一向不得寸暇空しく打過、遺憾 之至、過日は御投書被成下、御旧詠一冊拝諦ゆるされ、 楡聞燈下に朗吟相楽しみ候。例之不遜なる愚評等可申 上と存じつつ、つゐ今以机上にさし置、花亭主人へも 転不申、等聞恐入候。不日に花亭に可達候。歳寒書屋 之額字、老寡君(松平定信)に御需被遣、委細敬承仕候。 しかるに額字は社寺之外は一向相認不申候。歳寒の二 文字にてよろしく候はば横に一揮可被致候。切角被仰 下候へども無拠御断申上候。其他揮毫何にても御もと めに可応候。無御隔意可被仰下候。四書附考三冊茶山 先生より被仰越、旧冬さし上候。右之代銀七匁弐分に 御座候。伽而三分呈上仕候間、南一被投可被下候。乍 御煩労御次手に相願申候。水府藩邸立原翠軒、この老 人ことし七十九になられ候。茶翁年来之友人にて候。 然るに去年(辛巳)より眼病にて辱臥、近来快方に候へ ども、いまだ全愈に及ぴがたく、甚濠欝之様子に御坐 候。過日参り候所、先生御噂に及申候。御近所の事故、 何卒御聞隙之時御柾駕被遣可被下候。さぞく歓候と 被存候。今退隠して当職は甚太郎と申、是も博識かつ 書画癖にて候。くれ人\不日に御訪可被下候。草々拝 具頓首。暮春既望。先比中より参堂と心組候へども、 繁務之上に瀬病も加り、無申訳御無音打過不堪恐怖候。 此磁器御勝手向之御入用にもと、とくよりもとめ置候 処、今日々々と遅引、はや四箇月を経申候。鷹物なが ら呈上、御笑納可被下候。さてこの蕨めづらしからず 候へども、近所(原註、上総)領分より産候ゆゑ呈上、 是又蟻薄之至、このわらぴ音信山のつとなればおとづ れ絶し人にみせばや。御一薬々々々。この名(音信山) 上総之山中に有之候。万々不日に参上(可申上候)草々 再拝。又々言上仕候。嵯峨之御百首誠に刮目感吟、老 人(月堂父)も再三朗吟いたされ候。その内赤壁之長篇 並短篇二首御抄写可被下候。百拝(此二字不明)奉希候。 (此間二字不可読)紙呈上、横に御一揮可被下候。伯民 一昨日(三月十三日)出府、うれしく奉存候。わが父胸 痛之時に而一入歓申候。僑居、柴井町会津侯御中屋敷 の向ふがは。伜を携来り候間、此度(は)暫く足をとめ 申候つもり。親輔拝啓。霞亭先生左右。」  文中に「老寡君」と称してある松平定信は文化九年 に楽翁と号して後の第五年である。辛巳六十九歳であ る。社寺に非ざる限、雇額を書せなかつた。  立原翠軒は辛巳七十九歳、其子杏所は三十八歳であ る。文中杏所の通称「甚太郎」が用ゐてある。杏所が 水戸家の側小姓江戸詰となつた文化九年より算すれば、 此亦第五年になつてゐる。翠軒は退隠して子の許に住 んでゐた。わたくしは此書に由つて翠軒が眼を病んだ ことを知つた。推するに翠軒父子と霞亭との交は此に 訂せられたことであらう。翠軒は翌年三月十四日に八 十歳で残したのである。  南部伯民は前年辛巳の秋江戸にゐて、花亭、月堂と 月を隅田川に看たことが上に見えてゐる。壬午三月十 三日には、一旦還つた郷里より又入府したのである。 伯民は息を率て来た。月堂は父の胸痛を療せしめよう とおもふので、常に倍して歓迎した。伯民の名が舞で あることは、浜野氏のわたくしに示した書憤に由つて 知られる。其郷国は、霞亭の詩句「扇頭題寄清新句、 揮起周洋万里風」に徴するに、周防であらう。江戸に 於ける壬午の僑居「柴井町」は芝柴井町である。会津 侯松平肥後守容衆の邸は武鑑に拠るに、「上、和田倉御 門内、中、源助町海手、下、三田綱坂、下、深川高橋 通」であつた。源助町と柴井町とは相接してゐる。  茶山は前年辛巳の冬月堂に託して論語附孜を買つた。 其価の事が文中に見えてゐる。  霞亭の月堂に視した嵯峨百首は嵯峨樵歌であらう。 その百五十五  壬午三月の末であらう、械の葉が既に陰を成し、桜 の花が纏に存してゐた頃、霞亭は妻敬と女虎とを率 て、江戸の北郊に遊んだ。歳寒堂遺稿に「晩春携妻児 遊郭北」の七絶がある。「路逢佳寺敲門入、催喚妻児看 晩桜」は其転結である。  阿部侯の養嗣子寛三郎が杜鵠の詩を作つて、霞亭を して次韻せしめたのも、亦前遊より遅るること遠から ぬ程の事であらう。わたくしはその三四月の交なるべ きを推する。遣稿の「応儲君令、詠杜鵬、奉和其瑞韻」 の七絶二首は、前首に「花白窓紗残月低」の句があり、 後首に「春暮城頭杜宇帰」の句がある故に言ふのであ る。  四月九日に霞亭は書を岡本花亭に与へ、花亭はこれ に答へた。此返信は浜野氏の示す所である。「欣諦、 如諭新霧清和、愈益御勝適奉賀侯。うち絶御遠々敷大 に御無音申候。備後(茶山)より御便有之、不相変御健 寧のよし、慰朴仕候。無申訳御無さた、御序に宜奉愚 候。私も久々眼疾、やゝ快方故、やうく執筆、兼而 被遣候題賛類出来いたし候。去年(辛巳)十月後筆硯廃 絶、別而不出来、詩も題後噛膀候事不少、汗偲仕候。 則御使に付候。拗巷(山口珪)へも乍御世話幸便に御と どけ被下候やう仕たく候。旧冬の来書今に返書不指送、 是も心外無音いたし候。不遠書状は別にさし立可申候 へども御序に猶御伝言厚奉愚候。茶山先生御別紙御示 被仰下候趣承悉、則血征(未考)に海覆用方、別に録呈 いたし候。至而しるしある事如神に御坐候。早々被仰 遣可然候。あまり御遠々敷、ちと御出被下候やう奉待 候。草々頓首。四月九日。忠次郎。譲四郎様。」書中 に茶山、凹巷の名が見えてゐる。茶山に答ふる医薬の 事は、独り病名の文字不明なるのみならず、未だ考ふ るに及ばない。花亭の翠軒と同じく服を患へたことを 思へば、当時眼疾が流行したのではなからうか。  五月朔に茶山が書を霞亭に寄せた。此書は嘗て浜野 氏に借りて、文中に散見してゐた人名を抄して置いた。 皆識らぬ名のみではあるが、或は他日思ひ当ることも あらうかとおもふので、此に録して置く。一、藤田民 蔵は長門の人である。茶山はその入府する時、これを 霞亭に紹介した。しかし些の警戒の語を書き添へた。 