釘抜藤吉捕物覚書 林不忘 その一 のの字の刀痕  早いのが|飛鳥山《あすかやま》。  花の噂に、横町の銭湯が賑って、ハ百八町の人の心が一つの|陽炎《かげろう》と立昇る、|安政《あんせい》三年の春未 だ寒い或る雨上りの、明けの五つと言うから|辰《たつ》の刻であった。  |唐桟《とうざん》の|素袷《すあわせ》に|高足駄《たかあしだ》を突っ掛けた|勘弁勘次《かんべんかんじ》は、|山谷《さんや》の伯父の家へ一泊しての帰るさ、朝帰り のお|店者《たなもの》の群と後になり先になり、|馬道《うまみち》から|龍泉寺《りゆうせんじ》の通りへ切れようとして|捏返《こねかえ》すような|泥 潭《ぬかるみ》の中を裏路伝いに急いでいた。  |伊勢源《いせげん》の質屋の角を曲って|杵屋助三郎《きねやすげさぷろう》と|懸行燈《かけあんどん》に水茎の跡細々と油の燃え尽した師匠の家の 前まで来ると、只事ならぬ人だかりが|岡《おか》っ|引《ぴき》勘次の眼を惹いた。 「何だ、喧嘩か、勘弁ならねえ」  |練名《あだな》にまで取った、「勘弁ならねえ」を連発しながら、勘弁勘次は職掌柄人波を分けて細目 に開けた格子戸の前に立った。  江戸名物の尾のない馬が、勝手なことを言い合っている其の言葉の端々にも、容易ならぬ事 件の突発したことが窺われた。 「おや、お前さんは|八丁堀《はつちようぽり》の勘さんじゃねえか」  |斯《こ》う言って其の時奥から出て来たのは、少し前まで|合点長屋《がつてんながや》の|藤吉《とうきち》の部屋で同じ釜の飯を食 っていた|影坊子《かげぼうし》の|三吉《さんきち》であった。彼は藤吉の口利きで今此の界隈の|朱総《しゆぷさ》を預る相当の顔役にな っていたものの、部屋にいた頃から勘次とは余り仲の好い間柄ではなかった。まして縄張りが 斯う遠く離れてからというものは、掛違ってばかりいて二人が顔を合わす機会もなかったので あった。 「何だ、喧嘩か、勘弁ならねえ」  勘次は内懐から両手を出そうともせず、同じ事を繰り返していた。 「相変らず威勢が好いのう」  |冷笑《ひやか》すような調子で笑いながら、 一なにさ|自害《じがい》があったのさ」  と三吉は事も無げに付け足した。 「自害か、面白くもねえーして。|琶《たぽ》か、野郎かP」  それでも幾分好奇心を|唆《そそ》られたと見えて斯う訊き返しながら、ふと勘次は格子内の土間の灰 溜りに眼を付けた。 「血だな」  彼は|独語《ひとりごと》のように言った。 「おおさ、|此処《このへん》で腹を突いたと見えて、俺が来た時は、|既《も》う黒くなりかけた血の池で足の踏場 も無え位いの騒ぎよ」  盲一旭入って検分したさに勘次はむずむずしていたが、自分から頼み込むのは業腹だった。其の 様子を見て取ったものか昔の|好《よし》みから三吉は、勘次を招じ入れて台所へ案内して行った。途々 畳の上に黒ずんだ斑点が|上権《あがりかまち》から続いているのを勘次は見逃さなかった。  台所の板の間に|柄杓《ひしやく》の柄を握ったまま男が倒れていた。傍に鉄瓶が転がっていて、熱湯を浴 びたものか、男の顔は判別が付かない程焼け|燗《ただ》れていた。腹部の傷口から溢れ出た血が板の合 せ目を伝って裏口に脱ぎ捨てた駒下駄へまで垂れていた。鉄の錆びのような|臭気《におい》に狭い家の中 は|咽《む》せ返るようだった。|綿結城《めんゆうき》に|胡麻柄唐桟《ごまがらとうざん》の|絆纏《はんてん》を羽織って白木の三尺を下目に結んでいる 着付けが、|何《ど》う見ても男は|吉原《なか》の地廻りか、兎に角堅気の者ではなかった。右の腹を左手で押 さえた儘、右の手は流し|許《もと》の水|甕《がめ》へ延びていた。水を呑みに台所まで這って来たものらしかっ た。手近いところに血だらけの出刃庖丁が落ちていた。 「|此家《ここ》の助さんの兄貴で|栄太《えいた》と言う遊人でさあ。お|神輿《みこし》栄太ってましてね。|質《たち》の好くねえ小博 変打ちでしたよ。何れ約束だろうが、まあ、何て死様をしたもんだ」  傍に立って居た差配の伊勢源が感慨無量と言った調子で説明の言葉を挟んだ。此の家の|主人《あるじ》 は杵屋助三郎と言う長唄の師匠だが、一昨日の暮れ六つに近処へ留守を頼んだまま女房のお|銀《ぎん》 と|甲府《こうふ》在の親元へ遊びに行って不在であった。栄太の死体が納豆売りの注進によって発見され たのは、今日の引明けで、表土間の血溜りから小僧が不審を起したのであった。家は内部から |巌丈《がんじよう》に戸締りがしてあった。それで先ず自殺ということに三吉始め立会人一同の意見が一致し たわけであるが覚悟の自害とすれば何故|態《わざわざ》々通りに近い表玄関を選んだか、それに切腹用に供 したと思われる刃物が現場から台所まで運ばれていることも、不思議の一つに|算《かぞ》えられた。入 口で腹を突いた人間が刃物を掴んだ儘裏まで這って来るということは|鳥渡《ちよつと》有りそうもなかった。 が、夢中で握っていたと言えば勿論それまでである。けれども、突いた後で気が弱って直ぐ其 の場へ取り落とす方が自然ではなかろうか、と勘次は考えた。何しろ窓には|内部《うち》から桟が下ろ してある事ではあり、表てにも裏にも中から|心張棒《しんばりぼう》が|支《か》ってあった事実から見て自殺と言う説 には疑を挟む余地がなかった。兄弟とは言え好人物の助三郎とは違い、人にも爪弾きされてい たという栄太の死顔を、鼻の先へやぞうを作ったまま勘次は鋭く見下ろしていた。無残に焼け た顔は、咽喉の下まで皮が剥けていて、一眼では誰だか見当が付かなかった。お神輿栄太とい うことは差配の伊勢源と近処の店子達の証言に依って判然したのであった。  今朝早く|例日《いっも》のように此町を通り掛かった|三河島《みかわしま》の納豆売りの子供が、呼声も眠そうに朝霧 の中を此の家の前まで来ると格子の中から異臭が鼻を衝いた。隙間から覗いて見ると赤黒い物 がどろっと玄関に流れていた。格子戸の内側にも飛ばしりがあった。確かに血だと思った子供 は、胆を潰して影坊子三吉の番屋へ駈け込んだのであった。時を移さず三吉は腕利きの|乾児《こぷん》を 連れて出張って来た。土間の血が点滴となって台所へ続き、其処の板敷に栄太が死んでいたの であった。苦しまぎれに水を呑みに流し許まで来たが、煮えくり返っていた鉄瓶の湯を被って、 それが落命の直接の原因となったらしかった。勘次は備伏しの死骸を直して傷痕を調べようと した。死体の手触りや血の色からみて、何うしても二十時以上は経っていると、思った。一昨 日の夜中、助三郎夫婦が、甲府へ向けて発足した後に自害したものらしかった。無人の留守宅 を助三郎は兄の栄太に頼んだのかも知れない。が、普段から兄弟仲の余り好くなかったと言う 人々の|密《ひそひそ》々話を勘次はそれとなく小耳に挟んだ。 「お役人の見える前に仏を動かすことは、勘さん、|揮《はばか》りながら止して呉んねえ」  苦々しそうに三吉は言い放った。と、表ての方に人声がどよめいて検死役人の来たことを知 らせた。それを|機会《しお》に勘次は無言の儘帰りかけた。勇みの彼の心さえ暗くなる程、栄太の死体 は|惨鼻《さんび》を極めていた。 「帰るか、そうか、藤吉親分へ宜しくな」  追い掛けるような三吉の声を|背後《うしろ》に聞き流して、勘次は返事もせずにぶらりと|戸外《  ちそと》の|泥津《ぬかるみ》へ 降り立った。が、出がけに其辺の格子の一つに小さい新しい|暇《きず》があるのを彼は素早く見て取った。  それとなく近処で何か問い合せた後、彼はハ丁堀の藤吉の家を指して|只管《ひたすら》道を急いだ。 二 「真っ平御免ねえ」  がらりと|海老床《ちちちえびどこ》の腰高障子を開けた勘次は、其処の敷居近くに|釘抜《くぎぬき》藤吉の姿を見出して吾に もなくほっと安心の吐息を洩した。 「勘、昨夜は山谷の伯父貴の許で寝泊りかー」  例によって町内の若い者を相手に朝から将棋盤に向っていた藤吉は勘次の方をちらっと見た なり吐き出すように斯う言った。吉原で|大尽《だいじん》遊びをして来たと景気の好い|嘘言《うそ》を|吐《つ》こうと思っ ていた勘次は、これでいささか出鼻を挫かれた形で|逡巡《たじたじ》となった。 「何うしてそんな事がお解りですいP」  端折った裾を下ろしながら、彼は藤吉の傍へ腰を掛けた。一流の豪快な調子で藤吉は笑っ た。 「お前の足駄には赤土が附いてるじゃねえか」  と彼は言った。 「して見ると今道普請をしている両国筋を通って来たらしいが、あの|方格《ほうがく》は此処から北に当る、 北と言えば差し詰め|北廓《なか》だが、手前と銭は敵司志、矢張り山谷の伯父貴の家でお膳の向うで長 談義に|痺《しび》れを切らしたとしか思えねえじゃねえか、え、こう、勘。こんな具合いに色々見当を 立てて見てよ、それを片っ端から|殿《こわ》して行って、お仕舞いの一つに留めを刺して推量を決める ってのが、お前の前だが、これは此の眼明かし稼業の骨ってもんだぜ」  その頃ハ丁堀の釘抜藤吉と言えば広い江戸にも二人と肩を並べる者のない凄腕の眼明かしで あった。さる|旗下《はたもと》の次男坊と生れた彼は、お定まり通り放蕩に身を持ち崩した揚句の果てが七 世までの|勘当《かんどう》となり、暫らく土地を離れて|水雲《すいうん》の|托鉢僧《たくはつそう》と酒落て日本全国津々浦々を放浪して いたが、|臆《やが》てお膝下へ舞い戻って来て、気負いの群から頭を|擾《もた》げて今では押しも押されもしな い、|十手捕縄《じつてとりなわ》の大親分とまでなっていたのであった。脚が釘抜のように曲がっているところか ら、釘抜藤吉と言う異名を取っていたが、実際彼の顔の何処かに釘抜のような正確な、執拗な 力強さが現れていた。小柄な貧弱な体格の|所有主《もちぬし》であったが腕にだけ不思議な|金剛力《こんごうりき》があって 柱の釘をぐいと引っこ抜くとは江戸中一般の取り沙汰であった。これが彼を釘抜きと呼ばしめ た|真正《ほんとう》の原因であったかも知れないが、本人の藤吉は其の名を|私《ひそ》かに誇りにしているらしく、 身内の者どもは藤吉の|鳩尾《みぞおち》に松葉のような小さな釘抜きの|刺青《ほりもの》のあることを知っていた。|現今《いま》 の言葉で言えば、非常に推理力の発達した男で、当時人心を寒からしめた、|壱岐殿坂《いきどのざか》の三人殺 しや|浅草仲店《あさくさなかみせ》の片腕事件などを奇麗に洗って名を売出した|許《ぱか》りか、其の頃江戸中に散っていた 大小の眼明かし岡っ引きの連中は大概一度は藤吉の部屋で釜の下を吹いた覚えのある者許りで あった。実際彼等の社会ではそうした経験が何よりの誇りであり、又頭と腕に対する一つの保 証でもあった。で、縄張りの厳格な約束にも係らず、彼だけは何処の問題へでも無条件で口を 出すことが暗黙の裡に許されていた。が、自分から進んで出て行くようなことは決してなかっ た。其の代り頼まれれば何時でも一肌脱いで、寝食を忘れるのが常であった。次から次と方々 から難物が持ち込まれた。それらを多くの場合推理一つで|快刀乱麻《かいとうらんま》の解決を与えて居た。名古 屋の金の|饒《しやちほこ》にお天道様が光らない日があっても、釘抜藤吉の睨んだ|犯人《ほし》に外れはないと言う 落首が立って、江戸の町々に流行りの唄となり無心の子守女さえお手玉の相の手に口|吟《ずさ》む程の 人気であった。  江戸っ児の中でも気の早いいなせな渡世の寄り合っているハ丁堀の合点長屋の奥の一棟が、 藤吉自身の言葉を借りれば彼の神輿の据え場であった。が、藤吉に要のある人は角の海老床へ 行って「親分え?」と顔を出す方が遥かに|早計《はやみち》であった。髪床の上権に大胡座を掻いて、鳶の 若い者や老舗の隠居を相手に、日永一日将棋を囲みながら|四方山《よもやま》の座談を交すのが藤吉の日課 であった。その傍に長くなって、時々|障《つか》えながら講談本を声高らかに読み上げるのが、閑の日 の勘弁勘次の仕事でもあった。もう一人の下っ引き|葬式彦兵衛《とむらいひこべえ》は紙屑籠を肩に担いで八百八町 を毎日風に吹かれて歩くのが持前の道楽だったのだった。  