黄昏の告白 浜尾四郎  沈み行く|夕陽《ゆうひ》の最後の光が、窓|硝子《ガうス》を通して案内を|覗《のぞ》き 込んでいる。部屋の中には重苦しい静寂が、不気味な薬の 香りと妙な調和をなして、悩ましき夜の近づくのを待って いる。  陽春のある|黄昏《たそがれ》である、しかし、万物|麩生《そせい》に乱舞するこ の世の春も、ただこの部屋をだけは訪れるのを忘れたかの ように見える。  |寝台《ベツド》の上には、三十を越してまだいくらにもならないと 思われる男が、死んだように横たわっている。分けるには 長すぎる髪の毛が、手入れをせぬと見えて、|蓬《ぼうぽろ》々と乱れて 顔にかかっているのが、死人のような敵の色を更に痛まし く見せている、細い高い鼻と|格好《かつごハう》のよい口元は、決して醜 い感じを与えないのみか、むしろ美しくあるべきなのだ が、生気のまったく見えぬその容貌には、なんとなく不気 味な感じさえ現われているのである。  |傍《そば》には、やはり三十を越えたばかりと見える洋装の男 が、石像のごとく|侍立《ちよりつ》して、憐れむように|寝台《ベツド》の男を見つ めている。彼もまた極めて立派な容貌の所有者である。し かし、この厳粛な、否むしろ不気味な静寂は、その容貌に 一種の|凄《すご》さを与えている。  横たわれるは患者である。傍に立てるは医師である。こ の病院の副院長である。  突然忠者は口を開いた。  立てる男と視線がはっきりと衝突した。立てる医師はふ と目をそらす。  忠者が云う。 「山本、君一人か。」  医師にはこの質問の意味がはっきり判らなかった。 「え……P」 「この部屋には、今、舛と僕と二人切りしかいないのか。」 「ああ、看護婦は|階下《した》へやった。用があったから。僕一人 だよ。」 「そうか。」  思者はしばらく考えているようであったがふたたび日を とじた、医学士山本正雄は忠者が続いて何か云うことを予 期していた。しかし患者はふたたび死んだように沈黙し た。  今度は医師が声をかけた。 「恥、苦しくはないかね。」 「ああ……いや別段……」  ふたたび重苦しい沈黙が襲う。  口の光はしだいに薄れて、夜が近づく。  陰惨な静寂に、医学士山本正雄は堪えられぬもののよう に頭をかきむしった。  患者は大川竜太郎という有名な戯曲者である。彼はその 二十七の年に処女作を発表し、当時の文壇のある大家にそ の才能を認められてから、がぜん有名になった。つづいて 発表された第二、第三の諸作によって、彼は完全に文壇の |寵児《ちようじ》となり三十歳に達せざるに、杜会はもはや彼が第一流 の芸術家であることを認めないわけにはいかなかったので ある。  その大川竜太郎が、三十三の今日、劇薬を呑んで自殺を 企てたのである。幸か不幸か、彼はすぐ死ぬということに 失敗した。彼が|苦悶《くもん》のままその家から程遠からぬこの病院 にかつぎ込まれてから、今日でちょうど五日目である。  副院長山本正雄は大川の友人であった。彼が必死の努力 によって、大川は救われたかと思われた。しかし、それも 一時のことであった。山本は今、大川の生命はただ時間の 問題であることはよく知っている。  なぜに大川は自殺を企てたか。  大川が事実自殺を計ってこれを決行したにもかかわら ず、なんら遺書と見らるべきものが|遺《のこ》されなかったため、 諸新聞は大川の知己である文壇の諸名家の推測を、列挙し て掲載したことは云うまでもない。  文士であるにもかかわらず、一片の遺書も残さぬという ところから、恐らくその自殺は発作的のものではないかと 憶測したものもあった。しかし大川が数日前から劇薬を手 に入れていた事実、および彼がそれとなく薬物に関して他 人に質問をした事実によって、その考えがまったく空想に 過ぎぬことが明かとなった。したがって文壇の諸家はおの おの自己の信ずる考えを述べたてたのであった。しかし、 少くも二つの原因らしきもののあったことは、誰しも認め ないわけにはいかなかった。  その一つは、大川竜太郎一個人の芸術家としての問題で あり、他はまったくこれと異るが同時に非常に有力らしく 見えるところの、約半年ほど前に彼の家において行われた 有名な悲劇である。  三十歳に達せずして一代の盛名をはせた戯曲家大川竜太 郎は、しかし、三十歳に達せずしてその芸術の絶頂に達し たのかと思われた。  彼が三十の時、盛名はなおいぜんとして衰えなかったに もかかわらず、ある人々はすでにその作品の中に彼の疲労 を発見した。彼が三十一の年その作の中には芸術家として の行き詰りが|明瞭《あきらか》に現われはじめた。その年の末に発表さ れたある戯曲は、作者のこの芸術上の苦悶をはっきりと示 していた。彼はあせった。迷った。彼の行くべき|途《みち》いずれ にありや、大川竜太郎は三十一にしてこの苦悶に直面し た。  世間はようやく大川の疲労を見てとったのである。しか し彼は怠けていたのではない。彼には怠けることは出来な かったはずだ。けれども、あせればあせる程、彼は臼分の 無力を感じた。三十二の年をこうやって彼は暮した。一つ の作をも発表しないで、否発表し得ないで。  なぜ彼がかくもあせったか。  大川には有力な競争者が現われたのである。|米倉《よねくら》三造の 出現がそれであった。  米倉は大川とほとんど同年であった。はじめ大川の盛名 に|眩惑《げんわく》されていた文壇は、米倉の戯曲をさほどには買わな かった。けれども米倉は隠忍した。我慢した。そうして大 川がその絶頂に達したと思われた頃、彼はがぜん奮起し た。大川が疲労を見せ始めた頃、米倉は堂々と躍進し始め た。そうして大川があせりにあせってもがきはじめた頃、 米倉は完全に文壇の一角を占領した。  世間はうつり気である。  大川の名は忘れられはしなかったけれど、彼の戯曲はこ の頃ではただ発表されるにしか過ぎなくなった。しかるに 米倉の諸作は、出づるごとに次から次へと脚光を浴びて行 った。そうして、大川にとって最も痛ましかったことは、 最初彼を文壇に送り出したある大家が、米倉三造を、大川 以上のものとして折紙をつけたことであった。  もしこの事実が、大川の元気一杯の時に起ったとしたな ら、決して彼は驚かなかったであろう。しかし、ある限り の精力を出し切ってしまった彼が、いま目の前に米倉の異 常な、大川のそれにもました出世ぶりを見ていなければな らぬということは、たしかに痛ましいことだったにちがい ない。  