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にもあり。
地図にない街
橋本五郎
私にこの物語をして聞かせた|寺内《てらうち》とかいう人は、きくところにょると、昨年の十一月末、ちょ
うど私がこれを聞いて帰ったその日の夜七時ごろ、もう病気をつのらせて、自ら部屋の柱に頭を
打ちつけて死んだのだそうである。
七時といえば私を送り出してから、まだ三時間とたっていない出来事である。世間話のうちに
ふとこれを伝えてくれた私の知人は、その時いつにない私の驚きに対して、むろん寺内氏の死は
自殺であるが、正しくは病死と称すべきもので、またすでに病死としてりっばに万事の終わって
いることを話してくれた。が、私はその瞬固、もう右の病死なるものが、果たして真実に病死と
称されうべきものかどうかを疑っていた。それは私が氏の生前に聞いたこの物語を思い出したか
らで、当時lI私がこの物諮を氏から聞かされた当時は、なにぶんにも場所が場所であり、相手
が相手であり、しかも一面識もなかった人から、いわば無理|強《じ》いに聞かされた形だったので、単
におもしろい話くらいに思い捨てていたわけだが、それが今、氏が自殺したのだと聞いてみると、
当時の氏のはなはだ真剣であった様子や、それからこの物語に、なんら論理的まちがいのないこ
となどが今さらのように考えられるのである。
氏は物語の合い問合い問に、自分の正しいことを力説したが、今から考えてみると、そのむや
みな|激昂《げつこう》や他に対するいやみなまでの|罵倒《ばとう》も、皆自殺する前の悲しい叫びとして、私には十分理
解できる気がする。
氏はこの物語を、私以前のだれかへも話したかもしれぬ。が物語がひどく私たちの常識からか
け離れているのと、それから場所、人に対する成心のゆえとで、おそらくだれにも信じてはもら
えなかったであろう。氏としては自殺するよりほか、道がなかったのに違いない。かくいう私で
さえもが、当時、物語のおもしろさについ|釣《つ》りこまれて、監視された氏の部屋に二時間近くも対
座していたにはいたが、いついかなる傷害をこうむろうとも知れぬ不安から、|素破《すわ》といえばただ
ちに飛び出しうる覚悟だけはしていた覚えがある。
怒りのためにことに鋭く見開かれていた眼や、|呪《のろ》いのためにとくに激しかった言葉の調子や、
それから壮士のごとき態度、時おり|猫《ねこ》のように廊下へ気を配る様子などは、確かに私たちの氏に
対する考えを誤らした。町は私たち同様、この朗らかの青空のもとで、|悠《ゆうゆう》々人間としての権利を
主張してよかったのだ!
私は氏のためにこの物語を発表してみようと思う。たとえこれが氏の自殺を病死なる誤られた
名称から救うことができないとしても、それが一人でもこの真実を考えてくださる方があれば、
地下の氏へはいくぶんの満足であろうから。またこの物語に現われた、氏の運命はやがて私たち
の一面の運命でもあろうと信じるから。
恐ろしいこの物語は、三十幾歳で死んだ氏の二十幾歳の、春の、どちらかといえば物おかしい
冒険から始まっている。だが読者は、微笑の影には常に黒いマスクのひそんでいることを知って
いてくれるに違いないー。
-1寺内氏はその時、もう都会というものに少しの未練をも感じてはいなかったとのことであ
る。職業紹介所というものも、限られた特殊な人々にだけ必要たもので、それ以外になんの意味
を持つものでないと悟った氏は、一枚の履歴書と学校の辞令と、戸籍謄本とそれから|空《から》の|墓口《がまぐち》と
をポケットに入れて、とにかく前へ前へと足を出した。
首をもたげる気にはなれなかったから、汚い地面ばかりを見て歩いたのである。しかしどうか
すると氏と並行して、あるいは並行しないで、忙しそうに歩いてゆくまたは歩いてくるたくさん
な足が視界に入った。また時には、それらの足と足の間をとおして、通りの向こうの、立ち並ん
だ家々の脚部が見えた。人を満載してゆくらしい電車の車輪が見えた。そしてその足や車輪や|家《や》
並みやが、氏にそれほどの人の中にも、知人一人のない|淋《さび》しさを思わしめた。
空腹はもとよりのことであったが、歩いているうちはそれほどでもなかった。が、寝不足に似
たいやな気持ちの頭の中では、エプロンを掛けた女の顔だの、めし屋の看板だの、テlブルの上
の一本のスプーンだの、|味噌汁《みそしる》の色だの、そんなものが絶えずちらちら、ちらちらしていた。
半ば夢のようにそうして歩いているうち、寺内氏はいつか浅草の公園へ来ていた。里数にすれ
ば三里近くもあるところを、いつの間にか|瓢箪池《ひようたん》の、あのペンキの|剥《 は》げたベンチの一つヘたどり
ついていたのである。
時間はちょうど六区のはねた直後のことで、そこではまだ、楽しい人々がまっくろになって電
車道へ電車道へと押し流れていたが、ぞろぞろと遠ざかってゆくその足音は、ベンチに崩おれた