それは「議論合はざるときは脇差を抜く人ゆゑ用心せ られたし」と云ふのであつた。想ふに請はるるままに 紹介はしたが、懐に安んぜざるものがあつたのであら う。二、座間長平。是は「昨夜(壬午四月二十九日夜) 疹症にて死去」と云つてある。恐らくは神辺の人であ らう。三、某氏勇司。是は茶山が霞亭の許へ遣つたの に、霞亭を訪はずに直に聖堂に入つたと云つてある。 想ふに備後を出でて江戸に遊学した一諸生であらう。 此書には以上の三人の事を除く外、特に抄すべきもの が無かつた。  五日に恭甫と云ふものが霞亭を訪うて、共に酒を酌 み詩を賦した。歳寒堂遺稿に「端午与恭甫対酌、分韻 得歌、因憶去年今日(辛巳五月五日)福山諸子饒余東行 於高久子家」と題する七絶がある。前年辛巳五月十日 は霞亭が在府の阿部侯正精に召されて、備後を発した 日である。これに先だつこと五日に、祖鑓が高久の家 に設けられた。わたくしは前に高久南谷の家は靹浦に あつたらしいと云つた。然るに此高久氏は福山に住ん でゐた。猶細検すべきである。壬午端五の客恭甫の何 人なるかは未だ考へない。  二十旧に岡本花亭が書を霞亭に遣つた。「向暑愈御 安寧奉賀候。先頃は認物被仰下、早速認置候へ共、無 人に而至今日候。則三幅一巻返還いたし候。殊に不出 来見ぐるしく候。御免可被下候。泉本正助(原註、私 姉むこに而御坐候)佐渡奉行被為命候而、来月(六月) 九日頃発途いたし侯。夫に付給人にちと学問気あり、 少年輩などの取しまりにもなり侯やうなるもの、目付 役などをも兼させ候つもりに而申付置候処、俄に障る 事生候而、其もの遠国へ出がたきに付、その代りにな るべきもの覚候へ共、さしあたり其人を得不申候。も し何ぞ御心当りの人はあるまじく候や。尤官辺の事な れ候もの、俗事辮候類はいくらもあり、其人備り候へ 共、書物気あり、手がたき人物難得、それに事を闘き 申候。浪人に而も何に而もよく候。事にうときは却而 よろしく候。たゾ書物気と人のたしかなるを望申候。 若し幸に御存のもの御心あたりも候はゴ、早速御聞被 下候やう乍御面倒奉愚候。尤至而いそぎ申候事に御坐 候。いなや答教可被仰下候。医師にも相応にわざ出来 候もの御心あたり御坐候や。いづれも来年瓜代までに 而、帰府の上は直に退去候も勝手次第に御坐候。老先 生(茶山)御詩集中に中山子幹(原註、文粛先生)其子某 などの事数篇相見え候。佐渡の人のよし、今は其人の 家跡如何なり候や。元来何人に候ひしや。若し御存に も候はじ御示可被下候。其外にもかの国に御存知のも のも候はf承度候。万期拝曙候。頓首。五月廿日。板 井蛙、田内より転達、感吟いたし候。絶唱と覚候もあ り。鍾情の御詠などは人を動し候。古賀より被頼候一 封御とじけ申候。」  花亭は姉夫泉本正助が佐渡へ赴任するため、これ に随行せしむべき儒生医師を得むと欲し、霞亭に知人 中に就いて物色せむことを請うた。正助は武鑑に「佐 渡奉行泉本正助忠篤、父正助、二百表、下谷長者町、 文政五年四月より」と云つてある。四月に任命せられ、 六月に発程することになつてゐたものと見える。  花亭は又忠篤の往く佐渡に、いかなる読書人のある かを知らむと欲して、霞亭に問うた。そしてその先づ 着眼したのは、茶山集中に見えてゐる中山子幹である。 子幹、名は維禎、通称は貞蔵、京都に住んで医を業と した中山言倫、名は慰、字は子徳の父である。儒医で あつたらしい。(茶山題遺照詩、胆量儒而侠。又云、 器真堪活国。)嘗て京都に遊ぶこと三年にして還つた。 (三載滞中原。又云、帰国途脩行。)再ぴ妻を喪つて、 自己も亦宿痢に悩まされた。(傷神再鼓盆、又云、頻 纏二竪困。)その子慰を遺して捜したのは、(宣料文星 燦、空随泉路昏。又云、庭幸良駒在、文期彩鳳籍。)寛 政六年であつたらしい。茶山集甲寅の作中に遺照に題 する詩が見えてゐるからである。  霞亭の歌稿板井蛙は、田内月堂の手より花亭の手に わたつた。此稿本は惜むらくは散侠した。花亭が其中 に絶唱さへあつたと云ふを聞けば、愈惜むべきであ る。花亭の伝致した古賀の書は穀堂の簡であつただら う。是も亦見ることを得ない。 その百五十六  文政壬午五月二十日の花亭の書は、霞亭との間に数 度の往復を累ねしめたらしい。偶存する所の二十五 日、二十七日の花亭の書に徴するに、彼の佐渡奉行の 随員を求むるが如き事件の有無に拘らず、北条岡本二 家の応酬は虚日なかりしものゝ如くである。  花亭二十五日の書はかうである。「暑気漸厳、愈御 清適奉賀候。御頼申候一事、色々御きゝ合被下候処、 調不申候由承悉仕候。(恐らくは佐渡に往くべき儒生 を覚めて得なかつたのであらう。)御煩労かけ候事棟 息仕候。高作(歳寒堂遺稿不載此詩)君子の子、子孫の 子、異用にも候へばくるしかるまじく、郎君をかへ候 方歎などと存候処、君子を吉士と御改可被成やのよし、 何様是はそれに而もよろしくや。近有を近見と被成候 ては、対句のつり合少しわろくなり候歎。近有終無、 改がたきやにも覚申候。有常等の聯何と歎御直し被成 方もあるべくや、坤ノ字を韻に押て、此二句のこゝろを いひ廻し方有之侯やなどと存候迄に而、存付も無御座 候。ニノ有字いづれ一つは御改換不被成候ては難櫃や うに覚候。扱かやうの処に至て困り候事に御座候。草 々申残候。頓首。五月廿五日。」此の如き商量の書は 常に二人の間に交換せられたことであらう。  次にわたくしは二十七日の書を抄する。「昨日は簡 教拝桶、愈御安寧奉賀候。医者之事に付、以別紙御示、 委曲被仰下候趣、かたじけなく奉存候。此医師私は存 不申候へ共、親戚中兼而療治もいたし、山崎父子も懇 意に而御座候故、佐渡行申試候処、断に御座候。乍去 立帰りになりとも参るまじきやと相談中に御座候へど も、それも如何あるべきやのやうすに御座候。被懸御 心わざく被仰下、呉々も恭奉存候。