俳諧大要 こゝに花山といへる育〔の俳士ありコ望、の流れを汲むとにはあら で肘ピ発句をなん詠み出でける。やう/\に此わざを試みてより半 年に足らぬ枢に、其声鋸錐として聞く者耳を欲つ。一夜我が仮住居 をおとづれて共に虫の音を愛づるついでに、我も発句といふものを 詠まんとはすれどたよるべ書すぢもなし、君我がために心得となる べきくだり〃を喜きーてんやとせつに請ふ。答へて君が言好し、昔 は[なしどち/\後について来ませとか聞きぬ、われさるひじりを 半ぷとはなけ牝ど覚えたる限りはひが書まじりに伝へん、なかノ、 に可にもっはらなるこそ正覚のたト山りなるべけれ、いざノ\と筆を はしらし附かに其綱Hぱかりを挙げてこれを松風会諸子にいたす。 漸子辛ひに之を花山子に仏へて、{。 災一 俳句の搬準 。、俳〜は史学の一部なり。文学ば炎術の一部なり。故に美の標準は 史半の棚準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も 杵楽も演劇む詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し俗べし。 、美は比鮫的なり、絶対的に非ず。故に一首の詩、一幅の画を取て 芯不美を片ふべからず。衿し之を言ふ時は胸裡に紀億したる幾多の 詩申を取て哨々に比鮫して’ふのみ。 u、美の欄準は各個の感情に存す。各個の感情は答個別なり。故に美 の楓準も亦伶個別なり、又同一の人にして時に従って感情相異なる あり。牧に同、の入亦時に従っ!。芙刀櫟巾を典にす、 一、美の標準を以て昏個の感情に存すししせば、先大的に存存するげ“ 標準なるもの有る無しり石し先大的に存花する美の標準(戊は『鵬 を俗たる美の標準)ありとするも、其標準の加何は知守勺、一から一一、 従って昏個の標準と如何の同典あるか知るべからず、即ち九人的隙 準なるものは冊人の美術と何等の関係牟、有廿。が一、るなり、 一、答個の美の標準を比校すれば人同の小に小典なるあり、k処の小  に小同なるありと鰍ぺ、樋々の事炎より帰納す札ぱ企咋のトに於て 永久の上に於て附ぺ同一方血に進むを見る。将へば船舶の怖半球よ  り北半球に向ふ老、一は北東に向ひ一は北州に向ひ、時ありてバ火 正西に向ひ時ありて帽に向ふもあれど、其結果を概価して見れば竹 陶より北に向ふが如し。此方向を指して先人的美の標碓と名づけ得 可くば則ち名づく可し。今仮りに概拓的美の搬淋と名づ”、 一・同一の人にして時に従ひ美の槻準を異にすれば、一級に後時の榔  準は概括的標準に近似する音なり。同時代の人にして伶側美の棚榊  を異にすれば、一般に学…知識ある者の標準は概拓的標準に近似す  る者なり。但し特別の場缶には必ずしも此の如くならず、 第二 俳句と他の文学 一、俳句と他の文学との区別は其浄洲の火なる処に企り、他の文学に は一定せる音調有るもあり、無きもあり。而して俳句には、定せる 晋調有り。其音調は普通に五音七音五音の三句を以て一竹と為すと 雖も、或は六音七音五音なるあり、或は正杵八音五仇、なるあり、或 は六音八音五音なるあり、其他無数の小典あり。故に俳仙と他の文 学とは厳密に区別す可らず。 一、俳句と他の文学との音調を比較して優劣あるなし、帷這風泳する 事物に因りて音調の適否あるのみ。例へば複雑せる小物は小税又は 長篇の猷対に適し、単純なる事物は俳仙和歌又は匁術の絢文に泌す一 術機なるは池しの詩の長所ない、糟繊なるは欧米の詩の長所なり、 腿朱なるは和歌の長所なり、継妙なるは俳句の長所なり。然れども 俳〜全く舳雌、椚鰍、優柔午、欠くに井ず、他の文学が然り。 、迎の隙淋は疋の感情に花り。故に美の感情以外の事物は美の標準 に影榊せず。争敬の人が籔応する杵必ずしも美ならず、上呼社会に 行はるゝ斤必ずしも美ならず、1二股に作為せし者必ずしも美ならず。 故に俳何は、般に珊ぱるゝが故に美ならず、下等社会に行はるゝが 歌に不足ならず。〔Uの作なるが故に美ならず、今人の作なるが故 に不災ならず。 u。、般に俳句と他の文学とを比して優劣あるなし。漢詩を作る者は 泄詩を以て倣ビの史学と為し、和歌を作る着は和歌を以て最上の文 学と為し、戯舳小税を好む肯は戯舳小説を以て最上の文学と為す。 然れども地れ一家jのみ」、俳句を以て妓上の文学と為す者は同じく  一家イなりと雖ム、俳句も亦文学の一部を占めて敢て他の文学に劣 る燃し。壮れ概柵的繰祁に照して〔ら然るを覚ゆ、 他区別し来れば千種万様あるべし。 一、言涌「〜区別あるは意匠に区別あるが如し。幼帷なるなげには幼雌 なる一、与…を用ゐざるべからず。優茉なる恵げには腿炎なる〆洲を用 ゐざるべからず口雅撲なる三舳は雅枚々る息げに適し、中幼なる’ ”は平易なる意匠に適す。火他押然り。 、意匠にた観的なるあり、客醐的なるあり。レ熾的とは心小の状机 を詠じ、客観的とは心象に写り火りし客搬的の少物を皿燃に泳ずる なり、 、意匠に入然的なるあり、人作的なるあり。人少的とは八…灯舳の 再物を詠じ、火然的とは犬文、地珊、生物、鉱物仰、総て人少以外 の事物を詠ずるなり。 、以上各種の区別皆優劣あるなし。 、以上各種の区別皆比較的の区別のみ、故に蛾怖一」火K域を帆る、へ からず。 、一人にして各極の変化を為す々あり、一人にして一樋に艮ずる片 あり。 節。俳句の櫛類 第四 俳句と四季 、俳仙の樋類は史学の稲類と略々相同じ。 、、俳句の弼獅は唖々なる点より類別し得べし。 。、俳句を分ちて愈脈及び→。〔諦(古人の所謂心及び姿)とす。意匠巧 拙あり、’舳に巧拙あり。、に巧にして他に拙なる者あり、両者共 に巧なる浄あり、餉祈共に拙なる宥あり。 、意匠し,H舳・」を比鮫して優劣先後あるなし。只々意匠の美を以て 脇ろ斤あり、、。H舳の夫を以て勝る者あり、 、忠脈に鋤他なるあり、腿茉なるあり、壮大なるあり、細繊なるあ o、雅桃なるあり、姉腿なるあり、幽遠なるあり、平易なるあり、 ル収なるあい、概快なる危o、奇杵なるあり、淡泊なるあり、複雑 なる丸り、巾純なるあり、真血Hなるあら、滑硲突梯なるあり、共 、俳句には多く四季の魍〕を詠ず。四季の魍N無きものを雑・一イふ ー、俳句に於ける四季の魍目は和歌より山でて更に火〆城を広くした り。和歌に花りては魎〕の数帷々。灯に上らず、俳〜に小りては狄 百の多きに及べり。 、俳句に於ける四季の魑]は和歌より出でて処に火な味命。深ノ、した り、例へば「涼し」と、。、〔へる語は和歌には夏にも用ゐ又秋涼にム多 く用ゐたるを、俳句には企く夏に限りたる渦とし、秋涼の息には例 涼、新涼等の謁を用ゐしが、今は漸くに火舳も廃れ涼の㍗は八ぐ以 季専用の者と為れり。即・∴魍の区域は納小したると人に火心味は 深長と為りたるなり、 、巾にハと称すれば和歌にては雑となるべし。俳句にイ、は秋季とな るなり。時心は和漱にては晩秋初冬共に之を用ふ。殊に時雨を以て 木薬を処むるの息に用ふ。俳句にては時雨は初冬に限れり。従ひて 木災を浪むるの意に用ふる者姉ど之れ無し。霜は和歌にては晩秋よ り芝を用ゐ、亦紅葉を促すの一版困とす。俳句に!、は霜は三冬に逝 じて用ふれど晩秋には之を胴ゐず。従ひて紅菓を促すの一原因とな 山一一ず。俳仙季寄の排には秋綿の魑を設くと雄ら、其作例は殆ど見る 無レロ 。、柵榊一災滞の愈を泳じなば和歌一」ても秋季と為るべし、一俳句にて は胴、…火々一秋禾片に用ふるのみ六仏・り山貝、、ロハ々桐と、。Hふ一可…、トノ、秋季。い 用ふろ小九り、鷲狩は和歌にても冬季なり。俳句にては購狩を冬季  に用ふるのみならず、バミ購し」一5ふ一活も冬季に用ふるなり、 、、四季の幽〔一二、花木、化草、木実、事実等は其花実の最多き時 を以て季と為すべし。藤花、壮灯は椎晩夏初を以て開く故に春晩夏 切を以て季と為すべし。必ずしも藤を春とし牡丹を夏とするの要な し。四瓜仰亦必ずしも秋李に属せずして可なり、 、片来季寄に無き者も略々季候の一定せる者は季に用ゐ得可し。例  へば紀。ん鮒、神武人“祭等時H一定せる希は論を竣たず、氷庇を夏 とし娩廿を冬とするム可なり。又虹の如き術の如き定めて夏季と為 す、城は可ならんか。 。、四季の魍H巾嘘(抽象的)なる者は人為的に其区域を制限するを 現す。之を大にしては四季の区別の如き是なり。春は立春立夏の間 を限り、夏は泣夏立秋の脚を限り、秋は立秋立冬の間を阪り、冬は 仏冬仏椎の…を限る、即ち立冬一日後敢て秋風と詠ずべからず、立 夏一n後歌て推ハと泳ずべからず。 、長閑、腿、腿、H永、雌は奔季と定め、短夜、涼、熱は夏季と定 め、冷、凄、棚寒、夜寒、坐寒、漸寒、肌寒、身に入、夜長は秋 季し」定沁、処、つめたしは冬季と定む。日の最長きは夏至前後なり 然わど{俳〜にては日永を徐と寸 夜の最長きは冬至前後なり、然 れども俳句にては長枚を秋とす。これは〃仙より州イ、ずして感情に 本づきたるの致す所なり 斯(一定廿一し上はH水一仏。kは必ず作秋に 用ふべし。他季に混ずべからず一 、其外蠣、陽炎、火風の律に於ける、煎風、ぶ峰の夏に於ける、妬、 霧、入河、月、野分、尺月夜の秋に於け∴、㌻、蔽、水”匁、に於け るが如きも亦祷一定する所なれば一定し雌くを可とす。然れども£ 季に配合して夏の霞を泳じ、秋季に配什して秋の公雌を泳ずろの蜘 は固より妨ぐる所あらず片、 、四季の魑Hを見れば則ち其時候の聯想を起す可し。例へば蝶とい へば翻々たる小羽山の飛び′去り飛ひ来る。胴の小册を現はすバムな らず、春暖漸く催し革木倣かに吻芽を倣ち菜典麦緑の…に。、ん、什、、 士女の嫡遊するが如き光姓をも聯想せしむろなり、此聯恕あ〜て始 めて十七字の入地に無限の趣味を乍ず、、故に四季の聯恕を解サ、ざ凹る 者は終に俳句を解せぎろ音なり。此聯恕無き斤俳〜を地一、伐雌なり と吉ふ亦宜なり。(俳句に用ふろ四季の魍Hは俳句に限りたる、帆 の意味を有すといふも可なり) 、雑の句は四季の聯想無きを以て、其嵐昧波雌にして吟納に堪へざ る者多し。只壱雄壮心大なる者に至りては必ずしむ州季の笈化を符 たず。故に胴々此種の雑の句を見る。片火作る所の雑の句概めて少 きが中に、過半は富土を詠じたる者なり。而して其吟納すべき斤、 亦惜士の〜なり。 、或人問ふて曰く、時間を人為的に限りてこれに介名し以て臘uと なす事は既に説を聞けり。空問は何故に制限して之に命名せざるか。 答へて曰く時問は年々同一の変化を同一の順序に従ひて反鋤するが 故に之を制限して以て命名すべし。然れども空…の変化は地も順げ なる者あらずして不規則なる者なり。例へば山仔、河海、郊以、… 野、一も順序ある音なし、故に之に命名せんと欲せば人…の叱脚し 得る所の処一々に命名せざるべからず。地名是なり。地汽は時…の 区別。」比して更に明瞭なる区別なれば、俳句に地汽を用ふろはル聊 〃 wた孔{を以て姓鉗雛なる杉段を現すの一良法なりと雖も、余何廿、 ん。人ド」して地球ビの地れと其光景とを尽く知るを得ず。且つ其区 川w倣なるが故に之牟。用ふるの区域甚だ狭隆を感ずるなり。他語以 〆。之をいへば川斧の名称に対する者は地名なりと雖も、地名は区域 川瞭げ」過ぎて狄縦に火し、阯っ其地を知らざる者には何等の感情を {起さしむる恢難し、即ち四季の変化は何人も能く之を知ると雖も 火京の名所は州以の人之を知らざる者多く、西京の名所は東京の人 之を知らざる者多きが如きなり。 兇A 修半第一螂 。、俳〜をものせんと思はば思ふまゝをものすべし。巧を求むる莫れ、 州午倣ふ典れ、他八に恥かしがる英れ。 、、俳〜をものせんと思ひ立ちし其瞬附に半句にても一句にても、も のし雌〃べし、初心の杵は兎灼に思ひつきたる趣向を十七字に綴り 得ぬ・」て思ひ焚つろぞ多き、太だ損なり。十七字にならねば十五字、 1。パ字、卜八㍗、卜札㍗乃奉、一ト∴。、宇一向に差支なし。又みやび たるしやれたる’菓を知らず・二、趣向を棄つるも誤れり、雅語、俗 舳、泄“、仏舳何にて{榊はず無珊に一音の的文となし置く可し。 、、削めヒい切字、四季の魎H、仮名遣ひ等を質問する人あり、万事 千知るは痔けれど知りたりとて俳何を能くレ俗べきにあらず。文法 知ら心人がト丁な歌を作りて人を熾かす事は世に例多し。俳句は殊 にぷ洲、 、、切字、仮乞地など一切無き者と心得て可なり。併し 知りたき人は漸次に知り附く可し。 ・、俳〜をものしたる吋は其道の先雅に、小して敦を乞ふも善し。初心 の者の恥かしがるは却てわろし、}々に初心の時の句は俗気をはな れてよろしく、少し巧になりし後はなまなかに俗に陥る事多し。 一、例心ハ恥小しがい’、ムのし得べき句をものせぬはわろけれど、恥 かしがろ心底はどうがなして蒋き何を得たしとの望なればいと殊勝 なり、此心は後々までも持ち続、吋一たしリ ー、口ら多く俳句をものして人に見せぬ者あり、敦を乞ふ、∵・人無し と思はば見せずとら可なり。多くものする内には〔然しし循川すろ“ あり。先輩に聞けば一〔にして州り得可き者を数川数年ハ片件々、純 て漸く発明するが如きは、椚々辻に似たれども中々に辻々ら∵。此 の如く苦辛して得たる希は脳中に災み込む少深ければ町ぴ忠4し小 無く(一)句をものする上に応川し幼く(二)几つ他11乂琵…十、〜 の端緒となる可し(三) 、自らものしたる仙は紙片に★き汕し附く可し、時々継り返してU の句を吟じ見るも蒋し、典舳に舳に片ひ得ざりし少をイひ仙るもあ らん。又Uの進歩を知るたよりともなりて、一はひとり血[〃。は 兇に一段の進歩を促す事あるベし、 、四季の魑目は一句中に一つづゝある者と心付て泳みこむ介一可六、す。 但しあながちに無くてはならぬとにはルず、 、成るべく其時候の猟物を泳ずる小、聯恕が廿く鵬悩が深くしヅ阯も のし易し。尤も春に舳て秋を思ひ夏に州て冬を…心ふ小む介く火〃ぺ からず。只々事の到るに任せて勝平たる可し、 、自ら俳句をものする側に占今の俳〜を就む小はル必段ない、阯り ものし且つ読む間には若き進歩を為す可し。Uの〜に並べ〃一他人の 名句を見る時は他人の意匠惨派たる所を発児せん、他人”汽〜々”枕 みて後自ら句をものする時は、趣n流用し句洲〔介に々りて名人の 已に棄り遷りたらんが如き臓ある可し、 、自ら若く進歩しつ・あるが如く憾じたる時、戎は何・しは無けがい」 只壱無闇に趣向の海れ出るが如く感じたる吋は、火機を透かごゾ餓 何にても出来ろだけものし見る可し。かゝる時はたしかに。段格を なして進歩す可き時機にして、仏救の人情微底、仏竹救の附仰と火 趣を同じくし、心中に一極微妙の愉快を憾ぜん、帆し斯ろ少は俳句 修学の上に幾度もあろ少なり。一峻ありたりとて〔らUに人冊倣吹 したるが如く思はば、好狐禅に聰ちて〃灯生の…鮒旭牟、犯れざる可 し。ムは大に寸ベキ、惚なり、 一、★人の俳仙を読まんとならば総じて元禄、明和、安永、天明の俳 評を可とす。な鰍何俳綿七都集、続七部傑、蕪村七部集、三傑集など 祥し・家災にては芭焦仙集(何本にても善けれど玉石混清し居る故 汗恵す可し)去来発句築、丈草発句集、蕪村句集などを読む可し。 仙しいづれも多少は悪句あるを免れず。中にも最も悪句少きは猿蓑 (俳滞七榔築の内)蕪村七部集、蕪村句集位なる可し。(故人五百題 は普通に功舳に行はれて初学には便利なり) 二★俳譜など続むも善し、或は之を写すも善し、或は自ら好む所を 抜雌する{諦し、或は一の魎目の下に類別するも善し。 二★〜を半分位餅み用ふるとも半分だけ新しくば苦しからズ時に  は市句中の好材料を取り来りて白家の用に供す可し、或は古句の調  に擬レノ、調子の変化を冬怖る可し。 ∵月並風に学ぶ人は多く初めより巧者を求め娩曲を主とす。宗匠亦  此灯より導く故に終に小細工に落ちて活眼を開く時無し。初心の句  は洲汗の人木の如きを旗ぶ。独活は庭木にもならずとて宗匠達は無  珊にひねくりたる松などを好むめり。尤も箱庭の中にて俳句をもの  せんとならばそれにても好し。然り、宗匠の俳句は綱庭的なり。併  し俳仙界はかゝる窮阯なる者に非ず。 ∵初心の人★句にUの斥はんと欲する者あるを見て、古人已に俳句  を〆ひ尽せりやと雛ふ。是れ平等を見て差別を見ば渇のみ。試みに  今一歩を巡めよ。昔人は何故に此好魑日を遺して乃公に附与したる  かし」帷むに棄るべし。  、初心の人火の川の魍を得て句をもの廿、んとす。心頭先づ浮び来る  〆Hよ あら海や帷渡に横たふ人の川 直蕉 真夜中やふりかはりたる大の川 嵐雪 処け行くや水旧の上の犬の川 惟然  などなる可し。此時千思万考佳句を探るに、天の川の趣は終に有三 寸t“ 句に}ひ尽されて寸分の余地だも無き心地すポ“ち箪を地て人泌し て日く、己みなんかなと。口にして肯俳評を綴く、人の川の仙頻り に日に触る・を覚ゆ、たとひ上乗にあらざるも皆一獺の〜調と趣山 とを傭へて必ずしも陳腐ならず。例へば 打 引 西 よ 天 江 天 天 天 て J 僕を雨に流すな人の ち叩く駒のかしらや人の はるや空に一つの天の 風の帽に勝つや犬の ひ/\に馴れしか此故天の の川歴より上に見ゆるか に沿ふて流る、影や人の の川飛ひこす程に見ゆるか の川糺の涼み過ぎにけ の川旧守とはなす典上か ゝれ干す竿のはづれや犬の  巨離山 風や樫も槽も大の などものしたる、或は滑稽に或は壮大に或は典率に或は奇抜に戊は 人事的に十人十色なるを思へば、初めの我思炎こそ拙かりけれ、人 の川を只々大きく人にひろがりたるものとぱかり見し故に趣向は浮 ばざりしなり、成るほど七夕尽を人…と見てそれが恋の為に桝引っ からげて天の川を渡る処など思ひなば可集しき事もありなん。H碓 れて馬上に銀河を見上げたる処、山上樹木鱒葱たる上に銚河の[く か・りたる処、途上に人とwしながら不図仰向けば銀河の我汽肋に 落ちぐる架天の川を含〃争一連一二三森海川の如”兇 立てたる処、或は七タに子向けたる横輿禅の銀漢をかざしてひらひ らと翻る処、見様によれば只々一脇の犬の川は幾様に{変り候べ共、 者なりしを合点するなるべし、 一、なまじひに他人の〜を二一、一何杵り見閉きたる時は外に跳向々き心 “  地す。卜〜、一十句灯句と名く見聞く時は却て無数の趣向を得べし。  ★人が雌にUの意匠を片ひ肝らん事を恐れて古句を見るを嫌ふが如  きは、汀を掩ふて鈴を盗むより猶可笑しきわざなり。 一、、魍一勺づ、多くの魍につきて句を試むるも善し、或は一題十句、  、魎汀句などの如く一魑にて出来るだけの変化を試むるも薪し。 、一魍灯伽などをものせんとする時は、始めの四五句を得るに非常  の片吟を感ず可し。其後は稍々容易にものし得て、二三十句に達し たる後は廿句サどころに介ずべく、猶百句位は出来べき心地すべし。 。、巡以点収など人と蹴争するも善しコ秀逸の賀舳を得るが如きは卑 蜥にしてハ予の為すべき所に非ず。俳句の下巻又は巻を取るは苦し からず。時血に山りて俳書を賞晶と為すも善かる可し。 はくえき 一、。∴猟附、懸賀発句募集、其外樽突に類し私利に関する事にはたづ  さはるべからず。 。、 。一r』 すゐかう 一旧…に幾十万何をものするも善し、数日を費して一句を推敵す 一勺{僻し。昇くものすれば放胆の方に養ふ所あり、苦しみてものす れば小心の力に得る所あり。 。、俳〜の小に’舳又は材料の解する能はざる者あらば、索引書又は た1 サ者に就きて之を…ひ糺す可し。言訊材料尽く分明に解し借ながら  一〜の忠味に解する柁はざる所あらば自ら熟思す可し。熟思して得 ざかば川ち学者に⑫へ、 一、初半の人俳〜を綿するに作帝の理想を探らんとする者多し。然れ 宝れ ども俳〜は珊想鮒の者極めて稀に、事物をありの儀に詠みたる者最 も多し、而して趣味は却て後者に多く存す。例へば 介池や蛇飛ひこむ水の音 芭蕉 といふ仙を見て、作者の珊恕は閑寂を現はすにあらんか、禅学上悟 せんきく 逝の句ならんか、或は其他何処にかあらんなどと穿鑿する人あれど ム、叩一、れば八々災僻の珊想も何も無き句と見る可し。古池に蛙が飛 ぴ、一んでキャブンの音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものな りo 稲妻やきのふは衷けふは四 火ハ とい、小は諸行無常的の理想を含めたるものにて、俗人は之を化句の 如く思ひもてはやせども文学としては一文の価仙無きものなり、 かむりづけ くわんり 、初学の人にして鷲楡、難魑、冠附、冠脳、u文、竹附俳仙、雌小 雑詠等の俳句をものせんとする人…々あり、然れども此笠の条什は 脅文学以外の分子にして、∵はば文学以外の卯に父学の波を被せた る者なり。故に普通に浮びおほせたりとて俳何にはならぬなり、〃 し此の如き魑をものしてしかも多少の文苧的風糊あらしめん・」ずる たはぶ は考熟の上の戯れなり。初学の余て及ぶ所にあらず、 、学識無き者は雅俗の趣味を〆別すること難く、学搬ある者は州想 に偏して文学の範開外にきまよふこと多し。然れども終川に於で、学 識ある者は学識無き者にまさること万々なり。 ’’土 、文章を作る者、詩を作る者、小説を作る者、帆かに俳仙をもの廿 んとして其語句の簡単に過ぐるを覚ゆ。Hく、俳〜は終に何仰の…心 想をも現す能はずと。然れども姓れ聯想の榔倣の火なるよりして火 る者にして、複雑なる宥を取て尽く之を十七字小に収めんとすろ故 に成し得ぬなり、、俳句に適したる簡琳なる思恕を収り火らば何の片 よ も無く十七字に収め候ベし。縦し又襖雑なる者なりとも、火中より 最文学的俳句的なる一要秦を抜き來りて之を十七字中に収めなば俳 句となる可し。初学の人は議論するより作る力こそ阯仔なめわ、 、俳句の古調を擬する者あれは「苦し」「焼“しなり」などとてぷ 匠輩は擴斥すめり。何ぞ知らん〔Uが斯奇とし一−。仰ぶ所の桁尽く人 保以後の焼直しに過ぎず。同じく地れ焼き血しなりとも愈と鉛たは 自ら価値に大差あり。初学者惑ふ莫れ。 、古俳書なりとも俳滞の珊術を説きたる者は初学者の見るべき汁に いへと ご 研三 非ず。蕉門の著書と雖も十申八九は謀謬なり。火柵抑は必ずレ孔秋 謬ならざるも、其字句は其柵柳を写す能はずして後生の惑な火す者 てにはたど 比々皆是なり。若し仮名述、手爾波抔を学ばんと思はば俳〃に就か 一」とぽ やちまた ずして普通の和書に就け。古言梯、詞の八千徽、詞の北の納裕繊何 もあるべし。 、俳綿は滑榊なりとて淋稿ならざるは俳句にあらずといふ人あり。 {」古く 州状の小なる、笈するに堪へたり。是れUれ偶々滑槽よりして俳諧 に人りしかばしか片ふのみ。濁澗を好む馬士の清渦を飲んで酒に非 ずといひた・りんが如し。 。、初学の人にして〔Uの櫟祁立たずとて苦にする者あり、尤もの事 なれどムwにするに及ばず。多くものし多く読むうちにはおのづと 棚雌の碓立するに至らん、 、、俳仙は1ーハミUれ一」血(からんやうにものすべし。己れに面白から ちりめん ずと{人に舳〔かれと思ふは宗匠円下の倣物運の心がけなり。縮緬  一叫、命時計一句をHあ一。にして作りたる者は、縮緬と時計とを取 り外したるあとにて見る可し、我ながら拙し卑しと驚く程の句なる べし。 よろ 、、…ある時に壮小とも俳〜を込のせんとあがくも宜しからず。忙し き時に無用に俳句をもの廿一んとなやむも宜しからず。山づる時は出 づるに伍せ川ぬ時は…ぬに任すべし。舳なる時一句をも得ずして忙 しき吋に敬勺を立どころに得る岱あり。最もおもしろし。 、俳仙のために邪念を忘れたるは善し、ゆめ本職を忘るべからず。 然れども熱心ならざれば逝に進まず、熱心なれば本職を忘るゝに至  ろ、火榊腹を知るは火人に花り。 。、俳句の魎は浄遡に四季の姓物を用ふ。然れども魍は季の景物に限 ろべからず。季以外の撚魍を取り季を結んでものす可し。両者並び 試みざれば終に狄縦を犯れざらん。 、俳仙の魎は必ずしも其題を主としてものするを要せず。只々其魑 を泳みこまぱそれにて十分なり。例へば蚊巾といふ題を得たる時に 蝋巾を巾としてものすれば俗に陥り易く陳腐に傾き場し。故に時々 此脳を跳く泳みこみて他へそらすことも忘るべからず、 初めて火Aに下る時 蝋巾収り襟つくろふや富士の崎れ 湖春 号−一かへ といふが如き宮ヒを上としたるものをものすろム米父無しり此ハ如 くならざれば尽く陳腐に流れて而も変化すべきK域狄ノ、な孔可v一 かな 故に俳句の遡は和歌の如く魑に叶ふ叶はぬをやかましく寧盤するに 及ばず。 一、俳句の魍を得たる時はそれを上とせずして可なるのみならず、吠 た 題を全く空想中の物となして実在せしめざるも亦可なり。例へば胤 といふ秋季の魎を得たる跨 野の宮の鳥胴に蔦もなかりけり 涼菟 の如く蔦といふ実物を句中に現花せしめざるも茉文無し、一一れにて 矢張秋季と為るなり。 一、月並者流の題に文字締と片ふ必あり、例へば巾、の魍にて結字 「後」と定められたる時は、雪の句の小に「後」の字牟阯泳}、一むな へ㌔廿 り。これは単に雪の魍ならば俗俳家が片人の小、の仙を則窃し火り、 又は自oの古き持句を幾皮も州さんとする浄多窒故に之を千防せる いやしく 』 の策なり。苟も徳義を解し廉恥を知る人に対して為す可きにルず、 い一」 況んや文字結なる舟は到底佳句を得る能はざるをや、 一、他人が悪しと育ふ句も己が輯しと思はば人に柑はず火柳郷企もの す可し。ポし其種の句にして架して魁き々ならば長くものし彩くも  のする舳には臼然と厭嫌を生ず可し。 一、初学の人古人の俳句を見て堪も解する能はざる者多しとなす、地  ひつきやヨ れ眼竟古句を見る事の少きがためなり、★仙解すべからずと〃、俳〜 は学び難しと為すに及ばず。能く解し得る者よりして皿に巡む可し七 一、或は解し難きの句をものするを以て^尚なりと思惟す千りが如きは きつくつ 俗人の僻見のみ。倍州なる句は賀からず、平凡なる〜はなか/\に 貴し。 一、俳句の妙味は終に解釈す可からざるを以て伶人の〔怖を狩つより 外なしと雖も、字句の解釈に至りては圃より推劫に税聊し得べし、 故に初学者の為に肯句の解説を与へ併せて多少の批祁を為す、へし、 (修学第一期中に列ねたる粂狽は思ひつくま、に紀した叩りを以一、、 10  前徹錦綜煎複あるを免れず、読者講ふ之を諒せよ) 一、初顔に釣瓶取られてもらひ水 千代 1る つるぺ 朝触の蔓が釣瓶に巻きつきて其蔓を切りちぎるに非れば鉤瓶を取る o o o o 能はず、それを靭顔に釣瓶を取られたといひたるなり。釣瓶を取ら 0 0 0 0 れたる故に余所へ行きて水をもらひたりといふ意なり。此もらひ水 といふ趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりに O 0 0 0  て却て拷し。それも取られてとは最俗なり。唯々朝顔が釣瓶にまと くわいしや  ひ付きたるざまをおとなしくものするを可とす。此句は人口に瞭灸 する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。 、ルプ端の桜あぶなし酒の酔 秋色  これは秋巴といふ女が十三歳の時ものして上野の桜に結びつけたり とて、災桜を秋色桜と名づけ今も滴水蛍の裏手に囲ひたる老樹あり。 ル、パム其側に彼いあり。(されども考証家の説に拠れば真の秋色桜  の帷附は此処にあらずして摺鉢山に近き方なりと)此意は井戸端に 桜の咲きたるを見んとて酔どれし人の何の釘も無く其木の下に近よ るにぶ、、仰し過つて井の小に落ちもやせんと気遣ひたるなり。「あ ぶなし」といふ柵のに柵は酔人にして桜にあらず。しかも其の酔人 といふ舳は無く只々「渦の解」と虚にいひたるのみなれば、普通の 史革のやうに解しては解し難きわけなり。書て此の句も千代の朝顔  の〜と阯じく俗にして見るに塙へず。只々千代のに比すれば俗気少  、、,し、o カ’/カ 、、蚊にこまる蚊もまたこまる団扇かな 失名 搬の〜とは側らねど俗間に伝称する句なり。意義は解釈する迄もな し、此勺の如きは俗の又俗なるものにして、前二句に比するも亦数 笠のゞに介り。只々俗…此の如きものを発句と称へ居る者多き故に 火の宏をかずるのみ。 。、何小ぞ花見る人の長刀 去来 忠は艮りさしたる人の花地に出掛けたるを衿めたるなり。花見とな らばいかめしき長刀をさして群楽の中へ出るでもあるまじきに、其 の無風流は何事ぞと潮りたるなり。此普は多少の珊想を奇ム肘、わ故 に俗間に伝はり称せらるれども、名句と片ふは必ずしも此櫛の仙に 限らざるなり。否、此種の句は鍛も卑俗なり場養ものと知るべしい 此句は此の如く理想を含みたる仙の上にては上葉とすべき名〜なれ ども、初学者の此種の句を学ぶは最も危し、 、蒲団著て寝たる塗や災山 嵐小」 これは実最を知らぬ人は其味を解し難し。試みに京郁に行養て勺く づくと衷山を見る可し。低き山の近くに花りてしかも狐の少しづ、 あたか 高低ある処、恰も人が蒲団をかぶりて班たるに似たり。さればこそ 此讐楡的の吟ありたるなれ。此何は舳の詐き句にあらねども柑榊と 鞍妙とを以て勝りたるものにして容易に棋倣し得べきに介ず、しか して此の句につきて俗人は勿論普通の文単布にも解し難き俳〜トの ◎ ◎ ◎ 袴色あり。そは冬の季といふことなり。湘Mは冬季にして此〜は淋 団を醤楡に用ゐたれども、他に季とすべき者なければ欠仮冬弔・」為 るなり。俗人の解するが如く此句を車に火山の将楡とするのみなら ⑭ ば一寸をかしきばかりにて何の趣も無き択なれども、冬季になる故 に趣を生ずるなり。さすがの郁も冬柿れて見るもの淋しく火きが巾 に彼の東山を見れば、これも春の則のなまめ慧たる様ナを扮てて只 ひつそりと寒さうに横はる処、如何にも淋舳うちかぶりて泌たるし」 見れば淋しさの中に多少のをかしみもありて何となく血[う感ぜら るゝなり。人若し之を疑はば夏の災山を見て此仙を味ひ、火に冬の 東山を見て此何を味ひ、以て其趣の多少を比較す可し。必ず発川す る所あらん、 、我雪とおもへば艦し笠の上 火ハ 普通には「我ものと思へば軽し傘の㌻」として伝はれり、されい」 「我もの」としては笹だ俗なり、「我雪」の方に従ふぺし。忠味は解 は うた 釈する迄も無し。こは端唄などに人りたるため多少艶体に近き鵬企 ゆ丑ん 生じ、俗人は有難がれど是即ち此句の俗なる所以ない、火灼の句と しては斬新を以て賞す可し。若し之を模傲する者あらば{ちに邪脇 。“{・弔’’岳婁 に陥ること必定なり。 、しばらくは花の上なる月夜かな 芭蕉 芭焦汽野にての吟なり。これは吉野の花の多きことを言へるものに して、そこら一面の花なれば月もしばらくは花の上を立去らずとの 意なり。此処にて「しばらく」といふは椚々久しきことを言へり。 けだ これは楽人好のする句なれども深き味の無き句なり。蓋し実最を写 はし 吋」ずして珊想に趨りたるが為ならん。 と”やi 一、わが事と泥鱗の逃げし根芹かな 丈州 廿り 芹は條のはじめなり。芹摘みにと手を出したれば芹のあたりに居た る氾鰍の柵へられんとや恐れけん、あちらに逃げ隠れたりといふ意 にして、泥鰍を擬人法にして軽くおどけたる処、丈州の独壇なり。 上舳にルるも猶名仙たるを失はず。 、門前の小家もあそぶ冬至かな 凡兆 冬允とは円の短き概端にして一陽来復の日なり。然れどもこゝにて は介の如き意蛛に用ゐたるに非ず。蓋し冬至は禅宗に於て供養の定 nなるを以て、守の門前に住みたる小家もお寺の縁により此日は遊 ぴ採すとなり。門前とは普通の家の門前ならずして寺の門前なるこ とは一何の上にて明かなり。又門前の小家といふこと何の為の家と は分らねど、前後の趣より察すればいづれ直接か間接か此寺の為に 生活し料る小家とは知れるなり。こは元禄の句なるが、当時にあり て門前といふが如き〜ひなれぬ漢語を用ふることは少きに、これは 却て後世燃村の調にも似たるは如何といふに、山門前の意味なれば 淡浄にて門舳と読ませたるなり。山門に限らず仏語には漢音の用語 もと 彰し口さて此句の値を論ぜんに、固より余韻ある句にあらねど一句 は のしまりてたるみ無き処名人の作たるに相遠無く、将た冬至の句と {」tは。、 してはト葉の部に入る可し、溶泊に何気なく言ひ出したる処、却て 匁・弔の趣ありて味ひあり。 、岨人の渡り候か橋の霜 宗因 句意は橋上の霜に足跡あるを見て、大方里人のはや渡りたらんかと 想像したる迄↓。仏り。されど此〜は榊林の…帆∵川ハ咋にしイ、、一〜 の日当は趣にあらず、却三、臼葉の上のuあひにあること概林の符直 なり、此句も候などの字をつかひたるは諦山の文句を用ゐたるなれ ども、それはかりにては未だ口あひにならず、錐し調舳の巾には 「里人の渡り候か」といふ育葉あるべし。(今何の中にありし」氾惚せ ねども)其謡舳の意は此辺に理人はおぢやるかと砂れたるものなリ◇ を、此俳句にては「渡」の字の愈鑓を帳川しておぢやるといふ“に は用ゐず、橋を渡るの渡る意に用ゐ、以て〔あひとなしたるなり。 檀林風の句多くは此種なり、さて此禰の句は俳滞史のヒには滞き功 繊ありたれども、今日より評せんには一文の伽伽もなかろべし「所 中る 謂趣味余韻の如きは整も之を有せざるがためのみ、 、世の中は三円見ぬ問に桜かな 鎮火 う ゐ 〔んぺん 名高き句にて世の人大方は知れり。仙恵は泄の中の有為仏笈なるは 桜花の少しの間に咲き満ちたると同じとなり。誰にも能く分る句に てしかも理想を含みたれば阯人には賀翫せらるゝもの、し覚えたり、 されども理想を含みたる肴必ずしも蒋からざるは舳にも片ひた、り如 し。況んや此句の如き楕調の下品なる著は俳仙とも5ひ難冬、位なり。 きれどもはじめての作としては保似するも可なり。ゆめ棋倣す、へか らざるものなり。俗には「三日見ぬ…のしと仏へたれども欠仮一地 ○ ぬ間に」と「に」の字の方よろし。「の」とすれば全く悌峨となり て味少く、「に」とすれば「桜」が上となり炎救となる故に辛少の 趣を生ずべし。 、湖顔や紺に染めても強からず 山汀  なと 」 糸杯を紺に染むれば糸が倣く丈火になるとは俗に片ふ所なり一され ど朝顔の花は紺色のものも欠帳其棚限りの命にて倣くもあらずとお 挑舳む どけ興じたるなり。也有の句概ね此類なり、これ笠も一寸をかしみ あれど初学の棋倣すべきものにはあらず。 、御手討の夫帰なりしを衣がへ 燃村 薔く昔の小説にある脇を詠みたるなり。某の兇おのが土人の娘火は 〃 膀。几などに馴れ映心しが、いつしか其事主人の可に入り不義は御家 の御法腹なりとて仰平討になるべ主一・処を、側の者が申しなだめて二 人の命を乞ひたるならん口其後二人は夫婦となりて安楽に暮らし居 一 ろさまを斯くはつゞりしなめり。衣がへは処衣とも沓主一二重の初め 軋∴壮一 に納人を脱ぎ衿に併かふることをいふ。特に此句に里衣を用ゐたる は今は。一人の杵が世椛を持ちて半穏に幕らし舳る事を現さ」んがため にして、此笠の〆姻し取り八nせなど総て老練の極なり。人世の複雑 なる卯炎を収り火りて斯く迄に詠みこなすこと、蕪村が一大俳家と して世焦以外に一旗職を立てたる所以なり。因みに云ふ、此趣向は 小視のトにはありふれたりと雖も、蕪村時代にはまだ筒様な小説は たし なかりしものなり、燃村は帷かに小説的思想を有したり。 、おちぶれて関寺うたふ蚊巾かな 几董 蜘巾は冬季なり。関与とは関寺小町といふ謡曲の名にして、小町が おちぶれし後の恢を綴りたるなり。昔はさるべき人の今はおちぶれ れいらく て側与小町などを謡ひ舳るさまを詠めり。零落せし人故に特に関寺 小町を収り八Hせたるなり。顕巾とはおちぶれし人の頭巾著て居るを いふなり。「うたふ蝋巾かな」といふ続きにて頭巾著た人が謡ふと なること俳句に於て通例の句法なり。又頭巾といふ季を結びたるは そ わ 冬なれば人の塔滞したる趣に普く副ひ、又頭巾を冠りて佗びたる様 子{見ゆろ故なり。 、うちそむき木を制る桃の主かな 白雄 桃とは桃化のことにて奔雫ない。桃の主とは前後の模様にて考ふれ  む 二 ” ぱ桃人か灯外などの獅なるべし。木を割るとは薪を割るなり。うち そ打きとは桃の花を竹にして木を制るといふ意なり。即景其ま、に して名小のw泌あり。 一、吋鳥鳴くや球菜の薄加滅 暁台 雌堤は俗にいふじゆんさいにして此処にてはぬなはと読む。薄加減 はじゆん菜の料珊のことにして塩の利かぬ様にする事ならん。さて 冊!ゝ、寸 雌鳥と球菜との関係は如何と云ふに、関係と云ふ稗のもの無く只壱 時候の取り介せと見て可なり。必ずしも尊菜牟一喰ひ贈ろ時に時心の 蹄き過ぎたる者とするにも及ばず。八々尊菜の薄加減に…火し時と 時鳥のなく時と階々同じ時候なるを以て、此二物により此時候を挑 はしたるなり。しかも二物ともに夏にして時鳥の貯の滴らなる塚堪 の味の澹泊なる処、能く夏の始の清涼なる候を想像せしむるに地叶七、 此等の句は取り合せの巧捌によりて略々其句の舳拙を遣む。 、初雪やくぱり足らいで比校許り 蝶砂 初雪が降ることは降つたが余り少斌赦何処も彼も降るといふわけに は行かず、以々比叡山の上ばかりに降つたといふ一一となり。糺り地 らぬとは初雪を擬人法にしてさういふなり。巧存な句といふペし、 、砂川や枕のほしき夕涼み 隅虹 砂川に出で涼みて肝れば涼しくもあり、且つは余り砂川の滑らさに 枕をかりて此河原衷の砂の上に寝転びたしとの意にて軽妙なる句往 ワ0 、追々に塔の雫や番の㌻ 二柳 春の雪は早く解けるものなり。されど五収の塔の庫根には日向と日 陰といろ/\にある故に、先づ一処より解け初むると思へば次猟次 11く 第に此処彼処と解けて、果一。はどこもかも乍が洛つるやうになりた りといふ意なり。これは巧帝な句なり。 、菊の香や奈良には古き仏たち 也焦 此句に於て菊と仏とは場所の関係無し、必ずしも仏の前に菊を供へ たるにもあらず、必ずしも仏堂の側に菊の咲きたるにもあらず、倣 ひて場所の関係を言はば菊も市仏も共に泰良にある迄の少なり。作 あたか 者の余良に遊びし時恰も菊の咲く頓なりしなるべく、従って此仙愈 以て余良を現したるなるべしと雖も、而も菊花と汽仏との収一怜肘 は共にさび尽したる処、少しも動かぬやうに徽ゆ。二、作々の潤似 と知る可し。 、秋風や白木の弓に弦張らん ム来 つる にかは 夏時白木の弓に弦を張れば膠が剥げるとて秋冷の候を符ちてするな り。故に秋風やと置けり。されどもそれはかりにては理窟の句にて い匁かの繰無し。灘しりは化雌添ては鶏なる婚にして、戦場 に用ゐらる、は片ふ迄も無く、基目などとて妖魔を據ふの儀式もあ ろ位なれば、倫気の粛殺たるに取り合せて自ら無限の趣味を生ずる を見る。況んや其弓は内木の弓なるをや。白色には神聖の感あり、 腐殺の感あり、故に秋の色は白とす。此句無造作に詠み出でて男ら しき処を炎はず。有り難き佳句なり。 、時鳥鵬くや雲雀の十文字 去来 時犯は夏にして仰驚は僚なり。されども時鳥は春に鳴かずして雲雀 は夏{舳る故此〜は夏季となるなり。此意は時鳥は横一文字に飛ぶ′ ものにして宴雀は下より上へ真直に上る者なり。故に丁度雲雀の上 る処を時地が横ぎりて恰も十文字の如くなりたるを云ふなり。最も 巧妙なる句なり。 、卯の花の絶間鮫かん聞の門 去来 くら 脚故に人の門を叩かんとするに、一寸先は闇うしていづくを門とも 定め燃し。帷そこらの坦一面に咲ける卯の花は闇にも白く見ゆるに ぞ、火中に少し許り卯の花の絶えたる処こそ門ならめと推量したる なり。枚駄統腿なれば棄人の劇賞する句なり。此句わろしとにはあ らねど索人の好く程に蒋き句にあらず。(但し千代の朝顔の句、秋 壮と 色の桜の〜抔に比すれば此句の^きこと敬等なり)若し絶問といふ 舳を改めなば今一段の佳句ともなるべし。 、生娘の袖誰が引いて薙の声 也有 むし 雛はやさしき湊ながらおそろしき声を出すもの故、恰もたはれ男に 杣引かれたる介娘が覚えず高竜を発したるにも似たりとなり。此句 た上 は乍娘の声を雛に将へたりとするも、又は雑の声を生娘に讐へたり とするム妨げ無し。 、むつとして灰れば庭に柳かな 蓼太 「むつとして帰れば門に青柳の一と端唄にも謡はれたれば世の人は 祷く知りたらん。句意は余所で腹の立つ事ありてむつとしながら内 に帰れば、庭に柳のおとなしく曜れた、りを見て、此洲の如く風にも さからはず、只々柔和にしてこそ附の}も波るべけれし一怖りた一勺な り。箇様な理想を含む故に端唄にもはひりたれど、俗(入ト分にし一し 月並調の本色を現せり。千代の朝触の句よ〜くなほ舳な心地ず。 、妻にもと幾人思ふ花児かな 椛笠 花見の中に迎りて行けば美人が締縦を著飾りて沢山州で火る故に、 あのやうな女を我妻にしたい、此やうな娘も我衷にしたい、し思ふと いふことなり。統維雑袴して郁会の花児の倣なるさまは衷血に現は れたり。 、見ぐるしき馬にのりけり雲の雌 斗入 雲の峰は夏季にして夏雲多奇雌の意なり。此塞が山て来ると熱くな る故、雲の峰には夏の空の崎れて熱き心をイヘるが例なり、此句け 旅人のから尻などに乗りて行く様を片ひしものなれば、紛艇な鳩に 非るは勿論なれど、特に見ぐるしきと言ふ上は遡柑のより・、余利児 ぐるしとの意なり。蓋し炎人に人を紋せて歩むこと故、馬もいたく 疲れて遣はかどらず。石は汗によごれて如何にも地荷しきル、一圭を’ をは へるなり。一句吟じ単れば炎大に人鳩の疲労せしさま見るが如し、 、初学の人道に進むは何れの方向よりするも勝手なれども、浄迦の 学生などの俳句をものするは多く淡洲を用ゐ浪涛を応川する浄を災 際上多しとす。例へば水村山郭洲旗風といふ壮牧の成句々山収りて、一 れに秋季の景物を添へ 沙魚釣や水村山郭澗旗風 嵐㌻ といふが如きこれにても俳何なり。此辺より価人するも可なり。又 成句を用ゐざるも只々H前の救物を収りて一列に並べたぱかりにて も俳句にならぬ事はあらじ。 奈良七重七性伽蔚八砥桜 芭焦 藪寺や筍月夜時鳥 成災 浦山や有明瞳遲桜 羽人 などの作例もあるなり。此三句の中にて成美の句姓化なりとず。 〃 L、和歌を学びたる人の俳句に入るは詩人の俳句に入るよりも難し。 是れ和歌の他双の然るにあらずして今日普通の和歌と称する者の文 学的ならざればなり。万葉集の歌は文学的に作為せしものに非れど も、榊気ありて俗気なき処却て文学的なる者多し。新古今集には間 間佳納あり。金椀和歌集には千古の絶唱十首許りある可し。徳川氏 の米に至りては繊巧なる方のみ稍々文学的とはなれり。これ等の歌 より進む者は固より俳句に入り得べく、しかも詩人の俳句に入るよ ま りも入り場きこと論を侯たず。されども古今集の如き言語ありて意 けだ 匠なき歌より進み来らば俳道に入ること甚だ困難なるべし。蓋し俳 むし 句の上にては優長なる調子を容れず。寧ろ切迫なる方に傾くが故な り。試みに俳句的の和歌を挙げなば ものゝふの矢なみつくろふこての上に霰たばしる那須の篠原 源 実朝 の如きを然りとす。此外薪古今の「入日をあらふ沖つ白浪」「葉広 かしはに鰻ふるなり」など、又は真淵の鷲の嵐、粟津のタ立の歌な い『五つ どの如きは和歌の尤物にして俳句にもなり得べき意匠なり。 、前には初学者のために多少古句の解釈など試みたれど、そは標準 とすべき者を挙げたるにはあらず。故に今こ、に標準とすべき者十 数句を堆げて第一期の精尾となす可し。但し俳句に入る人繊巧より 占1くり 価川より疎大より滑稽より各々遺を選びて進むこと勿論なれども、 平易より進む方最も普通にしてしかも正路なりと思ふが故に、こゝ に平易なる句を抜萃せり。分け登る遣はいづれなりとも、其極に至 くもゐ れば同じ窒井に一輸の大月を見るの外はあらじ。 丑六本よりてしだるゝ柳かな 去来 永 凧 蛙円 矛 ’1 一〃 鎌 き口や大仏殿の普請声 や刈旧のあとの鉄気水 水の上から出たり春の月 かけて鵜縄をさばく早瀬かな 介の衛道をのす燕かな 李 惟 許 {凧 、〜 尚 由 然 バ 蒐 白 春の日の念仏ゆるき野寺かな 静かさは菓の葉沈む満水かな よろ/\と撫子残る柑野かな 藁積んで広く淋しき柑野かな 道ばたに多賀の鳥肥の寒さかな タ立や川追ひあぐる棟馬 山松のあはひ/\や花の工 市中はものゝ匂ひや夏の月 百舌鳥鳴くや入日さしこむ女松原 なが/\と川一筋や雪の原 旅人の見て行く門、の柳かな  春雨や松に鶴鳴く和歌の浦 我庵は榎許りの落葉かな 以上の句は箭句調の巧を求めず、 につらねたる迄なれば、 ○ コ ー1 司 叶 o ” 司 “ 正 そ 凡 司 コ 同 た々 午 司 n 司 叶 秀 の 兆 典 只ありのま、の努物をありのまゝ 誠に平易にして誰にも分るなるべし、血し て其句の価値を問へば即ち多くは是れ第一流の句にして俳仙外印孔 数の佳作なり。 第六 修学第二期  り こん 、利根のある学生俳句をものすること五干灯に及ばぱ直ちに第。、蜘 に入る可し。普通の人にても多少の学問ある者俳句をものすること 一万首以上に至らば必ず第二期に入り来らん。 、句数五千一万の多きに至らずとも、才能ある人は数年の仏蜥を維 る間には自然と発達して、何時の舳にか第二期に人り以ろ小多し」 董し自ら多くものせずとも多年の附には他人の〜を児、税を閉〃二 と多きがためなり。 、第一期第二期の限界は判然たるものに非ず。然れども俳〜をもの する人は初めば丑里霧中に迷ふが如く、他人任せに句を作るが如慧 、段 大 綿 ゲ 〃 〃 岨 “ 感あり。只々何数と歳月とを積むこと多ければ略々一句のこなしつ き、廿人の句を地ても〔分の句を見てもあらましの評論も出来、何 となく〔U心巾に煩む所あるが如く感ずるに至らん。此辺より上を 先づ椛二期と兜めん。 ひんせい 、節、一則に入り来る人と雖も、其人の稟性に於て進歩の方法順序に 於て柵災あるがために、発達する部分に程度の相異あるを免れず。 例へば叩は意匠の点に於て発達したる杢一一呈岨これに副はず、乙は言 柵の点に於て発達したるも意匠これに副はず、丙は雅趣を解して繊 巧を解せず、丁は繊巧を解して壮大を解せざるが如き是れなり。 、★雅に長じて他に拙なる者、繊細に長じて他に拙なる者、疎豪に 長じて他に拙なる者等の如きは如何の方針を取てか進むべき。応へ てHく、一痘の方針ある可き理なし。一は自已の長ずる所をして益 けんかく 益長ぜしめよ。他は自己の及ばざる所に向って研藪せよ。両者若し 泄び行ひ得べくんぱ並び行へ。 、n已の長ずる一方に向って専攻するの方針を取るも猶多少の変化 を知るを要す。変化を知るは勉めて自已の句の変化を試むるに在り。 勉めて古今の句を多く読むに在り。古人又は一時代の格調を模倣す ろも可なり。 、人あり、古俳人菜の俳句の格調他に異なるを見て厭ふ可きものあ や ゝ りとす。一度臼ら其句を摸して稿々真を得るに及んで忽ち其格調の 新奇を愛するに至ることあり。故に博く学び多く作るを要す。 ゆうこん 、諦禰の変化を要する中にも最も壮大雄渾の句あるを善しとす。壮 火雄淋の趣は説き難しと雖も、之を形体の上について言はんに、空 べうぽう き が 剛の広き者は壮大なり。湖海の紗荘たる、山笹の魏峨たる、大空の 無限なる、或は千軍万馬の臓野に羅列せる、或は河漢星辰の地平に 冊按せるが如き、皆壮大ならざるは無し。勢カの多き者は雄津なり。 さ一く はiはい 人風の螂々たる、怒溝の膨群たる、飛漫の濠々たる、或は洪水天に ’一i も『とう 渦して凸猟を蕩流し、或は両軍相接して弾丸爾注し、牒随相交りて 水僻海を湖かすが如き、背雄渾ならざるは無し。 た舳 、一此、一堆一微物につきても猶比較的に壮人雄繰なる仔あり。例へば 牡丹を見る者、牡丹数輸の花を把り来ると、只々、愉の什吋を犯り 来るとを比較すれば、一輸牡丹のカ花の人当一丞るや、つ感ず可し、是 れ花の特別に大なるに非ず、一輪なれば比較すべき者なきがためな り。或は庭園中の牡丹を詠ずると、場所を指定せずして只々一株の 牡丹をのみ詠ずるとを比較すれば、後肴の力牡ルの人なるを感ず。 是れ亦牡丹の大なるに非ず、比較すべき者なきがためなり。(近く 見れば大に遠く見れば小なるの理もあり)例へば 押し出して花一輸の牡丹かな 春来 四五輸に陰日商ある牡丹かな 概室 の二句を比較せば前者の花大にして後舟の花小なるを感ずべし、 蟻燭に瀞まりかへる牝ルかな 許六 どや/\と牡丹つりこむ堺の内 士朗 の二句を比較せば前者の牝舟大にして後者の牡丹小なるを臓ずべし。 之を壮大といふは文字穏当ならずと雖も、小に対して人といふは即 ち可ならん。 、壮大雄渾なるものも繊細精級なるものも普遡の美術上の側値に於 て差異なきは初に述べたる如し。而して今こゝに特に壮人雄淋を挙 ぐる者は、此種の句最も少きを以て一燭渇製に堪へざるがためなり。 何故に此種の句少きかと問へば、第一に世間此の伽の趣味を解する 者少きこと、第二に枇間此種の犬然的人推的人働少きこと、第一。一俳 あら 句の字数少くして此種の大倒を児はすに苦しきこと地れなり。 、美術の標準は吾人の主観中に一虐して動くものにあらずと雄も、 客観的に之を見れば同一の美術品にして時と場介により伽倣に糸火 を生ずることあり。即ち再人の標準中には斬新を炎とし陳腐を不共 とするのは一箇粂あるが為に、客観的に変鋤するを娩れざるなり口 例へば昔は面白き絵画なりと評せられし其愈匠も、今〔に介り}、之 を模倣せば人拷陳腐として之を斥けん。或は今日に花りて斬新なり とてもてはやさるゝ詩文小説も、後世に至り同様のなにを為す者多 〃 からば終には陳腐とし厭嫌せられんが如き類なり。(元禄時代に所 洲ド桃淋“なる諦はや、此意に近しといへども、彼時代には推理的 あい言い 〔煎脳を欠きし故唆味を免れず) 、、壮大熾河なる句は少きを以て、此種の句を作す者は之を渇望し居 る人より歓迎賞美せらるべし。然れども壮大雄澤なる事物は英種類 と かく 必だ少く目傑する事も稀なるが故に兎角陳腐に陥り易し。又十七八 字の舳に壮人雄滞の事物を包介せしむることは黄だ至難な可つを以て 試みに戊る大観を取て詠ずるも、何普の景色なるか何等の人事なる か氾決として読者に知れ難き者多し。多少俳句に心得ある人、徒ら に大徽の趣味を解したるまねして此種の句を為す者、往々陳腐に陥 かんが り又は荘浪解すべからざるに至る。鑑みる所あるべし。 一、★来壮大雌淋の句を為す者極めて稀なり。試に我心顕に記億し来 る者を妃さぱ 初や佐渡に横メ天の中 火に吹かるゝ野分かな  水まさりけり五月雨 や海のおもてをひらめかす  や鵬門の波の飛脚船 く草の中より今日の月 雨や大河を前に家二軒  水側けて田植かな 逝工の峰より続きけり くや天にひつ・く筑摩川 〃とw帖の落ちこむ茂りかな “の撤なり。(芭蕉の句には猶数首の壮大雄深なる者あれども、そ は直焦雑談に論じたるを以て二、に’はず。此外に{比較的に壮大 雌淋なるものは枚堵に暇あらず) 一、繊細榊繊なる句亦学ばざるべからず。生来美術心に乏しき人、又 け漢学風の疎大に火する人は往々にして此種の趣味を解せざる者あ り。然れども世上所謂美術家、文学家なる者の八九分は皆此一力に 偏する者なり。只々繊細精繊の極に達する人は八九分の内処に一分 を止めざる可し。犬然を溝究する人一州一木の微を知り、人小を触 察する人一些寧一微物の真両Hを識り、人間心巾…一髭の動機を搬 る者は絶無にして僅有なり。俳句にては人事を溝究す帥勺一一と小視家 の如く糟細なるを要せずと雖も、犬然を溝究する恢は成る可く柵微 なるを要す。灘し精細なる人少は之を十七字小に包介せしむる能は ずと雖も、糟細なる大然は包含せしめ得べき仔多ければなり。 一、繊細精級なる句は一々に引例に及ば8る可しと雄も、見当りたる 者数首を取りて左に列記せん。 た ん 活 ゝ 瓜 歩 ○ チ 蒲公英や葉を下単に咲て居る 草刈りて襲選り山す蒐かな 白魚をふるひよせたる四つ子かな 篤の身をさかさまに初所かな かきっぱた 杜若しばむ下から脚きけり 愛らしう撫予の花つぼみけり 萩の花追々二けてさかりかな 草の葉や足の折れたるきり/\す 臼起す小春の草のほのかなり 埋火に年よる膝の小さゝよ はこべ草枯野の上にしがみつく 一、壮大なる事物は少く繊細なる事物は多し。敬簡の繊細な判勾其物を 八Hすれば一簡の壮大なる事物となるべく、一簡の壮人なる恢物牟、分 てば数箇の繊細なる事物となるべし。 一、壮大を見る者繊細を見得ざるが如く、繊細を見る者亦壮人を児得 ざるが多し。注意せざるべからず。 一、壮大に冬雅俗あり、繊細にら雅俗あり。壮人を好む折以に壮人々、 見て雅俗を判するを知らず、繊細を好む肯巾に繊細を見て雅俗を刷 するを知らず。今の宗味者流は繊細に伽してしかも雅致を解せず、 淡 俗幽をたとす。歌に火句俗胴なり。今の書生者流は壮大に偏してし か{然練を久く、故に陳腐に陥らざれば必ず疎豪にして趣味の解す 可らざる句を為す。他人の仙を評するも亦之を標準とす。繊細なる 者は胆を人にすべし、壮大なる著は心を小にすべし。 すて 、魍uUに壮大なるあり、題目Uに繊細なるあり。四季の題目を以 て之を例せんに 夏山。夏野 夏木立 背嵐 五月雨 雲の峰 秋風 野分 霧 稲衷 xの河 屍月夜 刈山 凧 冬枯 冬木立 枯野 雪 、}。一 f、 旧同 鮎 将は其壮人なる舟なり。又 一 言言 み。一す言毒く 火風董蝶虻蜂子矛蝸午水馬鼓虫蜘子蚤 蚊 撫子 扇 燈籠 草花 火鉢 足袋 冬の蝿 埋火 仔は其繊細なる宥なり。壮大を壮大とし繊細を繊細とするのは普通 なれども、時としては壮人なる魎Hを把て比較的繊細に作するの技 傭各無かるべからず。例へば五月雨を詠ずるに 蠣柵れて温央を吐く川や皐月雨 春来 山陰に湖暗し五月雨 吟江 と人きく深くのみものせず、却て 五ハ雨に蛇のおよぐ戸口かな 杉風 三味線や寝衣にくるむ五月雨 其角 などとやゝ繊細にものするが如し。又これと同じく繊細なる題日も 吋として比較的壮大に作するの技儒なかるべからず。例へば胡蝶の 雌にて 班る胡蝶羽に墨つけん縁の先 披灰 猟びかふて初手の蝶々紛れけり 嫌山 し耳さしく炎しく趣向っけるも固より善けれど、そはありうちの事 ないつこれを少し劣へ変へて ある秘の蝶の数見るつむじかな 一排 や ぱせ 真政に矢走を渡る胡蝶かな 木導 など、一は強く一は大きくものしたるも珍らかに巾円かるべし。 、雅撲を好む考娩腿を嫉ひ、娩雌を好む苛雅枚ζ蛛。”の淋あり、り〜 を今口の実際に見るに、昔めきたる老人は雅撲の一方に伽し、娩雌 なる者を俗狼の極として之を斥く。又今様の美術文学家は化々腕雌 の一方に価し、雅撲なる者を取て卑野として不美術的として之を斥 へんは く。共に偏頗の論なり。 、雅僕の中にも雅俗あり、腕魁の中にも雅俗あり。推故に仙すリ皇“ ,た は百姓と言ひ鍬と言へば則ち以て(阯ちに是とし、復他を脚みず、必 れ他の卑野と日する所以なり。腕麗に偏する者は少女と言ひ命腓と 言へば則ち以て直ちに是とし、復他を顧みず。北れ他の俗狼とHす る所以なり。 てん帖 、日に焦げたる老翁鍬を肩にし一枝の桃花を折りて川畝より帰り、 くわ人い たゝす う小、 老婆洗衣し終りて柴門の辺に什み鵬に之を迎ふれば、飢萩典舳を郷 ほしいひ つしぱ U 一 ひ井戸端の乾飯を啄む、是れ雅故にして美術的なる魎向ならん 1 出ぐ 数畳の大広間片側に金解風を続らし、十四五の少女一枝の牝ルを伐 り来りて之を花瓶に挿まんとすれば頻りに災の名を研ぶ者あり、少 そぱだっ 状んとう あ、、む 女驚いて耳を欲ればをかしや櫨顕の蛾鵡永日に階んで此戯を為すな り。是れ婉麗にして美術的なる趣向ならん、雅撲と娩雌と火に之を 美術的にせんと欲せば、物の雅撲と物の腕腿とを遮択するの必炎あ るのみならず、之を美術的に配命するの必製あるなり。然れども配 合の美術的なると否とは理論の上にて説明するは難し。実際のトに 評愉する在善しとす。  しうすゐしんせし ね「たう 』 一、幽遂深敵を好んで繁華熱開を厭ふは普通詩人たるものの憾情なりし 前者の雅にして後者の俗なるは言ふ迄もなけれど、さりとて錐供熱 開必ずしも文学的の分子を含まざるに非ず。況んや如何なる俗が物 も之を冷眼に視る時は、英之を冷眼に視る処に於て多少の雅越、モ上 ずるをや。「内眼看他世上人」と5へば一。世上人」は枇めて俗な判り 者なれども「白眼看」の三字を添へて無上の雅致を生ずるが如し、 (前項雅撲娩麗の条をも参照すべし) 〃 一、珊猟は珊猟にして文学に非ず。されども理窟の上に文学の皮を被 せて十七字の理瓶をものするも亦文学の応用なれば時に之を試むる 壮か {碍し口只々理窟の為に文学を没却せらるゝこと莫れ。理窟に合せ  んとすれば文学に遠く、文学に適せんとすれば理窟を離るゝこと、 棄と州布全く其性を異にするより来る者故是非も無き事なり。両者 や ゝ をくHして榊々調和したる者をものするは、非常の辛苦を要しながら 存外に嚇宋を博すること能はざれば其覚悟なかるべからず。蓋し普 遡文学者は半沓の処を繁せず、単に其理窟的なるの成に於て之を擴 斥す。又俗人はそれよりも猶卑俗に暴露的にものせざれば承知せざ  るべし。  、珊脇といふには非るも迷別、留別、魑画、慶弔、翻訳なども稿も  此に類せり。例へば 生きて世に人の年忌や初茄子 几董  と’へる〜の如き、陳腐に似て陳腐ならず、卑俗にして卑俗ならず、 ’う 奇を求めず巧を弁せざる問に無限の妙味を持たせながら常人は何と 迭感ぜざる可し。否、何とも感ぜぬのみならず、これにては承知せ ほ上五 ざる可し。年忌の法会などならば其人を思ひ出すとか、今に幻に見 ゆるとか、年月の立つのは早いものとか、彼人が死でから外に友が 無いとか、源ながら盟を祭るとかいふ陳腐なる者を有り難がるも常 せんカた 人ならば詮力無きも、文学者たらん者は今少し考へあるべし。此几 策の〜にても「生養て世に」と州折したる詞の働きより「人の年忌 や一圭そくしくものしたる護に一初茄子一と何心なく置きた るが如くにて、其実心中無限の感情を隠し、一一一呈…の上に意匠惨澹た た」 る処は憧かに見ゆるなり。要するに此種の句は作るにも熟練を要し、 見るにも熟練を褒するなり。 、初心の人は固より何事をも知らざれども、少し俳句に入りたる人 は珊嵐的の〜、ユは前書附の句はむづかしきを悟る可し。而して後 由ら 榊々熟練を経、辛うじて此種の側をものするに至れば独り心に嬉し く、只々其片ひおほせたるを喜んで却て其何の雅俗優劣を判する能 はざることあり。常に自ら省るを褒す。 お吊む 一、天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して刀並洲  といふ、然れども此極の句く多少は之を見るを現す、例へば俳滞” 堂に入りたる人往々にして月並酬の句を賞し、或は内らものすろこ  とあり。蓋し此人月並調を見る事多からざるを以て、其中の一体椚 い〕く 稿正調に近き者を取て薪く評するなり。斌んぞ知らん此獺の〜はハ か 並家者流に於て陳腐を極めたるものなるを。恥を撤かざらんと欲す  る者は月並調も少しは見る可し。 、学生時に或は月並調を撲し目ら新奇と称す。是れ彼〔少には斯奇 なるものならん。然れども其文学社会に陳腐なること久し、餓サ焚  ふに堪へたり。  、俳句に貞徳風あり、檀林風あり、也焦凪あり、火狗凪あり、芙淡  風あり、伊丹風あり、蕪村風あり、暁台風あり、一茶凪あり、乙。一 風あり、蒼糺風あり、然れども是れ歴火上の納火なり。“派を“ず  る者乙派を排し、丙流を学ぶ者丁流を誇らざるべからざるの珊無し、 其何風と何派たるとに拘らず、美なる者は之を収れ、美ならざろ々  は之を捺てよ。 一』とさ 、世上蕉風を信ずる者多し、我れ故らに奇を好んで檀林を堆ぜんと。 やせか まん 是れ所謂負惜みの痩我慢なり。而して痩我慢より割り出したる俳〜 は整も文学に非るなり。我其角派の系統を継げり、故に其灼派の俳 句をものせんと。此の如く系統より割山したる俳〜は文学に非るな  りo 岨とゝます 、梅に篤、柳に風、時烏に月、名月に去、名所には柑土、嵐…、心 。野山、此等の趣向の陳腐なるは何人も之を知る、然れども推酌に傘、 暮春に女、卯花に尼、五月栴に燭、紅菓に池、津秋に牛、小、に雌火、 こオらし からす 一  凧に鴉、名所には京、嵯峨、御宝、人以、比叡、。一介廿、瀬…、 恕麟、余良、宇津、此等の趣向の陳腐なるは沈く俳〜に人ろ斤に非 れば知る能はず。 へん ・」 、趣向はなるべく斬斯なるを要すれども、叶には此笠の舳公全醐炎 して腐を斯となし死を活となすの技儒あるを婆す。 、口木胸ぱかり見たらん人の俄かに西洋画の二一枚を見たらんには、 余り災懸隅せるに総きて暫くは巧拙を判定する能はざるべし。西洋 川ばかい見たらん人の日本画を見たるも亦同じ。それと同じく俳句 にても全く斬新なる趣向に至りては、見る者其巧拙を定むる能はず。 或は之を以て炎の樋とし、或は之を以て拙の極と為すに至る。而し て幾多の町月を経て反覆此句を吟諦し、且つ之を模倣する者も多く なりて後概に初の句を味へば、先に美の極と公言したる人も其の褒 め過ぎたるを悔い、先に拙の極と公一一言したる人も其考の浅薄なりし を恥づるなるベし。故に斬新なる句を見る人は熟吟熟考して後に褒 販す可し。是れ大家の上にも免れざる一弊なりとす。 一、趣向の上に動く動かぬと言ふ事あり、即ち配合する事物の調和適 応すると否とを一→、口ふなり。例へば上十二文字又は下十二文字を得て 未だ外の五文字を得ざる時、色々に置きかへ見る可し。其置きかへ るは即ち動くが為なり。 OO○○○雪穣む上の夜の雨 凡兆 といふ下十二文字を得て後、上の句をさま%\に置きかへんには 「町}や」「凍てつくや」「薄月や」「淋しさや」「音淋し」「藁屋根や」 「砂かさやし「苫舟や」「帰るさや」「枯置や」など如何様にもあるべ きを、芭焦は終に「下京や」の文字動かすべからずといひしとぞ。 寸ゐかう  一字一句の推敵もゆるがせにすべからざることなり。 、何といふ諦句を置くべきかといふ場含に推敵するは普通の事なり。 つ 然れども何かは知らず已に十七字を成したる後、英句に就きて一々 動く動かぬを検するは学生諸子の多く為さざる所なり。自ら名句を 得たりとて得意人に示す時、其人此諦は如何と質問すれば、成程そ なと れば不穏なりき、何々の語の方善かりしものを抔気のつく事多かる べし。火前に之を発見すれば一時の恥ばかりにて済む事なれども、 死んで後は人の非難を如何ともする能はざるべし。 、四季の燭目に就蓄て動き易き者を挙ぐれば しぐれ 春風ト秋風 津存ト晩秋 五ハ心ト時。舳 桜ト糺葉 夕化ト時 雨 夏野ト柵野 夏木立ト冬木立 等数ふるに堪へざるべし。一寸此題]ぱかり見れば余り懸隔し阯る 故、そを置き逮へるとは受取れぬ様なれど、実際俳句をものすろ上 に上手下手を問はず絶えずある事なり。只々熟練し舳る舟は常に之 を省み、初学血気の士は全く不注意に経過するの茨のみ。 、俳句を学んで堂に入る者は意匠と吉諦と並び達せんことこそ姓も 願はしけれ。誰でも先づ両者相伴ふて進歩する者なれど、それはあ る一部分の事にて全体の上にあらず。例へば雅撲なる何をものする には甚だ句調の和含に長じながら、腕腿なる句をものするには句洲 全く和合せざる事あり。能く/\注葱研究を製す。 、喜一呈…の上にたるむたるまぬといふ堆あり。たるまぬとは渦々醗搬 にして一字も動かすべからざるを云ふ。たるむとは一何の閉え〔ら 申る たと 緩みてしまらぬ心地するを云ふ。警へば雰の糸のしまり居るとしま り居らぬとは棄人が聞きても自ら差遠あるが如し。一句たるみある やうに感ずる時は一々之を吟味す可し。必ず此諦は不川なりとか、 もう 此語は最少し短くしても事是りぬべきにとか、此諦と彼紙と位置を てんた5 顕倒すればてにはの接続に無理を火ぜぬとか、何とかいふやうな併 あるべし。趣向は老練の上にも拙なるあり、索人の上にも上戸なる あり、只々句調のたるまぬ処は必ず老繰の上の沙汰なり。肯人の名 句抔に気をとめて見る可し。 、句調のたるむこと一概には片ひ尽されねど、普通に分りたる例を 挙ぐれば虚字の多きものはたるみ易く、名詞の多き者はしまり易し。 虚字とは第一に「てには」なり。第二に「刷詞」なり。筑三に、鋤 詞」なり。故にたるみを少くせんと思はば成るべく「てには」を滅 ずるを要す。試みに天保以後の俳〜を検せよ。不必要なる処に「て には」を用ゐて一句を為す故に句調たるみて聞くべからず、又之に 次ぎて副詞はたるみを生じ動詞も亦たるみ易し。仇し舳刊、鋤刈な どは其使ひ様による可し。今たるみたる句の例を挙げんに 0 g ものたらぬ月や枯野を照るばかり 蒼虻 といふ句の中に必製なるものは月と枯野との二語あるのみ。「月や 柑野を照るぱかり」といへば「ものたらぬ」の意は自ら其の中に含 まれ、「ものたらぬ月の柚野」といへば「照るばかり」の意は自ら 其中に含まれたり。否、両方ともに実は無用の語のみ。此句は単に 「月の枯野」とか又は「枯野の月」とかいふばかりにて十分なりと す。同じ事を幾様にもくり返さねば其意の現はれぬ如き心地するは、 初学者及び周外者の浅薄なる考より来るなり。今此句の外に枯野の 月を詠ずる考を挙げんに 月も今土より出づる枯野かな 雨什 ナ、い きつ 松明は月の所に柚野かな 大甲 朴一巾に月吹き出して枯野かな 金鳩 いへと 三句伶壱巧拙ありと雖も、蒼虻の何に比すれば皆数等の上にあり。 盗し此等は「ものたらぬ」とも「照るばかり」ともいはで其意を言 かへつ 外に介むのみならず、却てそれより外の趣向を取り交ぜて一句を而 [くしたるなり。只々柵野の月とばかりにては単純に過ぎて俳句に なり難きが為なり。併し単純に枯野の月を詠じたる句も無きにはあ らず。 一。一nハの本憎見する枯野かな 廿巣 もと えうち といへるが如き珪なり。此句固より幼稗なりと雖も、しかも三日月 いつき ゴ せい を捻出し且つ一気呵成にものしたる処、遙かに蒼虻の上に在り。而 して紀億せよ、雨什以下三人は皆犬明以前の人にして、甘巣は元禄 の人なることを。此に至り彼蒼虻が天保流の元祖にして当時の名家 なるを思はば、誰か其面に唾するを欲せざらんや。しかも蒼糺の句  山一まく 巾偶々此思句あるに非ず、彼が全集は尽く此種の璽芥を以て理めら ろ・打なり。而して此派を称して芭蕉の正風なりとい、“に至りては 典に芭蕉の罪人なり。 一、たるみにも稗度あり。着し前の如き議論を概論すれば名詞ばかり 並べたる句が一番の名句となるわけなり。併したるみも或程度迄は たるみたるも善し。只々其税度は一々実際に就いていふより外はあ らじ。又たるみ様にも全体たるみたると一部分たるみたるとあり。 全体たるみたるは最美か蒜〃は最不美なり。大方はしまりたるが如 くにて一部たるみたるは必ず悪し。 一、句調の最もしまりたるは安永、天明の頓なりとす、故に同吋代の お悟む 句は概ね善し。元禄の句は之に比すれば椚々たるみたり。然れど、“ たるみ様全体にたるみてしかも其程らひ善ければ、、元禄の佳句に丘 ヨんもく りては天明の及ぶ所にあらず。つまり一元禄の佳句には組蔀毎く、人 明には少し。天保時代は総たるみにて一句の採るべきなし。和歌は 万葉はたるみてもたるみ方善し。古今集はたるみて思し。新{今は やゝしまりたり。足利時代は総たるみにて俳句の火保時代と相似た りくてう り。漢詩にては漢魏六朝は万葉時代と同じくたるみても祷し。唐時 代はたるみも少く又たるみても悪しからず。俳句の、元禄時代に似た り、宋時代は総たるみといふて可ならんか。明澗に歪り人にしまり たる傾きあり。俳句の安永、天明に似たり。(然れども人によりて  たるみたるも少からず) 一、試みに句のたるみし有様を比鮫せんが為に、元禄と人明と人保と  の三句を列挙すベし。 立ち並ぶ木も古びたり梅の花 含雛 二もとの梅に遅速を愛すかな 蕪村 すくなきは庵の常なり梅の花 蒼糺 L三ら 句の巧拙は姑く論ぜず、其句調の上に就いていはんに、。元禄(待 羅)の句はありのまゝのけしきを飾らずたくまず裸にて抑し心した  る気味あり。天明(蘇村)の句はとかくにゆるみ勝なるもの、仲。少し  もゆるめじとて締めつけ/\て一分も動かさじと綿めつけたらんか  如し。天保(蒼虻)の句はゆるみ勝なるものを猶ゆるめたらん心付  あり。要するに元禄は〔然なる処に於て収るべく、天州は∴人を北 も  す処に於て取るべし。独り天保に至りては。元禄を棊した、勺つもりに  て元禄にも何にもならぬ者、即ち工夫を猿さぬふりして其実工犬を 、阯三、コ一丘苫裏”莚、j 壕 人 滞 〃 〃 凝らしたる者、何の取所もなきことなり。少くとも些二体に於ける 句法の変化を精細に知らざれば俳句の堂に上りたりといふを俗ず。 附上往々天脈流の句を評して蕪村調などと評する者あり。笑ふに堪 へたり。 、元禄と天明とは各長所あり、何れに従ふも善し。又元禄にして天 聊に似、天明にして元禄に似たる者も多し。是れ天工人工其極処に 弔りて柵吋致する所以なり。 、休藤一斎にかありけん、聖人は赤合羽の如し、胸に一つのしまり つひ だにあれは全体は只ふは/\としながら終に体を離れずと申せしと か。、元禄調のしまり工命は先づこんなものなるべし。天明調はどこ き もの 迄も引しめて五分もすかぬ様に折日正しく著物著たらんが如く、天 はかき 保崩はのろまが袴を横に穿ちて祭礼の銭集めに廻るが如し。又建築  たと かや に傍はば。元禄は丸木の柱萱の屋根に庭木は有り今せの松にても杉に け一 ても其儘にしたらんが如く、天明は杜を四角に鎖り床違へ棚を附け、 欄…の飾りより天井板まで美を尽してしかも俗ならぬ様に家は梗を 打ちザ、動かぬ様に建てたらんが如く、天保は床脇の柱だけ丸木を用 てうづぽち もんひ ゐ、無理に丸窓一つを穿ち手水鉢の腕木も自然木を用ゐ、門帽の扁 額は必ず腐木を用ゐ、しかして家の内は小細工したる机硯土瓶茶碗 なと 抔の俗野なる者を用ゐたらん如し。又之を談話にたとはば元禄の人 は血内くてもつまらなくても真実をありのまゝに話し、天明の人は 上手に面白く嘘をっき、天保の人はありうちのつまらぬ話を真実ら しく訊して其実はそれも櫨なりけんが如し。 、四季の感情は少しく天然にHを法ぐ人の略々同様に感じ居る所な り。然れども俳句詩歌等に深き人は四季の風情も自然に精密に発達 古 し居るは論を倹たず。面白くも感ぜざる山川草木を材料として幾千 俳句をものしたりとて俳句になり得べくもあらず。山川草木の美を 廠じて而して後始めて山川草木を詠ずべし。美を感ずること深けれ ぱ句も亦随つて薬なるべし。山川草木を識ること深ければ時間に於 ける山川単木の変化、即ち四時の感を起すこと深かるべし。初学の すで 人山川草木を目のさきに一寸浮べたるのみに!、已に句を為す、歌に そ かう 其句は平凡に非ざれば疎豪なり。さ」るからに人然を研究し/”深・ゴ一斤 が深思熟慮したる句を示すとも、初学の人は一向に火句の美を感ぜ 叶だ か上 ざるべし。蓋し彼は天然の上に斯る美の分rあることを知らざれば なり。 、世人曰く、俳人京に行かんには僚を可とす、余良に行かんには秋 を可とす、而して後始めて名句を得べしと、典片典に然り。然れど も秋時京に行きたりとも、椎時余良に行きたりとも、全く其の越味 欠くに非ず。否、京も秋ならざるべからざる所あり、余良も府なら 5、・るべからざる所あり。其他夏又は冬ならざる可らざる所あり、而 して夏冬二時の感は世人金く之を知らざるなり。