人々に答ふ

正岡子規

 歌の事につきては諸君より種々御注意御忠告を(かたじけの)うし御厚意奉謝(しゃしたてまつり)候。なほまた(ある)諸君よりは御嘲笑(ごちょうしょう)御罵詈(ごばり)を辱うし誠に冥加(みょうが)至極に奉存(ぞんじたてまつり)候。早速御礼(おんれい)旁々御挨拶(ごあいさつ)可申上之(もうしあぐべきの)処、病気にかかり頃日来(けいじつらい)机に離れて横臥(おうが)致し居候ひしため延引(えんいん)致候。幾百年の間常に腐敗したる和歌の上にも、特に腐敗の甚しき時代あるが如く、われらの如き常病人(じょうびょうにん)も特に病気に(かか)る事有之(これあり)閉口之外無之(これなく)候。

 何より御答へ可申(もうすべき)かと惑ひ候へども思ひ出すままに一つづつ可申述(もうしのぶべく)候。三月十一日紙上に番外百中十首((まつ)山人(やまびと)投)として掲げある歌を、われらが変名にて掲げ候やの御尋ね有之候へども、右は(ことごと)く『柿園詠草(しえんえいそう)』中にある歌にてわれらの歌とは全く異り居候。『柿園詠草』中の歌を何人(なんぴと)が投じて、如何にして紙上にのせられたるかは(もと)よりわれらの知る所には無之候。さてまたこれらの歌がわれらの歌と相似たるやに評する人も有之候由承り侯に付、(かの)歌に対する愚見を述べてそのしからざるを明かに致したく存候。

朝風に若菜売る児の声すなり朱雀(すざく)(やなぎ)(まゆ)いそぐらむ

 此歌は十首中にては第一と存候。全体面白く候へども「眉いそぐらむ」の語(たくみ)に失する者と存候。眉いそぐといふ事、昔よりいふか否かは知らねども、何だが変な言葉なるが上に、此処にこの擬人的形容を用ゐるはよろしからず。あるいは若菜売る児に対して、柳眉(りゅうび)といひたる者にも候ふべけれど、さやうなシヤレのない方がかへつて趣深く聞え申候。4常に柳が浸になると申したく候。

暮れぬめり(すみれ)咲く野の薄月夜(うすづくよ)雲雀(ひばり)の声は中空(なかぞら)にして

 此歌(つたな)く候。「暮れぬめり」とありて「薄月夜」とあるは甚しき撞著(どうちゃく)と相見え候。「中空にして」の止まりも甚だ心得がたく、あるいは「暮れぬめり」に返る意にやとも思はるれど、さりとては余り拙くや侯べき。

行くも花かへるも花の中道を咲き散る限り行きかへり見む

 かくの如き歌はあるいは俗受けよろしかるべくや、われらはただ厭味(いやみ)たらだらに感ずるのみに候。咲き散る限りとは何の意と嘉らず、もし花の咲いたり散ったりする間といふ意にて長き時間を含む者とすれば八田の「うつせみの我世の限り見るぺきは」といひし類にて少しも実情らしき処なし、また時間に(あら)ずして花の中道の長さをいふものとすれば、言葉の巧を(ろう)したるのみにて何らの趣味も無之候。しかしこの歌は全体に厭味あれば一句を論ずるに及ぶまじく候。

桑とると霞わけこし里の児がえびらにかゝる夕ぐれの雨

 この歌さしたる難も無けれどまた何の趣も無之候。蚕飼(こがい)する時節は長閑(のどか)に感ぜらるる者なるに、此歌前半の長閑なるに似ず、後半は長閑に感ぜられず、これがために趣味少きにやと存候。えびらといふは如何なる物か知らねども、この歌にては桑の葉を()み入れる(かたみ)の類かと見ゆるが不審に存候。俊頼(としより)の歌に「山里のこやのえびらに()る月の影にも(まゆ)の筋は見えけり」とあるえびらは、家の中にある器具かと見え候へど、それを桑の葉入れにも用ゐ侯にや。識者の教を(わずら)はしたく候。

(さお)ふれし(いかだ)一瀬(ひとせ)過ぎながらなほ影なびく山吹の花
「棹ふれし筏」といふ言葉続きも「一瀬過ぎながら」の言葉続きもいと拙く覚え候。「ながら」といひて「なほ」と受けたるもうるさく、また「なびく」の語も「ゆらぐ」「助く」などに(あらた)め候方山吹に適切かと存候。此歌巧ならんとして言葉づかひ無理に相成候。
山里は()の花垣のひまをあらみしのび()もらす時鳥(ほととぎす)かな

 此の歌尋常めきたれどもわれらは厭味を聰じ候。此歌の作意は三四の句にあるべく、その三四が厭味を感ずる所に有之候。(かき)(ひま)があらいとて忍び()を漏らす訳は少しも無之、それを両者相関係するが如く言ひなすは言葉のシヤレと相見え申候。言葉のシヤレが行はるる処にはいつでも趣味(とぼ)しく候。(明治三十一年三月二十日)

  蚊遣火(かやりび)の煙にとざす草の(いお)を人しも訪はば水鶏(くいな)聞かせむ

 此歌句法とゝのはず、四五の句に至りて調子抜けが致し候。四の句「人も訪へかし」などいふが如き言葉つきに改めなば、少しは続きよかるべくやと存候。さるにても「水鶏聞かせむ」の句の俗なるはまた一段の事に候。

 水鶏聞くべくとか何とか改め候はんには、少し俗気少かるべく候へども、さりとて善き歌にも成り不申候。

  一むらの杉の(こずえ)に山見えて月よりひゞく滝の音かな

 上三句は尋常の景尋常の語なれども、印象明瞭なる処かへつて他の巧を弄し(ことば)をひねくりたる歌にまさり居候。(おし)いかな四五の句上に続き不申候。上三句の景より言へば山は杉林より(へだた)りたる者の如く相見え、左迄近きとは覚えぬに、滝の音とあるを見れば極めて近き山ならざるべからず、ここにおいて前後の撞著を来し申候。「月よりひゞく」などいふ語この作者の得意の所なるべけれど多少の厭味は免れず候。此歌の作意は滝は見えずして音ばかり聞ゆる故、月中に響あるが如くいひなしたる者なるべけれど、それがかへつて厭味を生ずる種に相成候。もしあからさまに見ゆる滝の下に立ちτ見あげたる時、滝の上に月ありとせんか、この場合に「月より響く」などやうの形容を用ふるは厭味少がるべく候。

  五百重山(いおえやま)霧深からし菅笠(すげがさ)のしづくも落つる有明の月

 此歌の意(あきらか)ならず、第二句想像の語とすれば、旅人などの笠の(しずく)を見て山は霧深からんといへるにや、さるにては言葉少し足らぬやうに存候。旅人の菅笠とでも言はざれば三句突然に出て面白がらず候。「雫落つる」の「も」の字も意味をなさず、餘儀なき「も」とや申し侯べき。(十首中此歌一首は『柿園詠草』中になきやうに覚え侯、如何(いかが)の訳にや)