氏の耳へは、まるで埋葬に来た近親者が引き返すのを、埋められた穴の中から聞くようにひびい
たそうである。
六区の電燈がばたばたと消えていった。とそれに追いたてられるように、今までやかましかっ
た夜店の売り声がひとつひとつなくなっていって、にぎやかさの裏の|一入《ひとしお》のつめたさが、氏の足
先を包んできた。何か甘ずっばい風が、氏の胸から背のほうへついついと肺臓をぬけてゆくよう
に思われたという。
何がなしにしばらく眼をつぶっていてから、氏はポケットの履歴書を取り出して、これもなに
がなしにその文字をゆっくりとながめてみた。士族と断わってあるのが変に|滑稽《こつけい》に思われたり、
学校への奉職という字が急に憎々しくなったりした。|田舎《いれか》のことがちらと頭をかすめた。しかし
氏の連想は、汽車賃どころかもはや自分には今どうする金の一|文《もん》もない、というところで豆腐の
ようにぽやけてしまったのである。
氏は後ろざまに、その履歴書を|瓢箆《ひようたん》池へ投げた。続いて辞令を、謄本を、それから空っぽの|蕃《がま》
唖を・
ベンチの横に立っているお情けのような終夜燈の光が、それら落ちてゆく寺内氏の過去を、ひ
らひらと、幻燈のように青白く照らしてくれた。どんな過去もどんな履歴も、今の自分にはなん
ら必要がないではないかー
「はっはっは」と氏は思うさま笑ってみたのである。と、それに調子を合わせたように、
「はっはっは」としかもすぐ氏の横でだれかが笑った。
氏はその時受けた感じを、たとえば何か、固い|火箸《ひぱし》のようなもので向こう|脛《ザね》をなぐられたよう
なーとうてい説明しがたい感じだと言った。見ると、同じベンチの反対の端に、
ーボロ毛布に体を巻いた老人が、氏のほうを見てまだ顔だけ笑っていたのである。
一人の男がー
「どうしたい?」とやがてその老人から言葉をかけられたが、氏はその時、思いもかけず人の
いた驚きで、急に返事をすることはできなかったと言っている。
「士族ってつまらないもんだな」と重ねてその老人が話しかけてきた時には、氏はかつて聞い
た北海道行き人夫のことを考えていた。そしてこの老人が果たしてそんな恐ろしい人間であるか
否かと、その丸い顔を、柔和な眼を、健康そうな表情を、それからがっしりした老人の体格をた
だ見つめていた。
「学校の先生ってのもつまらないな」その老人は続いて言った。が、氏にはまだ言葉を返すこ
とができなかった。
「墓口ってやつもおよそしようのないもんだな」
1この老人はいつの間にこのベンチヘ来て、またいつの間に、そんな氏が士族の子弟であり、
かつて小学校に奉職していたことなどを知ったのであろう? と氏はやはり老人の|面《おもて》を見つめた
まま黙っていたというのである。
「どうだ、食わないかいっ・・」
はっはっはと老人は笑いながら、それまでもぞもぞやっていた毛布のふところから、一個の新
聞紙包みを出して開いたαそして食い残しらしい八、九本のバナナが、急に氏の食欲を呼び覚ま
さした。手を出すのじゃない、手を出すのじゃない、とわずかな理性があの北海道行き人夫の末
路を想像させた。がその時、氏はとうていその誘惑には勝つことができなかったと述懐した。
「頂いてもいいのかしらー」
若い寺内氏はそう言ったつもりであったが、急に覚えた口中のねばねばしさで、それは|唇《くちびる》から
漏れずして消えてしまった。が次の瞬間には、理屈も何もなく、氏はもう|件《くだん》の老人と並んで、仲
よくそのバナナの皮をむいていたのである。そしてその味のなんと|喉《のど》にやわらかく触れたことで
あろう!
「|煙草《たばニ》はやるのかい?」と食い終わったところで老人が|訊《き》いた。食後の一服を氏は予想してい
なかったが、そう問われてみると、押さえがたい喫煙の欲が、冷えた指の先々へまでみなぎって
くるのだった。
「おや、もう|喫《の》んでしまったかな、確かにまだあったと思ったがーいいや、まだやってるだ
ろう、ちょいと行ってもらってこよう」
氏がまだそれと答えないうちに、毛布の中で手を動かしていた老人は、体のどこにも煙草がな
かったとみえて、そんなことをつぶやくとそのままベンチを立ち上がった。
そして老人が煙草を持って帰ってくるまで、氏の胸を行き来した思念は、過去への|呪《のろ》いでもな
ければ前途への想像でもなく、今去って行ったその老人の、果たしていかなる種類の人間である
かということであったという。
その服装で見れば、いかに土地不案内な寺内氏にも、老人は|乞食《こじぎ》以外の何者にも見えなかった。
しかし乞食といってしまうには、その言葉の|端《はしはし》々やそれから態度に、何か紳士的なものが感じら
れる一煙草をもらってくると言った言葉から考えれば、まさしく老人は北海道行きの人夫引き子
で、もらいに行った先はその仲間の家ではないだろうかP もしそうとすれば自分のこれからは
どうなるであろうP 彼らは一度交渉を持てば、その恐ろしい集団の力で、とうてい相手を逃さ