例へば余典一帆処  つ に就きていはんに、春日社、廻廊の燈籠、於草山、帽大門、興棚汐 衣掛柳、二月堂等は最も春に適し、一、一笠山のつゞき、又は伶N朴内 より手向山近辺の木立、又は木立の…に抑礼の見ゆる処等、総て奥 れ』 深く茂りたる処は最も夏に適し、片郁の感、★仏の感、七大寺の宥 らく 落したる処、町の淋しき処、漉の芦仰妓も秋に適し、秋に適する処 は皆冬にも適し、しかも冬は秋に比して猶汕のぬけたる処あり。片 人の泰良四季の句を挙ぐれば 奈良阪や畑打つ山の八菰桜 山災 蚊帳を出て余良を立ち行く芳菓かな 燃村 菊の香や余良には占き仏たち 山焦 奈良七夜ふるや時心の七大与 枢籔 の如し。之を概言すれば春は美しく山〔く、夏は人きく消りかに 秋は古ぴてもの淋しく、冬はさびてからびたる感あり。 ち古ね 、俳句四季の題日の中に人事に属し、しかも普く世人に知られざろ はなは ものには季の感甚だ薄きを常とす。例へば筑摩の蝸祭の如き、皇禿 に属すといへども之を詠ずる人、又其仙を読む人多くは夏の感を有 せず。況んやその四月なるか五月なるかの某遠に至りては帰ど之な 知らず、故に此魑を詠ずる肴は姐だ苦吟し、はた古来之を淋じたる 羽 句も無味淡油を免れず。是れ時候の聯想なきが為なり。 乃が代や筑摩祭も鍋一つ 越人 は筑摩祭の雌一の句として伝へられたる者、一誦するの値ありと雖 むL も、其趣味は墓も時候の感と関係せず。寧ろ雑の句を読むの感あり。 然れども是れ吾人が筑摩祭を知らざるの罪のみ。吾人をして若し此 祭を見聞するに慣れしめば、何ぞ季の感を起さざらん。季の感已に 起らば何ぞ名句を得るに苦まんや。其他大師講の如き、吾人はその 冬季たるの感最薄しと雖も、身天台の寺に在りて親しく之を見し者 は必ずや冬季に於ける幾多の聯想を起すべきなり。之を要するに我 兇閉すること少き人事を詠ずるは、雑の句を感ずると同様の感あり て無味を免れざるなり。 と かく 、蛇といへる魑目は和歌以来春季に属すと雖も、吾人は兎角に春季 の感を起さず。却て夏季の感を起す傾きあり。春季と定むること是 れ恐らくは吾人曹通の感情に逆らひしものにあらざるを得んや。殊 に 古池や蛇飛ひこむ水の音 芭蕉 の何に歪りては殆ど森季の感無し。さりとて夏季の感をも起さず。 此句は只々楚れ薙の句と同一の感あるのみ。 や ゝ 、第一期は何人にても修し得べく、第二期は椚々専門に属す。是を 以て犬才ある者は殆ど第一期を通過せずして初めより第二期に恢軸 ことあり。然れども第二期は幾多の修業学問を襲するを以て、最早 入ナある舟もなき者も遅々として順序を追ひ階級を踏まざるべから ず、此点に至りては天才ある者却てなき者に劣ることあり。叢し天 オは常に誇揚〔負の為に漸次抹殺せらるゝ者なればなり。 、★俳誇を読むには歴史的、個人的の研究を要す。甲派亡びて乙派 典い、丙流衰へて丁流隆なるの順序と、其各派の相遠と変遷の原因 とは歴火的研究のヤなる者なり。伶俳人の特色と其創開せし流派と ら 一」 襖★せし租度と師嶋の関係とは個人的研究の主なる者なり。同時代 に数派の流行せし事を知らずして、無理に各派一系の伝統を立てん とする若は歴史研究家の弊なり。同時に同様の流行せりしこと、即 ち時代一般の特色ありしことを知らずして、其特色を一俳人の卑付 にせんとする者は個人研究家の弊なり。或は俳糟を研究する音和狐、 漢詩、西詩を知らず、偶々某敵詩人の家集を読んでHく、此人某俳 人に似たりと。而して彼は和歌、漢詩、西詩の特色を以て此一人に 帰せしが如きこと無きにあらず。文学者は学問無かるべからざるな りo よ 一、俳句をものするには空想に筒ると写実に俺るとの二種あり。初学 の人概ね空想に俺るを常とす。空想尽くる時は写炎に愉ら8るべか こ い らず。写実には人事と天然とあり、偶然と故為とあり。人墳の写火 は難く天然の写実は易し。偶然の写実は材料少く、政為の写火は材 料多し。故に浮実の目的を以て天然の風光を探ること妓も俳仙に適 あんぎや はなは せり。数十日の行脚を為し得べくんば太だ可なり。公務あるものは ぬす 土曜日曜をかけて田舎廻りを為すも可なり。半日の舳を偸みて郊外 牛 に散歩するも可なり。已むなくんぱ晩餐後の運動に上野、縦堤を遺 あに くわしん げ「せ嘗 遙するも豈三二の佳句を俗るに難からんや。花農可なり、月夕可な ご えん り、午烟可なり、夜雨可なり、何れの時か俳何ならざらん、山廿可 なり、激村可なり、広野可なり、谿流可なり、何れの処か俳仙なら ざらん。 一、写実の目的を以て旅行するとも汽車ならば何の役にも立つま{ち 只々心を静め気の敵らぬやうに歩むガ妓も宜し。糀ド駄よりも車継 かう“りかさ すげかき童やはん  の方可なり。洋股蠣蜴傘よりも官笠脚絆の方宜し、速なき一人旅殊 に善し。されど行子を急き路程を食り体力の尽くる迄歩むは却て俳 句を得難し。たま/\知らぬ地に鱈み迷ひ足を引きずりてやう/\ に夜山を越え山下に宿を乞ひたるなどは此限にあらず。 一、普通に旅行する時は名勝旧跡を探るを常とす。名勝旧跡必ずしも 美術的の風光ならずと雄も、しかも歴火的の聯想あるが為に俳仙を ものするには最も宜し。併し名勝旧跡の外にして措通砂柑の救色に 無数の美を含み鵬る事を忘るべからず。名膀旧跡は其数少く、人多 L く之を搬るが歌に陳腐なり劫し。普通尋常の場処は無数にして変化 も多く几つ陳腐ならず、故に名勝旧跡を目的地として途々天然の美 や一探るべし、為声代花我を迎ふるが如く、雲影月色我を慰むるが如 く感ずべし、 、芭蕉は〔〔して我に宮士、吉野の句無しといふ、真なり。而して ぽくかく 彼亦松嶋に於ても一句を得ざりしなり。世の文人墨客多く此等の地 に到り仕〜を俗ざるを喚ずる者比々是れなり。是れ蓋し美術文学を 解せざるの致す所か。宵士山の形は一般の場合に於て美術的ならず。 只々共n本第一の高山たると、種々の詩歌伝説とは之をして能く神 型、ならしめたるも、其神聖なる点は種々に言ひ尽して今は已に陳腐 に鵬したり。青野、松嶋の如きは其{有する所の空間広くして一見 な旧 猟歳多の時間を費す者、是天然の美ありとするも美術的ならざるな り。(即ち美術に為し俗べからざるなり)たとひ美術的なるも俳句 には適せざるなり。只々此光景を破砕して幾多の俳句と為さば為し 得べきも、一部の光景は其地全体の特色を帯びざるが故に、世人は 族知せざるなり。而して世焦の如きも猶不可能的の景色を取て俳句 「と あに となさんと力むるに似たり。廿無理なる詮文ならずや。況んや松嶋 の如きは姥だ大然の美に於て欠くる所多きをや。世人は奇を以て美 となす、故に松嶋の奇景を以て日本第一の美となす。誤れるの甚し きなり。市来松嶋の名詩歌なく其名画なき固より其処なり。若し松 鳴の詩歌俳句等にして秀俊なる者あらば、そは必ず松嶋の真景に非 一」上 ざるなり。(青野は我之を知らず、故に茲に論ぜず) 1、今試みに山林郊野を敵歩して其材料を得んか。先づ木立深き処に ときぱざ た 架轟木を吹き鵬す森の風、とろく阪の曲りくに吹き溜め られし襲の又はらくと動きたる、岡の辺の旧圃に続く処斜めに 冬木市の連なりて其上に烏居ぱかりの少しく見えたる、冬田の水は !」 ひつお、’ かれノ\に鏑びて刈株に綿稔を見せたる、田の中の小道を行けば冬 たて の小川水少く草は大力に枯れ汎したる中に蓼ばかりの赤う残りたる、 かhカ“ あーき きわ とある処に{池の遊枯れて雁鴨の薩⑫がくれに曝ぎたる、空は小春 とび そぴ 口和の哨れて高く鳶の舞ひ敵まりし彼ガには江取の塔聲えて火の防 − ぐ れ に富土の白く小さく見えたる。やがてH津るゝ程にはら/\と吋心 のふり来る音に怪みて木の閉を見ればHぐ物凄く川でたる十日ごろ の片われ月、覚えず身振ひして維も美はこゝなりと介八すべし、火 さもまさり来るに急き家に帰れば崩れかゝりたる火柵もなつかしく、 風呂吹に納豆汁の御馳走は時に取りての醍醐味、風流はいづくにも ある可し。 、空想より得たる句は最美ならざれば鍛拙なり。而して倣美なるは 極めて稀なり。作りし時こそ自ら最美と思へ、半年一年も過ぎて児 たらんには嘔吐を催すべき稗いやみなる〜ぞ多き、火册を宇しても 最美なるは猶得難けれど、第二流位の句は蚊も得場し、nつ堺炎的 のものは何年経て後も多少の味を存する者多し。 、はじめの程は空想ならでは作り得ぬを常とす。やがて実鉄を写さ んとするにつかまへ処無き心地して何事も句にならず。腹々維験の 上写実も少し出来得るに至れば、写突秘、血白く作り場きはなかるべ し。空想の陳腐を悟り写実の斬新を悟る亦此時にあり。舳胴帥牛伴 と語る事あり。牛伴Hく、両に於ても空想を以て競争せんには老熟 の者必ず勝ち少年の帝必ず負く。然れども写化を以てせんか、少年 の者の画く所の者、亦老熟者を雛かすに足ると。衷なるかな、 一=一」〜 めい“く 、空想によりて俳句を得んとするには、兀坐阪Nして人上の州想外 童 とうしゆろ を画き出すも可なり。机顕手畑を擁して過去の突験を想ひ起すも可 ひもと なり。肯俳書を綴きて他人の句中より新鳳想を得火る亦可なり。数 人相会して運座、競吟、探魍などするも可なり一 、課題を得て空想上より俳句を俗んとする時に、其課魑着し難魍な れば作肴は苦吟の余見るに堪へざる拙側を為すこと、名練の人と雄 も往々免れざる所なり。俳綿問答なる書に詐パの〔得発川介といふ 文あり。其初に魑詠の心俗を氾したり。Hく 一、師の云発句案ずる事諦門弟魑甘の小より案じいだす地なきムハ たづね占た  なり、余所より勢来ればさて/\沢山成事なりと云へり、矛が云 24  我あら野猿襲にて此事を見出したり、予が案じ様た帖トば題を箱  に人て其納の上にあがりて獅をふまへ立ちあがつて乾坤を尋ると  公へり、云々 と、畿し是れ魎詠の秘訣なり。 一、作者著し空想に偏すれば陳腐に聰ち易く自然を得難し。若し写実 き べき 一 一』 に価すれば平凡に陥り易く奇闢なり難し。空想に偏する名は日前の …河郊野に無数の好題目あるを忘れて徒らに暗中を摸索するの傾向 あり。写実に偏する者は古代の革物、隔地の景色に無二の新意匠あ }よくせき  るを忘れて目前の小天地に鵬跨するの弊害あり。 一、衆想にあらず、写実にあらず、なかば空想に属し、なかば写実に 風する一種の作法あり。即ち小説、演劇、謡曲等より俳句の題目を 探り来り、或は絵画の意匠を取り、或は他国の文学を翻訳する等是 かうくわ れなり。此手段笹だ狡傭かるを以て往々力を費さずして佳句を得る  ことありと雖も、老熟せざる者は拙劣の句をものして失敗を取るこ  と多し。謹し絵函、小説の長所は時に俳句の短所に属し、支那文学、  欧米文学の長所は必ずしも俳句の長所ならざればなり。 一、壮大を好む舟総ての物に大の字を附して無理に壮大ならしめんと と ゐ すて  するは往々徒為に属す。其物已に小ならば大の字を附して大ならし  むべし。大牡丹、大幟、大船、大家等の如し。然れども其物已に大  ならば、これに大の字を附するは能く之をして大ならしめざるのみ  ならず・松ズ其物に区域あるが如き感を起さしめ、却て小ならしむ  ることあり。大空、大海、大山、大川、広野等の如し。 一、滑槽も亦文学に属す。然れども俳句の糀稽壮洲柳の滑稽とは自ら  其秋度を異にす。川柳の滑稽は人をして捧腹絶倒せしむるにあり。  俳句の滑稿は其間に雅味あるを婆す。故に俳句にして川柳に近きは  俳〜の拙なる者、芳し之を川柳とし見れば叉に拙なり。川柳にして  俳〜に近きは川柳の拙なる者、着し之を俳句とし見れば更に拙なり。 一、れ体を好む者あり、打体亦文学に嵐す。然れども意匠の狂と言語  のれと湘伴ふを要す。意匠狂して言語狂せざる者あり、狂人の時と して真面目なるが如し。意匠狂せずして盲諸狂すろ者あり、 時として狂せるまねするが如し。共に文学的ならず。 一、熟練の人にして俳句の二句目の終りにある「や」 し。例へば 鶏の片足づ、や冬籠 呼び山しに来てはうかすや猫の声 紙燭して廊下過ぐるや五月胴 家見えて春の朝寝や塩の山 常人の の字を嫌ふ人多 丈 去 ”舵n 荊n t ・籔 ユ 叫 卯 来 村 外 等の如し。そは一理なきにあらず。初学の人此の種の「やしを川ふ る時は全句にたるみを生ずる者多きが故なり。、ごりとてあながちに 之を嫌ふはいはれなき事なり。上に挙ぐる所の〜の如き各首趣味も あり、音調も具はりて「や」の字の為にたるみを生ぜざるなり。ひ たすらにたるみを嫌ふより出づるの一弊なり。鵬雪翁Hく、、一何u のやは兎角たるむものなれど、下の五文字名詞のみならずして動詞、 形容詞などを交へたらんには多少の調和を得べし。例へば 篤のあちこちとするや小家がち 雑村 といふ句の如きも「がち」の語あるが為に「や」の字尤柵にた品りま ずと。此言真なり。 一一俳句に熟達する人すら猶解し難き古句あり。英伽班し★小片舳笠 にたよりたるものならんには、思ひよりの醤籍を微けべし。然れど も其語句は普通のものにして全首の意遡じ難きは熟々思案すべし。 只々此一句を解する能はざるの恥なるのみならず、oれ未だ俳側の ある部分に於て至らざる所あるを証する者なり。有りもせぬ意味を  こしらへて句に倣榊をつけるは吉の誼釈家の弊なり。含有す一〜な味 をもよくは探らで難解の句を放榔するは今の学仏の弊なり、 一・第二期に入る人趾より普通の俳〜を解するに苛、、、ずと雌{、川心  の周到なる、針線の繊価なるものに至りては之亭、解す、勺能は一、一人 家苛心の句を把て平凡と目するに至ることあり。今★仙数汀を引て 俳家の用意周到なる所を指摘し、併せて多少の評論を費すべし。 1 」 モ、≒㍍琵蟷賓覇班聾塑器嚢 喫 大 滞 ル f 幻 、禅与の松の洛葉や神無月 凡兆 此〜を解する肯Hく、只々神無月の寂奥たる有様を現はしたるのみ。 しから神寺の松葉と剋つけたる処神韻あり、云々と。果して解者の 一。Hふが如く神寺の松葉を以て十月頃の淋しさを現はさんとならば、 し げだ 柳無月と云はずして霜月といはんに如かず。謹し霜月は神無月に比 して災に敵かなればなり。解者又円く、霜月も神無月も大体同じ事 なり、只ピ句調の郁合にて神無月と為りたるのみと。是れ凡兆を知 らざる者なり。元禄の大家にして神無月は霜月に動くと知りながら 猶字数の郁含にて神無月と置くが如き一時の間に合せを為すべしと いはん 三 冬覚えず。況や用意周到を以て勝りたる凡兆に於てをや。凡兆の仰 句緊獅にして一字も動かす可らざる猿蓑を見て知るべく、此点に於 て飽く迄強情なることは去来抄にも見えたり。されば此句に神無ハ あ旧 と雌きたる者、豊一時の閉に八uせならんや。凡兆深くこゝに考ふる 所ありしや必せり。薙し十”は多くの木の葉の落つる時なれば、俳 諧に於て落葉を十月の季とし、松の落葉の如き常磐木の落葉は総て 墓季に照す。然れども松の落葉の如きは四時絶えざること論を倹た ず。されば此何意は神無月の頃は到る処に木の葉落ち重なりて下駄 ㍗峻にも所ある稗なるに、独り此禅寺は松の占菓の少しこぽれたる ぱかりなるぞ滑らかに淋しく禅寺の本意なるべきと]ずさみたる者 ならん。災に、■ひ換へなば、いづくも落葉だらけになりていとむさ くろしきに、此神守は松ぱかり枕ゑ列ねて他の木をも交ぜねば、此 の滞葉の蜘さへ普通の落葉は無く只松葉ばかりこばれて禅寺めきた りとなるベし。(此句恐らくは南禅寺より思ひつきたらんか)是に 於てか榔無幻の語は一歩ム動かざるを見るべし。若し矯月としなば ○に落葉の時候も過ぎたるからにたとひ落葉せし処も吹き敵らし掃 き除けたるかも測るべからず。さありては松の木ばかりの禅寺とい ふ忠を蝋はすr」地らゴ上しるなり。 、跳楼へは懲りてはひらぬ煎かな 也有 山有は打文を以て名心し。故に其作句数千、十小の八九は狂体若し かぺ〜ヤく くはしやれ滑構に属するものなり。然れども此の〜の如く滞推ハは なはだしきものは他に多く類を見ず。此の句の柵神は「懲」の、字 にあり。而して人の解する能はざろ所また此の舳にあり。故に此の 。」ひ 句の意を探らんとならば、燕が何故に鏑楼に這入ることに慾〜たる かを知るにあり。蓋し燕は真一文字に飛ふ考なれば、ある時何の気 かねつきだう もなく鐘撞埜の中を目がけて飛ひこみたれば思はずも釣鐙に触を打 ちつけて痛き目を見つるならん。きらば鐘楼に逓入らば又もや痛さ 目を見んかとて懲り一」這人らぬなり。此の如き妙は突際にあり得べ しとも思はねど、燕の向ふ見ずに飛ふ処より聯惣し火りて山付は此 けんむ午う 諸謹の句をものしたりとおぽし。秋人或は此解駅を以て娘倣に過ぎ たりとし、此外に幾様の解釈を為すものあるべし。然れども其解秋 とこゝに挙げたる解釈とを比較して、何れか鍛も蒋く懲の意に適す るか。何れか最も普く燕の特性を規はすかを見よ。而して後世解秋 の牽腔ならぬを知るベし。但し此句は滞舶に過ぎて舳位妓低し、決 や ゝ して佳句と称すべからず。世人又此種の潜誰の榊々川柳調に近きを 疑ひ、俳人にして川柳調を為すの信ずべからざるを親く杵あらん。 然れども也有の全集を見る考、稚か山有の滞雛に過ぎたるを知らざ らん。例へば 折られぬをへ]点で唾れる柳かな く主 鍬と足三本洗ふ岡打かな 足柄の山に手を山す戯かな もの中の声に物著る暑さかな 片耳に片側町の虫の芦 邪魔が来一−、門叩きけり薬咬 と札ち の如き巧拙は異なれども其愈匠の総て諦漉に似き似柵による処尽く せん廿」う 相似たり。以て全貌を推すベし。 、飛ひ入りの力者恨しき灼力かな 燃付 俳句に人る小深くHら俳句を作りて幾多の秀句を為す人、猶けつ此 句を捨てて平凡収るに足らずと為し、毫{醐みず。而して其解釈を 26 問へば則ち浅薄にして殆ど月並者流の句を解するが如く然り。蕪村 もと をして之を聞かしめば果して如何とか。言はん。此の句固より蕪村集 むし 中の傑作に非ず、寧ろ下位にある者なり。然れども大家の技倆は往 往悠句によりて評定せらるゝ事あり。此句恐らくは蕪村の技儒を知 けだ るに是らんか。謹し此一句の精神は「怪」の一字にあり。人の誤解 する所亦此一字にあるなり。国語に「あやし」といふ語幾様の意味 に用ふるや能く究めずと雖も、昔は見苦しき賎が家をあやしげなる 家など育ひたるは少からず。されどそは此処に用ふべきにあらず。 普遡にはあやしといふ諦を漢字の怪の意に用ふ。怪とは奇怪、妖 怪、怪カ、神怪、鬼怪などとて総て人問わざならぬ事に用ふ。此一 勺の意味を探るに左の如し。ある処にて秋のはじめつかた毎夜村の 著衆抔打ち寄りて辻角力を催すに、力自慢の誰彼自ら集まりてかり かゞり研 そめながら大関関脇を気取りて威張りに威張りつ、面白き夜を警火 の側に廻しける。さる程にある夜の事、今迄は見なれぬ一人の男の つと此ハカ場に来りて我も力競へんといふ。男盛りの若者ども血釘 にはやりて、これ位の勇何程の事かあらんといきなりに取てかゝれ かたきう ぱ無遺作にぞ投げられける。次なる若者敵討たんと組みつけば之も 物の兇事にぞ投げられける。其外幾人となく取てかゝる者此有様な っひ そゝ れば、終には大関某自ら大勢の恥辱を雪がんとのさり/\と歩み かたづ 出づ。祷々此勝負こそはと片唾を呑んで眺め居れば、二人は立ち上 ひとみ りエイと組みオ・と引き左をさし有をはづし眸を凝らして睨み合ひ たる其途端に如何したりけん、彼の男のつと寄るよと見えしまゝに さすがの大関も難なく土俵の真中へ叩きつけられぬ。見物はあつけ に取られたり。やがてさま%\の評判こそ口からロヘさゝやかれけ れ。さるにても彼の飛入の男は誰ならん、此村には見馴れぬ顔の男 なり。北村の人に聞けども北村の人も知らず。南村の人に阻けども 酌村の人・→知らず。さりとて本場を晒める関角力といふ風采にもあ いでたち らねば、通り掛りの武考修行といふ打扮にもあらざりけり。疑惑は 壌に晋ぬ。私訊はいよくかしましくなりぬ。中に一人の年よ りたる行司のしはぶきして小声にていふやう、皆の衆概かにせよ、 彼こそはかレニの山の頂に住めるといふ天狗様にこそはあるらめ、 }け 今宵の振舞を見るにたゾ人とは覚えず、思ふに我博の力わざに耽り ていと誇りがほなるを片腹痛しとて斯くは懲らしめ給ひたるものに えりもと ぞあるらめといへば、皆々顔見合して襟。兀寒しと身振ひなどすめり。 蕪村は実に此一場の事実を取り来りて十七字の中には包命せしめた り。而して其骨子は怪の一字に外ならず。角力は難魍なり、人小々 り。此錨雑せる俗人事を表面より直一一一〕せば固より俗に堕ちん。褒血 より如何なる文学的人事を探り俗たりとも、千両幟は終に俳句の材 料とは為らざるなり。然れども蕪村が此俗境の中より多少の趣味を 具する此詩撞を探り出だし、しかもそれを怪の一字に籠めたる彼の 筆力に至りては、俳句三百年間誰一人其塁を摩する者かあるべき。 世人亦此解釈を不当として種々に解釈を試むる者あるべし。然れど も恐らくは其解釈は怪の一字を解し糾ざるべく、然らざれば一字一 句金鉄の如く織密に泰山の如く動かざる蕪村の筆力を知らざる者の 駿語のみ。 、言ひ難きを苫ふは老練の上の箏なれど、そは多く俗事物を詠じて 成るべく雅ならしむる者のみ。其瞭物如何に雅致ある者なりとも、 十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につゞめん、一とは 殆ど為し得べからざる者なれば、古来の俳人も皆之を試みざりしに 似たり。然れども二一此種の句なくして可ならんや。池四“水は炎 に其作者なり。 、こ、に一の意匠あり、其葱匠は極めて古き代の事を当時自身が火 事に当りしことの如くに詠ずるなり。昔は老年になりてものの役に を、阯r「・、{’ 立たぬ人を無残にも山谷に捨てし地方もありきとぞ。信州の娩愉山 は其遺跡となん問えし。其頓の事にして時は冬の夜の寒く哨れわた り満天糠理のこぽれんばかりに輝ける}を、今より娘扮てに行かな tんぽ んとて湯婆を暖めよと命ずるなり。これだけの趣向がいかで十七字 にはつゞまるべきと誰しも一一。]はんを、さて詠みたりや、 一、寒」蓼嚢謹蔓蔓 理 娩拾てん湯婆に鯛せ星月夜 ⇒、目水 憎最万し出だして少しら窮する所を見ず。真に是れ破天荒と謂っぺ かん し。(但し此句につきては我未だ全く解せざる処あり。湯婆に醐せ とは果して何のためにするにや。只々寒き故に自ら手足を暖めんと き にや、又は他に意味あるにや。大方の敦を候つ) 、此博の句は斥水に於ても他に多くの例を見ず。 凧塚や周女のわく火鉢 言水 の一価、怖かに前の湯婆の句と種類を同じうするのみ。此句の意は 黒塚の鬼女が局女を捕へて其肉か子ごもりを載り取り、定を火鉢の ヒにて炎りなどし尻る処なるべし。前の句も冬季としたる為に凄味 を添へ此句も亦冬季なるを以て一きは恐ろしき心地す。 、身の内の道を覚ゆる清水かな 麦翅 もとより品高き句にはあらぬを、能くもかゝる事まで俳句にはした るよと思はしむる処、作者のはたらきなり。句意は三伏の暑き天気 のどもと oら にかわきたる咽元を濡さんと冷たき水を飲めば、其水が食道を通過 すろ際も胸中ひやゝかに感ずる所を詠みたるなり。 人の協菩 、折つて後もらふ声あり坦の梅 沽徳 といふ句は意匠卑俗にして取るに是らずと雖も、中七字のはたらき は俳句修学者の注意せざるべからざる所なり。余所の垣根の梅を折 つて今や帰らんとする時、貰ひますよと;一口の捨言葉を残したるを 「もらふ声あり」と手短かに言ひたる。さすがに老熟と見えたり。 但此句の価値をいはば一文にもあたらず。 、絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村 きゆうきく 句意は閉えたる迄なり。或は絶頂といふ漢語あるを見て窮策に出で たりといひ、或はことさらに奇を好みたりといふ者あらん。然れど {蕪村は奇を好まず、又窮鍛をも取らざるなり。特にこ、にいたゞ きとはいはずして絶頂といひし所の者は、「ぜつちやう」といふ語 ーたカ 調の強きがために山いよく警婁覚え、随つてたのもしきとい ふ意ます/\力を得て為蕩す可し。又若砦管竃たるも、 初夏草木の青々茂りて半ば城楼を埋めたる処は最も城の竪固なるを 感ずべし。若し冬季を以て城楼に結ぱぱ空城古城の感を州すを以て、 「たのもしき」といふ語は不適当となるべし。 きjく] 、学生俳句に多くの漢語を用ゐて自ら得たりと為すも、倍肘に過ぎ て趣味を損する者多し。漢語を用ふるは左の場八uに限るべし。  漢語ならでは言ひ得ざる場合  漢土の成語を用ふる場合  漢話を用ふれば調子よくなる場合 、現時の薪事物は俳句に用ゐて可なり。但新小物には俗野なる者多 ければ選択に注意せざるべからず。 第七 修学第三期 、修学ば第三期を以て終る。 、第二期に在る者已に俳家の列に入るべし。名を一世に挙ぐるが如 き亦難きにあらず。第三期は俳諧の大家たらんと欲する者のみ之に 入ることを得べし。一世の名誉に区々たる者の如きは終に此期に人 るを許さざるなり。 、第三期は卒業の期無し。入る典浅ければ百年の大家たるべく、入 る事深ければ万世の大家たるべし。 てんぴん よ 、第二期は天稟の文才ある者能く業余を以て之を為すべし。璽ユ期 は文学専門の人に非ざれば入ること能はず。 らんだ 、第二期は浅学なる者、瀬惰なる祈、猟能く之を修むべし。第一二螂 は精励なる者、篤学なる者に非れば人る能はず。 、第二期は知らず/\の問に入り帰ることあり。第一、一期は目ら人ら んと決心する者に非れば人るべからず。 、文学専門の人と雖も臼ら誇り他を侮り研究琢麟の意なき者は第二 期を出づる能はず。 28 1、一読を値する俳書は得るに随つて一読すべし。読み去るに際して 其介の長所と短所とを鬼るを要す。 、、俳句につきて陳腐と新奇とを知るは最も必要なり。陳腐と漸奇と を判ずるは修学の程度によりて其範閉を異にす。俳句を見る事愈々 多ければ其陳腐を感ずること随って多かるベし、第二期に在る者初 学の俳句を見れば只々其陳腐なるを見る。第三期に在りて第二期を 見る、亦此の如きのみ。而して能く新陳両者の区別を知るには多く 俳書を読むに如かず。 二菓余を以て俳句を修する者、自己の句と古句の暗ム、するあるも妨 げず。只々第三期に花る考は暗八uを以て其陳腐を抹殺し得べきに非 ず。偶々以て肉口の浅学を証するのみ。 二空想よりする者、写実よりする者、共に熟練せざるべからず。非 文半的なる考をして成るべく文学的ならしむるの技儒も具備せざる  べからず。 二空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製尚せざるべから  ず。空想に傲燃し写火に拘泥する者は固より其至る者に非るなり。 一、俳句の滞体に通ぜざるべからず、泊氾の滞色無かるべからず。 二俳醤を読むを以て満足せば古人の糟粕を嘗むるに過ぎざるべし。  介仙以外に新材料を探討せざるべからず。新材料を得べき歴史地理  片等之を読むべし。若し能ふべくんぱ満犬下を周遊して新材料を造  化より代按に取り来れ。 一、俳仙以外の文学にも大体通暁せざるべからず。第一和歌、第二和  文、第三小就、謡曲、演劇類、第四支那文学、第五欧米文学等なる  べし、 一、文学を作為するは専門家に非れば能はず。和歌を能以〜て俳句を  能くせず、同文を能くして漢文を能くせざるが如き、強ち咎むべき  に巾ず。然れども文学の槻雌は各体に於て伶地に於て相異あるべか  らず。故に和歌の標準を知りて俳何の標準を知らずといふ者は和敵  の枳準をも知らざる者なり。俳句の標準を知りて小説の標準を知ら ずといふ者は俳句の標準をも知らざる者なり。標準は文学全紋に適 じて同一なるを要するは論を倹たず。 一・文学に通暁せざるべからざるのみならず、美術一般に適雌せイ、剖り べからず。文学の標準は絵画にら適用すべく、彫刻にも適川すべく、 建築にも適用すべく、音楽にも適川すベし。 二俳句の標準を得る者、和歌を解釈し得ざれば其葵不美を断ずべか らず。漢詩欧詩を解釈し俗ざれば其美不美を断ずべからず。絵心、 彫刻、建築、音楽を解釈し得ざれば其美不美を断ずべからず。故に 俳人は深く入ると共に博く通ぜざるべからず。 一、文学に通暁し美術に通暁す、朱だ以て足れりとすべからず。天下  万般の学に通じ事に暁らざるべからず。然れども一生の問に自ら炎 験し得べき事物は極めて少数なり。故に多く学び博く識らんと欲せ  ば書籍によるをも就も良しとす。歴史は材料を々ふべし、地珊沓は材  料を与ふべし。其他雑書皆多少の好材料を々へざるは無し。 一、極美の文学を作りて未だ足れりとすべからず、概夫の文学を作る  益々多からんことを欲す。 一、一俳価のみ力を用ふること此の如くならば則ち俳仙花り、俳仙花  り、則ち日本文学在り。 第八 俳諧連歌 一、易、源氏、七十。一炎など其外種々の名称あれどる多くは空名に池 ぎず。実際に行はるゝ者は歌仙を最も多しとし、百韻之に次ぐ口 一、歌仙は三十六伽を以て成り、百繊は百伽を以て成る、長仙、短仙  に拘らず之を一句といふ。発句と最後の一句を除きて外は伶〜…川 なるを以て、歌仙には三十五首の歌(則ち長側勉句八、したる者)、め  り、百韻には九十九汽の秋あるわけなり。 一、歌仙は長に過ぎず、短に過ぎず、変化腹に適せり。伎に也焦以後  は歌仙最も多く行はれたり。初学の人連句を学ぶ、亦歌仙よりすべ しo 、逃句は変化を黄ぶ故に其打越(一句置いて前の句)に似るを嫌ふ。 即ち第三の句は第二仙に附くこと吉ふまでも無く、而して第一句と は成るべく懸隔せるを喫す。蓋し第一句、第三句共に第二句に附く 字ゝ 敵にm何動もすれば同一の趣向となり、攻は正反対の趣向(黒と白、 男と女、職争と平和等の如し)となるを免れず。同一の趣向の変化 せざるは勿論にして、正反対の趣向も亦変化せざるものなり。 、二句去り、三句去りなどといふことあり。何句去りとは何句の間 其物を泳みこむを禁ずといふことなり。例へば竹は木に二句去りな りといへば、木を詠み込し句より後二句の中に竹を詠まれぬが如し。 此事の法則は余りうるさき様なれども、つまり法則的に変化せしめ んとの意より出でたる者にして、愚人に逮歌、連句を敦へんがため いやしく なり。苟も変化の本意を知る者はかゝる人為の法則に拘泥するに及 ち く ぱず。帷々我が思ふまゝに馳駆して可なり。試みに芭蕉一派の遠句 を披き見よ。其古楕を破りて縦横に思想を吐き敵らせし処常に其妙  あら を見はすを。 、★来兜め来りし去り嫌ひは稍々寛に過ぐるを憂ふ。二句去り、三 句去りといふもの多くは五句も六句も去らざれば変化少かるべし。 、歌仙は分ちて表六句、裏十二句、名残の表十二句、名残の裏六句 となす。 、月花の定座なる者あり。そは月と花とを詠みこまざるべからざる 〜をいふ。即ち月の走座は炎の第五句、裏の第七句、名残の表の第 十一伺とし、花の定座は裏の第十一句、名残の裏の第五句とす。但 し此句と固走せるにはあらず、時に応じて種々に動くべし。 、表六句(百絢は八句)には神祇、釈敦、恋、無常、述懐、人名、 しつ。へい 地名、疾病等を禁ず。窮州なるやうなれども一理なきにあらず、従 ふべし。元来歌仙全体を一つの物と見る時は、表は詩の起句の如し、 故に此処は成るべくすらりとして苦の無き様に致し、以て後段に変 化の地を残し瞠くなり。二の表は更に変化を要する所なりとぞ。 、脇(第二句)には字止といふ定めあり、字止は名詞止なり。第一、一 には「て止」といふ定めあり。此将あながち胴㌻すべきにもあらね ど、亦一理なきにもあらず。初学ば古法に従ふべし、 、春秋二季は三句乃至五〜続き、夏冬二季は一句乃至。。一句統〃を定 めとす。時の宜しきに従ふべし。 、月といふ者必ずしζ秋”なるを襲せず。殊に襲の月は秋月ならぬ 方却て宜しからん。 “と 、花といふ者必ず桜花なるを婆せず、梅、桃、李、杏固より可なり。 他季の花を用ふる亦可なり。花と言はずして桜といふ固より可なり。 各人の適宜に任すべし。 、恋を一句にて棄てずといふ産めあり、従ふに及ばず。 、百韻は初折表八句墓十四側、二の折表十四句裏十四句、三の折衷 十四句裏十四句、四の折表十四句襲八句なり。 、百韻の月の定座は表の終より二句口、褒(名伐の衷を除く)の九 句目なり。花は裏の終より二句目なり。百削にては殊に月花の定座 に拘泥す、べからず。 、百韻は長き故にともすれば同一の趣向に陥り勃し。全体の変化に 注憲すること最も肝腎なり。一句々々の附工含も歌仙に比すれば湖 句(ぴつたりと附きたる句)多かるべし。然らざれば窮州なるU韻 となり了らん。 、規則附様等一々に説明し難し。古書に就いて見るべし。 、俳諧連歌に於ける伶句の接続は多く不即不離の間にあり、微蕎せ る句多くは佳ならず、一見無関係なるが如き句必ずしも悪しからず。 切なる関係なしとは見えながら又前何と連続せざるにもあらざる処 に多く妙味を存するなり。初学のために一例を挙げて解釈すべし。 、左に録する俳講連歌は十八句より成り、召波十三回の迫悼会に催 せし者と知らる。脇起とは其座に居らぬ人の俳句を竪句(第一句) として作る者にて、追醤の場合に亡き人の句を竪句とすること将通 の例なり。これも亦しかなり。 30 、冬ごもり五車の反古のあるじかな 召波 ほ ご 五車の誇といふ支那の故事を嬉じて反古となし、反古の多きことを らヨせき 言へる考にして、冬ごもりの書斎狼籍たる様なるべし。 1、ひとり寒夜に甑うつ月 維駒 維駒は召波の子なれば脇を若けたるなり。発句冬季なれば此の句も 冬季にて受けたり。甑は缶の意にて「ほとぎ」と読ましむる者か。 缶は瓦緒にして酒を盛る者なるを、秦人は之を撃ちて楽器となすと かや。五車の書といふこと支那の故事を引きたれば、脇も亦缶とい ふ支那の楽錐を引用したるなり。但しこゝは支那の楽器を持出して 撃つといふにはあらず、有り合せの瓶などを叩きたることをいへる なり。前句との附様は冬籠りの中にある月あかき夜、酒うち飲みて 酔ひたるまゝに瓶など打ち叩きたるといふ趣向なり。 郊外何焚やらん煙して 鉄僧  初五文字何と読むやらん、「かうぐわい」と四音に読むにや、又 は「郊外に」とあるべきを字の脱けたるにや、或は外に読み様ある べきか知らず。前句との附様は前の缶打つ月といへるを町はづれな どの佗住居と見たる故に郊外の景色を見るがまゝに述べたるならん。 此句雑の句なり。冬季は二句続くが普遡の例なり。 流れの末の水は二筋 臥央  ”一れば只々前句を受けて郊外の景色を叉に述べ添へたる迄なり。 枝伐て一のまぶしを定むらし 蕪村  まぶしとは猟師が木の枝などを地に刺し、其陰に隠れて鉄砲を放 つものなりとぞ。一のまぶしとはまぶしいくつもあるうちに第一に 射曝すべき処をいふにやあらん。此附様は前句の「流れの末の水は 二筋」といふを山中の谷川の景色と見て、さて箇様に獣猟の様をば いひて郊外の景色を転じたるなり。此句普通には月の定座なれども、 脇に月を雌きたる故にこゝには瞳かれぬ定めなり。 幼の太郎が先づ口をきく 百池  附様は前の山猟に鹿など来るやと身を隠し息を殺して待ち居る処 に、甥の太郎が先づ物を首ひたるとなり。此口をきくとは何事を言 ひたるや、そは定かならねども大方は漉の来るを見つけて「来た来 た」などと口走りたるならんか。 新宅の夏を住みよき柱細 也狩  此句は全く趣向を転したり。附様は新築成りて其祝ひに(祝ひな らずともよし)幾人か集まり居たる処に、甥の太郎が一番に口をき きたりといふことにしたるなり。 水打ちそゝぐ進物の鯛 春扱  此句は前の薪築の祝ひに鯛を遺したるなり。水打ちそゝぐとは鮒 の腐りかけたるを防ぐなるべし。此句夏季にはあらねど水打ちそゝ ぐといふは夏季に最も適切なり。 裂けやすき糸の乱れの古袴 正巴  これは前句祝宴なる故に、祝宴の時に吉袴ひきつくろひたるさま を叙したるなり。前の腐れ鯛に対してこゝには苫袴の彼れて糸のほ つれたるを附けたる作考用意の処なり。 妻を奪一ひ行く夜半の暗きに 之分  妻は「め」と読むなり。此附様は全く舷したり。さるべき恋の秋 心より人の妻を奪ひ行く其身なりもしどろに袴など製けたるさまな り。前句の「糸の乱れの」といへるさま恋歌の“葉にて、如何にも 主の心までも乱れたらんやうに見ゆるからに、此句は恋となしたる なり。但し袴といふによりて此恋は門地ある人の恋と知るべし。 (こゝにては前句の袴を女の袴と見たるにや) ちら/\と雪降る竹の伏見逝 逆立  これは前句の妻を奪ひ行く夜逝のざまを述べたるものにて恋の句 にはあらず。前の恋は郁の位ある人のしわざと児つけて、さては伏 見と置きたるなり。伏見より竹を思ひ、竹より雪を思ふ。この油腿 なる雪中の竹選を以て前の上等社会の恋に副ふ、亦用意州到の処な りo い“ 小荷駄返して馬嘶ふらん 我則 此、。笈 腰 人 満 非 { 31  此句は只伏見郊外の景色なり。小荷駄返してといふ意何の箏にや。 荷主に荷を返すことをいふか。 泣く/\も棺を出だす暮の月 白笑  前句を只々タ暮の淋しき最気と見て此附ありたるならんか。但し 円A、にては夕暮に棺を出す処多し。此句月を入れて秋季なり。 よからぬ酒に胸を病む秋 佳巣  句の表は悪き澗を飲みて胸わるくなりたりといふ迄なり。されど 其裏面にばさらでも人を失ひたる悲みに胸つかへたる頃を、焼け酒 飲み過ぎて猶胸苦しさよとかこちたるきまをも見せたり。前秋季な れば此句も秋季にて受けたり。 小商ひ露のいく野の旅なれや 湖柳  此句は小簡人の旅にて、わろき酒など飲みて醐を崎さんとするに、 なか/\胸につか一たりといふなり。いづれ義の淋しき処より案 じ出だせるなり。此句露とある故秋季なり。 燕来る日の長閑なりけり 湖贈  此句は只々旅路のさまをいひたるなり。前句は秋季にて此句は葎 季なり。之を「季移り」といふ。此場合には前句を春季の句と見な して此句を附くるなり。露は秋季なれども春にも露あること勿論な れば、。審と見なしても美支無きわけなり。 反古ならぬ五車の主よ花の時 几董  反背ならぬ五典の書の主といふ事なるべきを、発句に照応して反 “ならぬとは吉ひたり。箇様に発句に照応せしむること定則にはあ らず、便宜の沙汰なり。此句花の定座にして」花あり。 春や北、の山吹の庵 旧鶴  これは只も五取の主の佳居を山吹など咲きたらんと見立てたるな り。「春や北、」と懐旧の意にものしたるは、これも追静の意を含ま せたるなり。 、此連句にて各句の附工會はそれ%\に味ひありて面白し。只一句 として而〔き句は ’、 ガ う ち 裂けやす 妻を奪ひ ち ら く なくく などなるべし。 そ ・ ぐ 進 き糸の乱 行く夜半 と雪降る竹 も棺を山だ 物 の 鯛 れの方袴 の暗き こ の伏児逝 す暮の月 (明治二十八年十月二十二H1+二月三十一目) ” 小園の記  我に二十坪の小聰あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控 へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲 かけ 行き貼翔る様もいとゆたかに眺めらる。始めてこゝに移りし頃は僅に 竹藪を開きたる跡とおぼしく草も木も無き裸の庭なりしを、やがて家 う や ゝ らうあう 羊なる人の小松三本を栽ゑて稿々物めかしたるに、隣の老婚の与へた  三 ら ろ滞薇の苛さへ植ゑ添へて四五輸の花に吟興を鼓せらるゝことも多か りき。一年單に従ひて金州に渡りしが其帰途病を得て須磨に故郷に思 はぬ口を費し、半年を経て家に帰り着きし時は秋まさに暮れんとする 頃なり。庭の面去年よりは遙にさびまさりて白菊の一もと二もとねぢ くれて咲き乱れたる、此景に対して静かにきのふを思へば万感そゞろ に胸に炎がり、からき命を助かりて帰りし身の衰へは只此うれしさに さん寸いくわiにつく 勝たれて思はずヨ運就荒と口ずさむも涙がちなり。ありふれたる此花、 か かつ 吉 狭くるしき此庭が斯く迄人を感ぜしめんとは曾て思ひよらざりき。況 あた して此より後病いよ/\っのりて足立たず門を出づる能はざるに至り し今、小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。余をし  、/、’’’、 て樹吋か獄窓に岬吟するにまさると思はしむる者は此十歩の地と数種  は『け の芳館とあるがために外ならず。つぐの年、奉暖漸く催して烏の声い とうらゝかに問えしある日、病の窓を開きて端近くにじり出で読書に つか 労れたる目を遊ばすに、いき/\たる草木の生気は手のひら程の中に も動きて、まだ薄寒き風のひや/\と病衣の隙を侵すもいと心地よく おう壮 覚ゆ。これも隣の艇よりもらひしといふ萩の苅株寸ばかりの緑をふい しひ てたくましき勢は秋の色も思はる。真昼過より夕影椎の樹に落つる迄 1か 何を見るともなく酔ふたるが如く労れたるが如くうつとりとして日を 小園の図 南 朝 顔 の 坦 や 上 野 の 山 か つ ら 一 うしろ手 に百目草 や萩の花 家主が植 ゑてくれ たる松の 秋 椎の実を拾ひに 来るや隣の子 枝折れて 野分の後 の萩淋し 萩低く芒 の風をか ぶりけり ニニ 畿藤 。、 らばや草 の花 萩芒水汲みに行く遺一つ 明月の今 年は遅き 芒かな 靭顔の花木深 しや松の中 蔵沢の竹 も久しや 庵の秋 雨だれの 秋海巣に、一一 かかりけ一−。 一 一 り 一 − 一 一 一 一。一 一 一 − 。一 薬難蝋径一照帖 を引きにけり 難煩を貰ふて 植ゑぬ野分過 二度生えの低き 桔梗や花多き 引き伐す 松葉牡丹 や秋の風 難顕や不折が くれし葉難頭 おしろいは妹の ものよ俗な花 靭顔にからむ隣の瓢かな1−−−−−− 一 一 一 一挙恵一 、けて夜塞 一の蕩斎か 皿な 一 〃 慕らすことさへ多かり。  今迄病と寒気とに悩まされて蜴り尽したる余は此時新たに生命を与 へられたる小児の如く此より萩の芽と共に健全に育つべしと思へり。 折ふし黄なる蝶の飛ひ来りて垣根に花をあさるを見ては、そゞろ我が 魂の臼ら動き出でて共に花を尋ね香を探り物の芽にとまりてしばし羽 を休むるかと思へば、低き杉坦を越えて隣の庭をうちめぐり再び舞ひ もどりて松の梢にひら/\水鉢の上にひら/\、一吹蓄風に吹きつれ 言うゼん て心く吹かれながら向ふの展根に隠れたる時我にもあらず帽然として たち自 〔失す。忽ち心づけば身に熱気を感じて心地なやましく内に入り障子 たつると衆に蒲団引きかぶれば、聾にもあらず幻にもあらず身は広く 限り無き原野の中にありて今飛ひ去りし蝶と共に狂ひまはる。狂ふに つけて似虻ともなく数百の蝶は群れ来りて遊ぶをつら/\見れば蝶と 児しは皆小さき神の子なり。空に響く楽の音につれて彼将は雌りつ、 し りつ 舞ひ上り飛ひ行くに、我もおくれじと茨葎のきらひ無く踏みし派脂躍 り越え思はず野川に落ちしよと見て埜さむれば寝汁した、かに禰枠を 渦して熱は三十九度にや上”吋化。 ぽら  げん/\の花盛り過ぎて時鳥の空におとづるゝ頃は赤き葡薇内き綿 薇咲き満ちてかんばしき色は見るべき趣無きにはあらねど、我小閑の 十ゝき 見所はまこと萩芒のさかりにぞあるべき。今年は去年に比ぶるに萩の 勢ひ撤く夏の初の枝ぶりさへいたくはびこりて來頼もしく見えぬ。葉 の也も去年の稿々演ばみたるには似ず緑いと濃し。空暗れたる日は椅 たす 子を其ほとりに据ゑ寫せ人に扶けられてやうやく其椅子にたどりつき、 (人崎しがてら萩の芽につきたるちひさき虫を取りしことも一度二腹に キきやうtてしこ はあらず。枯樋撫子は実となり朝顔は花の榊々少くなりし八月の末よ は一」ろ そめ り待ちに待ちし萩は一っ二つ綻び初たり。飛ひ立つぱかりの嫡しさに 術を折りて翌は四、あさつては八、十日目には千になるらんと思ひ設 の わき けし程こそあれ、ある枚野分の風はげしく吹出でぬ。安からぬ夢を締 びてあくる朝、日たけて眠よo覚むれば庭になにやらのゝしる声す。 心もとなく遣ひ出でて何ぞと問ふ。今迄さしも茂りたる萩の枝大方折 れしをれたるなりけり。ひたと胸つぶれていかにせばやと思へどせん 無し。斯くと知りせば枝に枚立てて践かましをなど悔ゆるもおろかな りや。瓦吹き飛はしたる去年の野分だに斯うはならざりしを今年の風 は萩のために方角や悪かりけん。此日は晴れわたり押へ秋魚陀覚え初 めしが余は例の椅子を庭に据ゑさせ、バケツとかな盟に水を湛へて折 れ残りたる萩の泥を洗へりしかど、空しく是の痛みを増したるばかり にて、泥つきし枝のさきは蕾腐りて終に花咲くことなかりき。園中何 事も無きは只松と芒とのみ。  去年の奉彼岸やゝ過ぎし頃と覚ゆ、鴎外漁史より草花の種幾袋贈ら , れしを直に播きつけしが、百旦早の外は何も生えずしてやみぬ。中に も葉鷄頭をほしかりしをいと口をしく思ひしが何とかしけん今年夏の 頃、怪しき芽をあらはしし者あり。去年葉難煩の種を理めしあたりな れば必定それなめりと竹を立てて大事に育てしに果して二葉より赤き 色を見せぬ。嬉しくてあたりの昼照革など引きのけやう/\尺余●に なりし頃野分荒れしかばこれはかり気遣ひしに、思ひの外に萩は折れ 亡す て葉鷄頭は少し側きしばかりなり。扶け起して竹杖にしばりなどせし かば嵐かくて今は二尺ぱかりになりぬ。痩せてよろ/\としながら猶 燃ゆるが如き紅、しだれていとうつくし。二三日ありて向ひの家より 貰ひ来れりとて肥え太りたる鷄頭四本ばかり植ゑ添へた→ギ吠つぐの 日なりけん。朝まだきに裏戸を叩く声あり。戸を開けば不折予が人き なる葉鷄顕一本引きさげて来りしなりけり。棚霧に濡れつゝ子づから 植ゑて去りぬ。鷄頭、葉鷄頭、かべやくばかりはなやかなる秋に押さ れて萩は早や散りがちなりしもあはれ深し。葡微一萩、芒、柿枢など らう}・」 をうちくれて余が小楽地の創造に力ありし隣の老慨は其後移りて他に ありしが、今年秋風にさきだちてみまかりしとぞ問えし。 、こて/\と草花植ゑし小庭かな (明治三十一年十月) 一キー此■ 吐、…}、帥黄、。 さコも ’某「、・ ・‡一喧零皐ぎ線一簸1 見 所 上 堆 蝸 車上所見  秋哺れて、野に出でぱや、稲は刈りをさめじゃ、稲刈り女の見知り い か 顔なるもありや、あぜの草花は如何に色あせたらん、など口毎に思ひ こがるれど、さすがにいたっきのまさんことも心もとなければ、さて と んぽ やみつ。今口も朝日障子にあたりて蜻蛉の影あた、かなり。世の人は 上野、浅草、団子坂とうかるめり。われも出でなんや。出でなん。病 のつのらばつのれ、待たぱとて出らるゝ日の来るにもあらばこそ。車 呼びてこといふ。やがて帰りて、車は皆いではらひたり、遠くに雇は ひ よ り んや、といふ。さまでは、今日の日和には足ある人ぞ先づ車にて出で ひるげ たる、と笑ふ。昼餉待っとて天長節の原稿したゝめなどす。 ひ  一時過ぎて車は来つ。車夫に負はれて來る。成るべく静かに挽かせ  iぐひ寸よ・」ち牛う て篤横町を出づるに、坂に咲ける紫の小き花の名も知らぬが先づ日 につく。  おとなしがは  青無川に沿ひて行く。八百屋の前を過ぐるにくだ物は何ならんと見 るが常なり。川にて男三人ばかり染物を洗ふ。二人は水に立ち居り。 い ち じ く あくた 傍に無花果の木ありて其下に大根のきればしは芥と共に漂ひつ、いと きたなげなるを、彼挑に押し流させたく思ふ。 ;ゞんくわ  彼の雪の横を野へ出づ。野はづれに小き家の垣に山茶花の一つ二つ ひのき かき 旅う咲ける、窓の中に楠木笠を掛けたるもゆかし。  空忽ち開く。村々の木立遠近につらなりて、右には千住の煙突四つ や なかあすか そひ 五つ黒き煙をみなぎらし、左は谷中飛烏の岡つゞきに天王寺の塔鋒え たり。雲は木立の上すこし隔りて地平級にそひて長く横になびきたる き が、上は山の如く高低ありて、下は徴りたる如く一文字に揃ひたる、 b 絶えつ続きつ環をなして吾を困みつ、見渡す限り眉墨程の山も無けれ ば、平地の眺めの広き、我国にてはこれ程の処外にはあらじと覚ゆ。 胸開き気伸ぶ。  田は半ぱ刈らずあり。刈りたるは皆旧の縁に竹を組みてそれに掛け たり。我故里にては稲の実る頃に水を落し刈る頃は囲の面乾きて水な ければ刈穂は尽く地干にするなり。此辺の百姓は落し水の味を知らざ はん るベし。吾にはこの掛稲がいと珍しく感ぜらる。榛の木に掛けたるは 殊に趣あり。其上より森の梢、塔の九輸など見えたる翼に面白し。 ’て  道の辺に咲けるは蓼の花ぞもつとも多き。そのくれなゐの色の老い てはげか、りたる中に、ところ%野菊の咲きまじる様、ふるひつく ばかりにうれし。此情、人には語られず。  穂蓼野菊の花にさはる程に掛稲の垂れたるもいとあはれに、絵にか かまほしと思ふ。  我車のひゞきに、野川の水のちらノ\と動くは旦高の群の驚きて逃 ぐるなり。あないとほし。貝^を見るはわが野遊びのめあての一つな め るを、なべての人は目尚ありとも知らで過ぐめり。世に愛でられぬを 思ふにつけていよ/\いとほしさぞまさるなる。  こ ぶな ひる  小鮒にやあらん、すぱやく逃げ隠れたる憎し。たま/\に蛭の浮き たるはなくもがな。  向ふより人力車来れり。見れば男一人乗りて前に翼づとを置きたる、 其端より黄なる実の漏れて見ゆるは蜜柑か金柑か。一足、町を離るれ ば見るものひなびて雅なり。 しき  我車を挽きたる男、年は五十にも近からん、先稗より頻りにふり返 うかゞ りて我を窺ひ居しが、遂に口を開きて、我国を問ふ。四国なり、とい ゑちござかひ へば失望したる様なり。お前の国は、と問へば、越小なり、越後界に ーL て海津に臨めり、眺めば海埠に如く者なきを衷京には海岸なければ、 など東京をおとしめていふ。「かいがん」といふ浪語をいく度もいふ が耳ざはりなり。越中は米岬ならずや、といへば、さなり、今頓は皆 刈尽して田には影もなし、新腐の十一月の小頃には最早ちら/\と降 りそむるなり、など善く諦る。 46  逝の傍一」稲刈る女、年の程を思ふに一人は見よめにして一人は味な らん。妹といふは十五六とおぽしく鎌持ちながら我を見る。顔も見に かふ くきが、手拭を]の上まで被りたればうしろへそる程仰向きて見おこ せたる殊に心よからず。うつ向いて稲の秘を握りつ、、又ふり返つて ち篶喋見る。架うっ向きて芭、と刈る。箭に我鵯過ぎ行きぬ。  三河嶋の入口に社あり。前に四抱へばかりの老樹の榎と一う何とゴ、知 らぬが立てり。其幹に絵馬の形したる板一つ舳りさげあるを近づくま まに見れば、絵と見しは鉄砲の絵にて「こ・にて打っぺからず」と記 せる、興さむるわざかな。  村に入る。山茶花の坦、花多くつきていとうつくし。「やきいも」 といふ砒熾懸けて店には青蜜柑少し並べたる家につき当りて、左に折 れ、地蔵にあらぬ仏の五つ六つ立てる処を右に舳りて、紺屋の棋を過 士た ぎ、くねりて復野に出づ。  贈の蹴の並木間近く立てれば狭くるしき心^、前とはいた/\異なり。 やがてまた家居まぱらにある処に入る。雑木茨など暗〃繁りたる中に 山茶花の火をともしたる荒れたる村のた↓、{しひ、俳人は兄逃さぬなる べし。 むしろ  夫婦してから竿を振り上げて庸の稲穂を打つ。から竿は麦にこそ使 へ、四国にては稲には用ゐず、といへば、車夫、起中もしかなり、米 国にて米の出来夥しければ何事も手早くあらましにするなり、東京の 如くゆるやかなる事にては、などいひつゝ挽〃。 ち甲う  一舳ばかりの^さに稲を積みあげたる車二挺来たるに我は路ばた によけてやり過す。前の車は三十四五の男挽きて、後押しは同じ年ば へ⊃女なり。夫帰な乃ベし。後の車は六十亭、■、越えたる翁のいと苦し げ一」挽きばたれば、如伜なる女か後を抑すらんと見るに一二十許りの男 なり。こは親子にやあらん。同じ事ながら前の車は楽し”、後のはく るしき心地す。 モ 三  脇のほとりに咲ける單にて菓と茎とは蕎麦に似て花は半ば薄紅なる 山一て が多く川辺にあり。蕪村が「水かれがれ蓼かあらぬか蕎麦か否か」と いひしは此花にはあらずやと、見るたびに思ふなり。屯夫に名を、妙れ みそそ ’ たれど知らず。或は溝蕎麦とい、〃物か。 ;  柿の樹に柿の残りたるはあちこちにあり。一つくひたし。烏瓜の些 に赤き実の一つだに残りたるを児ず。  畑中に高さ四尺ばかりの悲木の柿に赤き実二つなりたる、其側に幼 子の三人四人藁の東に上りなどして遊び居るがあり。その子供の柿を 取らぬがいぶかしく思はるゝなり。或は渋柿に■、やあらん。  目高多き小川を過ぐ。  銚断いよ/\多く路はいよ/\細し。路にずゐきを積み扮てた叶oが、 くつかへ 処々高くて車を糧さんとす。二、より其を返す。  此路、此蟲、こはわが忘れんとして忘れ得ざる肴なり。、一、に火て 蟲の飛ふを見ては我はそ、・ろに昨をしのぱざるを得ざり結。今より四 年前の事なり。世は日滞戦争にいそがはしく、わが身を委ねし事業は た燃ちに倒れ、わが友は多くいくさに従ひて朝鮮に支那に波りし頓の其 秋なりき。此時専らわが心を動かせしは斯聞紙上の戦搬にして、否は いかにしてか従軍せんとのみ思へり。されどわが維歴とわが健敗とは わが此願ひを許さるべくもあらねば、人にもいはず、ひとり心をのみ 悩ましつゝ、日侮に郊外敵歩をこ、ろみたり。一附の子帳と一本の鉛 筆とは写生の道具にして、吾は写生的俳句をものせんとて、眼に映る ー」 あらゆるものを捕へて十七字に批ねあげんとす。わが淋境のいくばく 』」‘ か進歩せし如く思ひしは此時にして、さ思ふにつけて猟而山ければ総 てのうさを忘れて同じ道をさまよふめり。三河嶋附近はもつともし ばしば遊びありきしところなり。ある日三河鵬を過ぎ兇にある黄しき 村を過ぎ、田のあぜ逝を何処とも定め一マ行〃程に人皿遠く入吹、りて、 人影だに見えむまでなり臼。そこにあぜ逝−。は見ゆれど柵州、広ノ、草 など生ひたる処あり。趾より世の人の休来すろ跳に・、らず、いし、淋し くて心置くかたも無ければ、單に腰据ゑ♂、しばらく憩ふ。此あたりは 弓ご 蟲殊に多く覚えて、稲を揺かす音かし、、、しく、、心”句は路單に遊ぶも 多かりけるが、はてはわが袖ともいはず背ともいはず膝ししらいは、了飛 一一、、、、蚤婁嚢 後 死 〃 ぴつきはね返り這ひ上りなどして、いとむつまじく馴れたり。鳥吹の たぐひなりとも我に馴れたるはさすがにいとほしくて、得去りもやら ず。終にはくたびれたるまゝ草を枕に横臥しになりて蟲の音を聞く。 うつらくと我に返りては、警て都に返り務めに就く。をり/\こ あ こに遊びては蟲を友にしてうさをはらすに、曾て人に遇ひし事なけれ ぽおのづから別天地の心地して今に得忘れず。翌春支那に行きしもか へつて病を得て帰りしかば、其後こ・を児舞ふこともなかりしが、今 や思はずも此覚えある小路に来てうた、思ひ乱るゝに堪へず。ひそか に彼の別天地を思ひやるに、草いたづらに茂りて蟲吾を待つらんかと い たは も疑はれ、はた何舟か吾に代りてかしこに寝ねたらんかと思ふに心猶 穏ならず、漸く革向け直してもとの道をたどる。  煎二人とある門の内より「人力々々」とわめく。  初より少しづゝ痂みし腰の痛み今は堪へ難くなりぬ。手にて支へな どすれどかひなし。 め わらは  わざと新しき道を有に取りて川ぞひに行く。向ふより来る女の童の 十ばかりなるが、子拭を被り左手には竹にて編みたる大きなる物を持 ふな ち、有子には小柵に鮒を入れたるを持ちたり。眼円くすゞしく、頬ふ ひな くやかに口しまりて、いと気高きさまはよの常の部育ちの児とも見え ず、殊に其』、・かしささへ眼の色に現れてなつかしさ限り無し。足にし とゴ』 て立たば、彼堂の後につきてひねもす魚捕るわざの伽にもなりなんと 思ふ。せめては名だに聞かまほし。かよチヤンとは呼ばずや。  野述の回り角に肥溜ありて中に大きなる蛇七八つも浮きたり。たま かゝ たまきよツ/\と暗く声高くして道行く人を驚かす。斯る蛙を見る毎  ふ ひん く どく に不便に堪へず、助けやらましかば功徳にもならましと思ふにいつも 志を果さず。肥溜なればせん方も無しとぞ人はいふめる。肥溜なれば ここ、救ひ!、やりたけれ。 からたち  雌場の前に出づ。Rなればにや煙ほそ%\と立っ一。枳殻の垣につき て廻れば焼場の裏門より太鼓叩きておでん売の車あらはれたり。調和 の悪き取介せ折なり。 二呈ト  諏訪神社の茶店に腰を休む。〔閑き風卿に寒ければ興尽きて帰る。 ,、一。〇 三年の月Hを寝飽きたるわが褥も車に痛みたる。雌を批うるに綿のさは りこよなくうれし。世にかひなき身よ。 (明治。。十一年卜一月) 死 麦 毛  人問は帝一度づゝ死ぬるのであるといふ事は、人間皆知つて居るわ けであるが、それを弦く感ずる人とそれ税賂じない人とがあるやうだ。 し土」 或人はまだ年も若いのに。頻りに死といふ捗を気にして、今枚これから 眠つたらばあしたの靭は此催死んで居るのではあるまいかなどと心配 して夜も眠らないのがある。さうかと思ふと、死といふ耶に耽て全く 平気な人もある。潜も一度は死ぬるのだよ、などとおどかしても耳に も問えない撮りでゐる。妥するに催雌な人は死などといふ小を劣へる 必要もなく、又暇も無いので、唯抄巾になつて稼ぐとか遊ぶとかして ゐるのであらう。  余の如き長病人は死といふ事を考へだ一す様な機会にも度々出会ひ、 又さういふ事を考へるに適当した暇があるので、それ等の為に死とい しか ふ事は丁寧反麗に研究せられてをる。併し死を感ずろには二様の感じ 様がある。一は主観的の感じで、一は答概的の感じである。そんな。一。一〕 葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感じるといふのは、〔分が今 上i与L 死ぬる様に感じるので、払だ恐ろしい感じであろ。動悸が搬つ一。粘抑 が不安を感じて非柑に煩悶するのである。これは病人が病気に枚雌が あろ征によく起すやつで、これ位不愉快なものは無い。容観的に〔U の死を感じるといふのは変な。一。一口葉であるが、白Uの形体が死んでも臼 姻 己の考は生き残つてゐて、其考が自己の形体の死を客観的に見てをる のである。主観的の方は普通の人によく起る感情であるが、客観的の 方は其趣すら解せぬ人が多いのであらう。主観的の方は恐ろしい、苦 しい、悲しい、瞬時も堪へられぬやうな厭な感じであるが、客観的の 方はそれよりもよほど冷淡に自己の死といふ事を見るので、多少は悲 しい黙附ない感もあるが、或時は蝉ろ滑稽に落ちて独りほ・ゑむやう な取もある。主観的の方は、病気が悪くなつたとか、俄に苦痛を感じ て来たとか、いふ時に起るので、客観的の方は、長病の人が少し不愉 快を感じた時などに起る。  去年の夏の頃であつたか、或時余は客観的に自己の死といふ事を観 察した堆があつた。先づ第一に自分が死ぬるといふとそれを棺に入れ ねばなるまい、死人を棺に入れる所は子供の内から度々見てをるが、 いかにも窮加さうなもので厭な感じである。窮屈なといふのは狭い棺 に死体を入れるばかりでなく、其死体をゆるがぬやうに何かでつめる のが厭なのである。余が故郷などにてはこのつめ物におが用を用ゐる。 半紙の藪ゼ(縦に二つ折りにしたのと、横に二つ折りにしたのと)二 通りに桁へてそれにおが屑をつめ、其嚢の上には南無阿弥陀仏などと 蒋〃。これはつめ処によつて平たい嚢と長い嚢と各々必妥がある。そ れで搬の処だけば幾らか鰍附いて隙を多く袴へるにした所で、兎に角 頭も動かぬやうにつめてしまふ。つまり死体は土に葬らるゝ前に先づ おが珊の嚢の中に葬らるゝのである。十四五年前の事であるが、余は 猿楽町の下宿にゐた頃に同宿の友達が急病で死んでしまつた。東京に は其切の親類といふものが無いので、我々朋友が集まつて葬つてやつ た事がある。其時にも棺をつめるのに何を用ゐるかと聞いて見たら、 ,。きみ 菓京では普通に樒の葉なども用ゐるといふ事であつた。それからそれ を買ふて来て例の通り紙の嚢を推へてつめて見た所がつめ物が足りな かつた。英処で再び樒の葉を買ふて来て、今座は嚢を拵へるのも面倒 だといふので、其傑で其処らの隙をつめて置いた。棺は寝棺であつた が、死人の煩の処に樒の葉が倣ってゐるなどといふのは、いかにも気 の毒に感じた。昔から斯ういふ感じがあるので、余は自分を棺につめ られる時にどうか窮屈にない様に、つめて黄ひたいものだと、其事が 頻りに気になつてならぬ。西洋では花をつめるといふ事があるさうだ が、これは我々の理想にかなふたやうな仕方で実によい感じがするの であるが、併し花ではからだ触りが柔かなだけに、諦物にはならない やうな気がする。尤も棺の幅を非常に狭くして死体は棺で動かぬやう にして置けば、花でつめるといふのは口本のおが周などと遠つてほん の愛矯に振撒いて置くのかも知れん。さうすれば其棺は非常に窮州な 棺で、其窮旭な所が矢張り厭な感じがする。  スコツトうンドのバラツドにOO名①9考…ぎ旨、吻OげO津といふのが ある。この歌は或女の処へ、其女の亭主の幽霊が出て来て、自分は遠 方で死んだといふ事を知らすので、其二人の問答の内に次のやうな事 がある。 其意は、女の方が、私はお前の所へ行き度いが、お前の枕元か是元 か、又は傍の方に、私がはひこむ税の隙があるかといふて、問ふた所 が、男の方則ち幽笠が答へるには、わたしの枕元にも、足元にも、傍 にも少しも湿附かない、わたしの棺は、そんなにしつくりと出来て居 る、といふたのである。まさか此翼壕でも二つの死骸を一つの柚に人 後 死 49 れるわげでもないから、そんな事はどうでもいゝのであるが、併しこ ちー一や弓 の歌は凝情をよく現はしてをると同時に、棺の窮屈なものであるとい ふ事も現はしてをる。こんな歌になつて見ると、棺の窮屈なのも却て 趣味がないではないが、併し今自分の体が棺の中に這入つてをると考 たるへく へると、可成窮胴にないやうにして貰ひたい感じがする。尤もこれは 肺病思者であると、胸を圧せられるなども他の人よりは幾借も窮用な 苦しい感じがするのであらう。  或時世界各国の風俗などの図を集めた本を見てゐたら、其中に或国 ヨーo ツ。ハ (国名は忘れたが、欧羅巴辺の大国ではなかつた)の王の死骸が棺に 入れてある図があつた。其棺は普通よりも高い処に畳いてあつて、棺 の蝕の方は足の方よりも尚一層高くしてある。其処には燈火が半ぱ明 るく半ぱ暗く照して居つて、周囲の装飾は美しさうに見える。王は棺 の中に在つて、顔は勿論、腹から足迄白い着物が潜せてあるところが よく見える。王の眼は敵かにふさいでゐる。王は今天国に上つてゐる 聾を見てゐるらしい。此画を見た時に余は一種の物凄い感じを起した と同時に、神聖なる高尚なる感じを起した。王の有様は少しも苦しさ うに見えぬ。若し余も死なねばならぬならば、斯ういふ工合にしたら 窮州でなくすむであらうと思ふた蕃がある。併し幾らこんなにして見 お吊 た所が、棺の監を蔽ふてコン/\と釘を打つてしまつたら、それでお しまひである。棺の中で生きかへつて手足を動かさうとした所で最早 何の効力もない。其処で棺の中で生きかやつた時に直ぐに棺から這ひ 出られるといふ様な仕組にしたいといふ考へも起る。  柿の窮州なのは仕方が無いとした所で、其棺をどういふ工合に葬ら かな れたのが一番自分の意に適ってゐるかと専ねて見るに、先づ最も普通 なのは土葬であるが、其土葬といふ事も余り感心した葬り方ではない。 誰の棺でも上の穴の中へ落し込む時には極めていやな感じがするもの 主 である。況して其棺の中に自分の死骸が這人つてをると考へると、何 ともいへぬ厭な感じがする。寝棺の中に自分が仰向けになつてをると して考一て見給て棺はゴリ/\くドンと下に落ちる。施主が一鍬 入れたのであらう、上の塊りが一つ二つ臼分の顔の上の所へ洛ちて来 たやう喜宇る。其あとはドタバタ/\と土は〔分の上に筆て来 る。また、く間に棺を埋めてしまふ。さうして人夫共は埋めた上に土 しき を高くして其上を頻りに鱈み固めてゐる。もう生きかへつてもだめだ。 いくら声を出しても問えるものではない。自分がこんな土の下に葬ら れてをると思ふと窮屈とも何ともいひやうがない。六尺の深さならま だしもであるが、友遠が深切にも九尺でなければならぬといふので、 九尺に掘つてくれたのはいゝ迷惑だ。九尺の土の重さを受けてをると いふのは甚だ苦しいわけだから、此上に大きな石塔なんどを挑ゑられ ては堪らぬ。石塔は無しにしてくれとかね%遺、、臼して雌いたが、石 塔が無くては体裁か悪いなんていふので、大きなやつか何かを据ゑら 壮」吉 れては実に堪るものぢやない。  土葬はいかにも窮崩であるが、それでは火葬はどうかといふと火錐 は面白くない。火葬にも種類があるが、煉瓦の煙突の立つてをる此頃 の火葬場といふ者は棺を入れる所に仕切りがあつて、英仕切りの小へ づゝ 一つ宛棺を入れて、夜になると皆を一締に蒸熾きにしてしまふのぢや さうな。そんな処へ棺を入れられるのも厭だが、殊に蒸焼きにせられ ると思ふと、堪らぬわけぢやないか。手でも地でも片つぱしから焼い てしまふといふなら痢くてもおもひ切りがいゝが、然焼きと来ては瓜 のつまるやうな、苦しくても声の出せぬやうな変な厭な感じがある。 其上に蒸焼きなんといふのは料理屋の料理みたやうで甚だ俗極まつて おん三う をる。火葬ならいつそ昔の隠坊的火葬が風流で気が利いてゐるであら う。とある山陰の杉の木立が立つてをるやうな陰気な所で、其木立を ひかへて一つの焼場がある。焼場といふても一寸した石が立つてをる たゝ 位で、別に何の仕掛もない。唯薪が山のやうに積んである上へ棺を据 ゑると隠坊は四方から其薪へ火をつける。勿論夜の事であるから、炎 炎と燃え上つた火の光りが真黒な杉の半而を蝋して空には地が一つ二 つ。雌いてをる。其処に居る人は附添人二人と臓坊が一人とぱかりであ る。附添人の一人が隠坊に向って「隠坊星さん、何だか凄い犬気にな 50 つて来たが。心は峰りやアしないだらうか」と問ふと、隠坊はスパ/\ 主せる と吹かしてゐた煙管を自分の腰かけてゐる石で叩きながら「さうさね 1、雨になるかく知れない」と平気な声で答へてゐる。「今降り出さ れちやア困つてしまふ、どうしたらよからう」と附添の一人が気遣は しげにいふと、隠坊は相変らず澄した調子で「すぐ焼けてしまひます る」などといつてをる。火に照されてゐる隠坊の顔は鬼かとも思ふや うに赤く輝いてゐる。こんな物凄い光赦を想像して見ると何かの小説 し土 にあるやうな感しかして稍々興に乗つて来るやうな次第である。併し 壮か 乍ら火がだん/\まはつて来て棺は次第に焼けて来る。手や足や頭な どに火が附いてボロ/\と焼けて来るといふと、痛い事も痛いであら うが脇から見て居つてもあんまりいゝ心持はしない。おまけに其臭気 と来たらたまつた者ぢやない。併し其苦痛も臭気も一時の事として白 骨になつてしまふと最早サツパリしたものであるが、自分が無くなつ て白骨ばかりになつたといふのは甚だ物足らぬ感じである。白骨も自 分の物には遠ひ無いが、白骨ぱかりでは自分の感じにはならぬ。土葬 は窮川であるけれど自分の死骸は土の下にチヤーンと完全に残つて居 る。火葬の様に臼骨になつてしまつては自分が無くなる様な感じがし しんたいは「ぶ これ て拠だ面白くない。何も身体髪庸之を父母に受くなどと堅くるしい理 寓をいふのではないが、死んで後も体は完全にして置きたいやうな気 がする。  土葬も火葬もいかぬとして、それでは水葬はどうかといふと、この 水といふやつは余り好きなやつでない。第一余は泳ぎを知らぬのであ るから、水葬にせられた暁にはガブ/\と水を飲みはしないかと先づ それが心配でならぬ。水は飲まぬとした所で体が海草の中にひつかゝ つてゐると、いろ/\の魚が来て顔ともいはず胴ともいはずチク/\ とつ、きまはつては心持が悪くて仕方がない。何やら大きな者が来て た こ 片腕を食ひ切つて帰つた時なども変な心持がするに違ひない。章魚や 鳥はひ 鮒が吸ひついた時に、それをもいでのけようと思ふても自分には手が 無いなどといふのは実に心細いわけである。 を■『てや土  土葬も火葬も水葬も皆いかぬとして、それならば今度は姥拾山u山た やうな処へ捨てるとしてはどうであらうか。棺にも入れずに死骸ばか りを捨てるとなると、棺の窮堀とい、小小は無くなるから其処t。介竹に き市『へ■上。び’り さ い・様であるが、併し寝巻の上に経帷子位を前て山上の吹考、雌しに染 てられては自分の様な皮庸の弱い者は、すぐ風邪を引いてしまふから いけない。それでチヨイと思ひついたのは、矢。狂堪棺に人れて、盗は しないで、顔と体の全而だけばすつかり現はして賦いて、絵で此た攻 国の王様のやうにして棄てて貰ふてはどうであらうか。それならば窮 屈にもなく、寒くもないから其点はいゝのであるが、それでも唯一つ 困るのは狼である。水葬の時に凧につゝかれるのはそれ程でもないが、 ガシ/\と狼に食はれるのはいかにも痛さうで、厭である。狼の公つた へそ くちはし しやく さは あとへ烏がやつて来て麟を臓でつゝくなども繊に障つた次第である。  どれもこれもいかぬとして、今一つの方法はミイラになる双であ、◇。 ミイラにも二種類あるが、エジプトのミイラといふやつは死体の上を 布で幾重にも巻き固めて、土か木のやうにしてし↓、ろて、其上に〕] 鼻を彩色で派手に書くのである。其中には人がゐろのには逃ひないが、 表面から見てはどうしても大きな人形としか児、又ぬ。〔分が人杉にな つてしまふといふのもあんまり面白くはないやうな感じがする。併し 火葬のやうに無くなつてもしまはず、土葬や水葬のやうに窮川な沈い 処へ沈められるでもなし、頭から粛物を沢山被つ工ゐる位な秋りにな Lキれ つて、人類学の参考室の壁にもたれてゐろなども洒落てゐるかもしれ ぬ。其外に今一種のミイラといふのはよく山の中の洞穴の中などで発 見するやつで、人間が坐つたまゝで堅くなつて死んでをるやつである。 こいつは棺にも入れず葬りもしないから、誠に口由な感しかして仙だ 心持がよいわけであるが、併し誰かに児つけられて此、・・イラを風の吹 く処へかっぎ出すと、屯ぐに触れてしまふとい、ふ事で一一…る。折灼、、、イ 』㌔」 ラになつて見た所が、すぐに肋れてしま、小てはまるで力なしヵつ、、一ら { せ 一り ぬ事になつてしまふ。万一形が崩れぬとした所で、浅革へ見世物に山 さいせん されてお費銭を食ろ貨木とせられては誠に情け無い次刎である。 の も .、] ナ く “  死後の目Uに於ける朱観的の観察はみ、れからこ、れといろノ、汚へて 見ても、どうもこれなら工合のいゝといふ死にやうもないので、なら ・つ事な・b〃にでもなつて舳たいしし円心ふやうになる。  、ム年n夏4過ぎて秋も半を越した頃であつたが、或口非術な心細い 感しかして何だか呼吸がせまるやうで病休イ、独り煩悶してゐた、〕此時 は口已の死を主観的に感じたので、あ上一一り遠か石ん内にH分は死むる 上」 であらうといふ念が寸時も頭を離れなかつた。斯ういふ時には誰か来 ㌔、一」一・ 答があれはよいと待つてゐたけれど生憎誰4来ない。厭な一界、夜を過 してやう/\翌朝になつたが、矢、脹前日の煩悶は少しも滅じないので、 考へれば考へる程不愉快を璃すばかりであった。然るにどういふはず みであつたか、此主観的の感じがフイと容観的の感じに変つてしまつ た。