  雲かかるわたのみながにあら(しお)を雨とふらせて(くじら)浮べり
「雨とふらせて」の句此歌の骨子にしてしかも此歌の瑕瑾(かきん)と存候。箇様(かよう)な場合には「ふらせる」などいふやうな「せしむる」的の語を用ふれば勢を損じて不面白(おもしろからず)候。むしろ「鯨の()いた汐が雨となつた」と言ひはなす方よろしがるべく候。この人往々この種の句を(はさ)んで雄壮なる歌をだいなしにする(くせ)有之候。「笠置山(かさぎやま)あすの時雨(しぐれ)をさきだてて乱るる雲に嵐吹くなり」の如きも四五の句極めて面白しと思ふに二三の句異様の言葉づかひなるがため興味索然と致候。かつ鯨の歌の第一句「雲かかる」の五字極めて拙く候。かく言ひては「雨とふらせて」と照応するためにこの蛇足の語を加へたる痕跡(こんせき)歴々として余り見つともなく候。かつ「海の真中に雲がかかる」といふことは聞えぬ言棄つづきと存候。渺々(びょうびょう)たる空間、渺々たる海上にある雲を「かかる」とはいふべからず候。()しそれも許して置いた処で「雲かゝる」といへば一片の雲と見ゆる処いと可笑(おか)しく候。試みに此歌の景を想像可被成(なさるべく)候。海は漫々として広く空は一面に晴れわたりたる処に、海の真中に鯨(しお)を噴けば、その鯨の真上ばかりに一塊(いっかい)の雲ある処を描き出だして、それが天然の景と見え可申候や。われらには人間がこしらへた雲とよりは相見え不申候。いつそ曇はない方がよろしく、もしくは雲の(おお)ひひろごりたる処を()むがよろしく候。(三月二十二日)

 前に挙げたる十首の歌を意味はそのままにて、言葉つきを全く改めて投書したる人(下総(しもうさ)凡調子(ぼんちょうし))有之候。この人の直し方は、極めて尋常に直したる者なれば、われらが非難したる言葉つづきの無理と厭味とを免れたれど、多くは平凡に流れ申候。その二三を挙げんに

  おもしろく雲雀(ひばり)さひづる中空に月影見えて日は暮れにけり

 言葉つづきは安らかになりたれど善き歌ともならず。

  隅田川堤の桜咲き匂ふ花の下道行きかへり見む

 到底厭味を脱却する(あた)はずと相見え申候。

  山里の卯の花垣の夕月夜しのび()もらす時鳥(ほととぎす)かな

 平凡になりたれどかへつて原作の細工を施したるにまされりと存候。

  五百重山朝霧深み旅人の小笠の(しずく)間なくちるなり

 「族人の」の五字を加へたるは賛成に候。結末なほ飽き足らぬ心地(ここち)致候。

  青海原(あおうなばら)沖さけ見ればあらしほを空にいぶきて鯨浮べり

「雨とふらせて」「雲かかる」の二句を除きたるは至極賛成なるが、これも結末に今一歩と思ふ所なきにもあらず候。さはいへど此の歌一番の出来かと存候。

 (ある)人(八王子三田村玄龍子(みたむらげんりゅうし)(いわ)く強き歌には強き調を用ゐ弱き歌には弱き調をを用うといふもさる事ながら、『古今集』の如く同一の調にて千態万状を詠みたるもまた面白しと存候。云々。

 答へて曰く、御説一理なきにもあらず、されどそは『古今集』の如き文字の巧を弄したる俗調の上にはいふべからずと存候。歌にていはば万葉調、俳句にていはば曠野(あらの)調、詩にていはば『詩経(しきょう)』とか何とかいふ、(ごく)古き調の上において始めてしか申すべきにやと存候。極めて古雅なる調を以て詠む時は、雄壮なる事もさほどに雄壮に聞えず、優美なる事もさほどに優美に聞えず侯へども、その代り(すべ)ての物を古雅化して()の俗気を帯びざる処に一種の面白みあり、故に万葉詞を以て凡百の物事を詠まんとならば大体において賛成致候。さりながら古今調を以て詠まんとならば大不賛成に候。(こと)に『古今集』を目して千態万状を詠みある者かの如くいはるるは心得ず候。われらの目より見れば『古今集』は一態一状を詠みたる者かと怪しまるるほどに候。

 或人(同)月く蕪村派(ぶそんは)の俳句集と盛唐(せいとう)の詩集とを並べたるは不倫と存候。云々。

 答へて曰く、この不倫とは唐詩を以て(まさ)れりとなす者と存候。さて如何にして不倫とは言はるるやらん。もし詩と俳句とは詩形に長短あり、従つて規模に大小あり、故に比すべからずとならば異論も有之候へども、技倆の上に大差ありとの事ならば御同意難致(いたしがたく)候。李杜王孟(りとおうもう)の如き詩人を、蕪村時代の日本に生れて俳句を作らしめたりとも、彼らが蕪村より(はるか)に立ちまさりたる技倆ありとも信じがたく、蕪村をして盛唐に生れしめなば、一()(ぽこ)詩人にて終りたらんとも信じがたく候。乍失敬(しっけいながら)俳句を十分に研究せずして、蕪村の句も月並宗匠の句も大同小異位に思はるるには無之候()。歌よみが歌を天下第一の如く思ふと同じく、詩人が詩を天下第一の如く思ふも珍しき事ほはあらず。なるべく公平の御論(ごろん)を願はしく候。或人自ら屑屋(くずや)と名のり「屑籠(くずかご)の中よりふと(たけ)里人(さとびと)の歌論を見つけ出してこれを読むにイヤハヤ御高論…」などといふやうな調子にて、長々とひやかされたる処、誡にひやかしに妙を得たる人もある者かなと感服致し候ひしに、何がさて最後に歌論中のただ一箇処に対する長々しき攻撃有之、しかも屁の如き攻撃に勢も何も抜け申候。その要領をいへば「躬恒(みつね)の心あてに折らばや折らむの歌を、竹の里人は誤解せり。竹の里人は知るまいが、白菊に露置けば赤くなるものぞ。躬恒はその赤くなりていづれを白菊とも分ちかねたる所を詠めるなり。物知らぬ(やつ)が歌など解するはかたはらいたし」などといふにあり、誠に以て驚き入りたる解釈に候。われら庭前の白菊も年々赤くなり、歌にも白菊の紫にうつろふよし詠めれば白菊は赤くなるものと予ねて承知致し居候処、屑屋先生の今更高慢に説明せらるるを見れば、遼東(りょうとう)白頭(はくとう)(いのこ)を珍しがりたる如く、屑屋先生は白菊を余り御覧なされぬ者と相見え候。さてまた「置きまどはせる」といふ語が色の変つた意に取れ可申哉。またその色の変つた菊を、心あてに折らばやなどと仰山(ぎょうさん)に出掛けて躬恒が苦心して折らんとしたるにや、笑止とも何とも申様がなく候。如何に理窟(ずき)の躬恒でも斯様(かよう)な説を聞いたらさぞかし困り可申候。屑屋が躬恒の弁護などするは贔屓(ひいき)の引倒しにや候べき。(三月二十四日)

 千葉稲城子(ちばとうじょうし)に答へて曰く、撞著(どうちゃく)と誤解の事なほ誤解あるが如し。われらが撞著といひしは前に「客観的景色に重きを措き」とありて後に「客観的にのみ」とありしをいふなり。即ち「重きを措き」は「のみ」と断言したる後の言と意味同じからざるをいふ。

「国歌さへ知らぬ文学者」とは暗にわれらを指したる者か、われら実に国歌を知らず、慚愧(ざんき)()へず。されどわれらをして国歌を知らしめざる者、半ばわれらの罪にして半ば国歌の罪なりと信ず。何となればわれら国歌を研究せんとして歌集を(ひもと)きしことしばしばなるも、何時(いつ)も四五枚位読みては最早(もはや)眠気さして読み得ぬまでに彼らはつまらぬなり。(およ)そ文学的の書は読みはじむれば知らず覚えず読み進むものなるに、独り歌なる者に至りては義務的に読まんとしてさへ、容易に説みがたき者、その意味少きと変化なきとによらずんばあらず。いはんや国歌を知らぬ者われらのみにあらず、いはゆる歌よみなる者も多くは国歌を知らずと思はる。彼らにしてもし国歌を知る者ならば、国歌の陳腐を感ぜざる訳なければなり。彼らは三代集と近世歌人中の一二の家集位を読みて、学者と心得をると見えたり。歌よみに学問させたくは思へども、歌以外の学問や外国の文学(など)を勧めたとて効力もあるまじければ、せめては日本の歌集だけ通読してもらひたき者なり。われらの如く頭から歌を陳腐に思ふ者は、幾冊読みてもますます陳腐と頭痛を感ずるのみにて、何の結果もなけれど、(かの)陳腐な歌を作りて自ら喜ぶ歌よみをして、『古今集』以下の勅撰集(ちょくせんしゅう)を始め、代々の歌集をつづけさまに読ましめば、まさかに陳腐を感ぜざるを得ざるべし。