自宅へも寄らずに其の足で海老床へ駈け付けた勘次は、案の条呑気そうな藤吉を見出して其 儘|躍《にじ》り寄ると何事か耳許へ囁いた。 「遣ったり取ったり|節季《せつき》の|牡丹餅《ぼたもち》かー」  |任《こん》心な事を言いながら藤吉は他意なく棋盤を叩いていたが、勘次の話が終ると、つと|振《ヤ》り向い て、 『手前、何か、その格子の暇ってのは確か」  と訊き返した。勘次は大仰に頷いて胸板を一つ叩いて見せた。 「三吉の野郎が|自害《じげえ》と踏んでいるなら、今更茶々を入れる筋でもあるめえ」  と藤吉の眼は相手の差す駒から離れなかった。勘次は|狼狽《あわて》て又耳近く口を寄せた。 「うん」  一言言って釘抜藤吉はすっくと立上った。脚が曲がっている|故為《せい》か、据わっている時より一 層小男に見えた。 「彦も昼には帰る筈だ。どれ、じゃ一つ掘り返しに出掛けるとしようか」  床屋の店を一歩踏み出しながら彼は勘次を顧みた。 「巣へ寄って腹持えだ1勘、ど|豪《へえら》い道だのう」  それから|小半時《こはんとき》後だった。二人は首筋へまで跳ねを上げて、汁粉のような泥道を龍泉寺の方 へ拾っていた。直ぐ後から、これだけは片時も離さない紙屑籠を担いで葬式彦兵衛が面白くも なさそうに尾いて行った。 三  栄太の死骸は町組の詰所へ移された後だったが、兇事のあった杵屋の家は近処の者が人を雇 って固めてあった。-顔の売れている釘抜藤吉は勘次を連れた儘ずうっと奥へ通って行った。表 口の群集に混って彦兵衛は戸外から覗いていた。  死体の倒れていた台所では鳥渡辺りを見廻しただけだった。直ぐ格子戸へ引返して、|建仁寺《けんにんじ》 を|臭《カ》ぐ犬のように、鼻を一つ一つの桟と擦れ擦れに調べ始めた。真中から外部へ向って右手寄 り四本目の格子の桟に、例えば木綿針程の細い暇跡があって、新らしく削られたものらしく白 い木口が現れていた。土間の隅へ掃き溜められて灰を掛けた血の中へ指を突込んだ藤吉は、其 の指先を懐紙へ押して見ながら、 「うん、一昨日の子の刻だな」  と独語のように眩くと、格子を開けて戸外へ出た。未だ立ち尽している|閑暇《ひま》な人々は好奇の 眼を見開いて道を明けて彼の行動を見守った。人馬の往来も絶える程一日一晩降り抜いた昨日 の雨に、大分洗い流されてはいるものの、それでも、格子の中央の下目のところに足跡らしい 泥の印されてあるのが微かながらも認められた。藤吉は外側に立って指を開いて其の寸法を計 ると、今度は一尺程格子を離れて其の地点と格子の泥跡とを眼で一直線に結び付けて、|裾《しやが》んで 横から眺めていたが、 「|犯人《ほし》はー」  と言い掛けて勘次の耳を引張りながら、 「ー小男だぜ。優型の、背丈は先ず四尺と七ハ寸かな」  今更ながら呆然として勘次は藤吉の顔を|凝視《みつ》めていた。群集の向うに葬式彦兵衛の顔を見付 けると、つかつかと|歩《ちち  》み寄って藤吉は|低声《こごえ》で|私語《ささや》いた。 二足先きへ番屋へ行って三吉に渡りを付けて置きねえ。おいらも直ぐお前の跡を追掛けるか らな」  が、再び家の中へ引返した釘抜藤吉は台所の板の間に|凝然《じつ》と棒立ちになって、天井を見上 げた儘動こうとはしなかった。氷り付いたように天井板の一点から彼の視線は離れなかった。 そこに、雨洩りの模様に紛れて羽目板の合せ目に|遺《のこ》っているのは確かに血の|母指《おやゆび》の跡であっ た。  公儀役人の引挙げた後で番屋は割りに|寂然《ひつそり》していた。煙草の火に|炭団《たどん》を埋めた瀬戸の火桶均 仲に、三吉、伊勢源、それから下っ引彦兵衛と、死んだ栄太と親交のあったという|幣間桜川 某《たしこもちさくらカわなにがし》が、土間隅に|菰《こも》を被せた栄太の死骸を見返りながら何か|頻《しき》りに故人の噂さでもしているら しかった。其処へ勘次を連れて釘抜藤吉は眼で挨拶をして這入って行った。 「三、久し振りだのう」  言いながら彼は既に菰を|剥《は》ぐって、死体を覗き込んでいた。一同は事新しく其の周囲へ集っ た。不愉快そうな三吉の眼光を受けても、袖の先で鼻の頭を|擬《こす》った儘勘次はけろりと済まして いた。肉の塊りのように焼け|欄《ただ》れた死顔を暫時凝視ていた藤吉は、矢庭に死人の着物の袖を二 の腕まで捲り上げながら、背後の封巾間を顧みて口から出任せに言った。 「此の栄太さんの馴染みってのは、確か仲の町|岩本楼《いわもとろう》の|梅《うめ》の|井花魁《いおいらん》だったけのう」 「なんの」と箒間は|拳《けん》を打つような手付きを一つしてから、 「|弘法《こうぽう》も筆の過り、閉口閉口。一|文字《もじ》の|歌右《うたえ》衛|門姐《もんねえ》さんと二世を契った伸1」  皆まで聞かず、藤吉は葬式彦兵衛に|命令《いいつ》けた。 「手前吉原まで一っ走りして、其の歌右衛門さんとやらに知らせて来い。1それから」  と彦兵衛の後を追いながら何やら二言三言耳打ちした。その間に勘次は死骸の肌を開いて傷 痕を出していた。|正面《まえ》へ廻って藤吉は其の|柘榴《ざくろ》のような突傷を|擁《た》めつ|砂《すが》めつ眺めていたが、一 層身体を伏せると、指で傷口を辿り出した。それから手習いをするように自分の掌へ何かしら 書いていた。 「出刃で遣らかしたってえのかい?」  と三吉を振り返った。三吉は|叩頭《うなず》いた。そして序でに懐中から公儀の仕末書状を取り出して 見せた。が、それには眼も呉れずに、 「丑満近え子の刻に、|相構《そうごう》の判らなくなる程の煮え湯を何だって又沸かして置きやがったもん だろう」  死骸を離れながら藤吉は樵然として斯う言ったが、急に活気を呈して、 「勘、手前見たか、あれを」 「何ですいP」 「とちるねえ、天井板の指痕をよ」 「へえ、見やした。確かに見やしたぜ」 「ふうん」と、藤吉は考えていた。と、差配の伊勢源へ向き直って、 「きっぱり黒白を付けてえのが、あっしの|性《ち  》分でね、天下の|公事《くじ》だ。天井板の一枚位え次第に 依っちゃ引っぺがすかも知らねえが、お前さん、四の五の言う筋合いはあるめえのう」 「四の五のなんぞと滅相もない。親分のお役に立つなら、はい、何枚でもー」  と伊勢源は狼狽して言った。  藤吉は会心らしく微笑した。 「勘、行って来い」 「合点だ」  声と共に勘弁勘次は程近い杵屋の家へ出掛けて行った。  後で藤吉は人々の口から、助三郎夫婦が時々犬も食わない大喧嘩をしたことや、死んだ栄太 は助三郎の実の兄で、ちょくちょく杵屋へ出入りしていたが、穏和な弟とは似ても寄らず、箸 にも棒にも掛からない悪党であったこと、栄太が自害した一昨日の暮れ早々助三郎夫婦は女房 お銀の実家甲府在へ旅立ちしたことなど、それとなく聞き出したのであった。栄太の自殺が一 昨日の真夜中に行われたとすれば、戸外から這入った形跡のない以上、助三郎夫婦の発った時 栄太は既に留守宅にいた筈であった。が、|抑《そもそも》々何の為に自分自身の腹を突いたかー。 「甲府の助さんとこへ飛脚を立てずばなるまい」と、伊勢源が一座の沈黙を破った。 「はっはっはー」  突然藤吉が咲笑した。一同は唖然として彼を見守った。 「先ず先ず其の心配にも当たるめえ」  と彼は面白そうに言って退けた。 「なにさ、今直ぐ解るこったが、飛脚を立てるなら|三途《さんず》の川の渡し銭を持たして遣らなくちゃ なるめえって寸法よ。なあ三吉、手前も合点長屋の巣立ちじゃねえか、よっく玉を見ろい、そ れあ、お前出刃の傷じゃねえぜ。ヒ首だ。九寸五分の切れ味だい、玉の傍に出刃を置いといた ところが、はははは、これが真物の|小刀細工《こがたなざいく》ってもんだろうぜ。一昨日からの仏ってことは 肌の色合いと血の粘りで|木偶《でく》の坊にも解りそうなもんだ。昨日はあの雨で一日|発見《めつか》らずに済ん だ丈けのことよ」  そこへ勘次が息せき切って帰って来た。 「親分、あの板を剥して裏天井の明取りからずらかったに違えねえ。埃りの上に真新しい足跡 だ」 「えっ」と並居る連中は驚きの声を上げた。 「ふん。大分そんな狂言だろうと思ってたところだ」  と藤吉は改めて人々の顔を見渡した。 「此の界隈に左手利きは居ねえか」  伊勢源と封巾間が一緒に叫んだ。 「お銀さん!」 「違えねえ」  と藤吉は笑った。 「格子の外から刺して置いて戸へ足を掛けて刀物を抜いた事は格子の毅でも見当は付くが、其 の足跡から見ると、お銀さ人てえのは、四尺七ハ寸の優形で女の身の持ち方知らずに刃を下へ 向けたところから、左手利きを其の儘出して|刀痕《あと》がのの字1」 「おう、親分え」と、戸口で大声がした。 「彦か、好い処へ帰って来た。して首尾は?」 「なに、お前さん」と吉原から帰って来た彦兵衛は、小気味好さそうに独特の微苦笑を洩しな がら言葉を継いだ。 「一文字の|歌《うた》と栄太の野郎とは、馴染みどころか、|二度《うら》を返した|許《ぱか》りの浅え仲だってまさあ。 そんな事より耳寄りなのは、栄太の二の腕にー」 「お銀命の刺青か」  と藤吉が後を引取った。 「えっ!」  と叫びながら影坊子三吉は兎のように隅へ飛んで行って、めりめりと死骸の袖を破った。栄 太の腕は女のように白くて|黒子《ほくろ》一つなかった。  人々は樗然と顔を見合った。 「栄太とお銀で仕組んだ芝居だあな。お銀が戸外から夫の助三郎を突いた後で、栄太の野郎が 這入り込んで、内部から|全部《すつかり》戸締まりし、出刃に血を塗って捨てて置いたり、煮え湯を掛けて そっぽを剥いたりしやがって、手前は天井からどろんを極めた丈けのことよ。まあ、あまり遠 くへも草鮭は|穿《ナひ》くめえ、三吉、犯人を挙げるのは手前の役徳、あっしあこれから|海《ちちヤ》老床さ、へ っへ。豪えおハ|釜《やかま》しゅうごぜえやした。皆さん、御免下せえやし」  藤吉の|尾《しり》に付きながら勘弁勘次は、彦兵衛を返り見た。 「彦、紙屑籠を忘れるなよ」  葬式彦兵衛は眼だけで笑って口の中で眩いた。 「ああ、身も婦人心も不仁欲は常、|実《げ》に理不尽の巧みなりけりとね」 四  深川木場の船宿、千葉屋の二階でお銀栄太の二人が影坊子三吉手下の取手に召捕られたのは、          とがま                              つくぱおろし     なび 翌る四年も秋の末、利鎌のような月影が大川端の水面に冴えて、河岸の柳も筑波颪に斜めに靡 く頃であった。  白洲へ出ては|流石《さすが》の二人も恐入って逐一白状に及んだ。  従前から二人の仲を臭いと見ていた助三郎は、嫌がるお銀を無理に暫時江戸を離れてるよう にと、甲府を指して発足したが、小一町も来ない内に後から栄太に追い掛けられて、世間の手 前途上の|口論《いさかい》が嫌さに自宅へ引っ返したのであった。栄太の難題は例時と同じに金の無心から 始まった。|金子《きんす》の入要な旅先の事ではあり、そうかと言って|拒絶《ことわ》れば後が怖いし、|殆《ほとほと》々困じ果 てた助三郎は、言われるままにお召の上下を脱ぎ与えて栄太と衣裳を交換したのであった。が、 栄太の助けに力を得て、お銀は一層甲府落ちを拒み出した。平素からの疑いが確められたよう に感じて、助三郎は思わずかあっとなった、|醜《ヤ  》い争いが深夜まで続いた後、折柄|篠突《しのつ》く許りの 土砂降りの中をお銀は戸外へ不貞腐れ出たのだった。後を追って助三郎が格子へ手を掛けた時、 雨に濡れた冷い刃物が彼の|脾腹《ひばら》を|割《えぐ》った。一切の物音は豪雨が消していた。それから後の姦夫 姦婦の行動は釘抜藤吉の推量と附節を合わすように一致していて、時の奉行も今更藤吉の推理 力に舌を巻いたのであった。   安政三年十二月白洲に於て申渡し左之通り   馬道無宿   栄太   三十六歳   其方儀弟妻阿銀と密通致し其上阿銀の悪事に荷担致し候段重々不届に付町中引廻しの上浅   草に於て獄門申付くる事   龍泉寺町   ぎん   二十四歳   其方儀夫兄栄太と密通致し其上夫助三郎を殺害候段重々不届に付町中引廻しの上浅草に於   て獄門申付くる事   龍泉寺町家持差配   伊勢屋源兵衛   其方儀不将の筋も無之付構いなき事                     ふもん  上に黄ハ丈下に白無垢二つを重ねて本縄を打たれ、襟には水晶の珠数を掛け口に法華経普門 職を唱えながら馬に揺られたお銀の姿が、栄太と共に江戸町を引き廻わされた埃りっぽい日の 皿争下り、八丁堀の合点長屋へ切れようとする角の海老床で、釘抜藤吉は勘次を相手に飛車や 王手と余念がなかった。 |長閑《のどか》な煙草の輪を吹きながら、藤吉は持駒で盤を叩いていた。 「え、こう、勘。遣ったり取ったり1節季の牡丹餅と来るかな」 その二 宇治の茶箱 「勘の野郎を起す程の事でもあるめえ」  合点長屋の土間へ降り立った釘抜藤吉は、未だ明けやらぬ薄暗がりのなかで、足の指先に駒 下駄の緒を|探《まさぐ》りながら、独語のように斯う言った。後から続いた岡っ引きの葬式彦兵衛も|例《いつ》も の通り不得要領ににやりと|笑《ちち 》いを洩らした|丈《だ》けでそれでも完全に同意の心を表していた。始終 念仏のようなことをぶつぶつ口の中で眩いているほか、大慨の要は例のにやりで済まして置く のが、此の男の常だった。.其の代り物を言う時には、必要以上に大きな声を出して辺りの人を |吃驚《びつくり》させた。非常に嗅覚の鋭敏な人間で、紙屑籠を肩に担いでは、その紙屑の一つのように江 戸の町々を風に吹かれて歩きながら、ねたを挙げたり犯人を尾けたり、それに毎日のように落 し物を拾って来るばかりか、時には手懸り上大きな獲物のあることもあった。実は彼の|十《おは》ハ|番《こ》 の尾行術も、大部分は異常に発達した其の鼻の力に依るところが多かった。早い話が|凡《すべ》ての人 が彼に取っては|種《いろいろ》々な品物の|臭気《におい》に過ぎなかった。親分の藤吉は|柚子味噌《ゆずみそ》、兄分の勘弁勘次は |佐倉炭《さくらずみ》、角の海老床の親方が|日向《ひゆうが》の油紙、|近江屋《おうみや》の隠居が檜1まあ、ざっとこんな工合いに 決められていたのだった。 「何でえ、まるっきり|洋犬《かめ》じゃねえか。くそ|面《へ 》白くもねえ、そう言うお前は一てえ、何の臭い だか、え、彦、自身で伺いを立てて見なよ」  中っ腹の勘次はよく斯う言っては、癩半分の冷笑を浴びせかけた。そんな場合、彦兵衛は口 許丈けで笑いながら、いつも、 「俺らか、俺らあ只の|茶羅《ちやら》っぽこ」  と唄の文句のように、言い言いしていた。此の茶羅っぼこが果して勘次の推測通り、唐の|草 根木皮《そうこんもくひ》の一種を意味していたものか、或いは単に卑俗な発音語に過ぎなかったものか、其処ら は彦兵衛自身も|確《しか》とは極めていないようだった。此の男には大分いやしい血が混じっていると は、口さがない一般の取沙汰であったが、勘次も藤吉も知らぬ顔をしていた許りか、当人の彦 兵衛は只にやにや|笑《ちヤ ち》っている丈けで、|頭《てん》から問題にしていないらしかった。  |薬研堀《やげんぼりキ》べったら|市《ちちヤ》も二旬の内に迫った今日此頃は、朝な朝なの外出に白い柱を踏むことも珍 しくなかったが、殊に此の冬になってから一番寒い或る日の、薄氷さえ張った夜の引明け七つ 半という時刻であった。出入先の同心の家で、殆んど一夜を語り明かした藤吉は、八丁堀の合 点長屋へ帰って来ると間もなく、前後も不覚に|軒《いぴき》を掻き始めた其の寝入り|端《ぱな》を、逆さに|扱《しご》くよ うに慌だしく叩き起されたのであった。 「親-親分え、|具足町《ぐそくちよう》の|徳撰《とくせん》の1若えもんでごぜえます。|鳥渡《ちよつと》お開けなすって下せえま し。飛んでもねえ事が起りましただよ、え、もし、藤吉の親分え」  女手のない気易さに、斯んな時は藤吉自身が格子元の下駄脱ぎへ降りて来て、立附けの悪い 戸をがたぴし開けるのが定りになっていた。納戸の三畳に煎餅蒲団を被って、勘弁勘次は馬の ようにぐっすり寝込んでいた。 「はい、はい、徳撰さんの|何誰《どなた》ですいP はい、今開けやすよ、はい、はい」  寝巻きの上へどてらを|羽《ちちち》織った儘、上権と|沓脱《くつぬ》ぎへ片足ずつ載せた藤吉は、商売柄斯うした 場合悪い顔も出来ずに、手がかりの|宜《よ》くない千本格子を力任せに引開けようとした。音もなく 何時の間にか、背後に彦兵衛が立っていた。両手を|懐中《ふところ》から|噸《あご》のところへ覗かせて、彼は寝呆 けたようににやにやしていたが、 「親分」  と捻るように言った。 「何だP」 「お寝間へお帰んなせえ。徳撰の用はあっしが聞取りを遣らかすとしよう」 「まあ、いいやな」  と、一尺程また力を入れて右へ引いた戸の隙間から、頭へ雪の|花弁《はなびら》を被って、黒い影が|前倒《のめ》 るように飛び込んで来た。具足町の葉茶屋徳撰の荷方で一昨年の暮れに奥州から出て来た|仙太《せんた》 離という二+二三の若者だった。桟へ指を掛けていた藤吉の腕のなかへ、何のことはない、毬 のように彼は転がり込んで来たのだった。急には口も利けない程、息を弾ませているのが、何 事か只ならぬ事件の突発したことを、只それだけで充分に語っていた。半面に白い物の消えか かった顔の色は、戸外の薄明りを受けて、|宛然《さながら》死人のようであった。隙洩る暁の風のためのみ ならず、流石の藤吉もぶるっと一つ身震いを禁じ得なかった。 「朝っぱらからお騒がせ申して済みません」と腰から取った手拭いで顔を拭き乍ら、仙太郎が 言った。出入り先の徳撰の店で度々顔を合しているので、この若者の|人普《ひとなみ》外れて几帳面な|習癖《くせ》 を識っている藤吉は、今その手拭いが|例《いつ》になく鐵だらけなのを見て取って、何故か鳥渡変に思 ったのだった。 「誰かと思やあ、仙どんじゃねえか、まあ、落付きなせえ、何事が起りましたいp」 「親分、大変でごぜえますよ」  と仙太郎は|怯《おずおず》々藤吉の顔を見上げた。 「只大変じゃ判らねえ。物盗りかい、それとも何かの間違えから出入りでもあったというのか い。ま、背後の板戸を締めて貰って、|概略《あらまし》事の次第を承るとしようじゃねえか」  言われた通りに背手に戸を閉め切った仙太郎は又改めて、 「親分」  と声を潜めた。この若者の大仰らしさにいささか度胆を抜かれた形の藤吉と彦兵衛は、今は 眠さも何処へやら少し可笑しそうな顔をして首を|疎《すく》めていたがそれでも藤吉だけは、 「何ですいP」  と思い切り調子を落して相手に釣り出しを掛けることだけは忘れなかった。冷え渡った大江 戸の朝の|静寂《しずけさ》が、|舞《ひしひし》々と土間に立った三人の|周囲《まわり》を押し包んだ。何処か遠くで早い一番鶏の鳴 く声-戸面の雪は小降りか、それとも止んだか。 「親分、旦那が昨夜首を吊りましただよ」  |放然《ぼんやり》と戸外の|気勢《けはいう》を|覗《かが》っていた藤吉の耳へ、|竹突棒《たけづつぽう》を通して来るような、無表情な仙太郎の 声が響いた。瞬間、藤吉はその意味を頭の中で常識的に解釈しようと試みた。と、気味の悪い 程突然に、葬式彦兵衛が高笑いを洩らした。 「仙さん、お前寝る前にとろの|古《ち 》いんでも|撮《つか》みなすったか、あいつあ好くねえ夢を見させやす からね。はっはっは」が、押っ被せて仙太郎が色を失っている唇を不服そうに尖らせた。 「夢じゃありましねえ」 「と言うとP」藤吉も思わずきっとなった。 「なあに、夢なら夢でも正夢でごぜえますだよ。旦那の身体が、お前さま、置場の梁にぶら下 ってー」 「だが、仙さん、お待ちなせえ」  と彦兵衛は何時になく口数が多かった。 「あっしが昨夜お店の前を通った時にゃ、旦那は帳場傍の大火鉢に両手を|窮《かざ》して戸外を見てい なすったがー」 「止せやい」  と藤吉が噛んで吐き出すように言った。 「その顔に死相でも出ていたと言うんだろう」 「ところが」と彦兵衛も負けていなかった。 「死相どころか、無病息災長寿円満1」 「そこで」  と藤吉は彦兵衛の此の経文みたいな証言を無視して、細く肩を震わせている仙太郎へ向き直 った。 「お届けは済みましたかい」  ごくりと|唾《 ヤ 》を呑み込みながら、仙太郎は子供のように|頷首《うなず》いて見せた。  満潮と一緒に|大根海岸《だいこんかし》へ上って来る|荷足《にたり》の一つに、今朝は|歳末《くれ》を当て込みに|宇治《うじ》からの着荷 がある筈なので、何時もより少し早目に起き出た荷方の仙太郎は、提燈一つで勝手を知った裏 の置場へ這入って行くと、少し広く空きを取ってある真中の仕事場に、宙に浮いている主人|撰 十《せんじゆう》の姿を発見してのけ反る程胆を潰したのだった。狂気のように家へ駈け込んだ彼は、大声を 張り上げて家中の者を起すと同時に、番頭|喜兵衛《ま へえ》の采配で手代の一人は近所にいる出入りの医 者へ、飯焚きの男が三町おいた番太郎の小屋へ、そして発見者たる彼仙太郎は斯うして一応|縄 張《なわぱり》である藤吉の許まで知らせに走ったのであった。 「そうして、何ですかいP」  帯を結び直し乍ら藤吉が訊き返した。 「旦那方は|既《も》うお見えになりましたかいP」  此処へ来るより番屋の方が近いから、役人達も今頃は出張しているであろうと答えて、藤吉 らも直ぐ後を追っ掛けるという|言質《げんち》を取ると、燃えの低くなった提燈の蠣燭を庇いながら、折 柄軒を鳴らして渡る朝風のなかを、来た時のように呼吸を弾ませて仙太郎は飛ぶように合点長 屋の露路を出て行った。  勘次の軒だけが味噌を摺るように聞こえていた。藤吉と彦兵衛は意味ありげに顔を見合って 暫時上枢に立っていたが無言の裡に手早く用意を|調《ととの》えると、藤吉が先きに立って表ての格子戸 に手を掛けた。 「勘の奴は寝かして置け」  と独語のように彼は言った。微笑と共に、彦兵衛は規則正しく雷のような音の響いて来る納 戸の方をちらと見返りながら歪んだ日和下駄の上へ降り立った。 「彦」  と藤吉が顧みた。 「|五月蝿《うるせ》えこったのう。が、夜の明ける前にゃ一つ形を付けるとしようぜ」 「お役目御苦労」  と彦兵衛は笑った。 「|戯《ふざ》けるねえーそれにしても斯う押し詰ってから大黒柱がぼっきりと来た日にゃ、徳撰の店 も上ったりだろうぜ。そこへ行くと、お前の前だが、一代|分限《ぷんげん》の悲しさってものさのう」 二  |永代《えいたい》の空低く薄雲が漂っていた。  彦兵衛一人を|伴《つ》れた釘抜藤吉は、其儘八丁堀を|岡崎《おかざき》町へ切れると|松平越中守《まつだいらえつちゆうのかみ》殿の下屋敷 の前から、紫いろに霞んでいる|紅葉《もみじ》橋を渡って|本姫木《もとひめき》町七丁目を飛ぶように、通り三丁目に近 い具足町の葉茶屋徳撰の|店頭《みせさき》まで駈けつけた。 「五つ頃までに|将《らち》があいて呉れるといいがー」  一枚取り外した大戸の前に、夜来の粉雪を踏んで足跡の乱ているのを見ると、多年の経験か ら事件の難物らしいのを直感した藤吉は、斯う眩きながら、その戸のなかへ這入り込んだ。燭 台と大提燈の灯影に物々しく多勢の人かげが動いているのが、闇に馴れない彼の眼にも|判然《はつきり》と 映った。 「これは、これは、ハ丁堀の親分。ようこそーと言いてえが、何うもはや飛んだことで、。さ、 さ、ずっとーなにさ、屍骸は未だそっと其の儘にして置場にありやすよ」  |任《こ》心う言いながらそそくさと|出《ヤちちち》て来たのは町火消の頭|常吉《つねきち》であった。 「旦那衆はもうお見えになりましたかい」  番太郎が|途草《みちぐさ》を食っているわけでもあるまいが、何うしたものか、検視の役人は未だ出張し て来ないという常吉の答えを背後に聞き流して、湿っぽい大店の土間を、台処の飯焚釜の前か ら茶箱の並んでいる囲い伝いに、藤吉と彦兵衛の二人は常吉に案内させて通って行った。  不時の出来事のために気も転倒している家中の人々は、寒そうに懐手をした二人を見ても、 挨拶どころか眼にも入らないように見受けられた。何か大声に怒鳴りながら店と奥とを行った り来たりしている白鼠を、あれが大番頭の喜兵衛だなと藤吉は横眼に睨んで行った。近い親類 の者も駈けつけたらしく、広い家のなかはごった返していた。何か不審の筋でもあるとすれば、 調べを付けるのに此の騒動は|尤怪《もつけ》の幸いと、却って藤吉は心のなかで喜んだのだった。  