悪因縁の怨 江見水蔭 一  |天保銭《てんぼうせん》の出来た時代と今と比べると、なんでも大変に相違しているが、地理でも非常に 変化している。現代で|羽田《はねだ》というと直ぐと|稲荷《いなり》を説き、|蒲田《かまた》から電車で六七分の間に行か れるけれど、天保時代にはとてもそう行かなかった。  第一、羽田稲荷なんて|社《やしろ》は無かった。|鈴木新田《すずきしんでん》という土地が開けていなくって、潮の満 干のある|蘆《あし》の|洲《す》に過ぎなかった。 「ええ、羽田へ行って来ました」 「ああ、|弁天様《べんてんさま》へ御参詣で」  羽田の弁天と云ったら当時名高いもので、江戸からテクテク歩き、一日掛りでお参りを したもの。中には二日掛ったのもある。それは|品川《しながわ》の|飯盛女《めしもりおんな》に引掛ったので。  そもそも羽田の弁天の社は、今でこそ普通の平地で、畑の中に詰らなく|遺《のこ》っているけれ ど、天保時代には、|要島《かなめじま》という島に成っていて、|江戸名所図会《えどめいしよずえ》を見ても分る。此地眺望最 も秀美、東は|滄海漫《そうかいまんまん》々として、|旭日《きよくじつ》の|房総《ぼうそう》の山に掛るあり、南は|玉川混《たまがわこんこん》々として清流の |富峰《ふほう》の雪に映ずるあり、西は|海老取川《えぴとりかわ》を隔て云々、大層賞めて書いてある。  この境内の玉川尻に向った方に、|葭簀《よしず》張りの茶店があって、|肉桂《につけい》の根や、煎豆や、駄菓 子や、|大師河原《だいしがわら》の梨の実など並べていた。デブデブ|肥満《ふと》った漁師の|嬶《かみ》さんが、袖無し|嬬袢《じゆぱん》 に腰巻で、それに帯だけを締めていた。今時こんな風俗をしていると警察から注意される が、その頃は|裸体《はだか》の|雲助《くもすけ》が天下の大道にゴロゴロしていたのだから、それから見るとなん でも無かった。 「好い景色では無いか」 「左様で御座います。第一、海から来る風の涼しさと云ったら」  茶店に休んで、青竹の欄干に|凭《よ》りながら、紺地に金泥で唐詩を|摺《す》った扇子で、海からの 風の他に|懐中《ふところ》へ風を|扇《あお》ぎ入れるのは、|月代《さかやき》の|痕《あと》の青い、色の白い、若殿風。|却《なかなか》々の美男子 であった。水浅黄に|沢潟《おもだか》の紋附の|帷子《かたぴら》、|白博多《しろはかた》の帯、|透矢《すきや》の羽織は脱いで飛ばぬ様に刀の 大を置いて、小と矢立だけは腰にしていた。  それに対したのが気軽そうな|宗匠振《そうじようぷり》、|朽色《くちいろ》の麻の衣服に、|黒絽《くろろ》の|十徳《じつとく》を、これも脱い で、矢張飛ばぬ様に|瓢箪《ひようたん》を|重石《おもし》に据えていた。 「宗匠は、なんでも|委《くわ》しいが、チト当社の|通《つう》でも並べて聞かしたら|如何《どう》かの。その|間《うち》には |市助《いちすけ》も、なにか|肴《さかな》を見附けて参るであろうで……」 「ええ、そもそも羽田の浦を、|扇《おうぎが》ヶ|浜《はま》と申しまするで、それで、それ、此地を要島、これ は見立で御座いますな。|相州江《そうしゆうえ》の|島《しま》の|弁財天《べんさいてん》と同体にして、|弘法大師《こうぼうだいし》の作とあります。 別当は|真言宗《しんごんしゆう》にして、|金生山龍王密院《きんしようざんりゆうおうみついん》と号し、|宝永《ほうえい》八年四月、|海誉法印《かいよほういん》の|霊夢《れいむ》に由り ……」 「宗匠、手帳を出して棒読みは恐れ入る。縁起を記した額面を写し立のホヤホヤでは無い かね」 「実は、その通り」  他愛の無い事を云っているところへ、茶店の娘さんが茶を持って来た。 「お暑う御座いますが、お暑い時には、かえってお熱いお茶を召上った方が、かえってお 暑う御座いませんで……」 「酷くお暑い尽しの|台詞《せりふ》だな。しかし全くその通りだ。熱い茶を暑中に出すなんか、一口 に羽田と馬鹿にも出来ないね」 「|能《よ》く江戸からお客様が入らッしゃいますで、|余《あん》まりトンチキの真似も出来ませんよ」 「それは好いけれど、何かこう、茶菓子になる物は無いかえ。