南海一見 原 勝郎著 自序 |香港《ホンコン》まで ホンコン 香港から|東京《トンキン》へ 広州湾 |海防《ハイフオン》 |河内《ハノイ》 アンナン 安南海上 サイ ゴン 西貢 植民地としての|印度支那《インドチヤイナ》 汽船ドナイ パンコツク 盤谷 シヤム 暹羅湾西岸 シンガポールジヤヴア バタヴィア |爪哇《ジヤヴア》の内地 |爪畦《ジヤヴア》の二港    ジヤヴア マレイ 新嘉坡爪畦間 蘭人と爪畦人 英領ボルネオ 馬来半島の護|謨《ム》園 「サンダカン」 北ボルネオ諸港 の乗合い ボルネオの名残り ホロー島 ザンボアンガ フイリツピン マニラ 比律賓沿岸航海 馬尼拉 マ ニラ 闘鶏 馬尼拉の近郊 夏の都バギオ スヘイン 西班牙の植民政策 |比律賓《フイリツピン》の西化 |比律賓《フイリツピン》の現在 旅行の終り 自序  南海の浪枕十旬に及びたれど、徒らに旅程を貪るに過ぎて、力を一地に専にすること能はず。 土語を解せず、亦た蘭西等の語にも通ぜざれば、観察の動もすれば皮相に流る\は固よりいふま でもなし。況や此書たる帰朝勿々大阪朝日新聞の為に起稿し、今刊行に際して少許の訂正を加へ たるに外ならざるを以て、敢て学術的研究の結果を発表すといふにもあらず。さなきだに南洋に 関する出版物の多き此頃、更に無用の一長物を加ふる恐れなきにあらねど、読者若しこれにより て、政治とも経済ともつかず統計的数字にもよらざる南洋の一斑を会得せらる\とせば、これ著 者の至幸とする所なり。 大正三年八月 自序 著 者 識 一 |香港《ホンコン》まで 香港まで 最初爨の秉る目的地として狙けたのは、露と覆簀であった。後者窶の日本との 距離近く、関係の切耄ものある爰めのみ弩ず、植民国として比較的後進耄る米嶇蒿島 における経営そのものに、多大の興味が存する故であって、前者に至っては、そのわが邦との関 係こそ出倒琵ほどに緊密でなけれ、植民論者の間に|毀誉褒貶《きよ うへん》の区、に分かるること該島における 蘚の植民綮に越したものは讐、それに加えて、或る点までは実にわが台湾経営の一端と似 通うているところがあるからである。かつて大正元年の末に台湾へ一遊を試みたのも、実はこの 南洋視察の準備として、まずわが国内の熱帯地方でその小手調べをするためと、|併《あわ》せて後日の比 較に資するためとであった。                         蕁  さて単に爬膨と蜴倒貿とだけを見るための旅行ならば、路筋は極めて簡単である。わが邦と爪 膨との間に通う日本船には、今発達の端緒にある南洋郵船組というものがあって、日本政府の補 助を得ていゑ鱶か評判はあ蓍郡い方ではない筧ど、荷船としては萋で軽蔑すべきほ どでもたい。このほかに|和蘭《オランダ》人の経営にかかる|爪哇《ジヤヴア》支那日本線と称する半定期直通の汽船会杜も ある。また|比律賓《フイリツピン》に往来し吉と思わば、東洋汽船、,大阪商船の両会社は、馭后症直行の航路を 有しており、日本郵船には|香港《ホンコン》経由|馬尼拉《マニラ》行きの船がある。なおそのほかに独米の汽船便がある。 以、佚ずれ畚禰諧て述剪のであるが、もしそれ屠佚行-に蘰乗-替惷わ ず 爪畦に赴くに新嘉坡乗り替えを承知の上ならば、聯絡のよい便船は頻繁にある。  しかしながらただ稀にのみ外遊の機会を有する我らにとりては、出倒貿はともかくもとして、 はるばる|爪畦《ジヤヴア》まで赴くのに、犬戻りではあまりに曲がなさ過ぎる。そこで爬膨行きのついでをも って、将来滅多に|覗《のぞ》く折のなかりそうな|東京《トンキン》、|安南《アンナン》、|交趾支那《コチンチヤイナ》及び|暹羅《シヤム》にも足跡を印したいとい う欲望毟じた。然らばこれらの諸国へ往返の順路は、いかになっているかというに・薫へと 志す"姐ボ炒しく東北へ逆戻りする嫌いがあるけれど、親譲椥からするのが、表通りになってい 萄ヂ交趾支那へ赴かんとする者は、メッサジェリー・マリチム略して  と号する会社の汽船で 黌へ向うべきことは勿論であり、その北に位する謬、景へも、避佚の蠢搴はり要 帷薄ある。この以外に肇から饗ぺの航路、藩から警ぺの航路・並びに藩から駑・ 鱈への航路もあ存れど、これらはむしろ翼き言うべきもので爰`れば欝襄の 佚、諧嬬国にも君片る从篶、親藪までの鬘霧帷切簒耄、その外 に西貢力ら海防への往復、新嘉坡から盤谷への往復、及び同じく新勣舳椥からバタヴィアもしくま スラバヤヘの往復切符を求め、すべてこの順路によって旅行すれば、費す日数においても、|搦手《からめて》 からするのと大差のないのみならず、乗り替えの聯絡も都合よく、通い船の設備は遶かに|勝《まさ》り、 また船賃においても少からぬ節約が出来るのである。  とはいうものの、かくのごとく同航路の往復を四通りも重ねるということは、さなきだに単調 に陥り易い海上旅行に、更に一層の単調を加えることになるので、旅行者にとりては随分の苦痛 である。のみならず|香港《ホンコン》、|東京《トンキン》間、及び|西貢《サイゴン》、|盤谷《バンコツク》間の海上の眺めをも思い切らねばならぬ。こ れらは共に再遊を期し難い予の、忍び得るところのものではない。ここにおいて遂に決意して、 おうて   からめて               ホンコン  ハイフ彡    サイ彡 シ玄 追手たると搦手たるとを論ぜず、順路逆路を混用し、香港から海防、それから西貢、暹羅という 順序に、|亜細亜《アジア》大陸の東南岸を伝わりて曲折し、|新嘉坡《シンガポ ル》に達するまでは、同じ航路を再びせぬこ とにした。従って船賃の減らぬ割合に聯絡の都合悪しく、あるいは不必要の長逗留を余儀なくせ られ、あるいは残り惜しき見物を中止しなければならぬ次第となった。これまた致し方ないこと である。 |ホンコン《し》  加賀丸に搭じて昨年の十二月十五日香港に着いたまでは、特筆すベき事柄がほとんどない。強 いて記せば、同乗した駐日|暹羅《シヤム》公使の随員たる書記生某氏が、東京在勤中稽古したとのことで、      きかく                 オランダ   シヤンハイ 船中第一の棋客であったことと、滅法にヒョロ長い若い和蘭人が、上海から乗船したこと位のも のである。予の旅行は|香港《ホンコン》から始まる。 二 |香港《ホンコン》から|東京《トンキン》ヘ  |香港《ホンコン》駐在の日本総領事今井君は、種々の便宜と助言とを予に与えられた。予が書港着後早速に、 日射病を避くるに欠くべからざる準備品として、カルヵッタ製のヘルメット帽を聯タに至ったの も、同領事が|西貢《サイゴン》の日光の強烈を説いて勧告してくれたためである。ここにちょっと附言してお くが、ホワイトレーの勧工場で、ヘルメットをくれと言ったときに、どうしたものか、その意味 が見世番の英人に通ぜず、そこで|已《や》むを得ず、指でこの品をと|斥《さ》し、ようよう売って貰い、後で 勘定書を熟読したら、トーピー一箇若干弗と記してあった。ヘルメットを別名トーピーと呼ぶこ とは、この際初めて知れたから、予と同様な寡聞の人々に、内々で教えておく。  ホンコン   トンキン                       ド イツ  香港から東京へ通う汽船には、英船もあり、独逸船もあるが、しかし共に不定期である。定期 のものとしては、|東京汽船会社《ナヴイガシオン トンキノァ》というものがた芒つあるばかりだ。この会杜は・数十年来聊騨 |支那《チヤイナ》に在住し、諸種の事業の経営家として有名なる、マルチーという老人の所有であって・剛鰰反 |支那《チヤイナ》政府の保護の下に、|香港《ホンコン》と|海防《ハイフオン》との間に、毎週一回の航海を営むものである。その航路には 二線あって、一週間おきに交互に、広州湾と海南島とに寄港することになっている。十二月十八 日に予の乗ったのは、いずれも千|噸《トン》に足らぬ同会社所有船三隻中の一であって、|安南《アンナン》の都に因み て|于愛《ウエ》と名づけ、広州湾の方を経由すべき船であった。  ホン           ドイツ            ヵンバン      とう  香港からの同乗者としては、独逸人夫婦あるのみであった。甲板に備え付けの籐の椅子に腰掛 けて、植民行政論と題する独文の小冊子を|繙《ひもと》いているところから、予とほぽ相類した目的を有す る旅行者と推し、こちらから話しかけて見たところが、これぞ満鉄の顧問として招聘せられ、近 頃任期満了して、今やその帰国の途にあるという、|独逸《ドイツ》帝国内務参事官ヴィイドフェルド氏であ ることが知れた。氏は読書に倦むと旅行用の軽便タイプライターを取り出し、旅行記を|認《したた》むるに 惟がしかったが、そのすらすらと進行するのを見ては、ちょっと日本の|羅馬《ロ マ》字論者に賛成を表し たい気分にもなった。  君漕を出る際には、かなりの好天気であったけれど、間もなく雨模様に変り、翌朝広州湾に 寄港した頃などは、|蕭条《しようじよう》濛々たるものであった。それに熱帯とは言え冬の雨であるというせい かは知らぬが、寒気思いのほかに厳しく、火の側が恋しいほどに感じた。然るに設備の不完全な 小船のこととて、無論暖炉なぞは焚いて貰えぬのみならず、夜の|被物《きもの》とても、一枚のタオルある のみであったから、洋服の上に外套まで着て寝に就いたが、それでも寒気はなお身に沁みわた るので、半夜幾度となく夢が破れた。翌日は遂に我慢をしかねてボーイに夜具をねだり、僅かに 一枚の薄き赤毛布を授かりて、|漸《ようよう》々の次第で夜を明かし得たのである。|搦手《からめて》から|東京《トンキン》へ入ろうと したのは、そもそもあるいは失策の第一歩であったかとも思われて、少々後悔の念も湧いて来 た。 三 広州湾  広州湾は、|独逸《ドイツ》の|青島《チンタオ》占領とほとんど同時、即ち一八九八年の四月に、九十九箇年を期限とし て、仏国が支那から押し借りしたところの海軍根拠地であるから、ここまで来れば、既に剌蔚に 入ったも同様である。しかしながらその経営の微々として振わず、とても葡尉の足もとにだに寄 りつき得ぬ者たることは、船の上から眺めただけでも明らかに分る。支那人の住する嫩舳戡の上に・ 少しく|抽《ぬき》んでて見ゆるは、守備隊の兵営と病院と、及び二三のバンガロウと寺とのみであり、降 りしきる雨の中を、数隻の|端艇《ボヨト》が本船さして漕いで来たが、その様々な色合いの蟻螂磁をポ撥に とった乗合の満載されている体は、広重の絵にでもありそうな、雨中渡頭の景とも見立てられる。 フラン《ボ ト》|ス 端艇から本船に上がり来った連中を見れば、いずれも皆仏蘭西人で、駐屯兵の士官が多く、その 細君らしい婦人連中もあった。広州湾居留仏人の交際社会が、全部を挙げて船に集まり来ったか とも思われるほどで、船の|賑《にぎや》かさ一時に加わり、どれが乗客かどれが見送り人か、更に区別がつ かず。予と|独逸《ドイツ》人夫婦とは食堂の隅に|屏息《ヘいそく》させられた。  船の動き出す頃になると見送り人は皆下船したが、それでも乗客として居残った者、男女を合 して七八人はあった。食堂の喧しさはなかなかに鎮まらない。実は始め|香港《ホンコン》でこの船に乗り込ん だ時から、食事のみは|仏蘭西《フランス》式で、かなりに味よかりしも、その他においてはラテン民族特有の 不潔とシミタレとが目につき、|加之《しかのみならず》ステワードたる|安南《アンナン》人の去勢したような顔色、最も不快の 念を起さしむる因であったが、今この広州湾から乗込んだ新客のために圧倒され、|香港《ホンコン》からの先 客たる予と|独逸《ドイツ》人夫婦とが、今までの食卓から駆逐せらるるに至っては、不快はますます加わる のみである。ヴィイドフェルド氏の如きは、しきりに|独逸《ドイッ》語で|仏蘭西《フランス》攻撃を始め、予をしてハラ ハラせしむることもあった。  雨は|二十日《はつか》の朝となってもなお全く止まなかったが、船体の動揺は苦にならぬほど穏かになり、 黎明船窓からのぞけば、船は既に|東京《トンキン》の岸近く、アロンの湾外を走りつつあった。この辺にある |数多《あまた》の岩礁は、いずれも狭い|鋸歯《のこぎりば》のように海面から突出し、しかもその高さは大抵相類してい るので、海霧の|裡《うち》にこれを臨めば、平野に森林を見る趣がある。但し色はドス黒いのみで、あま り風致がない。アロンの湾口を右に見て過ぐる頃から水先が乗り込み、南にドソンの避暑地を望 みつつ、船は|紅河《こうが》の支流を|遡《さかのぼ》る。両岸の光景はあたかも洪水後のようで、岸と言っても、土が 見ゝマ〜るのでなく、草の上端のみが水面にあらわれているなどは、すこぶる妙であった。午食後海 |防《フオン》に着いたが、桟橋があるのに、船はそれにはかからず、河の真中に錨を入れた。後に聞いたと ころでは、桟橋料を惜しむためだということである。もし果して然るなれば、保護会杜としてあ まりにシ、、、タレた仕打ちと言わねばなるまい。会社の小蒸気が来たから、それで上陸さすのかと 思えば、そうでもない。|已《や》むを得ず税関の小蒸気に便乗を頼み、荷物だけはサンパンに託し、し かも税関を遙かに離れた|河岸《かし》に、ホウホウの体で上陸した。 四 海防  船が何時に着こうと、そんなことには一切頓着なく、税関吏は午後二時までを日中の休息時間 と定めて、仕事をしたい。荷物を広い検査室に運び入れてしばらく待つと、やがて太鼓の音が |變《とう》、々として|鳴《とう》り渡った。これを相図として検査を開始するなどは、人をして町鰰反菰鷺には二十世 紀の風が吹かぬのかとも思わしめる。検査そのものは手軽に済んで、検査済の証を渡され、これ を入口の番人に示してそれでお|終了《しまい》かと思い、荷物を車に積んで外に出ようとすると更にまた関 門がある。ここの門番の要求するままに検査証を渡したから、今度こそいよいよ何の|累《わずら》いもある まいと思ったら、案外であった。全く税関構内を離れてから、橋を渡り、辻を幾つも過ぎて後、 鵡高けれど服装の見すぽらしき一仏人、突如として横合いから現れ出で、予らの行く手を|遮《さえぎ》るも のがある。その言いがかりを聞けば、予の荷物は税関を避けた|抜荷《ぬけに》であるに相違たい、もしそう でなければ、この辺を通る筈がないとのことである。税関には二重に門番が見張って、しかも検 査証をば既に先方へ取り上げた後、|加之一《しかのみならず》筋路でもない往来で、これはまた何という馬鹿げた 言い分であろう。同行の横山正修氏の明白た弁解のために、その男はブツブツ言いながら歩み去 ったが、彼はあるいは|破戸漢《ごろつき》であって、出来心から|強請《ゆす》ろうとしたのかも知れぬ。もしゴロツキ ではなく、自称する如く税関の一員であるとすれば、かく|繁瑣《はんさ》を極むる仏国税関の取締りは、厳 重と評せんよりは、むしろ滑稽の趣がある。  横山正修氏は|東京《トンキン》在住日本人中の最も事情に精通した一人であって、今は前述のマルチーを助 けて、大規模の農園を経営している。予は偶然税関の前で氏と|邂逅《かいこう》してから、|東京《トンキン》滞在中手厚き 世話を受けた。予の|東京《トンキン》に関する知識は半ば氏の|賜物《たまもの》であった。  ハイフオン          しようしや   フ ランス                           せきりよう  海防は人口四万の瀰洒たる仏蘭西式の都会である。けれども甚だ寂寥たるもので、仏人の数は 一千に満たぬ。仏領|印度支那《インドチヤイナ》の首府たる|河内《ハノイ》に入る|咽喉《いんこう》の地としては、少しく気の毒の感に堪え 在更蕾伐の主張者・仏国甓政策の鼓吹者であるところ魯のジュール・フェ7の靉 が、厳めしく公園に立っているけれども、近き将来にこの地方の大発展あるべしとは、殆ど予期 し得ることでない。ビスマルクは仏国を評して、植民地あれども植民なき国と言ったことがある が、けだし|中《あた》らずといえども遠からざる言であろう。 チヤ帳逗留して見物すべきほどの場所でもないから、二十二日午後の汽車で沖剛に向ったが、町膨 紊総督アルベル・サルラウも同列車で帰任するというので、蟹勸の見送り蹇かなかの鱶わ いであった。同総督は予と同日に軍艦モンカルム号に乗じて藩に入り、英国赤隊の欝びやか な舳迎姜受けて上陸し、ハ気その見物人の天であった。その餮は寮へ廻り、都督を齧 し了り、この朝同じ軍艦で海防港に帰着したのである。 五 |河《ハ》内4  |海防《ハイフオン》から|河内《ハノイ》を経、それより深く進んで国境を越え、支那の雲南府に達する澱趨鉄道は、無論 仏国の篥によって靉せられ、饗内地の開発のみ萇く、驤における仏国の勢力を伸孥 るをもって主なる目的とするところのものであるが、鉄道の既に完成した今日、これを利用して 雲南に活動しているのは、仏人よりもむしろ独人だという話だ。前々日税関で別れたヴィイドフ ェルド氏も昨日頃この鉄道によって、雲南視察の途に上った筈である。  車窓より見渡す限りは、すべて水田で、その間に竹藪に囲まれた村落が点々散布し、水牛がの そりのそりしている。その水田には今刈入れ中の所と田植盛りの所とあり、水のかかり過ぎてい る所があるかと思えば、側なる溝から汲入れに|忙《いそが》わしい所もある。後に聞けば、この辺の水田の 用水は、過不足甚だ一様でたいとのことであって、横山氏が日本から専門の井戸掘りを三人も呼 んで、掘抜き井戸を掘らしているのも、この不便を補うためだとのことである。  列車が僻軋搦に着くごとに、車掌の安南人は、大声を発して乗り降りの土人客をせき立てる。 その声がいかにも「乗れ乗れ」と日本語を使うようにも聞えた。|河内《ハノイ》に着いてから牧野氏にこの 話をしたら、それはマウレンマウレンという安南語であって、早くせよとの意味であると教えて くれた。このマゥレンマウレンが幾度か繰り返された後、三時間ばかりで、列車は|河内《ハノイ》に着いた。 同地在住の日本人七八名、しかもフロックコートで出迎えられ、堂々ハノイ.ホテルに送りこま れたに至っては、少からず面はゆく感ぜざるを得なかった。  河剛の滞在は四日間で、甚だ短いことであった。その間に予を歓迎のための日本人会も開かれ た。渡辺氏や牧野氏の案内で市中及び郊外の見物をもした。渡辺氏はかなりな雑貨店の主人であ って、写真を兼業としている。牧野豊太郎氏は東洋学院長諷トル氏の助手として、氏の日本研 究を手伝っている。東洋学院は河剛の誇りとするところのもので、その発行にかかる年四回の報 告は、世界の東洋学者の珍重して|措《お》かざるところである。この学院は始め一八九八年当時の総督 なるドゥメーの設立したもので、考古研究常設出張所という名義でまず|西貢《サイゴン》に開かれ、その後名 称は仏国東洋学院と改まり、一九〇二年から|河内《ハノイ》に移され、今のカルラウ街に位置を定めたのは、 一九(り五年以来のことである。  学院には書庫と官舎と、それに少しく離れて附属博物館があるのみである。学生もなければ、 従いて教室というものがない。院長の|下《もと》には、考古部長一名、教授二名及び給費研究者三名、い ずれもその道の大家であって、官舎で書生生活をしている人もあれば、ホテルから趣っている人 もある。給費研究者中の一人なるペリ氏は、かつて久しく日本に住んだ人で、謡曲にも精通して おり、これに関する研究も発表されている。氏は今同学院の書庫管理者を兼ねているので、もっ ばら予のために案内の労をとった。考古学的の|嗜好《しこう》のなき予には、何を示されても猫に小判で、 その|直打《ねう》ちもわからぬから、批評などは|鳴呼《おこ》がましい沙汰であるが、書庫は予想外に憐れな博物 館に比して、比較にたらぬほど具備したものと見受けた。  気候は連日不順で、ノエルの晩などは厚い蒲団を二枚も重ねて寝た。しかしその後寒気はやや ゆる    ハ ノイ    ハイフオン             トンキン 弛み、河内から海防に帰り、いよいよ東京を去らんとした前日、語学研究のため滞在中の松井歩 兵少佐とドソンに遊んだ日などは、合い服でも汗の出るほどの暖かさとなった。 六 安南海上  十二月二十七日夜半、提督ネイイー号に乗じて|海防《ハイフオン》を出発した。この船は仏国でも有数の船会 社として知られているシャルジュール・レユニ会社の所有で、仏国陸軍の半御用船である。ドチ ラかと言えば荷船が本職であるから、乗客に対する諸般の設備に至っては、到底刪… 会社に属す る渤蝪ン酊駕間の定期船に比ぶベきではないが、螂数も六千以上ではあり、待遇もさほど悪くは なかった。  この船に乗る冐から海随げ天気は快晴となり、予も夏服に着かえたが、これからして三箇月間、 即ち三月下旬拊胤に入るまでは、寒いという感じを忘れてしまった。|安南《アンナン》海上五日間の航海は、 引き続きの上天気であったのみならず、そよそよと渡る東北モンス1ンの吹き通しは、|香港海《ホンコンハイ》 随跡の不愉快さを償いて、なお余りあるものであった。乗客は期満ちて本国に帰る仏国の極東駐 屯兵と将校とである。卿町で始まる食事を繰り返す間には、トランプでやる小賭博が、彼ら兵卒 の消閑の具であって、勘定には米粒を用いるところから、風が吹いて敷物を|煽《あお》れば、皆々米粒の 飛ばぬ用心に忙わしい。