炉辺
堀辰雄
一
数年まえの春、木曾ヘ旅したときのこと。落ちつく先は、奈良井にしようか、藪原にしようか、
とちょっと気迷ったのち、一まず、鳥居峠を越えて、藪原までいってみた。いい旅籠でもあっ
たら、とおもいながら、お六櫛などをひさいでいる老舗などのある、古い家並みの間をいいかげ
ん歩いて、ほとんどもうその宿を出はずれようとしたとき、一軒、それを見るなりやっぱりあっ
たな、とおもったような、昔なつかしい家作りの、小さな旅籠があった。
その夜の泊りはそこにきめて、ともかくも、その宿のはずれまでいってみた。すぐもうその先
きは鳥居峠にさしかかるらしい、その宿はずれには、一本の大きな梨の木が立っていた。その花
ざかりの木を前景にして、そこから見おろされるまだ春浅い谷間を、私はいかにもここまで来た
かいのあったような気がしながら、しばらく眺めていた。…
夜、うすぐらい炉辺で、その宿の娘が串にさした川魚を焼いていた。その傍へいって、私もそ
の炉の火にあたらしてもらった。その魚の名を聞いてみたが、なんだか覚えにくい名で、私はす
ぐ忘れた。もっとも、つまらない魚です、と娘も言うには言っていたが……。そのかわり、秋、
鶫のとれる時分にぜひいらしってください。その時分には、よく東京のお方がお見えになります、 という
「ものなど書く人もたまには来ますか?」
と私はきいてみた。
「はい、いろんなお方が……」娘はいたって口数が少ない。そこで私はもう一度きく。
「どんな人?」娘はちょっと考えていたが、まず一番さきに、「津村信夫さん……」
といった。
私はおもわずにっこりとした。—実はさっきから、私も、こんな話を宿の人たちと交わしな
がら、こんな煤ぼけた炉のまえに胡坐をかいているのは、自分なんぞではなくて、津村信夫だっ
たらさぞ似合うだろうに、と思い描いていたところだったのだ。……
二
去年の秋のはじめ、戸隠へゆく途中、私のところに立ちよっていってくれた津村信夫と、わか れぎわに約束した。
「こんどはきっと往くからね。十日ごろまではいるの?」
「是非いらしってください。戸隠もこれからはいいですよ」
そういってわかれたときの津村君は、いまからおもうと、もうだいぶ容態が悪かったらしく、
ひどい痩せかたで、顔いろも妙に黒ずんでいた。しかし、旅さきのせいか、ぼかなか元気そうな
ので、大したことはないのだろうと思い込まされていた。……
九月のなかば、約束の日限を二、三日過ぎてから、蕎麦の花ざかりのなかを、三人ほどして戸
隠に上っていった。運悪しくその前日、津村君は山を下りたあとだった。
夕方、その坊のある中杜の部落や、津村君が毎日散歩にいっていたという、高妻山を前にした、
小ぢんまりした高原などを小一時間ほど歩いてみたが、どこへいっても、津村君のいないのがひ どく物淋しかった。
夜、坊の主人に招かれて、七、八人も坐れそうな炉辺で、お茶を馳走になった。大きな薪があ
かあかと燃えていた。 「津村さんはここが好きでしたね。ほとんど一日じゅうここにいなすった
……」何かいうと、そんな津村君の話が自然に出る。——しばらく、私たちがほかの話、——岩
魚やトガクシショウマなどの話をしていると、なんとなくもの足らなくなって、誰れからともな
く津村君の話をしだす。すると急に、また炉辺があかるく、楽しくなった。
「津村さんはほんとうに好い方だが、あんまりここのことを書きなさるでな。こんどまた書き
なすったら、もううちにはお泊めしない、というてやりました」坊のお内儀さんはふいと真顔に なって、そんなことも言った。
坊の主人は、無口な人だったが、そのときもただにこにこ笑いながら黙って聞いていた。
「そうしたら、津村さんは、もうけっして書かないって約束するから、後生だから泊めてくだ さいって言ってました……」
そんなことを言いだされて、この炉辺で、津村君はどんなに困って、それをしばらくあの独特
な苦笑にまぎらせていたことだろう、とそのときの津村君の様子が一瞬、私たちの前にありあり と浮んだ。……
三
木曾藪原の宿の小さな炉ばたにおける君の姿と、戸隠の坊の大きな炉ばたにおける君の姿と、
いま津村信夫のことをおもっていると、そんな二つの炉ばたにおける姿がいかにも目に見え
るように蘇ってくる。が気がついてみると、そのどちらも私が、この目でじかに見た姿ではない。.
そのおりおりふいと私の心にだけ浮んで、すぐ消え去った君の姿にすぎないが、それだけに純粋
なBildとして、いまだに私の裡にこんなに鮮やかに残っているのかもしれない。——
(十一月十五日、信濃追分にて)