夜の蝙蝠傘 林芙美子  この孤独と云ふものは、四方八方から責めたてられて起つたものだと解り、 一瞬の考へのなかにも、外部から、何かしら音をたて㌧はいりこまれてゐる不 安を、始終、頭に入れてゐなければならぬと、追ひまくられてゐる気になり、 その息苦しい不安を、英助は、ぢいつと虚空に只みつめてゐる。「おい、おく さん、何時ごろ、冥土へ御出発としますかね」まるで愉しい旅行ヘ旅立つやう な尋ねかたである。町子が、鍋の上から顔を挙げた。「まだ迷つてゐるのです か?今夜だつて、明日だつてかまひませんよ。ーi私は早い方がいゝと思つ てゐるンですもの……」早い方がいゝと云はれたところで、それではいますぐ にも、お互ひに差し向ひに並んで首をくゝるわけにもゆかない。死ぬには死ぬ に就いての人間の最後の身だしなみもいる。「貴方つて、仲々死ねるひとぢや ありませんよ。私は案外さつぱりと逝けるかもしれないけれども、貴方は駄 目。いざとなつたら、やつぱり、貴方は死ぬ事の出来ない人ですよ」妻に云は れるまでもなく、英助には、その最後の自信はないのであ る。一緒に死のうと話しあつてゐる時は、かツかツと頭の中 に火が燃えるやうな、凄い程な感傷に血|泡沫《しぷき》をあげてゐる気 でゐながら、いざとなれば、実際、町子の云ふとほりかもし れないのである。本当を云へば、何も町子を道連れにする事 もない。独りで、勝手なところで死ねばいゝのだ。いまのと ころ、英助の考へてゐる死と云ふものは、空想的で、抽象的 でもあるのだ。死の内容が、ひどく軽つぽいもので、死を甘 くみつめてゐるところがある。「おい、まだ煮えないのか い?」「まだよ。いま、お醤油を差したところですもの」そ れでも鍋から柔い湯気があがつてゐる。町子は鍋の中に、箸 をさし込んで、輪切りの芋を、口ヘ持つて行つた。「もう一 寸よ」この女はいくつになつてゐるのかなと、英助は、まる で他人のやうな気持で妻の姿を見る。まだ若い。非常に若 い。これから、あと、二十年は充分働ける体力を持つてゐ る。この若い女に、暗い宿命と云ふものはありやう筈はな い。心の中で、なあに、お前を道連れにするものか、俺は独 りで死んでみせるよと、英助は、むつくり起きあがつて手巻 きの煙草に火をつけた。煙草に火をつけながら、人間に権威 がなくなつた場合の、みじめつたらしい卑しさが、自分の指 のさきに見えてきて、何もかも無情に引きずられてやりきれ なくなつて来る。景色のいゝ温泉にでもつかつて、何も考ヘ ないでぐつすりと眠りたい慾望がある。だが、そのやうな眠 りにもいまは大変な金がかかるのだ。そのくせ、これ以上の 鍛錬を強ひられて生きてゐる甲斐もいまは必要ではない。 iI英助は、昭和十三年の秋、中国の、揚子江の北岸の広斉 と云ふところで負傷して、村の小さい教会にある野戦病院 で、右脚を切断してもらつた。そのころは、この戦争を日支 事変と云つてゐた。黒いレザーを敷いた大きい卓子の上に、 真裸で寝かされたところまでは覚えてゐた。色硝子の天井か ら、草色の陽が淡く手術台の上に降りかゝつてゐたやうでも あつた。いやにはつきりと、耳の下に虫の音がしてゐた。窓 の外を疲れた兵隊がぞろぞろと移動してゐた。あ、あんな時 も白品分にはあつたのだと、英助はその日から十年もたつてゐ るのに、そのものすごい手術の場面が、折に触れては思ひ出 さ力て来る。柔かい草色のステンドグラスの色が、思ひがけ ない時に眼の裏にぱあつと陽射しをつくる。あの時も、も う、草色の陽を浴びたまゝ命が消えてしまつても仕方のない 事が.と観念してゐた。その観念の仕方は、いまから思へば、 いやいや、まだ自分は生きかヘる可能性があるのだと深く信 じてゐた。心の片隅の感傷は、機を織る|をさ《、、》のやうな速さ で、生命と云ふ炎のまはりを、死んでも仕方がないぞと云ひ つゾけてゐた。まるで念仏をとなへてゐるやうな必死な願ひ でゐた。英助は死なゝかつた。死なゝかつたfけに、何とな くがつかりする度合も深かゝつた。