 理窟と感情との(ひそか)に相関係するは前にもいへり、今更繰り返すを用ゐず。ただ「歌にあらず」といふ事につきて一言せん。(もと)より歌と歌ならざる者との境界は画然と分れたる者に非ざれば、論理的の厳格なる意味を以て「これは歌なり」「これは歌にあらず」と断定するは、()非歌(ひか)中間の歌にありては最も(かた)し。(こと)に普遍に歌を評する場合にありては「歌にあらず」の語を誇張的に用うること多し。即ち悪歌を指して()かいふなり。なほ悪人を指して「人でなし」などといふが如し。故にこの両者を区別するを要す。またわれらが理窟は歌にあらずといふも大体の論にして、一字一語の理窟めきたる者ありとてそれを直ちに「歌にあらず」(厳格なる意味の)といふにあらず。もし厳格にいはば(ごう)も理窟なき者は歌なり、全く理窟ばかりなる者は歌にあらずと断言すべし。されどその中間の者にありては、何処(どこ)までを歌とし、何処よりを歌とせずと、その限界を議論的に説明するに由なし。実地に(ある)製作をとらへて感情にてこれを判断するあるのみ。試みにこの間の事を言ひ得るだけ言はば、一分の理窟あれば一分だけ歌ならざる方に近づき、二分の理窟あれば二分だけ歌ならざる方に近づくとでもいはんのみ。しかしそれすら極端に推論せられては過誤を生ずべし。例へば一分の理窟ある製作は、()の理窟なき製作に比して、一分だけ劣れりなどと推論せらるるが如し。大体においてはこの推論に(あやまり)なけれども、実地に当りて見れば必ずや多少の除外例を生ぜん。(ごく)簡単の理窟を含む歌にて善しと思ふ者あり、些の理窟を含まざる歌にて(わろ)しと思ふ者あるは事実なればなり。もし理窟といふ語を広き意味に解すれば解するほどこの除外例は多くなる道理なり。(理窟の意義に広狭ある事は「あきまろに答ふ」る文中にいへり)「我身一つの秋にはあらねど」の歌下二句には理窟を含めり。されど此歌を以て(ただち)に「歌にあらず」(厳格なる意味の)とはなさず。(ただし)此歌が幾分か歌ならざる方に近づきをるは論を()たず。

 われらのいはゆる理窟に、理窟なりや否やの(うたがい)ありとの事なれども、理窟なりや否やは知識上の事なれば疑問となるまでの価値なし。(文学として許すべき理窟なりや否やこそ常に疑問となれ)しかれどもわれらの用うる「理窟」なる語が適当なりとか不適当なりとかの疑はあるべし。それならば文字は如何樣に変へてもよろし。ただ語を以て意を害する(なか)れ。 (三月二十九日)

 文学の標準といふ事につきての論要領を得ず。「科学的定義を完全し」云々の語あれども、文学の標準に必ずしも科学的定義を附するに及ばず。また完全なる標準とかいふ詞あれども、完全なる標準と不完全なる標準とは何に因って区別するか。子は文学の標準なる語を全く誤解せり。また「英仏独の文学者すらも」云々の語あるは日本贔屓(びいき)の人の言葉とも覚えず。子は英仏独の学者が()し得ざりし事を日本人は為し得ずとするが如し。われら(あえ)て自ら(ほこ)るに非ざれどもそれほどまでに西人を崇拝しをらず、それほどまでに日本人を軽蔑しをらず。誤解する(なか)れ、われらは子の如き西人崇拝にあらず。

 文学の標準とわれらの言ひしは何もむづかしき事にあらず。詩文を見、絵画彫刻を見て美なり美ならずと評するは、その評者の胸中に「文学美術の標準」あり、それに因りて評するなり。われらの言ひし文学の標準といふ者これのみ。即ち英仏独の文学者にもそれぞれの標準ありしなるべく、支那の文学者にもまたそれぞれの標準ありしなるべし。子にも標準あるべし。われらにも標準あるなり。ただ古今東西に通ずる標準と言ひしを以て誤解を来たせるが如し。文学の標準といへば古今東西に通ずる事は言はでも善かりしなり。既に標準といふ、(いにしえ)の歌を評すると今の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず、東洋の歌を評すると西洋の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず。古今東西に通ずるとはこの事なり。千人万人の標準が一定せりなどといふにあらず。

 西洋や支那の「文学」といふ語の定義などを並べたるは全く無用に属す。何となれば古人のいはゆる文、文学なる者はわれらのいはゆる文学とその程度区域において相違ある者多きのみならず、全く意味を異にする者さへ少からず。支那にて文を道の意に用うるが如きこれなり。その根底において意味の異なる文の定義などを掲げて、駁撃(ばくげき)せんとするは見当違ひたるを免れず。われらのいはゆる文学は理窟の外に立つ者にて道を(さい)する者などに非ざるなり。われらのいはゆる文学はわれらがしばしば説明するが如きをいふなり。もしこれも文学といふ語が当らぬとならば美文となり言ふべし。字の定義などを説くは枝葉に(わた)るの(きらい)あればここに説かず。

 文学は実用と娯楽とを兼ねたりとの説(もと)よりわれらの説と異なり。(実用の語は普通の解釈に従ふ)理学にして文学に属すべきものありといふ事ならば、子のいはゆる文学はわれらのいはゆる文学と異なる事いよいよ明かなり。実用即ち教訓を()るるといふに至りて益々筋路の異なるを見る。普通の場合にては教訓的の者は文学の範囲外にあり。されどかかる者をも文学といふとならば子の勝手なり。他人これを如何(いかん)ともする(あた)はず。ただわれらのいふ文学と性質を異にすといふことを明言して置くに(とど)めん。

「優艶天地を(うご)かす」といふ語()と変な語なれども、その意を察するに優美なる事をいふならん。支那の語にて優美なる詩が天地を撼かすとはいふまじと思へど、それも言葉(とが)めに類すれば言はず。ただ特に艶とか優とかいふ字をここに出だしたるは、かりそめの思ひつきなるぺきも、和歌の弊風を自ら現したる者なり。歌よみは歌を優美に詠めよといふ、甚だしきは優美ならざるは歌にあらずとまでいふ者もあり。これ歌の腐敗したる一原因なり。われらをして言はしめば歌を詠むには優美にも詠め、雄壮にも詠め、古雅にも詠め、奇警にも詠め、荘重(そうちょう)にも詠め、輕快にも詠めといはんとす。ここに用ゐし詞は深き意味なしとするも、歌が一股に優とか艶とかいふことを離るる能はざりしは事実なり。「国歌の人を鼓舞して忠誠を貫かしめ人を劇奨(げきしょう)して孝貞(こうてい)()くさしめ」云々「(あに)(ただ)に花を賞し月を()で春霞に(おもい)()り風鳥に心を傾くる」云々の数行、文章も変だが議論も変なり。和歌が人を鼓舞し云々したる事もたまにはありしかも知らず、されどそは文学に多くあることにあらず。まして和歌の如く無気力なる者においてありさうも無き事なり。「無味の感念」などいふ語奇妙な語にしてちよつと解しかぬれど、何だか花月を愛するを(そし)りたる者の如し。われらは花月を賞する上には趣味多し教訓的の事には趣味(すくな)しといふ説なればとにかく大反対なり。(四月一日)

