|死屍《しかばね》を食う男 葉山嘉樹  いろんなことを知らないほうがいい、と思われることがあなた方にもよくあるでしょう。  フト、新聞の「その日の運勢」などに眼がつく。自分が|七赤《しちせき》だか|八白《はつばく》だかまるっきり知らなけ れば文句はないが、自分は|二黒《じこく》だと知っていれば、旅行や、金談はいけない、などとあると、構 わない、やっつけはするが、どこか心の|隅《すみ》のほうにそいつが、しつっこくくっついている。  「あそこの家の屋根からは、毎晩|人魂《ひとだま》が飛ぶ。見た事があるかい?」  そうなると、子供や|臆病《おくぴよラ》な男は夜になるとそこを通らない。  このくらいのことはなんでもない。命をとられるほどのことはないから。  だが、見たため、知ったために命を落とす人が多くある。その一つの話を書いてみましょう。 3  その学校は、昔は藩の学校だった。明治の維新後県立の中学に変わった。その時分には県下に 二つしか中学がなかったので、その中学もすばらしく大きい校舎と、兵営のような寄宿舎とを持 つほど膨張した。  中学は山の中にあった。運動場は代々木の練兵場ほど広くて、一方は県杜○○○神杜に続いて おり、一方は|聖徳《しようとく》太子の|建立《こんりゆう》にかかるといわれる|国分寺《こくぶんじ》に続いていた。そしてまた一方は湖にな っていて毎年一人ずつ、その中学の生徒が|溺死《できし》するならわしになっていた。  その湖の岸の北側には|屠殺《とさつ》場があって、南側には墓地があった。  学問は静かにしなけれやいけない。ことの標本ででもあるように、学校は静寂な境に立ってい た。  おまけに、明治が大正に変わろうとする時になると、その中学のある村が、|栓《せん》を抜いた|風呂桶 の水のように人口が減り始めた。残っている者は旧藩の士族で、いくらかの恩給をもらっている 廃吏《ふろおけはいり》ばかりになった。  なぜかなら、その村は、殿様が追い詰められた時に、逃げ込んで無理にこしらえた山中の一村 ・であったから、なんにも産業というものがなかった。  で、中学の存在によって繁栄を引き止めようとしたが、困ったことには中学がその地方十里以 内の地域に一度に七つも創立された。  だいたい今まで中学が少な過ぎたために、県で立てたのが二つ、その当時、衆議院議員選挙の 猟烈な競争があったが、一人の立候補が、石炭色の巨万の金を投じて、ほとんどありとあらゆる 村に中学を寄付したその数が五つ。  こんなわけで、今まで七人も一つ部屋にいた寄宿生が、一度に二人か三人かに減ってしまった。  その一つの部屋に、|深谷《 ふかや》というのと、|安岡《やすおか》と呼ばれる卒業期の五年生がいた。  もちろん、部屋の窓の外は松林であった。松の|梢《こずえ》を越して国分寺の五重の塔が、日の光、月の 光に見渡された。  人数に比べて部屋の数が多過ぎるので、寄宿舎は階上を自習室にあて、階下を寝室にあててあ った。どちらも二十畳ほど敷ける木造西洋風に造ってあって、二人では、少々|淋《さび》しすぎた。が、 深谷も安岡も、それを口に出して訴えるのには血気盛んに過ぎた。  それどころではない、深谷はできることならば、その部屋に一人でいたかった。もし許すなら ばその中学の寄宿舎全体に、たった一人でいたかった。  何かしら、人間ぎらいな、人を避け、一人で秘密を味わおうという|気振《けぶ》りが深谷にあることは、 安岡も感じていた。  安岡は淋しかった。なんだか心細かった。がもう一学期半辛抱すれば、華やかな東京に出られ るのだからと|強《し》いて独り慰め、鼓舞していた。  十月の末であった。  もう、水の中に入らねばしのげないという日盛りの暑さでもないのに、夕方までグラウンドで 練習していた野球部の連中が、泥と汗とを洗い流し、|且《か》つは元気をも誇るために、例の湖へ出か けて泳いだ。  ところがその中の一人が、うまく水中に潜って見せたが、うまく水上に浮かび上がらなかった。    すいり,            講ぼ5 あまり水裡の時間が長いので、賞賛の声、羨望の声が、恐怖の叫ぴに変わった。  