考古学入門(博物館) 浜田青陵 目次 はしがき 博物館の種類と役割   博物館の種類   博物館の施設 世界各国の博物館   イギリスの博物館   アメリカの博物館 考古学といヶ学問   人類のはじめ   文化の三時代 フランスとドイツの博物館 世界のめずらしい博物館 考古学と考吉博物館 旧石器時代室  旧石器の種類  旧石器時代の絵画 新石器時代室   巨石記念物   貝塚と湖上住居   磨製石器と土器   金属の発見と使用 日本の先史時代室   日本の石器時代   石器と骨角器   土器と土偶   朝鮮と中国の石器   青銅器と銅鐸 貝塚や墓地などの遺跡 日本の原史時代室   日夲の古墳   埴輪と石入   石棺と石室   苦の皇陵責   勾玉などの玉饗    占い鏡    刀剣と甲駑    翼薦その也       ラ沁・絵啣など    建築、璃事  気羔嚢 朝雙薦の亀室   南朝鮮の亀 ア ル北仁 ス朝責 版鮮{ ーと一 は満 し州 がの  古 き墳 博物館の種類と役割 博物館の種類 11  みなさんは、博物館というところを見たことがありますか。博物館には、いろいろの美し いものやめずらしい品物がならべてあります。みなさんのなかには、博物館にならべてある ものは金銭で買うことができないということが、ただ三越や大丸などのデパートとちがって いるところだと思う人があるかも知れません。また、それらの店よりも、おもしろいものや きれいなものがすくないところだという人があるかも知れません。しかし、博物館とデパー トとのちがいは、けっしてそのような点ばかりではないのです。  デパートではお客の眼をひくように、美しいものやめずらしいものを、たいていなんの秩 序もなくならべ立ててありますが、博物館の陳列品は、みんな種類をわけ、順序をつけ、そ の品物にはいちいちわかるように説明をつけて、それを見てまわるうちに、自然に学問がで きるようにしてあるのです。  それで、博物館は品物を買いにゆくところで もなく、また、遊びにゆくところでもありませ ん。どこにもある学校とおなじように、勉強を したり、学問をする場所なのです。もっとも、 学校とちがうところは、博物館には、先生がい ません。また、時間も一時間ずつきまって勉強 するようにはできておりませんから、だれでも 博物館にいった人は自由に勉強ができ、時間に しばられるという窮属な思いはありません。け れども、先生のように親切に教えてくださる人 はなく、休みの時間にお友達とおもしろく遊ぶ ことができないから、ときには退属することも ありましょう。  博物館には、みなさんも知っているようにいろいろの品物がならべてありますが、たいて いはある種類のものばかりを選んで、陳列してあるのです。たとえば、東京の上野公園や京 都の東山区、奈良市登大路にある国立博物館、大阪天王寺公園の美術館などには、古い絵画 や彫刻や陶器などのような美術品ばかりが陳列してあります。  このように、美術品ばかりを陳列する博物館を美術博物館、あるいはこれを略して美術館 とも呼びます。それから、歴史に関係ある品物ばかりを陳列した博物館は、歴史博物館とい います。また、鉱物や動植物のような博物学に関する標本類を陳列してあるところは、博物 学博物館ということができます。そのほかに、貝殻ばかりをならべた貝類博物館、電気に関 するものをならべた電気博物館というように、陳列品の種類は、 大わけにも小わけにも、思うように区別することができます。  私たちの知識を広め、学問のためになる品物は干差万別で、 その種類はじつに無限に多いのでありますから、それらをひと つの場所に集めて陳列することは容易でありませんし、またそ うした博物館をこしらえるには、非常に大きな建物がいるし、 それを見てまわるだけでも二日も三日もかかり、かえって不便 になります。ですから、世界のどの国でも、陳列物の種類によ って、博物館をわけております。  博物館を大きくわける場合は、たいてい前に申しました美術 や歴史に関するものをひとまとめにしたものと、博物学に関す るものをひとまとめにしたものとの二種類に区別するのであり まして、この二つの博物館は、たいていちがった場所につくら れております。そのほか、陳列品を小さく区別した特別 の博物館がたくさんあることは、申すまでもありません。  もちろん、大きな博物館の建築物はりっぱであって、 その国や町の飾り物としてはけっこうでありますが、あ まり大きいと見物する人や勉強する人たちには不便です から、それよりも小じんまりとした博物館で、内容がと とのったもののほうがよいということになるのでありま す。ちょうどみなさんの学校でも、あまり大きい学校は、 かえって勉強するのに不便なことがあるのとおなじです。 博物館の施設  博物館は、最初にも申しました通り、ただめずらしいものや美しいものをたくさんならべ てあるというところではなく、それらが、あるいは年代の順に、あるいは地方の別にという ふうに、品物を順序よく系統だててならべ、これを見る人が知識を広め、学問をするために つくられたものでありますから、博物館の良い悪いということは、そのどころにならべてあ るものが多いとかすくないとかということよりも、まためずらしいものがあるとかないとか いうことよりも、そのならべかたがよくできているかいないかということできまるのであり ます。  だから、いくらめずらしい品物が多く、またよいものがたくさん陳列してあっても、その ならべかたに秩序がなく、めちゃめちゃであったりしては、学問する者にはいっこう役に立 たないのであります。ほんとうによい博物館は、いまいった通り、品物のならべかたが系統 的にできている上に、ならべてある品物の目録が完全につくられ ていなければなりません。そうでないと、われわれは博物館で知 識を広め、勉強することが、くあいよくまいりません。 博物館の種類と役割  それで、博物館には、どうしてもひとつひとつの品物の名前、 そのほか必要なことがらを書き記した目録が出版せられなくては ならないのであって、その目録のなかには、かんたんな品物の説 明と、必要に応じて図画のようなものもつけなければならないの であります。世界の各国にある大博物館では、みなそうしたりっ ぱな目録が出版されておりますから、博物館にいく人はそれらの 目録を安く買うことができ、その目録とならべてある品物とを照 し合わせて、たやすく研究することができるのであります。  博物館では、また目録書のほかに、陳列品についててがるに知 ることができるようにいろいろの書物が出版されてあったり、絵葉書 などもつくられてあって、見物人がたやすくこれを買って記念にもし、 また後日の思い出のいとぐちにもなるようになっています。絵葉書よ り大きな写真が必要な人には、その希望にまかせて、それぞれの写真 を売るようにもなっているのです。さらに博物館では、外から来た見 物人や学者たちに研究させるばかりでなく、博物館にいる人自身がそ の陳列品を利用して研究をおこない、それに関するりつまな書物をど であります間い博物館をつくるには金さえあればかんたんにつく〆 れますが、よい博物館をつくるには、金以外にさらに知識が必要であ りますから、よほど困難なことになります。  博物館が学問をするのにいくらつごうよくできていても、館内の設備がよくととのってい なければだめです。冬の寒い日に暖房がなかったりしたら、寒気のためにおちついて勉強す ることができないのです。外国の大きな博物館では、よい目録やよい研究書が出版されてい るばかりでなく、館内の設備も完全にできていて、愉快に見物できるようになっています。  たいていの部屋には気持のよい長イスがおいてあって、見物人はゆっくりと腰をおろして、 美しい絵を見たり、彫刻をたのしんで眺めたりすることができ、また、暖房があるために、 冬の寒い日でも、館内では春の日のように暖く過ごすことができます。そして、たいていの 博物館の地下室には、便利な食堂、喫茶室などが設けられ、食事もできるしお茶も飲めると いうようになっていますから、戸外運動をしない人たちは、日曜日には教会から博物館へき て、一日を愉快に暮らすのであります。  日本では、東京上野の国立博物館をはじめとして、各博物館の建物にはこういう設備があ りますが、なおじゅうぶんとはいえません。これからつくられる博物館には、いっそうこう した設備をととのえる必要があると思います。そうでないと、たのしんで博物館にいく人も なく、博物館は学校の教室よりも、いっそう無趣味のところになってしまいましょう。 世界各国の博物館 イギリスの博物館  日本では、学校は大都会はもとより、いなかの町や村にもりっぱなものがたくさんあって、 日夲ほど学校がよくととのっている国は世界中にもずくないといわれておりますが、これに 反して、学校の名はなくても、学校とおなじ役目をする博物館は貧弱であって、科学博物館 は五十二館、美術博物館は一〇一館、歴史博物館は一一三館しかなく、このほか総合博物館、 野外博物館、植物園、動物園、水族館などを合わせても、文部省で指定した博物館に相当す る施設を持っているものは、全国で国立、公立、私立を合わせて四〇九館しかないのは残念 です。(注、数字は一九七五年五月現在、文化庁記念物課資料提供)  これは、日本人が、学問をするには学校だけでじゅうぶんであるというような、まちがっ た考えを持っていることからきたものでありましょうが、今後は学校以外に、図書館や博物 館が学校とおなじように日本国中いたるところにできて、学校で先生から学間を教わりなが ら、また学校をでてから、みなさんが自分で図書館や博物館へいって、学問をするようにし なければいけないと思います。  現在、日本にある博物館はその数がすくないばかりでなく、残念ながら世界に押し出しで 優れた博物館ということができません。そこで、世界で指折りの博物館といえば、どうして も外国にあるものをあげなければならないのです。しかし、ど の国の博物館がもっともよいかというようなことは、たやすく 断言するわけにはまいりません。それぞれの博物館にはそれぞ れの特色があり、建築物がわりあいに粗末でも陳列品に優れた ものが多いとか、陳列の方法がいいとかいろいろな事情があっ て、博物館の優劣をきめることはたいへん困難ですが、なんと いっても、ヨーロッパにおいて有名な博物館というと、まず第 一に、イギリスのロンドンにある大英博物館をあげなければな りません。  ここは、美術と歴史の方面に関する品物だけを集めた博物館 でありまして、いまから四千年も五千年も前に開けたエジプト やアッシリア、それからややくだったギリシア、ローマ時代の 文化を語る古美術品はもとより、インド、中国、日本のような 東洋の国々のものをも、多数にしかも優れたものを集めてあります。  この博物館でいちばんめずらしいものはなにかとたずねられると、ちょつとお答えにこま りますが、エジプト、ギリシア、アッシリアなどの古美術品は、世界中どこの博物館にも、 これに優るものはすくないといわれております。あのエジプトの絵文字を読みはじめる手が かりになった「ロゼッタ・ストーン」という石、有名なギリシアの「パルテノン」という御 堂にあったりっぱな彫刻もここにあります それだけでも、いかにめずらしいものがあるか ということは、知ることができるでしょう。  そして、この博物館には、またりっばな図書館が設けてありまして、勉強するのにまこと につごうよくできています。ここを一通り見物するだけでも一日かかりますが、入場は無料 であり、傘や杖をあずけても、料金をとられません。毎日、見物や勉強のために入場する人 は非常にたくさんあって、ちょうど博覧会へいったほどのにぎわいです。この大英博物館が もっぱら古代のものを集めているのに対して、もうすこし新しい時代の美術品や歴史に関す るものを陳列したものに、ビクトリア・アルバート博物館というのがロンドンにあります。 その大きさも大英博物館に肩をならべるくらいあって、りっぱな博物館です。  前の二つの博物館は、美術と歴史の方面に関したものでありますが、ロンドンには博物学 の方面の大きな博物館もあります。それは、サウス・ケンシントン博物館です。  ここには動植鉱物をはじめ、理科に関する標本が完備しています。そして、子供や一般の 人のために、いろいろ興味をひくようにならべてありますので、学校の牛徒さんなどもおお ぜい兇物にでかけます。  たとえば、昆虫の標夲室にはいってみますと、めずらしいチョウチョウやカブトムシなど のかわった種類のものが、おどろくほどたくさんに集められてあります。また、その室の両 側の壁近くには幾百という多くの引き出しがあって、種 類別に軟吼理した昆虫標本でいっぱいになっており だれ でも勝手にだして見ることができるので、自由に勉強が できる設備になっております。  そのほか、大きな動物の標夲には象や鯨もあり、鉱物 や杣物の標本もすっかりそろっていることは申すまでも ありません。ロンドンにはそのほか、占代の絵画ばかり を集めた博物館だとか、肖像画を導門にならべた博物館 だとか、ロ、ノドン市に関する歴史の材料を集めた博物館 だとか、インドに関する資料ばかりを集めた博物館だと か、むかしから今日まで戦争に使った武器ばかりを陳列 した嫩蝪館だとか、汽卓、汽船、奄卓、飛行機のような 交通に関する機械類を集めた博物館だとかがここかしこ にたくさんありますから、これらを一通り見物して歩くだけでも、ロンドンで一週間くらい はかかるでしょう。  ロンドン以外では、スコットランドのエジンバラをはじめイギリスの大都市、地方の町や 村にある博物館をひとつひとつ数えあげるならば、数百にも達するくらいあります。しかも、 ロンドン以外の町にも、日本のおもな博物館くらいのものが多数にあるのは、なんとうらや ましいことではありませんか。 フランスとドイツの博物館  フランスの都パリにも、またロンドンにおとらないほどの大きな博物館があります。それ はルーブル博物館です。ここには古代の美術や歴史に関するものが陳列されてありますが、 なかでもギリシアの彫刻だとかアッシリアやエジプトなどの古い品物では、世界にくらべる もののないほどのりっぱなものが集められ、陳列品の価値ある点から見ても、大英博物館に けっして負けないのであります。  ルーブル博物館には、図書館が付設されていないかわりに、古い絵の博物館がふくまれて おります。ことにこの古い絵の方では、ほかにこれと肩をならべるほどのものはないといわ れております。ただこの博物館は、むかしの建築物をそのまま使っているので、光線のぐあ いがすこし悪いのが欠点ともいえるでしょう。  ルーブルのほかに、パリで有名なのは、歴史に関するものをならべたクルニー博物館、郊 外にでますと、サン・ジェルマンの博物館という考古学の博物館があって、これはその種類 の博物館では世界一といわれています。  つぎにドイツヘいきますと、ベルリンにはいうまでもなく多 くの博物館があります。フリィドリツヒ帝博物館、新古両博物 館などには古い美術品ばかりが集められてあり、ペルガモンと いうところから持ってきたギリシアの大きい建物の彫刻をいれ るため、すばらしい設備がしてあります。また、日夲、中国、 そのほか東洋の美術品を集めた博物館だとか、世界各国人種の 土俗品を網羅した博物館だとかがこの大都会を飾っております が、ロンドンやパリの大博物館にくらべると、新しくできただ けにすこし見劣りするようでありますが、設備はなかなかとと のっています。  ドイツでは、またベルリン以外の都会に、かえってベルリン よりも大きくて、しかもりっぱな博物館がすくなからずありま す。そのなかでも名高いものには、ドレスデンの絵画博物館、 ミュンヘンの絵画館、それに彫刻館などをあげなくてはなり ません。  ミュンヘンには、自然科学(理科)に関する方面の博物館 で、世界中でいちばんよくととのったものがあります。ドイ ツ博物館というのがそれです。この博物館には、電車のこと でも汽車のことでも、飛行機のことでも潜水艦のことでも、 ラジオのことでもまた鉱山のこと、印刷のこと、そのほかな 塒んで蓮科の学問を応用したものに関する品物を、それぞれ …その発達の順序に応じてならべてあります。 べ 見物人が自分で随意にボタンを押すと、電気仕掛けによっ て機械が動きだし、見物人自身で実験が自由にできるように なっております。ですから、もし博物館にならべてある品物をくわしく見ていったらば、 高校や大学などに入学しなくても、ひとりで学問ができるであろうと思われるぐらいに、 すべてに完備しているのにはまったくおどろかされます。  オーストリヤのウインの町にも、ベルリンよりもさらにいっそうりっぱな博物館が二つあ って、絵画などの美術品や、歴史上のいろいろな品物をならべてあります。イタリアにいき ますと、ローマにはバチカン博物館をはじめ、古美術品を陳列したよい博物館が二つ三つあ りますし、ネープルスやフローレンス、ミラン、そのほかにも大博物館が無数にあります。 イタリアは古い時代に文化が栄えた国でありますから、これらの博物館に収めてあるものに は秀れた作品が多く、とうていほかの国々では見られないものがたくさんあります。  毎年イタリアを旅行する人はとても多いのでありますが、イタリアにいる時間の半分は博 物館で過ごし、あとの半分はローマだとかポンペイだとかの旧蹟をまわるというありさまで あります。  以上のほか、ヨーロッパではスペインのマドリツド、デンマークのコペ・ノハーゲン、スエ ーデンのストックホルムというような都市には、それぞれイギリスやドイツやフランスなど にもあまり劣らない博物館があって、国は小さくても、博物館や図書館だけは、大国と肩を ならべることができるくらいのものがあります。軍艦や兵隊では競争はできなくとも、こうし たもので負けないでいこうというのです。  ロシヤにも、むかしから大きい博物館がありますが、モスクワやレニングラードにある博 物館は、ヨーロッパ第一流のものにくらべて、けっして劣らないといわれております。トル コの都にもりっぱな博物館があって、なかなか有名であります。  また、これはヨーロッパではありませんが、アフリカのエジプトのカイロには、古いエジ プトの遺物ばかりをならべてある大きな博物館があります。ピラミッドや古い墓からでたい ろいろの宝物がいっぱいありまして、いまから四、五千年前の王様のミィラも、そのまま見 ることができます。また、一九二二年発掘されたツ夕ンカ1メンという王様のお墓からでた 黄金ずくめのすてきな品物が山のように陳列されていて、見る人をびっくりさせております。 アメリカの博物館  アメリカという国は、みなさんも知っている通り新しい国でありますが、非常にお金持で ありますから、ぜいたくをつくしたりっぱな博物館がたくさんつくられ、その建築物や設備 においては、ヨーロッパ諸国がとてもおよばないものが多くあります。  そのなかでも、大きい美術博物館として、ロンドンの大英博物館、パリのルーブル博物館 に優るとも劣らないものは、ニューヨークにあるメトロポリタン博物館でありましょう。こ こにはエジプト、ギリシア、そのほか西洋の古美術はもとより、日本、中国をはじめ、東洋 諸国のものを非常にたくさん集めてあって、とうてい一日や二日では、全部見てまわること はできないのであります。  この博物館で見物人をおどろかすものは、そのギリシア、ローマの部屋の一部に、イタリ アのポンペイで発掘されたむかしの家の客間を、そのまま模造してあることです。まんなか には庭園があり、噴水が絶えず水を噴き出しており、あたりには青々と繁った庭木も植えて あって、暑い夏の日でも涼しい感じを与え、さながらむかしのポンペイにいるような思いが いたします。  これはアメリカばかりでなく、ヨーロッパの博物館にもありますが、古い彫刻などはみん な台の上に乗せてあって、ボタンを押せばそれが自由にまわるようになっていますので、見 物人は一つところに立っていながら、前後左右からその品物を見ることができるのは、じつ に便利な仕掛けではありませんか。また、ボストンには、メトロポリタンにも劣らないほど の美術館があります。ここには東洋美術のりっぱな蒐集品 がとくにたくさんあって、その日本部には日本においてさ え見られないような古い美術品もあり、日本の建築や床の 間のようなものをつくって陳列してあるのには感心させら れます。これらの品は、日本人が美術の価値を知らない時 代に海外へ売ってしまったものであって、いまでは日本に 買いもどすこともできないのです。  また、ワシントンのフリーア・ギャラリーという美術館は、 中国の古画や古い銅器、玉でつくったいろいろのものがた くさんならべてあるのを特色としています。フィラデルフ ィヤの大学付属博物館にも、中国の古い時代の彫刻などに すばらしいりっぱなものがあります。  このように、アメリカの博物館はなかなかあなどりがたい勢いを持っているばかりでなく、 近頃は中国などからでる古美術品は、金銭をいとわず購入するという状態ですから、ヨーロ ッパ諸国は、この点ではとても勝てないことになりました。  博物学方面の博物館もりっぱなものが各地に設けてありますが、ことにワシントン、シカ ゴ、ニューヨークなどにあるものは、よく完備しております。動物の標本はみなパノラマの 風景のなかにそれをあしらってあって、自然の景色のなかにそれぞれの動物が棲んでいると ころを見せることに努めておりますから、見物人は大人でも子供でも、興味を持ってそれぞ れの動物の生活状態を知ることができるのです。  このような博物館が、アメリカの各州に一つや二つはかならず建てられてあるのは、じつ にうらやましいと思います。また、アメリカには、大きな博物館に付属し、または独立に児 童博物館というのがたくさんあります。これは理科その他に関して、ごくかんたんな知識を さずけるためにできたもので、学校で習うことを、一々実物に照して復習することができま す。それですから、いつも熱心な男の子や女の子がいっぱいです。これも外国でうらやまし いものの一つであります。 世界のめずらしい博物館  世界各国にあるいろいろな博物館のなかで、ちょつとかわった特色があって非常におもし ろく感じたのは、スウェーデンのストックホルムにある民俗博物館であります。  これは、スウェーデンの土地の風俗や習慣などをしめす博物館であって、ハゼリウスという 一人の熱心な人が、古い風俗や品物がだんだんほろびていくのを悲しんで、はじめはわずか な品物を集めはじめましたが、それがだんだん数も多くなり、建物も大きくなっていって、 今日見るような国立の大博物館となり、北方博物館という名がつけられたのであります。  建築物は三階建てのりっぱなものでそのいちばん下の部屋には、スウェーデン の各地方の農家の状態をそのままここへ移してあって、寝台だとか炉辺のもような どが地方別に区別してならべてあるのです。また、二階には家々の道具類が、あ るいは織り物、あるいは木器、あるいは陶器というように、種類をわけて見られ るようにしてあります。