山分はもう既に死んでゐるので小さき早柵の中に入れられてをる。 其早柵は二人の人夫にか、れ二人の友達に守られて細い野路を北、同い 着干ぱんわらち てスター\と行ってをる。其人等は皆脚絆草軌の出立ちで、もとト{り 荷物なんどはすこし{持つてゐない。一面の旧は稲の穂が少し黄ばん へせ ぱん も す で、昨の櫟の木立には、白舌旭がせばしく蹄いてをる。早柵は休みもし ないでとう/\夜通しに歩いて翌uの昼。蠣にはとある村へ渚いた。其 村の外れに三つ四つ小さい墓の並んでゐる所があつて、其傍に一坪許 りの空地があつたのを買ひ求めて、棺柵は其辺に据ゑて置いて人夫は を」や5 蝸に穴を掘つてをる。其内に附添の一人は近辺の貧乏寺へ行て和尚を 連れて来る。やつと棺榊を理めたが墓印もないので手頃の石を一つ据 ゑ かう ゑてしまふと、和尚は暫しの脚呵・阿してくれた。其辺には野生の小さ まんしゆしやけ い革花が沢山咲いてゐて、向ふの方には峻珠沙華も真赤になつてゐる のが見える。人通りもあまり無い、極め−て静かな疫村の光最である。 附添の二人は其夜は寺へ泊らせて貰ふて、翌口も和尚と共にかたばか とき りの回向をした。和尚にも斎をすゝめ其人等も精進料理を食ふて旧舎 のお寺の庫敷に坐つてゐる所を想像して見ると、自分は其場に居ぬけ れど何だかいゝ感じがする。さういふ工合に葬られた自分も早柵の中 であまり窮州な忠じもしない。斯ういふ風に劣へて来たので、今迄の もと 煩悶は痕ろなく消えてしまふて、すが/\しい、えゝ心持に一。{つ、てし、、一、{ ふた。  冬になつて来てから痛みが増すとか呼吸が苦しいしスで、時々は。北 を感ずるために不愉快な時間を送ることもあろ。俳し亘に比丁ろと聰 脳にしまりがちつて椚沖がさわやか↓、仏時が争いハで、坦程「一。似悶し↓。仏 いや・つにへ仏つ人に。 (州冶三十四年二月) くだもの 械物学の上より見たるくだものでちなく、産物学の上トムり見た るくだものでもなく、帷病蛛で食ふて見たくだものの味のよし あしをいふのである。間違ふてをる処は病人の舌の荒れてを占勺 枚と見てくれたまへ。 ○くだものの字義 くだもの、といふのはくだすものといふ癌で、く だすといふのは腐ることである。菓物は凡て熟するものであるから、 それをくさるといつたのである。大概の菓物はくだものに述ひないが、 しひ くるみ とんぐり 菓、椎の実、胡桃、団菓などいふものは、くだものとはいへないだら う。さらば是等のものを総称して何といふかといへば、木の炎といふ のである。木の突といへば菓、椎の実も普通のくだものも共に包含せ られてをる理痕であるが、俳句では普通のくだものは皆別々に旭にな つて居るから、木の実といへば椎の実の如き類の着をいふ様に思はれ る。併し又一方からいふと、木の実といふばかりでは、広い忠吠に収 いち一」、五’う ■ひ つても、覆盆子や葡葡などは逓人らぬ。其処で木の実、車の実と並べ ていはねば完全せぬわけになる。此点では、くだらのししいへば却。一一、狙 秘 盆子も葡苟もこめられるわけになる。くだもの類を東京では水菓子と いふ。余の国などでは、なりものともいふてをる。 すゐくわ ま くはうワ ○くだものに準ずべきもの 畑に作るものの内で、西瓜と真桑瓜とは 他の畑物とは違ふて、却てくだものの方に入れてもよいものであらう しか それは廿味があつて而も生で食ふ所がくだものの資格を具へてをる。 ○くだものと気候 録候によりてくだものの種類又は発達を異にする のはいふ迄もない。日本の本州ぱかりでいつても、南方の熱い処には りん一」 蜜柑やザボンがよく出来て、北方の寒い国では林檎や梨がよく出来る , や し といふ位差はある。況して台湾以南の熱帯地方では椰子とかバナ・と かパインアツプルとかいふ様な、まるで種類も味も遠つた菓物がある からたち 江南の橘も江北に植ゑると枳殻となるといふ話は古くよりあるが、こ れば無論の事で、同じ蜜柑の類でも、日本の蜜柑は酸味が多いが、支 那の南方の蜜柑は甘味が多いといふ程の差かある。気候に関する菓物 の特色をひつくるめていふと、熱帯に近い方の菓物は、非常に肉が柔 かで酸味が極めて少い。其寒さの強い国の菓物は熱帯程にはないが、 やはり肉が柔かで廿味がある。中間の温帯のくだものは、汁が多く酸 味が多き点に於て他と運つてをる、併しこれはごく大体の特色で、殊 に此頃の様に農芸の事が進歩すると、いろ/\の例外が出来てくるの はいふ迄もない。 ○くだものの大小 くだものは培養の如何によつて大きくもなり小さ くもなるが、遠ふ種類の菓物で大小を比較して見ると、準くだもので えのみ はあるが、西瓜が一番大きいであらう。一番小さいのは榎実位で、鬼 貫の句にも「木にも似ずさても小さき榎実かな」とある。併し榎実は かつ くだものでないとすれば、小室」いのは何であらうか。水菓子屋が曾て グースベリーだとかいふてくれたものは榎実より少し大きい位のもの であつたが、味は旨くもなかつた。野葡萄なども小さいか知らん。凡 て野生の食はれぬものは小さいのが多い。大きい方も西瓜を除けばザ ほんもの ボンかパインアツプルであらう。椰子の実も大きいが真物を見た事が 無いから知らん。 い ち ○くだものと色 くだものには大概美しい皮がかぶきつてをる。樋盆 ご 子桑の実などは稍壱運ぶ。其皮の色は多くは始め青い色であつて、熱 する程黄色か又は赤色になる。中には紫色になるものもある。(西瓜 の皮は始めから終り迄青い)普通のくだものの皮は赤なら赤黄なら黄 と一色であるが、林檎に至つては一個の菓物の内に濃糺や淡紅や樺や 黄や緑や種々な色があつて、色彩の美を極めて居る。其皮をむいて見 ると、肉の色は又遠ふて来る。柑類は皮の色も肉の色も殆ど同一であ るが、柿は肉の色がすこし薄い。葡萄の如きは肉の紫色は波の紫色よ りも遙に薄い。或は肉の緑なのもある。林檎に至つては美しい皮一枚 の下は真白の肉の色である。併し白い肉にも少しは区別があつて、稍 椚黄を帯びてゐるのは肯味が多うて、青味を帯びてゐるのは酸味が多 い。 ○くだものと香 熱帯の菓物は熱滞臭くて、寒国の菓物は冷たい匂が する。併し菓物の香気として昔から特に称するのは柑類である。殊に 此の香はしい涼しい匂は酸液から来る匂であるから、酸味の強いもの ゆず だいく 程香気が高い。柚、橿の如きはこれである。其他の一般の菓物は殆ど 香気を持たぬ。 ラ宮 ○くだものの旨き部分 一個の菓物のうちで処によりて味に違ひがあ しん さき る。一般にいふと心の方よりは皮に近い方が廿くて、実の方よりは本 の方即軸の方が廿味が多い。その著しい例は林檎である。林檎は心ま でも食ふ事が出来るけれど、心には殆ど甘味がない。皮に近い部分が 最も旨いのであるから、これを食ふ時に皮を少し厚くむいて置いて、 其皮の裏を吸ふのも旨いものである。然るに之に反対のやつは柿であ つて、柿の半熟のものは、心の方が先づ熟してばつて、皮に近い部分 は渋味を残して居る。又実の方は熟して居つても軸の方は熟して居ら つる ぬ。真桑瓜は実の方よりも蔓の方がよく熟して盾るが、皮に近い部分 は極めて熟しにくい。西瓜などは日表が廿いといふが、外の菓物にも 太陽の光線との関係が多いであらう。 す ○くだものの鑑定皮の青いのが酸くて、赤いのが†いといふ位は誰 53 にもわかる。林檎のやうに穐類の多いものは皮の色を見て味を判定す ることが出来ぬが、唯緑色の交ってゐる林檎は酸いといふ事だけばた しかだ。梨は皮の色の茶色がゝつてゐる方が甘味が多くて、稍々青み を彬びてゐる方は汁が多く酸味が多い。皮の斑点の大きなのはきめの 荒いことを証し、斑点の細かいのはきめの細かいことを証してをる。 蜜柑は皮の厚いのに駿味が多くて皮の薄いのに甘味が多い。貯へた蜜 から 柑の皮に光沢があつて、皮と肉との間に空虚のあるやつは中の肉の乾 びてをることが多い。皮がしなびて雛がよつてゐるやうなやつは必ず 汁が多くて旨い。 ○くだものの嗜好 菓物は淡泊なものであるから普通に嫌ひといふ人 は少いが、日本人ではバナ・のやうな熱帯臭いものは得食はぬ人も沢 山ある。又好きといふ内でも何が最も好きかといふと、それは人によ つて一々遠ふ。柿が一番旨いといふ人もあれは、柿には酸味が無いか ら菓物の味がせぬといふて嫌ふ人もある。梨が一番いゝといふ人もあ い ち ご れば、菓物は何でもくふが梨だけば厭だといふ人もある。或は覆銃子 を好む人もあり葡萄をほめる人もある。桃が上品でいゝといふ人もあ れば、林檎ほど旨いものはないといふ人もある。それらは十人十色で あるが、誰も嫌はぬもので最も普通なものは蜜柑である。且蜜柑は最 も長く貯へ得るものであるから、食ふ人も自ら多いわけである。 ○くだものと余余がくだものを好むのは病銃のためであるか、他に 原因があるか一向にわからん。子供の頃はいふ迄もなく書生時代にな つても菓物は好きであつたから、ニケ月の学費が手に入つて牛肉を食 ひに行ったあとでは、いつでも菓物を買ふて来て食ふのが例であつた。 大きな梨ならば六つか七つ、樽柿ならば七つか八つ、蜜柑ならば十五 ゐなか あんぎや か二十位食ふのが常習であつた。旧舎へ行脚に出掛けた時なども、普 は た ご 通の旅籠の外に酒一本も欺まぬから金はいらぬ筈であるが、時々路傍 の茶店に休んで、梨や柿をくふのが癖であるから、存外に金を遣ふや うな事になるのであつた。病気になつて全く床を離れぬやうになつて からは外に楽みがないので、食物の事が一番贅沢になり、終には菓物 も征日食ふやうになつた。毎日食ふ様になつては何が旨いといふよリ は、帷珍しいものが旨いと云ふ事になつて、とりとめた事はない。其 内でも酸味の多いものは最も飽きにくゝて余計にくふが、これは熱の ある故でもあらう。夏蜜柑などはあまり酸味が多いので普通の人は食 はぬけれど、熱のある時には非常に旨く感じる。之に反して林檎のや 、つな酸味の少い汁の少いものは、始め食ふ時は非常に旨くても、二三 あ 日も続けてくふとすぐに厭きが来る。姉は非常に廿いのと、汁はない けれど林檎のやうに乾いて居らぬので、厭かずに食へる。併しだんだ ん気候が寒くなつて後にくふと、すぐに腹を傷めるので、先年も閏痙 し」 をやつて懲り/\した事がある。梨も同じ堆で冬の梨は旨いけれど、 ひやりと腹に沁み込むのがいやだ。併しながら自分には殆ど蛛ひぢや といふ菓物は無い。バナ・も旨い。パインアツプルも旨い。桑の突も 主き お も と 旨い。棋の実も旨い。くふた事のないのは杉の実と万年青の突位であ る。  い ち ご ○覆盆子を食ひし事 明治二十四年六月の郭であつた。学校の試験も いよく 切迫して来るので愈々脳が悪くなつた。是では試験も受けられぬとい わら ち ふので試験の済まぬ内に余は帰国する事に定めた。菅笠や草鮭を…只ふ て用意を整へて上野の汽車に乗り込んだ。軽井沢に一泊して蒋光寺に 参詣してそれから伏兄山迄来て一泊した。是は松本街道なのである。 翌日猿が馬場といふ峠にかゝつて来ると、何にしろ呼吸病にかゝつて ゐる余には苦しい事い差差い。少しづ・警て言く半腹に来 たと思ふ時分に、路の傍に木いち、この一面に熱してゐるのを見つけた。 是は意外な事で嬉しさも亦楴外であつたが、少し不思議に思ふたのは、 そ こ ち号ちよ 何となく其処が人の作つた畑の様に見えた事である。やゝ腰蹄してゐ し」 たが、此のあたりには人家も畑も何も無い事であるから、わざ/\斯 ん つひ 様な不便な処へ覆盆子を枇ゑるわけもないといふ事に決走して終に思 ふ存分食ふた。喉は渇いて居るし、息は苦しいし、此際の旨さは口に いふ事も出来ぬ。  明治二十六年の夏から秋へかけて奥羽行脚を試みた時に、澗旧から 列 北に向って海片を一直級に八郎湖迄来た。それから引きかヘして、秋 お恒まか、、 田から横手へと志した。其途中で大舳で一泊して、六郷を通り過ぎた 時に、述の九傍に平和街述へ出る近道が出火たといふ事が棒杭に書い てあつた。近逝か山来たのならば棋手へ廻る必妥らないから、此近道 を行って見ようと思ふて、左へ這人て行ったところが、昔からの街道 で無いのだから界飯を食ふ処も無いのには阯]した。路傍の茶庇、亡一 軒児つけ出して怪しい径蚊を済まして、それから奥へ進んで行く所が だん/\山が近くなる程村も淋しくなる、心細い様ではあるが又なつ かしい心持もした。山路にかゝつて来ると路は思ひの外によい路で、 あまり林などは無いから麓村などを見下して哨沌ノ\帖してよかった。 併し人の通らぬ処と見えて旅人にも会はねば木樵にも遇はぬ。、づとよ り茶店が一軒あるわけでり、ない。頂上粧へ堂つたと思ふ時分に向ふた、、 見ると、向ふは皆臼分の肚る処よりも遙に高い山がめぐつてをる。臼 分の居る山と向ふの山との谷を見ると、何町あるかもわからぬと思ふ 稗下へ深く見える。其大きな谷あひには森■、なく、畑もなく、家もな く、唯統腿な谷あひであつた。それから山の背に添ふて山りくねつた 路を歩むともなく歩んでゐると、遙の谷底に極平たい地面があつて、 其処に沢山点を打つた様なものが見える。何ともわからぬので不思議 に椛へなかつた。だん/\歩いてゐる内に、路が下つてゐたと見、品ん、 舳り角に来た時にふと下を見下すと、さきに点を打つた様に児ユ”札たの は午であるといふ事がわかる迄に近づいてゐた。愈々不思議になつた。 牛は川五十顕もゐるであらうと思はれたが、人ハ豚も少しも見えぬの である。それから又哲く歩いてゐると、路傍の荊練の中でがさノ\と いふ苛がしたので、余は驚いた。見ると午であつた。頭の上の方の崖 で冬がさ/\といふ、其処に込牛がゐるのである。向ふの方が又がさ がさいふので牛かと思ふて見ると今度は人であつた。始て牛飼の屠る 球がわかつた。崖の下を見ると午の群がつてをる例の平地はすぐ目の 前に近づいて来て居つたのに総いた。余の位地は非常に下つて来たの 一、’」、し り である。其処等の叢にも路にも幾つともなく牛が群れて居るので余は 少し当惑したが、幸に午の方で逃げてくれるので通けには邪腕になら なかつた。それから又同じ様な山路を二三町も行た一坦であつたと思ふ、 突然左側の崖の上に木いち、この林を児つけ出したのである。あ叩◆、、 あるも四五間の問は透附もなき、いち、この茂りで、しかも彼が地楊で 見た様な痩いち、こではなかつた。嬉しさはいふ迄■、ないので、餓地の 様に食ふた。食ふても/\尽きる堆ではない。時々後ろの方から午が 襲ふてきやしまいかと恐れて、後振り向いて見ては又一敵に食ひ入つ た。もとより一厭く事を知らぬ余であるけれども、日の荘れか、つたの に驚いていち、二林を見棄てた。大仏ぎに山を下り乍ら、遊の木の…を 見下すと、麓の村に夕口の残つてをるのが画の如く北、力札た。あそこい ら迄はまだ中々遠い事であらうと思はれて心細かつた。  明治甘八年の五月の末から余は神戸病院に入院して舳つた。此時雌 べきこ とう 子が来て呉れて其後碧梧桐も来て呉れて肴維の乎は十分に”いたので あるが、余は非常な褒弱で一杯の牛孔■二杯のソツプ{飲む小が出来 なんだ。そこで医者の許し花得て、少しばかりのいちごを食ふ少を計 ’ されて、毎朝これはかりは脚かした革がなかつた。それも町にい兇つて をるいち、二は古くていかぬといふので、雌ナと碧柑桐が侮朝一口がは りにいちご畑へ行て取て来てくれるのであつた。余は病蛛で其を待{ ながら、二人が爪上りのいちご畑でいち、こを摘んでゐる光抜などを蜘 りに日前に描いてゐた。やがて一籠のいちごは余の、柄休に股かれるの であつた。此いち、この革がいつ迄も忘れられぬので、余は衷京の眺店 に帰つて来て後、庭の垣根に西洋いちごを柚ゑて楽んでゐた。 ○桑の実を食ひし事 信州の旅行は衣時であつたので逝々の桑州はい づこも茂つてゐた。木會へ這入ると山と川との脚の狄い地血が杵、架畑 である。其桑畑の囲ひの処には幾年も切らずにゐる大きな桑があつて、 其には真黒な実がおびたゞしくなつてをる。児逃がす事ではない、余 は其を食ひ始めた。桑の実の味はあまり世人に宜航、dれぬのであるが、 其旨さ加滅ば他に較べる者も無い程よい味であプ勺。余は其を食ひ川し てから一瞬時も手を紺かぬので、桑の老木が皿える処へは枚泣でも何 勧一、 一 血 ■。。。。一キ串肺、毒L 」尋・・。星刈畿舳轟繁壷鍾小焚喜塚蓮岨冨警箏元禄\警。L一 の も バ、一 〃 55 “ ひ む〜‘ 1、もか圭はず一、江八つ二、行って貧られるだけ貧つた。何升食ったか自分 にもわからぬが、兎に角人ハ為に其日は六里許りしか歩けなかつた。 ね 』。几o 二」 。’ 蠣覚の地へ来て名物の祷麦を勧められたが、蕎麦などを食ふ腹はなか つた。もとより此口は一粒の尽飯も食はなかつたのである。木仲の桑 の実は寝覚蕎麦より旨い名物である。  へ’’阯 ろ・へ A C^代架萸を食ひし事同じ信州の旅行の時に道傍の家に古代茱萸が {一ま 真赤になつてをるのを見て余はほしくて堪らなかつた。駄菓子庫など  のそ を覗いて見ても茱典を売つてゐる処はない。道で遊んでゐる小さな児 が茱萸を食ひながら余の方を不思議さうに見てをるなども時々あつ にへかは 二} た。木仲路へ這入つて蟄川迄来た。丑は木曾第一の難処と問えたる烏 わらひもち 井峠の麓で名物蕨餅を売つてをる処である。余はそこの大きな茶店に 休んだ。茶店の女主人と見えるのは年頃柑許りで勿論眉を剃つてをる つな が、しんから色の白い女であつた。此店の前に馬が一匹繋いであつた。 余は女主人に向ひて鳥井峠へ上るのであるが馬はなからうかと尋ねる と、丁度其店に休んでゐた馬が帰り烏であるといふ事であつた。其 圭 ご 鳩士といふのはまだ十三四の子供であつたが、余はこれと談判して鳥 井峠孤上迄の駄賃を十銭と極めた。此登路の難儀を十銭で免れたかと 思ふと、余は嬉しくて堪らなかつた。併しそこらにゐた男共が其若い 心土をからかふ所を聞くと、お前は十銭のたゞまうけをしたといふ様 にいふて、駄賃が高過ぎるといふ事を暗に瓢してゐたらしかつた。そ れから女主人は余に向ひて蕨餅を食ふかと「聯ねるから、余は蕨餅は食 ぐ み はぬが茱萸■は無いかと碑ねた。さうすると、其茱萸といふのがわから ぬので、女主人は其処らに居る男共に和談して見たが、誰にもわから なかつた。余は再び手真似を交ぜて解剖的の説明を試みた所が、女主 人は炎然と、あゝサンゴミか、といふた。それならば内の裏にもある から行って見ろといふので、余は台所の様な処を通り抜けて裏迄出て るゐく 見る−、し、一問半許りの苛代茱吏が累々としてなつてをつた。これをく れるかといへば、幾らで{」取れといふ。余が。取りつゝある傍へ一人の 男が来て取つてくれる、女主人はわざ/\出て来て何か指図をしてゐ る。ハンケチに一杯ほど。収りためたの功、、余はきりあげ!、店二帰つ( 火た。此代はいくらやらう。がといふと、代はいりませんといふ、し。、一 三か たがないから、少し詐りの茶代を雌いて余は旭の背に跨つた、女主人 など丁寧に余を児送つた。肯笠を被つてゐても木伸脇では斯ういふ風 に款待せられるのである。馬はヒヨクリ/\と鳥井味を上つて行く。 おとなしさ、つなので安心はしてゐたが、時々絶壁に臨んだ時にはムし や狭い路を婚み外しはしまいかと胆を冷さぬでもなかつた。余。はハン せん ケチの中から茱萸を出しながらポツリノ\と食ふてゐる。児下せば千 じ札 側の絶壁鳥の音も問えず、足下に逃なる山又山帽濃州に向て尤る、と でもいひさうな此の壮快な赦色の中を、馬一匹ヒヨクリノ\と歩んで ゐる、余は鵬上に在つて口を紫にしてゐるなどは、実に愉快でたまら なかつた。茱萸はとう/\尽きてしまつた、ハンケチは真赤に染んで ゐる、もう鳥井峠の頂上は遠くはないやうであつた。  ご しよかき ○御所柿を食ひし事 明治廿八年神、尸の病院を出て須麟や故郷とぶら ついた末に、東京へ帰らうとして大阪迄来たのは十月の末であつた と思ふ。其時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を戚じた お が、秦良へ遊ばうと思ふて、病を推して出少けて行た。三日程余良に 滞留の問は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が州火た。此 時は柿が盛になつてをる時で、奈良にも余良近辺の村にも柿の林が児 えて何ともいへない趣であつた。柿などといふものは従来詩人にも歌 よみにも見放されてをるらので、殊に余良に柿を剛八uするといふ様な 事は思ひもよらなかつた小である。余は此新しい)配八Hを見つけ山して 非常に嬉しかつた。或枚夕飯も過ぎて後、宿呈の下女にまだ御所柿は 食へまいかといふと、もうありますといふ。余はNを山てから、十年 程の間御所柿を食った事がないので非常に恋しかつたから、早速沢山 符て来いと命じた。やがて下女は心径一尺五寸込ありさうな錦子の大 〜ナか 丼鉢に山の如く柿を盛て来た。流。七柿好きの余も焔いた。こ、れから下 女は余の為に庖刀を取て柿をむいてくれる様子である。余は柳も食ひ たいのであるが、併し暫しの…は柿をむいてゐる女のやゝうつ↓、しいて 56 ゐる顔にほれ/\と見とれてゐた。此女は年は十六七位で、色は雪の 如く白くて目鉢立まで申分のない様に出来てをる。生れば何処かと聞 くと、月か瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。 やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐ る。柿も旨い、場所もいゝ。余はうつとりとしてゐるとボーンといふ そ や 釣鐘の音が一つ問えた。彼女は、オヤ初夜が鳴るといふて尚柿をむき つどけてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かつたので ある。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つので あるといふ。衷大寺が此頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですと いふ。余が不思議さうにしてゐたので、女は室の外の板間に出て、其 処の中障子を明けて見せた。成程東大寺は自分の頭の上に当つてゐる 位である。何日の月であつたか、其処らの荒れたる木立の上を淋しさ うに照してゐる。下女は更に向ふを指して、大仏のお堂の後ろのあそ この処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく問えます、といふ事であつた。 (明治三十四年三月−四月) へ 一 録 漫 臥 卯 { 57 仰臥漫録 タ顔ノ実ヲフクベトハ ヘ チ マ タ顔モ糸瓜モ同ジ棚 夕顔ノ棚二糸瓜モ下 ヒナ 郡ノ宿タ顔汁ヲ食ハ 右八月廿六口俳談会席上作 タ顔ノ太リ過ギタリ 棚一ツタ顔フクベヘチ 昔 子 リ サ 秋 マナ 力 同 ケ レ ノ ン ナ 士 リ シ 風 ド 、 1 し 拭ミ。。ノヲハヤ、岸フベ‡ 沃曾み乏フフ〃べ㍑ 号?亀ノナヘ差弓㌣)。” ”羊、言や。。御私か 一 一rナ、、ゆ/向7!与亥ノ (二 γか1勿1 、壱乏ン嘩ノエ冬 ヱ美・庭均 病床ノナガメ 棚ノ糸瓜思フ処ヘブラ下ル 糸瓜ブヲリタ顔ダラリ秋ノ風 病間二糸瓜ノ句ナド作リケル ノ ワキ 野分近クタ顔ノ実ノ太リ哉 湿気多ク汗バム日ナリ秋ノ蝋 鷄頭ノマダイトケナキ野分カナ セソ ベイ 秋モハヤ塩煎餅二渋茶哉 朝粥四椀、ハゼノ佃煮、梅千砂櫛ツケ カフヲ カホチヤ 昼 粥四椀、鰹ノサシミ一人前、南瓜一皿、佃煮、 ナ ス タ 奈良茶飯四碗、ナマリ節蝋灯生ニテモ 苑†一皿  此頃食ヒ過ギテ食後イツユ、吐キカヘス ニ時過牛乳一合コ・ア交テ 、ハカリ 煎餅菓子バンナド十個許 昼飯後梨。一ツ タ飯後梨一ツ  服薬ハクレオソート昼飯晩飯後各三粒(二甘カフセル)  水薬健胃剤  今日タ方大食ノタメニヤ例ノ左下腹痛クテタマラズ杵ニシテ庇出デ 筋ユルム ド、七ウセ、カキ  松山木屋町法界寺ノ鮪施餓兇トハ路端二鮒汁商フ井旧ルナリト心ナ ドモ幼キ時祖父ドノニツレヲレ介米持テ往テ共川端ニテ食ハレタリト モノトモ 尤旧暦什六日頓ノ闇ノ夜ノ事ナリトイフ  餓鬼モ食へ闇ノ夜中ノ鱗汁  午後八時腹ノ筋痛ミテタマラズ鎮痛剤ヲ呑ム薬未ダ利カヌ内飾ヤ・ ユルム  母モ妹モ我枕元ニテ裁縫ナドス三人ニテ松山ノ話殊二長町ノ店家ノ 沿革話イト面白カリキ 服 古 f +時半頓蚊肢ヲ釣リ寝ニツカントス呼吸苦シク心臓鼓動強ク眠ラレ 千・ ズ畑悶ヲ極ム心気榊紺マル頭脳苦シクナル明方少シ眠ル 九月三日 朝雨 午前十一時頃暗 共後陰崎不定  棚繊帯取換十時頃又便通  ク。カ  陸氏只今帰ラレシ肉  朴前陛氏火ル天津肋骨ヨリノ土産 ホツス 払子一木俗画二枚板画(ケシキ)一枚  陳氏ハ文沸ノ上嵐ノ規棋ノ大ナルニ驚キタリトイフ  靭ヌク飯二椀佃煮梅千 牛乳五勺コ、ア交 菓子パン数個 ハヘ  昼 粥三椀鰹ノサシミニ蜘ノ卵アリソレガタメ半分程クフ、 ウ守 晩飯ノサイニ買直タルワヲサヲサシミニツクル旨クナシ食 ハズ 味蹄汁一椀 前一餅三枚 氷レモン一杯呑ム  タ粥二椀ワヲサ煮旨カラズ スン イトコノニヤク 三皮豆芋二三 炸少シ 糸鏑鶉 総テ旨カラズ佃煮ニテクフ 梨一ツ  陛氏内ヨリ朝鮮ノ写真数十枚持タセオコス  乍後以ハ車ニテ芝内仇久間町ノ池内氏ヲ訪フ政夫氏ノクヤ、、、ナリ  ヘ市早イ  理、㌃%レ  所1」・’』到ノ  今nハ咋枚来ノツぐキニテ何トナク苦シ  ハ 。几#  榊鰍ノ膿ヲ抑出スニ昼夜絶エズ出ル咋ロエ、今日モ同ジ 町川ニボラ 釣ル人ヤ秋ノ風 九月四口 朝曇 後暗  咋夜ハヨク眠ル  新聞日本二六京華大阪侮日ヲ読ム例ノ如シ海胸新蝸ハ前目ノ分川、止u ノタ刻二凧クヲ例トス  朝 雑炊三椀 佃煮 梅十 牛乳一八]コ、ア入菓子パンニ個  昼 鰹ノサシミ 粥三椀 、・・ソ汁佃煮梨。一ツ プ 壇ウンユ 葡萄酒一杯(コレハ食時ノ例ナリ舳日〔■ニメカス)  間食 芋坂刷子ヲ以来ラシム(コレニ付悶ガアリ) アン付三木焼一木ヲ食フ 麦湯一杯 塩煎餅三枚茶一碗  晩粥三椀ナマリ節キヤベツノヒタシ物梨一ツ ソヤウプ貞  午前種竹山人来ル菖蒲…原釜ナコソナドノ海水浴二遊ンデ帰〃ト原 カ ツ ヲ 釜ニテハ松魚一尼八銭何キトキ十三銭  家庭ノ快楽トイフコトイクラ云フテエ、分」フズ 物思フ窓ニブラリト糸瓜哉 ケスモノ  肋骨ノ贈リ来リシ美人河ハ維二肉ノ透キタル処ニテ桃体則ノ如シ 裸体画ノ鏡二映ル聊ノ秋 シワ カイ 、’ウ 美女立テリ秋海巣ノ如キカナ 九月五日 雨 夕方遠宙  朝 粥三椀 佃煮 瓜ノ波物  界一 メジノ廿シミ 粥四椀 娩十加1↑ 梨一  間食 梨一ツ 糺茶一杯 英子パン数個  タきj卵ニツ粥三椀余煮茄† ワ 克 メ 若和祁二杯酢カケ ツ ㌢ 藩嚢一− 録 漫 火 n 卯 イ 59 然鰍鯵嚢靴 、玲夢 戎 萎 毒, ・、・ 誼、。、札、。黄} 蒙抄浅な 謹麟灘騨籔 翁禅竃 圭、。、−謹簿蒙鱗象 華箏乏タ 畿汐締嚢 、 ぎ…着小、総遂嚢〜一 一 t葦 一 を…鴎、} ・; 目ツ タ刻三吉氏来ル明旦以へ帰ルトナリ ヘ チ マ  タ顔ト糸瓜筏暑ト新涼ト  山イ 、カイ  青尿ト愚雌芭蕉ト蘇鉄哉 青雁今愚腿二池留 十一ス一一タイス 魍払子舳骨ノクレシ払子毛ノ長サ一一、尺モアリ ぶつ しやう  馬の尾に仏性ありや秋の風  カ{、ナ一  神鳴ノ嶋レドモ秋ノ暑サカナ しj一、 プ」」ーノ  羽  ○へ  ,k’」  オ一  コ芝  Hゴ 夕 日 帖雨不定 粥三椀 佃煮不兄 サシ、ミ(カッヲ)粥三四椀 ミソ汁梨 ス埠クワ  今ロハ週報娘集佃検脚ノ〕ナレバトテ西瓜ヲ買ハシム西洋西  瓜ノ上等ナリ一庇二十五キレ程クフ ヒヤヤツコ 粥三椀アカエ キヤベツ冷奴梨一ツ  便通 朝、午後、夜、三度  今日ハ歯ノ膿オサズ  夜羊嚢二切 ク、克  肋骨ヨリ托セシ荷物近衛公ノ内ヨリ陸へ来リ更二陸ヨリ朋ケル来ル 三尺程ノ青雌ノ箱ナリ中カラ陶タモノハ 〇四乃子等ノ掛物小幅六枚少㌶件竹部焔畑〃 ○天津人形四個大サ八寸許榊携川払塊仁  只上ヲコネテ表両ヲ彩色シタルモノ、中空ニナリ居ラザル故非常二 重ク争少被損セリ ○皿ニツ ウ争 ハ ○オキアゲノ如キ俗ナ者十枚程 つ団扇二本 可、」し」ウ日ウ  午後オイクサン、巴サン、オシマサン三人来リ胴洋ノ猛燈籠ヲマハ ェ』。チヤ シテ遊ブ皆鰻茶ノ袴ナリ アユ、λン …ヤ、ケ  左千夫来ル咋夜典津ヨリ来リシナリト山北ノ舳鮒御土産二買ヒ火リ シガ新橋盾遅ク几ツ雨ナリシ故コ阜ヲヘ寄ラズニ帰リタリト興津行ハ 週報謀題松ノ歌ヲ作リニ行キシナリト(ハM淋秋州朴州) イ’  余日クソレワロシ、松トイフ魎已二陳腐ナルニ殊二陳腐ナル輿浪二 行クコト大間違ヒナリソレヨリモ知ラヌ野寺ノ庭ノ松カ児ノ庭ノ松ヲ 詠ミタル方マサリタラン云セ  閑談数時晩餐(ウナギ飯)ヲ喫シ夜帰ル ク、カ  願亭陸へ行キシ帰リナリトテ立宥  今日熱クテタマラズ昼ノ内ヨリ汗出デ時ミゾク/\ト塞サニ冒サレ シ心地イヤナリ ン  夜二至ツテ腹ノハリタルタメニヤ苦シクテタマラズ煩悶ス独ヒテ便 通ヲ試、・・タルニ郁合ヨクアリイタク疲労同時二熱発験温誰ヲ入レテ児 ル一冊七度七分シカナシトイフ此熱ナカ/\苦シ 九月七日 忽雨 忽贈 60 ツイデ  今朝週撤塚集句ノ原稿ヲ持タセ便ヲ出シ序二宮本へ往テ腹ノハリヲ 放ラス薬ヲモヲヒ来ヲシム  白イ敵薬ヲモヲヒ来ル  朝納椛カヘ便通アルコト例ノ如シ 井ソ ス ヒケ  秋一室払子ノ髭ノ動キケリ  秋ノ蝋殺セドモ猶尽キヌカナ  鷄頭ヤ今年ノ秋モタノモシキ  夜珊裕桐来〃蕪村句集講義読合ノタメ  勅 粥三椀 佃煮ワロシ コーコ少シ(茄子ト瓜) 牛乳五勺コ、ア入 塩センベイ三枚  径 カツヲノサシミ 粥三椀 ミソ汁酉瓜二切 梨一ツ  問食菓子パン十個許 塩センベイ三枚茶一杯  夕菓飯三ワンサハラ焼芋点  此夜ハヨク寝タル方ナリ  此口着物シヤツ着カヘ 察k 拶 一 一 “ 〜  “ 七  へ 一刊 −激幣柑  繊 嚢軸灘一 繊’灘欝 鰯照、』 、、 導奮 丸恩∵噌†登雲受暫ζ”。竜一 靭獅ξ”㌢伸丁オ典州・診亀 言卿ゑ9枇匁むニジ乏㌢〃狐†、 匁一ノ ゑ巧度紗多マ叉ぶ〉4撚鵬、、ノ 参びQ戸 誉ギ呉紗−)え 。、。、嚢。義麓謹2 録 漫 臥 卯 61  朝庭ノ棚フ見ルニ糸瓜ノ花八、南瓜ノ花ニ カナア、ニ ソイ; ○迫込範ノカナリヤ鉄網ニトリッイテ鉄網二附盾シタル白毛ヲ啄ム ヲ三ナヘシ OHキ蝶女郎花ノ花ヲ吸フ ○蝶ニツニナル ○ブイ〃糸瓜ノ花ヲ ア、ケハ 吸フ ○蛾一ツガヲス戸ヲ這フ O揚羽ノ蝶来ル倉皇トシテ去ル ○ 犯一羽棚ノ上ヲ飛ビ過グO山女郎(黒蝶)来ル ○雲無シ  紅緑来ル 午前十一時頃苦ミ泣ク  タ顔・ヤ野分恐ル・実尻ノ太リ  病舳アリ秋ノ小庭ノ記ヲ作ル  午後理髭師来ル一分刈廿五銭ヤル カソペウ  珊擾師ノ∵ニヨルニタ顔二似テ円キ者ハ干瓢ナリト  千瓢ノ肌ヘゥツクシ朝寒ミ フクベ 棚二内キ花ニツ咲ク(タ顔力瓢力千瓢力分ラズ) ヤ士イワツ0 0 夕蝕 粥二椀 焼鰯十八尾 鰯ノ酢ノモノ キヤベッ 梨一  秋ノ蜘追ヘバマタ来ル叩ケバ死ヌ 此夜一時敏迄女眠 此日他通三度 しjしi 市円 ノノソL n  便遡及纐滞 アノキ チ目ウヤウ  靭 菓小豆飯三碗(新暦重陽)佃煮  …食 紅茶一杯半(牛乳来ラズ)菓子バン三個  便逝アリ アヘ  午菓蚊ノ粥四碗 マグロノサシミ 葱ノ味暗和 一ツ又一ツ 欠k、不 、ノ7 一辛 『カノ タ 小豆粥三腕 鯛鍋 昼ノサシミノ残リ 和布 靭両是ヲ按摩セシム 白瓜ノ潰物梨 煮菓 リ ζ長塚ノ伎菓ヲ持チ来ル子紙ニイフ今年ノ菓ハ虫ツキテ出来ワロシ僅 諺二菓ワロケレバ共年ハ笠作ナリト果シテ然リ云さ菓ノ袋ノ中ヨリ将 基ノ駒一ツ出ヅ 薪暦重陽 ヘ チ マ  菓飯ヤ糸瓜ノ花ノ黄ナルアリ  アルソ  主病ム糸瓜ノ宿ヤ菓ノ蚊  冊八飯ノ四椀トぼ]キシロ紀カナ  糸瓜ノ花一ツ蒲ツ O茶色ノ小キ蝶低キ難幽ニトマル ○曇ル O 追込雛ノジヤガタラ葎イツノ間二力籠ヲヌケテ糸瓜棚松ノ枝ナド飛ビ メグルヲ見ツケル O隣家ノ手風琴閉ユ Oジヤガタラ雀隣ノ庭ノ木 二逃ゲル家人寵ノ鉄網ヲ修理ス O蝉ツク・・ボーシノ声暑シ Ou ト ソ ホ 照ル O蜻蛉一ツニツ O揚羽、山久郎或ハ去リ攻ハ来ル O梨ヲク フ 踵画美人 肋竹所贈 貞  ウスモノ・秋二勝ヘザル娑カナ 美人ノ両ト払子ト並べ掛ケタル  タ顔ノ坦根砒キソ美人禅 即 事 シヒ  九月蝉椎伐ヲバヤト思フカナ 菓出来ヌ年ハ五穀豊(饒)ナリトヵヤ  糸瓜ニハ可モ不可モナキ残暑カナ ○  人間ハ、・マダ生キテ居ル秋ノ風  壮丹ニモ死ナズ瓜ニモ糸瓜ニモ  ヒヤ巾ノヤウ  病休ノゥメキニ和シテ秋ノ蝋  靭顔ヤ九月ノ花二恥多キ アフ 顕ヲ扇ガシム O氷水二葡萄洲ヲ人レテ飲ム  氷噛ンデ毛穴二秋ヲ覚エケリ 逃暖計八十五峻 2 6 病人二八十五直ノ彼昇カナ  タ刻止叱玄閑迄来ル土雌榊紺六個ト煙草ノ以吹ナリ灰吹∴協緋ニシ  士 早イ スナハチ ノ テ布袋ノアクビシタル処布袋ノロ即灰吹ノロナリコレハ出ぶノ産ナ リト  点熾後処暖計八十二度 「ク向フ ヤ  上蜥ノ臭少シ鳴イテ又能ム 秋ノ灯ノ糸瓜ノ尻二映リケリ コホロギヤ物仔絶エシム〕所 サマぐ、ノ山帆クれトナリニケリ 夜更ケテ米トグ肯ヤキリぐ・ス ヤ七 、辛 疫脈二秋ノ蚊トマル悩キカナ 九月十口 午晴 便通間ニアハズ 納柑取換  朝飯 ヌク飲二椀 佃煮 紅茶一杯 典子パン一ツ 便遡 カ フヲ  午飲 粥イモ入三腕 松狐ノサシミ ミソ汁葱加子 ツクダ点 梨ニ ツ林檎一ツ  間食 焼菓八九個 ユデ菓。一四胴 舳一餅川九枚 典子バン六七似 十マス  タ飯 イモ粥三碗 オコ一、v腐ノ湯アゲ 才コノ、娩 キヤベツヒタ シ物梨二切 林檎一ツ 鷲索蜘脅制交 をゆ事ウ嘉、 ・嘱な孝 鰍 劣 婁え抑、前峯宍身芝ラ卑和oう毎と 苛函 。 蔦た ’ケ 虫ノ声滋シ歌ヨ、・・ナラバ歌ヨマン ハ壮コ打 隣家二八石敦八ムト。ムニノリ 八石ノ州子木鳴ルヤ虫ノ声 納脳ノ影襖ニアリ ツクぐ・ト我影見ルヤ虫ノ声 O 兵雨 主ユメト沖悼をヨ 養等喋合 辱左判鳴ノ −一ぺ、」 ,。・、、、 、、−;島識轟。。、、  乍時 ジヤガタラ稚帰リテ庵二在リ ノ  鳴雪翁来ル「ホト、イ以一会計ノ上ニツキ訴アリ水齢一鐵ヲ贈ラル  国分ミサ子女史来ル義仰寺写典二枚発句刷物一枚ヲ贈ラル  家人汕込籠ヲ修理ス母ハ籠ノ中二妹ハ総ノ外ニアリ針ガネノ取リヤ リスルナリ イハ イ;  新醐ノ号外来ルロク伊膨想太郎無期徒刑二処セラル ヰリ エノマ ㌫物ヲ入レタル猟ノ中二虫鳴クトテ共猟ヲ坐敷二武イテ聞ク閻艇コ ホロギニヤアランナドイフ  夜半家人ヲ起シテ便通アリ  ヨク眠ル ’ 、  此日水ノ如キ眼頻二出ヅ ヒ ヨ o ツク、、六ーシ心ノ〕和ノキラヒ十シ 家ヲ遠リテツク・・ボiシ樫林 タ飯ヤツク、、ボーシャカマシキ  母帰ラル河束高浜二軒ヲ紡ハレシニ皆破守ナリキト  例ノ埋援帥鷄則ノ盆栽ヲ携へ来ル  ジヤガタラ潅人1Hモ庭へ火ル  点熾後小蝋根ノ大キサノよ飛ビ火リラムプノ側ニァル盆栽ノ難則ヲ 上下ス家人ヲ呼ンデ何ノ血ゾト岬ケバ一咋枚代ノ}ニテ鳴キタルハコ レナリトイフ  燈下ニュデ菓七八個クフ以二波ヲムイテモヲフ 豪 至 −山{ 、ア 、 リ 匝 リ r 壬 3 6 九月十一口屡 便通及紛柑取換  靭飯 イモ雑炊三碗 佃煮 梅f 牛乳一ム〔コ、ア入 典予パン 延灼一 イ、〕 カンフ アサリ一ノ〃  杯一蚊 粥三碗 鰹ノサシ、、、蜘汁  m灸 前一餅十枚程 紅茶一杯  夕蚊 粥三四碗 キスノ魚旧二尾  ナ寸ス フキ堕二椀 困斤… イ一一一 梨一ツ 二戸ナソ  乍舳口巾氏火ル話顕、フヲンクリンノ常識、アングロサクソンノ特 カヘノ 色、フランスハ亡同的宵、今ノロ本デハ真成ノェヲイ奴ハ却テチ寸ク レテ世二出ラレヌコト等  乍後吋紳旧へ  牧野ノ細〃N産ヲ携ヘテナ一閑沙辿火ル ツク・・ガーシツク・・水ーシバカリナリ ツク、、ボーシ叩H伽…キヤウニ鳴キニケリ 九月十二口 曇 時ミ照ル  便適及織柑取代  靭飯 ヌク飯三椀 佃煮 梅干 牛乳五勺紅茶人 ネジパン形菓戸パン一ツ(一ツ、銭) カ フ ソ  午飯 イエ。粥。二碗 松凧ノサシミ 半 梨一ツ 林檎一ツ 舳一餅。、 枚  間食 杖豆 牛乳五勺紅炎人 ネジパン形災子一ツ 便通アリ →十卓− ス ザ 午  タ蝕 飯一碗半 鰻ノ蒲焼七巾 酢牡姻 キヤベツ 梨一ツ 林檎 一切  サ■ノウ  藻州氏来ル 7丁」ト  午後渦津ヨリ箆ノF紙火ル  麓慨守宅ヨリ鰻ノ湘焼ヲ贈リ火ル  ^浜ヨリ使、茶一カン、片林檎二。一十 企一…持火ル茶ハ枚政人氏 七イ叶f ノクヤミカヘシ、朴檎ハ野辺地山口某ヨリ蝸リ火ル々、金円ハ蹄斎ヨ リ病気地雌  沼津箆ヨリ小包便ニテ桃ノカン語二個来ル 伽  病閑二糸瓜ノ花ノ洛ツル  枚病窒ノ雌∵岐阜批灯(湖浄所贈)ヲ点ス  消エントシテトモシ火苛シキリぐ・ ㌘呑雫章冬、ク多参亀 繕箏≡ 塾−一鮒鱗 義z三・嚢’ −、鱗蓋一多、簿 ・− ’ ; 昼 ス 斡 劣尋一今勢 違〉心沫  ’嚢…、 ・苗 軸; 。 濠 ぎ ン  撒  w w 猟 “ ゴ ’、も・≡。 九ハ上∴口螢  便遡及織柑取換  朝蚊 ヌク飯三碗 佃煮 梅ザ 牛乳五勺紅茶人 菓子バンニツ  拠逝 カ ノ ヲ  乍蚊粥三腕堅魚ノサシミ ミソ汁一椀梨一ツ 林檎一ツ 葡 萄一〃  m食桃ノカンヅメ三個牛乳五勺紅茶入菓子バン一ツ 餅煎一 枚 イナリ 一エツ  タ飯 稲荷鮮四個 湯漬半碗 セイゴト昆布ノ汁 昼ノサシ、・・ノ残 リ 焼セイゴη㌶テ佃煮葡葡 ■ ,裏1ジ於ぜ《 朝湾ア  緒、鼻  一。〆ゾぎ 〜欝簑葦 { ’ ψ 一一〃匙 林臓 峨ピカ予㌣ 業㌻ゲ〉 、 〆㌻練、マ㌻  ジヤガタラ雀再ビ追込籠二入ル(小キ馳二解ヲ人レテ追込籠ノ側二 置キシニジヤガタラ壷共維ノ印二這人リテ餌ヲ食ヒ舳ル処ヲロヲ雌ギ 取リタルナリ) モトマツ千 カ。、エ 我庭ノ三本松伐リナバ家主怒ヲン伐ヲズバ緑ハビコリ上ツ枝ハu シモ ェ 影サヘギリ下ツ枝ハ露シヅク垂レウツクシキ花エ、ソダ、ズハシキ ヤシウマ木モ枯レヌ我庭ノニモト松上ツ枝モ下ツ杖モ伐v家主紙 ルトモ サ庭ベニハビコル松ノ枝伐ラバ家主怒ヲンサモアヲバアレ ナホ 下蔭ノ草花惜ミロヲ蔽フ松ガ枝伐ヲン家主怒ルトモ 我庭ノ三モト松伐リアハレ深キ千草ノ花二Hノ照ルヲ見ン ・。〜 苧 圭。、一童。−、貫轟斑藩。、、。 兼 {少 H受 ・イ 火 H 日 イ 伽  七− 1七ーウ■;、ノノゴトノ  夜涼如。水苫燈二辿ル虫ノ声  夜涼加。水人ノ川辺ノ坐一ツ キ,ウ 手 ハ  松虫ヤ簾二濡レタル絹固扇 十メ  ムヲ雨ノ過ギテ鷄顕ノタロカナ シウカイ、坦ウ  薙蝶ノ秋海菓ヲ犯スカナ ニトマリヶリ ヤ}ヒ ト]  枝豆ヤ病ノ休ノ昼永シ  校豆、ヤ三寸飛ンデロニ入ル  学校二行力、ス枝豆売ル子カナ  校豆ノ月ヨリ先二老イニケリ  枝豆ノツマメバハヂク仕掛カナ  明月ノ豆盗人ヲ照シケリ  校豆ノカヲ棄テニ出ル月夜カナ ジヤウゴ  苧ヲ喰ハヌ枝豆好ノ上戸カナ  苧アリ豆アリ女妨二涌ヲネダリケリ  明月ヤ枝uノ林酒ノ池 サウ ノ ケン  校亘ヤ俳句ノ才子曹子建  枝豆ヤ月ハ糸瓜ノ棚二在リ テ・. 週報募集俳句ヲ閲ス魎ハ枝豆 ?・  僅歌二擬ス 杖立 枝豆 ヨクハヂク枝並 プイト飛ンデ 三万皿 月ノ兎ノ Hニアテタ Hツカチ児 ヨクハデク枝豆 十三夜ノオ月様  ○ 秋風ヤ糸瓜ノ花ヲ吹キ落ス 九月十四〔公  午前二時頓〕さめ腹いたし家人を呼び起して便通あり腹痛いよ〃 すゐしや 烈しく苛痛堪へ難し此附ド痢水射三度許アリ絶叫号泣 {きやまい  隣家の行山吹牟、煩↓一{んと行きしに旅行中の山叱話を借りて何本吹を 呼ぶ  吐アリ  夜明稍静まる柳医来ル故薬ト水薬トノム  疲労烈し 氷片ヲカム或ハ葡萄澗二入レテ 牛乳 葛湯 ソツプ 飴湯 九月十五日  咋夜疲レテ普ク眠ル  牛乳葛湯 ドゼウナヘ  径飯 粥一二碗 泥鮪鏑 牛乳菓子バン 水飴  午後二度便通アリ  タ蝕 粥二碗 佃煮味淋波始湯  大阪青ミヨリ奈良潰ヲ送リ来ル ギノユク、小 フイフ サノマ  加藤義叔母飯田町迄来タル庁ナリトテ来ヲル上廉味淋波ト薩摩流ア  カ手オゴ  ゲ蒲鉾  タ暮前稍苦シ喰過ノタメカ 九月十六口 崎 ヒヤ〃スル ヲハ  週報俳句枚閲ノ際一思二仏イデ見了ル為目痛クナリ咋日ナドハ斯閉 ヲ読メバ日痛、、、明ケ一7レズ因テ今靭ハ斯脚ヲ児ズ少シバカリ仲二読マ ス  イノノマキ ヤ プウ  石巻ノ野老トイフ人ヨリ小包ニテ梨十バカリヨコス長十郎トイフ梨 トゾ一ツクフニ美味アリ 6 6 棚 乍孔 …足ゴバンニツ 梨一ツ 仕 粥。一腕 氾鮒蝸 薩摩アゲ 味淋粕潰 夕 粥・一。碗 雌、薩摩アゲ 味淋粕潰 牛乳コ、γ人 菓子パン小二個 葡萄 乍後川時岨次ノ舳ニテ便通 梨一ツ 葡萄二垢 梨一ツ  チクレイ 、ハウトウ 中−回ソ 棚竹冷氏ノ伎トシテ望東及火来ル五元集ヲ返シ烏寵茶ヲ蝸ヲル  先円久松老公七十ノ貿錘二万円ヲ費サレシト聞キシガ今度韓帝五十 ノ孜莚ハニ灯万元ヲ喫スル由劣ヘテ見ル程妙ナ心持ニナル  今年ノ夏渦鹿二熱クテタマラズ新聞ナドニテ人ノ旅行記ヲ見ルトキ 冊モチョイト旅行シテ児ヨウト思7気ニナルソレモ場合ニョルガ谷川 ユ カタ ノ片二激スルヤウナ涼シイ処ノ偉二小亭ガアツテソコデ浴衣一枚ニナ ツテ一杯ヤリタイト思フタ  ニパニアル楽入ノ紀行ヲ見ルト伍〕西瓜ヲ食フテ居ル羨マシイノ何 ノ一フ、  人坂デハ鰻ノ井ヲ「マムシ」トイフ由聞クモイヤナ名ナリ僕ガ大坂 巾長ニナツタラ先ヅ一番二布令ヲ出シテ「マムシ」トイフ育葉ヲ禁ジ テシマウ  米国大統領マツキンレーハ狙撃サレタ緒果終二死ンダトノ報ガ来タ 無政府党トイフ似ニツキテハ非常ノ疑ガアル ’ 。一ノ 、・ “ノ 風什来ル火二乍餐ブクフ , 7リテ’ ノノ 皿竹ムル左千犬褒郎戯真来ル晩餐(鰻飯) 夕飲舳付本N子来診 九月十七口 晴 ヒヤ〃スル  棚 粥。二碗 佃点 余良潰 梅f 織帯取換及便適 ヲ共ニス 牛孔七勺欣、、ア人アンパン一ツ典戸パン一、− カ■ソ ] カ コ 保一粥一二碗 鰹ノサシミ 零朱r 余良潰 梨一ツ タヲイスカレー、、一碗ヌカゴ仙煮ナラ波 体温。二十七度三分 ツ プ 一1く ■ ’’ 。一ノuノ : † ケ 繊帯取代後伜四谷加藤へ行ク加藤転居後始ノテ行クナリオ土産ハ例 ノ笹ノ雪 野老氏二酬ユ 石ノ巻ノ長ト郎ガ兄 晋ヲ児搾フ長十邸ガ 家人ノ秋海火ヲ判ラントイフヲ制シテ 秋海菓二鋏ヲアテルコ 大阪青仁二酬ユ 余良漬ノ秋ヲ忘レヌ 欲睡 秋ノ蜘叩キ殺セト命 準 多 友 ・3 力 力 ナ ナ  ナカ ト勿レ 誠 力 ジケ )・ 二。二日前チギリシタ顔(実物大) 永 材 詞 餓 広 虫カノ 苛→ ’ ’ 一茸、十 華 ナ リ 隻臨。・ 、裏へ 節ヨリ送リコシ粟ハ実ノ入ヲデ悪キ菓ナリ 葺、 ■。理・ 、籔、 喪灘 一証莱姦警薮蟹o L求 た皿 nツ 、一‘ 人 原 n { 7 汚  火心ノ山倹ヒ菓ソモラヒケリ p 芋 艮 『  fモウトノ帰リ遲サヨ圧N月  旺トニ人イモウトヲ侍ツ枚寒カナ つ  タ顔ノ実ノ太ケクニ堪煤二口鼻ヲカ・バ人トナランカモ サウ■ノ 伜帰ルオ上産ハパインアツプルノ鑑討ト索麺 九月十八口 精 寒シ 朝柊暖計六十七皮  靭 体温三十五度四分 粥三碗 佃煮 ナラ潰 便逝及繊柑取換  仏 飯二碗 粥二碗 カジキノサシミ 南瓜 ナラヅケ 梨一ツ 便通 午乳コ・ア人 ネジパン形菓子パン半分程食フ堅クテウマカラズ 困テヤケ糞ニナツテ羊謹菓子パン塩煎餅ナドクヒ 渋茶ヲ香ムアト苦シ 一一 」、』 ヲ  タ粥一椀余点松狐少シクフ佃煮ナラヅヶ悔十庶茄ゴ葡 …陶 一ノ  夜便通 サ・二・ ユ貞ソ“ 今勅延二堪ヘズ(咋夜ハ左足ノサキ終ニアタ・マラズ)湯婆ヲ入 レ ノ 稲竹山入来訴、少シ話シタル政力片シクナル山人ハ根沖方角二帖肘 セリト炎術…γ校改革ニツキ職ヲ辞シタル”アリ 一、 一 独知尻十火ル繊柑収換中ニテ帰ル  庭二川来タ〔ハ一ツノ栴瓜ヲ取ヲシム  午後雌戸来ル晩飲7クフテ帰ル嘘子ハ凡以坂上二伝併セリ家斯シ家 賃ト六円ナリト  晩飯後腹ハリテ片シ四五円舳ノ堆ヲ旧シテ呑ム  伊豆修禅寺ノ岡箆ヨリサラシ飴ヲヨコス  母佃者……只ヒニ行カル  シヤツ肯畑換、蒲咄収換、寒サノ川音心ナリ  坂本町祭ノ太鼓聞ユ  ハ 一十十。,”イ  破璃窓外凧二三点 一キ  犬頻リニ吠ユ  隣ノ時計九時ヲ打ツ 九月十九口噛 便通  靭蚊 粥。一、腕 佃点 余良演 カ ノ 「」  午飯 冷飯、一一碗 堅魚ノサシ、・、 梨一ツ葡萄二珂  咄食 牛孔五勺コ、ア入 典子バン 便逝及継椛収跨 ・r{ウL、  晩飯 粥三碗泥鮒鍬 キヤベツ ツ 味蹄汁サツマイモ佃煎 ・1’,、。r もunい, ±一目一負 ポテトi !L 上,』 1」‘ ツ 。声・辿迂 ノ”上ーむ 余良潰 渋茶 梅十梨一 ナ一、  ツク・・ボウシ猶暗ク O迫込ノ小鳥雌ク O川ノ子供肺ク Oド コヤラノ汽笛嶋ル(午時ノ最)  n分ガ旅行シタノハ排生時代デアツタノデ旅行トイヘバ独リ淋シク ア ’ 歩行イテ宿植デ独リ淋シク心ルモノヂャト思フテ吐ル。ソレダカラ到 ル処デ歓迎セラレテ仰馳止ニナルナド・イフ旅行比ヲ北ルト茨マシイ  兵, ノ妬マシイノテ、 /’口†  奥羽行脚ノトキ島海山ノ横ノカノ阯トカfフ処デ、ノツタガ海ルノ松 原二γル一杵{氷二トマツクコトガァル一〔以…f片、歩一。付イ。ナ火タノデ 68 カヲダハクタビレキツテ居ル此松原へ来タトキニハ鳥海山ノ頂二値ニ ト一ア タnガ彼ツテ居ル時分ダヵラ迷モ次ノ駅迄行ク勇気ハナィ止ムヲ得ズ 此惟シイ一軒家二飛ビ込ンダ勿論一軒家トイフテモ旅人宿ノ看板ハ掛 ケテァツタノデキタナイ家ナガラニ階建ニナツテ居ル、併シコ・二一 軒家ガアツテソレガ旅人宿ヲ常葉トシテ思ルトイフニ至ツテハドウシ ア 、タチ ハラ テモ不思議トイハザルヲ得ナイ安達ケ原ノ鬼ノスミカカ武蔵野ノ石ノ バクナ ヤト 枕デナィ処ガ博蛮宿ト淫売宿ト兼ネタ処位デハァヲウト想像セヲレタ 自分ガコ・へ泊ルニツィテ懸念二堪ヘナカツタノハソンナコトデハナ ィ食物ノコトデァツタ連ロノ旅ニカヲダハ弱ツテヰルシ今ロハ殊二路 端へ倒レル程二疲レテ居ルノデアルカラタ飯ダケハ少シウマイ考ガ食 ヒタイトイフ注文ガアルノデ共注文ハ辻モ此宿蛙デカナヘヲレヌトイ アル フコトデアツタケレドモモウ一歩モ行ケヌカラソンナコトハアキヲメ モト ルトシテ泊ルコトニシタ固ヨリ門モ坦モ何モナイ家ノ横二廻ツテトメ }ント テクダサイトイ7タガ容ラシイ者ハ居ナイヤウダカヲ自分モ屹度コト ワラレルデァヲウト思フタ、処ガ意外ニモァガレトイフコトデァツタ ワ 三戸 草鞍ヲ解イテ街道二臨ンダ方ノニ階ノ一室ヲ占メタ烏海山ハ窓二当ツ ク貞ヒレ テヰルソコデ足投ゲ出シテ今ロノ草臥ヲイタハリナガラツクぐ・此家 ノ形勢ヲ見ルニ別二怪ム、ベキコトモナイ十三四ノ少女ト三十位ノ女ト ン ロ イ ニ人肝ルガ極メテキタナイ風ツキデオ白粉ナドハチツトモ無イサウシ ス カ キ テ客ハロ分一人デアル、ナド・考ヘテ居ルト膳が来タ驚イタ酢牡獺ガ アル椀ノ盗ヲ取ルトコレモ牝蠣ダウマイ …非常ニウマイ新シイ牡 燭ダ実二思ヒガケナイ一軒家ノ御馳定デアツタ歓迎セラレナイ旅ニモ コノノユ H辿種ノ與味ハァル シキ  長塚ヨリ鴫三羽小包ニテ送ル由ノ報来ル共水二 も す むく 咋今秋もや、つノ\けしき立申候百市も鳴き山し候椋とりもわたり キ ’’ 申候蕎左の花{工、ろ/\咲出し候…の出来は巾分なく秋蚕も珍し ム、工一りに候 トアリ田舎ノ趣児ルガ如シ一寸往テ見タイ  蝕ハ稲ノ一穂ヲ枕元ノ畳ノヘリニサシタ モク ネノ ヘ チ マ 黙然ト糸瓜ノサガル庭ノ秋 夕顔ノ感二及バザルフクベカナ ヒ 牙ヒ 、項ナ H掩棚糸瓜ノ蔓ノ這ヒ足ヲズ 美人ノ阯。以持チタル図 絹団扇ソレサヘ秋トナリニケリ  タ飯後鴫ノ小包到童二羽一ク・リニシテアリ 淋シサノ三羽滅リケリ鵬ノ秋  家賃クラ、べ 虚子(九身上)十六円 瓢小(砺町)九円 桝怜例(猿楽町)七 ン ハウ揖 円、五十銭 四方太(浅嘉町)一五円十五銭 風竹豹軒同肝(上野涼 哀院)二円五十銭 ワナイ’リ 吾腰(上椴林鴬横町)パ円五十銭 ホト・ギス小脇所四円五十銭 、 リノ ト ン’ 把菓(大久保)四円 秀真(木所、漱町)四円(挫煙具ナシ)  自分ハ一ツノ梅。†ヲニ皮ニモ三心ニモ食フソレデモマダ捨テルノガ 貞手 惟シイ梅千ノ核ハ幾度吸ハブツテモ猶酸味ヲ柑ビテ居ルソレヲハキダ イ カ メニ捨テ・シマウトイフノガ如何ニモ舳クテタマラヌ  貴人ノ膳ナドニハ必ズ無数ノ残物ガアツテアタラ掃溜二捨テラル・ 廿カナ ニ運ヒナィ有ノ竹ニハ肉ガ沢山ツィテヰルデァラウ味附汁トヵ吸物ト カイフモノモ皆迄ハ吸ヒ尽シテナイデアラウ斯ウイフ宥コソ真二天物  ハ“ナン イ カノ ヲ嬰何トカスル考ト謝フベシダ之ヲ伐孤児阯トカ養育院トカニ寄附シ テ咬ハスヤウニシタラ醤イダヲウH分ノ内一7一モ午乳ヲ捨テルコトガ度 度アルノデイツデモ之ヲ乳ノナイ狐児二香マセタラト思フケレド仕方 ガナイ何力斯ウイフ処へ述絡ヲツケテ過ヲ以テ不足ヲ補フヤゥニシタ イモノダ  兵営ヤ学校ノ賎飯ハ黄尺ノ生命デアルトイフカラ家々ノ残飯モ災、一 テ廻ルワケニ行カナイダヲウカ。サウ思フト犬ヤ猟ヲ飼フテ午肉や鰹 7川 節ヲヤルナドハ州来タコトデナィ小鳥二巣ヲヤルサヘ無益ナ感ジガス ル ・籔響拍疲 触 没 臥 ” r イ 69  穴内省ノ概桜ノ御宴ナドガ雨ノタノヤミニナツタトイ7ヤウナ場合 ニハ凧恵シテアツタ御駒定ハ養育院孤児院ノヤウナ処へ下サルトイフ コトデァル 干ソ。チユウ  松山デ何ガシガ孤児院ノヤウナモノヲ開イタラ若イ文学生ガ饅頭一 袋持ツテ来テ名ヲ一一一一]ハズニ偏ツタサウナ 九ハニ十H 螢時ミ雨  靭 ヌク飯三碗 佃煮 ナヲ漬 ヤキノキ  午 粥三ワン 焼鴫三羽 キヤベージ ナラ漬梨一ツ  間食 牛乳一合コ、ア入 菓子パン大小数個 塩前一餅 便通及織帯取換  晩 々平鮮ニツ三ツ 粥二碗 マグロノサシ、・・ 煮茄子 葡萄二崩  夜 林檎二切 飴湯 十時半寝二就ク 葡萄 ナラ潰 フタロフ 咋夜ト野ノ臭嶋ク ケミ  週報募集俳句(魎商)ヲ閲ス 「俳岨」ヲ皃ル露ハノ日紀アリ共近状ヲ知ルニ足ル我u紀モ露月二見 セタシ  同雑誌牛伴選天ノ句二 草二火ヲ洛シテ行クヤ虫送某 トイファリ趣無シトイフニ非ズ月並開二近キヲ嫌フ  杵堂遺人ノ句ニ ゴ エ モソプ ロ カリ 草二据ヱル五右衛門風呂ヤ雁ノ声 某 トイフアリ面{キ句ナリ併シ格蛍未ダ俳句ノ品格トイフコトヲ知ヲズ ト見エタリ但彼ノ作〃所 カリ 芋ノ葉二咋夜ノ雁ノ涙カナ 楕堂 ンヨコ回 サソコク 目 松焦掘ツテ山谷ノ廠ヲ叩キケリ 向  遙カニ俗流ノー二三出ヅ侮ル、べカラズ  露ハ逃地ノ句二 守キ 辛 草花ヲ児ツメテ庇ノ憂寝カナ 某 トイファリコレ位初心ナ句ヲ露月ハ俗兇ワケザルニヤ鋸月モト鈍根、 長クエ夫シテ漸ク一条ノ活路ヲ得タル著シカモコ・二多少上慢ノ心起 守タ リテ復一段ノ進歩ヲ見ズ平凡ノ趣微細ノ趣ハ未ダ余ク解セザルガ如シ 猶三折ヲ婆ス  タ刻左千夫杢眈ノ与平炸一折ヲ携ヘテ来ル  上野ノ森ノ臭シバシ鳴イテスグヤム  虚子ヨリホト・ギス先月分ノトシテ十円送リ来ル  律ハ理窟ヅメノ女ナリ同感同愉ノ無キ木石ノ如キ女ナリ畿務的二病 人ヲ介抱スルコトハスレドモ同愉的二病人ヲ慰ムルコトナシ病人ノ命 三ンキョク ズルコトハ何ニテモスレドモ娩舳二孤シタルコトナドハ少シモ分ヲズ 例ヘバ「団子ガ食ヒタイナー一ト病人ハ連呼スレドモ彼ハソレヲ聞キナ ガラ何トモ感づヌナリ病人ガ食ヒタイトイヘバ恭シ同情ノアル舟ナヲ カノ 、バ直二買フテ来テ食ハシム、ベシ偉二限ツテソンナコトハ竹テ無シ故ニ モ 芳シ食ヒタイト思フトキハ「m、†皿フテ来イ」ト向接二命命セザルベ カラズ直接二命命スレバ彼ハ決シテ此命令二違背スルコトナカルベシ 共理窟ツポイコト一一。臼諦逝断ナリ彼ノ同情ナキハ誰二対シテモ同ジコト ナレドモ只カナリヤニ対シテノミハ真ノ同価アルガ如シ彼ハカナリヤ ノ籠ノ前ニナヲバ一時間ニテモニ時…ニテモ只何モセズニ眺メテ居ル ナリ併シ病人ノ側ニハ少シニテモ永ク留マルヲ厭フナリ時々同情トイ フコトヲ説イテ聞カスレドモ同価ノ無イ考二同帖ノ分ル帯モナケレバ イ孕 一カ’ 何ノ役ニモ立タズ不愉快ナレドモアキヲメルヨリ外二致カモナキコト ナリ 0 ,’ /多㌢虹嶺〆釧萎 ーグ修汽4{食倉蓼 ム孕て 4 よ 弧代◇ 二参プF 蚊りゑ 洲 。久つ乏 々七/\小 穴れ具蛋 掴ワ 心v, ‘ 1、、、、呈!5、。き早章!〃’ 管芦呼土Jノ/ 、 允人で足む 九月二十一H 彼津ノ入 咋枚ヨリ朝二カケテ大雨 夕哨 便逝、織柑wトリカヘ  朝 ヌク蚊一ニワン 仰点 梅干 牛乳一介コ、ア人 菓子パン 塩センベノ。  午マグロノサシミ粥ニワンナラ潰棚桃煮付人根モ、、、 一ツ 迎胴一 f、〕  m食 餅災ゴニ一佃 典チパン 抜”、ンベイ 渋茶 食辿ノクノカ…汽シ 晩キスノル㌧吃フキナマス。雇ナラ波サシミノ残リ ニ、。氾リ、。ノい河ゲ螂一、1.J 一−砺・雪一・ 、ーメー二〃 律ハ強情ナリ人間二向ツテ冷淡ナリ特二男二向ツテ。。写ナリ彼ハ 到底配悩右トシテ世二立ツ能ハザルナリシカモ典少ガ原Nトナリ。ブw ハ終二児ノ石病人トナリ∴レリ若シ余ガ柄後彼十カリ♪、バ余ハ今岨如 “ニシテアルベキカ看謹帰ヲ長ク雇フガ加キハ我ル屹ク為一へ町ニルズ、 シ雇ヒ得タリトモ偉二勝ル所ノ乃謹婦即チ伜ガ為スζノ詐フ為シ得 ル看誰婦アルベキニ非ズ体ハ行謹婦デγルト同時二才。一一ドンナリオ、1一 ドンデアルト同時二一家ノ柊理役ナリ一衣ノ格川役デニ山w二余 i。・r芋■ ノ秘オ〕ナリ市〕船ノル納県納ノ浄只Nモ不{九企ナガラ為シ居ルナリ而シユァ 彼ハ万謹婦ガ請求スルダケノ盾誰料ノ十分ノ一ダモ淡サザルナリ抄煤 ニテモ香ノ物ニテモ何ニテモτ”ノラバ彼ノ食狂ハ了ルナリ肉ヤ有ノ 買フテ白Uノ食料トナサンナド、ハ砂ニモ思ハザルガ如シ花シ一nニ テモ彼ナクバ一家ノ巾ハ共運転ヲトメルト同時二余ハ殆レド火キテ阯 ラレザルナリ故二余ハ〔分ノ病気ガ如何ヤゥニ募ルトモ厭ハズ只彼二 病無キコトヲ祈レリ彼在リ余ノ病ハ加何トモスベシ若シ彼、柄マンカ彼 モ余モ一家モニツチモサツチモ行カヌコトトナルナリ故二余ハ常二彼 二病アランヨリハ余二死アランコトヲ架メリ彼ガwビ嫁シテ再ビ火リ 註偉トシテ阯二、サ一−能一ザ㌻珊一」シ一舳一児ノ嘉人ト ナルベキ運命ヲ持チシ為ニヤアラン禍袖錯綜人皆ノ寸知スベキ一ニノ、フ ズ ○ 秋ノ蜘蝸タ・キ皆破レタリ 病室ヤ窓アタ・カニ秋ノ蝸 4木凶上悉竹火仏 オク 糸瓜サヘ仏ニナルゾ後ル、ナ 心リ〜ヤタ頗ノ顔一チマノ此  彼ハ附膝痕ザリ独悩ナリ気ガ利カヌナリ入二物…フコトガ嫌ヒナリ 折サキノ仕がハ慨メテ不排川ナリ一直キマツタ恢ヲ改良スルコトガ山 来享リ彼ノ欠点一掌一㌣ラズ余一時−シテ苧掌ンー、一フ程  二腹立ツコトアリサレド其実彼ガ納神的不几?、デγルダケ一州彼フ可 愛ク思フ情二堪ヘズ他n若シ彼ガ独リデ“二立タネバナヲヌトキニ彼 1妾−観罰41■ 表 灸 鴨ユ 、羊 リ 匝 u .工 f 1 7 ノ欠点ガ如何二波ヲ片ムレカ}思フタ・二余ハ成ルベク波ノ州価化フ 政メサセント柑二心ガケツ・アリ彼ハ余ヲ久ヒシトキニ果シテ余ノ訓 戒ヲ思じ州スヤ否ヤ  病勢ハゲシク片痛ツノルニ従ヒ我思フ通リニナラヌタメニ絶エズ滴 癩フ起シ人ヲ叱ス家人思レテ近ヅカズ一人トシテ看病ノ真意ヲ解スル 斤十シ ’ ノ ノハく  陛奥稿堂仇橋白侍ノ如キモ病勢ツノリテ後ハ腰細君ヲ叱リツケ々 』ト ○  。一−人焦ツテ菓子クフ  行県ヨリ約來ノキスヲ持ツテ来ヌトテ母看屋二行カル ヘf寸セ大  札Hノ〔糸瓜糊ニアリ 、史亡  向ツ家二一崩ノい尸ス  今Hハ小帖水汲、ミニ火ズ  砕綿買ヒニ行ク  晩餐後ハμ二収気ヲ催スヲ惟トスサレド余リ小ク痕テハ夜半以後二 心ラレフ憂アリ故二成ルベク長ク起キテ居ルナリソレデモ八時過ニハ 班ルコト彩シ消化ノタメニモ少シハ長起ガヨキナリ 九月げ二]崎 便通及ホウタイ収換  棚 ヌク飯州ワン 佃斤… ナラ波 葡萄三湯  午 マブロノサシミ粥一碗半 ミソ汁 ナラ潰梨一ツ 吏節一 f、」  間食 乍乳、へH」、ア人 典子パン 竹巾ゾブ・・スル体温川七皮ヒ分七価膚ル汗少シ出ル  タ 粥。。ワン 鮒跳 雌茄子 サシミノ残リ ナラ漬  閥一㍗火ウ雑七阯ギハヅォグ断閉紀サト、ハfカスト千フ  啄下代r・来ル川崎二煩マレタリに⊥干葡萄。鰍…ヲ持一ア来ルコレカ一7八■ ;、。ク 七 』』 戸へ往クナリトテ〔ラコネタ木児ノ香盆(マゲ娩カヌ)ヲ見セルソレ カラ蒔絵ノ話ヲ聞ク 灼カ 椎ノ内ニナツテ故郷二帰リケリ 阿波人ハ阿波ノ和撲ヲヒイキカナ 大関ニナラデ老イヌル狗カカナ 大関ト大関ト組ム灼力カナ 幾秋ヲ負ケテ老イヌル角カカナ 角力取二角力坂ノ∫モナカリケリ マハシ菅ケテ子供灼カノ並ビケリ  朝左ノ足冷エテ旧…マラズ温メカタぐ、按陣セシム f 「、f ハ  タ飯頓蔑郎秋水人団扇ヲ携ヘテ米ル^洋一一。尺介秋水ノ河アリ(我々 炊仲舳ノ盆蝋リスル様) ーク回ノ  H未ダ介ク煤レヌニ臭仰院殿ノ方二当リテ鳴ク 「千松沁一ニテ々ノ句ヲ見ル 霧ナガラ人キナ町二山ニケリ 移竹 早ナ。;  余多年此感アリテ句ニナラズ今此句ヲ児テ虹二移竹ノ抜怖二篤ク困  ノーフ ニ。ム此唄所々二移竹ヲ命ズル所…ヅ杵〔Uノ創児ノ如クイフサレド移 坦イ一 カラノ 竹9論ジタルハヘ小ガ太砥愉ノ中二^キタルガ恐ヲクハ鵬矢ナヲン 九月片一一日 崎 寒暖計八トニ腹(乍後、一。時)  未明二家人ヲ起シテ使通アリ ク ル ニ  靭 ヌク鮫一。ワン 仰斤… ナラ{似 削桃怜各… 便通役織柑トリカヘ 腹猶帳ル心持アリ 乍乳五勺コ、ア人 小菓数胴 カ ノ ヲ  午 堅魚ノサシミ 、ミソ汁実ハ王葱ト芋 粥。一ワン 72 ナラ波 佃煮 梨一ツ 葡萄四冴 舳食 午乳元勺コ、ア人 コ・ア湯 菓子パン小十数個 塩センベイ 一、一枚 夕 熔瞭川尼粥一ニワン 7ヂ豆 佃粛 ナラ潰飴二切 。{ ] 1 巴珊浅外氏ヨリトノ如キ平紙来ル  五月雨ヤ大河ヲ胸 トイフ句ハ遙カニ巡歩シテ舳ル 二家 千 ト聾 寸 車 ,郁“ ↓’− 1 へ ほとゝぎす 咋日雌r汀の消思を“肌み泣きまし たこの閥はグレiと。ムふ田命の“凡 色なり獅病床の御慰み迄韮上候 木魚生 只今は帰りがけに巴里によりて。遊 尻候其内に帰朝致久振にて御伺中 すべく将候御左有英後いかゞ被為 入候哉  三十四年八月十八 呉秀一、一 本日呉煎等と木魚老の寓をたゝき 談笑時を移し賛下の御噂なんどい たし候未だ拝眉の栄を得す候へど も折角御加養御快癒の税乍蔭奉祈 上候 和田英作 私も未だ御目もじしない者ですが 同席しましたから御見舞中上る栄 を偽たのてす 満谷国四郎 ○ サ ・: 虫 レ 五月胴ヲアツメテ早シ最上川 芭蕉  此何俳仙ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今口迄 ★今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今ロフト此句ヲ思ヒ出シテツクぐ・ 卜考ヘテ見ルト「アツメテ」トイフ訊ハタクミガアツテ妊ダ血〔クナ イソレカラ見ルト 九月汁四口 秋分 順  便通及納山w収力へ  朝飯 ヌク飯、ニワン 佃浄… ナラ漬 牛孔コ、ア人 センベイニ枚  乍飯 粥三ワン カジキノサシ、・・ 半 ナラ波 梨一ツ オ萩二一ケ ー。 垣 正升  間食 餅菓チ一ツ 牛乳五勺コ、ア人 牡丹餅一ツ ンベイ 渋茶一杯  夕体温柑七度七分逃暖計七十七度 ナマサケ 生鮭照焼 粥ニワン フジ豆 ナラ潰 葡萄  夜便通ヤ、堅シ 餅典チノ 、止 月 菓、†バン瓶セ フサ 十七フ パ コ  朝欲以大叔母御来ラルオト産餅菓子  ク「 戸’。ノ  陸ヨリ白製ノ牝片餅ヲモラフ此方ヨリハ災子県二跳ヘシ牝ル餅ヲヤ ゴ一ロ ル菓子屋二跳ヘルハ付シカラヌコトナリサレド衛欠的ニイハ“病人ノ 内デ推ヘタルヨリ談ヘルカ宜シキカ何ニセヨ牝〃餅ヲヤリテ牡丹餅ヲ モラフ彼痒ノトリヤリハ馬鹿ナゴトナリ オ萩クバル彼体ノ使行キ進ヒヌ 梨腹モ牡丹餅腹モ彼阯片カナ 餅ノ名ヤ秋ノ彼片ハ萩ニコソ 四ヘマハル秋ノH影ヤ糸瓜棚 カウにン  廿同橋ヨリ辛便二佑州ノ氷餅ヲ贈リ来ル  芭焦ノ アラ海ヤ竹渡二被タフ人ノ川 はせを キ、{ トイ7何ハタクミモナク疵モナケレド明治ノヤゥニ複雑ナ世ノ巾ニナ 手葦藩鑑一 乗 (吏 螂乂 、〜 火 ” 口 r 寸 73 ツテハコンナ簡wナ〜ニテハ派川スマジサリナガラ 霧ナガヲ大キナ町二出ニケリ 移竹 ノ如キ趣二至ツテハ却テ解セザル者多シ ア ル  此朝ノ着イ人ハ歩行ク旅行ノ趣ヲ解セズ 坦イ干  此唄地方ノ俳句雑誌ヲ見ルニ東京ニテハ太砥ノ流行ヤンデ召波二移 レリナド誇ケリ片ハラ痛キコトナリ余等ハ諦子ノ句中太砥ヲシキ句一 句モ見タル・コトナク且ツ召波調ノ句トハドンナ句ヤラマダ研究モト寸 ス カヌニサテ、、棄バシイコイ世ノ中ナリ  昨年ノハジメ頃ニヤ余 カヘ マゥ、テ ノビ・寸シ帰リ詣ヤ小パ月 トイフ句ヲ得テイクヲカ太砥メキタルヤウニ思ヒ始メテノコトナレバ ウレシク之ヲ十句集二出シタルニ一点モツカザリキト覚ユ  ハク、ノソ カヘツ  麦人モ太砥好ナリ此男普適才子ノ如ク敏捷ニナキガ却テアル趣二入 ルコト深シアル時来テ カハリ サソハレテ衷ヲヤリケリニノ措 ケタ トイフ余ノ句ヲ短冊二冴ケトイ7盗シ其太砥調ナルヲ以テノ故ナヲン 共時彼ノ句モ聞キ面白シト思ヒシガ忘レタリ  太砥ノマネスルトイフテモ彼ノ集中第一流トモイフベキ句ハマネラ ル・宥ニアラズ其以下ノ句ヲマネルナリ 多 イ 一“ 、“ サ一 運 箪 シ杖ヱ 人ノ フ } i タ イヘ 家ヤ ノ実ヤ モ堪モ シ秋海巣ヤ寝 家 ノ 半 飛 ノ 、、一’ 聖。阻 』 、 ビ 十 煮 ン 。・一ン 寺一 夜八時頓左向ク頻リ一 ヤ半ノ 肌ノゴ 一 ■  エ テ居 デ小僧ノ モ内二 テ見ユル 十皿程 ヤ台所 ル台所 ロニ入ル カ ヤ 秋ノ蚊帳 俳句ヲ考ヘツ・アルニ俳気サ・ズ眠気ザシテ ナヲズ逐二眠ル左向ニナレバ直二眠タクナルナリ 九ハ廿、九H帖  朝寝ノ気味アリ  朝飯 粥三ワン 佃煮 ナラ潰 乍乳コ、ア人 菓、ゴパン小。一  便通ト繊得取力へ  午飯粥四ワン カジキノサシミ 、・・ソ汁小、七一伽戸 ナラ潰 γミ旧 煮梨一ツ餅菓子ニツ  間食 菓子パン 塩凧餅 餅典子一ツ オハギ半個 牛孔九勺コ、 ア入  夕体温冊六度九分 ワ カ ノ ク 心 ; 鯛鮒 若和布ニハイ酢 鵬鈴蒋 例桃 ナラ潰 アミ帆点 粥三ワン 葡萄一フサ 一、ケ{ノ コ エに  高浜ヨリ小包ニテ曲物一側送リ来ル小鯉ノ仙魚ナリ舳uγ、・)仙点 此辺ニナキコト雌子二話シタル故ナリ  午後三人集ツテ菓子ヲクフ ワラヂ  南品川中村某ヨリ朝鮮ノ草帷トイフ折ヲ蝸リ火ル 天津ノ肋什ヨリ 來リシハガキノ半分 勿 知 ,、 、三奮争切差 ブ 7 ’ ■ − 少λ且ケ4男 途ノ切ノ締三 きゞゑ料介珊 〃 コレハ{…H池内氏ヨリ 贈ラしクルカン語ノ外 支ノ紙製ノ袋ノ側血也 (俄㌶㍗一詠酌誇び訴) ] ピ ’  此紙ノ棚二今ハ方一寸仇ノ脱脂綿ノ小片沢山人レアリコレハ毎H歯 ’ ヰ 齪ノ膿9押シ出シテハ此綿ノキレデ拭ヒ取ル十リ  珠毛ヲ摘ム 一・。 ↓ノ、』 へ‡ 。  庭ノ棚二夕顔三ツ瓢一ツ干瓢三ツソレヨリ少シエ、フエスニ糸瓜バカ Uハィクラデモフェル今一十見タトコロデ大小十三税アリ  今宵珍ラシクタ顔ノ花一ツ咲ク糸瓜ノ花モ最早ニッ三ツ児ユルノ、・・ トナレリ 、ヤ  ヒグラシノ声ハ疾クヨリ聞カズツク・・ボウシハ此頃聞エズナリヌ  木雌ノ御馳定食フテ児タシ  タカ臭御隠殿ノ方二鵬ク  ガ羊ヤノー庭前ニテヤカマシク脇ク此虫秋ノ舳メハL餅ノ戌ノ一−一ト 思7アタリニ一ア廿ワガシク鳴キ共後次第ミミニ近ヨリ来ルコト侮年同 ジコトナリ 九川廿六u 公 午後小。心  靭 ヌク飲四ワン アミ佃煎 ハゼ佃煮 ナラ波粛瓜)  納血w収汁及便通 午乳。今、一、一、入餅災子一胴半双子パン 机センベイ  乍マゲロノサシミ州桃ナラ波、ミソ汁∵。一サζ工。梨一ツ  …灸 葡他 才ハギニツ 災、†バン 抜センベイ 渋茶  便通  タキヤベツ巻一皿粥三ワン八ツ煎サシミノ妓リナラ潰 ア、・・佃点葡萄十三粒 ’ ・ ・1 。/ ’ ’ 一一ノ  虚…ヨリ義仲与ノ刷物一、。枚送リ来ル舳二猟、∵ニモヲヒタ〃卜典ナリ ]タ  家人吊外ニアルヲ大声ニテ呼ベド応ヘズタメニ痢織起リヤケ版一一ナ Uテ牛乳餅菓、ゴナドヲ資リ胸ハリテ片シ家人股外ニアリ。ア低声二話シ ヲル共{ハ病休二岬ユルニ病休ニテ火{二呼ブ其声ガ屋外二閉エヌ理 ナシソレガ岬エマハ不汁遺ノ欣ナリトテ家人ヲ叱ル  午後家狂…焚合ヲ…ク蛛衣ヨリェ。ラヒシオハギヲ食7  週報班集俳句(フクベ)ヲ脚ス 角守4,  小車ノ盆栽二蛛。螂ノ居ルヲ共マ・二枕。几二持テ火。アオク  咋日エ、今nモタ飯食ハヌ内ニハヤ眠タキ気味アリ此棋様ニテハヤガ テ径モ夜モウツラ、、、トシテ〔氾はHクノモイヤニナルヤウナ吋来・7 ンカト…じフ  新聞雑誌ヲ見テ面白シト思ヒシコトノ今二脳裏二彼リ居ル折ープ試二 列一卍センカ 共。 イハ ー 1一 ビスマルクHク新附トハ紙ノ上ニスリツケタルインキナリ 共。一 Hクオ山ノ大将Hク総倣ノ供パHク石部企★Hク人〜雌三太郎H 一 1く ク知ラヌ顔ノ半兵衛Hク概兵衛Hク助、半Hク何Hク何流々タ〃多 ー二 【 典一二 黒船浦坦二来リシ時ノ爪〜 オドカシテヤツタトヘルリ舌ヲ山シ 共円 川伶芝いノ雌台ニテ大郷ノ役斤ガセリフヲ川ツ。7一一(〜ゾ・でソト キ一人ノ役汁ガ次ノ役仔ノセリフヲイフテシマレ、シニ次ノ役リ川ハ 何トイフベキスベモ知ラズ、惑山、シガヤガテHク 申’ ヤ 拙考ノセリフガゴザヲヌワイ 。、、、急藩蟹竃竈2o 豪 介舳’ 日乏 、子 玖 匝 口 r { 75 む、・L l一’ア」 、’ノ司一」へ 早ノ十 山我山和尚人舵与ノ泉水ノホトリヲ敵歩シ阯リシニ丁稚ラシキ考来 Uテ、和尚サン此池ノ級すクレンカ、トイフ和尚イフ、コノ池ノ 山り’ 希坂ツテハナラヌゾ、丁稚、fフ、ソンナコトイフテ才舳ガ収 ルノデハナイカナ、和尚、イフ、抜山モコノ返杵ニハ困ツタワイ ’ 」」 ト、和尚必、†二甜テ円ク何トイ7テモ無我ニハ脇テヌゾヤ 仁、一、 。づ一ノ ■ ’ 伊藤侯ノ薩摩ド駄ガ桐ノ征デト九円、洛“家円遊ノ駒ド駄ガ何ト カノ鼻緒デ七円 九月廿七u 曇(陰熔八月十五H) 便通  朝飯 ヌク蝕四ワン ア、・・佃斉… ハ一山仙煮 ナラ波 ア八 菓子バン少ミ  乍飲 マグロノサシ、・・点茄、ゴ ナラ潰 粥、ニワン 六 カン諦ノパインアツブル 。hニリ  冊食 乍乳九勺コ、ア人 菓子パン躯舳餅十側許  タ少シ発熱ノ気味アリ測レバ朴七度七分 便通及…糊柑トリカヘ 牛乳五勺コ、 リ、 雪 焔菓ガ サツマ四ワン一ζ独㌣㌶鉛〃μ一訴紅講キ㌶じ 。ハイソ7 プル 校豆 アゲモノ一 カン誌ノ風梨 ナ 。一 七’も1  冊広徳十前ニテ擦巣石竹守ノ稲五六袋貨フテ帰ラル(媒巣ハ余ノ可 望ナリ)オ、・、ヤゲ焼菓一袋(十個入二銭)ハ上好広小賂パ阿弥陀へ参 。フレシ帰リ門“阯ノ賑店ニテ求メラレタリト企小、何枚ニモスコシ毎}川只 ハレザルカト問ヘバ余リニ^キ故ナリト “一 、、→。;。、一一、旦H、 トナ 。丁 ア ル  衷京ノ婦女ナ叶。二w市廿参ナド・称ヘテ山歩行クハ多ク料珊屋ニテ 飯クフカ少クトモ脊麦屋汁粉尿位ノオゴリハスルナリ手土産ヲ持チ帰 、。ノ チア ルハノ、フ小旭ぺ。一。ナシ■冷、、ハ一バノけ一八ヲ“ラ∵内/}“十一ゴ々マ・・{{グ 行クモ波草ナラバ仲{ヲ皿物シテ一銭力∴銚ノ花以一、一木以フ位二 過ギズ共叙何ニスルト…ヘバ凶ノ誰ソレニ迷ルナリトソンナ奴ワザワ ザ一二口皿ノ道ヲ送ラズトモ松山㌧モイクラモアルベシトイヘバサニア ↓一、 ラズ江、尸卜産トイヘバ普魁二拘デズゥレシキコト子伏ノ時覚エァリト ヤサシキ心ガケ、生渦ノ租度ハマダコンナ杵ナリ  浄名院(上野ノ伜院)二出入ル人多ク皆糸瓜ヲ挑ヘタリトノ誘、糸 一、一十ヒ ケ, 瓜ハ咳ノ薬二利クトカニテオ…几デモシテモラフナヲン董シ八月十五日 二限ルナリ  月無シ  ホト、ギス十二け来ル 九ハ什八日 曇 ユクソ一’  例ノ如ク湯婆ヲ人レル  靭飯 ヌク飯。ニワン ハノ、仙者… ナヲ波 牛乳菓、ナパン 便通及織柑 工。、  午飯 マグロノサシ、、、粥一ニワン 、・・ソ汁一ム一葱 アミノ佃煮 鰻 佃煮 梨一 術萄甘粒 、ノ ’。・’7 ’  問食 午乳 典子バン 塩センベイ カン諦瓜 梨 林檎一 便通 体温柑七皮パ分 カソ一一 工一  タ飯 牒一尼(十川銭)粥、、一ワン 焼茄子 アミ佃点 鯉佃煮 ブダウ一フサ ヤキイモ  鼻炎ヲセ、ル{外血山ル r一マ  午後秀真芳雨二人来ルニ、二〕前閑飲ヨリ帰リシトナリ  函飲ノ展覧会ハ損ニナリタルヲ土地ノ賛助蚊二出シテモラフテ事ス カゴ ヒ一ユン 、・、タリト肯森ノ林檎一擁オ、ミヤゲニモラ7(茂青卜三人連名)  イザヨヒモ月出ズ 閉 {。・ノケ 門附表ヲ流シテ通ル サツマ乍ヲ焼イテモラフテ食フ カ ヤ 此枚蚊帳フツラズ ワカレ  ニツ三ツ蚊ノ来ル蚊帳ノ別カナ  蚊帳ツラデ画美人見ユル夜寒カナ ユタソポ 九月げ九日 曇 湯婆ト懐炉ヲ入レル 便通及綿柑  寒暖計 六十七度  靭飯 ヌク飯四ワン アミ鰻個煮 ナヲ潰 牛乳五勺コ、ア人 菓子パン  午飯 サシミ 粥三ワン 、・・ソ汁 佃煮 牛乳五勺コ、ア入 菓子パン 梨一  舳灸 菓子パン 塩センベイ 紅茶一杯半  夕 体温朴七度三分 {十キ 鰻飯一鉢(十五銭)飯軟カニシテ菩シ 夜便通 ナラ漬 リンゴ 芋糠味暗潰  ハ 一ノ ハラ 把菓来ル長州へ行キ且ツ故郷二行キテスグ帰ルトナリ細君孕、、、シト ウ一ーヤ ナリ”子生ルベシトノ寸書ナリ天津ヨリ来リシ押絵一枚産屋ノカザリ ニト贈ル  午蝕ノトキサシミ悪ク粥モ汁モ生ヌ〃クテ不平二堪ヘズ牛乳ナドイ ロイロ命ル  イリタテオ豆食ヒタシ 「ホト・ギス」ニアル文ノ中碧楴桐ノ「宵士ノ頂上」ハ作者ノ手柄ト 見ルベキトコロハ無ケレド場所ガ場所ダケニ富士ヲ知ラヌ我等ニハ面 シ ハウ。タ 白ク読マレタ但緕句ハ非常ニマヅイ四方太ノ墓参ハ拙ノ又拙ナル者ヂ ヤ四方太ハ主観的懐旧談トデモ云ヲペキ者ヲ書クトイツデモ失敗スル 。−†一 。