というわけは、大川竜太郎と米倉三造とは恐らく永久に 手を握りあうことのできぬ|仇敵《かたき》同士であったからである。  彼等はその処女作を世に出す前において、すでに、競争 者であった。おたがいに非常に神経質で頑固で、そうして 嫉妬心を十分にもちあっていた彼等は、名をなす前に、心 -から愛しあうよりはむしろ、心から憎みあっていた。  「いまにみろ。」  という考えをおたがいにもっていた。そうしてその気持 の上に二人は精進した。  けれども、この二人を決定的に仇敵とならしめたのは、 こうした二人の名誉心ではなかったのである。実に彼等 は、ある一人の女を、しかもほとんど同時に愛し始めたの であった。  この恋愛闘争はかなり有名な事件として知られている。 女は酒井|蓉子《ようこ》という、ある劇団の女優であった、大川のあ る作品が、この劇団によって脚光を浴びた時、彼は蓉子と 相識った。しかし同じ頃、米倉もまた蓉子と知りあった。 かくて蓉子を中心として二人の男は恋を争ったのであっ た。  この闘争において、まったき勝利はまさに大川の上にあ った。大川と蓉子とは彼が二十九、彼女が二十三の年に円 満な家庭を作るに至った。蓉子は未練げもなく舞台を捨て てよき妻となり二人の間には愛らしき子さえ儲けらるるに 至ったのである。  自分の敗北を認めた時、米倉は死ぬかとすら思われた。 しかし彼は奮起した。奮起して彼はいっそうその芸術に精 進して、ついには大川を|凌《しの》ぐ盛名を博するに至ったのであ る。  大川はいまや恋の勝利者ではあるが、芸術上の敗北者で あった。と少くも世人には思われた。男子は、ことに大川 のような男は、恋のみに生き得るものではない。  昨年一杯彼の沈黙は果して何を示しているか。彼はつい に力つきたのか。あるいはまさに再起せんとして一時の沈 黙を忍んでいるのか。世人は深き興味をもってこれを眺め ていたのである。かかる事情のもとに起った大川竜太郎の 自殺事件である。文壇のある人々がこの点に彼の自殺の原 因を見出したのも、決して無理とはいえなかった。  けれども、これだけが唯一の原因だとも見られぬ事情が あった。さきに述べた大川の家における惨劇を原因として ー・,少くも原因の一つとして見逃すことは、正しくはある まい。  昨年の十月二十日の諸新聞の夕刊はこぞって大々的にそ の事件を報じている。そのうちの一つを次に掲げてみよ う。   ○強盗今暁大川竜太郎氏方を襲う   ー妻酒井蓉子(元女優)を惨殺して     自分も大川氏に射殺さる1 近来ほとんど連夜のごとく強盗出没し、今や警視庁の存 在をさえ疑わるるに至ったが、今映またまた一人の強盗 戯曲家大川竜太郎氏方に抑入り妻蓉子(かつて酒井蓉子 と称し××劇場の女優)を殺し、白分はただちに現場にお いて主人のため|矩銃《ピストル》にて射殺さるるの惨劇が突発した、 今暁午前三時半頃、府下×x町x×番地先道路を警戒中 の夜警谷某は、同番地先を|陥《へだた》る約半丁ほどの大川竜太郎 氏方とおぼしき方向より、突如二発の銃声を聞いたの で、ただちに同家に向って急行すると、やがて同家より 「泥棒、泥棒」と連呼する声をきき、非常笛を鳴らしな がら同家の庭の垣根をとび越えて庭の中に入った。する と主人竜太郎氏が片手に短銃を持ったまま屋内より、庭 に走り出て来たが、谷某の姿を認めると、「泥棒、内に いる。殺した。」と叫んだままその場に昏倒した。谷は 驚いて竜太郎氏を抱き起すと|幸《さいわい》にも氏はどこも負傷なく まったく一時の昂奮のための卒倒と知れたので、しきり に意識を回復せしめんと介抱している折柄、さきの銃声 ならびに非常笛をききて密行中の巡査佐藤一郎が駈けつ けたので、ただちに××署に急報、警視庁ならびに×× 署より係官出張取調べたところ、兇漢は午前三時過ぎ、出 刃庖丁を|携《たずさ》え、同家台所の戸をこじあけて忍び入ったら しく、まず次の間に入り蓉子および長女久子の枕元を物 色中、蓉子が日をさましたので|俄然《がぜん》居直りと変じ出刃庖 丁をもって同人を脅迫したところ、同人は|驚樗《きようがく》のあまり 大声をあげて泥棒泥棒と連呼し隊室に就寝中の竜太郎氏 に救いを求めたので、賊は|狼狽《ろうばい》の極、蓉子に飛びかかり て馬乗りとなり両手をもって同人の|頸部《けいぷ》を絞めつけつい に同人を窒息せしめた、この騒ぎに隣室より飛び出した 竜太郎氏は護身用のピストルを向けて一発を賊の右胸部 に、つづいて一発をその右額部に撃ち込んで即死せしめ たのである。なお賊の身元、その他については目下詳細 取調中である。 次の日の新閃には左のごとき記箏が掲げられている。 ○酒井蓉子殺し犯人は強盗前科四犯の兇   漢と判明   -大川氏の行為は正当防衛- 昨朝文士大川竜太郎氏力に兇漢侵入し大惨劇を演じたこ とは既報の通りであるが、兇漢の指紋により果然同人は 強盗前科四犯あり目下××刑務所に服役中の|痔虎《あざとら》こと|大 米虎市《おおきこめと いれ》と称する脱獄者であることが明かとなった。惨劇 の|顛末《てんまつ》は判検事出張取調べの結果大体次のごとく報ぜら れている。 大川竜太郎(三二)は妻蓉子(二六)長女久子(三歳) の三人家族で同家には他に佐藤定子とよぶ女中がいるの だが惨劇当夜より約一週間程前から父親が病気なので一 時暇をとっていたため咋今はまったくの親子水入らずの 三人暮しである。一時頃大川氏はおそくまで書きものを して、八畳の聞に妻蓉子が久子とさきに就寝し、大川氏は その隣室の書斎六畳の間に就寝した。大川氏は近来ほと んど夜聞に仕事をするため別室にねることになっていた のである。氏はあまりねつきのいい方でないので眠りに |陥《お》ちたのは二時頃だろうということであった。兇漢が忍 び入ったのは調べによると、台所で賊は戸をこじ開けて 忍び入ったもので、最初台所の次の問を物色したが何物 もないのでただちに蓉子の室に侵入し初めはひそかに枕 元を探していたものらしく|箏笥《たんす》の|抽斗《ひきだ》しなどが開け放し になっていた。しかるにその物音に蓉子は目をさまして |誰何《すいか》したので、賊は|俄然《がぜん》居直りとなり手にせる出刃庖丁 を蓉子の前に突きつけておどかした。もし蓉子がこれで 黙っていたならば、あるいはあの惨劇は行われなかった かもしれないが、荘子は驚愕の極悲鳴をあげて救いを求 めた。|襖《ふすま》一つ隔てた隣室に眠っていた大川氏はこの声に 目をさましいきなり枕元においてあったピストルを携え て隣室に|蹴《おど》りこんだのである。