それから三階へ上ると、こんどは時代順にならべて、だ んだんかわってきているところをあらわしています。  さて、その農民小屋にはいってみると、炉辺にはマキが燃やされてあって、その地方の風 俗をしたおじいさんがタバコをふ力していたり、娘さんが糸を紡いで熱心に働いているとい う実際生活を見ることができ、料理屋や茶店も各地方にあるそのままの建築で、料理もまた その地方の名物をたべさせ、給仕女は故郷の着物をきて、お客さんの給仕にでるというよう になっています。   このような三種類のならべかたによって、私たち見物人は、 部スウェーデンの風俗や習慣の特質をじゅうぶんに、いろいろの の方面から研究することができるようになっております。また、 この博物館のすぐそばにスカンセンという丘陵があって、そ れが野外博物館になっております。その丘の上にはスウェーデ ンの各地方の植物を移植し、また特有の動物をも飼養してい るところはちょつと植物園か動物園のようであります。そし てそのあいだに、各地方からそのまま持ってきた農民の小屋 があり、古い時代の教会堂が木の間がくれに建っているかと 思うと、おもしろい風車があり、倉庫のような古い建物が、 むかしのままに設けてあるというふうであります。  これは単に、旅人をおもしろく思わせるために設けられたものではなくて、だんだん文明 が進むにしたがい、むかしのよい風俗やおもしろい建築がしだいに滅んでいくのを保存する ためにできたものであります。私は日本においても、文化の進むのにしたがって、いなかに ある古い風俗や道具類がしだいに滅びていくことを残念に思うので、一日もはやくこういう ような民俗博物館が設けられることを希望するものであります。  このスウェーデンの博物館をつくった人は、はじめからたくさんのお金をだして手をつけ たのではなく、すこしずつ集めて、長い年月のあいだに一人の力でもって完成させたことを 思うとき、だれでも熱心と時間を持ってやりだせば、なしとげることができることと信じま す。  このスウェ!デンの北方博物館とまったくおなじような博物館が、北の国ではノルウェー のオスロー、フ何ランドのへルシングフォルスなどにもありますし、さらにロシヤでは、レ ニングラードやモスクワにそれぞれつくられていて、そのレニングラードのロシヤ博物館 は、スウェーデンの北方博物館にくらべても劣らないりっぱなものであります。 考古学という学問 考古学と考古博物館  博物館を大別すると、美術、歴史、考古に関する品物を陳列した博物館と、博物、理科の 方面の品物を集めた科学博物館の二つの種類に区別されることは、前にも述ベた通りであり ますが、これらの博物館についていちいちくわしくお話をすることは、この本の紙面が許さ ないので、私は第一の美術、歴史、考古に関ずる博物館のうち、ただ考古学に関する博物館 のお話しを、これからいたしましょう。  いったい、考古学という学問は、人間が世界にあらわれて以来、今日にいたるまでの長い 年月のあいだに、この世界中にのこしたいろいろな品物、これを私たちは遺物といっており ますが、その遺物によって、人間の過去の時代の生活のもようだとか、文化の状態だとかを 研究する学問であります。しかし、新しい時代になるほどいろいろの書き物などがのこって おりますので、それによってむかしのことがたいていわかりますから、遺物ばかりでしらべ る必要はありませんが、ずっと時代が古くなり、書き物があまりなかったり、またまったく ない古い時代になりますと、どうしても遺物ばかりで研究するほか方法はありません。  それで考古学では、遺物ばかりで研究しなければならぬごく古い時代、あるいは遺物をお ちに使って研究しなければならない古い時代のことを、もっぱらしらべていくのであります。 ですから、考古学の博物館といえば、遠い古い時代に人間がつくった品物をならべておくの でありますが、大きい家屋だとか、洞窟だとかいうものになりますと、博物館のなかへ持っ てくることが困難ですから、たいていは模刑土や図面を陳列するこどになっております。  私は、七、八歳の少年時代から、むかしの人がつくった石の矢の根などを集めて喜んだ のでありましたが、そのころ、私は石の矢の根は人間がつくったものではなくて、水晶やな にかとおなじように、自然にできた石だとばかり信じておりました。  ある人は、石の矢の根は天狗がつくったものだと話していたそうでず。しかし、それは今日 から九十年ほど前のことでありまして、そのころには日本のどこへいっても、考古学の博物 館というものはひとつもなく、石の矢の根のようなものについても、説明した書物がなかっ たのであります。  もし、そのころ考古学の博物館があったならば、石の矢の根は自然にできたものではなく、 また天狗のつくったものでもなくて、古い時代に人間がつくったものであるということがわ かったことでありましょう。しかし、九十年後の今日でも、日本では残厶、心ながら完全な考古 学博物館がどこにも設けられていませんから、みなさんはやはり先生に聞くか、書物を見る かしなければ、それらについて知ることができないのは、はなはだ残念なことであります。  私がドイツヘ旅行してミュンヘンという町へまいりました時、そこにある大きい美術博物 館の付近に、小さいけれども考古学の博物館がありましたので、見物にでかけました。  そこはわずか二つか三つしか部屋がなく、ほんとうに小さいもので、おじいさんがただ一 八つくねんとして番をしていました。そのなかへ私がはいっていくと、陳列ダナの陰のほう に一人の少年がいて、手帳をだしていっしょうけんめいに、見たものについて筆記していま した。私はこの少年の熱心さに感心したので、 「あなたはこういう古いものがすきですか」とたずねました。 「はい、私はこんなものをしらべるのがいちばん好きです」 と答えて、なおもエンピツを手帳の上に走らせているのです。それで私は、 「あなたのような熱心な少年は、将来きっと考古学のりっぱな学者になりましょう」 といって別れたのでありました。  日本にも、小さくともここかしこに考古学の博物館が建てられてあったら、このドイツの 少年のように熱心な子供がでてきて、それが将来、考古学の偉い学者になるであろうと感じ たのでありました。 人類のはじめ  さて、人間は下等動物からだんだん進化してきたものであって、われわれは猿とおなじ先 祖から生まれてきたものであろうということは、ダーウィンが進化論をとなえて以来、よほ どがんこな人をのぞいては、たいていの人が信じるようになりました。しかし、その人間と 猿との共同祖先は、どういうものであったのでしょうか。また、その共同祖先から今日の人 間のようになった最初の人間は、どういうものであったのでしょうか。  このようなことを知るには、地面のなかに埋まっているその古い骨の化石を掘りだし、そ れを材料として研究するほかはありませんがさてそういう猿と人間との中間のものの骨が、 今日までにどのくらい発見されたかというと、残念ながらなかなか思うようにでてまいりませ ん。しかし、ただひとつ、いまから約八十年前(一八九二年)に、才ランダの軍医デユボアという 人が、南洋ジャワ島のトリエールというところで発見した骨が、ちょうどこの人間と猿との中 間にあたる動物の骨だといわれております。  骨といっても、ただ頭蓋骨の頂き、いわゆる頭の皿の部分と、左 の腿の骨の一部分と臼歯がでたばかりでありますが、これをしらべ てみると、どうしても今日の類人猿とはちがって、よほど人間の性 質をおびていたことがわかるのです。ことに虞立して歩いていたも のであることが、足の骨のかたち によってじゅうぶんに想像されます。それで、その骨の持主である動物を"ピテカントロプ ス・エレクトス〃、すなわち、直立して歩く猿人という名をつけたのです。  この骨を基礎にして顔や体をつくってみると、右上の図のような猿人となります。これが 猿のほうに近いか、人間のほうに近いかは議論があるにしても、とにかく人間と猿との中間 の動物といってさしつかえありません。  その後、本当の人間と名のつけられるいちばん古い骨が、ドイツのハイデルベルグの付近 で発見されました。  それはただ一つの下顎骨でありますが、この骨は顎が内側に引込み、今日の人間とはずい ぶんちがっていますが、類人猿とはまったく別の種類であり、人間の仲間であることはあき らかであります。次のぺージの図をごらんなさい。ただ一つの下顎骨から想像してみると、 こんな人間ができあがるのです。これを"ハイデルベルグ人〃といっています。  そのつぎに古いものは、それからドイツのネアンデルタール、ベルギーのスピイなどで発 見されたもので、これらのものは、みな、ハイデルベルグ人よりもずいぶん進歩しておりま すが、現代の人類、日本人、中国人のような黄色人種、ヨーロッパやアメリカの白色人種、  アフリカあたりの黒人までふくめた現代の人類とくらべてみると、動 物学上これらの現代人とおなじ一つの人種にはいるべきものではなく、 それとは別の種に属するほどのちがいを示しておりますので、われわ れはこれを"ホモ・プリミゲニウス〃(原始人)と呼んでいます。三十 九ぺージの図は、ネアンデルタールからでた骨から想像してみた、そ の時分の人間です。  そのつぎの時代にでてきた人間は、フランスのドルドーヌ州プての他 から発見された肯によって代表されるものであって、そのなかでおも なものは、"クロマニヨン人〃といわれるものです。  この時代の人間になると、今日の人間とはまったくおなじ種類に属するものであり、また ある点では、いまの未開人などよりはよほど進んだ頭脳の持主であったことは、その頭の骨 を見てもわかります。ですから、クロマニヨン人は、われわれとおなじように、現代人とい う名をつけなければなりません。  その現代人に属するクロマニヨン人が住んでいた時代はいつごろかと申しますと、ずいぶ ん古い時代であって、はっきりわかりかねるのでありますが、まず今日から、七、八千年か ら一万年に近い以前であろうということです。したがって、それ以前の原始人だとか、ハイ デルベルグ人だとかにいたっては、何万年前であるか、にわかに見当がつかないくらいです。 まして人と猿との中間ともみられる猿人などは五十万年、あるいはそれ以上の古いむかしの ものとしなければならぬのであります。  このように考えてくると、人間のはじめは、なんとずいぶん古いものではありませんか。 また、人間のあらわれる以前の、下等動物ばかりが棲んでいた世界は、どれだけ古いことで しょう。数千万年をもっても数えきれないむかしとは、じつにおどろくべきことであります。 われわれが歴史を持ってから今日まで、わずかに数千年という短時日でありますが、人間 がはじめて出現してから歴史のはじまるまでと、歴史以後今日までとの長さの比例は、歴史 以前のほうが歴史以後の数十倍からあるということがわかるでしょう。 文化の三時代  さて、人類がはじめてこの世界にあらわれてから非常に長いあいだ、歴史時代にはいるご く近い時代まで、人間は、今日われわれのように、銅や鉄などの金属を使用していろいろな 器物をつくることをまったく知らなかったのであります。  最初は今日の猿などとおなじく、ただそのあたりにある木片だとか石塊(いしころ)だと かを使って、穴を掘って虫をとったり、あるいは木の実をわってたべるというような生活を していたのでありましょう。ところが、だんだん進歩するにしたがって石塊に多少の細工を 加え、手に握ってものをうちこわすのに便利な形にこしらえるようになりました。さらに、 またその石を磨いて美しい形の器物をつくるようになり、あるいは自分がたべた動物の骨に 細工を加えて、それを道具にしたりしたのでありますが、とにかく、おもに石でつくった器 物を使用した時代が長らくつづいたのです。それをわれわれは"石の時代"、あるいは"石器 時代"と呼んでおります。  ところが、人類は偶然に、岩石のあいだにある金だとか銅だとかのような金属を発見して、 こんどはその金属で器物をつくるようになりましたが、これは石や骨の器物にくらべると非 常につごうのよいことを知り、まずはじめにはただの銅を使うようになったのであります。 ところが、ただの銅ではやわらかすぎ、とかしてものをつくるのにもむずかしいので、銅に 錫をまぜて青銅という金属をつくり、これを器物の材料としていた時代がありました。この 時代を"青銅時代"、あるいは"青銅器時代"というのであります。  そののち、ついに鉄が広く器物に使用される時代となったのでありますが、その時代を "鉄の時代〃、あるいは"鉄器時代〃というのです。今日においては、鉄以外にアルミニュー ム、ツてのほかいろいろの金属が発見されてまいりましたが やはり鉄が刃物やなにかにいち ばん多く使われているので、広い意味においては、今日も鉄器時代に属するというほかはあ りません。  このように、人類が石から銅、あるいは青銅をへて、つぎに鉄で刃物をつくる時代となり ました。この三つの時代を、考古学者は"文化の三時代"、あるいは"文化の三つの階段"と 名づけるのであります。しかし、この三つの階段は、あらゆる人類がかならずこの順序で通 過するのではありません。ある場合には、石の時代から鉄の時代になった例もたくさんあり ますが、ヨーロッパをはじめアジアの諸国においては、だいたいこの三つの時代を通過して、 人類の文化が進んできたのです。  また世界中のあらゆる国の人類が、みなおなじ時代に石から銅、銅から鉄というふうに進ん できたのではなく、ある国では早く石から銅の時代になり、さらに鉄の時代になったものも あるし、また長いあいだ石の時代にのこされていたのもありますが、とにかくこの三つの時 が、ほかの国よりも長くつづい が、その理由の一つであります  その後、この三時代をさらに細かくわける学者がでてきました。それはイギリスのラボッ クという人で、石器時代を"旧石器時代〃と"新石器時代"の二つにわけることになりまし た。今日われわれは、ラボックのわけかたによって、石器時代を二つの時期とするのが普通 であります。また、石器時代から金属使用時代にはいる中間時代を"金石併用期〃と名づけ る学者もいますが、このようにわけていけばかぎりなくわけられますけれども、それらの細 かいことはのちほどお話しいたします。  要するに、この石器、青銅器および鉄器の三つの時代によって、考占博物館はその陳列す 代の動きかたは、だいたい人類の文化の順序を示すものとい ってもよいでしょう。  このように、人類の文化に三階段があるということをはじ めて唱えた人は、一八二〇年ごろのデンマークの学者トムセ ンであります。また、その弟'のワルセ何が、先生の説を事 実によって、だんだん証明していったのでありますが、どうし てこの北欧の一小国の学者が、このような説をだすにいたっ たかというと、北ヨーロッパ諸国には石の時代、青銅の時代 ていたために、そのころの遺物が多くのこっていたというの る品物を区分し、時代別によって人類の遺物をならべていくのが普通の方法となっておりま す。それで私は、これからみなさんに考古博物館を書物の上でつくり、そこへご案内して説 明していこうと思うのでありますが、ただいま述べた順序で進んでいくことにいたします。  さあみなさん、これから旧石器時代の陳列室にまいりましょう。 旧石器時代室 旧石器の種類  この室にはいって、まず中央のタナにならべてある石器類を、だんだん見ていきましょう。 いちばんはじめにあるのは、いわゆる"原石器〃というもので、これはちょつと見たところ では、そのへんにころがっている石の破片とすこしもかわらない、ただ角張って打ち欠いた あとのあるように見えるだけのものでしょう(20図左上)。  これはみなさんが、はたして人間がつくったものであるかいなかについて疑うのもむりが ありません。学者のあいだにもいろいろな意見がありまして、ある学者は、人間が手を加え てつくったものであるといい、またある学者は、いや自然に石がぶつかったり、なにかの機 会にできたものにすぎないといいます。しかし、このような石の破片を持ってきて、これが 原石器であるかどうかというたしかな答えができないにしても、人間がりっぱな石器をつく る以前に、それよりもかんたんな、ちょうどこんな粗末な石器をつくったことがあってもよ いし、またこんな石片のなかにも、人間の手を加えたものがまじっていることだけは、認め なければなりません。  この原石器に疑問があるにしても、そのつぎにならべてあるこぶしのような形をした石に なると(20図左下)、だれが見ても、こう根元が太って、さきがとがった石ばかりが、偶然にわ れてでてくるとは思われません。どうしてもこれは、人間がつくったものとしなければなり ません。これには人間のこぶしほどもある大型のものが非常に多いのでありまして、いちば ん古い石器といわれ、〃セイユ期の石器"と呼ばれているものであります。  そのつぎにつくられた石器は、そのとなりにある〃アシュール期の石器" です(20図右上・中)。形はだいたい前のものに似ているけれども、製法が細 かくなり、だいぶ美しくできております。このような石器は、いったいなに に使用したものであるかというと、ぜんたいが槌(つち)の役にもなり、とがっ たところではものを突き、角ばったところではやわらかいものを切るというよう にあらゆることにもちいられたのでしょう。これがしだいに進んできますと、使 用の目的も別になり、それぞれ適当な形になって、石槍とか石剣とか、あるいは石庖丁とか にわかれていくのでありますが、この時代にはまだそれがわかれていなかったのであります。  そのつぎにならべてあるのは、みなさんの見られる通り、そのつくりかたは前のものより かえってかんたんであるようですが、しかし、大きく打ちわった表面をたくみに使って、必 要な部分を細かく打ちわってあるのに気づくでしょう。うすくひらたいもの、さきが鋭くと がったものなどもできたのです。これを"ムスティェ期〃のものといっています。  なお、つぎつぎに陳列してありますように、石器には非常に精巧な"ソリュートレ期〃の もの、また、すこしかんたんで要領よくできている"マデレエン期〃というふうに、だんだ ん変化してきていることがわかります(20図左中`右下)。ところがこのマデレエン期になり ますと、石器はあまり進歩したように見えませんけれども、この時代にはいってあたらしく さかんにできたものは、動物の骨だとか、角などでつくった品物であります。そこにならべ てあるような骨製のさきのとがったものやいろいろのものがありまして、なかには牙や骨の 上に動物や人間の形を彫刻したものなどもあります(図皿)。これらは前の時代には見られな かった品物です。  そこに、大きなひらたい骨のようなものの上に、象の形が彫刻してあ るのが見られるでしょう(図22)。これは長い毛のはえた象であることは すぐ気づくのでありまして、今日の象とはちがって、むかし、シベリヤ などに棲んでいたマンモスという大象の形をあらわしたものであります。 そのマンモスの形をマンモスの牙の上に彫ったもので、これはめずらし い品であります。ここにあるのはその模造品であって、現物はフランス のある博物館にたいせつに保存されてあります。  このほかに、レンジャー(カモシカ)の上にレンジャーの形を彫刻し たものや、人間の形などを彫ったものもあります。 旧石器時代の絵画  このように、旧石器時代のなかごろから、動物などの形を彫刻にしてあらわすことがたい そう上手になってきました。これらを見ても、この時代の人間を、いちがいに未開人だとは いえない、ただ、金属を使用することを知らなかったというにすぎないのであります。  この彫刻をつくった人間は、前に説明した古い人間の模型のなかにあった、クロマニヨン 人に属するのであります。クロマニヨン人は頭脳も大きくかっこうもととのっており、けっ して未開人ということのできない体格の持主でありますからこそ、このようなものがつくり 得られたのです。  さらにクロマニヨン人は、彫刻をしたばかりでなく、大きな絵も描いたのです。その絵は 今日までのこっておりますが、あちらの壁をごらんなさい。壁にかかっている牛、馬、鹿な どの絵は、かれらが洞穴のなかの石壁に彫りつけたり、また描いたりした絵の写しでありま す(図23)。  あの牛はビゾンという牛で、今日の牛とはその形がちがっていますけれども、鹿や馬の形 はなんとよく似て、本物のようではありませんか。筆のたしかな点、ぜんたいが生き生きし ているところ、じつにこれが、そんなに古い一万年前にもちかい時代に描かれたものであろ うかと、だれもが疑うのもむりはありません。  実際のところ、これがいまから百年ほど前(一八七九年)に、はじめてスペインの北の海 岸、アルタミラといういなかの丘の上の洞穴で発見されました時、ほとんどの学者はみなこ れが一万年もへた古いものではなく、ずっと新しい時代に描かれたものだといって、だれも 信じなかったほどであります。  しかし、その洞穴をよくしらべてみると、けっして新らしい時代に人がはいって描いたも のではなく・ビゾンという牛のような動物は、一万年ちかくも前でなければ生きていなかっ たものであり それをこれほど写生的に描くには、実物によっ て写生したのでなければならぬということなどがだんだんわか ってきたのでありますが、そればかりでなく、やがてはフラン スの中部ドルドーンヌのフォン・ド・ゴームというところと洞 穴などに、またおなじような絵のあることが発見されたのです。 それで今日では、だれも疑うことはなくなったのであります。  私もずっと前にスペィンのアルタミラの洞穴へいって、その絵を見ることができたのであ りますが、それはたんたんとした丘の頂き近くに小さな口を開いた穴であって、なかにはい ると十数畳敷きぐらいの大きさの室があって、その奥へ進むと、五、六十メートルほどもは いっていかれます。  いまの動物の絵は、その大きい室の天井に描いてあったものですが、石の凹凸をたくみに 利用して、突出部を動物の腹部とし、黒と褐色の彩色で描いてあって、それがありありとの こっております。一万年前より今日まで、このようによく保存されたとは思えないくらいで あります。また、前年この洞穴を発掘して、むかし彩色に使った絵具も発見されたので、そ れらは洞穴のそばの番人小屋にある小さな陳列室にならべてありました。  むかしの人は、略い案の中で、どうやってこんな絵を描いたのでしょうか。おそらく燈火 をもちいたとすれば、動物の脂肪をともしたことと思われます。この洞穴の絵を発見したの には、おもしろい話があります。発見者は偉い学者でも大人でもなく、一人の小さい娘さん だったのです。  いまから百年ほど前(}八七九年)に、この付近に、サウツオラという人が住んでいま した。その人は古い穴をしらべることに興味を持ち、ある日七、八歳の女の子をつれてこの 洞穴のなかへはいっていったのです。入口はいまよりせまく、ようやくよつんばいになって なかにはいっていくと、女の子が、 「お父さん、あそこに牛の絵が描いてあります」 と叫んだので、 「なに、そんなことがあるもんか」 と打ち消しながらよく見ると、牛や馬の絵がぞくぞく七、八十ほどもあらわれてきたので、 サウツオラはおどろきました。