小野、津山両氏 へも宜御挨拶奉爆候。冗甚。御答迄草々申残候。頓首。 今村氏詩稿瞥見而已に而、其後塵事取紛候而罷在候。 さしていそぎにもなく侯はゴ、今少し御かし置可被下 候。とくと閲申度候。貝原一軸の事領諭仕候。」  霞亭の薦めた医師はその何人なるを詳にしない。小 野氏津山氏は儒生若くは医師を物色した人々であらう か。山崎父子は花亭の親近者にして、霞亭も亦知るに 及んでゐたらしい。詩稿の作者今村氏は蓮披勝寛であ らう。貝原云々の句は益軒の書幅が霞亭花亭二人の間 に授受せられた如くに読まれる。  六月に入りて後も、花亭霞亭の応酬は旧に依つてゐ て、存する所の資料中先づ挙ぐべきものは花亭の七日 の書である。「大暑愈御安佳奉賀候。扱は甚恐多(き) 願に候へ共、君侯侍史御筆を急に頂戴仕候事は相協申 まじくや、万一侍史下へ御伺被下候事も相成候筋に御 座候はゞ、子四十却玉図に而御座候。是へ左伝の全文な れば百字ほど御座候、節略して不若人有其宝迄なれば 五十余字に御座候。是を御染筆奉願度至願に御座候。 其上自由がましく重畳恐入、申兼候事に御座候へ共、 先日も御聞に入候佐渡へ罷越候親戚へおくり候画に而 御座候。首途迄に間に合候やう仕度候。(原註。来る 十五日立可申歎に御座候。)十二三日迄にも御染筆相 協候はゞ、無此上大幸に御座侯。色々自由箇間敷申上 兼候事に御座候へ共、先づ願試候。何分宜奉希候。今 日は御上屋敷へ御当直と被存候間、もし何と鰍御伺被 下候筋もやと、勇申上試候。幸に相協候事に候はじ、 明日図はさし上可申候。草々頓首。岡本忠次郎。北条 譲四郎殿。」  花亭ほ、泉本忠篤に子孕玉を却くる図を贈るに当つ て、霞亭を介して、稼軒阿部侯をしてこれに題せしめ むとするのである。  子孕の献玉を受けざる事は左伝嚢公十五年の下に見 えてゐる。子窄は所謂戴族四氏の一なる楽氏で、宋の 平公に仕へて司城の官に居つた。さて平公の十八年に 下の如き事があつた。「宋人或得玉。献諸子牢。子窄 弗受。献玉者日。以示玉人。玉人以為宝也。故敢献之。 子牢日。我以不負為宝。爾以玉為宝。若以与我。皆喪 宝也。不若人有其宝。稽首而告日。小人懐壁。不可以 越郷。納此。以請死也。子牢虞諸其里。使玉人為之攻 之。富。而後使復其所。」花亭は姉婿の官に居つて廉 潔ならむことを欲して、子牢の事を画かしめ、これを 櫨にしようとしてゐるのである。上に引いた左氏の 文は凡九十九字を算するので、「百字ほど」と云つた ものである。「節略」するときは五十九字となるので ある。 その百五十七  壬午六月二十三日に霞亭は書を茶山に寄せた。浜野 氏はわたくしのために人に此書を影写せしめた。しか し影写した草体尺憤は霞亭の筆蹟を読むに慣れてゐる わたくしにも読み難い。わたくしは已むことを得ずし て、下にその僅に読み得た数条を抄出する。わたくし は読み得たと書した。しかし是も亦字の如く解すべき ではない。読むべからざる字は已むことを得ずして補 填したのである。「四月廿二日、五月廿六日両回の尊 簡、先日相達、拝読仕候。早速拝答可仕候処、追々書 状差上、無別条故延引仕候。御海恕可被下候。時下暑 蒸、尤例よりは緩き好き夏と奉存候。兎角雨がちにて、 御国辺も打続雨天の様子高詠にて承知仕候。御塾には 雨湿あたゆの人も有之候由、御一家無御別条候哉。お 敬も追々快復、此節は常体に御座候。先達ては団魚丸 の事御願中上候得共、小野氏過般製しくれ、其後下総 辺より大鰭到来、夫にて家内にても製し申候。既に御 製し被下候やも不知候得共、未だしならば先よろしく 候間、御見合被下度候。」「太田大夫(全斎)御無事に候。 彼家には四月中養子出来候。藤七郎と申武田団平弟に 候。又太郎後家に配偶いたし候。右藤七郎近頃大目付 役被仰付候。」「先達而田内(月堂)より申上候四書附放 の本書の事聞合せ申候。集註を本書といたし候附考の 由に御座候。別に附考定本僻と申もの見当り候まゝ差 土候。先達而田内より差上候ものと同物なりや不知侯。 代はいつにても御序有之候節御遣し可被下侯。実はい さゝかのもの、いかやうにてもよろしく御座候。」「新 居大工の事に付態々被仰越難有奉存侯。被仰下候通一 々御尤に奉存候。幸に田内懇意にいたし候御作事方役 人錦織庄助と申者相頼、それが万事引受世話いたしく れ候。直段の処もいろく御座候而、四通の内最下等 の処にて申付候。四十七両にて受合、別に雑費三両程 かゝり、五十金にたて上げ候。此上道具其外当用に十 両位もいり可申候。先書八十両と申上候由なるが、是 は誤筆にて可有之候。或は小学翻刻入用の出金と一筆 にいたし候やらむと存候。伊藤仙之助に相談可仕様被 仰越候得共、仙之助は御上屋敷に有之、又格別懇意に 無之候故相頼申さず候。今年は普請中始終雨がち壁等 かわき不申、漸う此頃たて上仕候。当月晦には移居の つもりに候。左様思召可被下候。書外近き内奉期再信 之時候。恐憧謹言。六月廿三日。北条譲四郎華押。茶 山老先生函丈。」  浜野氏撰太田全斎年譜を按ずるに、太田又太郎は全 斎の第三子にして、初称は信助、名は武群、前年辛巳 十月五日に残した。又太郎の未亡人とは年譜の乙幡氏 きん、後の名とみであらう。浜野氏の言に拠るに、又 太郎の結婚は二月二十九日であつた。  四書附放は「文化十一年刊、呉県呉志忠輯、四書章 句集註附放」の事ださうである。是も亦浜野氏の言ふ 所に従つて此に注する。  霞亭が嚢里の家は金五十両を費して建てられた。そ してこれに移るべき期日は六月晦に予定せられてゐた。 団魚丸を製した小野氏、茶山が霞亭に勧めて造営の事 に与らしめむと欲した伊藤仙之助の何人なるかは未だ 考へない。  霞亭は茶山に書を寄せた日に、又大坂蔵屋敷の園部 長之助に書を与へて、郷書を伝達する労を謝した。此 書は福田氏の蔵する所で、わたくしは其謄本を得た。 此には末の一節を抄する。「扇面二、任有合御慰に進 上仕候。