将校の中には広州湾から「|于愛《ウエ》」に乗り込んだ、細君と子供とを携帯 の中尉もいる。子供は無論従卒の厄介であった。|甲板《カンバン》の夜の納涼で懇意になった一軍医は、紅い 筋の人っているのが|外国人聯隊《レジオンエトランジエル》に属する者であること、|馬耳塞《マルセしユ》着が二月の上旬になること、そ のほかいろいろの餾をしてくれたが、話のうちには、古郷に帰る鷹の情緒が充ち満ちて居つ た。  船は二十九日に|都崙《ツラン》に寄港した。この辺は一帯に昔日本人が往来して貿易を営んだ跡である。 |都嵩《ツラン》の近くにある|来遠橋《らいえんきよう》という橋は、日本人の手に成ったもので、そのことの由をしるした碑は、 今も残っているとのことで、そ磊本を概でペリ氏が予に示してくれたことがあるじかし予 にはト陸の望みも起らなかったので、|菓物《くだもの》、鶏、|山羊《やぎ》、魚類等を売らんとてネイイー号の周囲を、 取り巻いている|数多《あまた》の安南船、その船内における家族生活の状態を、甲板から見物しつつ、うつ らうつらと半日を消し得た。|海防《ハイフオン》から同乗したマランダという大尉は、その指導の下にある溜羅 将校二名と共に、ここに上陸した。仏劔酊は遮曝しきりに濫羅との交情を温むるに加めているこ とである。  三十日の夜はカムラン湾頭に新月を望み、翌日即ち糠麟畍の早朝にはサン.ジャック岬に達し・ ここで三時間ばかり潮合いを伺って、十時頃からアロヨ・シノアという、河とも運河ともつかぬ    さか窪       サイ彡      せん耆        うよ ものを遡り始めた。蓬かに西貢のカテドラルの尖塔を望み得てからも、紆余曲折幾十回という ことを知らず。乗客の|中《うち》にはその右舷になるか左舷になるかにつきて賭けをした者もある。河を 遡ること五時間余り、 |西貢《サイゴン》の桟橋に着いたのは、 午後の三時半頃であった。  七 西貢 欧州旅行の靉を勞として・大いに饒で尹薜つた餮、出迎いがなくては心細いという、 至って轡誓き旅人差り蕘せた。総じて視蒹行というものは、爨者がその爨区躄 おいて自由に行動し得ることを必須の条件とする。出迎われ、案内せられ、しかして見送寰る を要する旅人の視察が、出迎人、案内人の観察と大差なきものなる以上、その旅行の効果は大い に減少せざるを得ない。かかる境遇にある視察者の心地は、ちょうどジオラマの装置ある、しか も抜け口のない長廊下を伝わって行く見物人の如きものである。興味が全くないと一一一一。うではたい が・その興窘る毳蓊屈萋爨で耄。知靉の満足は、到|麝驕《すえぜん》知識の蓄積の聴よ って得らるべきもので爰い。その知識の獲得濛して、自己の努力の参加することは、闕くべ からざることである袁らばこのたびの如き旅行において、いかにしてこの条件瀑うことを得 べきか餝れにはこれら地方住民の大部分售む至人の用語に通達するの篆窪い。然るに 予晏南語を智ぬ、支那語に通じない。ここにおいて予は見送ら耄こと蓐は省き得るとし てもい沁く畠迎いと案内と萋する視察者と穹ざ爰翼かった。蕨誓打電して要駐 在の成島書記赱出迎いを懇願してから先の予の視察旅行の、誇乏足る結果を挙肄ざるもの と定まったことは、予の白状せざるを得ざるところである。 下船の際から強烈の日光に照りつけられて、今井総領事の忠簒今さらの如く感謝しつつ・成 島氏の先導の萋に、ホテル.デ.ナシオンというに投宿し、その夜は氏らと共に・日本名誉領 妻るサリ干萇の除夜の晩餐に招かれた。その晩簔には市会議葢の徹夜の舞躄案内す るとの前触れであるから、持合わせの燕尾娶着て出席した。熱帯用の白いス手キングを躄 孥にとりては、いかに暑く衾この篆に仕方がない。サリテ萇は仏人には珍しい気象の 面白い人であるけれど、その夜の晩餐縒民地にょくありそ蟇、あり貪衾会であった♂ れど、お蔭で初め毳帯の夜の蔘を窶うことを跫。市会鼕堂の踊りに至っては£蠢 やかと評するよりほかはない。 |西貢《サイゴソ》で|暹羅《シヤム》行きの汽船を待つ叟利用して、北の方アンコル・ワッあ廃址轟うて見耆と いう計画であったけれど、少しく旅行に疲労して居ったのと、躄減水期に入っ萇め・アンコ ル行きゆ河船の都合が怪しいのとで、遂に出発の期を失し、睾学院蒿地出張質たるニイ 萇の許へは、計画中止の旨を電報して、百九旻で、ホテルに籠孥るこ赱き爰じか しホテルでは予の隣室に米の買入れのため勧港から出張している、三井物産の南氏が在って、 日々親切貪され・し嬬み控ず農商務省から出張の難技師及びその同行者たる和田練習生が、大晦 日の夜に刺瀞鷺の首府プノンぺソから帰って来て、階上の二室を占むこととなったので、案外に 退屈を感ぜずに暮らすことを得た。  成島氏の厚意により、元日から三日までは、同氏の邸で連日|屠蘇《とそ》と|雑煮《ぞうに》との馳走にたった。|浴《ゆか》 が掛けで餅や数の子を食って見たが、何となく落ちつきがなく、熱帯に暦日なしと一一一一口いたい気持 であった。  一八五九年に佐劔醇が酊鳶を中心として交跏菰鷺の経営に着手してから、今年で既に五十五年 になる。従って酊鳶は東洋にある蜘戳日風の都市としては、まずかなりに銹びのついた方であっ      ハイフオン   ノイ                           いえな                          うつそう て・これを海防や町内などに比べれば、街路も広く、家列みも揃っている。ことにその鬱蒼たる タ了ンの並木に至っては・英人の藩植林と比隆すベきものであって、享が奚術国民の経 営寉首肯芒むる覓るものが弩一九〇二年澱が留義の首府と麥って旻、要 の市としての資格はやや降下し、これに伴ってその繁昌も少しく減じたけれども、しかしこの点 においても酊鳶はまだ蓬かに他の都市の上に位する。寺院にせよ、劇場にせよ、|将《ま》た銅像にせよ、   インド辜イナ           サイゴン      、。  サイゴン 仏領印度支那中で、見るに足るものの多いのは、西貢だと言ってよろしし されば西貢はたとい 仏人の誇称する如く東洋の|明珠《めいじゅ》でないにしても、少くも|印度支那《インドチヤイナ》の明珠たるを失わないのであ る。  しかしながら仏人に経営された|西貢《サイゴン》は、仏人の短所の印象を脱することが出来ぬ。仏人の鄭鼠 なる中央集権の影響は極東にも波及して居って、今もし|西貢《サイゴン》からその支那人町を除外して考うる 時は、これを|印度支那《イントチヤイナ》中の第一都市と称せんよりは、むしろ|仏蘭西《フランス》本国内の一田舎町と見なす方 が妥当な位である。劇場前の広場と、及びそこから埠頭に通ずる街路との以外・酊司の全市は携 |人寥《じんりようりよ》々たるものである。|市《う》の|丈野《ぶんや》の程度を|品隲《ひんしつ》すべき尺度の一たる博物館の如きに至っても・ あるにはあるけれど、さして広からぬ建物の二階に|賜蹟《きよくせき》しているもので、その内容は甚だ貧弱と 評せねばならぬ。これを東洋の他の要港に比較して見るに、活気の溢れて見ゆる点において・酊 |貢《ゴン》は蓬かに|香港《ホンコン》や|新嘉坡《シンガポ ル》に劣り、規模の大なる点においては、遠く貯后症に及ばぬものである。  如上の次第であるから、|西貢《サイゴン》の九日間は、このたびの旅行中において、最も長き逗留であった にも拘らず、今においてこれぞという思い出の種がたい。ただここに一つ忘れ難いのは・元日の 午後の郊外見物である。  熱帯の日盛りも過ぎた午後四時頃、前夜の疲労から回復した名誉領事夫婦は、予を誘ってその 速力自慢の自動車に載せ、トリアンに向って走った。トリアンは酊鳶を去ること五十余蟄メ鴻} サンジャック街道のビエノァから左に入る所であって、サリエージ氏はそこに謹讃園を所持し、 |ドイツ《ド》 除夜の宴会に見えた独逸人をして、その管理の任に当らしめているのであるから、同日はその独 |逸《イツ》人の子供らに年玉をやり、かたがた|護謨《ゴム》園の|見分《けんぶん》のために出かけたのである。トリアンに達す るまで一時間余りの間は、念入り|普請《ふしん》の道路のほか、格別目に留まるものもなかったが、夕暮近 く|護謨《ゴム》園の先の|激湍《げきたん》に遊んだ時には、道は森林深く分け入り、両側から空を掩い合える大木の枝 には、無数の|蜩《ひぐらし》の鳴く|音《ね》、長く曳いてあたかも笛の如く、何とも分かぬ藤色の花の垂れかかれ る、またひとしおの趣を添えた。真紅の夕焼けの全く見えなくなるまで|独逸《ドイツ》人の宅のヴェランダ に|憩《いこ》い、七時頃より帰途に上ったが、|赫色《しやしよく》の道路と両側の緑深き並木とに、自動車のランプの光 が映じた色合いには、日中に見えぬ美しさがあらわれて、暑熱の苦しみをば全く忘れ、途中とあ る村落にて、タィアの破れしため半時間ばかり立止まりしも退屈を感ぜず。手伝いと見物とを兼 ねて村人のめずらしげに集まり来れるさまなど、いまでも眼前に描がき出される。除夜の盛宴よ りもこの日の同乗は、予がサリエ!ジ氏に深く感謝するところのものである。  二日のタホテルの食堂で、|端《はし》なくヴィイドフェルド氏夫婦に再会した。雲南はいかにと尋ねた ところ、面白かったが、しかし雪降りには驚かされたとの返答であった。氏らは翌日|解纜《かいらん》の   会杜の汽船で|新嘉坡《シンガポ ル》まで行き、それから|爪畦《ジヤヴア》へ渡るとのことであった故、また|爪哇《ジヤヴア》で逢うかも知 れぬと言いつつ|袂《たもと》をば別ったが、この後互いに相失して|避逅《かいこう》を遂ぐるを得るに至らなかった。 植民地としての印度支那    みだ                         アンナン カンボチヤ  予は叨りに亡国に同情を表するのではない。仏国が事実上安南や柬蒲塞を滅ぼしたのが、正義 の上からいかがわしいと議論する余地ありとすれば、滅ぼされたこれら諸国の政府なるものに、 果して存在の価値があったかどうかを疑いたくなる。一般の人民はあるいは亡滅に責任がないか も知れぬが、現在の土人は予の眼に余わ有望には映じなかった。久しき悪政のために卑屈になっ たと考えればそれまでであるけれど、とにかく彼らはその衣服の如く性質もまた|鈍色《にぴいろ》である。し かして健全な気力がない割に危険性を持っている。されば|印度支那《インドチヤイナ》における仏国統治の困難は、 この辺からしても察せられ得るのである。然れども統治者たる仏人の側にも、反省すべきことが 少から、ずあるように思われる。因って今ここに植民政策上、仏人の長所短所とはどんなものかを 説明して見よう。  植民地が出来ると真先に、英人は銀行を建築し、仏人は劇場を建築するとは、名誉領事サリエ !ジ氏の予に告げた語である。この語は同氏の発明であるかどうか分らぬが、とにかくすこぶる 急所に適中した名言であると思う。  |新嘉坡《シンガポ ル》にも|香港《ホンコン》にも、共に真に劇場と称するに足るものなきに反し、|印度支那《インドチヤイナ》の主たる都市に は、いずれも相応の劇場がある。.ことに|西貢《サイゴン》の劇場に至っては、|仏蘭西《フランス》本国にも沢山は見当らな いほどの壮麗たる建築である。市から巨額の補助を与えて、俳優をわざわざ欧州から招聘するな どは、昔の|希臘《ギリシヤ》か|羅馬《ロヨマ》にでもありそうな話で、誠に仏人らしい行き方であるが、従って補助金の 関係上、頻繁に興行の出来ないのは|已《や》むを得ない。  ただし|西貢《サイゴン》において昨冬熱帯病会議を開き、芝居興行補助金を振りかえて、もって各国から派 遣の委員を接待したため、市民は当分芝居を見ることが出来ぬこととなったなどは、これもまた 他の意味においての|仏蘭西《フランス》式である。  |河内《ハノイ》に着いた晩、音楽行列というものを見た。|晩餐《ぱんさん》を終えて|読書《とくしよ》していると、日本で聞く広告 楽隊のような音がし出した。あまりに賑かであったから戸を排してバルコンに出て見たら、下の 往来を不思議な行列が通る。巡査を先導として、|太神楽《だいかぐら》の獅子のような、紙で作れる長い竜を、 数人で|被《かぶ》ってこれに続き、その後には種々の魚類に|象《かたど》った|行燈《あんどう》を持ったものが十数人、楽隊の吹 奏と共に歩調をそろえて、早足行進をしつつあった。テッキリこれは今日帰府したサルテウ総督 を歓迎する行燈行列であろうと速断して寝に就き、翌日人にその話をしたら、これは毎月二回月 曜日に行われる、恒例の音楽行列であって、しかも市民の|無聊《むりよう》を慰むるため、その筋からやらし ている公けのものであるということだ。それにしてはこの行列のあとに、数十台の車をつらねて、  さも用事ありげにくっついて行く|仏蘭西《フ フンス》人らの気が知れぬ。   釡の補瞿よって芝居螽行し、音萋票しめ搴のことは、善音だこれ毒釈すれば、 構讐響顯健鷺り糖欝難繁糠叢嬬訂   |淵源薫《はその  だ》しく|日《リ》歪発している人力車でも、所によって様々の称がある、|靂紊《インドチヤイナ》一躄はこ 婪プッスプッスと呼蓁要ではケァウと言う方がむしろ通りょい。プッスプッス蘿すと いう義往欝語から来ているから、日本語疂したらテノテク培羅する諧う。ヶアゥは 翅馨善す仏語ケァウチ三上半だけを取ったもので、つまり靉輪車という音蔆。しかし 帷て車賃には距離と時間及び寄り道の有無によって、それはそ袿綿霞一定の率爰る。その率 " は|地《の》方によって一様ではないが、概して|廉《やす》い。           フランス 阯独-車賃ばか-蕘い。本国におい…ごましい規則を設けたがる仏蘭西人は、そ刪樋民 概跫おいて高じよえこと拿っている。明治の初年わが邦で仏式の陸軍袞用した当時野 八外演習規典というものが蒹された餝の内容は仏掣のままであってぢマ撃務令奎と簑 跪たり・規霍綿密に過ミ独断専行の余地馨ものであった。仏人の印霎跫おける簣政 策も、まずこの野外演習規典式であると言ってよい。しかして車賃の法定も、最も保護の必要を 感ずる|椋鳥《むくどり》には、大して|難有味《ありがたみ》がないのである。  一見すれば|印度支那《インドチヤイナ》にある仏人は、大いに土人と接近している。日曜に|西貢《サイゴン》の寺に参詣した時、 土人が着飾った|仏蘭西《フランス》の淑女たちと|相雑《あいまじ》りて、堂内のよい席に坐しているのを見て、実に意外の 感があった。ややもすれば平等呼ばわりをなしつつ、しかも黒ン坊を人間扱いすることを忘れた がる|亜米利加《アメリカ》人には、この真似は容易に出来ぬことである。しかしながら大体から考えると、こ の土人に接近するということは、土人を誘導し、向上せしめて、もって己れらに接近せしめるの ではない。むしろ|仏蘭西《フランス》人の方から下降して、もって土人に親しむのである。換言すれば自尊自 重の念を麻痺せしめて、もって藏ち得るところの接近である。 「提督ネイイー」号に同乗した船客のうちで、甲板の散歩によく見かけるけれど、食堂には決し て出て来ぬ|仏蘭西《フランス》人があった。然るにその仏人は、船が|西貢《サイゴン》近くなると、怪しげな服装をした|安 南《アンナン》女と甲板を潤歩し出した。時としては見るに堪えぬ醜態を演ずる。乗合いの仏人らはこれを意 に介しない。聞くところによれば、かくの如きは余り珍しいことではないそうであるから、航海 中遠慮してくれただけでも奇特と|褒《ま》めねばなるまい。かかる場合に際しては、よし偽善の嫌いが あるにしても、予は英人のやり口に|左祖《さたん》するものである。  予は雑婚論に全然反対だというのではない。然りといえども女性の土人によって獣欲を充たし つつ・しかも永く土人を霸しようとする者の、植袰業において甓した|例《ためし》の芒ことは明ら かである。仏人の聊膨菰鷺におけるかくの如き接近は、土人の懐柔ではたくして、自己の軽侮で あゑこれに対して土人があ茗感謝の立日寄表詰のも、怪しむ寔ら寰み乞ず、彼らの間 にはしばしば隠謀が計画せられ、現に河四ホテルの予の室から|轍下《みお》ろされる場所で、昨年の春に 仏国佐官が暗殺されたなぞは新しい記憶である。 畢姦の当局者らは、かか蠢攀もって、支那革命党員の|教躄《きようさ》出づ耄のと認め、共通 の型晏有すと思惟耄る民国政府に対し、し言に接近の方鼕講ず耄のの如く、過般樽 ルラウ総督の嚇剌訪問も、多少その辺の意味を含むものとして噂されている。しかしたがら印度 菰鷺における人心の動揺は、仏人の鮴舳げ軽重を問われているのが一の原因であって、必ずしも支 那革命党の叢にょるばかりではあるまい。仏人にして奮って自重の念羞すにあらざれば、植 民政策における成功は恐らくは期し難かろうと信ずる。 九 汽船ドナイ |西貢《サイゴノ》と|盤谷《バンコツク》との間における二週面の定期航海は、メッサジェリイ・フルヴィアル会社の営業 航路の一であって、同会社は今ドナイという七百螂ばかりの小汽箜隻をこの方面に動かしてい る|力《やさ 》 このドナイという船名は、即ち|西貢《サイゴン》の傍を流るる河の名に因んでつけたのである。 船饒日の夕に|西貢《サイゴン》の埠頭を離れ、翌朝ご・コンドルの島に達するまでは、ひたすら南に向 っ蟲る。プロ.コンドル島は、屠姦政府の囚人覊地で・従って政府の特許の芒者は上 陸することが出来ぬ。船はここから針路を西に転じ、夜半に交蹴菰珈舳最南の燈台を廻って、そこ で初め一て西北に向い|暹羅《シヤム》湾に入ることとなる。 小さい汽船というものは、動揺しやすいのと設備のわるいのとの、この二つの短嬖ば免れな いが、しかしま簑て辮長所も少くない。まず言淒四畳半の小襞の格であるから、心静か に読書も祟る。また吃水が浅いために、大船の如く遠く沖合いを走る必要がたく・甲板から絶 えず陸上の景簒眺毳らすという簑毒られる。耄で河船に乗ったよ姦も蹇岳馨 東海岸の如き景色のよい所では、この感さらに深い。 |シヤム《とつこつこう》  船から見た暹羅湾の海岸は、支那海もしくは安南海で見たところと全く趣が違い、突兀たり饒 職たる荒寥な景色ではなく、島にも岬にも皆その水際から草木が生い茂って、緑の影を水に|醸《ひた》し ている。ここに至っては熱帯もいたずらに恐ろしいばかりのものではなくなって、ことに|漣《さざなみ》す ら立たぬ入江の朝などは、かつて知らぬ美しい静寂を味わうことが出来たのである。  小汽船の航海に取るべき点はまだこのほかにもある。即ち乗合い客との関係の面白いことであ る。  そもそも東洋の植民地に来ている西洋人の中には、到るところ土人を駆使するに慣れたため、 これを対等の人間として扱うことが、己れらの体面を傷つけるものだと考える|輩《やから》が多く、かつ彼 らはこの軽蔑をもって単にその勢力下に立つ種族に臨むのみならず、これを東洋人一般に推し及 ぽさんとしている。しかしてこの点においては、日本人とても全く例外に待遇せられてある訳で はない。差向いの場合には、やれ一等国民だの何だのと、お世辞を|振蒔《ふりま》き、うるさいほど話しか        ちゆうじんこうざ                                   ごうがん           、 くる西洋人でも、稠人広坐の中に立つと人目を嬋って、ややもすれば傲岸な態度をとり 己れは 日本人などに近づきのあるような下等なものではないと言ったような風をする。かなりに見知り 合いになった顔の者でも、コッソリと目礼で済まそうとする者もある。かくの如きことは乗客の 多い大|飛脚船《ひきやくせん》に最も著しい。然るに、小汽船とたると、彼らもさほど気取らずしてすこぶる打ち とける。従っていつでも彼らを話相手とすることが出来る。また乗客の素性が互いに分りやすい から、相手にして面白くないと覚ったら、取り合わずに|読書《とくしよ》でもして居ればよい。それでも大船 の場合のような圧迫を感ずることはない。さればあまり急がぬ旅を東洋に試みんとする者は、甚 だしく船に弱くない限り、小汽船を選ぶも一興であろう。ドナイ号の場合の如きもまさにその適 例であった。  ドナイ号の乗客はなかなか面白い取合わせであった。|荘司《しようじ》技師のほかには、|仏蘭西《フランス》人で|暹羅《シヤム》の 司法部顧問たるラウラン氏夫婦、アンコル・ワットを見物して来たというカナ|聾《つんぼ》の|墺人《おうじん》と、|仏蘭 西《フランス》語の|上手《じようず》なその妻、|印度支那《インドチヤイナ》銀行の|買辮《ばいべん》で、近頃|暹羅《シヤム》の支店に起った不始末の整理をしに行く という支那人一行、及び|緬甸《ビルマ》の王族ミングンらも乗り合わせた。        おとな                       おわ          シヤム  ラゥラン氏は温良しい読書好きの人で、予があたかも読み了ったタシャールの暹羅旅行記を貸 してから近づきになり、墺人夫婦とは、彼らが所持せるノイエ・フライエ・プレッセを借りてか ら、話相手となり始めた。しかし乗合いの中で最も珍なのは、|緬甸《ビルマ》の王族ミソグン君である。こ    てておや  ビルマ                          ビルマ                   フ ランス の人の父親は緬甸の最後の君主なそうで、英国が緬甸を滅ぽした際、政略上仏蘭西に収容せられ、 今は仏国政府の年金で、その客分として|西貢《サイゴン》に暮らしているのである。