【これは未校正のデータです。】 平林初之輔 「予審調書」 一 「あなたの御心配もよくお察ししますが、わた しの立場も少しは考えて頂かないと困ります。 何しろ、規則は規則ですから、予審中に御子息 に面会をお許しすζわけにもゆきませんし、予 審の内容を申し上げることも絶対にできないの ですからねえ。こんなことは、私が申し上げる までもなく十分おわかりになっているでしょう が……」  |篠崎《しのざき》予審判事は、裁判官に特有な冷やかな調 子で、ここまで言って、一寸言葉をきって、|外 面《そつま》をむきながら敷島に火をつけた。判事の表情 が、今日は常よりも余計に冷やかに、よそよそ しく、まるで敵意を帯びているようにさえ見え るので、客は何となく底気味が悪いらしい。 「それは、もう、よくわかっておるのですが、 どうもせがれの奴がかわいそうでしてね。あれ はほんとうに近頃頭をどうかしているのですか ら、ついつまらんことを口走って、取り返しの つかんようなことになっては大変だと、それが 心配になるものですから、こうして毎日のよう にうるさくお邪魔にあがるような次第で……嫌 疑が晴れて出て来たら、まあ当分海岸へでも転 地さして、ゆっくり頭の養生をさせようと思っ とるのです。どうも時々妙な発作を……」  予審判事は、|原田《はらだ》老教授の言葉を中途で遮っ て、たしなめるように、それでいて、|厳然《げんぜん》たる 命令的な語調で言った。 「そんなことは|仰有《おつしや》らん方がいいと思います ね。御子息の|身体《からだ》のことは、専門の医者に診察 さしてちゃんとわかっているのですから。あな たが余計なことを仰有ると、却って御子息のた めに不利益になりますよ」  老教授の立場は、駄目と知りつつ藁すべにで も|組《すが》りつこうとする溺れる者の立場である。 「で医者は何と申しましたか? やっぱりせが れを精神病と鑑定したでしょうな?」  おずおずと彼は相手の顔をのぞきこんだ。 「今も申し上げたように、そういう立ち入った 御質問は、わたしの立場としてまことに困るの で、本来からいうと何もお答えするわけにはゆ かないのですが、丁度今日は(先程予審調書を 発表したところですから、それも今晩の夕刊に はのるでしょうし、たびたび御足労をかけたこ とでもありますから、今日はまあ内密で、何な りと御質問にお答えすることにしましょう。 で、御子息の精神状態のことですが、なに少し 興奮していなさるというだけで、別に異常はな いという専門家の鑑定です」  判事はちらりと相手の顔を見た。老教授の顔 は土のようになって、眼はもう一つところを見 つめる力がなく、まるで瞳孔から|亡者《もうじや》のように 浮び出しているnただ吾が子を思う一心だけ が、彼の身体を椅子にささえ、やっと相手の話 をきき、自分でも口を開くだけの余力をのこし ているのだ。 「で、せがれは、あの途方もない自首を取り消 したでしょうな。まるで根も葉もない……見も 知らぬ他人を殺したなどという、とんでもない 自首を……尤もあんな馬鹿げた陳述を信ずる人 は一人もないではありましょうが……」  老教授は、無智な百姓が、神棚に向って物を 祈願する時のような口ぶりでこうたずねた。 「いや、決して取り消されんのみか、何度繰返 してたずねても御子息の答えは判でおしたよう に同じなのです。信じるも信ぜぬもない、御子 息の陳述が事実であることは、疑いの余地がな いのです」  篠崎予審判事の口許にただようている微笑 は、慈愛に満ちた|慰藉《いしや》の微笑ともとれれば、毒 意に充ちた残忍な冷笑ともとれる。老教授は、 冷たくなった紅茶をぐっと呑みほした。それが 幾分でも興奮した心を落ちつけてくれるたしに でもなるかのように。 「では、あなた方は、狂人の言葉をそのままお 取りたてになるのですね。事実の証拠よりもと りとめもない狂人の言葉の方を重んじなさるの ですね。わたしは正義のために忠告します。裁 判所がありもしない証拠を|捏造《ねつぞう》するようなこと は、まあおひかえになった方がよいでしょう」 「これはしたり、御子息は今も申し上げたよう` に、全く精神に異常などは認められません。