・ 一’ ■ 此前二洪水ノ懐旧談ヲヤツテ共時モ失敗シタ四方太先生チトシツカリ シタマヘ余リ凝リ過ギテ近来出来ガ悠イヂヤナイカ若シ又休ガ哀螂シ テ居ルナラバシツカリ御馳定ヲ食ヒタマヘ把菓桝デサヘ子ヲ生ムトイ 廿テ フヂヤナイカ扱紅緑ノ「下駄ノ露」ハ「宮士ノ頂上」ト同ジク作舟ノ エ夫ハ見エヌ併シ写生二行カレタ御★労ハ受ケ収レル若シ吉原十二時 トイフヤウニ完成シタラバ面白カラウ此「下駄ノ鋸」(コレハ吉原ノ 靭ヲ写シタルモノ)二就イテ思ヒ出シタコトガアルアルトキ一念二伴 ハレテ柳炊若二遊ンダ次ノ朝一念ハ心続ケスルトイフノデ淋山カブツ  7ヒカタ テ柵方トサシ向ヒデウマサウニ豆腐力何力食ツテタカラ〔分ハ独リ茶 屋へ帰ツテ共二階カヲシバラク往来ヲ児テ居タスルト共時横町カラ山 テ病院ヘデモ行クノデァラウト思ハレル女ガニ人蜘ハ人シャグマ、美 ウチカケ ア } シキ禰傭盾テ静カニ並ンデ歩行ク後姿二今出タバカリノ朝]ガ映ツテ 龍力何カノ刺繍ガキラ・・シテ舳ル之ヲ児テ始メテ善イ心持ニナツタ 吉原デ清イ美シイ感ジガ起ツタノハ此時バカリダ  夜二入ツテ呼吸苦シ ハナ ス・キ 芋ノ湯気団子ノ露ヤ花芒 虫ノ音ノ少クナリシ夜寒カナ 十三四五六七夜月ナカリケリ  先刻把菓ヨリ話アリ其時「臼本」文苑ノ俳句ヲ出ス事ヲ約ス夜一日 分ダケ送ル  コンナニ呼吸ノ苦シイノガ寒気ノタメトスレバ此冬ヲ越スコトハ娃  オポノカ ダ覚束ナイソレハ致シ方モナイコトダカラ運命ハ運命トシテ雌イテ医 者ガ期限ヲ明言シテクレ・バ善イモウ三ケ月ノ運命ダトカ半年ハムツ カシイダヲウトカ言フテモラヒタイ考ヂャソレガキマルト病人ハ我錐 一フク ヤ贅沢ガ5ハレテ大二楽ニナルデァヲウト思フ死ヌル迄ニモウ一度本 膀デ御駒走ガ食フテ見タィナド・云フテ児タトコロデ今デハ維モ取リ アハナイカラ困ツテシマウ若シコレデモウ半年ノ命トイフコト、ニアモ ナツタヲ足ノダルイトキニハ十分按摩シテモラフテ食ヒタイトキニハ 本謄デモ何デモ望ミ通リニ食ハセテモラフテ看病人ノ予モフヤシテ一 一。o −− 。止 i}% ,ハ 挙一動悉ク傍ヨリ扶ケテモラフテ西洋菓子持テ来イトイ7トマダ其 言葉ノ反響ガ消エヌ内西洋菓子ガ山ノヤウニ目ノ前二出ルカン語持テ 来イトィフト壬一目下ニカン語ノ山ガ冶来ル何デモ彼デモ言フ程ノ者ガ畳  へ, ノ縁カラ湧イテ出ルトイフヤウニシテモヲフ事ガ出来ルカモ畑レナイ  体温ヲ測ツテ見ル先刻ト同ジ(冊七度二分)  寒媛計モ朝ト同ジ(六十七度) 初新聞小日本ヲ起シコレニ関スルコトトナリ此ヨリ柑円同年七月小 日本廃刊「日本」ノ方へ帰ル同様柑一年初四十円二増ス此時ハ物価騰 貴ノタメ社員総テ増シタルナリ 九月三十日 晴  朝 ヌク飯三ワン 佃煮二種 奈良潰一茄子一 牛乳五勺英子バン 堆センベイ  午 カジキノサシミ 粥三ワン ミソ汁実ハ茄子 ナヲ漬林檎一ケ 半 便通及ホータイ取替  体温冊七度二分 サハラ  タ 鰭一切(十銭)小松菜ヒタシモノ ナラ潰(凪一粥三ワン 葡萄一フサ  夜 菓子バン 録 漫 臥 卯 { 77  咋夜十二時過ヤウ・・眠ル フク回フ  眠サム上野ノ菓嶋クドコヤヲノ飼鶴鳴ク牛乳ノ車通ル隣ノ時計四 時ヲ打ツ  明方僅二眠ル睡眠足ラズ シギ  午後大我来ル文苑俳句ノ事出雲へ旅行ノ事敏捷ナ小キ鵬ガ打テ・モ キジ 鈍ナ大キナ錐ガ打テヌ事ナド語ル  寝床ヲ暫ク坐敷二移シテ病室ヲ掃除ス  今日モ息昔シ  中凹氏新聞社ヨリノ月給(四十円)ヲ携へ来ル  明治甘五年十二月入社月給十五円。廿六年一月ヨリニ十円 寸七年  余書生タリシトキハ大学ヲ卒業シテ少クトモ五十円ノ月紛ヲ取ヲン ト思ヘリ共頓ハ学士トリツキノ月給ハ医学士ノ外ハ大方五十円ノキマ リナリキ共頃ノ五十円トイヘバ今日ノ如ク物価ノ心キトキノ五十円ヨ サテ リハ値打多カリシナヲン扱余ガ書生時代ノ学費ハトイフニ高等巾学在 学ノ間ハ常盤会ノ給費毎月七円ヲモヲヒ大学在学ノ問ハ同給費十円ヲ モヲヒタリ(此頃ハ下宿料四円位ガ静通ナリ)サレド大学べ入学以 ナイシ 後ハ病身ナリシタメ故郷ヨリモ助ケテモヲヒシ故一ケ月十三円乃至十 五円位ヲ費シタリ然ルニ家族ヲ迎ヘテ一二人ニテニ十円ノ月給ヲモラヒ シトキハ金ノ不足スルハイフ迄モナク故郷へ手紙ヤリテ助カヲ乞ヘバ 稻 自立セヨト伯父二叱ラレサリトテ日本新聞社ヲ去リテ他ノ下ヲヌ奴二  一ン 生 甘ウ オ辞誼シテ多クノ金ヲモヲハンノ意ハ毫モ無ク余ハアルトキ雪ノフル ナリ;チ アル ガマグチ 夜社竃リノ帰リガケオ成道ヲ歩行キナガラ蝦暮ロニ一銭ノ残リサヘナ ヨ キコトヲ思フテ泣キタイ事モアリキ余ハ此時マダ五十円ノ夢サメズ縦 シ学士タラズトモ五十円位ハ訳モナク得ラル・モノト思ヘリサレド新 聞社ニテハ非常二余ヲ優遇シアルナリ余ハ斯クテ金ノ為二一方ナラズ 顕ヲ痛メシ緒果遂二書生ノトキニ空想セシ如ク金ハ容易二得ラル、者 二非ズ五十円ハオロカ一円二円サヘ之ヲ得ル事容易ナラズ否一銭一厘 サヘオロソカニ思フベキニ非ズコハ余ノミニ非ズ一般ノ人モ裏面二立 チ入ラバ随分困窮二陥リ居ル者少カラヌヤウナリ五十円ナド到底吾等 ノ職業ニテハ取し〃者ナラズトイフコトヲ了解セリ金二対スル余ノ考 ハ此須ヨリ全ク一変セリ此ヨリ以前ニハ人ノ金ハオレノ金トイフヤゥ ナ財産平均主義二似タ考ヲ持チタリ従ツテ金ヲ軽蔑シ居リシガ此ヨリ 以後金二対シテ非常二恐ロシキヤウナ感ジヲ起シ今迄ハ左程ニアヲザ チウヰヨ リシモ此後ハニ一円ノ金トイヘドモ人二貸セトイフニ躊躇スルニ至リ タ一リ  三十円ニナリテ後ヤウ・・一家ノ生計ヲ立テ得ルニ至レリ今ハ新聞 礼ノ四十円トホト・ギスノ十円トヲ合セテ一ケ月五十円ノ収入アリ昔 ノ安想ハ葱外ニモ蕃実トナリテ現レタリ以テ満是スベキナリ タ顔ノ実二富ヲ得シ話カナ(宇治拾遺一 イホ 鷄顕ヤ糸瓜ヤ庵ハ貧ナヲズ  夜津菓子バン買ヒニ行ク共ツイデニ文苑俳句ノ原稿ヲ郵便二出ス ヤレ ガキ ヒ 破幻二灯児ユル家ノ夜寒カナ 此月ノ払ヒノ内 〇一円六十九銭五厘 〇六円十五銭  〇三円四十五銭  〇三円七十三銭一厘 油、薪 魚(サシミ一皿十五銭乃至甘銭) 車及使(内水汲賃一円半) 八百屋 十月  朝 午 〇一 〇二 C一 C一 〇一 C一 円四十八銭五厘 一円 円五十二銭 円十一銭 円七十八銭 一円三十銭二座 〇六円五十銭 計三十二円七十一 二 し →市子 米 蟹油、味附、酢 炭 菓子、砂総、氷(付洛汎山アリ) 現金払飲食費(付落沢山アリ) 鰹、鰭、 料珊、 価煮、八百峨物等 家賃 一銭三厘 日 圭日 日 ヌク飯三ワン 価者… ナラ漬 便通及ホータイトリカヘ 牛乳五勺コ、ア入 菓子パン マグロノサシミ 粥三ワン ミソ汁 ナヲ潰 林檎一 ブ、 一フサ 牛乳五勺コ、ア入 菓子バン 便通ヤ、堅シ 親子井(飯ノ上二鷄肉ト卵ト海苔トヲカケタリ)娩茄子 リ ン ゴ ラ漬梨一 卒果一 九時眠ル 今日ハ逆上ヤ・弦シ水ニテ額ヲ冷ス 母神田へ薬取及買物二往テ午後三時頓帰ラル 一)  朝寒ヤ算血オサヘシ旅ノ人  守ン 、。・一  松蔚ヤ思ヒ{デタル市人ノ句 [ カ }  寝処ヲカヘタル蚊恢ノ別カナ 秀調死セショシ ノノ ワ 騨 一 ㌘・。ユ、 録 漫 臥 卯 f 79 悪ノ利ク女形ナリ唐辛子 痛 林 痩骨ヲサスル朝寒夜寒カナ クサ 夜陸翁来ル文那朝鮮談ヲ聞ク日ク支那ノ金持ハ贅沢ナリ日ク北京ノ ヤウナ何ノ東縛モナキ処二住ミタシ日ク朝鮮ニテハ白イ衣ヲ山ノ根方 ノ革ノ上二干スナリ持続天皇ノ歌ノ趣アリ日本人ハ昔朝鮮ヨリ来リシ カノ心地セリ 十月ニロ 崎 ハ守グリ  靭ヌク飯四ワン ハゼ蛤佃煮ナヲヅケ 牛乳五勺コ、ア入 菓子パン 塩センベイ 便通及繊袴トリカヘ  午 マグロノサシミ 粥三ワン 煮豆(墨且トウヅヲ豆) 梨ニツ 牛乳 菓子バン  タ難肉タ・キ卵一 ムシ飯三ワン煮豆サシ、・・ノ残 ナラ實 、、{ 梨一  一両日来左下横腹(腸骨カ)ノトコロイツモヨリ痛、・・強クナリシ故 ホータイ取替ノトキ一寸見ルニ真黒ニナリテ腐リ居ルヤウナリ定メテ 又穴ノアクコトナヲント思ハル捨テハテタカヲダドーナヲウトモ構ハ ヌコトナレドモ又穴ガアクカト思ヘバ余リイ・心持ハセズコノコト気 二力、リナガラ午飯ヲ食ヒシニ飯モイツモノ如クウマカラズ食ヒナガ ラ時々一浪グム  一念来ル訴ハ新聞論ト林檎論  フモト  麓潮音二人来ル話ハ沼津論修善寺論(麗ノオ、・・ヤゲ鷄肉タ・キ)  大原伯父ヨリ手紙ヨコサル中二大原祖父ノ京滞在中宿元ヘヨコサレ タル古子紙入レアリ英中ニ ベつして (略)正岡にも去月十七日安産男子出生之由別而うれしき事に候 島びよえ −・…−−・八坂儀あとちげんきに候と柵兇uあきに参候よし大化合 に御座候小児六丈夫に候得共少しちゝ付候よしどふガ、/\早〃な おり候様いのり候事に候−−: 一正岡うぶぎもいかゞ相成候哉うけたまはり度候帰足之鮒は唐一、・ か らさ位のでんち歟守り袋くらいにてすましたき税に御座候孫の名 お「一て くたさるへ/、そろ は何とつき候や正岡の紋はなにに候や御げ御巾越可被ド候…− 十月八日夜 武右衛門 お重どの 佑之丞殿 これもり (略)子は沢山有之ても孫は又ミ別のものと児へ早く此度存事に 候… ナドァリコレハ蟹応三年ノコトニテ此手紙二孫トアルハ余ノコトナリ 京ヨリ帰ヲレシトキノオミヤゲハ守袋ナリシ山 。ハ j l  不折ヨリ巴理粛ノハガキ来ル下術処 OH饒一一{串α叶①一の○ご$○HH内⇔①弓○白Hα{①h O−句− フラソ  有問代五十法食料巨法合計百五十法(七十五円)ノ巾口木人同宿 九人ナリト 夜鼻血出ル水ニテ額ヲ冷ス 十月三口 晴  朝 便通 麦飯三ワン 佃煮 ナラ漬 牛乳五勺コ、ア入 菓子バン小七個  午 マグロノサシミ 粥三ワン ミソ汁火一玉葱 ナラ潰 リ ソ ゴ 粒梨一 辛果一 牛乳菓子バン塩センベイ 一日間所見ノ動物  葡葡†八 渋茶 80  庭前ノ適込寵ニハカナリヤ六羽(雄四雌二)キンバヲニ羽(雄)キ ンカ鳥二羽(雌灘)ジヤガタラ雀一羽(雌)合セテ十一羽カナリヤ善 ク嶋ク サウ/\  ○黄蝶ニツ勿々二飛ビ去ル O秋ノ螂一ツニツ病人ヲナヤマス O アプ アゲ川 トピ 蜂力虻カ糸瓜棚二隠現ス O揚羽ノ蝶糸瓜ノ花ヲ吸フ O鳶四五羽上 ト ソ。ボ 野ノ森二近ク舞フビーヒヨロリビーヒヨロリ O蜻蛉一ツ糸瓜棚ノ上 ヲ飛ビ過ギ去ル O極メテ小キ虫ヤ・群レテ山吹ノ垣根アタリヲ飛ブ ○茶禍色ノ蝶最高キ鷄顕ノ上ニトマリテ動カズ O向家ノ犬吠ユ O 蜂一ツ追込寵ノ中ヲ飛ブ  午後ハ北側ノ間二寝床ヲ移シタル故此所見ハ中絶セリ又別ノ日ヲ選 ン一アヤ〃ベシ 、 へ ’1 芹 、■ノ U 、 キ 執 に 、 ) (一 一 ヘビし “3  鼠竹来ル ,ス/\  午後逆上益ハゲシ北側ノ四畳半ノ間二移ル額ヲ冷シ頭ヲ扇ギ只鼻 血ノ出ンコトヲ恐ル目痛ク続イテ新聞ヲ見ル能ハズ  ハソ子ノ タ  絆纏ノ料ノ是シ五十銭トイフコトニツキ論アリ イサ・カ  此後ハ逆上ノタメ筆ヲトヲズ聊追記スレバ  四日嗚雪翁ホト・ギスヨリノ十円ヲト、・ケヲレ且ツホト・ギスニ付 キ談ズル所アリ  五日ハ衰弱ヲ覚エシガ午後フト精神激昂夜二入リテ俄二烈シク乱叫 乱罵スル程二頭イヨ〃苦シク狂セントシテ狂スル能ハズ独リモガキ テ益苦ム遂二陸翁二来テモヲヒシニ精神ヤ・触マル陸翁ツトメテ余ヲ 慰メ且ツ話ス余モツトメテ話ス九時取就寝シカモウマク眠ラレズ  六日(日曜)朝雨戸ヲアケシムルヨリ又激劫ス叫、ヒモガキ泣キイヨ イヨ異状ヲ呈ス十一時頃虚予四方太碧柵桐来ルコレハホト・ギスノ茶 話会ヲ開クツモリニテハガキ出シ置キシ者ナルガ(鵬雪翁ヨリハコト ワリ来ル)此始末ニテ目的ヤ・ハヅレタリ虚子ノ、・・ヤゲ淡路町風月堂 ノ西洋菓子各種、四方太ハバナ・トレモン、碧柵桐ハ娩鮒トソ一7互ナ リ今日ハ御馳走会デハナカリシニイヅレモヨリ持参アリ意外ノ躯ナリ アヂ ナ寸ス 我内ノハマグロノサシミ、鯵ノ胸、鯛ノ吸物ナリ内ノ御馳定モ意外ノ コトナリ  コンナコトデ夜迄話シテモヲウ晩飯ハ鰻飲ナリ其中二鷄飯一ツアリ クジ。ヒキ 騒引ニテ鷄めし四方太ニアタル  タ方柳医来ル  皆帰ル眠薬ヲノミテ寝ルケロリカントシテ寝ヲレズ翌午前三時ヲ過 ギテ僅ニマドロム  七日朝艇眠不足ノタメ頭面白カヲズ碧楴桐来ルHク虚子来ル筈ナリ シガ今朝午前三時過大畑ノ老婦没シタルニョリ来ラレズト朴亟ヲクフ テ帰ル カノセンテイ キツ  午後麓醐雪亭ノ支那料理ヲ携へ来ル晩餐ヲ吃シテ帰ル醤籍抵当談ア リ  此日ハノボセサゲノ水薬ヲ三回ノ、・・夜ハ眠薬ヲノンデョク眠ル ・j一。■ 紳永喝シ跨竹組珊都仏紅判 メ㍗ 3政弟一ダ宇包ザ ‘ 桁ノア序二柄与クや希‡へ句ξ乙病 イ ク、7/マ冬 ラア帰−久r』勅一ア吟7 十月九日  咋夜服薬セザリシモ熟腿九時過Hサム  朝飯 粥三ワン ツクダ煮 梅干 カキ三個間食 イ チ ノ ク  午飯 飯一椀 サシミスコシ 無花果 牛乳五勺 丙洋菓子間食  晩飯 鶏飯半ドンブリ 六 ’  午前鈴木氏柿ヲ携へ来ル、ハガキヲ出シテ秀典氏二来テ貰フ、十時 過来ル、池土ニテ母ノ顔ヲ作ル、三時過虚子来ル、タ刻宮本国手来ル、 タ、・ ニ ハカ  昨夜熟歴ノ為メ朝来心地ヨシ雌雨崎レ俄二場ヲ覚エタルタメスコシ 逆上ス (ム九H分雌戸紀) 此日宮本医来診ノトキ繊椛ヲ除イテ斯シキロ及ビ背巾凡ノ様千ヲ ヨ ソ 示ス哲クブリノコトナリ医ノ鷲キト話トヲ余所ナガラ聞イテ余モ 驚ク病勢思ヒノ外二進、・・居〃ラシ 県 至 曇 、r 火 旺 口 r イ 81 十月八口 風雨  精榊柑敵マルサレド食気ナシ  靭飲遲ク食フ 小豆粥ニワン ツクダ煮  昨ロノ支那料理ノ残リ 午乳丙洋菓子  午飯 サシミ 飯一ワン ツクダ煮 焼茄子 牛乳 西洋菓子 シホセンベイ  便通トホータイ  晩飯 サシミ一二四切 粥一ワン フジ豆 梨 ブダウ レモン  来答ナシ 梨ブダウ 十月十日 崎 径来答ナシ  便通  朝飯 ヌクメシ三ワン ツクダ煮 梅十 牛乳菓子パン  午飯 粥三ワン マグロノサシ、ミ フジ豆 柿二  間食 サツマイモヲ焼キタル 葡萄  タ飯iエキス一皿 フキナマス粥一ワン大棋ドブ潰  体温三十八度七分 夜葡萄ヲクフ  黒眼鏡ヲカケテ新閉ヲヨム雑誌ヲヨム アー  午後少シバカリ顕ヲ扇ガス ソ コノ  余ノ内へ来ル人ニテ病気ノ介他ハ風付一番上予ナリ風竹ト話シ雌レ 82 バ不快ノトキモ遂ニウカサレテ一ツ笑フヤウニナルコト常ナリ彼ハ話 貞ソノヨ 上手ニテ談緒多キ上二調子ノ上二一種ノ滑稽アレバツマラヌコトモ面 白ク聞カサル・コト多」シ彼ノ観察ハ細微ニシテ且ツ記臆カニ富メリ其 ナイ一ンライ 上二彼ハ人ノ訊ヲ受ケツグコトモ上手ナリ頃目来逆上ノタメ新聞雑誌 モ児ラレ、スヤ・モスレバ精神錯乱セントスル際此風骨ヲ欠ゲルハ残念 ナリ風ルHハA1鉱性竺冊件ノタメ出張巾ナリ  枚珊裕榊来ル林檎術萄一鰭ヲモタラス余曾テ林檎ノ名ヲ知リタシト イヘルニョリ名ヲ聞キ来レリト直ニリンゴノ上二名ヲ記シ嚴カシム 満紅(披工、ウマキ々ナリト)大和錦 吾妻錦 松介(最大ナル者)岡本 紅シボリ ホウラン(黄)  鳴㌃翁ガ先〔ノ茶話会ノ結果ヲ聞キニ来ラレシコトナド碧梧桐盾シ 訴顕紅緑ノ上二移ル紅緑ハコレ迄世上ニテトカク善カラヌ嘩アリタレ ド俳句二於ケル糺緑ハ全ク別人ノ如ク清浄無垢ナリシカバ吾等モドコ 迄モ清浄無垢ノ人トシテ相当ノ倣礼ヲ尽シタリ然ルニ此頃紅緑ノ挙動 ナド人ヅテニ閉ヶ所ニョレバ俗界ノ紅緑ハ俳句界ノ紅緑卜雌和シテ世 ノ}二㍗タントスルガ如シコレ紅緑人格ノ上二。一段ノ進歩ナルベキモ カ’ム 俳句界ノ紅緑ハ多少ノ汚濁ヲ被ルヤモ測ラレズコ・一大工夫ヲ要ス  洲棚舳冗ヲトリカヘテ眠ニツク 十月十一日 崎 硬逝  朝 ーヘク飯囚ワン 牛乳典子パ 櫛柿ニツ 十月十二日  ル 体温柑八度七分 ハゼツクダ煮 枢千 満紅(リンゴ)ヲ食7  サーウソ ヘウテイ ザフヨウ ホ{ 昼挿雲来ル話ナシ頴亭来ルタ虚子来ル雑用借用論略定マ 便通三度 十月十三日 大、心恐ロシク降ル 午後噛  今日モ飯ハウマクナイ歴飯モ過ギテ午後。一時幽犬気ハ少シ虹リカケ ル律ハ風呂二行クトテ出テシマウタ秘ハ黙ツテ枕。几二坐ツテ舳ヲレル 余ハ俄二精神ガ変ニナツテ東タ「サアタマヲン〃」「ドーシヤウド ーシヤウ」ト苦シガツテ少シ煩悶ヲ始ノルイヨ・・例ノ如クナルカ知 守ス〈 ヲント思フト益乱レ心地ニナリカケタカヲ一。タマラン/\ドウシヤ ウドウシヤウ」ト連呼スルト母ハ「シカタガナイ一ト級カナ吉葉、ド ウシテモタマランノデ電話カケゥト思フテ児テモ電話カケル処ナシ遂 二四方太ニアテ・電信ヲ出ス事トシタ帖ハ次ノMカラ畑信紙ヲ持ツテ 来ラレ硯箱モヨセラレタ心二「キテクレネギシ」ト書イテ波スト以ハ ソレヲ畳ンデオイテ羽織ヲ帝ラレタ「風呂二行クノヲ児合セタラヨカ ツタ」トィヒナガラ銭ヲ山シテ火テ一。革朕二蜘ンデコウ」トィハレタ ムコ カヲ「ナニ阿シ事ダ向へ迄ハ化ツテオィデナサイ。九十歩直歩ダ」トィ7 タ心ノ巾ハ吾ナガラ少シ恐ロシカツタ「ソレデモ旅屋ノカガ近イカヲ 早イダロ」トイハレタカヲ「ソレデモ車膳ヂャ分ラント困ルカヲしト 半バ無意識ニイフタ余ノ一一、、〕葉ヲ聞キ棄テニシテ出テ行カレタサア赦カ ニナツタ此家ニハ余一人トナツタノデアル余ハ左向二寝タマ・前ノ硯 ‡ ヒ7一ア 一一’ 箱ヲ見ルト四五本ノ禿準一木ノ験温綜ノ外二二↓許リノ鈍イ小刀卜二 土−■ 寸許リノ千枚通シノ錐トハシカエ、革ノ上ニノラハレテ居ルサナクトモ 時々起ヲゥトスルロ殺熱ハムラ・・ト起ツテ来タ実ハ伍佑文ヲ背クト キニハヤ手ラトシテ土。タノダ併シ此鈍刀ヤ錐デハマサカニ。死ネヌ次ノ 十一・ソリ ノ ト 問へ行ケバ剃刀ガアルコトハ分ツテ心ルソノ剃刀サヘアレバ咽喉ソ按 ハ ラ ヘ ヤ ク位ハワケハナイガ悲シイコトニハ今ハ倒倒フコトモ山火スUムナク ンバ此小刀デモノド舳ヲ切断山来ヌコトハァルマィ錐デ心臓二穴ヲァ ケテモ死ヌルニ遠ヒナイガ長ク苦シンデハ困ルカヲ穴ヲ三ツカ四ツカ アケタヲ直二死ヌルデァラウカト色々二考ヘテ見ルガ実ハ恐ロシサガ ・冨≒。、。・三メ、一註榔。轟餓舳工、 二 録 漫 臥 仰 83 勝ツノデソレト決心スルコトェ、山来ヌ死ハ恐ロシクハナイノデアルガ ケ 一・ノミ ★ガ恐ロシイノダ病苦デサヘ堪ヘキレヌニ此上死ニソコナフテハト 思フノガ恐ロシイソレバカリデナイ矢張刃物ヲ見ルト底ノ方カラ恐ロ シサガ湖イテ出ルヤウナ心持モスル今日モ此小刀ヲ見タトキニムヲム ラトシテ恐ロシクナツタカラジツト見テヰルトトニ、カクモ此小刀ヲ手 二持ツテ見ヨウト迄思フタヨツポド手デ取ラウトシタガイヤ・・コ・ グト思フテジツトコラエタ心ノ中ハ坂ヲウト。収ルマイトノニツガ戦ツ テ居ル老ヘテ居ル内ニシヤクリアゲテ泣キ比シタ共内母ハ帰ツテ来ヲ レタ大変早カツタノハ車屋迄往カレタキリナノデアラウ  逆上スルカラ〔ガアケラレヌ目ガァケラレヌカラ薪聞ガ読メヌ新聞 ガ読メヌカラ只考ヘル只劣ヘルカヲ死ノ近キヲ知ル死ノ近キヲ知ルカ ラソレ迄二楽ミヲシテ見タクナル楽ミヲシテ見タクナルカラ突飛ナ御 馳尤モ食フテ見タクナル突飛十御馳走二、食フテ見ククナルカラ雑用ガ ホシクナル雑川ガホシクナルカラ書物デェ、売ラウカトイフコトニナル ー…イヤ・・書物ハ売リタクナイサウナルト困ル困ルト イヨ・・逆上スル 芭白目未 ・ぎノ・, 仰臥漫録二 轟残勢卿胆”、一 一作木小京←一急37 鶴 袴中写号冊“γ 中 ブ ヌ娘菱ノレ ・ ( i ■ ’、ン汽・  、 , 、一 、 3 ,“ 巾天 1  / 示⑨o州 万曇刈乃 壬 〕 −− 一灘塀秒、也 州^“マ干ール乃†雨一絡寡間 ・ゐ乍⑭戸而い棚}曳市{ずで、ト、奇 づ1次。三〃斌多きガ冷氏マ玄“/収 ミ・警?、ねア差灸ゑ互フ  } ’』  \ 、 ■、 ホ‘ 沙 84 ざん(う 時ミの御慈悲には主人の残肴きたなきはかまはず肉多くうまさうな処 くひけ をたまはりたく候食気ばかりはどこ迄も増長可致候 二 じ  兆民居士の一年有半といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大 方分り申候居士は咽喉に穴一ツあき候由吾等は腹背巾瞥ともいはず蜂 の巣の如く穴あき申候一年有半の期限も大概は似より候ことと存候 Lかしなから 乍併居士はまだ美といふ事少しも分らずそれだけ晋邪に劣り可申候 り ぴ あんす 理が分ればあきらめつき可申美が分れば楽み出来可申候杏を以ふて来 て細君と共に食ふは楽みに相遠なけれどもど二かに一点の理がひそみ 居候焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕凪そよぐ処何の理 窟か候べき  再びしやくり上て泣候処へ四方太参りほとゝぎすの話金の話などい ろいろ不平をもらし候ところ夜に人りては心地はれ%と致申候 まラさず  十月十四日誰も参り不中  十月十近日一咋夜寝られざりし故咋夜はよひの程より眠り申候起き ては眠りくとう/\夜明け候一ば直に便通あり心地くるしく松山伯 父へ向け手紙一通したゝめ申候 いたすへく  天下の人余り気長く優長に構へ居候はゞ後悔可致候 て き まラすまじく  天下の人あまり気短く取いそぎ候はゞ大事出来申間敷候  否等も余り取いそぎ候ため病気にもなり不具にもなり思ふ事の百分 一も出来不申候  併し吾等の目しよりは大方の人はあまりに気長くと相見え申候  費乏村の小学校の先生とならんか日本中のはげ山に樹を植ゑんかと 存候  くb小げいあたるのみ ぎ二うきつさiち坦。ラ十るのみ  会引当而已夷牛羊酌壮長而已夷此心持にて居らば成らぬと申事はあ るまじく候吾等も死に近き候今日に至りやう/\悟りかけ申候やう覚 ,うすべく え候痩我慢の気なしに門番関守夜廻りにても相つとめ可申候と存候只  吾等なくなり候とも葬式の広告など無川に候家も町も狄き故二三† ひっき 人もつめかけ候はど枢の動きもとれまじく候  何派の葬式をなすとも枢の前にて珊辞伝記の類読み上候躯無川に候  戒名といふもの用ゐ候事無川に候付て古人の年表など作り候時狄き 紙面にいろ/\書き並べ候にあたり戒名といふらの長たらしくて書込 に困り申候戒名などは無くもがなと存候  自然石の石碑はいやな岱に候  枢の前にて通夜すること無用に候通夜するとら代りあひて可致候 そらな五だ  枢の前にて空淡は無用に候談笑平生の如くあるべく候 咋夜腹具合アシク今日ハ朝飯クハズ 十一マ 電話ニテ虚子ヲ招ク来ル午後秀典来ル 今夜ハホト・ギス事務所二山会アル筈ナレバタ刻電信ニテ「ヤマク ワイコイ」ト言ヒヤル珊柵桐一人来リシノ、・・ 十月十六日 終日無答。夜秀真来ル。  ク ツγ ル苦辛見エテ気ノ毒ナリ ツトメテ話ヲ絶ヤサヌヤウニス 、。一島町 。 録 漫 臥 卯 イ 85 十月十七日 雨 朝鼠骨来ル鉱毒地ヨリ帰レルナリ カソナ’サイ  午後碧梧桐来ル今日ハ神嘗祭ナリト夜紅緑来ルコレハ山会参会ノタ メナリ今夜草魔ニテ山会アリトナリ虚子病気ニテ来ラズ使ヲヨコシテ サ ニ 山会ヘブダウ余へ雲丹ト「一年有半」ヲ贈リ来ル碧槽桐ハ余へ先日ノ ト異ナルヅノ。→ナリトテ金太郎トツコーノニ種及ビブダウヲ贈ル  碧梧桐ヲシテ山会ノ文二篇(虚子ノ停車場茶屋卜碧梧桐ノ紀行矢口 渡)ヲ読マシム ンキ ヤ  此夜顕脳不穏頻リニ泣イテ已マズ三人二帰ツテモラヒ糞シテ魑リ薬 ヲ呑ンデ眠ル(下痢ヤマズ毎旦二四度便通アリ) 十月十八日 雨 咋夜睡リ得テ今朝平穏ナリ終日無客、新聞ナドァラ マシ見ル夜「一年有半」ヲ見ル  秀真雨ヲ犯シテ来ル  靭 便通 朝飯ナシ 朝寒暖計六十度以下 牛乳五勺コ、ア入 菓子バン 便通及ホータイカヘ  午 マグロノサシ、・・粥三ワン 茄子 大ハぜノ佃煮(坤蝸帰陥)ブ “ タウ マソ貞ケ イ チジ ク 晩 サシ、ミノ残リ 松聾飯三ワン 蒸松輩 大ハゼ、無花果一 夜、梨一ツ 松輩ハ余ノ注文ニテ紺ハワザ・・雨中ヲ買ヒニ出ヲレシナリ 今ロハ週報俳句(波ヲ閲ス) 鼠竹車ニテ来ル十一時頃車ニテ帰ル秀真泊ル 便通後眠ル ノ 十月十九日 雨、便通、秀真去ル、又拠通、絨帯収秤、午奴、マグロ ノサシ、、、、粥四ワン、大ハぜ三尾、リンゴ一ツ タノヤウ  十六七歳ノ頃余ノ希望ハ太政大阻トナルニアリキ上京後始メテ哲字 トイフコトヲ聞キ哲学税高尚ナル者ハ他二無シト思ヒ哲学者タヲンコ 7ラザ トヲ思ヘリ後又文学ノ末技二非ルヲ知ルヤ生来好メルコトトテ文学二 志スニ至レリシカモ此間理論上大臣ヲ軽祝スルニ拘ヲズ感情上何トナ ク大臣ヲ無上ノ栄職ノ如ク劣ヘタリ然ルニ咋年以来此感情全クヤミ大 オホヤケ ガウ 臣タルモ村長タルモ其処二安ンジ公ノタメニ尽スニ於テ一整ノ軽双ナ キヲ吾リタリ ー  今日余若シ健雌ナヲバ何事ヲ為シツ・アルベキカハ疑問ナリ文学ヲ 以テ目的トナストモ飯食フ逝ハ必ズシモ之ト関係ナシ若シ文学上ヨリ 米代ヲ稼ギ出ダスコト能ハズトセバ今頓ハ何ヲ為シツ・アルベキカ  幼稚園ノ先生モヤツテ見タシト思ヘド財産少シナクテハ余ニハ出来 ズ造林ノ事ナドモ面白カルベキモ其方ノ学問セザリシ故今迎山林ノ抜 師トシテ雇ハル・ノ資楕ナシ臼ヲ山ヲ持ツテ遺林セバ更二妙ナレド買 イ カ 一一 山ノ銭無キヲ奈何  晩飯サシミノ残リト裂キ松理 ナヨソ  此日便通凡五度、来答ナシ 十月二十日 崎 風骨来ル加藤叔父来ヲル午後虚子来ル  朝便通、朝飯ナシ、牛乳五勺糺茶入 ビスケツト ユ … ソ  午飯三人共二食フ、サシ、・・、豆腐汁、杣蛛喀 ヌク飯三ワン、リン ゴ一ツ  牛乳五勺紅茶入 ビスケツト 煎餅  三河ノ同楽ヨリ松尊、小松ノ森山某ヨリ柿ヲ送リ来ル  同楽ノ手紙二日ク い でず 過般日本紙上幾汁一滴やみ又俳句■)不出相成候節は誠に落胆致候 いきゝ ご 併しまた週報に御選之句出候故聊か力を得候へども小生は若し柳 w 評搬之広告出候かと日本来るごとに該欄を真先に披見致居候・− イサ、カ ハナ舳  真率ニシテ些モ隠サ“ル処太タ愛スベシ  晩餐虚子ト共ニス鰻ノ蒲焼、フジ豆、柚、、、ソ、 イ チ ノ ク 柿ニツ、無花果ニツ  タ刻前便遡及ビホータイ取替、夜便通 飯一ワン 粥ニワン カソシヤク 十月廿一日 客無シ夜二入リテ痢癩起ラントス病休ノ敷蒲団ヲ取リ代 ヲハ フルコトニョリテ痢纐ヲ欺キ了ル 十月廿二日 カゴ 午後鼠骨来ル中村某ヨリ松聾一藍ヲ送リ来ル 十月廿三日 午後いもヲ焼イテ喰ヒツ・アルトキ田中某来ル手土産ビ スケツト サケ  河衷繁枝子来ル手土産鮭ノ味暗漬二切 ケノシソ  左千夫来ル手土産葡萄一藍ゼ淋二蕨真ヨリノ届ケモノ栗一淡一左千 夫ハ斑州ヲ旅シテ帰レルナリ上総ノ海辺ノ砂(中二小キ赤キ珊瑚マジ ア ハ ル)及ビ阿房神社ノオ札ヲ携へ来〃  夕刻大坂ノ文淵堂主人来ル手土産奈良潰一桶  左千夫ト共二晩餐ヲ喫ス繁校子ニモ次ノ間二於テ同ジ晩餐ヲ出スヲ シ  枚秀典来ル伎郷ヨリ携へ来レリトテ子上産柿二種(江戸一及ビ百 〔)マルメロ三個  男女ノ来答アリシ故此際二例ノ便通ヲ催シテハ不郁八ロイフベカラザ ル者アルヲ以テ余ハ終始安キ心モナカリシガ終ニコラェオホセタリ夜 九時過衆客皆散ジテ後直二便通アリ山ノ如シ 赤黄緑三色ノ木綿ヲ縫ヒヘロセテ財価ヲ遺ル之ヲ頭上ノ刀綱二掛ク中 二二円アリコレ今月分ノ余ノ雑用トシテ虚子ヨリ借ル所 十月什四日  朝便通 牛乳一合 ビスケット 黒眼鏡ヲカケテ新聞ヲ児ル  午 マグロノサシミ 粥ニワン 里芋ヨキ芋ナリ ナ一7潰 柿ニツ  巡査来リ玄関ニテ、夜間戸締ノ注意ヲナス声聞ユ「ソーデスカ三人 デスカ雇人ハ居マ♪、ンカ」大声ヲ残シテ帰リ去ル  虚子来ル焼栗ヲ食フ虚子余ノ旧稿(新聞ノ切抜)ヲ携へ去ル  晩 便通及織柑取替 サワ サシミノ残リ 飯ニワン 茄子松斑鮭ノ味惜潰支那索 メノ 一“ 麹地川淑吋■ノ郁心 ナラ潰 葡萄二蝪 柿一ツ  不折細君柿卒果ヲ贈リ来ル  夜九月十三夜ナリ庭ノ虫声猶全ク衰ヘズ  月ハ薄婁ナリト夜半ヨリ雨 十月甘五日曇  朝便通及ホータイ替 牛乳五勺砂糟入 ビスケツト 塩センベイ  午マグロノサシミ飯ニワンナラ潰柿 午乳五勺 ビスケツト 塩センベイ  晩 栗飯一ワン サシ、・・ノ残リ 裂キ松軍  夜便通山ノ如シ セノノ  加賀ノ洗耳ヨリ大和柿一盤ヲ贈リ来ル 客ナシ −ニツ ナヲ虞 、{ 渋茶一ワ 一一し 一 一一 壬・一 二 録 催 四 卯 イ w ミ ・ 。{芦フ 週寂媒集咋句歌(題蛎矧鳴)  テ 、 ヲ閲ス ヒノ 「一年有半一ハ浅薄ナコトヲ書キ並ベタリ死二瀕シタル人ノ著ナレバ {羊守 卓 ハモノ トテ新聞ニテホメチギリシタメ忽ユ際物トシテ流行シ六版七版二及 ブ  近切「二六新報」へ〔殺セントスル山投書セシ人アリ共人分リテ忽 チ泄ノ評判ドナリ白殺セズニスムノミカ金三百円程舳物若千ヲ得且ツ タ 一 コ 烟草応迄出シテヤロトイフ人サヘ出来タリニ年有半Lト好一対 モ ハヤ  余モ最早蝕ガ食ヘル問ノ長カラザルヲ思ヒ今ノ内ニウマイ物デモ食 ンキ ヒタイトイフ野心頻リニ起リシカド突飛ナ御馳走(例、料理屋ノ料理 ヲ求リョセテ食フガ如キ)ハ内ノ者ニモ命ジカヌル次第故月々ノ小使  一一 カ 銭附ニホシクナリ種々考ヲ凝ヲシ・モ書物ヲ売ルヨリ外二逆ナクサリ トテ売ル程ノ書物モナシ洋紙本ヤヲ端本ヤ一フ売ツテ見タトコロデ書生 す 、タ一“イノヨ『ク ノ頃ベタ、・ト捺シタ獺祭書屋蔵書印ヲ誰カニ見ヲル・モ恥カキナリ ス丁 トサマカゥサマ考ヘタ末終二虚子ヨリニ十円借ルコトトナリ已二現金 十一円請取リタリコレハ借銭ト中シテモ返スアテモナク死後誰力返シ テクレルダロー位ノコトナリ誰モ返サ“ルトキハ家具家財書籍何ニテ エ、我内ニアル者持チ行カレテ苦情ナキ者也トノ証文デモ書イテオクベ シ  右ノ加ク死二瀕シテ余モニ十円ヲ得タルヲ思ヘバ「一年有半」ヤ烟 草踏ヲ儲ケ山シタル投書家程ノ手際ニハ行カザリシモ余ニシテハ先ヅ ノカ 上山來ノ方ナリ併シイヅレモ生命ヲ売物ニシタルハ卑シ 病休ノ財布モ秋ノ錦カナ 十川ホ グ一フ 粟蝕ヤ病人ナガヲ大食ヒ ノユクノ ヒナ カブリツク熟柿ヤ韓ヲ汚シケリ 鷲クヤタ顔落チシ夜半ノ音 十ハ什六日 晴 朝 乍 晩 夜 粥二牛孔カケテ三椀 便通及織帯取替 鷄鍋 卵ニッ 飯一 鷄肉タ、キ サシミ 渋茶 ビスケツト等 眠ラレズ o 仰煮 、へ1、{くkし !刀。ム,む 味暗汁突一薩摩芋 柿ナド 柿三ツ 奈良漬  女客二人アリ 。一ータリサラサ 午後麓来ル。手土産鷄肉タ・キ、一外二古渡史紗ノ財布二金二円人レ テ来ル。約東ナレバ受取ル、 ハウクワ 石ノ巻鉋瓜ヨリ生鮭一尾送リ来ル。 夜鼠骨来ル、、 此頃ノ容体及ビ毎日ノ例  病気ハ表面ニサシタル変動ハナイガ次第二体ガ褒ヘテ行クコトハ争 ハレヌ。膿ノ出ルロハ次第ニフエル、寝返リハ次第ニムツカシクナル、 衰弱ノタメ何モスルノガィヤデ只ボンヤリト寝テ居ルヤウナコトガ多 イ、  腸骨ノ側二新二膿ノロガ出来テ共近辺ガ痛ム、コレガ寝返リヲ困難 ニスル大原因ニナツテ居ル、右へ向クモ左へ向クモ仰向ニナルモイヅ イタミトコ旧 レニシテモ此痛所ヲ刺激スル、咳ヲシテモコニ一ヒぐキ泣イテモコ コニヒ寸ク。  織帯ハ毎口一度取換ヘル。コレハ偉ノ役ナリ。尻ノサキ最痛ク雌二 綿ヲ以テ拭フスヲ猶疹痛ヲ感ズル。背都ニモ痛キ箇所ガアル。ソレ故 纐帯取換ハ余二取ツテモ偉二収ツテモ毎日ノ一大難少デアル。此際二 便通アル例デ、郁合四十分乃至一時阯ヲ異スル。  肛門ノ開閉ガ尻ノ痛所ヲ刺戟スルノト腸ノ運動ガ左腸竹辺ノ痛所ヲ 刺較スルノトデ便通ガ催サレタ時之ヲ猶寸スルノカモナケレハ奥ノ方 ク コ■ ニアル扉ヲリキ、、、出スカモ無イ。只共出ルニ任スルノデァルカヲu二 幾度アルカモ知レヌ。従ツテ家人ハ暫時モ家ヲ離レルコトガ出来ヌノ 88 ハ実二気ノ毒ノ次第ダ。 ノカ  慨眠ハ此頃善ク出来ル。併シ体ノ痛ムタメ夜中幾度トナク目ヲサマ シテハ又眠ルワケダ。  w雛カラ出ル腿ハ右ノ方モ左ノ方モ少シモ衰ヘヌ。毎日幾度トナク 綿デ拭ヒ取ルノデアルガ体ノ弱ツテ居ル日ハ十分二拭ヒ取ラズニ捨テ テ雌クコトモア〃。  物ヲ児テ時々目ガチカ・・スルヤウニ痛ムノハ年来ノコトデアルガ イヨ/\ 先口逆上以来愈ツヨクナツテ新聞ナドヲ見ルト直二痛ンデ来テ目ヲ アケテ居ラレヌヤウニナツタ。ソレデ黒眼鏡ヲカケテ新聞ヲ読ンデ居 ル。 ’垣ソポ  朝々湯婆ヲ入レル。熱出ヌ。小便ニハ黄色ノ交リ物アルコト多シ  食事ハ柵変ヲズ唯一ん熱デアルガモウ思フヤウニハ食ハレヌ。食フ トスグ腸冑ガ変ナ運動ヲ起シテ少シハ痛ム。食フタ者ハ少シモ消化セ ズ ニ肛門へ山ル。  サシミハ醤油ヲベタトツケテソレヲ飯又ハ粥ノ上ニカブセテ食フ。  佃煮モ飯又ハ粥ノ上二少シヅ・置イテ食フ。  歯ハ有ノ方ニテ噛ム。左ノ方ハ痛クテ噛メヌ。  朝起キテスグ新聞ヲ見ルコトヲヤメタ。日ヲイタハルノヂヤ。人ノ 来ヌ時ハ新聞ヲ児〃ノガ唯一ノヒマツブシヂヤ。  食前二必ズ葡萄酒(渋イノ)一杯飲ム。クレオソートハ毎日二号カ フセルニテ六粒。 十月廿七日 曇  明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日二繰リ上ゲ昼 飯二岡狩ノ料理二人前ヲ取リ寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布 ケタ ノ中ヨリ出タル者ニテイサ・カ平生看謹ノ労二酬イントスルナリ。蓋  守タ シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ、料理ハ会席膳二五品 ワ サ ヒ  ○サシミ一、グロトサヨリ 胡瓜 黄菊 山葵 ○椀盛 ○口取 ○煮込 C焼肴 キfエソL−{」 千ノ貝’ 爽碗豆 烏肉 小鯛ノ焼イタノ 松軍 ク一マニヒ アヒル 菓ノキントン 蒲鉾 車鯉 家鴨 煮葡萄 コ パウ アナゴ 牛勢 八ツ頭 爽碗豆 一一アノス ハノカ、、 鯛昆布煮杏謹 ヰウタ、一。  午後斎苔来ル。四方太来ル、 ハノ’ 〜  牛乳ビスケツトナド少シ食フ晩餐ハ殆ンド典ヘズ。  料理屋ノ料理程千篇一偉デウマクナイ者ハナイト世上ノ人ハイフ。 ハカ サレド病休ニアリテサシミ許リ食フテ居ル余ニハ共料理ガ珍ラシクモ ァリウマクモアル。平生台所ノ隅デ香ノ物バカリ食フテ腔ル揖ヤ妹ニ ハ更二珍ヲシクモアリ更ニウマクモアルノダ。  去年ノ誕生日ニハ御馳走ノ食ヒヲサメヲヤル積リデ碧四虚風四人ヲ 招イタ。此時ハ余ハイフニイハレヌ感慨二打タレテ胸ノ小ハ実ニヤス マルコトガナカツタ。余ハ此ほヲ非常二自分二取ツテ大切ナ目ト思フ タノデ先ヅ庭ノ松ノ木カラ松ノ木へ向木綿ヲ張リナドシタ。コレハ前 ノ小菊ノ色ヲウシロ側ノ鷄蝋ノ色ガ圧スルカラ此白幕ゲ鷄顕ヲ隠シタ ノデァル。トコロガ暫クスルト曇リガ少シ取レテロガ赫トサシタノデ 右ノ白幕へ五六本ノ鷄顕ノ影ガ高低二映ツタノハ炎二妙デアツタ。  待チカネタ四人ハヤウ・・タ刻二揃フテソレカラ飯トナツタ、余ハ 皆二案内状ヲ出ストキニ土産物ノ注文ヲシテオイタ、ソレハ虚予。一 「赤」トイフ題ヲ与ヘテ食物力玩具ヲ持ツテ来イトイフノデアツタガ 虚子ハユデ卵ノ真赤二染メタノヲ持ツテ来タ。コレハニコヲィ会堂デ ャルコトサウナ。風骨ハ「背」ノ魎デ背蜜柑、四方太ハ「黄」ノ魎デ ハリ一」 蜜柑ト何ヤヲト張子ノ虎トヲ持ツテ来タ。碧価桐ハ茶色、余ハ白デア ツタガ何ヤラ忘レタ、、食後次第二話ガハズンデ来テ余ハ仏7脚ノ不安 心不愉快ヲ忘レル程ニナツタ。余ハ象ノ逆立ヤジラフノ逆立ノポンチ ノキ 絵ヲ皆二見セウト思7テ頻リニ雑謎ヲアケテ肚ルト四カ太ハ張千ノ此 ト イ ノ ノ髭ヲヒネリ上ゲナガヲ「独逸皇帝ダ〃」ナド、言フテ旭ル、実二 愉快デタマヲナンダ。 篶象釦塗一、〜。、。  ソレニ比ベルト今年ノ誕生日ハソレ程ノ心配モナカツタガ余リ愉快 デモナカツタ。体ハ去年ヨリ衰弱シテ寝返リガ十分二出来ヌ。ソレニ 今日ハ馬鹿二寒クテ午飯頃ニハ余ハマダ何ノ食慾モナカツタ。ソレニ 咋夜善ク眠ヲレヌノデ今朝ハ泣カシカツタ。ソレデモ食ヘルダケ食フ テ見タガ後ハ只不愉快ナバカリデ且ツタ刻ニハ左ノ腸骨ノホトリガ強 アク ニチ ク痛ンデ何トモ仕様ガナイノデ只叫ンデバカリ居タ程ノ悪日デアツ タ。 十月甘八日 雨後曇  午後左千夫来ル丈ノ低キ野菊ノ類ヲ横鉢二栽エタルヲ携へ来ル  鼠骨来ル  繊帯取換ノ際左腸骨辺ノ痛、・・堪へ難ク号泣又号泣困難ヲ窮ム エヒ  此日ノ午飯ハ咋日ノ御馳走ノ残リヲ肴モ鰻モ蒲鉾モ昆布モ皆一ツニ 煮テ食フコレハ咋日ヨリモ却テウマシオ祭ノ翌日ハ昔カヲサイノゥマ キ日ナリ  晩餐ハ余ノ誕生日ナレバニヤ小豆飯ナリ鮭ノ味暗潰ト酢ノ物(赤貝  イ カ ト烏賊)ノ御駒走ニテ左千夫鼠骨ト共二食フ 貞 ヤ ス  食後話ハズム余モイツモヨリ答易クシヤベル十時頃二人去ル 此日始メテ腹部ノ穴ヲ児テ篤ク穴トイフハ小キ穴卜思ヒシニ ガヲンドナリ心持。悪クナリテ泣ク  十一時過 牛乳一含タヲズ呑ム 逝後煎餅一枚食フ  十二時 午餐 粥一碗 鯛ノサシ、ミ四切 食ヒカケテ忽チ心持怒ク ナリテ止ム  午後一時頃牛乳 始終ドコトナク苦シク、泣ク イワノ  午後四時過 左千夫蕨真二人来ル左千夫紅梅ノ盆栽ヲクレ戯真鰯ノ スシ 鮪ヲクレルクサリ鮮トィフ由 五時 夜 大便 蕨真去ル ウ ドソ 晩飯小旧巻(鑑餉)サシ、・・ノ残リ腐リ鮮金山寺味暗 (長塚所贈)ウマク喰フ 七時頃痂陣剤ヲ服ス 午乳 煎餅 蜜柑 飴等 左千夫歌ノ雑誌ノ事ヲ話ス 九時頃去ル ソレヨリ寝二就ク睡眠善キ方ナリ 此頃ノ薬ハ水薬二種(一ハ胃ノ方、一ハ頭ノオチックタメ) 二 録 漫 臥 仰 棚 十月甘九日 曇 明治三十丑年三月十日 月曜口 晴郷帰〃鵬舛蝸h嚇  午前七時家人起キ出ヅ咋夜俳句ヲ作ル眠ラレズ今朝ハ暖炉ヲ焚カズ  八時半大便、後腹少シ痛ム  同 四十分 概癖剤ヲ服ス  十時 織帯取換ニカ・ル横旗ノ大筋ツリテ痛シ 三月十一日  朝ストーヴヲ焚ク 大便牛乳十時靭飯 粥二碗 鯛ノサシミ七 フキ タウ 切程 味階 腐鮪 蕗ノ愛ト梅千 蜜柑三ケ 十一時 午乳コ・ア入 煎餅一枚 クカ クワ  十一時半 痂癖剤ヲ服ス 陸ノオマキサン梨数獺持テ来。アクレル  午後一時半頃 織滞取換  三時碧格桐来ル 腰背痛俄二烈シク概陣剤ヲ呑ム 種竹山人来ル直 二去ル 坦ラソル  五時頃晩餐 ゴモク飯一碗 ヲダマキ サシミノ残リ 鱒汁 鱒ト 90 人参ノ煮物。九時頃牛乳  タ方ヨリ碧梧桐妻来ル十時共二帰リ去ル  十一時過又痛烈シク起ル流痒剤ヲ服ス  此頃ハ一日ノ牛乳三含必ズコ・アヲ交ゼル 三月十二日 晴朝寒暖計五十度計 媛炉ヲ焚ク  午前十時頃新聞ヲ読マセル ゴ サソ 七リ  十一時半 午嚢サシミ(鯛)金山寺味暗 芹トアゲ豆腐 ジヤガ タヲ芋注文セシ「ヲダマキ」来ヲズ ロ シ  挿雲露予二人来ル瓢亭来ル  正午流陣剤ヲ服ス 三人去ル  午後二時午乳二杯 煎餅三四 織帯取代 左へ寝戻リテヨリ背腰殊二痛ムウト・・スレド眠ヲレ ズ ムノウ トソ 午後四時 ヲダマキ蒸鯉餉 サシ、、、少ミ ヤシナド食フ 虚子来ル 一ハ、ム、。。ローフヲクレル 六時 ヌク飯ニワン サシ、・・ノ残リ 談話 牛乳 十時 マヒ剤ヲ呑ム 虚子去ル 明治三十五年 概庫剤服用日記  六月廿日(巾ル静刈洲) 正午 午後九時  六月甘一日 午後五時四十五分 陸ヨリモラヒタル豆ノモ  六月甘二日 午前九時五分  六月甘三日 午前二時十五分 ソコツ 六月廿四口 雨熱宍長塚ヨリ、清水時筍、今成木公ヨリ 午前九時 午後六時二十分 キヨシ 六月什五日 暗 盆栽ノ写真、岐阜三湘某ヨリし写莫数枚古 竹ヨリ。光琳百図虚子ヨリ 午前八時冊五分  六月什六口 曇 午前八時  六月廿七日 雨 体温柑七度八分 午前六時 午後十時  六月甘八日 雨 梅影ヨリ澱粉三極(廿藷、里芋、馬鈴薯)ブ贈リ 来ル 午前十時廿分 午後八時什五分  六月廿九口 雨 午前九時  六月朴日 曇 体温柑七度二分 午前七時 午後七時廿分  七月一日 雨 午前八時半 午後五時廿五分 。フソ一一ウソ グツ  七月二口 曇、抱一画(梅、水さし、ハサミ)文鳳箆四、桜ノ突、 忍川豆腐 午前八時半 午後七時十五分  七月三日 雨 午前七時 午後三時半  七月四日晴建氏画苑、立斎百画、狂詩晒譜等小包ニア来ル 午前四時過 午後四時 。、、、、一∵斗・一、竜、、、・ハ。。象・器一義。蔓繋窺。…、’一。’ 二 録 漫 臥 口 r f 1 9  七月五日曇 午前七時過  七月六日 暗 村井某、森田義郎  午前八時頃 七月七日 晴  午前八時半 七月八日。暗  午前七時半 七月九日 暗 七月十日 雨  ノマズ 七月十一日  二度呑ム 牛前九時十五分  七月十二日 虚子会ス 午前八時  七月士二日 午前四時  七月十四日 午前二時  七月十五日 午前二時  七月十六日  午後零時ご  七月十七日  午前一時 七月十八日 圭同 日 圭目 日 暗、 小雨、 昼曇夜雨、 曇、 一十五分 曇、 曇、 モノユソ 草花一鉢(麓ヨリ)茂春来リ絵本二三十巻ヲ見セ〃  午後五時 来寄八人、漁村、新甫、願亭、四方太、豊泉、薪村、  午後七時頃  午後  午後五時半 イワシコ、豆腐、 此旦最弱疲労ノ極二達ス 煽風器成ル ヒグラノ  始メテ鯛鳴ク  始メテ蝉鳴ク、茶ノ会席料理デ碧梧桐、四方太、 午後四時四十分 ジユシ ’イヲウ  風骨、熱サニ堪ヘズ、寿子、鳴翁訪ハル 午後三時過 懐中汁粉、碧梧桐番 午後三時 虚子番、 午後一時半 午後九時半  義郎番 キ貞〃  碧梧桐番、秀真来 午後零時三十分 午後八時半  鼠骨番  午前九時半 午後五時半 =ノー、 七月十九日 虚予番 此日疲労枢点二遠シ昏ミ  午前九時半 七月二十口 碧楕桐嵐骨来 正午疲労稿回復  ノマズ { ソセウ 七月二十一日 曇 左千夫蕨真来、月樵ノ狸ノ画ヲ見ル  午前十時 出史ル 七月二十ニロ 晴 義郎番、如水子来  午前九時半 七月二十三日 雨  午前十時 七月廿九目 曇 左千夫番  午前十時冊五分 爾求鰹蝉」 〜 1 ■ ⑳⑳考差騒  一’ − O,1 ぽナ ⑳ 洲、宣■− 、イ丁 ヒ ’ 1一一 。,・;、 ・,、 ““、 ーグ・クタ ◆ 辛狐鼻ぐ 、参 魎 鰯繊 ナ什禾一金、〜トシノ 省ケル扱禾例二柳つノ は壮脆妙}え卓}  あ戸シf 。}序、、責え褐トエ■ orフ。あ妥‘ーダう ム 92 z戸3島岡象 1’ 見川けける枝 川峠承彦同 か而★争含浜 誓バ粛争o限 。鵡綿解桝 予悟担見見附 紡郷鱒 ■柳柵 荒イー 白狐仮 !川 素曽 吟的 毒払 肴川 岡崎 胆弘竹 吟場 す 々へ 象カ丞“ 号市未代 ス参岬。界 兵野 色”以 劇 以のf ム山 水4 鰯 ぎ午 〃 久4ム∫汐㌻ 左x沙≦孔 」 、 rノ ぐ Aうノ A 》。 、 、 冷㌻ 令 \い、 、 7 ’ ブ㌧、◆、 1 r\、、」 、〆’し ろくぐわっ だん び お二りはちぐわっく{わうをはしらす 六月団匪起八月走君王 た L牛すしに ち喰うさてきをしてしやうをこえしめざるを 多謝柴中佐不使敵越絡 どく ぐん れいをしらず ろ ぐん なをおもんせす 惚v坪杯く蜘あ靴繕評杯一岨地 粗食而愛国只有日本兵 爵 二 録 漫 臥 卯 f 93  傘提灯氷餅  紙人形  イタ 「リ  虎枚ト娩石 ○日本青年会 ○塔ノ手ト人物 うさぎをにてしよいヨ左おもム 煮兎億諸友 Lもム; たかし こ にこげ5さぎ くり牛がた北 下総の節のもとゆ贈り来し柔毛兎を厨刀音かつ/\と牛かひの も上 きりや あきみつを 左千夫がほふりふた股の太けきを煮て桐の舎と陽光ぞ食すあなう あぶ ほづき まそびらの肉の灸れるを病む我取らん残れるを秀真もがもな家遠 さち み呼ぶすべをなみもみぢ葉の赤木も岡もあはれ幸なし 褒 フ孔 巨 おくられものゝ歌数首病床六尺の中にあり たはむれにりんをラによす 九月三口椀もりの歌戯寄隣翁  ふ め,が こ き たま  歎の海に汐みちくれば茗荷子の葉末をこゆる真玉白魚 戯れに左千夫氏におくる(午含改築後洪水あり)  おほやけのみことかしこみ牛の為に建てレ小星はもけふの水の為 けつしん 山林家蕨真氏におくる  いち ヨれひ  市に住めば水の感あり山を買へば火の患あり火の恵君は ○くれなゐの梅敵るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ  わが病める枕辺近く咲く紘に鴬なかばうれしけむかも くnなo きぬか; ○つくし二はうま人なれや紅に染めたる梅を綱傘にせる とも  梅の花散らばをしけん朝な夕な枕べ去らず目な乏しめそ ○家の内に風は吹かねどことわりに争ひかねて梅の敵るかも ○鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく  紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり 邊き  ふゝめりし梅咲にけりさけれども紅の色薄くしなりけり ○春されば梅の花咲く日にうとき我枕べの梅も花咲く  枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひて歌考へつゝ(ひとり伏し屠り一  梅の花見るにし飽かず病めりとも手震はずぱ画にかゝましを に“ひ十玉れ 二  京の人より香 襲の一東を贈り来しけるを 二 玉づさの君が使は紫の董の花を持ちて来しかも も上すみれ 君が手につみし糞の百董花紫の一たばねばや やみてあれは庭さへ見ぬを花童我手にとりて見らくうれしも こ うち日さす都の君の送り来し童の花はしをれてつきぬ たますき 玉透のガヲスうつはの水清み香ひ董の花よみがへる か わがやどの董の花に香はあれど斑が童の花に及ばぬ 土かひし班が童は色に香に野べの蛮に立まさりけり 一たびもいまだ見なくにわがためにすみれの花をつみし君かも なぐさもるすべもありとか花董色あせたれどすてまくをしも 小包を開きて見れば花窒その香にほひてしをれてもあらず こと 言さへぐとつ国種の花童共香を清み嗅げどあかぬかも ひため まそ鏡直日に見ねど花襲っみておくりし人し恋しも いで  碧梧製羽警つくくしつ之と再ぴ出てゆくに 赤羽根のつゝみに生ふるつく/\しのびにけらしもつむ人なしに も ぐ吉 赤羽根の茅草の中のつくくし老いほうけきはむ人なしに 日のくれて赤羽根につみ残したるつく/\し蒋び往きてつみて来に 94 ナり(往かん人っまぬまに) わきも 赤羽棋のつゝみにみつるつく/\し我蛛と二人つめど尽きぬかも つく/\しひたと生ひける赤羽根にいざ君も往け道しるべせな 赤ばねの汽車行く路のつく/\し又来む年も往きてつまなむ うちなげき物なおもひそ赤羽根の汽車行く路につく/\しつめ 痩せし身を肥えんすべもが赤羽根に生ふるつく/\しつむにしあ るべし つく/\しつみて帰りぬ煮てやくはんひしほと酢とにひでてやく はん つく/\し長き短き何もかも老いし老いざる何もかもうまき つく/\し又つみに来む赤ぱねの汽車行く路と人に知らゆな ふるさと ことくに つくくし故郷の野につみしことを思ひいでけり異国にして をみなら いづ 女等のわり、こたづさへつく/\しつみにと出る春したのしも  みづから病中の像をつくねて わが心世にしのこらばあら金のこの土くれのほとりにかあらむ  近江日野なる鈴木ふさ子より寒晒粉を贈りこしければ あ“み こ 近江のやいぶきおろしにさらしたる米の粉たびし君し恋しも 黒キマデニ紫深キ葡萄カナ  ソ ス・ ナリ初メシ自家ノ葡萄ヲ侑メケリ 吹キ下ス妙義ノ霧ヤ葡萄園 ザク ロ 盆栽ノ柘榴実垂レテ落チントス …ノ ⊥’ タウ」〃ラン 襲虫ノ鳴ク時蕃楓赤シ 十カリ 七 充 キ 靭顔ノ盛過ギタル施餓災カナ  男の子一人ほしいといふ人に代りて 桃太郎は桃金太郎は何からぞ  女の子ほしいといふを つ古 花ならば爪くれなゐやおしろいや  年ふげて修学する不幸女一 をみたへし ひとり まへ 女郎花女ながらも一人前  ごくラ  吾空類焼にかゝりて二万巻やきたりとかや ふく ちゆう 腰中に残る暑きや二万巻  大漁 いわし 十ケ村鰹くはぬは寺ぱかり から 日蓮の骨の辛さよ唐辛子 す上き よべこゝに花火あげたる芒哉 大岩の穴より見ゆる秋の海 朝顔や我に写生の心あり ゑか 草花を画く日課や秋に入る かと がは 門川や机洗ふ子五六人 たた ほた がは 物洗ふ七タ川の濁り哉 洗ひたる机洗ひたる硯哉  丁覚和尚より南岳の百花図巻をもらひて靭夕手を放さす 病床の我に露ちる思ひあり  題画 庭行くや露ちりかゝる足の旧  臥病十年 首あげて折ミ見るや庭の萩  親鸞賛 ご れん L 御連枝の末まで秋の錦哉 ち㍉ん し〜、は  薩摩知覧の提灯といふを新圃にもらふたり 工 ふけ 虫取る夜運坐雇りの夜更など  ちさと  千里女子写真 桃の如く肥えて可愛や目口鼻 ■、薮鐵 二 録 漫 臥 仰 95 桃の実に日鼻かきたる如きかな かは世み ふ よラ 主 輩翠や芙蓉の枝に羽づくろひ 寸ゐくわ 桃売の西瓜食ひ居る木陰哉 禽 { v 茶  ⑭ 叱 ヤズ 。コ三ーア  、■ 芒 ’ ’・ 尊、 。。1。…。。 「 \ ト ち 手 、\  法然賛 念仏に季はなけれども藤の花 盆栽の梅早く福寿草遅し 四辻や棉寸駈どちら向いても春の月 苗代や第一番は善通寺? L牛うえんじ 渥嚥脂に何まぜて見ん牡丹かな すゞ み 氷星の軒並べたる納涼哉  弘法賛 しつ おん つ三 龍を叱す其御堕や夏の雨 す上き よべこ、に花火あげたる芒かな 日蓮の骨の辛さよ唐辛子 ’ 下 。馬 修 “’ ]享 一二“ ’7、 ヂ、・’ /〃灼〔’  ・.・’’〃 4 舵郁い 該  大漁 いわ」 十ケ村鯉くはぬは寺ばかり  親鸞賛 御連枝の末まで秋の錦かな  伝敦賛  二。ま 此杣や秋を定めて一千年  日連賛 くー]ら 鯨つく漁夫ともならで坊主哉 ほゝづき お めい か, 兇灯の行列いくつ御命講  西陣 冬枯の中に錦を織る処 つ ぱ 石蕗の花盛りに咲きて寺臭き しん 晋 き 其 カく 角 とぴ たまぐさ 鳶の香も夕立つ方に腿レ あかし 十し 上た 明石より雷嚇れて酢の蓋 ラりもり かっら いけす 瓜守や桂の生洲絶えてより いそのかみ清水なりけり子前橋 !、もき 虫はむと朽木の小町干されけり き 駿の歩み二万句の蜘あふぎけり せ。{ 妾が家螢に小唄告げやらん か つ を さかむかへ 伊勢にても松魚なるべし酒迎 さ をとめ 早少女に是洗はする嬉しさよ っれ かね 涼みまで郁の空や連と金 しん と あう {、 ものいはず 桐の花新渡の脇鵡不一言 ぐさ ちまき 草の戸やいつまで草のかび株  くれ くひな 日も暮ぬ人も帰りぬ水鷄鳴く 96 せう 召 i 皮 、モ すさまじや 凄哉競馬左右の顔含 也す く・ やれ 翌までと括りよせけり蚊帳の破 き にち 筆のもの忌日ながらや虫払 壮すび ぱ ひりぐち 茄子ありこゝ武蔵野の這入口 いちげ 茄子売一夏の僧をおとづるゝ きち 「] 夏草や吉次をねらふ小盗人 おほ 壮ぎ 在た 夏の月大長刀の光哉  選挙鏡争 お 鹿を逐ふ夏野の夢路草茂る すゞしさ いで {」ち の皆打扮や袴能 ラソ マ ツユソ 夏山ヤ岩アヲハレテ乱麻戯 ユ ” ○畑モアリ百八ロナド咲イテ畠ユタカ 〇一列二十本バカリュリノ花 ヒナ サマ ○部ノ様家南向イテユリノ花 百姓ノ麦打ツ庭ヤユリノ花 仲ビ足ラヌ百合二大キナ蕾カナ ○姫百合ヤロ本ノ女丈低シ ヰナカ ○百八uノ花田舎臭キヲ好ムナリ(愛スカナ) 百姓ノ土堺二沿フテ百合ノ花 ○百合持ツテ来タル田舎ノ使カナ ○宜敦師ノ細班百合ヲ好、、、ケリ 花売ノ親爺二間ヘバ鉄砲百合 ○姫百合ヤ余リ短キ筒ノ中 (U六尺ノ百八]三尺ノ土塀カナ ○用アリテ在所へ行ケバ百合ノ花 小照自魑 でゝ むL 蝸牛の頭もたげしにも似たり 病巾作  、一 んc 冬一 乱q  α 活きた目をつゝきに来るか螂の声(飛ふ)  謡曲熊坂 ㌶㌶(瓢㌫㍑ζ篇去 ムう ぽん 風板引け鉢植の花敬る程に  此日寒暑不定折柄淡当といふ菓子をもらひて即事 たん 圭 ふん 湯婆鱈で淡雪かむや今土用 夏夜 芋虫や女をおどす悪太郎 生きかへるなかれと毛虫ふみつけぬ 施独殺す毛虫ぎらひあ男繊 新川の酒腐りけり鮮の蓼 ヲムネ屋も此頃出来て別荘地 薫風 清水  ヤスノ 明ケ易 ナソノツキ 夏月 夏山 暑サ涼シサ ウノハナクタ 卯花下シ ナソノ 夏埜 夏川 サ;ダレ 五月雨 炎天 サツキパレ 五月晴 夕立雲ノ峰  ウチハ カヤ マコモ克, 扇団扇蚊帳蚊遺径寝真菰刈 タソゴ ノ十リ キヲンェ アフヒマツリ 旧植 端午 幟 祭 砥園会 葵祭 行水  コ目モ十一ヘ アハ七 カケカウ 書更衣袷掛香夏羽織灌仏日傘 ヒ ム目 チ司、キ 氷室 氷水 綜 ハツタイ 煮漕 泳 ・一、ソ。キ 御祓 アヲ7ラノ 青嵐 納涼 序 色舳 ウ カヒ 鵜飼 新茶 ナツゴモ, ク。ス…ヅ 葛水 幣 ト 二 録 漫 臥 仰 w トキ ギ ハヤナギ 若菓茂 常ハ木落葉 葉柳 鼻チハナ アコチ ケリノハナ ザク回ノハナ ンヒノハナ キリノハナ 橘 樗 菓花 石榴花 椎花 桐花 卯ノ花 ナツ、寿く 2ノミ 7ソ、ス章一 夏橿 林檎 イチゴ 梅実 ユスヲ梅 杏 李 バナ・ ハスノ川ナ ハナゾヤゥプ カキツパタ カウホネ ユ , ボ 貝ソ 、ハ ライ、ハラ ケシ 美人草 蓮花 花菖蒲 杜若 河骨 百合 牡丹 薔薇茨 川ナ 花昼顔夕顔 コヶノハナ クサン、ケル ハチスハ タヶノコ 苔花 夏草・州茂 蓮葉 筍 若竹 竹落葉 キ 市リ サ ナヘ 茄子胡瓜瓜麦早硫麻 ホト・封ス 時鳥カツコー ナメクジリ 七{ 螢蚊蝉螂 カハ十リ 蜆蝿 イト 内 萸 雨蛙 、カマ 墓 火取虫蚤 坐ヤウ/\ソ 行ミ子 芹ウフリ 子子 カハセミ 輩翠 ・ニソスマソ 水馬 ユ カ 貞 浴衣着テ旧舎ノ夜店見二行キヌ 夜店ナル安夏帽ヤ買ヒガテヌ トモシ 夏ノ月京ハ夜店ノ灯カナ ヨ←ハ,クミ 言巧二蚤取粉売ル夜店カナ スコ 坂本ハ夏菊少シ夜店カナ 暑キ日ノ暮レテ茄ク町ノ夜店カナ 氷陸ノ夜店出シタル始メカナ カ ツ ヲ 腐リタル松魚ヲ照ス夜店カナ ヒナ マチ 夜店出テ郡町夏ヲニギハヒヌ カノ コ ピリ 閑吉烏三個ノ秘事ハ伝絶エヌ ヤブ入ノ小僧ノ群ヤ夏芝居 川ウ 。ノ ハッタイヤ褒姻笑ハヌコト五年 夏野行ク人ヤ天狗ノ面ヲ負フ ( シカ ヤミ コ 背二負ヘル天狗ノ面ヤ木下闇 遠クカヲ見エシ此松氷茶屋 カツヲ 松魚 タイコムヅ 鼓虫 アユ 占 色… 干・ムノ 蝸牛 モノ 藻 加 つ吐 一」ちぢ ○鎌會は堅魚もなくて小鰺かな か つ を ラo ○暁の第一声や松魚売 力入レテ蚤ノ卵ヲツブシケリ 蚤共二卵ツブル・音高シ ともし はす てい 豆よりも細き灯や蓮の亭 ワカ カヘデ ンキ ヤマ ○若楓築山ノ ≠ソ 亭 アレ 荒 ニ ケ リ ○草花ヲ圧スル木々ノ茂リカナ ○天狗住ンデ斧入ヲシメズ木ノ茂リ ○植木屋ハ来ラズ庭ノ茂リカナ カハ セ・・ 輩翠ヲ隠ス柳ノ茂リカナ ○日光ハ杉茂リ箔ノ光カナ ○椎ノ木ノ茂リテ見エヌ上野カナ イチ ナカ ○市中ノ山ノ茂リヤ煉瓦塔 ○人住マヌ湖中ノ島ノ茂カナ ハヒ ェ チヤ ヤ 〇一老樹這枝茂リテ下二茶店 コソ ヤシ回 金ビヲノ社ヲカクス茂カナ カラサキ ○辛崎ノ松ハ枯レツ・茂リツ・片カレ片茂リ ホケ ライ ○蓬薬ノ松ノ茂リ ヤ 鶴百 羽 八カヘ茂リ広ガル松二杖 ○墓ノ木ハ茂リヌ玉ヤ腐ルヲン 楓茂リ桜茂リテ寺暗シ ○目印ノ喬木茂ル小村カナ ○釣床二夕日漏リ来ル蔑リカナ ○柱 ニ モ ナラデ茂リ ヌ五百年 ○門ヲ入リテ木々ノ茂リヤ家遠シ ○ト;く鹿ノ顔出ス茂リカナ 98 ○八方 へ繊ル舳雌什 杖百本 棉花 海近クナリヌ帆見エテ糊〃サ棉ノ花 ○此浜ヤ此頃埋メテ棉ノ花 草市 草市ヤ雨二濡レタル蓮ノ花 ○草市 ノ 草 ノ匂ヒ ヤ広小路 カマ寸目ハ・キ、キヤ 箒木一り口草鎌丸ハ箒木ノ含ト名ノリケリ ○籍木ノ含ハ鎌丸ノ舎号カナ ○帯木ノ四丑本同ジ形カナ 蝉 舟遊 斐翠 掛香 六月会 セ。{ 山深ク見馴レヌ花ヤ蝉モ嶋カズ ○アナガマノ角ヤ手ノ蝉袖ノ蝉 網ノ舟料理ノ舟ヤ舟遊ビ アタ ゴ ○舟遊ビ愛宕ノ塔ヲ右二見テ サギ 御庭池川セミ去ツテ鷺来ル ウカ{ ○川蝉ノ魚ヲ覗フ柳カナ カテ カウ ベ ニ 掛香ヤ紅粉ヤクサ寸・京土産 ゴ ケ ○掛香ヲ人ニクレケリ御家ノ君 はえ 蝉始メテ鳴ク鮒釣る頃の水絵空 つ’’’几 ひ片二り,し 梅雨晴や鯛鴎くと書く日記 iらおた 抽き な古す 腸の堕を洗はん沖鱈 沖鱒都の鯛のくさり時 ひきかへる 姓栽に水やり時や暮 ひと せ 壮つ かひこ 刈残す一畝の桑や夏蚕 典黒な毛虫の糞や散松葉 きっ き以れ カナリヤの卵腐りぬ五月晴 ぽ ら き はきみ 蕎薇を勇る鋏刀の音や五月晴 フク 川セミノ魚衡、・・去ルタ日カナ 川セミノネヲヒ誤ル濁カナ キタ 川セミノ来ル柳ヲ愛スカナ メプ 川セミヤ池ヲ遼リテ皆柳 川セミノ来ヌ日柳ノ嵐カナ サギ 川セミモ鷺モ来テ居ル柳哉 柳伐テ川セミ魚ヲ取ヲズナリヌ哨v硝ズ 川セミノ是場ヲェラブ柳哉 川セミノ去テ柳ノタ日哉 川セミノ飛デシマヒシ柳カナ  無事庵遺子木公来る 鳥の子の飛ぶ′時親はなかりけり  有薬を困いて Lやくやく 萄薬の衰へて在り枕もと 有薬を画く牡丹に似も似ずも ヤリヤウミヅノゴトシ ヒ 夜涼如水三味弾キヤメテ下リ舟 シウゥキタラソト十ツス 駿雨欲来五尺ノ百合ヲ吹ク嵐 しう ちく せん かん ひ 修竹千竿灯漏れて碁の音涼し  垂鉤雑詠 そでを上き 薫風吹。袖釣竿担ぐ者は我 若葉青葉魚のぞきて喫轟贋べ L 鮎釣らんか如かずドンコを釣らんには 藍茂る水清うして魚盾らず 芭蕉 二 録 漫 臥 仰 99 也れ ヨ ち 三 そ壮へ 破団風夏も一炉の備哉  キ角 粛山のお柵手暑し昼一斗  去来 いとま 柿の花散ろや仕官の暇なき  蕪村 う ち は かく 団扇ニツ角と雪とを画きけり  たい き  太砥 あん 一」 俳諧の仏千句の安居哉  召波 そん わ ゐく へ二」はら 村と訊す維駒団扇取つて傍に  丈草 ちを “カトり、し かど 青嵐去来や来ると門に立つ  き と’一  凡董 り L 李斯伝を風吹きかへす昼寝かな  街月 キ」 ちゆラじ おつ しう げ はな つみ 義仲寺へ乙州つれて夏花摘  園女 け L 磐粟さくや尋ねあてたる智月庵  ろ ねん  惟然 ゐ ねんぽう 歴蚊帳に乞食と見れば惟然坊  おに つら  蒐貫 悟つく 酒を煎る男も弟子の発句よみ  陸前石巻より大鯛三枚氷につめて贈りこしければ たひ 三尺の鯛生きてあり夏氷 三尺の鯛や螂飛ぶ′台所  虚子一女一男ノ写真 たけのこやぐぴじんき, 筍哉虞美人草の蕾哉  渡辺某に似す か、’ ち阜 ふ tケひ 、、 二£ 中− 一 南瓜の賦茄子の篇や村夫子 写生帖ノ後二数句アリ  寄香墨 み 山」コ 相別れてバナ・熟する事三度 読吉野紀行 む た 〇六田越えて桜に近し花に急くや一の坂 ○吉野山第一本の桜哉 ○花の山見えて足踏み鳴らす堂り口 両側の桜咲きけり覚り口 ○花見つゝ吉野の町に入りにけり ざ わう ごん げん ○花の山蔵王権現静まりぬ ひる げ 花に来て芳雲鉗に昼餉哉 によい り札L ○指ざすや花の木の間の如意輪寺 あ ない しや くすOき ○案内者の楠諦る花見かな 花の宿くたびれ足を按摩哉 ○西行庵花も桜もなかりけり 西行の飯たく自炊の跡や春の山 ○千本が 一時に落花する夜あらん みく,り 水分の神が霧ふく桜哉 ○案内者も紳士も我勢も濡れて花の胴 ○南朝の恨を残す桜かな  殺生石 謡幽 せつしやう世き 殺生石の空はるかなる帰雁かな 0 0 1 石にそふ狐の跡や別れ霜 はつ ’っい おち やみ 初雷やはじめて落しわらは病 たま 虫穴を出て殺生石に魂もなレ 春殿に玉藻の前の光かな嘔触〃撚切 化物の名所へ来たり春の雨 み ラら すけ か づ さ 寸け 三浦の介上総の介や泊り山 カ、ケロフ 陽炎ヤ石ノ魂猶死ナズ  無事庵追悼 阻と1ぎす 時鳥辞世の一句なかりしや 申く 夏單にまだ見ぬ人の行へ哉  叔父の欧羅巴へ赴かる工に笹の#、を胴りて 春惜む宿や日本の豆腐汁 つくし よもぎつみ 一㌻〆“  送別 いね 君を送る狗ころ柳散る頃に  母ノ花見二行キ玉ヘルニ たらちねの花見の留守や時計見る 病床を三里はなれて土筆取 をモ 茶器どもを獺の祭の並べ方 かはをそ 獺の祭を画く意匠かな かラ しん だう 寒食や庚申堂の線香立 すぎ 庫く 寒食の村を過行飛脚かな その ム つゝじまだ咲かで淋しき園生哉  悼蘇山人 かげろふ がり“小り 陽炎や日本の土に碩  と£ たき 蝶飛や蘇山人の魂遊ぶらん タ ソ ポ ・ 蒲公英ヤボールコロゲテ通リケリ キン 剥製ノ簸蒲公英ノ遺リ花 蒲公英ヤ細エニスベキ花ノ形  盆栽紅梅 紅梅の鉢や寝て見る置処 火を焚かぬ媛炉の下や梅の鉢 紅梅や平安朝の女だち すき 紅梅に中日過し彼津哉 紅梅の落花をつまむ畳哉 紅梅の敵りぬ淋しき枕元 たひ こん ぴ ら 春の海鯛も金毘羅参り哉 π 貞 モチ 牡丹餅ノ使行キ逢フ彼津カナ  律土箪取にさそはれて行けるに つく L 看痛や土筆摘むのも何年目 シュソスキ 春水ヤ囲ヒ分ケタル金魚ノ子 春ノ水都二入リテ濁リケリ ’一専 二 録 漫 臥 口 r { 1 0 1 ■ ’モ フサ 下総ノ国ノ低サヨ春ノ水 ヰナカビト 春ノ日ヤ時計屋二立ツ田合人 シヤウハイ 春ノ日ヤ賞牌胸二美少年 ゴ グワソ 春ノ日ノ御願ホドキモツイデカナ ノドカサニ尉鰍モ食ハデ歩キケリ噸湘灯 ツ 名物■1餅ヲ掲キ居ルノドカサヨ ノドカサヤ案内者ツレシ田舎者 オポ回 間ヲ出テ腱二人ノ影ニツ 腕夜ノ眼薬買ヒニ薬師道 オホヂ 路地ロヲ出デ・騰ノ大路カナ ハ ウタ ユキキ 腱夜ノ端唄ヲ歌フ往来カナ 見返レバ住吉ノ灯ノ腱ナル トマ 蓬アゲテ見ル両岸ノ腱カナ人家腱二下リ舟 雌月狐二魚ヲ取ヲレケリ ワラ 半貢タ 腱野ヤ牒ヲ破ル藁砧 腕灯ヲ見ナガラ琴ク擁勢疲レ足 幽霊ノ如キ衷寺ヤ牒月 大仏ノ日ニハ吾等モ腱カナ ヘ チ 守 取リ残ス棚ノ糸瓜ヤオボロ月 話シナガヲ土子ノ上行ク人腱 末遂ゲヌ恋ノ始ヤオボロナル タ・ス 背ノ高キ人イメリ腕陰二逢ヒヶル腱哉 ヒナホ目 遠クトモ近クトモ見エテ灯膿 土ウ マ ヤ守土リ 馬ノ灸ノ張紙出タリ摩耶参  ハ ヤ 今流行ル馬ノ病ヤ摩耶参 馬カザル心ヤサシヤ摩耶参 コ チ 東風吹クヤ船ノ寄〃待ツ離レ島 ユプ:チ イサリプネ タ東風ヤ火ヲトモシタル漁舟 ウマヤ く 蝶ミヤ駅々ノ子守歌 蝶ノ羽二霜置ク夜半ヤ冴工返ル 蝶飛ブヤアダムモイヴモ裸ナリ イタ ド” ワラ。ビ 虎杖モ蕨モ伸ビ ヌ山 ノ様 一㌶㌻ハ㌶キ㌶㍑㌶一 ソ パ タナオロシ ウレシキカナト蕎麦フルマヒヌ店卸 ハ一フミ ス。・メ 捕ヘタル孕雀ヲ放チケリ ツリ上ゲシ魚ノ光ヤ暖キ 春ヲ苧封娃巧鐙筆ノ穂ノ筆一搬誌一 ヨ ガヒ 蚕飼スル国ヤ仏ノ善光寺 ’ ヲト 守ツ 春ノ山女夫ノ神ヲ祀リケリ ( 茶屋アリテ夫婦餅売ル春ノ山 ヒト守ロハ キニチ 土佐ガ画ノ人丸兀ゲシ忌日カナ アケ … イホ 榊ノ曙覧ノ庵ヤ人丸忌 允ヒ ヨ七 ツキ ナ; ・二4ハ 貝寄ノ風敷波ノ汀カナ ニカタヨル〃バ玉藻カナ 転居シテ椿咲ク庭梅ちる戸 ( 家越シテ椿ノ蕾ウレシカリ スデ シ、:;ン〃 江戸詰モ已二久シヤ蜆汁 クサ カソハ 落花流水草芳シキ裾模様 ホウ ライ 鶴引クヤ蓬莱ノ松遠霞 2 0 1 雪解ケテ熊来ズナリシ孤村カナ 嚢剃ルヤ上野ノ鐘ノ霞ム日二 我4」二鷄白キ余寒カナ 家ヲ出テ被津出囲ノ杉菜カナ帥煤〃桝雛炸 ハヅ ワラヒ 山焼イテ十日ノ市ヤ初蕨 三ツ ト■} 水取ヤ杉ノ梢ノ天狗星 移居十首 十」ラ つ ’」’o 島・つ “』 手水鉢八手の花に位置をとる やふ かラ じ 庭石や霜に鳥なく藪柑子 おい ぎ 北窓に春まつ梅の老木哉 や ごし ぐるま 蓬莱も家越車や松の内 新宅は神も祭らで冬籠 島んこなへ上ぐ くぜつ 鮫鰹鍋河豚の苦説もなかりけり かぜ引の妻よ夫よ玉子酒 かんがらす 貧をかこつ隣同士の寒鴉 軸の前支那水仙の鉢もなし なき 琴箱のうらは藪なりさゝ嶋す 明治冊五年一月 さん 碧格桐兄 一集 蕾 朝 枯 隣 せい 清 病床口吟  室 外 つく梅の苗木や霜 霜に青き物なき小庭 へ ち 主 つ ら ゝ 尽す糸瓜の棚の氷柱 住む貧士に餅を分ちけ たん 潭の居る山寒し獅子の 柱 哉 哉 り 声 ゑ 疽 し ‘o 烏帽子着よふいご祭のあるじ振 室 内 蓋取ツテ消息いかにあんこ鍋 薬のむあとの蜜柑や寒の内 じ申 占」5 媛炉たく部星暖にふく寿草 繭玉や仰向にねて一人見る 在ら 病床やおもちや并べて冬籠 げ 解しかぬる碧巖集や雑煮腹 遡磨箆そ足争斡藩看本 一鱈 南 ”⑱ 澱粉 禽 、⑧ 南 一番町甘七番 井伊屋敷下 谷コーシ 一⑧一⑱ 一⑧ 一⑧ コ⑧ ,章事一 い様 病休六尺 “ひ 〜一つを 、』 か 此水産学校へ這入つて松魚を切つたり、鳥脈を乾したり網を緒んだり  か 市5 レて斯様な校長の下に敦育せられたら楽しい事であらう。 (五月血日) 尺 六 休 」内 t一 3 0 1 ○病休六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病休が余には広過 わづ ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外 ぱ在は川」 へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦 ぶ 痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、 む書ぽ 号泣、麻津剤、憧かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を資  は か る果敢なさ、共れでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎 日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、其れさへ読めないで苦しんで し牛く 居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癩にさはる事、たまには何とな く姥しくて為に病苦を忘るゝ様な事が無いでもない。年が年中、しか オ も六年の間世間も絢らずに寝て居た痛人の感じは先づこんなものです と前置きして ○土佐の西の端に柏島といふ小さな島があつて二百戸の漁村に水産補 習学校が一つある。敦室が十二坪、事務所とも校長の寝室とも兼帯で 三督敷、実習所が五六坪、経費が四百二十円、備品費が二十二円、消 耗品費が十七円、生徒が六十五人、校長の月給が二十円、しかも四年 間昇給なしの二十円ぢやさうな。其ほかには実習から得る利菰があつ て五銭の原料で二十銭の罐諦が出来る。生徒が網を緒ぶと八十銭位の 賃銀を俗るコ其等は拷郵便貯金にして置いて修学旅行でなけりや引出 させないといふ“である。此小規模の学校が共遺の人には此頃有名に なつたさうぢやが、世の中の人は勿論知りはすまい。余は此話を聞い て涙が出る程熔しかつた。我々に大きな国家の料理が出来んとならば、 二 もつと ○余は性来臆病なので鉄砲を持つことなどは大嫌ひであつた。尤も高 からう 等中学に居る時分に演習に往つてモーゼル銃の空撃ちをやつたことが あるが、共の外には室内射的といふことさへ一度もやつたことがない けんのん 人が鉄砲を持つて居るのを見てさへ、何だか剣呑で不愉快な感じがす る位であるから楽しみに銃猟に出かけるなどといふことはいくらすゝ められても思ひつかぬことであつた。咋年であつたか岩崎某がその友 うらころ 人である大学生の某を誤つて撃殺したといふことを聞いた時に、縁も 申かり た主 由縁もない人であるけれど余は不愉快で堪らなかつた。然るに二の事 件は撃たれたる某の父の正しき請求によりて、岩崎一家は以来銃猟を せぬといふ家憲を作りて目出たく納まつたのでそれは愉快に局を緒ん だが、随つて一般の銃猟といふことに対しては益ミ不安を感じて来た 然るに近来頭のわるくなると共に、理窟臭いものは一切読めぬことに なって、遂には新聞などに出て居る銃猟談をよむほど面白く心ゆくこ とはなかつた。ある坊さんがいふには、銃猟ほど残酷なものはない、 鳥が面白く歌ふて居るのを出しぬきに後から撃つといふのは丁度人間 が発句を作つて楽しんで居るのを、後ろから撃殺すやうなものであろ こんな残酷なことはないといふたことがある。それは尤もな話で、鳥 の方から考へる時には誠に残酷に運びないが、併し普通の俗人が銃猟 をして居る時の心持は誠に無邪気で愛すべき所があるので、その銃猟 談などを聞いても政治談や経流談を聞くのと遠つて、愉快な感じを旭 す事になるのであらう。 ○そのうへに銃猟は山野を場所としてぽるのイ、み、れが為に銃猟談に多 くろラと い・」づり 少の趣を添へることが多い。殊に玄人になると雀や類白を箪つて徒に 猟の多いことを誇るやうなことはせぬやうになり、自ら其間に道の存 、 タ 0 / する所の見えるのも喜ぶべき一箇条である。然るに惜しいことには無 風流な人が多いので、その話をきくと殺風景な点か多いのは遺憾な二 とである、銃猟談は前いふやうに山野に俳個するのであるから、鳥を くだり 撃つといふことよりも、それに附属したる件に面白味があるのにきま つて居るが、其趣を発撞する人が甚だ少ない。近頃猟友といふ雑誌で 飯島樽士が独逸で銃猟した事の話が出て居るが、是は余程こまかく書 いてあるので、外のよりは際立つて面白いことが多い。例せば井上公 伎の猟区に出掛けた時の有様を説いて、各ミが手製の日本料理をこし 宝さむね らへて、正宗の瓶を傾け、しかもそこに雇ひつけの猟師(独逸人)に 日本語を敦へてあるので、 それから部庵の中でからに、飯を食ふ時などは、手をポン/\と 叩く、ヘイと返辞をするのだと敦へて置く、所が猟師の野郎ヒイ といふて奇妙な声を出して返辞をする、どうも捧腹絶倒実に面白 い生活です などと書いてあるところは実に面白く出来て居る。総てかういふ風に 銃猟談はして貰ひたいものである。否もう少しこまかく叙したならば 更に両白いに違ひない、銃猟も二ゝに至つて残酷な感を脱してしまふ ことが出来る。 (六日) 里 、’ たん かみかた ○衷京の牡丹は多く上方から苗が来るので、寒牡丹だけば東京から上 方の方へ輸出するのぢやさうな。この外に義太夫といふやつも上方か ら衷京へ来るのが普通になつて居る。さうして東京の方を本として居 と き はづ 止しぐ るのは、常磐津、清、兀の類ひである。牡丹は花の中でも最も派手で最 も美しいものイ、あるのと同じやうに、義太夫は是等の昔曲のうちで最 も派手イ、最も重々しいものである。して見ると美術上の重々しい派手 な方の趣味は上方の方に発達して、淡泊な方の趣味は東京に発達して 居るのであらうか、俳句でいふて見ても昔から京都の方が美しい重々 しい方に傾いて、江戸の方は一ひねくりぴねくつたやうなのが多い、 らんかう 蕪村の句には牡丹の趣がある。聞更の句は力は足らんけれども矢張牡 丹のやうな所がある。梅室なども俗調ではあるが、松葉牡丹位の趣味 き かくらんせつ しらを たとひ が存して居る。江戸の方は其角嵐雪の句でも白雄一派の句でも仮命い くらかの美しい所はあるにしても、多少の渋味を加へて居る所はどう しても寒牡丹にでも比較せねばなるまい。 (七H) 四 オラノ、タ ○西洋の古画の写真を見て居たらば、二百年前位に和蘭人の画いた風 最画がある。是等は恐らくは此時代に在つては珍しい材料であつたの であらう。日本では人物函こそ珍しけれ、風景画は極めて普通である こ せのか壮をか が、併しそれも上古から風最画があつたわけではない。巨勢金同時代 はいふまでもなく、それより後土佐画の起つた頓までも人間とか仏と かいふものを主として居つたのであるが、支那から禅僧などが来て仏 敦上に亙に交通が始まつてから、支那の山水画なる者が輸人されて、 それから日本にも山水画が流行したのである。  日本では山水画といふ名が示して居る如く、多くは山や水の大きな 景色が画いてある。けれども西洋の方はそんなに馬塵に広い景色を聰 かぬから、大木を主として画いた風景画が多い。それだから水を画い ても川の一部分とか海の一部分とかを写す位な事で、山水画といふ名 をあてはめることは出来ぬ。 いか  西洋の風景画を見るのに、昔のは木を画けば大木の厳めしいところ が極めて綿密に写されて居る。それが近頃の風最画になると、木を画 いても必ずしも大木の厳めしいところを画かないイ、、普通の木の芳々 しく柔かな趣味を軽快に?