その子即ち予の同船者は、 幼少から仏国で教育を受け、仏国の軍籍に身を入れたが、目下|賜暇《しか》を得て|西貢《サイゴン》に帰り、宝石商売 に従事中だ。しかしてこのたびの|暹羅《シヤム》行きも、実はその商売上の用向きで、チャンタプンに赴く ためとのことであった。  十日の夜に交蹴菰鷺の南端を廻った船は、翌朝蹴槻の産地として有名なホンチョンに寄港し、 正午頃にはその西北たるフコック島に着いた。この島までは|交趾支那《コチンチヤイナ》の行政区域で、これから先 藁襲である剪七世紀頃洋人の手に成り、わが邦の航海者に使用芒れ、今は予の所有濤 している東南酊舳觚酊の海図には、この辺の島の一ツに、片仮名でイモシマという名を書き入れて いる。このイモシマが果してフコックであるかどうか分らぬが、|暹羅《シヤム》湾の島に勝手な命名をした ということのみでも、もって当時の日本人がいかにこの方面に発展して居ったかが偲ばれる。  フコック島から艦郷ポでは、ドナイ号の速力をもってしても、一昼夜半で足りる行程である。 しかしたがらその通りに進航しては、真夜中に|漏南河《メ ナムか》を|遡《さかのぼ》ることとなるのみならず、中間寄港 地のコー・コン島に着くのも、同じく夜になるという不便があるので、是非とも途中で道草を食 いつつ航海する必要が生ずる。かくの如き事情のために、フコックでは八時間ほど停船した。荷 役の済んだ後は、船内ヒッソリとなる。忙わしく使われた|端艇《ボ ト》は、間もなく乗り捨てられて、|物《もの》 讐うに岸にかかっている。半時間おき位に、島の|讙《ゴム》園の荷輦が小山の後から凋て、脾の 荷物を受取りに下りて来る。船員は退屈凌ぎに、釣りの参考書を取り出し、ハ衾跫して壇 垂れて見たが、勿論かからぬのでジレてしまい、遂にラウラン氏夫婦を誘い出して上陸した。護 讃園のゴ馳走に-萋うというのである。彼彖上機攀帰って来たのは、予定の出船時間より一 時間も後れて居ったのであるが、急いでは悪い航海に、何の不都合もたかった。  翌朝におけるコー・コンの寄港もまた同様であった。何となしに三時間以上停船したが、その 間に船員らは、海の中に設けてある土人の|魚寄場《うおよせば》から、数百尾の小魚を捕えて来た。しかも船が 動き出すと間もなく、その魚がフライとなって|昼食《ちゆうじき》の皿に上ったなどは、もってこの航海のノン 気さを語るに足るものである。 十 盤谷  ドナイ号は一月+三日の朝、|渭南《メ ナム》河口の|沙洲《さしゆう》を過ぎ、パクナムから河を遡った。この沙洲は昔 から|暹羅《シヤム》国都の天然の防備として、欧人の旅行記などに有名なもので、いかなる船も必ず、ここ で|留《とど》められるのが例であった。両岸は鬱々たる樹林であって、|木《こ》の|間《ま》から時々土人の家屋が見え、 その家屋のある所多くは小さな入江をなしている。たまたま林の開けた場所に大きな建物がある とすれば、それはおおむね精米所である。|盤谷《バンコツク》に近づくに従って、|暹羅《シヤム》に特有な河の中の|浮店舗《うきみせ》 もチラチラ見える。頻繁に目に触れる|暹羅《シヤム》丈字ばかりの看板は、国のとにかく独立しているとい う証拠ではあろうけれど、何の意味か分らぬ不便のあるのは、仏領たる|印度支那《インドチヤイナ》と大いに勝手の 異なるところである。|混《こんこん》々たる濁水は名の知れぬ|蔓草《まんそう》を絶えず推し流して来る。|盤谷《パンコツク》の河中に投 錨したのは午前十時頃で、迎えの小蒸気に乗じ、直ちにオリエンタル・ホテルに投宿した。  |暹羅《シヤム》語を解するではなく、アユチア見物の計画をさえも中止して、足一たびも遂に|盤谷《パンコツク》の外に |出《い》でなかった予は、|暹羅《シヤム》を説く資格がない。しかしながら六日間の滞在全く得るところがないで もなかったから、その二三を述べて見よう。  |暹羅《シヤム》は言うまでもなく独立国で、|盤谷《バンコツク》はその都である。けれどもその規模に至ってはまず|独逸《ドィッ》 帝国内の第二流聯邦の首府位のものである。しかしてその独立というのも、力足りて保持してい る独立ではなく、英仏両国の睨み合いが|自《おのず》から成さしめている独立である。已むを得ざる独立で ある。換言すれば、|暹羅《シヤム》は|印度支那《インドチヤイナ》と|緬甸《ビルマ》との間に介在する中立地帯であって、|暹羅《シヤム》の政府はこ の地帯の行政庁である。|暹羅《シヤム》政府の当局者は、|数多《あまた》の外国顧問を巧みに操縦するを誇りとしてい るとのことであるけれど、顧問なくして|暹羅《シヤム》が立ち行くや否やは疑わしいのみならず、不要と仮 定しても、全くこれを|拒斥《きよせき》し得るや否やもまた疑問である。しかしてこれらの顧問が、一々|暹羅《シヤム》 のために|尽淬《じんすい》する|百里奥《ひやくりけい》ばかりであるとも思われない。|暹羅《シヤム》はその実、独立国と言わんよりもむ しろ一箇の中世的大荘園である。しかも門戸の締りのない大荘園である。|暹羅《シヤム》が外国人を入れて いるというよりも、外国人が勝手に入り込んでいると見る方が適当なので、かかる状態において は、治外法権の有無は大した差別とならぬ。さればこの治外法権の撤去という無害なしかも美し 十 盤谷 い譲歩をして、もって有利な条件を獲得した英仏両国のやり方は、実に利口と評せざるを得ぬの である。ホテルの食堂に出るごとに隅々の食卓に見受けらるる定連は、いずれも皆いわゆる外国 顧問である。最叡論は近き将来において濫贈に実行し得らるるところのものとも思われぬ以上、 独立国|暹羅《シヤム》の前途は決して楽観すべきものではない。  六日間の溜鷺の滞在にアユチアなる日本村の|荒祉《こうし》をすら|訪《と》わなかったのは、案内人の都合が出 来なかったからで、溜羅語に通ぜぬ者には、案内なしの内地旅行はまず不可能である。英語が通 爰どいうことは虚鐸限ると言って奎いじかしてそ鼠葎おいてすらも、実際きっと 英語で用を弁じ得るというのは、ホテルと外人目的の売店とのみであって、門番が一々英語を解 してくれぬ以上、|官衙《かんが》の訪問すら自由には出来ぬ。  公使館の白浜書記生、三井物産の出張員小松氏、大山商会の宮川氏らの案内で、しばしば市中 の見物にも出かけ、また郊外のドライヴをもやった。しかしいずれも多忙な人々であるから、ノ ベツにこれらの諸氏を煩わすわけには行かぬ。巳むを得ずホテルに籠城して読書でもしようとす ると・名物の讐真昼でも盛んに攻撃して来る。蚊に妨げ夐て読書すら出来ぬとすれば、午睡 のほかはなくなる。午睡に繖んで近所の散歩に出かけても、往来の砂塵の甚だしいので、すぐに 旅宿に逃げて帰る。|印度支那《インドチヤイナ》から|盤谷《バンコツク》に着いて、まず目に着くのは街路の悪いことであって、も しこれが何国かの植民地であったらばなどとも思わせる。この道路の不完全のため、|盤谷《バンコツク》は熱帯 の楽しみの一なる夜の散歩すら、愉快には出来ぬところである・ しかし篆ら外人の|暹羅《シヤム》に在挈る者、五七年位の霍者は珍しからず3三+年の久しき 響、舞鍵气鯒締越動佚繊讐一薫驚 る。 ある日の午後ホテルで「サイアム・オブザ占ア止記者の萬を受けた・外国新聞記者の来 襲は初めての蠶である。短き、談葭誇張されてその晩の夕刊に出ね饗ぱ狭いも蹇と弩 た。しかしなが拿リエンタル餝テルの客は餮ず予の如きやくざ者ばかりで爰かった薗 王陛下の来訪に接した者もある。この珍蔆アオスタ公大妃であゑ今既に故人となったアオス 佚というのは、|伊太利《イタリ 》王国の建設者ヴィクトル・エマヌエル垂の斈で餝つ三度は窪 牙の王繧戴いたこともある。際立った緑色の钁看賺に面し躊の菴へと・爨ご赱 静、と蓮耄移しつつあった貴婦人は、故アオスタ公の二度目の配偶者で・ナポレオン家の撃 ある。英国擘党窕士故ヒックスビーチ氏の令嬢と同伴して東洋漫遊の簷古、み讐滞 在中にドナイ号で西貢へ向った。 糞|櫨《シヤム》を逃絃鴛くなり、霸船をば待ち簧て、支那人のチャータした六属ばかり の諾威船に乗り、新嘉坡へ向うことにした。支那人の店に行蟇談で用を弁じ得て・同紊饗 案擘られると・またひ鶴えつて欝字論者に反対したく萋。    …ダ 今夜船に乗り込もうというその昼に、ホテルの食萼、再び加賀丸蒿船したヒョロ長い齧 人を見た。濫驂の興斜にある親類を訪問に来たとのことである。身の|丈《たけ》は|幾何《いくら》ほどと尋ねて規批 ら・その答に・六フ呪ト七讐いう群はずれであるから、人に記憶されやすい便宜がある、爪哇 へも行くつもりであるから、また見つけたら呼びかけてくれとのことであった。しかし遂に三た び逢うには至らなかった。 十一|暹羅《シヤム》湾西岸 鑑葬窺瓢椥までの間の定期航海は、もと英独の競争線であったが、戸0会社が権利を譲り 渡した後は、今掀掛週ロイド会社の独占に帰している。この会杜の所属船なればかなり楽に航海 も出来るが、一日を争って盤筍ダ出発したために、不便な識騨艇か我慢しなければならたかった。 ほかに稗灘運輸会社の濫驂から鷹膨への直行線もあるが、これは一箇月に一度位のもので、とて も待つわけには行かぬのである。 ドナイ号は小さくとも蠢であった。然るに百+八盈篶ら乗って繋椥へ向£欝船 プ。フィットは全く荷船で、ただ便乗を求むる者に船員の室を貸し与えるのであるが・それです ら五名以上を収容することが出来ぬのである。従って設備の不完全なること言うまでもなく、予 の如きは四昼夜の間ソファに寝かされた。食堂も獄く暑苦しかったが・しかしこれはあまり苦に はならなかった。|何故《なぜ》と言うに、三食共に、甲板にしつらえた急造食卓で、涼風に吹かれたがら 食事する方が、かえって気持よかったからである。  五人の乗合というは、予のほかに英人二名独人二名であった。英人の一名は真直に繖鶉に帰る 皇一口い、茗は電気機械の商売人で、マドラスに帰る筈の者であったが、両人共に大いに成功し たようには見受けられなかった。二名の独人は共に|莢因《ライン》地方出身の者で、その一名は以前に濫羅 に七年ほど在留し、今回は二度目の渡航であると語り、他の一名は東洋を股に掛けて旅する人ら しく、|新嘉坡《シンガポ ル》から|香港《ホンコン》へ行き、|爪畦《ジヤヴア》を経て|独逸《ドイツ》に帰るのだと言って居った。電気商なる英人のロ        シ評厶            ドイッ 角泡を飛ばして暹羅を罵倒するに反し、独逸人らのこれを弁護して居ったのによって察すれば、 けだし|勘《すくな》からず|贏《もう》けて帰る者らしい。 英人らは朝食に萋喫し、鐵人らは雛を喫玄慧人が慧を飲む時には儼央人らはウイ リキイ|曹鼕《ソ ダ》飲む。かくの如く食事の末に至るまで、両者共にその本国の習慣を保持して、相斌 峙しているから、種々の件につきて英独優劣論を闘わし、なかなか相譲らぬ。濫鱈湾西岸に沿う 十一暹羅湾西岸 航路は、東岸と同様で、陸地をあまり遠く離れず、全く陸の見えぬのは、四昼夜中のただ一日で あったが・船からの眺望は遙かに東岸に劣るので、すこぶる退屈を感じた。単調を破るものは|鱶《ふか》 の時々出没するのと、この英独の論戦位のものである。しかし仲裁も容易ならず、局外中立も守 り難き時などは、板挾みの苦痛もあった。|温良《おとな》しい|諾威《ノルウエ 》人の船長は、笑ってさらに取り合わな|力《 》 った。  鑑包ぱ諸種の悪疫の流行地として有名なものであるから、|盤谷《  ハンコツク》から出帆した船に対しては、ど こでも嚇りい検疫を行う。プロフィット号も同様で、二十一日の午後七時頃に|新嘉坡《シンガポヨル》の湾内に入 ったが・検疫の済むまでは上陸が出来ぬ。既に目的とする港に着き篆らしかも近寄ること|叶《かな》わ ず。蓬かに岸上の燈火を眺めつつ夜の明くるを待てば、微風が帆柱にわたって|歎乃《ふなうた》が枕に音ずれ シンガポヨ《るリ》|ル  翌朝いざ検疫となると思ったよりは簡単で、間もなく上陸が出来た。新嘉坡は初めての土地で もなく、かつ爬膨からの帰途また立寄る予定であったから、僅か一夜の休息で、二十三日には|和《オラ》 離運漕会杜のルンフィウス号で、バタヴィアに向ったのである。 新嘉坡爪畦間 |鷭《オラソダ》王靂漕会杜は、バタヴィア及び轟梦中心として・その靜霧群簍連結する航路 網を張諧いる。中にも|新護《シンガポリル》.パタヴィア・スラバヤ線は、その最董耄もので・目下この 蘚竃ててある裟ド同槍所有中の最良騨ンフィウスとメルヒオル・-レイブ佐蕚 あるが二隻共に東印度に縁りある生物学者に因んで名づけたのである。前者はもと独週人であ るけれど、+七世紀の後半に|和蘭東印度《オランダひがしインド》政府に仕え、アンボイナ島の副知事となっ蕋を終った 人であるが、氏の該博茱物学的研究は、爰して欝ブリニゥスの繖峩を得芒めている養 者は十九世紀後半の植物学者として有名な蘭人で、バイテンゾルグの植物園をして・今日の如く 世界の模範植物園と称せしめるに至ったのは、全く氏の力である。かくの如く植民地の研究に 偉功ある悼結の名をもって、植民地間を往来する船舶に冠するなどは、商人国の程灘にしては・ ちょっと奥床しいところがあると思う。なお両船共にその食堂の天井確フ三には、あるいは歴代の 総督あるいは占領以来輸入鬆し彙鏤物等を、年代順に肇並べてあゑこれ与べて船の 命名と同趣向のものと見受けられた。日本では神仏の名、あるいは国郡その他の地名等を、船に 冠するのが普通で、人名をもってこれに命じた場合は甚だ少い。|頼朝丸《よりともまる》、田村丸、|比羅夫丸《ひらふまる》等の 如きは・その稀な例である。しかしてそれすらも大繧豪傑とか武将とかの名であぞ、学者の 名奎は枩かつてつけられたことがない。しかし篆拿れは、日本の学者で薹記念簑す べきほどの人が出ないからであると言われれば、これまたもって一一一一一。もないのである。   耄 親薙野日本人に聞いをころでは、バタヴィア通いの汽船は、速力が早くて設備食搴も宜 しいが・日本人に対してはややもすれば冷遇する傾きがある、今まで日本人で|和蘭《オラン ダ》船に乗った者 に・不平を言わぬ者がほとんどないということであった。これを聞いた時の予の感じは、それは 日本人が例の一等国民を振り廻して、非常な好遇を受けんとするから、事予期に反するための不 平で・実際蘭船の待遇も評判ほど悪くはあるまいとの想像であったが、さていよいよ乗込んで見 ると・名義だけ一等に塗り替えた二等室を充てがわれたので、|新嘉坡《シンガポ ル》での噂もあるいは本当かと も思っね然るに船は行進を起し、船内少しく片づくと、|主厨《しゆちゆう》は予の側に来て、予に問うに食卓 を共にしたき船客の有無をもってした。その時には、船内に一人の知合いもたかったから、相手 免ばぬ旨を返答したが・心職かにはかく食卓の座嬖で心配しく耄爰・な淒、やはり虐待 という爰のこともなかるべしと思い返した。けれども定刻となってイザ食堂に出て見ると、思 いきや予の席は船員の末席に置かれて、予の次には無線電信手と蘭人の|子守《こもり》たる|混血娘《あいのこむすめ》とあるの みであった。  それでもルンフィウスの方はなお可なる方で、バタヴィアよりの復航、即ちメルヒオル.トレ イブに乗った時には、それよりもさらに甚だしく、髪の毛縮れ、耳が前の方に向い立った黒ン坊 と、差し向い饐芒められたのである。西洋人が東洋人を軽蔑して同室に乗り合わすことを欲 せざるところから、予の如きも多くは天に三室を占領し得たことは・小癪に触り篆らも便 利とするところであったが、食堂における如上の待遇には不愉快を禁ぜぬわけには行かなかった。 されど支那その他東洋諸国を旅行して土人の生活状態を好濫すると、一般の東洋人に対する欧米 人の軽蔑にも、無理ならぬ点のあるのを発見せざるを得ない。しかしてこ0軽蔑を日本人にまで 及ぼすということは、勿論不都合千万ではあるけれど、日本人が全然これを免るるまでには・な お数世紀を要すべく、少くも東洋諸国に在る日本人の生活状態が、西洋人と同等の域に達するま では、苦情を言うも詮なかるべしと思われる。 十三 バタヴィア 十二月の末に|海防《ハイフオン》を出発してから、 一月下旬|新嘉坡《シンガポごル》に着くまで二十余日の間は、 一滴の雨をも 暑かった嘉議萇よっと午後の讐に逢ったけ蛬も、大空が水|撒《ま》きをしてくれた霍し か擘られ篆った袁る鳧讃を出発した晉、スマトラ茗舷に萋つつ、バンカ海鼕 過ぎて舊萋と・雷電と共に大雨欝とし三土り、久し振りで雨らしい雨毳験し跫。百 の爬膨は、まだ雨期のうちにあるのである。  ルンフィウス号は・二十五日の蹴発に、タンジョン・プリオクに着いた。ここからバタヴィア まで汽車が半時間以内で達し得る。バタヴィアには、実は昔からの船着場があるのであるけれど、 規模は旧式でかつ甚だ小さく、ジャンクの碇泊以外には用窪憙のであるから、汽船は大抵こ のタンジョン.プリオクに着くのである。しかしてこの築港すらも今は狭鑒感ずるように・弯 たので、向う岸へ拡張の準備中であった。  船が着港するや否や・港務官が船にやって来て、二十五ギルダ1即ちわが約二十円の入国料を 徴収し・然る後に上陸を許可するのが例になっている。この件については航海中に事務長からも 話があって・弩かじめ蓊をしていたことではあるが、しかしその徴収の目的が主として支那 苦かの入国を制限するにあるとのこと故、いざという場合には、公用の海外旅行免状を示しさえ したら剪サカそれでも入国料を払えとは一一一一口蟇いと、擘に解鼕下して居ったから、港務官 の前竈ると・すぐに旅行免状叢り出して見せた。然る冪務官の答には、公用旅寔せよ何 にせよ、汽船の往復切符を持たぬ限りは、入国料を徴収するとのことであった。これはその往復 切符の通用钁六箇月と簧っ萇り、従ってこれを持って渡孥る麥に・長逗留が不可能で あるから、寛大・な待攀与えるのである。もっとも入国料を払った麥でも・六箇月以内に島を 退去する場合には、その筋からこの二+五ギルダーを払い戻すこと爰っているが・事面倒佚 君讐に往復切符を持糞居ったから、仔禦く上箏ることが出甕のであゑ 新嘉鼕立つときに、毋の呆人へ電鞏出してや言かと、親切に言ってくれた人もあっ たが、祟得る限り出迎えを受けたくない故、それは断って前触れ售に上陸し・格摯ゴツキ も芋、ホテル.デ.ザン華曙した。薹しホテルに近いウェルテフ駭デンの蟹響は なく、紊町の北端爰る簟場で下芒たため、それからホテルまで、即ちバタヴィアの大半 を、馬車で南下しなければならなかっ姜どは、失策といえば失策にもなる。 ホ.アル冪諧くとすぐに出眷て、驛領窶訪問し、霞内地の旅行について相磬した ところが、領蠹竈いてい蠡れ座敷があるから、是裴って来いといわれ・その勧めに任せ て即日引移るこ赱した。前聳嚮のバタヴィア滞茫、公私諸種の便宜を得かつ旅の疲簍 全く恢復し跫のは、ひ績蒿領事の厚意に負うところのもので、ヴェランダの閑霍鼕更 かし毳、揶子油の常蔡燈っている寝室に退く裔とした領事館の離れの絆〜腓は・今奮昨日 の如く思われる。  サイゴン  まが                                                  ジヤヴア  西貢の紛いなき仏国植民地なることが、一見して知り得られる如く、爪畦の諸市もまた、その 蘭人の市街たる徴候極めて判明であって、なかんずくバタヴィアは最も母国風を帯びている。下 町即ち支那人の住居地たる|古《こ》バタヴィアは別として、いわゆる|上町《うえまち》即ちウェルテフレーデンは、 |溝渠《こうきよ》縦横に通り、これに臨んで閑雅な別荘造りの、しかも必ず前栽を具えた家屋が並び立ち、そ のほか蒸気力で運転する軽便市街鉄道が道路の一|側《そく》を走るなど、一として|和蘭《オランダ》式でないものはな い。ことに市街の中央に当るワーテルロー|原《げん》の如き、|靄《もや》の中から青々とした草地と寺院の尖塔と                   オランダ          か                         かざ を望むとき、まず想い起さしむるものは、和蘭牧場の景で、闕くところのものはといえば、風 |車《ぐるま》の見えぬだけである。人力車のないのは東洋的色彩を減ずる有力な原因で、これと反対に町膨 |支那《チヤイナ》にも|暹羅《シヤム》にも見えぬ、乳牛の、ここに少からず見えるなどは、大いに蜘羅旺的の風致を加え ている。  市街は清楚なかわり繁華でない。バタヴィアの古埠頭はわが堀げ港の寂しさに似ている。ジャ カタラの称はまだ街道の名に残っては居るが、その街道たる片側は|疎《まぱら》な人家、片側は椰子の茂林 であって、ジャカタラ|丈《ぶみ》の|主《ぬし》コルネリアの跡など、問うべきよすがもない。古城の外廓は今公園 になって居る。折しも陰暦の正月、支那人|燕楽《えんらく》の季節に|中《あた》るので、昼には獅子舞に似たものが通 り、夜は近郷から太鼓の音が聞えた。  一月二十七日は|独逸今帝《ドイッきんてい》の天長節なので、その夜は|独逸《ドイツ》総領事館にレセプションがあったから・ 浮田領事及び夫人は祝賀のために出かけ、予も雨を冒してこれと同行した。