ないものと聞いている。だが、それほどの悪人が、己れの商売をするのに、煙草銭さえも持って
いないとはどうしたのであろうアもし老人が乞食であれば、自分はすでにその乞食から一度の
|食《しょく》を恵まれたわけである。上京してきてからわずかに|二月《ふたつき》、もう自分は乞食の杜会へその一歩を
落としたのではあるまいかーと氏の胸には、そんな|淋《さび》しい予感ばかりが去来した。
「さあ朝日だがー」と老人が元気に帰ってきたのは間もなくだった。
氏はその時の誘惑にも、とうてい打ち勝つことはできなかったと言っている。同じ北海道へや
られるのなら、なんでも構わずにもらってやれ、とそんなさもしい気持ちになったそうである。
新しい朝日の袋をぷつりと切って、その一本に火をつけた時のよろこび! 氏は感謝という言
葉が持つ意味を、その時はじめて知ったと思った。胸いっばいに吸いこんで、それからそろそろ
とできるだけ長く、静かに静かに吐き出して、吐き切ったところでしばらく眼をつむって、氏は
空へ出てゆく紫の煙の、氏の腹の中からいろんな汚物をぬぐい去ってゆく|清《すがすが》々しさに陶酔した。
「|墓口《がまぐち》を投げちゃったりして、あぶれたのかいP」
老人は喫茶店のテーブルにでも|兜《よ》った調子で、ひどく|鷹揚《おうよう》な口の利き方をした。氏の胸には朝
からの、いや|二月《ふたつき》この方の苦しさを感じる健康が、次第に回復してきた。苦い苦い都会の経験が、
いろんな形で思い出された。
老人の問いにいくぶん警戒の心は動いたが、後で考えてみても説明のできぬ気持ちで、その時
氏は現在までのすべてを老人に話したというのである。が老人は、氏がひそかに期待した北海道
行き人夫の話は持ち出さなかった。
「じゃ今夜の宿もないってわけだな?」と同情に満ちた声で言ったのが聞き終わった時の老人
の最初の言葉だった。「だがまあいいやな、若いんだから。そのうち目の出る時もきっと来るだ
ろうよ、くよくよしないでやってるんだなーで今夜は、なんならおれのところへ来てもいいん
だが、来るかい? なあにお互いだから遠慮も心配も要りはしないが、とにかくここから出るこ
とにしよう。もうお巡りさんの回って来る時問だ、|見《め》っかるとまたうるさい」
お巡さんと言われて、寺内氏はハッとなったという。それまで考えてもみなかった淋しさが、
|潮《うしお》のように氏の胸をとりかこんだ。氏は老人に続いて、何を考える暇もなく立ち上がった。そし
て池畔のわずかだった休息から、今はすっかり暗くなった六区の石畏の道へと出たのである。
石畳へ出て二、三歩行きかけた時、
「そうだ、行くまえに|風呂《ふろ》へ入らないかな、相当疲れているんだろうP」と老人が立ちどまっ
た。氏は別にその時入りたいとは思わなかったが、今さら老人に逆らってみてもはじまらないと
いった気持ちで、|御意《ぎよい》に従う旨を表情で示すと、「じゃちょいとここで待っていてくれ、おれが
今|湯銭《ゆむん》をこしらえてくるから
そのままシネマG館の角を曲がって、しばらく老人は姿を消した。
湯銭をこしらえてくるとはどういう意味なのであろう、まさか、盗んでくるというのではある
まいがー? 氏はいよいよ老人の正体を考えあぐんで、変な自分のこの半時間足らずの行動を、
今さらのようにふりかえってみるのだった。
「さあ待たした、行こう」
老人が引っ返したのはよほどたってからだった。行こうというからには湯銭はできたに違いな
い。氏はそのことを尋ねてみようかとためらいながら、ついそのままに老人に従って、町の名も
知らぬ一軒の湯屋へ、遅いそののれんをくぐって入った。老人が五銭白銅一枚と、一銭銅貨五枚
とを番台へ置くのが見えた。
着物を脱ぐ老人を、寺内氏は改めて注視した。いや老人に集まる周囲の眼、番台の眼、そんな
ものを氏はさりげないふうにうかがったのである。老人に対する周囲の眼が、どんな色に動くか
さえ知れば、おおよそ老人の正体も知れるであろう、と考えたのだがだめであった。都会は何か
ら何までが個人主義だった。湯銭さえ受け取れば後は御勝手といわぬばかりに、番台の男はこく
りこくりやっているし、もう数少なの客たちも、皆めいめいの帰りを急いで、氏や老人に一顧さ
え与える者はいなかった。
明るい電燈の下で、丸い老人の顔はつやつやと光った。柔和な|瞳《ひとみ》は絶えず幸福に輝いていた。
子供子供した厚ぽったい|掌《て》は、氏の掌よりもよほど美しかった。
i老人は決して乞食ではない、と悟ると氏は今までにない恐怖に似たものを感じたという。
がまた自分の、今といってどこへ行くべき当てもないことを考えたとき、その恐怖に似たもの
は、いつか知らずうすれていって、やがて流し場へ|胡坐《あぐら》をかいた氏は、もう老人の背を流したり、
老人から背を流されたりしていた。湯屋で借りた手ぬぐいの汚れも、今はまったく気にかからな
かった。
しかしこの時、氏はすでに恐ろしい計画の中へ、老人のために追いやられていたのだとはだれ
が知ろう!