ついに野球一のセコチャンが一人|溺死《できし》した。  湖は、底もなく澄みわたった空を映して、魔の色をますます濃くした。  「|屠牛《とぎゆう》所の生き血の|崇《たた》りがあの湖にはあるのだろう」            うき  一週間ぐらいは、その噂で持ち切っていた。  セコチャンは、自分をのみ殺した湖の、|蒼黒《あおぐろ》い湖面を見下ろす墓地に、|永劫《えいごう》に眠った。白い旗 が、ヒラヒラと、彼の生前を思わせる応援旗のようにはためいた。  安岡は、そのことがあってのちますます|淋《さび》しさを感ずるようになった。部屋が広すぎた。松が 忍び足のように鳴った。国分寺の鐘が|陰《いん》にこもって聞こえてくるようになった。  こういったふうな状態は、彼をやや神経衰弱に陥れ、睡眠を妨げる結果に導いた。  彼とベッドを並べて寝る深谷は、その問題についてはいつも口を|絨《かん》していた。彼にはまるで興 味がないように見えた。  どちらかといえば、深谷のほうがこんな無気味な淋しい状態からは、先に神経衰弱にかかるの が至当であるはずだった。  色の青白い、|瘡《や》せた、胸の薄い、頭の大きいのと反比例に首筋の小さい、ヒョロヒョロした深 谷であった。そのうえ、なんらの事件のない時でさえ彼は、考え込んでばかりいて、影の薄い印 象を人に与えていた。だが、彼はベッドに入ると直ぐに眠った。小さな|軒《いびき》さえかいて。  安岡は、ふだん|臆病《おくびよう》そうに見える深谷が、グウグウ眠るのに腹を立てながら、十一時にもなれ ば眠りに陥ることができた。  セコチャンが溺死して、一週間目の晩であった。安岡はガサガサと寝返りを三時間も打ち続け たあげく、眠りかけていた。が、まだ完全には眠ってしまわないで、夢の初めか、|現《ラつつ》の終わりか の幻を見ていると、フト彼の顔の辺りに何かを感じた。彼の鋭くとがった神経は針でも通された ように、彼を冷たい沼の水のような現実に立ち返らせだ。が、彼は|盗棒《どろぽう》に忍び込まれた娘のよう に、本能的に息を殺しただけであった。    やがて、電燈のスイッチがパチッと鳴ると同時に部屋が明るくなった。深谷が寝台から下りて 一スリッパを履いて、便所に行くらしく出て行った。   安岡の眼は|冴《さ》えた。彼は、何を自分の顔の辺りに感じたかを考え始めた。   ー人の息だった。体温だった。だが、この部屋には深谷と自分とだけしかいない。深谷がお  れの寝息をうかがうわけがない。万一、深谷がうかがったにしたところで、もしそうなら電燈の   ついた時彼が寝台の上にいるはずがない。そしてあんなに大っぴらに、スリッパを、ハタバタさせ   て出てゆくはずがない。第一、なんのために深谷がおれの寝息なんぞうかがう必要があるのだ!  おれは神経衰弱をやっているんだ。幻だ。夢だ。錯覚なんだ!I    こう思って彼は自分自身を納得させて、再び眠りに入ろうと努めた。   深谷はすぐに帰ってきて、電燈を消した。そしてベッドに入ると、間もなくかすかな|軒《いびき》さえ立   て始めた。   安岡は自分の頭が変になっていることを感じて、眼をつむって、息を大きくして、頭の中で数   を数え始めた。    一、二、三、四、    五十一、五十二、    四百、四百一、四百二、    千二百十、千二百十一、千二百十二、    彼のやや沈静した頭が、千二百十二を数え終わった時、再び彼は顔の辺りに、人間の体温を感 じた。が、彼はこんどはいきなり冷水をぶっかけられたように、ゾッとしはしたが千二百十三、        じゆず                                    まつぽ 千二百十四と、数珠をつまぐるように数え続けた。`そして身動き一つ、腱毛一本動かさないで眠 りを|装《よそお》った。  電燈が。ハッと、彼の|瞼《まぶた》を明るく温めた。  再び彼の体を|戦傑《せんりつ》がかけ抜け、頭髪に痛さをさえ感じた。  電燈がパッと消えた。  深谷が静かにドアを聞けて出て行った。  