賊は蓉子の声におどろい ていきなり覆面用の黒布をとって蓉子の口へ押しこみ、 同人を押し|仆《たお》し両腕に力をこめてその|咽喉《のど》をしめつけた ため同人はもがきながら悶死した。曲者が蓉子の上にの りかかって同人を絞め殺すと同時に大川氏か救いにかけ つけこの|態《てい》を見るより一発を賊の右側から撃ち、ひるむ ところを更に一発その頭部に命中せしめたのであった。 しかしながら実に一瞬の差で蓉子の生命を救うことがで きなかったので、大川氏は悲痛のあまり、大声をあげな がら外にとび出したのであった。 なお取調の結果、兇漢大米虎市の持っていた出刃庖丁 は二日前、府下××町××番地金物商大野利吉方で兇漢 白身が求めたもので同金物店の|雇人某《やといにん》は、大米の顔を比 較的よく覚えていたためまったく同人の買ったものなる ことが明かとなった。大川氏はこの悲劇のため一時まっ たく|昏倒《こんとう》したくらいで、ほとんど気抜けの態であるが、係 員の質問に対しては割合明かに答えている。大川氏は一 応x×署の取調を受けたが正当防衛として不問に付する こととなるらしい。兇漢の所持品としては出刃庖丁の他 金三円二十三銭の現金、懐中電燈、ろうそく、覆面用の黒 布等であった。右について司法某大官は語る。「自分は 今度の大川竜太郎氏の強盗殺人事件について詳しいこと をきいておらぬから何ともはっきり申せないが、きくと ころのごとくんば大川氏の行為は正当防衛でありかつ正 当防衛の程度を超えざるものと思われるから問題にはな るまい。すなわち強盗でも何人でも深夜他人の家に忍び こんだ者が妻を殺さんとしている場合は明かに刑法第三 十六条のいわゆる急迫不正の侵害であるし、これに向っ て発砲することはすなわち、『|已《や》ムコトヲ得ザルニ|出《い》デ タル行為」と認めてよろしかろうと思う。ただもし兇漢が すでに妻を殺してしまったあとで発砲したりとせば、妻 に対する正当防衛は成立しないわけであるが、大川氏の ごとき場合は妻を殺してもなお自己に対する急迫不正の 侵害があるわけ|故《ゆえ》やはり第三十六条の適用を受けるべ く、たとえそれがために相手を殺したりとするもこの際 は『防衛ノ程度ヲ超エタル行為』とは云えないであろう。 ただ聞くところによれば、大川氏の携えていたピストル はなんらの許可を得ずしてもっていたものとのことであ るから銃砲火薬類取締規則に触れることは別問題であ るL 参照 刑法第三十六条-急迫不正ノ侵害ニ対シ自己又 ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已ムコトヲ得ザルニ出デタ ル行為ハコレヲ罰セズ。防衛ノ程度ヲ超エタル行為ハ情 状ニ因リソノ刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得。  大川氏の行為はその後もちろん正当防衛として問題にな らなかったが、この事件が大川竜太郎氏に与えたショック は実に非常なものであった。彼はこの事件以来ほとんど喪 神の態で数ヶ月を過して来た。あれほどまでに愛しあった 夫婦である。しかもかくのごとき惨劇のショックは普通の ものに対しても容易なものではない。まして大川のごとき、 繊細なる神経の所有者である芸術家の場合に、このショッ クがほとんど致命的のものであることは誰しも疑うことは できまい。  あの惨劇以来、大川竜太郎氏は、|遺《のこ》された一人の娘を妻 の里にあずけ、家をたたんで、全然一人となって、この病 院に程近きアパートメントに入ったのであった。  さなきだに作品を産出できなかった天才大川は、|仇敵《かたき》米 倉三造の盛名日に日にあがるのを見つつ、こうやって惨劇 以来の半年を送って来たのであった。  この惨劇が大川竜太郎のこのたびの劇薬白殺事件に関係 なしと誰が云えよう。 室はおいおいと暗くなつてゆく。  さて話はふたたび黄昏の病室に戻るo   墓場のような静寂は突如大川によって、ふたたび破られ た。 「山本、山本……」 「何だ、大川、えp」救われたように山本が答えた。 「君一人か、この部屋は。」 「ああ、今云った通りだ、誰もいない。」 「山本、希は永い間僕の親友でもあり、また医者でもあっ てくれた。僕あ、深く感謝するよ。」 「   」 「それでね、僕は今、僕の医者としての希と、親友として の君にききたいことがあるんだが……君、はっきり云って くれるだろうね。」 「どういう意味だい、それは。」 「つまり僕は一生を賭けた問を君に二つ出したいんだ。そ の一つには医者としてはっきり答えて貰いたい。それから も一つのには親友としてはっきり答えて貰いたいんだ。」  「うん、できるだけそうするようにしよう。なんでも云っ て見給え。」  横たわれる大川の顔色には、犯し難き厳粛な色が現れて いた。佇める山本の額には汗が浮き出している。彼は大川 がどんな問を発するか、|片唾《かたず》をのんで待ち構えた。  「医者として答えてくれ給え。僕は助かりはしないだろう ね。とても。もう今にも死ぬかもしれないんじゃないか^'.」  「   」  「いや、僕の聞き方が悪かったかもしれない。医者なるが 故に、看はそれに答えられぬのかもしれない。それなら親 友として云ってくれないか。僕はとても助からないんだろ う?」 「ああ、決して安心してはいけない状態なんだ。いつ危険 が来るかもわからない場合なんだ。しかし、こんな状態で 回復した例はいくらでもある。だから絶望とは云えない。」 「ありがとう。けれど君は誤解している。僕は生きようと 望んではいないんだ。死ぬなんてことは案外楽なものだ ぞ。生きよう生きようと努力するからこそ、回復する場合 もあるだろう。しかし僕は生きようとは思っていない。だ から回復することはない。もう一度ききたい。もし僕が遺 言をするとすれば、今するのが適当だろうか。もっと延ば しておいていいだろうか。」 「そうだね、それは君の勝手だ。しかし、するなら今して も差支えないね。」山本は額の汗を|拭《ぬぐ》いながら答えた。 「ありがとう。丑の云うことは決定的だ、僕にははっきり 判る。僕は自殺を仕損じてから今まで、遺言を君にきかせ たいために、きいて貰いたいために生きていたのだ。そう して君一からききたいことがあるために生きていたんだ。」  「よし、聞こう。云い給え、しかし疲れないように話し給 え。