そしてそれが原因で、この洞穴の研究をしてこれを学界に発 表しましたが、当時はだれも信じる者がなく、サウツオラは失望落胆し、残念に思いながら 死んだのです。  死後幾年かへて 子、れがはじめて旧石器時代の絵であることにきまり、いまさらサウツ オラの手柄を人々が認めるようになりました。いまもその洞穴の人口に建っている碑文 に、そのことが記されてあります。また、当時の少女は、私がいったときはまだ生きてい て、そこからあまり遠くない村に住んでいるということを番人の女性から聞きましたが、 さだめしもう年よりのお婆さんになって、当時の自分よりも大きい娘の手の親となっていたことでしょう。  アルタミラの洞穴の絵とごく似ている絵は、前にいったフランスのフォン・ド・ゴームの 絵であります。この洞穴はアルタミラとはちがって、丈の高い奥の深い穴であって、両側の 壁にやはり多数の動物の絵が描いてあります。ここへも私はいきましたが、絵のできは前の ものよりすこし劣るようでありますが、だいたいにおいておなじちょうしであります。  そのほか、フランスの洞穴にはこれとよく似た絵や、すこし趣きのちがった絵が無数にあ りますが、全く一風かわった描きかたで旧石器時代の絵と認められるものは 東スペインの 洞穴などにのこっている絵であります。みなみょうなかっこうをした人間の絵で、それは今 日、南アフリカの原住民ブッシュマンなどが描く絵ととても似ています。  さて、私たちはつぎの室にはいる前に、ちょつと見落とした石器類を、いちおう見ること にいたしましょう。そこにあるのは、旧石器時代の最後のころである"オーリニャック期〃の もので、そのつぎにくるのが旧石器時代から新石器時代に移っていく中間の"アジール期〃 のものです。石器のつくりかたなどは別に進歩していませんけれども、そこにもあるように、 文字のようなものを石に朱で書いたものがあるのは、めずらしいと思います(21図左下)。 新石器時代室 貝塚と湖上住居 新石縱間、}「代宰 6わ  {、'亅搴寺℃二斤.コ旻寺ヒニま、丶耄ヒこつヒ匕ヒこつ曷系"》よノ>\)ナ准■辷弸りもり  什王暑跌个と業ぞ暑曄个と" ノ看,」`{つイて{雇个ノ、ノ,(禁 7`辜ヨプ5( ( であるというふうにいままでの人は多く思っていましたが、ちかごろは、この旧新両石器時 代のあいだには連絡があって、けっして無関係のものとすることができないというふうに、 だんだん考えられてきたのであります。学者のなかには、この二つの時代のあいだに"中石 器時代〃という中間のものをおく人もあります。  それはともかノ\新石器時代は旧石器時代にくらべて人種の上にも文化の上にもよほどち がったものがあり、この時代になると、人種は現在の世界の人種とまったくおなじ種類に属 しているし、そのほか、自然界の状態も非常に今日と接近してきました。それで、石器を使 用したという点においては旧石器時代とかわりありませんが、その人種上からも、また一般 文化の上から見ましても、かえって後の青銅器時代と深い関係があるのであります。また、 新石器時代のつづいた年代は旧石器時代にくらべて大へん短く、旧石器時代の二十分の一に もたりないくらいです。  新石器時代になると、気候そのほか世界の状態は今日とあまりかわったところがなく、た だ海岸線がいまよりも陸地にはいりこんでいたというくらいにすぎないのです。その時代に 棲んでいた獣類も、今日われわれが見るものとたいしたかわりはなく、あのマンモスという 大きな象やトナカイが、ヨーロッパなどに棲んでいるというようなことは、もうなくなって しまいました。  いったい、新石器時代の人間は、どんなところに住んでいたかといいますと、もちろん洞 穴に住むものもあり、山間にいるものもありましたが、海岸ちかくに居住して、魚や貝をと ってその肉をたべていたものが多いようです。それで、その当時の人が居住した跡が海岸付 近にのこっていて、かれらがたべてすてた貝殻や、魚や獣の骨などがたまっているところが あります。こういう場所では、白い貝殻がいちばんよく目立つので、われわれはこれを貝塚 と呼んでおります。貝塚のなかからは、貝殻や骨のようなもののほかに、その時分の人間が 使用していた石器だとか骨器だとか、また土器などがこわれてすてられたものや、あるいは 遺失したものなどが発見されます。  この貝塚は、前に申しましたように、元来海岸に住んでいた人間の住居のそばにできたご みすて場であります。ですから、なにしろ海岸にちかい場所にあったにちがいありませんが、 今日では海岸から遠く、ときには数キロ離れたところにあることがあります。これはその後 陸地がだんだん隆起し、海がひいてしまったからです。またその反対に、デンマークなどの ように海が陸地をおかしてきたので、今日では海中に貝塚が浸っているところもあります。  この貝塚をはじめて研究した人は、デンマークの学者でありました。最初は、たくさんの 貝殼は、はたしてむかしの人がその肉をたべてすてたものかどうかが疑問とされたのであり ましたが、ある学者がめんみつにしらべた結果、すててあるそれらの貝殻はみな成熟した貝 ばかりで未成熟のものがなく、また、二枚貝の片方だけのものが多いことなどがわかりまし た。もし自然に貝殻がつもったものとすれば、そのうちには、きっとたべられない幼い貝も まじっていなければならないはずなのに、大きい熟した貝ばかりであり、また、貝殻の片方 しかないということは、自然にたまったものでなく、むかしの人がたべて殻をすてたもので あるというほかはないのです。  なお、この貝塚は、ヨーロッパの海岸地方ばかりでなく、アメリカそのほか世界各国にあ ります。日本にも多くありますが、日本の貝塚についてはのちにお話いたしましょう。  新石器時代の人間は、またあるところでは、湖水のなかに棒グイを打って、その上に小屋 をつくって住んでいました。その小屋が多く集まって一つの村落をつくっていました。これ を湖上住居、あるいはクイ上住店と申します。イタリアの北部やスイスあたりに、多くこの 遺跡があります。それはちょうど今日、ボルネォのパプア人やシンガポールあたりの海岸で 見かけるのとおなじように、陸地との交通はたいてい小舟に乗ったものです。  なぜこんなところに住むのでしょうか。それにはいろいろの理由があるでしょうが、その 一つは敵の襲撃をのがれ、猛獣の害を避けるためであったでしょう。また、陸上の家に住ん で\きたないごみをあたりにすてると不潔なばかりでなく、いろいろの病気にかかることを 経験して、不潔物を水にすて、沽潔な生沽をするという意味もあったか とも思われます。この小屋は焼けたり壊れたりして今日まったくのこっ ておりませんが、その十台のクィだけが水のなかにのこっているのです。  一八五三年から五四年にかけて、スイスの国のチューリッヒ湖の水が、い ままでになく減って底があらわれました。その底に俸クイが一万本もに ょきにょきと立っているのをヶラーという学者が発見しまして、だんだ ん研究した結果、これがむかしの人 の湖上住居の跡であることがわかりました。その証拠には、そのクィのある付近を掘ってみ ますと、当時の人間が落としたりすてたりした石器や土器などが発見され、織物や木の実の 類までが、当時のままよくのこっておりました。  湖上住居は、新石器時代ばかりでなく、つぎの青銅器時代までも引きつづいておこなわれ ていたらしいことは、湖水のいちばん深い底からは石器が発見され、浅い上のほうからは青 銅器が発見されたことによって知ることができます。  あすこの壁にかけてある絵をごらんなさい。のこっていた土厶口のクィから想像して、湖上 住居の小屋を描いたものであります(27図)。その隣りにある絵は、現在南洋において実行して いる水上住居でありますが、いかにもよく似ていることがわかりましょう。なお、イタリアの 北のほうなどでは、水はなくても低い湿っぽいところに湖上住居とおなじようなクイをたて、 その上に小屋をつくって住んでいた人間が、新石器時代から青銅器時代にかけておりました。 磨製石器と土器  さて、新石器時代の人類は、どういうような生活をしていたかといいますと、やはり旧石 器時代の人間とおなじように、石をわったり叩いたりしてつくったきわめて粗末な器物を使 っていたのでありますが、それ以外に、この時代には、石を磨いてすべすべした美しいもの につくりあげることをやりだしたのです。  石器の形も、だいたいは前の時代よりは小形のものが多く、しかも石器の使いみちによっ ていろいろちがった形のものがわかれて発達してきました。たとえば、ひらたく刃が両方か ら磨きだしてある石斧、あるいは長い槍、あるいは庖丁といったように、使用に便利ないろ いろな形ができたのであります。そしてそれがみなその後発達して、今日の金属の器物にな っていったのでず。  この時代のいちばん大きな発明は、弓矢がはじめてもちいられるようになったことであり ます。それは、矢のさきにつける夫の根石があることでわかるのであります。投げ槍という ようなものもあるいはあったかも知れませんが、弓矢のような飛び道具は旧石器時代には見 られないもので、じつに新石器時代の新式武器であります。  この発明は、ちょうど近代における鉄砲の発明とおなじように、当時の人間が狩猟や戦争 の場合どれほど便利で、またどれほど有効であったかということは、いまでも想像されます。 この時代の石器は、一このタナに陳列してあるように世界の各国からでているのでありますが、 その形はたいていよく似たもので、大したちがいはありません(28図)。  この新石器時代に、八類が発明したたいせつな品物は土器であります。土器といいますと、 粘土で形をつくって火で焼いたものであります。もっとも、今日のように堅い焼物や、釉薬 をもちいた品物はできなかったので、いわゆる素焼でありますが、とにかく土器が発明され てから、人間は生活の上に非常な便利を得てきました。  いままで、水を汲んだりそれを保存するには、ヤシの実の殼のようなものとか、 員類の殻とかを使っていました。これらのものは大きさにかぎりがあり形も一定 しておりますが、この+器になりますと、大きい容れ物でも思うような形のものでも、自由 につくることができます。狩りでとってきた獣の肉は、壷のなかに塩漬けにして保存できる し、水やそのほかの流動物を瓶にいれて、自由に運ぶこともできるようになりました。  また、以前はお湯をわかすことは非常に困難であって、わずかに石のくぼみへ水をいれて それに焼石を投げこむとか、貝殻にいれた水を火に近寄せてすこしのお湯を得たに過ぎなか ったのでありますが、土器が発明されてからは多量の湯をわかすこともできるようになりま した!だめし旧石器時代の人類は、お湯で体をふくということはしなかったので、体もよ ごれて不潔だったでしょうが、新石諱代にいたっては、浴場はなかったとしても、お湯で 体を清潔にすることができるようになったと想像されます(田図)。 この土器の発明は、さらに大耄進歩を人間生活の上にもたらしました。それはいままで 食物を煮ることを知らなかった人間が、土器によって動物の肉でも鵯でも自由に煮ること ができるようになったので、いままでたべられなかった品物や食物の部分も煮てたべること になったのであります。その結果、いままでは食物の材料を集めるために百中骨を折って 働いていた人間が、集めた食料の貯蔵ができるようになり、食料が豊かになったので働く力 によゆうができ、それをほかの方面にもちいることができるようになりました。 したがって・文明がいちだんと進歩することになったのでありますから、土器の発明とい うことは・人類の文明の笙の上に王事件でありまして、あ拿者は、土器を知らない人 間羔を野蛮的生活、土器を持つ人間の生沽を半開生活といって区別するくらいであります。 私たちの生活から茶碗や壷など爰くしてしまったならば、どれほど不儂ことで耄かは じゅうぶんに想像できるのであります。 さて・このようにたいせつな土器を、だれがどこで発明したかということは容易にわから ないのでありますが、最初は粘土が水に湿されると軟かくなり、思うような形につくられる ことが知られ・湿った粘土炙のそばにおくと固く耄ことを知ったということなどが、発 見のいとぐちになったかと想像されます。また、籠の外側とか内側とかに粘土を塗り込めて、 籠とともに火で焼くという製法もあったようであります。 巨石記念物  新石器時代に人類がつくったものには、前に述べました石器や土器などのほかに、なお非 常に大きなすばらしいものがあります。それは人間の体の幾倍もある大きな石でつくられた 墓とか、あるいは宗教の目的に使った場所とかいうものでありまして、それに使用された石 が非常に大きいので、われわれはそれを巨石記念物と名づけています。  これにはいろいろの種類がありまして、その一つに立て石(メンヒル)というものがあり ます(30図2)。それはたいてい一本の大きな長い石が突き立ててあるもので、その石の高さ は二メ1トルぐらいのものもありますが、大きいものになると十五メ1トルから二十メート ルもあるものがあります。これはなんのために使ったのかたしかなことはわかりませんが、 この巨石をむかしの人が神として崇拝したものであるか、または尊い場所の目標としたもの であろうと想像されます。  私は昭和三年に、フランスの西海岸にあるカルナックというところの大きい立て石を見に いったのですが、そのもっとも大きいのはいまは三つに折れて地上に倒れています。もとは 耐立していたもので、高さは二十メートルくらいもあったものですが、二百年ほど前に雷が 落ちたため、折れたのだということでありました。  カルナックの立て石より小さいものは、フランスに数かぎりなくありますが、かわってい ておもしろいのは、行列石(アリニュマン)とでもいうべきもので、二メートルから四メー トルくらいの高さの石が、幾百となく一定の間隔を持ってならび立っているのであります。 これもなんの目的のためにできたものであるかわかりませんが、 やはり宗教的な意味を持ってつくられたものであろうと思われます。カルナ ックにある行列石には、千二百本ばかりの石が兵隊のようにならんでいる のがありました(29図1)。  また、大きな石が、円く輪のようにならべまわしてある環状列石(クロムレヒ)というのがあり  ます。これには石の大小はいろいろありますが、大きなものになると円の直径が百メートルく らいもあり、石の山高さは六メートルにおよぶものもあります。今日、世界でいちばん名高い ものはイギリスのストンヘンジというもので、いまは飛行場になっているソールスベリーの 広い野原に、円く巨石をまわした不思議な姿で立っております(31図2・ 3)。大空高く飛 行機が飛んでいる下にこの大むかしの不思議な遺物を見るとき、一つは二十世紀の現在、 つは紀元前二十世紀にも溯るベき古代のものを同時に眼前に眺めて、一種の感に打たれるの であります。  このストンヘンジの中央に立って東方を見ますと、太陽がでるのを真正面に見られるから、 太陽崇拝に関係ある宗教上の目的でつくられたものであろうと説く人もいますが、実際なん のためにこの野原にこのようなものがつくられたのか、たしかなことは知ることができませ ん。もっとも、このストンヘンジは新石器時代のおわりで、青銅が使用されだした時代につ くられたものであるといわれますが、それはともかく、以上お話した巨石記念物は、いずれ も新石器時代からつくりはじめられたことにはまちがいありません。  大きい石でつくったものには、このほかに石机、すなわちドルメンというのがあります。 それはすこしひらたい石を一 一方に立て、 その上にやはりひらたい大石を乗せた、 ルの形をしたものであります。ドルメンという語も、石の机という意味の言葉で あります。このテーブルの下に人間を葬ったので、これはうたがいもなく墓であ あります(30図1・31図0)。  このドルメンは、石器時代から青銅器時代にわたっておこなわれたもので、後 にはだんだん石でつくった 長い廊下のような室ができ、その石の上に土をかぶせて円い高塚としたものがあらわれまし た(30図3・4)。この石室のある塚は、新石器時代からつぎの青銅器時代以後に、さかん に世界各国においておこなわれていたものでありまして、日本にもたくさんありますが、日 本にはごく古い石器時代のドルメンはありません。  いま申しましたいろいろな巨石でつくった記念物にもちいられた石は、多くは山や谷にあ る自然石のかっこうのよいものをとってきてそのまま使用したもので、あまり人工を加えて ありません。しかし、このような大きい石を運搬するには、よほどの労力が必要であります。 今日のごとく、機械の力がない時代でありますから、ただ多数の人間が力を合わせて、とき には牛や馬の力を借りたかもわかりませんが、多くは人の力でなされたものにちがいありま せん。  ですから、当時においてすでに協同一致してしごとをする一つの団体、社会というものが できており、またそれを支配していく頭、、すなわち酋長のようなものがいなくては、とうて いこのようなしごとはできますまいから、この大工事の遺物を見ただけでも、当時の社会状 態を察することができます。  また、五メートルも六メートルもの高い石を両側に立てて、その上に横に巨石を乗せてあ るものなどは、ただ人力だけでなされるものではなく、いろいろ工夫をこらしたものでしょ う。それには遠方より土をしだいにつんで傾斜した坂道をきずきあげ、それへ石を押しあげ てこれを縦に落として立て、それからその上に横石を乗せたもので、坂道の土砂はその後除 き去ったものと想像されます。  このような大きな巨石記念物は、博物館に運搬してくることはとうていできませんから、 そこにある模型と写真とによって、みなさんはそのだいたいを知るほかはありませんが、館 の中庭にはあのドルメンの小さいものを原状のまま持ってきて据えてありますから、あとで 庭へ出て見てごらんなさい。そして、その石室にはいってみられたならば、いちばん小さい ドルメンでもどれだけの大きさであるかがわかり、したがって大きいものはどれほどのもの であるかを想像することができましょう。  ドルメンという菓やメンヒルという亠止て石などには、たまに円や三角だのの形を石の上に 彫りつけたのがあったり、ぽつぽつと大きなくぼみを彫りならべたものがあります。それはな にか宗教上の意味をあらわしたものであろうかと思われます。地中海にあるマルタ島の大きな 石の墓、あれはドルメンがだんだん進歩して複雑な形になったもので、ずいぶんめずらしい もののひとつであります。石の上にぽつぽつのくぼみが多くつけてあるので有名であります。  このほか、巨石記念物のなかの風がわりのものは、やはり地中海のサルジニア島にあるネ ルゲというもので、これは石を円く積みあげ、根元は太く、さきになるほどすこしずつ細く なっている塔のようなもので、ほかの地方では見ることができないものです。 金属の発見と使用  人類は前にも述べました通り、長い年月のあいだ石で器物をつくって、金属を使用するこ とを知らなかったのですが、そのあいだにおのずから天然に石のあいだにまじっていたり、 あるいは砂のなかにころがっている金属などを知り、ついにはそれを使用するようになって きました。そして、金属でつくった器物のほうが、石でつくったものよりぐあいのよいこと を知ってからは、だんだん石のかわりに金属でつくるようになりました。  さて、金属のなかでいちばん早く発見されたのはなんであるかと申しますと、金と銅と鉄 の三種であります。しかし、金はきれいで装飾にはなりますが、質が軟らかくて、刃物などに しては実際の役に立ちません。それで、銅と鉄の二つのうち、いずれかが使用されることに なりましたが、はたしてどちらがさきに使用されたかについては、いまなお議論があります。  一方には、鉄のほうが地中から掘りだすことが容易でありますから、早くから使われたと の説がありますし、また一方には、エジプトのごく古い時代に、もう鉄が発見されていたと いうこともありますが、実際のところ、今日のこっているいろいろな器物から考えますと、 銅と錫との合金である青銅が、いちばん早く石にかわって広く使用されることになったとい うべきでありましょう。  それならば、その銅は、最初どこで発見されたかといいますと、それはやはりはっきりわかり ませんが、とにかくアジアの西方においてまずさかんに使用されたし、それが南ヨーロッパに はいり、ついには中央ヨーロッパから北ヨーロッパにだんだん広がっていったということだけ はたしかにわかるのであります。この銅、あるいは青銅を使った人間は、前に申しました新石器 時代の人類とやはりおなじ人種で、石でつくった斧のような器物を、はじめはそれとおなじ形 に金属でつくったのでありますが、それをだんだん使用に便利な形にかえていったのです。  銅に錫をまぜるとものをつくるのに容易で、しかも堅くって丈夫であるということも、最 初は偶然に知ったらしいのでありますが、いくどかの経験で、銅九分に錫一分をまぜあわす と器物としてはつごうがよいことを知ったので、青銅器時代のおわりごろには、混合の歩合 がたいていこのわりあいになっております。エジプトの進んだ文明も、使用した器物からい えば、青銅を一般に多くもちいています。また、ギリシアの文明が開ける前に、クリートの 島やその付近において発達した文明も、やはり青銅器の時代に属するのであります。  ヨーロッパでは、南のほうには早く鉄がはいってまいりましたが、北方のデンマークやス ウェーデンやノルウエーなどでは、鉄のはいってくるのがだいぶおそかったがために、かえっ て青銅で器物をつくることが発達して、すばらしい青銅器が多くできています、  ごらんなさい。この壁にかけてある青銅器を見ていきますと、はじめは石の斧からおなじ 形の銅の斧になり、それがだんだん進歩して、柄を差し込むところができたり、短い三角の 剣が長くひらたい剣にと進んでいったところが、よくわかるでありましょう(32図)。  この青銅器の時代は、ヨーロッパばかりでなく、アジアにもありました。中国では殷から 周の時代のころまでは青銅がおもに使用され たのでありますが、その青銅は中国人自身で発明したものか、または西方の国からつたわっ たものであるかは、まだじゅうぶんに研究されておりません。  ところが、人間が青銅を使つているあいだに、鉄のほうが銅よりも堅くて、刃物などには つごうのよいことがわかりましたので、青銅にかわって鉄がもちいられるようになりました。 これから後を"鉄器時代〃というのでありますが、ヨーロッパでは、鉄器時代のもっとも古 い時代を"ハルスタット時代〃といっています。それは、オーストリアのハルスダットと いうところの古墳から掘りだされた鉄器が、よくその特徴をあらわしていたので、そういう 名をつけたのであります。  それからすこし後のヨーロッパの鉄器時代のことを、私たちは"ラテーヌ時代"と呼んで いますが、これはスイスのある土地の名でありまして、そこから掘りだされたものが、代表 的なものとされているからであります。