御笑納可被下候。歌は楽翁様御小姓頭田内主 税詩は同勘定組岡本忠二郎。」園部は紙端に「文政五 午年七月八日達」と注してゐる。 その百五十八  文政壬牛の六月晦に霞亭は駒籠阿部邸内の新居に 移つた。此事実は下に引くべき書順に見えてゐる。歳 寒堂遺稿には先づ「移居」の五古がある。五山堂詩話 の例を破つて収録した長篇である。詩中に「移徒七月 初」と云つてあるのは、妻奴†を迎へ筆硯を安んじた時 を斥して言つたのであらう。  七月七日に霞亭は阿部侯の邸に宿直して索覇を饗せ られた。「七日当直、賜近臣索豹、因物寓感、遙寄茶山 翁」の五古は此時の作である。  高野の僧恵充が新茶を寄せ、陸奥の熊阪盤谷が訪ひ 来つて継志編、梱載録等の書を贈つたのも、恐くは此 頃の事であらう。彼は「新居雑賦」の第四首の自註に 見えてゐる。此は霞亭をして「陸奥熊阪君実来見贈其 所著継志編、梱載録等書」の七律を作らしめた。律は 「熊氏書香久所聞、忽来敲戸手携文」を以て起つてゐ る。盤谷は祖父を覇陵と云ひ、父を台州と云ひ、並に 文字のある人であつた。  わたくしは又霞亭が日暮里に遊び、上野感応寺に旧 友芳沢某の墓を弔したのも、此時より遅るゝこと遠か らざる程の事であらうと推する。何故と云ふに此月の 末には霞亭が既に病に嬰つてゐたからである。遺稿に 「日暮里台即目」「感応寺看一碑、読之乃知芳沢儒生残 已久夷、二十四年前、余初見君於京師、蓋其趣崎察時 也」の二絶を留めてゐる。二十四年前は寛政十年で、 霞亭が京都の皆川洪園に従学してゐた時である。  霞亭の未だ移居を報ぜざるに、茶山は七月二十二日 に又書を霞亭に与へた。中にかう云つてある。「土木 いかマ仕候哉。既に経始之後に而部説も問にあひ不申 候や。然どもせい人\倹約に可被成候。今一度たてか へるほどは金も貯(此一字不明)不申ては江戸の住ゐは 出来不申と存候。」前に茶山の霞亭に家屋の事を言.つ た趣意は、此書に由つて簡明に表示せられてゐる。書 は浜野氏のわたくしに視したものである。  二十五日に霞亭は書を碧山に与へた。「呈一簡候。 残蒸退兼候へども、朝夕は余程秋涼を覚え候。然し御 清佳可被遊御揃奉恭祝候。当方皆々無事罷在候。乍揮 御放意可被下候。私も新居漸う落成、六月晦に引移申 候。内造作なども追々片付申候。幽僻なる所にて得其 処申候。先々安心仕候。雑費は存外臨時出申候。甚轟 作なれども、六十五金余に及候。菖落先生物力尽申候。 まだ二の上に井を掘候に五金ほども入候由、なにもか も新規故、存外ゐる事に候。石にても土にても皆々買 得いたし候事に候。すまひは甚勝手よろしく候。うら 之外に畑などもとられ、竹林有之候。拙詩にてその様 子御想像可被下候。新太郎眼気如何。山口凹巷、甚平 両君より先達而猿田彦鎮宅符及金百疋祝儀に参り申候。 御逢のせつ御礼可被下候。此方より船手へものいだし 候節は井上へ遣し候てよろしく候得共、届候処的矢に ては風次第なれば承知いたし申間敷、如何いたし候て よろしきや被仰聞可被下候。先達而の塩嚢並に和漢故 事など返納いたしたく、且小学纂注も大方出来あがり 候故、遣し度故に候。これは飛脚にてもしれたる事な ればいそぎ不申候。浅井書通、北谷玄安も当春死去い たし候由、打続不幸跡には一人もなし、気之毒なるも のに候。残蒸折角御自愛専一奉祈候。不及申二尊様へ は万事可然奉頼候。余期再信之時候。恐憧謹言。七月 廿五日。北条譲四郎華押。北条立敬様侍下。良助へ、 暑中御見舞御状辱、宜敷頼入候。其外相識中へ宜敷奉 頼候。何ぞ相応の用事御坐候はf被仰越可被下候。以 上。むら竹の窓にそよげばさよあらし嵯峨野の庵に吹 くかとぞ聞く。狂歌に。両方に口のあいたる袋町そこ をたづねよ我家はあり。」  移居の日が六月晦であつたことは、此塙証を得て復 動すべからざるものとなつた。新居雑賦の幾首かじ此 書と倶に寄示せられたことも、亦「拙詩にて」云々の 句に徴して知ることが出来る。且狂歌の「袋町」は漢 訳嚢里の原語なること疑を容れない。  「小学纂注も大方出来あがり候。」是亦霞亭伝中の 最重要なる句である。霞亭は便宜を得てこれを碧山に 贈らうとしてゐる。又塔嚢抄と和漢故事とは前に的矢 より到つて、猶霞亭の許にある。  歳首に生れた碧山の子は果して「新太郎」臓であつ た。当時眼疾に罹つてゐたと見える。  共他北谷玄安といふものが壬午の春残して、浅井周 助がこれを霞亭に報じた。山口凹巷と共に鎮宅符を霞 亭に贈つた甚平は誰か、未だ考へない。 その百五十九  壬午七月二十五日に田内月堂の霞亭に与へた書は、 浜野氏のわたくしに示した尺順の一である。「築地園 中之勝地之名凡三四十景みだりに名づけ申候。その内 悦然島御寄題御托申候様、宜相願候へと申付られ候。 扱この島の和名は名ごりのしまと唱申候。もと此名は 七八箇年以前奥松島遊覧いたされ、彼地之絶景常に心 頭に来往いたし、池を穿て松の島出来候所、おのづか ら松島之島のけしきに似寄、この池之島を見るごとに 絶景を想慕いたされ候ゆゑ、この名つき申候。この丹 罫紙へ御揮写可被下候。異なる紙に候が、是は碑石之 大きさにて御坐候。その箇所々々各碑一本づゝ建申候。 詩歌を彫、地名を表申候。白河転封にて何角一藩多忙 に御坐候。大夫之隠居、吉村文右衛門之父なり、病に て年若く辞し、退隠仕候而、只風月文墨にのみ耽好の をとこに候。南湖に別荘あり、その御寄題相願度よし 申越候。これは春の事にて候ひき。今桑名へ行てはい らぬやうなれども、先生之佳作なくては遺憾に可存、 転封はしらぬふりにて御一首御構成奉祈候。外に一双 如別紙相願申候。乍御面倒ひとつλ\相願申候。各横 巻也。料紙呈上仕候。頓首。七月廿五日。輔拝具。歳 寒園主人君。」  月堂が築地園中の悦然島のために霞亭の詩を求めた のは、楽翁侯の命ずる所である。