看の生命は、それを云い終らぬうちになくなるかもし れない場合なのだ。」  大川が今度は黙った。  沈黙がしばらくつづく。部屋はもう闇になりかかってい るのに、山本は電気のスイッチをひねるのを忘れていた。 「君は、僕がなぜ自殺をしようと計ったか、そのほんとう のわけを知っているか。……僕はこの数ヶ月、毎晩死んだ 妻の亡霊に悩まされつづけていたんだ。」 「あんなに愛しあっていたんだからなあ……」 「いや、そういう意味ではない。殺された妻の死霊に|呪《のろ》わ れつづけたのだ。」 「どうして?」 「どうしてP では君もやはり、世間と同じことを信じて いるのか。山本。僕は何度妻を殺そうと思ったかしれない んだ。そうしてあの恐ろしい夜のあのできごとは、たとえ 僕が自分で手を下したのではないと云え、僕に十分の責任 があるんだ。山本、僕は強盗に妻を殺さしたのだよ。僕は 僕の妻が強盗に殺されるまで、黙って見ていたんだよ……」 「大川、俺には君の云うことが信じられない-:-」 「だろう。そうだろう。しかしほんとなんだ。僕はすべて に敗れたんだ。仕事の上でも、恋愛の上でも! 僕は君が 今なお独身でいることを祝福する。僕は結婚というものが あんな恐ろしいものとは、想像もしていなかった。僕と蓉 子とは結婚した。だから僕は敗れたんだ。もしあの時、米 倉と蓉子と結婚していてみろ。恐らくは僕が勝ったに違い ないんだ。  僕は初め勝ったと思った。少くも恋の上では! 勝って 蓉子を完全に得たと信じた。そう信じて半年程幸福に暮し た。しかしその幸福は六ヶ月程経った時、永久に失われて しまったのだ。僕は蓉子を完全に得ているかどうかという ことを疑いはじめた。そう思った時、すでに僕は幸福とい うものはなくなってしまったんだ。蓉子も初めは僕を愛し た。しかし、はたして蓉子は人間としての僕を愛していた のだろうか。  米倉の盛名が輝くにつれ、蓉子の瞳も輝きはじめた。僕 は妻を疑いはじめた。蓉子がいつまでも僕を愛しきって行 かれるかを。  結婚! 人は結婚を愛の墓場だとか恋の墳墓だとかい う。そう思っていられる人々は何と幸福だろう。結婚は平 和な墓場ではない。静かな休息所ではない。結婚は恐ろし き呪いだ。  これは僕の生れつきの生活から来ているのか、あるいは 僕が、米倉という恋の競争者をもっていて、それに一度打 勝って妻を得たという、そういう特殊な場合だったからか もしれない。が、いずれにせよ、僕は結婚したことによっ て、ますます心の不安を感じなければならなかったのだ。  結婚すれば蓉子を完全に得られる1彼女の身体もそう して心も、全部を! こう考えていた僕はなんという馬鹿 者だったろう。僕ははじめこそ、それを二つながら得たと 思った。しかし、結婚して自分の妻としての蓉子をはっき り眺めた時、僕はいかにして完全に永久に愛しあって行か れるかと思い始めたのだ。  僕は自分の手に入れた妻が、果して永く僕の手の中にい るかどうかを疑いはじめたのだ。  僕は多くの夫を知っている、彼等が幸福そうに妻となら んで歩いているのをしばしば見かける。僕は彼等のように |暢気《のんき》に生れて来なかったことを|憾《うら》みに思っている。彼等は 皆自分の妻を独占していることによって、その身体を独占 していることによって、慰められている。妻の気持には少 しも考慮を払うことなしに!  彼等の妻のある者は常に不平を抱いているだろう。ある 者は諦めているだろう。幾人がほんとうに夫を愛し切って いるだろう。僕の堤合にはそれは考えてもたまらないこと なのだ。僕は妻の身体を独占していると同時に、妻から愛 し切っていられなければ一日でも安心して生きてはいられ ないのだ。こういう僕にとって、結婚ということは何と呪 わしいことであったろう。  結婚の当初、蓉子は僕を尊敬しかつ愛したりそれはたし かだった。しかし愛に|眩《くら》まされた僕は芸術の精進を怠っ た。僕はそれは感じていた。けれど僕は白分の仕事の全部 を失っても蓉子に永久に愛され切っていたら、それでいい とすら考えた。  この考えこそ、いかなる意味からでも呪われてあれ1 僕の仕事が衰えると同時に蓉子の僕に対する信頼と愛とが 衰えはじめたのを僕ははっきりと感じはじめたのだ。蓉子 は、はたして僕を、人間としての僕を愛していたのだろう か,  その頃の僕の苦悩は二時間や三時聞でここで今しゃべり 切れるものではない。発表し得るものでもない。しかも僕 の生命は、今若の云ったように今にも終るかもしれないの だ。云いたいことをすっかり云い切らぬうちに死ぬかもし れない僕なのだ。だから僕はもはや長たらしい詠嘆をくり 返すことをやめよう。要するに僕はまず第一に蓉子の心が 僕から離れ行くのを感じ、しかもそれに対してどうするこ ともできない僕を見出したのだ……僕は蓉子の心を信じ切 れなくなったのだ。……」  大川はこういうと突然、起き上ろうとした。  石のようになって聞いていた山本は驚いてこれを制し た。 「大川、落ちついてくれ。俺ははっきりきいているんだか ら。」  こういいながら傍の水さしをとって大川の口のところに もって行った。大川は二口ほど水をうまそうに呑んでまた 訴りつづけた、 「蓉子が僕を愛し切っていない、ということが判ってか ら、僕はどんなに苦しんだろう。その上仕事はだんだんで きなくなって来る。ところで米倉はますます成功して行 く。蓉子はしばしば僕と結婚したことを後悔しはじめたよ うな様子さえ、見せはじめた。  ところが、山本、僕はこの上更にみじめな目にあわなけ ればならなかったのだ。僕が今まで云ったことはただ心の 問題ばかりだった。人によっては|呑気《のんき》にくらして行かれる ことだったのかもしれない。ところがどうだ、僕は結婚後 一年程たってから蓉子に不思議な挙動のあるのを見出した んだ。」 「何? なんだって?」 「妻としてあるまじき振舞だ。けしからん挙動だ。」 「と云うとP」 「君にはまだ判らないのか。妻としてあるべからざる振舞 だよ、……つまり、僕は蓉子を身体の方面でも完全に独占 してはいないということを見出したんだ。」 「   」 「君はまさかと思うだろう。驚いたろう。しかし事実なん だからね。蓉子はしばしば僕の留守に自分も出かけるよう になりはじめた。たとえば、看に身体を診てもらうという ようなことを云っては出かける。そうして君にあとできい てみると、またはその時君の家へ電話でもかけると、それ は嘘だったということがすぐわかったんだ。