あのギリシアの文明も鉄器時代のものでありまして、 いまから三干年ほど前に鉄がギリシアにはいってきて、前の青銅器時代の文明にかわって、 新しくりっぱな文明をつくりだしたのであります。  鉄がはじめてもちいられたころは、銅ばかり使っていた前の時代よりは、かならずしも文 明が進んでいたということはできません。前に申しました通り、あのりっぱなエジプトの文 明も、クリート島にあったギリシア以前の非常に進んだ文明も、みな青銅の時代に属してい ることを忘れてはなりません。  そして、この青銅器から鉄器の時代における文明の話になりますと、その国々によってみ なちがった形であらわれておりまして、もう歴更以後の時代にはいりますので、それらの時 代にできた品々を、ことごとく、この博物館にならべることはできません。それはまた、別 の博物館に陳列してありますから、みなさんはりてこへいって見てください。  それで私たちは、西洋やそのほかの外国のものはこれだけにして、これから日本で発見さ れた石器時代からの古い品物を見にいくことにいたしましょう。しかし、ちょっとお庭へで て、私はタバコを一ぷくのみ、みなさんも一休みといたしましょう。 日本の先史時代室 日本の石器時代  さあ、これから外国の品物でなく、私たちの生まれた日本の国の古い時代の品物を兇、そ のお話をいたしましょう。  いままで述べましたような、石器時代からだんだん金属器の時代に人類が進歩していった 順序は、日本においても外国とおなじようになっているのです。けれども、はじめにお話し ましたいちばん古い旧石器時代という時代は日本にもあったかも知れませんが、今日までそ の遺物がすこしも見つかっておりません。それゆえ、いままでのところでは、日本でいちば ん古いのは旧石器時代のものでなく新石器時代のものでありまして、それから金属器の時代 につづいているのであります。  さて、日夲はいつごろまで石器時代であったかと申しますと、よくはわかりませんが、す くなくともいまから二千年ほど前までは、石器の使用がのこっていたようであります。そし て、その前の二、三千年間ぐらいも石器時代であったかと思われますけれども、そのへんの ことになると、残念ながら年数をあきらかにすることができません。  日本でも、むかしからお百姓さんが土地を耕したり、山が崩れたりしたとき、ひょつこり 石器が発見されたことがしばしばありましたが、むかしはそれらの石器を人間がつくったも のとは思わないで、石の斧を見て雷神が落としたものであるとか、あるいは石の矢の根を見 ては神様が戦争したときの矢であると考えたり、あるいは自然にできたものであると信じた りしていました。  もっとも、このように考えたのは日本ばかりでなく、西洋でも中国でもむかしはみなおな じように思っていたのでありました。また、この不思議な 石をよせ集める物好きな人がいて、なかにはずいぶんたく さん集めた人もありました。なかでも有名なのは、いまか ら百八十年ばかり前に、滋賀県に住んでいた木内石亭(一 七二四〜一八○八年)という人であります。  これらの人たちも、多く集めているあいだにこれは天狗 の使ったものだとか神様のものとかではなくて、人間がむ かし使用したものであろうと考えだしてきました。新井白 石のような偉い学者は、これはむかし、北海道から樺太に かけて住んでいた粛慎(しゅくしん)という民族が使用し たものであろうと考え、一八二三年に日本へきたシーボル トという西洋人は、これはむかしのアイヌ人が使っていた ものだろうといっておりました。  しかし、この石器が人間の使ったものであり、また、こ のような石器を使った人間が日夲のここかしこに住んでい たということを現場を掘って研究し、夲当によくわかって きたのは比較的新しいことであります。それはいまから約百 年ほど前の一八七七年に アメリカから日本の大学の教授になってきたモールスという先生 が、はじめてわれわれに教えてくれたのであります。 この先生は動物学者でありまして、日本へくる前に アメリカのフロリダというところで石器時代の貝塚を掘った経験があり、 その方面の学問にもくわしい人でありました。  明治十年に船で横浜に着きまして、そのころできていました汽車で東京へくる途中、汽 車の窓からあたりの風景を眺めておりました。ところが大森駅の付近で、線路の上に白い貝 殼がたくさん散らばっているのを見つけまして、これはきっと石器時代の貝塚であるにちが いないと思い、それからまもなく、この大森へ発掘にでかけました。はたしてそれは貝塚で ありまして、石器や土器が多数にでてきたのです。これが日本において、貝塚を研究するた めに発掘した最初のものであります。このモールス先生は、一九二五年にアメリカで亡くな られましたが、この大森に先生の記念碑が建てられました。  このモールス先生の弟子たちや、またその後にでてきた学者たちが熱心に東京付近の貝塚 を調査いたしまして、石器時代の事柄をくわしく研究したのでありますが、なかでも一九一 三年に亡くなられました、東京大学の教授であった坪井正五郎博士は、もっとも熱心に研究 されたのであります。私なども、中学生の時分から坪井先生の教えを受け、それからいっそ うこの学問が好きになったのであります。  今日では、日本列島のいたるところ、北海道から本州ぜんたい、四国、九州、あるいは朝 鮮または台湾まで、どこでも石器時代の遺跡が発見されています。そして、三干年、五千年 の前力ら 日夲の島々には人間が住んでして、石器時代 の文明を長くつづけていたということがわかってきたの であります。  われわれの祖先は、中国から進んだ文明をつたえて今 日の日本を建設してきたのでありますけれども、そのも とは、やはり石器を使用した文明のヒに築きあげられた ものにほかならないのであります。  それでは、日本において石器を使っていた人間はわれ われの祖先であるか、または別の人種であるかということになりますと、これはなかなかむ つかしい間題でありますが、この石器時代の墓からでた人骨をしらべますと、今日北海道に のこっているアイヌに似た性質の骨もありますが、今日の日夲人に近く、アイヌとはだいぶ ちがった骨もありますので、その時代から、日夲の各地にはすこしずつかわった体の人間が 住んでいたことがわかります。  一方では、だいたい現在のアイヌに近い体質を持っていた人間が石器を使っていたのとお なじように、われわれの祖先もまた、石器を使っていたということを疑う余地がありません。 もっとも、朝鮮と台湾の石器時代には、日本とはまったくちがった、別の種族が住んでいた ことは注意を要します。 貝塚や墓地などの遺跡  日夲の各地で、石器がかずおおく発見された場所は、いったいどういうところかと申しま すと、いろいろありますが、そのうちでいちばん多いのは、ヨーロッパのデンマークなどに あるのとおなじ貝塚からであります。  貝塚というのは、むかしの人が海岸だとかあるいは湖辺だとかに住んでいて、常日ごろた べていた貝殻や、そのほかの不用物をすてた掃き溜めの跡であります。貝塚は海から遠く離 れているものが多いのですが、むかしは海岸近くにあったのです。これらの貝塚の広さは、 大きなものになると百メートル平方以上のものもあって、貝殻のつもった厚さは二、三メ1 トルにおよんでいるものさえあります。  貝塚は、東京付近から東海道、山陽道、九州、そのほか海に近い地方には、日本国中いた るところに発見されます。そしてまた海岸ばかりでなく、湖水のそばなどにも淡水産の貝殻 でできている貝塚があります。静岡県の蜆塚などはその一例で、蜆の貝殻などがあるのでこ んな名がつけられたのです。  いったいに、貝類は動物のなかでも比較的早く形をかえやすいものでして、蜆でもむかし のものはいまのものより形も大きかったよう・です。螺(ばい)でもむかしといまは角度がい くぶんちがっているようですし、赤貝でも線の数がすこしかわっているというようなことが、 貝塚の貝殻をしらべてみればわかります。また、貝塚から発見された貝で、今日もはやその 近海にいなくなったものもありますが、これらの研究は考古学の範囲でなく、動物学者、ま たは貝類学者の研究に属するのでありますが、みなさんが貝塚にでかけたならば、いろいろ ちがった種類の貝殻を採集してくる必要があることを忘れてはなりません。  それから、貝塚のつぎには、貝殻は見当たらないけれども、やはり人間が居住した跡とみ えて、石器やそのほかの遺物が土中にうまっているところがありますし、またそれをその後 お百姓さんが掘り返し、田畑の表面に石器や土器が散乱しているところもあります。みなさ んがもしそういうところへいったならば、石の斧や石の矢の根などを拾うことができるので ありますが、むかしはたくさんありましたけれども、近ごろはお百姓さんたちも石器である ことを知るようになり、自分で拾ってしまいますし、またそれを集めにいく人も多くなった ので、たやすく拾うことができなくなりました。  貝塚の付近だとか、石器時代の人が住んでいた跡を発掘するときは、おりおり石で取り囲 んだ炉の跡だとか、または小屋を建てたときの柱を杣え込んだ跡だとかが円くならんでいる ことがあります。しかし、この小屋の柱だとか屋根などは腐りやすいものでつくってありま したから、今日ではまったくのこっておりません。それらに似たものは、今日でもいなかで 見かける物置きとか、肥料入れの納屋のようなかんたんな小屋がありますが、まあ、それと たいしてちがいのないていどのものと思われます。  ヨーロッパでは、旧石器時代の後のほうでは気候が非常に寒かったので、洞穴のなかに人 間が住んでいたことがありました。日本でも、新石器時代に住むのに適当な洞穴のあるとこ ろでは、やはりそのなかに居住していたことがないではありません。たとえば、富山県氷見 の大洞穴のなかにはいまは小さい社が祀られてありますが、その穴のなかから石器時代の遺 物がたくさんでてきました。そのほかにも、各地でこのような洞穴が発見されましたが、山 腹に一メートルぐらいの穴がならんでつくられているいわゆる横穴というもの、これは石器 時代のものでなくもっと後の時代の墓でありますから、これはあとでお話することにいたし ます。  石器時代の人間も、お墓をつくりました。ただそれは、いま申しました横穴でもなく、高 い塚山を築いたものでもなく、普通は貝塚のあるところ、あるいは人間の住居の付近に土地 を一メートルくらい掘って、そこに死体を埋めておいたのです。そして、墓標のようなもの をつくったかも知れませんが、現在はなにものこっていないのでわかりません。それゆえ、 私たちが貝塚を掘ったり、石器が散らばっているところを掘ったりしていま すと、その下から石器時代の人間の骨がでてくるので、はじめてそこが墓地 であったことが知られるのであります。  このような墓場も、いまから約六十年くらい前まではよくわからなかったの でありますが、だんだんわかってきて、各地においてつぎつぎに発見されてま いりました。宮城県の宮戸島だとか、 愛知県の|吉胡《よしご》だとか、大阪府の|国府《こうふ》だと か、岡山県の|津雲《つくも》だとか、熊夲県の|阿《あ》 |高《たか》などではずいぶんたくさんの人間の骨がでてきて、ある一つの場所からは百体から三百体 以上の骨が、二メートルほどの距離をおいてならんでいるというようなありさまであります。 石器時代の墓場がありありとこの世のなかにあらわれたわけで、発掘にいった私たちも、じ つにおどろいたものでした。  それらの人間の骨は、ほとんど完全に、指先の骨までのこっている場合がすくなくないの であります。かえって後の時代の大きな古墳で、石楸のなかにいれた人間は骨まで腐ってい るのが普通なのに、棺桶もなく土のなかに埋めた人間の骨がよくのこっているのは一見不思 議に感じられますが、それは棺のなかは空気が侵入して腐りやすいが、直接土のなかに埋め るときは空気がはいりにくいので、かえってよく保存されるのであります。  この石器時代の人間は、どういうようにして葬ったかというと、足をまげて膝を体につけ、 ひざまずいたような形をして埋めたのが普通でありまして、体を伸ばして埋めたのはほんの すこしです。なかには、胸のあたりに大きい石を置いたものもあります。  体をまげて葬るのは日本ばかりでなく、ヨーロッパの石器時代にもおこなわれていますし、 今日の未開人のなかにもそれが見いだされますが、それはたぶん死んだ者がふたたび生き返 ってきて、その霊魂が生きている人間に悪いことをしないように、足部をまげて縛るという ことがあったものと考えられるのであります。  また、石器時代のまだ開けない時代でも、親子の情愛というものは今日とかわりなかった のですから、幼児の死体でもけっして捨ててはありません。赤子や児童の死体は、大きい土 器の壷にいれて特別に葬ってある場合が多いのです。また宮戸島では、老母と少女を抱き合 わせて葬ってありましたが、これはさだめし、祖母と孫娘とが同時に病死したものを葬った ものと思われます。そしてその少女の首には、小さい石の玉を珠数にして飾ってありました。 なんといじらしいことではありませんか。  私たちは、このような墓地を発掘して、その時分の人々がどんな宗教上の考えを持ってい たかということもわかり、またその体につけていたいろいろの装飾で当時の風俗を知るばか りでなく、その骨をしらべてどんな人種に属していたかということが考えられるのでありま す。それがいまお話した、石器時代の人種がなんであるかということの第一の材料となるの でありますから、この墓地の研究は、貝塚などよりも、いっそうたいせつなものになってく るのであります。 石器と骨角器  日本の貝塚やそのほかの石器時代の遺跡から発見される石器は非常な数であって、よくも こんなにたくさん石器があるものだ、とおどろくくらいあります。  なぜそんなに多くの石器がのこっているかというと、その後の時代に使用された金属の器 物になりますと、土のなかで腐ってしまってなくなったり、あるいは、 腐っていないものは拾ってほかの器物につくりなおしたりするという ことがある上に、むかしの人たちが、はじめから石器のように惜し気 もなく捨てることをしなかったのです。  石器は土のなかにあっても腐ることはなく、またほかの器物に改造 することもほとんどできないのでありますから、むかしから石器には あまり注意する者がなかったのであります。また、石器時代の入たち は、いちど石器が破損した場合にはたいてい捨ててしまい、これを改 造するようなことはなかった、これが今日、多くの石器が発見される理由のひとつでありま して、お陰で私たちがみなさんとともに石器を探しにいっても、獲物があるわけです。  石器にはいろいろの種類がありますが、そのタナに一つ一つ品物の種類によって分類して ならべてありますから、これからだんだんそれを見ていきましょう。  まず第一は、斧の形をしたものであります。これを石斧と呼んでいますが、長さはたいて い十五センチ前後、あるいは八センチくらいのもので、形はごらんの通り長方形であって 一方の端を削って鋭くしてありますが、たいていは両面から磨いて、ちょうど蛤の口のよう になっております。ですから、物を打ち切るためにはあまりよく切れるものとは思われませ ん。また、刃さきがすこし広がって、三味線のバチのようになっているものもあり、刃を一 方からつけたノミのような形をしているものもあります。それらの斧には、横側にえぐりを いれたものが多いのであります。  これらの石斧はみなよく磨いてなめらかに光るようにできていて、非常に精巧なつくりか たであります。なかには長さが三センチもない小さい美しい石でつくった斧がありますが、 それは実際の役に立つものとは思われません。たぶん、たいせつな宝物の類であったのでし ょう。またこれとは反対に、三+センチにも近い斧がありますが、これも実用には不適当で す〔おそらく宝物かあるいは石斧をつくる家の看板であったのかも知れません。 ノミのような刃のついている三センチぐらいの小さい石斧もありま すが、これは石斧というよりも、石ノミといったほうが適しているように思われます。いま 申しましたような石を磨いてつくった石斧を、私たちは"磨製石斧〃といっています(38図)。  石斧のなかには、磨いてつくらず、ただ石を打ちわってつくったごく荒い粗末な斧があり ます。それには細長い短冊型のものもありますが、ときには分銅型のものもあります。私た ちはこれを"打製石斧〃といっています。しかし、打製石斧には、実際にものを切るために 役立つ刃がありません。それならばものを叩く槌に使うものかというとそれにはあまり細工 がすぎているようにも思われるので、はたしてなにに使われたものか、すこぶる疑わしいく らいです。  この打製石斧は、ある場所ではずいぶんたくさんでます。}九一〇年ごろに、私たちが東 京の西、三鷹の深大寺の付近を歩いていると、一時間に何十本となく拾われました。当時、 その村の小学校では、生徒たちが拾ってきた石斧を、教室内の五、六十もの机の上にいっぱ い山のようにならべてあるのを見ました。その数は二千以上もあって、じつにおどろいたし だいでありました。こんなにたくさん打製石斧があるのは、あるいはここで石斧の半製品を つくって、各地へ輸送したのかも知れないと思われるのであります。  こうした石斧などを探すのには、田畑にころがっている石をかたっぱしからしらべてみる とか、畑のそばの小溝のなかの石塊とか、畦に積まれた捨て石のなかを熱心に探すのにかぎ ります。しかし、蛇だとかとかげだとかが石のあいだから飛びだしてきておどろかされるこ とがありますから、注意しなければなりません。私が九州へ旅行しましたとき、田んぼの溝 のなかに二十センチぐらいもある大きな磨製石斧が、潜航艇のように沈んでいるのを発見し て拾ったことがありますが、こんなやつを探し当てたときは、非常に愉快です。  いったい、これらの石斧を使用するときはどうしたかといいますと、そのまま握って使っ たものもありますが、木の柄をつけた場合もありまして、まれには腐った木の柄がついた石 斧を発見することがあります(38図5)。  石斧についでたくさんあるのは石の矢の根(石鏃)であります。石鏃は磨製のものもあり ますが、これはいたって数がすくなく、でるところもかぎられていて、たいていは打製です。 燧石や黒曜石、安山岩の類でつくったものが多いのでありますが、ときには水晶や瑪瑙のよ うなきれいな石でつくったものもあります。とにかく、石鏃は形も小さく可愛らしいので、 これを採集するのがいちばん愉快であります。  形はいろいろかわったのがあって、、長い木の葉形、柳の葉形のようなものや、また二つの 脚がついたもの、その脚が長くなっているもの、そのほか両股のあいだに矢柄を差し込む脚 のついたものといったふうにいろいろの種類がありますが、このうち両脚のでているものは いったん刺さるとなかなか抜きにくく、敵を殺すのにつごうがよいので、おもに戦争の時に使 われたということです。アメリカなどからでるような、形の非常にちがうものや大型のもの は、日本ではあまり発見されませんが、たいてい三センチ前後の大きさのものが普通であり ます。  このタナにならべてある柳の葉の形をした、長 さ十センチ以上もある石鏃に似た大型のものは、 普通胤錨といっています。それから小型で一方が ふくれ、ほかの一方が尖っているものがあります。 それは石の|錐《きり》(石|錐《スイ》)というものです。また、|石 匙《いしさしじ》というものがありますが、むかしの人は天狗の |飯匙《めしさじ》といっていたものです。長い形と横にひらた いものとがありますが、双方ともに一方につまみ があり、ほかの側は切れるほど鋭くはありません が、鈍い刃になっています。現在の未開人などが これとおなじような器物を使っているところから考えますと、この石匙は、獣の皮をはぐた めに使用したものにちがいありません。獣の皮と肉とのあいだにある脂肪をごしごしとかき 取って、皮をはいでいくのです(38図)。  いままで申しました石器は、刃物かそれに似たものでありますが、なおほかに、刃物以外 のものもあります。そのなかでもおもしろいのは、石棒です。これは十五センチから三十セ ンチぐらいの長さのものでありまして、円い棒の頭のところがふくれています。そのふくれ たところに、いろいろ模様が彫ってあるのもあります。この棒の大きくないものは手に持っ た梶棒かと思われますが、太くて大きなものにはとうてい持って振りまわすことのできない ものがありますから、それはなにか宗教上の目的に使用されたものだろうと思われます(39図)。  また、|錘石《おもりいし》というのがあります。それはひらたい石塊の上下をすこし打ち欠いて、紐糸を かけるのに便利にしてあるもので、網の錘りとか、機織りに使用したものかといわれていま す。それから石皿というものや、砥石のようなものもあります(39図)。また、石でつくっ た装飾品もありますが、そのなかには、日本の私たちの祖先が使った勾玉の形に似た飾り物 があり、日本にでない美しい緑色の石(硬玉)でつくったものがすくなくありません。  それらは当時、中国から渡った石材を取り寄せてつくったものと思われます。また、この 美しい楕円形の石のまんなかに、穴のあるものなどもあります。これらはみな装飾品と思わ れますが、はたしてどうして使ったものか、はっきりわかりません。  このように、未開な時代でも、美しい石材をほかの地方から輸入して使っていたことがあ るばかりでなく、燧石だとか、黒曜石のようなものでも、その地方に産しない場合はほかの 地方から輸入して使ったのであります。したがって、この石の石質をしらべることによって、 当時の交通とか、貿易の跡とかをたどることができるのでありますから、石器時代の石の性 質をよく調査することが必要であります。  また、石器時代といいましても、当時の人間がもちいていたものは石器ばかりではなく、  ほかの材料でつくったものもないではありません。  そのおもなものは、かれらが食物の材料として捕えた獣類の骨や角でつくったものです。まず、石  器とおなじような刃物の類をやはり骨や角でつくるのでありますが、もっともこれをつくるには、  石器をもちいたのでありましょう。   この骨や角は、石よりも軟らかいのでありますけれども、また一方には、石よりも強くておれやす  くないということが、その特徴であります。それがために、ものを突き刺したり孔をあける錐の類、  ことに毛皮だとか織り物だとかを縫ったり綴り合わせたりするためには、石の錐は堅くてもおれや すくてだめですから、それにはどうしても 、骨や角でつくった錐にかぎると思われます。  また、魚を釣るときの釣針だとか、魚を突き刺すときの銛にも、骨や角でつくったもので なければ役にたたないのでありまして、茨城県の椎塚という貝塚からは、鯛の頭の骨に骨で つくった銛が刺さったまま発見されたのがありました。これは骨製の器物が、漁業にもちい られていたことを証拠だてております(40図)。  