ー|奴《やつ》は恋人でもできたのだろうか?1  安岡は考えた。けれども深谷は決して女のことなど考えたり、まして恋などするほど成熟して いるようには見えなかった。むしろ彼は発育の不十分な、病身で内気で、たとい女のほうから言 い寄られたにしても、|嫌悪《けんお》の感を|抱《いだ》くくらいな少年であった。機械体操では、|金棒《かなぽう》に|尻《しり》上がりも できないし、木馬はその半分のところまでも届かないほどの弱々しさであった。  安岡は、次から次へと深谷のことについて考えたが、どうしても、彼が恋人を持っているとは 考えられなかった。それなら……盗癖でもあるのだろうかっ-  だが、深谷は級友中でも有数の資産家の息子であった。それにしても盗癖は違う。いくら不自 由をしない家の子でも、盗癖ばかりは不可抗的なものだ。だが、盗癖ならばまず彼がその難をこ うむるべき手近にいた。|且《か》つ近来、学校中で盗難事件はさらになかった。  下痢かなんかだろう。  安岡はそう思って、眠りを求めたが眠りは深谷が連れて出でもしたように、その部屋の空気か ら消えてしまった。  おそらく、二時間、あるいは三時間もたってから深谷は、すき間から忍び入る風のように、ド アを開けて帰ってきた。  部屋へ入ると、深谷はワザと足音を高くして、電燈のスイッチをひねった。それから寝台へも ぐり込む前に電燈を消した。  安岡は研ぎ出された|白刃《はくじん》のような神経で、深谷が何か正体をつかむことはできないが、|凄惨《せいさん》な 空気をまとって帰ウたことを感じた。  ー決闘をするような男じゃ、絶対にないのだが。l  安岡は、そんな下らないことに頭を疲らすことが、どんなに明日の課業に影響するかを思って、 再び、一二三四と数え始めた。が、彼が眠りについたのは、起きなければならない一時間前であ った。  その次の夜であった。  安岡は前夜の睡眠不足でひどく疲れていたので、自習をいいかげんに切り上庁て早く床に入っ た。そして、妙な素振りをする深谷の来る前に眠っちまおうと決心した。  「でなけりゃ、とてもやり切れない」  と思った。だが、そう思えば思うほど、なおさら寝つかれなかった。部屋が、そして寄宿舎全 体が|淋《さび》し過ぎた。おまけに、なんだか底の知れない泥沼に踏み込みでもしたように、深谷の挙動 が疑われ出した。  深谷はカッキリ、就寝ラッ。ハーその中学は一切をラッ。ハでやったーが鳴ると同時にコッコ ツと、二階から下りてきた。  安岡は全く眠ったふうを装った。が、眠れもしないのに眠ったふうを装うことは、全く苦しい ことであった。だが、何かしら彼の心の底で好奇心に似た気持ちが、彼にその困難を堪えしめた。  深谷は、昨夜と同じく何事もないように、ベッドに入ると五分もたたないうちに、軽い|軒《いびき》をか き始めた。  「今夜はもう出ないのかしら」と、安岡は失望に似た|安堵《あんど》を感じて、ウトウトした。  と、また、昨夜と同じ人間の体温を|頬《ほお》の辺りに感じた。  「確かに寝息をうかがってるんだ!」  だが、彼は今までどおりと同じ調子の寝息を、非常な努力のもとに続けた。  パッと電燈がついた、そのまま深谷のスリッパがパタパタとドアのほうに動いた。が、深谷は ドアの前でそれを開くと、そのまま振り返って、安岡のほうをジーッとみつめた。その顔の表情 はなんともいえない|凄《すご》いものであった。死を決した顔! か、死を宣告された顔! であった。  彼は安岡が依然のままの寝息で眠りこけているのを見すますと、こんどは風のように帰ってき て、スイッチをひねらないで電球をねじって|灯《あかり》を消した。  そうして開けたドアから風のように出て行った。  安岡はそれを感じた。すぐに彼は静かに上半身を起こして耳を澄ました。  木の葉をわたる微風のような深谷の気配が廊下に感じられた。彼はやはり静かに立ち上がると 深谷の跡をつけた。  廊下に片っ方の眼だけ出すと、深谷が便所のほうへ足音もなく駆けてゆく後ろ姿が見えた。 「ハテナ。