川上になるが、|川崎《かわさき》の|万年 屋《まんねんや》の鶴と亀との|米饅頭《よねまんじゆう》くらい取寄せて置いても好い筈だが」 「お客様、御冗談ばかり、あの米饅頭は、おほほほほ。物が違いますよ」 「ははは。羽田なら|船《ふな》饅頭だッけなア」     二  そこへ|中間《ちゆうげん》の市助が|目笊《めざる》の上に芦の青葉を載せて、急ぎ足で持って来た。ピンピン歩 く度に蘆の葉が跳ねていた。 「やア市助どん、御苦労御苦労。何か好い肴が見附かった様だね。藍の下でピンピン跳ね ているのは、なんだろう」と宗匠は立って行った。  かいず                      いしがれ"   したぴらめ 「海鱒ですよ。一枚切りですが、滅法威勢が好いので……それから石鰈が二枚に、舌平目 の小さなのが一枚。|車鰕《くるまえぴ》が二匹、お負けで、二百五十文だてえますから、三百置いて来た ら、|喫驚《ぴつくり》しておりましたよ」 「じゃア丸で只の様なもんだ」  嬶さんは口を出して。 「あれまア、二百で沢山だよ、百文余計で御座いますよ」 「一貫でも、二貫でも、江戸じゃア高いと云われないよ。何しろこのピンピンしていると ころを、お娯さんどうにかして貰えないだろうか」 「一寸|家《うち》まで行って、煮て来ましょうで」 「お前の家まで煮に帰ったのじゃア面白く無い。ここで直ぐ料理に掛けるのが|即吟《そくぎん》で、点 になるのだ。波の花が有るなら石鰈と舌平目は、塩焼にして、海鱒と鰕を洗いというとこ ろだが、水が悪いからブツブツ切りにして、刺身で行くとして、紫は有るまいねえ」 「別当さんのところへ御無心に行って参りましょう」 「そうして貰おう。|御前《ごぜん》、|愚庵《ぐあん》の板前をまア御覧下さい」  この宗匠、なんでも心得ている。持参の|瓢酒《ひようしゆ》で即席料理、魚が新鮮だから、非常に|美味《うま》 い。殊に車鰕の刺身と来たら無類。 「魚は好し、景色は好し、これで弁天様が御出現ましまして、お酌でもして下さると、申 分は無いのだが……」と宗匠は早や酔って来た。 「この上申分無しだと、どこまで酔うか分らない。そうしたら江戸まで今日中には帰られ まい」と若殿は未だ|真面目《まじめ》であった。  茶店のお嬶はこの時口を出して。 「お客様、羽田には弁天様よりも美しいという評判娘がおりますでねえ」 「へえ、そいつは何よりだ。琵琶の代りに三味線でも引いてくれるかね」と市助も少々酔っ ていた。 「いえ、そんな意気筋の女では御座いません。船頭の娘ですがね」 「船頭の娘なら、|頓兵衛《とんべえ》の内のお|船《ふね》じゃア無いか。|矢口《やぐち》もここも、一ツ川だが、年代が少 し合わないね」と宗匠は混ぜ返した。 「お客様、お酒のお相手にはなりませんが、これから川崎まで船をお仕立てなさいますと、 その娘がお供致しますよ」 「女船頭か」 「左様ですよ、大師様へお参りなさるなら、|森下《もりした》まで行きます。それから又川崎の渡し場  はつちようなわて すなぼこり ひろい まで入らッしゃるのなら、お待ち申しておりますよ。八町畷を砂ッ塵でお徒歩になりま すより、|矢張《やつぱり》船を待たして置いてお乗りになれば、この風ですから、帆も利きます、訳無 く行って|了《しま》いますよ」 「成程なア、それは妙だ」 「川崎の本街道へお出ましになれば、馬でも、|駕《かご》でも御自由で……」  今なら電車も汽車も自動車もと云うところだ。 「いよ、それに限る。それで弁天様よりも美しい娘なんだな」 「左様で御座いますよ。色は少し黒う御座いますがね」 「それはどうも仕方が無い。御前、|如何《いかが》です、そう致そうじゃア御座いませんか」 「美人はともかく、船で川崎まで|溯《のぼ》るのは思いつきだ。早速、その用意をして貰おう」 三  お|嬶《かみ》が呼びに行ったが、間もなく帰って来て、 「じきに参ります。船をここのすぐ下まで廻させます。