わたくしは今海軍大 学校になつてゐる旧邸の園に、文字を刻した石の幾箇 かゴ遺つてゐることを聞いた。悦然島の標石は其中に 存してゐるや否や。  書中に謂ふ転封は両松平と阿部との間に行はれた。 元の奥平氏姫路少将忠明の商松平下総守忠尭が伊勢国 桑名郡桑名より武蔵国埼玉郡忍へ移り、楽翁侯の嗣松 平越中守定永が陸奥国白川郡白川より桑名へ移り、阿 部善右衛門正勝の喬鉄丸正権が忍より白川へ移つたの である。  此書を得た時、霞亭は既に脚気を病んでゐた。そし て其病は遂に癒えなかつた。わたくしは翌日岡本花亭 の霞亭に与へた書に由つてこれを証することが出来る。 亦浜野氏の示した所である。「拝涌、御清適奉賀候。 乍去御脚疾に而御引籠の由、御困り可被成、折角御保 養奉祈侯。豚児共も両人共久々重腿の患に而困却致候。 時気により候や、此夏は所々に有之候。聯玉(山口凹 巷)壮寧のよし被仰越候趣具悉、近便私への伝言も委 曲申来候由、恭事に御坐候。私も大に無音仕候。御返 書被遣候時、何分宜奉願候。御国元御家老方より御一 幅托題御求のよし、其外扇頭白紙等被遣被仰下候趣、 被入御念候事に奉存侯。容易之儀、不日に相認可申候。 御新居趨賀こゝろ掛居候へ共、近来冗紛、日又一日延 引仕候。何れ近日御尋可申上候。来月この頃には墨水 辺へ御同伴仕度含罷在候。何分御脚疾御保護奉薦候。 草々拝答、余は期面曙候。頓首。七月廿六日。成復。 霞亭雅宗梧下。茶山先生へ大御無音、やうく昨日長 崎奉行発靱に付し、一封呈し候。如仰昨夜は暴雨、暑 はかくて退候半。甚御遠々敷候。ゆるく御物語を期 し、何事も申残候。御風呂敷もとゞめ置候。」  花亭の茶山に寄する書を托した長崎奉行は、此月に 問宮筑前守信興に代つた高橋越前守重賢である。  八月十日に古賀穀堂が書を霞亭に与へた。「秋暑未 退候処、愈御清福被成御奉職奉賀上候。御出府後毎度 御尋可申上相心得居侯処、御聞及も可被成、俗務牽絆 不得如意、大背本意候。何とぞ不遠内遂御一面度候。 此筋御序御座侯はじ御尋可被下候。何とぞ結社請教 (度)ものと存候。東都も諸家林立候得共、色々之流義 御坐候と相見、且暇も無之、皆以遠々敷罷過申候。茶 山先生毎々御恵書此方よりは甚失敬仕候。別書奉復仕 候間、御序に被遣被下度御頼仕候。御近著之書御垂示 被成度、此段奉得御意候。草々頓首。八月十日。蕪。 北条仁兄。尚々此書昌平諸生へ嘱候間、御落手遷延候 (事)も可有之と存候也。」此書は艸体読み難きが故に、 所々意を以て補填した。穀堂は社を結んで学を講ぜむ として、霞亭にこれを謀つてゐる。此時穀堂は年四十 五、霞亭より長ずること二歳、父精里を喪つて後五年 である。弟伺庵は三十五歳である。 その百六十  壬牛八月十二日に田内月堂が書を霞亭に与へた。 「例之秋森いとはしく候。先以御快方とうかじひ、欣 拝無佗事候。何卒いゆるに加りし説御慎可被成候。さ だめて御絶房と奉存候。悦然島は御詩体いか様にても 御随意に可被成下候。是まで絶句も律もあり、あの紙 竪に一ぱい御認可被下侯。題名はなくてもよろしく候。 今日は取込用事のみ、頓首。八月十二。月堂上。霞亭 先生函丈。」霞亭の脚気は一時病勢が緩んでゐたと見 える。「いゆるに加りし説」とは韓詩外伝の「病加干小 愈」を用ゐたものであらう。此書は霞亭が悦然島に題 する詩の何の体を以てすべきかを問うたのに対へたも のである。以上数通の尺墳は皆浜野氏がわたくしに示 した。  十四日には霞亭が嚢里の新居に独坐して、酒を酌み 月を賞した。歳寒堂遺稿の詩を見るに、殆ど病の身に あるを忘れてゐたやうである。「十四夜。山妻向晩摘 畦疏。窓戸諮開親掃除。無復故人尋僻処。且将佳月酔 新居。虫声満瑚吟相和。歌吹誰家聴漸疏。忽見片雲頭 上黒。陰晴明夜果何如。」霞亭は此夜の夢に伊勢の山 口凹巷を見た。「是夜夢韓聯玉、醒後賦。官轟未遺卜 帰休。縦跡東西恋旧遊。隅々唯供衆人笑。荘々常抱百 年憂。音書鴻雁孤楼月。風雨芭蕉一枕秋。安得君来如 夢裡。墨川春載墨川舟。」  十五日は天が陰つて風が勤かつた。遺稿に日く。 「中秋無月。陰雲擾墨圧櫓端。痴坐無言向夜閲。野霜 蒼荘桂香湿。天風爾琢雁噺寒。人情未免偏為怨。世事 従来是此観。旋徹杯杓引裳臥。竹声如海夜漫々。」  二十九日に霞亭は月堂に書を与へ物を遺つた。時に 月堂は喪に居つた。しかし未だ死者の何人なるかを考 へない。月堂のこれに対へた書は浜野氏の示した書順 の中にある。「秋冷相加、日々御快方奉恭賀候。尚又 御加養専一奉祈候。悦然島いつにても御快愈之上御構 思被下度所希に候。吉村又右衛門願之別業南湖寄題之 御作、是又いつぞ御揮毫被下候様相願申越候。くれ ぐ此上御摂養第一奉存候。とかく御疎音恐入候。頓 首。八月廿九日。別啓。喪居御計(恐当作購)問被下、 其上御国産之名品御投被成下、千万々々奉拝謝候。毎 々御懇情感荷々々。御ふろしき返上仕候。以上。御返 事は御面倒なるべし。必御筆を労すべからず候也。月 堂上。霞亭先生。」  是月に霞亭は菊を栽ゑ、又隣家なる伊沢蘭軒に乞う て梧桐と芭蕉とを移し種ゑた。遺稿に「従蘭軒処覚梧 桐芭蕉」「種菊」の二絶が見えてゐる。  又小学の校刻が功を竣つて、霞亭が自ら其一本を携 へて岡本花亭を訪ひ、これを其子に贈つたのも、是月 の末であつた。事は九月朔の花亭の書に見えてゐる。  花亭の九月朔に霞亭に与へた書は下の如くである。 書は浜野氏がわたくしに示した。「今日は暫晴候へ共、 又可変天気、扱々久雨可厭候。御脚疾趣軽(此二字不 明)快候や如何。往日は御出被下、折節南部伯民対酌 之処に而、幸と相悦、早々御通し申候へと申付候処、 客来と御見受被成、被仰置、直に御帰被成候由故、急 ぎ一奴走らせ候へ共、早御うしろ影も不見よし、他客 にもあらば社、よき折から御出も被下候に、扱々遺憾、 御噂申あひ候事に御坐候。