やっばり下痢かな」  と思ううちに、果たして深谷は便所に入った。が安岡は作りつけられたように、片っ方の眼だ けで便所の入り口を見張り続けた。  深谷は便所に入ると、ドアを五|分《ぶ》ばかり閉め残して、そのすき間から薄暗い電燈に照らし出さ れた、ガランとした|埃《ほこり》だらけの長い廊下をのぞいていた。  「やっばり便所だったのか。それにしてはなんだって人の寝息なんぞうかがいやがるんだろう。 妙な|奴《やつ》だ」  と、安岡が五分間ばかり見張りにしびれを切らして、ベッドのほうへ帰ろうとする瞬間、便所 のドアが少しずつ動くのを見た。ドアは全く音もなく、少しずつ開き始めた。  深谷の姿はドアがほとんど八|分《ぶ》目どころまで開いたのに見えなかった。まるでドアが独りでに 開いたようだった。安岡はゾッとした。  と、深谷の姿が風のように廊下に飛び出して、やにわに廊下の窓から校庭に跳び出した。  安岡の体を|戦傑《せんりつ》がかけ抜けた。が次の瞬間には、まるで深谷の身軽さが伝染しでもしたように、 風のように深谷の後を追った。  深谷は、寄宿舎に属する松林の間を、忍術使いででもあるように、フワフワとしかも早く飛ん でいた。  やがて、代々木の練兵場ほども広いグラウンドに出た。.  これには安岡は困った。グラウンドには眼をさえぎる何物もない。曇っていて今にも降り出し そうな空ではあったが、その厚い空の底には月があった。グラウンドを追っかければ、発見され るのは決まりきったことであった。  が、風のように早い深谷を見失わないためには、|腹這《はらば》ってなぞ行けなかった。で、彼はとっさ の間に、グラウンドに沿うて|木柵《 もくさく》によって仕切られている街道まで腹這いになって進んだ。  街道に出ると、彼は木柵を|盾《たて》にして、グラウンドの灰色の景色をながめた。その時にはもう深 谷の姿は見えなかった。彼は|荘然《ぽうぜん》として立ちつくした。なぜかならいくら風のように速い深谷で あっても、|神通力《じんつうりき》を持っていないかぎり、そんなに早くグラウンドを通り抜け得るはずがなかっ たから。  「奴も腹這いになって、障害物のない所で見張ってやがるんだな」、  安岡は、自分自身にさえ|気取《けど》られないように、木柵に沿うて、グラウンドの|塵《ちり》一本さえ、その |薄闇《うすやみ》の中に見失うまいとするようにして進んだ。  やや柵の曲がった辺へ来ると、グラウンドではなく、街道を風のように飛んでゆく姿が見えた。  その風の姿は、・一週間前、セコチャンが|溺死《できし》した沼のほうへと飛んだ。  安岡は、自分が溺死しかけてでもいるような恐怖にとらわれ、|戦傑《せんりつ》を覚えた。が、次の瞬間に は無我夢中になって、フッ飛んだ。  道は沼に沿うて、|蛇《へび》のように|陰欝《いんうつ》にうねっていた。その道の上を、生きた|人魂《ひとだま》のように二人は 飛んで}た。  沼の表は、曇った空を映して|腐屍《ふし》の皮膚のように、重苦しく無気味に映って見えた。  やがて道は墓地の辺にまで、,二人の姿を吹くように導いた。 墓地の入り口まで先頭の人影か来ると、吹き消したように消えてしまった。安岡は同時に路面 へ倒れた。  墓地の松林の間には、白い旗や|提灯《ちようちん》が、巻かれもしないでブラッと下がづていた。新しいのや ちゆうぶる そ とうま                                  や    ぎようそう 中古の卒塔婆などが、長い病人の臨終を思わせるように清せた形相で、立ち並んでいた。松の茂 った葉と葉との間から、曇った空が人魂のように丸い空間をのぞかせていた。  安岡は這うようにして進んだ。彼の眼をもしその時だれかが見たなら、その人はきっと飛び上 がって叫んだであろう。それほど彼は熱に浮かされたような、いわば潜水服の頭についているの と同じ眼をしていた。  そして、その眼は恐るべき情景を見た。  それは筆紙に表わし得ない種類のものであった。  深谷は、一週間前に溺死したセコチャンの新仏の|廓内《かくない》にいた1.  