総領事はドクトル某 とて肥大した方、副領事は若いスラリとしたる体格で、少尉の軍服を着けて居った。一年志願兵 の出身と見える。来客は|和蘭《オランダ》の高官と、バタヴィア駐在領事団の人々、それに在留の鉗週人とで あって、ルンフィゥス号に同乗した顔も見えた。見渡す限り祝賀客として予ほどの野次馬はなか った沽、しい。浮田領事の紹介で|数多《あまた》の人々と談話を交えたが、そのうちの一人なる英国総領事は、 近頃|盤谷《ノンコツク》から転任して来た人で、|暹羅《シヤム》には二十年以上在勤したと語って居った。この英国のやり 口と、ややもすれば年に二度も領事を更迭さする日本のやり口と、ドチラが果してよいのであろ うか、)  バタヴィア滞在中、|独逸《ドイツ》領事館以外に訪問したのは、植民地政府の日本人支那人事務顧問たる ヴァン・ヴェルルム氏、及びその紹介によれる博物館附属図書館長某氏とであった。博物館は修 繕中であったためにこれを観ることの出来なかったのが何より遺憾である。図書館は私立で格別 のものではない。  バタヴィア滞在中雨の降らぬ日は少かった。しかし午前に降ることは稀で、午後にも長くは降 らなかった。要するにバタヴィアの雨期も一月になると、苦になるほどではない。されば漫遊客 の数の、乾燥期よりも雨期なる一月二月に多いのは、また無理ならぬ次第と言うべきで、島内旅 行をして見ても、各地の有名なホテルは、旅客の|輻湊《ふくそう》のため、いずれも皆混雑を極めて居った。 熱帯の見物をばやはり冬にやりたいのが人情と見える。 十四 |爪畦《ジヤヴア》の内地  |爪畦《ジヤヴア》島内に試みた一週間の旅行のうち、バタヴィアとソロ即ちスラカルタとの間は、往きには 南路によりてバンドンを経由し、帰りには北路によりスマランを経由したが、ソロ以東スラバヤ までは、往復共に同一線路によった。しかしてほとんどその旅行の全部は鉄道によったものであ るから、何ら珍しい見聞の紹介すべきものがない。  蘭領|印度《インド》総督の官邸と、これに接して東洋第一の植物園とを有するバイテンゾルグには、三時 間ばかり留まった。植物園ではカナリ|樹《じゆ》の並木道の|逍蓬《しようよう》から始めて、大小の径路を|辿《たど》って見たが、 広大な面積を有することとて、到らぬ|隈《くま》なしというわけには行かぬ。園内で最も面白く感じた場 所は、園の西部を貫流するチリゥォン河の岸に沿うて一段低き所に培養してある、水草の部であ った。  バイテンゾルグからブレアンゲル州に入れば鉄道の勾配はようやく急になり、二千尺の海抜に 達する。無論、線路は谷間を走るのであるが、車窓から見上げる山々は、おおむね瑚瑞概で襟わ れている。中に亠。同い山の中腹からは、炭焼きのような|煙《けぶり》の立つのが見えて、箱根辺でも旅行し居 るかと感ぜしめるところもあった。夜バンドンに着いてから、大雨の中をマレイ芝居の見物に出 かけたが、|爪哇《ジヤヴア》人支那人混合の一座で、歌も|白《せりふ》も|馬来《マレイ》語であったけれど、大体においては西洋芝 居の真似であるから、何らの面白味もなかった。それよりもバンドンの宿泊に気持よく思ったの は、土地|高爽《こうそう》のための夜涼であって、毛布を着ても、一枚位では少しも暑苦しく感じなかったこ とである。このバンドンは気候のよいのみならず、水もまた滞鯲}で、疾疫流行の虞れ少く、鷹膨 中で住民の|肌膚《きふ》の最も白い所だとの評判だ。このバンドンから八九時間でジョクジャに着く。ジ ョクジャはジョクジャカルタの略称で、名のみ半独立の同名呈鴛戡の首府である。この町その もののうちに、スルタンの宮殿やその故宮品址なる|水城《すいじよう》等の見物場所少からぬのみならず、これを |距《さ》ること半日行程以内で、東にソロという土公国の都があり、北には有名な仏蹟ボロブドルがあ るから、|爪畦《ジヤヴア》漫遊の旅客は、おおむねこのジョクジャを出入りの根拠地として、附近の名所を探 るを例とする。中部|爪畦《ジヤヴア》におけるジョクジャは、あたかも畿内における京都のような地位にある。 予の投宿したグランドホテルの如きも、客室が皆塞がって居ったので、主人の寝室を明けて貰い、 辛うじて、一夜を過ごし得たほどであった。  ジョクジャの町の大通りに店を構えているものの半分が、支那人であることは今さら言うまで もたい。その支疑らの正月休姜アテ込んで、夜に萋と醤踊りが幾墜市妛練りあるく。 踊り手魅齢の爪嬖で、その上半身は裸体、鶩れているは萇乳ばかり、両肩から前に垂れ 下げた比礼を振りつつ、礬使って踊る。その釐袰師たる数人舅が並坐して単饕合奏を やる。見物人はさらにその鼕取り巻く。踊りがすむと、よぼ志の老人に・天秤で楽器を黻…わ せて先に立て、斃太鼓を打つ天襄師がこれに籘する。その他の楽師攀踊り子が・少し 犠れてついて匁、時として鱶傍爰台店のレモン水で響慰してい裔に・先簔る鬱 夫昊秤の端に括りつけられたカンテラの光りは、太鼓の音と共にゆ耄き蔡ら・半町も先の 闇を縫って行くが、簔のこととて蓴てくれる紊店峯くないものと見える餝テル潺っ て篶就いても、夢に通うもの袰外の芭蕉轟ぎと、豢に遠ざかり行くこの踊り太鼓の音と であった。 諧|騰驚彎《ろぎょゆえ》佚旧唖集纏讐讐鱒璋甘 しかしアンコルに往復一鵲窶すると袰い、ボロブドルの方は、佚クジャから百で十分 であるから、折碧耋故蹟の近所まで来篆ら、見ずにし蓍の義念と思い・英人ヘ一フパッ スという退職少佐蠢と共同で、ホテルの蟲霎轡て見物に祟けね自動栞蔆半日で 楽に往復が出来るのである。  予定の如く|昼食《ちゆうじき》までにジョクジャの旅宿に帰ったが、ボロブドルもその途中のメンヅートも、 共に格別感心するほどのものではなかった。|爪畦《ジヤヴア》に二十年も役人暮らしをしたというある蘭人の 説によれば、ボロブドルは夕日の眺めに限るから、古蹟の艤のホテルに一泊するがよいとのこと であった。そもそもボロブドルの古蹟というのは、盆地の中央にある丘陵の頂部に建築された、 基礎の広い複雑た塔のようなものであるから、その塔上に立って、斜陽のために刻々移り行く四 囲の連山の色を望んだならば、なるほど美しかろうとは思われる。それには廃址も勿論趣を添え るに必要な道具立てである。予はこの蘭人の勧めに従う鵬ヂのなかったのを遺憾とする。  半目口の遠乗りは、仏蹟そのものの観賞よりも、沿道村落の見物の方で齪がらざる興味を与えた。 もとより自動車から見た走馬燈観ではあるが、それでも田舎町の朝市場の繼職・その就に射獻や 果物葬.売りに行く|爪畦《ジヤヴア》農民の|冠蓋《かんがい》相望む並木道のさま、その並木の間から見えるメラピ火山の吹 出す淡き|煙《けぶり》、いずれもそれそれの趣があった。 大沢氏の案内によってジョクジャの|水城《すいじよう》な耄のを見物した。ボロブドル售古いものではな いが、日本であれ城を見物した位の気持ちにはなる。ソロにはこれと対比すべきものが、ちょっ と見当姜い。しかし篆ら二とジョクジャとを比較すれば、大体においてソロの方が爬齶固 有の風を多く存している。単に土公の系図上ソロの方が夢たるのみで爰い善洋畜の影響 は、ソロよりもジョクジャに深く浸潤している。それもその筈で、ジョクジャの公国なるものは、 元来|和蘭《オランダ》がソロの勢力を|減殺《げんさい》するために新たに建てたものであるから、ジョクジャの爬膨人の蘭 人に対する反擾の念が、ソロに比べて弱いというのは当然のことである。宮殿城郭の模様から見 ても、|爪哇《ジヤヴア》士族専住区域の状況から言っても、マタラム王国の名残りは、今たおソロの方に多く 認むることが出来る。固有の服鼕した霞人が、後腰に万斎き・傘持以下若干の従簍引 き連れ、|隘巷《あいこう》を急ぎて宮殿に参候するさまなどは、時代も時代、大時代ものである。もしジョク ジャをもってわが藤原時代に比し得べくは、二は萋しく奈良朝位に擬すべきものと考えら る。 十五 |爪畦《ジヤヴア》の二港  バタヴィアを除けば、今日において|爪畦《ジヤヴア》で港らしい港と言うべくして、わが南洋郵船組の寄港 地となっているものは、スラバヤとスマランとの二つである。このほかにスマランとバタヴィア との間に、チェリボンという昔からの港があり、西爬膨の南岸には、ワインコープス湾などが・ 望みを将来に属せられて居るけれども、現在においては前二港に企て及ぶことは出来ない。、  ニ港について比較すれば、スラバヤを推して第一とすべきこと勿論である。|爪哇《ジヤヴア》島の東端に近 く位し、その東北にあって呼べば膜えんとするマヅラ島と相抱き、もって一箇の良湾を成してい る点においては、あたかもわが下関に似ている。埠頭の設備もタンジョン・プリオクに比ベるこ とは出来ぬが、まずかなりというべきで、それに沿うて建てられたる支那人建源の倉庫などに至 うては、実にすばらしいものである。|爪哇《ジヤヴア》第一の産物たる砂糖の大部分の輸出されるのは、この スラバヤ港だ。  スマランはスラバヤとは全く違い、港としては天然の地勢も宜しからず、築港設備もまた甚だ 憐れなものであるのに、しかも商港として主要なる地位を占めているのは、ひとえにその近傍に 良港がないからである。中部爬膨の輸出輸入共に、多くはこのスマランを経由するのであるが、 その不便さを言えば、台湾の|安平《あんびん》、|鹿港《ろくこう》などと伯仲の問にある。  ろラバヤの滞在はただ百であって、三井物産の野呂氏の厚意により、自動車で市中の一巡 をなし得たのみであるが、大体から見てバタヴィアよりは半世紀位後れているように見受けた。 スマランでは・島津横山、その他在留日本人諸氏の懇切た勧めもあり、スラバヤよりはやや念 入りに見物する機会を得たが、この夏に開かるべき博覧会の前景気のために、少しく|活《いきいき》々として 見ゆるほかには、これぞというほどのこともなかった。バタヴィアにせよこの二港にせよ、要す るにその繁昌は|西貢《サイゴン》と|相距《あいさ》ること遠からざるものであって、とても|新嘉坡《シンガポきル》には比ぶべきものでな い。  スマランの滞在中面白く思ったのは、デマックの見物である。このデマックは今こそ寂しき田 舎町であるけれど、十八世紀まではマタラム王国の首府であって、その回教寺院は|爪畦《ジヤヴア》のメッカ と称せられた霊域であった。その本堂の中央にある四本柱の中の一本は、一夜に|神力《しんりき》で建てられ たと伝えられてある。スマランヘの復り汽車の出発までには少からぬ時間があったので、附近の 村落をも見物して廻ったが、とある辻で村番の昼寝しているのを見た。|爪畦《ジヤヴア》には都会と村落とに 論なく、所々に番小屋の設けがあって、ジャガ即ち番人がこれに詰め、非常を報ずるためには、 太い丸太と木槌とを吊るしてあるが、このデマックで見た番小屋には、そのほかに|柄《え》の長い|団扇《うちわ》 や、槍や、|叉《さすまた》や、いろいろの武器が立て並べられ、ちょうどわが封建時代の関所のような厳し さであった。然るにその武器はいずれも赤く錆び、番人は仰向きに寝て|高鼾《たかいぴき》をかき、村落の|寂奠《せきばく》 を破っているに至っては、夜の警固の疲労と言おうようも、|爪哇《ジヤヴア》人の太平楽を示して余りあるも のと見えた。 十六 蘭人と|爪畦《ジヤヴア》人  |爪畦《ジヤヴア》のみを見て、もって蘭領|印度《インド》を概論するのは、|一斑《いつばん》から|全豹《ぜんびよう》を推すよりもなお困難である。 けだし蘭領印度政府は、|爪畦《ジヤヴア》とその以外の諸島との統治法に、劃然たる区別を設け、|爪畦《ジヤヴァ》に行わ れていることでも、その他の諸島に必ず通用するとは限られぬからである。しかしながら|爪畦《ジヤヴア》は 蘭領印度中の最も進歩したもの、蘭人が植民政策上最も多大の経験を積んだ所であるから、この |爪哇《ジヤヴア》を見れば、たとい他の諸島の現況が分らなくても、蘭人がいかたる考えをもって東印度領に 臨んでいるかは、大概|会得《えとく》され得るのである。  植民地発達のためと称し、その植民地に適否の判明せぬ産業に過度の保護を与え、その生産品 をして|強《し》いて母国の市場を独占せしめもって母国の消費者を犠牲に供し、一方においては植民地 にあるそれら会社に課税して得た収入を母国に転移して、さも植民地が本国に寄与する恩恵であ るかの如く誇示せんとする、極端な植民政策は別とするも、近世植民政策論者の一般に帰着せん とするところは、土人を圧制|誅求《ちゆうき う》し、植民地を挙げて本国に奉ぜしめようとする|彼《か》の西葡両国 の政策を否定し、植民地をもって本国の生産品のための市場となし、土人の知的開発と物質的福 祉の増進とは土人の購買力を大になすものなりとて、土人の|撫惟《ぶじゆつ》と教育とに力を用い、かねてか くして人道を無視するとの|譏《そし》りを免れんとするにある。この方法とても、植民地に関税を定めて、 母国産と競争する恐れある他国の産物の輸入を、なるべく困難ならしめようとする習慣の、諸国 に跡を絶たざる以上は、純粋に土人の利益をのみ主眼とする政策ではなく、ある程度までは、直 接間接に土人の経済上の利益に|背馳《はいち》するを免れぬものではあるが、西葡両国の|旧套《きゆうとう》に比べれば、 よほど進歩したものと言わねばならぬ。然らば蘭人は今かかる政策をもって|爪畦《ジヤヴア》に臨んでいるで あろうか。  |爪畦《ジヤヴア》の発達によって、母国たる|和蘭《オランダ》が、その本国民の必需品を多く|爪畦《ジヤヴア》に仰ぎ得ることは疑い なきのみならず、本国に職を得ざる血気の青年をして、植民地に生業を得せしむることも出来る。 約言すれば|爪畦《ジヤヴア》の発達は本国の利益となること明らかである。しかしながら|爪畦《ジヤヴア》の発達は、果し て|和蘭《オランダ》品の需要を増すであろうか。|和蘭《ォラソダ》は工業国ではない。従ってその生産品の植民地に入る分 量は決して多くない。たとい植民地の発達によって、母国製品に対する需要いくらか増加すると しても、その需要たるや決して多額のものではない。バタヴィアその他の諸市について見ても、 大商店の多くが|和蘭《オランダ》人のものではなく、バザールたどに陳列される品物の中でも、外国品として 最も多いのは、|独逸《ドィノ》品並びに支那、日本のものであることは明瞭である。されば|和蘭《オランダ》本国の生産 品にとって、|爪畦《ジヤヴア》が一市場たることは|慥《たし》かであるけれど、母国がこれによって利するところはあ まり多くはあるまいと思われる。果して然りとせば、|和蘭《オランダ》は近世の植民学者が理想として唱道す るような政策を執っても、益するところ知れたるものである。予が面会した蘭国の一官吏は、近 く母国の大学を卒業した|爪畦《ジヤヴア》人を要路に|登庸《とうよう》する件に話頭の及んだ時、|爪畦《ジヤヴア》人の知力、金力の発 達は、蘭人の最も歓迎するところで、もしその発達の結果として独立を要求するようになっても、 |和蘭《オランダ》においては毫も悔いないと言った。言甚だ美であるが、これは恐らくは|爪畦《ジヤウア》人の発達の程度 大ならざることを予想してのことであろう。母国が植民地の独立を理想とするということは、説 として有力のものではなく、大英帝国の現状とても、これ決して母国政治家の元来企画したもの ではない。  植民地の人民を開発してその独立の準備をしてやるということは、その人民の母国と同種なる 場合においてすら、実際的政策として既に|宋嚢《そうじよう》の|仁《じん》たることを免れない。|況《いわ》んやその人民の多数 が母国人と種族を異にする場合においてはなおさらであるから、かかる政策の実行をもって|爪畦《ジヤヴア》 の蘭人に望むのは、全く無理た注丈であると言わねばならぬ。然らば|和蘭《オランダ》は|何故《なにゆえ》に母国に利益あ りし強制耕作法を|弛《ゆる》めて、もっていわゆる近世的政策に傾きつつあるか。けだし|已《や》むを得ぬから である。 ヴァン・デン・ボッスが十九世紀の前半に行い始めた強制耕作制度は、 土人から|搾《しぼ》り取った労 力の成果を母国の利益にのみ供するものだとの|廉《かど》をもって、猛烈な非難を受け、次第に変改され て、今では|珈琲《コきヒ 》耕作の一部にのみ存しているということである。最初この制度が施行された後 |幾《いくばく》もなく|爪畦《ジヤヴア》に遊んだマネー氏は、痛くこの新法に感心し、植民地経営はこれに限るというの       ジヤヴア                                                  すべか   ジヤヴア で、有名な「爪睦」一名植民地経営論という書を著わし、英領印度における施設も、須らく爪畦 に|倣《なら》うべきものであると論じた。予はマネーと共にヴァン・デン・ボヅスの崇拝者となることは 出来ぬが、しかし強制耕作の本質たる強制労働そのことだけは、|爪哇《ジヤヴア》人に対して甚だしく無理な らぬことと思う。  ジヤヴア                                                        だ みん           、  爪畦人の勤惰については諸説紛々であって、あるいはこれをもって天性の惰民となし、あるし |らんだ《ジヤ》 はその纐惰は強制耕作の結果であると言う。篠つく雨をも事とせずして田の中に働いている爪 |哇《ヴア》農夫を目撃した予は、|爪畦《ジヤヴア》人ことごとく纐惰であるとは考えぬ。しかしながらかかる勤勉はむ しろ例外であって、概して言えば|爪畦《ジヤヴア》人というものが、人に駆使せられなければ働くを欲せぬも のであることは、争い難い事実であると思う。|爪畦《ジヤヴア》人に貯蓄心のないのは、奉公人たるものが総 て給金を前借りして、もってその虚栄心を満足させているのに徴しても明らかである。官営質店 の必要があり、かつ商売として立ち行くのもこれがためだ。かく貯蓄心の薄いものが、強制せら れずして果して自ら奮って働くであろうか。  もし|爪畦《ジヤヴア》人に既に労働を強制する必要ありとすれば、強制耕作はむしろその当然の結果である。 耕作物を指定せずして労働を強制することは、ほとんど不可能と言ってよい。要するに蘭人の|爪 畦《ジヤヴア》政策の可否の|岐《わか》るるところは、|爪畦《ジヤヴア》人が労働を強制しなければならぬほどの惰民であるか否か に存するのであって、耕作物の指定即ちいわゆる強制耕作の可否論の如きは枝葉である。予は|爪 畦《ジヤヴア》人をもって概して惰民だと考えるから、強制耕作法に|左袒《さたん》する。ヴァン・デン・ボッスの制度 の害は、その制度の本質に存するのではなく、その手続きの実際に適せぬのと、過度に母国の利 益を計った点にある。故に予はその制度の本質には賛成するけれども、その形式には不賛成であ る。  かく言えばとて、予は決してわが台湾における|甘薦《かんしよ》の強制栽培に賛成するものではない。け だし台湾の島民は、勤勉の点において、|爪畦《ジヤヴア》の惰民之雲泥の差がある。台湾島民に労働を強制す る必要がない。従って強制耕作法も|爪畦《ジヤヴア》の場合のように、容易に弁護することが出来ぬのであ る。  今日における|和蘭《オランダ》の|爪畦《ジヤヴア》植民政策は、強制耕作の時代を過ぎ去っている。これを名づけて経済 的植民政策と言おうか、あるいは人道主義と評せんか。蘭人はこれを称して道徳的政策と言って いる。しかしたがらこれは決して蘭人の予期したところのものでない。ヴァソ・デン・ボッスの 悪制の弊に堪えずして刷新の末、騎虎の勢いで現状に立ち至ったのである。厳密な意味において の政策というものには、意識を伴うことを必要とする。現今の|爪畦《ジヤヴア》統治にはこの意識が欠けてい る。否、精神においてはまだ旧套を脱せぬ点が見える。現状が母国に利益することの少いのを考 えれば、それもまた無理とは言えぬが、さりとて|爪畦《ジヤヴア》の全部が開墾され|了《おわ》った今日に至って、今 さら強制耕作の昔に返すことも出来ぬ。またその必要もない。ここにおいてか已むを得ずいわゆ る道徳的政策に出づる。予は現在の|爪畦《ジヤヴア》政策をもって立ちすくみの状態と考えて、|和蘭《オランダ》のために 深く気の毒に感ぜざるを得ない。  かくの如く|和蘭《オランダ》のいわゆる道徳的植民政策は、徹底し得ないものである。従って以前には便宜 上喜んで存在せしめた地方制度も、今となっては人道上撤廃し得ぬものとなり、大努力を|厭《いと》いて 滅ぼさずに居った土公国は、今でも厄介の種であって、中世的喜劇は依然として演じられてい る。  予の旅行した際には、ジョクジャでもソロでも、共に一人カテンの最中であった。スカテンとは、 土公の保護の下に、宮殿前の広場で開催せられる、毎年定期の大市であって、支那人、|印度《インド》人、 |爪畦《ジヤヴア》人らの人種の異なった商人らが、諸方から入り込んで小屋掛けをたし、呉服物、及び百般の 器財、その他|玩具《がんぐ》の末に至るまで、ほとんど|鬻《ひさ》がれぬというもののない位だ。料理屋も一軒なら ず見えた。見世物小屋としては活動写真を始めとし、最も多いのは|爪畦《ジヤヴア》踊りであった。