湯から出た老人は、一服つけたのち、ひとり言のように言った。
「さてと、今日はお客様があるのだから、本邸よりは別荘へ行くとするかな」
老人に伴われて、氏は暗いいくつかの路地をぬけた。両側にはガラス戸のある家などは一軒も
なかった。おそらく建前の|歪《いびつ》なためであろう。閉められた板戸の|隙《すきすき》々から、弱い電燈の光がそれ
らの家々のつつまやかさを漏らしていた。太陽の下で見ることができたならば、おそらくそこは
ゴミゴミした、貧しい人たちの一区ででもあったに違いない。
やがて二人の達した別荘なるものは、そうした町の一角に相当大きく、そして|轍《くろ》くそびえてい
た。が取り回した|塀《へい》も見えず、どこにも明かりを見ることはできなかった。空をくぎった黒い影
で、氏はその建物の洋館であることだけは悟ることができた。
「もう門が閉まってるからな、おれがちょいとおまじないをしてくるまで待っているんだ」
老人は低声に言って、それから建物の表と覚しい側へ回って行った。暗い地上に独り立って、
氏が再びこの老人の上にいろいろな想像をめぐらしたのはもちろんである。だが不思議に、今は
老人の言動を、何か疑う気にはなれなかったと氏は話した。
「さあ入ったらいい、うまく行った」
|闇《やみ》の中から声がして、思いもかけぬ氏の面前に穴があいた。建物の一つの戸が開かれたのであ
る。
「そこで|靴《くつ》をぬいで、段があるんだから」
老人の注意がなかったなら、その時氏はすぐ前の上がり段に、あるいは向う|脛《ずね》を打ちつけただ
ろう。まるで胸をつくようなせまい廊下だった。廊下を老人について一曲がりすると、ほうっと
左手の部屋から明かりが流れていた。八畳の部屋を二つ、ぶちぬいたと覚しい大きな部屋が、廊
下との境に障子一つなく、氏の眼の前に現われたのである。
・見ると、いるいる、その広い部屋いっばいに、たった一つの電燈を浴びて、もじりの|者《 ちち》、|法被《ぽつぴ》
のもの、はなはだしいのは|南京米《ナンキンまい》の袋をかぶったもの、いずれも表通りでは見られないようた男
たちが、およそ四十人近くも、いっばいに詰まって、居汚くそこにごろ寝をしているのだった。
「静かにするんだ。そしてほら、あの間へ転ぶといい。腹がすいてるだろうが、また|明日《あした》のこ
とだ。寒けれやこれをかぶって寝てもいいぞ」
老人がそれまで己れの身につけていた毛布を貸してくれた。氏にはこの建物が、A区の無料宿
泊所であるとは翌日の朝までわからなかったそうである。老人の言った別荘の意味は、単なる約
語であったとは知ったが、毛布をかぶってごろ寝しながらも、氏はいよいよ不可解になってきた
老人の正体を考えずにはいられなかった。
恐らくこの老人とても、こうして|雑魚寝《ざこね》の連中と同一軌の人種に違いない、とそのことは考え
られたが、なお氏の頭には、老人の態度その他の、変に紳士的なところが理解できかねたのであ
る。
「よし、明日になったら聞いてみよう、そして老人の正体によって、これが受くべきでない恵
みならば、潔く受けないことにしよう」
多少の余裕を回復してきた寺内氏は、そう思いつめたすえに、半ば空腹を感じながら、やbと
眠りについたのである。
「おれは労働者じゃない、といって|乞食《こじき》ともいえないだろう、もちろん職業なんてものは十年
この方忘れてしまった。なにさまこれで六十の坂はとうに越えているからな。しかし別に働かな
くとも食うに事欠くわけではなし、寝るに寒い思いをするではなし、もっとも汚いといえば、そ
れはおれの食うもの、着るもの、それから寝るところだってあのとおり汚いが、なあにものは考
えようさ。おれはただ気ままに、食ったり寝たり遊んだり、ごらんのようなぐあいにおもしろく
生きているというまでのことだ。都会というところは|実《ち》によくできていて、|只《 ろは》でなんでも言うこ
とを聞いてくれるからな。だから心配しないで、まあ酒が欲しければ酒1ああ酒はだめなのか。
じゃ煙草なら煙草、なんでも好きなものを言うがいい、昨日のようにもらってきてやるから。女
が欲しけれや女だって1少し急いで行こう、でないと飯に遅れてしまうから」
老人は歩き歩き、そんなことを寺内氏に答えた。昨夜の無料宿泊所を出て、二人はまだ暗い|河
岸《かし》の通りを歩いているのである。
急ぎながら、老人は寺内氏に対して、それが驚くべきいろいろな都会のぬけ|裏《ヤヤ 》のことを話して
くれた。
たとえば昨夜の煙草である。あれは老人が付近の射的屋へ行って、ただその顔をのぞけただけ
でもらってきたものだというのである。老人はかつてその十二軒だか並んでいる射的屋の一軒を、
ころをはかって、
「よう今晩は」と入って行った。そして、「どうだい|姐《ねえ》さん、おれにいくらでもうたすかねP」
と台に半身を泳がして言ったのである。
第一の射的屋では、
「さあどうぞ」とあっさり弾をつきつけられてしまった。すると射的なんか全然できない老人
は、
「はっはっは、姐さんはまだ若いね、そうムキになられるとこっちが恥ずかしくてうてなくな
る。気の毒だからまあこの次にしよう」