お値段のところは、お分りになっ ている旦那方ですから、わざッと極めて参りませんでしたから、そこは宜しい様に……」 「や、魚の買振りで、すッかり|懐中《ふところ》を|覗《のぞ》かれたね。その分で茶代もハズムと思っていると |大当違《おおあてちが》いだよ」と宗匠は引受けて弁じ立てた。  そこへ早や一隻の|荷足《にた》り|船《ぷね》を漕いで、|鰕取川《えぴとりがわ》の方から、|六郷《ろくユごつ》川尻の方へ廻って来るのが 見えた。 「あれだな」と若殿が扇子で指した。 「左様で。あれで御座います、近くなる程綺麗に見えます」 「遠くでも光って見えるね」と又しても宗匠が口を出した。 「あの|艪《ろ》を漕ぐ腰ッ振が好う御座いますね」と市助までが黙ってはいなかった。 「あなた方、前以てお断りして置きますが、あれで色気と云ったら|些《ちつ》ともありません。|冗 戯《じよちだん》が|執拗《しつこ》いと直き腹を立てまして、なんでも、江戸の|鳶《とび》の衆を、船から二三人|櫂《かい》で以て叩 き落したと云いますからね。あなた方にそんな事も御座いますまいが、どうかそのおツモ リで」 「そいつは大変だ」 「それで気は優しくッて、|名代《なだい》の親孝行で御座います」  そう説明している|間《うち》に、早や船は岸のスレスレに|青蘆《あおあし》を分けて着いた。  青い二ツ折の編笠に日を|避《よ》けていた。|八幡祭《はちまんまつり》の揃いらしい、白地に荒い|蛸絞《たこしぼ》りの浴衣 に、赤い帯が嬉しかった。それに浅黄の|手甲脚半《てつこうきやはん》、|腰蓑《こしみの》を附けたのが滅法好い形。  だが、|肝腎《かんじん》の顔は見え無かった。 「お嬶さん、毎度、お客様を有難う」と船の中から挨拶したその声が又|如何《いか》にも清らであっ た。 「有難い有難い、これが本統の渡りに舟だ。さア御前、御出立と致しましょう。ここの取 りはからいは万事愚庵が致しますから、さアさアお先へお先へ」と宗匠は若殿を押し|遣《や》る 様にした。 「しからば参ろう、茶店の者、|手数《てかず》を掛けたな」  若殿は羽織を着て、大小を差し直し、|雪駄《せつた》を|穿《は》いて、扇子で日を|避《よ》けながら茶店を出た。 「御機嫌よろしゅう」と茶店の女房が送るのを後にして、供の市助と共に川岸に出て、青 蘆を分けて船の胴の間に飛ぶと、船は動揺して、浪の音がピタリピタリ。蘆の根の|小蟹《こがに》は 驚いて、穴に|避《に》げ入るのも面白かった。  その船を岸から離れぬ様に櫂で突張っている女船頭は、客人が武家なので、編笠を冠っ ていては失礼と、この時すでに取っていたので、能くその顔は武家の眼に入った。  成程、弁天様より美しい。色は浜風に少しは焼けているが、それでも生地は白いと見え て、浴衣の合せ目からチラと見える胸元は、磨ける白玉の|艶《つや》あるに似たり。それに髪の濃 いのが、|一入《ひとしお》女振を上げて見せて、無雑作の|櫛巻《くしまき》が、|勿体《もつたい》無いのであった。  若殿は|悦惚《うつとり》として、|見惚《みと》れて、|蓙《ござ》の上に敷いてある|座蒲団《ざぷとん》に、坐る事さえ忘れていた。  そこへ、梨の実を手拭に包んで片手に持ち、残る片手に空の瓢箪を持って、宗匠も乗込 んで来た。 「惜しい事をしましたね。こうと寸法が初めから極っていたら、|酒肴《さけさかな》は船の中で開くん でしたね。美しい|姐《ねえ》さんに船を漕いで貰う、お酌もして貰う、両天秤を掛けるところを、 肴は骨までしゃぶッて、瓢箪は一滴を|留《とど》めずは情け無い。と云って、羽田の悪酒を詰める でもありませんから、船中では|有《あり》の|実《み》でも|噛《かじ》りましょう。食いさしを川の中へ捨てると、 |蝕歯《むしぱ》の痛みが|留《とま》る|呪法《まじない》でね」  一番酔っているだけに、一番又能く|喋《しやべ》っていた。 「お客様、もう出しますよ」と女船頭の声。 四 「どうも万事がトントン拍子、この風に白帆を張って川上に|溯《のぼ》るのは、なんとも云えませ んな。おやおや、弁天様のお宮の屋根が蘆の穂のスレスレに隠れて、あの松林よりも|澪《みお》の 棒杭の方が高く見えますな。