要するに 日本の田舎祭を大きくして、それに博覧会の売店を加えたようなものである。この宮外の賑いを 見物するために公族の外出したのをも、両市で目撃したが、|供勢《ともせい》は男女大した人数で、その傘持 の風体など、日本の芝居で見る、貧乏|公卿《くげ》の行列に似て居った。監視のため附添いの蘭人は、見 知り顔なる市民の会釈に答礼しながら、公族と並んで歩いて居ったが、あまり気の利いた役目と も見受けられなかった。ソロのスカテンのとある|爪畦《ジヤヴア》物の売店では、土公の側室というのが、十 歳ばかりの男の子を連れて買物をしており、その周囲には十人ほどの|女嬬《じよじゆ》が土下坐をして、狭い 通り路を塞げて居った。また同じソロの街頭で偶然公族の葬儀に出逢ったが、その儀仗たる|爪畦《ジヤヴア》 兵の行列に至っては、滑稽とも何とも評しようのない|可笑味《おかしみ》があった。  旅行客としての予は、かかる見世物を目撃することの出来たのを仕合わせと思う。しかし予は |爪畦《ジヤヴア》人がかかる時代劇を実演しているのを憐む。蘭人は一方において大学教育までを施して、|爪 畦《ジヤヴア》人を開発覚醒しようとしつつありながら、同時に子守唄を歌って、土人をして長夜の眠りに|耽《ふけ》 らしめようとしている。真の政策は果していずれに存するであろうか。 十七 |馬来《マレイ》半島の|護謨《ゴム》園 |爪畦《ジヤウア》から|比律賓《フイリツピン》へは、 直航の便船たきのみか、 予は既に|新嘉坡《シソガ ボさル》バタヴィア間の往復切符を買っ    しかのみならずシンガポール                                 マ レイ      ゴ ム えん ている。加之新嘉坡に戻れば、かねて一見を希望していた、馬来半島の護謨園を視察すること も出来る。されば予は何の|躊躇《ちゆうちよ》するところもなく、メルヒオル・トレイブ号に乗じて、バタヴィ アから|新嘉坡《シンガポ ル》に戻ったのである。  シンガポ1ル  せきでんかん                          ナムへン           ゴ ム  新嘉坡の碩田館で偶然に同宿した渡辺農学士は、南興にある藤田組護謨園の主任であるので、 同氏の厚意によって、その管理の下にある|護謨《ゴム》園を見せて貰うことにした。|南興《ナムヘン》はジョホール州 の東部、ジョホ1ル|河《か》の右岸にある。|新嘉坡《シンガポヨル》からジョホール河の上流コッタテンギまで通う小蒸 気は、予の乗った|万利源《ばんりげん》のほかにも二三隻あるが、いずれも支那人の所有である。極めて小型で あるから、勿論船室などの設備もないが、夜間の航海をすることがたい|故《ゆえ》、不便を感ずる人もあ るまい。一弗を投じて上等客になると、舵手のいる楼上に席をくれる。乗客の多くはジョホール 河の両岸にある|護謨《ゴム》園関係の人々で、予の乗った時には、同乗者八九人のうち、ただ一名の支那 人を除くほかは皆日本人で、種々の雑談が盛んに湧き起った。近頃日本から無謀の渡航者の多く なったこと、|護謨《ゴム》園ゴロの始末に終えぬこと等の話も交換された。予にとってはバタヴィア往復 の船中で話相手のないのに困った時と比べて、雲泥の差違があった。乗合いの一人なる日本服で 靴|穿《ま》きの、五十前後の婦人は、|護謨《ゴム》園の持主であるとのことで、なかなか元気な人と見受けた が、戻りの航海にも途中から同乗した。これから英語を稽古しようと思うが、見込みのないもの だろうかと質問されたから、とにかく試みるがよかろうと返事をしたら、入歯をしてから稽古を 始めると勇んで居った。|新嘉坡《シンガポヨル》に帰ってこの話をしたら、予の返答をもってでたらめとして笑う 者もあったが、予はかかる晩学者の勇気を壮なりとするので、その勇気を|挫《くじ》く必要がないと確信 する。  ジョホール河は、河とは言えど、実は細長き入江のようなもので、水の流れはちょっと見ては 分らない。潮の差引きはよほどの上流にもある。両岸の景色は|暹羅《シヤム》湾東岸の如くであって、その 緑は更に深く、|護謨《ゴム》事業のために伐採せられた場所のほかは、水際からマングロ1ヴが繁茂して 奥が知れず、熱帯の強い日光でも通しにくい暗やみを作っている。所々に点々して見えるのは、 どこかの|護謨《ゴム》園の事務所か荷上げ場である。森林切り開きのための野火は、盛んに煙を上げてい る。汽船が着くと、今まで静寂を極めていた小村落が、急に活き活きする。乗客は入れ替るが、 しかし次第に減って来る。下船した日本人の中で、|最寄《もより》に住んでいるものは、サンパンに乗り移 る。あるいは更に小蒸気に乗替えてジョホール河の支流に伝わり、銘々の|護謨《もゴム》園へ向う人もある。 すべてジョホール河は、その本流と支流とに論たく、両岸共に日本人経営の|護謨《ゴム》園、|隙間《すきま》なく並 んでおり、ただ時々その間に支那人の所有地を挾むのみである。ジョホール河が大道であるとす れば、その両側に日本人の棟割長屋が立ち並んでいると言ってもよい。さればこの大道の交通機 関たる定期の小蒸気が、支那人の所有にのみ帰しているのは、むしろ不思議に堪えたい。もっと もまるで日本船がないでもなく、大阪で持てあまされた巡航船のうち二隻は、今ジョホール河に 浮んでいるが、その発動機の音の数|哩《マイル》の遠くから寂奠を破って聞えわたるに拘らず、 甚だ遅く、僅かにパンチョル附近の用便を足しているだけである。 その速力は 十七 馬来半島の護謨園  |新嘉坡《シンガポ ル》を出発してから五時間余りで|南興《ナムへン》の|護謨《ゴム》園に着き、吉田遠藤二氏の世話で、ゆるゆるト ロに乗って園内の見物をし、|苦力《クリ 》小屋も見た。病院をも見た。|苦力《クリ 》のうちには北清から来ている 団体もあった。日本人でさえ困る熱帯に、日本よりも寒い気候の土地から来て働いているこれら 支那人の辛抱と、並びにその異風土適合性の大なるとに驚かざるを得ない。  |馬来《マレイ》半島にある日本人所有の|護謨《ゴム》園は概して若い。最も古いものでも、その起業が明治三十九 年以前に遡るものはない。今日液汁採取を始めているものは、三五公司経営の一部分と、ほかニ 園ほどある。大資本を投じ大面積を包有する|護謨《ゴム》園の多くは、明治四十四年、即ち|彼《か》の|護謨《ゴム》熱が その絶頂に狂い上った頃に出来たもので、まだいずれも液汁採取に着手していない。藤田組の|南 興護謨園《ナムヘンゴムえん》の如きはやはりその一である。  液汁採取を開始するに至らぬ|護謨《ゴム》園の事業には、ほとんど工業的分子というものがない。従っ て忙わしい中にも林業に伴う静けさがあるが、その静けさに更に趣を添えるものは、深山の湖水 に似たジョホール河の景色である。予の|南興《ナムヘン》に泊った時は、あたかも満月の頃で、河霧は薄く水 面を蔽い、やや|瀧《おぽろ》な月影は密林を洩れ来って、小村落のバラックを照し、森を隔てた隣りの|護謨《ゴム》 園で、若人が奏する尺八の|音《ね》は、河水に響き伝わって、ひとしおの旅愁を誘った。昔志願兵役に あたって下志津の原に夏の野営をなし、ギスの鳴く音を聴きつつ、松の葉に|飾《ふる》われた月の光を眺 め、初めて月の面白さを知った予は、今この|護謨《ゴム》園の明月に対して、端なく十七年前の記憶を喚 び起した。  朝の|護謨《ゴム》園の景色にも、また棄て難いところがある。|護謨《ゴム》園の開かれる前から、この河岸の 所々に|茅屋《あばらや》を構えた|馬来《マレイ》人がある。これら|馬来《マレイ》人は、その占有地を|護謨《ゴム》園に引渡すことを容易に 承知しない。|南興護謨園《ナムヘンゴムえん》の中にも、かくの如くして包囲されている|馬来《マレイ》人の家屋がかなりある。 あたかも|伊太利《イタリ 》王国の中に包まれている、|彼《か》のサン・マリノの小共和国の如きものであって、う ららかな朝にこれら|馬来《マレイ》人の|茅屋《あばらや》から、|炊《かしき》の煙が森を包んで立ち|上《のぼ》るさまは、日本の田舎の夏に 見る朝景色を思い出でしめて、しかも静けさは更に加わっている。ジョホール河には|鰐《わに》が絶えず 出没し、|予《われ》らがちょっと小舟で往来した時にも、両度ほどこれを見た位で、犬の捉えられること も珍しくなく、水泳などはとても出来ぬとのことであるが、ちょっと見たところでは、ソンナ物 騒なものが住みそうもない楽土としか考えられぬほどである。しかしながら|護謨《ゴム》園を見て、いた ずらにその景色を|褒《ほ》め|称《たた》えたでは済まぬ。日本の資本家が全く日本で経験されていない海外の事 業に対し、大資本を投じたのは、まずこの|護謨《ゴム》業に始まると言ってもよい。|南興護謨園《ナムヘンゴムえん》のほかに は、三井の|護謨《ゴム》園をも|一暼《いちべつ》したが、予は日本人の平和的海外発展の上から、これら資本家の新し き試みに対して、 切にその成功を祈らざるを得ない。 十七 馬来半島の護謨園  明月の夜の尺八と自然の合奏になった太鼓の音は、森を隔てて上流にある|馬来《マレイ》村落で、婚姻の 祝いに集まった村人らのなすすさびであった。この婚礼は予の着の前日から始まり、三日間続け るのだそうで、予らの見に行ったのはその中の日であった。小船で村落の入口まで漕ぎつけ、舟 を捨てて上陸したが、道らしい道はない。雑草をかき分けて進み行くと、|花婿《はなむこ》が婚礼間際に、村 人の助勢を得て、急に作り上げたという家に着く。|母屋《おもや》の前の小屋がけの中には、来客へ振舞う 飲食物と食器とが、|所狭《ところせ》きまで|列《なら》べてある。その母屋というのも、裏と表とただ|二室《ふたま》あるばかり で、勿論|階梯《はしご》で上る。表の|室《ま》の正面には、新郎と新婦とが既に上半身裸で並んで腰掛け、その横 には村長を上席として、親類らが列座して居った。この新郎は藤田と組|護謨《ゴム》園の雇巡査であると ころから、予ら一行の臨席を大いに光栄したものらしく、是非にと言って村長の上席へ案内され た。婚礼の儀式は、それに慣れた村の婆さんが万事執り行うので、まず何回も|甕《かめ》の水を頭から浴 びせかけ、濡れ鼠になった二人の上半身を細糸で七重に巻きつけ、蟷燭の火でその結び目を検査 し、結合のいよいよ固いのを|慥《たし》かめてから、二人一緒に糸の輪を頭から爪先へと七回くぐらせる。 表座敷の儀式はそれで済んで、新夫婦は裹座敷へ引込んだが、しばらくすると予らもそこに導か れた。見廻すと入口に近い所には、祭壇のような飾り立てがあって、花も供えてあれば食物もあ る。日本で見るような紙で畳んだ鶴が、何羽となくつるされてあるのは、すこぶる不思議なこと と思われた。この祭壇と|対《むか》い合った所に、椅子が二つ並べられた。その椅子と祭壇との間には、 一枚の長い敷物が敷かれてあった。然るにこの祭壇と見えたのは、実はそうではなく、椅子の後 の幕を排して現れた盛装の新婦は、新郎と共にこの壇の上に腰掛けさせられた。壇が小さくかつ 狭いので、前日から少し気の遠くなっている新婦などは、立居すこぶる難渋して見えた。それか ら新郎と新婦との間に、互いにベテルを食わせ、水を飲ませ合う儀式が終って、新郎が小指で新 婦の小指を引き、敷物を踏んで椅子まで案内する。この敷物を踏んで行くのは、二人で真直に世 を渡るとの意味なそうである。椅子に暫時休憩してから、新郎は列席の村長や親類の先輩などの 膝にすがって接吻して廻る。次に新婦も同じことを繰り返した。予ら日本人一行は、握手で済ま して貰って儀式を|了《お》えた。それから見物かたがた手伝いに来ている娘たちの|悪戯《いたずら》が始まり、村長 などは水をかけられてズブ濡れになったが、熱帯のことではあり、着衣も一枚であるからすぐ乾 く。この悪戯のとばしりで、脱ぎ棄てておいた予の靴まで水に浸されたのは、飛んだ災難であっ た。風俗視察は予の旅行の目的ではなかったけれど、この婚礼だけは特に面白く感じたからつい でに述べる。 十八 英領ボルネオ  シンガポ1ル    フイリツビン                         ス ペ イン             マ ニ ラ  新嘉坡から比律賓に赴くには三航路ある。第一は西班牙から来る汽船で馬尼拉に直航するので あるが、これは毎月ただ一回あるのみで、これに乗ろうとするには、いま半月ほど|新嘉坡《シンガポ ル》で船待 ちを要する。第二にはひとまず|香港《ホンニ》に渡り、それから|馬尼拉《マニラ》に向うのであって、|香港《ホニン》行きの最近 の便船としては、二月十四日に|新嘉坡《シンガポヨル》を出帆する、|北独逸《きたドイツ》ロイドの汽船があった。第三には北ボ ルネォ諸港を経由する同じロイド会社の汽船で、|比律賓《フイリツピン》群島の一たるミンダナオ島のザンボアン ガに向うのである。この第三の航路が、そのザンボアンガから先の聯絡甚だ不確実であるに反し、 第二の航路をとる時は、轡港から駢后症への便船は、毎週少くも三回あって、聯絡は極めて確実 である。要するに書溶経由は少しく迂回をば免れないが、それでも|新嘉坡比律賓《シンガポキルフイリツピン》間の大通りたる を失わない。ここにおいて予は一旦はこの線路によるに決し、|北独逸《きたドイツ》ロイド会社に出かけて、|香《ホン》 溶行きの切符を買おうとしたが、時あたかも日本の春を目懸ける|数多《あまた》漫遊客の東に向う季節であ ったため、一等には明いた船室がないと言う。そこで思案を仕直して見たが、仮りに二等で|香港《ホンコン》 まで我慢するとしても、蕎曹辿り着いて、いま一足で日本ということに萋と、大分熱帯旅行 に惓んで来た自分は、それから更に|比律賓《フイリツピン》へ南下する勇気を喪失する恐れがある。|加之香港 馬尼拉《しかのみならずホンコンマニフ》間は、三昼夜に足らぬ短航路とは言いながら、同一線を往復するのも気が利かぬ。然るに 第三の航路をとるとすれば、北ボルネオの沿岸だけは見られる。これのみでも、|新嘉坡香港《シンガポ ルホンコン》間の 無趣味な航海に比べて蓬かに|優《ま》しだ。また|香港《ホンコン》からして|馬尼拉《マニ フ》に着くと、更に他の島々を巡見す るためには一旦南下し、然る後北帰する必要があるけれども、ザンボアンガから北して|馬尼拉《マニラ》に 向えば、同じ航路を行戻りせずとも、途中で二三の島に寄港するという便宜がある。こラいうよ うに比較して考えると、ザンボアンガから前途の聯絡|如何《いかん》はどうでもよくなって、心機ここに一 転し、|香港《ホンコン》行きの切符を買おうとして宿を出た予は、ザンボアンガ行きの切符を求めて帰った。 その出帆はこれも彼に同じく二月の十四日であって、汽船の名はサンダカンと言う。北ボルネオ における寄港地の一に因んで付けた名称である。  汎称して英領ボルネオという地方は、実は三部から成っている。その最北に突出して、東北と 西北とに海を受けている部分は、英国北ボルネォ会社が、ホロー一名スルー島のスルタンと、ブ ルネイのスルタンとから租借している地面であって、この会社領を支配する知事は、上記のサン ダカンとにいる。この会社領の西南に接しているのは、即ちまだブルネイのスルタンの手に残っ ている領地であるが、これも勿論英国の保護権の|下《もと》にある。次にブルネイの更に西南にあるサラ ワックは、他の二部よりも面積において大いに勝っている土人国であるが、その|酋長《ラジヤを》たる者は英 人であって、やはり英国の勢力圏内に入るべきものである。二週一回|新嘉坡《シンガポヨル》を出帆する|独逸《ドイツ》の定 期船は、このサラワックには寄らないで、二昼夜の航海の後ラブアンに着く。ラブアンというの はブルネイの北端に近い島であって、この島のみは遙かに|新嘉坡《シンガポ ル》から管轄されている。 十九「サンダカン」の乗合い  英領ボルネオの沿岸航海は、ラブアンから先になると、絶えず右舷に陸を見つつ行くのである が、|暹羅《シヤム》湾東岸の如く近くは走らない。従って眺望もよくない。けれどもこの航海には、景色の 方の欠点を補うてなお余りあるものがあった。船中の待遇即ちこれである。室は上甲板の大室で、 室の冲央には大きいテーブルがあり、読書も食事も自由に出来る。両舷共に窓と戸とが開いて、 いかなる涼風も自由自在に吹き込む。けだし船中第一等の客室であった。|加之食《しかのみならず》堂では最上席 に案内されたので、乗合いの西洋人らは、皆予の下風に立つこととなり、大いに羨望の目を|側《そばだ》て   なにゆえ                                                 オランダ た。何故の厚遇かは、予といえども分からたかったけれど、とにかく和蘭船の行き方とは雪と墨 ほどの相違があった。  同船の外国人らも、最初のうちこそ相手にしてくれたかったが、もともと千五百|噸《トン》ばかりの小 船のこととて、日を|経《ふ》るに従い顔をも一々見知り、話をもし出すようにたった。相手のたい時に  とくしよざんまい                                      はかど        なかんずく は読書三昧に入る。このたびの旅行で航海中は概して読書が捗取ったが、就中ボルネオ沿岸航海 の間ほど、面白く読書したことはない。一は涼風の吹き通しで、苦熱を感じなかったためでもあ るけれども、また一には船の待遇のよかったにも基因する。  乗合いというのは、英人四名に|加奈陀《カナタ》人一名支那人一名であって、四名の英人中の一人は、|新 嘉坡《シンガポ ル》で長らく探偵部長を勤めたコックスという男で、このたびラブアンの警察署長となったにつ き、その赴任の途中にあるのだ。|新嘉坡《シンガポ ル》在勤中は、日本の醜業婦や浮浪人で、彼の厄介になった 者も少くないとのことである。彼がラブアンで下船の時には、肥大した|印度《インド》人の老巡査が、|数多《あまた》 |ゴ《クリ  》 の苦力を引きつれて迎いに出て居った。いま一人のレジング生れの男は、北ボルネオの内地に護 |謨《ム》園を所有しているので、その見分に往くとのことであった。残り二名は共に英国政府の電信架 設技師で、そのうちの上役と見えた方は力ーソンと言い、これまでに既に|阿弗利加《アフリカ》縦貫線、|亜爾《アル》 ゼンチン              ベルシャ       おわ      いとま 然丁線等で経験を積み、最近には波斯国内の架設を了り、帰国の邊なく直ちにボルネオ出張を命 ぜちれたと言って居った。|加奈陀《カナダ》生れというのは久しく|新嘉坡《シンガポ ル》に住しているかなりの年配の人で、 今度英国北ボルネオ会社のジェッセルトンにおける海岸埋立工事ヘ、支那|苦力《クリヨ》の供給を請負い、 サンダカン号の甲板に載せて連れて行くのであった。かかる|苦力《クリ 》の輸送については、船長が責任 を負うのを例とする。もし乗組の人数を満足に指定地まで輸送しおおすれば、引率者から船賃以 外に約束の報酬を船長に払うのであるが、これに反して途中の寄港地で逃亡するものなどがある と丶船長の方でその損失の鷙に任ずる。現にサンダカン号でも、ラブアンで勝手に上陸し脱走し た|苦力《クリ 》が三名もあった。二等運転手と|下賄《したまかない》の支那人とが、|苦力《クリ 》の点検に忙殺されていたのも、 以上の関係を聞いて見ると、なるほどと|首肯《うなず》かれる。一等室に乗り合わせた支那人というのは、 |何錦徳《かきんとく》と称する|卑南《ペナン》在住の若者で、北ボルネォ保護領内の賭博場継続請負の件につき、親の名代 となって政庁と交渉するため、サンダカンヘ赴くのであった。なおこのほかに二等室には|新嘉坡《シンガポ ル》 の尼サン学校を卒業した娘三人の迎いに行って、同行して帰るというザンボアンガの屠獣商|葡萄 牙《ポルトガル》人の一行を始め、男女の乗合い数人あったが、煩を避けて今一女列挙しない。 二十 北ボルネオ諸港  北独ロイド会社ボルネォ線の汽船は、ラブアン島を出帆した後、ジェッセルトン及びクダット を経てサンダカンに寄港し、それから以往は更に沿岸を進んで、北ボルネオの東南岸に赴くもの と、東の方ホロー海を横ぎってザンボアンガに赴くものと、一週間おきに入れ違いになる。北ボ ルネォ諸寄港地間の距離は甚だ近く、遠いのでも一昼夜航程に達する丁場とてはない。けれども |何《いず》れの港でも、桟橋はありながら夜間に荷役の出来ぬので、従って前途の都合上、その港には不 必要なほど長い繋泊を余儀なくされる。しかしそのお蔭で、それら大きくもない諸港の見物は、 |緩《ゆるゆる》々出来るのである。  ジェッセルトンは英国北ボルネォ会社の根拠地で、それから四十余|哩《マイル》ほど南方に向う軽便鉄道 の基点である。換言すれば北ボルネオにおける企業の中心である。|加奈陀《カナダ》の請負師も、|護謨《ゴム》園の 事業主も、電信技師の内一名も、皆ここに下船した。次の寄港地なるクダットは諸港中の最小な るもの、荷役も割合に早く済んで出港すれば、ホロー海へかかり、それからボルネオの北端を廻 りて東南に向い、サンダカンヘは翌二十二日の朝に着いた。  サンダカンの市街は、これをラブアン以来順々に見物した諸港に比べるとすこぶる大きい。さ すがは政庁の所在地ほどある。