不具者となり壌兵になつ た行く末の様々な苦労が、傷口の痛みとともに長い間、今日 の此日に到るまで、英助の胸の中に渦を巻いてゐるのであ る。1町子が皿に芋を盛つて寝床のそばに来た。風のない 凍りついたやうな寒い日である。どんよりとした石油色の空 に細い電線が走つてゐた。英助は寝たなりで、窓の電線を眺 めながら芋をつまんで頬ぱつた。長い間見馴れた風景であり ながら、旅空にでもゐるやうな不安な眺めである。その寒々 とした空を見てゐると、どんな力も必要としないで、この まゝ氷がとけてゆくやうな無気力な消えかたで自分だけを失 つてしまひたいやうな気がした。自分が現在生きてゐると云 ふ|触感《てざはり》が何もないのだ。芋の味が耳に響くやうな気がして来 るだけだ。そのくせ、この寒さのなかでは、中国の何処かに 捨てられたであらう右の脚が、すうつと走つて来て、荒い息 をついてゐるやうな爪の痛さをも感じる。脚はちやんとく つゝいてゐるのだが、只、妙なことには、脚の形が見えない のだ。町子も蒲団の横に膝を入れて芋をつまんでゐる。電気 コンロには湯が煮えてゐた。アルミの凸凹のやかんの蓋が泡 を吹いてゐる。死んで光るものは珊瑚の巣、弟アベルが眼の 光。恐らくは花ならむ、海の底の|海松《みる》の小枝に、輝く玉あ り、輝く玉あり。泡を吹くやかんの蓋の動きのなかに、或る 歌をかすかに聴く。英助は汁のついた指をなめながら、「お い、奥さん、こゝヘおいでよ。久しぶりに一緒に寝ようでは ござらんか……」と節をつけて云つた。町子はスヵiトのホ ツクをぷつんとはめながら、「冗談ばつかり云つてるわ… これから、私は忙はしいんだから、本でも読んで心を静かに していらつしやい。これから色んなものを買ひこんで来なく ちやア……」万古の久須に茶を滝れながら、町子はむきだし の膝小僧を短いスカートからによきつと突き出してゐた。 「|将来《さき》の事は判らん。たつた今の今、新鮮無類なと云ふ時を 外しては悔いが残るぞよ。お前のやうな美しい女子も、障子 に写る島影のやうなものぢや、あゝ、茶なぞはどうでもよろ しいと云ふものでおざる。奥さん! 一寸、こゝヘ来てたも れ……」町子は急にやかんを持ちあげると、煮えこぽれる湯 を、蒲団のぐるりをまはつて畳にぽとぽとこぽしてまはつ た。「あれツ、お前、変な事をしなさんなよツ」もやもやと 湯気が蒲団のぐるりに立ちのぼる。町子は空つぽになつたや かんを畳に置くと、げらげら笑ひ出した。小さい耳が報くな つてゐる。眼は光をまして、額に降りか、つた髪のすだれ越 しに、よく光る笑ひの眼がうるしのやうに染つて見える。 「まだ、気違ひになるには早いよ。厭だなア、何ぽ何でも、 畳に湯をこぼすおかみさんは見た事がない……」町子は西側 の硝子戸を開けた。もうもうとした湯気が、風でさつと壁 ぎはになびく。1「ねえ、私達はとても仲がよかつたわ ねえ? 十年も一緒にゐて、よくあきもしなかつたわねえ ……」英助は眼をつぶつた。「でも、このまゝで死ぬと云ふ 事だけは残念よ。私が同情して死んだみたいにとられるのは 厭だわ。その上に生活苦だなンて新聞にでも出たらたまらな い」英助の耳朶に冷いものが流れた。「ねえ、君は、壮吉は 好きかい?」町子は久須の茶を茶呑茶碗に差してゐた。顔を 伏せたなり、「えゝ好きよ、どうして?」と云つた。「うゝん 別に何でもないがね、まあ、いゝさ……」町子は英助の枕も とに茶碗を差し出して、「貴方つて云ふひとは、何でも未練 たつぷりよ。昨夜なンか、さつぱりと悟つたやうな事を云つ といて、まだ、くよくよ妙な事を考へてゐるのね」英助は涙 をぬぐつた。俺はまだ何かに媚びてゐるのかもしれない。不 幸を美味さうに食つてゐる気配が人に見える間はまだ駄目な のかなと、くちやくちやと濡れてゐる耳の穴に指をつゝこん でみる。急にすべてのものに激しい執著がみなぎつて来る。 弟アベルが眼の光だ……。町子を弟の壮吉に渡してみたとこ ろで面白くもない。