とそのまま次へ回ったのであるが、見も知らぬ老人の腕前を、どこにうたさぬ先から見ぬく射
的屋があろう、老人はそこでも弾をつきつけられた。が同じ言葉をくり返して、老人はたゆまず
その十二軒を回ったという。
ところがおもしろいことには、その七、八軒目から、もう老人の後には、用のない野次馬がう
んと|従《つ》いてきて、それらが老人が射的屋へ入るたびに、コソコソと、
「あれやおめえ××の年寄りで、これで|身代《しんだい》をつぶしちゃった人間だよ」とか、
「この人にうたしたら、射的屋が幾軒あったって一軒だって立っちゃゆかねえ」
とか、そんなふうに陰の後援を自然にやってくれて、それが第十軒目では、
「まあ親方ですか、今日あいにく込んでおりますから、おそまつですけれどこれで|勘弁《かんべん》なすっ
てー」
と何も言わぬ先から「朝日」二個を渡されたというのである。以来老人は煙草が欲しくなれば、
ころをはかってその十二軒のーどれかの射的屋へ顔を出して、
「うたすかね1」と朝日なりバットなりをもらってくるのだというのである。
またあの湯銭にしても、それが十銭や十五銭のことなら、どこにでも盛り場というものにはそ
んな金の落ちてる穴があるのだそうである。拾得物がどうのこうのとやかましくいえば限りない
が、放って置けば腐ってゆく金を、ただ拾い出してくるのになんの|答《とが》があろう、使われてこそ金
自身としては本望ではあるまいかーとそんな話のうちに、二人は目的のところへ来てしまった。
「いいか、まっすぐに歩いて、黙って、金を払って食うつもりで食うんだぜ」
ひとこと いたべい
老人は一言注意して、寺内氏の先に立って、標札も何もない板塀の門から、堂々と中へ入って
行った。まだほの暗いその門へは、|法被《はつぴ》姿や巻|脚絆《きやはん》や、いずれは労働者と見える連中が、同様に
一人ふたり連れだってやってきていた。そして寺内氏も、老人とともにそれらの人々に交じって、
なんの心配することもなく、広い|新木《あらき》造りの食堂で、腹いっばいに、温かい食事をすることがで
きたのである。
「これも都会のぬけ|裏《 ヤ 》なのかな?」寺内氏はそう思いながら幾杯もお代わりをした。
門から出る時には少し手だてが要った。それはこの食堂が、ある組合の経営のもので、そこで
食事を許される労働者は、しばらく塀のうちで待ったのちに、監督につれられて、その日の賃銀
を働くべく、作業場へ行くようになっていたからである。
が三十人に近いそれら労働者のうちには、ちょいと煙草を買うために門を出て行く者がないで
はない。寺内氏と老人とは、きわめて自然にそんな労働者を装って、苦もなく再び、白由な町へ
と門を出たのだった。
「どうだい、罪だと思うかね、おれがこんなふうに生活していることを?」
その門から数町離れたところで、やはり歩きながら老人が言った。そして今はいくぶん老人に
安心した寺内氏が、それに対して少しの意見を述べたに対して、
「もちろん罪は罪だろう。がこんな罪は決して他の労働者に迷惑をかけたり、また監督の腹を
いためたりはしやしない、全く周囲に交渉のない罪なら、杜会的にはそれは少しも罪ではないか
らな」
と老人は、なかなか変わった意見を吐くのである。そして老人白身はその罪でないことを信じ
ている旨を話し、二、三、こうした罪でない罪のはなはだ老人にとって有益である例をあげたの
ちに、
「おもしろいと思うなら、これからある場所へ行って、おまえさんの服装をもっとりっばなも
のに変えてみようではないか。一文も要らないとも、もちろん。おれだって今少し若ければ、色
気というものがあるから、多少小ざっばりした|装《なり》をしてるんだが、この年ではこのほうが気楽だ
からな」
と、これはまた興味のある相談だった。
寺内氏はその時、老人の持っでいる主義というか哲学というか、そんなものから、白分の|今日
までを照らし合わして、半ば肯定的なあるものを感じたとのことであった。
今はこうした不思議な生活の、その罪であるかどうかというような問題よりは、これから直面
しようとする服装の冒険に、言いしれぬ興味と勇気を覚えたのである。
「もちろんあなたのことですから、危ないことはないのでしょうね?」
「ああもちろん、だれだって文句をいう者は一人もない。あったところで決して罪にはたらな
い。まあいいお天気だから、ぶらぶら行くことにしよう」
そして寺内氏と老人とは、服装に似合わない都市道路論などを戦わしながら、今は昼近い町の
巷《こんにちちまた》を、|悠《かうゆう》々と歩いていったのである。
「さあ、この辺でしばらくぶらぶらしていれば、そのうちにはだれかが着物を持ってきてくれ
るはずだ」
そこは日比谷公園の、元の図書館の裏にあたる木立の中であっ.た。老人はそうつぶやいて傍ら
のベンチに腰を下ろした。
公園もこのあたりになると、ちょっと|幽遼《ゆうすい》な感じがして、遊歩の人の姿もきわめて|稀《まれ》である。
早春のあわい日影が、それでも木の間を通して地上に細かな隈を織り出していた。寺内氏は同じ
く老人の横に腰を下ろして、なぜこのあたりをぶらぶらしていれば、そんな物好きな人が着物な
ど持ってきてくれるのかと、そのことを老人に尋ねようとした。