|加之香港《しかのみならずホンコン》からここへ直航する定期船もあるので、町はなかなか 景気づいている。日本旅館もあり日本人の洋服屋もある。取り分け面白く思ったのは、海岸から 突き出して水の上に建てられた、|竪横《たてよこ》幾条の支那町である。そこには種々の店舗もあれば、漁師     、                                          おわいぶつ も住まい 往来になっている橋板の上には、所々に網が干されてあった。汚穢物をば皆床下に投 げ棄てるので、誠に便利のようではあるけれど、波に打ち上げられ、あるいは潮に運び残されて、 床下に留まっている分が多いから、堪え難き臭気を放って居った。  いま一つサンダカンの特徴とも言うベきことは、ここまで来ると、|亜米利加《アメリカ》の|香《にお》いがし始める ことである。湾内には密貿易取締りのため|巡邏《じゆんら》する米国の小蒸汽船が碇泊しており、市中には米 国領事が駐在している。つまり|比律賓《フイリンピソ》群島が間近いからであって、|香港《ホンコン》から来て|比律賓《フイリツピン》の南部に 渡らんとする者は、まずこのサンダカンをもって足溜まりとし、あるいは体格検査を受け、ある いは証明書を下附して貰い、然る後二週間一回|新嘉坡《シンガポ ル》から来る|独逸《ドイツ》船に乗り換えて、ホローまた はザンボアンガヘ渡る。しかして日本旅館がここに三軒もあるのは、この道筋を伝わって行く日 本人のかなりあることを示すものである。 二十 北ボルネオ諸港  サンダカンでは乗合いの一等客は皆下船した。支那人何錦徳は、ラブアン以来船の港に着くご とに上陸して、その営業の賭博場を見廻るのを例としていたが、これも同じく下船した。その上 陸の際には、彼の叔父でこの町の賭博場の取締りをしているものが、馬車で税関前まで出迎えて おり、予も誘われ同乗して市中を一巡し、その賭場にも行って見たが、|大博奕《おおばくち》はまだ開始の時間 に至らなかったけれど、あちらこちらの|床几《しようぎ》に腰掛けている支那人の間には、諸種の手慰みが既 に始まっていた。|阿片《アヘン》売下所の階上にある支那人|倶楽部《くらぶ》で、何錦徳一行と共に|霎時《しようじ》休憩中彼らの 語るところにょれば、その請負に係る北ボルネオ各地の賭場から、サンダカンの政庁に年貢とし て納附する金額は、一箇年合計十二万円ほどあるとのことである。何錦徳のサンダカンに来た目 的は、請負契約の継続を交渉するにあるのだから、これだけの年貢を払っても、まだ利潤が少か らずあるものと見える。従ってこれら賭場に集散する金額の大きいのも|推測《おしはか》られる。そもそも北 ボルネォ諸港は皆未開地に散在して、その人口も稀薄であるから、その多数を占めている支那人 とても、数においては|多寡《たか》の知れたものである。然るにそれら多からぬ支那人の間に、かかる比 較的多額の賭博が興行されているのを考えると、支那人の|博奕《ばくえき》を好むの甚だしきに驚かざるを得 ない。  そもそも支那人の海外発展は、日本人のとは大いにその趣を異にしている。日本人は冒険致富 の念に駆られて随分|遼遠《りようえん》の地方までも出かけるけれど、大体においてはよほど気マグレな点があ って、必ずしも近きより遠きに及ぼすというわけではない。故に移出民の心中には、己れらの並 ならぬ冒険事業に従事しているという念が絶えず往来し、成功を急ぐが、落着きがたい。これに 反して支那人の海外発展はあたかも水の氾濫の如きもので、本国にあり余った連中が温れ出して、 近きところから次第に遠方に及ぶ。従って海外出稼ぎを国家のためだなどと称せぬ代り、格別の 冒険事業とも自覚して居らない。故に行く先行く先に落着いて済ましている。竹報二平安一晋永和、 花開二富貴,唐天宝などというありふれた聯句が、北ボルネオの淋しい港でもよく目につくが、在 住の支那人のうちにその意味の分かるのは極めて少かろう。彼らはただコンナ|対句《ついく》を書いた赤い 紙を入口に貼りつけて正月を迎えさえすれば、それで異域にあるのを忘れ得ると思ってるらしい。 また日本人の出稼ぎは、多くの場合において、既に占住している欧米人の寄生虫とたるのである けれど、支那人は決して西洋人のみに便るのではない。北ボルネオのような欧米人のごく少い所 でも、支那人はかなりな市街を成し、支那人同士で有無相通じている。海外発展の上から見れば、 日本人はまだ支那人に及ばないということは、それだけででも明瞭である。  然るにかく異域におりたがら異域にいるのを忘れ、一心不乱に働いて貯蓄をする支那人らが、 一方においてたとい射利のためと言いながら、宿年勤労辛苦の成果を、一場の博奕に投じて悔い ぬというに至っては、アキレルほかはないことで、一長一短はいかなる民族にも免れぬものと見 える。 二十一 ボルネオの名残り |新嘉坡《シンガボドル》または中間寄港地から乗った客は、皆サンダカンで下船し、しかもサンダカンから新た に乗り込むものはなかったから、船がボルネオを離れた時には、一等船客というものは予一人と たった。|甲板《かんばん》を散歩しても、食堂に出ても、甚だ淋しい。|已《や》むを得ず時々下甲板に降りて話相手 を求めた。元来この船には|新嘉坡《シンガポコル》を出帆する時、既に二名の日本人三等客が乗り込んだのである が、サンダカンからは、昨日まで支那|苦力《クぢミ》の占領して居った下甲板に、およそ二十名ばかりの日 本人が新たに入り替って乗り込んだ。食後の涼みにこれらの新客と談話を試みたが、その多数は ホロー島に渡って真珠貝の採取に従事する人々であった。同じ甲板船客でも支那人の不潔なのと は大違いで、いずれも|小瀟洒《こざつばり》した白服に身を固め、新しい|麦藁帽《むぎわらほう》を戴いて、荷物も相応に持って おり、これでは支那人ほどに金の溜らぬのも無理がたいと思われたが、翌朝になって連中の五六 人は、靴と帽子とを何者にか盗み取られたことを発見して、すこぶる当惑して居った。大低は船 に乗組の支那人らの|所為《しよい》に相違ないのであるけれど、失せ物は遂に出ずにしまい、気の毒の至り であった。  一等客の減少のために間接の影響として起った迷惑は、二等室から|葡萄牙《ポルトガル》人親子四人の襲来す ることであった。彼らは今まででも折々上甲板に現れたが、一等客の多かった間は、幾分か遠慮 して居った。然るにサンダカン出帆後は大手を振って来て、風通しのよい舷側の寝椅子を残ら ず占領し、|親父《おやじ》の如きは|高鼾《たかいぴき》である。この親父は黒ン坊にも劣らぬ|緒黒色《しゃこくしょく》の顔で、妙にふくれ上   いや                                まと                         よろ り、嫌な人相であるのみならず、娘らも洋服をば身に纒うているものの、いずれもモロ土人宜し くという風采であった。大人気なく抗議を申込むでもあるまいと考えて、予の方から|屏息《へいそく》し、あ るいは蒸し暑い船室に避け、あるいは日の照り込む舷側の椅子に憩うて辛抱し、被らの退散を待 ったが、我ながら馬鹿馬鹿しく感じた。彼らの風体のあまりに|異形《いぎよう》なので、果して純粋の|葡萄牙《ポルトガル》 人だろうかと一等運転士に尋ねたら、無論彼らは|混血児《あいのこ》であるが、単に彼らのみならず、そもそ も|葡萄牙《ポルトガル》人というものに、一人でも純血のものがあるということが、大疑問であろうとの答であ った。この答は人種論として|肯綮《こうけい》に|中《あた》ったものであろう。  退屈しそうで退屈を感じなかった北ボルネオの沿岸航海も、二十二日の晩で終りを告げた。昼 は涼風人意に適し、格別の運動もせざれど食欲は大いに増進し、夕には壮快な大海原の|落暉《らくき》の景、 絆た夜ごとの月明、いずれもとりどりの面白味があった。船が港に着くと船長は客をする。ジェ ッセルトンでは郵便局長夫妻が正客としてやって来た。局長は黒のスモ1キング、細君も相応の 服装で、船中に時ならぬ|鄙《ひな》めいた夜会が開かれた。コンナ折には予が食堂の座席も繰り下げられ るのであったが、単調を破って貰う代償と思えば腹も立たぬ。局長夫人の気取った御託宣も気に さわらなかった。お蔭で植民地の気分を味わうことの出来たのは、予にとって仕合せである。こ こにおいて予は返す返すも|香港《ホンコン》に直航しなかったのを喜ばざるを得ない。 二十二ホロ-島  二月の二十三日ホロー島に着いたが、同日は休日であったから、郵便切手を買うのに大いに困 難した。というのは二十二日の日曜が、米国の国祭日なる|華盛頓《ワシントン》の誕生日と重たったので、その うちの一つだけを翌日に繰延ばしたからである。誕生日が繰下ったのか、日曜日が日延べになっ たのか、その辺は分らぬが、勤め人にとっては有難い制度である。烈日も少しく傾き、午後の茶 も済んでから、見物のために上陸し、|西班牙《スペイン》統治時代にモロ土人の防禦のため築いたという城壁 の外にある、日本写真師の店で絵葉書を求めた。城門を出る時に、|比律賓《フイリツピン》土人兵が|厳《いか》めしく番を しているのを見たけれど、何とも思わなかったが、写真屋の主人からして、つい近頃もその附近 で白昼にモロ土人の襲撃があったと聞いた時には、あまりよい気持がしなかった。モロ土人は回      ひようかん ど ぱん                                                     ス ベ イン 教を奉ずる標悍な土蕃であって、今でも油断が出来ぬのみならず、彼らの中には西班牙語でフラ メンタドスと称する恐ろしき奴がいる。これは人を殺して自分も殺されれば天国に行かれるもの と信じて、誓いを立てた連中である。彼らの人を殺すのは、己れを殺して貰いたいための手段に 過ぎない。かかる命知らずの者に出逢ったら、それこそ飛んだ災難である。  写真屋から城内に戻って、中村氏の主幹する真珠貝採取会社の事務所を尋ね、同氏の案内で更 に城外に出で、真珠船の建造所を一覧し、氏の私宅に|赴《おもむ》いた。この私宅というのは小さな入江を 隔てて汽船の埠頭と向い合っているので、そのヴェランダからサンダカン号の舷燈が明らかに見 えた。海の上にさしかけて持えた浴室で、|新嘉坡《シンガポ ル》以来の汗を流し、集まり来った橋本氏その他の 同業者と晩餐を共にしながら、真珠業の現況を聞いた。米国の|比律賓《フイリツピン》占領以後に小規模で始めた ホロー近海の真珠貝採取業は、木曜島やドボの同事業で、日本人が単に西洋人の被傭者として働 くのとは違い、雇主も被傭者も共に日本人であって、最初一介の潜水夫として渡って来た者でも、 勤勉でかつ貯蓄心のある者は、数年の内に一隻六七千円もする船持ちになることが出来る。従っ て終始労働者で暮らすよりも、自暴自棄に陥ることが少いから、事業は年々に発達し、今では一 大会社を組織し、三十余隻をもって盛んに採取を営み、その財産の見積価格は二十万円に達して いるとのことである。しかしながら元々大資本家が参加して始めた事業ではなく、労働の収益か ら漸次に作り上げたものであるから、船の新造などに際しては、往々にして資金の不足を告げ、 支那人から借り入れて一時間に合わせるが、その結果として借金の皆済になるまでは、採取した 真珠貝を、金主たる支那人に特売せねばならぬことになり、|倫敦《ロンドン》へ直送すれば利潤の多いことは 知りつつも、これを実行することが出来ぬとのことである。当業者にとって誠に気の毒な次第で あるが、しかしその支那人からの借金額は年々減じ行くそうであるから、さまで悲観するにも当 るまいが、それよりも憂うべきは、真珠貝のようやく減少することである。もし今までよりも一 層深い処まで潜り入れば、収穫は沢山にあるけれども、それには一層大なる危険が伴う。中村氏 は更に精巧なる器械の注女中だと言っていた。真珠採取業の将来はいかにたるだろうか。 二十三 ザンボアンガ  真珠談に夜を更かし、同じ船でザンボアンガに赴くという橋本氏と共に帰船の途に就いた。中 村氏並びに同宿の人々は船まで見送ってくれたが、面々いずれも|拳銃《ピストル》または棍棒を携え、用心厳 重であったので、送らるる予までも何となく物騒に感じ、城門をくぐるまでは、今にもモロ土人 が物蔭から跳び出しはせぬかと懸念した。  船は黎明ホローを発し、バシラン島を右舷に望みつつ航進して、昼食後からは遙かにミンダナ オの連山を認め、二時過ぎにザンボアンガ港の埠頭に投錨した。旅券を税関吏に提出して、乗船 の名と下船月日とを記入して貰い、上陸の手続は簡単に済んだが、手不足という口実の下に、荷 物の検査は翌日に延ばされた。橋本氏の案内で、日本人の主婦がいるという米人経営のホテルに ---------------------[End of Page 28]--------------------- 投宿したが、|寝衣《ねまき》を入れた|鞄《かばん》までも税関に抑留されてあるので、宿の亭主の日本|浴衣《ゆかた》を借りて、 一夜を過ごしたところ、滅法に長く曳きずるのですこぶる閉口した。  その翌日は早朝、城壁外にある|衛戊《えいじゆ》病院に行った。これは前日、税関吏からの申渡しで、種痘 を強制されたからである。しばらく楼上で待つと、軍医が一人あらわれ、数本の針を|束《つか》ねたもの で上賻の皮膚を十字に掻き裂き、その上に牛痘をコテと塗りつけ、ガーゼで被うてくれた。後に 聞けばこれは冐本で動物に種痘する時のやり方であるそうだ。手数料として一|弗《ドル》五十|仙《セント》を徴収さ れたが、結果は無論不善感に終った。この種痘の強制は公衆衛生のために始めたのではあろうけ れども、今では軍医の内職になってしまったのかとも思われる。  ザンボアンガはミンダナオ島の首府だけあって、相応に賑い、日本人もホロー島同様に発展し ている。島の東南ダバォ港を中心として|馬尼拉麻《マニラあさ》の輸出を手広く営んでいる太田氏の支店もある。 南|比律賓《フイリツピン》真珠採取者中の草分けとも称すベき宮本氏も、ここに商店を開いて、今は真珠業のほか に開墾をもやっている。この地方で開墾といえば、椰子でなければ麻であることは言うまでもな い。  滞在三日にわたった中の日に、宮本氏の厚意でサン・ラモンを見物した。サン・ラモンの監獄 は、その囚徒の作業として模範椰子園を経営しているので有名である。普通土人の椰子園で見る、 |数多《あまた》の椰子が|所狭《ところせ》く密接して植え立てられてあるのとは違い、樹と樹との間隔が十分にとってあ るから実のりもよく、樹下を逍遙しても監獄の畑を歩いている気持はせず、まるで公園のようで あった。典獄の許可を得て獄舎をも一見したが、熱帯のことであるから、日本の監獄のように厚 い塀を|繞《めぐ》らしてなく、ただ鉄柵あるばかりで、海からの涼風が囚人の寝床に自由に通う。囚人と は言え毎日五本の巻煙草を給せられ、健康のためというので、ベースボールのグラウンドも設け てあった。案内の米人の言にょれば、囚人中には女盲なものが多いけれど、別に文字の教育をば 施さぬ、その割合には|改悛《かいし ん》の実効が著しいとのことである。  サン・ラモンからの帰途、とある土人の椰子畑を見物した。面積は七千二百方|米突《メ トル》、三百|弗《ドル》位 で手離したいという売物なのである。椰子畑の巡見を終り、海岸を沿うて自動車を飛ばし、ザン ボアンガに帰ったが、青い浪打際に並び茂っている椰子の幹に、赤い夕日のさした景色、またな く思われた。 二十四 |比律賓《フイリツピン》沿岸航海 ザンボアンガにおける船の聯絡|如何《いかん》は、 |新嘉坡《シンガボ ル》出発の際から頭を悩ましたことであって、 ロイ 二十四 比徳賓沿岸航海 ド会社の代理店で尋ねたけれど、更に要領を得なかった。船中で|葡萄牙《ポルトガル》人の話によれば、隔日位 にはザンボアンガから北航する便船があるとのことであった故、少しく安心はしたものの、サン ダカン在住の一日本人が、十二三日位は船待ちせねばなるまいと教えてくれたので、また心配に なった。既に十日間の|西貢《サイゴン》滞在に|懲《こ》り|懲《こ》りして居る予にとっては、ザンボアンガの長逗留は到底 堪え得るところでないと思われた。然るにホローで中村氏に逢うに及び、ネイル・マクレオッド 号の、二十六日にザンボアンガを発して|馬尼拉《マニラ》に向うことが正確に分ったので、船待ちの日数の 意外に少いのを喜ばざるを得なかったのである。  ネイル・マクレオヅド号は、マクレオッド会社の所有船中の最大なるもので、社主の愛嬢の名 に|因《ちな》んで船名としたのである。と言えばよほど設備の整うた小奇麗た船のように思われるけれど、 その実は全くこれに反し、不潔極まったボロ船で、その不愉快さは、このたびの旅行中かつて経 験しないほどであった。船長以下の海員は、いずれも皆|西班牙《スベイン》人であるが、一度も顔出しをしな い。食堂は暑苦しいというので、上甲板で朝食以外の食事をやらしたのは構わぬとしても、食物 の|不味《まず》さ加減は話にならぬ。|西班牙《スベイン》式に|葡萄酒《ぶどうしゆ》をば添えても、我慢にも飲めたかった。それに加 えてボーイたる|比律賓《フイリツピン》人の給仕の|下手《ヘた》さ。  何よりも堪え難かったのは乗合い船客の不作法である。|比律賓《フイリツピン》政府の女武の大官は御用船で旅 行する。私人でも少しく身分のあるものは、地方長官から便乗許可証を得て、やはり御用船を利 用することが出来る。つまり|比律賓《フイリツピン》で少し名の知れた人間は、マクレオッド会杜などの厄介にな らずと済む。況んや予のザンボアンガ出発の日には、一足先に御用船が|馬尼拉《マニラ》に向って立った。 ネイル・マクレオッド号の船客の、種の悪いのも怪しむに足らぬ。乗合いの米人はと言えば、多 くは|比律賓《フイリツピン》で満期にたった兵隊上りである。そのほかには、長年従事した海上生活をやめて、昨 冬からミンダナオ島で砂金の採取を始め、器械購入のために|馬尼拉《マニラ》に赴くというヴュルテンベル ク生れの|独逸《ドイツ》人もあった。単身や妻帯の|西班牙《スペイン》人もあった。|上衣《うわぎ》も着けずに乗り込んだ一等客も ある。上甲板で|手沸《てばな》をかむ者もある。ベテルを|咬《か》んで所嫌わず|糟《かす》を吐き出す者もある。食事の準 備中に食卓から|摘《つま》み食いをやる小児を見ぬ振りする親もある。食器が玩具になるたどは珍しくな かった。  ことに困ったのは、食堂ともなる上甲板が、共同寝室に化けることであった。上甲板には|数多《あまた》 の陣中用軽便寝台を用意して、船室に眠ることを好まぬ客の|需《もと》めに応ずるのであるが、一等客の ほとんど全部がこの方を|択《えら》ぶのみならず、二等客の|比律賓《フイリツピン》人の中で、同人種の好しみをもって|窃《ひそ》 かにボーイに頼み込み、上甲板に侵入を敢てする者があるので、晩餐が|了《おわ》ると、広からぬ甲板が、 これらの寝台で一杯になる。甚だしきは便器まで持ち込む者もある。とても食後の散歩などは出 来ない。朝早く起きても甲板には足の踏み所もない。朝食後になっても寝具がまだ取り散らされ ていることもあった。単に夜ばかりではない。彼は昼食後も直ちにこの寝台を出させて午睡をや る。午睡のいやなものは甲板の隅に|屏息《へいそく》しなければならぬ。陸上よりも航海中をもって読書に便 とした予は、ここに至って失望のほかはたかったのである。  ネイル・マクレオッド号の乗客中で、鶏群の鶴とも称すベきものは二人あった。一人はボ1ル という若い米人で、一九〇八年にハーヴァード大学を卒業し、かつてオブライエン大使の秘書と して、一年ばかり東京にも住み、今は|比律賓《フイリツピン》政府の土木局に勤務中で、ハーヴァードでは松方侯 の子息の次級であったと語っていた。休暇を利用してミンダナォを視察した帰りなのである。い ま一人はスタンフォ1ド大学出身の女学士で、加州サン・ホーゼの人、その姓名をば逸したが、 日本支那の見物を終えて|比律賓《フイリツピン》に渡ってから既に二三箇月、近々|独逸《ドイツ》郵船で欧州に行き、米国に 帰るのだとの話であった。京都ではチー・ポット・ヒルを見物したと言うから、どこのことかと 思い念を押したら、陶器店の並んでいる前を上るあの|清水《きよみず》のことであった。東山がコンナ面白い 名で、西洋人間に通っていることは、この女学士によって初めて知った。  予が船中で談話を交えた者は、以上の二人のみであった。彼らのまず起こした問いは、米国の |比律賓《フイリツピン》統治が日本人の眼にいかに映ずるかであった。この質問はその後も在|比律賓《フイリツピン》の米人からし ばしば受けたところのものであるが、予は米国が群島開発に貢献せるところ大なりと答えるのを 例とした。  ザンボアンガを出帆した翌日の昼頃、船はネグロス島の東岸ドマゲテに寄港した。船から眺め たよりはよい町とのことで、見物のため土人の|独木舟《どくぼくしゆう》に乗って上陸する人が多く、予も二等室に いる日本人一行に誘われたけれど、上陸の望みも起らなかった。後に聞いたところでは、この地 にただ一名の日本人があって、今まで氷屋を営んで居ったが、その店も近頃他へ譲り渡したとの ことである。  