自分に死が来ても、この死の真相は誰か らも理解はされない。月日がたてば、もてづと消え果てる一 つめ肉体。戦争さへなかつたならば、自分はもつと違ふ生き かたをしてゐたかもしれないのだ。案外、女房を困らせて、 肉親からは爪はじきを受けて暮してゐたかも知れない。自分 の身の程を知つてゐる為に、皆から愛されて楽な暮し方をし たいと腹黒く媚びて来た十年の長い歳月に、英助は時々胸の 芯のなかでひどい怒りかたをしてゐた。戸田英助さんは少し もひがみのない、寛大な心の持ち主で、あのやうな人物はな いのだと云はれてゐる事が胸糞の悪い思ひであつた。寛大に してゐる事が世間では便利な事なのだ。町子さへも、時々、 感きはまつて、貴方と云ふひとは、仏様みたいよ。まるで草 におく朝露の如き人物だと讃めてくれる。不具者としての欠 点がないと云ふ事が、周囲の人間には便利なのだ。英助は、 朝々の新聞によつて、戦争裁判のなりゆきをぢいつとみつめ てゐる。復しうの気に満ちた憤りの眼を、自分でよく承知し てゐるのである。このまゝで戦争のなごりが消えてゆく事は たまらないのだ。戦争の思ひ出は早く忘れたいと世問は云つ てゐるけれども、忘れようたつて忘れる事の出来ない、自分 のやうな不具者は、どうしてくれるのだ。いつたいそこまで 世に媚びる必要があるのであらうかとも思つてみる。迷惑な 立場におかれた自分達のやうな不具者の痛苦を、いつたい誰 が知つてゐてくれるのであらうか……。気が狂ふか、死ぬる かの思ひを耐へて、延々と十年の歳月を暮して来たことに、 英助は深い悲しみを持つのであつた。その悲しみは表情には 出せないのだ。人が迷惑をするにきまつてゐる。戦争が英助 の運命を更へたのだ。勇気のある兵隊ではなかつたけれど も、英助はあの日の手術の時の不運をいつも胸の中に折り たゝんでゐた。忘れられないのだ。安々と勘ねる事の出来な い不満にも腹が立つて来るのだけれども、英助はすべての不 運に今日まで耐へしのんだ。松葉杖に金をかける事もしなか つたし、不自然な義足には一度でこりてしまつてゐた。自分 は毎日何かを想つてゐる。そして、その何かf心の中で熟し てゐる。それでゐながら、透明な諦めを表情に出して、己れ をかくして生きてゐる。人生とは英助にとつて、只それだけ のものであつた。町子がやかんの湯を畳に撒いた。自分のし たい事を、町子が安々とやつてのけた。自分には出来ない。 自分がそんな事をしては心をみすかされるのだ。三十七歳の 牛ぎながらの隠者は、まづ、何よりも千両役者である事に憂 身タやつしてゐる。女房の収入で生きてゐる事にも甘んじて 恩を被らなければならない。働く妻の若々しい元気さに妬み を持つてゐながら、英助はにこやかな笑顔をつくつてゐる。 表情をつくる事は面白いのだ。自由自在に頭の芯が命令をす るのだ。只生きる為に意志を弄び、皮膚で風を吸ふ。ーi深 夜になつて独り眼覚めてゐるとき、もうもうと野獣の吠える や弓な捻り声を闇の底に聴く……。妻は安心して、昼の疲れ で白分のそばにすやすや眠つてゐる、、自分の一本の脚にから みついてゐる女の脚の上に、もう一本の自分の脚がない事は 妙な事だつた。形のない脚。見えない脚。だが、その形のな い脚にねつとりした汗ばみを感じるのはをかしい事である。 形のない脚に力がはいる。その無駄な力をうんうんと引きず りながら、這ふやうにして英助は厨に行き、奥の便所に片膝 ついた姿になる。深々と淋しさがおそつて来る。側の高い窓 に、星がきらめいてゐる。星を見上げる。その時だけ、英助 は心からあ、と溜息をつくのだ。傲然と生きるすべなき人生 よ1この片隅の深夜の溜息は、無数の小人の鬼になつて星 へ向つて攻撃して行く。1誰が死ぬものかツーー。俺は生 きる。生きたい。どうでもして生きてゐたい……。鼻をつく 臭気に向つて英助はかつと睡を吐く。自分を欺いても生き る。人問の真理は何か知らない。だが、死ぬ事を心から念ふ 人間はなかなかゐない。