と、その時である。何かあわただしい気配が二人のうしろに起こったと思うと、
「おい!」
がさがさ! と木立から音がして、二人の目の前に不思議な人間が現われたのである。しかも、
その手には抜き放たれた短刀が光って見えた。
「頼むから君の服をくれ、代わりには僕のこれをーいやならいやと言え、さあ早くだ!」
その男は株屋のどら息子といった様子をしていた。三十前後の|眼尻《めじり》の切れあがった、なにさま
一くせあり気な|面魂《つらだましい》である。後からだれかに追いかけられてでもいる態度で、もう一度、
「早くしろ、頼む」と短刀を持たない左の手で、あまりの驚きに|呆然《ぽうぜん》としている氏を拝むよう
にした。
「早く、早くしろ!」
我にかえった氏は仕方なく服を脱いだ。一着の背広は売ってしまって、今は|垢《あい》と|脂《あぶら》でよれよれ
になっている|詰襟《りめえり》の|上下《ラえした》を。それから形のくずれた黒の|短靴《たんぐっ》を。男は氏の脱いでゆく端から、そ
の詰襟を器用に着た。そして着たかと見る間に、もう木立のかなたに駆け去っていた。
やむなく男の大島を着て、|対《つい》の羽織の|紐《ひも》を結んだ氏は、その時何か老人の言葉に、神意とでも
いったもののあることを感じたが、瞬後、氏は背後から駆けつけた私服の刑事に肩先をつかまれ
たのである。が刑事は、|件《くだん》の男を知っていたに違いない。氏が今短刀で脅迫されたことをおどお
どと話すと、
「よし、そしてやつはどっちへ行った?そうか、では君は後から××署へ来い、参考人だ
ぞ!」
と大型の名刺を投げるようにして、くれて、そのままこれも木立のかなたへ駆け去ってしまっ
た。まことに夢のような|一時《ひととぎ》だった。この出来事はしばらくの間ー1やがて老人が説明してくれ
るまで、寺内氏にはどうしても事実として信じられなかったそうである。
服装が変わってしまった。氏は今りっばな青年となった。ああなんという老人の言葉であろう、
知恵であろう! 寺内氏の驚きを、老人は相変わらずはっはと笑った。そして言った。
「な、すっかり変わったじゃないか。これでも少し顔の手入れをすれば、どこへ出しても恥ず
かしくたい若い者だ。お祝いに昼飯はレストランにでもするかな。lその|挟《たもと》には一|文《もん》もないか
しらん。なけれやこの辺でちょいと拾ってきてもいいんだがI」
老人の言葉に氏は手を挟へ入れてみた。とどうであろう、|墓口《がまぐち》こそなかったが、はだかのまま
の五円札が一枚、それほど|鐵《しわ》にもならないで出てきたではないか!
「よう、これは拾い物だな,」
驚いたのは寺内氏よりもむしろ老人といってよかった。寺内氏はただ呆然として、しばらくな
すところを知らなかったのである。
「とにかくどこかで|昼《 》にしよう、金さえあればこんな|装《なり》をしていたって心配はない」
老人は先に立った。氏は後から続いた。そして近くのレストランに入って、老人は一杯のビI
ルをさえやりながら、またまた、氏に対してどんな話をしたであろうか?
「いや、なあに都会の事情に少し通じてくれば、こんなことはわけはないんだ。おれは今朝、
あの食堂で、隣りのやつらが話しているのをちょいと耳にはさんだのだが、なんでも麹町のさる
所で、一事件起こったというんだ。つまらない盗みなんだが、いずれやつらが話しているくらい
だから、その犯人がどんな人問かはだいたい想像がつく。とすると、おれのように十年近くもこ
んな生活をしている人間には、その犯人というのがどこにどれだけかくれていて、それからどの
道をどこへ逃げるということのおおよそはすぐにわかるんだ。で私服に追いかけられるならあの
辺だと思ったから、まあおまえさんを引っ張って行ってみた、とこういったわけさ。挟にレコが
入っていたのは役得とでもいうのかな、そうだよそうだよ、やつらあ、すぐに若物をかえてずら
かろうてんだからな、なあに行く必要なんかあるものか、広い東京で二度と再びあの刑事に出会
うようなことはありはしない。警察へ行けばそれこそせっかくの着物を取り上げられてしまう」
老人は|上機嫌《じようきげん》で、そんなふうに説明した。そしてなお語をついで、
「な、これほどりっばになったのだから、ここを出たらついでに床屋へ寄って、顔をきれいに
してくるがいい。そうしたらおれが、もっともっとおもしろいことを教えてやるぞ。決して罪じ
やないんだからな。そしてこんどのは、うまくゆけば相当な金になろうもしれぬ。いいや金なん
かで買えぬいいことがあるかもしれぬ。おまえさんは人間がしっかりしているから、ひょっとす
れや、それでまた世の中へ帰れるかもしれないや。ま、そのことはそれでいい、とにかく早く顔
をあたってくることだ。おれは公園で|猿《さる》とでも遊んでいるからな」
老人のいう、次のいいこととはなんであろうP 寺内氏は、朝からの、いや昨夜からの経験で、
もう絶対に老人を信じていた。そしてこの愉快な生活に、今はほとんどの同意をさえ持つように
なっていたのである。
氏は付近の床屋で快い|鋏《はさみ》の音を耳近くききながら、老人の次の「いいこと」を考えていた。