「国歌は国歌として独立し」などとは訳の分らぬ言葉なり。「俳句は俳句として独立し」ともいふべきにあらずや。独立とは他国文学の影響を受けぬといふことか知らねど、和歌に漢語を用うるは前にも言へるが如し。思想の上にも多少漢学仏教の影響を受けたるは事実なり。それでもなお日本固有の処があるとの意味かも知れねど、その固有の処が極めて価値なき者ならばなかなかにはづかしくて独立などといへた義理に非ざるべし。維新前後の歌などに残つてゐる日本固有の部分は、その価値なき者ならんと思ふなり。「文人読者をして新思想を抱かしめ、知らず識らず旧思想を嫌悪(けんお)否定するに至らしむるの用意かるべからず」とは手段の緩急(かんきゅう)をいへるなり。われらは必ずしも「知らず識らず」的の緩手段をのみ取らんとは思はず。知りて改むる人もあるべしと信ずるを以てなり。

 外国の文学思想を輸入すべしといふ事、外国の文学を剽窃(ひょうせつ)せよといふにあらず。剽窃にあらずして輸入する事、歌人の腕次第なり。外国文学より得たる思想にても、日本歌人の脳中に入りて、それが歌となりて再び出づる時は、その思想は日本化せられをらざるべからず。既に日本化せられたる者は日本の思想なり。天真の桜花の、人造の薔薇(薔薇)のといふ譬喩(ひゆ)はかたはらいたし。桜花をのみ無上にありがたがりて、外の花の美を知らぬ人とは、共に美術文学を語りがたし。

 (ある)人(秋田県樺園子(かえんし))曰く、万葉の歌は十中八、九まで世道人心に関係あれば善し。古今以後の歌は(いたずら)に月を賞し花を(もてあそ)ぶ。故に取らず。云々。

 答へて曰くかくの如き事は前にも度々(たびたび)言ひたば今更繰り返すもと思へどなほ少しいふべし。歌は世道人心に関係ある故善きにあらず。世道人心に関する歌にて善きもあり(あし)きもあり。歌は花月を(もてあそ)びたるがために悪きにあらず。花月を弄びたる歌にて善きも悪きもありり。万葉の中には「田子の浦ゆうちいでて見れば真白にぞ不尽(ふじ)高嶺(たかね)に雪はふりける」「わかの浦に(しお)満ちくれば(かた)をなみ蘆辺(あしべ)をさしてたづ鳴きわたる」などといふ歌ありて、人も名歌とし、われらも()か思へり。されどこれらは世道人心に何らの関係もなきなり。善を勧め悪を()らし、人を教へ人を導くは道歌に()く者あるまじ。されど道歌なる者は総じてつまらぬ者なり。

 また『万葉集』を評して「歌は国家治教の道なるにより、当時の人は思のままを述べたる者なり」などといへるは一文章の内既に撞著(どうちゃく)あり。国家治教とかを目的として歌詠まんには、思のままには詠まれぬ訳なり。思のままに歌詠みたらんには、国家治教などいへる事に関係なき歌も出来る訳なり。実にや万葉時代の人は、思のままを詠みたれば、国家治教などとは似てもつかぬ歌を多く詠みいでたるなり。

 一般にいへば、歌は倫理的善悪の外に立つ処に妙味はあるなり。俗世間の渦巻く(ちり)を雲の上で見てをる処に妙味はあるなり。倫理は(いたずら)に善を勧め徒に悪を懲らす(かたわら)にありて、歌は善とも悪ともいはず、ただかくの如く愉快にかくの如く平和なる場所あることを黙示するなり。世間は名利に(はし)煩悩(ぼんのう)に苦しめられ、掌大(しょうだい)の土地の上に気違ひの如く狂ひまはるを、歌人は(ひと)りこれを余所(よそ)に見て花に遊び月に(たわむ)れ、無限の天地に清浄の空気を吸ひをるなり。(かの)俗人だちが歌を善悪の間、俗界の中に求むるはそもそも誤れり。(四月二日)

「もののふの八十氏川(やそうじがわ)網代木(あじろぎ)にいざよふ波のゆくへ知らずも」の歌を前に八田などの歌と共に挙げてかにかくと(あげつら)ひしかば、八田などの歌と同じさまに(そし)りたりと思はれたるにや、これを難ぜらるる人多し。此歌を八田などの歌と同じ様に見たるにあらざることはその時の文にも記し置きたれど、言葉足らざれば意通ぜざりけん。故に今改めて(かの)歌を例に引きたる訳を申すべし。

 世の歌よみに『万葉集』を崇拝する人あり、『古今集』を崇拝する人あり。いづれも一得一失はあるべけれど、大体の上よりはわれらは『万葉集』崇拝の方に賛成するなり。しかし『万葉集』崇拝家なる者は、多く万葉の区域(否、むしろ万葉中の(ある)部分)を固守して一歩もその外に越えざるを以て、歌に入るべき事物材料極めて少く、ために吾人(ごじん)が感得する諸種の美を現すこと(あた)はず。これわれらが万葉崇拝家に不満を抱く所なり。故に万葉崇拝家が常に手本として示す所の「もののふの」の歌を取りてことさらに云々したるなり。

 美に簡単なる美あり、複雑なる美あり。世の文学者あるいは複雑のみを以て美となす。われら取らず。人あるいはわれらを以て複雑の美をのみ好むと()す。これ誤解なり。われらは簡単の美をも好み複雑の美をも好む。しかれども簡単の美を詠みたる歌は、複雑の美を詠みたる歌の如く、多く出来ざる事は数において(あきらか)なり。例へばここに十箇の材科ありとせんに、これを一首に一箇づつ用ゐて歌を作りなば十首を得るのみなれど、二箇づつを用うれば九十首を得べく、三箇づつを用うれば九百首を得べく、四箇づつを用うれば九千首を得べき割合なり。かつ簡単なる美には趣味の少き物を詠むに不可なれども、複雑なる者には趣味の少き物も、趣味多き物と配合して用ゐ得る場合多し。また趣味のなき者とある者とを、ことさらに並べて反映せしむる事もあるべし。かたがた以て複雑的の者は多く出来得べく、簡単的の者は多く出来得べからざる理なり。しかるに和歌なる者は、千年来常に簡単の美をのみ現さんと務めたるを以て、(つい)に重複また重複、陳腐また陳腐となりをはりたり。(これ歌の陳腐に流れたる一大原因なり)

「もののふの」の歌たげ高く詠まれたる由は前にもいへり。われらは人丸集(ひとまるしゅう)中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり、『万葉集』中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり、日本文学の中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり。しかれども此歌は趣向の(もっとも)簡単なる者なり、簡単に傾きたる和歌の中にても(こと)に簡単なる者なり。そのたけ高きもこの簡単なる処はある者なれど、さてこれを手本として歌を作らんには、さらでも陳腐たる歌のいよいよ陳腐ならん事を恐るるなり。此歌の如き調に(なら)ひたるは後世にありては恋歌に最も多し。
  ほととぎす鳴くやさ月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな
  吉野川いは波高く行く水のはやくぞ人を思ひそめてし
  春日野(かすがぬ)の雪間を分けて()ひ出づる草のはつかに見えし君がも

の如きを(はじめ)として、どの集にもこの集にも、かくの如き詠み方の恋歌は沢山に見ゆる故に、われらが見ると同じ歌を幾度も繰返して出したがと思ふばかりに陳腐とはなれり。しかしここに注意し置きたきは、われらが今論じつつあるは陳腐と否との論にして、雅俗の論にあらずといふ事なり。もし雅俗の点よりいはばこの種の歌は歌の中の雅なる者に属し、殊に恋歌の中の雅なる者に属す。恋歌には俗なる者、理窟ツぽき者多き中に、この種の恋歌は俗を脱し理窟を離る、右に挙げたる三首の如きはむしろ恋歌中の佳作なるべし。されど陳腐と否との点よりいはば(『古今集』時代即ち右に挙げたる歌の如きはいまだ陳腐ならず)後世に至るに従ひ、この種の歌ほど陳腐なるはあらず。われらの歌を評するには、第一に俗なる者は俗としてこれを(しりぞ)け、第二に俗ならざる者の中にても、陳腐なる者は陳腐としてこれを斥く。ここに論ずる者陳腐の一点にあり。(名所としての「もののふの」の歌は次に論ぜん)(四月四日)