空想はするのだけれども、その、死 の真空はとみくじのやうなものだ。いつ当るともしれない真 空に、いつもおびえてゐる苦痛は英助にはたまらないのだ。 六畳と三畳の古ぼけた小さい家の中だけが、英助の生活の周 囲であつた。生涯のうちで、最も重大なこの不幸な記憶を、 どうして忘れ去る事が出来るだらう……。不具者となつた自 分に、何一つの技巧もなく、只妻や弟にすがつて生きてゐる と云ふ事が、英助には耐ヘられなかつた。漠然と形の見えな いものに抵抗をしながらも不自然な生活を続けてゐるといふ ことに……。いろいろな内職のやうな事もやつてはみたが、 手仕事の不器用な英助には大したことも出来ないのだ。考へ の果ては、自分の頭上に落ちて来た運命感を悪化させるだけ である。肉体の基礎を失つたものには、現実には何一つ思は しい職業も与へられはしない。英助は空想のなかで、朝々乗 合自動車に乗り、愉快な会社の卓子に腰を降ろしてゐる風景 を描いてみる。何となくその一瞬は明るい希望をつなぐ。だ が、その空想はすぐ現実の煙に追ひまくられて消えて行つて しまふのだ。そして薄暗い渦の底に、自分と同じやうな運命 に岬く人間の生活が、この社会の何処かにも、鋲を撒いたや うな存在の仕方で淋しく生きてゐるのだと思ふ。何事に対し ても、もう、かつての、あの日から、人生に対する陶酔がな くなつてしまつてゐるのだ。 町子が硝子戸を閉めた。「また、何か考ヘてゐるンでせ う?考へたつて始まりませんよ。こんな世の中なンだか ら、もう、さつぱりとした方が勝ちだわ……」英助は何とか 遺書を書きたいと思つた。社会から見捨てられた人間とし て、一言書いて死にたかつた。社会に対しての反抗は、今日 の日まで崩れてはゐなかつたのだと云ふ呪ひの一言を書いて おきたかつた。「私、これから、用事に出掛けますけど、何 かほしいものない?」と、町子は汚れたソツクスをはきなが ら尋ねた。紺色のジヤケツの袖口はほつれ、鼠色のハーフコ ートも肩は焼けたやうな色にあせてゐる。そのくせ、顔は 活々として、広い額の黒い巻毛は、町子の顔を派手々々しく 見せてゐた。「うん、モウレツにすき焼が食いたいな……」 「あら、すき焼なンてもう駄目よ。そンなお金出来やしない わ……」何を売つて来るつもりなのか、町子は暫く次の間で 新聞紙の音をさせてゐた。「ぢやア、一寸出て来ます。すぐ 帰りますからね」町子はもう一度英助の枕元に来ると、柱鏡 の前に立つて、髪をときつけた。「あんまり昏くならないう ちに帰れよ」町子は黙つてゐた。出掛ける時に同じことを云 はれる事が町子には心にこたへて来る。自分一人を頼つてゐ る良人の、素直な言葉がうつたうしくさへある。ソツクスを とほして、濡れた畳の感触が、町子には、良人と只二人で島 に流されてゐるやうな気がした。その孤島のなかでも、良人 は町子に嫉妬を持つてゐるのだ。会社の勤めの様子を聞きた がつたり、壮吉の下宿を尋ねて行くことを厭がつたりする気 配を感ずるのだけれども……、そのくせ、何時も陽気な表情 で、英助は町子をからかふ術も心得てゐた。ー町子が出て 行くと、四囲は急に墓場のやうにひつそりとした。英助は暫 く天井を見てゐた。もう、すぐ、自分は散つてゆく人問なの だ。凄んだ眼つきでこれ以上は進めないと云ふところまで来 てゐるのだ。すぐ散つてゆくと云ふ反射が、頭を石のやうに 重たくする。死と云ふことが怖ろしくなつて来る。空は茄子 色に暮色をおびて来た。無意識に蒲団の襟の匂ひを嗅ぐ。蒲 団の匂ひだけが、人間の脂肪を匂はせてゐる。その匂ひは波 立ちさはぐ心を無気力にしてしまふ作用がある。たとへ脚が あつたところで、自分の人生は大した変化はなかつたのかも しれない……。失つた筈の脚がむずがゆい。主要的な問題 が、脚に尽きてゐると云ふ事がふつと馬鹿々々しくさへなつ て来るのだ。何も町子を道連れにする事もなけれぱ、むき《》に なつて死を考へる必要もないのだ。今日、明日、には夫婦で 心中をすると云ふ事になつてゐるからこそ、妙な感傷にとら はれてゐるのだらう。