白壁の蔵に近く、木造の一棟が|総死《いし》のあった茶の置場であった。先刻の仙太郎が青い顔をし て入口に立ち番をしていた。近所や出入りの者が未だ内外に立ち騒いでいたが、折柄這入って 来た三人を見ると、申し合わせたように皆口を喋んで、掛り合いを恐れるかのように逃げると もなく出て行って|終《しま》った。 「徳撰」と筆太に墨の入った提燈の明りに照らし出されて、天井の梁から一本の綱に下がって いるのは、紛れもない此家の主人徳村撰十の変り果てた姿であった。  生前お関取りとまで紳名されていた丈けあって、|大兵《だいひよう》肥満の撰十は、斯うして歳暮の鮭のよ うに釣る下がったところも何となく威厳があって、今にも聞き覚えのある濁み声で、 「合点長屋の親分でげすかえ。ま、ちょっくら上って一杯出花を畷っていらっしゃい」  とでも言い出しそうに思われた。それが一つの可笑しみのようにさえ感じられて、前へ廻っ て屍体を見上げたまま、藤吉はいつまでも黙りこくって立っていた。昨夜見た時はぴんぴんし ていた人の此の有様に、諸行無常生者必滅とでも感じたものか、鼻汁を手の甲へ擦りつけなが ら、彦兵衛も寒々と肩を|疎《つぼ》めていた。梁へ掛けた強い綱が、重い屍骸を小揺ぎもさせずに静か に支えていた。東寄りの武者窓から雪の手伝った暁の光りが射し込んで、屍体の足の下に、そ の爪先きと殆んど摺れ摺れに、宇治と荷札を貼った茶の空箱が置かれてあるのが、浮かぶよう に藤吉の眼に這入った。 「見込みが外れて、捌けが思うように付かねえと、実は昨日朝湯で顔を合わした時も、それを |非道《ひど》く苦に病んでおいでのようだったが、解らねえもんさね、まさか斯んなことになろうたあ、 あっしもー」  と言いかけた常吉の言葉を取って、 「何ぞ他に自滅の|因《もと》と思い当たるような筋合いはありませんかね。頭は此の家とは別して近し く出入していたようだが」  と藤吉は眠そうに装って相手の顔色を窺った。 「さあー」と常吉は頭を掻いた。 「何しろ、お内儀さんが三年前の秋に先立ってからと言うものは、旦那も焼きが廻ったかして、 商売の方も思わしくなく内証も仲々苦しいようでしたよ、が、こんな死様をしなけりゃならね  わ け                                         こ                             おうしゆう え理由もーあったようにあ思われねえがーいや態う言っちゃ何だが、例の、そら、奥州 |路《じ》の探しものにさっぱり当たりが付かねえので、旦那も始終それが白髪の種だと言い言いして いましたがね」  藤吉は聞耳を立てた。 「それで、その奥州路の探し物ってなあ何だね。まさか、飛んだ|白糸噺《しらいとぱなし》の仇打ちという時代 めいた話でもあるめえ」 「すると、未だ親分は|徳松《とくまつ》さんの一件を御存じねえと言うんですかい」  と常吉は呆れて見せた。 「初耳ですね」と藤吉は|囎《うそぶ》いた。 コ体その徳松さんてのは何処の|何誰《どなた》ですい?」 「話せば永いことながらー」  根が呑気な常吉は悪うした場合にも斯んな事を言いながら、少し調子付いて藤吉の顔を見詰 めた。それを遮るように藤吉は手を振った。 「ま、後から聞きやしょう。死人を前に置いて因果話もぞっとしねえ。それよりーおい、 彦」  と、彼は傍に立っている彦兵衛を返り見た。 「お前ちょっと其処へ上って、仏を下ろして呉んねえ。御検視が見えるまでぶら下げて置くが ものもあるめえよ」  言い乍ら屍骸の真下にある宇治の茶箱を頗で|指《ゆびさ》した。恐らくこれを台にして死の|首途《かどで》へ上っ たらしい其の空箱が、此の場合其儘直ぐ役に立つのであった。  無言の儘彦兵衛は箱の上に立って、両手を綱の結び目へ掛けた。二三歩後へ退って二人はそ れを見上げていた。力を込めているらしいものの、綱は仲々解けなかった。屍体の両脚を横抱 きにして、藤吉は下からそっと持ち上げて遣った。死人の顔と摺れ合って、油気のない頭髪が 額へ掛かって来るのを五月蝿そうに掻き退けながら、彦兵衛は不服らしく言った。 「畜生、何て又堅いたまを持えたもんだろう」  その時だった。 「解けねえか。宜し、|糸玉《たま》の上から切って終え」  と、藤吉の言葉の終らない内に大きな音を立てて、箱が殿れると、痩せた彦兵衛の身体が火 箸のように二人の足許へ転がり落ちた。思わず手を離した藤吉の鼻先きで、|宛《あたか》も冷笑するかの ように、総死人の身体が小さく揺れた。箱の|破片《こわれ》を手にしながら、異常に光る視線を藤吉は、 今起き上って来た彦兵衛へ向けた。 「吹けば飛ぶような手前の重さで殿れる箱が、何うしてこの大男の足場になったろう。しかも 呼吸が停まるまでにゃ、大分箱の上でじたばたした筈だがー」 「自滅じゃねえぜ、親分」  と言う彦兵衛を、 「ハ|釜《やかま》しいやい」  と極めつけて置いて藤吉は、 「今見たような訳で、わしにはちっとばかし合点の行かねえところがある。旦那方が来ちゃ面 倒だ。頭、|梯子《はしご》を持って来て屍骸を下ろしてお呉んなせえ。なに、綱は上の方から引っ切った って構うもんか。それから、彦、何を手前はぼやぼやしてやがる。この置場の入口を少し|嗅《け》え で見て、 その足でお店の奉公人たちを一人残らず洗って来い」 三  店の者は大番頭の喜兵衛以下飯炊きの|老爺《おやじ》まで全部で十四人の大家内だった。が、彦兵衛の |調査《しらべ》に依ると、その内一人として怪しい顔は見当らなかった。薄く地面を覆った雪のためと、 それを慌てて踏み|踊《にじ》った諸人の足跡のために、置場の入口からも何らの目星い手掛りも得られ なかった。 「旦那方、御苦労さまでごぜえます」  折柄来合わせた町奉行の同心の下役に斯う挨拶すると、頭の常吉を土蔵の前へ呼び出して、 藤吉は改めて、徳松一件の続きへ耳を傾けた。  二十何年も前のことだった。其頃の下町の大店なぞによくある話で、女房のおさえが病身な ままに、主人の撰十は小間使いのお|冬《ふゆ》に手をつけて、徳松という男の子を生ませたのであった。 |若干《なにがし》かの手切金を持たせて、母子諸共お冬の実家奥州|仙台《せんだい》は|石《いし》の|巻《まき》へ帰したのだったが、それ からというもの、雨につけ風につけ、老いたる撰十の思い出すのは其の徳松の生立ちであった。 只一代で具足町の名物とまで、店が売り出して来るにつれ、妻に子種のないところから一層こ の不幸な息子のことが偲ばれるのであった。此の|徳村《とくむら》撰十という人物は、只の商人ばかりでは なく、茶の湯俳譜の道にも相当に知られていて、その方面でも広く武家屋敷や旗下の隠居所な ぞへ顔を出していた。彼のこの趣味も元来好きな道とは言いながら寄る年浪に跡目もなく、若 い頃の一粒種は|行衛《ゆくえ》知れず、殊に三年前に女房に別れてからと言うものは、店の用事は殆んど 大番頭の喜兵衛に任せ切っていたので、只此の世の味気なさを忘れようとする一つのよすがに していたらしいとのことだった。だが、これだけの理由で、此頃は内輪が苦しいとは言うもの の、此の大店の主人が、|書遺《かきお》き一つ残さずに首を緯ろうとは藤吉には何うしても思えなかった。 「それで、その、何ですかい」と藤吉は常吉の話の済むのを待って口を入れた。 「その徳松さんとかってえ子供衆は、今だに行方知れずなんですかい」 「子供と言ったところで、今頃はあの荷方の仙太郎さん位にi」  と答えようとする常吉を無視して、丁度其処へ水を汲みに来た女中の傍へ、藤吉は足早に進 み寄って何事か訊ねていたが小声で彦兵衛を呼んで其の耳へ吹き込んだ。 「おい、一っ走り|馬喰《ぱくろ》町の|吉野《よしの》屋まで行って、|清二郎《せいじろう》という越後の|上布《じようふ》屋を突き留めて来て呉 れ」  |頷首《うなず》いた彦兵衛の姿が、台所の薄暗がりを通して戸外の方へ消えて終うと、置場へ引っ返し て来て藤吉は、検視の役人に声を掛けた。 「旦那、こりゃあ何うも質の好くねえ狂言ですぜ。兎に角この自滅にゃ不審がありやすから、 すこし詮議をさせて載きやしょう」 「そうか、|乃公《おれ》も何だか怪しいと思っていたところだ」  と髪のあとの青々とした若い組下の同心が、負けない気らしく少し反り返って答えた。 「手間は取りませんよ。なに、今直ぐ眼鼻を付けて御覧に入れます」  苦々しそうに任心う言い切ると、その儘藤吉は店へ上り込んで、茶室めいた奥座敷へ通ずる|濡 橡《ぬれえん》の端へ、大番頭の喜兵衛を呼び出した。二本棒の頃からこの年齢まで、死んだ撰十の下に働 いて来たという四十がらみの前掛けは、如何にも苦労人めいた|態度《ものごし》で、藤吉の問いに対して一 一|明瞭《はつきり》と受け答えをしていた。昨日、三年振りで越後の上布屋清二郎がお店へ顔を見せたとい うことは、先刻女中の話でも判っていたが、それが、正午前から来て暮れ六つまで居間で主人 と話し込み、迫る夕闇に驚いて|倉皇倉皇《そこそこ》に座を立ったというのが、一層藤吉の注意を惹いた。 「その時お店は|忙《せわ》しかったんですかい?」  と眼を細めて彼は喜兵衛の顔を見守った。葉茶屋と言っても卸しが主なので、毎日夕方は割 りに閑散なのが何う言うものか昨日のは、仲々立て込んでいたという返事に、満足らしく微笑 しながら、藤吉は又質問の網を手繰り始めた。 「その清二郎さんという反物屋は、この三年奥州の方を廻って来たということですが、真実で すかいP」 「へい、何でもそんなことを言って、仙台の鯛味噌を一樽店の者たちへ土産に持って参りまし た、へい」 「成程」  と藤吉は腕を|供《こまぬ》いた。と、中庭の植込みを透かして見える置場の横を噸で指しながら、 「あの小屋へは左手の露路からも|這入《へえ》れますね」 「大分垣が|破《こわ》れていますから、潜ろうと思えばー」  という番頭の言葉を仕舞いまで待たずに、 「旦那は盆栽がお好きのようだったから、それ、そこの庭にある鉢植にも、大方自身で水をお 遣りなすった事でしょうーが、それにしちゃー」と藤吉は小首を傾けながら橡端近くの|沓 脱《くつぬぎ》石へ眼を落した。 「何処にも庭下駄が見えねえのは何ういうわけでごぜえます?」 「おや!」  と喜兵衛は小さく叫んで庭中を見渡した。 「はははは」と藤吉は笑った。 「庭下駄は置場にありやすよ。裏っ返しや横ちょになって、隅と隅とに飛んでいるのを、あっ しゃあ確と|白眼《にら》んで来やした。斯う言ったら既うお解りだろうが、今一つお訊きしてえことが ある。他でもねえが、海に由緒のあるところから来ている者が、一体何人お店に居ますいP」 「さあー」  と番頭は暫らく考えた後、 「先ず一人はございますな」 「喜兵衛さん」  と改まって藤吉は声を潜ませた。 「お店から一人縄付きが出ますぜ」 「えっ」  喜兵衛は顔の色を変えた。 「いやさ」と藤吉は微笑した。 「旦那の|喪《ね》え後は、言わばお前さんが此の家の元締め、で、お前さんにだきゃあ、手を下ろす 前に耳に入れて置きてえんだが、縄付きどころの騒ぎじゃねえぜ。知っての通り、喜兵衛さん、 主殺しと言やあ、引廻しの上、落ち着く先はお定りの、差し詰め|千住《せんじゆ》か|小塚《こづか》っ|原《ぱら》1」 「あっ!」  と喜兵衛は大声を挙げた。既う白々と明るくなった中庭の隅に、煙りのように黒い影が動い たのだった。 「あれですかい」  と藤吉は笑った。 「今の脅し文句も、実は、あのお方にお聞かせ申そうの魂胆だったのさ」  庭の影は這うように生垣へ近づいた。 「おい、仙どん」  藤吉は呼び掛けた。 「お前其処にいたのか」  猿のような鳴声と共に、ひらりと仙太郎は庭隅から露路へ飛び出した。 「野郎、待てっ」  裸足の儘藤吉は庭の青苔を踏んだ。 「親分」  と、葬式彦兵衛が橡側に立っていた。 「吉野屋へ行って来やしたよ」 「居たか」  垣根越しに仙太郎の後を眼で追いながら、任心う藤吉は怒鳴るように訊いた。 「清の奴め青い面して震えていやがったが、浅草橋の|郡代前《ぐんでえめえ》へ引っ立てて、番屋へ預けて|参《めえ》り やした」 「|出来《でか》した」  と一言云いながら、藤吉は橡へ駈け上った。 