其節は新刊御蔵版の小学纂 註一部御携、豚児に御恵被下、此本先日も書中申上候 通、借用望居候書に而、御蔵版出来候事は存不申、御 返書委曲被仰下候而、不存寄事と相喜相示罷在侯処、 早速新版御恵被下、かく丁度なる幸も有之物かと、喜 出望外、御礼難申尽感領仕侯。版も至(而)宜出来、善 本に而、別而悦敷、呉々も辱御事に奉存候。児此節脚 疾に而、一向歩行不相櫃候故、快復の日趨拝御礼可申 上候へ共、先づ私より宜御礼申置呉侯やう申聞候。さ て私も御尋可申、久敷心掛候へ共、天気もあしく、か れのこれの延引仕候。御海酒可被下候。いづれ近日拝 話を期候。昌光寺のたのみ物御面倒奉存候。鵬斎病中 急には出来兼可申よし、左候はf、別人へ画を御属、 御題賛被下候共、画なしに高作ばかり御一揮被下候共、 可然やう可被成下候。頓首拝白。九月朔。忠次郎。譲 四郎様。」 その百六十一  霞亭の校刻した小学纂註は清の高愈の作る所の書で ある。当時倭刻本として世に行はれてゐた小学は、元 禄七年刊の明の陳選の小学句読があつたのみで、高氏 の纂註の如きは未だ翻刻せられなかつたのである。今 日より視ても、小学は晩出の貝原篤信、竹田定直師弟 の手に成つた福岡版の集疏を除いては、福山版の纂註 を推さざることを得ない。  星野恒さんは霞亭の纂註を取つて漢文大系中に収め た時、獄西豊芭堂版の心遠堂本と此纂註とを比較して 下の如く云つた。「今二本を対校するに、豊芭堂校刊 本は首に高愈の凡例十則を載せ、次に朱子年譜を載せ、 次に小学総論を載せ、然後朱子句読及題辞を載せ、而 して題辞は直に内篇立教篇と連接す。福山藩翻刻本は 首に高愈の同学弟華泉の康照丁丑(三十六年)の序を載 せ、次に篇目を載せ、次に総論を載せ、然後朱子の題 辞及題小学を載せ以て本篇に接し、(但本篇は紙を別 にし、直に連接せず)而して凡例及朱子年譜なし。然 れども豊芭堂刊本の朱子総論は僅に七条を録し、福山 藩翻刻本の総論は程子朱子以下十八人の説凡三十条を 録す。又共題小学の下、註して原本作小学句読、未知 何拠、或云、始於陳恭慾(選)、又有作小学書題、小学 題序者、皆後人以意名之、今依朱子文集改正とあり。 而して豊芭堂校刊本は此註なく、其題猶小学句読に依 れば、福山藩翻刻本の高愈晩年の定本たる審なり。故 に今之に拠る。其凡例年譜なきは、凡例に陳選句読の 短を挙げ、自ら朱子編輯の本旨を明にせるを述べたる を以て、意自ら快とせず、華泉の序に代言せしめ、以 て凡例を剛去せしか。又朱子年譜は凡十一葉あり、其 稽冗長なるを以て、亦之を剛りたるか。今其原本を得 ざるを以て、其意を詳にする能はず。但四庫全書総目 の子部儒家類目に小学纂註を載せ、編修励守謙家蔵本 と注し、対附総論及朱子年譜とあれば、其見る所の本 も豊芭堂校刊本と同種なるべし。」今霞亭の取る所の 纂註本のいかになりゆきしかを審にしない。  現存の霞亭校刻の纂註には凡そ二種の本がある。其 一は巻端に「文政五年壬午夏、清本翻刻、重訂小学纂 註、福山藩歳寒堂蔵板」と題し、末に「福山藩歳寒堂 蔵板、江戸発行書舗新乗物町鶴屋金助、池端仲町岡村 庄助、本石町十軒店英平吉」と記し、更に嵯峨樵歌、 薇山三観、帰省詩嚢の三既刊書の目を附したものであ る。其二は巻端の「福山藩歳寒堂蔵板」に代ふるに、 「福山誠之館蔵板」を以てし、末の「福山藩歳寒堂蔵 板」を削り、又既刊書目を載せない。按ずるに彼は初 印にして、此は後に改められたものであらう。  此二種の本は並に福山図書館に存して居り、浜野氏 も亦これを併せ蔵してゐる。二本は唯端末を改刻した るに止まつて、固より同本である。装して「元亨利貞」 の四本となし、元亨に巻一より巻四に至る内篇を収め、 利貞に巻五より巻六に至る外篇を収め、毎巻頭に「高 愈纂註」、毎巻尾に「後学北条譲校読」と記してある。 その百六十二  霞亭の校刻した高愈の小学纂註の現存諸本中尤も珍 とすべきは浜野氏蔵の歳寒堂初印本で、即松崎像堂の 手沢本である。此本は所々に幹枝月日を記し、又間成 徳書院の名を註するを見る。憾堂は此書を携へて下総 の佐倉に往き、これを成徳書院に講じたのである。  成徳書院は南山吉見頼養の総裁たる学校で、南山と 懐堂とは親善であつた。平野重久撰の「南山先生吉 見君墓砥銘」にも、「先生、博学強記、於書無所不読、 僚堂松崎翁常称其学殖」と云つてある。然れば懐堂の 携へ往いた書は友人霞亭の校刻する所の書で、その講 説した学校は知人南山の督理する所の学校であつた。  浜野本に記してある干支月日は、天保八年懐堂六十 七歳の時より十一年七十歳の時に至つてゐる。浜野氏 の抄出する所は左の如くである。   巻一、十葉、終、裏「丁酉(天保八年)四月二成徳   書院」   巻二、三ノ裏「四月十」 同同同同同同同同  七ノ裏「四月廿」 十ニノ表「十一月十二」 十四ノ表「丁酉十二月二日」 十九ノ表「戊戌(天保九年)四月二」 廿一ノ裏「戊戌四月廿」 廿六ノ裏「戊戌閏月(閏四月)十二日」 冊一ノ表「戊戌閏四月廿」 舟三ノ表「戊戌五月十二成徳書院」 巻三、五ノ表「戊戌六月二」 同  八ノ表「戊戌六月十二成徳書院」 同 十一ノ裏「戊戌六月廿二」 同 十四、終、表「戊戌七月二日」 巻四、四ノ表「戊戌八月二日」 同  七ノ裏「戊戌八月十二」 同十一ノ表「戊戌八月廿二」 同十四ノ裏「戊戌九月二」 同十七ノ表「戊戌十月十二」 巻五、四ノ表「戊戌十月廿二」 同同同同同 日」  七ノ表「十一月七日」 十一ノ表「戊戌十一月十二」 十四ノ裏「戊戌十二月二日」 十七ノ表「戊戌十二月十二」 廿三ノ表「己亥(天保十年)一 二(正力)月十二 同同同同同同 巻六、 同 同同同同同同同同 廿五ノ裏「己亥正月廿二成徳」 廿九ノ裏「己亥三月廿二」 冊三ノ表「己亥四月二」 四十ノ裏「四月廿二」 四十五ノ表「己亥五月二」 四十九、終、裏「己亥五月十二」  四ノ表「己亥五月廿二」  八ノ表「己亥六月十二」 十一ノ裏「己亥七月廿二」 十六ノ表「己亥八月十二」 十九ノ裏「己亥八月廿一」 廿四ノ表「十月二日」 廿八ノ裏「己亥十月十一」 冊三ノ表「己亥十月廿二」 舟八ノ裏「己亥十二月廿二日」 四十ニノ表「庚子(天保十一年)二月廿二」   同四十五ノ裏「庚子三月十二」   同五十一ノ表、終「庚子三月廿一」  記する所の講席は凡四十四度である。