したのが多いやうに見える。堅い趣味から 柔かい趣味に移り厳楕な趣味から鞍快な趣味に移つて行ノ、のは今日の 世界の大勢であつて、必ずしも画の上ばかりで無く、又必ずしも苅洋 ばかりに限つた事でも無い様である。  i ’=享昇も一王。1山 。。 、、、、“、。、川。三了凸姜単一三当†王若ぎ言苫亙山董# 】、 人 、( 沐 病 一つ 0 1  加つ  嘗て文学の美を論ずる時に、叙事、叙情、叙景の三種に別つて論じ た浪があつた。それを或人は攻撃して、西洋には叙事、叙情といふ事 はあるが叙扶といふ事は無いといふたので、余は西洋の真似をしたの ではないといふて共時に笑ふた事であつた。西洋には昔から風最画も 風最詩ち少いので学者が審美的の議論をしても風景の上には一切説き 及ぼさないのであるさうな。これは西洋人の見聞の狭いのに基いて居 るのであるから先づ彼等の落度といはねばならぬ。 (八日) ○明治冊五年五月八日雨記事。 や ゝ  咋夜少しく羅眠を得て咋朝来の煩悶稿ミ度を減ず、牛乳二杯を飲む。  九時麻痒剤を服す。 いときごひ ついで  天岸医学士長州へ赴任のため暇乞に来る。序に余の脈を見る。  べきご とつ し干え 二  碧概桐、茂枝子早朝より看謹のために来る。  モ 一一つ ま{」  風骨も亦来る。学士去る。 彗言  きのふ朝愈屋より取り寄せ置きし画本を碧梧桐等と共に見る。月樵  上 げ㌧、bモう あうそん の不形聰数を得たるは嬉し、共外鴬邨画諦、景文花鳥画譜、公長略画 などを選り出し置く。  午飯は粥に刺身など例の如し。  織椛取措をなす。疹痛なし。 さ。  ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノベ竹に短き糸をつけ駈矧を餌にし も て、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコ若し食ひつきし時は勢よ く竿を上ぐること。若し釣り落してもドンコに限りて再度鉤れること など。ドンコは川に征む小魚にて、東京にては何とかハ〃、といふ。  郷里松山の栴の郊外には池が多きといふ話。池の名は丸池、角池、 賦坪仏、トーハゼ(庸櫨)池、鏡池、弥八婆々の池、ホイト池、薬 師の池、浦屋の池など。  フランネルの切れの見本を見ての話。締柄は大きくはつきりしたる がよいといふこと。フランネ〃の時代を過ぎて、♪。〃の時代となりし ことなど。  茂枝子ちよと内に帰りしが稍々ありて来り、手鋼のカナリャの咋日 にはか も卵産み今朝も卵産みしに今俄に様子悪く巣の外に出て身動きもせず 如仲にすべきとて泣き惑ふ。そは糞づまりなるべしといふもあれは児 に卵のつまりたるならんなど云ふもあり。余は戯れに祈薩の句をもの す。 菜種の実はこべらの実も食はずなりぬ こ やす くわんぜ おん 親鳥も頼め子安の観世音 た上 竹の子も鳥の子も只やす/\と う はな 糞づまりならば卯の花下しませ ほ ゞ  晩飯は午飯と略ミ同様。  体温三十六度五分。 せつしやラ世言  点燈後碧柑桐謡舳一番殺生石を謡ひ了る。余が顕椚ぐ怒し、  風骨帰る。  主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり、泣く、怒る、なだ める。此時窓外雨やみて風になりたるとおぽし。  十一時半又麻癖剤を服す。  碧梧桐夫婦帰る。時に十二時を過る事十五分、 止。 ねカり  余此頃糟神激日叩苦悶已まず。睡覚めたる時殊に甚だし。寝起を恐る るより従って睡眠を恐れ従って枚問の長きを恐る口碧価桐等の帰る事 遅きは余のために夜を短くしてくれるなり。 (十臼) 穴 まくらもと ○今日は頭工合稍々蕎し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとな く引き出して見る。所感二つ三つ。 む」  余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複 雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至つて尚其傾向を変ぜ 6 0 1 ず、典故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輸画きたるか ちやうひ じ干’5 た興深く、張飛の蛇矛を携へたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた 快く感ぜらる。  顧に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨画ども多き画帖の中に彩色 のはつきりしたる画を見出したらんは万緑叢中紅一点の趣あり。  呉春はしやれたり、応挙は真面日なり、余は応挙の真面日なるを愛 す。  しゆき月、う ぶんぽう いづ  手競画譜を見る。南居、文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れ も人物のみを画き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の いたづら 画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも せま 必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と 同日に論ずべきに非ず。  或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱へ右の肩に一枝の梅を よ そ 担ぐ処を画けり。或は余処にて借りたる傘を返却するに際して梅の枝 を添へて贈るにやあらん。若し然らば画の簡単なる割合に趣向は非常 しか かく に複雑せり。俳句的といはんか、謎的といはんか、而も斯の如き画は 稀に見るところ。 いへど  抱一の画、濃艶愛すべしと雖も、俳句に至つては拙劣見るに堪へず。 ほ ご ■ 共濃艶なる画に英拙劣なる句の讃あるに至つては金殿に反故張りの障 子を見るが如く釣り合はぬ事甚し。 わづか ひつくわく  公長略圃なる書あり。綴に一草一木を画き而も出来得るだけ筆画を いくぽく 省略す。略画中の略画なり。而して此のうち幾何の趣味あり、幾何の 趣向あり。蔽雪等の筆縦横白在なれども却て此趣致を存せざるが如し。 或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (十二日) 七 ○左千夫日ふ柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌 せ主 の大きくして逼らぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思壮れ たかし ずと。節日ふ余は人麻呂は必ず痩廿たる人にてありしならむと思ふ。 けた その歌の悲壮なるを見て知るべしと。蓋し左千夫は肥えたる人にして 節は痩せたる人なり。他人のことも薔き事は自分の身に引き比べて同 か じ様に思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。斯く言ひ争へる内左千夫はな ほ自説を主張して必ず共肥えたる内を言へるに対して、節は人麻呂は 疫せたる人に相違なけれども共骨楕に至りては強く退しき人ならむと 思ふなりと云ふ。余は之を聞きて思はず失集せり。蓋し節は肉落ち身 あ れい 疫せたりと雖も毎日サンダウの唖鈴を振りて勉めて運動を為すがため に其骨椿は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。さればにや 人麻呂をも亦斯の如き人ならむと已れに引き合せて想像したるなるペ レ。人問はどこ迄も自己を標準として他に及ばすものか。  ぶんてラ ○文晃の絵は七福神如意宝珠の如き趣向の俗なるものはいふ迄もなく 山水又は聖賢の像の如き絵を描けるにも尚何処にか多少の俗気を含め くわざん り。峯山に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗 気を存せず。人晶の高かりし為にやあらむ。到底文晃輩の及ぶ所に非 ず。 ゐなか ○余等関西に生れたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事に於て 関東の進歩遅きを見る。只関東の方若く勝れりと思ふもの二あり。日 く醤油。曰く味喀。  しもふさ き「かふまん ○下総の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の旭“万(醤油)。 (十三日) 八 ○名所を歌や句に詠むには共名所の特色を発撞するを要す。故に釆だ 見ざるの名所は歌や句に詠むべきにあらざれども、例せば皿士山の如 き極めて普通なる名所は、未だ之を児ざるも或は人の語る所を聞き、 或は人の書き記せる文章を読み、或は絵画写真に写セる所を見膏どし かた て、其特色を知るに難からず。さはいへ矢張実際を見たる後には今迄 よしo の想像とは全く違ひたる点も少なからざるべし。余未だ芳野を見す芭 ’一 … 、“害 尺 L、 一ノ 沐 病 7 0 1 且つ絵画文章の如きも詳しく写しこまかに叙したるものを知らず。今 いくはく 年或人の芳野紀行を読みて幾許の想像を退しうするを得て試みに俳句 数首を作る。若し実地を踏みたる人の日より見ば、実際に遠き句にあ そ らずんば、必ず平凡なる句や多からん。只壱夫れ無難なるは主観的の 句のみならんか。 む た 六田越えて花にいそぐや一の坂 芳野。山第一本の桜かな 花見えて是踏み鳴らす上り口 ざ わラ ごん げん しづ 花の山蔵王権現鎮まりぬ 庫ぴさ によ い りん L 指すや花の木の間の如意輸寺 あ ない しや く寸のき 案内者の楠語る花見かな 案内者も吾等も濡れて花の雨 うらみ 南朝の恨を残す桜かな 千本が一時に落花する夜あらん 西行庵花も桜もなかりけり 九 (十四日) ○余が病気保養の為に須磨に居る時、「この上になほ憂き事の稜れか し限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて独 りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見るとそれは誠に病気 の入口に過ぎないので、咋年来の苦しみは言語遺断殆ど予想の外であ は ひ つた。それが続いて今年‡うく五月といふ月に這入つて来た時に、 土、くづき 五月といふ月は君が病気のため厄月ではないかと或る友人に驚かきれ たけれど、否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年で あるから、などと寧ろ自分では気にかけないで居た。ところが五月に 這入つてから頭の工含が梱変らず善くないといふ位で毎日諸氏のかは るがはるの介抱に多少の苦しみは紛らしとつたが、五月七日といふ日 に朝からの苦痛で頭が悪いのかどうだか知らぬが、兎に角今迄に例の 無い事と思ふた。八日には少し善くて、共後又天気工合と共に少しは み モ ラ 持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有の大苦痛を現じ、心臓の鼓 動か始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追っ附かず、どうや らかうやら其日は切抜けて十四日も先づ無事、唯しかし前日の反動で 弱りに弱りて眠りに日を暮し、十五日の朝三十四度七分といふ体温は 一向に上らず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、 あたか 最早自分もあきらめて、共時恰も牡丹の花生けの傍に置いてあつた石 膏の肖像を取つて其裏に「自題。土一塊牡丹生けたる其下に。年月 日」と自ら書きつけ、若し此儘に眠つたらこれが絶筆であるといはぬ ぽか 許りの振舞、それも片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日 は恰も根津の祭礼日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてか へて、豆腐の御馳走に祝の盃を挙げたのは近頃不覚を取つたわけであ るが、併しそれも先づ/\日出度いとして置いて、さて五月もまだ是 から十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさツぱりわからぬ。 〇五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であつて此日は毎年の例によつ 二 め て雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あへの御馳走に一杯の葡萄漕 を傾けたのはいつにない愉快であつたので、 この祭いつも卯の花くだしにて 篤も老て根津の祭かな 修覆成る神杉若葉藤の花 o; ■たん だし 引き出だす幣に牡丹の飾り花車 たけのこ 筍に木の芽をあへて祝ひかな い か 歯が抜けて筍堅く烏賦こはし 不消化な料理を夏の祭かな 氏祭これより根岸蚊の多き 十 (十八日) ○前にもいふた南岳文鳳二人の手競画譜の絵について二人の優劣を判 8 0 ブ 雷“、一 {く じて置いたところが、或人は之を駁して文鳳の絵は俗気があつて南岳 には及ば臼といふたさうな。余は南岳の絵はこれより外に見たことが ないし、殊に大幅に至つては南岳のも文鳳のも見たことがないから、 どちらがどうとも判然と優劣を論じかねるが、併し文鳳の方に絵の趣 向の豊常な処があり、且つ其趣味の微妙な処がわかつて居るといふこ tしか とは、この一冊の画を見ても憧に判ずることが出来る。尤も南岳の絵 もと も共全体の布置結構其他筆つきなどもよく働いて居つて固より軽蔑す べきものではない。故に終燭の判断は後日を待つこととしてこゝには 手競画譜にある文鳳のみの絵について少し批評して見よう。(もとこ の画譜は余斎の道中歌を絵にしたものとあるからして大体の趣向は共 歌に拠つたのであらうが、こゝにはその歌がないので、十分にわから ぬ)  この逝中画は大方東海道の有様を写したものであらうと思ふ。且つ すへ 歌合せの画を左有に分けて画に写したのであるから、左とあるのが凡 て南岳の画で、右とあるのが凡て文鳳の画である。 さう  其始めにある第一番の有は即ち文鳳の画で、三艘の舟が、前景を往 来して居つて、遙かの水平線に帆掛舟が一つある。其外には山も陸も すて 秘も何もない。この趣向か已に面白い。殊に三艘の舟の中で、前にあ とまふね ぽカり る一番大きな舟を苫舟にして二十人許も人の押合ふて來つて居る乗合 船を少し沖の方へかいたのが凡趣向でない。普通の絵かきならば、必 ずこの乗合船の方を近く大きく正面にしてかいたであらう。  二番の有は遺中の御本陣ともいふべき宿屋で貴人のお乗込みを待ち 受けるとでもいふべき処である。画面には三人の男があつて、其中一 ま 人は門前に水を撒いて居る。他の二人は幕を張つて居る。その幕を張 はしご つて居る方の一人は下に居つて幕の端を持ち、他の一人は梯子に乗つ て高い処に幕をかけて居る。その梯子の下には草履かある。箒がある。 一」み 踏つぎがある。塵取がある。その堕取の中には芥がはひつて居る。実 に二まかいものである。それで全体の筆数はといふと、極めて少いも ので、二分間位に書けてしまひさうな画である。これらも凡手段の及 “ “。 ぶ所でない。 や ゝ  三番の右は川渡しの画で、稍セ大きな波の中に二人の川渡しがお客 を肩車にして渡つて居る所である。こゝにも波と人との外に少しの陸 地もかゝないのは、この川を大きく見せる手段であつて前の舟三艘の 画と其点か稍々似て居る。其川渡しの人問は一人が横向きで、一人が 後ろ向きになつて居る。共両方の形の変化して面白い処は実際の画を 見ねばわからぬ。  四番の右は何んの画とも解しかぬるので評をはぶく。  五番の有は例の粗筆で、極めて簡略にかいて居るが、共趣向は極め て複雑して居る。正面には一間に一間半位の小さい家をかいて、共看 きかやき 板に「御かみ月代、代十六文」とかいてある。共横に在る窓からは一 ひげむ しや 人の男が、一人の鷺武者の躬の霧を剃つて居る処が見える。峡総切下 には手帯が掛けてあつて、共手帯の下の地面即ち屋外には、髪盟と予 柵のやうなものが置いてある。今いふた窓が衷向きの窓ならば、それ に接して折曲つた方の北側は大力雄であつて、其高い処に小さな窓が ひえまき あけてあつて、共窓には稗蒔のやうな鉢植が一つ置いてある。共窓の 横には「やもり」が一疋遣ふて居る。屋棋は板費で、石ころがいくつ も載せてある。かういふ家が画の正面の大部分を出めて居つて、其家 は低い石垣の上に建てられて居る。共石垣といふのは、小さな谷川に 臨んで居るので、家の後ろ側の処に橋の一部分が見えて居る。それだ からこの画の場所を全体から見ると、小川にかけてある橘の橋詰に一 軒の小さな床屋があるといふ処である。共趣のよ♪物}ならず、これ 程の粗画にこの場所から家の構造から何から何まで悉く現はれて居る といふのは到底文鳳以外の人には出来る事でない、実に驚くべき手腕 である。 す上きはら ひ o ヒ  六番の右は薄原に侍が一人馬の口を取つて牽いて居る処である 止 画も薄の外に木も堤も何もないので、且つ其薄が下の方を少しあけて 上の方は画けるだけつめてかいてあるので、薄原が広さうにも見え、 凄さうにも見え、爪先上りになつて居るやうにも見える。そこで侍も  へ 一 止一4 1、。唯,、 。一、。。1。ξ、義。裟凶、一 尺 。ハ 林 病 9 0 1 馬も画面のなかばよりは稿ミ上の方にかいてある。この画の趣向は十 ’}リ 分にわからぬけれど、馬には腹柑があつて、鞍のない処などを見ると ま ご 侍が荒馬を押へて居る処かと思はれる。これが侍であつて馬士でない tげ 所(それは髭と服猿と刀とでわかるが)も面白いが、馬が風の薄にで も恐れたかと思ふやうな荒々しき態度のよく現はれる処も面白い。 (二十二口) 士 むし (ツ“キ)七番の有は寧ろ景色画にして岡伝ひに小さき道があつて、其 遣は二つに分れ、一筋は共岡に沿ふて左に行くべく、一筋は橋を渡つ て水に沿ふて左に行くべくなつてをる。点景の人物は一寸位な大きさ のが三人あるぱかりで、それは格別必要な部分を占めてをるのではな t ゞ い。唯ミ斯ういふやうな一寸した景色を此中に挿んだのが意匠の変化 するところで面白い。 たてぱ かご ちやラ  八番の有は立場と見えて坊さんを乗せた駕が一挺地に据ゑである。 一人の雲助は何か餅の如きものを頗ばつて居る。一人の雲助は銭の一 さしを口にくはへて共内の幾らかを両手にわけて勘定してをる。其傍  iさみぱこ に挾箱を下ろして煙草を吹かしてをる者もある。更に右の方には馬士 が馬の背に荷物を附けるところで、共馬士の態度といひ、旭が荷物の 重みを自分の身に受けこたへてをる心持といひ、共処の有様が実によ く現はれてをる。共傍には尚二一人の人があつて何となく混雑の様が 見えてをる。南岳の画は人が大勢居つても共の人は唯セ群集してをる ばかりであるが文鳳の画は人が大勢居れば共大勢の人が一人々々意味 ほ ゞ 島ら を持つて居る。此処ら{、見ても両人の優劣は略セ顕はれて居る。  九番の有は四人で一箇の逝中駕をかついで行くところで、駕の中の 人は馬漉に大きく窮畑さうに画いてある。何でもないやうであるがそ れだけの趣向を現はしたのが面白い。  十番の有は旅人が一人横に寝て按摩を取らしてをる処である。旅人 の枕元には小さな小荷物があり笠がある。其前には煙草盆があり煙草 、つ きん か’ 入れがある。頭巾を被つた儘で碩杖を突いて〕をふきいで盾るのは何 となく按雌の為に心持の普きさうな処が見える、按摩は答の後ろ側よ り其の脚を採んで居る。処で共有の眼だけば丸く開いて居る。而も左 あん の眼はつぶれて居つて口は左の方へ施つてをる、此二人の後の方に行 とん もちろんひ 燈が三つかためて砥いてある。これは勿論灯のついて舳る行燈では無 からう、客の座敷に斯様の行燈が置いてあるといふ事はいかにも貧し い宿であるといふ事を示して居る。 (二十三H) 主 (ツ“キ)十一番の右は正面に土手を一直線に画いてある。この一直線 に画いてある処既に奇抜である。其土手の前面には小さな水革小膳が あつて、作菜がある。土手の上には笠を着た旅人が一人小さく画かれ てある。かういふ景色の処は実際にあるけれども、画に現はしたもの は外にない。  十二番の右は笠着た旅人が笠着た順礼に奉捨を与へる処で、順礼が ひしやく 柄杓を突出して舳ると、旅人は共歩行をも止めず、手をうしろへまは ト’ して柄杓の中へ銭を入れて居る処は能く実際を現はして居る。殊に共 場所を海岸にして、蔵などが少し生えて居り、遠方に船が一つ二つ児 えて居る処なども、この平凡な趣向をいくらか賑やかにして魁る、 ぎりやう  十三番の右は景色画でしかも文鳳特得の伎倆を現はして肚る。場所 は山路であつて、正面に坂逝を現はし(坂の上には小さな人物が一人 向ふへ越え行かうとして居る処が画いてある)坂の右側に数十丈もあ らうといふ大樹が欝然として立つて居る。筆数は余り多くないが、共 たしか 大樹がある為に何となく共景色が物凄くなつて、共樹は憧に下の方の そぴ よ 深い谷刷に聲えて居るといふことがよくわかる。心持の可い両であろ  十四番の有は百姓家の入口に猿廻しが猿を廻して居る処で、共家の 壮はの れん ぽかり 入口の縄暖簾をかゝげて子供が二人許のぞいて居る。一人の、†供はパ つ七つ、一人の子供は二つ三つ位の歳で、大方兄弟であらうと推せら 0 1 1 むしろ れる。其入口の両側には莚が敷いて麦か何かが千してある。家の横手 には一寸した菊の坦がある。小菊が花を沢山つけて咲いて居る。この 絵などは単に山舎の封色を能く現はして居るといふ許でなく、甚だ感 じのよい所を現はして凪る。  十五番の有は乞食が二人ねころんで居る処でそこらには草が沢山生 えて席る。  十六箭の右は鳥居の柱と大きな杉の樹とが何れも下の方一間許だけ やしろ 大きく画いてある。それは社の前であるといふことを示して居る、共 たすき 社の前の片方に手品師が膝をついて手品をつかつて居る。躍をかけ、 広げた扇を地上に畳き、右の手を眼の前にひらけて紙周か何かの小さ ちら くしたのを散かして凪る。「春は三月落花の風情」とでもいふ所であ らう。この手品師が片寄せて画いてある為見物人は一人も画いて居な い。そ二らの趣向は余り獅のない趣向である。  十七番の有は並木の街道に旅人が三二人居る処であるが、これは別 に趣向といふ処もないやうで、たド松の木の向、{側に人を画いたのが 趣向でもあらうか。  十八番の有は海を隔てて向ふに宮士を望む処で別に趣向といふでも ないが、たべこの一巻の最終の画であるだけに、二の平凡な景色が何 となく奥床しく見える。  要するに文鳳の両は一々に趣向かあつて、共趣向の感じがよく現は れて瀦る。筆は粗であるけれど、考へに密である。一見すれば無遊作 に両いたやうであつて、共実極めて用意周到である。文鳳の如きは珍 しき絵かきである、然も册阯ではそれ程の価値を認めて居ないのは甚 だ気の土俳に旧心ふし (二十円日) 圭 ○古洲よりの手紙の端に 御無沙汰をして居つて誠にすまんが、 こ増やうもん 実は小提灯ぶらさげの品川 行時代を追懐して今〔の芳を床上に見るのは余にとつては一の大 苦痢である事を察して呉れ給へ。 とあつた。此小拠灯といふ革は常に余の心頭に留まつてどうしても忘 さtか れる事の出来ない耶突であるが、流石に此道には経験多き市洲すらも 尚記憶してをるところを以て見ると、多少他に変つた趣が存してゐる ざんげ のであらう。今は色気も艶気もなき痛人が寝床の上の繊悔物語として 昔ののろけも亦一肌ハであらう。  時は明治二十七年券三月の末でもあつたらうか、四筒月後には篤犬 もと 動地の火花が朝鮮の共処らに起らうとは囚より知らず、天下泰平と高 をくゝつて遊び様に不平を並べる道楽者、古洲に誘はれて一nのu腿 を大宮公園に遊ばうと行て見たところが、桜はまだ咲かず、引きかへ は ひ して日黒のれ丹亭土かいふに這人り込み、足を仲ばしてしよんぽりと 」…けの,』め「」 して侍つて居る程に、あつらへの筍飯を持つて出て給仕して呉れた十 しか 七八の女があつた。此女あふるゝ許りの愛蛎のある顔に、而もおぽデ一 、土 な処があつて、斯る料理崖などにすれからしたとも見えぬ程のおとな レさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいはず独り胸を蹤らし て居つた、、吉洲の方も流石に悪くは思はないらしく、彼女がラムプを 運んで来た時に、お前の内に一晩泊めて呉れぬか、と舳ひかけた。け れども、お泊りはお断り中しまする、とすげなき返事に、固より共球 を知つて居る古洲は第二次の談判にも取りかゝらずにだまつてしまふ ふけ たしそれから暫くの間雑談に耽つてゐたが、舳川の方へ廻つて帰らう、 遠くなければ歩いて行かうぢやないか、といふ肯洲がいつに無き歩行 説を取るなど、趣味ある発議に、余は困より賛成して共にふらノ\と 二ゝを出かけた。外はあやめもわからぬ闇の夜であるので、例の女は ね見 小山豚的小批灯を点じて我々を迷って出た。虹山一・ん舳川へはど、つ行き ますかといふ間に、品川ですか、品川は此さきを水へ舳つて又右に幽 つて−:・:・−・其処迄私がお伴致しませうといひながら、挑灯を持つて つ 先に駈け出した、我々は背後から睡いて行て一町余り行くと、藪のあ たんは る横町、極めて淋しい処へ来た。此から田圃をお出でになると一筋道 於、舳、 手一 −一 一’ ;、一・!珊、・一盲 ・。。。。 て埼、 、丑轟 尺 。ハ 休 病 1 / 1 だから伐ぐわかります、といひながら小提灯を余に波して呉れたので、 余はそれを受坂つて、さうですか有難うと、別れようとすると、一寸 待つて下さい、といひながら彼女は四五間後の方へ走り帰つた。何か ちうちよ わからんので瞬蹄してゐるうちに、女は又余の処に戻つて来て挑灯を の早・ 覗きながら共中へ小さき巧ころを一つ落し込んだ。さうして、左様な  ご き げんよろ ら御機嫌止しう、といふ一語を残したまゝ、もと来た路を闇の中へ隠 れてしまふ。た。此時の趣、藪のあるやうな野外れの小路のしかも闇の 巾に小拠灯をさげて居るH分、小提灯の中に小石を入れて居る佳人、 余は病蛛に苦悶して舳る今口に至る迄忘れる事の出来ないのは此時の 趣である。それから古洲と二人で券まだ寒き夜風に吹かれながら出胸 路をたどつて品川に出た。舳川は過日の火災で町は大半焼かれ、殊に 仮宅を構へて妓楼が商売して居る有様は珍しき見ものであつた。仮宅 むしろかこ といふ名がいたく気に人つて、滞囲ひの小陸の中に膝と膝と推し合ふ うか め て坐つて居ろ浮れ女どもを竹の窓より覗いてゐる、古洲の尻に附いて し」土す てもと にのほ うつかりと停んでゐる此時我手許より縦の立ち上るに籍いてうつむい て見れば今まで手に持つて居つた捉灯は其轍燭が尽きた為に火は挑灯 に移つてぽう/\と燃え落ちたのであつた。 うたゝ寝に春の夜浅し牡丹亭 春の夜や料理屋を出る小提灯 春の夜や無紋あやしき小提灯 (二十五口) 十西 ○病に寝てより既に六七年、革に職せられて一年に両三度出ることも 一咋年以来全く出来なくなりて、ずん/\と変つて行く衷京の有様は 値かに新聞で読み、来る人に聞くばかりのことで、何を見たいと思ふ ても最早我がカに及ばなくなつた。そこで自分の見た事のないもので、 一寸見たいと思ふ物を挙げると、  一、活動写真  一、n転車の舳脱廿及び舳楽 ”」て上」  一、動物閑の獅子及び駝犯  一、浅草水族飲 へJ ゝ か。」を  一、浅“早十化庸敷の猟々及び獺  一、見附の取除け跡 壮んこう  一、丸の内の楠公の像  一、自働電話及び紅色郵便梱  一、ビヤホール  一、女剣舞及洋式演劇 えぴちやはかま  一、鰻茶袴の運動会 いとま など数ふるに暇がない。 圭 て (ニト六〔 ○狂言記といふ書物を人から借り一上一つ三つ読んで見たが種々な点に 於て面白い事が多い、、狂言といふものは、どういふ工合に発達したか や 十分には知らぬが、兎に角能楽と共に舞台に上る処を見ると能楽が稍 や 稍向尚で全く無学の者には解せられぬ処があるから、能楽の真面Hな る趣味、肯雅なる趣味に反対して、滑稽なる趣味、卑俗なる趣味をも きるかく でん つて俗人に解せしめるやうに作られたのである。併し昔の小楽とか田 がく 楽とか、冒ふものの趣味は能楽よりも却て狂言の方に多く存して帰るか も知れぬ、少くとも彼等吉楽の趣味が半ばは能楽となつて真而目なる 部分を凸領し半ばは狂言となりて滑稽なる都分を凸領したのイ、あらう。 そこで此狂言といふものには時代の古いものがあるかも知れないが先 づ普通には足利の中、蜘より徳川の初め迄に出来たものかと思はれる。 従って狂一一口は共時代の風俗及び言葉を現して柑るものとして見ると尚 た 1 面白い事が多い。狂吉の趣味はしばらく論ぜずに帷セ歴火的の観察上 面白い事は、たとへば此に「スハシカミ」といふ狂吉を取って見よう すうり土」じかみうり 屯っ ならば是れば酢売と謹売との事であつて二人が亙ひに自分の売物に勿 2 1 1 たい 体をつけるといふ趣向でめる。これを見ると其の頃酢売とか欝売とか ラりあ る いふものがあつて、町を売歩行いて居つたといふ事がわかる。而も其 いづみ 酢売は和泉の国と名乗り、蓮売は山城の国と名乗つて居る処を見ると、 是等の処が酢又は鵡の産地であつた衷もわかる。それから酢は竹筒に 入れてあつて、それを酢筒と名付け、謹は藁ヅトの中に入れてある。 それから某言葉を見るに、酢の売言葉は「スコン」と言ひ、蓮の売言 葉は「ハジカミコン」といふなど何となく興味がある。此の「コン」 といふ言葉は意味のある言菓かどうか善く分らないが或は「買はう」 といふ言葉のつまつたのかとも思はれる。又「シヤウバイ」とも言ひ 「アキナヒ」ともいふを見れば此時代から既に両方の言葉が用ゐられ て居つたのが分かる。又酢売が蓮売に対して「オヌシ」といひ、婁売 が酢売に対して「ソチ」といふのを見ても当時の二人称には斯様な言 葉を用ゐたのである。余の郷里(伊予)なぞにては余の幼き頃まで尚 「オヌシ」又は「ソチ」などいふ二人称が普通語に残つて居つた。又 、 、 、 蓮売の言葉に「コノワヲヅトウナドニハ、イカウケイヅノアルェ、ノヂ しやうがうり ヤ」といふて居る。而して共の「ケイヅ」といふのは背生蓮売が禁中 に召されて何々といふ歌を下されたといふ事なのである。シテ見ると ゆゐしよ 此「ケイヅ」といふ言菓は誇る可き山緒といふやうな事を意味する当 時の俗言であつたと見える。又「スキハリシヤウジ」、「カラカミシヤ ウジ」などいふ言葉があるのを見ると、今いふ紙張の障子のことを 「スキハリシヤゥジ」と言ひ、今いふ「カヲカミ」の事を「カヲカミ シヤウジ」といふたのである。其外、風俗言語の上に、尚いろ/\と 変つた事があるやうであるが、よくく研究せねば分らぬ葉多い。 追々分つて来たらば愈㌻川白いに遠ひ・。〜い。 (二十七口) 士一 ○病勢が段々進むに従って何とも言はれぬ苦痛を感ずる。それは一度 死んだ人か若しくは死際にある人でなければわからぬ。然もこの苦痛 は誰も同じことと見えて黒旧如水などといふ豪傑さへも、矢張死ぬる 前にはひどく家来を叱りつけたといふことがある。この家来を叱る二 もと とについて如水自身の言ひわけがあるが、その言ひわけば固より当に ひつきやラ なつたものではない。畢竟は苦しまぎれの小言と見るが穏当であらう。 む つ しき じ じ 1』 じ 陸奥福堂も死際には頻りに妻君を叱つたさうだし、高橋自侍居士も同 じことだつたといふし、して見ると苦しい時の八つ当りに家族の者を 叱りつけるなどは余一人ではないと見える。越後の無事庵といふは一 度も顔を合したことはないが、これも同病和憐む中であるので、手紙 つひ の上の問ひ訪づれば絶えなかつたがごとし春終に空しくなつてしま ちゆじん もくこラ ふた。其の弟の・人典遺子木公と共に近蜘吾が病床を訪づれて、無事 庵生前の話を聞いたが、斯くまで其容体の能く似ることかと今更に篤 かれる。二一の例を挙ぐれば、寸時も看病人を病抹より離れしめぬ事、 すぺ 凡て何か命じたる時には其詞の未だ絶えざる中に、其命命を実行せね ば腹の立つ事、目の前に大きな人など居れば非常に呼吸の苦痛を感ず る事、人と面会するにも人によりて好きと嫌ひとの甚しくある事、時 によりて愉快を感ずろと感ぜざるとの甚しくある事、敷蒲団堅ければ 骨ざはり痂く、敷蒲団やはらかければ身が蒲団の中に埋もれて却て苦 しき事、食ひたき時は過度に食する衷、人が顔を見て作外に痩せずに 居るなどと言はれるのに腹が立ちて火箸の如く細りたる足を出して是 でもかと言ふて見せる事、凡そ是等の事は何一つ無事庵と余と異なる 事の無いのは病気の為とは言へ、不思議に感ぜられる。此日はかゝる 1こはか 話を聞きレ為に、共時迄非常に苦しみつゝあつたものが、遮に愉快に なりて快き林一飯を食ふたのは近頃嬉しかつた。 したゝ  無斑庵の遺筆など児せられて感に壊へず、吾も一句を認めて遺子木 公に示す。 鳥の子の飛ぶ′時親壮なかりけり (二十八日) 十七 L ・ ・社一績− ・ 。三量“羨 ,事・奉坤、」 1、 』 パ 蛛 病 3 1 ! は ひ ○巾州の吉田から三二里遠くへ逓入つた処に何とかいふ小村がある。 いちご ぱラ 共小村の風俗習慣など一五坊に脚いたところが甚だ珍しい事が多い。 一二をいふて見ると。 は壮」お  総て此村では女が働いて”が遊んで居る。女の仕事は機織りであつ か ひ き て即ちw斐納を繊り山すのである。共甲斐紺を織る事は存外利の多い もつと ものであつて一匹に三二円の利を見る事がある。尤も一匹繊るには三 口程かゝる、併し此頃は不景気で利か少いといふ事である。一家の活 計はそれで立てて行くのであるから従って女の権利か強く且つ生計上 の小に就ては何も彼も女が弁じる事になつて居る。易の役といふは山 へ這入つて薪を採つて来るといふ位の事ぢやさうな。  叩斐紺の原料とすべき蚕は矢張共の村で飼ふては居るがそれだけで は原料が不是なので、信州あたりから糸を買ひ入れて来るさうな。共 出来上つた甲斐納は吉旧へ行って月に三度の市に出して売るのである。 かラもりかさ  甲斐紺のうちづ、も蛎蝸傘になる考は無論織り方が違ふ。  機を織るものは大方娘ばかりであつて既に統婚した程の女は大概機 こしら を織る迄の搾へにかゝつて居る。それが為に娘を持つて居る親は答易 に共娘に結婚を許さない。成る可く長く(二十二三迄も)自分の内に 置て機を織らせる。共締果は不品行な女も少くないといふ事である。 めと  古来の習憤として易子が妻を娶らうと思ふ時には先づ自分の好きな なかうと 女に直接に話し合ふて見る。共女が承諾したならばそれから仲人の如 きものをして双方の親達に承諾せしむるのである。女の親が承諾しな あまた いといふやうな場合には坦は数多の仲問を語らひて共女をかどはかし 何処かに隠してしまふといふやうな事がある。併し此頃ではきういふ 事が少くなつたさうな。 たと  此村は桑園菜畑杯は多少あるが水旧は無い、又焼石が多くて木も草 も無いやうな処がある。 こ とか  此辺の習慣では他人の山林へ這人つて木を樵つて来ても咎めないの である。柿の木などがあれは共柿の実は誰でも勝手に落して食ふ。干 柿などがあれは共干柿を取つて来て食ふ。さうして何某の内の柿を取 はゞか つて食ふたといふ事を公言して伜らないさうな。  此辺は勿論食物に乏しいので、客が来ても御馳走を出すといふ場合 さかな には必ず酒を出すのである。下物は菜潰位である。女でも拷大酒であ るといふ典ぢや。 もと 二 たつ  此辺は固より寒い処なので共の火燵は三尺四方の大きさである。併 し寝る時は火燵に寝ないで別に設けてある寝室に行て寝る。其寝室は 一人々々に一室づゝ傭はつて居る狭い暗い処であつて蒲団は下に藁蒲 団を用ゐ、別に火を入れる事は無い。さうして共の蒲団は年が年中敷 き流しである。(寝室の別に在るところは西洋に似て盾る)  寝室に限らず余り掃除をする事がない。  客が来ても客に煙草盗を出すことは無いさうな。若し客が巻煙草で も飲まうと思へば其処にある火燵で火を附けるか、又は自らマツチを 出して火を附けるかする。共吹殻の灰を挫のへりなどへはたき落して 置いて一平気のものである。  前にいふた様に機織の利か多いのに外にこれといふ贅沢の仕様も無 いので、こんな辺郡の村でありながら割含に貧しくないといふ事であ る。  此村には癩病は多い。それが為かどうかは知らぬが、今迄は一切他 の村と結婚などはしなかつたといふ事である。 (二十九u) 十八 ○文人の不幸なるもの寧斎第一、余第こと思ひしは二三年前の事なり、 今はいづれが第一なるか知らず。  しゆちくさんしん ○種竹山人長崎より一封を寄せ来る。開き見れば詩あり。 きやうのきやくじ 二く王んしんはラめするところの きよし はいカいにつき油 しきしのきんじやうをしよする 崎陽客次。閲国民新靴所載。虚子俳諧日記。叙子規子近 をよみ あんせんこれをひさLラす よつていちぜつ吐五し はるかにしきにおくり あはせてきよしにLめす 状。緒然久之。困賦一絶。遙贈子規。併似虚子。 しようきよのし せつ L止、ラれいにゑふ 松魚時節酔湘醒。 しうえ上け祉りのごとくまなこにいつてあをし 衆葉如煙入眼青。 4 1 1 いね寸して きみ中おもひやはんを寸ぐ 不寝思乃過夜半。 て札ペベ」一れのところ▲lし きの てい 天辺何処子槻亭。 十九 (三十日)  り且さいひろしげ ’ ○立斎広重は浮世画家中の大家である。共の景色画は誰も外の老の知 らぬ処をつかまへて居る。殊に名所の景色を画くには第一に共実際の 感じが現はれ、珊二に共景色が多少面白く美術的の画になつて居らね たしか ばならぬ。広煎は憧に二の二筒条に目をつけて且つ成功して居る。二 すて の点に於て已に彼が凡画家でないことを証して肚るが、尚共外に彼は 遠近法を心得て居た。即ち近いものは大きく見えて、遠いものは小さ く見えるといふことを知つて居た。これは誰でも知つて居るやうな二 とであるが、実際に西の上に現はしたことが広重の如く極端なるもの は外にない。例へば浅車の観音の門にある大提灯を非常に大きくかい て、本堂は向ふの方に小さくかいてある。口の前にある熊予の行列は お吊とり 非常に大きくかいてあつて、大鷲神壮は遙かの向ふに小さくかいてあ よろひ る、鎧の波しの波し舟は非常に大きくかいてあつ士、向ふの方に蔵が 小さくかいてある。といふやうな薪しい遠近大小の現はしかたは、〕 杢画には殆どなかつたことである。広重は或は西洋両を見て発明した のでもあらうか。兎に角彼は憧に尊ぶべき画才を持ちながら、全く浮 世絵を脱してしまふことが出来なかつたのは甚だ遺憾である。浮世絵 を脱しないといふことは共筆に俗気の存して居るのをいふのである。 (一一一十一H) 二十 けい宇。しい ○広重の草竿画譜といふものを見るに惹斎の愁斎略岡式の斬新なのに は及ばないが、併し一体によく出来て居る。今共の卓筆、晒譜の二、細と いふのを見付け出して初めから見て行くと多少感ずる所があるので必 ずしも画の評といふ訳ではないが一つ二つ挙げて見しよう。 ふもと  侮年正月には麓より竹籠に七卓を植ゑたのを贈つて火るから是れば 明治に。。仏つての植木屋の斯趣向であらうと思ふて杜たら此の帖策醐諦 (慕永三年{版)にも同じやうな画が山て舳る。是の三木一ノいた竹純 に何か小さいものが植ゑであつて共中に木札が四五枚立つて川一勺、き うして共の総の傍には羽子板が一つ雌てあ乃のを見ると此の籠の}に カ 植ゑであるものは帷かに七單に遠ひない、斯かる気の利いた蝋物は江 戸では昔からあつたものと児。える。 かめゐと  同じ木に租、尸神杜の一岡があるが、これは鳥居と社とばかりであつて 共の傍に木立と川とがある。さうして共の近辺には家も何もない、今 とは形勢が非術に変つて肚たものと見える。 を1九札}へ1』  同じ本に二寸角ばかりの中に女如花が画いてある。共の女郎花の画 き方が前の方にある二一木は共の草の上半即ち花の処が幽いてある。 さうして共の画の後部即ち上の方には女郎花の下半即ち下の方の某と 葉ばかりの処が二三本両いてある。これは極めて珍しい両き方と思ふ が果して広重の発。明1、あるか、攻ひは光琳などイ、ら両い一、肘、り堺があ らうか、或ひは西洋聞からイ、ら来て居る/。あら、つか。、 ’「二」  同じ本に大月以と魎すろ両がある、これは前に突兀たる山脈が。長く 上二』」 横はつて共上に大きな常土が[く出て居る所イ、ある。{、則士の一凹などは 児狗陳腐になり又嘘らしくたムるものであるが、此。凹の如く別に珍しい 配介も無くして却て宮士の大きな感じが普く現はれて舳るのは少ない。 ラ がへ」  同じ本に鵜飼の画がある、それは舟に乗つた一人の鵜匠が左の子に {」いま一」 二木の鵜縦を持つて右の手に松火を振り上げて厭る。鵜蝸の小は十分 に知らぬけれど、是れでは鵜縄を引上げる典が出来ぬやうに思ふが、 それとも実際かういふ方法らあつたのであら■うか。 (六月一H) 一一士 い呈oろ ○余は今迄禅宗の脈謝怖りといふψを判、凧解して居た。価りとい 如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思てて居たのは間遠ひで ふ郭は 、吾り  寸 繋吉 、。帖な勘一、。一、 j王薫氏沖城嚢激鍬里一 、。 尺 六 沐 病 ’o 1 1 といふ事は如何なる楊合にも平(刈刊、乍、・−一、二、缶る事刊、あつた。  ちな ’・ 一 ふつ−」やう いぱ一、 ○因みに問ふ。狗子に仏性有りや。日、苦。 いかん  又問ふ。机師西来の愈は奈何。日、苫。  又問ふ。−−・・−−−…・・−・・−−、〔、片。 一手二 (二 〔 ○大阪の露石から文嵐の帝郁雅景一覧を贈つて呉れた。これは京の名 所を一々に写生したもので、其画に雅致のあることはいふ迄もなく、 垣つ 其画が共名所の感じをよく現はして胆ることは自分の嘗て見て居る処 の実最に比較して見てわかつて居る。他の処も必ず嘘ではあるまいと 思ふ。応挙の画いた嵐山の図は全くの写生であるが、其外多くの山水 いへど は応挙と雖も、写生に重きを祓かなかつたのである。共外四条派の画 量、’ムづ とか を には清水の桜、栂の尾の紅葉などいふ真抵を写したのが無いでは無い やうであるが、併しそれは一小部分に止つて、しまつて、全体からいふ と扶色両は写生ーでないのが多い。然るに文鳳が一々に写生した処は日 木では極めて珍しいことといふてよからう。共後広重、が浮世絵派から 出て前にもいふたやうに蚊但画を両いたといふのは感ずべき至りで文 鳳と併せて景色画の二大家とも一言ってよからう。たゞ共筆つきに至つ ては、広重には俗な処があつて文鳳の雅致が多いのには比、べものにな らんコ併し文鳳の方は京郁の名所に限られて居るだけに共画景が小さ いから、今少し宏大な扶色を画かせたら共景色の写し工合が広亜に比 して果してうま〃い〃イ、あらうかどうイ、あらうか、文鳳の琵琶湖一覧 といふ書かあるならば、それには大景もあるかも知れんが、まだ見た ことがないからわからん。 (一。、口) 二圭 ○欧洲に十年許も居て帰つ一−、来た人の話に  ヘニ、は吐界中イ、〔木陀思ろしい旧はないと西洋人十“思ふ!、舳ろイ、あ ら」う。〔本の政治家、は腐敗して居るとか、官吏が収賄して店るとか、 議員が買収せられたとか、革族が役にたゝんとか、厄に角上流社会に ことん、しL 向ってはいくらの井難があるとしても、下等社会が悉く憧かである、一 将校にはいくら腐敗したものが多くとも、兵卒は皆愛国の火イ、あろ、 かういふ風に一国の土台となる、べき下等社会が憧かであれは火NのL き「かひ びる気遣はない。若し此上に進歩して行たならば日本はどんなことを し 一」か 仕出来すかも知れない。何処の国でも恐らくは日本の将来を恐れて舳 らぬ者はなからう。  ところが西洋の社会を見ると、日本とは反対に上流社会即ち紳士な る者は砦立派なる人達であるが、下流社会即ち一般の人民は皆腐敗し て居る。下等社会に愛国心のあるなどといふのは一人もない、言は、、 利の為に集まつて舳るやうなものである。  砕舳炉(似バ)などは披も荘しく乱れて居る国イ、あるが人氏が少し も共政府を信川して居らぬ為に金のある宥もn分の国の公伐を買はず に信用ある外国の公償を…只ふ。別荘を建てるのにも口分の国へ建てず に外国へ建てて居くといふ次第である。  伜断炸(〃。幻)なども到底共和政治で持切つて行く理は出来まい。 仏鯛胴の下等社ム、Aも今の政府に対して余り情川を置いて居ない。  O O 山、一すオ  独逸(バィ)は流石に今u勃典しつ、ある勢は盛で此国の下惇社会 は他国程腐敗せずに居る。  o o  英国も矢帳衰へて行く方であらう、 落蛇一〃シ一はえらい。  廿平巾ハ(→ル)は殆ど滅びて凪る。  仲断(吋灼)も矢張老、災でしかたがないコ  阯甲静(朴け)は奇妙な国で陸海軍のない、たど商工葉を以て成北 つて居る国である。一人子様も商売は上手で、非常な企持1、ある為に外 の者は心服しなくとも、少くも繭人だけば一目を碓いて舳るコ北H廃 とくい せられた有名な公許雌樽場も、天子様が一大華客である。などと嘩せ 6 1 1 られる穐のことである。此国の鉄道は有名なもので、これは悉く国有 である。この、頓は日本からも商業上の留学生を此国へ出すやうになつ たが、黒山の話では画の修業も、此国へ租学させたらよからうといふ て帰た。  要するに新たに勃典した国は総て勢が弦く、古い国は多くは腐敗し 一」衰運に像きつゝあるやうに見える。 デソ叩ーク  それから大国と小国との関係に就いて、例へば丁抹とかいふやうな 兵力のない国は、大国に対して少しも煩が上らないであらうと思ふや うであるが、実際はそれ程でもないものである。何か国際上の間魎が 起つた際にも、小国の方ではn分が小国であるから大国に馬鹿にされ て ごは るのであるといふやうなひがみ棋性を起して存外に子強く談判を持込 むやうなことがある。日本でも事によると自分の弱いのを気にして却 て大国に向って強く突込んで行く事がないでもない。  権利とか平等とかいふけれど、日本程下等社会の権利か主張せられ る処は西洋には少いであらう。日本では下等社会の奴が巡査の前で堂 堂と自己の権利を首ひ張つて何処迄も屈しないといふやうなのがある が、西洋では上等社会と下等社会と喧嘩したらば、如何なる場合でも 上等社会が勝つに極つて居る。よき着物を粛たものと汚ない着物を着 たものと喧嘩したらば、よき着物を着た方が巡査の前へ出ても必ず勝 つことに極つて居る。 (四日) 二十四 ○近作数首。 −卜kH司抹u、 巾、可■蚕ユ ノ かげろ五 陽炎や日本の上にかりもが 送 別 ゑの やたき 君を送る狗ころ柳敵る頃 欧羅巴へ行く人の許へ根痒の笹の雪を贈りて に 日本の春の名残や豆腐汁 無卒庵久しく病に臥したりしが此頃み玄かりぬと聞きて ほとゝ}す 時烏乱世の一句無かりしや 鵬小、翁の苦心帖に拙くも瓶巾の巧薬を写坐して自ら二句を讃す しやく やく 有薬の衰へて在り枕許 巧薬を画く壮丹に似も似ずも くも 一リ 謡幽殺化石を読みてu占数仙 玉虫の穴を出でたる光りかな 化物の名所通るや春の雨 殺生石の空や遙かに帰る雁 (ガロ) 二圭 “うひ ’、一ん「」ん 上くろ“ ○近頓芳非山人が臭の鳴声を聞かんと四方の士に求められけるに続々 四方より報知ありて但々面白い鳴声もあるやうであるが、大体は似て 居るかと思はれる。吾が郷里予州松山では、臭が「フ〃ツク、ホーソ」 となけば胴が降る「ノリツケ、ホーソ」と鳴けば叩]の天(スは崎であ るといふ天気予報に見られて居る、さうして臭の坐をば俗にフルツク といふ。俳句では之を冬の部に入れてあるが、それは恐らくは ゑん すゐ 臭は眠る所を書\れけり 猿雖 さるみの といふ句が猿蓑の冬の部に人れられたから始まつたのであらう、従っ  みゝっく 肖月、うき喧、うしき て木兎も矢張同じ事に取扱はれて居るが、貞享式に「吉抄は秋の部に 入れたれど渡り鳥にもあらず、色貼にもあらず、まして鳴声の物凄き は寒さを厭へる故にとや、決して冬と定むベレ」とあるけれど、臭は 元来付咋の時候をよく鳴くものであるか、余の経験によると、上野の 森では征年春の末より秋の半ばへかけて必ず火が鳴く、これは余が秘 き じちやう 岸に来て以火経験する所であるが、夏の夕方、錐子町を出でて、吾家 への帰るさ、月が涼しく照して気持のよい風に吹かれながら上野の森 をやつて来ると、音楽学校の後ろあたりへ来た時に必ず共のフルツク 山 ’ 一。# −一三 。蘂繋護蟹蕃董彰紅緊艶撫一。 尺 L、 一ノ 休 病 7 1 1 ホーソの声を閉く事であつた。征晩大概同じ見当で鳴くやうではある が、併しどの辺の木で鵬くのか共処まで研究したことは無い。病に寝 て後も矢張り例の鳴声は根津まで問えるので、此明でも病床で毎晩聞 く いて居る。日の晩れから鳴き出して夜更けにも鳴くことがあるが時と しては二羽のつれ鳴に鳴く声が問える事がある。又ある時は吾が庭の さす。か 木近くへ火て鵬く事もあるが、余り近く鳴かれると流石に物凄く感じ る。さうし。て秋の半ば稍々夜寒の頃になると何時も鳴かなくなつてし す よ そ まふ。して見ると上野には秋の半ば迄棲んでゐて、それから余所へ鞍 居するのであらうか、又は上野に居るけれども鳴かなくなるのであら 、つか、物知りに敦へてもらひたいのである。  此鳥の鳴声の事をいふと余は何時もコルレツヂのクリスタベルを聯 想する。 >邑旨①・考赤臣く①ゆ奏庁窒①{旨①9◎乏畠80打 弓o−婁げ岸一−弓巨−奉旨○◎一 (六日) 二芙 ○今日只今(六月五日午後六時)病休を取巻いて居る所の物を一々数 だ て へて見ると、何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達正宗の額、向島百 花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ 赤矯冊などの外に。  写真双眼鏡、是れば前日活動写真が見たいなどといふた処から気を きかして吉洲が贈つて呉れたのである。小金井の桜、隅旧の月夜、囚 子の浦の浪、再花園の萩、何でも奥深く立体的に見えるので、外の人 のモ は子供だましだといふかも知れぬが、自分には之を覗くのが嬉しくて 嫡しくて堪らんのである。  、山ぐ荒由iちん くわりふ  河豚拠灯、是れば江の島から花笠が贈つて呉れたもの、それを頭の 三ラく10う 上に舳してあるので、来る人が皆豚の膀胱かと間違へるのもなか/\ 興がある。  ラ マ けラ まんだ ら  刺嚇敦の愛陀羅、是れば三尺に五尺位な切れで唯にかけるやうにな つて肚る、共中央一ぱいに一大円形を画き、共円形の内部に正方形を 画き、共正方形の内部に更に小円形を岡き、共円形の中に小さな仏様 が四方四而に向き合ふて画いてある。共あたりには仏具のやうな物や 仏壇のやうなものが欠張幾何学的に排列せられて居る。又大円形の周 囲には、仏様や天部の神様のやうなものや、紫㌘や、青雲や、内雲や、 古けくゝ 奇妙な赤い箭括りのやうなものが附いて肚る樹木や、種々雑多の物が 赤青白黄紫などの極彩色で画いてある極めて糀巧なものである。 ふすま し よ,  大津絵二枚、是れば五枚の中のへげ残りが襖に帖られて居る。四ガ た へi”一ん 太が大津から買ふて火た奉苫摺のものである。今在るのは猿が瓢箪で なまつ ふ、、ろくし、} さかやき 脆を押へとる処と、大然が福禄寿の頭へ梯子をかけて月代を剃つて盾 る処との二つである。  ちやうじす州一れ  丁字簾一枚。是れば靭鮮に瓜る人からの贈物で座敷の縁側にかゝ とは カつをラ つて居る。この簾を透して隣の瑚翁のうちの竹藪がそよいで居る。 はへとりなでしこ  花菖蒲及び蝿取撫子、是れば二三日前、家の者が堀切へ往て収つて ほづま 帰つたもので、今は床の脚の花活に活けられて居る。花活は秀真が鋳 たのである。 か■いろ  美女桜、ロベリヤ、松葉菊及び樺色の革花、是れば先日碧柵桐の持 つて来て呉れた盆栽で、今は床の舳の前に並べて置かれてある。美女 桜の花は濃紅、松葉菊の花は淡紅、ロベリヤは童よりも小さな花で紫、 セたまききう のう壮。んかづつ 他の一種は苧環單に似た花と菓で、花の色は凌宵花の如き樺色である。 もくくわい  黄百介二本、是れば去年信州の木外から贈つて呉れたもので、諏訪 山中の産ぢやさうな。今を椛りと庭の真中に開いて居る。  美人草、よろ/\として風に折れきうな花二つ三つ。  ぜにあふひ  銭葵一本、松の木の蔭に伸びかねて居る。  ’」ら いんこラしよく  蒲薇、大方は散りて股紅色の花が二一輸咲残つて居る。 しひ かし  共外庭に在る樹は椎、樫、松、梅、ゆすら梅、茶など。  枕許にちらかつて在るもの、絵本、雑誌等数十冊。湿時計、寒一帷計、 だ こ 硯、筆、唾壷、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンカチ、共}に 8 1 1 〔立ちたる官綜Fのはでなる毛蒲団一枚、是れば軍艦に居る友達から 贈られたのである。 (七口) 二毛 あ5そん ○枕許に光琳画式と篤邨画譜と二冊の彩色本があつて毎朝毎晩ラてれを ひろげて見ては無上の楽として居る。唯それが美しいばかりで無く此 小冊子でさへも二人の長所が普く比較せられて居るので共点も大に面 白味を感ずる。殊に両方に同じ画題(梅、桜、百合、椿、萩、鶴な ど)が多いので比較するには抜も便利に出来て居る。いふ迄も無いが 光琳は光悦、宗達などの流儀を真似たのであるとはいへ兎に角大成し て光琳派といふ一種無類の画を書き始めた程の人であるから総ての点 に刎意が多くして一々新機軸を出して居るところは碕ど比肩すべき人 はういつ を見出せない程であるから、とても抱一などと比すべきものではない 抱一の画の趣向無きに反して光琳の画には一々意匠惨澹たる者がある しぱら お のは怪しむに足らない。そ二で意匠の点は姑く措いて筆と色との上か ら見たところで、光琳は筆が強く抱一は筆が弱い、色に於ても光琳が 強い色殊に黒い色を余計に用ゐはせぬかと思はれる。従って草木など たゞ の感じの現れ方も光琳は矢張強い処があつて抱一は唯なよ/\として 居る。此点に於ては勿論どちらが勝つて居ると一概にいふ事は出来ぬ う官 強い感じのものならば光琳の方が旨いであらう。弱い感じのものなら けしじ ぱ抱一の方が旨いであらう。それから形似の上に於ては草木の真を写 して尿る事は抱一の方が精密な様である。要するに全体の上に於て画 家としての値打は勿論抱一は光琳に及ばないが、草花画かきとしては 抱一の方が光琳に勝つて居る点か多いであらう。抱一の草花は形似の トに於ても精衙に研究が行価いてあるし輪郭の画き工合も光琳よりは 柔かく両いてあるし、彩色も小柔か〃派子に彩色せられて居る。或人 は丸イ」魂の無い画だといふて抱一の悪口をいふかも知れぬが、草花の 如きは元来なよ/\と優しく美しいのが其の本体であつて魂の無いと ころが却て真を写して居るところではあるまいか、此の二小冊十を比 較して見ても同じ百合の花が光琳のは強い線で画いてあり抱一のは弱 い線で画いてある。同じ萩の花でも光琳のは葉が硬いやうに児。、札て抱 一のは葉が軟かく見える。詰り萩の様な軟かい花は抱一の方が批も普 し だ ざくら く真の感じを現して舳る。鴬邨両諦の方に枝垂れ桜の画があつて共木 の枝を催かに二三木画いたばかりで枝全体には悉く小さな薄赤い値が 附いて居る。共の優しさいぢらしさは何ともいへぬ趣があって斯うも しなやかに画けるものかと思ふ程である、光琳画式の桜は之に比する あゐ』ろ と余程武骨なものである。併し乍ら光琳画式にある画で藍色の靭顔の いね 花を七八輪画き共の下に黒と白の狗ころが五匹杵り一緒になつてから かひ戯れて居る意匠などといふものは別に奇想でも何でもないが、実 に共趣味のつかまへ処はいふにいはれぬ旨蛛があつて抱一などは埜に も其味を知る事は出来ぬ。 (八H) 二天 ○長崎にては背から文那料理の事を「シツポク一といふげな。何枚と いふことは分らぬ、食卓といふ字の昔でもあるまい。余の郷里にては うとん 」ひたけ 言 にん1じん 言、一。 體餉に椎茸、芹、胡薙葡、焼あなご、くずし(蒲鉾)など人れたるを めんるゐ シツポクといふ。これも支那伝来の意であらう。窮類は総て文那から 来たものと見えて皆漢音を用ゐて肚る。メン(類)ソーノン(索酌) ニューメン(乳類か此語漢語か何か知らぬ)メンボー(甥棒)ウンド そ ’」 ン(鯉餉)の類皆これである。それに猶面口い事は夜…鰯触祷麦など 売りに来る商人が地方によりて「ハウ/\」と呼ぶ事である、此「ハ ウ」は文那語の好の字にてハウ/\は即ち好々といふ意になる、支那 あたか では一般に好的、好々などいふて恰も我邦の「普い」「上等」などい ふ処に用ゐる。 ○ソーメンを索獺と書くは誤つて居る。矢張「索窮一と書”方が善い、 索「ナハ」の如き窮の意であちう。 繋。∵ 含軟象選淺oo 尺 六 休 病 9 1 1 二十九 (九日) ○魚を鉤るには解か必要1、ある。共餌は魚によつて地方によつて余程 違ひがあるやうであるが再が郷里伊予などにては何を用ゐるかと、共 の逝の人に問〃に  .・ ハヤ ふな ラ壮ぎ  蛆矧(払、)て津洲哨るものは鮒鉤、鮒鉤、ドンコ釣、ゲイモ鉤、鰻 釣、手長海老釣、スツポン鉤  ■ ■ ■  川海老 を用ゐるものは鮪釣、ゲイモ釣、ギゾ釣  . . . す  エブコ (野葡萄の如き野草の茎の中に棲む虫)を用ゐるものは鮪 釣  ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■  ギスゴ、ハタハタ を用ゐるものは鮪鉤  ■  蚕を用ゐるものは鮒釣  . . . く も  セムシ (川の浅瀬の石に蜘蛛のやうな巣を張りて住む大きなもの と川の砂の中に砂を堅めて小さき筒状の家を作りて住む形の 小さなものとの二種類ある)を用ゐるものは鮪鉤  叩蜘(けに)を用ゐるものは手長海老  アカヒキ 壮まっ  赤蛙 を用ゐるものは総釣  ■ ■ ■ ■ ■  海の小海老を用ゐるものは小鯛釣、メバル釣、アブラメ、ホゴ其 ぎ こ 外沖の雑魚鉤  ■ ■ ■  シヤコ を用ゐるものは小鯛釣  ■ ● ●  小烏賊 を用ゐるものは大鯛釣  . . ・ . . す、上き  シラサ海老 を用ゐるものは大鯛釣、鰯釣、チヌ釣  ■ ■ ■  ゴカイ チヌ釣、雑魚釣 などの如く多くは動物を用ゐるのであるが、中には変則な奴もある、 あ畦 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ それは鮎を釣るにカぐシヲ鉤(蚊蚊)を用ゐ、鮒を釣るにハイガシラ ■ ■ ■ (蜘顕)を用ゐ、ウルメを鉤るにシラベ(白き木綿糸を合せたるもの) い か ■ ■ ■ ■ を用ゐ、烏賦を釣るに木製の海老を用ゐる如き類ひである。力ぐシヲ はり とは獣毛を赤黒黄等に染めたる短きものを小さき鉤につけて金又は銀 の小』一二、一頭がついてゐろ。鮎は此の美しさ鉤を児/、蚊・一一思ひあやまり ● ● ■ ■ ■ て喚ひつくといふ事ぺ、あろ。ハイガシヲは猷イ、tを薄黒色に染めた短い ものを鉤につけてス、れに黒い弧がついてゐる、木製つ海老・一」付木イ、海 いへりカ上」 老の形に作つた二寸許りのもの、尾の所に三木の鋭き鉤が碇形につい てゐる。烏賊は之を真の海老だと思って八本の手で抱きつくと鉤は彼 の柔かな肉を刺すのである。  吏京の鉤堀なぞでは主に鯉を釣るのであるが、さて共の解とすべき 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ものは姓だ種類が多い。フカシイモ、ウドン、ゴカイ、ムキ、・、、、・、、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ズ、サナギを飴糟にて練りたるもの、などを用ゐる。さすがは郁の産 れだけに火京の鯉は贅沢になつてこんなに様々な御馳定を食るのぺ、あ 壮け らうか。地方に、一つては此外に猶種々の異つた餌があるであらう。 (十口) 三十 ○窮して而して始めて一条の活路を得、始めより窮せざるもの却て死 地に陥り易し。 ○釣に巧なるものあり、川の写典を見て曰く、此川にはきつと鮎が居 ると。 もと ○幕府以来の名家凶より相当の産あり、而して共の朝飯は味暗汁と香 た虻 の物の外、又一物を加へず。之れを主人に質せば、主人曰く、我も余 いたしかた りまづい朝飯とは思へど、古来の習慣今更致方もなしと。 か や ○蚊が出ても蚊帳がないといふ者あり。曰くヲムプを明るくして寝ト{ (十一目) 冒一十一 まきもち ○高等文学校の教科書に石川雅塾の書きたる文を載せたるに、其文は こ: ■ ■ ● ■ ■ ■ . ■一 両国の四ツ目屋といふいかゞはしき店の記事にてありしため俄かに世 問の物議を起し著者を黄むるもあれは、文部省の審査官を責むるもの もあり、其責め様にも幾らか程度の寛厳があるやうであるが、余の考 0 £ 1 へにては世問一般の人が責める所の方面、即ち著者の粗漏とか、審査 の粗漏とかいふ事でなく、他の方面より責めたいのである。それは著 者及び審査官の無学といふ事である。余の臆渕にては著者も文部劣の 篠査官惇も恐らくは四ツH星の何たるを解せずして之を評中に引き又 之を審査済として許可したるものであらうと思はれる。して見れば彼 等の無学ば終に此の不都命なる締果を来したるもので、其無学こそ責 むべきものではあるまいか。従来国文学者又は和学者などといふもの は主に源氏物語枕車子などの研究にのみ力を用ゐ、近世の事即ち徳川 氏以下の事に至つては之を単に卑俗として排斥し顧みない為に、近世 三百年間の文学ば全く知らないものが十の八九に居るのである。今度 の四ツ日屋事件も之を知らなんだといふ事は固より一小事であつてさ とが のみ咎むるに足らんやうであるが、其実此事に限らず徳川文学を金く し」上 研究しないといふ結果が偶然麦に現はれたのであるから余は何処迄も いはゆる 所謂擬古的文学者の無学なのを責めたいのである。殊に其意味さへ解 せずして之を教科書に引川した教科書著者の乱暴には驚かざるを得な い。此機を以て文学者の猛省を促すのである。 (十二日) 皐一一 た ゞ ○道具の贅沢などは一切しようと思はぬが只ミ硯ばかりは稍々よきも のをほしいと思ってゐた。併し二円や三円のはした金では買へぬと聞 いてあきらめてゐた。所がどういふわけだか近顕になつて益ミそれが ほしくなつたけれど、今更先の知れた身で大金を出すのも余り馬鹿馬 腹しいので仕方なしに在り来りの十銭か十五銭の硯ですましてゐると、 碧梧桐が共亡兄黄塔の硯を持つて来て貸して呉れた。其硯は一面は三 方を溝の如く彫り、他の一面は芭蕉の葉を沢山に彫つてある。其石材 は余りよいのでもない様に思はれるが併し十五銭位の勧工場物とは団 より同日の論では無い上に、黄塔のかたみであることが、何となくな つかしく感ぜられて朝夕枕もとに置いて寝ながらのながめものになつ てゐる。  墨汁  しやく やく  巧薬  室 み だ 五月 の ま れ〜 雨 かわく芭蕉の巻葉か  敵りて硯の竣か や普き硯石借り得た 三士一一 な な り (十一。、日) ● ■ ■ ■ ■ ■ ■ ○同郷の先誰池内氏が発起にかゝる「能楽」といふ雑誌が近々出るさ 古’さ うである。この雑誌は今将に衰へんとする能楽を興さんが為に共一手 段として計画せられたるものであつて、固より流儀の何たるを問はず、 はやし かた 殊に雌子方などのやう/\に人ずくなになり行くを救はんとするのが 其目的の主なるものであるさうな。元来能楽といふものは保存的のも のであつて、進歩的のものではないのであるから、今日に於て改良す るといふても、別に改良すべき点はない。只セ時勢と共に多少の改良 を妥するといふ点は、能役者…に行はれたる従来の習償のうちで、今 しか 口の時勢に適せないものを改良して行く位の事なのである。而して共 能役考阯に行はれて居る習慣といふのは、今日からいふと随分旭雄旭 ふ ち 鹿しい事も少くはない上に、又今日所調家元なるものが維新後扶持を 失ふたが為に生計の逆に窮して種々の悪弊を作り出した事も少くはな いのである。是等の悪習慣は一撃に打彼つてしまへば何でもないやう な事であるが、其の実之をやらうといふには、非常の困難を感ずる。 誠に生活問題と関係して居ることは、考へて見れば能役者に対しては 気の毒な次第であつて、一方の遺を打破する上は、他の一方に於て和 とむみ 当の保謹を与へてやらねばならんのは至当の事である。背堆介几ハ視公 の存生中には、公が能楽の大保護者として立たれたるが為に、一口蓑 へたる能楽に花が咲いて一時は杣ミ椛んならんとする側きを示したに 仁」弓 拘らず、公の琵ぜられた後は誰れ一人責任を負ふて能楽界を保護する 人もないので遂に今日の如く四分五裂してしまつたのである。たまた ま或る人が出て能楽界を振はせようとして会などを興した事などもあ 繋 尺 六 休 病 1 2 1 ったが、兎角流儀争ひなどの為に子俳のやうな喧雌を始めて折角の計 ぐわへい 画も遂に画餅に属するに至つたのは遮憾な事である。能楽撤誌紀考は 固よりこゝに見る所があつて、能楽上の一大倶楽部を起し、天下の有 、見 こ ひいき こんぱる くわんせ はうしやラ し て 志を集めて依情熾反なく金水、金剛、観世、宝生、喜多などいふ仕手 おき はやし カた ことぐ の五流は勿論、脇の諸流ら術、鼓、太鼓などの購子方に至る迄、悉く 之を保謹し且つ後進を養成せんとする目的をも有せらるゝと聞くのは 笹だ頼もし。いことに思はれる。余の考へにては能楽は宮内省の保護を きようこ 仰ぐか若しくは華族の輩固なる団体を作つて之を保謹するか、どちら かの遺によらなければ今口芝を維持して行くのは、非常の困難であら うと思ふ。又能楽の性質上宮内省又は華族団体の保謹を仰ぐといふこ とは不当な要求でもなく、又一方より言へば今日之を特別保謹の下に 置くのは宮内省又は革族団体のなすべき至当の仕事であらうと信ずる。 其代りに能楽界の方に於ても出来借るだけの改良を図つて、従前の如 く能役者はダダをこねるやうな仕打をやめ、諸流の調和を図り又家元 ふる なるものの特権を揮ふて後進年少が進んで行かうといふ道を壮絶する ことのないやうにして貰はねばならぬ。一方に生活の道さへ立てば他 おのづか 方に於て卑しい行なども臼ら減じて行く述理で、一例を言へば能衣裳 の損料貸などいふことが今口ではある一派の能役者の生計の一部にな つて居るので、それが為に卑劣なる仲間喧嘩の起るのみならず、遂に は各派が分裂してしまふ程にも立ち至つたのであるが、かういふこと は一方に相当の収入さへあれは自ら消滅して行くであらうと信ずる。 尚此外にも論ずべきことは沢山あるが、それは後日に譲ることとする。 (十四口) 。正誤「病休六尺」第十二に文鳳の絵を論じて十六番の有は旭居の前に手 吊輌の子品を使って居る処であると言ったのは閉遠ひだといふ脱もあるか ら阿く取消す。 一病休六尺」第二十升に猿雄の句として堆げたのは妃億の熟りであつて、 実際は o o  木兎は眠るところをさゝれけり 件殊 といふ句が猿衰にあるのであつた。この外にも木児の何は尚猿喪に一何あ るが、梟の句は元禄七年頃の蔽分船といふ俳書に出てゐるのが、余が知る うちイ、は批も古い句である。  児角病休へ参考書を引出すのが極めて面倒である為に、普い加減な記憶 によつて評くのでかういふ誤りを生ずるのであるから、許して黄ひたい。 一昌宙 ぐホじんきラ ○床の間に虞美人草を二輪活けて共下に石膏の我小臥像と一つの木彫 ヨつく の猟とが置いてある。此猫は踵まつて居る形で、実物大に出来て舳つ て、さうして黄色の様なペンキで塗つてある。此ペンキは夜暗い処で 見ると白く光る様に出来て居るので、普通のペンキとは遠つて居る。 .・... 峯く これは水難救済会で使川する為に態々英国から取り寄せたのであつて、 これを高い標柱に塗つて救難所のある処の海ルに立てて雌くと、如何 なる暗夜でも沖に居る難破船から共柱が見えるので、共処に救難所の あるといふ事が船中の人にわかる様になつて瓜る。これを木彫の猫に 塗つて試に台所の隅に置いて見たところが共枚はいつもの様に風が駈 た 上 がなかつた。併し唯ミ薄白く光るばかりで勿論猫の形が開に見えるわ けでもないから、翌晩などは例の通りいたづら物は荒れ放魎に荒れた 程で敢てこれが鼠除けになるわけではないが、併し難破船の〔標とレ ては劣少の効力がある事はいふ迄も無い。  此水難救併会といふのは難破船を救ふのが目的であつて既に〔木の 海津には≡二十箇処の救難所を設け其の救難所にはそれ%\救難の準 怖が整ふて店るさうである。今日のところではまだ不完全枢まるもの であつて此後幾多の設怖を要する巾であるが、最近の報告によると咋 年などは既に一nγ均三人を救ふたわけになつて居るきうな、して虻 ると共効能は枝めて大なものであつて日本の如く海の多い旧では此上 も無く必要なものであるが、世人が存外に之に対して冷淡にある如く 見えるのは甚だ遺憾である。彼の赤十字社の如きは勿論必要なもので 2 2 1 たちま あるけれども、併し今赤十字社が無いとして忽ち差支を生ずるといふ 善」牛う 程のものでもない。然るに田舎の紳士共は共勲章めいた徽章がほしい わけであるか、或は県官等の勧めに余儀無くせられたるわけであるか、 今口のところでは兎に角非常に盛大なものとなつて、或は実用的より も却て虚飾的に流ればせぬかと思ふ程である。水難救済会は共会の日 的が〔常的のものであつて今日の赤十字社の如く戦時にのみ働くとい ふ様なものとは性質を異にしてをるに拘らず却て徴々として振はんの あきね は映官の誘導も赤十字社の如く普く及ばないのであるか、或は勲章め きた徽草の無い為であるか、何にしても惟しむべき事であると思ふ。 少くとも海に沿ふて居る各県民は振ふて水難敦済会の会員となる様に したいものである。 (十五日) 一、広重の衷海連続絵といふのを見た所が其中に何処にも一羽も烏 が画いてない。それから同人の五十一二駅の一枚画を見た所が原駅の o ○ 所に鶴が二羽旧に下りて居り袋井駅の所に道ばたの制札の上に雀が 一羽とまつて舳つた。 〇 一、先日の「日本」に伊予松山からの通信として梟が「トシヨリコ 0 0 0 す ゴ ぽと イ」と鳴くと書いてあつたが、それは誤りで八幡鳩(珠数カケ鳩) が「トシヨリコイ」と鳴くのである。 〇 一、上野の入ロヘ来ると三胴楼の楳の所に雁が浮彫にしてある。そ れば有名な「雁跳」である。それから坂本の方へ来ると、或鳥鮭の o o 屋根に大きな雄鶏の突立つた乃板がある。それから根津へ来ると三 〇 〇 島前の美術床屋には剥製の内鷺が石符の半身像と共に飾つてある。 (十六H) 昌麦 ○旭づくしといふわけでは無いが、咋今見聞した鳥の話をあげて見る と、 〇  一、此頓東京美術学校で三問ほどの大きさの鳶を鋳たさうな、これ  は記念の碑として仙台に建てるのであるさうなが是位な大きなフキ  物は珍しいと言ふ事である。 o 〇  一、上野の動物園の駝烏は一羽死んださうな。其肉を喰ふて見たら 1しき  ば鵬のやうな味がしてそれで余り旨くなかつたが、共肉の池で揚物  を二しらへて見たら是れば又非常に旨かつたといふ事である。 o 〇  一、押入の奥にあつた剥製の時烏(帥批ゝ)を出して見たらば口の内  の赤い但の上に挨がたまつて居つた。 〇  一、そこらにある絵本の中から鶴の絵を探して見たが、沢山の鶴を のどか  紅合せ一、m(い線の配人口を作つて舳るのは光琳。唯ミ訳もなく長閑 くちぱL  に並べて則いてあるのは抱一し一羽の鶴の購と足とを組合せて稍々 げつせう  複雑なる線の配合を作つてゐるのは公長。最も奇抜なのは月樵の画  で、それは鶴の飛んで居る処を更に高い空から見下した所である。 冒一芙  ■ ■ ■ ● ○信玄と謙信とどつちが好きかと問ふと、謙信が好きぢやといふ人が ■ ■ ■ ● ■ ■ ひた一ち牛芭 十の八九である。梅ケ谷と常陸山とどつちが好きかと問ふと、常陸山 が好きぢやといふ人が十の八九である。その好き嫌ひに就いては、多 た ゞ 少の原凶がないではないが、多くは只ミ理窟もなしに、好きぢやとい ふに過ぎぬ。併し一般の人は白煎的の人よりも、快活的の人を好むと いふことが、知らず/\、その好悪の大原因をなしで、舳るかも知れぬ ゑかうゐん すまふ ひいき 余は回向院の角力も観たことがないので、鳳員角力などはないがどっ ちかといふと梅ケ谷の方を紙良に思ふて居る。さうして子供の時から 謙信よりも信玄が好きなやうに思ふ。それはどういふ訳だか自分にも 分らぬ。 (十七日) 呈毛 ○明治維新の改革を成勅したものは二十歳前後の田舎の青年であつて 幕府の老人ではなかつた。日本の医界を刷新したものも後進の少年で 繋 董 1ゝ J ’、 一ノ 沐 病 3 2 1 ちつか あつて漢法医は之れに与らない。〔木の漢詩界を振はしたのも矢張り 後進の青年であつて天保臭気の老詩人ではない。俳句界の改良せら むし れたのも同じく後進の青年の力であつて昔風の宗匠は寧ろ共の進歩を 妨げようとした事はあつたけれど少しも之れに力を与へた事は無い。 何事によらず革命又は改良といふ革は必ず新たに世の中に出て来た青 年の仕事であつて、従来世の中に立つて居つた所の老人が中途で説を 搬した為に車命又は改良が行はれたといふ事は殆ど共の例がない。若 し今日の和歌界を改良せんとならばそれは勿論青年歌人の成す可き事 ■ ■ ■ ■ ● ■ であつて老歌人の為し得らるゝ事ではない。若し今日の演劇界を改良 せんとならば、それは寧ろ壮士俳優の任務であつて決して老俳優の成 し得らるゝ所ではない。然るに文学者と全言はるゝ程の学者が団十菊 う 五などを和手にして演劇の改良を説くに至つては愚と言はうか迂と言 はうか実に共の眼孔の小なるに驚かざるを得ない。 (十八日) 一早八  こゝ ○嚢に病人あり。体痛み且つ弱りて身動き殆ど出来ず。頭脳乱れ場く、 口くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を執つてものを書 く事は到底出来得可くもあらず。而して傍に看護の人無く談話の客無 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 からんか。如何にして日を暮すべきか、如何にして口を暮すべきか。 (十九口) 一手九 あへ ○病床に寝て、身動きの出来る問は、敢て病気を辛しとも思はず、平 気で寝転んで居つたが、此頃のやうに、身動きが出来なくなつては、 精神の煩悶を起して、殊ど毎日気違のやうな苦しみをする。二の苦し みを受けまいと思ふて、色々に工夫して、或は動かぬ体を無理に動か して暑。愈広悶する。頭がムシヤ/\となる。もはやたまらんの 吐 で、こらへにこらへた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうかうなる と駄ロイ、ある。絶叫。号泣、益ミ絶叫する。益ミ号泣する。その苦そ の痛何とも形容することは山来ない。寧ろ真の狂人となってしまへば 楽であらうと思ふけれどそれも出来ぬ。若し死ぬることが出来ればそ れば何よりも望むところである、併し死ぬることも出来ねば殺して呉 れるものもない。一口の苛しみは夜に入つてやう/\減じ値かに眠気 さした時には共口の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思ひやら 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 れる。寝起程苛しい時はないのである。誰か二の苦を助けて呉れるも 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 のはあるまいか、誰かこの苦を助けで亘ハれるものはあるまいか。 (二十口) 早 O「如何にして日を暮らすべき」「誰か此苦を救ふて呉れる者はある まいか」此に至つて宗敦間魑に到着したと宗教家はいふであら、つ。併 キ,ストけう レ宗敦を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない。基督敦を信ぜぬ者 には神の救ひの手は周かない。仏敦を信ぜぬ者は南無阿弥陀仏を繰返 して日を暮らすことも出来ない。或は画本を見て苦痛をまぎらかした こともある。併し如何に面白い画本でも毎u々々同じ物を繰返して見 たのでは十日もたゝぬうちに最早陳腐になつて再び苦痛をまぎらかす もてあそ 種にもならない。或は双眼写真を弄んで日を暮らしたこともある。そ れも毎口見ては段々に面白味が減じて、後には頗の痛む時など却て頭 を痛める料になる。何よりも嬉しきは親切なる友達の看謹して呉れる L三く ことであるがそれも腰ミ出逢ふては、別に新しき話もないので病人も 看謹人も両方が差向ふて一はたド苦しみ、一は其苦しみを見て心に苦 しむやうになる。去年蚊迄は唯一の楽しみとして居つた飲食の慾も、 今は殆ど消え去つたのみならず、飲食共物が却て身体を煩はして、そ れが為に径夜もがき苦しむことは、近来珍しからぬ事実となつて来た 或は謡を聞き或は叢太夫を聞いて楽しんだのは去年のことであつたが 今は軍談師を呼んで来ようか、活動写真をやらして見ようかとの友遠 の親切なる慰めば却て聞くさへも頭を痛めるやうになつた。大勢の人 召 9一 ユ を集めて、之と室を共にすることも苦しみの種である。謡の声、三味 線の音も遙かの遠青を聞けばこそ面白けれ、枕許近くにては其音が頭 に響き、甚しきは我が呼吸さへ他の呼吸に文配せられて非常に苦痛を ひつきやラ 感ずるやうになつてしまふた。畢竟自分と自分の周囲と調和すること が笹だ困難になつて来たのである。麻津剤の十分に効を奏した時は此 調和が稍セ容易であるが、今は共麻痒剤が十分に効を奏することが出 来なくなつた。余は実にかやうな境界に陥つて居るのである。いつ見 ても同じ病苦談、聞く人には旭鹿々々しくうるさいであらうが、苦レ い時には苦しいといふより外に仕方もなき凡夫の病苦談「如何にして 、 日を暮らすべきか」「誰か二の苦を救ふて呉れる者はあるまいか」情 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ある人我病休に来つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 は為に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは 必ずしも俳句談にあらず、文学談にあらず、宗教、美術、理化、農芸、 百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない。たど断 つて置くのは、差向ふて坐りながら何も話のない人である。 (二十一日) 酉士 ○此臼逆上甚だし。新しく我を慰めたるもの 一、果物彩色図二十枚 革んじん 一、明人画飲中八仙図一巻(模写) あ、、か、 くわき 一、謝匿晒花卉粉本一巻(棋写) わうき 一、江洪模写山水一巻(棋写) しゆんぱふ 一、煙霞翁筆十八鍍法山水一巻(模写) 一、桜の実一盤 。ハ ソ 一、菓子獺包伶種 一、菱形定馬鐙一箇  来客は鳴雪、虚子、碧梧桐、紅緑諸氏。  事項は「ホト・ギス」募集文案、蕪村句集秋の部輪講等。 食事は朝、窮包、スープ等。午、粥、さしみ、 さしみ、スープ等。間食、葛湯、菓子類包等。 服薬は水薬三度麻痒剤二度。(六月二十日) 早二 鷄卵等。晩、飯二腕、 (ニトニ日) ○今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本郷の某氏より来たの で余は知らぬ人である。共の手紙は大略左の通りである。 拝啓咋日黄君の病休六尺を読み感ずる所あり左の数書を坐し候 第一、かゝる場合には大帝又は如来とともにあることを信じて安 んずベレ あ{」 第二、もレ右信ずること能はずとならば人力の及ばざるところを さとりてたゞ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛 ましめよ大化のなすがまゝに任ぜよ天地万物わが前に出没隠塊 するに任ぜよ 第三、もし右二者共に能はずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓せよ 而して死に至らむのみ 小生は嘗て瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも有第二 の工夫によりて精神の安瀞を得たりこれ小生の{一ポ敦的救流なりき いな あへ や玉ひかん 知らず貴君の苛痛を救済し得るや否を敢て問ふ病問あらば乞ふ一 考あれ(以下略一 めいちやラ  此親切なる且つ明蟄平易なる手紙は妊だ余の心を獲たものであつて、 余の考も殆ど此手紙の中に尽きて居る。唯ミ余に在つては精神の煩悶 といふのも、生死出離の大間魑ではない、病気が身体を衰弱廿。しめた 為であるか、脊髄系を侵されて思る為イ、あるか、とにかく生理的に柿 か 神の煩悶を来すのであつて、苦しい時には、何とも彼とζ致し様の無 いわけである。併し生理的に煩悶するとても、共の煩悶を免れる子段 は固より「現状の進行に任せる」より外は無いのである。号叫し煩悶 して死に至るより外に仕方の無いのである。たとへ他人の苦が八分で L一一 手 一 』。。虫 尺 六 蛛 病 一〇 2 1 自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一様にあきらめるとい ふより外にあきらめ方はない。此の十分の苦が叉に進んで十二分の苦 痛を受くるやうになつたとしても矢張あきらめるより外は↓、仏いのイ、あ る。けれども其れが肉体の苦である上は、程度の軽い時はたとへあき らめる事が出来ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程変の進 たゞ んだ苦に至つては、啻になぐきめる事の出来ないのみならず、あきら けだ めて居ても尚あきらめがつかぬやうな気がする。蓋しそれは矢張あき らめのつかぬのであらう。築へ。笑へ。健康なる人は笑へ。病気を知 らぬ人は笑へ。幸禰なる人は榮へ。達者な両脚を持ちながら車に來る やうな人は突へ。自分の後ろから巡査のついて来るのを知らず路に落 ちてゐる財布をクスネンとするやうな人は笑へ。年が年中昼も夜も寝 床に横たはつて、三尺の盆栽さへ常に日より上に見上げて楽しんで居 るやうな自分ですら、麻陣剤のお蔭で多少の苦痛を減じて居る時は、 煩悶して居つた時の自分を笑ふてやりたくなる。実に病人は愚なもの である。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。 笑ふ時の余も、笑はるゝ時の余も同一の人間であるといふ事を知つた ならば、余が煩悶を笑ふ所の人も、一朝地をかふれば皆余に笑はるゝ の人たるを免れないだらう。咄々大笑。(六月二十一日紐) (二十言) 早三 ○まだ見たことのない場所を実際見た如くに其人に感ぜしめようと云 ふには其地の写真を見せるのが第一であるがそれも複雑な場所はとて も一枚の写真ではわからぬから幾枚かの写真を順序立てて見せる様に するとわかるであらう。名所旧跡などいふ所には此様な写真帖が出来 て居る処もあるが其写真帖は只ミ所々の光景を示したばかりでそれ ぞれの位置か明瞭しないので甚だ共効カが薄い。ユ、れで此種の写真帖 には必ず一枚の地図を附けて共中にあるそれ%\の写真の位置と方位 とを知らしむる様にしたらば非常に有恭であらうと思ふ。日光を知ら ね人にも此写真帖を見せれば共人は日光へ往つた様な感じになるであ らう。西洋に行くことのできない人でも此種の写真帖を見たらば西洋 へ往つたと同じ様な感じになる事が出来る。比較的簡単イ、嚥仙でさう して是れほど有益なものは他に類が少ないイ、あらう。 (二十四〔) 畢四 ○警視庁は衛生の為といふ理由を以て、東京の牛乳屋に牛含の改築又 は移転を命じたさうな。そんなことをして牛乳腫をいぢめるよりも、 ■ ■ ■ ■ ■ ■ 寧ろ牛乳屋を保護してやつて、衷京の市民に今より二三借の牛乳飲用 者が出来るやうにしてやつたら、大に衛生の為イ、はあるまいか。 (二十九口) 早量  ■ ■ ○写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要な もので、此の手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふて もよい位である。これは早くより西洋では、用ゐられて居つた手段で あるが、併し昔の写生は不完全な写生であつた為に、此頃は更に進歩 して一眉精密な手段を取るやうになつて居る。然るに日本では昔から 写生といふ事を甚だおろそかに見て居つた為に、画の発達を妨げ、又 文章も歌も総ての事が皆進歩しなかつたのである。それが習慣となつ て今日でもまだ写生の味を知らない人が十中の八九である。画の上に も詩歌の上にも、理想といふ事を称へる人が少くないが、それらは写 生の味を知らない人であつて、写生といふことを非常に浅薄な事とし て排斥するのであるが、其の実、理想の方が余程浅薄であつて、とて も写生の趣味の変化多きには及ばぬ事である。理想の作が必ず悪いと ちらは いふわけではないが、普通に理想として顕れる作には、悪いのが多い といふのが事実である。理想といふ事は人間の考を表すのであるから、 其の人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と腕腐を免れぬやうに 烈 6 2 1 もと なるのは必然である。固より子供に見せる蒔、無学なる人に見せる時、 初心なる人に見せる時などには、理想といふ事が其人を感ぜしめる事 ほ ゞ が無い事はないが、略ミ学問あり見識ある以上の人に見せる時には非 常なる偉人の変つた理想でなければ、到底其の人を満足せしめる事は 出来ないであらう。是れば今日以後の如く敦育の普及した時世には免 れない事である。之に反して写生といふ事は、天然を写すのであるか ら、天然の趣味が変化して居るだけ共れだけ、写生文写生画の趣味も 変化し得るのである。写生の作を見ると、一寸浅薄のやうに見えても、 深く味へば味はふ程変化が多く興味が深い。写生の弊害を言へば、勿 論いろ/\の弊害もあるであらうけれど、今日実際に当てはめて見て ひと き も、理恕の弊害ほど甚しくないやうに思ふ、理想といふやつは一呼吸 に屋根の上に飛ひ上らうとして却て池の中に落ち込むやうな事が多い。 写生は平淡である代りに、さる仕損ひは無いのである。さうして平淡 の中に至味を寓するものに至つては、英妙実に言ふ可からざるものが ある。 (二十六日) 酉士一 ■ ■ ● ■ ■ ■ ● ■ ● ■ ○ある人のいふ所に依ると九段の靖国神社の庭園は社殿に向って右の ひ ・」 ほ二 方が西洋風を換したので檜葉の木が或は丸く或は鋒なりに摘み入れて 下は綺麗だ芝生になつて居る。左側の方は支那風を摸したので桐や竹 が植ゑである。後側は日本固有の造り庭で泉水や築山が拵へてある。 斯ういふ風に庭園を比較したとはいふものの笹だ区域が狭いので十分 に共特色を発揮する事が出来て居らぬ。そ二で此庭園に就いても人々 によつて種々の変つた意見を持つて居つて、これが神社である以上は 神々しき感じを起させる為に社殿の周囲に沢山の大木を植ゑねばなら ぬなどといふ人もある。けれどもそれは昔風の考へであつて、神社で あるから必ずしも大木が無ければならぬといふ事はない。二十年程前 に余が始めて東京へ来て増国神杜を一見した時の感じを思ひ起して見 ると、外の物は少しも眼に入らないで、椅麗なる芝生の上に槍葉の木 が綺麗に植ゑられてをるといふ事がいかにも愉快な感しかしてたまら なかつたのである。勿論それは子供の時の幼稚な考へから来た事であ るけれども、併し世の中の人は幼稚な感じを持つて居る方が八九分を 占めて居るのであるから、今でも昔の余と同じ様に二の西洋風の庭を きつと 愉快に感ずる人が吃度多いであらうと思ふ。其故に若し靖国神社の庭 園を造り変へるといふ事があつたら、いつそ西洋風に造り変へたら善 からう。まん丸な木や、円錐形の木や、三角の芝生や、五角の花畑な 廿いぜん どが幾何学的に井然として居るのは、子供にも俗人にも西洋好きのハ イカラ連にも必ず受けるであらう。固より造り様さへ旨くすれば実際 美学上から割り出した一種の趣味ある庭園ともなるのである。東京人 の癖として、公園は上野の様なのに限るといふ人が多いけれども、必 ずしも上野が公園の模範とすべきものであるとは定められない。日比 谷の公園なども広い芝生を造つて広ツパ的公園としても善いではない や たら つ か。無暗矢鱈に木ばかり植ゑて一寸敵歩するにも鼻を衝く様な窮屈な 感じをさせるが公園の目的でもあるまい。 (二十七目) 早七 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ● ○此頃ホト・ギスなどへ載せてある写生的の小品文を見るに、今少し 糟密に叙したらよからうと思ふ処をさら/\と書き流してしまふた為 に興味索然としたのが多いやうに思ふ。目的が其事を写すにある以上  たとへ 、、、、、、、 は仮令うるさい迄も精密にかゝねば、読者には合点か行き難い。実地 に臨んだ自分には、こんな事は書かないでもト一からうと思ふ事が多い けれど、それを外の人に見せると、そこを略した為に意味が通ぜぬや うな事はいくらもある。人に見せる為に書く文章ならば、ど一一迄も人 にわかるやうに書かなくてはならぬ事はいふ迄もない。或は余り文章 が長くなることを憂へて短くするとならば、それは外の処をいくらで も端折つて書くは可いが、肝腎な目的物を写す処は何処迄も精密にか ’導一 ’一帖。 三警、 1牙・響。・亭、 “:一一 尺 六 林 病 7 2 1 加ねば両白くない。さうして又共目的物を写すのには、自分の経験を 其偽客観的に写さなければならぬといふ事も前に展ミ論じた事がある 然るに写生的に書かうと思ひながら却て概念的の記事文を書く人があ る。是は無論面白くない。例を一言へば米国に在る支那飯屋といふのを つも 書く積りならば、自分が其支那飯屋へ往た時の有様を成るべく精密に 書けば、それでよいのである。然るに其方は精密に書かずに却て支那 飯屋はどういふ性質のものであるといふやうな概念的の記事を長々と 書くのは雑報としてはよいけれども、美文としては少しも面白くない まだ雑報と美文の区別を知らない人が大変多いやうである。同雑誌の 一日記事の如きもたド簡単に過ぎて何の面白味もないのが多いやうに 見える。是れば今少し思ひきつて精密に書いたならば多少面白くなる だらうと思ふ。 (二十八日) 四十八 ■ ■ ● ■ ○此頃売り出した双眼写真といふのがある。これは眼鏡が二つあつて その二つの眼鏡を両眼にあてて見るやうになつて居る。眼鏡の向ふに は写真を挿むやうになつて居つて、その写真は同じやうなのが二枚並 べて帖つてある。これは一寸見ると同じ写真のやうであるがその実少 し違ふて居る。一つの写真は有の眼で見たやうに写し、他の写真は同 じ位置に居つて同じ場所を左の眼で見たやうに写してあるのである。 それを眼鏡にかけて見ると、二つの写真が一つに見えて、しかもすべ ての物が平而的でなく、立体的に見える。そこに森の中の小径があれ ばその小径が実物の如く、奥深く歩いてゆかれさうに見える。そこに 石があれはその石が一々に丸く見える。器械は簡単であるが一寸興味 のあるもので、大人でも子供でもこれを見出すと、そこにあるだけの 写真を見てしまはねば止めぬといふやうな事になる。遊び道具として は、まことに面白いものであると思ふ。しかしこの写真を見るのに、 二つの写真が一つに見えて、平面の景色が立体に見えるのには、少し ;と 伎爾を要する。人によるとすぐにその見やうを覚る人もあるし、人に よると幾度見ても立体的に見得ぬ人がある。この双眼写真を借てから、 それを見舞に来る人ごとに見せて試みたが、眼力の確かな人には早く 見えて、眼力の弱い人即ち近眼の人には、余程見えにくいといふこと 、 、 、 、 、 、 、 、 がわかつた。これによつて余は慨る所があつたが、近眼の人はどうか 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 すると物のさとりのわるいことがある、いはば常識に欠けて居るとい ふやうなことがある。その原因が何であるとも気がつかずに居たが、 それは近眼であるためであつた。近眼の人は遠方が見えぬこと、すべ ての物が明瞭に見えぬこと、これだけでも普通の健全なる眼を持つて 居る人に比すると既に半分の知識を失ふて居る。まして近眼者は物を ラ る き 見ることを五月螂がるやうな傲向か生じて来ては、どうしても知識を 得る機会が少くなる。近眼の人にして普通の人と同じやうに知識を持 つて居る人もないではないが、さういふ人は非常な苦心と労力を以て、 その知識を得るのであるから、同じ学問をしても人よりは二借三借の 骨折りをして居るのである。人間の知識の八九分は脅視官から得るの であると思ふと眼の悪い人は余程不幸な人である。 (二十九口) 早九 ひ にく tん ひつけんちりをし牛iす ○英雄には碑肉の喚といふ事がある。文人には筆硯生堕といふ事 o o o o o きり がある。余も此頃「錐錆を生ず」といふ喚を起した、此の錐といふの は千枚通しの丈夫な錐であつて、之を買ふてから十年余りになるであ らう。これは俳句分類といふ書物の編纂をして居た時に常に使ふて居 たもので其頃は毎日五枚や十枚の半紙に穴をあけて、其の書中に綴込 まぬ事はなかつたのである。それ故錐が鋭利といふわけでは無いけれ た ど、錐の外面は常に光を放つて極めて滑かであつた。何十枚の紙も容 やす 易く突き通されたのである。それが今口不図予に坂つて見たところが、 全く錆びてしまつて、二三枚の紙を通すのにも錆の為に妨げられて快 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 く通らない。俳句分類の編纂は三年程前から全く放擲してしまつて居 8 2 1 がぴ㍗かが。「錐に鏑を生ず」といふ喚を起さざるを得ない。 (三十目) 季  、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 ○肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、広い海を見渡す  ,こと せんしん と洵に暗れ%\といゝ心持がするが、千伽の断崖に囲まれたやうな山 とて 中の陰気な処には述も長くは住んで居られない、四方の山に胸が圧せ られて呼吸が苦しくなる様に思ふ為である、それだから蒸汽船の下等 室に閉ぢ込められて遠洋を航海する事は極めて不愉快に感ずる。住居 の上に就いても余り狭い家は苦しく感ずる。天井の低いのは殊に窮屈 に思はれる。蕪村の句に 歴根低き宿うれしさよ冬寵 といふ句があるのを見ると、蕪村は吾々とちがふて肺の丈夫な人であ つたと想像せられる。此取のやうにだん/\病勢が進んで来ると、眼 の前に少し大きな人が坐つて居ても非常に息苦しく感ずるので、客が 来ても、なるべく眼の正面をよけて横の方に坐つて貰ふやうにする。 共外ラムプでも盆栽でも眼の正山一間位な問を遠ざけて置いて貰ふ。 それは余りひどいと思ふ人があるだらうが理窟から考へても分ること である。人の眼障りになるといふのは誰でも眼の高さと同じ位なもの か、又はそれよりも高いものかが我が前にある時にうるさく感ずるの である。それであるから病人の如くいつも横にねて居るものには眼の 萬さといつても僅かに五寸乃至一尺位なものである。今病人の眼の前 三尺の処に高さ一尺の火鉢が置いてあるとすると、それは坐つてゐる 人の眼の前三尺の処に凡そ三四尺の高さの火鉢が置いてあるのと同じ 割合になる。此場合には坐つて居る人でも多少の窮屈を感ずるであら う。まして病人の如く身体も動かず、子足も働かず如何なる危険があ つてもそれを手足で防ぐとか身を動かして逃げるとかすることの出来 ないものは只さへ危険を感ずるのであるから、其上に呼吸譜の弱いも のは非常な圧迫を感じて、精神も呼吸も同蒔に苦しくなる事は当り前 の事である。共点からいふと寝床を高くして置けば普い訳であるが、 それには又色々な故障があつて余等の如きは普通の寝台の上に寝る事 を許されぬからこまる。なぜ寝台が悪いかといふと寝台の柵の狄いの も一つの故障であるこ寝台は腰のところで尻が落ち込んで身動きの困 難なのも一つの故障である。病気になるとつまらない事に昔しまねば ならぬ。 (七月一目) 睾一 . . . . . くだされあoか{」く岸、んじたて吉つり ○拝復。盆栽の写真十八枚御贈り被下難有奉存候。盆栽のこと は吾々何も存ぜず候へ共、定めて口々の御手入も一方ならざる事と存 候。盆栽の並べかたについては必ず三鉢を三段に配置しあり候処、定 これあるべく めて天地人とでも中す位置の取りかたに可有之、作法もむづかしき二 とと存候。併しながら小生の如き素人目より見候へば、三段の並べか ことぐ たも勿論面白く候へ共、さりとて悉く同じやうな配置法牟、取り候ては 変化に乏しく多くの写真を見もて行く程に、或は前に見たると同じ写 ひつ言やう 真に非ずやと疑はるゝことも有之喉川そは畢竟余り同一趣味に偏し居 り候為と存候。配置法と巾しても惜セ面白く配置すればよき事と存候 へば、或は一鉢許り写してよきことも可有之、或は二鉢写したる一、よか るべく、又時によりては四鉢五鉢六鉢等沢山に並べて面白きこと一“可 有と存候。又高低の工合も御写真にあるやうに一定の規則に従ふにも 及び中す彫敷、或は同じ高さに並べて面〔きことも可有、或は値か許 りの高低の度に配置して面白きことも可有、或は一は非常にて同く二は 非常に低く配置して面白きも可有候。又盆栽の大きさに就いても御培 養の物は同一大のが多きやうに見受け申候。今少し突飛的に大なる物 も交り居らば却て興味を添ふる場合多かるべく候。又鉢についても必 ずしもよき鉢には限り中す間敷、或は瓦鉢或は摺鉢共他古柄などを利 た1 用致したるも雅味深かるべく候。但画をかきある鉢は切胸なる場合に も宜しからずと存候。又鉢を置くべき台につきても、紫檀黒檀の上等 ≒ ’・ 濯 器餐墓奮妻 、基“。 叶。〜新し。。 尺 パ 蛛 病 9 o’ 1 なる台のみには限る間敷、これも粗來なる杉板の台にてらよく、又は 有合せのガラクタ道具を利用したるもよく、又は天然の木の根石ころ などの上に据ゑたるも面白き場合多かるべく候。又盆栽を飾りたる場 所も必ずしも後ろに屏風を立てて盆栽許り見ゆるやうに置きたるにも 限り中す間敷、或は宋の問に飾りたる処を写し、或は机の上に置きた てうづ一ぱち る処を写し、或は手水鉢の側に嵩きたる処をも写し、或は盆栽棚に並 べたる処をも写し、或は種々の道具に配合したる処をも写し、色々に 写しやうは可有之と存候。勿論何を配合するにも配ム]上の調和を欠き 候ては宜しからず、この木はこの鉢に適するとか、この盆栽と彼の盆 栽と並べ置くに適するとか、或は二の盆栽はどの台へ適するとか、ど の場所に適するとか、それ%\適当なる配合を得るやうに考へ然る後 いけばた に千変万化を尽さば興味限りなかるべくと存候。活花にても遠州流な ど巾して、一定の法則を墨守致し候も有之候へ共、是れ恐らくは小堀 逮州の本意にはあるまじく、要するに趣味は規則をはづれて千変万化 する所に可有之候。随つて盆栽に為すべき草木共物に就ても必ずしも かへで 普遡の松楓などには限るまじく、何の木何の單にても両白くすれば面 白くなるべくと存候。御写真の趣にては、葉のある樹に限りたるやう に見受申候。之も余り狭きには過ぎずやと存候。木には限らず草も面 白かるべく、又花の咲く物もそれ%\面白かるべくと存候。右御礼か く{」きるへく たがた愚意大略申述候。失礼の段御容赦可被下候。頓首。 (二日) 五十二 ■ ■ ○日本の芝居ばかり見てゐる人が西洋の芝居の話などを聞いて共仕組 の違ふのに驚く事がある。例をいへば、西洋の芝居にはチヨボが無い、 花道が無い、廻り舞台がない、などいふ事が、不思議に思はれる事が ある。有る方が不思議か、無い方が不思議か、それは考へて見たらば わかる事であるけれど、日本の芝居ばかり見て居る問は何も考へない もつとも で、チヨボも廻り舞台も花道も皆芝居には最必要な者で極めて当然 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 な者の如く思ふて居るのである。扱是等の日本芝居に限られた、つ特色 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 はどうして出て来たか、といふと、左、れば大概能楽から出て来て居る 、 、 、 、 のである。能楽と芝居との関係は知つて居る人にはわかり与一・つて居る 事であるが、どうかすると芝居の事ばかり心得て其能楽との関係に少 しも注意せぬ人がある。今試みに両者の類似点、即ち芝肚がどれだけ なら 能楽の仕組に倣ふてゐるかといふ事を挙げて見ると、  第一、舞台の権遊に就いて見ても、芝尉の花遣は能の橋がゝりから た ゞ 来て居る事はいふまでも無い。唯ミ花逝は舞台の前へ、即ち見物の座 の中へ突き出て居るのと、橋がゝりは能舞台の横の方へ斜に出て居る かみて しもて との違ひである。芝居の上手下手の入口は能楽の切戸(臆病口ともい ふ)に似て更に数を増して居る。芝居の引幕は能の揚げ慕とは趣を異 にして居る様ではあるが、併し元は矢張揚慕から出た考へであらうと ちうたひ 思ふ。チョボ語りの位置は地謡の位置と共に舞台に向って有側の方に 在る。 はやしかた  第二に楽誰の関係に就いても能にも芝肚にも灘方といふ者がある。 共楽錐は両者の間に著しい差違があるが、併し能に用ゐらるゝ価、鼓、 太鼓は芝居にも用ゐられて居る。唯ミ能では鼓を重に用ゐる代りに、 と き 。」「 芝居では三味線を重に用ゐる。芝居で長唄常磐津などの連中が舞台方 いはゆる に並んで所謂出語りなる者を遣る事があるが、共れば能の灘方や地謡 の舞台に並んで居るのと同じ趣である。 ことぱ フノ  第三に脚本の上に就いていふと、能では詞よりも寧ろ節の部分が多 くて、其節の都分は地と地で無いのとの二種類になつて居る。芝居は 詞が主になつて居るけれども矢張節の部分も少くは無い。さうして節 の部分は必ずチヨボで語る事になつては居るが、其文句の性質からい ふと矢張能の如く地に風すべき者と、さうで無いものとの二つがある。 地で無い部分といへば役者の自らいふべき詞に節附けをした者で、能 では役者が共の節を自ら謡ふ、否或時は地に属す可き分迄も謡ふ事が あるが芝居では役者が謡ふといふ事は無い。チヨボ語りが必ず役折に 代つて謡ふ事になつて居る。それから能には番毎の問に必ず狂育を加 0 3 1 へる事になつて居る。芝居に中幕とか附け物とかいふ事があるのは幾 らか能に狂言の加はつて居る所から思ひ附いたのではあるまいか。又 能は大概一日に五番と極まつて居るが近松あたりの作に五段物が多い のは能の五番から来たのではあるまいか、又脚本の性質に就いていふ ても、能には真面日なものばかりがあつて滑稽な趣向は一つも無い。 滑稽の部分は唯ミ狂言にのみ任せてある。芝盾にても矢張真面日な趣 向の者が多くて特に滑稽劇といふべき者は極めて少い。唯ミ真而日な いは冷る山」うけ ちやり 趣向のところ%\に所謂道化又は茶利なる者を挿む位である、、 おきな なら きん■ そう  共他能楽の始めに翁を演ずるに倣ひて芝居にても幕始めに一二番嬰を 演ずるが如き、或は能楽を多少変改して芝居に演ずるが如き、或は芝 居の術話の多く能の術語より出でたるが如き、是等は類似といふより も寧ろ能楽共者を芝居に取りたる者故其似て居る事は誰も知つて居る 事で今更いふ迄も無い。尚此外に極些細な部分の類似は非常に多いで あらう。  芝居の廻り舞台に就いては別段に能楽から出たと思ふ点は無い様で ある。これは全く芝居の発明といふて善からう。 だ・」しやうじ  芝居の早変りといふ事は幾らか能の道成寺などから思ひついたかも 知らぬが、併しこれも先づ芝居の発明といふて暫からう。 (一一百) 睾呈 そ ぐわ C川村文鳳の画いた画本は文鳳画譜といふのが三冊と、文鳳麓画とい ふのが一冊ある。そのうちで文鳳画譜の第二編はまだ見たことがない し{きやラ がいづれも前にいふた手競画諦の如き大作ではない。しかし別に趣向 おのつか のないやうな簡単な絵のうちにも、自ら趣向もあり、趣味も現はれて 居る。文鳳箆固といふのは極めて略画であるが、人事の千態万状を窮 めて居てこれを見ると殆ど人間社会の有様を一日に見尽すかと思ふ位 である。塞山の一掃百態は其筆勢のたくましきことと、形体の自由自 在に変化しながら姿勢のくづれぬ処とは、天下独歩といふてもよいが、 ・芋篭一■“。…養。証一、、、。 籔 しかし文鳳麓画に比すると、数に於て少なきのみならず趣味に於ても いくらか乏しい処が見える。たド文鳳の大幅を見たことが無いので、 大幅の伎儒を知ることが出来ぬのは残念である。 げっせ’」 ム けいぐわみ。ラ ○尾張の月樵は、文鳳に匹敵すべき画家である。其不形画藪といふの を見ると実にうまいもので、趣向は文鳳のやうに複雑した趣向を取ら ないで却て極些細の処を捉まへ処とし、さうして筆勢の上については 文鳳の如く手荒く画きとばす方ではなく、むしろ極めて手ぎはよく画 いてのける処に真似の出来ぬ伎倆を示して居る。この外に何とかいふ 粗画の本で、拙い俳句の讃があるのは悪かつたが、その粗画は沢山あ  ことん、 るが悉く月樵の筆であつて、しかも一々見てゆくと、一々にうまい趣 は 吊ん 向のある本を、或人に見せられたことがある。それは端本であつたや うだが、そんな本が未だ外にあるならば見たいと思ふけれど、誰に聞 いても持つて居る人が無いのは遺憾である。二の人の大幅といふでも ぱんせつもの ないが、半折物を二つ三つ見たことがある。一つは鶴に竹の画で別に 珍しい趣向ではないがその形の面白いことは、とても他人の及ぶ処で はない。今一つは寒菊の画でこれは寒菊の一かたまりが、縄によつて 束ねられた処で、函としては簡単な淋しい画であるが、その寒菊が少 し像いて縄にもたれて用る工合は、極めて微妙な処に趣向を取つて居 か ちしやう る。その外賀知章の画を見たことがあるが、それも尋常でないといふ ことで不折は誉めて居つた。けれども人物胸は少し劣るかと思はれる。 兎に角月樵ほどの酌かきは余り類がないのであるのに、世の中の人に 知られないのは極めて不幸な人イ、ある、又世の中に画を見る人が少い のにち驚く、 (四日) 五吉 ■ ■ ■ . ● . . ・ . . . ・ ’ “デ. ○近刊のホト・ギス第五巻第九号の募集側句を見るに 虚子共に選びしうちに しやう尤 がさね 着つゝなれし菖蒲重や都人 、。、一欝。£、 鳴雪、碧格桐、 騰月堂 。望・一士 尺 六 林 病 1 3 1 とある。着つゝなれレ菖蒲重とはいか一、。菖蒲重といふのは、端午の 節句に着る着物なるべければ潜つゝなれしといふわけばない筈、へ」ある。 膚つゝなれしといへば無論ふだん潜か旅衣かの類で長く潜て居るもの でなければなるまい。同じ部に び : 枇杷の木に夏の日永き旧舎かな 太虚 とある。この枇杷の木には実のなり居るや否やそこが不審である。若 し実のなつて居る枇杷の木とすれば、こゝの景色は枇杷の木に奪はれ ふ れラ てしまふわけになる。若し夏の日の永き田舎の無聊なる様を言はんと ならば実のない枇杷の木でなくては趣が写らぬ。併し夏の枇杷であれ ぱ実のないとも限らぬ。そ二が不蕃な処である、鳴雪選三座の句に へ」王 き干う く げ 上京や松に水打つ公家屋敷 井々 とある。この句に於て作者の位置かわからぬ。上京やといふ五字も浮 いて問える。公家屋敷の外から見た景色とすればよいけれど、それで は松に水打つところが見えぬであらう。碧梧桐選三座の句に ひな 占り ヘニ」 す」 郡振や蓼を刻みて鮮の中に 梅影  鮪の中にといふは殊更に問える。中にといふことが敵らし鮪の飯の 聞から少し蓼の葉が見えて居ることだといふ選者の説明であるが、ま さかさうはとれまい。虚子選三座の句に 院々の高き若葉や京の月 石泉 え。ぎん とある。院々といふのは級山か三井寺かのやうな感じがするけれど、 それでは京の月といふのに当てはまらぬ。或は知恩院あたりの景色で もいふのであらうか。高き若葉といふのは若葉の木が高いのか、或は 土地が高みにあるので若葉迄高く見えるといふ意味か明瞭でない。鳴 雪選者吟のうちに 岨と上ぎす 時鳥鳴くやお留守の西の京 麦寒き畑も右京の太夫かな 筍や京から掘るは京の藪 とあるのは面白さうな句であるが、いづれも意味がわからぬ。碧格桐 選者吟のうちに 江 とある , ち ’ 戸役昔を団扇と 是も解し難い句ぢや。 睾里 旨 憲り京扇 (五日) ○鉄砲は嫌ひであるが、猟はすきである。魚鉤りなどは子供の時から すきで、今でもどうかして鉤りに行くことが出来たら、どんなに愉快 であらうかと思ふ。それを世の中の坊さん遠が殺生は残酷だとか無慈 悲だとか言って、一概に悪くいふのはどういふものであらうか。勿論 坊さんの身分として殺生戒を保つて居るのは誠に殊勝なことでそれは さもあるべき事と思ふけれど、俗人に向って魚鉤りをさへ禁じさせよ うとするのは、余り備はるを求め過ぐるわけではあるまいか。魚を釣 るといふことは多少残酷な事としても、魚を釣つて居る問は外に何等 の邪念だも貯へて居ない所が子供らしくて愛すべき処である。其上に 我々の習慣上魚を釣ることはさまで残酷と感ぜぬ。是よりも残酷な事、 是よりも邪気の多い事は世の中にどれだけあるかわからん。鳥猷魚類 の事はさて置き、同じ仲脚の人間に向ってさへ、随分残酷な仕打ちを する者は決して少くない。殺生戒などと殊勝にやつてる坊さん達の中 にも、其同胞に対する仕打ちに多少の残酷な事も不深切な事もやる人 が必ずあるであらうと思ふ。これといふ程のひどい事でなくても人間 同士の交際の上にごく些細な欠点かあつても極めて不愉快に感ぜられ るもので、それは生きた魚を殺すよりも遙かに罪の深いやうな思ひが する。余は俗人の殺生などは、寧ろ害の少い楽みであると思ふて居る。 (六日) 辛六 ○酒は男の飲む者になつて居つて女で酒を飲むものは極めて少ない。 これは生理上男の好くわけがあるであらうか、或は単に習慣上然らし むるのであらうか。寧ろ後者であらうと信ずる。 2 3 1 加‘ち午 きつさ いも にんじん  女は一般に南瓜、薩摩芋、胡羅葡などを好む。男は特に之を嫌ふと い か いふ者も沢山無いにしても兎に角女程に好まぬ者が多い。これは如何 なる原因に基くであらうか。  勇でも南瓜、薩摩芋等の甘きを嫌ふは酒を飲む者に多く、酒を飲ま ぬ易は之に反して南瓜などを好んで食ふ傾向かあるかと思はれる。レ て見ると女の南瓜などを奸むのは酒を飲まぬ為であつて、男の之を好 む事が女の如くないのは酒を飲むが為ではあるまいか。酒は酢の物の 如き類とよく調和して、菓子や団子と調和しにくい事は一般に知つて 居る所である。南瓜、薩摩芋、胡羅萄などは野菜中の最も甘味多き者 であるので酒とは調和しにくいのであらう。酒飲みでも一旦酒を廃す ると汁粉党に変る事がある。して見ると女は酒を飲まぬが為に南瓜な どを好むのに違ひない。 (七日) 早七  ■ ■ ○画讃といふ事は支那に始まつて、日本に伝はつた事と思はれるが、 恐らくは支那でも近世に起つたことであらう。日本でも支那画をまね ぜいぶつ た者には、画讃即ち詩を書いた者があるが、多くは贅物と思はれる。 山水などの完全したる画には何も文字などは書かぬ方が善いので、完 全した上に更に蛇足の画讃を添へるのが心得ぬ事である。併し人の肖 像などを画きたる者には讃があるのが面白い場合がある。それは人物 独りでは画として不完全に考へられることもあるので画讃を以て其不 足を補ふのである。所謂俳画などといふ粗画に俳句の讃を書くのは、 山水などの場合と違ふて、面白き者が多い。粗画にても趣向の完全し たる者には、画讃は蛇足であるが画だけでは何だか物足らぬといふや 、つな場合に俳句の讃を書いて、共趣味の不足を補ふ事は悪い事ではな い。それ故に或画に讃をする時には英讃と其画と重複しては面白くな きんだち い。例へば狐が公達に化けて居る画が画いてある上に 公達に狐化けたり宵の春 と讃したのでは、画も讃も同じ事になるので、少しも讃をしただけの 妙はない。砥園の夜桜といふやうな景色を画いた粗画の上に、前にい そ ふた「公達に狐化けたり」の句を讃として書くなれば夫れば面oいで や 涜らう。蛇が柳に飛び′つかうとして誤つて落ちた処を画いた画に、也 し, 有は へ七 見付けたりかはづに瞬のなき事を といふ讃をした。是れば蛇といふ事は重複して居るけれども、瞬のな いと特に主観的にいふた処は、二の画を見たばかりでは、思ひ付くべ き事でない、一種の滑稽的趣向を作者が考へ出したのであるから、是 あムひ れば讃として差支がない。只ミ葵の花ばかり画いた上へ普通の葵の句 を画讃として書いた処で筑複といふ訳でもあるまいが、併しかういふ 場合には葵の句を書かずに、同じ趣の他の句を書くのも面白いであら う。それは葵の花の咲いて居りさうな場所をあらはした句とか、又は 葵の花の咲いて居る時候をあらはした句とか、又は葵の花より聯想の 起るべき他の句とか、さういふものを画讃として書くのである。も一 うちは つ例を挙げていふならば団扇の画に螢の句を書くとか、螢の画に団威 の句を書くとか、もし又団扇と螢と共に画いてある画ならば、涼しさ やとかタ涼みとかいふやうな句を讃する。要するに画ぱかりでも不完 全、句ばかりでも不完全といふ場合に画と句を併せて、始めて完金す るやうにするのが画讃の本意である。歌を画讃にする場合も俳句と違 ふた事はない。 (八口) 早八 ○自分の団扇ときめて侮日手に持つて居る極下等な団扇が一つある。 この団扇の画は浮世絵で浅草の凌ム閣が画いてあるのイ、、勿論見るに 足らぬものとしてよく見たこともなかつた。或時何とはなしにこの団 扇の絵をつくぐと見た所が非常に驚いた。凌雲閣はとても絵になる べきものとは思はれんのであるが、この団扇の絵は不思議に妙な処を 。止“・ 尋萎峯養,江㌧重ま菩,脊れ…〆祭一 一乱一 、。瞭岬弘験瓢齢緊纂荻棚。影緊祭紅蜜簸瓢跳藩孜嚢一血。、 尺 六 休 病 3 3 1 つかまへて村る。それは凌弔、耳閣を少し徴へ寄せて団扇いつばいの高さ に両いて、きうしてこのひトよろ/\高い建築と直角に帯のやうな海を 画いて、共地平線が八階目の処を横切つて居る。下の方は少し許り森 もや のやうなものを凌雲閣の麓に画いて、其上の処の霧も地平線に並行し て横に引いてある。是れば稍々高き空中から見たやうな画きやうであ る。さうして片隅のそらに馬鹿に大きな三日月が画いてある。こんな 大きな三日月はないわけであるが、是も凌雲閣といふ突飛な建物に対 して、二の大きさでなくては釣合はぬからかう画いたのである。面白 い絵イ、はないけれども、凌弔一衣閣を材料として無理に絵を画くならば、 先づこんな趣向より外に画きやうはないであらう。つまり二の絵の趣 たて 向は竪に長い建築物に対して、真横に地平線と謹とを引いた処にある のである。玉英と署名してあるが、余り聞いた名でないけれども、若 し是れが多少の考があつて画いた絵とすれば、外の日本絵の大家先生 達はなか/\に是程にも出来ないであらうと思ふ。この団扇の裏を見 もえ芸」いろ ると、裏には柳の枝が五六本上からしだれて萌黄色の芽をふいて居る 其の柳の枝の聞から桜の花がひら/\と散つて少し下に溜つて居る処 が画いてある。是れだけの簡単な画であるが余程面白い趣向だ。落花 を画いて置きながら桜の樹を画かず却て柳をあひしらふた処は凡手段 でない。大家先生の大作の写真などを時々見るが、とても是程の善い 感じは起らない。殊に是れが極下等な団扇であるだけに却て興が深い ので、何だか拾ひ物でもしたやうな心地がする。 (九日) 睾九 ○今日人と話し合ひし事々 ■んざ七 “」一、せ言 そ ら、、 一、徳川時代の儒者にて見識の高きは蕃山、白石、伍抹の三人を推す。  机株が見解は聖人を神様に立てて全く絶対的の者とする。宋儒の如  き心を明かにするとか、身を修めるとかいふ様な工夫も全く之を否 た 1 くわつたつ  認し唯ミ聖人の遺を行へばそれで善いといふ処は余程謙達な大見識 で、丁度真宗が阿弥陀様を絶対と立てて、総てあなた任せの他カ信 心で遣って行くのと善く似て居る。もつとも征徹の説は、吾々は到 底聖人にはなれぬ、如何に心の工夫しても吾々の気質が変つて聖人 になるといふ事は断じて無いといふのであるから、そこの処は仏敦 の即身即仏といふのとは少し違ふては居る様に見えるが、併し伍微 のいふ所は吾々は聖人にはなれぬけれども、聖人の道を典盤行ひさ へすれば聖人になつたも同じ事であるといふのだから、矢張即身即 仏説と同じ様な結果になるのである。彼があながちに仏教を排斥せ ずして、人民は仏教を信じてゐても差支無い、吾々は聖人の道を行 へばそれで沢山である、などと説くところは実に心持の善い論で、 かんたいL とても韓退之などの夢にも考へつく処では無い。唯ミ悩い事には今 一歩といふ処まで来て居ながら到顕輸の内を脱ける事が出来なかつ たのは時代の然らしむるところで仕方が無い。若し彼が明治の世に 生れたならばどんな大きな人間になつたらうかといつも思はぬ事は 無い。 、生活の必要は人間を働かしめる。生活の必要が大になればなる程 労働も亦大にならねばならぬ。併し人間の労働には限りがあるぱか りでなく、労働に対する報酬にも亦限りがある。それ故に人による と、幾ら働いても生活の必要に応ずる事が出来ない場合がある。こ こに漢学者があつた。其学者は死んでしまふて共遺産の少し許りあ つたのを三四人の兄弟に分配した。共時はそれで善かつたが、だん めと だん其子が年を取つて、女房を娶る、子が出来る、それも子一人位 の時はまだ善かつたが、だん/\殖えて来て三人も四人もとなつた 上の子二人は小学校へも行くといふ年になつた。父親は小学校の敦 員を勤めて十円か十一円の月給を取つて居る。二十年一日の如く働 ゐ すわ いて居るが月給も二十年居据りイ、ある。さあどうしてち食へないと いふ事になつた所で、どうしたら善からうか、是が間魑なのである 誠に正直で、誠に勉強で、親譲りの漢学の素質があつて、誠に貴ぶ 尤 べき人であるけれど、只ミ世の中にうとい為に外に職業の見へ様も 4 3 1 無い。月給十一円で家内六人、是ればどうしたら善からうか、願は くは経済学者の説を聞きたい。 一、名言屋の料理通に聞くと、策京の料理は甘過ぎるとい、か。尤も東 京の料理屋に使ふのと名古屋の料理堅に使ふのと、醤油がまるイ、違  つてゐるさうな。 一」く 一、茶の会席料理は皆食ひ尽す様に栴へた者で、共代り分量が極少く してある。是れば興味のある事である。然るに料理歴にあつらへる と、金銭の点からどうしても分量を多くして食ひ尽す事が出来難い  のは遺憾である。 一、能楽界の内幕は可なり複雑して居つて表面からは十分にわからぬ あつれき が、要するに上掛りと下掛りとの軋醗が根本的の軋繰であるらしい 、まく 一、高等学校生某印、私は今度の試験に落第しましたから、当分の内 発句も謡も碁も止めました。 一、今度大学の土木課を卒業した工学士の内五人だけ米国の会社に傭 はれて漢ロヘ鉄道敷きに行くさうな。世界は広い。これから後は日 本などでこせ/\と仕事して居るのは馬鹿を見る様になるであらう (十目) 李 ○根岸近況数件 たん、’ tてヤ  一、田圃に建家の殖えたる事 いしじ し  一、三島神社修繕落成石獅子用水桶新調の事  一、田圃の鉤堀釣手少く新鯉を入九ぬ事 −吟ったし  一、笹の雪横町に美しき氷店出来の事  一、某別荘に電話新設せられて鶴の声問えずなりし事 ほと}ぎす しば/\ ふくろふ  一、時鳥例によつて腰ミ音をもらし、梟何処に去りしか此頃鳴か ずなりし事  一、丹後守殿店先に赤提灯廻燈寵多く並べたる事 おぎやうのきつ  一、御行松のほとり御手軽御料理星出来の事。 − はラをう さう〕ラ ゆちく こ そも 飽翁、藻洲、衝竹、湖邨等の諸氏去りて、碧梧桐、風骨、豹軒 等の諸氏来りし事 美術床屋に煽風器を仕掛けし事 奈良物店に奈良団扇売出しの事 あをきリ や 盗賊流行して碧桐の含に靴を盗まれし事 ひ め−せ, 草庵の松葉菊、美人蕉等今を盛りと花さきて、庵主の病よろし からざる事 (十一口) 六士 ○明和頃に始まつたしまりのある俳句、即ち天明調なるものは、天明 らんかうしらを と共に終りを告げて、寛政になると闘更白雄の如き、半ばし↓、{りて半 ぱしまらぬといふやうな寛政調と変つた。それが文化文政と進んで行 くに従って、又更に周面を変じて、三分しまつて七分しまらぬ文化文 政調となつた。それが今一歩進んで、天保頃になると、総タル、、、の天 、古ゆる 保調、耐謂月並調となつてしまふた。文化文政の句は天明調と天保調 の中間に居るだけに、其俳句が金くの月並調とならぬけれども、所々 土ら に月並調の分子を孕んで居る。今こゝに寛政の末頃であるか、諸国を 島んぎや 行脚して俳人に句を書いて貰ふたといふ其帳面を見るに △ △ △ 春の風磯の月夜は唯白し き,』 ない △ △ △ 錐蹄て静かに山のタ日かな の如きがある。二の「唯白し」とか「蔽かに」とかいふ詞は、こゝで は少しも月並臭気を帯びて居るとは書へないけれども、二の詞の底が 段々に現はれて来ると、つゞまる所天保調が生れて来るのである。極 端な月並調はかりの句を見て居てかやうな句を不注意に見過す人が多 いが、歴史的に見て行くと、天明調と天保調との中間にかういふ調子 の句が一時流行したといふことに気がつくであらう。又同じ帳面に す皇 たか よこ ぐ屯 居鷹の横雲に眼や時鳥 ○か あめ 竈 じ 糠雨に身振ひするや原の錐子 、製。号!−一  ■1 一 ■ 留一一 、 尺 六 沐 病 .o ワu 1 畑打のひまや渓の渡し守 などいふ句は已に月並調に落ちて居る。たゞその落ちかたが浅いだけ に月並宗匠に見せたらば是等は可も不可もなき平几の句として取るで あらう。 (十二日) 李二 ○泥坊が阿弥陀様を念ずれば阿弥陀様は摂取不捨の誓によつて往生き せて下さる事凝なしといふ。是れ真宗の論なり。此間に善悪を論ぜざ る処宗教上の大度鼓を見る。しかも他宗の人はいふ、泥坊の念仏には ヤ ソ けう 猶不安の状態あるべしと。泥坊の信仰に就いては仏教に限らず耶蘇教 にも其例多し。彼等が精神の状態は果して安心の地に在るか、或は不 安を免れざるか、心理学者の研究を要す。 (十三日) 李一昌 ○日本の美術は絵画の如きも襖様的に傾いて居ながら純粋の模様とし て見る可きもののうちに幾何学的の直線又は曲線を庵用したる者が極 めて少ない。絵画が模様的になつて居るのみならず模様がまた絵画的 になつて居る。殊に後世に至る程其の傲向か甚しくなつて純粋の模様 を用ゐて善き塲合にも波に千鳥とか鯉の滝上りとか其外模様的ならざ むし たまく三じ と圭 る、寧ろ絵画的の花鳥などを用ゐる事が多い。偶セ卍つなぎとか巴と かの幾何学的模様があるけれど其等は皆支那から来たのである。近頃 くはかtけいさい 鍬形恵斎の略画を見るに其の幾何学的の直線を利用した者が幾らもあ る。たとへば二三十人も一直級に並んで居る処を画くとか、又は行列 を縦から見て画くとかいふ様な類があつて、日本絵の内では余程眼新 しく感ぜられる所がある。其の外能楽の舞には直線的の部分が多い、、 是れば支那から来た古い舞楽に直線的の部分が多いので能楽は或は其 影響を受けて居るかも知れん。近来芸妓などのやる踊りなるものは半 ば意味を含んだ挙動をやる為に幾阿学的の処が極めて少ない。日本人 は西洋の舞踏の幾何学的なるを見て樋め一、無越蛛なる者として排斥す る者が多いが、よし無趣味なりとしても日本の踊の不規則なる挙動の 非常に厭味多く感ぜられるのには優つて居るであらう。支那の演劇の 時代物といふべき者には非常に幾何学的の挙動か多いので模様的に面 白い処があるが演劇としては幼稚な者の様に見える。それに比すると 日本の能楽は幾何学的にも偏せず、寧ろ善く調和を得たるやうに思は れる。 (十四目) 〇七月十一日。 つ ゆ ■几 梅雨晴  七月十二日。 蝉始メテ 六吉 ひぐーリし 暗。始めて蝸を聞く。 や蝸鳴くと書く日記 晴。始めて蝉を聞く。 はえ 鳴ク舵釣る頃の水絵空 (十五日) 穴圭 き はと ○病釘になつてから既に七年にもなるが、初めの中は左程苦しいとも 思はなかつた。肉体的に苦痛を感ずる事は病気の勢ひによつて時々起 るが、それは苦痛の薄らぐと共に忘れたやうになつてしまふて、何も 跡をとゞめない。精神的に煩悶して気遠ひにでもなりたく思ふやうに なつたのは、去年からの事である。さうなると愈ミ本当の常病人にな つて、朝から晩迄誰か僅に居つて看謹をせねば暮せぬ事になつた。何 も仕事などは出来なくなつて、たゞひた苦みに苦しんで居ると、それ わ から種々な間魑が湧いて来る。死生の問題は大間魁ではあるが、それ は極単純な事であるので、一且あきらめてしまへば直に解決されてし まふ、それよりも直接に病人の苦楽に関係する間魑は家庭の問題で、め る。介抱の問題である。病気が苦しくなつた時、又は衰弱の為に心細 6 3 1 いかん くなつた時などは、看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ばすのであ る。殊に唯ミ物淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護して 呉れさへすれば、即ち病人の気を迎へて巧みに慰めて呉れさへすれば、 病苦などは殆ど忘れてしまふのである。然るに其看護の任に当る者ゼ 即ち家族の女共が看謹が下手であるといふと、病人は腹立てたり、滴 艦む起したり、大声で怒鳴りつけたりせねばならぬやうになるので、 普通の病苦の上に、更に余計な苦痛を添へるわけになる。我々の家で は下脾も置かぬ位の事で、まして看謹婦などを雇ふてはない、そこで 家族の者が看病すると言っても、食事から掃除から洗濯から裁縫から、 あらゆる家事を勤めた上の看病であるから、なか/\朝から晩迄病人 の側に付ききりに付いて居るといふわけにも行かぬ。そこで病人はい つも側に付いて居て呉れといふ。家族の女共は家事があるからさうは 出来ぬといふ。先づ一つの争ひが起る。又家族の者が病人の側に坐つ て居て呉れても種々な工夫をして病人を慰める事がなければ、痛人は ’ れう 矢張無聊に堪へぬ。けれども家族の者にそれだけの工夫がない。そこ でどうしたらばよからうといふ問題が又起つて来る。我々の家族は生 なと れてから田舎に生活した者であつて、勿論敦育杯は受けた事がない。 いはゆる o 所謂家庭の敦育といふことさへ受けなかつたといふてもよいのである それでもお三どんの仕事をするやうな事は寧ろ得意であるから、平日 はそれでよしとして別に傭はるを求めなかつたが、一朝一家の大事が 起つて、即ち主人が病気になるといふやうな場合になつて来た処で、 忽ち看護の必要が生じて来ても、其必要に応ずることが出来ないとい ふ事がわかつた。病人の看謹と庭の掃除とどつちが急務であるかとい ま ふ事きへ、無教育の家族にはわからんのである。況して病人の側に坐 もと つて見た処でどうして病苦を慰めるかといふ工夫などは固トより出来る 筈がない。何か話でもすればよいのであるが話すべき材料は何も持た ぬから只ミ手持無沙汰で坐つて居る、新聞を読ませトようとしても、振 り仮名のない新問は読めぬ。振り仮名をたよりに読ませて見ても、少 二上 し読むと全く読み飽いてしまふ。殆ど物の役に立たぬ女共である。茲 に於て始めて感じた、 o o o o o o o o o o o 教育は女子に必妥である、 (十六日) 李六 ニニ一:::ニニ: / ○女子の教育が病気の介抱に必要であるといふ事になると、それは看 護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、さうで は無い、矢張普通学の敦育をいふのである。女子に常識を持たせよ うといふのである。高等小学の教育はいふ迄も無い事で、出来る事な ら高等文学校位の程度の教育を施す必要があると思ふ。平和な時はど うかかうか済んで行く者であるが病人が出来た様な場合に其痛人をど う介抱するかといふ事に就て何等の知識も無い様では甚だ困る。女の 務むべき家事は沢山あるが、病人が出来た暁には共家事の内でも緩息 を考へて先づ忽な者だけをやつて置いて、葱がない事は後廻しにする 様にしなくては病人の介抱などは出蛛る筈が無い。掃除といふ事は必 要であるに柵違無いが、うん/\と捻つて居る病人を棄てて置いて隅 から隅迄拭き掃除をしたところで、それが女の義務を尽したといふわ けでもあるまい。場所によれば毎日の掃除を止めて二日に一度の掃除 にしても善い、三口に一度の掃除にしても善い。二度炊く飯を一度に 炊いて置いてもよい。或は近所の飯屋から飯を取寄せてもよい。副食 物』猷ぐ内で煮炊きをしなくてはならぬといふ事は無い。これも近所 に在る店で買ふて来てもよい。併し病人の好む場合には特に内で繍漱 きする必要が起る事もある。さういふ場合には成るべく注意して塩梅 を旨くするとか、又は病人の気短く請求する時は成るべく早く溺製す る必要も起つて来る。たとへば病人が何々を食ひたいといふ、而■、至 急に食ひたいといふ。けれども人手が少なうて、別に台所を働く者が 無い時には病人の傍で看病しながら食物を調理すろとい、か必妥一、起つ て来る。かやうな事は格別むづかしい事でも無い様であるが実際これ だけの事を遣ってのける女は存外少ないかと思はれる。それはどうい ふわけであるかといへば、それを遣るだけの知識さへ欠乏して居る、 一 書、、 一ナ、燃彬一 蔓章一裟綾畿銀静繋騒簸終議嚢。。胆、一、、、乏 尺 パ 林 病 7 3 1 即ち常識が欠乏して居るのである。女のする事を見て居ると極めて平 凡な仕事を遣って居るに拘らず割合に長い時脚を要するといふ者は、 ひつきやう 畢寛其遣り方に無駄が多いからである。一つの者を甲の場所から丁 の場所へ移してしまへば善いのを、先づ初に乙の場所に移し、再び丙 の場所に移し、三度日にやう/\丁の場所に移すといふ様な余計の手 数をかけるのが女の述り方である。平生はこれでも善いが一旦忽な場 とて 合には辿もぞんな事して居ては間に合ふ者では無い。それ位な工夫は 常識がありさへすれば誰にでも出来る事である。其常識を養ふには普 通敦育より外に方法は無い。どうかすると女に学問させてそれが何の 役に立つかといふて質問する人があるが、何の役といふても読んだ本 が共儘役に立つ事は常にある者では無い、つまり常識を養ひさへすれ ぱ、それで十分なのである。 (十七日) 李七  〇000000000 もと OOOOO ○家庭の敦育といふ事は、男子にも固より必要であるが、女子には殊 び炊歎巾かが。家庭の教育は知らず/\の間に施されるもので、必ず しも親が敦へようと思はない事でも、子供は能く親の真似をして居る 事が多い。そこで家庭の敦育は共子供のn…性を養ふて行くのに必妥で あるが、又学校で敦へないやうな形式的の敦育も、極些細な部分は家 じ ぎ 庭で敦へられるのである。例をいへば子供が他人に対して、辞誼をす るといふ事を初めとして、来客にはどういふ風に応接すべきものであ るかといふ事などは、親が敦へてやらなくてはならぬ。殊に女子にと つかきど つては最も大切なる一家の家庭を司つて、其の上に一家の和楽を失は い か ん ぬやうにして行く事は、多くは母親の敦育如何によりて善くも悪くも なるのである。処が今迄の日本の習慣では、一家の和楽といふ事が笹 ■ ■ ■ ■ ■ だ乏しい。それは第一に一家の団簗といふ事の欠乏して居るのを見て もわかる。一家の団簗といふ事は、普通に食事の時を利刑してやるの が簡便な抵であるが、それさへも行はれて居らぬ家庭が少なくはない。 先づ食努に一家の者が一所に集る。食少をしながら雑談もする。食事 を終へる。又雑談をする。是れだけの衷が出来れば家庭は何時迄も。平 和に、何処迄も愉快であるのである。是れを従来の習慣に依つてせぬ といふと、其内の者、殊に女の子などは一家団簗して楽しむべきも のであるといふことを知らずに居る、そ二で他家へ嫁人して後も、家 庭の団簗などいふ事をする事を知らないで、殺風景な生活をして居る 者がある。甚しいのは勇の方で一家の団簗といふ事を、無理に遣らせ か て見ても、一向に何等の興味を感ぜぬのさへある。斯やうな事では一 家の妻たる者の職分を尽したとはいはれない。それ故に家庭敦育の第 一歩として、先づ一家団簗して半和を楽しむといふ事位から敦へて行 へ」占 くのがよからう。一家団築といふ事は啻に一家の者が、平和を楽しむ といふ効能があるばかりでなく、家庭の敦育も亦二の際に多く施され おのつか るのである。一家が平和であれは、子供の性質も自ら平和になる。父 や母や兄や姉やなどの雑談が、有益なものであれは子供はそれを聴い てよき感化を受けるであらう。既に雑談といふ上は、むづかしい遺徳 上の議論などをするのではないが、高尚な品性を備へた人の談ならば 無駄話のうちにも必ず其高尚な所を現して居るので、これを聴いて居 る子供は、自ら高尚な風に感化せられる。この感化は別に敦へるので もなく、又敦へられるとも思はないのであるが、其深く沁み込む事は 学校の敦育よりも更に甚しい。故に家庭敦育の価値は或場合に於て学 校の敦育よりも重いといふても過、一一、口では無い。 (十八日) 李八 ○此頃の暑さにも堪へ兼て風を起す機械を欲しと言へば、碧格桐の白 ふう−ん ら作りて我が寝床の上に吊り呉れたる、仮に之を名づけて風板といふ。 夏の季にもやなるべき。 風板引け鉢植の花敵る程に  きき ころ  先つ填如水氏などの連中寄合ひて、袴能を催しけるとかや。素顔に 8 3 1 笠膚たる姿など話に聞くもゆかしく 涼しさの皆いでたちや袴能  総選挙も間際になりて日毎の新聞の記事さへ物騒がしく覚ゆるに お 鹿を逐ふ夏野の夢路草茂る (十九日) 李九  〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱といふ のは看謹人が同情を以て病人を介抱する事である。形式的介抱といふ のは病人をうまく取扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか、織帯を取替 へるとか、背をさするとか、足を按摩するとか、着物や蒲団の工合を 善く直してやるとか、其外洗腸沐浴は言ふ迄もなく、始終病人の身体 こんだてあん一」い の心持よきやうに傍から注意してやる事である。食事の献立塩梅など をうまくして病人を喜ばせるなどは其中にも必要なる一箇条である。 此二様の介抱の仕方が同時に俗られるならば言分はないが、若し何れ えら か一ツを択ぶといふ事ならば寧ろ糟神的同情のある方を必要とする。 うまい飯を喰ふ事は勿論必要であるけれども、其の介抱人に同情が無 かつた時には甚だ不愉快に感ずる場合が多いであらう、介抱人に同情 さへあれは少々物のやり方が悪くても腹の立つものでない。けれども 同情的看謹人は容易に得られぬ者とすれば勿論形式的の看護人だけで もどれだけ病人を慰めるかわからぬ、世の中に沢山ある所の所謂看護 婦なるものは此形式的看謹の一部分を行ふものであつて全部を行ふも のに至つては甚だ乏しいかと思はれる。勿論一人の病人に一人以上の 看謹婦がつききりになつて居るときは形式的看謹の全部を行ふわけで あるが、それも余程気の利いた者でなくては病人の満足を得る事はむ づかしい。看誕帰として病院で修業する事は医師の助手の如きもので あつて、此処に所謝柄気の介抱とは大変に違ふて居る。病人を介抱す ひ’き止う ると言ふのは畢竟病人を慰めるのに外ならんのであるから、敦へるこ とも出来ないやうな極めて些來なる事に気が利くやうでなければなら ぬ。例へば病人に着せてある蒲団が少し顔へか、り過ぎてゐると思へ ば共れを引き下げてやる。蒲団が重たさうだと思へば軽い蒲山に督へ てやるとか、或ひは蒲団に紐をつけて上へ吊り上げるとかいふやうな う る き ことをする。病人が自分を五月蜘がつて居るやうだと思へば少し次の 問へでも行って隠れて居る。病人が人恋しさうに心細く感じて居るや うだと思へば自分は寸時も其側を離れずに居る。或は他の人を呼んで 来て敵かに愉快に話などをする。或は病人の意外に出でて美しき花な どを見せて喜ばせる、或ひは病人の意中を測つて食ひたさうなといふ か 牛ヨ ものを旨くこしらへてやる。箇様な風に形式的看謹と言ふても矢張病 人の心持を推し量つての上で、これを慰めるやうな手段を取らねばな らぬのであるから、看護人は先づ第一に病人の性質と共癖とを知る事 が必要である。けれども是れば普通の看謹婦では出来る者が少ないで 篶パ㌶維篶㌶㌶鮒一詑篶㌶い 出来る筈である。うまく出来る筈であるけれども、それも実際の塲合 には中々病人の思ふやうにはならんので、病人は困るのである。一家 に病人が出来たといふやうな場八口は丁度一国に戦が起つたのと同じや うなもので、平生から病気介抱の修業をさせるといふわけに行かない のであるから、そこは其人の気の利き次第で看謹の上手と下手とが分 れるのである。 (二十口) 七十 ’、、」セ“ ○梅に鶯、竹に雀、などいふ様に、柳に窮翠といふ配合も略画などに は陳腐になる穐画き古されて居る。此頃画本を見るにつけて此陳腐な ’」く 配合の画を風ミ見る事であるが、それにも拘らず美しいといふ感じが 強く感ぜられて愈ミ興味がある様に覚えたので、柳に窮翠といふのを 題にして戯れに俳句十首を作つて見た。これは咋年の春春水の鯉とい ふ事を題にして十句作つた事があるのを思ひ出して又やつてみたので −雪雪葦宝−ζ書寺一 羨紗蚤繋緊欝由藩卦藤 製 、一 尺 六 沐 病 9 3 1 ある。 詣 詣 劣 輩 輩 輩 翠 翠 翠 翠 翠 翠 き 柳伐 輩翠 輩翠 輩翠 ねo  の 魚 を 覗 ふ 柳 をかくす柳の茂り きた の来る柳を愛す や 池 をめぐり て の来 ぬ日柳の嵐  きぎ ポ鷺も来て居る柳 つひ つて斐翠終に来ずな の 足場を選ぶ柳 の去つて柳のタ日 の飛んでしまひし柳 、 カ 、 カ か 皆 か か り 、 カ } カ } カ な な な 柳 な な ぬ な な な  春水の鯉は身動きもならぬ程言葉が詰まつて居たが、柳に斐翠の方  ÷ ゝ しか は稍壱ゆとりがある。従って幾らか趣向の変化を許すのである。而し て其結果はといふと詣翠の方が厭味の多いものが出来た様である。併 しこんな句の作り様は、一時の戯れに過ぎないやうであるが、実際に やつて見ると句法の研究などには最も善き手段であるといふ事が分つ た。つまり俳句を作る時に配合の材料を得ても句法の如何によつて善 い句にも悪い句にもなるといふ事が、此やり方でやつてみると十分に わかる様に思ふて面白い。 (二十一日) 七士 ○近刊の雑誌宝船に OO0000000000 甘酒屋打出の浜に卸しけり 青々 といふ句があるのを碧梧桐が賞讃して居つた。そこで余が之をつくづ こと“ くと見ると非常に不霧な点か多い。先づ第一に「卸しけり」といふ詞 た1 の意味がわからんので、之を碧梧桐に質すと、それは苛酒の荷をおろ したといふのであると説明かあつた。それが余にはわからんのでどう も此詞で其意味を現はすことは無理であると思ふ。併しながらこの句 の句法に至つては碧梧桐青々などのよく作るところで余は平生より頭 、こなしに排斥してしまふ方であつたから、二の機会を利用して、更に 研究せうと思ふたので、第一の疑問は暫く解けたものとして、それか ら第二の疑問に移つた。即ち甘酒屋と初句をぶつつけに置いた処が不 審な点である。すると碧梧桐の答へは、そこが勢常でない処であると かね いふのであ9た。二の答は予て期する所で、一ひねりひねつて句法を 片輪に置いてある為に、余はどうしても俳句として採ることが出来ぬ と思ふやうな句をいつでも碧梧桐が採るといふ事を知つて居る。