「彦、仙公の野郎が風を食いやがった。露路を出て左へ切れたから稲荷橋を渡るに違えねえ。 未だ遠くへも走るめえが、|手前《てめえ》一つ引っ|括《くく》って来るか」 「ほい来た」  と彦兵衛は鼻の頭を擦り上げて、 「何処までずらかりやがっても、おいらあ奴の香を利いてるんだから世話あねえのさ。親分、 あの仙公て小僧は|藁臭《わらくせ》えぜー」 「はっはっは、また道楽を始めやがった。さっさとしねえと大穴開けるぞ」 「じゃ、お跡を嗅ぎ嗅ぎお迎えにー」 ぐいと裾を端折って、彦兵衛は表てを指して走り出した。 「彦」 藤吉の鋭い声が彼を追った。 「宜いか、小当りに当ってみて下手にごてりやがったら、|構《ち かも》うこたあねえ、ちっとばかり痛め て遣れ」 「この模様じゃ泥合戦は承知の上さ」  眩きながら彦兵衛は振り返った。 「して、これから、親分はP」 「知れた事よ、郡代前へ出向いて行って上布屋をうんと|引《へち》っ|叩《ぱた》いて来ようー」 四  羽毛のような雪を浮かべて|量《かさ》を増した三俣の瀬へ、田安殿の邸の前からざんぶとばかり、|水《  ち》 煙りも白く身を投げた荷方の仙太郎は、岸に立って喚いた彦兵衛の御用の声に、上の橋から船 番所の|艀舟《はしけ》が出て、二丁程川下で水も呑まずに樟に掛かった。  が、一切の罪状は、それより先に越後上布の清二郎が藤吉の吟味で泥を吐いていた。  三年前に徳撰の店へ寄った時、今度は北へ足を向けるというのを幸いに、日影者の一子徳松 の行衛捜査を、撰十は呉々も清二郎に頼んだのであった。それもただ仙台石の巻のお冬徳松の |母子《おやこ》としか判っていないので、この探索は何の功をも奏す筈がなかった。で、三年越しに江戸 の土を踏んだ清二郎は、失望を|齎《もたら》して、撰十を訪れ苦心談を夕方まで続けて帰途に就いたのだ った。其の、奥座敷の密談を、ふと小耳に挟んで、驚き且つ喜んだのは荷方の仙太郎であった。  星月夜の宮城の原で、盆の上のもの言いから、取上婆さんお冬の|父《てて》無し児がら|松《ち 》という遊び 仲間を殺めて江戸へ出て来た仙太郎は、細く長くという心願から、外神田の上総屋を通して此 の徳撰の店へ住み込んだのだったが、そのがら松が主人撰十の唯一の相続人たる徳松であろう とは、彼もつい昨日まで夢にも知らなかったのである。が、秘密が判るのと悪計が胸に浮ぶの とは殆んど同時だった。これだけの店の大旦那と立てられて、|絹物《おかいこ》ぐるみで遊んで|活《くら》せる生涯 が、走馬燈のように彼の眼前を横ぎった。年格構から身柄と言い、がら松と彼とは生き写しだ った。今様|天一坊《てんいちぼう》という古い手を仙太郎は思い付いたのである。善は急げと、折柄の忙しさに 紛れて彼は帰り行く上布屋清二郎の後を追い、新右衛門町の蕎麦屋へ連れ込んで|一伍一什《いちぶしじゆう》を打 ち開けた後、|左祖《さたん》方を依頼したのであった。  始めの内こそ御法度を真向に、横に首を振り続けていた清二郎も、古傷まで知らせた上は返 答によって生命を貰うという仙太郎の脅しと、何よりもたんまり謝礼の約束に眼が晦んで、揚 句の果てに青い顔をして承知したのであった。  いよいよ                                ・                 しめ  愈々話が決まるまでは、奉公人の眼は出来る丈け避けたが宜かろうと、丑満の刻を諜し合わ せた二人は、先ず清二郎が庭先へ忍んで撰十を置場へ|誘《まね》き入れ、其処で改めて仙太郎を徳松に 仕立てて、父子の名乗りをさせた迄はよかったものの一時は涙を流して悦んだ撰十が、段々怪 しく感じ出したものか、根掘り葉掘り鎌を掛けて問い詰めて行く内に、附け焼き刃の悲しさ、 遂々|暴露《ばれ》そうになったので、兇状持ちの、仙太郎は事面倒と、徳松殺しの一件を吐き出すと同 時に、山猫のように猛り掛かって腰の手拭いで難なく撰十の頸を締め上げたのだった。  後は簡単だった。  度を失っている清二郎に手伝わせて、重い撰十の屍骸を天井から吊り下げ、踏台として足の 下に宇治の茶箱を置き、すっかり覚悟の総死と見せかけようと企んだのである。 「それにしても親分」  町役人の番屋から出て来るや否や、番頭の喜兵衛は藤吉の袖を惹いた。 「始めから仙太郎と睨みを付けた親分さんの御眼力には、毎度の事乍ら何ともはやー」 「なあに」と藤吉は人の好さそうな笑いを口許に浮かべて、 「あっしの処へ注進に来た時に、何時になく搬くちゃの手拭いを下げていたのが、ちらとあっ しの眼に付いて、それが何うも気になってならねえような|按配《あんべえ》だったのさ」 「そう仰言られて見ると、成程仙太郎は|例《いつ》も手拭いをきちんと|四《へ ち》つに畳んで腰にして居りまし たですよ」 「それに、お|前《めえ》さん」  と藤吉は並んで歩みを運びながら、 「お関取りの足場にしちゃ、彼の茶箱は少し弱過ぎまさあね」 「|踏台《ふみでえ》から足が付いたってね、何うだい、親分、この落ちはP」  と彦兵衛が背後で笑声を立てた。 「笑いごっちゃねえ、間抜め、お取り込みを知らねえのか」  と藤吉は叱り付けた。そして又|同伴《つれ》を顧みて、 「が、喜兵衛さん、ま、何と言ってもあの綱の結び目が仙の野郎の運の尽きとでも言うんでし よう。ありゃあ|水神結《すいじんむす》びってましてね、早船乗りの|舵子《かこ》が、三十五反を風に遣るめえとする|豪 え曰く因縁のある糸玉だあね。あれを一眼見てあっしもははあと当りを付けやしたよ。仙は故 里《えれに》の石の巻で|松前《まつまえ》通いに乗ってたことがあると、何時か自身で|饒舌《しやべ》っていたのを、ふっと、思 い出したんでー。だがね、あれ程|重量《めかた》のある仏を軽々と吊る下げたところから見ると、こり ゃあ一人の仕業じゃあるめえとは察したものの、上布屋のことを聞き込む迄は、徳松一件もさ して重くは考えなかったのさ。ま、番頭さん、お悔みは又後からーいずれ一張羅でも箪笥の 底から引き摺り出してー」  もう解け出した雪の道を、ハ丁堀の合点長屋へ帰って来た藤吉彦兵衛の二人は、狭い流し元 で朝飯の仕度をしていた勘弁勘次の途法もない胴間声で、格子戸を開けると直ぐ先ず驚かされ た。 「済まねえ」  と勘次は火吹竹片手に怒鳴った。 「今し方頭の常公が来て話して行ったが、親分、徳撰じゃ豪え騒動だってえじゃありませんか。 知らぬが仏でこちとらあ白河夜船さ、済みません。ま、勘弁して呉んねえ。それで犯人は?」 「世話あねえやな」 釘抜藤吉は豪快に笑った。 「朝めし前たあ此の事よ。なあ、彦」 が、七輪に|沸《たぎ》っている味噌汁の鍋を覗き込みながら、 「ちえっ」と彼は舌打ちした。 「|勘兄寄《かんあにい》の番の日にゃあ、きまって|若布《わかめ》が泳いでらあ」 葬式彦兵衛は口を尖らせた。 その三 怪談抜地獄  近江屋の隠居が自慢たらたらで腕を|揮《ふる》った腰の曲がった|蝦《えび》の跳ねている海老床の障子に、春 は四月の麗らかな陽が|旱魑《ひでり》つづきの|塵埃《ほこり》を見せて、|焙烙《ほうろく》のように燃えさかっている午さがりの ことだった。ハつを告げる|回向院《えこういん》の鐘の音が、|桜花《はな》を映して悩ましく霞んだ|蒼實《あおぞら》へ吸われるよ うに消えてしまうと、落着きのわるい|床几《しようぎ》のうえで釘抜藤吉は大っぴらに一つ欠伸を洩らした。 「おっとっとっとー」  髪床の親方|甚《じんぱち》ハは、慌てて藤吉の額から剃刀の刃を離した。 「親方、|不可《いけ》ねえぜ、当ってる最中に動いちゃあー」 「うん」                         、  あとはまた眠気を催す|沈黙《しじま》が、狭い床店の土間を長閑に込めて、|本多隠岐守《ほんだしきのかみ》殿の黒板塀に沿   かるこ             じよ}λさい って軽子橋の方へ行く定斎屋の金具の音が、薄れながらも手に取るように聞こえて来るばか りー。  剃り道具を載せて前へ捧げた小板を大儀そうに鳥渡持ち直した儘蒸すような陽の光りを首筋 へ受けて、釘抜藤吉は夢現つの境を辿っているらしかった。気の早い羽虫の影が先刻から障子 を離れずに、日向へ出した金魚鉢からは、泡の|殿《こわ》れる音が微かに聞こえて来そうに思われた。 土間へ並べた青い物の気で店一体に|室《むろ》のようにゆらゆらと陽炎が立っていた。 「ねえ、親分」  藤吉ρ左の頬を湿しながら、甚ハは退屈そうに言葉を続ける。「連中は今頃騒ぎですぜ。砂 を食った|蝶《カれい》でも捕めえると、何のこたあねえ、鯨でも生獲ったような気なんだから適わねえ。 意地の汚ねえ野郎が揃ってるんだから、何うせ浜で焼いて食おうって寸法だろうが、それで帰 ってから腹が痛えとぬかしゃ世話あねえや。親分の|前《めえ》だが、お宅の勘さんとあっしんとこの|馬《へちち》 鹿野郎と来た日にゃ、|悪食《あくじき》の横綱ですからね。ま、何にせえ、このお天気が儲け物でさあ。町 内の繰り出しとなると極って降りやがるのが、今年やあ何うしたもんか、この日和だ。こりや 確かにどっかの照る照る坊主が利いたんだとあっしゃ|白眼《にら》んでいますのさ。十軒店の御連中は 四つ前の寅の日にわあってんで出掛けやしたがね、お台場へ行き着く頃にゃ、土砂降りになっ てたってまさあーねえ、親分、今日は愈々|掃部《かもん》さまが御大老になるってえ噂じゃありません か」 「うん」  半分眠りながら藤吉は口の中で合槌を打っていた。安政五年の四月の二十三日は、暦を束に して先に剥したような麗かな陽気だった。こう世の中が騒がしくなって来ても、年中行事の遊 ぶことだけは何を措いても欠さないのが、其頃の江戸の人の心意気だった。で、海老床の若い 者や藤吉部屋の勘弁勘次や、例の|近江屋《おうみや》の隠居なぞが世話人株で、合点長屋を中心に大供小供 を駆り集め遅蒔きながら、吉例により今日は品川へ潮干狩りにと酒落れ込んだのである。時候 の|更《かわ》り目に当てられたと言って、葬式彦兵衛は朝から夜着を被って、|黄表紙《きぴようし》を読み読み生葱を 噛っていた。気分が悪くなると葱をかじり出すのが此の男の癖なのである。だから折角髪床へ 顔を出しても、今日は将棋の相手も見つからないので、手持ち無沙汰に藤吉が控えているとこ ろへ、 「親分一つ当りやしょう1大分お|月代《さかやき》が延びやしたぜ。何ぼ何でもそれじゃお色気がなさ過 ぎますよ」  と親方の甚ハが声を掛けたのだった。ぽんと|吸《ち 》いさしの|姻管《きせる》を叩いて、藤吉は素直に前へ廻 ったのだったが、実は始めから眠る|心算《つもり》だったのである。 「こうまであぶれると判っていりゃ、あっしも店を締まって押し出すんだった。これでも生物 ですからね、|稀《たま》にゃ|商売《しようぺえ》を忘れて騒がねえと遣切りませんや」 「全くよなあ」  と藤吉はしんみりして言ったが、暫らくして、 「十軒店の人形市は何うだったいP」 「からきし|駄《  ちち》目だってまさあ、昨日|清水《きよみず》屋のお店の人が見えて、そ言ってましたよ、何でも世 間様が斯う|今日日《きようび》のように荒っぼく気が立って来ちゃあ昔の|習慣《しさたり》なんか段々振り向きもしなく なるんだってーそりゃそうでしょうよ、あああ、嫌だ嫌だー」  と|剃刀《そり》の刃を合わせていた甚ハが、急に何か思い付いたように大声を出した。 「親分はあの清水屋の若主人の|大痛事《おおいたごと》を御存じですかえ?」 「清水屋って、あの|蔵前《くらまえ》のー」 「さいでげすよ、あの蔵前の人形問屋のー」 「若主人1と。こうっと、待てよ」  藤吉は首を捻っていた。 「|伝二郎《でんじろう》さんてましてね、|田之助《たいふ》張りの、女の子にちやほやされるー」 「あ」と、藤吉は小膝を打った。「寄合えで顔だきゃ見知っているので、満更識らねえ仲でも ねえのさ。あの人が何うかしたのかいP」 「何うかしたのかえは情けねえぜ、親分」  と甚ハは面白そうににやにやしていた。 「やに|勿体《ヤちもつたい》を附けるじゃねえか。|一体《いつてえ》その伝二郎さんが何を何うしたってんだい?」 「実はね、親分」と甚ハは声を潜める。