しかし第一 講の十葉は梢多きに過る如くである。或は其間に記註 を脱したもの歎。其他巻二の終頁即第三十六葉、巻 四の終頁第廿一葉の如きも、記註を脱することなきを 保し難い。懐堂の小学の講席は恐くは五十度に近かつ たことであらう。  憾堂の佐倉侯のために書を講じたのは、何れの年よ りの事であらうか。浜野氏の検する所に従へば、其初 は文政三年なるが如くである。僚堂旧蔵の和漢年契文 政三年の下に「四月十三日、赴講佐倉侯」と書してあ るが故である。しかし此に一の疑がある。それは此講 書の事が或は早く其前年文政二年に始まつたのではな いかと云ふことである。同じ和漢年契文政二年の下に 「四月始赴佐倉侯講」の文が見えてゐるからである。 唯文政二年の記註の輯従ひ難きは、懐堂旧蔵の文政 二己卯の暦本にこれと矛盾するに似たる記註が存して ゐるが故である。即「文政二年二月廿三日発都、三月 十四日入京、三月廿八日游吉野、閏四月六日発京、同 十八日帰都」の文である。此に拠れば己卯四月は懐堂 の京都に滝留してゐた月で、佐倉に往くことは出来な かつた筈である。文政三年は懐堂五十歳、若しこれに 先つこと一年とすると四十九歳である。とまれかくま れその小学を講じたのは、佐倉侯のために書を講ずる ことを始めた後十六七年の頃の事である。佐倉は堀田 相摸守正愛の世より備中守正篤の世に移つてゐた。  憾堂は小学を講じ畢つた後、庚子四月二日より近思 録を講じたのである。 その百六十三  小学纂註は文政壬午九月六日に和気柳斎と田内月堂 とに寄贈せられた。柳斎の復書はかうである。「謹読 仕候。如貴諭秋冷相成候処、被為揃愈御安寧被成御興 居、欣然之至に奉存候。然ば小学御翻刻御出来に付、 倖方へ一本御恵投被成下、千万難有奉存候。外十部之 儀奉諾候。書騨定価十五銭、目下之処御手元より出候 分は十三匁之由是亦奉諾候。九日殊により御光臨も可 被下候旨、何卒御出に相成候様仕度候。来月(十月)五 日頃海曇寺之事承知仕候。講義中幻幻拝復。九月六日。 和気行蔵。霞亭先生左右。」  月堂の復書はかうである。「薫涌。心ならず御疎音 打過候所、はからず御手簡被投、忙手拝披、先以御挙 家御栄祥と相伺、欣拝無他事候。都下之寒喧俄混交、 折角御保養専一奉祈候。さて小学纂註御上木御落成に 付御恵被成下御厚情奉拝謝候。永く珍襲、孫喬共に相 譲可申候。外に十部旧友へと為御持被下、是又恭奉存 候。文事好候もの一人も無之、誠に可恥事に候。しか し先々懇友共へも相示可申候。先々五部御あづかり申 侯。其内一部隠居(楽翁侯)へも御贈り被下候ては如何 哉。御同意に候はば、別に御示被下候に不及候。此方 にてよき様に取計申候。中秋無月尤蓼々、ことしの様 にふる事も稀にて候。佳作数篇御抄録被下、千万有が たく、私疵利にて病臥、徒然を慰可申候。くれぐれも 奉拝謝候。御詠草とく醒翁(花亭)へ転送いたし候。翁 の若(此字不明)き事無限候。老先生(茶山)より画料百 匹相達文晃へ遣候。右之御礼をもこの初夏の比申上候。 御使いそぎ、其上肩背痛、艸々拝復、頓首。九の六。 月堂上。霞亭先生。廿二日(八月)大風雨の夜に。雨風 にあれし軒はをもりかへて夢のとたとる夜半の月哉。 博祭。」  霞亭は小学を友に贈り又は友の子に贈りて、同時に 友に数部を託し、人に売らしめむことを図つた。後の 霞亭が書順に拠るに、霞亭は阿部家の金を借りて刻費 に充て、数年を期してこれを償はむと欲してゐた。友 に売ることを託した所以である。小学の贈を受た二 友の書中、月堂の書には頗る注目すべきものがある。 一、霞亭の小学は月堂が介して白河老侯に献じた。二、 霞亭は和歌を詠じ、例に従つて月堂と岡本花亭との閲 を乞うてゐる。三、菅茶山は文晃をして画を作らしめ、 月堂に託して潤筆銭を醜つた。柳斎の書には特に言ふ べきものが無い。 その百六十四  文政壬午の九月九日には、霞亭が詩を茶山に寄せた。 歳寒堂遺稿に日く。「九日寄茶山翁。妻児対酒話郷関。 想得旧園饒菊斑。高興不知如昨否。誰扶藍墨向何山。」 此前日に茶山に「想君拷上馬頭山、屡顧藍輿欧六一」 の句があつた。君は来飲の諸客を斥して云ひ、欧陽修 は茶山が自ら比したのである。九日には茶山が又文化 十一年の重九を回顧して七絶三首を賦した。中に「酔 把茱萸想旧朋、何山此日共吟登」の句がある。何山の 二字は両処に於て同日に用ゐられた。  十一日に霞亭は的矢の書を得た。そのこれに答へた 書の断簡が的矢尺順中にある。「八月十七日芳簡、九 月十一日自井上相達、披見仕候。秋涼愈御安泰被遊御 揃、奉恭賀候。当方無事罷在候。乍悼御放意可被下候。 然者為新居祝儀、酒尊一御恵投被成下、千万難有奉存 候。御双親様へ可然御礼被仰上可被下候。併甚大そう なる御進物甚恐入候。私方にては何よりの品にて、大 方正月頃迄は是に而相済可申候。わけて甚佳酒にて、 ぴんといたし候て、私口中に適し、実に難有奉存候。 小学一本進上仕候へぱ受納可被下候。良助へも一本御 遣し可被下候。此度小学翻刻、大分板はよく出来候へ ども五十金近く費用入申候。殆ささへ兼申候。併随分 発行の様子にきこえ候。書林などへも追々出可申候。 御地辺望候人侯はば御世話可被下候。此表書林定価は 百疋に候。私方より懇意中などへ直に差出し候は十三 匁宛にいたし候。呂氏春秋当春文亮へ世話いたしもと め遣し候処、不用の由に而足下へ遣し候由、あれは大 分美本に而二分二朱にて買得いたし候。御入用に候は ぱ進上いたし候。代料には及不申候。