その翌日はセブ島の東岸にある同名の港に着いた。セブは世界最初の周航者マジェランの到着 地として、歴史上有名な島である。港の埠頭に船が横づけとなったので、簡便に上陸を遂げ、有 名なサン・アントニオ寺を始めとして市中を見物した。マジェランが島の発見を喜んで感謝の|祈《き》 艤を神に捧げたという地点には、記念の石碑と建物とが残っている。セブ港と相対するマクタン 島には、この大冒険家戦死の記念碑があって、出帆すると間もなく右舷に見える。  話し相手の米人が、二人共にセブで下船した後は、たまに単調を|擾《みだ》してくれるのは、砂金掘り の気烙位なもので、|無聊《ぶりよう》はますます加わるのみであった。夜になると二等室から押し寄せて来た 蜥倒貿婦人連は、予の船室のすぐ前にある食堂を占領し、船のボーイを|煽《おだ》てて、深更まで音楽を 奏せしめた。元来堋斛割人の音楽好きであるということは、フォーアマンの|比律賓《フイリツビン》群島誌にも載 せられ、一般の認むるところであるから、もしこのボーイの音楽が、いま少し変化に富むもので あったならば、いくらか|徒然《とぜん》の慰みとなったかも知れぬが、ただ悲しげた同一の楽譜を、幾十回 も繰り返すのみであったから、安眠の妨害になるのみで、かえって迷惑至極であった。  タにセブとレイテと両島の間を|馳《よ》せた船は、翌日の夕に|呂宋《ルスン》島の南岸にあるルギマノック湾に 寄港し、附近の鉄道工事に雇われた|苦力《クリミ》の一団を下して、すぐに|馬尼拉《マニラ》へ向った。セブの町の見 物中に細雨に遭ったが、翌日の午後にはマリンドケ島の北方海上で驟雨大いに至った。|新嘉坡《シンガポモル》出 発後は雨というもの一滴も落ちなかったので、久しく音信の絶えた故旧に|邂逅《かいこう》したような思いが した。 馬尼拉  三月二日|昧爽《まいそう》起き出づれば、船はまさにコルレヒドル島の傍を馳せて、|馬尼拉《マニラ》湾口に入りつつ あった。|比律賓《フイリツピン》の横須賀とも言うべきカヴィテを遙か右方に望んで進み、|馬尼拉《マニラ》に着いたのは、 午前九時頃である。大船であれば、米国統治時代になってから築造の新埠頭に繋泊するのである けれど、ネイル・マクレオッドのような小船は、その資格がたいから、|馬尼拉《マニラ》市中を貫流するパ ッシグ河を遡って、程よき所で岸に近く投錨した。船の河口に入りかけた時から鶴首して待って いる|苦力《クリさ》らは、先を争うて船に跳び込んで来る。中に一人英語の片言を話すものがあって、二|弗《ドル》 半で予の体と荷物とをマニラ・ホテルまで送り届けることを請負うと申し出た。渡りに船とこれ に一任したら、カロマタとカルテルラと各一台ずつを|喚《よ》んでくれた。前者は人を、後者は荷を運 ぶ馬車である。前金を受取った請負人は、二人の御者に合計一|弗《ドル》五十|仙《セント》を渡し、一|弗《ドル》をば予の面 前で着服した。ボロイ利潤であると言わざるを得たい。  |馬尼拉《マニラ》年中行事の第一たる力ーニヴァルは、既に二月の中旬に済んで、小屋掛けのみ淋しく 残って居ったけれど、港にはあたかも米国の太平洋艦隊が繋泊中であって、乗組の夫の跡を追い かけて来て滞在し居る婦人連が多いために、さしも宏大な|馬尼拉《マニラ》ホテルにもほとんど空室とい うものがなく、折角目指して行った予の如きも、僅か三日間を限って宿泊を許されたのは、心細 いことであった。しかしたがら|暫《しま》しとは言え、身の落着きを得たので、すぐに馬車を命じて領事 館と三井物産の出張所とを歴訪したところが、|三神《みかみ》所長の帰朝の留守を預っている竹下秋葉の諸 氏から、所長の|明巣《あきす》に移れと勧められた。三日の後にホテルから逐い出されるのも感服し兼ね て居った予は、遂にその勧めに従って午後|匆《そうそう》々ホテルを引払った。短き滞在で|馬尼拉《マニラ》の用件を弁 じ得たのは、実にこの明巣に備え付けてあった自動車のお蔭である。セブで別れた女学士とは、 |馬尼拉《マニラ》ホテルでの再会を約束したけれど、この意外の引移りのために、遂に相失することとなっ た。  マ ニ ラ                                            かんが                                ス  馬尼拉の市街はインテルムルロスと称する城内、即ち官衙及び住宅区域を除くほかは、多く西 |班牙《ペイン》時代の旧態を失っておらぬように見受けられた。エスコルタやロザリオを中心とする|雑鬧区《ざつとうく》 を始めとして、特に熱帯に適するための建築というものは少く、|欧羅巴《ヨ ロツパ》風の、|否《いな》むしろ|西班牙《スベイン》風 の店舗が|櫛比《しつぴ》している。住宅にもバタヴィアに見るようたヴェランダもなく、|前栽《ぜんさい》などは勿論|稀《まれ》 である。|加之土《しかのみならず》人とは言えフィリピノの服装が、男女とも西洋服から転化したものであるから、 彼らが西洋人の間に参差して往来するのを見ても、サロンを頭に巻いた|爪畦《ジヤヴア》人や、バヌンを腰に 着けた|暹羅《シヤム》人などを見るとは、一様の感じがしない。またこのたびの旅行でどこへ行ってもすぐ 目に着いた支那人は、近頃移入制限の厳しいに拘らず、昔からのお客であるから、数においては この地にもすこぶる多いが、他の南洋都市のように、服装の点から旅人の注意を惹くことは甚だ しくない。かつ|爪畦《ジヤヴア》と同様で|馬尼拉《マニラ》には人力車というものがない。かくの如き諸種の事情が|綜《から》ま って、|馬尼拉《マニラ》から大いに東洋的風趣を減殺している。さればもし東洋で最も|欧羅巴《ヨ ロツパ》風に見える都 会はどれかと言ったなら、バタヴィアよりも、|西貢《サイゴン》よりも、|将《は》た|香港《ホンコン》よりも、まず第一にこの|馬 尼拉《マニラ》を推さざるを得ない。|香港《ホンコン》の一部だけは著しく|英吉利《イギリス》の香いがするけれど、大体において支 那町である。これに反して|馬尼拉《マニ フ》は市全体が|擬《まが》い西洋式である。規模の大きさにおいても遙かに |香港《ホンコン》などの上にある。市内各所に|屹立《きつりつ》している|数多《あまた》の旧教寺院も、また|馬尼拉《マニラ》に南|欧羅巴《ヨヨロツパ》の面影 を偲ばせる種である。  |馬尼拉《マニラ》着の翌日に、領事代理の山口氏と同行で、|比律賓《フイリツピン》図書館の館長ロバートソン氏を訪問し た。ロバートソン氏は英訳|比律賓《フイリツピン》史籍叢書「フィリッピン・アイランズ」の編纂者で、|西班牙《スペイン》語 に精通しているから、|比律賓《フイリツピン》の図書館長としては、最適任者である。図書館は|西班牙《スべイン》時代の|官衙《かんが》 に少しく手入れしたのみで、大体はそのままに利用しているのであるから、書庫と言い、閲覧室 と言い、共に尋常一様の室であって、建築上何ら特別の設備とてはないが、設立の日浅い割合に 蔵書の数はなかたか多く、|加之最《しかのみならず》近には二十四万|弗《ドル》を投じて、西国"ハルセロナ図書館の蔵書全 部を買い入れた。これがために|西班牙《スベイン》で物議を|醸《かも》しただけあって、既に到着し了った|驂《おびただ》しい冊 数は、予の参観の時整理の真最中であったが、|比律賓《フイリツビン》図書館はこの購入によって一躍し、単に|西 班牙《スペイン》の歴史のみならず、|比律賓《フイリツピン》中心の東洋史に関する有数の研究所となったのである。  最初の訪問にはロバートソン氏の案内で館内を一巡し、バルセロナから購入した珍書のうち四 五点をも見た。その後なお二回の訪問を重ね、同館秘蔵のリザール文庫のほかに、種々の遺品を も|暼見《べつけん》する機会を得た。リザールは|西班牙《スペイン》統治時代の末に、革命の煽動者と見なされ遂に死刑に 処せられた憂国の士で、本業は眼科医である。けれど|西班牙《スペイソ》並びに|独逸《ドイツ》に留学して|普《あまね》く諸種の学 術に通じ、兼ねて小説や詩をも善くした。その|非業《ひごう》の死は|比律賓《フイリツピン》人の渇仰を増したので、今は又 なき愛国者として神の如く崇拝せられ、銅像に刻まれてはルネタの広場に|馬尼拉《マニラ》湾を|睥睨《ヘいげい》して立 ち、|馬尼拉《マニラ》を取巻く州は、彼に因んで新たにリザール州と名づけられている。図書館で見た彼の 紀念品のうちには、その獄中の自筆にかかる絶世の詩があった。随分細字ではあったけれど、ア                                   しよりぜん ヂオ!ス・パトーリァ・アドラータ以下の語、極めて鮮やかに読まれ、人をして棟然たらしむる ものであった。ネ・メ・テンゲレの原稿をも見たが、その表紙を飾る彼の自画だけは、あらずも がなと思われた。  一日これもロバートソン氏の案内で僧院の図書館を一見した。そもそも|馬尼拉《マニラ》には欧州中世に 出来た各種の修道僧団が、いずれも堂々たる僧院を有し、しかしてこれらの僧院は、|比律賓《フイリノピン》の本 国と分離した際に、その財産の幾分を失ったけれど、今なお依然として十分な基本財産を所有し、 裕に旧時の体面を維持している。予の案内されたのはアウグスチン派の僧院であって、かなりの 年輩ではあるけれど、血色のよい|白衣《びやくい》の役僧の先導で、まっすぐに書庫へ入った。この書庫は僧 院中での広い一室を占領し、その蔵書は、中に近頃購入された新刊書も少しはあるが、大部分は. 年代を経た|西班牙《スペイン》語または仏語の珍書であった。室内には書架や机のほかに、寺の説教台と同じ 作りの講演台があった。修道僧らは以前、時々学術上の集会を催したものと見える。貝殻で張っ た格子窓を|透《とお》して入り込む弱い日光の中で、|塵埃《じんあい》の|堆《うずたか》くなった十六世紀の古本を棚から出し入 れした時は、昔欧州の丈芸復興時代に、所女の古寺から|希臘《ギリシヤ》や|羅旬《ラテン》の古写本をあさり尽そうとし て狂奔したという、かの古学者らの熱心がゆくりたくも心に浮んだ。  アウグスチン派以外の僧院にも相応な書庫があるとのことで、ロバートソン氏はしきりに参観 を勧めてくれたけれど、滞在日限の都合もあり、遂にこれを果すことの出来なかったのは、実に 遺憾である。ただサント・トーマス大学の標本陳列所だけは、|馬尼拉《マニラ》退去の前日に、竹下氏と共 に一見した。この大学はドミニカン派の管理に属するもので、直ちに寺院と隣接し、僧侶が教官 の任に当っている。中庭を囲んだ建築の工合から、その他全体の様子が、何となく人をして欧州 中世の大学を見る心地あらしめた。標品はすべて廊下に陳列されてあったが、多方面にわたりか つすこぶる整頓して居ったのには、やや意外の感があった。  |西班牙《スペイン》人によって経営された|馬尼拉《マニラ》市は、一面から言えば寺の都である。外観も内部の装飾 も、共に東洋に比類の少い立派なものであるが、それに日曜の朝祈禳の頃などは、寺前に俄かの 市が開かれて、参詣のついでの買物か、買物がてらの参詣か判明せぬ群集が、大混雑をするも面 白かった。一八六五年ジェスイトが建設したという東洋最古の気象台をば、遂に見るに及ばなか った。  |馬尼拉《マニラ》で図書館や寺院のほかに珍しく見物したのは、煙草会杜の工場である。煙草会杜で大き いのは三つあるが、予の見たのは、その内のインシュラー会社というのであった。職工は男女併 用であるが、高価な葉巻の製造に従事するのは男工ばかりで、紙巻の方には女工が多い。今に記 憶に残っているのは、女工らが三十本ずつの紙巻を、過不足のないように一遍に握って、これに 包紙を|被《かぶ》せる熟練と、葉巻の製造の案外に不潔なこととであった。煙草製造のほかに女子の作業 となっているものには、品質の高下に従って麻糸をより分けることなどもある。  |馬尼拉《マニラ》については、予が所蔵にかかる前述の古海図に、マネンラと、片仮名で洋字の側に書き 足してある。マニラのマを強く発音するよりは、マネンラと言う方が、アクセントの関係から言 えば、正確に近い。けだし昔同島に往来した日本人は、地名の称呼なども、文字から得るよりは、 むしろ現地で闢き覚えたのであるから、かえって真を失わないものと思われる。そもそも豊太閤 が当時の|比律賓太守《フイリツピンたいしゆ》に威嚇の書状を送ったことは、|慥《たし》かな事実であるのみならず、その他歴史上 |馬尼拉《マニラ》と日本との関係は、バタヴィア以上に密接であった。然るに日本人の遺跡の乏しい点にお いては、|馬尼拉《マニラ》もバタヴィアと大差がない。サン・ラザロの病院は、日本から追い払った癩病患 者を収容したのに|濫鵤《らんしよう》し、ヘルミナルの寺の附近は、その昔日本移民の住居区域であったなどと 伝えられてあるけれど、今においてこれを徴すべきものがないのは遺憾なことである。今の|馬尼 拉《マニラ》にもかなり多数の日本人がいる。三百年の後において、いかなる遺跡がその活動の記念として 残るであろうか。 二十六 |馬尼拉《マニラ》の近郊  |馬尼拉《マニラ》の附近にはロス・バニオスの温泉や、パグサンハン峡の絶景などもある。しかしいずれ も馭后掛市の西南ラグナ州にあって、往復に二日以上を要するから、忙しい旅人には見物の暇が なかった。近郊にある場所としてはマリラオの温泉、モンタルバンの水源地、アンチポロの寺等、 皆|馬尼拉《マニラ》市民の半日行楽の地である。  ある日の午後マリラオに向って自動車を走らせたが、|馬尼拉《マニラ》市から北に進んで、リザール州界 を過ぐると間もなく、田舎町の曲り角でタイヤが破れた。修繕が済むまで小さな町の裹通りを見 物がてらに散歩したが、石の塀のみ|巍然《ぎぜん》として立ちながら、門内に雑草の生い茂っている場所の 多かったのは、戦乱のための荒廃が、いまだ全く回復せぬことを証して余りあるものであった。 村不相応に立派な寺があったけれど、これも|西班牙《スペイン》人の頑冥な植民政策を語る種となるのみで、 今は修繕も届かず、庫裡の方は小学校に充用されて居った。自動車を乗りすててある場所へ戻っ て見ると、学校帰りの児童らは、運転手の修繕を見物もし手伝いもしている。彼らの小脇に|挾《さしはさ》 んだ書籍を借りて見ると、英語の教科書は、|華盛頓《ワシントン》の逸事などが仕組まれてあるものであった。 |比律賓《フイリンピソ》では小学校生徒にはもはや|西班牙《スペイン》語を教えぬことになったのであるから、これらの子供ら が成人する頃には、日本でも|西班牙《スペイン》語の必要が大いに減ずるだろうと思われる。自動車のタイヤ は遂に修繕が届かず、従ってマリラオ入湯も果し得ないで、カロマタにゆすぶられながら|馬尼拉《マニラ》 に帰ることとなり、この日の第一の目的をば達し得なかったけれども、その近郊の様子を知る機 会を得たのは、何よりの獲物であった。  その次の日の午後にはアンチポロとモンタルバンとを続けて巡遊した。モンタルバンの水源地 というのは、マリクィナ河上流の両岸の絶壁相迫る所にあるので、その景色はあたかもわが甲斐 の|御嶽《みたけ》の峡谷に似て居る。|馬尼拉《マニラ》全市はここの貯水池の飲料を仰いでいるのみならず、この谷間 はまた市民のピクニックの場所とたっているのである。夕暮に谷間に鳴いている|守宮《やもり》の声は、ま るで山鳩のようであった。  アンチポロはモンタルバンのやや南で、|馬尼拉《マニラ》からは真西に当って居る、十七世紀以来の有名 な霊地である。ここの寺に安置してある聖母マリアの像は、海上安全の祈りに|霊験灼然《れいげんいやちこ》であると いうので、|墨西嵜《メキシコ》と|馬尼拉《マニラ》との間を往来せる船舶が、この聖像を船内に|勧請《かんじよう》して航海したことは、 一再に止まらなかった。本堂の中には今も船を画いた絵馬が沢山ある。  参詣期は四月から始まるので、寺の門前もまだ至って淋しく、ホテルには一人も|宿《とま》り客という ものが見えなかったが、イルミネーションなどの装置もあって、ちょっと仏国ルールドという面 影があった。参詣人を目的とした鉄道が通じており、全村がそのコボレによって成立って行くの を考えると、季節における繁昌のさまも推測される。  アンチポロ街道で、|馬尼拉《マニラ》の町を離れて間もないところに、|英吉利《イギリス》人共同墓地があり、そのう ちに『大日本商業史』の著者|菅沼貞風《すがぬまていふう》君の墓がある。今在留日本人は別に共同墓地を所有してい るけれども、この墓のみは年々有志のものが集まって祭を絶やさぬそうである。 二十七 闘鶏  あまり勤勉とは言い得ない|比律賓《フイリツピン》人が、とにかくに働いているのは、ただ|闘鶏《とうけい》という楽しみが あるからである。|馬尼拉《マニラ》の市中に限らず、汽車で|呂宋《ルスン》島内を旅行する者は、到るところで鶏を小 脇に抱えて車に出入りする|比律賓《フイリツピン》人を見受くる。それらの鶏はみないずれもこの闘鶏という|博奕《ばくえき》 の具に供せらるるものである。|比律賓《フイリツピン》人の民族心理を知らんとするものにとって、闘鶏が何より の資料であることは、あたかも闘牛の|西班牙《スベイン》人におけると同様である。この両者を比較すると、 闘牛が人と牛と闘うのであるに反し、闘鶏は鶏同士の闘いであるのみならず、前者には、博奕が 伴わぬけれども、後者にあっては、その勝敗に金銭を|賭《と》するのを必須の条件としているという相 違がある。しかしながらかかる残酷な勝負を見て愉快を感ずるという心根に至っては、両者共に 全く同一|轍《てつ》で、|比律賓《フイリンピン》人が精神的にもやはり|西班牙《スペイン》人の流れを汲んでいるものたることが明らか である。  闘鶏は|馬尼拉《マニラ》市中で興行することを許されないので、必ず近郊で催される。その建物は闘牛場 の如く無蓋ではない。|草葺《くさぶ》きとは言いながら屋根があるのは、熱帯のためでもあろうか。闘牛の ように広大な場所を要せぬ辺もあろう。外観を一言にして評すれば小屋がけの国技館である。た だし相撲小屋の特別席即ち|桟敷《さじき》が周囲にあって、中に普通席を包んで居るのとは違い、試合場に 最も近く高い桟敷があり、この特別席に入らんとする者は、一|弗《ドル》ずつの|中銭《なかせん》をとられるが、普通 客はその外を取り巻き、桟敷の床下を通して試合を見るのである。  同じ小屋掛けの内ではあるが、|木戸口《きどぐち》外の|区劃《くかく》は、楽屋兼休息所であって、料理屋、煙草屋等 が所狭きまでに|列《なら》び、観客のほかには、まだ登場の順番に上らぬ鶏の飼主らが、鶏を抱いてその 間をうろついている。|相応《ふさわ》しい|敵手《あいて》と思える鶏があると、両方の飼主はまずこの楽屋で蹴合いの 予行演習をやって見る。この時までは後ろ向きに脚に|括《くく》りつけてある鋭利な|小刀《ナイフ》は、勿論まだ|鞘《さや》 のままである。しかしてその予行の結果、これならお互いに勝負させてもよいという見込みがつ くと、二羽共に番組の数に入れて試合場へ出すのである。  試合場には審判官のほかに世話役がある。二人の世話役が、これから蹴合わそうという鶏を一 羽ずつ受取り、こもごもその頭を抑え、首筋を敵鶏に向けて突つかし、もって敵に対する怒りの 情を激する。かくて両鶏に殺気充ち満ちた頃合いを見計らい、脚につけてある|小刀《ナイフ》の鞘をはずし、 蹴合いに移らせるのである。しかし一方の鶏がとても|叶《かな》わぬと感じて、敵を後にして逃げ出すこ とがあるから、こんな場合には、取組にならぬという|廉《かど》をもって、審判官は中止を命ずる。もし さもなくて両鶏共に敵を|蜷《たお》そうと勇み立つ場合には、試合になるとすぐに高く飛び上って後方ヘ 蹴り、|小刀《ナイフ》で敵の急所を突こうと|力《つと》める。勝敗の|岐《わか》れるのは、主としてこの巧拙に存するので、 一方が出血のために敝死るるまで、蹴合いは継続するのである。大抵は最初に突き傷を受けた方が、 早く弱って負けるのであるけれど、時としてはその|痛手《いたて》に屈せずして奮闘し、かえって敵を|仆《たお》す こともある。敗者がころりと倒れれば、勝負がそこで定まり、賭博の勘定が行われる。敝死れた鶏 はすぐに木戸の外の料理人の手に渡り、料理されて休憩者の口に入る。  闘鶏の残酷さは闘牛ほどではない。これは一は人間が手を下して殺さぬのと、一は鶏が牛に比 べて体が甚だ小さいから、死骸を見てもあまり悪感を起さぬからであろう。しかし刃物をつけて 蹴合わすというに至っては、|西班牙《スペイン》人が牛を|騙《だま》し殺しにして勇気を誇ると相類し、|酷《むご》たらしいの みで、少しも勇ましい点がない。慰みとしては極めて性質の悪いものである。これと同じような 闘鶏が、わが九州の薩摩にも昔盛んに行われ、今では厳禁されているとのことである。|比律賓《フイリツピン》人 の闘鶏と何らかの関係があるかどうかは知らぬ。 二十八 夏の都バギオ  群島のうちで、|呂宋《ルスン》だけは島内旅行をやって見ようというのが、最初からの予定であった。