「実あお耳に入れようと思いながら、つい|放心《うつかり》してま したのさ」 「嫌だぜ、親方」と釘抜藤吉は腹から笑いを揺り上げた。「また|例《いつ》もの伝で担ぐんじゃねえか。 |此間《こねえだ》のように落ちへ行って狐懸きの婆あが飛んで出るんじゃ、こちとら引っ込みが付かねえか らなあ、はっはっは。ま、お預けとしとこうぜ」  甚八は苦笑を洩らしながら|狼狽《あわて》て言った。 「ところが、親分、藤吉の親分、こいつあ正真正銘の掘り出しなんですぜ」  と彼は大袈裟な表情をして見せた。 「そうかー」  と、それでも幾分怪しんでいるらしく、藤吉の口尻には薄笑いの搬が消えかかっていた。そ の機を外すまいとでもするように、藤吉の右頬へ余り切れそうもない剃刀を当てながら、親方 甚ハは、 「まあお聞きなせえ」  と話の|端緒《いとぐち》を切り始める。眠るともなく藤吉は眼をつぶっていた。  ぼうふらの巣のようになっている戸外の天水桶が、障子の海老の髭あたりに、まぶしい程の 水映えを、来るべき初夏の暑さを予告するかのように青々と写しているのが心ゆたかに眺めら れた。 二 三月三十一日の常例の日には、方々の町内から多人数の繰り出しがあって、干潟で獲物の奪 い合いも気が利くまいというところから、|態《わざ》と遅れた四月の五日に、日本橋十軒店の人形店の 若い連中が、書入時の五月市の前祝いにと、仕入れ先のあちこちへも誘いをかけて、怪ぶまれ る天候も物かはと、出入りの仕事師や箱を預けた粋な島田さえ少からず加えてお台場沖へ押し 出したのであった。  同勢二十四五人、わいわい|言《ち ちち》いながら|笠森稲荷《かさもりいなり》の前から|同明《どうみよう》町は|水野大監物《みずのだいけんもつ》の上屋敷を通 って、田町の往還筋へ出た頃から、ぼつぼつ降り出した雨に風さえ加わって、八つ山下へ差し 掛かると、既う其時は車軸を流す真物の土砂降りになっていた。|葦簾《よしず》を取り込んだ茶店へ腰か けて、暫らくは上りを待ってみたものの、降ると決まった其日の天気には、何時止みそうな見 当さえ附かないばかりか、墨を流したような大空に、雷を持った雲が低く垂れ込めて、気の弱 い芸者たちは顔の色を更えて|桑原《くわばら》桑原を口のうちに眩き始めるという、飛んだ遠出の命の洗濯 になって終った。  が、何と言っても其処は諦めの早い江戸っ児たちのことだから、そう何時までも空を白眼ん でべそを|掻《へち》いてばかりもいなかった。結局この|大風雨《おおあらし》を好いことにして、誰言い出すともなく、 現代の言葉で言う自由行動を採り出して、気の合った同志の二人三人ずつ何時からともなく離 れ離れに、|其処此処《そこここ》のちゃぶ|屋《  へ》や小料理屋の奥座敷へしけ|込《ちち》んで晴れを待つ間を口実に、甘口 は十二個月の張り合いから、上戸は笑い、泣き、怒りとあまり香ばしくもない余興が出る迄、 差しつ差されつ小|酒宴《さかもり》に時を移して、永くなったとはいうものの、小春日の陽足が早やお山の 森に赤々と夕焼けする頃、貝の代りに底の抜けた折や、|綻《ほころ》びの切れた羽織をずっこけに|片《へ ちち》袖通 したりしたのを今日一日の土産にして、|夫《それぞれ》々帰路に就いたのであった。  さしもの雨も残りなく晴れ渡って、軒の雫に宵の明星がきらめいていた。月の出にも間があ り、人の顔がぼんやり見えて何となく物の怪の立ちそうな、誰そや彼かというまぐれだったと いう。  】寸でも江戸を出りゃ、もう食う物はありませんや、という見得半分の意地っ張りから、蔵 前人形問屋の若主人清水屋伝二郎は、前へ並んだ小皿には箸一つ付けずに、雷の怖さを払う下 心も手伝って、伴れ出しの一本たちを相手に終日盃を手から離さなかった。父親の名代で|交際《つきあい》 大事と顔を出したものの、|元来《もともと》伝二郎としては品川|下《くん》だりまで旨くもない酒を呑みに来るより は、近処の碁会所のようになっている土蔵裏の二階で追従たらたらの手代とでもこっそり碁の 手合わせをしているほうが何んなに増しだったか解らない。好みの渋い、何方かと言えば年齢 の割りに落付いた人柄だった。それというのも養子の身で、金が気儘にならなかったからで、 今に見ろ、何かでぼろく|儲《  へ》けを上げて、父親や|母親《おふくろ》を始め、家付きを|権《かさ》に被ている女房のお|辰《たつ》 めに一鼻あかして遣らなくては、というこころが何かにつけて若い彼の念頭を支配していたの だった。  酒は強い方だったが、山下の|軍鶏《しやも》屋で二三の卸先きの番頭達と、空腹へだらしなく流し込ん だので送り出された時にはもう好い加減に廻っていた。俗に謂う梯子という酒癖で、留めるの も|諾《き》かず途中暖簾とさえ見れば潜ったものだから、十軒店近くで|同伴《つれ》と別れ、そこら迄送って 行こうというのを喧嘩するように振り切って、水溜りに取られまいと千鳥脚を踏み締めながら、 只ひとり住吉町を|玄家店《げんやだな》へ切れて長谷川町へ出る頃には、通行人が振り返って見る程へべれ《ちち  》|け に酔い痴れていた。|素人家《しもたや》並みに小店が混っているとはいうものの、右に水野や|林播磨《はやしはりま》の邸 町が続いているので、宵の口とは言いながら、明いうちにも妙に白けた静さが、そこらあたり を不気味に押し包んでいた。鼻唄まじりに、それでも頭だけは漸て来るであろう大掛りな儲け 話をあれかこれかと思いめぐらして、伝二郎は生酔いの本性|違《たが》わず|只管《ひたすら》家路を急いでいた。優 しい遣音が背後から近づいて来たのも、彼はちゃんと|知《 ヤ 》っていた。|縮緬《ちりめん》のお|高祖頭巾《こそずきん》を眼深に 冠って小豆色の被布を裾長に着た御殿風のお女中だった。二一二間も追い抜いたかと思うと、何 思ったか引返して来た。避ける暇もなかったので、|冴《あ》っと言う間に伝二郎はどうっと|女《ちちち》に|打《ぶ》つ かった。と、踵を返して女はばたばたと|走《ヤヤヤヤ》り出した。口まで出かかった謝罪の|言辞《ことぱ》を引っ込ま して、伝二郎は本能的に|懐中《ふところ》に紙入れを探った。無かった。確かに入れて置いた筈の|古渡唐 桟《こわたりとうざん》の財布が影も形もないのである。さては、と思って透かして見ると、酔眼|朦朧《もうろう》たる彼の瞳に 写ったのは、|泥津《ぬかるみ》を飛び越えて身軽に逃げて行く女の|背後《うしろ》姿であった。 「泥棒泥棒1」  舌は|縫《もつ》れていても声は大きかった。泳ぐような手附きと共に伝二郎は懸命に女の跡を追った。 「泥-泥棒、畜生、太い野郎だー」  と、それから苦々しそうに口の中で眩いた。 「へん、野郎とは、こりゃお門違えか  」  すると、街路の向うで二つの黒い影が固まり合って動いているのが瀧ろに見え出した。一人 は今の女、もう一人は遠眼からもりゅうとしたお侍らしかった。 「他人の懐中物を抜いて走るとは、女乍らも捨て置き難き奴。なれど、見れば|将来《さき》のある若い 身空じゃ。命だけは助けて取らせるわ。これに懲りて以後気を付けい1命|冥加《みようが》な奴め。行 けっ」  侍の太い声が伝二郎の鼓膜へまでびんびん響いて来た。言いながら手を突っ放したらしい。 二一二度|踊蹴《よろめ》いたのち、何とか捨科白を残して、迫り来る夕闇に女は素早く呑まれて終った。  伝二郎と侍とが町の真中で面と向って立った。忍び返しを越えて洩れる二階の燈を肩から浴 びた黒紋付きに白博多の其の侍は、|呼吸《いき》を切らしている伝二郎の眼に、此の上なく凛々しく映 じたのだった。五分月代の時代めいた頭が、浮彫りのようにきりっとしていて、細身の大小を 落とし差しと来たところが、約束通りの浪人者であった。水を潜った其の度びに色の槌せかけ た羽二重も何となく其の人らしく、伝二郎の心には懐しみさえ沸き起るのだった。腕に覚えの ありそうな六尺豊かの大柄な人だった。苦み走った浅黒い顔が、心なしか微笑んで、でも三角 形に切れの長い眼はお鷹さまのように鋭く伝二郎を|見下《みおろ》していた。気押され気味に伝二郎は咽 喉が詰って終ったのである。 「酒か  」  侍は噛んで吐き出すように斯う言った。 「百薬の長も度を過ごしては禍の因じゃて1町人、これは其許の持物じゃろう。確かと|検《あらた》め て納められい」  |打切棒《ぷつきらぼう》に突き出した大きな掌には、伝二郎の紙入れが折りも返さずに載せられてあった。 「へっ、誠に何うも1何ともはや、お礼の言葉もございません。あなた様がお通り|縫《すが》りにな らなければ、手前は災難の泣き寝入りでーこの財布には、旦那さま、連中の手前、暖簾に恥 を掻かせまいと言うんで大枚のー」  言いかけて伝二郎は後を呑んだ。侍の眼が怪しく光ったように|思《ヤ》ったからである。手早く紙 入れを胴巻の底へ押し込んでから、伝二郎は永々と事件の顛末を話し出した。 「|此町《こアし》まで参りますと、あの女が背後から矢庭に組み付いて来ましたんで。素町人ではござい まするが、気が勝って居りましたんで、何をっと許り私も、あの女を眼よりも高く差し上げ てー」 「未だ酔いが醒めんと見えるのう」  侍は苦笑しながら、 「宜いわ、近けりゃ其処まで身共が送って遣わす。宅は何処じゃP」  伝二郎は慌てた。 「なに、その、もう大丈夫なんで。お志だけで、まことに有難い仕合せでございます」  自家まで尾いて来られては、父母や女房の手前もある。まして此の得体の識れない物騒な面 魂、伝二郎は|怖毛《おじけ》を振ったのだった。 「袖摺り合うも何とやら申す。見受けたところ大店の者らしい。夜路の一人歩きに大金は禁物 じゃ。宅を申せ、見送り届けるであろう。住居は何処じゃつ-・」  青くなって伝二郎は震え上った。一難去って又一難とはこの事かと、黙った儘彼は|頷垂《うなだ》れて いた。 「迷惑と見えるの」  と、侍は察したらしかった。 「何の、何の、迷惑どころか願ったりかなったりではござりまするが、危いところを助けて戴 きました其の上に、またそのような御|鴻恩《こうおん》に預りましてはー」 「後が|剣呑《けんのん》じゃと申すのか、はっはっはー」 「いえ」と、今は伝二郎も酒の酔いは何処へか飛んで終って、「それでは、手前どもが心苦し い到りでございまするで、へい」 「ま、気を付けて行くが宜い。身共もそろそろ参ると致そう。町人、さらばじゃ」  言い捨てて侍は歩き出した。気が付いたように伝二郎は二一二歩跡を追った。 「お侍さまえ、もし、旦那さま」 「何じゃP」  懐手の儘悠然と振り返った。その堂々たる男振りに又しても|逡巡《たじたじ》となって、 「お名前とお|住宅《ところ》とを|何卒《どうぞ》  」  と伝二郎は言い渋った。  侍は上を向いて笑った。 「無用じゃ」  と一言残して歩みを続ける。伝二郎は|泥跳《はね》を上げて縄りついた。 「でもござりましょうが、それでも、それでは手前どもの気が済みません。痛み入りまするが、 せめておところとお|苗字《なまえ》だけはi」 「宜し、宜し、が、礼に来るには及ばんぞ」  と歩き出しながら、 「|大須賀玄内《おおすがげんない》と申す。|寺嶋《てらじま》村|河内屋《かわちや》殿の寮に|食人《かかりびと》の、天下晴れての浪々の身じゃ、はっはっ は」  あとの笑い声は、折柄の濃い|戌《いぬ》の刻に|暗黒《やみ》に、潮鳴りのように消えて行った。と、それに代 って底力のある謡曲の声の歩は一歩と薄れて行くのが、|放心《ぼんやり》立っている伝二郎の耳へ、|宛然《さながら》あ らたかに通って来るばかりだった。  家へ帰ったのちも、此の事に付いては伝二郎は口を|城《かん》して語らなかった。只礼をしたいここ ろで一杯だった。殊に幾分でもあの高潔な武士の心事を疑ったのが、彼としては今更ら良心に 恥じられて仕ようがなかった。 「何と言っても|儂《わし》は士農工商の下積みじゃわい。ああ、あのお侍さんの心意気が有難いー」  何遍となく、口に出して斯う言った後、二三日した探梅日和に、牛の御前の|長命寺《ちようめいじ》へ代々 の墓詣りにとだけ言い遺して、|丁稚《でつち》に菓子折を持たせたまま|瓦町《カわらまち》は|書替御役所前《かきかえおやくしよまえ》の、天王様 に近い養家清水屋の|舗《みせ》を彼はふらりと出たのであった。 