おや川尻は、さすがに浪が荒い、|上総《かずさ》の山の頂きを見せつ隠 しつは妙々。姐さん、|木更津《きさらづ》はどっちの見当かね」と宗匠は相変らず能く|喋《しや》べった。 「木更津は|巳《み》の方角ですから、ちょうどこうした見当で御座います。海上九里と申します が、風次第でじきに行かれます」と娘は手甲に日を受けながら|指示《さししめ》した。  |中間《ちゆうげん》の市助は|艫《とも》の方に控えながら。 「宗匠、後ばかり見ねえで、まア|先手《さきて》の川上をお見なせえ。羽田の漁師町も川の方から見 ると縞麗だ。それに|餓鬼《がき》どもが飛込んで泳いでるのが面白い」 「先の方を見ると、大師様の御堂の御屋根が見えるくらいで、何んの変哲もないが、後の 方をこうして振向いていると、弁天様の松林が、段々沈んで行くのが見えて嬉しい」 「なに、生きた弁天様のお顔が拝みたいのでしょう」 「実は金星、大当りだ。はははは」  二人が他愛も無い事を云って笑い騒ぐのに、若殿のみは一人沈黙して、張切った帆の面 をただ見詰めていた。その帆の破れ目から、|梶座《かじざ》にいる娘の顔を、ただ一心に|凝視《みつ》めてい た。  宗匠が持込んだ梨の実と空瓢箪とが、船のゆれに連れてゴロゴロ転がって、鉢合せをす るのを、誰も気が着かなかった。  だが、帆の破れ目からチラチラ見るくらいでは物足りぬ。|傍近《そぱちか》く見もし又語りもしたい ので。 「宗匠、この胴の間は乗心地は好いに違いないが、西日が当ってイケない。同じくは艫の 方へ移って帆を自然と日避けにしたいものだが」と若殿は云い出した。 「なる程、それが宜しゅう御座いましょう。さアこちらへ……こうなると市助どん、お前 は邪魔だから、|舳《へさき》の方へ行っていなさい」  中間こそ好い面の皮。 「ねえ、御前、故人の句に御座いますね。涼しさや帆に船頭の散らし髪。これはしかし、 千石船か何かで、野郎の船頭を詠んだので御座いましょうが、川船の女船頭が、梶座に腰 を掛けているのに、後から風が吹いて、アレあの様に|乱《ほつ》れ|毛《げ》が頬に掛るところは、なんと も云えませんな。そこで、涼しさや頬に女船頭の乱れ髪。はははは字余りや字足らずは、 きっと後世に|流行《はや》りますぜ」  相変らず宗匠、駄弁を|弄《ろう》している間に、酔が好い心持に廻ったと見えて、コクリコクリ。 |後《のち》には胴の間へ行って到頭横になって|了《しま》った。  宗匠の坊主頭と、梨の実と、空瓢箪と、|眉間尺《みけんじやく》の三ツ巴。コツンコツンを盛んにやった が、なかなかに覚めなかった。  市助も舳で好い心持に寝て了った。  若殿と女船頭とただ二人だけ起きているのが、どちらからも口を利かないから、静かな ものだ。  蘆間の|仰々子《ぎようぎようし》もこの頃では大分鳴きつかれていた。 「姐さん……」 「はい……」 「お前の名は何んと申すか」 「……|玉《たま》と申しますよ」 「お玉だね……玉川の川尻でお玉とは好い名だね。大層お前は親孝行だそうだね」 「いいえ……嘘で御座いますよ」 「両親は揃っているのかい」 「いいえ、母親ばかりで御座います」 「それは心細いね。大事にするが好い」 「まア出来るだけ、楽をさしたいと思いますが……餌掘りや|海苔《のり》拾い、貝を取るのは季節 が御座いますでね、稼ぎは知れたもので御座います」 「でも、こうして船を頼む人が多かろうから……」 「いいえ、|偶《たま》にで御座いますよ。日に一度|宛《ずつ》お供が出来ますと好いのですが、月の内には 数える程しか御座いませんよ」 「それでは困るねえ、早く|婿《むこ》でも取らなくッちゃア……」 「あら、婿なんて……」 「だッて、一生独身で暮らされもしなかろう」 「それはそうで御座いますが、私、江戸へ出て、奉公でもしたいと思っております」 「奉公は好いな。どうだな、武家奉公をする気は無いかな」 「私の様な者、とても御武家様へはねえ……こちらで置いて頂きたくッても、|先方様《さきさま》でね え」 「いいや、そうで無いよ。