「もののふの八十氏川(やそうじがわ)網代木(あじろぎ)に」の歌に、名所の特色を現さずといふ事につきて、(ある)人弁じて曰く、網代は宇治田上(うじたがみ)に限りたる者なれば特色なきに非ずと、網代が宇治の特色なることはわれらも知れり。されど此歌は宇治川も網代木も、皆宇治川網代木その物を現はさんとの意にはあらで、単に下二句の感慨を引き出すための道具に過ぎざれば、名所の歌の手本にすべきに非ずといへるなり。言はば「山川のゐくひに水かる白波のゆくへも知らぬ」といひても、隅田川の百本枕といひても善き様なる処なれば、此歌を以て宇治川を詠じたる者とはなしがたし。

 或人曰く、この歌の初三句意味なしとはいふべからず、「もののふの」とある故下二句に利くなりと。それはさる事もあるべし。さりながら「もののふの八十氏」といふ意味の語、初になくともなほ此歌は善く聞ゆるにやと覚ゆ。如何(いかが)や。

 或人曰く、名所の特色いちじるく現れをらずとも、その名所を過ぎて詠みたる歌ならば差支(さしつかえ)なかるべしと。この説には異論なし。ただ名所の特色なき歌を、名所の歌の手本として人に教ふるの不可なるをいへるなり。この「もののふの」の歌の如きは名所の歌としてはむしろ変例に属す。(ちな)みにいふ、名所といふ事については、古来歌よみは大なる謬見(びゅうけん)を抱きゐたり。昔の歌よみは、いはゆる名所なる者を一度も見ずしていい加減に歌に詠み込む者なれば、その名所の歌といふも多くはその地の特色を現したる者に非ず、ただ古歌に()りてどこそこは千鳥の名所なり、どこそこは山吹の名所なりといふに過ぎず。さればその地に千鳥が()かずとも、その地に山吹が咲かずとも、(もと)よりそれらに頓著あるべくもあらず、甚しきはあるかなきか分らぬやうな名所を、平気に用ゐて澄ましてゐたるのんきさ加減は驚き入りたる次第といふべし。(もっと)も主観的の歌の引合に名所を用うるは知らぬ処にても差支なかるべけれど、いやしくも客観的に詠む場合、即ち景色を詠む場合には、その地を知らざれば到底善き歌にはなるまじ。あるいは古歌古書に拠り、あるいは人伝(ひとづて)に聞き、あるいは絵画写眞にてその地の大概を知りたる後、これを歌に詠む事はなきにあらねど、それすら常にする事にあらず。それを京都の外一歩も踏み出さぬ公卿(くげ)たちが、歌人は()ながらに名所を知るなどと称して、名所の歌を詠むに至りては乱暴もまた極まれり。かくの如きは古今以後和歌が堂上(どうじょう)にのみ行はれたる弊にして、和歌が堂上に(さかん)なりし一事は、名所の歌のみならず、(すべ)ての歌を腐敗せしむる一原因とはなれり。されどこは公卿の罪にあらずしてむしろ在野の人の罪なり。在満(ありまろ)らが和歌は堂上の専有物に非ずと大呼するまでは、在野の歌よみは皆堂上方に屈伏して自分を軽蔑しゐたりしなり。真淵・在満など出でてより後、和歌の権は公卿の手を離れたるも、その弊習はなほ全くこれを払ひ去る能はず。蒿蹊(こうけい)が『勝地吐懐篇(しょうちとかいへん)』の凡例(はんれい)の下に「はた地理は知らでもよみうたにさはりなしといふは世の常なれど、たとへば或る名所集辛崎(からさき)の条下に、朝妻(あさづま)読合(よみあわせ)とばかりかけるをみて、いとまぢかき所のやうに読みし人あり、辛崎は比叡(ひえい)の東阪本にて志賀郡、浅妻は筑間(つくま)に隣りて坂田郡か、湖を中に隔てあはひ十里余やあらん」云々と書けるは幾分が空想的名所歌の弊を看破したるには相違なけれど、さりとて名所を知るはこれらの誤謬(ごびゅう)なからしめんがためのみにはあらざるべし。誤謬なしとて特色なければ名所の歌にはあらじ。

 付けていふ、前稿に歌の数を計算する処に錯列法(さくれつほう)を用ゐしはわれらの考へ誤りたるなり。改めて順列法に因りたる計算を記さんに、二箇づつを用ゐたる歌の数は四十五、三箇づつを用うれば百五十、四箇づつを用うれば三百七十五となるなり。(四月七日)

 (ある)人曰く、子の歌は子の歌にてやるが善けれど一々古歌を打ち(こわ)すは不服なり。云々。

 答へて曰く、「旧思想を破壊し尽し」など前に言ひし故、あるいは誤解を来せしかも知らず。この旧思想といふは『古今集』以後今日までに行はるる理息ツぽき思想、陳腐なる趣向などを指したるにて、(すべ)ての古歌の想を含みたるにあらず。われらが作る所の歌は(もと)より歌の一部分と見てもよろしく、半部分と見てもよろしく、これらの外に万葉調の歌にて善き者も出来(でく)べく、古今調の歌にて善き者も出来べく、()た古人の調にもあらず、われらの調にもあらざる一種の新調にて善き歌も出来べく、決してわれらの歌に非ざれば歌に非ずなどといふ狭い量見は少しも持たず。しかし古人の歌でも名家の作でも理窟ツぽき思想、陳腐なる趣向はあくまで非難を試みるべし。

 或人曰く、古来、歌といひ来りたるは子の作る所の如き者に非ず。されば子の作る所は一種特別の者なれば、歌といはずに、何とか外の名を用ゐては如何。云々、。

 答へて曰く、面白き事を承る者かな。われらは歌といふ語を拝借してもよろしからんとの考にて、歌と言ひ来りたるも、それが()しとならば如何にも名づけ給はるべし。俳諧歌となりと、狂歌となりと、味噌(みそ)となりと、(くそ)となりと思ふやうに名づけられて苦しからず。われらは名称などにかかはらざるなり。されど言葉の遊びを主とする『古今集』の誹諧歌と、趣味を重んずるわれらの作とは、根底において同じからざるを忘れたまふな。地ぐちシヤレを喜ぶいはゆる狂歌と、地ぐちシヤレを擯斥(ひんせき)するわれらの作と、立脚地を異にする事を忘れたまふな。それを承知の上でなら、何とでも名づけ給はるべし。

 或人曰く、われわれが梅が()を鼻に感ずる上は、それを歌に詠まれぬ訳はあるまじ。云々。

 答へて曰く、固より梅が香を歌に詠まれぬといふ訳は少しもなけれど、余り陳腐なる歌多き故、前に戯言(ざれごと)を放ちたるなり。趣味あるやうに、陳腐ならぬやうに詠まば、梅が香も好題目なるべし。