そ れに、裁判所は決して証拠の捏造などはしませ ん。物的証拠と被告の陳述とを照しあわせて、 この二つが合致した時に犯人を決定するので す。併しこの二つが合致しているのに、被告の 精神状態を疑っていたりしていた日には、裁判 はできませんからねえ。でも、こんどの事件 は、もともと過失ですから、御子息の罪は大し たこともなかろうと私は考えるのです。が、検 事の方ではこの事件を過失と認めておらんよう でもあり、それに検事の言い分にも、聞いて見 れば一応道理があるのでしてね……」 「では、せがれが、故意に大それた殺人を犯し たとでもいうのですね、過失でさえもないとい うのですね。それでせがれの陳述と物的証拠と やらがぴったり合致しているというのですか? そういう筈はありますまい」  老教授の|顳額筋《しようじゅきん》がびりびりと|顫動《せんどう》し、蒼ざめ た顔には、さっと血の色がのぼった。それも無 理はない、息子の生死のわかれ目なのだ。 「まあ落ちついて下さい。今も申し上げたよう に、私は過失であるとかたく信じておるので す。けれども、あなたが、御子息の陳述と物的 証拠とが合致しておる筈がないと仰有るのも妙 ですね。あの日は、あなたは早くから大学の方 へ出ておられて、死体が発見されたのは、その あとの出来事ですから、現場も御覧になってお らず、御子息の陳述をお聞きになったわけでも ないあなたが、筈がないなどと仰有るのは少し 御言葉が過ぎはしませんか?」  判事の論理整然たる|反駁《はんぱく》におうて、教授は全 くとりつく島を失った。額には脂汗が一面にに じんでいる。やっとのことで吃り吃り彼は言い つくろった。 「それは、その……せがれは気が変ですから、 まさか、|半狂人《はんきちがい》の言うことが事実にあっている とは思われませんので……」 「ところが御子息の陳述は事実とぴったりあっ ているのです。ただ、ほんの一箇所事実とあわ んところがあるのでしてね。それさえわかって. おれば、この事件はもう明瞭で、御子息の犯罪 は『過失致死罪』ということにきまるのです が、たった一箇所曖昧なところがあるために、 謀殺ではないかという疑いの余地が生じて来る のです。尤も、繰返して申し上げますが、わた しはそんなことは信じません。ただ検事は深く そう信じこんでいるようですし、ことによると、 裁判長も検事の言葉を信ずるだろうと思われる のです。何しろ妙な|工合《ぐあい》になっているものです からねえ」  予審判事は、じろりと氷のような視線を老教 授に送った。老教授の半白の|顋鬚《あごひげ》が細かくふる えているのは、五尺もはなれている判事の眼に もはっきりわかった。 「その曖昧な点というのはどういう点です か?」 「実に妙な話でしてね」と篠崎判事は二本目の 敷島に火をつけてから語り出した。口許には、 矢張り、何とも意味のわかりかねる微笑が消え たり浮んだりしている。彼は話の要所要所に力 点をつけて、その度に、例の裁判官に特有の、 相手の|心胆《しんたん》を凍らせるような視線を、聴き手の 顔へ投げるのであった。老教授は、|船暈《ふなよ》いをし た人が、|下腹部《したはら》に力を入れて、一生懸命に抵抗 しようとすればする程、|暈《よ》いが募って来る時の ように、心の平静を失うまいとして、とりわ け、気の弱い彼の持病である脳貧血にかかって 倒れるような失態を演じまいとして、肩を張ら し、|固唾《かたず》を呑み、両手の指をにぎりしめてきい ているのであったが、予審判事の|剃刀《かみそり》のような 視線に触れると、こういう姿勢は一たまりもな くくじけてしまうのであった。 「あなたも御承知の、現場で拘引された第一の 嫌疑者ですね。あれは|林《はやし》という男ですがね。こ の男の申し立てと、御子息の申し立てとが、不 思議に食いちがっているところがあるのです。 林の申し立てによると、彼はあの朝、殺人の行 われた|空屋《あきや》1あなたの御宅の隣りにあるあな たの持家ですねーその空屋に、貸家札がはっ てあるのを見て、一応中を見せていただきたい とお宅の裏口に洗濯をしていた女中さんに言っ たのだそうです。