格別御好にもな く候はば、いつにても舟便のせつ御遣し可被下候。い かやうにてもよろしく候。先便摩窮(二字不明)散並に 金子入書状相達し候哉。此度御書面新太郎眼繋(上の 緊と共に医に作れるが如くなれども、臆度して繋と す)も追々うすく相成よし、一段之儀に候。併かの散 薬御試に御用可然候。庭園に、新開の地故、一樹も無 之候処、追々あちこちよりもらひ候ものうゑ候。大分 よろしく相成申候。少々畠も有之、大根などまき候。 柳の枝、蜀(不明)も蘇も、七八寸許宛四五本、大根へ 根の方をさしこみ被遣可被下候。これも船便なんぞの 荷の中へ入被遣可被下奉煩候。その序に松菜のたね少 々御遣し可被下候。」此下裂けて無し。書は九月十一 日後両三日の間に作られたものであらう。宛名の例の 如く碧山であつたことは殆疑を容れない。小学纂註は 二弟が各一本を獲た。碧山の息新太郎(綴)のために、 伯父霞亭は眼を治する薬を贈つた。霞亭の求むる柳の うち、一は菅家より分たれた蘇州の種であらう。蜀字 は不明で、又蜀に産した柳の的矢の家にあつたことも 未詳である。  十九日に霞亭は書を花亭に与へ、花亭は直ちにこれ に酬いた。「如諭□□(二字轟蝕)天秋寂、愈御勝適奉 賀候。往日は趨拝、緩々御清海、太暢懐仕候。色々御 馳走相成、御懇款さてくかたじけなく奉存候。御口 号御賑被下乍一見先感吟仕候。何卒この通り御浄書御 恵可被下候。呉々も辱奉存候。小学五部御もたせ被下 奉謝候。望人へ相達可申侯。扇頭御揮題是又奉謝候。 拙詩、徐雪樵詩扇御榔還被下、接収仕候。御掛物拙題 草案失ひ候而今に見出し不申、因而別紙認見候。かや うなる事したゝめ候而者不宜候半歎。猶かき方も可有 歎と存候へども、只今草し候処へ御使来候故、まづ其 儘掛御目乞正仕候。不宜思召候はば書改可申候。無御 遠慮被仰下度候。又是にても引直し候はば不苦被思召 候はば、無御遠慮御直し被下、問違たる事も候はぱ、 傍へ御書入御指導可被下候。一二日内使上げ可申候間、 其せつは痛剛の上御付還可被下候。長過而不宜侯やと も存候。短くちやつと認替可申候や。何分高意被仰下 候やう仕度候。幻々拝答、不具。御令政様へも前日の 御礼宜奉頼候。二男御尋被下(候へ共)逐日快方にむか ひ候。御放念可被下候。九月十九日。忠次郎。譲四郎 様。」二人の問の応酬のいかに頻なりしかが想見せら れる。又花亭が小学纂註の流布のために力を致した状 も窺ひ知られる。  翌二十日花亭は霞亭を訪ひ、越えて二十二日に又書 を寄せた。「一昨日(二十日)は色々御みせ被下奉謝候。 扱々面白き事共(に候。)其内画軸題言は妄評別紙かき 付候。拙文末の方改、其外こゝかしこ剛潤いたし候。 今一応とくと御覧被下、高意残りなく被仰下候やう仕 度候。別紙にも申候通冗に失候癖に而、さしてもなき 事迄長々と人のかきたる見苦敷ものに候へど、自運毎 々如此に候。程合よく、過不及なきは、何事もかたき ものと覚候。呉々も御遠慮なく御痛剛可被下候。其上 に而御軸に題可申候。茶山先生へはいつ頃御便あるべ きや。一書呈度候。御書状御さし出の頃あひ承度候。 獅子巌集へ御かき付被成候一首。苔衣うらなる珠のく もらねばうつるも清き月花の影。甚よろしく覚候。但 三の句如何。裏なる珠を鏡にてと被成べくや。秀歌な るべし。書経察伝、同講義、御蔵本拝借いたし度と二 男願候。楷書の法帖御約束(により)差出し候。一、黄 庭楽毅(趙臨)一帖。一、続千字文一帖。一、明楷一帖。 (明楷一帖の傍に細註して曰く。是は前後錯乱甚しく 候。はしたに切々となり候を書林が心なく仕立候故失 次候か。所々面白事もみえ候故懸御目候。)甚草々申 残侯。頓首、白。趙臨真草千文一帖も相添候。九月廿 二日。醒翁。霞亭様。」花亭は自家の文章の冗漫を憂 へてゐる。わたくしは多.く其文を読まぬゆゑ、疵病の 如何なるかを詳にしない。獅子巌集は霞亭と幽居の地 を同じうした僧涌蓮の歌集なること、既に云へるが如 くである。霞亭は平生楷書を善くせぬことを歎じてゐ た。今多く楷書の法帖を花亭に借りたのは、臨書せむ がためであつたかとおもはれる。諸帖の趙臨は趙松雪 臨書であらう。  二十六日に霞亭は書を和気柳斎に遣つて小学纂註の 売行を問うた。柳斎の復書はかうである。「捧読仕候。 愈以識穀被為在奉欣然候。前日は能ぞ御光臨被下、千 万奉謝候。小学之事被仰下、社中逐々申聞候所、多分 蔵書有之、或は返事なしにぐずくなど致、裁に三部 片付き申候。右料三十九匁付貴仇候。御落掌可被下候。 先へより小学会読始申候。其節又相願候様可仕候。七 部は先趙壁仕候。前日御咄之鯨肉乍些少差上侯。御笑 味可被成下候。観楓之事被仰下、少は遊意も動候へ共、 近日少々普請に取掛り候故、此度は事負仕候。未免俗、 御捧腹可被下候。家族へ御致意被下、奉厚謝候。即申 聞候。小生より宜御礼申上候様申出候。乍末令閨君へ 宜奉悼候。勿々拝復。九月廿六日。行蔵。北条譲四郎 様。」柳斎の交は花亭、月堂等とは自ら其趣を異にし てゐる。霞亭の此人に於けるは、略鵬斎に於けると相 似たものであつたかも知れない。此書の末に詩一首が 書き添へてある。「陪冠山老侯得風字。寒梁相隔水流 東。貴賎難殊道自同。絃管和潮塵世外。丹青染月玉堂 中。新知雑旧談難尽。古義裁今感不窮。君作権衡吾老 英。欲乗海上冷然風。」詩中第一の東字の上の二字は 読み難いので、姑く水流の二字を填めて写し出した。 又隔の字は大沼竹渓が下したものだと傍書してある。 柳斎の詩は集刻せられたか否かを知らない。その竹渓 に政を乞うたことは此東によつて知ることが出来る。 大沼竹渓名は典、一の名は守緒、字は伯継、通称は次 右衛門、文政十年十二月二十四日、六十六歳にして残 した。法講は仁譲院徳翁日照居士、墓は三田薬王寺に ある。松平定常は此秋詩酒の宴を催したものと見える。 上の花亭の二書、柳斎の一書は都て浜野氏の示す所で ある。