彼のどこにそんな力があったのであろう。野球のチャンが二人でようやく載っけることができ た、仮の墓石を、深谷のヒョロヒョロな手が軽々と持ち上げた。  その石をそばへ取り|除《の》けると、彼は|垣根《かきね》の生け垣の間から、|鍬《くわの》と|鋸《こぎり》とを取り出した。 鍬は音を立てないように、しかしめまぐるしく、まだ固まり切らない墓土を|擾《は》ね返した。 安岡の|空《くたノ》な眼はこれを見ていた。彼はいつの間にか陸から切り離された、流氷の上にいるよう に感じた。  深谷は何をするのだろう? そんなにセコチャンと親密ではなかった。同性愛などとは思いも よらない仲であった。ほとんど}度も口さえ利いたことはなかった!  軟らかい墓土はそばに高く擾ねられた。そして棺の上はだんだん低くなった。深谷の腰から下 は土の陰に隠れた。  キー、キー、バリッ、と|釘《くぎ》の抜ける音がした。鍬で、棺の|蓋《ふた》をこじ開けたらしかった。  深谷の姿は、穴の中にかがみ込んで見えなかった。  が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ聞こえそ うな|寂蓼《せきりよう》を、鈍くつんざいてきた。  安岡は、耳だけになっていた。  プツッ1 と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。|腐屍《ふし》の|臭《にお》いが、安岡の鼻を 鋭く|衝《つ》いた。  生け垣の外から、腹這いになって目を凝らしている安岡の前に、おもむろに深谷が背を伸ばし た。    しがい                                                 あ。こ  彼は屍骸の腕を持っていた。そして周りを見回した。ちょうど犬がするように少し顎を持ち上 げて、高鼻を|嗅《か》いだ。 名状しがたい表情が彼の顔を横切った。とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、|屍《しかぱね》の腕 へ口を持って行った。 彼は、うまそうにそれを食い始めた。  もし安岡が立っているか、うずくまっているかしたら彼は倒れたに違いなかった。が、幸いに して彼は|腹這《はらぱ》っていたから、それ以上に倒れることはなかった。 が、彼は叫ぶまいとして、いきなり地面に口を押しつけた。土にはまるでそれが|腐屍《ふし》ででもあ るように、臭気があるように感じた。彼はどうして、寄宿舎に帰ったか自分でも知らなかった。 彼は、口から頬へかけて泥だらけになって|昏《こんこん》々と死のように眠った。 朝、深谷は静かに安岡の起きるのを待っていた。 安岡は十一時ごろになって死のような眠りからよみがえった。 不思議なことには深谷も、まだ寝室にいた。 安岡が眼を覚ましたことを見ると、 「君の欠席届は僕が出しておいたよ。安岡君」と、深谷が言った。 「ありがと」安岡はしまいまで言えなかった。 「きみは、昨夜、何か見なかったかい?」と、深谷が聞いた。 「いいや。何も見なかった」安岡の語尾は消えた。 「きみの口の周りは、まるで|死屍《しかばね》でも食ったように、泥だらけだよ。 洗ったらいいだろう。Lど うしたんだね」 ー深谷が、静かに言った。  が、その顔には、鬼気があふれていた。  それっきり、安岡は病気になってしまった。その五、六日後から修学旅行であった。  深谷は修学旅行に、安岡は故郷に病を養いに帰った。  安岡は故郷のあらゆる医師の立ち会い診断でも病名が判然しなかった。臨終の|枕頭《ちんとう》の親友に彼 は言った。  「僕の病源は僕だけが知っている」  こう言って、切れ切れな言葉で彼は|屍《しかばね》を食うのを見た一|場《じよラ》を物語った。そして忌まわしい世に 別れを告げてしまった。  その同じ時刻に、安岡が最期の息を吐き出す時に、旅行先で深谷が行方不明になった。        しがい 仇ぎさ  数日後、深谷の屍骸が渚に打ち上げられていた。その死体は、大理石のように半透明であった。