すると、女中さんは、玄関の 戸は錠がおりていないから随意にはいって御覧 なさいと言ったのですね。何でもこの林という 男は、その前の日の夕方にも、その家を見に来 たのだそうですが、薄暗くてよくわからなかっ たので、翌る日に改めて見に来たのだというの です。中へはいって、座敷の間取りや、日当り の工合や、便所や風呂場のあり場所などをしら べてから、台所へはいって見ると、板の間に、 あの女の死体がうつぶしになっていて、全身に 打撲傷を負い、特に後頭部をひどく打ったもの と見えて髪が血でかたまっており、背中には新 しい鋭利な|小刀《ナイフ》がつきさしてあったというので す。この物凄い|光景《ありさま》を見て、とりのぼせたので しょうな、林は、このまま出たら、てっきり自 分に嫌疑がかかると思いこんで、何とかして、 少しでも、死体の発見をおくれさせる必要があ ると思い、その死体を台所の床下へ|匿《かく》そうとし たというのです。その時に、ちょうどお宅の女 中さんの|跫音《あしおと》が聞えたので、|周章《あわ》てて飛び出し て来たのだそうです。死体を検査した医師の申 し立てによると、死体は絶命後既に十二時間以 上を経過しているというのですから、林という 男がその場で兇行を演じたのではないというこ とは明瞭になったわけです。それから、医者の 言葉によると、致命傷は、後頭部の打撲傷で、 |小刀《ナイフ》は余程あとから死体にさしたものらしいと いうことです」 彼はちょっと言葉をきった。夕日がカーテン のすきまから宝石のように|洩《も》れこぼれている。 「尤も、これで林の嫌疑がすっかり晴れたとは 言えないのです。何故かというと、彼は前の日 の夕方にも一度この家を見に来たというのです から、ことによると、その時に兇行を演じて、 明くる日になってから、気が気でないので、兇 行の現場を偵察に来たのではないかとも疑える のです。この一種類の犯罪には、こういうことは 有り得ることですからな。いや、有り得るとい うよりも、むしろ有り勝ちなことと言った方が よいかも知れません。ドストエフスキーの『罪 と罰』の主人公にしても、ゴリキーの『三人』 の主人公にしても、殺人を犯したあとで、わざ わざ現場へ見に来ているじゃありませんか?」       二 窓からさしこむ夕日は、室内の光景に、一種 の|森厳《しんげん》な趣きを添えている。原田老教授は、我 が子の|生殺与奪《せいさつよだつ》の権を握っている予審判事の口 から出る一語一語に、はらはらしながら聴き 入っていた。判事は相変らず化石のような調子 で話しつづける。その落ちついた調子が、きき 手の心を益ζいらだたせるのである。 「ところが、この事件が翌日の新聞で発表され ると、御承知の通り、御子息が、あの女を殺し たのは自分だといって自首して来られたので す。そこで林の嫌疑は全く晴れたわけです。何 しろ、林に対する唯一の嫌疑は、前の日の夕 方、兇行の現場へ来たことがあるということだ けなのですからねえ。嫌疑の理由がまことに薄 弱なので、実はくちらでももてあましていたと こへ、折も折ちょうど御子息が自首されたとい うわけです。何でも、御子息は、あの家が空い てから、毎晩|就褥前《しうじよくぜん》に、寝つきをよくするた めに空屋の中へはいって体操をしておられたと いうことで、その晩も、九時頃、玄関の戸をあ けてはいろうとすると、どうしたものか、錠も おりていないのに中々戸が開かない。やっと|金 剛力《こんごうりき》を出して開けると、そのとたんに、戸の 内側でひどい物音がしてびっくりしたというこ とです。中へはいって見ると、玄関の壁際にも たせかけてあった鉄の古寝台が、戸を開ける拍 子に、倒れたための物音だったというのです ね。薄暗い軒燈の光ですかして見ると、何だか その下に黒いものが圧しつぶされているような ので、寝台をもち上げて見ると、その下に、あ の女の死体が横たわっていたというのです。あ の太い鉄の|框《わく》で頭から胸部を滅茶滅茶に打たれ て、きゃっともすんとも言わずに即死してし まったらしいのです。