1自分は寝た。そして食った。着た。この上にいいこととはなんであろう? 金か、いや老
人は金以上のものがと言ったのである。金以上のものといえばーおお女、老人は自分にひとり
の恋人を与えようというのではあるまいかP
寺内氏は浮き浮きとした気持ちになって床屋を出、老人の待っていよう公園へと引っ返して行
った。
「いいかい、この町には名前がないんだからな、こんな町は参謀本部の地図にだってありはし
ない。よく聞いていてまちがわないようにしなければー」
老人はそう前置きをして、さて次の「いいこと」のある場所を教えるべく、公園の一か所の、
なめらかた土の上に、石でもっておもしろい線を引きはじめたのである。
「ここが三越だ、いいかい、そしてここが駅、この三越と駅にこう線をひいて、このところか
ら直角に、こうしばらく行くと白いポストのある煙草屋の前に出る。うん、ペンキがはげて白く
なっているんだ。この煙草屋の右に路地があるからな、この路地をこう行くと、右側の家を数え
て、一軒二軒三軒四軒目のところで道がこう二つに分かれている。これを左に行っちゃいけない。
これからは一本道だから、これを右へ右へと行く。すると十四、五分歩いたところで黒い|板塀《いたべい》に
つき当たるから、構わずその板塀を向こうへ押し開けばいい。いいな。するとこんな格好のせま
い静かな通りへ出るから、いいかい、いよいよこの通りへ出たら、できるだけ静かに、口笛を吹
いてこちらからこちらへゆっくりと歩くんだ。うんそれだけでいい。そうやっていればきっとい
いことが起こる。決してびくびくしちゃいけない。どこまでも元気に、そしてどこまでも太っ腹
でーまあとにかく行ってみるんだな。何もなかったらまた浅草へ帰ってくるさ。おれはたいて
いあの時間にはあのベンチヘ行ってるからな」
老人のいう言葉には何か力といったものが感じられた。その結果がいかなるものとも予想さえ
つかなかったが、なおしばらく右の冒険について老人と問答を交わした末、寺内氏は勇敢にもそ
の地図にない町をさして行くことに決心したのだった。
日は長くなったといえ、都会の夕暮れは公園のベンチヘも間もなく来た。まだ五時にはいくら
かの間があったであろうが、夕刊の鈴はやかましくひびき、家々の軒には郷愁を呼ぶような冷た
い電燈が輝きそめた。
老人と別れた氏は、不思議な興味に胸をおどらせたがら、示された三越と駅のあの線から、ポ
ストの煙草屋、それから一軒二軒三軒といわれるところの、疑問の町を訪ねたのである。
煙草屋の路地を入ったあたりは、まだそこここの家裏と変わった感じでもなかったが、それが
一歩、四軒目の家の角を曲がると、東京の、しかも繁華なこの一角に、こんな奇妙な路地があっ
たかと驚くばかり、その路地はゆれゆれと折れ曲がって、しかも左右のどの家もが、皆黒い板塀
にかこまれて、その路地へ対しては、一軒として便所の口さえも開いてはいないのである。まこ
とに世をすねた|好事《こラず》家が、ひそかに暇つぶしにこしらえたとも呼びたい、それはなんの意義をも
持たぬかに見える全くの袋路地であった。
行くことわずかにして、言われたとおりの板塀に突き当たった。氏は押してみた。そして驚く
べきことには、そこにまた、かの老人の言ったごとくに、そこにはいとも物静かな、|格子《こうし》のある
しもた屋の|一番《ひと》地が、ひっそりと氏の前にひらけたのである。氏は思い切って静かに静かに口笛
を吹いた。そのやわらかなリズムは、人ひとりいるとも見えぬその家々の、軒を格子を、ノック
するように流れていった。
私はここで、それから氏に起こった一つの事件を語るのを好まない。がここまで書いてきた順
序として、その一軒で、氏がひとりの婦人と交渉を持っただいたいを言おう。
東京の真っただ中に、そんな限られた海へ出る人の|一町《ひとまち》があるのだとは私も借じえないが、そ
こは要するに留守を守る女ばかりの一区画であって、氏が誘われた一軒は、まさにそうした長い
間自由の苦しさを感じているひとの住まいだったのである。氏がだれの案内もなくそこへ行った
ことは、ことに相手のひとに喜ばれて、氏は実に一週間という驚くべき毎日を、その相手のひと
とおもしろくなやましくすべてを忘れて明け暮らした。氏がすべてを忘れたという点には、もっ
と説明が必要であろうが、男女の間の微妙な関係は、読者がよりよく理解してくださるはずであ
る。
氏はそうして暮らしているうち、相手のひとのはなはだ美しいことーこの美しさは彼女の|聡
明《そうめい》、教養、気品といったものを含んでいるーを知った。そしてやがては単なる興味を越えて、
氏はかつて覚えなかった恋心を、その|美代子《みよこ》1なるひとに感じはじめたのである。
したがってその言いがたい一週間が終わって、もはやそれ以上とどまることの不可能になった
時、氏がどんなにその別れをはかないものに思ったことか!
「|一月《ひとつき》たてばまた会えますわ、だって仕方のないことなんですもの、一月、ね、また一月たっ
たらいらっしてね」
相手のひとの|瞳《ひとみ》にも、何かぬれたものが光ったと寺内氏は言った。
そんなふうにして、この奇怪な一週間は終わったのであるが、彼女の家を辞して再び氏が町の.