英助は死にたくはなかつた。いまごろ になつて死ぬのならば、もう、何年か前に、すでに死んでゐ る筈だ。誰に尋ねやうもない、空漠としたたfよひの中の人 生が、もう十年近くもつfいてゐて、すでにその歳月を今日 まで耐へて来てゐるのだ。・…-寝たり起きたりしながら、暇 にまかせて過去の事を考へ続けて今日まで、まるで囚人のや うな暮し方をして来たのだ。1英助は何時の問にかうとう と眠つてゐた。 窓の硝子戸はすつかり暗くなつてしまつたが、町子はなか なか戻らなかつた。闇の底に、英助の寝息だけがきこえる。 畳に置いてある空のやかんが闇の底ににぶく光つてゐた。柱 鏡にも光がある。部屋の隅隅が不気味に屋根をさゝヘてゐ た、、英助の瞼の上には、何か夢まぼろしが走つてゐるのかも しれない。li埃をいつぱいかぶつた禁本の脚が、軍靴をは いて旅をしつじけてゐる。月の咬々とした沙漠の砂の波のな かを、脚だけが飛ぶやうに歩いてゐる。銀色の鉄兜をかぶつ た大勢の兵隊がライオンに乗つて、沙漠のなかを横断してゐ る、脚は兵隊の大真面目な行軍を見て驚いたのだ。まだ、何 処かに戦争がある。突然の衝動で脚は急に笑ひ出した。さう して、もう馬鹿々々しくて歩くことをやめた。石穴にもぐり こんで、月光をさヘぎる為に鎧戸を閉ぢて脚は横になつた。 遠くの方で、馬のひづめの音がした。兵隊の岬く声がした。 脚はその石穴でぐつすりと眠つた。朝、眼が覚めた時には、 脚のまはりは蛆が巣をつくり、身動きもならないほどの骨や 腐肉が石穴につまつてゐた。鎧戸から降りそゝぐ朝の光りは 水の流れになつてびちやびちやと石穴の中に溢れて来る。 英助は眼を覚した。樋をつたふ雨の音がしてゐる。英助は むつくりと起きあがつた。自分の喉首が鳴る。畳に這ひ出す と、濡れた畳は氷のやうに冷たかつた。町子は帰つて来ない のではないかと不安になつて来る。英助は壁づたいに立ちあ がると、電気をつけた。急に四囲が針のやうな光線でちりば められる。英助は独りでゐる事に耐へられなかつた。外套を 引きずり出して着込むと、這ふやうにして玄関の松葉杖を両 脇にかいこんで硝子戸を開けてみた。光つた氷雨が降つてゐ た。檜葉の垣根の匂ひが鼻をつく。英助は戸外へ出てみた。 路地の出口で二人連れの女に出逢つたきりで、誰も通る者が ない。電車の踏切を越して、暗い濡れた道を、英助は飛ぶや うに歩いた。まるで、亡霊が歩いてゐるやうだなと思つた。 濠々として果てのない生命への執着が一本の脚の裏に響いて 来る。とにかく孤独ではゐられないのだ。青いシグナルが坂 道の下側に近づいて来る。英助は濡れた外套の襟をたてた。 電車の駅まではまだ相当だつた。賑やかな町通りまで来た時 には、英助は疲れきつてゐた。腹が空いてゐるせゐか、ひど く怒りつぽくなつてゐたし、何よりも、氷雨の風の冷たさに やりきれなくなつてゐる。駅へ来ると、まだ電車は来てゐな かつた。英助は駅の前の交番に這入つて、若い巡査に暫く休 ませてくれと頼んでみた。小柄な巡査はピストルを肩にかけ た物々しい姿で、英助に椅子をすゝめてくれた。交番から、 駅のなかは一眼に見える。「冷えますなア……」人の好ささ うな巡査は英助へ話しかけて来た。「脚はどうされたンです か?」英助はあゝまたかと笑ひながら、「日華事変の時の負 傷です」と云つた。「ほう、それは大変でしたねえ。御不自 由ですね」英助は「えゝ」とあいまいに答ヘた。「私もスマ トラの方へ行つてゐまして、終戦までをりました」若い巡査 は刻み煙草を出して、露店ものゝシンチユウの煙管を卓子の ひき出しから二本出して、英助にも一服どうかとすゝめた。 英助は一服煙草を貰つて吸つた。悪い油とみえて、ライター の火が黒く糸を引いて巡査の狭い額に立ちのぼる。炎のなか に、煙管をつゝこんで英助は煙草の煙を深く吸つた。「この ごろは、此辺もぶつさうになりましたね?」「ええだいぶ被 害が多くなりましたよ。ー盗まれる方だつて悪いンです よ。