「|怪《け》ったいな、伝二郎が、まあ急に菩提ごころを起いたもんやー」  関西生れの養母は店の誰彼となく斯う話し合っては、真から可笑しそうに笑い崩れていた。  寺嶋村の寮は一二度尋ねて直ぐに解った。  河内屋という下谷の酒間屋の楽隠居が|有《も》っているもので、木口も古く屋体も歪んだというと ころから、今は由緒ある御浪人へ預け切りで、自分は近処の棟割りの一つに気の置けない|生計《く らし》 を立てているとのことだった。  何の変哲もない、観たところ普通の、如何にも老舗の寮らしい、|小梅《こうめ》や寺嶋村にはざらに《 ち》|あ る構えの一つに過ぎなかった。|枝折戸《しおりど》の手触りが朽木のように脆くて、建物の古いことを問わ ず語りに示していた。植込みを通して見える庭一体に青苔が池の面のように敷き詰っていた。 「礼に来てはならん」という侍の言葉が脳裡に刻まれているので、伝二郎はおっかな|喫驚《びつくり》で裏 口から哀れな声で訪れてみた。 「おう、何誰じゃ。誰じゃ^'」  斯う言ってさらりと境いの唐紙を開けたのは、先夜の浪人大須賀玄内自身であった。それを 見ると伝二郎は炊事場の上権へ意気地なく額を押し付けて終った。丁稚も見よう見真似で其の うしろに平突く這っていた。 「誰かと思えば、其許は何時ぞやの町人じゃなー」と、案に相違して玄内は|相構《そうごう》を崩してい た。「苦しゅうない。|械《むさ》いところで恐入るが、通れ。ささ、ずうっと通れ」 「へへつ」  伝二郎は手拭いを取出して足袋の埃りを払おうとした。 「見らるる通りの男世帯じゃ。その儘で苦しゅうない。さ、これへ」  と玄内は高笑いを洩らした。それに救われたように、伝二郎は|小笠原流《おがさわらりゅう》の中腰でつつっ《ち 》|と 台所の敷居ぎわまで、歩み寄って行った。 「其処ではお話も致し兼ねる。無用の遠慮は、身共は嫌いじゃ」 「へへつ」  座敷へ直るや否や伝二郎はぺたんと据って終った。後へ続いて板の間に畏り乍らも、|理由《わけ》を 知らない丁稚は、芝居をしているようで今にも吹き出しそうだった。  玄内は上機嫌だった。一服立て居ったところで御座る、斯う言って彼は|風呂《かま》の前に端然とし て控えていたが、伝二郎にも、それから丁稚にさえ自身湯を汲んで薄茶を奨めて呉れた。伝二 郎が|怖《おずおず》々横ちょに押して出した菓子箱は、その場で主人の手によって心持ちよく封を切られて、 直ぐさまあべこべに|饗応《 ちちヤもてなし》の材料に供せられた。浪人者らしい其の|甜達《かつたつ》さが伝二郎には嬉しかっ た。何時ともなく心置きなく小半時あまりも茶菓の間に主客の会談が弾んだのだった。昨日今 日の見識りに、突っ込んだ身上話はしがない沙汰と、伝二郎の方で遠慮してはいたものの、前 身その他の|過去《こしかた》の段になると、玄内は明白に話題を外らしているようだった。成程独身者の佗 び住いらしく、三間しかない狭い家の内部が、荒れ放題に荒れているのさえ、伝二郎には|風流《みゃぴ》 に床しく眺められた。  初めての推参に長居は失礼と、幽かに鳴り渡る浅草寺の鐘の音に、始めて驚いたように伝二 郎は|倉皇倉皇《そこそこ》に暇を告げた。  玄内は別に留めもしなかったが、帰りを送って出た時、 「伝二郎殿、碁はお好きかなP」  と笑いながら訊ねた。 「ええ、もう、これの次ぎに好きなんでございまして」  居間の床の間に、|擬《まが》いの応挙らしい一幅の前に、これだけは見事な碁盤と埋れ木細工の対の 石入れがあったことを思出し乍ら、伝二郎は馴々しく飯を掻っ込む真似をして見せた。 「御同様じゃ」  と玄内は咲笑して、 「近いうちに一手御指南に預りたいものじゃ。此方へ足が向いたら何時でも寄られい。男同士 の交りに腰の物の有無なぞわっはっは、|最初《はな》から要らぬ詮議じゃわい」  伝二郎はまぶしそうに幾度もお|低頭《じぎ》をしたなり、近日中の手合わせを約して、丁稚を|伸間《ちゆうげん》 にでも見立てた気か、肩で風を切って引き取って行った。  彼は愉快で耐らなかった。玄内のような立派なお侍と、膝突き合わせて語り得ることが、そ れ自身此の上ない誇りであるところへ、先方から世の中の区割を打ち破って友達交際を申出て いるのだから、伝二郎が大得意なのも無理ではなかった。が、何よりも、憎くもあり可愛くも ある碁敵が、もう一人めっかったことが彼にとって面白くてならなかったのである。途々彼は、 散々丁稚に威張りちらして、自分と玄内の二人が|先日《このあいだ》の晩、七人の|浪籍者《ろうぜきもの》を手玉に取った |始終《いきさつ》を、「見せたかったな」と間へ入れては、張り扇の先生その儘に、眼を丸くしている子供 へ話して聞かせた。が、誰にも言うな、と口停めすることを忘れなかった。素性の確かでない 浪人なぞと往来していることが知れたら、自家の者が何を言い出すかも解らないと考えたばか りではなく、何かしら一つの秘密を保っていたいと言ったような、世の常の養子根性から伝二 郎も此の年齢になって脱し切れなかったのだった。  これを縁にして、伝二郎はちょくちょく寺嶋村の玄内の宅へ姿を見せるようになった。碁は 相方ともざるの、|追《ヤち》いつ追われつの眺え向きだったので、三日|遇《あ》わずにいると何となく物足り ない程の伸となった。玄内は何時も笑顔で伝二郎を迎えて呉れた。帰りが|晩《おそ》くなると、自分で 提燈を下げて|竹屋《たけや》の渡しあたりまで送って来ることさえ珍しくなかった。彼の博学多才には伝 二郎も|殆《ほとほと》々敬意を表していた。何一つとして識らないことはないように見受けられた。そのお 陰で伝二郎も何かと知ったかぶりの口が利けるようになって行った。彼の此の俄か物識りは、 養父たる大旦那を始め、店の者一統から町内の人たちにまで等しく驚異の種であった。実際こ の頃では、歩き方から鳥渡した身の|態度《こなし》にまで、伝二郎は細心に玄内の真似を務めているらし かった。供も伴れずに、月並みな発句でも案じながら、彼が|向島《むこうじま》の土手を寺嶋村へ辿る日が 何時からともなく繁くなった。相手の|人為《ひととな》りに完全に魅されて終って、只由あるお旗下の成れ の果てか、名前を聞けば三尺飛び下らなければならない歴とした御家中の、仔細あっての浪人 と、彼は心の裡に決めてしまっていたのである。 「主取りはもう懲り懲じゃて、固苦しい勤仕は真平じゃ。|天蓋独歩《てんがいどつぽ》浪人の境涯が、身共には一 番性に合っとる。はっはっは」  斯うした玄内の述懐を耳にする度びに、お痛わしい、と言わん許りに、伝二郎は吾が事のよ うに眉を|餐《ひそ》めていた。  十軒店の五月人形が、都大路を行く人に、暫し足を留めさせる、四月も十指を余すに近い或 る日のことだった。  暮れ六つから泣き出した空は、夢中で|烏鷺《うろ》を戦わしている両人には容赦なく、伝二郎が気が 付いた頃には、それこそ稀有の大雨となって、盆を覆したような白い雨脚が、さながら槍の穂 先きと光って折れよと許り庭の|立木《こだち》を叩いていた。二人は顔を見合せた。夜も大分更けている らしい。それに、何を言うにも此の雨である。|故障《さしつかえ》さえなければ、夜の物の不備不足は承知 の上で今夜は此寮に泊るが宜いという玄内の言葉を、いや、|強《た》って帰るとも断り切れず、その うち又一局と差し向う儘に受けたともなく、拒んだともなく、至極自然に伝二郎は其晩玄内宅 へ一泊することになったのであった。ええ、家の方は何うともなれ、という頭が先に立って、 黒白の石に飽きれば風流を語り、茶に倦めば雨に煙る夜景を賞して彼は晩くまで玄内の相手を していた。玄内は奥の六畳、伝二郎が四畳半の茶の間と、夫々夜着に|包《くる》まって寝に就いたのが かれこれ、あれで子の刻を廻っていたかー。  何時ほど眠ったか知らない。軒を伝わる雨垂れの音に、伝二郎が寝返りを打ったときには、 雨後の雲間を洩れる月影に畳の目が青く読まれたことを彼は覚えている。もう夜明けまで間が あるまい。夢か現つに斯う思いながら、ひょいと玄関への出ロヘ眼を遣ると、吾れにもなく彼 は息が詰りそうだった。枕元近く壁へ向って、何やら白い影のようなものがしょんぼり据わっ ているではないか。あやうく声を立てるところだった。が、次の瞬間には頭から蒲団を被って 掻巻の襟をしっかり噛み締めていた。身体じゅうの毛穴が一度に開いて、そこから|冥途《めいど》の風が 吹き込むような気持ちだった。が、怖いもの見たさの一心から夜具の袖を通して伝二郎は覗い てみた。女である。文金高島田の黒髪艶々しい下町娘である。それが、妙なことには全身ずぶ 濡れの|経椎子《きようかたぴら》を着て、壁に面して寒々と座っているのである。傾いた月光が女の半面を青白 く照らして、|頭髪《かみのけ》からも肩先きからも水の雫が垂れているようだった。後れ毛の≡二本へばり 付いた横顔は、凄い程の美人である。思わず伝二郎は震えながらも固唾を呑んだ。と、虫の鳴 くような細い音が、|愁《しゆうしゆう》々|呼《こ》として響いて来た。始めは雨垂れの余滴かと思った。が、そうで はない。女が泣いているのである。壁に向って忍び泣きながら、何やら口の中で眩いているの である。伝二郎は怖さも忘れて聞き耳を立てた。|夜《よ》は、寺嶋村の夜は静かである。隣りの部屋 からは主人玄内の軒の音が規則正しく聞こえていた。玄内さまが附いている。斯う思うと伝二 郎は急に強くなったのである。  女は|畷《すす》り泣いている。そして何か言っている。聞きとれない程の小声だった。が、段々に|痛 高《かんだか》くなって行った。けれど意味はよく判らなかった。女の言辞が前後顛倒していて、只何か訴 うるが如く、ぶつぶつと恨みを述べているらしいほか果して何を口説いているのか少しも要領 を得ないのである。動くという働きを失ったようになって、伝二郎は床のなかで耳を|歌《そぱだ》ててい た。すると、女が、と言うより女の幽霊が、不思議なことを始めたのである。壁の一点を中心 にして其の周へ尺平方程の円を|書《えが》きながら、彼女は一層明噺な句調で妙な繰り言をくどくど《ちちち 》|と 並べ出した。聞いて行くうちに伝二郎は二度喫驚した。そして前にも増してその一言をも洩ら すまいと、じいっとしたまま只耳を凝らした。びしょ濡れの女は裏の井戸から今出て来たばか りだと言うのである。  安政二年卯の年、十月二日真夜中の大地震まで、八重洲河岸で武家を相手に手広く質屋を営 んでいた|叶《かのう》屋は、最初の揺れと共に火を失した|内海紀伊《うちうみきい》様の仲間部屋の裏手に当っていたの で、あっと言う間に家蔵は元より、何一つ取り出す暇もなく凡て灰塵に帰したばかりか、主人 夫婦から男衆小僧に到るまで烈風中の|焔《ほのお》に巻かれて皆敢えない最後を遂げたのだった。この叶 屋の全滅は、数多い罹災のうちでも、|瓦本《かわらぼん》にまで読売りされて江戸中の人々に知れ渡ってい た。  が、此の不幸中の幸とも|謂《い》うべきは愛娘のお|露《つゆ》が、その時寺嶋村の寮へ乳母と共に出養生に 来ていたことと、虫の報せとでも言うのか、死んだ叶屋の主人が、三千両という大金を此の寮 の床下に隠して置いたこどであった。壁の大阪土の中に堀穴を塗り込んで、それを降りれば地 下の|銭庫《かなぐら》へ抜けられるように仕組んであった。 「抜け地獄」と称する此の寮の秘密を、お露は故き父から聞いて知っていたのである。が、彼 女もその富を享楽する機会を与えられなかった。|有《も》って生れた美貌が仇となり、無頼漢同様な、 さる旗下の次男に所望されて、嫌がる彼女を|金銭《かね》で転んだ親類たちが取って押さえて、無理往 生に輿入れさせようという或日の朝、思い余ったお露は起抜けに雨戸を繰ってあたら十九の花 の|蕾《つぼみ》を古井戸の底深く沈めて終った。と、それと同時に抜地獄の秘密の仕掛けも、三千両とい う其の大金も、永劫の|暗黒《やみ》に葬り去られることになったーとこういう因果話の端々が、お露 の亡霊の口から何時果てるともなく壁へ向って眩かれるのであった。  伝二郎はぐっしょり汗を掻いて固くなっていた。