 或人曰く、漢語にても俗語にても、構はず用うる事になれば、無学なる者が、飛んでもない歌をうなり出すやうな弊害を生ぜざるか。

 答へて曰く、弊害までを考へらるるはよほど親切な考なれども、われらはそんな事を考へずとも善かるべしと思ふ。弊害は固より起るべし。(わずか)に一ヶ月を過ぎたる今日にてすら、飛んでもない見当違ひの歌は、いくらもわれらの几辺(きへん)に飛び来るを見る。されど弊害は何処(どこ)にもある事なり。従来の如く歌を詠むには、多少古語を学ばざるべからざる時代においては如何。歌よみは文法だの語格だの詠み方だのと、から威張に威張り、ひた(こだわ)りに拘りて、無趣味なる陳腐なる歌のみを作りしにあらずや。漢語や俗語を用ゐて、それで善き歌を作り得べしとの見込あらば、何処までもそれを用うることを勧むるが当然ならん。飛んでもない歌が出て来たらば、飛んでもない歌として(しりぞ)けんのみ。

 或人曰く、真淵を評して存外万葉の分らぬ、などとは片はら痛し。万葉を崇拝しても万葉を模せざる所が、真淵の真淵たる所以(ゆえん)なり。云々。

 答へて曰く、これも贔屓(ひいき)の引き倒しには非ざるか。真淵が万葉以外に一派を立てた(一派といひ得べきか否か知らず)のはえらしとするも、その一派なる者が万葉より劣りたる者ならんには、何の取得(とりえ)かあるべき。われらは真淵の歌は万葉に劣れりと信ず。むしろ万葉を模倣したらば()ちつと善き歌を得たらんかと思ふなり。故に彼は万葉の味を解せぬかと疑ひしなり。右は短歌の上なれど、長歌に至りては真淵は万葉を模したり。従ってその値打短歌の上にありとわれらは思ふ。難者の如きは真淵の長歌を以て短歌に劣れりとなすにやあらん。しからばわれらとは全く見様を異にするなり。(四月十二日)。

 (ある)人(玄竜子)曰く、盛唐の詩集と蕪村派の句集とを並べいふことの不倫と申したるは、勝劣の心にはこれなく、につかはしからず類せずなむとの意にて、比較その当を得ざるなり。詩形とやらむ、規模とやらむ、技倆とやらむを云々するに非ず(略)おのれは晩唐諸家の文学に近きやと朧気(おぼろげ)ながら見受け申候。不倫と申すこと、要は蕪村一人の(じゅう)を盛唐幾多の作家と比擬(ひぎ)すること、及び晩唐の方にはかへつて比擬すべき作家あらむと思ひ、云々。

 答へて曰く、われらは蕪村の句を以て盛唐諸家の什に似たりといひし事なし。「蕉村俳句集か盛唐の詩集か読ませたく」といひしのみ。かくいひし意は、歌の無趣味にして字句のたるみたる弊を救はんには、蕪村派の俳句集を読むが善かるべしとの考にて、特に蕪村派の俳句を挙げたるは、その最も趣に富み字句しまりをる点において、他派の俳句に(まさ)るを以てなり。その盛唐の詩集といひたるも、またその趣味に富み字句しまりをるがためなり。されど蕪村派の俳句の趣味と、盛唐の詩の趣味と同じといふにはあらず、蕪村派の俳句のしまり工合(ぐあい)と、盛唐の詩のしまり工合と同じといふには非ざるなり。また蕪村の俳句はむしろ晩唐に類似を見るとの説も当らず。蕪村と似たる詩人を求むるに、(ほとん)ど似よりたる者を見ず。もし蕪村時代の俳句界に似たる者を求むれば、清初(しんしょ)の詩界最もこれに近かるべし。諸家輩出せし処、詩想の精細になり婉麗(えんれい)になりながら、俗に()ちざりし処などやや相似たり。されど蕪村を以て清初の誰に比すべきかと問はば、似たる者を見出だす能はず。

 或人(稲城子)曰く、詩聖ホーマーの如きも単に美を愛せりとするか、美にして善なるものを愛せしにあらざるか。云々。

 答へて曰く、美にして善なるも善し。美にして善悪の外に立ちたるも善し。われらはホーマーの詩を知らず、果してホーマーの詩は終始「善」を離れざるか。ホーマーの詩「善」を離れずとするも、われらはホーマーに(なら)はんと思はず、われらは善悪の外に美を認むればなり。われらはブラトーが真善美とやらを説いたからとて、それに従はざるべからずとは思はず。われらの美と信ずる所は、ホーマーもブラトーも如何(いかん)ともする能はざるなり。

 附けていふ。これらの事を厳密に論ぜんとならば、少くとも「善」の字の定義を定めざるべからず。もし天下の事物を(ことごと)く善悪の二つに分つといふが如き論ならば格別、普通に用うるが如く、善悪は人間の行為を評するの語とせば、天然物は善悪の外に立つ者なり。天然物既に善悪の外にあらば、天然物を詠む詩歌にして、善悪以外に立つ者多きは当然の事なり。西洋の詩は東洋の詩に比して天然を詠ずる事少き故に、西洋人の論には、善と美とを一つにするやうの事をいふ者多きにやあらん。西洋人の論なりとて、一も二もなく崇拝するは固より、愚者の事論ずるに足らず。いはんや西洋とて(ことごと)く同一の論のみには非ざるをや。

 或人曰く、足下(そっか)の理窟として排斥するるものはこの善なるべし。しからば足下はこの倫理的の思想を()てて、美の一方より歌をよむべしと強ふるものなり。吾人(ごじん)の感情をすてて、自然の美を求めよと教ふるものなり。しからば吾人歌を詠まんとして、先づ詠むべき趣向を考へざるべからず。云々。

 答へて曰く、何らの誤解ぞ、何らの愚論ぞ。われらの理窟とする所は前にしばしばいへり、今更理窟と善とを一つにするとは(あき)れ返りたり。われらの美とする所は倫理的善悪にかかはらず、故に美は善悪の外にありても多く存在す。されど美にして善なる者なしといふに非ず。善なる者は美に非ずといふに非ず。何が故に善を排斥すといふか。少しにても善を排斥せんとしたることあらず。排斥せんとするは美ならざる者のみ。縦令(たとい)「善」なりとも美ならずんば固よりこれを排斥するなり。「倫理的の思想を()てて美の一方より歌をよむべし」とは半ばわれらの意を獲たり。但し「強ふる」にはあらず。美の感じなき者に歌を詠めとはいはぬなり。「吾人の感情を捨てて、自然の美を求めよと教ふ」とは訳の分らぬ言葉なり。自然の美を感ずるも感情なり。感情を捨てて自然の美を求むべきやうなし。あるいは「倫理的感情を捨てて」の意か。それにしても「自然の美を求めよ」といふはなほ誤れり。われらは自然の美をのみ取りて人事の美を捨つる者に非ざるなり。(四月十七日)

十一

 (ある)人(春園子(しゅんえんし))曰く、意匠即調と云ふ意味を解し得ざるが如き、云々。

駿台小隠(すんだいしょういん)に代りて)答へて曰く、調といふ語は古来種々の意義に用ゐ来れりといへども、意匠(いしょう)といふ語と同じ意義に用ゐたる例はあるまじ。調はむしろ意匠に関係なき音調をいふが適当なり。その音調といふ事が、()し意匠といくばくかの関係ありとするも、そは意匠の極小部分との関係なるべく、決して意匠即調といふを得ず。意匠は同じことにても、言ひやうによりて、調の高くなる事も(ひく)くなる事もあるなり。

 或人(同)曰く、文学(あに)独り階級あるを免れ得んや(略)画においては本画と浮世画、詩においては歌と俳句と、皆これ同じく社会に必要なる美術文学なり。しかしてまたその間各々品格の差あるは免るべからざる事実ならずや(略)馬糞(ばふん)を詠み、焼芋(やきいも)を詠みたる俳句は縦令(たとい)文学としては貴重すべき価値を有するともその品格は(つい)に高貴なる精神を養ふに適せざるが如し、云々。