こんな世相では、盗る方だつて、一つや二つの理由はあ りますからね。ーiだけど、私は人を信じてゐます。つかま へてみれぱ、別に、極悪人と云ふものはゐません……」英助 は驚いたやうな顔で、若い巡査を見た。髪をチツクで綺麗に なでつけてゐた。言葉に四国託りがあり、よく見ると、人な つゝこい少年のやうな表情をしてゐる。「巡査になられてか らお古いのですか?」「いや、まだ一年です。田舎でぶらぶ らしてゐても面白くないものですから……」雨は小降りにな つた。時々水つぽい風が吹きこんで来る。「いまの若い人間 は本当は可哀想なンですよ。長い間、何一ついゝ事もなく犠 牲にぱかりなつてゐたンですからね。自分も復員の兵隊です が、あんまり妙な世の中なので、腹を立てゝ巡査を志望した ンですがね、罪を犯す奴と云ふものは際限もなくゐるもンで すなア」英助は二服目の煙草を貰つて吸つた。火の気のない 交番のなかは、コンクリートの匂ひだけが強い。「私は共産 党ぢやアないンですが、どうですかねえ……終戦と同時に、 いまの陛下が御退位なすつて、皇太子殿下が天皇になつてお いでだつたら、世の中はもつとぱあつと童話的に明るいのぢ やないかと思ひますがね。四十代の時代は去つたのですか ら、一つ若い世代から始つて行つてをれば、かうも、世の中 は荒さまなかつただらうとおくそく《》しますが、こんなことを 云つたりすると、貴方は私を不敬罪か何かでふんづかまへま すかね?」巡査は真面目な顔をしてゐた。英助は、「自分は お伽話のやうな、明るい気持だけでも欲しいと思ふもンです から、こんな事を想ふのです」とつけくはへた。轟々と地鳴 りをさせて上りの電車がホームヘはいつて来た。いまゝで淋 しかつた駅の中が急に華かになり、十五六人ばかり人が降り て来た。英助はぢいつと眼をこらしてゐたが町子の姿は改札 口を出て来なかつた。英助はがつかりした。頭の芯に不安な 影が明滅して来る。「傷口は痛みますか?」巡査が尋づねた。 「え、、かう冷えると駄目です。全く、何も彼も駄目ですな ア。無職の徒で、罪人よりも|たち《フフ》が悪いです……」巡査はふ つと眼もとに笑ひをふくんで「そんなことはありませんよ。 そンな馬鹿な事を考へちやいけません。負傷したと云ふ事だ けでそンな考ヘをされるのはいけないね。何も大した事では ないとは云ひませんよ。でも、思ひやうで、何とか活路を開 かン事には、人を頼りにはならないのですから、……」英助 は巡査の初々しい几帳面な顔つきが嬉しかつた。「貴方は独 身ですか?」「いや、郷里に置いて来ました。何しろ部屋が ないものですからね。早く呼んでやりたいと思ふのですが、 とても二人では食つて行けさうもないです。今日、莫大な権 利金を払つて部屋を借りると云ふ余地もありませんから、当 分はこのまゝでせう。ーーところで、自分一人を置いてくれ さうな、安い部屋はありませんかなア……」巡査が思ひあま つたやうに云つた。「さうですね」英助はふつと、三畳の玄 関の間を思ひ出した。かうした素朴な同居人がある事は愉し いに違ひない。同居人があれば、何も、求めて夫婦がしぱし ぱ死ぬる話をする事もないだらうと考へられる。「さうです な、心当りがないでもありません、考ヘておきませう……」 巡査は元気づいた表情で、「どの辺にお住ひですか」と聞い た。名前と所番地を教へると、巡査は壁の地図を鉛筆で追ひ ながら、「あゝこゝですね。一度、非番の日にでもお尋ねさ せていたfきます」と云つた。I英助はかうした誇張のな い人問が好きであつた。二台目の電車にも町子は乗つてゐな かつ力.。英助は空腹と寒さで両脚がしびれた。形のない脚ま でがしびれて来る。英助は思ひ切つて松葉杖にすがつて立ち あがつた。巡査も立ちあがつて、名刺を出しながら、まるで 兵隊の時のやうな挙手の礼をした。1ーぬかるみの水を弾ね かへして重たい風が吹いてゐる。この分では近々に雪でも降 るかもしれない。