人となった時、もう氏は以前の一|文《もん》なしではなかった。それが罪であるか男らしくないことであ
るかは知らぬ、とにかく寺内氏は十分|二月《ふたつき》は生活できる金をふところにしていたのである。
がこの物語はこれで終わったのではない。小さな事件とはいえ、そうして寺内氏が彼女のもと
を辞して久しぶりに往来へ出た時、危うく氏を|礫《ひ》き殺そうとした自動車のあったことを記してお
かねばならぬ。その自動車は、まるで氏の命をねらうかのように、氏が右へ避ければ右へ、左へ
かわせば左に向かって、五分に近い間、電車通りのまん中を、右に左に氏を追ったのである。が
不思議にーまさに不思議にである1氏はその難から逃れることができて、やがて氏にばつつ
ましいながら新しい生活が始まったのであるが、|一月《ひとつき》経って思いかねた氏がその不思議な町へ行
って見た時には、そうした一区画こそありはしたが(彼女はもとより、隣家でその由を尋ねてみ
ても、そうした人のいたということさえ、全く知ることができなかったのである。
氏はまた一日を浅草にかの老人をも訪ねてみたが、幾晩氏があの思い出のベンチヘ|兜《よ》ろうとも、
これもついにその老人を見ることはできなかった。1
そうして二年の月日が経ったのであるが、二年経った夏のはじめ、氏は思いがけなくもかの老
人を、そして彼女を、しかもその両者を一つにして、|歌舞伎《かぶき》座の華やかな特等席に見いだしたの
である。
「おお美代子、美代子だ!」
寺内氏は衆人の前も忘れてそう叫んだそうである。
菊五郎の棒しばりが、とんすとんと気持ちよく運ばれているうちに、ふと何かのきっかけで、
特等席に眼をやった氏は、そこに、おお、かつてのあの不思議な老人と並んで、輝くように盛装
した彼女が、小間使いでもあろうか、これも美しい若い女に二つばかりの子供を抱かせて、静か
に舞台に見入っているのを見たのである。
忘れることのできないその|面長《おもなが》な顔、|瞳《ひとみ》、|唇《くちびる》、しかもかの老人が、なんとモーニングらしい|装《いで》
|束《たち》で、すまして、ゆったりとそれに並んでいることよ!
寺内氏の驚きがどんなものであったかーそもそもかの老人は|何人《なんぴと》であるのか、また彼女は、
恋しい美代子は|何人《なんぴと》の夫人であるのか? 今見る老人は明らかにかつての|乞食《こじき》ではなく、また彼
女も、明らかにかつての船員の妻ではない!
「美代子-美代子!」氏はもう一度我を忘れて叫んだのである。そしてそのまま席を立ち上
がった。
がこの時、一方では老人と彼女は、氏の声にそれと知ったのか、あるいは特別な時間でも来た
のか、ちょうどこれも席を立って帰りはじめた。
氏はうち騒ぐ人々の間を|転《まろ》ぶようにぬけて、一度方向をまちがえながら、懸命に玄関へと走り
出た。走り出るのと、老人と彼女とが自動車に乗るのとがいっしょだった。あっと思う間もなく、
自動車はついに|宵闇《よいやみ》へ去ってしまったのである。ちらと見た運転手の顔に、何か見覚えがあるよ
うに思ったが、その時は氏には思い出すことができなかった。
しかし氏は、まだ絶望はしなかった。その自動車の番号を周囲の明かりでハッキリと読みとっ
ていたのだ。劇場の人々が彼らに対してしたていねいな態度や、運転手のそれに対するうやうや
しい態度は、彼らが相当に名ある老人、名ある夫人であることを物語っている。あの自動車も必
ず彼らの自家用に違いないー。
氏はその一一一六六六という番号を基調に、間もなく彼女が子爵|脇坂《わぎざか》氏夫人であり、かの老人
が家付きの|七尾《ななお》医師であることを知った。
氏はなんらゆすりがましい気持ちを持ったわけではなかった。がそれと知ると、何か説明しが
たいものにひかれて、氏は一日麹町の子爵邸を訪れたのである。そして、おお、そのわずかな行
動が、氏をこれほどの不幸な境遇へ導こうとは!
「ね、考えてみれば初めからたくらんだ仕事なのです。あの煙草の件にしたって」と長い物語
を終わった氏が言ったのである。「射的|屋云《うんぬん》々も一応の理屈はたつが、事実そんなことが許され
るかどうか、また湯銭にしたって日比谷の泥棒にしたって事実があれほどぴったりとゆくものか
どうか、そうして何がために老人がそれほど私を助けたのか、ね、皆あの女との交渉を持たそう
がために、老人は前から適当な青年を物色していたに違いないんです。履歴書を見たり、一日じ
ゅう、かまえてその青年をためしていれば、それが人間としてどれだけ欠点のない男かどうかは
わかるはずではありませんか。ことに私は、あの晩真っ先に自分の肉体を|隅《すみずみ》々まで調べられてい
るのです、そうです、あの名もないお湯屋の中で。あの女が歌舞伎座へ連れて行ってた赤ん坊は、
ああ確かに私の子供なのだ。彼らは子供の欲しい一念から、あんなふうに私を利用した。利用し
た果ては殺そうとした。一一一六六六の自動車は、あの不思議な町から久し振りに往来へ出た時
私を櫟き殺そうとした自動車なのだ。運転手の顔を私は知っている! そしてようやく私があの
老人に面会すれば、なんということぞ、彼らはその金と権力とを持って、とうとう私をこんなと
ころへ入れてしまった。弁解すれば弁解するほど病人とせられる、ぬけることのできないこの地
獄へ私を陥れてしまった。ああだれが、だれがこの私の話を少しでも信じてくれるだろうか。あ
の子供を、やがての子爵を、私の子供と知ってくれるだろうかー」
割りに自由な|瘋癲《ふうてん》病院の一室で、寺内氏はこれだけの物語を私にしてきかせたのである。氏が
自殺したときいて私はこれをまざまざと思い出した。
読者はこの物語を、やはり精神病者の言葉として、少しも信じてはくれないだろうか、考えて
はくれないだろうか。