 答へて曰く、文学美術にも品格の差ありといふことは異論なし。品格の善きといふことは、普通に事物のゆるやかなる(せま)らざるやうな事をいふ。三十一字の歌の調は、十七字歌の調よりもゆるやかなる故、三十一字の方が品格善しといはば()づ可なり。馬糞を詠み、焼苧を詠みたる俳句云々といふを以て、俳句の品格を論ぜんとするは誤れり。馬糞焼芋を詠みたる俳句の下品なるは、俳句その物の下品なるにあらずして、馬糞焼芋の下品なるがためなり。三十一字歌を如何に上品とするも、馬糞焼芋を詠みたらば下品なること俳句に劣るまじ。また和歌は俳句に比して上品なりといふも、(ごく)大体の比較にして、実際一首一句の品格は、その意匠材科音調の上に係る者多し。歌の下品なる者と、俳句の上品なる者とを比較すれば、俳句は歌よりも上品なり。世人俳句を知らず、俗間伝ふる所の俗宗匠の句を以て俳句と為す、故に無下に下品なる者とのみ思ふなるべし。(こころみ)芭蕉(ばしょう)時代蕪村時代の俳句を読め、必ずや思ひ(なかば)に過ぎん。また文学の階級といふ語は不穏当なり。上品下品の意ならば品格の高下などいふべし。文学の階級といはば品格のみを標準とすべきに非ず。(高貴なる精神を養ふに適せずとは解しがたし。思ふに筆到らざる者ならん)

 或人(同)曰く、俳句は下級にあるだけ不自由も少く、範囲も広きは理の(まさ)にしかるべき所にして、感化力を社会の下層にまで及ぼさんとの必要は、品格を下したる所以(ゆえん)ならずんばあらず。云々。

 答へて曰く、これまた前と同じ誤謬(ごびゅう)に陥れり。されどその事は前に弁じ置きたれば言はず。感化力を杜会の下層にまで及ぼさんとの必要は、品格を下したりとはいたく誤れり。俗宗匠が附点選抜を以て糊口(ここう)となさんとするには、感化力を下等社会に及ぼすの必要あるかも知らず。芭蕉・蕪村らが俳句を作るに、種々の俗語漢語を用ゐ新材科を用ゐて自由に詠みたりとて、そは下等杜会を感化せんとにもあらず、また自ら下等壮会の人間なるが故に俳句を作るといふにもあらず。俳句を作るは俳句の美を感じたるが故なり。俗語漢語新材科を用うるは俗語漢語新材料の美を感じたるが故なり。下等杜会と何らの関係もなきなり。歌よみは世間知らずにて、何でも和歌を本尊に立つる故僻見(へきけん)多し。和歌が堂上にのみ行はれたるが如きは、文学界の変象(へんしょう)なれども、歌よみはそれを正当と心得たるにやあらん。和歌は長く上等社会にのみ行はれたるがために腐敗し、俳句はとかく下等杜会に行はれやすかりしため腐敗せり。われらは和歌俳句の堂上に行はるるを望まず、和歌俳句の俗間にて作らるるを望まず。和歌俳句は長く文学者の間に作られん事を望むなり。(四月二十七日)

十二

 或人(春園子)曰く、歌は俳句の長き物なり、俳句は歌の短き者なり、三十一文字なるが故に歌にして、十七文字なるが故に俳句なりと思ひ誤り、詩形即字句の外に各々異なれる節あることを知らざるの輩、到底共に詩を談ずるに足らざるなり。云々。

 答へて曰く、歌俳両者は、必要上その内容を異にしたりとの論の、(もう)なることは既にこれを言へり。されば歌は俳句の長き者、俳句は歌の短き者なりといふて何の故障も見ず、歌と俳句とはただ詩形を異にするのみ。しかれども論者の論の出づる所を思ふに、今までの歌と俳句とが上品下品の差別ありとするに基因せるならん。なるほど大体において歌は俳句よりも上品なるべけれど、論者の思へるが如くは歌も上品ならず、俳句も下品ならざるなり。論者は前に糞、焼芋といふ例を挙げたれど、焼芋の句は古俳書に見当らず、糞小便等の句は其角(きかく)・蕪村などに一、二句あるのみ。決して糞の句などは俳句に多き者といふべからず。(ひるがえ)つて歌の上にこれら下品の材料ありやなしやと見るに、やはりこれあるを見る。しがも論者の崇拝する『万葉集』には糞、(かわや)などを詠み込みたる歌あるにあらずや。上品下品をいはぱ、糞も厠も下品なるには相違なけれど、さりとて歌の可否を言はば、『万葉集』の中にもこの糞や厠の歌に劣りたる歌あげて数ふべからず、いはんや万葉以外の歌をや。そはとにかくに糞の歌も、厠の歌も、(ふんどし)の歌も、腋毛(わきげ)の歌も、(かさ)の歌も歌として書に載せられをる事実は争ふべきにあらず。歌必ずしも(ことごと)く上品ならんや。

 或人(同)曰く、歌は歌ふといふことを(むね)として調ぶべき事、これまた吾人は万葉の歌に依て断ずる者なり云々。万葉の歌は言葉を練り、品格高く調ぶるを専らとし、これを第一鐵となし、思ひを述ぶるといふ方は、第二義となしたる者ぞ。これ歌ふ者なればなり。しかるに世くだつて、いつしかこの定義は破れにけり。故に後世の歌は専ら(おもい)を述ぶるといふ方に傾きて、言葉調などいふ事は思を述ぶる材科に過ぎざるやうに成りゆきて、歌は長く(おとろ)へにけり。云々。

 答へて曰く、こは大間違なり。歌の歌ふべきことはいふまでもなし。(いにしえ)の歌を歌ひしのみならず、今の歌も歌ふなり。日本の歌を歌ふのみならず、支那西洋その他あらゆる国の歌は皆歌ふなり。歌ふ者なればこそ五言六言七言などそれぞれの調子もあれ、歌はぬ者ならば何しに字数平仄(ひょうそく)を合すべき。しかるに古の歌は歌ひて、今の歌は歌はずと思へるは間違なり。(ただし)歌ふ調子は古と今と異なるべし、同時代にても人によりて異なるべし。(調子の事は他日詳論すべし)また万葉は調または言棄を主とし、後世の歌は想を主とすといへるも間違なり。万葉の歌に想を主とせる者少からず。否万葉の歌は思ふままを詠みたるが多きなり。万葉の調の高きは、多少練磨の功なきに非ざるも、むしろ当時の人いまだ後世の如き(ひく)き調を知らず、ただ思ふままに詠みたるからに、かへつて調の高きを致ししならん。『古今集』以後に至りては、詩想なる者漸(ようや)く陳腐に帰し、ただ言棄の言ひかけ言ひまはしをのみつとめて無趣味の者を作れり。即ち言葉を練るといふ事は、万葉時代よりもクくして、想の方版万葉時代ほどに変化せざりしなり。論者の論あぺこぺなり。

 或人(同)曰く、唐土においても詩と歌とは確然定義を異にし、時は志を述べ歌は言を(なご)うしといへるなり。しかるに何事ぞや、その志を述ぶるを定義とせる詩に(くん)して唐歌(からうた)といひたるは、これやがて歌ふを旨とするなるわが国の歌を、誤りて、漢土の詩と同じく志を述ぶるものとなせるなり。云々。

 答へて曰く、あまりの事に答へんすべも知らず。論者は支那の「詩」と支那の「歌」と如何なる差違ありとするか。日本の「ウタ」と支那の「歌」と如何なる類似ありとするか。支那の「詩」は志を述ぶるのみにて歌ふ者にあらずとするか。日本の「ウタ」は歌ふ者にして「心を種と」する者にあらずとするか。歌はぬ「詩」、心から出ぬ「ウタ」が世の中に成り立つべしとするか。明治の世に生れてかかる言をいはるるやうでは、チト頼もしからぬなり。今少し奮発(ふんぱつ)して勉強せられては如何(いかん)。「歌」の字の事はここに弁ずるまでもなし。宣長(のぶなが)の『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を見るべし。