……蓉子の奴、 身体まであいつに任せたんだ。」 「あいつとは誰だ?」 「無論米倉三造さ。」 「奥さんがそんなことを云ったかいP」 「馬鹿ー・君は蓉子を知らないのか。あいつそんなことを 白状するやつか。あの女はね、通常以上の女だぜ。女房を ほめるわけじゃないが、あいつは人間より何より芸術を愛 する女なんだ、頭もいいし口もうまいんだ。|訊《ただ》したところ で白状なんかするやつじゃない。だから僕は一回だとてそ んなはずかしい質問をしたことはないよ。」 「それじゃ奥さんがけしからんことをしたかどうか第一疑 わしいじゃないか。」 「君は法律家のようなことを云う。それが怪しいと考え感 じたくらいたしかなことはないじゃないか。しかも相手は 米倉以外に誰が蓉子に愛される資格があるか。君、僕のい うことは無茶のようかもしれない。しかし、夫としての直 観を信じたまえ、そうして僕が芸術家としての直観を。直 観といっていけなければ本能を!」 「   」 「明かに云えば僕は妻の挙動が怪しいことを感じた。しば しばいいかげんなことを云って家をあけることを知った。 これで十分じゃないか。ある口実を構えて蓉子が出かけ る。調べてみると(卑劣なことだが僕は調ベたよ)まった く嘘だ。これだけの事実は、検事には不十分かもしれな い。しかしわれわれには妻の不貞を信ぜしめるに十分じゃ ないか。その上、平生の蓉子の口に現わせぬ態度等を考えれ ば文句はないんだ。しかも相手は蓉子が僕の前でさえとき どき賞讃する米倉以外の誰であり得るんだp」 「僕は夫になったこともなし、芸術家でもない故かもしれ ぬが君に急には賛成しにくいね。」 「けれど僕だとて、空想や邪推はかりしていたわけではな いんだ。ことに蓉子の身体に異状が来てからはかなり冷静 に考えたのだ。  君はおぼえているだろう。蓉子が妊娠したことを。君に 診断して貰いに来る前に、僕が君を訪ねたことを。あの 時、僕は君に、一体僕は子供を作り得るかどうかをきいた はずだ。かつてある種の病気を君に治療してもらった経験 から、君にはその判断がつくと思ったのだ。妻が妊娠した 時、それが果して自分の子かどうかを疑わねばならぬ夫ほ ど、不幸なものが世にあろうか。しかも僕はそれを疑った のだ。だから君にはっきり聞いたのだ。ところが書は、 『できぬことはないだろう。』  というような|生《なま》ぬるい返事をした。恥かしい白分の立場 をかくすためには、|強《し》いてそれ以上きくことができなかっ たのだ。しかし僕はあの時の君の返事を否定と解釈してい る。だから妊娠した時、僕の疑いはまったく確実だったも ののように思われたのだ。  ああ、しかし、さっきも君に言われた通り、証拠のない のをどうしよう。君の答えもあいまいなものなのだ。僕の 子かもしれないのだ。僕はこうやって妻が妊娠してから約 二年あまり苦悶に苦悶を重ねてきたのだ。  どうにかして証拠を捕えたい、こう念じたが、蓉子は完 全に自分の行為をかくしていた。僕は更に岩以外の医者に 白分の身体を診て貰おうかとも考えた。しかし一方から思 えば、久子が僕の子でないことが判ったからとてあとはど うなるんだ。蓉子を知っている僕は彼女が素直に自白する とは信じなかった。いやたとえ自白したところでどうする んだP  もし蓉子が米倉を愛していると自白したらどうなるの だ。久子が米倉の子だということが判ったからとて幸福に なるのか。法律はもちろんある結呆をつけてくれるだろう。 けれど、法律がどう解決をつけようがこの深刻な門題が少 しでもよくなるのか。山本。妻を奪われた夫は一体どうす ればいいんだ!」 「   」 「誰でも考えるだろうが一番はじめ僕の頭に浮んだことは 妻と男をいかなる手段ででもやっつけることだ,けれど僕 は米倉と自分とを比べてみた。もしなんらかの方法で米倉 をやっつけるとすれば、世間はどう思うだろう。何も知ら ぬ世㎜…は彼の盛名に対する僕の嫉妬だとしか考えぬであろ う。そう思われることは堪えられないのだ。それに、実に 矛屑した考えだが、直観は直観としても、僕はどうにでも して米倉が|姦夫《かハぷ》であるという碓信と証拠を得たい気がして いたのだ。僕は苦悶した。蓉子にも米倉にも何も云わず一 人で苦しんだんだ、結局救われる道は一つしかない、芸術 に粘進することだ。そうして米倉の盛名を一撃に蹴落して くれることだ。そうすれば米倉に対して立派に復讐もでき るし、蓉子もまたふたたび僕のものになるに違いない。  こう決心して僕は終Hベンをとった、しかしもう駄目 だ。僕はだめだ。何もできぬ、何も書けない。僕はふたた び絶望の淵に沈んだ、こうやってとうとう咋年の頁までき てしまったのだ。」 「そうか、そんな事情があったのか。僕は少しも知らなか った。」山本はこう云ったが、それはまるで作りつけの人形 が、機械で物を云っているような、きわめて|洞《うつ》ろな調子で あった。 「僕の家庭はほとんど家庭をなしていなかった。僕と妻と はおたがいに終日物を云わないでいる日の方が多くなって きた。もういてもたってもいられないという時になった。 蓉子もいよいよ僕を見捨てる決心をしたらしい。蓉子は夫 として、芸術家としての僕にとうとう愛想をつかしてしま ったのだ。  たしか昨年の九月の十日頃だったと思う、蓉子が不意に 僕と別々に生活してみようと云い出した。もう一度舞台に 立ちたい、というのが表面の口実なのだ。僕はおとなしく それをきいていた。そうして何も答えずにおいた。翌日に なると蓉子は、もうその閂題を出さなかった。だから表向 きはきわめて平和にその時は過ぎてしまった。が、僕の心 の中は嵐のようだった。  蓉子が同じ問題をふたたびまじめに提出したのは、咋年 の十月十九日、すなわちあの事件のちょうど前夜なんだ。 蓉子はその時、自分のことをはっきり僕に云った。僕は確 信を……」 「何? はっきり云った?」 「うん、十九日の夕食過ぎだ。蓉子がまた、改まって、僕 に別居問題をもち出したんだ。もう堪えられなかった。僕 はこうきいてやった。 『お前が俺と別れようというには、他に理由があるんだろ う。たいてい俺も察している。はっきり云ってくれない か。』  すると蓉子はこう云うのだ。 『あると云えばあることはあるんです。けれど、そんなこ とおききになったって仕方がありませんわ。』  僕はこれをきいてかっとなった。 『馬鹿! 俺を|盲目《めくら》だと思ってやがる。