「古代感愛集」読後 堀辰雄  お寒くなりました しかしそれ以上に寒ざむしい世の中の変り果てた有様のようでございます ね ときどき東京に行って帰ってきた友人などに東京の話を聞くたびに、先生などいかがお暮ら しかと、心の痛いような思いをいたします そういう折など、いつぞや頂戴いたした御手づつの 「古代感愛集」を披《ひら》いては、そういう一切を超《こ》えられた、先生の揺《ゆる》ぎもなさらぬようなお姿を偲《しの》 んでは、何かと心を|擾《みだ》しがちな自分の気おくれを叱って居ります  こういう現在において、「古代感愛集」はますます私には何よりも得難い書物となりました  近在の村に住んでときおり私を訪ねてくるフランス文学をやっている友人にこの書物を見せま したら、ことにその長篇の詩に感動いたし、「ポオル・クロオデルのOdeのもっているような、 なんというか……『|偉大《グランドウル》さ』といったようなものがありますね」と言って居りました  クロォデルのOdeのもつ、あの汲めども汲めども尽きずに|滾々《こんこん》と|涌《わ》きあがってくるような詩 句の豊かさは、無限なるもの——「神」のうちにその源泉があるからでありましょうが、それと 等しいことが「古代感愛集」の諸篇のもつ神さびた感じ、その詩句の重量感、ことに長篇の詩の あふれるばかりに充実した感じなどに対しても言えるように思えます  そうしてそういうさまざまな感じが|相俟《あいま》って、私には、この書物が私たちの持ち得た唯一の宗 教的な詩集として貴重なものに思えさえいたします(「古代感愛集」の宗教的な感じの源泉を深く |究《きわ》めることは私たちに課せられた大きな問題のひとつとなることでしょう 少くとも私はこれか ら自分のすべき研究の一つの方向をそのほうへ向げて行く決心でいます)  「古びとの島」などの南の海のなかの小さな島にいまも残っている古代の姿のかそけさ、「|足柄《あしがら》 うた」などの|浪漫的《ろうまんてき》な|稀有《けう》な美しさ、また「幼き春」などの幼時思慕篇の鏡花のそれを思わせる ばかりのなつかしさ、——そういう諸篇のそれぞれの美しさに、読むたび。ことに、感動を|新《あら》たに いたしておりますが、なかんずく、「|乞丐相《こつがいそう》」のアイロニイのきびしい美しさのうちには、先生の 現在の深い|嘆息《たんそく》がきかれるようで、読むたびに、なんともいえず|惻々《そくそく》とした気もちになって参り ます また、私自身の現在の心境の|象徴《しようちよう》としては「なつぐさ」の小篇がことにありがたく、   |叢《くさむら》の古代日本のよろしさ   |鴨頭草《つきぐさ》の|繧《はなだ》深き|瞳《まみ》   たびらこの空色の小さき紋章  そういう|矯叢《きようそう》のなかに|見出《みいだ》される、古い日本のいじらしい美しさに心を|惹《ひ》かれては、そのあと に来る「おのれのゆゑ知らぬ気おくれを叱りて一挙に|薙《な》ぎ|仆《たふ》して火をかけぬ」という句にはっと させられます 私のうちにある、ただいたずらに古い小さなものをなつかしもうとする、心の傾 きへの、先生のお叱りのようにさえ思われます  御本のこと、いろいろ勝手なことを書いてしまいまして、お|赦《ゆる》し下さい 私はこの冬になって から、かえって元気になって来ましたが、まだ自分に甘えて、なんにも書いて居りません 早く いいものを書きたいと思っています しかし昔のように自分の気もちだけを一すじに歌えなくな りましたようです これからは、何か、もっと「自己のうちにある自己を超えた自己」のような ものを歌わなければならぬ、と考えて居ります  「古代感愛集」にある宗教的に|荘厳《そうごん》なものにこのように心を向けたがるのも、一つは、現在の 自分の心のうちのそういう|相剋《そうこく》のためかもわかりません  もう一方では、先生や柳田さんの民俗学研究の根本精神のようなものを、自分の書くものの上 にも生かして行きたいものだと考えて居ります  一つの「物語」が単なる一つの「物語」であるだけでなく、それが「人間性」についても、そ れと同時に「国民性」についても、深く教えるところのものであらせたいと思います そういう 古い|口碑《こうひ》などの|蘇生《そせい》のしかたなどで、このごろはイエエツやシングなどのアイルランド文学をこ とに|珍重《ちんちよう》いたし、少しずつ勉強し出しております  いろいろ先生の御教示を得たいことが一ぱいあるのでございますが、なかなかお目にかかれそ うもないので、残念でなりません  どうぞ御壮健でいらしって下さいませ    一月二十二日                       堀 辰雄  折口信夫様                                   (一九四六年)