英助は部屋のないあの巡査の為に、自分の 軒を分けてやりたいやうな広々とした気がして来た、まだま だ此世にはいゝ人間がゐる……。しかも、あの巡査は人を信 じてゐると云つた。英助は自分の苦痛を隠して、楽天家をよ そほひながら、それを得意としてゐた自分に卑しいものを感 じた白なさけないやうな気もして来た。何時か弟が云つてゐ たやうに、古本屋の店番でも始めてみようかとも思つた。 家へ戻ると、玄関の土間に、大きい男物の編幅傘が壁に立 てかりてあつた。「何処へ行つてゐたのよツ」台所をしてゐ ると見えて、町子の声だけが動いて来る。英助は松葉杖をが らりと置くと、岩のやうに重い、水漬けの靴を両手に力いつ ぱいかけてぬいだ。たつた一つの靴をぽんと土問に放つた。 編蟷傘の柄には野毛と太い文字が彫りこんである。英助は、 ニケ月程前に尋ねて来た野毛と云ふ男を想ひ出した。町子の 会社の同僚で、町子の言葉のはじはじによく出て来る働きも のの男の名前だつた。「おい、お前さんを迎ヘに行つたンだ よ」這ひながら部屋にはいると、小さい折たゝみの卓祇台の 上に、すき焼の支度が出来てゐた。ぱあつとした肉の色と、 緑を混ぜた葱の色が眼に沁みる。「あら、私、さつきの電車 で戻つたンだけど、貴方、何処にゐたンですの?」手を拭き ながら町子が出て来た。何となく酒臭い匂ひがした。「交番 の中で待つてゐたンだ。をかしいね」町子は電気コンロの上 にニユームの鍋をのせる。「傘をさしてたから判らなかつた のでせう?」「もう、十時だぜ、早く戻つて来るつて、どこ へ行つてたンだい。こんなに遅く……折角の日曜日の夜を台 なしだよ」心のなかでは憤つてゐながら、英助は外套をぬい で、しびれた腕の両腋を、手のさきでかはるがはる揉んだ。 ひどく憤つてゐる顔を伏せて。「壮吉さんの所へ寄つて、そ れから上野へはまつて、お金をつくつてね、買物をしたりし て遅くなつちまつたのよ-…・」英助は返事をする元気がない のだ。野毛の蠣幅傘をどうして借りて来たのだと尋ねたいと ころだつたけれどもそれも物憂くなつてやめた。このまゝ妻 が戻らなければよかつたとさへ思へた。あの巡査とつゝまし い生活をして、古本屋の店番に通よつた方が|まし《フフ》だとも思ヘ た。夫婦の問の情に厚いと云ふ事は、お互ひに辛い事であ り、英助には若い町子に済まないやうな気さへして来る。自 分が孤独になるのを恐れてゐる為に必死になつて、妻に善良 な良人をよそほふと云ふ事は、英助にとつていまは無意味な 気がして来た。一度も喧嘩をしないで、妻のすべての行動を 許してゐると云ふ事は、乞食の生活と少しも変らないのだ。 肉が煮えて来た。英助はむさぽるやうに肉を食べた。町子は 一向に食慾がないと見えて黙念としてゐる。「おい、どうし て食べないンだ?」英助が顔を挙げると、町子は眼にいつぱ い涙を溜めて|空《くよソ》をみつめてゐた。「どうしたンだ?」「うう ん、どうもしない……」がつがつとむさぼり食つてゐる男の 姿を哀れンでゐる涙ともとれる。「壮吉は何してゐた?」町 子はぷいと台所へ立つて行つた。暫くして、「貴方、うどん をそこへ入れませうか?」と明るい声で町子が云つた。やが て、ゆでたうどんを西洋皿に入れて運んで来た。「何を売つ て来たンだ?」町子は人が変つたやうにぱつと眼をかfやか せて、「何だつていゝぢやアないの-…地から湧いたと思ヘ ばいゝわ」とあでやかに笑つてゐる。英助は吻として町子の 顔を見た。助かつたやうな気がした。こげつく肉の匂ひがさ うざうしく耳に来る。妻が世にも貴重な宝物のやうに思へて 来るのだ。死ぬとも生きるともまだきまらない感傷が強く英 助の胸を突いたけれども、胸の奥の方では生きると云ふ事が 疾にきまつてゐた。徴塵も死ぬ気はない。 「ねえ、若いお巡りをこゝヘ置いてやらうと思ふンだが、君 はどう思ふ?」食事が済んでから、英助は町子に、人のいゝ 巡査の話をしてみた。町子はうかない顔で、食卓を片づけな がら、「お巡りなンて厭だわ。こんな猫の額みたいなところ へ置いたつてどうにもならないでせう……」と云つた。