一体久子は誰の子 だ!』 『何を云ってらっしゃるんです。』  蓉子はこういうと黙ってしまった。山本。これがほんと に僕の子ならすぐ答えるはずじゃないか。蓉子が何も云わ ないのは、いや、云えないのは、久子が僕の子でないとい う証拠じゃないか。」 「それからどうなったね。」 「僕はあまり不愉快だったから、黙って自分の部屋に戻っ たんだ。そうして割れるように痛む頭を押えて、机に向っ て、どうかして心を落つけようと努力したU  そのうち蓉子も黙って床を敷いていた、僕は夜、|側《モぱ》に人 がいては仕事ができないので、妻子の隣室でねることにし てある。それで自分も蓉子に床をとらせて黙ったまま床に 入ったのだ。それがちょうど十九日の十時頃だったろう。  さすがに蓉子もすぐはねつけなかったらしい。僕はしば らく床にはいっていたが、とうていそのまま眠れぬので、 また机に向っていろいろ考えにふけったが、結局、蓉子を 殺そう、という決心しかもち得なかった。  そうだ、この苦悶から逃れる方法は、ただ蓉子を殺すよ り他にはない。そうして自分も死ぬことだ、とこう思って 僕は、ただそればかりを考えて、押入れからかつて僕が外 国にいた友から贈られたビストルを取り出して、|弾丸《たま》を調 べはじめたのだ。  山本、君は人を殺すということがいかに難しいことか、 少しでも考えてみたことがあるか。あらかじめ計って人殺 しをするということは悪魔でない限りできるものではな い、僕はあの夜あれだけの決心を堅めーおまけにその決 心までくるのに二年余もかかったんだが、その深みある決 心にもかかわらず、僕がピストルを手にとった時、すでに その決心がにぶりはじめたのだ。  今でなくてもいい。あしただっていい。こう考えて僕は ピストルをおいた。そうしてしばらく|悶《もだ》えたが、やはりピ ストルを手にとることができず、それを枕元においたまま 床に入ってしまったんだ。  非常に冗奮した後には非常な疲労がくる。夜半の一時頃 に僕はすっかり疲れ切って|眠入《ねい》ってしまった。どのくらい 眠入ったかおぼえはないが、不意にささやきのような声が きこえる。なかば起き上った時、隣室から明かに男の声が きこえた。  僕は全身の血が一時に燃え上るように感じて、いきなり 枕元のピストルをとるζできるだけひそかに|襖《ふすま》の端をあ けてみた。  いくらあわてていたとは云え、蓉子がどんな女であろう と、夫のねている隣室に男を入れるはずのあるものでない くらいのことは、すぐに考え浮ぶべきなのだが、実際その 時の僕は怒りに燃えていたのだった。  しかし、さすがに、襖を開けて隣室をのぞいたとたん、 僕はあっと危く叫ぶところであった。  蓉子の枕元にはスタンドがおいてあって彼女がねつく時 一燭光にしておく習慣だったので、その光でおぼろに不思 議な光景が口に入ったのだ。なかばねぼけたような蓉子 が、半身を床の上に出そうとしている。その夜具の上に半 分覆面した大男が出刃庖丁をつき出しながら、小さい声で 何か云っているのだ。  僕はすぐ強盗だなと感じた。いくら僕でも毎日の新聞で 近頃の物騒さはよく知っている。すぐに飛び込んでやろう と身構えした時、男が不意に右手の出刃庖丁をつき出すと 同時に『静かにしろ。早く金を出せ。」  というのが聞えた。それに対する蓉子の態度を、僕は実 に不思議なように感じたのだ。あんなに平生しっかりして いて、どんなことをも恐れない蓉子が、まるで気を失った ように恐怖の色を現わしているのだ。僕がどんなことをし たって、たとえ彼女を殺しにかかったところで彼女は敢然 と首を伸したであろう。それがどうだ、その男に金を出せと いわれると魂がぬけた人のように真青になってぶるぶる慄 えはじめたんだ。  スタンドの電気が、僕のいる方にきていないのを幸、僕 は黙ってこの不思議な有様をながめていた。すると賊はま たまた押えるような声だ。 『早くしろ! しないとこうだぞ!」といってやにわに右 手の出刃をひらめかした。  僕が思わずあっと叫ぼうとする前に、早くも蓉子は絹を さくような悲鳴をあげた。すると賊は非常に狼狽したさま を現わしたが、いきなり蓉子にとびかかって首をしめつけ たんだ!」  不意に山本が訊ねた。 「出刃庖丁はP 出刃庖丁を使わなかったのか。」 「出刃か? うん、それを投げ出していきなりとびかかっ たんだ。ところがそれを見た僕は驚くべき程落つきはじめ たんだ。その時僕の頭に、突然、恐ろしい考えが浮んだん だ。蓉子は今殺されかかっている。その蓉子を、数時間前 にはこの俺が殺そうとしたのじゃないか。よし。僕が手を 下す必要はない。時は今だ。賊をして決行せしめよ1 責 任は賊に行く。よし、自分の空想した殺人行為が、今眼前 で遂行さるるのを見よ!  僕は鐘のように打つ心臓の鼓動をおさえつけながら、ピ ストルを握りつめてその有様を見つづけたのだ。  蓉子は何か叫ぼうとした。そうして顔をあげた。僕はそ の時の蓉子の顔を決して忘れない。充血した顔の色、無理 に開いた眼、ひっつれた唇、そうして|痙璽《げいれん》してふるえなが らも、猛獣のような男の両腕にからみついたその二つの 手!  この抵抗にあった賊は野獣のようになって両腕にいっそ う力を入れるかと思うと蓉子はいきなり後に|仆《たお》れつづいて 折重なって賊もその上に乗りかかった。彼は素早く顔から 布をとってもう息が止っているらしい蓉子の口におしこも うとしている。  恐ろしい地獄のような数秒間だった。しかし同時に何と いうすばらしい数秒間だったろう。僕は心に願ったことが 今立派に行われたのを見たのだ! 『今だ、今こそ逃してはいけない。』  僕はそう思って襖をあけるや否や、脱兎のごとく賊の傍 に行った。彼がまだすっかり起き上れないうちにいきなり 第一発をその右胸に撃ち込んだ。ひるむところをその右額 めがけて第二発を発射したのだ。むろんやり|損《そこな》うはずはな い。賊は立ちどころに即死してしまった。泣き叫ぶ久子、 この呪うべき久子をそこに転がしたまま僕は表に飛び出 した。そうして泥棒泥棒と叫んだわけなのだ。  僕の望みは美事に遂げられた。そこにはただ百分の一秒 ぐらいの時の差があるばかりではないか。賊が蓉子を殺し た後僕が賊を殺したかその最中に殺したか、誰が知ろう。 ……見給え世人はまったく僕が力およばずして妻を死なし たと思っている、……|嗤《わら》うべきではないか。僕は力およば ずどころではない。