この骨角器は、当時においてはその数がたくさんあったことでしょうが、腐りやすいため に石器のように多くのこっておりません。それから、これらの骨角器によって獣の種類をし らべてみますと、たいてい猪と鹿のものであることがわかり、貝塚からでてくる骨や角の類 を見ても、やはり猪や鹿がおもなものであります。それから考えて、石器時代の人間は、貝 や魚のほかに、おもに猪だとか鹿だとかを狩りして、食料にしていたことが知られます。  骨角器以外に、貝殻でつくった器物もないではありませんが、それはおもに装 飾にもちいられたもので、なかでもいちばん多いものは、貝でつくった腕輪であ ります。これはたいてい赤貝の類の貝殻をえぐり抜き、その周囲ばかりをのこし て前腕にはめ込むのでありまして、石器時代の墓場からでる人骨に、この貝輪がそのまま腕 骨にはまっているのがたびたび発見されました。なかには、一方の腕に七つも八つも貝輪をは めているのもありました。  この貝輪を腕にはめる風俗は、今日でも南洋あたりの未開人のあいだに多く見うけられま すが、貝輪はそのえぐり孔がわりあいに小さいので、|掌《てのひら》を通して前腕にはめることはよほど 困難であったことと思われます。今日、貝輪をとって前腕にはめようとすると容易にはまり ませんが、これは今日でも南洋あたりにあるように、うまく気合でもって手にはめ込む専門 家があったかと思われます。また、,供のときからはめたままのものもあったことでしょう。  ついでにほかの装飾品について述べますが、この時分の人は、耳にも石や土でつくった大 きな耳飾りをつけていたのでした。それは、石の環の一方が欠けたような形のものや、鼓の 形をした土製品で、前に申しました石器時代の墓場から、よく人骨の耳のあたりで発見され るのであります。また、腰のあたりに飾りとして、骨や角でつくったいろいろな形のものを さげていました。これも墓場からもとの位置のままで見いだされるのでわかります(41図)。 土器と土偶 日本の石器時代には、土器がよほどさかんに使用されていましたとみえ、どの遺跡にも多 くの土器が発見されます。私たちが石器時代の遺跡を探すには、石器に眼をつけるよりも、 田んぼのなかに散らばっている土器の破片を見つけることがいちばんの早道だと思われるく らいであります。  この土器も、石器とおなじように、あるいは石器よりもより以上に、いちど破損した場合 はとうてい修繕ができません。もっとも、ときには大型の土器にひびがはいったり破れたり したとき、両側に孔をあけて紐で縛りつけたものがないではありませんが、多くは捨ててし まったちのとみえ、のこっている土器はたいていこわれたものであります。もっとも、墓場 だとかそのほかの場所に完全な土器が埋もれていることもありますが、私たちが発見する のは、多くは破損したものです。それは発掘する時壊れるのではなくて、たいていもとか、り 壊れているのであります。  この当時の土雛は、すべて手でつくったものであって、まだロクロを使用しなかったので ありますが、そのわりあいに、形がよくととのっていて、歪んだものなどはすくなく、かな り巧みにつくられているように思われます。それはおそらく、ひらたい籠のようなものの上 でまわしながらつくったのでしょう。  そのころには、すでに土器をつくる専門の技術者もいたのでしょうけれども、後の時代の ように、たくさんの土器を一時に製造するようなことはすくなかったらしく、粗末な仕入れ ものと目兄られるものは、ほんのすこしであります。それで形や模様などもおなじものがすく なく、ひとつひとつちがっているのが 普通でありますが、この時分には、ま だ土器を焼く特別なつくりかたの窯(か ま)が知られていなかったとみえ、後 の時代のようにきれいな色にできてお りません。素焼でありますけれども、 黒ずんだ茶色で、炉にいぶされたのが 多いのです。そしてその土の質も、細 かい砂やときには大粒の砂がまじって いるために、平均しておりません。  これらの土器の形は、そのタナにな らべてあるように非常に種類が多いのでありまして、後の時代や今日のものとくらべて、か えって変化が多様をきわめているのには、むしろおどろかされます。ただ、皿の類はあまり 見当たりませんが、鉢、壼、土瓶、急須のたぐいから香炉形のものなどまであって、それに 複雑な形の取手や耳などがついており、模様はたいてい縄やむしろの型を押しつけ、その上 に曲線で渦巻きだとかそれに似た模様がつけてありますが、ときには突出した帯のような装 飾をつけたものもあります。ごくめずらしい例ではありますが、赤い絵具で塗ったものさえ 見かけられるのであります。  しかし、焼きかたはどれも軟かい質ですから、水をいれるとたいていは浸みだします。そ れには当時の人もさだめし困ったろうと思われますが、今日のように美しい座敷があって、 畳の上にいるわけではなく、すこしぐらいは水が浸みだして濡れたとしても、そう困るよう なことはなかったでしょう。  ところが、この土器を長く使っているうちに、水垢がついたり、魚や獣の脂が浸み込んだ りして、そのために水が浸みださないようになりますので、当時はおそら-<、新しい土器より も、使い古された土器の方がたいせつがられたかも知れません(42図)。  当時の土器の模様は地方によって多少のちがいがありますし、時代によってもかわってき たようですから、それらをしらべてみることはおもしろいのであります。おなじ日本の石器 時代の人々のおたがいの交通とか、文化の関係などを知るには、土器の模様や形などを研究 することが必要であります。  石器はつくりかたやその形もおたがいに似ていて、ほとんど世界中そのかわりはすくない のでありますから、文化の関係そのほかの研究には、土器ほど役に立ちません。ですから、 私たちは石器時代の遺跡にいっても、土器を熱心に採集し、小さい破片でも見のがさないよ うに注意しております。  土器とおなじように粘土でつくったものに、土偶というものがあります。すなわち、土の 人形です。それはたいてい六センチぐらいから十五センチぐらいの大きさのもの が多く、時には三十センチ以上もあるのを見かけますが、いずれも人間の形その ままの写生的なものではなくて、模様ふうに一種の型にはまったものばかりであ ります。  顔でも、眼、鼻、口とあきらかに区別されていない のが普通であります。男と女の別はあらわされていますが ことに女の土偶がたくさんあり ますのは、この時分には女の神さまを崇拝したためにつくったものだという学者もあります。 とにかく、なにか宗教上のためにつくられたもので、玩具ではなかったようです。もし玩具 だったら、人間の形をそのままに写したものにしなければならないと思います。  土偶のほかに、熊だとか猿だとかの獣類をつくったものもまれにはでることがありますが、 これは玩具と見えてよくその形がそれらの動物に似ております。とにかく、日本の石器時代 の土器は外国の石器時代の土器にくらべてよほど進歩し、巧妙につくられており、日本の石 器時代の人間は、土器をつくることが上手でもあり、好きでもあったと思われます(43図)。  いままで述べた土器の話は、主として関東から奥羽地方においてでる土器について申した のでありますが、関西地方、あるいはそのほかの地方から、すこしこれとちがった種類の土 器が石器とともに発見されます。石器にはあまりかわりありませんが、ただ石庖丁だとかえ ぐりのある石斧などが、どちらかというとたくさんでてきます。これは、前の黒ずんだ色の 土器とはちがって、ただの茶色の土器です(44図)。それはつくる時の窯が前のものより進歩 して、焼く時に燻されなかったからでありまして、土器の製作法がいちだん進んだものとみ られます。  その土器の形からいいますと、前のものほど多くの種類がありません。壷とか鉢とか|高坏《たかつき》 などというきまった形のものばかりでありまして、ことに壷には、尻のほうがつぼんだいち ぢくのような形をしたものが多いのです。また、模様はたいていありません。ありましても 直線などを細く切り込んだもので、前に述べた土器のように、曲線だとか縄だとか莚だとか の形を押したものは見当たりません。  一般に、形や模様は単純であって、前のものほど複雑でないということができます。おな じ形をした土器が同時に多くでてくるところを見ますと、これらの土器は、今日のように、 職業的に製造されたものと想像することができます。私たちは、この種の土器を "弥生式土器"と呼んでおりますが、それは最初、東京本郷の東京大学の裏のと ころにある弥生町にあった貝塚からでた土器から名を取った のです。これに対し、前の形の土器を"縄文式土器〃といっております。  このように、土器には二つの種類があってたがいにちがっているのは、これをつくった民 族の人種がおなじでないためでありまして、すなわち弥生式の土器は、われわれ日本人の祖 先の石器時代のもので、縄文式の土器はアイヌの祖先の石器時代のものであろうという人が ありますが、あるいはそうであるかも知れません。  また、人種はおなじでも、新しい文化がはいってきたために、土器にちがいができてきた のかも知れないのです。だんだんしらべていきますと、この二つのなかほどのものも時々発 見されるので、これをつくった人間に関する議論はなかなかむずかしくなりますから、ここ ではそれはやめにいたします。 朝鮮と中国の石器  さて、いままで日本の石器時代の遺跡と、そこからでる品物について述べてきましたが、 つぎに日本に近い中国や朝鮮などの石器時代はどういうふうであったかを、これからすこし お話いたしましょう。中国、朝鮮の石器時代の遺物を、参考のためにここにならべておきま したから、みなさんよくごらんください。  朝鮮では、南方からも北方からも石器時代の遺物がでます。そしてこの国も、また古い石 器時代から開けていたことがわかるのですが、日本に近い南朝鮮のあたりは、日本の縄文式 土器に似たような土器はほとんど発見されません。どちらかといいますと、弥生式土器に近 いものがでまして、石器も磨製のもので、石斧以外に、日本ではすくないきれいに磨いた鋭 い矢の根や、石の剣がたくさんでてきます。  この土器も石器も、日本のものとはよほどちがったところがありまして、石器時代の末、 金属が使用されるようになった時代のものかも知れません。ただ、石斧のなかには、日本の 日本の縄文式土器に多少似た、  この南朝鮮と北朝鮮の上器とは、はたして同一人種がのこしたものであるかどうかは考え なければならぬことでありまして、私たちは、むしろ別の民族がのこしたものではないかと 思うくらいであります(45図)。  さて、中国にはいりますと、朝鮮に近い満州では、各地からでるのとおなじようにえぐりの はいったものがでることは、おなじ形の石庖丁の多いこととともに注意すべきで ありましょう。北朝鮮からは石器も土器もでますが、その土器は南朝鮮のものと はすこしちがって、どちらかというと、あらい線の模様のあるのがでるのであります。 旅順や大連あたりからも石器が非常に 多くでるのでありますが、石斧のなかにはひらたくて孔があるものや、角ばったノミのよう なものがありまして、中国からでるものと非常によく似ているので、どうしてもこれは中国 人の祖先が使用したものらしく思われるのであります。  土器は、やはり日本の弥生式に近い種類のものが普通でありまして、時にはめずらしく、 だんだら模様に彩色した美しいものがでることもあります。中国ではまた、太い三夲脚のつ という形の土器がでますが これは中国や中国の文化の影響を受けた地方に かぎってでるのであって、やはり 満州からもでます。  中国の石器時代のことは、まだよくしらべがついていませんが、 山東省や陝西省、そのほかの土地からも、石器がでてきます。いま お話した満州からでるのとおなじような、孔のあいた石斧などであ ります。土器では三本脚の、餔などでありますが、河南省や甘粛省あ たりでは、墨色の絵具で模様を描 いた美しい土器が、石器といっしょにたくさん発見されたことがありますが、これは石器時 代の末期にあったものと思われます。  この土器は、満州からでる彩色の土器とはちがっていて よほど西の方の国からでるもの に似ているところがありますから、古く西方諸国の文明が中国へはいりこんだものというこ とが想像されて、おもしろいものであります(46図)。  中国では、ただいま申しましたように、新石器時代のものがでるばかりでなく、北京に近 い周口店から、古い古い人骨とともに打製石器が見いだされており、また北方黄河の流れが 北へまがってまた南へおれてくるあたりでも、おなじ旧石器時代の占い遺物が発見されてい るのであります。なお、北方のシベリアの南部においても、旧石器時代のものがでてきたと ころから見ますと、中国にも古く、旧石器時代から人間が住んでいたことがわかるのであり ます。  なにぶん中国は広い国でありますし、またその東部は大河が流した泥だとか風が吹きおく ってきた細かい砂が非常に深くつもっているため、その下に石器時代のものがあるのですか ら容易にしらべがつかず、今日までよく知られておりません。それで、将来われわれがいっ しょうけんめいにしらべていったら、きっとおもしろいことが発見されることと信じます。  台湾にも石器時代の遺物がでますが、中国本土からでるものとよく似ております。しかし、 沖縄のものになりますと、台湾とは似ないで、日本の縄文式土器とおなじ性質の土器といっし よにでるのであります。  以上述べましたように、中国や朝鮮の石器時代のものは、その土器の上から見て、日本の ものとは関係ないようでありますが、ただ弥生式土器のようなものになって、はじめてすこ し似てくるというのでありますから、まず石器時代には、日本は朝鮮や中国とはちがった独 立の発達をしていた民族が住んでいたものと見なければなりません。それが石器時代のおわ りごろになって、中国や朝鮮を経て金属の器物を使うことが日夲へつたえられまして、はじ めて日本と中国のあいだに深い関係が生まれるようになるのであります。それらを証拠立て る品物はつぎの室にならべてありますから、そこへいくことにしましょう。 青銅器と銅鐸  日本の石器時代は幾年ほどつづいたかということは、たしかにはわかりませんが、けっし て二百年や三百年の短い期間ではなくて、あるいは千年、二千年という長いあいだのことで あったろうと思われます。  石器時代の文明もだんだん進んできましたが、ちょうどいまから二千三、四百年ほど前に、 お隣りの中国では、周の末から漢のはじめにかけて中国人の勢力が非常にさかんになって、 どしどし各地へ植民しだしたのとともに、いままですでにもちいていた金属、銅や青銅でつ くった器物の使用がアジアの諸国へひろめられることになりました。その一つが満州 から朝鮮、日夲におよび、それで日本にもはじめて中国の金属をつたえて、石器時代 の文化から金属時代の文化に進むことになりました。  それでは、中国から日本へ金属が伝来したことがなぜわかるかといいますと、それはちょ うどそのころ中国にできた古い銭がいっしょに発見されるからであります。その古銭は、小 刀の形をした刀銭や、鍬の形をした布泉というものでありまして、それが周のおわりごろにで きた銭であるというので、年代がたしかにきめられるのであります。  日本には、満州や北朝鮮よりもすこしおくれて金属がはいってきたらしく思われますが、 それはいまから二千年ほど前、中国の|王芥《おうもう》のころにできた貨泉という銭が時々でるのでわか ります。しかし、金属がはいってきたからといって、すぐにいままでの石器をことごとく捨 てて、ぜんぶ金属器を使うようになったのではありません。金属も、最初は分量がわずかで 貴重品とされていたのが、年を経てだんだん石器にかわっていったのであり、はじめは石器 と同時に使用されていたものと思われます。こういう時代を、私たちは"金石併用期〃と呼 んでおります。  いま申しましたように、日本に青銅器がはいってきたのは中国からでありまして、それは たぶん、満州、朝鮮の海岸をへてはいってきたものと思われますから、したがって日本では、 いちばん西の九州にはじめてつたわったものと考えられます。それがだんだん東へ東へと進 んでいきまして、五畿内地方からその付近が金属をもちいる時代になりましたが、東北地方 にはその後も長く石器時代の文化がのこっていたものと思われます。  さて、日夲に青銅がつたわって、どういうものがまずつくられたかと申しますと、はじめ はむろん中国あたりでつくられた品物がそのまま持ってこられたものとみえ、細い形の銅剣 などは中国のものとまったくおなじものが日本からでてきます。だんだ ん月日をへるにしたがって日本でも青銅器をつくるようになったのであ りますが、材料はやはり多くは中国 から持ってきたものでありまして、時には中国から輸入した古銭を鋳つぶして、ほかの品物 をつくったのかも知れません。  いまでは銅貨は補助貨幣でありまして、本当の価値だけの重量を持っておりませんが、 むかしは中国などでは銅貨がおもな貨幣でありましたから、地金とおなじだけの価値があっ たのです。ですから、それを地金として鋳つぶしたのは、むりでないと思われます。  日本で最初につくられた銅器は前よりは幅の広い銅の剣や|鉾《ほこ》の類でありまして、そのひと つはぐかか形という剣で、この剣は↑ばにあたるところがななめにまがっています。これは .中国の「戈(か)」という武器とおなじように、剣の頭を柄に直角に横にくっつけて使った ものと思われます。そのつぎは銅鉾というもので、幅の広い大型のものでありまして、実用 に使ったものではなく、なにか儀式にでももちいたものとみえ、刃のところも鋭くはなく、 実際に使用するものとしてはあまり大きすぎるのです(48図)。  これらのものが日本でつくられたという証拠には、それをつくる時にもちいた石の型が発 見されるのでわかるのであります。この剣や鉾の類は、九州でもっとも多く発見されます。 そのほかでは、中国や四国などででるばかりで、東の方、東北地方には、今日までまだひと つも発見されていませんが、とにかく、中国のものと深い関係があることはたしかです。ま た、石でもってこの銅剣などの形をつくったものが時々発見されますが、やはりこの時代の ものと思われます(50図)。  つぎに、だいたいこのころのものと思われる銅器に、銅鐸というものがあります。これは すこしひらたい釣鐘のような形をしたもので、小さいものは十五センチから二十センチ、大 きいものになると一メートルから一メートル三十センチもあり、すてきに大きなものであり ます。その表面には、|袈裟襷《ナさだすき》といって、坊さんの袈裟のように格子型に区画した模様をつけ たものや流水紋といって、長い渦巻きの模様をつけたものもあり、時には人間や動物の形を かんたんにあらわしたものがついております。  この銅鐸はいままで古墳からでたことはなく、岩のあいだや山かげなどからひょっこりとでるの が普通であり、そしてたくさんの数がいちどにでることも時々あります。 また、九州地方からはひとつもでたことがなく、おもに畿内から東海道方面にかけて多く発見され るのであります。  銅鐸は、その形が釣鐘のようでありますから、やはり楽 器ではあるまいかという人もありますが、楽器に使った跡 も見られませんので、なにか宝物として持っていたものだ ろうと考えるよりしかたありません。剣や鉾のようにこれ を鋳た型が日本では発見され ないので、あるいは中国の方から輸人したものだろうといわれますが、中国にはこれとおな じ品物がありませんので、やはり日本でつくったとみるほかはないのであります(49図)。  まず、いまお話したように、剣と鉾と、それから銅鐸などが、青銅がはじめて日本へはい った時分の遺物でありますが、中国ではすでに漢の時代からさかんに鉄が使用されるように なっていたので、日本へもまもなく鉄がはいってきて、刀やそのほかの武器に鉄をもちいる ことになりました。それで、ヨーロッパの諸国や中国のように、青銅器時代というものを区 別するほどのあいだもなく、すぐに鉄器の時代に移ってしまったのです。そして、日本は歴 史のある時代にはいって、われわれの祖先がのこした品物が、だんだんとあらわれてくるの であります。  みなさん、ここにある銅剣や銅鉾や銅鐸などをごらんになったら、つぎの室にいくことに いたしましょう。 日本の原史時代室 日本の古墳  石の器物ばかりを使っていた石器時代から、つぎはすこしずつ金属の器物をもちいた時期 をすぎて、日本もついに金属の利器をおもに使用するいわゆる金属時代にはいりました。そ して金属は前に申しました通り、青銅だけを使用した時代はきわめて矩く、あるいはほとん どないくらいで、すぐに鉄を使う時代になったわけであります。これと同時に、日本は歴史 のない時代からすこしずつ歴史がわかる時代になってきたのであります。このように、まだ 歴史がじゅうぶんにあきらかではないが、ぼんやりわかってきた時代を、われわれは"原史 時代"というのであります。  日本の石器時代の遺物をのこした人間は、どういう人種であったかということについては いろいろの議論がありますが、この原史時代にはいって、金属の器物を使っていた人間にな りますと、今日のわれわれとおなじ日本人であったことが、疑いないのであります。  さて、この時代の日本人ののこした遺跡にはどんなものがあるかと申しますと、古くから 石や煉瓦で家屋をつくった外国などでは、家屋をはじめほかの建築物の遺跡が多数にのこっ ているのでありますが、日本では今日とおなじように多く木材で家を建てたので、その跡は まったくなくなってのこっておりません。ただ、いますこし後の時代のお寺や宮殿などの跡 から、柱の|礎《いしずえ》や瓦がたくさん見つかるだけであります。  日本は島国でありますので、外国人から攻められるという心配もすくなかったので、城を 築く必要もあまりなく、そうした種類の遺跡もたくさんはありません。ただのこっているの は、その時分の人のつくったお墓であります。  この墓は形も大きくたいそうがんじょうにつくられてありますから、千年、二千年後の今日 まで、幸いもとのままでのこっているものがたくさんあり、古くから日本人が住んでいたと ころは、南は九州から北は東北地方にいたるまで、どこでもかならずこの古い墓を見ること ができます。しかし、墓のほかにはわずかに陶器をつくった窯跡のようなものがあるくらい で、ほとんどいうにたるものはありません。  これからみなさんといっしょに、私たちの祖先がつくった古いお墓がどういうものであっ たか、またそのお墓のなかからどういうものが発見されたかを見ていきたいと思います。そ してこれをよくしらべると、その時分の人がいかなる文化を持っていたかとか、どういう技 術の所有者であったかということがわかりますので、お墓を研究することは、歴史の書物を 読むのとすこしもかわらないのであります。  さて、日本人の古いお墓は、今日のように石碑や石塔を立てたのではなく、たいてい土ま んじゅうのように高くなっているので、私たちはこれを高塚とか古墳とかと申しております。 