「だ つて、三月には、弟だつて試験を受けに来るンだもの、たち まち困りますよ」「大樹君は大学を受ける気なのかい?」町 子の弟が福島から出て来るとなると、巡査を置く事も考へも のだけれども、田舎の官吏の息子が、大学を受けたところ で、長年月の学資をどうして捻出するのかと案じられて来 る。誰も彼もまだ若い男は大学に這入りたがつてゐるのだ。 !ひさしを打つ雨の音がしてゐる。町子の弟が来たところ で、自分のやうな不具者を姉の良人として尊敬をしてくれる 筈もない。妻の弟を置くよりも、英助は若い人のいゝ巡査を 置いてやりたい気持ちがいつぱいだつた。人を信じてゐると 云ふ優しい言葉が、英助の心に銘じてゐた。「おい、死ぬの はやめにしたよ-…」思ひ出したやうに床に横になつて英助 が云つた。町子は洗濯した毛糸のソツクスを電気の下でつく ろひながら、「いやに簡単なのね」と平気な顔で笑つてゐる。 「死にたくないな……。君もこんな生活には飽きたに違ひな い。君は何処へだつて自由に行つていゝぜ。俺は死なない。 壮吉の云つてゐた古本屋の店番で充分だ。何とかして働いて みるよ。ー長いこと、君に世話になつてしまつたが、今日 まで、君に未練があつたンだ。慾と未練と云つてもいゝかな ……このまゝでは、どうにもやりきれンからね」「何がやり きれないの?」町子はぼつてりした、色の悪い唇に毛糸をな めながら英助の方を見た。その眼もとを見てゐると、妻を何 処まで信じていゝのか英助には解らなくなつて来る。こん な、自分のやうな宿命の夫婦が、この夜の何処かにも幾組か はあるのだと空想してみる。その宿命の夫婦はひつそりと息 をひそめて暮してゐる。形のない大きい嘆きの傷が、暗夜に ひどい悲音をたててゐる。その嘆きはそのまゝ凍つて古い古 い想ひ出に風化してゆく。取戻す事の出来ない夢と化した 昔4そしてその宿命の人間どもは、只、黙つて慣らされてゆ く。よりどころがないと云ふことに慣らされてゆくのだ。 「野毛さんのところに行つたのかい?」英助は口を滑らせた。 言はでもの事と思ひながらも、もう言葉が口をついて云つ た。-「どうして?」町子の眼もとに不安な影がさつと通りす ぎた。「傘があるからさ」「あゝ、あれね、十日程前に借りて 帰つたままなのよ。今日降りさうだつたから差して行つたの ・…」十日も借りて来てゐる傘を、狭い家にゐる英助が知ら ない筈はない。英助はむつとして、床の間の本を手にした。 平凡♪云ふ題字が三重にも三重にもずれて見える。二葉亭四 迷と云ふ文字が、四角い口を開けて笑つてゐるやうに動く。 歯が.本もない怪物のやうに黒く動く活字。あゝ、またこの 女の嘘に屈しなければならぬ。ー英助は人を信じてゐると 云ふ芒い巡査のおもかげが、まるで恋人のやうにいとしくな つかLかつた。何時もこの嘘にまるめこまれて、よろけてし まふからだ……。女の心はとらへどころがない。こんな世の 中になつたのだから、義理も人情もなく、何処へでも行つて くれてい、よと英助は心で思ふのだけれども、口に出して云 ひ出ナ勇気が今日まではなかつたのだ。「あゝ、すつかり疲 れち÷つた。私、くたくたになつたわ……」町子はまた今夜 も、あくびをしながら予防線を張つてゐる。英助はくるり と、電気の方をむいて、「ふん。そんなにくたびれてるのな ら、あの蠣幅傘を抱いて寝りやアいゝンだ。俺は毛布一枚あ れば沢山だよ。玄関で寝るツ」本を力いつぱい英助は壁にぶ つゝけた。力をこめて放つたことが、何年にもない爽快な気 持ちり、〜つた。何年にも、こんな乱暴な事をした事はなかつた のだ.手ごたへのあつた壁を見る。町子は呆れて英助をぢい つとみつめてゐた。何か云ひたい事をこらへてゐるやうに唇 をきつく噛みしめてゐる。町子は石のやうに眼をつぶつてゐ る良人の姿を憎々しげに長い間にらんでゐた。今夜の現実 が、砲弾のやうに、いまはつきりと、お互ひの胸のなかに命 中したのだ。(昭和二十二年十二月十五日)