これは大変なことをした と思ったが、それでまさか即死したなどとは思 わないものですから、急いで抱き起そうとする と、身体はもう氷のように冷たくかたくなっ て、まったく事切れていたということです。そ こで御子息は、とりのぼせてしまって、前後の わきまえもなく、あわてて外へ飛び出したのだ そうですが、過失とは言いながら、一人の人間 を殺した以上は無事ではすむまい。それに、|他 人《ひと》がきいて果して過失と信じてくれるかどうか もわからぬ。これは何も知らぬ顔をしているに 限ると考えて、死体はそのままにしておいて、 音のしないようにそっと戸をしめ、何喰わぬ顔 をして家へ帰って寝たというのです。人聞とい うものは、こうした場合には、えて常識では考 えられぬようなことをするものです。|翌《あ》くる 朝、林が空屋を見に来て、自分が誤って殺した 女の死体が発見された時には、御子息も、あや しまれてはならぬと思って、現場へ行って見た ということです。ところが、その日の夕方、夕 刊でその事件が報道され、|無辜《むこ》の林が有力な嫌 疑者として拘引されたという記事を見ると、い てもたってもいられなくなって、自首したのだ ということです。御子息の自首の内容は、ざっ と今申し上げたとおりなのですが、どうです ね、この辻棲のあった陳述に御子息の精神の異 常が認められるでしょうか?」  話し手も聴き手もハンカチをとりだして額の 汗をふいた。  「これで大体おわかりになったと思いますが」 と判事は再び語り出した。「林の陳述によると、 死体は台所にうつぶしになっていて、背部に|小 刀《ナイフ》がつきさしてあったことになっていますし、 実際現場捜査の結果は林の陳述と一致している のですが、御子息は、死体を玄関にすてたまま あわてて外へ飛び出したと仰有るのです……。  それだけならよいが、近頃になってから、それ はあまりはっきりおぼえておらぬ。ことによる と、あの時夢中で自分が死体を台所までひき ずって行ったのかも知れないと言われるので す。しかも、現場をしらべて見ると、明らかに 玄関の三畳から六畳の居聞をとおって台所へ死 体をひきずっていった形跡があるのです。その 上、まあどうでしょう。死体をひきずったあと が丁寧に|雑巾《ぞうきん》か何かでふいてあったのです。あ あいう際には、無意識でこういう用心深いこと をやるのですねえ。よくある例です。しかし、 それが事実だとすると、御子息の立場は、よほ ど不利になって来ますねえ」  判事はちょっと言葉をきった。彼は、自分の 口から出る一語一語が、きき手の心臓へ|鑿《のみ》を打 ちこむ程の苦痛を与えていることなどには、ま るで気がついていないらしい。或は気がついて いてわざと相手を苦しませて楽しんでいるよう にもとれる。 「そういうわけで、何しろ、肝心のところで御 子息の申し立てが曖昧になっておるので、どう にる困るのです。わたしは、何べんも申し上げ たように過失であることを疑いませんが、申し 立てに曖昧な部分があるようでは、世間が承知 しません。検事は、丁度戸をあける時に、寝台 が倒れて、その下にちょうど被害者がたってい て、しかも寝台の|框《わく》が被害者の急所へぶっつか るというようなことは、とてもこしらえ、ことと しか考えられんというのです。実際、偶然とい うものは人間の考えも及ばないような場合をつ くり出すこともたまにはありますが、ああいう |誂《あつら》えむきな話を、裁判長に信じさせるというこ とは、まず、余程困難だと見なければなりませ んからねえ」  若し篠崎判事の目的が、原田教授を苦しめて 苦しめて苦しめぬくことにありとすれば、彼の 目的は完全に達せられたといってもよい。何故 かなら、老教授はただ身体の中心をとって倒れ ずにいるのが、もうせいぜいのように見えるか らである。けれど判事の目的は、相手を苦しめ ぬくよりも躰上であるらしい。少くも、老教授 にはそうとよりとれなかった。  |瀕死《ひんし》の病人は、死期が迫るにつれて、恢復の 見込みを医師に|頻繁《ひんぱん》にたずねるものである。そ ういう場合に、老練な医師は患者を絶望させる ようなことは決していわないものである。