併し この青々の句は少し他と変つて居るやうに思ふたので、余は幾度も繰 り返して考へて見た。さうするといふと、打出の浜に甘酒星が荷をお ろしたといふ趣向には感が深いので、おろしけりの詞さへ仮に許して 見れば、非常に面白い句でありさうに段々感じて来た。この話をして きた 一」んど から一夜二夜過ぎて復考へて見ると、此度は前に感じたよりも更に善 く感じて来た。甘酒星と初めに据ゑた処を手柄であると思ふやうにな つた。甘酒屋と初めに置いたのは、丁度小説の主人公を定めたやうに たと 一句の主眼を先づ定めたのである。仮に之を演劇に讐へて見ると今千 かつ 両役者が甘酒の荷を昇いで花道を出て来たといふやうな有様であつて 其主人公はこれからどうするか、其位置さへ未だ定まらずに居る処だ それが打出の浜におろしけりといふ句で其位置か定まるので、演劇で いふと、本舞台の正面より稍々左手の松の木蔭に荷を据ゑたといふや うな趣になる。それから後の舞台はどう変つて行くか、そんな事はこ 二に論ずる必要はないが、兎に角おろしけりと位置を定めて一歩も動 かぬ処が手柄である。若し「おろしけり」の代りに「荷を卸す」とい ふやうな結句を用ゐたならば、尚不定の姿があつて少しも落着かぬ句 となる。又打出の浜といふ語を先に置いて見ると、即ち「打出の浜に 荷を卸しけり甘酒歴」といふやうにいふと、打出の浜の一小部分を現 はすぱかりで折角大きな景色を持つて来ただけの妙味はなくなつてし まふ。そこで先づ「甘酒屋」と初めに主人公を定め、次に「打出の浜 に」と其場所を定め「おろしけり」といふ諦で英場所に於ける主人公 、 0 考 1 の位置か定まるので、甘酒屋が大きな打出の浜一面を凸領したやうな 心持になる。そこが面白い。演劇ならば其甘酒星に松した千両役者が 舞台全面を占領してしまふたやうな大きな愉快な心持になるのである。 その心持を現はすのには、余が前に片輸だと言ったやうな此句法でな ければ、しまつがつかぬといふことになつて来る。さうなつて来む映 に、この「おろしけり」といふ詞も外に言ひやうもなき故に仮に之を 許すとして見ると、この甘酒蛙の句は、その趣味と言ひ、趣味の現は しかたと言ひ、古今に稀なる句であると迄感ずるやうになつた。 (二十二H) 七主 ○先日週報募集の俳句の中に ○ 刈 o o o o し ちやララり 京極や夜店に出づる紙帳売 といふが碧梧桐の選に入つて居つた。余り平凡なる句を何故に碧梧桐 が選びしかと凝はる、のでよく/\考へて見た末全く中七字が尋常で 無いといふ事が分つた。普通には「夜店出したる」と置くべきを「夜 店に出づる」とした処が変つて居るのであつた。「夜店出したる」と いへば只ミ客観的に京極の夜店を見て紙帳売の出て居た事を傍から認 めたまでであるがあ[液店に出づる」といへば稍々主観的に紙帳売の身 の上に立ち入つて恰も小説家が白家作巾の主人公の身の上を叙する如 く、紙帳売のがはから立てた言葉になる。即ち紙帳売になじみがある やうな言ひかたである。之を演劇にたとへていふならば、幕があくと 京極の夜店の光景で、其の中に紙帳売が一人居る、これは前の段に腰 展見てなじみになつて居る菊五郎の紙帳売である、といつたやうな趣 になる。併し此句に就いては猶研究を要する。 (二十三日) 七圭 ○家庭の事務を減ずるために飯炊釦柑を興して飯を炊かすやうにした ならば善からうといふ人がある。工、れば涛き考である、飯を炊くため かまと に下女を置き竈を据ゑるなど無駄な費用と手数を婆する。吾々の如き 下女を置かぬ家では家族の者が飯を炊くのであるが、多くの時間と手 数を要する故に病気の介抱などをしながらの片子問には、ちと荷が重 過ぎるのである。飯を炊主一らゝある際に、病人の方に至忽な婆事が出 来るといふと、それがために飯が焦げ付くとか片煮えになるとか、出 来そこなふやうな事が起る。それ故飯炊会社といふやうなものが有つ て、それに引請けさせて置いたならば、至極便利であらうと思ふが、 ちつら 今日でも近所の食物屋に謎へれば飯を炊いてくれぬことはない。たま たまにはこの方法を取る事もあるが、矢帳昔からの習憤は捨て難いも のと見えて、家族の女どもは、それを厭ふて成る可く飯を炊く事をや る。ひまな時はそれでも善いけれど、人手の少くて困るやうな時に無 理に飯を炊かうとするのは、矢張り女に常識の無いためである。そん な事をする労力を省いて他の必袈なる事に向けるといふ事を知らぬか らである。必要なる堆は其家によつて色々遠ふ事は勿論であるが、一 例を一一、一ロヘば飯炊きに竹折るよりも、馴食物の調理に骨を折つた方が、 う ’ 余程飯は甘美く喰へる訳である。病人のある内ならば病蛛について居 つて面白き話をするとか、聞きたいといふものを読んで聞かせるとか する方が余程気が利いて居る。併し日本の飯はその家によつて堅きを 。ハ ソ 好むとか柔かきを好むとか一様で無いから、西洋の窮包と同じ訳に行 かぬ処もあるが、そんな事はどうとも出来る。飯炊会社がかたき飯柔 かき飯上等の飯下等の飯それ%\注文に応じてすれば小人数の内など は内で炊くよりも、談へる方が却て便利か多いであらう。 (二十四口) 七茜  ・ . けん加 だラ ℃状版は昔から商売の地であつて文学の地でない。た減化は莱葭堂、 無腸子のやうな篤志家も出なんだではないが、此地に准を下した学者 といふても多くは他国から入りこんで来た者であつた。俳人で大阪者 尺 L、 ノ 林 病 1 ’ 1 といへば宗困、西鶴、来山、淡々、大江丸などであるが是位では三府 の一たる大阪の産物としてはちともの足らぬ気がする。蕪村を大阪と づ o すればこれは又頭抜けた大立者であるが当人は大阪を嫌ふたか江戸と 京で一生の大部分を送つた。近時新派の俳句なる者行はるゝに至つて 青々の如き真面日に俳句を研究する者が出たのも、大阪に取つては異 数のやうに思はれる。しかのみならず更に一団の少年俳家が多く出て 俳句とい心写実的小品文といひ敏捷に軽妙に作りこなす処は天下敵無 しづち レといふ勢ひで、何地より出る俳句雑誌にも必ず大阪人の文章俳句が ぽつこ 敗属して居るのを見る侮に大阪のために其全盛を賀して居るコ然るに 此少年の一団を見渡すにいづれも皆才余りありて識足らずといふ欠点 があつて如何にも軽薄才子の態度を現して居る。其文章に現れたる所 に因つて察するに生意気、ハイカラ、軽躁浮薄、傍若無人、きいた風、 半可通、等あらゆる此種の形容詞を用ゐても猶足らざる程の厭味を傭 へて居つて見る者をして嘔吐を催さしむるやうな挙動をやつて居るら しいのは当人に取つても某だ善くない事でこれがために折角発達しつ りある才の進路を止めてしまふ事になる、又大阪に取つても前古氷微目 有の盛運に向はんとするのをこれぎりで挫折してしまふのは惜しい事 ではあるまいか。畢竟之を率ゐて行く先輩が無いのと少年に学問含蓄 が無いのとに基因するのであらう。幾多の少年に勧告する所は、成る べく謙遜に奥ゆかしく、真面目に勉強せよといふ事である。 (二十五日) 七圭 ■ ■ ■ ■ ■ ○或人からあ、オ、らめるといふことに就いて質問が来た、死生の問題な かつ どはあ、{、らめてしまへば司てれでよいといふた事と、又嘗一、兆民居士を 評して、あきらめる事を知つて凪るが、かぎ少かか’いル上のことを どiちやく 知らぬとさつた事と撞着して舳るやうだが、どういふものかといふ質 ひ ゆ 間である。それは壁一一楡を以て説明するならば、こ、に一人の子供があ き〕 る、、典子供に、養ひの為に、親が灸を据ゑてやるといふ、其場合に当 つて子供は灸を据ゑるのはいやぢやといふので、泣いたり逃げたりす るのは、あきらめのつかんのである、若し又共子供が到底逃げるにも 逃げられ助場合だと思ふて、親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑて貰 ふ。是は已にあきらめたのである、、併しながら、其子供が灸の痛さに 堪へかねて灸を据ゑる問は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、そ れば僅にあきらめたのみであつて、あきらめるより以上の事は出来ん のである。若し又共子供が親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑさせる ぱかりでなく、灸を据ゑる間も何か書物でも見るとか臼分でいたづら 書、ゴ、でもして居るとか、』一一ういふ事をやつて居つて、灸の方を少しも 苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやつて居るのであ る、兆民居士が一年有半を著した所などは死生の問題に就いてはあき らめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で火の犬命 を楽しんでといふやうな楽しむといふ域には至らなかつたかと思ふ。 しき 居士が病気になつて後頻りに義太火を聞いて、義太夫語りの評をして 居る処などは稍々わかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ処 がある。居士をして三二年も病気の境渡にあらしめたならば今少しは 楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、 病気を楽しむといふ事にならなければ生きて居ても何の面白味もない。 (二十六日) 七士ハ ■ ■ ■ ■ ■ ○近頃月樵の大帽、ヤ見た。、一、れば雪中に狸の歩いて肘一勺処で、弓帳月 し コ が雲聞から照して居る。狸を真中に画いて共前後には彬未の如きもの に雪の積んだ処があしらつてあるコ画の巾の材料はそれきりで極めて 簡単であるが、最も不思議な事は、狸の顔の上半分と北H中の処だけば 薄墨で画いて、共余は真然に画いてある。共の淡堪と濃墨との按する 処は極めて無造作であつて、近よつて之れを見ると何とも今点のゆか iすじろ “・」ろi ぬ程であるが、少し遠ざかつて見ると背中の淡白い処が膣雌として面 白く見える。これは多少雪も積つて用るであらうし、共上を月が照し 2 省 1 て居ろためにかういふ風に見えるといふ趣をあらはして居る。かやう な処へ趣向を凝らすのは月樵の月樵たる所で、とても他人の思ひ及ぶ 所では無い。又第二に少し遠ざかつて見るやうに画いたのは例の髪の 毛を一本々々画くやうな小細工な日本画家と同日に論じられん所であ る。 わざく  前に月樵の名誉が揚らないといふた事に就いて或人は態々手紙をよ ニレて、月樵の名誉の高き事をいふであつた。余も月樵の名誉が全く 無いとは思はないけれど、今日ある所の名誉は実際の技儒に比して果 オ して相当な名誉であるであらう欺、それが疑はしいのである。蕪村の 俳句に於ける名誉も、いつも多少の地位を占めて居つた事は明かであ もと そ るが、英名誉は固より実際の技儒に副ふ程の名誉では無かつたので、 明治の今日に至つて、始めて相当の名誉を得たのである。現に月樵の 事に就いて手紙をよこした人も、月樵が或時藍雪と共に一日百枚の席 画を画いたが日の暮頃に麓雪はまだ八十枚しか画かないのに月樵はす でに九十枚画いて居つた。これでも月樵の筆の達者な事がわかると、 白慢してあつた。けれどもそれ等は実に不見識な話で、元来席画など たはむれ は、函かきの戯に画くものである。それを百枚画いたとて、二百枚画 いたとて、少しも名誉にはならぬ。こんな事で誉められては月樵も迷 惑するであらう。月樵の本分は何処にあるか、まだ世間には知られて 居らんと見える。 (二十七日) 七十七 あへ O「日本一へ掲載の俳句は敢て募集するとにはあらねど篤志の人は投 書あるべし。投書は紙一枚一題に限る。一枚毎に雅号を記し置くべし。 題は其季のもの何にてもよろし。斯く横潜にも敢て募集せずなどとい ふは投書を排斥するの意には非ず。若し募集すといふ以上は検閲の責 任重くなりて病身の堪ふる所に非ず。場合によりては善き句も見落す 事あるべく、又初め四五句読みて共出来加滅を試み其儘外の句は目も か 通さで棄つる事もあるべし。斯かる無責任の見様にてもかまはぬ人は 俳句を寄せられたし。 ○此頃「吉池旧蹟芭蕉神社創立十年祭詞念物奉納並大日本俳家人名録 発行緒言」と題する刷物の内に賛成員補助員などの名日ありて我名も ム#一を 共補助員の中に記されたり。されどこは我が知る所に非ず。尤も幹雄 島ん苛や 翁には十年程前二一度面会したる事あり。明治二十六年奥州行脚に出 掛し時などは翁の紹介書を得たるなど世話になりたる事もあり、され ど吉池教会には何の関係も無く又俳家人名録などいふ事にも何等の関 係なし。 ○毎週水曜日及日曜日を我庵の面会日と定め置く。何人にても誘のあ る人は来訪ありたし。但し此頃の容態にては朝寝起後は苦しき故、朝 早く訪はるゝ事だけば容赦ありたし。病人の事なれば来客に対しても 相当の礼を尽す能はず、あらゆる無礼を為すは勿論、余り苦しき時は 面会を断る事もあるべし。其外場合によりて我侭をいひ指図がましき 事などをいふかも知れず。是等は前以て承知あらん事を乞ふ。話の種 は雅俗を問はヂ伺にても話されたし。学術と実際とに拘らず各種専門 上の談話など最も聴き度しと思ふ所なり。短冊、書画帖など其他総て 字を書けとの依頼は断り置く。又面会日以外は面会せずといふわけに は非ず。 (二十八日) 七十八 ● ■ ■ ● ○西洋の霧美学者が実感仮感といふ言葉をこしらへて区別を立てて居 るさうな。実感といふのは実際の物を見た時の感じで、仮感といふの は画に画いたものを見た時の感じであるといふ事である。こんな区別 を言葉の上で二しらへるのは勝手であるが、実際実感と仮感と感じの 有様がどういふ風に違ふか吾にはわからぬ。例へばバノラマを見るや うな場合について言ふて見ると、バノヲマといふものは実物と画とを 接続せしめるやうに置いたものであるから、之に対して起る所の感じ 】、 ノ 。ハ 休 病 3 考 1 は実感と仮感と両方の浪合したものであるが、其実物と画との境界に 在るもの即ち実物やら画やら殆どわからぬ所のものに対して起る所の 感じは何といふ感じであらうか。若し画に両いてあるものを実物だと 思ふて見たならば共時は画に対して実感が起るといふても善いのであ らうか。又実物を画と誤つて見た時の感じは何といふ感じであらうか。 英時に実物に対して仮感が起つたといふても善いのであらうか、さう なると実感が仮感か、仮感が実感か少しも分らぬではないか。元来画 を見た時の感じを仮感などと名付付た所で、共仮感なるものの心理上 の有様が十分に説明してない以上は議論にも成らぬことである。吾々 が画を見た時の感じは、種々複雑して居つて、其中には実物を見た時 の実感と、同じやうな感じも幾らかこもつて居る。其外彩色又は筆力 等の上に於て美と感ずるやうな感じもこもつて居る。然るにそれを唯 唯仮感と名付けた所で、どんな感じを言ふのか捕へ所の無いやうな事 になる。吾は審美学の書物を読んだ事もなければ、又これから読む事 あ牛ま も出来ぬ。若し吾説か謬つて居るならば、敦を聞きたいものである。 (二十九日) 七弐 から ○夏の長き日を愛すといへる唐のみかどの悟りがほなるにひきかへ我 お はかび生ふる寝床の上にひねもす夜もすがら同じ天井を見て横たはる いとま ひち ことのつらさよ。立ちてはたらく人はしばらく、暇を得て昼寝の肱を 曲げなんと思ふ頃、我は杖にすがりて一足二足庭の木の影を踏まば如 何にうれしからんと思ふ。されどせんなし、暑き日は暑きに苦しみ雨 ふみ の日は雨に苦しみ、いたづらに長き日を書も読までぼんやりとあれは、 はては心もだえ息せまり手を動かし声を放ち物ぐるはしきまでになり ぬるもよしなしや。此頃すこしく痛みのひまあるに任せて俳句など案 いに 一へ じわづらふ稗に古の俳人たちは斯かる夏の口を如何にして送りけんな ど思ひつ一、くれば、あら面白、其人々の境涯あるは其宿の有様ありあ りと眼の前に浮ぶまゝにまぼろしを捉へて、一佃又一句、十余人十余 しら 句を得てけり。試みに記して任寝の目ぎまし草、 もなさんかし、 芭 焦 止れ 破 粛 柿 青 団 き 其 山 去 の 丈 嵐 ち 一 扇 射 チ の 来 花 草 去 夏も お 敵 相 る や 来や 来 炉の 手 智月尼 ぎ ちゆうじ 義仲寺へ }。の ちよ 園 女 け L 磐粟咲く 椎 然 ひる か や 昼蚊帳に乞食と お1こ つら 鬼 貫 おつ 乙 しラ H ナ や尋ね 仕 暑 官 る と つ れ あ 児 て 備 へ し昼 門 て た れ いと 農 日 に げ 夏 か な 斗 無き 立つ ぱな 杷 つみ 商 芋 る智月庵 ば ゐ ねん ぱう 惟然坊 性 く 涌を煮る男も弟子の発句つくり たい き 太 砥 あん ご 俳諧の仏千句の安居かな 蕪 村 {二、 せつ 団扇二つ角と雪とを画きけり 召 波 モん も く 村と話す維駒団扇取つて傍に き とう 几 董 り し てん 李斯伝を風吹きかへす昼寝かな 八十 茶のみ時の笑ひ單に (三十日) 4 4 1 〇七月二十九日。火曜口。曇。 寧 り たちま  咋夜半碧梧桐去りて後眠られず。百合十句忽ち成る。一時過ぎて眠 る、、 た吉o  朝六時艇覚む。蚊帳はづさせ雨戸あけさせて新聞を見る。玉利博士 の珊洋梨の話待ち兼ねて読む。印度仙人談完結す。  二時間程睡る。  九時頃便通後稍々苦しく例に依りて麻癖剤を服す。薬いまだ利かざ るに既に心愉快になる。  此時老母に新聞読みてもらふて聞く。振仮名をたよりにつまづきな 壮と がら他愛もなき講談の筆記杯を読まるゝを我は心を静めて聞きみ聞か ずみうと/\となる時は一日中の最も楽しき時なり。 メ ソ  牛乳一合、窮包すこし。  くるふ そらまめ  胡桃と蚕豆の古きものありとて出しけるを四五箇づゝ並べて菓物帖 に写生す、一 う ぱ症fし と『上 かす  午飯、卯の花鮮。豆腐津に瓜肉をすりまぜたるなりとぞ。  又昼寝す。覚めて懐中汁粉を飲む。  午後四時過左千夫今臼の番にて訪はる。 ふ き まめ  晩飯、飯三碗、焼物、芋、茄子、富貴豆、三杯酢漬。飯うまく食ふ。 ひあふさ いへつ 生  庭前に咲ける射干を根ながら掘りて左千夫の家土産とす、  床の間の掛物亀に水草の画、文鳳と署名しあれど偽筆らし。  座敷の掛額は不折筆の水彩画、宮士五合目の景なり、  とう{い ぱさ  銅瓶に射十一もとを挿む。 いたとり  小鉢に宮士の焼石を置き三寸許りの低き虎枚を二三本あしらひたる は四絶生の自ら造りて贈る所。 (三十一日) 八十一 ○哀物に就きて数件 一、茶の会席料理は普通の料理星の料理と違ひ変化多き者ならんと思 ゴ士1 」 。。■  へり。然るに茶の料理も之れを料堤俗に命ずれば矢帳千篇一惟なり。 かく 曰く味暗汁、曰く廿酢、〔く椀盛、曰く焼物と」斯の伽→、布ならば し{ 一一」 料理屋に依獺せずして亭主口ら意匠を凝らすを可とす、従に物の多 むさ。H きを資りて憲匠無きは会席の本意に非ず。 一、衷京の料理はひたすらに砂糖的†味の強きを貴ぶ。これ東京人士 亭ゑん の婦女子に似て柔蜴なる所以なり。 一、東京の料理はすまレ汁の色口きを貴んで色の黒きを嫌ふ。故に醤 油を用ゐる事極めて少量なり。これ椀盛などの味淡白水の如く始ど 喫すろに堪へざる所以なりと。些細の色のために味を楓ずるは愚の 極といふべし。 ;三 ’一 一、餅菓子の口き色にして一箇一銭を仙する折共の色を赤くすれば財 ち一箇二銭五厘となる。味に和遠あるに非ず。しか■二簡にして一 銭五匝の和遠は染料の価なりと、贅沢に以たれども共概の美は人を して共味の美を珊す思ひあらしむ。  亡ひ しらこ あ’」一」 iま 一、鯛の白子は粟子よりも遊かに旨し。しかし世人此昧亭、解せざるた れん めに白子は価廉に粟子は貴し。 し わきJ しやう■。一 一、醤油の辛きは塊の辛きに如かず、山葵の辛きは燕の辛きに如かず。 (八月一口) 八十二 ■ ■ ■ ○我々の俳句仲間にて俗宗匠の作る如去、・句を月並調と称すコニは床栓 か 連、八公連などボ月並の兼魍を得て景物取りの句作を為すより斯くい ひし者が、俳句の流行と共に今は広く拡がりて、わけも知らぬ人迄月 並調といふ語を用ゐる様になれり。従って攻場合には俳句以外の事に ● ● ■ ● ■ 迄俗なる肴は之を”並と呼ぶ事さへ少からず。近則攻人と衣食位の月 抄といふ事を論じたる事あり、帝物の納柄に就きても極めて細き納牟、 {]めん 好むは月並なり、」柑物の地介に就きていへば納緬の如考、は月並な一 食物に就きていへば砂糟蜜などを多く入れて無暗に廿くしたるは月並 なり、住居に就いていへば床の間の有側の柱だけ皮附きの木にするは 尺 六 沐 病 一) 4 1 たぐひ 。一巳古 月並なり。此の類枚挙に遑あらず。然るに俳句の上にて月並の何たる を解する人にして却一、]川衣食げ刀上には殆ど月並臭味を脱すろ能は ざる人極めて多し、例へば着物の納などは殊に細か・、ごを貴ぶ人多く、 而く共ハ並たるを知らざるのみならず却て納柄の大きく明瞭なるを以 て俗と称ふるが如きあり。是等は流俗に雷同して其可再を研究せざる }’ にもよるべく、将た俳句に得たる趣味を総ての上に一貫せしむる事を 思はぬにもよろべし。俳句の俗宗匠が細みなどと称へて極めて些細な い。」{る る下らぬ事を句に作りて喜ぶは所謂細みを誤解したる者なり。大きな ろ景色などを詠みたる句は面白からずとも俗には陥らざるべし。画に ても例の髪の毛を一本づゝ画きたる如きは勿論之を月並といふべし。 然るに瀞物の納に限りて細きを好むが如丑、一は衣服は殊に虚飾を為すに いた一ら こ は必要なる者なれば色気ある少年達の徒に世の流行に媚びて月並に落 し一」ら お ちたるをも知らざる者多きは笑止なり。婦人の上は姑く措く。男子に して修飾を為さんとする者は須く一箇の美的識見を以て修飾すべし。 いひ は 一] へいい 流行を迫ふは愚の極なり。美的修飾は贅沢の謂に非ず、被袴弊衣ら配 きんき 合と調和によりては縮緬よりも友禅よりも美なる事あり。名言屋山三  〇れつぽめ かみこ が濡燕の縫ひは美にして伊左衛門の紙衣は美ならずとはいひ難し。余 は修飾を以て悪しき事とは思はず、唯ミ一般の俗人はいふ迄も無く、 俳句の上にては高尚なる趣味を解する人さへ、月並的修飾を為すを悲 しむなり。 (二円) 八十三  ■ ■ ■ ■ ○能楽社会には家元なるものがあつて、それが技芸に関する一切の事 、、 二一ほる くわんせ はう1一㌣う の全権を握つて居る。例へばシテの家元には金春、金剛、観世、宝生、 、 、 再多といふのがある。ワキの家。兀には宝生、進藤などいふのがある。 お“一一・み 其外大鼓の家元は誰とか、小鼓の家元は誰とか一々きまつて舳る。狂 一、Hの方にち大蔵流、鷺流など其外にもある。さうしてこれ等の家元が 、二。二 もつたい あiひ 答ミ敗厄してH分の流義に勿体を附け、容易に他人には流義の奥秘を 伝授せ螂たどといふ事に成つて居る。けれども昔の時代はそルでも善 かつたが、今口の世の中イ、は今少し融通を附けて遣って行かぬと、能 楽界が滅びてしまひはせわかとの懸念がある。、今〕では最早能役者に ふ ち 扶持の附いて居る時代では無いのである。それにζ拘らず件樋の芸に 一々家元呼ばはりなどをし一し肝つては、人が足らないで能楽が出火ぬ やうな事に成つてしまふ、、共処で今日の場合に応じて行かうといふに 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 は、一人で出来るだけの芸を兼ねで、遣るやうにしたらば普からうと思 、 止」い二 ふ。例へば小鼓を打つものは大蚊を打ち太鼓ら打つ位のことは訳無い であらう。或はワキ師がハヤシ方に成つても普からう、若し出来るな らばシテも遣る、ワキも遣る、ハヤシ方も遣る、狂言も遣る、さうい ふやうな人もあつて差支無いであらう。かういふ事をいふと昔風な頑 固な人は、それは出来るもので無いと拒むかも知れない、一芸に達す る事さへ容易で無いのに数芸に達するなんかは思ひち寄らぬ事である などといふであらう。それも一理が無いではないが必ずしもさういふ 訳のものでも無い。昔の人は漢学を知つて居るものは国学を知らないし 詩人は歌を作ることを知らない。歌人は俳句を作る事を知らない、昔 は総てさういふ風であつたのである。それが明治に成つて見ると歌を 作り俳句を作るといふ者も沢山出来て来た。詩も作り歌も作るといふ 者も出来て来た。中には数学専門の人で俳句を作る者もある。して見 ると能役者が二芸三芸兼ねる位の事は訳も無い事といはねばならぬし 共上に共成績はどうかといふと丁云専門の者が皆進者で二芸以上兼修 に∫ の者は腕が鈍いといふでも無い、それは俳句界で第一流といはれる蕪 村が両の方でも亦凡人にすぐれた技儒を持つて居つたのでもわかる、 1』 尤もこれは誰にでも出来るといふ訳では無いから、人を強ふる訳には 行かぬが、若し自分が奮発して遮つて見ようといふものがあるならば まtかく 二芸でも三公でも修めるが普いであらうと思ふ。家元なる人も亦斯の {す っと 如き後進を扶けて行く事にカめて、ゆめにも共進路を妨げるやうな事 をしてはならぬ。 (。一、口) 6 4 1 八十四 ○此則病沐の慰みにと人々より贈られたるものの中に たいしやくてん  鳴雪翁より贈られたるは柴又の帝釈天の掛図である。この図は日蓮 が病中に枕元に現はれたといふ帝釈天の姿を其儘写したもので、特に 病気平癒には縁故があるといふて贈られたのである。其像は四寸許り の大きさで全体は影法師を写したといふ為に黒く画いてある。顔ばか り税ミ明瞭で、菱形の目が二つ並んで居る、傍には高祖真整目刻帝釈 ひけ 天王、東葛西領柴又、経栄山魍経寺と書いてある、上の方には例の髪 た』も{ 魑目が書いてあつて其傍に草書でわからぬ事が沢山書いてある。其中  なむしやかむにふつ に南無釈迩牟尼仏とか、病之良薬とかいふのが僅かに読める。いろい ろな神様を祭らせて成るべく信仰の種類を多くせうとした日蓮の策略 は浅墓なやうであるけれども、今日に至る迄多くの人の信仰を博して 柴又の縁日には臨時汽車迄出させる程の勢ひを持つて居るのは、日運 のえらい事を現はして居る、 おもちや  風骨より贈つて呉れた玩盤は、小さい丸い薄いガヲスの玉の中に、 五分位な人形が三つはひつて居る。其人形の顕は赤と緑と黒とに染分 けてある。それで共玉に水を入れて、口を指で塞いで玉を横にすると、 人形が上の方に浮き上つたり又下に沈んだりするやうになつて居る。 しかも其人形は同時に浮き沈みせずして別々に浮沈みする。これは薄 いガラスを指で圧する為に圧せられたる水が人形の空虚に出入して、 それが為に浮沈するのであらう。簡単な物であるけれど、物理を応用 して、子供などを善ばせるやうに出来て居る処はうまいものである。 これに口上が添ふと一層画白くなるので、露店の群がつて居る中でも、 二の玩誰を売る店は最も賑はふ処であるさうな。実際の口上は知らぬ こわいろ が、風骨の仮声を聞いても余程興がある。「赤さんお上り、青さんお 上り」一青さんお下い、黒さんお下りし「小隊進め才イ」などとしやべ りながら、片方の手でガヲスの外から糸を引くやうな真似をするのは、 おもちや 風骨得意の処である。今一つの玩器は、日比野藤太郎先生新発明の活 嚢 山、。、 婁蔓婁嚢蓬一妻 ““ ヨ 、養、・“一 。品、ホ、、‘。 動写真といふので、これは丁度、トヲンプ程の大きさの紙が一二十枚程 揃へてあつて、それには和撲の取組んで居る絵が順を追ふて変化する づゝ やうに画いてある。それを指の先で一枚宛ぱら/\とはじいて見るの で活動写真になるのぢやさうな、人を馬鹿にして居る処が甚だ面[い タノt  義郎が贈つたといふよりも実際目の前でこしらへて見せた旧面の人 形といふのがある。これは義郎の来る日が恰も新暦の八月一日に当つ 一。屠つたので、義郎の故郷(伊予小松)でする田面の儀式をして見せ ノンコ たのである。それは鰺粉で二三寸許りの粗來な人形を沢山作つて、銃 のぐるりに並べる、共中央には矢張磐粉の作り物を何でも思ひ/\に こしらへて置くのぢやさうな。余の幼き時に僅かに記億して居るのは きひから これと少し違って黍殻に赤紙の着物などを潜廿て人形として、それを 板の上に沢山並べるのであつた。この田面祭りといふのは百姓が五穀 を祭る意味であるから、国々の旧舎に依つて多少の違ふた儀式が残つ て居るであらうと思ふ。併し人形の行列を作るのは何の意味であるか よくわからぬ。 (四口) 八圭 ○此頃茂りといふ題にて俳句二十首ばかり作りて碧虚両子に示す。碧 梧桐は をの 天狗住んで斧入らしめず木の茂り の句善しといひ虚子は 柱にもならで茂りぬ五百年 の句善しといふ。しかも前者は虚子之を取らず後者は碧楕桐之を取ら 、す。 植木屋は来らず庭の茂りかな の句に至りては二子共に可なりといふ。運座の時無遺作にして意義浅 く分り易き句が常に多数の選に入る如く、今二子が植木屋の句に於て 意見含したるは此句の無造作なるに因るならん。其後百合の句を二子 ・㌻」 尺 六 沐 病 7 4 1 に示して評を乞ひしに碧梧桐は 用ありて在所へ行けば百合の花 の句を取り、虚子は 姫百合やあまり短き筒の中 の句を取る。しかして碧梧桐後者を取らず虚子前者を取らず。 畑もあり百合など咲いて島ゆたか の句は余が昔辛の末に成りたる者、碧梧桐は之を百合十句中の第一と なす、此句未だ虚子の説を聞かず。賛否を知らず。 (五日) 八芙  OOOOOOO00000000000000000000000 0此ごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとな o o o o つて居る。けふは相変らずの雨天に頭がもや/\してたまらん。朝は え ぞ ぎく モルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。一つの花は非常な失敗であつた が、次に画いた花は稍々成功してうれしかつた。午後になつて頭は愈 つひ 愈くしや/\としてたまらぬやうになり、終には余りの苦しさに泣き 叫ぶ程になつて来た。そこで服薬の時問は少くも八時間を隔てるとい ふ規定によると、まだ薬を飲む時刻には少し早いのであるが、余り苦 しいからとう/\二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。そ きへ」 くわんざラ れから復写生をしたくなつて忘れ草(萱單に非ず)といふ花を写生し 吉んじ卓一牛げ た。この花は曇珠沙華のやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は 百合に以たやうなのが一本に六つ許りかたまつて咲いて居る。それを しき いきなり画いたところが、大々失敗をやらかして頻りに紙の破れ尽す た1 迄もと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ気合くそがわるくて堪ら せきちく んので、また石竹を一輸画いた。これも余り善い成績ではなかつた。 兎角こんなことして草花帖が段々に画き塞がれて行くのがうれしい。 八月四日記。 (六日) 八十七 ○草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の 秘密が段々分つて来るやうな気がする。 (七日) 八六 ○八月六日。晴。朝、例によりて苦悶す。七時半麻津剤を服し、新聞 一」さん を読んでもらふて聞く。牛乳一合。午餐、頭苦しく新聞も読めず画も 。ハイソアツブル かけず。されど鳳梨を求め置きしが気にか・りてならぬ故休み/\ 比ると 写生す。これにて菓物帖完結す。始めて嶋門蜜柑を食ふ。液多くして 壮つだいく 夏榿よりも甘し。今日の番にて左千夫来る。午後四時半又服剤。タ 刻は咋日より稍々心地よし。タ刻寒暖計八十三度。 (八日) 八十九 ○或絵具と或絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふやうな色 が出ないと又他の絵具をなすつてみる。同じ赤い色でも少しづゝ色の 違ひで趣が違って来る。いろ/\に工夫して少しくすんだ赤とか、少 レ黄色味を帯びた赤とかいふものを出すのが写生の一つの楽しみであ る。神様が草花を染める時も矢張こんなに工夫して楽しんで居るので あらうか。 (九日) 九十 ○梅も桜も桃も一時に咲いて居る、美しい岡の上をあちこちと立つて 歩いて、こんな愉快な事は無いと、人に話し會った憂を見た。睡眠中  いへと と雖も暫時も苦痛を離れる事の出来ぬ此頃の容態に何うしてこんな聾 を見たか細らん。 8 4 1 九士 (十口)  O00000C⊂、〕O000000000000〕OOOO000 つ〕本酒が此後西洋に沢山輸出せられるやうになるかどうかは一疑問 C O ⊂ である、西洋人に口木涌亭。炊ませて見ても、どうしても得飲まんさう ぢや。これは西洋と日本と総ての物が共つ嗜妊の遠ふにつれて其の趣 味も異つてゐるやうに単に習慣の上より来て居るζのとすれば、日本 ハ j ・− の名が世界に広まると共一」、日本の正宗の瓶詰が巴里の食卓の上に並 しか べられる日が来ぬとも限らぬ。併し吾々下戸の経験を言ふて見ると、 札仏 日本の国に生れて日本酒を嘗めて見る機会は可なり多かつたに拘らず、 どうしても其の味が辛いやうな酸ぱいやうなヘンな味がして今にうま く飲む事が出来ぬ。之に反して西洋酒はシヤンバンは言ふ迄もなく葡 萄酒でもビールでもブヲンデーでも幾らか飲みやすい所があって、日 本酒のやうに変テコな味がしない。これは勿論下戸の説であるから是 れでもつて酒の優劣を定めるといふのではないが、兎に角西洋酒より も日本酒の方が飲みにくい味を持つてゐるといふ事は多少証明せられ て居る。それでも日本酒好になると、何酒よりも日本酒が一番うまい といふことは殆ど上戸一般に声を揃へて言ふ所を見ると、その辛いや う“‘ 、つな酸ぱいやうな所が其人等には甘く感ぜられるやうに出来て居るの に遠ひない己西祥人と雖ら段々日本趣味に慣れて来る者は、日本酒を かiす オ 好むやうな好事家も幾らかは出来ぬ事はあるまいが、日本の清酒が何 百万円といふ程輸出せられて、それが為に酒の値と米の値とが非常に 騰貴して、細民が困るといふやうな事は先づ近い将来に於ては無いと いふてよからう、 (十一日) 九十一一  {」い一」 ○大做小做五対  (木)大阪の博覧会場内へ植ゑつけた並木は宮内省から貰ひ受けた 何やらの木も甚だ生長が悪く十分に茂りを見せぬさうな。これは い て ふ 初め槽羽氏より話があつたやうに銀杏の並木にして欲しかつた。 銀杏の並木といふ事を聞いてから意外の考案に籍かされて今に之 を褒想して居るのぢやが、博覧会場などで無く永久に保存すべ去一一 地に銀杏の並木を造つて五十年百年と経過したなら如何に面白へ一一一 ζのになるであらうか。夏の青葉の沽潔にして涼しき、殊に晩秋 かへ’」’…−〕 し一り初冬にかけて葉が黄ばんで来た時の風致は楓や櫨などの糺葉 とも違ふて得■皇、口はれわ趣であらう。冬枯に落葉して後も亦一種 のさびた趣があつて他の凡木とは同日の論でない、それに銀杏の 葉といふものら形の雅に色の美しきのみならず虫さへ食はぬ程の 清潔な者であるから何か之を装飾に利用したら雅致のある者が出 来はすまいかと思はれる。  去年の夏、毎日々々暑さに苦められて終日病休にもがいた末、 うご 日脚が斜めに樹の影を押して、微風が夕顔の白き花を吹去一一揺かす のを見ると何ともいはれぬ普い心持になつて始めて人間に生き返 くるしみ るのであつた。其栓中の苦と其夕方の愉快さとが忘られんので今 年も去年より一借の苦を感ずるのは知れきつて思るから、せめて とて タ顔の白き花でも見ねば迫もたまるまいと思ふてタ顔の直を買ふ 一病室の前に植ゑっけたが一本も残らず枯れてしまふた。看病の ために庭の掃除も手入も出来ぬ上に、植木屋が来てくれんで松も 一ひ 格も枝がはびこつて草苗などは下陰になつて生長することが出来 わのであらう。もう今頃は白い花が風に動いて居るだらうと思ふ と、見ぬ家の夕顔さへ面影に立つて羨ましくて/\たまらぬ。 ゑい■〕今 (火)福岡の衛戍病院は三十余年前に床の下に入れて置いた地雷火 が此頃胤ひ出したやうに爆発して人を焼き殺したさうな。  我家の炭も木ツパも連日の雨に濡れていくら燃やしつけても燃 おく えぬ。それがために朝飯がいつも後れる。 (十二日) 買驚欝蔓雲岳一妻か帯中を薯= 尺 ’、 沐 病 9 圭 1 九士昌 (大倣小傲のツ“キ) りんi  (土)此頃の霖雨で処々に崖が崩れて死傷を出した処ζあるさうだ。 共中にも横須賀の海軍経理部に沿ふた路傍の崖崩れば最も甚しき ’」か 被害を与へたもので、十許りの人命と三台の人力車とを一時に埋 め去つたとは気の毒な次第である。 我が草庵の門前は鴬横町といふて名前こそやさしいが、随分瞼 悪な小路で、冬から春へかけては泥淳高下駄を没する程で、為に 来訪の客はおろし立ての白地袋を汚してしまふたといふやうな事 は珍しくもないのである。それが此頃は夏であるに拘らず長雨の 為に門前の土が掘取つたやうにくぼくなつたきうで、知らない人 はこ、で下駄をくねらしてころぶこともあるやうすである。誠に 気の毒な次第である。 えだみつ  (金)枝光の製鉄所では鉢鉱炉の作業を中止したさうだ。 の と 草庵の台所では段々暑釘に殉ふて咽候のかわきをいやす工夫が やくbん 必要になつたので、大なるブリキの薬罐を買ふて来て麦湯の製造 に着手して居る。 {」’一  (水)梅雨になつて降り出して、悔雨があけて復峰り出して、士川 に入りて降出して土用があけて復降り出したといふ、のべつ崎れ 山。仏しの附天なので、此頃では大川も小川も到る処湿れ出して家を とち“・」 浸して居る処もあり旧畑を浸して居る処るある。泥鱈は喜んイ、居 るだらうが、人間には随分ひどい害をなして居る。 常に枕元に置いて尿る硯は共溝が幅が狭く一一深』一;余り深くな いが、今迄水へれつ水をへれるつにガブと人れ過ゴ一一たやうな時刊、 ■二度ム湿れ出した事は。、へい。二、れば硯の両側に・づ浅い溝が掘つ 一、あるので、此溝は平生用を為さぬやうであるが、それが為に洪 水を防ぐやうに出来て居る、此法を以て治めたら如何なる大河の 水も治まらぬ事はあるまい。 (十三日) 九十四  かづ き ○上総にて山林を持つ人の話 み■■三ラ 一、此頃の杉の繁殖法は実生によらずし一、多くさし穂を用ゐる事 一、杉の枝は十年三十年六十年の三度位に伐り落す事 一、一丈廻りの杉の木は二百年以上を経たる者と知るべき事 一、杉の上等なるものは電信電話の柱として東京へ輸出し、共外多く  か つ ’、一と  上総戸と称する粗來なる雨戸となして東京へ出す事 一、雨戸は建具屋職人一人にて一日八九枚より十四五枚を遊る、吏京  へ持ち出しての棚場は今一円に三枚か三枚半との事 一、雨戸を東京へ出す迄に左の七人の手を経る事 一、川王 二、根ぎり(淋材舳り) 三、木びき 四、建具屋 五、荷馬車 六、停車場運送店 七、衷京木材間屋 たるき 一、松は二寸に一寸五分角の垂木のやうな棒にしナし出す、之を松わり  と呼ぶ事 一、くぬ木は炭となして佐會へ出す、東京にてサクラ炭といふは此〃  ぬ木炭なるべき事 一、松の節くれ多く木材にならむζのは之を炭と竈了、下等の庚なり、 ’。・ ち 干  併し東京の鍛冶屋は一般に之を用ゐる事 一、山林養成に最も害をなすものは第一、野火、第二、馬車の材木を  稜んで林の問を通る者、第三、小児の悪戯等なる事 (十円H) C「病休六尺一 を述べて置いた 九圭 (七十、へ)に於て実感仮感とい が、其の後「審美綱領」とい− ふ訊の定義一」就い 小妻』を見たら仮惰と て疑 、一い し ’ 〇 一つ / 事を説明してある、これが大かた前にいふた仮感に当つて居るもので あらう。併しこれには「美なる感情を名づけて仮情といふ」と規定し てあるのだから仮情といふ語の定義に就いては別に論ずべき余地は無 い。若し論ずるならば一美なる感情一に就いて論ずべ当一ス、ある、、さう 。、らると問題が全く別になるへ一即ち論理の順序を顛倒せねばならぬ。  此「審美綱領」といふ書を少し読みて見たるに余り簡単なるためと o o o o o o 訳語の聞き慣れぬためとにて分りにくい処が多いが、斯く簡単に、無 射かぐ順序立ちて書いてある文は世間には少い方で甚だ心持が善い。 今の新聞雑誌の文は反復して一事を説明するため共一事をすつかり合 ’’ 点させるには都合が善いが、其弊は冗長に陥つて人を倦ませる事が多 いコ論説は御免を蒙る。などと言って一般に新聞の論説を読まぬが都 ひっきoラ 人士の風になつて居るのも、畢竟論説欄の無味なるにもとづくと言ふ よりも文が冗長になつて論旨が繰り返しく述べられて居るからであ らう。新聞と書籍とは同様に論ずべきでは無いが、どつちにしても同 じやうな事を同じやうな言葉で繰り返される者が多いのに閉口する。 (十五口) 九士ハ 』正肚 ○子供の時幽霊を恐ろしい者である様に敦へると、年とつても尚幽霊 を恐ろしいと思ふ感じが止まぬ。子供の時毛虫を恐ろしい者である様 に敦へると、年とつて後も尚毛改を恐ろしい者の様に思ふ。余が幼き ひき 時婆々様がいたく墓を可愛がられて、毎晩タ飯がすんで座敷の縁側へ てうづぽち 煙草盆を据ゑて煙草を吹かしながら涼んで居られると手水鉢の下に茂 つて居る一ツ葉の水に濡れて居る下からのそ/\と墓が這ひ出して来 すひがら る。それがだん/\近づいて来て、其処に落してやつた煙草の吹殻を つ ゝ じ 食ふて又あちらの躑燭の後ろの方へ隠れてしまふ。それを婆々様が甚 だ喜ばれるのを始終傍に居つて見て居た為に、今でも墓化対すると床 カヘつ しい感じが起るので、世の中には墓を嫌ふ人が多いのを却て怪しんで 居る。読書する事、労働する事、昼寝する事、酒を欽む事、何でも子 おoつか 供の時に燭しく見聞きした事は自ら習憤となる様である。 ゆ五 ん 大事なる所以である。 九十七 家庭敦育の (十六 H ○玉利博士の果物の話の中に、最も善い味を持つて居る西洋梨が何故 は や 流行らぬかといふと永く蓄へる事が出来ぬからである、併しこれから いう亡い 後は段々無粒有籍の梨が流行るであらうといふ事であつた。併しこれ は他にも原因のある事で、西洋梨には汁の少ないといふ欠点かある、 夏日の果物は誰も清涼の液を渇望する傾向かあるので、二の点に於て 日本の梨が西洋梨に優つて居る問は到底西洋梨が日本梨を圧してしま ふことは出来ぬであらう。 う “’  果物も培養の結果段々甘美いものが出で来るやうに成つたが、其中 堅い果物が段々柔かく成つて来るといふのも一つの傾向である。これ も博士の話にあつたやうに、人間が堅いものよりも柔かいものを好む やうに嗜好か変化した事もあるが、果物などは実際柔かいものは昔は 無かつたのが今に成つて出て来るやうに成つたのである。併し他の食 物に就いて見ても柔かいものを好むといふ傾向か一般に甚しくなつて i た ごや 来た事が分る。現に旅寵崖の飯が段々柔かく成つたのは近来の事であ 壮かは 壮と る。始は半、衛生のため杯といふて居つたものもあつたが、段々柔か い飯を食ひなれると、柔かい方がうま味があるやうに感じて来たので ある。果物でも水蜜桃の如きは極端に柔かく成つて、しかも多量の液 りんご を篭へて居るから善いが、林檎の如く肉が柔かでも液の少い者は(廿 ○ と 味と酸味と共にあつて美味なる者の外は)咽喉を通りにくいやうで余 り旨くもなく従って沢山は食はれぬ。バナナの如きも液は無いけれど iるは 善く熟した者は濡ひがあつて食ひ易い所がある。柔かな者には濡ひが 多いといふが通則である。 (十七日) 」 妻‘童理 尺 六 沐 一内 非■ 1 一〇 1 九十八 三んt ら ○天台の或る和尚さんが来られて我病室にかけてある支那の愛陀羅を t ‘ ら もん 見て言はれろには、愛陀羅といふものは元と婆羅門のちので仏教では 、、土 之を貴ぶ可き謂れば無いζのである、これは子供が仏様の形などをこ しらへて並べて遊んで居るのと同じ意味のものである、と言ふて聞か された、 (十八日) 九十九 ○おくられものくさ%\ くわいき 一、史料大観(台詞、椀記、扶桑名画伝) このふみを、あましゝ人、このふみを、よめとたばりぬ、そを よむと、ふみあけみれば、もじのへに、なみだしながる、なさ けしぬびて たかし 一、やまべ(川魚)やまと芋は節より しもふきの、ゆふき、こほりの、きぬ川の、やまべのいをは、は しきやし、見てもよきいを、やきてにて、うまらにをせと、あ たらしも、かれの心を、おくりくる、みちにあざれぬ、そをや きて、うまらにくひぬ、うじははへども とひ そらみつやまとのいもは鳶のねのとろゝにすなるつくいもなる らし 一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊よりなまよみの、かひのやま めば、ぬばたまの、夜ぶりのあみに、三つ入りぬ、その三つみ なを、わにおくりこし 一、仮而二つ某より わざをぎの、にぬりのおもて、ひよとこの、まがぐちおもて、 世の中の、おもなき人に、かきんこのおもて 一、草花の盆栽一つはふもとより 一  秋くさの、七くさ八くさ、一はちに、あつめ/、うゑぬ、きちか  うは、まづさ」きいでつ、をみなへしいまだ 汁「 」ん 松島のつとくさ%\は左千夫蕨真より  まつしまの、をしまのうらに、うちよする、波のしらたま、ゑ、  のたまを、ふくろにいれて、かへり二し、うたのきみふたり (十九日) 百 ○病沐六尺が百に満ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百 日の口月は極めて短いものに柵遠ないが、それが余にとつては十年も 過ぎたやうな感じがするのである、外の人にはないことであらうが、 余のする事は此頃では少し時間を要するものを思ひつくと、是れがい つまでつゞくであらうかといふ事が初めから気になる。些細な話であ るが、病休六尺を書いて、それを新聞社へ毎日送るのに状袋に入れて 送る其状袋の上書をかくのが面倒なので、新聞社に頼んで状袋に活字 で刷つて貰ふた。共之を頼む時でさへ病人としては余り先きの長い事 ひそ をやるといふて笑はればすまいかと窃かに心配して居った位であるの に、社の方では何と思ふたか、百枚注文した状袋を三百枚刷つて呉れ た。三百枚といふ大数には驚いた、毎日一枚宛書くとして十箇月分の 拍はつか 状袋である。十箇月先きのことはどうなるか甚だ覚東ないものである のにと窃かに心配して居つた。それが思ひの外五六月頃よりは容体も よくなつて、遂には百枚の状袋を費したといふ事は余にとつては寧ろ 意外のことで、此百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわか らんことであらう。併しあとにまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二 百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲 いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。 (二十日) 亘 2 ,o 1 ○先日西洋梨の事をいふて置いたが、其後も経験して見るに西洋梨ら 熟して来ると液が多最にある、あながち日本梨に釣らない、併し西洋 梨と日本梨と液の種類が違ふ。  熱い国で出来る菓物はバナナ、パインアツプルの如き皆肉が柔かで 且つ熱耕臭いところがある。柑橘類でも熱い土地の産は肉も袋も総て 柔かで且つ廿味が多い。それから又寒い国の産も矢張肉の柔かなもの が多い。林檎の柔かきはいふ迄もなく梨でも柔かなものが出来る。然 るに其中間の地(たとへば火海道南海述など)で出来るものは柑橘類 でも比較的堅くしまつて居るところがあつて、液が多量にあり、しか も其液には酸味が多い。それ故共液は甘味といふよりも寧ろ清涼なる ために夏時の菓物として適して居る、、日本梨の液も西洋梨の液に比す ると矢張清涼なところがあつて、しかも其液は粒の多い梨の方が多量 に持つて居るやうだ、 (二十一日) 夏 Cホトトノ一・ス第五巻第十サにあろ虚子選句の三座は人が {;。 川狩や刀丸ねて草の上 天蕗 といふ句であるここれは昔の武士の川狩の様であらうが「東ねて」と いふは人は一人で刀は大小二本であるか或は二人三人の刀を東ねるの であるか凝はしい。それから刀といふは大をいふのであるかどうかこ わきさ」 昔の武士でも川狩に行く時は大概大小をたばさむやうの事は無く脇指 一本位で行ったらうと思ふが、脇指でも刀といふであらうか、共上 川狩や地蔵の膝に小脇指 一茶 といふ古人の句もあろから、どちらにしても此句の手柄は少いかと思 ふ。地n句は “’{一■ ト 鐵をかたげ一、渡る清水かな 碧空生 といふのである、、清水といふは山や野にある泉の類で、其泉の流れを 成して居る辺をいふとしても其水の幅は半聞か一間位に過ぎない、其 帽の狭い清水を「渡る一といふた処が一歩か二歩で渡つてしまへろ、 其一歩か二歩で渡つてしまへる処をなぜにわざ/\つかまへて俳句の 趣向にしたのであらうか。かやうなつまらむ事を趣向にしてこと% しくいふのは月並考流のする事である。天の句は なh」 あかさ 佐野が宿錠ふるふべき黎かな 徴羽郎 といふのである。佐野が宿は源左衛円の宿なるべく、鉢の木の梅松桜 を伐りたる面影を留めて夏季の黎を伐るに鞍州したる処既に多少の厭 味があるやうに思ふ。共上に錆びたる長刀をふるふ武士の面影を見せ て、錠を「ふるふ」と、ことさらにいかめしく言ふて見た処は、十分  しろうと に素人おどしの厭味を帯びて居る、一べき」といふ語も厭味がある、 (二十二日) 亘 ’‘ C今日は水曜日である。朝から空は舜れたと見えて病休に寝て居つて も暑さを感ずる。例に依つて草花の写生をしたいと思ふのであるが、 今一つで草花帖を完結する処であるから何か力のあるものを画きたい、 あいー二く それには朝顔の花がよからうと思ふたが、生憎今年は朝顔を庭に植ゑ なかつたといふので仕方がないから隣の朝顔の盆栽を借りに遣った。 処が何と間違へたか朝顔の花を二輸許りちぎつて貰ふて来た、それで は何の役にも立たぬので独り腹立てて居ると隣の主人が来られて暫く ぶりの面会であるので、余は麻偉剤を服してから色々の誘をした。正 牛頃に主人は帰られたが、其命命と見えて幼き娘達は朝顔の鉢を持つ て来てくれられた。未だ一っだけ咲いて居ますと眼の前に置かれるの しを Jるげ を見ると紫の花が一輪萎れもしないで残つて居る。共処で昼餉を終へ 一、後4生に取り懸つたが大暗の輪郭を定めるだけに可なりに骨が折れ 一、容易には出来上らない、幼き娘達は幾らか写生を見たいといふ野心 ・一 t があるので、遊びながら画の出来るのを待つて居た一時々画帖を覗き に来て、まだよと小さな声で失望的にいふのは今年七ツになる児であ そのうち ほか る。共中内の者が外に余つて居る絵の具を出して遣ったのでこの七ツ 。、・・腎 筆」 − 、一ゴ㍗ ・,胆 。一。 一、帖 簑月 尺 六 休 病 3 一〇 1 になる児と、直ぐ共姉に当る十になる児と二人で画を画き初めた。年 か一一・の大姉さんといふのボ傍に居て跳督して居ろ、二人の子は余が写 生した果物帖を広げてそれを手本にして画いて居る様子であるこ林檎 t‘ にしま÷。う、これがいいでせう杯といふのは七ツになる児で、いえそ ればむ、つかしくて画けませぬ、桜んぽにしませうといふのは十になる 1」き 児である。それから、この色が出ないとか絵の具が是りないとか頻り に騒いで居たが、遂に其結果を余の前に持ち出した。見ると七つの児 の桜んぽの画はチヤンと出来て居る。十になる方のを見ると、是れも 桜んぼが更に確かに写されて居る口原図よりは却て手際よく出来て居 るので余は驚いた。やがてこれにも飽いたと見えて朝顔の画の出来上 るのも待たずに皆帰つてしまふた。余はたつた一輪の花を画いたのが ふ い 成績がよくなかつたので、稍々困りながら、大きな葉の白い斑入りの やつを画いて見たが、是れば紙が絵の具をはじくために全く出来ぬの おのつか もあり又自ら斑入りのやうに出来上るのもあつてをかしかつた。蔓  もつ の糾れて居る工合を見るのも何と無く面白かつた。この時どや%\と 人の足音がして客が来たらしい。やがて刺を通じて来たのは孫生、快 生の二人であつた。 (二十三日) 富 あ 一ツ“キ)二人とも二年ばかり遇はなかつたので殊に快生などはこの前 見た時には子供々々したいつその小僧さんのやうに思ふて居たが今度 ひげ 遇ってみると、折節髭も少しばかり伸びて居たので、いたく大人びた 様な感しかした。余は写生の画き残りを尚画き続けながら話をしてゐ ほ ゞ たが、其うち絵は略ミ出来上つたので写生帖を傍に置き、絵の具を向 の方へ突きやつてしまふた頃、孫生がいふには、実は渡辺さんのお嬢 さんがあなたにお目にかゝり度いといふのですがと意外な話の糸口を ほどいた。さうですか、それはお日にかゝり度いものですが、といふ と、実は今来て待つておいでになるのです、といはれたので、余は愈 愈意外の事に篤いた。共うち孫生は玄関の方へ出て行!、阿か呼ぶ様だ 二 几」 と思ふとすへ∵其渡辺のお嬢さんといふの圭連れて泣人つて来た。、前か もと らうすノ、嘩にも聞かぬイ、■→なかつたが、固より今遇はうとは少しち へね 予螂しなかつた○イ、、共風采など■二口見ろと予て想像して居つたよ りは遙かに口…の普い、二、れで何と・、はく気の利いて居る、いはド余の理 想に近いところの趣を怖へて尻た。余は之を見るとから半ば抄中の様 すへ になつて動悸が打つたのやら、脈の高くなつたのやら凡て覚えなかつ た。お嬢さんはごく真而目に無駄のない挨拶をして共れで何となく愛 ’一 矯のある顔であつた。斯ういふ顔はどちらかといふと世の中の人は一 般に余り善くいはない、勿論悪くいふものは一人も無いが、さで、それ だからといふて、之を第一流に恤くものも無い、其れで世人からは共 程の尊敬は受けないのであるが、余から見ると此程の美人 美人と いふとどうしても俗に問えるが余がいふ美人の美の字は美術の美の字、 審美学の美の字と同じ意味の美の字の美人である −−−は先づ幾らも無 へ」1 いと思ふ。唯ミ十分な事をいふと少し余の意に満たない処はつくりが、 、 、 、 、 じみ過ぎるのである。勿論極端にじみなのでは無い、梱当の飾りもあ つて共調和の工合は何ともいはれん味があるが、それにも拘らず余は 、 、 今少しはでに修飾したらば一層も二層も引き立つて見えるであらうと む」 思ふ、けれどそれは余り贅沢過ぎた注文で、否寧ろ無理な注文かも知 れぬ。これだけでも余の心をして悦惚となる迄にするには十分であつ しもふさ た。話はそれからそれと移つて快生が今迄居た下総のお寺は六畳一間 きつかひ の庵室で岡の高みにある、眺望は極めて善し、泥坊の遺人る気遣は無 し、それで檀家は十二軒、誠に気楽な処であつたなどといふ話に稍々 いとまごひ 涼しくなるやうな心持もした。暫くして三人は暇乞して帰りかけたの で余は病休に寝て居ながら何となく気がいらって来て、どうとも仕方 ひそ の無い様になつたので、今帰りかけて居る孫生を呼び戻して私かに余 の意中を明してしまふた。余り突然なぶしつけな事とは思ふたけれど ち余は生れてから今日の様に心をなやました事は無いので、従って又 今日の様に英断を施したのも初めてであつた、孫生は快く承諾して兎 劣 一〇 1 に角お嬢さんだげば置いて行きませうといふ。それから玄関の方へ行 て何かさゝやいた末にお嬢さんだけば元の室へ帰つて来て今夜はこゝ に泊ることとなつた。共うち日が暮れる、飯を食ふ、今は夜になると くた び 例の如くに半ば苦しく半ば草臥れてしまふ。お嬢さんと話をしようと 思ふて居る内に、もう九時頃になつた。九時になると、少し睡気がさ か や すのが例であるが、兎に角自分だけば蚊帳を釣ってもらふて、それか らゆつくりと話でもしようと思ふて居る処へ郵便が来た。それは先刻 孫生に約束して置いた百人豪とかいふ本をよこして呉れたので、蚊帳 の中でそれを読み始めたが、終に眠くなつて寝てしまふた。  翌朝起きてみると二通の郵便が来て居る、共一通を開いてみると、 古生からよ二したので端書大の洋紙に草花を写生したのが二枚あつた。 ゑんとう 一つはグロキシニアといふ花、今一つは何ビーとかいつて腕豆の様な 花である。是はきのふ自分で写生したのだといふてよこしたのである が、余り美しいので始のうちは印刷したものとしか思へなかつた。今 一通の郵便を手に取つてみると孫生、快生連名の手紙であつたので、 動悸ははげしく打ち始めた。手紙を開けて読んでみると昨日あれから 話をしてみたが誠によんどころ無いわけがあるので、貴兄の思ふ様に はならぬといふ事であつた、併しお嬢さんは当分の内貴兄の内に泊つ て居られても差支無いといふのである。失望といはうか、落胆といは 1」き うか、余は頻りに煩悶を始めた。到底我掌中の物で無いとすればお嬢 さんにもいつそ今帰つて貰った方がよからう。一度でも二度でも見合 つたり話し合ったりする程、愈ミ未練の種である。最早顔も見度くな い。などと思ひながら孫生、快生へ当てて一通の返事を書いてやつた。 其返事は極めて尋常に極めておとなしく書いたのであつたが何分それ では物足りない様に思ふて又終りに恨の一亘葉を書きて 断腸花つれなき文の返事かな と一句を添へてやつた。それから何をするともなく、新聞も読まずに うつら/\として居つたが何分にも煩悶に堪へぬので、再び手紙を書 の いた。いふ迄も無く孫生、快生へ当てた第二便なので今度は恨みを陳 距 、{・ べた後に更に何か別に良手段はあるまいか、若し余の身にかなふ事な らどんな事でもするが、とこま%\と書いて 草の花つれなきものに思ひけり といふ一句を添へてやつた。それで共日は時候の為か何の為か兎に角 煩悶の中に一日を送つてしまふた。  其次の日、小さな紙人形を写生してしまふた頃丁度午後三時頃であ もた つたらう、隣のうちの電話は一つの快報を灘らして来た。それは孫生、 快生より発したので、貴兄の望み通りかなふた委細は郵便で出す、と いふ事であつた。嬉しいのなんのとて今更いふ迄も無い。  お嬢さんの名は商岳艸花画巻。 (二十四日) 夏 ○略画俳画などと言って筆数の少ない画を画くのは、寧ろ日本画の長 所といふてもよい位であるが、共略画といふのは複雑した画を簡単に 画いて見せるのを本頷と思ふて居る人が多い。併しそれには限らぬ。 もと 極めて簡単なるものの簡単なる趣味を発揮するのも固より略画の長所 である。公長略画といふ本を見ると、非常に簡単なる趣向を以て、手 軽い心持のよい趣味をあらはしてゐるのが多い、例へば三四寸角の中 へ稲の苗でもあらうかと言ふやうな青い草を大きく一ぱいに画いて、 其中に蛙が一匹坐つて居る、何でもないやうであるが、青い色の中に 黒い蛙が一匹、何となくよい感じがする。或ひは水を唯セ青く塗つて 共巾へ蛇が今飛ひ込んだといふ処が画いてある、蛙の足は三本だけ明 瞭に見えるが一本の足と頭の所は見えて居らん、これも平凡な趣向で あるけれど、青い水と黒い蛇とばかりを画いた所は矢張前の画−戸一同じ やうに極めて小さい心持のよい趣味「一富んで居る。、其外、蓮の葉を一 言三 ・っむ 枚緑に画いて、傍らに仰いで居る鷺と怖いて思る鷺とニツ画いてある が如きは、複雑なものを簡単にあらはした手段がうまいのであるが、 簡単に画いた為に、色の配合、線の配合など直接に見えて、密画より 。 “一 」一 ・−一里 ・、、圭 、。 。証 世 。・,一≡■ 尺 パ 沐 病 −o 5 1 は却て共趣珠がよくあらはれて居る。其の外此本にある画は今迄見た もつごも 両の中の、最簡単なる晒であつて、而も其の簡単な内に一々趣味を け“」 含んでゐる処は叢し一種の伎儒と言はねばならぬ。 (二十五日) 莫 ○雑誌ホトトギス第五巻第十号に載せてある蕪村句集講義の中 探題雁字 いつ か, かり ぱ 牛三 いん 一行の雁や端山に月を印す 生いふ句の解釈は当を得ない。これは誰も此雁字といふ題に気がつか なかつた為で、余も輸講の当時書物を見ずに傍聴して居たので此題を のが 聞き遁してしまふた。雁字といふのは雁の群れて列をなして居る処を たと も 文字に楡へたのであつて原と支那で言ひ出しそれが日本の文学にも伝 はつて和歌にて雁といふ題には屡ミこの字の楡を詠みこんであるのを 見る。此俳句の趣向は雁を文字に楡へたから月を「印」に楡へたのだ。 お 赤い丸い月が出て居る有様を朱肉で丸印が捺してあるものとして、一 、 、 、 行の雁字と共に一幅を成して居るかのやうにしやれて見たのであらう。 「一行の雁」占は普通の訊であるけれど此句で特に一行といふたのは 一行の文字といふやうに利かせた事は言ふ迄も無い。又端山といふの に意味があるか無いかは分らぬが、之を意味あるものとして、端山も 一幅画中の景色の一部分であるといふやうに解するのは穏当でないか と思ふ。寧ろ端山は全く意味の無い者で、上と下とを結ぶ為の連鎖に なつて居るばかりのものと見たい。併し二の光景を空中高き処と見て、 へi’て 雁も月も繰砂たる大空の真中、しかも首を十分に挙げて仰ぎ望むべき 場含にありとすれば此比楡が適切でなくなる、端山辺の低い処に赤い ちなみ 月があるのイ、いくらか印のやうな感が強くなるのである。因にいふ、 丸印は昔から時々用ゐられる、尾形光琳の如きは丸印の方を普通に用 ゐたやうだ。 (二十六日) 百七 ○ホトトギス第五巻第十号の募集句に追加したる虚子の選者吟のうち に 由、り からす あけ やす 本陣の槍に鴉や明易き とあるは鴉が槍にとまつて居るといふ景色であるか、又は槍の辺を飛 んで居るといふ景色であるか、よく分らないので作者に聞いて見たと ころが、作者の意はそんな景色などはわからないでも善いのだといふ ので、烏は飛んで居ようと、とまつて居ようと、鳴いて居ようと、そ んな事はどうでもよい、たゞ本陣の棺と鴉といふものとをもつて来た ところに趣があるのであるといふことであつた。其説明を聞いても余 は尚漢然たる光景に趣味を感ずる事は出来ない。本陣の槍に鴉やとい ふ句を見れば、どうしても客観的に其畏色を日に浮べて見たくなる。 従って鴉の位置を明瞭にしなくては気がすまんのである。 北た 松を伐る錠や誤つて土を蘭を へ」ゞ とあるのは、一寸わかりかねる処があつて是も作者に質して見た処が、 松を伐るといふのは矢張松の立木を伐る事ぢやさうな。併し立木を伐 るとなれば、大抵は鋸を用ゐるので錠を用ゐることは殆どない。錠で 伐れるやうな木ならば、極めて小さい立木と見ねばならぬ。そんな事 はどうでもよいとして、さて締句の「土を蘭を」といふ書ひかたは、 余り詞を働かせようとして句法が奇に過ぎるやうになり、随つて厭味 に感ずるのである。かういふきはどい趣向は一般の場合に於てどうし ても厭味が勝つて初心臭くなる傾きがある。 こ,〕り 石に腰百合の中なる錨かな とあるのは、是も共意味を解しかねて作者に尋ねた処が、百合の中一、} る鎧といふのは、百合の花の中に錨がはひつたといふのではなく、百 合が沢山生えて居る中へ錨がはひつたといふわけぢやさうな。けれど も其意味がこの句で現はれて居るであらうかどうであらうか、鎧が百 合の生えて居る中にあるといふのも一寸変な趣向である上に、それを 6 一〇 1 「巾なる蟷かな」といふやうな句法にした為に、愈ミ変に感じられて、 わざ 何の事だかわからなくなつてしまふ。作者は態と「錨かな」といふや うな句法一」したのイ、み、れが為に句が活動して来るやうに思ふといふ二 とであつた、それから是は作者自身の事か、又は咋者は傍にあ三、他 人の事を見て作つたのかといふて尋ねて見たらば、傍らから見たのだ といふ答へであつた。併し「石に腰」といふ言ひかたも、「百合の中 なる鎧かな」といふ育ひかたも、総て作者自身からいふたやうな詞つ きであつて、他の武士の腰かけて居る有様を傍らから見たやうな詞つ きでないと思ふ箏要するに作者は鏑が百合の中に在るといふ光景がへ) 亡古 どく嬉しくて堪らんのでそれを現はしたのであろさうなが、どうも他 から見ると無理なやうに思ふ口 3い れん 採蓮を見て居る武士や旅刀 とあるのは、是は採蓮といふ支那の遊びに就いて作者も誤解して居つ たので、到底日本的の武士を持つて来たのでは調和しないのである。  以上の句をひつくるめて作者と評者との衝突点か何処にあるかとい ふと、つゞまる処虚子は頻りに句を活動させようとする為に其句法が 言はゞ活動的句法とでもいふやうになつて居る。其活動的句法が厭味 になつて又無理になつてどうも俳句として十分でないやうに余には感 じられるのである。余もあながち活動をわるいといふのでないが、活 すなはち 動に伴ふ所の弊害即厭味とか無理とかいふものを脱することが甚だ むづかしいと思ふのである。共厭味共無理と余がいふ所のものを虚子 は寧ろ得意として居るのであるから、これらの句が極端に衝突を起し たわけである。 (二十七日) 冒八 だつコ、しよ左く ○ホトトギス第五巻第十号に在る碧梧桐の瀬祭書星俳句帖抄評の中に 砂浜に足跡長き春日かな を評して自分の足跡だか、人の足跡だかわからぬといふ事であつたが、 余の考は無論自分の足跡といふわけではな・\唯そ二、一ついて尻る足 跡を見た時の感じをいふたのである。 口一日同じ処二畑打つ といふ句を評して作者自身が畑打つ場合汽、あるかわからむとい、ご、あ る。是は余の考へは人の畑打を他から見た場合を詠んだ積りイ、あつた のぢやけれど、作者自身が畑打つ場合と見られるかも知れん。 つ ひる が。・み 一銭の釣鐘撞くや昼四  之を評して、養銭を投げて鐘を拠く事であるといふであるが、余っ 趣向は言っでない、一銭出すと釣鐘后二つ撞かすとい、か処があろ。共 釣鐘亭一撞いた積りなので↓める。 ちゐ 一柵の藍流しけり春の川  此句を評して「一柵の。一といふのは実際柵に人れて藍を棄てたとい ふのでなくて染物を洗ふため水の染んでゐる工八uをム々といふである 併し余の趣向はさうで無い。実際一柵の藍を流したので、是は東京で こう干 は知らぬが田舎の紺崖にはよくある事である。 あ 観音で雨に遇ひけり花盛り  此句に就いて余は「観音で」と俗語を持つて来たところが少し得葱 であつたのだ。 おっ1」 れラた  碧梧桐評の中に此句は乙二調だとか、此句は蓼太調だとか、いふ事 が耐も二十句許り列挙してあつたのには篤いた、是は随分大胆な評で つ きん 殊に碧梧桐の短所ではあろまいか。随分杜撰なやつらある、英雄人を 欺くの手段であらう。 長き夜や人灯を取つて庭を行く  此句を評して、上五字を「夜寒さや」としては陳腐一」なるのであら うか、といふて居る。併し余の考は夜寒の檀りではなかつたのである く。’ 是は長い夜の単調を破つた或る一事作をひつつか↓、之たので、詳しく た 1 いはド長い夜の何も変つた事は無く、唯セ長い/\と思ふて居る時に 誰か知らぬが灯を持つて庭先を横ぎつた者があつたといふ一事件があ つて、さて其後は又何事も無く同じ様に長い/\夜であつたのである 零。咀。。 尺 六 林 病 7 口o 1 、ツ“ク) 百九 (二十八日) (ツ“キ) さむらひきち 秋風や侍町は堺ばかり よ  右の句に就きての碧裕桐の攻撃は、此句を維薪前の光景を詠みたる ものとし従って「塀ばかり」といふを沢山あつて自立つて居る趣と解 した為に起つたのである。併し余の趣向はさうではない。これは郷里 に帰つて城北の侍町を過ぎた時の所感を述べたもので無論維新後に頽 くづ 塵した侍町の積りである。堺ばかりは昔のまゝのが大方は頽れながら 猶残つて居るが、共内を見ると家はなくて竹藪が物凄き迄生ひ茂つて な す たラもろ二し 居る処もあり、或は畑になつて茄子玉濁黍などつくつてある傍に柿の 木が四五本まだ青き実を結んで居る処もあるといふやうな光最を詠ん だつもりであつたが、これは前書をつけて置かなかつたのが悪かつた 山門を出て下りけり秋の山  o o o o 「いで下りけり」と読むのは無理ではあるまいか。余は「でて下りけ り」と読ませる積りであつた。もつとも俳句としての句法上では「で て」と二字で切る方が無理なのであらう。 ヘラ じ 仏壇の柑子を落す風かな お け そく  これは無論伎の柑子などイ、は無い。御準是か何かに盛つてあつたの をころがした積りであつたのぢやが、今考へて見ると不完全な句であ る。余は柑子のころげた音を聞いて共光扶を想像して舳たのを斯う作 −一きみ つたのであるが、それは無理ぢや。曾て蕪村の「樒はみこぼす風か な」に就きて同じやうな論があつたと思ふ。(ツ寸ク一 (二十九日) (ツ“キ) 早 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺  二の句を評して「柿典ふて心れば鐘鳴る法隆寺一とは何枚いはれな もっとも かつたであらうと書いてある。これは尤の説であろ。併しかうなると 税ミ句法が弱くなるかと思ふ。 菊の花天長節は過ぎにけり  季のことに就じ、は峻ミいつたのであるが、二ゝにも亦誤解かある。 余は立冬以後を冬とするのであるから、従って天長節は秋季に這人つ て居るのである。十一月五六口もまだ秋の中である。それから余は十 月といふ魑の句はこ、に人れてはない。 二 か一リ」 木柿や鐘曳き捨てし逆のは。、に  これは余の趣向は大きな釣鐘を寺へ曳つぱつて行く逝で日が暮れた ものであるから、其鉤鐘は其夜一夜は道のはたに曳き捨てて置く、共 時の光景を詠んだ積りなので、従って時は日の暮か若しくは夜の積り、 さうして講中の人数などは無論家に帰つてしまふて、こゝには居らぬ のである。いはド道のはたで大釣鐘が独り立つて居るといふやうな物 凄い淋しい場合を趣向に取つた積りであるから、木枯を配合したので ある。 下駄穿いて行くや焼野の薄月夜  二の句の下駄穿いて行くといふことに就いて、疑問を起してあるが、 い、二ら 余が特に下駄を持っ一し来たのは、下駄ならば茨の焼けた跡なども平気 で婚んでゆけるといふやうな心持からいつたのである。併し必ずしも 茨を婚むといふのではない。兎に角面白くない趣向であるコ 出る時の傘に落ちたる菖蒲かな  二の句を評して、きはどい場合の句であるといふであるのは異論は ない。併し傘が菖蒲の端に障つてそれで落ちたと思ふと、それ程きは どく無くなるやうに思ふ。 