恐ろしさを通り越して自分でも何となく不 思議なほど平静になっていた。ただ、三千両という数字が彼の全部を支配していた。これだけ たんまり手に入れて見せれば、養家の者たちへも何んなに大きな顔が出来ることか。一朝にし て逆になる自分の地位を一瞬の間に空想しながら、焼きつくように彼は女の肩ごしに其の壁の 面を眺んでいた。が、眼に映ったのは|堆高《うずたか》い黄金の山であった。既うふところに這入ったも同 然な、その三千両の現金であった。彼も又商人の子だったのである。  と、女が立ち上った。細い身体が咽りのように揺れたかと思うと、枕頭の障子を音もなく開 け立てして、其の儘橡側へ消えて終った。出がけに伝二郎を返り見て、にっと笑ったようだっ た。改めて夜着の下深くに潜って、彼は知っている限りの神仏の名を呼ばわっていた。が女が 出て行くや否や、|俄破《がば》と跳ね起きて壁の傍へ|躍《にじ》り寄った。気の|故為《せい》か其処だけ少し分厚なよう に思われるだけで、外観からは何の変異も認められなかった。が、水を浴びたように濡れてい たあの女が今の今までいた其の畳に、湿り一つないことに気が付くと、きゃつと叫びながら伝 二郎は狂気のように床へ飛んで帰った。耳を済ますと玄内の寝息が安らかに洩れて来るばかり、 暁近い寺嶋村は、それこそ井戸の底のように静寂そのもののすがたであった。  朝飯を済ますと同時に、挨拶もそこそこに寮を出て、伝二郎は田圃を隔てた程近い長屋に、 寮の所有者河内屋の隠居を叩き起した。思ったより話が|促《はかど》らなかった。その家は元ハ重洲河岸 の叶屋のものだったが、ながいこと無人だったのをこの隠居が買い取ったものだとのことで、 大須賀玄内殿に期限もなしに貸してあることではあり、且つは風雨に打たれた古家であるにも 係らず、玄内さまもああして居付いていて下さるのだから、自分としては情において忍びない が、何時まで打っちゃって置く訳にも行かず、実は近いうちに取り殿して新しい隠居所を建て る|心算《つもり》なのだと、いろいろの約定書や絵図面を取り出して、隠居は伝二郎の申出に半顧の価値 だも置いていないらしかった。押問答が|正午《ひる》まで続いた末、始めの言い値が三百両という法外 なところまで騰って行って、とどの|結着《つまり》隠居が渋々ながら首を縦に振ったのだった。何うして あの腐れ家がそれほどお気に召したかという隠居の不審の手前は、飽くまで好事な物持ちの若 旦那らしく誤魔化して置いて、天にも昇る思いで伝二郎は蔵前の自宅へ取って返し、番頭を口 車に乗せて三百両の金を|持《こしら》え、息せき切って河内屋の隠居の許まで其の日のうちに駈け戻った。  金の手形に売状を掴むと、彼は仕事にあぶれている鳶の者達を近処から駆り集めて、その足 で玄内の寮へ押しかけて行った。相変らず小庭に面した六畳で、玄内は独り茶を立てていたが、 隠居から既に話があったと見えて、上り口の板敷きには手廻りの小道具が何時でも発てるよう に用意されてあった。その場を|繕《つくろ》う二言三言を交わした後、伝二郎は直ぐに若い者に下知を下 して、此処と思う壁の辺りを遮二無二切り崩しに掛からせた。玄内は黙りこくって橡端から|怪 訴《けげん》そうにそれを見守っていた。が、伝二郎はそれどころではなかった。掘っても突いても出て 来るのは藁混りの土ばかり、四畳半の壁一面に大穴が開いても、肝心の抜地獄は勿論、鼠の道 一つ見えないのである。こんな筈ではないがーと、彼は躍起となった。仕舞いには自分から 手斧を振って半分泣きながら滅多矢鱈に其処らじゅうを殿し廻った。 「可哀そうに、倒々若旦那も気が違ったかi」  人々は遠巻きに笑いながら、この伝二郎の狂乱を面白そうに眺めていた。  はっと気が付いた時には、今まで其処らに居た玄内の姿が見えなかった。伝二郎は裸足の儘 半破れの寮を飛び出して、田圃の畔を転けつまろびつ河内屋の隠居の家まで走り続けて、さて 其処で彼は気を失ったのである。  隠居の家の板戸に斜めに貼ってあったのは、見覚えのある玄内のお家流、|墨痕《ぼつこん》鮮やかにか《ち 》|し やの三字であった。  が、ここに不思議なことには、清水屋が後から人足を送って、念のため、と言うよりは気休 めに其の古井戸を|俊《さら》わせて見ると、真青に水苔を附けた女の櫛が一つ、底の泥に塗れて出て来 たという。 三 「器用な真似をしやがる!」  親方甚ハの長話が済むのを待って、釘抜藤吉は懐手の儘ぶらりと海老床の店を立ち出でた。 何時しか陽も西に傾いて、水仙の葉が細い影を鉢の水に落していた。 「親分、今の話は内証ですぜ」  追うように甚八は声を掛けた。 「極つてらい」  と藤吉は振り向きもしなかった。 「が、俺の耳に這入った以上、へえ、そうですかいじゃ済まされねえ」  と、それから、これは口の裡で、 「しかも其の大須賀玄内様が何誰だか、こっちにゃちっと許り当りがありやすのさ。おい、親 方」と大声で、「旨く行ったら一杯買おうぜ。ま、大きな眼で見ていなせえ」  頬被りをして|態《わざ》と裏口から清水屋へ這入って行った藤吉は、白痴のように|情《しよ》げ返っている伝 二郎を風呂場の陰まで呼び出して、優しく其の肩へ手を置いた。 「慾から出たこたあ言い条、お前さんも飛んだ災難だったのう。わしを|記憶《おぼ》えていなさるか ーあっしゃ合点長屋の藤吉だ、いやさ、釘抜の藤吉ですよ」  泪ながらに伝二郎の物語ったところも、甚ハの話と大同小異だった。眼を光らせて藤吉は下 唇を噛んで聞いていたが、今から思うと、あの最初の女ちぼと|例《 キ》のお露の幽霊とは、背|格構《かつこう》か ら首筋の具合いと言い、何うも同一人らしいという伝二郎の言葉に、何か図星が浮んだらしく、 忙しそうに片手を振りながら、 「して、伝二郎さん、ここが大事な処だから、よっく気を落ちつけて返答なせえ。人間てやつ あ好い気なもんで、何か勝負ごとに血道を上げると、気取っていても普段の|習癖《くせ》を出すもんだ がーお|前《めえ》さんはその玄内とかってお侍と度々碁を打ちなすったと言うことだが、その時|先方《むこう》 に妙ちきりんな仕草、まあ、言ってみりゃ、頭を掻くとか、こう、そら、膝やら咽喉やらあち こち摘みやがるとかi」 「あ!」  と伝二郎が大声を張り上げた。 「そう言やあ何うもそのようでした。へい、あの玄内の野郎、話をしてても碁を打ってても、 気が乗って来ると矢鱈滅法に自身の身体を指の先で押さえたり、つまんだり致しますので。が、 何うして親分はそれを御存じですい?」 「まぐれ当りでごぜえますよ」  と藤吉は笑った。が、直ぐと真顔に返って、 「1駿府へずらかってる|喜三《ヤちきさ》の奴が、江戸の真中へ面あ出すわけもあるめえ。待てよ、こり やしょっとすると|解《ヘヘ  》らねえぞ。そっぽを|聞《 ち 》いても|芝居《しべえ》を見てもーうん、殊によると殊によら ねえもんでもねえ。喜三だって土地っ児だ。何時まで草深え田舎のはしに、|肥桶《こえたご》臭くなってる わけもあるめえーがと、してみると野郎乙にまた娑婆っ気を出しゃあがって、この俺の眼が 未だ黒えのも知らねえこともあるめえにー」 「喜三って、あのー」 「しっー」  と伝二郎の口を制して置いて、 「今一つお訊きしてえこたあ、他でもねえが、伝二郎さん、その河内屋の隠居と玄内とを二人 一緒に見た事が、お|前《めえ》さん一度でもありますのかえP」  伝二郎は首を横に振った。 「寮から家主の隠居所まではP」 「小一町もありますかしら」 「裏から抜けて走って行きゃIP」 「さあ、ものの二分とは掛りますまい」 「ふふん」と藤吉は小鼻を寄せて、 「伝二郎さん、敵討ちなら早えが宜かろ。今夜のうちに|縛引《しよつぴ》いて見せる。親船に乗った気で、 まあ、だんまりで尾いて来るが好いのさ」  御台場から帰った許りの勘弁勘次を、万一の場合の要心棒に拾い上げて、伝二郎を連れた藤 吉は、|途《みちみち》々勘次にも事件を吹き込み、宿場|端《はず》れの泡盛屋で呑めない地酒に時間を消し、すっか り暗くなってから、品川の廓街へ別々の|素見《ひやカし》客のような顔をして|街《くわ》え楊枝で流れ込んで行った。 「喜三ほどの仕事師だ。あぶく銭を取ったって、人眼に付き易い大場処の遊びはしめえと、そ こを踏んで|此里《ヤしいし》へ出張ったのが俺の白眼みよ。それが外れりゃ、こちとら明日から十手を返上 して海老床へ|硫手《すきて》に弟子入りだ、勘、その気でぬかるな」 「合点承知之助1だが、親分、野郎にゃ|小指《れこ》が付いてたってえじゃござんせんか。してみり ゃ何もお女郎買えでもありますめえぜ」 「|引《し》っこ抜きと井戸の鬼火か。へん、衣裳を附けりゃ、われだって|髭《ちちたば》だあな。それより、御両 所、切れ物にお気をつけ召されいーとね、はっはっは、俺の玄内は何んなもんでえ」  華やかな辺りの景色に調子を合わせるように、藤吉はひとり打ち興じていた。黄色い燈りが 大格子の縞を|道跡《みち》へ投げて人の出盛る宵過ぎは、宿場ながらに又格別の風情を添えていた。吸 いつけ煙草に離れともない在郷の衆、客を呼ぶ|牛太《ぎゆうた》の声|赤絹《もみ》に火のついたような女達のさんざ めき。お引けまでに一稼ぎと|自棄《やけ》に三の糸を引っ掻いて通る新内の流し、そのなかを三人は左 右大小の|青楼《せいろう》へ気を配りながら、雁のように跡を踏んで縫って行った。  二三度大通りを往来したが無駄だった。伝二郎も勘次も拍子抜けがしたようにぽかんとして いた。藤吉だけが自信を持続していた。足の進まない二人を急き立てるように、藤吉が裏町へ 出てみようと、露路に這入りかけた其の時だった。四五人の|禿新造《かむろしんぞ》に取り巻かれて、奥のと ある|楼《うち》から今しがた出て来た兜町らしい男を見ると、伝二郎は素早く逃げ出そうとした。 「何うしたP」  と藤吉は其の袖を掴んだ。 「あれです!」  伝二郎は土気色をしていた。 「違えねえか、よく見ろ」 「見ました。あれです、あれです」  と伝二郎は意気地なくも、ともすれば逃げ腰になる。|火照《ほて》った頬を夜風に吹かせて、男は鷹 揚に歩いて来る。 「宜し」  釘抜藤吉は|頷首《うなず》いた。 「勘、背後へ廻れ、滅多に抜くなよーおう、伝二郎さん、訴人が突っ走っちゃ不可ねえぜ」  苦笑と共に藤吉は、死んだ気の伝二郎を引っ立てて大股に進んだ。ぱったり出遇った。 「大須賀玄内!」  と藤吉が|低声《こごえ》で呼びかけた。|欠伸《あくび》をして男は通り過ぎようとする。 「待った、河内屋の御隠居さま!」  言いながら藤吉はその前へがたがた|震《ヤち ヤ》えている伝二郎を押し遣った。顔色も|更《か》えずに男は伝 二郎を抱き停めた。 「おっと、これは失礼1」 「喜三郎」と藤吉は前に立った。「蚤取りの喜三さん、お久し振りだのう」  ぎょっとして男は身を引いた。 「お馴染みのハ丁堀ですい」  と藤吉は軽!、笑って、 「この里で御用呼ばわりはしたくねえんだ。お|前《めえ》だって女子衆の前でお縄|頂戴《ちようでえ》も気の利かね え艶消しだろう。大門出るまで放し捕りのお情だ。喜三、往生ぎわが花だぞ、器用に来い」  女たちは悲鳴を挙げて一度に逃げ散った。下駄を脱ぐと同時に男は背後を振り返った。が、 そこには勘次がやぞうを極め込んでにやにや笑って立っていた。男も笑い出した。 「蚤取り喜三郎、藤吉の親分、立派にお供致しやすぜ」  と、そうして傍の伝二郎を顧みて、 「清水屋さん、ま、胸を擦ってお呉んなせえ」 嬉しそうに伝二郎は微笑した。 「相棒は2」  と藤吉が訊いた。 「弟の奴ですかいー?」 喜三郎は流石に悲しそうに襟のあたりを二一二度飛び飛びに摘んでから、 「へっ、二|階《けえ》でさあ」 「勘」  と藤吉が眼で合図した。  鼻の頭を逆さに一つ擦って置いて、折柄沸き起る絃歌の二階を、勘弁勘次は鳥渡と振り仰ぎ ながら、 「あい、ようがす」  と広い梯子段を昇って行った。あれ、夜空に星が流れる。それを眺めて釘抜藤吉は無心に考 える。明日もーこの分では明日も|晴天《はれ》らしいーと。                          (「探偵文勢」一九二五年三〜五月号)