そのうちいちばん古い形で、またいちばん後までのこっていたのは、円形の塚であります。  いったい、円い塚はどこの国でもむかしからあるのでありまして、人間の死体をまず地上 に置いた上に土を盛りかけると自然に円い塚ができるのでありますから、どこの国の人間で も自然にこうした塚をつくることになるのであります。ところが、この円い塚を、土で死休 の上をおおうばかりでなく、しだいにりっぱにつくるようになりまして、高さも高くなり、 周囲もだんだん大きくなって、あるいはかがみもちをかさねたように、円い塚のまわりにだ んだんをつけたような形もでてまいりました。  世界中どこにもあるこの円い塚のほかに、日本では他国で見ることのできない一種の形の 塚がつくられたのです。それは、円い塚の前の方が延びて四角になった形で、ちょつとむか しの口の広い壷を伏せて横から見たような形をしているものであります。あるいは、お茶を ひく茶臼の形に似ているところがあり、また車の形にも似ていますので、罐子塚(かんすづ か)とか茶臼塚、車塚とかいろいろの名がついていますが、私たちは前方後円の塚と呼んで おります。それは、前が四角で後が円いという意味であります。また、この前方後円墳には、 後の円いところと、前の四角なところとのつなぎめのところの両側に、小さい円い丘がつい ていることがあります。それがいかにも車の両輪に似ていますから、むかしの人が車塚とい ったのはおもしろい見かただと思います。もっとも、この形の古墳は、むかしでも偉い人を 葬るためにつくったものでありまして、天皇陛下だとか皇族の方々のお墓に多くもちいたの でありまして、一般のものはやはり円い塚をもちいたのであります。その大きいものになり ますと周囲が一キロ以上のものもあり、外側にたいてい堀をめぐらしてあります。  この形の塚は、日本に近い朝鮮や中国においてもけっして見ることができないので、じつ に日本独特のものといってよろしい。しかし、どうしてこのような形の塚ができたかという ことについてはいろいろ議論もありますが、どうもはっきりわかりません(5!図下)。  また、一方には、古くからある円い塚とともに、とくに四角い古墳もあります。この四角 の形の塚は中国では古く秦や漢の時代から天子の菓などにあったもので、それを日本が中国 と交通をはじめてから後にまねたものが多いようであります。そして、用明天白佚推占天呈 の御代になると、天皇の御陵などにこの四角の形のお菓がつくられるようになりました。そ れですから、日本の占い墓の形は、まず円いのと四角なのと、前方後円なのとの三通りとい うことができます。  そのうちでもっとも古くからあったのは円塚、そのつぎにできたのが前方後円、それから 最後に流行してきたのが四角塚でありますが、この前方後円と四角な形はやがてすたれてし まって、普通の円塚がもっぱらおこなわれるようになりました。 日本の原史時代  さて、いま申しましたいろいろの形の古墳は、今日のこっているものにはたいてい松の木 や他の樹木が生え繁って、遠方から眺めるとこんもりとした森のように見えるのですが、む かしはそんなに樹木が生えていたわけではなく、たいていそれらの塚の上には円い|磧石《かわらいし》をの せて、ぜんたいをおおっていたものでありました。ちょうど今日、明治天皇や大正天皇の御 陵において見られるように、樹木が生えないようにしてあったのです。それが年月を経るに したがって石が崩れたり、そのなかに木の種が落ちて芽をだしたりして、塚の上に樹木が茂 ってきたのであります。  もっとも、塚の周囲などには、むかしはおまいりするときにお供え物をしたり、お祭りを するためにいろいろのものがおいてあったにちがいありませんが、それらの器物は今日では たいてい土に埋もれて見えなくなったり、壊れてなくなってしまって、のこっているものはは なはだすくないのであります。ただ"|壇輪《まこわ》〃といって、人の像や動物の形、壷の形を土でつ くったものがならべてあったことは、そののこりものがあるのでわかります。  これらの墓のなかには死骸をじかにいれたのではなく、石でつくった石棺だとか石でつくっ た大きい部屋がつくられていて、そのなかに石棺、あるいは木棺に死骸を納めて葬ったので あります。私はこれからまず墓のそとにめぐらしてあった埴輪についてお話をいたしまして、 それから墓のなかの石棺や石の部屋のことに話を進めましょう。 埴輪と石人  さて、お隣りの中国では、漢の時代ごろから後、墓のなかに土でつくった人形や動物の像、 そのほかいろいろの品物の形をいれ、また陵菓の前に石でつくった人間や動物の像をならべ て飾りとすることがはやりだしましたが、日本でも古く前方後円の古墳がつくられた時分に は、墓の前などに土でつくった人間や動物の像をならべる習慣がありました。この土でつく った像を埴輪樹物(はにわたてもの)と申します。  むかしからのいいつたえによりますと、垂仁天皇のときに、天皇の御弟倭彦命(やまとひ このみこと)が莞去になった際、そのころ貴人が死ぬと、家臣などが殉死といっておともに 死ぬという習慣がありましたので、多くの家臣が命のおともをして生きながら菓場に埋めら れました。ところが、なかなか死にきれないので、その悲しい泣き声が天皇の御殿にまで聞 えてきました。それで天皇は、殉死の風俗ははなはだ人情にそむいた残酷なことであるから、 これはどうしてもやめなければならぬとお考えになりました。  その後数年を経て、皇后日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)が崩御になりましたときに 野見宿瀰(のみのすくね)という人がおりまして、天皇に今後は土でもって人間の像をつく り、それを人間のかわりに埋めましたならば、古くからつたわっている風俗をも保存し、ま た人間を生き埋めにするような可愛そうなことをなくすことができると思いますと申しあげ ましたので、天皇はそれはまことによい思いつきであるとおほめになって、それからは土で つくった人間などの像を墓のそばに埋めることになったのだということです。  元来、墓の周囲に、一つは土が崩れないように、もう一つは飾りのために、土でつくった 筒形の焼物をならべて埋めるということは、その以前からもあったように思われますから、 この野見宿禰のような人は、中国でおこなわれていた石でつくった人間の像や動物の像を墓 側に立てる風俗を聞いて、それを土でつくることに考えついたのかも知れません。 宿禰という人は、相撲をはじめたといわれている人とおなじ 人であります。とにかく、埴輪というものが、垂仁天皇の御 代前後からはじまって、四、五百年ぐらいつづいたことはたしからしいのであり ます。  この埴輪という言葉の"壇"というのは粘土ということで、"輪"というのは輪の形にな らべることからでた名前だということであります。それで、私たちが古墳へいっても、埴輪 の人形や筒形のものの破片が発見された時には、その塚がごく古いこの時代のものであるこ とを推定することができるのであります。  さて、埴輪の筒形のものは墓の丘のまわり、ときには堀の外側の土手にも、一重、二重、 あるいは三重にも取りめぐらされたのであり、また塚の頂上には、家形やそれに似た大きな 埴輪をおいたものであることはいままでもわかっておりましたが、人間や動物の埴輪などは どこへ立てたものか、はっきりしたことがわからなかったのであります。  ところが、群馬県のある前方後円の古墳では、周囲の堀の外側、ちょうど墓の前のところ に筒形のものを二重にならべ、その一部分に人間や馬や鳥の埴輪を集めて立てたのが発見さ れました。また、ある円形の墓では、墓のまわりに筒形をならべ、その前のところに人形を 立ててあるのが掘りだされました。それでだいぶよくわかってきましたが、つまり、墓の前 とか墓のまわりの要所要所と思われるところに、人間や馬や鳥などの像をならべたものにち がいありません。  さて、この埴輪はどういう焼物かといいますと、細い刷毛目の線のはいった赤色の素焼き でありまして、人間の像はたいてい一メートルくらいの高さで、男子も婦人もあります。そ して男子のものには身に甲胄をつけ剣を佩いている勇ましい形をしたものがあり、婦人の像 には髪を結びだすきをかけ、なにか品物を捧げているようなものがあります。そして顔には 赤い紅を塗ったものだとか、すこし口元をゆがめて悲しそうな表情をしたものもあります。  いずれもいたって粗末なかんたんな人形で、脚のほうはたいてい一夲の筒形になり、足の さきまであらわしてあるのはそうたくさんありません。しかし、そのうちになんともいえな い無邪気な顔つきやようすをしているところなど、いかにもむかしの人の飾り気のない心が うかがわれるばかりでなく、当時の人の風俗だとか服装などもこれによって知ることができるので すから、なかなかたいせつなものであります。  つぎに、動物の像には馬がいちばん多く、それにくつわだとか鞍だとかの馬具をつけているのが 見られます。また、脚の ほうはやはりたいてい筒形になっていて、実際の馬の脚のようにはできておりませんが、そ れがかえっておもしろみをましております。馬のほかに、動物の像には、牛だとか猿だとか 猪だとか、また、鴨や鶏などもあり、なかなかおもしろい形のものがあります。  そのほかのものには家の形がありまして、その屋根には今日私たちが伊勢神宮の建築で見 るような、ちぎやか書ぎをのせているのもありますが、また剣や縦や鞭というようなもの を模してあるのも発見されます。とにかく、この埴輪というようなものはなかなかおもしろ いもので、日本人のつくったいちばん古い彫刻物ということができ、むかしの人の生活や風 俗を知る上に、もっともよい材料の一つであります。  また、埴輪のあることによって、その塚がごく古いこともわかるのでありますから、考古 学の研究上、非常にたいせつなものとされておりますが、なにぶん墓の外に立ててあったの で、長い年月のあいだに雨風にさらされて壊れてしまい、完全にのこっているものがきわめ てすくないのは残念なことであります。  この部屋には、ただいまお話した人間や馬の埴輪の実物 をはじめ、いままでに発見されたおもしろい埴輪の模型な どが陳列してありますから、よくごらんになって、今後古 墳をしらべる時にこんなものの破片が落ちているかどうか を注意されるように望みます(52・53・54図)。  また、埴輪の人形や馬とおなじ形のものを、石でつくっ て墓に立てたこともありました。これを石人、石馬などと 申しております。しかし、これは日本のごく一部の地方で おこなわれただけで、福岡県や熊本県などにときどき見ることができます。  福岡県にはむかし、継体天皇の御時、|磐井《いわい》という強い人がいて、朝鮮の|新羅《しらは》と同盟して天 皇の命に背いたので、とうとう征伐されてしまいましたが、この人は生きている時分から石 でお墓をつくり、石の人形などを立てて豪勢さを示していたということが古い書物にでてお ります。ちょうどこの磐井のいた地方に、いまも石人、石馬が多くのこっているのはおもし ろいことです(55図)。 石棺と石室  古墳の形と、それから外側に立っている埴輪について、ただいま一通りお話したのであり ますが、これからは、古墳の内部にある石棺と石室のお話をいたしましょう。  日本の古墳は、元来小高い丘の上などにすこし手を加えた円い塚だとか、前方後円の塚を、 きずいたのでありまして、その頂上に木や石の棺を収めるというのが普通のやりかたでした。 また、なかには粘土で固めた棺のようなものもありました。  石棺というのは、いちばんはじめは自然の薄い板石を組合わせてつくった、小さな箱のよ うなものにすぎませんでしたが、それがだんだん大きな石をもちいることになり、ついには 長さニメートル以上もある大きな長持のような形をしたものがつくられるようになりました。 こんな大きい石楴になりますと、その石を運搬するのに不便でありますから、石のまわりに いぼのような突起を数力所につけて、運ぶのにつごうよくしてありますが、後にはこの突起 が飾りの意味にも役立つことになったのです。またときには石を組合わせて棺をつくること をしないで、蓋と身を別々にして、石をくりぬいて大きな棺をつくるように進歩してきまし た。  この類の石棺の蓋は、家の屋根に似た形にできているものもあり、また竹を二つにわった形を しているものもあります。もっともこの蓋にはやはりいまお 話した突起が四隅についているのが普通であります(56図)。  このような石棺はなかなか大きくりっぱなものでありまし て、そのなかには死者がふだん持っていたたいせつな品物をい っしょに収めたのでありますが、なにぶん空気が楴のなか へ侵入するので、今日これをあけてみても骨がのこってい るのはごくまれであって、わずかに歯がのこっているくら いであります。しかし、死者とともに葬った品物は、たい ていのこっております。それらの品物については、後に述 べることにいたします。  この石柏のほかに、陶棺といって、赤い埴輪のような焼 物の棺があります。それはごく吉い時代にもあって、その 時分はただ大きなかめや壷を合わせて使ったのですが、後には石棺をまねて、やはり家形に 似た大きな棺ができました(57図)。  いまお話したような石棺を塚におさめる時は、じかに土のなかに埋めたものもありますが、 たいていは石棺のまわりにあたる場所にまず石囲いをしてそのなかに石棺をいれ、上に蓋を したのであります。これを竪穴式石室と呼んでいる人がありますが、じつは石の部屋という ほどのものではなく、ただかんたんな石の囲いにすぎないのであります。  その後、たぶん朝鮮、中国の風習がつたわったのでありましょうが、横 からはいる長い石の部屋が塚のなかにつくられることになりました。この 石の室は、円塚ではたい ていその前のほう(南に向いたものが多いのですが)に口を開いており、前方後円の塚では 後のほうの円い丘の横に入口が開いているのが普通であります。  この石室の大きさや形はいろいろ種類がありますが、なかにはきれいな切り石でつくった ものもありますし、また、そう手を加えない重さなんトンというほどの大きな石をもちいて つくったものもすくなくありません。  この石室の入口はいったいに低く狭くて、大人が体をかがめてはいらねばならぬくらいで すが、内部は広くて天井は人間の身長よりも高いのが普通で、なかには身長の二倍ぐらいの ものもあります。この石室のつくりかたは西洋のドルメン、あるいは「石の廊下」というも のに非常に似ていますけれども、日本のは西洋のもののように古いものではなく、また、本 当のドルメンというほどかんたんなものは、日本ではほとんど見当たりません(58・59図)。  石室の中にはたいてい石棺を一ついれてありますが、二つ以上の石棺をいれたものもあり ます。たとえば大阪府南河内郡にある聖徳太子のお墓には、太子の母后と太子の妃と三人の 御棺をいれてあるといいます。また、なかには、死者を石棺でなく木棺にいれて葬った石室 も多くあります。これは木棺は腐っても、それに使った鉄のく ぎなどがのこっているのでわかります。元来、以前は一つの塚 には一人しか葬らなかったのが、この石室をつくる時代になっ てからは一人だけを葬る場合もありましたが、家族のものを一 つの石室に葬る風習ができたかと思われます。  みなさんは、このような石の室にはいったことがありますか。 大きい石室は奥行きが二十メ1トル近くもあり、室内は真暗で すからたいそう気味の悪いものでありますが、ろうそくをとも したり懐中電灯を携えていきますと、内部の様子がよくわかり ます。内部はあんがいきれいでありますから、ちょっとここに 住んでみてもよいと思うほどであります。道理で、ときには乞 食などが、この石室に住んだりしております。冬は暖くて 夏は涼しいので、住居には申しぶんないということです。  古墳のなかには、横穴といって、山の崖のようなところ に横に穴をあけたのがあります。つまり、塚をこしらえる のを倹約して自然の岸を利用し、ただ部屋だけをつくった ものということができます。これはたいてい一つのところ に多くの穴が集まっていまして、なかには蜂の巣のようにたくさんの横穴がのこっているの もあります。その名高いものには、埼玉県の吉見の百穴というのがあります(60図)。  以前は、この横穴をば、人間が穴ずまいをしていた跡だと考えておりましたが、やはりむ かしの人の墓場なのです。  それですから、この横穴は古墳の石室とおなじ意味のものでありまして、そのつくりかた もだいたいにおいてよく似ております。しかし、たいていはそれほど大きくはなく、四角、 あるいは円い部屋が一つあるくらいですが、めずらしいものになりますと、横穴のなかに石 棺がつくってあったり、石の床が三方に設けてあって死体を置くようになっていたり、天井 に家屋の屋根をまねてあるものもあったり、内部に刀剣の形を彫ったものなどもあります。 しかし、まずそんなのは例外であって、普通はなんの装飾もなく、かんたんな穴にすぎませ ん(61図)。  いままで、日本の古墳の形と構造について述べてまいりました が、つぎには古墳から発見されるいろいろの品物についておはな しをいたします。その前に、ごく古い時代の天皇の御陵、すなわ ち「みささぎ」についてすこし申し上げたいと思います。  元来、日本の古墳の研究は、高山彦九郎、林子平などとともに 寛政の三奇士といわれた蒲生君平が、歴代の御陵が、壊れたりわ からなくなっているのをなげいて、自分で各地の御陵を探索し、 ついに『山陵志』という本を著したりしたころから、御陵の研究 につれておこったのでありました。そして明治の時代になっていろいろ日夲の学者が研究を はじめ、また大阪の造幣局へきていた英国人のゴーランドという人などがやりだしたのであ りました。古い時代の天皇の御陵は、日本の古墳のなかでももっとも大きく、またもっとも りっぱな代表的なものでありましたから、古墳を研究するにはぜひこれらの御陵にいってそ れをよくしらべなければならず、ことに古墳の時代を知るには御陵がなによりの標準となる のであります。私なども、少年のころ、御陵を巡拝するというようなことから、ついつい考 古学に興味をおぼえるようになったしだいであります。  さて、日本の上古から奈良朝ころまでの御陵がどういう形の塚からできているかというこ とをお話しいたしましょう。かの神代の三神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)、それから鷦鵬草}。耳不合尊(うがやふきあえずのみこと)の御陵は、 今日九州の南の大隅、薩摩のほうにさだめられてありますが、それは神代の御陵であります から、いまは申しません。  つぎに、第一代の神武天皇の御陵は、大和の畝傍山の麓にあることはみなさんも知ってお られる通りであります。しかし、この神武天皇の御陵は久しく荒れはてていて、じつはその 形もよくわかりませんし、場所についてもいろいろの説がありますが、とにかくあまり大き くない円い塚であったと思われます。それから六、七代ばかりの天皇の御陵も、大和の南の 方にありますが、やはり円い塚であったらしいのです。  第十代の崇神天皇とつぎの垂仁天皇のころから、前が角で後の円い前方後円のりっぱな車 塚がきずかれるようになったことは疑いありません。その垂仁天皇のときに、あの野見宿濔 が埴輪をつくったとつたえられていることは、前に申しました。それから降って景行天皇、 成務天皇、また、神功皇后の御陵などは、みな奈良の南、あるいは西の方にありまして、や はり大きな前方後円の塚でありますが、仲哀天皇、応神天皇にいたってはじめて大阪の南東 方に御陵がつくられ、つぎの仁徳天皇から三代ばかりは、いまの大 阪の南の方、堺の付近に御陵が設けられることになりました。  この応神、仁徳両天皇の御陵は、日本の御陵のなかでもいちばん大 きいりっぱな前方後円の塚で、なかでも仁徳天皇の御陵の周囲はニ キロ近くもあり、世界中にこのような大きな古墳は、エジプトのピ ラミッドをのぞいてはあまりないかと思われます。そしてこの御陵 は三重に堀をめぐらし、その周囲には陪塚(ばいちょう)といって、臣下の人たちの墓がた くさんならんでおります。遠くから見ますと小山のようであり、近くにいきますと、大きな 松の木が御陵のまわりに生え茂ってじつに神々しく、参拝者はだれでもその威厳に打たれる のであります(63図)。  仁徳天皇の御陵と応神天皇の御陵とは、その大きさが優れているばかりではなく、歴史上 から見てももっともたしかな御陵で、これが標準になって、われわれは、そのころ日本に前 方後円の塚がさかんにつくられ、そして埴輪が飾られていたことなどを知ることができるので あります。それゆえ、考古学の上からも、もっとも貴重な御陵と申さねばなりません。  それから十一、二代のあいだ、仏教が日夲にはいってきた時分、敏達天皇のころまではす こし型は小さくなりましたけれども、やはり御陵はみな前方後円の塚でありました。ところ が、用明天皇、推古天皇、すなわち聖徳太子のころの天皇から天智天皇のころまでは、中国 の影響を受けた四角な塚が御陵につかわれて、まったく様子がかわってきました。  いま申しました天皇の御陵は、たいてい奈良県と大阪付近などにありますが、天智天皇の 御陵は京都の東の方にありまして、四角の塚で上部が円くなっているということであります。 この天智天皇の御陵にかたどって、明治天皇、昭憲皇太后、大正天皇の御陵などもつくられ たということであります。あなたがたはこの御陵へ参拝したことがありましょうが、ああい うようにできていたのです。  その後、奈良朝から平安朝のはじめの御陵になりますと、またむかしにかえって円い形の 塚になりました。そして仏教がさかんになってきてからは御陵はいっそうかんたんになり、 また火葬がおこなわれまして、小さな御堂や石の塔を御陵に建てることになり、ことに武家 が勢力を占めるにいたった時代からは、皇室の御陵ははなはだ小さなものになってしまった のです。それに引きかえて、日光にある徳川氏の廟があの通りりっぱなのを見て、蒲生君平 などが憤慨して尊王の念をおこしたのは、まことにむりもないことであります。  それはともかく、われわれは日本の古い時代の御陵を巡拝すれば、日本の古墳のつくりか たの変遷をも知ることができ、歴史の研究にも非常に役立つわけでありますから、私はみな さんが、ただ高い山などに登るばかりでなく、ハイキングのときには、こういう方面へもで かけることを、おすすめいたします。 勾玉などの玉類  さて、話は前にもどり、古墳のなかにはどういう物が埋められているかと申しますと、石 棺あるいは石室のなか、死体を収めてあったところ、しかももっともその体に近いところに あるものは、その人が身につけていた着物と飾り物とであります。  しかし、藩物はみな腐ってしまってのこっておりませんが、飾り物のなかでいちばん眼立 つのはまず勾玉、その 他の玉類であります。 これは堅い石かガラス でつくってあるので、 その色ちかわらず完全 に保存されており、発 掘された時だれにでも すぐ目につき、発見さ れやすいのであります。 