とこ ろが篠崎判事は、病人が息をひきとるまで、病 人に恐怖を与えつづける無慈悲な医者と同じよ うであった。 「せがれは無罪にはならんでしょうか?」  蚊のような細い教授の声に対して判事は答え た。 「無罪どころではありません。過失罪として情 状を|酌量《しやくりよう》されるかどうかも、今となっては疑 門で、ことによると謀殺と認定されるかも知れ ないのです」 「そんなことが、そんな無法な……では林とい う男の方は|何《どう》なるのです?」教授の声は、声と いうよりも、むしろ悲鳴である。 「あの方はもう問題でないのです。最初から嫌 疑の理由が薄弱だったのが、御子息の自首に よってすっかり消滅したのですから。もう既に 予審免訴と決定して、今度の裁判には被告とし てではなく、証人として法廷へ出ることになっ ているのです」 「では、もうせがれを助けるてだてはないもの でしょうか?」 「ないこともないかも知れません。が、何しろ 此の上ぐずぐずしていては大変なことになるか も知れません。御子息は、昨日今日は、審問す るたびに、前の証言をとり消したり、ことによ ると自分が故意に殺したのかも知れないなど と、聞いているわたしさえもひやひやするよう なことを口走られるのです。どうやら、あなた が仰有ったように、ほんとうに精神に異常をき たされたらしいのです。そうしますと、一時精 神病院で療養さして、改めて審問をしなおさね ばならぬか、とも考えておるのです」 「そ、そんな、そんなひどいことが……精神病 院なんて、あの恐しい狂人と一緒に、いいえ.…: せがれは狂人ではありません」  教授の身体の中にまだこれだけ興奮する力が のこっているのが不思議である。  この時、玄関でベルの音がした。判事は女中 の取り次ぐのを待たずに席を立って、教授に一 寸ことわって室を出てゆき、玄関で何やら|低声《こごえ》 で話していたが、すぐに引き返してきて語りつ づけた。 「これはまた意外なことを承わるものですな。 御子息の精神に異常があるということは、最初 あなたがおっしゃったではありませんか?」  あわれな老人は一言もなくうなだれている。 牢獄か|癲狂院《てんきよういん》か、どの道我が子は助からないの だ。彼の頭には陰惨な人生の両極がまざまざと 描かれた。暗い考えが夜のように彼の心をとざ して来る。彼はおそるおそる口を開いて、まる で|腫物《はれもの》にでもさわるように、最後の質問をし た。 「ではもう一つだけおたずねしますが、せがれ はどの位の罪になるでしょう?」  判事は鼠を生け捕った猫が、それを味わうま えに十分弄ぶときのように、ゆっくりと、落ち つきはらって、まるで|他人事《ひとごと》のように語った。 「そうですな、過失罪になれば大したこともあ りますまいが、謀殺となるとーまあその方が 可能性が大きいと見なければなりませんからね エ-謀殺となると、まず、九分通り死刑です かね」 「判事!」と原田教授は突然、ばねのように立 ち上って叫んだ。 三 判事は多少の注意力をおもてに現して膝をす すめた。  老教授の一時の興奮は、しかし「判事!」と 叫んだ一語のために、すっかり消えてしまった ものと見えて、またもや、|菜葉《なつぱ》のようにしおれ てしまった。 「判事、もう何もかも白状してしまいます。わ たしはまあ何という人間でしょう。この年をし て、人に物を教える身でありながら、人もあろ うに自分の最愛の子供に罪をきせて、今まで白 ばっくれているなんて。わたしです。わたしが あの女を殺したのです。あの女を過って殺した のはわたしです。すぐにせがれを放免して、代 りにわたしを縛って下さい。判事!」  どんなに法律ばかりつめこまれた頭だって、 このような劇的な告白をきいて平気でおられる 筈はないと思われるが、篠崎予審判事は少しも 驚いた様子も、感動した様子もない。まるで、 ちゃんと予期していたような顔つきである。 「では玄関で殺した死体がどうして台所にうつ ぶしになって、しかも背中に|小刀《ナイフ》がさしてあっ たのですかね。林の陳述には間違いはあります まいが?」  