故意に妻を死なせたんだ。  山本、これがあの夜の恐ろしいできごとだったのだ。」  大川は一気にこう云ってしまうと探るような眼付で山本 をながめた、  夕闇はきた。部屋はまったくくらくなった。闇の中に二 人は相対している。  聞き終った山本が突然、病人の傍においてある水をぐっ と呑んだ。そうして云った。 「恐ろしい話だ。恐ろしい事実だ。……しかし君が死ぬ気 になったのはどうしたのだ。」  「さ、そこなんだ。僕が君に云おうとしているのは。いい か? 僕のいうことは矛盾だらけかもしれない。しかしそ の矛盾だらけなのが人間の心なんだから了解してくれ。  僕はああやって妻の殺されるのを見ていた。否、妻を殺 さした。これが法律上どういうことになるかは知らない。 しかし道徳上では十分責任を負うべきこと疑いない。  ところで僕は、妻の死ぬのを見てからしばらくは自分の やったことに少しも悔を感じなかった。けれどもあれから 十日程たつと、またまた深い苦しみに襲われはじめたの だ。  僕はさきにも云った通り、芸術家の直観を信じた。夫と しての直観を信じた。証拠をあざわらった。けれど、妻の 死後-:..ことにあの断末魔の妻の顔を見てから、自分の疑 いがまったくの邪推ではなかったかと思い始めたのだ。  もし蓉子がほんとに僕を愛していたなら、もし久子がま ったく僕の子だったならP 僕はどうすればよいのだP 僕はとんでもないことをしたのだ。罪なき妻を疑っていた のだ。あの|愛《いと》しい蓉子を疑っていたのだ。しかも僕はー おお僕こそ呪われてあれ! あの野獣のような兇賊に妻を 惨殺さしたのだ、僕のこの両眼の前で! しかも救うこと ができたのに川  蓉子が僕と別居しようと思っていたことは明かだった。 しかしそれが不貞ということになるだろうか。僕は取り返 しのつかぬことをしてしまったのだ。  こう思ってから僕は久子と暮すのが堪えられなくなっ た。まず久子を妻の親にあずけて一人でくらすことにし た。ところが毎夜のように断末魔の妻の顔が見えるのだ。 僕がまちがっていたか? こう悩みつづけて半年は生きて きたのだ。けれども僕にはもう生は堪えられなくなったの だ。妻は地獄にいる。僕に|陥《おと》されたんだ。恨め! 恨め! 僕も地獄に行く! こういう決意をしてから僕はたびたび 死ぬ時を|狙《ねら》った。そうしてついに決行したのだ。……蓉子 が不貞であったろうとそうでなかったろうと僕には生きて は行かれないのだ。……僕はもう死ぬ、しかし最後に君に はっきりききたい! 君の奉ずる聖なる科学の名において はっきりきく、僕には子を作る能力があるのか。久子はた しかに僕の子だろうかpL  そこには不気味な沈黙がまた襲いきたった。闇の中でも 大川の苦しげな呼吸ははっきりときかれ得る。しかるに、 大川よりいっそう亢奮したらしいのは山本であった。彼は 医師としての己れを忘れたように見えた。彼は自分が病人 の前に立っていることすら忘れたかのように見えた。  突然山本はベッドの側に近づいて、大川の右手をつかん だ。山本の手はなぜかふるえている。絞るように山本が云 った。 「大川、よくきいてくれ。君の生命はもう危いんだぞ。死 ぬまぎわになってそれだけの重大なことをきくのに、君は なぜほんとうのことを云わないんだP 君は妻の殺される のを見ていたと云った。看は妻を賊に殺させたと云った。 しかし君は自分が妻を殺したとは云わない。なぜはっきり 云わないのだP 大川1 君は賊を第一に殺して、それか ら妻を殺したんだろう"L  云う方もきく方も必死だった。つかまれた大川の手もつ かんでいる山本の手も、ぶるぶると音をたてるまでにふる えた。 「大川、僕は看になんでもいう、だから君も最後にほんと うのことを云って死んでくれ!」  氷のような静寂を破って、大川のふるえをおびた、わり に落ちついた声がひびいた。 「そうか、君は知っていたのか。僕がわるかった。僕がわ るかった。死ぬ前なのに僕はなんということだ。僕が殺し たのだ。僕が蓉子を殺したのだ。間違いはないほんとうの ことをいうから聞いてくれ。  あの夜、僕は一時頃に床に入った。しかしどうして眠れ よう。ピストルを出して妻を殺そうかどうしようかと迷っ ていた僕だ。僕はね返りばかりしながら床中で悶々として いた。ところが三時頃だったろう。台所の方で妙な音がす るのだ。しかし頭の中に悩みを持っていた僕は音のするの をきいてはいながらも少しも怪しいとは思わなかった。そ うしてどうして蓉子に復讐してやろうか、どうして彼女を 一人で永久にもちつづけられるか、を考えていたのだ。  僕か物音をほんとに聞き始めたのは、蓉子のねている室 の次の聞でみしみしいう音をきいた時だ。強盗だな! と 近頃の強盗騒ぎにおびやかされている僕は、すぐに感じ た。いきなりピストルを手にとって、僕はそーッと襖に忍 びよったのだ。  ちょっとばかり襖をあけたとたん、蓉子のねている裾の 方の襖がするすると開いて、覆面をした男がぬっと首をつ き出した。次の瞬間には出刃庖丁らしいものをもった大の 男が、ねている蓉子の裾のところに突っ立っていた。  法律がどんなことを云おうとも、深夜、人の家に刃物を もってはいってくる奴を殺すことは、正しいことだと僕は 思っていた。否今でもそれは信じている。パッと襖を開く や否や、僕は賊の右側からいきなり一発を発射した。あッ と云って賊がよろよろとするところを、僕は飛鳥のように とび出して|狙《ねらい》をつけながら、ピストルを賊の顔につきつけ て弟二発をその|額《ひたい》に撃ち込んだ。美事に命中すると同時 に、賊は何の抵抗もなし得ずに|仆《たお》れたのだ。戦いは実に簡 単だった。  この物音に蓉子も久子も目をさました。もしこの時、蓉 子が、僕の奮闘を感謝してくれたなら、あんなことになら ずにすんだろう。日をさました蓉子は驚いて、 『あなた、どうしたのです。』ときく。僕は仆れた賊をさ しながら、 『泥棒がはいったんだ。やっつけたよ。』と答えた。する と蓉子は床の中からはい出して、賊の傍にするすると寄っ てその血の出ている有様をながめたり、額に手をあてたり していたが突然、 『あなた、殺しちゃったのね。……泥棒を。』 『そうさ、かまわないさ。』 『たいへんよ、いくら泥棒だって殺しちゃわるいわ。』  この答えは、否非難は、なんという不愉快なものだった ろう! もし僕が殺さなければ、そういう貴様が今ごろ何 されているか判らないじゃないか! 