これらの玉類は、もとは結んでつない  あるいは手首脚首などに めぐらしたものであることは、墓のなかからでてくるぐあいや埴輪人形にあらわされている のを見てもわかります。  さて、玉類のなかでもいちばんたいせつなものは、勾玉であります。勾玉が八坂瓊(やさ かに)の勾玉として、       三種の神器の一つにも数えられていることはみなさんもよく知ってお られるでしょうが、この玉の形は頭が円くて尻尾がまがり、ちょつと英語の7★コンマ) のような形をしています。大きなものになりますと、長さが十センチにも達するものもあり ますが、普通は三センチから五センチ前後のものであります。  そしてその石は、ごく古い時分には、日本に産出しない中国伝来の硬玉(ひすい、|青螂扞《せいろうかん》) という半透明の美しい緑色の石でつくられてあって、なかなかきれいなものでしたが、やや 後の時代になると、島根県あたりからでる|碧玉《へききよく》という青緑の石がもちいられ、また赤い瑪瑙 が普通に使われるようになりました。  この後の時代、奈良朝ごろになりますと、勾玉の形が「コ」という字の形のように角ばっ てきて美しくありませんが、古い時代の勾玉はなかなか優美な形をしていて、その頭の孔の ところに、三つか四つの切り目がつけてあるのが普通です。この切り目のあるものを|丁字頭《ちようじがしら》 の勾玉と申します。ですから、みなさんは勾玉を見ても、どういうのが古いか、またどうい うのが新しいのかを、それで知ることができるのであります(64図)。  また、新しい勾玉の模造品はその孔がまっすぐに筒形にあいていますが、古い勾玉はたい てい一方あるいは両方から円錘形にちかい孔があいており、この孔のあけぐあいでも、ほん とうに古いものか、偽物であるかがわかるのであります。  勾玉は、むかしも非常に貴重品にされていたものとみえて、日本では一つの古墳からあま りたくさん発見されません。これに反して、わりあいにたくさんでてくるのは、管玉という 玉です。これは管の形をした筒形の玉でありまして その長さは三センチ前後のものが普通 です。石はたいてい島根県からでる碧玉でつくってあります。  むかしは管玉のことをたか玉といったのですが、それは竹玉という意味であって、この青 い碧玉をもちいたのは、ちょうど青竹を切って使ったのをまねたからだといわれております。なお、 管玉のなかでごく古いものには、非常に細くて直径が三ミリ前後のものが多いのですが、時代がや や降ると、だんだん太くなります。  管玉のつぎにたくさんでるものに、|切子玉《きりこだま》というのがあります。これはほとんどみな水晶でつく つてありまして、六角あるいは八角の方錘形を底のほうで二つつないだかっこうになっております。 そのほかの玉類には、裏(なつめ)玉、丸玉、平玉、小玉などいろいろの種類がありますが、これ らの小さい玉は多く紺色、あるいは緑色のガラス(瑠璃)でつくってあるのが普通であります。こ  この時分からすでに色ガラスがつくられたことがよくわかりますが、無色透 明の板ガラスは、まだ世界中どこにもありませんでした(65図)。  このような玉は、古墳が発掘された時、たいてい土のなかにまじっていますから、すぐ見 つからないことがあります。それで、土を|篩《ふるい》にかけてよく探さなければなりません。  いま申したいろいろの種類の玉のなかで、勾玉は日本以外ではただ朝鮮の南方からでるだ けで、ほかの国ではほとんど発見されていませんから、まず日本独特の玉といえます。  ところが、このおもしろい勾玉の形がどうしてできたのであるかといいますと、むかしの 人が狩りをして獣をとり、その牙や歯に孔をあけて飾りにした風習がつたわって、その牙や 歯の形がまがったのをまねて、しだいに勾玉に見るような美しい形になったのだと、多くの 学者はいっております。こういう孔をあけた獣類の牙や歯は、日夲の石器時代の遺跡や外国 の遺跡からもずいぶんたくさん発見されますが、勾玉のように美しい形の玉は、外国ではま ったく見られません。  また、玉を体につけて飾る風習は、世界いずれの 国にもありますが、日本は中国などにくらべてよけ いに玉を愛したとみえて、中国の墓からはそれほど たくさんの玉が発見されることはありません。なお、 玉類のほかに体へつけた装飾品には、金鍛という銅 にメッキをした環がありまして、これはたいてい一 対ずつでるので、たぶん耳飾りなどに使ったものと 思われます。またこの鐶に、ハート型などの細かい 飾りがぶらさがっている、黄金でつくったりっぱな 耳飾りがときどきでることがありますが、これは南朝鮮の古墳からたくさん発見されるもの で、朝鮮ふうのものということができます(66図)。 古い鏡  古墳から銅でつくった鏡がたくさんでますが、ことに古い時代の古墳には、多数の鏡を棺 のなかにいれてあるのでありまして、時にはひとつの古墳のなかに、十枚、二十枚、あるい はそれ以上あることもあります。そして、その鏡はたいてい中国でつくられたものであり、 時にはまた日本でつくられた鏡もありますが、それもまったく中国の鏡をまねてつくったも のであります。  中国製の鏡はみな、そのころ大陸から輸入されたものでなくてはなりませんが、不思議な ことには朝鮮の南、むかしの新羅の国の古墳は日本の古墳とよく似ていて、そのなかから勾 玉のような日夲特有のものがでるにもかかわらず、鏡にいたってはほとんどまったく発見さ れないのです。  王様の墓と思われるりっぱな墓でも、鏡は一枚も掘りだされないのは、じつにきみょうに 思われますが、まさか新羅の人は鏡を使わず、お化粧をしなかったとは思われませんので、 鏡をもちいていたけれども、死人の棺のなかになにかの理由でいれなかったものと考えられ ます。しかし、つぎの高麗という時代の墓からは、鏡がたくさんでてきます。  鏡は、むかしは中国でも、顔を写すばかりのものではなく、これをもっていると悪魔をよ けるというような考えがあったので、墓に収めたのもそういう意味があったのかも知れない のです。このように、新羅の人は鏡を使ったにしても墓に埋めないから、中国からたくさん の鏡がはいってきたとは思われません。それゆえ、日本へきた中国の鏡は朝鮮を通らないで、 おそらく南中国のあたりから直接にきたものではないかと思われます。  さて、中国では、周の末、秦の時代ころから鏡がつくられていたらしいのでありますが、 漢の時代になってから非常にたくさんつくられ、六朝時代をすぎて唐の時代まで、さかんに りっぱな鏡があらわれましたが、その後宋の時代からは、だんだんまずい粗末なものになっ てしまいました。  鏡の形は、いちばん古い時代には、時に四角なものもありましたが、だいたい唐の時代こ ろまでは円い鏡でありまして、花弁のように周囲が切れている八稜鏡とか、八花鏡という形 の鏡は、まったく唐の時代になってはじめてできたものであり、また柄のついた鏡も唐や宋 以後のものであります。それに、世間では三種の神器の中にある御鏡を、八稜鏡のようなか っこうのものと思う人があるのはまちがいで、もちろん、だれもこれを拝した人はないのであ りますが、古い時代の鏡でありますれば、かならず円い鏡でなければならないのです(68図)。  さて、古墳のなかからでる鏡は、ちょうど漢から六朝時代の鏡でありまして、その裏面、 顔を写す側の反対側には中央に丸い|鉦《ちゆう》があって、その周囲にはいろいろの模様がきざまれて います。時代がかわるのにしたがって、この模様もだんだんかわっていくのでありますが、 漢の時代の鏡には、曲線や直線をあつめた模様や、写生的でない動物の姿などがあらわされ ております。  そこにならべてある鏡をごらんになればよくわかりますが、このような模様をつけた中国 の鏡は非常によくできていますのに、そのころ日本でできた鏡はまだつくりかたがまずいの で・たいへん見劣りがいたします。たとえば、模様のなかにある中国文字でも、日本製の鏡 にはなんだかわからない字の形になったり、模様もはっきりいたしません。それで、これを よく見ますと、日本製か中国製かの区別がわかるのであります(67図)。また、それらの鏡を お墓にいれる時には、はじめは袋のようなものに納めていれたにちがいなく、発見された 鏡には、ときどき腐った布のはしが着いているのを見ましても、それを知ることができます。  古墳からは漢から六朝ころまでの鏡と、それを模造した日夲製の鏡とがでるだけで、唐以 後の鏡は、ほとんど発見されないといってもよろしい。しかし、鏡はもちろんそのころでも もちいられたので、これは当時のりっぱな鏡の例が、奈良の正倉院の御庫にたくさん保存さ れているのでわかります。ただ、墓へあまりいれなかったものと思われます。  日本では、平安朝以後になりますと、唐の鏡の模様をだんだん変化させて、ついにはまっ たく日本的な、ごく優美な模様をつけた鏡をつくるようになりました。そういう鏡は古墳か らはでませんけれども、経塚といってお経などを埋めた後の時代の遺跡からよく発見され、 また古いお宮やお寺にたくさんつたえられています。前には日本製の鏡は中国製のものにく らべてまずかったのが、この平安朝から足利時代になって、中国の同時代の鏡とくらべると、 かえってうまくでき、なかなか優れたところがあるのであります。  この日本製の鏡を、和鏡といっています。つまり、日本がその時代になって、だんだん文 化が進んで、技術も秀れていたことを示す、なによりもよいしょうこであります。 刀剣と甲冑  いまお話した古墳からでる鏡は青銅でつくってあるので、緑色のさびがでていてもくさっ たものはすくなく、たいてい壊れないで土のなかからでてきます。ところが、古墳にいれて あった刀や剣の類になりますと、その数は非常にたくさんありますが、中身がみな鉄ですか ら、赤さびになってぼろぼろに腐ってしまい、完全に取りだすことはよほどむつかしいので ありますが、ただ鞘の上に飾ってあった金メッキをした銅などの部分だけが、わりあいによ くのこっているだけであります。  さて、この時分の刀剣の身はみなまっすぐで、後の時代の刀のように|反《そ》りがありません。 また、源頼朝や義経などの時代から後になりますと、みなさんも知っている通り、日本刀と いうものがさかんにつくられて中国へも輸出されたくらいでありましたが、この古い時代で は、かえって中国や朝鮮から、よい刀剣が輸入されたのであります。  刀剣の身の形はたいていたいしたちがいはありませんが、|柄《つか》の形にはいろいろちがったも のがありまして、そのうちめずらしいものには「くぶつち」の大刀というのがあります。こ れは柄の頭が槌の頭、あるいは拳をまげたような形をしているもので、多くは金メッキをし た銅でできていて、非常にきれいなものであります。こういうようなつくりかたの刀は、中 国にも朝鮮にも見つかりませんので、日夲ではじめてできたものだろうと思われます。  そのつぎに、環頭の大刀というのがあります。これは、柄の頭のところが環の形をして、 そのなかに鳥や獣やあるいは花の形がついているものであります。この種類のものは朝鮮や 中国からもでますので、多くはかの地から日本へ輸人してきたものか、またはそれを模造し たものであると思われます。  それからまた、時代がやや後になって、日本でつくられたと思われるものに、蕨手(わら びて)の刀というのがありますが、これは大きなものではなくて、小さい刀の柄の頭がわら びのようにまがっているものであります(69図)。  以上述べたいろいろの刀剣のこしらえは、たいてい金メッキをした銅でつくったものであ って、そのなかには「くぶつち」のように日本独特のこしらえもありますが、多くは中国、 朝鮮のもの、もしくはそれをまねたもので、このような外国ふうのものをその時分の人がこ のんでもちいたのはむりもありません。  一方、日本に古くからおこなわれていたつくりかたの刀剣も、やはりもちいられていたの であります。たとえば、剣の柄のところを鹿の角で装飾し、その上に外国では見られない直 線や弧線を組合わせた模様をつけた日本的な刀剣が、外国的な刀剣と同時にもちいられて いました。これはそれらの刀剣が、おなじ墓からいっしょに発見される ことでよくわかります。  むかしの人は、今日いなかのきこりや農夫が山へいくときに、鎌や斧 を腰につけているように、きっとなにか刃物を持っていたものと思いま す。また、みなさんが学校へいくとき、鉛筆をけずったりする場合にナ イフが必要であるように、むかしの人も常に小刀を持っておりました。 その小刀を刀子(とうす)といいますが、それが墓場からたくさん発見されます。  この刀子は男ばかりでなく、 女の人もお守りに持っていたと思われますが、その鞘は木でつくったもののほかに、毛のつい た革を縫いあわせてつくったものが、一般におこなわれていたようです。   そしてお墓のなかにほんとうの刀子を納めたばかりでなく、石でつくった刀 ちょつと見るとなんの形だかわからぬ形をしたものをも、たくさん埋めたのでありま それがやはり古墳からでてくるのであります(69図◎)。 さて・刀剣がでてくるくらいでありますから、甲胄もまた墓のなかからたくえでてくる のです儼れはたいてい鉄でつくったものでありまして、後の時代の鎧や剣道のお胴に似た ようなものであります餝にぶん薄い鉄の板でつくりこれを革の紐で結び合わせたものです から・いまではぼろぼろ宸れて、完全にのこっているものは、すノー、ないの萇ります。も ちろん儼の鉄竈寞ほかに革製のものもあったと思われますがこれはとっくに腐ってし まい、いまはのこっておりません(70図)。 これらの鵯蟇どういうふう【屠けていたかということは、あの攜人形に甲冑を装った 貧乃こっておりますので・それ貪てだいたいのかっこうを想像することができ寺。      馬具、土器、その他 ただいままでお話をしました玉や鏡や剣などは、たいてい古墳のなかにある石棺のなかか、 拿のなかの死体のごくそばに収めてあったものでありますが、なお石棺の外や石室のなか には・その時代の入たちのもちいていたいろいろの品物が収めてあります。そのなかでもま ず目につくのは、馬に使った馬具の類であります。     ー これには・鉄でつくっ气くつわ」だ'〕か、鞍だとか、そのほかのものもあり寺カ「くつわ」 には鴉の鏡板という部分にいろんな飾りがついております。また鞍にも時に金メッキした |透彫《すかしぼり》の美しい飾りをつけたものがあります。それから、鞍から馬の胸のところや尻の方にま わっていく革の帯には|杏葉《さようよう》という飾りがつけてありまして、その飾りはたいてい鉄の上に金 メッキをした銅板を張りつけ、美しい唐草などの模様が透してあります。また、これに鈴が ついているのもあって、よほどうまくできております。そのほか、馬鐸といって、杏葉とい っしょにぶらさげるようなものもあり、鈴が三つ連なっためずらしい形のものもあります。  元来、馬は日本の石器時代の貝塚からその骨が掘りだされるので、古くから日本にいたこ とがわかりますが、しかし本当に乗馬によい馬は、やはりその後、朝鮮あたりから輸入され たものでありましょう それで、馬具も馬といっしょに、朝鮮、 中国などでもちいたものをそのまま日夲で使ったらしいのです。 これらの馬具をどういうふうに着けたかということは、あの埴輪 を見ればよくわかります。『日本書紀』という古い歴史の本に、 つぎのような話が書いてあります。  むかし、雄略天皇の時代に河内の|安宿《あすかべ》郡に田辺伯孫(たなべ はくそん)という人が住んでいまして、その娘が古市郡の人へか たずいていましたが、ちょうど赤ちゃんを産んだので、伯孫はお 祝いにその家へいきました。その帰りがけ、それは月夜の晩のこ とでありましたが、あの応神天皇(伯孫のときから百年ほど前に 当たる)の御陵の前を通りかかると、非常にりっぱな赤い馬に乗っている人に出会いました。 自分の馬はのろくてとてもかないませんので、その馬をほしく思い、いろいろ話をして馬を とりかえてもらい、喜んで家へ帰りました。ところが翌日|厩《ろまや》へいってその赤い馬を見ますと、 おどろいたことにそれは土の馬でありました。これはへんなことだと、伯孫はゆうべの応神 天皇の御陵のところへいってみましたら、自分が乗っていた馬は御陵の前にある埴輪の土馬 のあいだにいて、主人を待っていたのでまたびっくりしましたが、ようやくその馬と上馬と をとりかえて、家へつれてかえったというおもしろいうそのような話であります。  これはその時分、地方の役人から朝廷へ報告した箏実でありまして、とにかく当時馬に乗 ることがおこなわれており、また埴輪の馬が御陵に立っていたことをわれわれに教えてくれ る話であります。  馬具のほかに、古墳からたくさんでるものは土器であります。しかし、この土器はごく古 い古墳からはあまり発見されず、石室ができたころからの古墳にたくさん収められており、 一つの墓から五、六十も一度に土器がでてくることがあります。それらの土器の焼きかたは、 前に申しました弥生式土器に似たところの赤い色の軟かい素焼のものもありますが、たいて いはねずみ色をした、ごく硬い陶器とでもいえる焼物であって、私どもはこれをいわいべ(祝 部)土器と呼んでおります。  この焼きかたは朝鮮からはいってきて、日本にだんだんおこなわれるようになったのであ りまして、その形はいろいろあります。たとえば、坏(つき)というひらたいおわんのよう なもの、それに蓋がついたもの、またその坏に高い台がついた高坏というようなものなどた くさんありますが、それらはふだん食事の時、ご馳走を盛った道具だと思われます。  そのほか、壷にも頚の長いのや短いのやいろいろあります。また、酒や水が十リットル以上 もはいるような大かめがあり、めずらしいかっこうのものには、丈の高い透し入りの壷を乗せ る台だとか、壷とムロとがくっついているものだとか、口のまわりに人間や馬の小さい形をつけ た飾りつきの壷だとか、また口のついたしびんのような形をしたものもありますが、なかで も不思議なのは〃はそう"(勉)という器物です。  それは、小さい壷の上に朝顔の形に開いた口があり、壷の横に小さい孔があいているもの です。なんに使ったのかよくわかりませんが、ある人はその孔に小さい竹の管をさしこんで、 なかにある水とか酒とかを吸ったものだろうといいます。あるいはそうかも知れません。ま た横に長い俵のようなかっこうをして、そのまんなかに口をつけた横瓮(よこべ)という壷 がありますし、ひらべったい壷で紐をつけるための耳と口のついた提瓶(さげつぽ)という のがありまして、これはちょうど今日、ふつう使われている水筒とおなじように水をいれて 提げたものにちがいありません。  これらは、はじめは獣の革でつくった水袋からその形がでてきたのです。皮の縫い目など をちゃんとあらわした皮袋形の土器がときどき発見されます。そのほか、今日では使いかた のわからないような品物もたくさんでるのでありますが、これを前にみなさんといっしょに 見ました石器時代の土器にくらべますとだいたいがあっさりとし、その飾りにしてもごてご てした曲線模様などはなく、その形もたいてい一定しております。  こういう点からみますと、これらの土器は、おそらく専門の土器製造人がその工場でつく ったのを、各地に売りだしたものにちがいありません。それで、美術的な目的よりも、まっ たく実用的になったものが多いことがわかります(73図)。  古墳から普通発見されるものは、いままで述べたようなものでありますが、そのほかにと きどき発見されるものには、銅に金メッキをした冠や、またおなじく銅製金メッキの沓(靴) があります。これは後ほどお話をする朝鮮の沽墳からもでるもので、このような沓や冠はも ちろん日常使ったものでなく、儀式の時などにもちいたものでありましょう。  また、今日の下駄によく似て、鼻緒の前の孔が右足は左に、左足は右にかたよってできた 石の下駄がでてくることがあります。これも日常は木の下駄をはいたものでありましょうが、 この時分の人は多くは草履やわらじのほかに皮でつくった靴をはき、またこんな形の下駄を、 雨降りなどにはいていたことがわかります。そうすると私たちの下駄は、ずいぶん古くから あることがわかって、なんとおもしろいではありませんか。また、おなじような石でつくっ た品物に鍬の形をしたものや、腕輪の形をしたものなどがでてきますが、このなかにははた してなにに使われたものか、よくわからないものもたくさんあります(74図)。 建築、彫刻、絵画など  私たちはいままで、日夲の古墳と、そのなかから発見されたいろいろな遺物を見てまいり ましたが、これらの品物は、みなこの占い時代の人のつくった美術品、工芸品であって、こ のほかには、別に美術も工芸もなかったわけでありますが、いまあらためて、それらのもの からとくにこの時代の建築はどんなものであったか、彫刻、絵画などはどんなものであった かを述べてみることにしましょう。  第一に、建築は、宀墳の石室なども一種の建築ではありますが、人間の住家などの類はど ういうふうなものであったかというと、前にも申した通り、屋根は草ぶき、茅ぶき、あるい はまた板ぶき、柱はまるい材木をそのまま、あるいは皮をむいてもちい、柱の下には礎もな い掘立小屋というふうなものであったので、今日その跡はなにものこっておりません。  それゆえ、これはただあの埴輪の家やそのほかの品物にあらわされている家の形と、歴史 や歌の書物などに書いてあるところで想像するほかには、いまなお神社や民家にのこってい る古いつくりかたを参考にするほかはありません。また、倉のような建物は、多くは今日も 奈良の正倉院の御倉などに見るような、木を組合わせた|校倉《あぜくら》というものであったと思われま す。  そのつぎに、彫刻というものはなんであるかというと、これは埴 輪の人形や動物の像、または石人、石馬などがそれであります。もち ろんこれらの埴輪は、お葬式のときにつくって墓場に立てたもので、 非常に骨をおってつくったものではありませんが、その粗末な下手 なつくりかたのうちにも、この時代の人の無邪気な素直な心持がよ くあらわれております。  こういう埴輪の人形をつくつて いる時に、朝鮮から仏教がつたわり、お釈迦さま、|弥勒《みろく》さま、観音さまのような仏さまの像 が持ちこまれたのですから、おどろいたのはむりもないことであります。これはりっぱなお 姿だと感心して、仏教を信じるものも多くでたのですが、そのうちに日本でも仏像をつくる ようになり、それから百年もたたない奈良朝のころになって、その本家である中国、朝鮮の 仏像にも優るとも劣らない、りっぱな彫刻ができたのであります。  それでは、この時代の絵画というものはのこっているかといいますと、もちろん襖や唐紙 に描き、掛け軸にした絵などはこの時代にはないばかりでなく、またあったとしても、今日 までのこっているはずはありません。