原田教授は、もうすっかり落ちついて語り出 した。口許にはずるそうな微笑さえ浮んでいる。 「その男の陳述は正確です。わたしが、犯跡を くらますために、死体を台所へひきずっていっ たのです。そうしておけば、誰か家を見にくる 人があるにきまっているから、その人に嫌疑が かかると、|浅薄《あさはか》な考えをおこしましてね。死体 はかたくなっていたので、玄関から座敷へ上げ るのに余程骨が折れました。それに石のように 冷たくなっていたので、気味のわるいことった らありませんでした。お察しのとおり、死体を ひきずってゆく時、畳の上へ血のあとがついた ものですから、家へひきかえして、雑巾をとっ て来て、すっかり血をふきとったつもりだった のですが、臨検の警官に発見されたのは天罰で す。血のあとをふきとっても、まだ安心ができ ませんので、それから、わたしは、近所の金物 屋から|小刀《ナイフ》を一挺買って来て、それを死体の背 中へ突きさして他殺と見せかけようと思ったの です。その時ばかりは、さすがのわたしも、手 がふるえて、あとから考えると、よく、うまい 工合に|小刀《ナイフ》が突きさせたものだと不思議に思っ ている位です。玄関で殺した死体が、台所へいっ ているわけはそのためです。せがれは、わたしが 玄関で、過失であの女を殺すところまで見てい て、わたしの身代りになってくれたものに相違 ありません。ですからその後のことは何も知ら ないのです。私の申し上げたことをお疑いにな るのなら、わたしの家の裏庭の|無花果《いちじく》の根元を 掘ってごらんなさい。血をふいた雑巾が埋めて ある筈です。それから、金物屋を呼んで来て下 さい。|浅羽屋《あさばや》という家です。きっとあの|小刀《ナイフ》を あの晩わたしに売ったことをまだおぽえている でしょう。もうこの他に申し上げることはあり ません。どうぞすぐにせがれを放免してわたし を縛って下さい!」 「もう金物屋を呼ぶ必要はありません。その金 物屋は、たしかにあなたにあの晩あの|小刀《ナイフ》を 売ったと言っておるのです。今にここへ来るは ずです。さっき玄関でベルが鳴ったでしょう。 あの時刑事が金物屋の報告を伝えて来たので す。その時、ことによると、あなたが自白され ない場合には|已《や》むを得んから顔をつきあわせる つもりで、呼びにやうたのです」  何もかも観念した人間には、苦しみもなけれ ば悩みもない。原田教授は落ちついて言った。 「こうわかった以上は、早速せがれは放免して 下さるでしょうな?」 「御子息はもうすでに予審免訴ということに決 まっておるのです。林が免訴になったと言った のは、実はうそで、免訴になったのは御子息の ことなのです」  教授の顔には心からの安心の色が浮んだ。判 事は更におだやかに言葉をつづけた。 「ついでにすっかり白状して下さらんですか な? 何もかも」  教授がぎくりとした。 「白状ですって、此の上に? ではこれだけ申 し上げても、まだせがれに対する疑がはれんの ですか? はやくわたしを縛って下さい」  判事はしばらく腕をくんで考えていたが、や がて又口を開いた。 「どうしてもこれ以上打ち開けて下さらんなら 仕方がありません。では、今仰有ったことを、 玄関の死体を台所へ運んでいって|小刀《ナイフ》をつき刺 されたまでのところを、御面倒ですが、もう一 度繰返して仰有って下さい。ちょっと書きとら せますから」  教授は判事の質問のままに前の口述を繰返し た。秘書がそれを筆記した。筆記がすむとまた 秘書は出ていった。 「いやどうも御面倒でした。これで、やっとこ の事件の予審調書がすっかりできあがりまし た」 「せがれの嫌疑はすっかりはれたでしょう な?」教授の気にかかるのはこの一点だけと なった。 「この事件では、最初から御子息の有罪を疑っ ている人間が二人あったので、意外にしらべが 長びいたわけです」と判事はくだけた調子で語 り出した。「その一人は、御子息自身で、もう 一人は御子息の父親のあなたです。それ、今だ にあなたは御子息を疑っていなさる証拠に、わ たしの言うことをきいて驚いていなさる。