僕はかっとなった。 蓉子の顔をにらみつけた。この瞬間、賊の死体と蓉子の顔 を見くらべているうちに、僕はたちまち非常に有効に利用 さるべき機会がきていることに気がついた。  よし! 今だ!  いきなり僕は蓉子にとびかかった。そうして驚いて何も する|術《すぺ》さえないうち、両腕に全身の力をこめて蓉子の首を しめつけた。  蓉子は叫ぼうとした。しかし声がつまっていた。けれど 蓉子は自分がどうされようとしているかをはっきり知った らしい。おお、あの時の断末魔の顔! 僕をにらんだあの 眼! 呪いをあびせようとしたあの唇" 僕の頭から消え 去らぬのはそれなのだ。  蓉子はたちまち息絶えた。僕はすばやくたんすの引出し をあけたり、そこらのものをちらかしたりした。賊の手か ら出刃をとって|側《そぱ》に投げすて、その死体を蓉子の死体の上 にのせ、覆面をとって蓉子のくいしばった歯をおしあけて そこへつめこんだ。これらのことは電光のごとく行われ た。なぜならば、ピストルの音をきいて、誰かきはしない かという考えがあったから。  こうやって万事にぬかりはないと信じてから、泥棒と叫 んで表にとび出したのだが、意外にも早く、夜警の男に|出 会《でくわ》してしまったのだ。僕はすぐに筋道のたった話をしなけ ればならない。十分に考え切ってなかった僕はやむを得ず わざとそこへひっくり返ったのだ。こうやっている間に頭 を冷静にして、警官に対する申立てを考えはじめたのだっ た。  僕が申立てようとすることに、不自然なところは少しも ないはずだ。立派に泥棒が押し入っている。しかも出刃庖 丁をもっている。それを僕が殺すことは不思議はない。な ぜならば妻が殺されているからだ。  僕はすっかり安心した。そうしてはっきりとすじ道をた てて申立てたのだった。ただたった一箇所、犯罪事件に関 してはまったくの素人の僕が心配した点がある。それは賊 が出刃で、妻をおどかしている最中、妻が悲鳴をあげたと すると、賊が持っている出刃を使用する方が自然じゃない か、と思われたのだ。しめ殺すとすれば出刃庖丁をほうり 出さねばならないわけなのだ。そういう場合、強盗は実際 どうするか。出刃を投げ出してしめにかかるものだろうか どうか、という点だった。  ところが係官は美事に僕のいうことに乗せられてしまっ た。恐らく判事も検事もその道にかけて玄人だから、かえ って欺されたのではないかと考える。実際そういう場合が あるのだろう。彼等の経験から推して、僕のいうところに 不自然さがなかったためだろう。美事に通ったのだ。  ところが君には僕の嘘が判ったね、君にさっき出刃のこ とを聞かれた時はいやな気持だったんだ。恐らく君はあの 点から疑ったのだろうが、それはやはり君が僕同様に素人 だからだよ。  これで僕のいうことは終った。さあきかしてくれ、さっ き僕のきいたことだ。僕は妻を殺した。しかし妻は不貞で はなかったのだろうか。」  もし部屋が明るかったら、山本の顔色は|瀕死《ひんし》の大川にも まして、死人の色を呈していることが認められたろう。ご くりと|唾《つば》をのんで山本が云った。 「君はどっちの答えをのぞんでいるのだ。君の妻が貞淑だ ったと答えたら、君は安心するのか。」 「|噫《ああ》、たまらない。貞淑な妻を疑って惨殺したとは1L 「では不貞だったと答えれば、君は満足できるのかP久 子が君の子でないと判ればー」 「噫、不貞だったとしたら! それもたまらないんだ。あ あどうしたらいいのだろう僕は! しかししかしやはりき きたい! きいてから死ぬ! 僕は子を作れるのだろう か。久子は僕のほんとの子だろうかP それに君は蓉子に よく会ってあの女の気持をよく知っているはずだ。医者と して、親友として答えてくれ! 答えてくれ。……僕は君 の頭を信ずる! 君の云うことを信じる。君は何もかも知 っているはずだ。僕の言葉の僅かの不自然さから、僕の嘘 をあてた君だ……しかし、それにしても僕の殺人の動機ま では知らぬはずの君が…-う」  突然烈しい|咳《せき》が大川を襲った。|啖《たん》がのどで鳴った。明か に大川は断末魔に迫っている。  死人のような山本はしかしおっかぶせるように大川の手 をとって耳に口をよせながら叫んだ。 「今こそほんとうを云おうー・大川! 君には子はできな いわけなのだ。だから久子は君の子であるわけはない。君 の感じは正しかったんだ。君の直観は正しかったんだよ! 大川、もう一つ云う、云わなければならない。君の夫とし ての直観は正しかったのだ。しかし全部が正しくはなかっ たのだよ。……僕は君が蓉子を殺したことを知ったのでは ない。また推察したのでもない。君は夫として芸術家とし ての直観と云ったね。しかし僕のは……僕のは、恋人とし て、愛人としての……」  ここまで夢中になって語ってきた山本はこの時はじめて 大川の異状に気がついた。医師としての観念が彼を支配し た。彼はいきなり電気のスイッチをひねった。照らし出さ れたベッドの上に、彼はもはや永久の眠りに入っている大 川竜太郎を見出したのであった。  山本ははじめて友人の死体と対話していたことに気がつ いた。山本の最後に云った言葉がどこまで大川に聞えたか 疑問である。しかし大川が聞かずに死んだとすれば、二人 にとって幸福であったろう。なぜならば、山本正雄の語っ た言葉、そして更に語ろうとした言葉は地獄からでなけれ ば聞き得ず、また地獄に|陥《お》ちなければ語り得なかった事実 であったであろうから。  黄昏の告白はここで終る。  しかし次のことを一つつけ加えておかないのは事実に対 して忠実ではなかろう。  大川竜太郎の死後、彼の一代の傑作は新しき表装のもと にふたたび出版され、親友たる山本正雄はその出版に全力 をそそいだ。  大川の遺児久子は大川の親友山本正雄によって育てられ ることになったが、大川の作の出版その他が完全にすんだ 時、山本正雄は或る日その家で久子の過失から突然変死し たことが発見された。  大川の遺品のピストルが山本によって愛蔵されていたの を、幼い久子がいつのまにかもて遊んでいるうち、過って 引金に手がふれて発射し、一発のもとに預を撃たれて即死 したものである。  しかしこのことを信じない人もかなりある。四歳の女児 によってピストルがたやすく発射されないということを知 っている人達は、少しもこの話を信じてはいないだろう。  が、なぜに山本が自殺したか。これを知るものは恐らく は一人もあるまい。