さ りながら全く当てなしに|彷徨《ほうこう》するというわけにも行かぬところから、その目的地としてバギオを 選んだのである。つまり予のバギオ行きは、バギオそのものの見物と、沿道の視察とを兼ねた|飛 脚旅《ひきやく》行であった。  バギオはベンゲット州の首府で|馬尼拉《マニラ》を北に|距《さ》ること百六十三|哩《マイル》、日本で言えば東京から福島 辺か、もしくは信越両国の境まで位の隔たりであるが、|比律賓《フイリツピン》の汽車の速力が遅いために、サ ン・ファビアンで乗り換えて|一号舎営地《カムプ ワン》に達するまでに九時間を要し、それから先の山路には、 自動車で更に三時間を費さなければならぬ。これを称して夏の都と言うのは、|西班牙《スベイン》のサン・セ バスチアンや|印度《インド》のシムラと同様に、|比律賓《フイリツピン》総督を始め、|馬尼拉《マニラ》政府の主脳部は、従来、酷暑の 候にたると、毎年この地に移って、暑を避けつつ政務を視る例になっているからである。 二十八夏の都バギオ  |馬尼拉《マニラ》から北に走る鉄道沿線の地は、車窓から見ただけでも、|爪畦《ジヤヴア》に比べて雲泥の差のあるこ とは明らかに分かる。|爪畦《ジヤウア》の場合にあっては、旅客は絶えず水田か|甘薦畑《かんしよばた》か、もしくは|珈琲《コ ヒ 》、|棉《わた》、 またはタピオカなどの、青々と茂っているのを見つつ走るのであって、未開墾地や|荒蕪地《こうぶち》の如き はほとんどない、また|暫時《ざんじ》の停車中に観察し得たところによっても、かなりの繁昌らしいと推測 さるる主要駅の数も、決して少くはない。これに反して|比律賓《フイリツピン》にては、拓殖の最もその歩を進め ている|呂宋《ルスン》島ですら、足一たび|馬尼拉《マニラ》を踏み出すと、もはや町らしい町は見えない。車窓から展 望してもその通りである。サン・ファビアンまで百|哩以《マイル》上の行程の間に、商工業の盛んな状況を 呈しているのは、ダグパンその他二三の乗り換え駅のみであって、その他に至っては、精糖所か もしくは他の一二の小工場が附近に見えれば、よほど上等の部分で、かのアギナルドの本陣、独 立軍の国会の所在地として有名なマロロスですらも、淋しい村落としか見えなかった。|加之沿《しかのみならず》 線の土地の大部分は戦乱以後|荒蕪《こうぶ》するままに任せてあるので、日本の|蘆荻《ろてき》に類したコゴンやタラ ヒムなどという、厄介なものが|蔓《ま》びこっている。|爪畦《ジヤヴア》どころではない、これを|東京《トンキン》地方に比べて も、開発の点において|比律賓《フイリツピン》の方が遘かに見劣りがする。乗り換え駅のサン・ファビアンから|一《カ》 号喜鵠拗までの鉄道線路に至っては、広い沢の中を走るので、軌道は河床に積んだゴロ石の上に 載っているだけだから、雨期には用をなさぬこともあるのみならず、両側の荒涼たることは言う までもない。概してこのたびの旅行では、愉快は船中に多く、汽車に少かったが、そのうちでも この鉄道ほど不愉快を感じたことはないのである。もしこれを償うに|一号舎営地《カムプ ワン》から先の自動車 道の絶景と、目的地なるバギオの涼しさとをもってすることがなかったならば、予が折角のバギ オ行きも、永く苦い記憶を留むるに過ぎなかったかも知れぬ。  '浄俘菖地は地獄と極楽の郷かある。それから先の山道は黙絆を縫って登るので・勿論開墾の 程度を云々すべき場所ではないから、景色がよくて涼しければ、それで宜しいのであって、この 点からして観察すると、バギオまでの自動車道、即ちベンゲット山道の如きは、言い分のなきも のである。山道とは言いながら路幅が広いので、大きな自動車が行き違うのに困難はない。途中 には|獅頭巌《ししかしらいわ》や|蔦《つた》の|滝《たき》などと命名せられた、車を|駐《とど》めて|緩《ゆるゆる》々顧望したいと思われる場所も数々あっ たが、|就中《なかんずく》最も美しいのは「新妻のかつぎ」の滝というのであった。日本たらば白糸の滝とも名 づけるところであろう。この滝は往路の夕ぐれの景色よりも、バギオからの帰路の朝の眺めの方 がよかった。自動車が急坂を下るにつれて、朝日が滝水に映す虹の、次第に滝壷へと落ちて行く さまは、得も言われず面白かった。  上り上りて行程の三分の二ばかりを過ぎると、山の景色が一変して、遂には満目の松林となる。 |比律賓《フイリツピン》を形容して椰子が松に続く国というのは、かかる所をさして言うのである。その松はさし て大木でもないから、森林のさまとても、台湾の|阿里山《ありさん》で見たように、|神《こうごう》々しい心持が起らず、 むしろ京阪地方のなれなれしい松山に似ているけれど、|比律賓《フイリツピン》にあるものとしては、もてはやす 価値は十分にある。谷あいの少し平らな場所には、段々を栫えて水田を仕立てあり、近くの村落 から夕の煙の立ちのぽるなどは、純日本式のものであった。  標高四千七百尺という|山顧《さんてん》の上にバギオの市街がある。峰や谿にわたって、常設の兵営や、夏 期用の政庁や、官邸、別荘、商店などが散在している。在留の早川氏その他に迎えられてパイ ン・ホテルというに投宿し、晩餐の後更に同氏らの案内を得て、夏の都のドライヴをやった。折 しも明月のさやけさは、全く日本の秋の夜と同じで、|叢《くさむら》には虫がすだいて居った。道路は広く、 かつなだらかな傾斜で上下するのであるから、身全く大公園の中にあるような思いがした。とこ ろどころには燈籠の形をした常夜が照している。|木《こ》の|下影《したかげ》にその薄あかりの並んで見えるさまは、 |春日《かすが》の社頭に似た所もあった。新総督ハリソンの節約方針の一端として、夏の都ヘの移転は、今 年から止めになったというので、官邸や別荘に人のけはいも少く、随って商店の光りも|微《かす》かに見 えたのは、景色としては一段の趣を添えた。山中の静寂を破って賑かに響き渡ったのは、軍人倶 |楽部《らぶ》に催された軍楽隊の合奏であったが、これすらもドライヴ中に終りを告げた。絶頂に達して、 日本人の造ったという、天然の地勢を利用した庭園を見物した頃は、月はあたかも天に|沖《ちゆう》して、 立ち上って来る山気は|衣袂《いべい》を|湿《うる》おし、身の三月に熱帯にあることなどは、全く忘却したのである。 深更ホテルに帰れば欄干に露が|滴《したた》り、今まで|逍《さまよ》遙うた所は既に|靄《もや》に包まれて見えない。窓からさ しこむ月の光を浴びつつ、|被物《おおいもの》をかさねて寝に就いたが、かくばかり寝心地のよかったことは生 来かつて知らぬ。  バギォ名物の一として算えらるる払暁の霧海は、遂に見るに及ばなかったけれど、月下一夜の |逍遥《しようよう》は、美しき夢として永く思い出の種となるべきものである。夜のバギオをのみ見てその昼を 見なかったのも、予の毫も遺憾とするところでない。 二十九 |西班牙《スペイン》の植民政策  |西班牙《スベイン》の植民政策が貪欲で|固随《ころう》で、無慈悲でしかも無遠慮であるとて、あらゆる植民史家はこ れを非難し、これをもって劣悪なる植民政策の標本の如くに心得ている。なるほど一時は太陽が 領内に没したいとまで称えられた、さしも広大な西国の版図も、十九世紀の始め以来、あるいは 背叛し、あるいは他に割取せられ、今はほとんどその残骸をだに留めぬところを見ると、同国の 植民政策が決してその宜しきを得て居ったものとは言えぬ。然れども今仮りに野蛮人に|基督《キリスト》教を 宣布するのが、彼らに大なる恩恵を施す|所以《ゆえん》であるとするならば、|西班牙《スベイン》人ほどこの点に努力し 二十九 西班牙の植民政策 たものは少い。布教は侵略の準備であったと言えば、それまでであるけれども、侵略が終った後 でも、布教は決して衰えなかった。して見れば単にこれを利用したのみとも言い難い。彼らは土 人を圧制したとして攻撃されて居る。然れども|西班牙《スベイン》の貴族や僧侶が、下級人民を圧制したのは、 単に植民地に住する土人に対してのみではない。本国の下級人民も同様に圧制されて居ったので ある。要するに|西班牙《スペイン》の政府や上流の頑冥であったのは、|西班牙《スベイン》の文化が、他の欧州諸国に比し て少くも一世紀遅れて居ったがためで、本国人と土人との間に大なる差別を設けたとは考えら れぬ。し掀み鷲ず酊班珊人の土人に与えた待遇は、米国人が黒人に対するよりも、かえって寛大と評 してよい点もある。もし土人と本国人との間に障壁を設けぬのが人道に|叶《かな》うならば、|西班牙《スペイン》の植 民政策ほど|美《うる》わしいものはあるまい。植民地における|西班牙《スベイン》人は、土人の宗教は勿論衣食住に至 るまで、すべて己れらと同一ならしめんとしたばかりでなく、雑婚をも厭わなかった。故に彼ら の植民地においては、必ず有力な混血児の一団が生ずる。しかしてこの混血児は、他国の場合の 如く排斥され軽蔑されては居らぬ。彼らはこれに教育を授くることに躊躇はしない。従って混血 児の内には学識を具えたものが出来し、時としてはこれらが本国から|離畔《りはん》する張本人となること もある。これはあまり有難い結果ではないけれども、その早く独立して一国とたったものでも、 また久しく植民地として残ったものでも、共に|太《はなは》だしく母国に類似したものであるという点に至 っては、争い難いほど明白である。英国は世界第一の植民国と言われているが、その植民地は英 国風の植民地ではあるけれども、英本国そのものとはすこぶる趣が違う。然るに|西班牙《スベイン》の植民地 となると、著しく母国に類似したものが出来る。|西班牙《スベイン》の苛政に堪えかねて独立した南米諸国で も、独立後今日に至るまで、母国の|西班牙《スペイン》と親密な交際を継続しているのは、即ち母国との間に 呼吸の通うところがあって、これが断ち難い連鎖をなしているからである。さればもし植民地こ とにその土人に及ぼした影響の深浅をもって、植民政策の功過を計る尺度とし得るものならば、 |西班牙《スベイノ》ほどの成功を収め得た国はまたとあるまい。中米南米において然りである。|比律賓《フイリツピン》列島に おいてもまた然りである。 三十 |比律賓《フイリツピン》の西化  予は前女において東洋に|馬尼拉《マニラ》ほどの|欧羅巴《ヨ ロツパ》風な町がないと言った。単に|馬尼拉《マニラ》の市相が|然《しか》る のみでたい。|比律賓《フイリツピン》全体が|欧羅巴《ヨ ロツパ》風である。熱帯と温帯と天然の差はあるが、人事において著し き類似がある。|比律賓《フイリァピノ》人のうち南方の諸島に住するモロその他の土人は別として、北部諸島の住 民で、いわゆる|比律賓《フイリツピン》人の名で知られているタガログ、ヴィザヤ等の諸人種は、|馬来《マレイ》人などとは 三十 比律賓の西北 異なって、欧州人と同じ|基督《キリスト》教徒である。|暹羅《シヤム》人のような仏教徒でもない。またその他の東洋諸 国では、土人の間には土語が通用し、欧州語は日常用いられておらぬが、|比律賓《フイリツピン》では土語のみを 話す者も少くたいけれど、一方にはほとんど土語を操らぬ者もある。しかして|西班牙《スベイン》語は、あた かも上等な土語の如く見なされている。また|比律賓《フイリツピン》人の衣服は、安南人、|暹羅《シヤム》人、|爪畦《ジヤヴア》人等の衣 服の如き東洋的特徴を具えておらぬ。裸体を|露《あら》わすものなどは勿論ない。つまり|欧羅巴《ヨオロッバ》人の服装 竄黒帯式に変じ孟讐化したものである毒察占領以前の服装は今その礬留爰い。混血 児の数多い点において、またその程度種類の|区《まちまち》々なる点において、|爪畦《ジヤヴア》と|比律賓《フイリツピン》と相似ているけ れども、|爪哇《ジヤヴア》において混血児は軽蔑されているに反し、|比律賓《フイリツピン》においては西人から甚だしく疎外 されておらぬのみならず、土人からはむしろ尊敬されている。|西班牙《スベイン》人及び支那人との雑種は、 |比律賓《フイリツピン》人中の有力なる部分である。されば|比律賓《フイリツピン》人は人を|斥《さ》して混血児と言うことを、むしろお 世辞と心得ている。|爪畦《ジヤヴア》では|和蘭《オランダ》本国で高等教育を受ける土人は、今でも|晨星《しんせい》の如く|寥《りようりよ》々た《う》|る ものであるが、|比律賓《フイリンピン》土人中の少しく資力あるものは、その子弟を|西班牙《スぺイン》に遊学させることを、 早くから習慣として居った。中には八九歳から大学卒業まで留まっているのもある。兄弟三人位 同時に出している家もある。しかしてその研修するところの学科は何かと言えば、医学にあらざ れば法学であった。法学というものは土人に最も毒であるとして、人道主義の植民政治家すらも、 なるべく修めさせまいと躊路するところのものであるが、|西班牙《スペイン》では格別これについて抑止を加 えた様子もない。要するに|西班牙《スベイソ》政府は|比律賓《フイリツピン》人の教育に、非常に熱中したとは言えぬけれども、 その代り窮屈な制限を加えなかった。従って|比律賓《フイリツピン》人で資力あるもの、好学の念あるものは、自 由に志すところの学問を修め得たのである。師範たる|西班牙《スベイン》そのものの丈明の程度は、英、独、 仏等の諸国に比して大いに遜色があるけれども、|比律賓《フイリッピン》人がその母国から学び得、これに摸倣し 得た程度に至っては、到底それらの国々に属する東洋諸植民地の土人の及ぶところではない。日 本人や支那人を除き、東洋諸民族のうちで、いずれが最も知識が発達しているかと問うならば、 将来はいざ知らず、現今まず指を|比律賓《フイリツピン》人に屈せざるを得ない。さればこそやや組織ある独立の 企てをもした。リザールも出た。アギナルドも出た。タガログ語で書いた書籍が続々出版される のを見ると、土人に読書の|嗜《たしな》みの浅からぬことも分る。音楽の趣味に富んでいる点においては、 日本人以上と評してもよい。  かく述べ来ると|比律賓《フイリツピン》人というものは、実に優等た民族のように見える。然らば彼らの将来は いかなるであろうか。彼らは果して希望の如く独立を実現し得るであろうか。 三十一 |比律賓《フイリツピン》の現在  |比律賓《フイリツピン》人は欧州化している、否むしろ|西班牙《スベイン》化している。あまりに|西班牙《スベイン》化し過ぎている。し かしてその|西班牙《スペイン》は欧州においても老国である。ここにおいて|比律賓《フイリツビン》人の|西班牙《スぺイン》化が、幼弱の者 の老人化したようた状態を呈することとなったのも怪しむに足らぬ。|比律賓《フイリツピン》人が東洋民族に|勝《すぐ》れ て|慧敏《けいびん》であるのも、論議を好み|僚慨《こうがい》する割合には、実行に遅緩たのも、一は老国|西班牙《スベイン》の感化を 受け過ごしたからである。|比律賓《フイリツピン》人は一種の惰民である。情が激して来ると、一時は己れを忘れ て驚くばかりの活動をなすが、しばらくすると|弛《ゆる》んでしまう。独立のために一致奮闘した者も、 |幾《いくばく》もなくして|内訌《ないこう》を生ずるのはこれがためである。未婚の女子は勤勉に働くけれど、一旦人に 嫁ぐと|懶惰《らんだ》になるというもこれがためである。会合燕遊を好むというもこれがためである。親類 縁老を食いつぶすというのもこれがためである。|呂宋《ルスン》に既墾地の荒廃に属した所が多いのもまた これがためである。  あるものはこの荒廃の原因をもって、戦乱のためにカラバオ即ち水牛が減じたのに帰している。 あるいはそうであるかも知れぬが、他の|比律賓《フイリツビン》人はこれをもって農村における労力の減少にもと づくとしている。これもまた|慥《たし》かに有力な原因であるに相違ない。然らばその農村における壮丁 の減少は何によって起るかといえば、それは都会に集中するからだと言う。更に進んで何が故に 都会に流れ込むかと問えば、これは特に|比律賓《フイリノピン》に限ったことではない、人口の都市集中は、世界 各国共通の現象であると答えてすましている。然り労働者の都市集中は現代の風潮である。けれ どもその都市に集まる主な理由は、都市に丁業が勃興したからである。然るに|比律賓《フイリンピン》群島は全体 を通じて工業国と言えぬのみならず、工業的都市というものがほとんどないと言って宜しい。首 府|馬尼拉《マ ラ》の如きも、煙草製造所を除けば、その他に大工場と称すべきものは指を屈するほどもな い。工業の振わないのは熱帯諸国共通の現象であると言えばそれまでであるけれど、とにかく|比 律賓《フイリツビン》は決して工業的ではないのである。して見ると|比律賓《フイリツピン》の都市に農民が流れ込むというのは、 他国の場合における如く職工になるためであるとして弁護することが出来たい。要するに|比律賓《フイリツピン》 人の都市集中は、彼らが農業のような生真面目な労働をすることを嫌うからのことである。|馬尼 拉《マニラ》のホテルの食堂に入って見ると、給仕をする|比律賓《フイリツピン》人が非常に多くて、客がどこに居るか分ら ぬほどであるが、都市集中の結果はつまりこうなるものと思われた。|比律賓《フイリツピン》の人口は面積の割合 から計算すると、|爪畦《ジヤウア》の密度の九分の一に過ぎないから、|比律賓《フイリツピン》に未開墾地の多いのは怪しむに 足らぬが、いかに戦乱の余とは言いながら、既墾地の荒廃の甚だしいのは、その原因主として|比 律賓《フイリツピン》人の勤労を厭うにあると言ってよかろう。  |比律賓《フイリツピン》人中には代議士として相当た者もあり、行政官として適材もあり、ことに弁護士として は堪能な者が多い。然れども健全な国家は官吏や代議士や弁護士ばかりで維持することが出来ぬ、 必ずや勤勉なる民衆の存在を必要とするのである。米国が|比律賓《フイリツピン》に独立を許すかどうかは大疑問 であるが、仮りにこれに独立を許すとしても、もし中流下流の人民の状態が今日のままであるな らば、その独立し得た|比律賓《フイリツピン》というものの有様も、推測するに|難《かた》くないと思われる。|比律賓《フイリツピン》人に とっての急務は、独立よりも杜会改良にあることは、予の深く信ずるところである。 三十二 旅行の終り  熱帯地方を周遊すること、ほとんど九旬に|垂《なんな》んとして、三月の九日に|馬尼拉《マニラ》を発し、越えて一 日|香港《ホンコン》に|辿《たど》り着いたので、南海の一見はここに終りを告げた。香港から北上して舟山列島に近づ いた頃は、天は霽れ、浪は静かに、陸近く走る船の甲板から、|長閑《のとか》に霞んだ夕冐が|寧波《ニンポモ》の山に没す るのを望んで、春は海からわたり|初《そ》むるものかと、珍しく思われた。|上海《シヤンハイ》に戻って桃花の|夭《ようよう》々た るのを見ては、二十四番の風が既に陸にも|通《かよ》っていると知れた。|銭塘《せんとう》湖畔のわが杭州領事館庭前 に咲ける一もとの桜を眺めては、月並ながらその春というものが、日本に限るように考えられて、 帰思はそぞろに湧き出した。蘇州を経て|南京《ナンキン》に入ると、|明《みん》の故宮にも、満人の屋敷跡にも、等し く麦が|漸《ぜんぜん》々と秀でて居った。"てれから江に浮んで漢口ヘと遡ったが、両岸の楊柳のその春の色は まさに|央《なか》ばを示して、忙わしい旅にくたびれている行客の眠気を催した。夜寒むの河風を厭いな がら、|嚢陽丸《じようようまる》の食堂に暖炉を囲んで、|加奈陀《カナダ》生れの老船長との閑談に|更《こう》の|闌《た》くるを忘れた頃は、 久しく眼にちらついた椰子の林の記憶も、すこぶる薄らいでしまった。漢口から京漢線で|北京《ペキン》へ 急行した車中、湖北と河南との境では、大地に残雪を見た。累々たる古墳の上に載せられた白紙 を吹く風は、清明にしては寒かった。|天津《てんしん》の李公祠前には春なお浅く、|済南府《ちいなんふ》から|青島《チンタオ》へ着いて 見ると、柳の糸はまだ綻びず。更に海を横ぎって大連に渡ったが、ここにも春は立ち|初《そ》めたのみ である。かつて軍に従ってこの地に上陸してから、今は既に十星霜を|閲《けみ》している。寒さはその頃 と変らぬが、それは秋の末の頃、今は春の始めである。市街を見物しても、昔の面影は更になく、 深夜枕を|欹《そばた》てても攻城砲の音も聞えない。懐旧の情に促されて、大連から更に北上しようという 心がないでもなかったが、薄物のみの旅装心細く、また一つにはあるいは過ぎあるいは及ばざり し春のいよいよ慕わしさに、倉皇として船に乗り、百三十一日振りで日本の土を踏むと、その春 は早や既に老いて居った。  |碁月《きげつ》のうちに春と冬とがかく幾度も去来した後は、一見した南海の印象はますます荘漠を加う るのみである。|強《し》いて記憶を|搾《しほ》り出して、この稿を草し了ると、隔世のことを書き綴ったような 心地もする。況んや必要な語学には通ぜずかつ|妄《みだ》りに路程を貪った結果は、観察の価値を減じ、 皮相をすら|悉《つ》くし得ぬ恐れもある。|加之事《しかのみならず》の日本に関したものをば、ことさらになるべく省略 するに|力《つと》めたことは、終りに臨んで特に読者に告げざるべからざることである。 三十二 旅行の終り 南海一見終