あな たは、あの事件の犯人が御子息だと思いこん で、死体を他の場所へうつしたり、死体にナイ フをつきさそうとしたりして、それで、御子息 の陳述と現場の証拠とをちぐはぐにさして、御 子息が精神に異常を呈しているという論拠をつ くり出そうとしなさったのです。ところが、御 子息がどの道無罪になりそうもないと見てとっ て、今日は、とうとう自分が犯人だというよう な、|大胆《だいたん》な自白をなさったのです。わたしにも 子供があります。あなたの親としてのお心持は よくわかります。子供のためには、親はどんな 馬鹿なことでもするものです…-.」  判事の眼にも教授の眼にも涙が浮んだ。 「それにこの事件は最初からわかりきっていた のです。第一、わたしには物理学はわかりませ んが、経験から考えてもあの寝台の倒れる力位 で人間は死ぬものではありません。況んや、 |起《た》っている人間が、うんともすんとも言わずに 即死するわけは絶対にありません。それに、御 子息の陳述をきくと死体はかたくなっており、 氷のように冷たかったということですが、即死 した人間の死体がすぐにつめたくかたくなって いるというようなことは、とりのぼせた御子息 をだますことはできても、裁判官をだますには あまりに子供じみています。しかも、その上 に、寝台と戸の格子とに妙な糸がくっついてお り、おまけに、寝台にはあなたと御子息と以外 に、もう一人の男の指紋がべたべたついている のです」 「それは誰の指紋です?」 「犯人の指紋です。勿論犯人は林なのです。彼 は前の晩に丁度死体の発見された台所で兇行を 演じて嫌疑をそらすために、死体を玄関へもっ てゆき、玄関の戸をあけると、玄関の壁にもた せてある寝台が倒れるように、寝台と戸とを糸 でむすびつけ、女が偶然その下になって死んだ ように見せかけようとしたのです。そのあとで 御子息が玄関の戸をあけられたのでああいうこ とになり、それをまたあなたが知って死体を台 所へつれてゆくというようなことになったので す」 「そうとは知らず小細工を弄して何とも恐縮に 堪えません」教授は不思議な物語に驚き|乍《なが》らも 心から恐縮して言った。 「ところが、あなたの小細工が犯人の自白を早 めたのです。というのは、どういう偶然か、天 罰か、ちょうど林があの女をステッキで殴り殺 した場所へ、寸分たがわず、あなたが、死体 を、その時とそっくりの姿勢でおかれたので す。その為に、明くる日、のそのそ兇行をやっ た現場へ出かけて来る程大胆な林も、この死体 の移動を見ててんどうせんばかりに|吃驚《ぴつくり》して、 おそろしくなって床下へかくそうとしたのだそ うです。それから、あなたはナイフをさす時に 手がふるえてうまくさせたのが今から思うと不 思議だと|仰有《おつしや》ったが、あれはさせてはいない で、ただ死体の横に落ちていたということで す。林がそれを拾い上げてあまりの恐しさに背 中へ突きさしたのだということです……」  あまりの意外な話に聴き手は無言でほっと吐 息した。話し手も一寸言葉をきったが、更に又 語りつづけた。 「林はすっかり白状しました。殺された女の身 許も知れています。けれども林のことはあなた には別段関係がないから申し上げますまい、た だ最後におわびしなければならんのは、今日あ なたをさんざん苦しめたことです。御子息の有 罪を信じきっていなさるあなたに、とても正面 から自白させることはできないと考えましたの で、あなたを苦しめて苦しめて、『自分が犯人 だ』と偽りの白状をしていただき、それをきっ かけに玄関の死体が台所へ舞いもどった次第を 当事者自身のあなたの口から白状していただこ うと思ったのです。その点だけがはっきりしな いためにこの事件の予審調書が今までできあが らなかったようなわけです。勿論、今日調書を 発表したというのはうそで、あれは、わたしの いうことをあなたに信じていただくための手段 だったのです」  宵闇の迫った室内にぱっと百|燭《しよく》の電燈がつい て、客と主人との顔が急に明るく浮び上った。 そして二人の心は顔よりももっと明るかったの である。          (『新青年』大正十五年一月号)