 或人(同)曰く、歌ふを旨とすると、思を述ぶるを旨とするとは、詩旨(しし)においても詩形においても、自らその趣を異にすべきは当然の理窟なるが故に、云々。

 答へて曰く、前にもいふ通り、歌はぬ歌もなく、思を述べぬ歌もなければ、両者は全く一致して分つべき者にあらず。もし両者その一を欠けば歌とは言はぬなり。されば特に歌ふを主とすといふ歌もなく、思を主とすといふ歌もなきはずなり。(ただし)世人は(ゆる)く歌ふを指して歌ふといひ、詩想複雑にして音調また変化するを指して思を主とすといふにやあらん。(五月三日)

十三

 (ある)人(鳴雪(めいせつ)氏)曰く、和歌が古来より人を感動せしめたる例(すくな)しとの説は誤れり。和歌が人を感動せしめたる例枚挙に(いとま)あらず。あるいは一首の和歌のために命を助かり、領土を帰されしなどを始めとし、しばしば(たけ)きもののふを動かしたること歴史伝説の上に(つまびらか)なり。子がその例少しといふは、子自ら感動する歌少しとの事なるべし。云々。

 答へて曰く、誠にしかなり。古来人を感動せしめたる例はいくらもあれど、その歌が余りつまらぬ歌にて、歌といふ名を与ふるさへいかがと思ふばかりなれば、それらをば余の考の中へ入れざりしなり。余の考の中に入るべき歌にて、人を感動せしめたる例を尋ぬるも、ちょっと思ひあたらざりげる故、例少しと言ひ放したる者にて、余り粗漏(そろう)なる書き(ざま)にぞありし。(すべ)て和歌俳句詩などが人を感動せしむる事は、必ずしもその和歌などの善きがために非ずして、相手(感動する人)とその場合とに因る者なり。相手が極めて意味低き者ならんには、意味低き歌はこれを感動せしむる事あるべきも、趣味高き歌はかへつてこれを感動せしむる(あた)はず。いはゆる大声は俚耳(りじ)に入らざる者なり。(たけ)きもののふの心を(やわら)げなどいへど、猛きもののふといふ者、多くは趣味卑しき者なれば、彼らを感動せしめたりといふ歌は、趣味卑(ひく)く取るにも足らぬぞ多き。またその歌は歌として取るに足らず、従つてその歌の善きに感じたるに非ざるも、その作者が意外に歌など作りしといふ事、あるいはその歌がその場合に善く適合せりといふ事のために人を感ぜしむる者あり。例へば小式部内侍(こしきぶのないし)が大江山の歌の如き、歌としてそれほどの値打もなけれど、歌を()作らじと思ひし人の即座に作りしと、その歌がその場合に善く適合したるとのために人を驚かしたりと覚ゆ。また太田道灌(おおたどうかん)が歌を作りて「かかる言葉の花もありけり」と()められたるが如き、歌の善き事が人を感ぜしめたるよりも、むしろ意外の人が歌詠みたりとの一事は人を驚かしたる者ありしなるべし。貞任(さだとう)連歌(れんが)義家(よしいえ)がそを追はずなりたりといふ事、宗任(むねとう)が梅の花の歌を詠みて公卿(くげ)たちを驚かしたりといふ事(など)、事実の有無は疑はしけれど、もしこの種類の事ありとせば、前者はきはどき場合に()くつらねたりといふ事に感じ、後者は思ひがけなき東夷(あずまえびす)の風流に感じたるに外ならじ。故にかくの如き歌は、後人のこれを見るにもその場合を聯想してこそ幾多の興味はあれ、単独に歌として文学上より批評を下さば、三文の値打もなき者比々(ひひ)これなり。されば人を感ぜしめたる歌は、必ずしも善き歌に非ずして、かへって悪歌拙歌を多しとす。これら歌人ならざる者の場合を除きても、歌人などが贈答送別の歌に感じたる例少からず。されどこもその歌がその場合に適切なるがために多く感じたるにやあらん。()しその人は自ら感じたる歌を善き歌と思ひたりとも、他の人必ずしもそを善しとは思はず。余らは伝説に残りたる「歌人の感じたりといふ歌」を見て、感動すること少く、かへつて普通に知られぬ歌にて非常の感動を生ぜしむる者多し。

 以上述べたる場合、即ち或時或人に限りて感動したる場合を除き、何時(いつ)にても誰にても感動する歌を見るに、なほ余は多くこれを浅薄と認めざるを得ず。その例として最多数の日本人を感動せしむる力ありと信ずる

  敷島(しきしま)大和心(やまとごころ)を人問はば朝日に匂ふ山桜花

の歌を見るに、余は(ごう)も此歌に感動せられざるのみならず、なか/\に浅薄拙劣なるを見る。全体の趣向も平凡なれども、かくこの趣向の平凡に聞ゆるは、いくばくか此歌を見馴()れ聞き馴れたるにも因るべければそは論ぜず。()し平凡なる趣向なりとも調子高く歌ひなばかへって高尚なる歌となるべきを、此歌はまた無下(むげ)(つたな)くつらねたる者にぞある。その大欠点は「人問はば」の一句にあり。上に「人問はば」とあらば、下に「と答へん」と置かざるべからず。「と答へん」の語なければ「人問はば」の語、浮きて利かず、従ひて厭味を生ずるなり。されど天下多数の人が感動するは、この平凡にして解しやすき趣向と、この厭味ある言葉(人問はば)の働きとにあるべく、宣長(のぶなが)の作意もまたここにあるべし。宣長の詩趣の解し加減と、天下多数の人の詩趣の解し加減と、あたかも一致してこの大喝采(かっさい)を博せり。大喝采的の作必ずしも可ならざるなり。余もかつて此歌に感じたる時代あり。されど数年間文学専攻(せんこう)の結果は、余の愚鈍をして半歩一歩の進歩を為さしめたりと信ず。少しく文字ある者は都々逸(どどいつ)を以て俚野(りや)()すべしとなす。しかも賤妓(せんぎ)冶郎(やろう)が手を()つて一唱三歎(いっしょうさんたん)する者はこの都々逸なり。いやしくも詩を作る者は雲井竜雄(くもいたつお)西郷隆盛(さいごうたかもり)らの詩を以て、浅薄露骨以て詩と称するに足らずとなす。、しかも書生が放吟し剣舞し、快と呼び壮と呼び、彼らをして怒髪(どはつ)天を()かしむる者は、西郷・雲井らの詩ならざるべからず。やや美文を解する者は、ゝ山居士(ちゅざんこじ)の抜刀隊の歌を以て、粗雑鹵莽(ろもう)取るに足らずとなす。しかも兵士が挺身肉薄敵城を乗り取らんとする時、彼らの勇気を鼓舞する者は、抜刀隊一曲の歌ならざるべからず。大喝采的の作は(おおむ)ねかくの如し。彼らは平易にして趣味低きを要す。或時は露骨に叙し、或時は一種厭味の装飾を用うるを要す。語を()へて言はば、多数素人へのあてこみは少致黒人(くろうと)の最も厭忌(えんき)する方法を取らざるべからず。黒人の婉曲(えんきょく)にいへといふ処はこれを露骨にいひ、黒人の露骨にいへといふ処は、これに厭味ある形容(など)を加へ、しかして後にあてこみ的大喝采的の作は成る。これ従来の大喝采的の作なり。故に余はむしろ大喝采的の作といふ一事を以てその卑俗を証せんとす。しかれどもこは過去の事実のみ。未来においてもかくの如くならざるぺがらざるか否かは疑問に属す。もし文学的趣味を具有して、大喝采を博する者あらば、これを以て(かの)非文学的の作に代へんこと、けだし歌人の職務なるべし。(五月十二日)
(明治三十一年三月−五月)