鳴きやめて飛ぶ′時蝉の見ゆるなり  二の句を評して趣味に乏しいとあるのは尤な説である。併し余自身 には一寸捨て難い処がある。 8 5 コ つん、’ 聾なり秋のタの渡し守  この句を評して、下手な小説を読むやうな感じがあると書いてある。 猶評考に尋ねて見たるに或人が渡し守に話しかけて見たらば共渡し守 が聾であつたといふやうな場合と想像したのぢやさうな。余は此方の 偉から、向津の渡し守を呼んでも/\出て来ぬので、そこで聾なりと いつたのである。(ヲハリ) (三十日) 流と失敗との巾に立ちながら、盾々として成功して行く所は、何とも 言はれぬ面白さであつた。此書物は有名な書物であるから、日本にも 之を読んだ人は多いであらうが、余の如く深く感じた人は恐らく外に あるまいと思ふ。去年は此の日課を読んでしまふと、タ顔の臼い花に そよ 風が戦いで初めて人心地がつくのであつたが、今年は夕顔の花がない ので暑くるしくて仕方がない。 (九月一日) 百士 ○余が所望したる南岳の州花画巻は今は余の物となつて、枕元に置か れて居る。朝にタに、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽 しみで、ために命の延びるやうな心地がする。其筆つきの軽妙にして 白在なる事は、殆ど古今独歩といふてもよからう。是れが人物画であ つたならば、如何によく比来て居つても、余は所望もしなかつたらう また朝タあけて見る事も無いであらう。それが余の命の次に置いて居 る岬花の画であつたために、一見して惚れてしまふたのである。兎に 角、この大事な画巻を袴に余のために割愛せられたる澄道和尚の好意 を謝するのである。 (三十一日) 早三  いは{る ○所謂詩人といふ漢詩を作る仲間で、送別の詩などを大勢の人から貰 かうしよく さかん ふて其行色を壮にするとかいふて喜んで居る、それはわるいことでも ↓口仏いけれど余り一一、言ふにも足らぬ程の旅行に不相応な送別の詩などを、 Lか かね 然も無理やりに請求して次韻などさすことはよくないことと寸てト臥り へいふ。〕 思ふて盾た。所が近来は俳句仲附にも共弊風が盛んになつて送別ぢや の留別ぢやの子が出来たの寿賀をするのと、其時々につけて交際のあ み牛うもん る限りは其句を請求する、それが何の為かと思ふと、矢張名聞の為な ので、其沢山の句を並べて新聞雑誌などに出して得意がつて居るとい ふに至つては、余り見識のないしやうではないか、共癖この種の句に 限つて殊にろくでもないのが多いのに。 (二H) 享二 ○愈も暑い天気に成つて来たので、此の頃は新聞も読む事出来ず、話 もする事出来ず、頭の巾がマルデ空虚になつたやうな心持で、眼をあ けて居る事さへ出来難くなつた。去年の今頃はフランクリンの白叙伝 を日課のやうに読んだ。横文字の小さい字は殊に読みなれんので三枚 読んではやめ、五枚読んではやめ、苦しみながら読んだのであるが、 ひ ふ 得た所の愉快は非常に大なるものであつた。費府の建設者とも言ふ可 きフヲンクリンが、其の地方の為に経営して行く事と、且つ極めて貧 乏なる檀字職工のフヲンクリンが一身を経営して行く事と、それが逆 、i’ 一 、 七 、 ‘ ’ ” 早四 ○日本青年会のことに就て何か意見はないかといふ話であつたが、余 の意児として発表する程の特別な意見は持たぬ。何にせよ一つの団体 がある以上は何か事業でも起さねば按だ薄弱な会合になつてしまふや うな傾きはあるが、併し日本青年会は事業的の団結でないのであるか らど二までも精神的団結でやつて貰ひたいのである。雑誌日本肯年も 甚だつまらぬ(世間的意味に於て)雑誌であるけれど、そのつまらぬ 処が会員にとつては反て面白い処であると思ふ。こんな雑誌を出して 薯 尺 六 林 L丙 封 9 −む 1 其地方へ往た時に会貝を尋ねて誘する位の交際をしてそれだげで日本 いたつら 青年会の値打は十分にあると思ふ。徒に大きなことをいふて身分不相 応な事業、又は雑誌などをやることはよくあるまい。余は〕本青年会 ま し め のどこ迄も実着に真面日にあることを願ふばかりである。 (三円) 百圭 . . かくれい ○漢語で風声鶴腰といふが鶴瞑を知つて居るものは少い。鶴の鳴くの はしはがれたやうなはげしき声を出すから夜などは余程遠く迄問える。 二ゑてんにきこ亭 声聞于天といふも理窟が無いではない。若し四五羽も同時に鳴いたな おちうと らば恐らくは落人を驚かすであらう。 (四日) 早穴 ふ しん ○暑き苦しき気のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普諸にかし ましき大工左官の声もいつしかに問えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴ら 停ふげ したるタ餉の膳おしやりあへぬ程に、向砧より一鉢の草花持ち来ぬ。 緑の広葉うち並びし間より七八寸もあるべき真白の花ふとらかに咲き 出でて物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし口蔓に紙ぎ れを結びて夜会草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るに其傍 かもゐ てんしん に細き字して一名夕顔とぞしるしける。彼方の床の間の鴨居には天津 しんとう の肋骨が万年傘に代へてところの紳董どもより贈られたりといふ樺色 の旗二流おくり来しを掛け垂したる、共のもとにくだりの鉢棺置き直 はく してながむれば又異なる花の趣なり。此吊に此花ぬひたらばと思はる くれなゐの、旗う、こかして、タ風の、吹き入るなべに、白きもの ゆらゆらゆらぐ、立つは誰、ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ、人か花 かも、花の夕顔 (五日) 早七 C如何に俗世間に出て働く人間でも、碁を打つ位な余裕がなくてはい かんよ、などと豪傑を気取つて居るのはよいが、きて其の人が碁を打 つ有様を見て居ると、一番勝てば直ぐに鼻を高くし、二三番も続いて 負けると熱火の如く廿き込んで、モー一番、モー一番と、呼吸もつか ずに考へもしない碁を夜通しにバチ/\と打つて居る。側から見て居 し」 るとマルで気遠ひのやうぢや。是れでは余裕も何もありはしない。 (六日) 早八 ○けふ或る雑誌を見て居たらば、新刊書籍のうちに、鳴雪翁の選評に か、る俳句迷といふものの抜革が出て居つた。其中から更に抜萃して 見ると 白酒一」酔ふも三口や草の宿 評 籔嬢紳士は終年宴楽 い・b 菜の花のあなたに見ゆる蛛が家 評 黄雲千頃、亦是天の川 きぬ よき衣によ圭一・柑しめて暑いなり 評 白粉も汗にとくらん 田合人のつき飛されし祭かな 評 ヒヤア、うつたまげ巾した 役人の札立てゝ去る青旧かな 評 アリヤ何だんへ1 などいふ類である。二の俳句の巧拙などはこ、で論じるのでないが、 この評の厭味多くして気のきかぬ事に就いて余は少し驚いたのである。 や ゆ 鳴雪翁は短評を以て人を椰撤したり、寸諦隻語を加へて他の詩文を餓 弄したりすることは寧ろ大得意であったのであるが、今この俳句選の 評を見ると如何にも乳臭が多くて、翁の評とは思はれぬ程である。も 0 6 1 た圭く つとも抜萃のしやうがわるいため、会ミ不手際なやつが揃ふて居るの かも知れぬが、兎に角これらを標準として翁の伎偏を評する人がある ゑんぎい ならば大なる寛罪を翁に加へるものである。 (七H) 酉十九 ○近頃は少しも滋養分の取れぬので、体の弱つた為か、見るもの聞く  ことぐ もの悉く癩にさはるので政治といはず実業といはず新聞雑誌に見る程 の事皆我をじらすの種である。露月が俳娃に出して居る文章などは一 一に読まぬからよくはわからぬが、n分が今始めて元禄の俳書などを 読んで今更事珍し気に吹聴するのは尚感ずべき点かあるとしても、自 分が好きな十句を作つて東京諦俳友の評を乞ひ其各評の悪口を臆面も なく雑誌へ出したところは虚心平気といへば善いやうであるが、あの おユニか 標準で恥ぢぬ所は少し一方の大将としては覚東ない処が’、〜る。今一工 夫欲しいものである、、青々の遠吟に至つては実に雛く可きものである 岨。L上÷、一す が、さりとて杜鵠二百句といふに至つては流石の先生、無邪気に遣っ てのけた処は善いが、これで俳句にな三、居る穣りでは全く維験の足 し」か らぬ科であらう、、二百羽の杜鵠をひつつかまへたといふのは一羽もひ つつかまへないといふ事であるとは題を見てもわかつて居る事イ、ある のに。 (八日) 亘一十 ○雑誌ホトトギス第五巻第十号衷京俳句界の巾に しつく こ 茂山の雫や凝りて鮎となり 耕村 といふ句を碧楴桐が評したる水に「且つ茂山をシゲヤマと読ますこと つ きん 如何にも窮せずや」とあり。されどこは杜撰なる評なり。 筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり とかいふ名高き古歌もあり、俳句にも 、一りx j と い 茂山やさては家ある ふ蕪村の句さへあるにあらずや 柿 若葉 蕪 村 (九H) 亘士 し牛うぎ ○碁の手将薬の手といふものに汚ないと汚なくないとの別がある。そ れが又共人の性質の汚ないのと汚なくないのと必ずしも一致して居な いから不思議だ。平生は誠に温順で君子と言はれるやうな人が、碁将 薬となるとイヤに人をいぢめるやうな汚ない手をやつて喜んで居る。 きうかと思ふと、平生は泥功ぺ、も詐欺でもしさうな奴が、碁将基盤に 向くとまるで人が変つてしまふて、珊子かと思ふやうな事をやる、少 しも汚ない手をし。、仏いのみならず、誠に正々堂々と立派な打方をする のがある。この外によく共人の性皿を現はしたやうな恭打ち将薬さし も固より沢山ある。是には種々な原因があつて、若し心理的に解剖し 一、見たらば余程面白い結果を現はすのであらう−、」思ふが、其中の一原 因をいふと、碁将薬の道に浅いものは如何なる人に、{らず汚ない手を 打つのが多くて、段々深く入つて、正式に碁将薬を学んだものには、 其人の如何に拘らず余り汚ない手は打たないのである、、 (十口) 亘士一 二’’ ’’ 〇一日のうちに我痩足の先俄かに胸れ上りてブク/\とふくらみたる 其書ま火篭のさきに徳利をつけたるが如し。医考に問へば病人には有 勝ちの現象にて血の通ひの愁きなりといふ、兎に刈に心持よきものに は非ず。  し はうた  四方太は八笑人の愛読者なりといふ。大に吾心を得たり、恋愛小説 もて。」午 のみ持雌さるゝ中に鯉丈崇拝とは珍し。  四方太品川に船して一網にマルタ十二尾を獲而も網を外れて船に飛 ぴ込みたるマルタのみも三尾あり、総てにて一人の分前四十尾に及び 、 o 主 ゼ たりとし、“ 非常の大漁なり。咋又隅田の下流に釣して沙魚五十尾を 穫同伜のくの皆十尾前後を釣り得たるのみと、、其言にいふ釣は敏捷な る針を択ぶことと餌を惜しまぬこととに在りと。 しや…  左千夫いふ。性の悪き牛、乳を搾らるゝ時人を蹴ることあり。人之 へん土つ を怒つて大に鞭撞を加へたる上、足を縛り付け、無理に乳を搾らむと すれば、その牛、乳を出さぬものなり。人間も性悪しとて無闇に鞭撞 モこな を加へて教育すれば益ミ共性を害ふて悪くするに相違なしと思ふ。云 云斤、 ぶ“」う{たけ  節いふ、かづらはふ雑木林を開いて濃き紫の葡萄圃となさむか。 (十一日) 亘十=一 “iも 〜 ()支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、 の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。 である、 百二宙 自分は当一ろふ以来昼夜 誠に話にならぬ苦しさ (十二口) ○人間の苦痛は余程極度へ↓、そ想像せられるが、しかしそんなに極度 に迄想像した様な苦痛が自分の此身の上に来るとは一寸想像せられぬ 事である、 (十三日) 亘芙 ち人・。・止、 を 、、tぎに = は ○芭蕉が奥羽行脚の時に、尾花沢といふ出羽の山奥に宿を乞ふて鵬小 屋の隣にやうノ、一夜の夢を結んだ事があるさうだへ、ころしも夏であ つたので、 ○ム しらみ 蚤蟲馬のしとする枕許 といふ一句を得て形見とした、しかし芭蕉はそれ程臭気に畔易はしな かつたらうと覚える。 をり ○上野の動物園にいつて見ると(今は知らぬが)前には虎の撞の前な どに来ると、もの珍し気に江戸児のちやきくなどが立留つて暑、 観簑まみながら、くせえ/いなどと菅をいって居る。篭一来た 青毛布のぢいさんなどは一向臭ひなにかには平気な様子で唯ミ虎ので けえのに驚いて居る。 (十五日) 百一一十七  “」うひ C芳罪山人より来書 すこ五  解憎咋今御痛床六尺の記二三寸に過げ獺る不穏に存候間御見舞中上 候達磨儀も盆頃より引籠り縄鉢巻にて寛の滝に荒行中御無音致候 俳病の憂みるならんほとゝぎす拷間などに誰がかけたか (十七口) (明治三十五年五月−九月) 尺 六 休 病 1 6 1 亘圭 岬」いぽん 氾“あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐 妬ゆ如し。憧かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、 女蝸氏未だこの是を断じ去つて、五色の石を作らず。 (十四日) 2 6 1 竹の里歌 うかと思はれる。実に明治三十四五年頃 の連作趣味は既に明治三十二一年頃に萌 芽を発してゐたのである。 明治三十四五の両年に作歌の少なかつた のは先生の病の漸く重かつた為めである。 か■ね す入れ ものゝふの屍をさむる人もなレ童花さく春の 山陰 くれなゐ 。吊 たん とばり垂れて君いまださめず紅の牡丹の花に 靭日さすなり つくぽ ねおろし 霜防ぐ菜畑の葉竹はや立てぬ筑波根風雁を吹 〃頃 、 、 竹の里歌凡例 竹の里歌といふ名は先生自筆の歌稿に題 してあつたのを其儘用ゐたのである。 右の歌稿には明治十五年から始まつて新 あは 体詩長歌をも併せ二干首許り記してある。 其中から明治三十年以降の長歌十五首、 旋頭歌十二首、短歌五百四十四首を抜い て本書に収めたのである。 選に預れるもの、伊藤左千夫、香取秀真、 岡麓、長塚節、蕨真、安江秋水、森田義郎。 明治三十年以前を省いたのは先生が真に 歌の研究に心を寄せられたのは同年以後 であるからである。 尚明治三十年より後も先生の趣味標準は 年一年に進歩して居る。故に我等同人が 先生の遺稿を選ぶのも前後六年を通じて 一定の標準を以てしたわけでは無く、其 年々の作中に於て取捨を決したのである。 年次を以て項を分つたのは此の為めで、 かたはら 夢先生が進歩の跡を知るの便宜もあら 一(一’1 。=1 ,土 明治三十年 愚庵和尚より其庭になりたる柿なりとて十五ばか りおくられけるに 録三首 御仏にそなへし柿ののこれるをわれにぞたび し十まりいつゝ かへで 籠にもりて柿おくりきぬ古里の高尾の楓色づ きにけん 柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもあ りぬしぶきぞうまき 明治三十一年 金州城外所見 一首 ご や 吐 じか 後夜の鐘三笠の山に月出でゝ南大門前雄鹿群 れて行く ちご のき 児だちよな取りそ櫨の雀の巣雀子を思ふ母は な 汝を思ふ てうづぽち 縁先に玉巻く芭蕉玉解けて五尺の緑手水鉢を おo 掩ふ 人も来ず春行く庭の水の上に二ぼれてたまる 山吹の花 みやこぺ ちり たちぽな 郁辺は挨立ちさわぐ橘の花散る里にいざ行き て寝む の おき た いも 夜一夜荒れし野分の朝凪ぎて妹が引き起す朝 顔の垣 っか そぽみち たか 峰こえて穆多きがけの岨道に山別れする鷹を 見るかな ,翔噌、、上 きんくb一 金槐和歌集を読む 一首 ○みち 奧山の峰の紅葉に日は暮れていづくとも知ら ず猿蹄く聞こゆ 山陰に家はあれども人住まぬ孤村の柳緑しに けり 試みに君の御歌を吟ずれば堪へずや鬼の泣く 声聞二ゆ 日にうとき庭の垣根の霜柱水仙にそひて炭俵 敷く 金州従軍中作 録一首 歌 里 の 竹 3 6 1 紅梅の咲く門とこそ聞きて来し根洋の里に人 尋ねわびつ す上き ふくろ上 武蔵野の冬枯芒婆々に化けず梟に化けて人 に売られたり 上 た らく ひしやく 普陀落や岸うつ波とうたひつゝ柄杓手にして 行くは誰が子ぞ t みまかりしまな子に似たる子順礼汝が父やあ る汝が母やある 喰ふしほ 宮島にともす燈籠の影落ちて夕汐みちぬ舟出 さんとす iん 瞭の木に烏芽を噛む頃なれや雲山を出でゝ人 畑をうつ 病みて臥す窓の橘花咲きて敵りて実になりて 猶病みて臥す きぴ む はらノ\ともろ二し黍を剥く音にしば/\さ むる山里の夢 ころもか はしゐ え ぞ 衣更へて端居し居れば蝦夷の人の手紙屈き ぬ花咲くとあり あは。ち 世 潮早き淡路の瀬戸の海狭ばみ重なりあひて白 帆行くなり 病中対鏡 一首 昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろノ\ と泣く 寝静まる里のともし火皆消えて天の川白し竹 藪の上に 貝拾ふ子等も帰りぬタ霞鶴飛ひわたる住吉の 方に なには 、がた 風吹けば藍の花散る難波潟タ汐満ちて鶴低く 飛ぶ′ 金州戦後 一首 かい 金州に旅寝し居れば日の本の春の夜に似る海 だう 巣の月 小注 太鼓打つ雛は桃にぞ隠れける笛吹雛に桜敵る なり あつもり 敦盛の墓弔へば花もなし春風春雨播州に入 る つゝゐ づゝ 筒井筒井筒は朽ちて古柳柳緑しぬのぞく子も なし をちこち こ 遠近に菜の花咲きて朝日さす榛の木がくれ人 畑を打つ かきゝぎ いくさ過ぎて人なき村を来て見れば鵠すくふ 道のべの木に 。 圭るさと きo いも 故郷の梅の青葉の下陰に衣洗ふ妹の面影に立 つ とぴ 緑立つ庭の小松の末低み上野の杉に鳶の盾る 見ゆ 4 6 1 ↓血き 一 二亦 立ち並ぶ榛も槻も若葉し一、日の照る朝を四十 から 雀鳴く ■u 夕顔の苗売りに来し雨上り植ゑんとぞ思ふ夕 顔の苗 若葉さす市の植木の下陰に金魚あ主一一なふ夏は 来にけり たち。はな かみo’り 橘の花敵る里の紙幟昔忍びて鳴く ほと土きす 郭公 上仁 岡ぞひの窪田温れて人も馬も水踏みわたる五 み だれ 月雨の頃 かムなり たラtす へそ 神鳴のわづかに鳴れば唐茄子の瞬とられじと 葉隠れて居り 壮るかみ 止・つ一上み ←山ゝ 鳴神の鳴らす八鼓こと%〃敵きやぶりて雨 暗れにけり せつ,」珀・うせき 雲の峰殺生石の上に立ちて那須野を越ゆる旅 人もなし も ず わ止」 野らの木に百舌鳴く聞けば雨晴れぬ固刈れ棉 いも せ とれ妹よ背よと嶋く かんざん ふ かん いひき 寒山も豊千も虎も眠りけり四つの野に松葉敵 る山。 一 1 ‘ ” 」“’’工 1・ 病間あり郊外を見めぐり一、一首 ふるきとぴと こと 車して戸田の川辺をたどりきと故郷人に言っ げやらむ 日本の国を 録一首 たひらかに緑しきたる潅の上に桜花咲≦八つ の島山 太神宮炎上の事を 録四首 きくゝしろいすゞの宮の神杉を焼きぬと聞く もかしこきものを いたづらにしづめまつりし風の宮向ふほのほ を吹きもかへさず うちと 神風や伊勢の内外の宮柱焼くる御代にも逢は むと思へや 夏桑の畑に雪ふりわたらひのいすゞの宮に火 は飛ひまよふ うたゝ寝のうたゝ苦しき夢さめて汗ふき居れ  ぽ ら ぱ薔薇の花散る す“」几 ⊃’一は 簾捲く櫨端の山の永き口を雲も起らず昼鰍 かなり とん、、’う 釣垂れて魚餌につかず蜻蛉のとまりては飛ふ かうほね 河骨の花 「’o 川上に鶏鳴く里の名も知らず山青くして家五 つ六つ たと 二 辿り行く道窮りて鳥の鳴く木のくれしげみ白 き花散る す 二 せな 仰むけに竹の賛の子に打臥して背ひやイ、と 雲の行くを見る 神祇 録一首 も上てら 百照すともし火百の影落ちて ちにけり い つき晶宮潮満 七月二十三日車にて箱田川べをたどりて 録二首 わが 我昔住みにし跡を尋ぬれば桜茂りて人老いに ナり 申ふま ぐれきつち しo 月細き隅田の川のタ間暮待乳を見れば昔偲ば ゆ ?尋、 歌 里 の 竹 一〇 6 1 故郷を憶ふ 録一首 み ■{ 故郷の御墓荒れけん夏草のゑぬのこ草の穂に 出づるまでに 畠をぽへ 猟官声高くして炎熱いよく加はる戯れに蒼蝿の 歌を作る 九首 くりや くら つかさあきる人をたとへば厨なる喰ひ残しの 飯の上の螂 う ぽ 七ま 日の照す昼こそあらめ烏羽玉の夜を飛ぶ′螂の にくゝもあるか 馬の尾につきて走りし螂もあらんとりのこさ れレ牛の尻の螂 く左。むし かはヤ 犀虫の臭きを笑ふ笑ふものは同じ厩の展の上 の蝿 憎き者うなじねを刺す蚊はあれど醒らんとす る顔の上の螂 、1 “ か 山も見えず鳥もかけらず五百日行く八重の汐 路の船の中の蜘 ま 自 からtて 一こ 世の中は馬屋のうしろの畑に生ふる唐撫子の 花の上の蝿 ■iろく “ち 世の中の憎さも二、に終りけり旭橡の尻の璃 の上の蜘 わらち こゝも猶う圭一一世なりけり草鞍編む出舎のをぢ の背の上の螂 徒然坊箱根より写真数葉を送りこしける返事に 八首 みづうみ 足たゝば箱根の七湯七夜寝て水海の月に舟う けましを ふ ] 山一{加 足たゝば不尺の高嶺のいたゞきをいかづちな して踏みならさましを ふたら 足たゝば二荒のおくの水海にひとり隠れて月 を見ましを 足たゝば北インヂャのヒマラヤのエヴェレス トなる雪くはましを ・し 工、 足た、ぱ蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊 殺さましを にひtか克ま 足たゝば新高山の山もとにいほり締ぴてバナ ナ植ゑましを やまと珀ま一ろ 是たゝば大和山城うちめぐり須磨の浦わに径 寝せましを わ■ 症一 足た、ば黄河の水をかち渉り華山の蓮の花勇 らましを われば 八首 う」と一り ひむがしの京の丑寅松茂る上野の陰に昼寝す われば 吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を 分類すわれば 富士を踏みて帰りし人の物語聞きつ・細き足 さするわれば わらへあそ 昔せし童遊びをなつかしみこより花火に余念 なしわれば いにしへの故郷人のゑがきにし墨絵の竹に向 ひ坐すわれば いほ 人皆の紬根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて螂 殺すわれば く』」もの たね 菓物の核を小庭に蒔き置きて花咲き実のる年 を待つわれば 世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿 ぞわれば 6 6 1 歌 里 の ケ † ヲ’ 6 1 杜荊石壕吏 録二首 生ける者命を惜み死にすれば又かへり来ず孫 一人あり たちから いくさ おうなわれ手力無くと裾かゝげ單にゆかん米 か 一 炊くべく 杜詩新婚別 録三首 よもき つた 孔じか わが 麻にまとひ蓬にからむ蔦の手の短かれとは我 思はなくに 一夜たゞ君と契りて暁のあらあわたゞし遠き 別れば 我せこの君はものゝふちのゝふのその妻われ も共に行くべく 清人に代りて志を述ぶ 録二首 こと なほ 空かける鳥書とはばやつ二われ猶世に在りと 君に告げこそ さしなみのやまとの国は狭けれど民ゆたかな りのりにとるべく ’〉( , 呈 . 一 へ ’‘ 一 亡主一一友を埋めし墓のかなめ垣かなめ茂りて我 老いにけり 霞む口をうてなに上り山を見る山遠くして心 はるかなり い片廿た 士上 あら土の鋳型くづせばあな尊と仏の姿あらは れにけり しもつけやしめぢが原に春碁れて葉広さわら び人も訪ひ来ず 病林喜晴 録四首 ● 臥しながら雨戸あけさせ朝日照る上野の森の 晴をよろこぶ あさとこ 朝休に手洗ひ居れば窓近く鶯鳴きて今口も晴 なり 目をさまし見れば二日の雨晴れてしめりし庭 に日の照るうれし 書へつ カナリヤの璃り高し鳥彼れも人わが如く崎を 喜ぶ ’、つ吉 秀真より炎良茶飯のたきやうを尋ねこしげる返事 のはしに 浅草寺図 草刈がうばらかりそけたてきとふ仏の寺は千 歳へにけり  明治三十二年 絵あまたひろげ見てつくれる 録九首 なむあみだ仏つくりがつくりたる仏見あげて 驚くところ もん、二るのつはもの三人二人立ちて一人すわ たて りて楯つくところ 岡の上に黒き人立ち天の川敵の陣屋に傾くと ころ あるじ馬にしもべ四五人行き過ぎて傘持ひと り追ひ行くところ 木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの 泣き居るところ すそご うま人の裾濃のよそひ駒たてゝ遠くに人の琴 弾くところ 1 ’ し “ あをに ,たびと 青丹よし秦良の茶飯のたきやうを歌人問はす 名をなつかしみ 秀真に贈る へな土のへなの鋳形のへな/\に置物つくる その置物を 谷中瘡守に居る鹿洲の病めるに 二首 かき かさもり 君が病瘡にあらねば瘡守の仏のカそれもすべ なく 病みて臥す御足の下の鋳物師を憐み給へ薬王 菩薩 馬にして憐むべきは生臭きえせ法師らの車引 く馬 かん あ モん むかばらの痢の朝臣に物申す薬といふがかた つむり喰へ 病中把粟風骨二子牡丹の鉢を携へて来りけるに ’ たん くれなゐ いほ口 おくり物牡丹の花の紅に草の庵は光満ちけ り 加きつばた濃き紫の水満ちて水鳥一つはね掻 くところ いかめしき古き建物荒ればてゝ月夜に獅子の 壇のぽるところ 屋根の無き屋形の内に男君姫君あまた群れゐ るところ い くめ い り ひ こ みさゝぎ 菅原や伊久米伊理毘吉伊理毘古の陵こめて立 つ霞かも 朝なく竹藪になく篤の庭の木迄はいまだ来 ずけり 士づ 夜清き片山陰の梅林月照り満ちて鶴暗きわた る ところ%\つゝじ花咲く小松原岡の日向に養 ぎす居る見ゆ 垣 録三首 あき の り そ だ 。かき 大森の里過ぎ行けば蛋が住む海苔麓架坦の梅 さかりなり 借りて住む磯の家居は海見えて白帆行くなり 葦垣の外に i 。 ’ ユ かたはロ ニいまろぶ病の床のくるしみの某側に牡丹 咲くなり 杷栗新婚 録五首 米なくば共にかつゑん魚あらば片身分けんと 二のいも 此妹此背 めと よき妻を君は娶りぬ妻はあれど殊にかなひぬ 君が妻君に ね む 君が庭に植ゑば何花合歓の花夕になれば寝る 合歓の花 をりふしのいさかひ事はありもせめ犬がくは ずば猶にやれこそ “’も吉」 庭に生ふる蓬が中の恋草は花咲きにけり実や 結ぶらん 金槻和歌集を読む 大山のあふりの神を叱りけん将軍の歌を読め ばかし二し 8 6 1 夏月 な に はづ 浪速津は家居をしげみ庭をなみ涼みする人屋 根の上の月 庭の内をそゞろありけば月影にほのかに見ゆ るひあふぎの廿化 海照す月を涼しみ灯の見uる向ひの島へ渡ら んと思ふ 蝋 録三首 =ろも 物干の衣の袖に蝋鳴きて昼照單に日はタな り ねや 夢さめて戸いまだ明けぬ閨の中に蝉鳴く聞ゆ ひ よ り 日和なるらし Lひ 二 〇れ 椎の木の木末に蝉の声老いてはつかに赤き鶏 頭の花 詩に名ある種竹山人支那に行くと歌もて送る 竹の里人 ろ ざ〜 せきべき 廣山の雨赤壁の月そこに行きて君が作る詩い にしへしぬがん ふくろ 門出にはたゝみて入れし詩の嚢車に載せて帰 り来んかも 我庭の萩敵る頃をから国の北の都に乃入るら んか おのか?莫を古き新しき取り出たして録一首 かり工、めに写し置きしがわが後のかたみと思 へば悲しかりけり 百合 録三首 足引の山のしげみの迷ひ路に人より高き白百 合の花 人も来ぬ奥山路の百合の花神や宿らん折らん と思へど あま ひな 天さかる郡の小庭はつくろはず松に並びて百 合の花あり 浴泉雑記をよみて虚子に贈る 録三首 い て亭 君が行く伊豆の温泉は我も知る水清くしてよ  す き栖みどころ 吐けね はげやま 世の中の兀嶺兀山後のために杉の林を植ゑん とぞ思ふ ひた お吊ひと 天さかる郡にし居れば大仁のうものはたけに 芝居見るかも 上もさふ わきも こ 蓬生の小庭の隅に吾妹子がめでゝ植ゑたるお しろいの花 種竹山人の支那漫遊を送る 録四首 始めて杖によりて立ちあがりて 一首 四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花 咲きにけり 川に臨む生垣ありて水の上にこぽれんとする 言ざんくわ 山茶花の花 」’’ 柿を守る缶き法師が庭にいイこほう/\とい ひて鴉迫ひけり に ゐ 二吐り 武蔵野に秋風吹けば故郷の新盾の郡の芋をし ぞ思ふ へ一つなん 謂南翁はしめて勇子まうけたる喜びに 一首 歌 里 の け 9 6 1 “ ち おと拭ひ 八千ひろの淵⊃深きに住む鵡の顕にある玉の 如き子や 由 “よろ「ち上ろつ。かみ 八百万千万神のいでたゝす雲の旅路はにぎは しきかも 天長節 ひきかた 久堅の天と二しへにあらがねの土うるほひて 菊開く国 ふもとの新築見に行きて 録三首 新しき庭なつかしみ是なへのわれ人の背に負 はれつゝ来ぬ 君と我二人かたらふ窓の外のもみぢの榊横日 さす也 にひむろ むね かり 新室に歌よみをれば棟近く雁がね暗きて茶は 奇こナり 、イ ‘ 占 秀真を訪ひし後秀真におくる 録一首 牛を割き葱を煮あつきもてなしを善び居ると 妻の君にいへ しぐれ 夜を深み恋の遠遺犬吠えて時雨からかさ袂ね れけり 寧斎へかへし 録二首 玉にあらず魚の目にあらずいづれをか玉と定 めん魚の日といはん 起きて泣かば心やる方もありぬべし伏して泣 く身をあはれと思へ 小石川まで(秀真を訪ふ) 録一首 しき物をあつみうれしみ家のごと股さしのべ て物うち語る 明治三十三年 笠録二首 みやこぢ 旅行くと都路さかり市川の笠売る家に笠もと め着つ しもふさ 菅笠の小笠かぶりて下総の市賂を行けど知る 人もなし 茶 録二首 テーブルの星n同机うち囲み緑の蔭に茶をすゝ る夏 上み 秋の夜を書よみをれば離れ屋に茶をひく音の かすかに聞こゆ 森 録五首 鏡なすガラス張窓影透きて上野の森に雪つも る見ゆ ヨづたか 谷中路の森の下闇我行けば花堆きうま人 の墓 薬練る山人」得ね人る山にくしき花咲く森の下 牙ト →上 士ら 遺のべの櫓の林に篤の二つ来て嶋く明方にし て ちはやふる神の木立に月漏りて木の影動くき ざはしの上に ガラス窓士ユ首 ねや いたつきの閨のガラス戸影透きて小松の枝に 雀飛ふ見ゆ 病み二やる閨のガラスの窓の内に冬の日さし てさち草咲きぬ 朝なタなガラスの窓にょ二たはる上野の森は 見れど飽かぬかも た 冬ごもる病の床のガヲス戸の曇りぬぐへば足 ぴ 袋干せる見ゆ な「な ビードロのガラス戸すかし向ひ家の棟の薄の 花咲ける見ゆ 雪見んと思ひし窓のガヲス張ガヲス曇りて雪 見えずけり 窓の外の虫さへ見ゆるビードロのガラスの板  か五わざ は神業なるらし からナ 病み二もるガラスの窓の窓の外の物干竿に鴉 なく見ゆ 物千に来居る鴉はガヲス戸の内に文書く我見 て鳴くか とこム■」 常伏に伏せる是なへわがためにガラス戸張り し人よさちあれ か一」 しろかね ビードロの駕をつくりて雪つもる白銀の野を 行かんとぞ思ふ ガヲス張りて雪待ち居ればあるあした雪ふり しきて木につもる見ゆ 暁の外の雪見んと人をして窓のガラスの露拭 はしむ 雪 三首 を し を卓すま ねや とのも 暁の鴛鴛の小妻静かにて閨の外面は雪積りけ り 鉢に植ゑレニとぶき草のさち草の花を埋めて 雪ふりにけり しづえ 朝日さす森の下道我が行けばほつ枝下枝の雪 落つる音 二月例会席上 録三首 た 二 朝なタなガヲス戸の外に紙鳶見えて此頃風の 東吹くなり 貯附熔の乳の色なす松楓に侮と椿と共に活け たり いたつきの床べの瓶に梅いけ一。畳にちりし花 も掃はず 夜梅 録一首 閉したる園の外面の薄月夜梅の林を見て過ぎ こナり 瓶梅 録二首 墨さびし墨絵の竹の茂り葉の垂葉の下に梅い ナこナり ’ ‘ ; 瓶にさす梅はちれゝど庭にある梅の木咲かず 風寒みかも 掲南氏男子を失へるに 一首 淵にすむ龍のあぎとの白玉を手に取ると児し 夢はさめにけり 愚庵和尚のもとへ 録二首 歌をそしり人をのゝしる文を見ば猶ながらへ 一、世にありと思へ い畠 折にふれて思ひぞいづる君が庵の竹安けきか  つゝカ 釜蒜なきか 三月四口例会 くれ止ゐ たらちねのうなゐ遊びの古雛の紅あせて人老 、こナり し ‘ ‘ 高どのに春の寒さをたれこめて朝寝し居れば 花を売る声 もろこしの女神がつけし白玉のかざしに似た る水仙の花 を玉すま 上つ毛の新桑繭の小余にをし鳥ぬひて君を祝 はん(新婚祝) 野の中の竹むら陰の葱畑に寒さ残りて梅敵り にけり 春夜録一首 くれなゐのとばりをもるゝともし火の光かす かに更くる春の夜 鎌倉懐古 録一首 やつ のり 鎌倉の松葉が谷の遺の辺に法を説きたる日運 大菩薩 牛 録二首 ムたな 古国の伊予の二名に馬はあれど牛がしろかく 堅土にして や ち まき ふ王 八千巻の書読み尽きて蚊の如く痩す/\生け る君牛を喰へ 春雨 録四首 かつしか 葛飾の小梅の里の小旧ぞひに春雨小傘行くは い“ 誰が妹 」ほ 江の島へ通ふ海原路絶えてみちくる春の汐の 上の雨 。篶 tん ともし火の光に照す窓の外の牡丹にそゝぐ春 の夜の雨 しやくやく くれなゐ 霜おほひ藁とりすつる萄薬の芽の紅に春の雨 ふる 春の夜のだ榊に掛けし縦紺の忠ひのル釘を照 すともし火 み 珪・、‘ 一ね め 山の池の水際におふる篠の耕の死ぬとも君に 逢はんとぞ思ふ 我家の長物 録二首 か一一 から涌に蟹ひてありし渋色の低き小瓶に梅を 活けたり ひb カナリヤのつがひは逃げしとやの内に鶉のつ がひを飼へど子生まず 四月一日例会 録六首 あ圭 をとめ 久方の天つ少女が住むといふ星の都に行かん とぞ思ふ 草枕旅行く潜を送り来て橋の柳の下に別れ ぬ 赤染の下着あらはに樽挑げし島出男に花放り かゝる し』とと 菅の根の長き春日を言問はぬ小鳥と我と八内 ひ居り あづま路のあづまもの、ふあともひて宵士の み かり 裾野に御猟すらしも タ日影照り返したる山陰の桃の林に煙立ちけ り 獄中の鼠骨を懐ふ 十首 あめっち 天地に恥ぢせぬ罪を犯したる君麻縄につなが れにけり ひとや 大御代のまがねの人星広ければ君を容れけり ぬす人と共に 御あがたの大きつかさをあなどりて罪なはれ ぬと聞けばかしこし ひとや くろがねの人屋の飯の黒飯もわが大君のめぐ みと思へ 豆の事をグンバ(軍馬)といふと人に聞きし人 屋の豆のグンバ喰ふらむ ま ひるげ さか壮 人歴なる君を思へば真昼餉の希の上に涙落ち けり ある日君わが草の戸をおとづれて人屋に行く と皆げて去りけり 三とせ臥す我にたぐへてくろがねの八屋にこ もる君をあはれむ ぬば玉のやみの人墨に繋がれし君を思へば鐘 鳴りわたる あめつち 乃が居るまがねの窓は狭けれど大地のごとゆ たけくおもほゆ 週間記事 三月廿八日へ午後電降る) うらゝかにガラスを照す春の日のにはかに曇  へう り電ふり来る 三月甘九日(「我病」を草す) ともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ 夜や明けぬらん 三月升日(把粟来る) 詩をつくる友一人来て青柳に燕飛ぶ′画をかき ていにけり 三月柵一日(浅草公園失火の新閉一 しやう% 翁さび火鉢かへして狸々が火事お二しきと聞 吐 か けば可笑しも 四月一日(短歌月次会) 歌をよみにつどひし人の帰る夜半を花を催す 雨滝の如し 円月二日(湖村、節、同方太来る) 詩人去れば歌人坐にあり歌人去れば俳人来り 永き日暮れぬ 四月三日(実方墓辺の藪榊子を送り来る) さねかた 実方の墓辺に生ひしやぶかうじ人に抜かれて 歌によまれけり 病林十日の内 四月四日 飼鳥の小鳥の餌にと植ゑ為きし庭の小松菜花 咲きにけり 四月八日(俳句会) 句つくりに今日来ぬ人は牛島の花の茶店に餅 くひ居らん 四月十日 とのも ガヲス戸の外面さびしくふる雨に隣の桜ぬれ はえて見ゆ 四月十二日(左千夫来り夜一時頃去る、一 一首 たてかは い牡り 歌がたり夜はふけにけり竪川の君が庵に牛の 乳取る頃 自作土像(秀真へ)録一首 こんとん 澤沌が二つに分れ天となり土となるその土が たわれば 悟不悟の歌(左千夫に贈る)六首 茶博士をいやしき人と牛飼をたふとき業と知 る時花咲く 本庄の四ツ目に咲けるくれなゐの牡丹燃やし  あし て悪き歌を焚け じつとくぶ かん はちうゑ 旧ころ 寒山拾得盤干皆非なり鉢栽の小桜草の花綻び ぬ はういつ 顕痛み寝ころびて見る抱一の古絵の椿花玉の 如し 亀井戸の藤のさかりに群れ遊ぶ振袖少女うつ くしと見ずや あ吐ほこ 一もじの葱の青鉾ふり立て、悪歌よみを打ち てしやまん雛謂壌趾増維湛 秀真へかへし 三首 ほら/\にほらに遣りてほらあたまのうつろ あたまとなすべきものを みち足れるおもたきあたま穴をなみ焼くとも 焼けじか焼かずともよし 其花は六ひらの花共葉は壮丹の葉花と葉 と思ひあはず葉のあひに花み、咲きける へ な士を二ねて造りし 花なれば名をだに知ら ず 造り花あはれ 碧梧桐の帰郷を送る 録一首 あづまち 東路の都の花の真盛りをしまらく君と別れて あらん 支那に行く人を送る 録二首 くにだから 国宝つるぎ携へからへ行く君を送りぬ花咲く 四月 ゐのこ人からのますらをはげましてオロシヤ くにぴと と 国人国の外に追へ 台湾に行く人を送る 一首 フオルモサの高砂島に君行かば島人よびてバ ナナくふらん 四月十四口(嵐骨の出獄を祝す) たけのこずし くろがねの人屋をいでし君のために筍節をつ けてうたげす 四月十五日 山吹の花咲く宿に万葉の歌の講義の会を開き ぬ 四月十六日 とこふし 常臥の病のひまのつれ%に土をつぐねて人 をつくりぬ ふもと 麓へ 録二首 茶店には茶の木を植ゑ 団子屋にヒヨンの木 を植ゑ茶の木には白紙をつけ ヒヨンの木 に赤紙をゆひ 白紙に上の句を書き 赤紙に 下の句しるし 其紙をよりあはせて 共こよ つま りかひなに巻き 妹が手を右に握り 妹が棲 一』と 左に取り 昼行かば人言しげみ 夜行かば月 をやさしみ 昼も夜も家にこもりて さゝめ 一」と 言戸を漏れ来れば 茶の木もゑまひことほぎ ヒヨンの木もさちはひよろ二び 歌よめと我 に迫れば ニツ木のまけのまにまに 歌よみ てよ、ことをまをす あゝ君が代やあゝ 歌よみておくれと君がいひし故に歌よみてお くる歌よみてかへせ 桜花 録士ハ首 とつくに おほみ こと 桜さく浜びの宮に外国の使等召して大御言た まふ 高砂の新高山にさく花はやまとの花に似て似 ざりちふ に み {」まや 黄金ぬり丹ぬり青ぬる御霊屋の鳥居うづめて 花咲きにけり 桜さく上野の岡ゆ見おろせば根岸の里に柳垂 れたり はろ 雨にして上野の山をわがこせば幌のすき間よ 花の敵る見ゆ 玉川の流を引ける小金井の桜の花は葉ながら 咲けり 雨そゝぐ桜の陰のにはたづみよどむ花あり流 るゝ花あり む加 や 我宿の山吹咲きて向っ家の一重桜は葉となり にけり にぱか 東風俄に吹けば古杉の林の前を花飛ひわた る をち 家へだつ遠の梢に咲く花をいぶきまどはし我 庭に散る 年長く病みしわたれば花をこひ上野に行けば 花なかりけり 花敵りて葉いまだ萌えぬ小桜の赤きうてなに ふる一雨やま一9 さ よ 小夜ふけて桜が岡をわが行けば桜曇りの薄月  か菖 の最 八ちまたのちまたの桜花咲きて都の空はタ曇 りせり 久方の空曇る日の桜花ま咲きしみ咲きいまだ 散らなく くれ竹の根津の里にかくれたる人を訪ふ口の うす花ぐもり 一日一詠 四月廿一日 かな網の鳥籠広みうれしげに飛ぶ′鳥見ればわ れもたのしむ 円月世二目 ともし火の光さしたる壁の上に土人がたの影 写りけり {一ら 四月甘五日(長塚節より穂の芽を贈り来る) 年の夜のいわしのかしらさすといふたらの木 の芽をゆでゝくひけり 四月甘七口 鳥籠のかたへに置ける鉢に咲く薄紫のをだま きの花 四月甘九日(亀井戸に遊ぶ) 広前の御池に垂るゝ藤の花かづらくべくはい まだみしかし 小金井遠乗 録五首 っかさら げ ひ 司等がむさぽる笥飯のこなれがたみ花を見て 二 み こと 来の御一一、。口のかしこさ 小金井の桜はいまだ見えなくに腰骨いたし馬 しましとめ 千里行く龍の荒駒はうま人をゆり落さんとた けりにたける うま人が馬踏みはづし落ちにけんその跡ど二 ろしめ立で、、おけ 右のもノ\桜かざして儒り来る四位のかゝぶ り五位のかゝぶり 左千夫より牡丹二鉢を贈り来る一つは紅薄くして 明石潟と名づけ一つは色濃くして日の扉と名づく 録三首 、’ tん いたつきに病みふせるわが枕辺に壮丹の花の い照りかどやく 病みふせるわが枕辺に運びくる鉢の牡丹の花 ゆれやまず くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花 のおほきみ 庭前即景(四月甘一日)十首 山吹は南垣槙に菜の花は東境に咲き向ひけ り しづ是 少o かな網の大烏寵に木を植ゑてほつ枝下枝に鴉 飛ひわたる くれなゐの二尺伸びたる藩薇の芽の針やはら かに春雨のふる 汽車の音の走り過ぎたる垣の外の萌ゆる梢に 煙うづまく し 杉坦をあさり青菜の花をふみ松へ飛ひたる四 じふから 十雀二羽 とJ 一うねの青菜の花の咲き満つる小庭の空に鳶 舞ふ春日 くれなゐの若葉ひろがる鉢植の牡丹の蕾いま だなかりけり 春雨をふくめる空の薄曇山吹の花の枝も動か ず せ ひく 家主の植ゑて置きたる我庭の背低若杉若緑立 つ 百草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に 菜の花咲きぬ 五月六日例会 録三首 みづいろぎo 妹が膚る水色衣の衣裏の薄色見えて夏は来に ナり しひ あて人の住める御殿の堺長く椎の梢に鯉ひる がへる 船見せすわが大君の大御前に玉さゝぐらんわ たつみの神(観艦式) 体温日記 五月一日(体温三十九度六分) 山吹は散り菜の花は実になりて五月一口われ 厄に入る 五月二日(体温冊九度一分、従弟来) わらぴ みすド刈る信濃の奥の白坂に雪はふれゝど蕨 萌ゆとふ 五月三日(体温舟八度九分) 病み臥せる床にさゝんとおぎのりし菖蒲匂ひ 葉根はなかりけり 五月四目(体温柑九度六分、俳句会) 「藤の花長うして雨ふらんとす」とつくりし 我句人は取らざりき 五月五日(体温対八度二分) たて川のさちをがりより贈り来し壮丹の花に 文結びあり 五月六日(体温舟九度四分) 鉢植「三つ咲きたる牡丹の花くれなゐ深く夏 立ちにけり 五月七日(体温柑八度五分) はしきやし少女に似たるくれなゐの牡丹の陰 にうつノ\眠る 五月八日(福井犬火曙覧翁遺稿鏡失せるよし) かぐつちのあらぶる神のあらぶると玉も瓦も 其に焼きけり 五月十日(東宮御慶事) 敷島の国つ御民の祝ふ日を祝ふやわれもあけ の二はいひ 五月十二日(虚子の子来る) き きご 高浜の浜の真砂の名にしおふみどり子まさ子 我になじまず 東宮御婚儀を祝する歌 おのころや天の柱を 御国の中つ柱と 左ゆ 、」と 左めぐり みぎりゆみぎりめぐり 言あげの 御。一一。目よろしみ 生みませる島の八島を すめ みまの御子つきム、の をす国とのらせ給ひ あめつち し いひしらず古き神代ゆ 天地の絶ゆる事 なく 日と月と照りあふがごと い並びてを さめ給へば をの遣はたけくあきらけく め の道はなびかひ従ひ 玉くしげ二つの遺を 今もかも日っぎの御子の みめ召丁と定めの らせ 日はあれど今日の足り日を みあひま や 幅よろづちよろづがム す日のよき日と 八百万千万神の 神はかり 青げのまにノ\ 大宮の加しこどころの 大 ま i一かき 前に真榊そなへ うたのかみ笛吹きならし つりとづかさのりとを巾し 神契り契りたま へば 宮人はうなねつきぬき 司等は膝折り 一」と ふせ 言のきはみほぎ言ほぎ 品をつくし品 たてまつる とつ国のおほやけ使 彼皆も広 いや ぬかづき4、。一一。白さやぐよごとまをせば 賎し けど御民我等も 旗かゝげ門に灯ともし 千 世ませとあがいはへば 天地も答へて呼びぬ 八千世ませとあがことほげば 草も木も共に とよみぬ 君が代の栄ゆるさがと紫の色な つかしみ 藤波の花かづらきて をし鳥の袖 しつ 、つちかはし 歌ひ舞ひ賎ちたぬしむ 文字も なき賎にしあれど めをの道はやも 同く短歌 三首 すめろぎのみ子のみこと、大み女と玉串さゝ げ神契ります さす竹の宮人祝ふ今日の日に藤をかざして民 もよろこぶ くれなゐと真白と並び咲く花の牡丹も君をこ とほぐが如し 藤花 七首 もゝ“な ち はな 百花の千花を糸につらぬける藤の花房長く垂 れたり 広庭の松の木末にさく藤の花もろ向けて夕風 吹くも み 芋よ Jん 広前の池の水際にしだれたる藤の末花髪にさ やりぬ きんだち 公達がうたげの庭の藤波を折りてかざさば地 に垂れんかも 池の辺のさじきに垂るゝ藤の花見れば長けく 折れば短し わきも 二 吾妹子が心をこめて結びにし藤波の花解かま くをしも た なれ 吾妹子が手馴の琴の糸の緒と長さあらそふ藤 波の花 曇 五首 わかいは のき’旧 吾庵の樽端にかけし鳥籠の鳥さへづらず春の 日曇る あめつち 天地のそぐへのきはみ晴れわたり舟群るゝ江  にはか の俄に曇る 久方の曇り払ひて朝日子のうら・に照らす山 吹の花 古里の御寺見めぐる永き日の菜の花曇雨とな りけり や し牡ち 八汐路の海をへだてゝつらなれる紀伊の国山 曇りて暮れぬ 風骨入獄談 八首 ひとや 同じ朝縄許されしぬす人と人星の門をいでて 別れぬ くろがねの人屋の門をいでくれば桃くれなゐ に麦緑なり かげろひのはかなき命ながらへて人屋をいで し君痩せにけり 人屋にて君がみがきしたぼばさみたばにはさ 吐と めご まん少女子いづら 都べの花のさかりを十日まり五日人屋の内に 立きナり ま ‘ はなたれて人星の門をいでくれば茶屋の女の 小手招きすも え ぞ ぬば玉のやみのひじきは北蝦夷のダルマの豆 にいたくし劣れり むぎム 春鳥の巣鴨の人屋塀を高み青き麦生の畑も見 えなくに 舟中作(五月甘日課題)十首 川下る我舟早みつゝじ咲く津辺岩垣走るが如 し い かぢ 川下る乗合小舟夜を深み人皆寝ねて揖の音聞 こゆ へ から国ゆ帰りし船の舳に立ちて須磨の浜松見 ればうれしも 七く士は 拷縄の帆綱手にとり立つ人の是もしどろに波 船を揺る や ’ か 八百日行く汐路たゞよひとつ国の知らぬ島べ にはてし我舟を 生けりとも我思ほえず久方の空傾けて大浪来 る { ら 船長の船都星狭み姿見の鏡の前に薔薇の鉢置 けり を占」 川下る舟に來る夜の風寒み荻の葉さやぎ月傾 きぬ 真北さし八百日八汐路行く船の帆桁の上に北 斗を仰ぐ へ 遠つ海いわたる人の舳にむれて安き船路をお のおのことほぐ 五月甘一日朝雨中庭前の松を見て作る 十首 松の葉の細き葉毎に置く露の千露もゆらに玉 もこぼれず 松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きては二ぼれ二 ぽれては置く しづく 緑立つ小松が枝にふる雨の雫二ぽれて下單に 落つ 松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへ ず白玉散るも 青松の横はふ枝にふる雨に露の白玉ぬかぬ葉 もなし もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりし処白 玉結ぶ 玉松の松の葉毎に置く露のまねくこぼれて雨 ふりしきる 庭中の松の葉におく白露の今か落ちんと見れ ども落ちず 若松の立枝はひ枝の枝毎の葉毎に置ける露の しヂナく 松の葉の葉なみにぬける白露はあこが腕輸の 玉にかも似る ほとゝぎす 録十首 た、まつ さみだれの闇の山道たどり行く松明消えて鳴 くほとゝぎす とのも きや ガヲス戸の外面に夜の森見えて清けき月に鳴 くほとゝぎす ほとゝぎす其一声の玉ならば耳輸にぬきてと はに聞かまし 珍 つ つきぐし みづらなる湯津爪櫛の一つ火の消えなんとし て鳴くほとゝぎす いにレヘの人も聞きけん名どころの古ほとゝ オ ぎす声嗅れて鳴く 壮」ち{な 橘の花酒に浮けうたげする夜くだち鳴かぬ 山ほとゝぎす かつらき いぴき 葛城のみ谷に眠るゐのしゝの野の上に鳴くほ とゝぎす みやびをの。つどへる宵のむら雨に鳴けほとゝ ぎす歌幸を得ん よもきふ 蓬生の露わけ車立てさせて棺子叩けば鳴くほ とゝぎす さみ た れ 五月雨の雨ふりそゝぐ紫の花あやめ旧に鳴く ほと・ぎす 煙 録五首 あ 止一ご 都べの愛宕っ山に のぼり立ち国原見れば 大家に煙ふとしり 小家には細くなびかひ 小まと 千よろ、つ刀竈こと人\ 燃ゆる火の消ゆる事 なく いやuけにさか行く御代に あひし我 かも おくつきにそなへし花の吉花を集めて焼けば 青煙立つ もみぢ葉の過ぎ、一し人を火にはふる月夜さや けみ煙は惑ふ わぎも こ 天水のよりあひのきはみ煙立つ見ゆ吾妹子を 載せたる船の今か来らしも 旋頗歌 壮には おしてるや難波人江に風南吹き空に立つ千脇 の煙片なびきすも 旋頭歌 六月七日夜 十首 ガラス戸の外に据ゑたる鳥籠のブリキの屋根 に月映る見ゆ ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くた なびける見ゆ 紙をもてラムプおほへばガヲス戸の外の月夜 のあきらけく見ゆ 夜の床に寝ながら見ゆるガヲス戸の外あきら かに月ふけわたる をUさし 小庇にかくれて月の見えざるを一日を見んと ゐざれど見えず ガヲス戸の外の月夜をながむれどラムプの影 のうつりて見えず 照る月の位置かはりけむ鳥籠の屋根に映りし 影なくなりぬ 浅き夜の月影清み森をなす杉の槽の高き低き 見ゆ とのも ほとゝぎす鳴くに首あげガラス戸の外両を見 ればよき月夜なり 月照す上野の森を見っゝあれは家ゆるがして 汽車往き還る 宇治川 六首 ゆきげ ぬぱ玉の黒毛の駒の太腹に雪解の波のさかま き来る よろひ 飛ふ鳥の先を争ふものゝふの鎧の袖に波ほと ばしる たて。かみ 宇治川の早瀬よこぎるいけじきの馬の立髪浪 二えにけり 橘の小島が崎のかなたよりいかけ引きかけ武 者二騎来る み かき ものゝふのかためきびしき宇治川の水嵩まさ りて橋なかりけり 先がけのいさを立てずば生きてあらじと誓へ る心いけじき知るも ーつく「一ま 厳畠行幸十一首 九重の雲居をいでゝ藤さけるしきなが浜に御 舟はてけり 藤さけるしきなが浜に風ふけば御船によする 紫の浪 をり 夏に入る旅なれ衣ぬぎもかへず磯の藤浪折て たてまつる 松ながら折りてさゝげし藤波の花はむしろを 引きずりにけり 呈」ひ 惹かみゆきありともしらで吉備の国の荒磯べ たに藤咲きにけん よろづ代をいはひて折りし松が枝に二房垂る る藤浪の花 み 松が枝を折りてさゝぐる御やつ二の其手震へ か藤浪ゆらぐ たつ お まL 寵がたの御船にまけし玉しきの御座の下に藤 たてまつる みつかさの折りてさ、ぐる松が枝に長きみじ かき藤波の花 藤の花さゝげもちたるみやつ二をのせて漕ぎ 来る棚なし小舟 大君の御前にしぱむ紫の藤浪の花すてまくを しも 六月三日箆宅園遊会にまかりて 録十一首 もろ人のもろ吐きうつる歌玉といちごの玉と かずを争ふ あす 庭守は翌な掃きうて歌玉の落ちてぞあらん木 陰石陰 ぴ は い ち ご 枇杷黄玉覆盆子赤玉何はあれど光を放つ歌の 白玉 みやびをの歌のみことが吐きうつるいぶきの 霧に白玉散るも ほづま 歌玉は色々あれど秀真のは白く左千夫は黒く しありけり 格堂はルビーか巴子はトバツツかあるじ麓は いづも 出雲青玉 茂春、節、一五坊、不可得、四つの玉飛ひて あたりて砕けて散りぬ のみこみし団子の玉は歌玉となりて出でけり 神わざなるらし かばね 団子の骨ビールの屍散り乱れ歌玉いくさ日は タなり す しようろ 歌玉の清めるは上り星となり濁るは沈み松露 とぞなる ,しろあ小ム 竈 あかしら 歌玉の潮音三子其色は真白赤斑と真赤白 ふ 斑と 日光山 録二首 ふたあら 白雲の深くこもれる二荒の山より落つる七十 二滝 夏山の茂きに光る玉の宮再び来り見れども飽 かず 風 録八首 とぴ 向っ尾の杉の梢に居る鳶のふみどたわゝに風 吹きゆする 日和風そよ吹き過ぎて若松のむら立ち青芽む らむら動く ありなしの風か過ぎけん椎の葉の若葉三葉四 葉動きてやみむ ガラス戸に音する夜の風荒れて庭木の梢ゆれ さわぐ見ゆ さ庭べの草木動かし吹き過ぐる風しづまりて ‘ ら 藩薇の花散る ラらは 杉垣の垣外に見ゆる若竹の末葉まばらに風吹 きわたる 向っ尾の上野の杉を吹く風のしばしゆとりて 庭の木を吹く 白玉の真白さゝ花吸ふ蝶の吹きまどはさえ又 飛ひ返る 神 四首 歌の神の御手を開けば吹く風に露の敵るごと 白玉の散る 足引の山の御神の山移りいでましの雨に朝花 洗ふ 〜れtゐ 紅の花みf、る野に月出でゝ神の子が吹くく だの音聞ゆ みつるo 御いくさの神が取り持つ御剣のさきゆしたゝ る血の雨はげし 七月一日例会 録三目 く ぐそ あへ 緑羽の蝿のみことが蝿つどひ黄展の饗をき二 しをす見ゆ おうな 腫われ白糸手繰り機織りていくさの君に布た てまつる 送大我従軍 二首 薄織の夏着の衣のかくしどに筆さし入れてい くさに行くも ・』と 言さへぐから山越えていくさ見に再び行くを 再び送る 絵師なにかし絵をかく傍より左千夫節と共に其賛 をかく賛の歌若干、朝顔の絵に はしゐ うがひすと夜の衣を脱ぎもあへず端居の風の 秋ちかづきぬ ある 暁のおきのすさみに筆とりて絵がきし花の藍 薄かりき 雪に雀の絵 たかい 暁の長寝し居ればよべの間に雪つもりぬと妻 来て告げぬ 橋欄に月の絵 住吉の神のそり橋夕されば松の木の間に細き 月見ゆ 左千夫へ 止、てかは いほ とく; 竪川の流れ温れて君が庵の庭の木賊に水は二 えずや 星 録九首 ま き一] 真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る墨 あり たらちねの母がなりたる母星の子を思ふ光我 を照せり しつく の旨 玉水の雫絶えたる旛の端に星かゞやきて長。胴 はれぬ 久方の雲の柱につる糸の結び目解けて星落ち 来る 亨てな 空はかる台の上に登り立つ我をめぐりて星か がやけり あめつち をとめ 天地に月人男照り透り星の少女のかくれて見 えず さぎ 久方の星の光の清き夜にそことも知らず鷺鳴 きわたる 久方の空をはなれて光りつゝ飛ひ行く星のゆ くへ知らずも はたおりひめ ぬば玉の牛飼星と白ゆふの機織姫とけふこひ わたる 八月十九日〔例〕会 録一首 嵐ふく闇のいさり火乱れつゝ黒戸の沖に鯛釣 るらんか 棺堂が平賀元義の飲送りこしける返り事に 上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ二 人 血をはきし病の床のつれた、に元義の歌見れ ばたのしも 秋水が仏是石の碑の石摺贈りこしける返り事に戯 れに我手の形を紙におして送る ゑ 御仏の足のあとかた石に彫り歌も彫りたり後 の世のため 我手形紙におしつけ見であれど雲も起らずた だ人にして 滝 もろ駒のおくれさきだち小倉山雲踏みわけて 滝見にゆくも (霧讐 一日本」新聞四千号祝に寄硯祝といふ題を特て 八 首 ひ ぶ み よ 日刊新聞書く現の石の中窪に真窪になりて四 ち ひら 千号に満つ もゝ やそ とこなみ 百足らず八十の硯の海原に常波立ちて日文は 絶えず 竈 かち 墨の舟筆の真揖をしゞぬきて麓の海の千るま で漕ぐも 黒金の真金の硯窪むとも日文「H本一は尽く る時あらじ と 大き硯小さ硯を打ち並べ日ぶみ書く人疾書き おそ 徐書く もゝち ムみ 百千文日にけに書くと汲みかふる硯の海に塵 も浮かなくに もゝやそ かざし性 百八十の硯の海に水湛へ世の風潮に舟漕ぎ出 づも たるき くろ金を硯につくり橡なす筆の太筆染めてし 書かん 明治三十三年†一月三日の佳辰に遇ひてよめる歌 かけまくもあやにかしこき わご大君今のみ かどの あれましの其日を今日と 青山のな らしの庭に いくさ君いくさと・のへ 角の 昔をい吹きならせば 抜き放つ八千のつるぎ あ は 稲妻の單に敵る、こと いさみ立つ駒の地 かき かOおま」 掻は 久方の雲井をか行く 仮御座いづの御 前に かち人は銃さゝげ持ち 駒人はひづめ 立てなめ 砲を引〃つ、人共に かし二みて よごと中せば 。入の下の背人草も よろづ代 と三たび呼ぶかも から山の草木なびかひ こき を丁くに みつぎ 高麗の海のいろ/\づ来より 食国の国の貢と とことばにつかへまつらん 君が世のいくさ 見の式見ればゆ、しも 1] ま 大君は神にしませばからの山高麗の海びもも ろしきいませ 菊 録九首 朝ながめ夕。ながめして我庭の菊の花咲く待て ば久しも 年々にながめことなる我庭の今年の秋は菊多 、 カりき ガラス戸の外に咲きたる菊の花雨に風にも我 見つるかも 我庭の杉の木陰に菊咲けば昔の人し思ほゆる かも 我庭にさける黄菊の一枝を折らまくもへど足 なへわれば 我心いぶせき時は書庭べの黄菊白菊我をなぐ きむ 我うさをなごめて咲ける菊の花絵にレ写して 壁にかけてん 冬寒き風松が枝を吹くなべに木陰の菊は色あ 山一一にけ、ソ 我庭にさかりにさける菊の花折りてかざさむ 人もあらなくに 雪 十首(旋頭歌) あ 足なやみて、室にこもれど寒き此朝北にある毛 の国山に雪ふるらしも 若松の梢の雪も見れどあかねど柳なす山吹の 枝につめるおもしろ ガラス戸の外白妙にかがやける雪小夜更けて 上野の森のあきらかに見ゆ つかきら いましめの司等門の雪はけといふ雪はけど女 カの掃きがてぬかも 常無きは干潟の岩にふる雪の、こと汐満つと波 の来よらば消えざらめやも み こと “上しき 大君の御言かしこみ雪の中の竹百敷の大宮人 は歌によむらしも あらへ」古 ’ や つかは みづほ 新玉の年の端白く大雪ふれり八東穂の瑞穂の たりほ 垂穂叩に満つらんか ひ じり すめろぎの日知の国は竪に長きかもとことは に雪ふらぬ島雪消えぬ山 ’ ‘ 山の木に二ほれる雪を風吹き落すげ達の殿は {ワ 座の皮盾て猟に行くらん 霜枯の垣根に赤き木の実は何ぞ雪ふらば雪の 兎の眼にはめな  明治三十四年 新年 三首 うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寝ず て年明にけり ちら{」吉 枕べの寒さばかりに新玉の年ほぎ縄をかけて ほぐかも とよみき と そ 新玉の年の始と豊酒の屠蘇に酔ひにき病いゆ がに 今になりて思ひ得たる事あり、これ迄余が横臥せ るに拘らず割合に多くの食物を消化し得たるは咀 曜の力与つて多きに鵤りし事を。噛みたるが上に も噛み、和らげたるが上にも和らげ、粥の米さへ 囎み偽らるるだげば噺みし、が如き、あな、かち偶然 の癖には誉ざりき。斯く望くたるためにや 咀曜に最必要なる第一の臼歯左右共にやう/\に 傷はれて此頃は痛み強く少しにても上下の幽をあ はす事出来難くなりぬ。かくなりては極めて柔か なるものも醐まずに呑み込まざるべ苧つす、噛ま すに呑み込めば美味を感ぜざるのみならす、腸嵩 直・」痛みて帰繋を起す。是に於いて衛生上の営養 と快心的の媒楽と一時に奪ひ去られ、童弱獺に伽 はり椎孜悶々、忽ち例の問題は起る「人問は何が 赦に生きて居らざるぺからざるか」 さへづるやから臼なす奥の歯は虫ばみけら し はたつ物魚をもくはえず 木の実をば噛 みても痛む 武蔵野の廿菜辛菜を 粥汁にま ぜても煮ねば いや日けに我つく思の ほユ、 り行くかも 由ふき 『づら 下総の結城の里ゆ送り来し春の鶉をくはん歯  “、 もカも 菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も来ず くらしかねつも タ餉したゝめ了りて仰向に寝ながら左の方を見れ ぱ机の上一」藤を活けたるいとよく水をあげて花は 今を盛りの有様なり。艶、しもうつくしきかなとひ とりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝに つげてあやしくも歌心なん催されげる。斯遺には 日頃うとくなりまさりたればお。ほつかなくも筆を 敢りて かめ 瓶にさす藤の花ぶさ」みじかければたゝみの上 にとゞかざりけり ふみ 瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上 に垂れたり 藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみか どの昔こひしも 藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写 さんと思ふ 藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべか フナワ ‘ 〜 ‘ と1」 瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の休に春暮れ んとす こ ぞ 去年の春亀井戸に藤を見しことを今藤を見て 思ひいでつも くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲き いでにけり この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは 十日まり後 や しほをり 八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花 よみがへり咲く お。たやかならぬふしもあり。かちなから病のひま の筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。を かしき春の一夜や。 しひて筆をとりて 佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび蓮は むわれならな(に いちはっの花咲きいでて我日には今年ばかり の春ゆかんとす 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を 見れば悲しも わかめ 世の中はつねなきものと我愛づる山吹の花ち りにけるかも 別れゆく春のかたみと藤波の花の長ふさ絵に かけるかも タ顔の棚つくらんと思へども秋まちがてぬ我 いのちかも きう研 くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき 時のしるしに 薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみし 昔おもほゆ 若松の芽だちの緑長き日をタかたまけて熱い でにけり い いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の 種を蒔かしむ ) 心弱くとこそ人の見るらめ 病室のガヲス障子より見ゆる処に墨口の木戸あり。 木戸の傍、竹垣の内に一むらの山吹あり。此山吹 もとは隣なる女の董の四五年前に一寸許りの荷を 持ち来て戯れに植ゑ置きしものなるか今ははや縄 ‡つかぬる程になりぬ。今年表きくて既に なかば散りたるけしきをなかめてうた上歌心起り ければ原稿紙を手に持ちて 裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる 山吹の花 もろえだ 小縄もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにす る山吹の花 水汲みに往来の袖の打ち触れて敵りはじめた る山吹の花 壮ほ とせ まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年経 たる山吹の花 歌の会開かんと思ふ日も過ぎて敵りがたにな る山吹の花 わがいほ 我庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まく の山吹の花 あき人も文くぱり八も往きちがふ裏戸のわき の山吹の花 蕃の日の雨しき降ればガヲス戸の曇りて見え ぬ山吹の花 ガヲス戸のくもり拭へばあきらかに寝ながら 見ゆる山吹の花 春雨のけならべ降れば葉がくれに黄色乏しき 山吹の花 そ肚んろtラ 粗筆歯奔、出たらめ、むちやくちや、いかなる 評嘉んで葦ん凸吾員歌のやすくと口に 粟りくるかうれしくて。 山灯手の孝子何がし母を車に載せ自ら引きて二百盟 の道を東東迄上り東京見物を母にさせけるとなん。 箏新聞に出でゝ今の美談となす目 たらちねの母の車をとりひかひ千里も行かん 岩手の子あはれ 草枕旅行くきはみきへの神のい添ひ守らさん 孝子の車 みちのくの岩手の孝子名もなけど名のある人  あに に豈劣らめや 下り行く末の世にしてみちのくに孝の子あり と聞けばともしも 世の中のきたなき遣はみちのくの着手の関を 越えずありきや 春雨はいたくなふりそみちのくの孝子の車引 きがてぬかも みちのくの宕手の孝子文に書き歌にもよみて よろづ代迄に 世の中は悔いてかへらずたらちねのいのちの 内に花も見るべく うちひさす都の花をたらちねと二人し見れば たぬしきろかも われひとり見てもたぬしき都べの桜の花を親 と二人見つ 五月五日にはかしは餅とて槻の葉に餅を包みて祝 ふ事いづこも同じさまなるべし。昔は膳夫をかし はてと言ひ歌にも「旅にしあれは椎の葉に盛る」 ともあれは食物を木の葉に盛りし事もありけんを、 今の世にいたりて猶五日のかしは餅。ぱかり英名残 をとゞめたるそゆかしき、かしは餅の歌をつくる 椎の葉にもりにし昔おもほえてかしはのもち ひ見ればなつかし 白妙のもちひを包むかしは葉の香をなつかし みくへど飽かぬかも いにしへゆ今につたへてあやめふく今口のも ちひをかしは葉に巻く うま人もけふのもちひを白かねのうつはに盛 らずかしは葉に巻く ことほぎて贈る五口のかしはもち食ふもくは ずも君がまに/\ かしは葉の若葉の色をなつかしみ二、だくひ けり腹ふくるゝに しづ 九重の大宮人もかしはもち今日はをすかも賎  を の男さびて 常にくふかぐのたちばなそれもあれどかしは のもちひ今日はゆかしも みどり子のおひすゑいはふかしは餅われもく ひけり病癒ゆがに 色深き葉広がしはの葉を広みもちひぞつゝむ いにしへゆ今に 根岸に移りてこのかた、殊に病の躰にうち臥して このかた、年々春の暮より夏にかけてほとゝぎす とい妻の声しば/\聞きたり。然るに今年はい かにしけん夏も立ちけるにま、だおとづれず。剰製 のほと土ぎすに向ひて我思ふところを述ぶ日この ー 剥製の鳥といふは何かしの君か日ら鷹狩に行きて 鷲に取らせたるを我ために斯く製して贈られたる ものぞ 寵岡に家居る人はほと、ぎす聞きつといふに 我は聞かぬに ほとゝぎす今年は聞かずけだしくも窓のガヲ スの隔てつるかも きかはぎ 逆剥に剥ぎてっくれるほと、ぎす生けるが如 レ一声もがも うつ抜きに抜きてつくれるほとゝぎす見れば いつくし声は鳴かねど ほとゝぎすっくれる鳥は日に飽けどまことの 声は耳に飽かぬかも 買物とつくれる鳥は此里に昔鳴きけんほとゝ ぎすかも ほとゝぎす声も聞かぬは来馴れたる上野の松 につかずなりけん 我病みていの寝らえぬにほと、ぎす鳴きて過 ぎぬか声遠くとも ガラス戸におし照る月の清き夜は待たずしも あらず山ほとゝぎす ほとゝぎす鳴くべき月はいたっきのまさると もへば苦しかりけり 歌は得るに従ひて普く、順序なし。  明治三十五年 紅梅の下に土筆など械ゑたる盆栽一つ左千夫の贈 り来しをなかめて朝なタな一」作れりし歌の中に くれなゐの梅敵るなべに故郷につくしつみに し春し思ほゆ つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる 梅を綿傘にせる 家の内に風は吹かねどことわりに争ひかねて 梅の敵るかも 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見ら く飽かなく 春されば梅の花咲く日にうとき我枕べの侮も 花咲く 枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひてひとり伏 し居り } っくしほど食ふてうまぎはなくつくしとりほどし て面白きはなし、勢楴桐珠羽根村に遊びてつくし を得て帰る再び行かんといふに思ひやり興じてよ める 赤羽根のつ、みに生ふるつく%しのびにけ らしも摘む人なしに 赤羽根に摘み残したるつく%し再び往かん 老い朽ちぬまに 赤羽根のつゝみにみつるつく%し我妹と二 人摘めど尽きなくに つく%ししゞに生ひける赤羽根にいざ往き て摘め道しる、べせな 赤羽根の汽車行く路のつく%し又来む年も 往きて摘まなむ つく%\し摘みて帰りぬ煮てや食はんひしほ と酢とにひでてや食はん つく%し長き短きそれもかも老いし老いざ る何もかもうまき つく%\し故郷の野に摘みし事を思ひ出でけ  ことぐに り異国にして トりご 女らの割籠たづさへつく%し摘みにと出る 春したのしζ 煮兎憶諸友 しもふ{」 o o o 下総のだかしがもとゆ 贈り来しに二毛兎を くりやがたな 000 厨刀音かつ/\と 牛かひの左千夫がほふ O 0 0 0 0 0 0 りふた股の太けき煮て 桐の舎もあきみつも あ∫ をす あなうまそびらの肉の 灸れるをむさ o o o ぽるは吾ぞ 残れるをほつまもがも 家遠み o o o 呼ばむすべなみ もみぢ葉の赤木も岡も あ はれ幸なし おくられものくさ人∵、 一、史料大観(台記、欄記、扶桑名両伝一 このふみをあましゝ人 二のふみをよめとた ぼりぬ そをよむとふみあけみれば もじの へになみだしながる なさけしぬびて 一、やまべ(川魚)やまと芋は節より しもふさのゆふき、こほりの きぬ川のやま、べ のいをは はしきやし見てもよきいを やき !、にてうまらにをせと あたらしろかれつ心 を おくりくるみちにあざれ臼 そをやきて 、つまらにくひむ うじははへども とひ そらみつやまとのいもは鳶のねのとろゝにす なるつくいもなるらし 二やまめ(川凧)三尾は甲州の一五坊より なまよみのかひのやまめば ぬばたまの夜ぶ りのあみに 三つ入りぬその三つみなを あ におくりこし 一、仮面二つ某より わざをぎのにぬりのおもて ひよと二のまが ぐちおもて 世の中のおもなき人に かさん このおもて 一、草花の盆栽一つは麓より 秋くさの七くさ八くさ ひとはちに集めてう ゑぬ きちかうはまづさきいでつ をみなへ しいまだ 一、松島のつとくさ%は左千夫蕨真より まつしまのをしまのうらに うちよする波の しらたま そのたまをふくろにいれて かへ りこし歌のきみふたり 早の歌(二首) あめ ひてりぐも 天なるや早雲湧き あらがねの土裂け木枯る 青人草鼓打ち/\ 空ながめ虹もが立つと 待つ久に雨こそ降らめしかれども待てるひ じりは 世に出でぬかも 早して木はしをるれ待つ久に雨こそ降れ ひじり 我が思ふおほき聖世に出で、わをし救は ず雨は降れども