また、ヨーロッパの旧石器時代の大むかしのように、 洞穴に描いたすばらしい動物の画などもまったくなく、ただ銅鐸の上にあらわしてあるかん たんな子供が描いたような、しかし非常におもしろい人物、動物、家屋の図などのほかには、 祝部土器やそのほかの品物、または古墳の石室、横穴のなかの壁などに彫りつけた、まこと に粗末な人物や盾、矢筒などの品物の図などが、すこしのこっているだけでありまして、ご くむかしの日本人は、けっして絵が上手であったとか、好きであったとはいうことができな いのです。  しかし、それは生まれつき下手であったというわけでないしょうこには、後に中国、朝鮮 から絵画がつたわってくると、すぐにそれを習って、非常にりっぱなものをつくりだすこと になったのであります。  つぎに、装飾模様の類も、石器時代の土器にあるような、曲線のごてごてした模様がまっ たくないことは前に申しました通りで、ただかんたんな円や三角の図のほかには、刀剣の柄 の飾りにあったような、直線と弧線とを組合わせた不思議な模様が目につくだけです。  この模様はまず日本にしか見られないもので、古墳の内部やそのほかの品物にもよくつけ てあるのですが、あまりめずらしいので、ちかごろ西洋あたりで流行する模様かと思う人が あるくらいです。  このほかに、馬具やなにかに、中国、朝鮮からつたわり、ある いはそれをまねた品物に中国、朝鮮ふうの模様がついているも のもありますが、それはこの時代にはまだほんの借りものにす ぎなかったのでした。  こういうふうに、古墳からでる品物を見て、われわれはその 時分の人々がど一ついう心持でいたか、どういう趣味を持っていたかということがわかり た中国あたりからはいってきた文化のほかに、むかしから日本人が持っていた固有の文化や 趣味が やはりのこっていたことが知られるのです これはちかごろ 西洋の文明がはいっ てきてもおなじことで、いかに西洋風をならっても、ある点には、日本人には日夲人らしい 趣味と特質が消えないのであります。またそれがなくなっては、日本人でなくなるのですか ら、たいへんなことであります。  また、これらの古墳からでた品物をしらべて知られることは、いくらでもあります。たと えば、むかしの人はどういう生活をし、どういう風俗をしていたかということも、書物だけ でははっきりわからぬことをよく知ることができるのですから、古墳をやたらに掘ったりす ることは悪いことでありますが、なにかのひょうしに壊れたりして、なかから物がでた時に はたいせつにこれを保存し、ていねいにこれをしらべなくてはなりません。そして、こうい うことをしらべる人が、考古学をやる学者なのです。  なお、むかしの風俗や生活のありさまについては、くわしいことをここでお話する時間も なく、みなさんが歴史の本やほかの先生から教わることと思いますから、今日はこれだけで よしておきます。 古瓦と古建築  日本の古墳から発見されているいろいろの品物は、みなさんといっしょに見てまいりまし たが、この日本の古墳と非常によく似ている朝鮮などの古墳についても、この博物館に参考 としてすこしばかり品物や模刑土をならべてありますから、それらがどう似ているかを見なけ ればなりませんが、その前に、ここにあります日本からでる古い瓦を、ちょつと見ることに いたしましょう。  日本で古墳がつくられた時代のおわりごろには、もはや朝鮮を絳て日本へ仏教がはいり、 それといっしょにお寺の建築がだんだんできかけておりました。あの大和の法隆寺などの大 きい伽藍ができた時分に、いままで私どもの見てきた古墳がなおつくられていたのでありま す。ところが、中国のごく古い古墳には、墓の前にお|霊屋《たまや》のような建築物があったものもあ り、それに使った古い瓦などが発兇されるのでありますが、日本にはそんなものはいっこう にありません。  しかし、この日本のお寺の瓦は、前に申しました祝部土器とほとんどおなじつくりかたの、 堅いねずみ色の焼物であって、それは前に申しました通り、朝鮮からその製法がつたえられ たのでありました。  この古い瓦が、古いお寺の境内や、占いお寺のあった場所でいまでは畑となっているとこ ろからよく掘りだされるのであります。それでみなさんも、古墳を見にいったり、石器を採 集にでかけたりする時には、そういう古い瓦を拾うこともありましょうから、瓦の話をすこ し知っておくのも、まったく無用なことではないと思います。  中国では、漢の時代のころ、円瓦のさきに模様や文字がつけてありました。瓦のこの部分 を瓦当(がとう)と呼んでいます。なかにはまたまんまるではなく、半円形のものもありま す。しかし、平瓦(のちには瓦当の所に唐草などを飾りにつけたので唐草瓦といいました) のはしには模様がつけてありませんでした。  日本の瓦はちょうど中国の隋という時代に、朝鮮から輸入されたものでありまして、円瓦 のはしには蓮華の模様を飾りにつけてあり、平瓦のはしにもつる草の模様などをつけたのがあ ります。その蓮華の模様は、中央の実のほうが非常に大きい形のものもあり、花弁のかっこ うもたいそう美しく、つる草の形も非常によくでき、その彫りかたも強くりっぱであります。 また、瓦はいったいにたいへん大きく、今日の瓦の二倍くらいもあります。またそのならベ かたも、今日とはすこしちがっておりました。  聖徳太子の時代(飛鳥時代といいます)にもちいられたこういうりっぱな瓦も、だんだん時がたつにつれて 粗末となり、聖武天皇のころ(奈良時代、あるいは天平時代といいます)をすぎては、模様はまずく、意匠 のまずいものになってしまったのは、不思議なことであります。それは、このような大きい瓦は、屋根をふ くには重すぎるので、後には軽い瓦をつくるようになったことと、瓦師もなるべく安いもの をたくさんにつくろうとしたので悪いものができてきたもので、いたしかたありません。  私どもはこの瓦の形と模様とが、時代時代にちがっているのを見て、その建築がいつの時 代のものであるかということがわかるので、美術や歴史の上から見て非常にためになること でありますが、そのお話をするとあまり長くなりますから、いまはやめておきます。  なお、古いお寺があったところには、瓦のほかに大きな柱の礎石がのこっていることもあ ります。この礎のならべかたを見て、そこにはもと、どういう形の御堂が建っていたかが知 られます。もちろん、この時分のお寺の建築で、今日もなおむかしの礎の上に立っているも のも、たまにはめずらしくのこっています。  あの法隆寺の金堂、五重塔、中門などがいちばん古いもので、千何百年もの長いあいだ、 木造の建築がそのままつたわっているということは、世界にもあまり例のないことです。そ のつぎに古いのは、奈良の西にある薬師寺の塔、それから聖武天皇のころの建物が、奈良に ちょいちょいのこっております。  これらのお寺をよく見ますと、みなさんはいろいろつくりかたのちがっている点がわかり、 またむかしの建築がいかにもよくできていることに気がつくのですが、この建築のお話も、 また別の時にすることにいたします。  しかし、ここでちょつと申し上げておきたいことは、こういうお寺の建築が中国、朝鮮か らつたわり、天皇の御殿や貴族の家屋もそういうふうにつくられるようになりましたが、人 民の家などはたいていやはりむかしのままの形につくられたと思われますし、ことに伊勢神 宮や出雲大社のような神社は、ごく古い古い時代の日夲の家の形をそのままにつくることに なっていたのです。  そして今日、なお、神宮はなんべん建てかえられても、形だけはむかしのままに、屋根は 茅ぶき、柱は掘立て、そして白木のままで高くちぎとか↑ねぎが屋根の上についていて、い かにも埴輪の家の形を思いださせるのは、なんと神々しいことではありませんか。 朝鮮と満州の古墳室 南朝鮮の古墳  朝鮮にも石器時代の遺物がでることは前にもお話したのでありますが、その後、いまから 二千三、四百年ほど前、中国の周の末ごろから漢のはじめにかけて中国から金属がつたわっ てきて、青銅器、鉄器の時代となりましたのは、日本とおおかたおなじころであります。  ちょうどこの石器から金属器にはいるころに、朝鮮には大きな石でつくった西洋の巨石記 念物のドルメンとよく似た古墳が、北から南の方にかけてつくられました。土地の人はそれ をコヒ、ノドル(支石墓)といっています。  それはほかの国ではちょつと見られないすばらしい形のもので、下部を長方形の箱のよう につくり、その大きいものになると、上に乗せてある一枚の天井石の長さが六メートル以上 にもおよんでいるものがあります。もっとも、このように大きいものはそうたくさんはあり ませんが、そのうちもっともみごとなのは、西部朝鮮の黄海道にあるものです。南朝鮮の方 では上の石がとくに厚くて大きく、側石の低いものが多く見受けられます。  その後、南朝鮮には三韓という小さい国が分立しまして、そのうちの辰韓という国が|新羅《しらさ》 の国になり、弁韓は日本の植民地だった|任那《みまな》になり、また馬韓というのが|百済《くだら》になったので あります。ところが、これらの国の文化は、九州あたりの文化とたいそうよく似ておりまし て、その時代の古い墓からでる品物は、日本のものとたいしたかわりはありません。なかで も、日本の植民地だった任那や新羅の古墳ではことにそうでありまして、どうしても南朝鮮 にいた人間は、日本の九州あたりの人間と、民族の上から見ましてもたいしたかわりはない ように思われます。  しかし朝鮮には、日本の古墳でみなさんが見たような前方後円の 形をした塚はなく、ただ円い塚が二つくっついたひょうたん形のも のがあるだけです。また、南朝鮮のあるところでは埴輪円筒のよう なものが発見され、また勾玉もたくさんでるのでよほど日本ふうで あるかと思うと、また日本の古墳からは中国の鏡がたくさんでるの にもかかわらず、朝鮮の古墳にはこの鏡がほとんど姿を見せないと いうようなこともありまして、そのあいだに多少ことなったところ があり、民族がおなじでもすでにちがった国をつくっていたと考え られます。  さて、南朝鮮にはあちらこちらに多数の古墳がありますが、 なかでもいちばんたくさんのこっているのは、元の新羅の都、 慶州です。釜山から京城へいく汽申に乗って二時間半ばかりで 大邱に潜き、そこから攴線に乗換えていくか、あるいは釜山か ら直接にいく汽車もあって、四五時間でいかれるところです。  慶州には周囲に低い山があって、一方だけすこし開けている 地勢は、ちょうど日夲の奈良に似てまことに景色のよいところ であります。この町に着きますと、その低い朝鮮の家が立ちな らんでいるあいだに、非常に大きい土まんじゅうがにょきにょ きとそびえている景色にだれもがおどろかされますが、これは みな、むかしの新羅の王様や偉い人たちの古墳なのです。その なかでもいちばんりっぱなのは、慶州の町のなかにある鳳鳳台というので、これは亠高さ二十 五メートル以上もある大きな円塚です(79図)。  この慶州の古墳からは、今日までいろいろのものが発見されましたが、私どもをびっくり させたのは、大正十年にその鳳鳳台の西手にある半崩れの塚からでた品物であります。私た ちはその塚を金冠塚と名づけましたが、プてのわけは、この塚のなかからりっぱな黄金の冠が でたからであります。  この冠はまったく純金づくりでありまして、その五夲の前立てには小さなまるいぴらぴら や、美しい緑色のひすいの小さい勾玉が六十ばかりもぶらさがっておりました。これを頭の 上に乗せてみると、それがゆらゆらとゆれて、なんともいえぬ美しさを見せます。そればか りでなく、冠のまんなかからは鳥の羽根に似た長い金の飾りが後のほうに立ち、また冠の両 側からも金の飾りがぶらさがって、そのはしに勾玉がついているというすばらしいりっぱな 金の冠なのです。  この冠をつけていた人の腰のあたりには金飾りの美しい帯がありまして、その帯から腰の まわりには十七本の黄金でつくったさげものをぶらさげており、そのさげもののさきには、 香入れや魚の形、勾玉や毛抜きのような小道具がついております。そしてまた、腕には腕環、 指には指輪をつけ、足には金メッキした美しい銅の靴が添えてあるばかりでなく、この墓か らは、中国から渡ってきた銅器、ガラス器の類をはじめ、馬具、刀剣、土器などが無数にで たので、じつに見る人の眼をおどろかしたのでありました(80図)。  私は、ちょうどそれらが発見された時にそこへきあわせていて、そのりっぱさにおどろい たしだいであります。私はいちどこの金の冠を頭へ乗せてみたことがありましたが、こんな 冠やいろいろの飾りをつけては、そのころの人はさぞ重くてきゅうくつなことであったろう と思いました。これはさだめし、新羅の宀い王様のお墓でありましょうが、その王様の名が わからないのは残念です(81図)。しかし、だいたい日本の継体天皇から欽明天皇のころ(い まから千四、五百年ほど前)の古墳ではないかと考えられています。  このような塚はこればかりでなく、その後おなじような金の冠が納められている塚がだん だんとあらわれました。右の鳳鳳台の南の方の小さい塚からも、金冠がでたのです。それは 形が小さく、また腰にさげた飾り物も小さく可愛らしいので、たぶん王様の子供のお墓だろ うと想像されます。  また、金冠塚のすぐ西の塚を、大正十五年にスウェーデンの皇太子殿下がおいでになった時 掘ってみました。これもまた金冠塚とおなじような、勾玉のついた金冠や金の飾り物がでま したので、その品物をそのまま土の上にならべて殿下にごらんにいれましたが、朝日の光り を受けて金ぴかの品物が輝いているありさまは、なんともいえぬ見物でありました。 『日本書紀』のなかにも、新羅の国は金銀のたくさんある国であると書いてありますが、そ れはたしかにほんとうです。そして、これほど金でつくった品物が墓からでた例は、日本に はまだひとつもありません。しかし、それらのものは金でつくってありますけれども、その つくりかたはあまり精巧でなく、美術的というよりも、ただむやみに金を使った趣味の低い 品物というほかはないのです。  この慶州以外の古墳から、これほどりっぱな金ずくめの品物はいままでにでたことはあり ませんが、耳飾りだけはいつも金でつくってあります。冠や帯飾りなどはおなじ形でも、銅 に金メッキをしたものや、銀でつくったものがでただけです。  あまりたくさんではありませんが、日本の古墳からも、これとおなじ類の冠や帯飾りがやはりで るのであり、ことに土器はまったく祝部十器とおなじ焼きかたのもので、これらはみな朝鮮から日 本へつたえられたものでありますが、勾玉はは たしてどちらからどちらへつたわったものであるか、よくわかりません。あるいは、日本か ら朝鮮へつたえたものであるかも知れません。  いま申しました古墳はみな円塚でありまして、そのなかに漆で塗った棺を埋め、その上を 大きな石塊でつつんだものであります。これを積石塚といいます。新羅の古い墓はこういう ふうなつくりかたであったのですが、その後石室をつくることになり、ちょうど日夲にある のとおなじような古墳が、朝鮮にもできたのであります。とにかく、南朝鮮の古墳が日夲の 古墳と非常によく似ていることは、以上申し上げましただけでもおわかりのことでありまし ょう。 北朝鮮と満州の古墳  朝鮮の北の方は、いまから二千年ほど前、満州の方から漢の武帝という強い天予が攻めて きてそこを占領し、楽浪郡などという中国の郡を四つも設けた(紀元前一〇八年のこと)と ころであります。ことに楽浪郡の役所のあったところは、今日の平壌の南、大同江の向こう 岸にあって、古い城壁のあともありますが、中国から派遣せられた役人がここにとどまって、 その後四百年あまりも朝鮮を治めていたのであります。それですから、その付近には、その ころの中国人の古墳がたくさんあるのであります。  これはみな、わりあいに小型の四角な塚であって、なかには木の棺をいれたものや、ある いは煉瓦(甎ーせん;といいます)で大きな室をつくったものもありまして、その煉瓦には いろいろ模様があります。これらの墓を掘りますと、りっぱな品物がたくさんでますが、そ れには前に新羅の墓で見ましたような金ぴかのものがすくなくて、もっとじみな銅や|玉《ぎしよノち》でつ くった品物で、かえって美術的にはなかなか優れたものがたいそう多いのです。新羅の人と ここにいた漢の人との趣味のちがいがよくわかって、おもしろいと思われます。  ある墓のなかからは、木棺内の死体の胸のあたりに円い玉でつくった|壁《へき》というものや、口 のあたりからは蝉の形をした玉の飾りなどがでてきました。また、玉を飾りつけた剣や白 銅の鏡、それから銅の壷などもでましたが、なかでもりっぱなのは金の帯止めです。この帯 止めは細い毛のような金絲と金の紂でもって獅子の形をつくり、それに宝石をちりばめた細 かい細工は、今日でもたやすくできないと思われるほど優れたものであります。  また、これらの墓から、たくさんの漆器の杯や盆、箱などがでました。その漆器には、こ れをつくったときの年号や、つくった人たちの名が細かく彫りつけてあります。それにより ますと、漢のさかんなころ、中国の南西方の蜀という遠い地方でつくったものであることが わかるのであります。また、漆器の上に美しい絵を描いたものや、おもしろい人物の姿を描 いたべっこうでつくった小函などがあり、中国の漢時代には、美術がすすんでいたことが歴 史の本にでていても、まさかこれほどまで発達していたとは、いままでだれもが想像できな かったくらいであります。  ある墓からは、漆器でつくった化粧箱がでて、そのなかには紅と白粉をいれた小さな蓋物 がいれてありましたけれども、そのころの人も、こういう道具でお化粧をしたということが わかります(82図)。 朝鮮と満州の古墳  さて、その後、北朝鮮には|高句麗《びヤつくり》という朝鮮人の国が建てられて、中国人の勢力がだんだ んなくなってしまいました。この高句麗時代の古墳は、平壌付近のほか朝鮮の国境に近い満 州のなかにありまして、そこには将軍塚などと名のついている、石でつくったエジプトの階 段ピラミッドのような大きな墓があります。これは、高句麗の古いころの好太王という王様 のお墓であるということであります。このお墓の内部には石でつくった部屋がありますが、 以前にそのなかをあらしたものがいて、いまはなにものこっておりません。  この墓からあまり遠くないところに、その王様のことを記した自然石の大きな碑が立って おります。それを読むと、日本人が朝鮮へ攻めていったことが記されてありますが、たぶん 神功皇后の三韓征伐のときのことなどが書いてあるように思われます。  この将軍塚や碑のあるところは、鴨緑江の北方で、中国の領域となっています。高句麗は その後この北の方から都を平壌に移しましたので、その後の古墳は平壌の付近にたくさんあ ります。それらの墓のうち、平壌の西の方の江西というところのものには、大きな石室があ りまして、室内にはじつにおどろくほどりっぱな絵が描いてあります。この絵はすぐれた中 国風の絵でありまして、ちょうど中国の六朝ごろの画風をしめしております。これは日本の 法隆寺の金堂の壁画にもくらぶべきりっぱな古い絵ののこりものであります(83図)。  さて、鴨緑江をわたって北の方へいきますと、そこは満州でありますが、ここは日清戦争、 日露戦争などがあって以来、日本と縁の深い土地であります。南満州にはやはり石器時代こ ろからすでに人間が住んでおりましたが、周の末から漢のはじめにかけて中国人が さかんに植民していたのです。そして、そのころの古墳があちらこちらにのこっ ていますが 旅順の西にある老鉄山のふもとなどには宀い城壁がありまして、そ のあたりには占い墓がたくさん散石しております。  そのなかには、煉瓦でつくった五つの案のある漢時代の墓がありました。それ を一九一一年前後ごろに私が掘りにまいりましたが、鏡だとか土でつくった家だとかが でてきました。この墓は、その後こわしてしまって、いまでは跡かたものこっておりません。  旅順の東、営城子というところにも、漢時代の墓がありまして、古く平壌付近の菓からで るのとおなじような漆器などがでましたし、りっぱな壁画のある煉瓦の墓が見いだされて、 いまもりっぱに保存されています。これは高句麗製のものよりも、古いものと思われています。  また、北の方遼陽の北には石で大きな室をつくった古墳があって、その石室に絵を描いた のがありましたが、旅順の博物館にうつされました。そのほか、南満州の各地には小さな煉 瓦づくりの墓や棺がありますが、ことにめずらしいのは、貝殻でもって四角に取り囲み、そ のなかに死体を収めた墓であります。それを貝墓と呼んでおりますが、これは石器時代の貝 塚とはまったくちがったもので、漢時代の品物や、そのころの古銭がでてきました。  これらの古墳や、またあちこちからでる周のおわりごろの品物や古銭によって、南満州に も古く周のおわりから漢のころに、中国の文明がつたわっていたことを知ることができるば かりでなく、そのころの人は小さい舟に乗って、海岸づたいにこの南満州から北朝鮮の楽浪 を通って南朝鮮にも中国の文明をつたえ、さらに日本の西南へもきたのでありまして、その 結果、ついに朝鮮も日本も、長い石器時代の夢からさめて、金属を使用する新しい開けた時 代へと、だんだん進んでいったものと思われます。  とにかく、この満州や朝鮮にある中国人の古墳は、あまり偉い人のお墓ではありませんが、 今日まだ中国の古墳をよくしらべることができないので、中国のことを知る上から考えても、 非常にたいせつなものであります。  博物館の見物も、だいぶ長くなってしまって、みなさんもお疲れでしょうが、私も話しつ かれました。まずこれで見物をやめて、お茶でも飲むことにいたしましょう。しかし、みな さんはこん後も暇があれば博物館へきて、いままでに見物してきた品物をさらにくわしく見 て、わからないことがあれば、博物館の人や先生におたずねになることを希望いたします。  それではさようなら。 アルス版 「はしがき」  私は『博物館』という題で書くことになりましたが、なにぶん博物館といっても、美術考 古博物館もあり、科学博物館もあり、そのほかいろいろの博物館があるので、それらをいち いち説明すれば百科の学を講釈することになり、それは私にはできない芸当であるのみなら ず、一冊の夲にはとうてい収めきれません。しかし、幸い美術や自然科学のお話しは、別に 諸先生が筆を執られていることと思いますから、私は博物館のうち考古学の博物館のことだ けを書くことにし、この一冊の本によって、若い人たちに考古学のだいたいのお話しをする ことにいたしました。ただ、なにぶん書物の標題が『博物館』となっていますので、はじめ にすこしばかり博物館ぜんたいのことを述べておきます。  考古学のお話しをするためには、どうしても実物をお見せするか、せめて写真や絵をお目 にかけなくてはよくわかりかねます。それで、この本にもわりあいにたくさん絵を入れてお きました。そのうち霜島正三郎先生の手になったものもありますが、便宜上、私の描いた拙 い素人画もたくさんあるのは、おゆるしを願うほかはありません。  また、この本を書くにあたって、 松本竜太郎さんにいろいろご厄介になったことを、 ここで厚くお礼を申し上げておきます。 昭和四年七月 浜田青陵 アルス版「はしがき」