お前の様な|美顔《きりよう》で、|心立《こころだて》の好い者は、どのくらい武家の方で満 足に思うか分らない」 「おほほほほ、お客様、お|弄《なぶ》りなさいますな」 「いや、|本統《ほんとら》だよ、奉公どころか、嫁に欲しいと望む人も出て来るよ」 「おほほほほ、私、羽田の漁師を亭主に持とうとも思いませんが、御武家様へ縁附こうな んて、第一身分が違いますでねえ」 「身分なんて、どうにでもなるもんだよ。仮親さえ|拵《こしら》えればね」 「……ですが……私はとても、そんな出世の出来る者では御座いません」と急にお玉は|打 萎《うちしお》れた。  若殿の心の帆は張切って来た。 「いや、そんな事はどうにでもなるんだよ。とにかく、どうだね、身が屋敷へ腰元奉公に 来る気は無いか」 「えッ、御前の御屋敷へ?」  とんと洲へ船を乗上げた。話に実が入って梶を|取損《とりそこな》ったからであった。  市助まず|喫驚《ぴつくり》して飛起きると、舳を蘆間に突込んだ|拍子《ひようし》に、蘆の穂先で鼻の孔を突かれ て。 「はッくしょイ」  宗匠は又坊主頭を蘆の穂先で|撫廻《なでまわ》されて。 「梨の実と間違えて、皮を|剥《む》いちゃア困ります」と|寝惚《ねぼ》けていた。        五  やがて船を大師河原の岸に着けた。 「さて、ここが森下というのだね。|平間寺《へいけんじ》へ御参詣、|厄除《やくよけ》の御守を頂きにはぜひ上陸|然《しか》る べし。それから又この船で川崎の渡場まで参りましょう」と宗匠はさきに身支度した。  中間市助は、早や岸に飛んで、そこに主人の|雪駄《せつた》を揃えていた。  それで未だ若殿は立上りそうも無いのであった。 「痛ッ、痛ッ、どうも腹痛で……」と突然言い出した。 「えッ、御腹痛、それには幸い、大森で求めた|和中散《わちゆうさん》を、一服召上ると、|立地《たちところ》に|本腹《ほんぶく》致 しまする」と宗匠、心配した。 「いや、大した事でも無い。少しの|間《うち》、休息致しておれば、じき平癒致そうで……どうか 身に構わず行って下さい」 「でも、|御前《ごぜん》がお|出《い》でが無いのに、我々で参詣しても一向|興《きよう》が御座いませんから……」 「いや、遊びの心で参詣ではあるまい。大師信心……どうか|拙者《せつしや》の代参として、二人で行っ て貰いたい」  中間市助、宗匠の袖を引いて。 「それ、御代参で御座いますよ。宗匠、分りましたか。二人は御代参……ね、厄除の御守 りを頂くので御座いますよ」と|目顔《めがお》で注意を加えた。 「な、な、な、なる程、や、確かに二人で代参致しましょう。厄除けでげす、女難除けが 第一で。へへへへ、急いでゆッくり、お参りをして戻りましょう」と宗匠呑込んだとなる と、無闇に呑込んで了うのであった。  市助と連立って畑の中を大師の方へと行って了った。今ではこの辺、人目が多い。第一 に、工場が建って、岸に添うて人家もあれば、運送船も多く|繋《かか》っているが、その頃の寂し さと云ったら無いのであった。それに、川筋も多少違い、|蘆荻《ろてき》の繁茂も非常であった。  女船頭のお玉は心配して。 「旦那様、|酷《ひど》くお|腹《なか》が痛みますなら、冷えると余計悪くなりますので、河原の石でも焼い て、間に合せの|温石《おんじやく》でもお当てなさいますか」と親切は|面《おもて》に現われた。 「いや、それ程でも無い。少しここで休んでいたら、納まりそうだが、帆を下して了った ので、日避けが無くなった。どこか日蔭へ船を廻して貰いたいな」 「それでは、中洲の蘆の間が好う御座います。洲の中には|船路《ふなみち》が掘込んで御座いますから、 ズッと中まで入れますで」 「だと、人も船も蘆の間に隠れて了うのだね」 「左様で御座いますよ」 「それは好い|隠家《かくれが》だ。早速そこへ船を廻して貰いたいな」  岸から船を離して艪を漕いで中洲の蘆間に入ったのを、誰も見ている者は無かったが、 |喫驚《ぴつくり》したのは|葭原雀《よしきり》で、パッタリ、鳴く音を留めて了った。  中洲の掘割の水筋に、船は入って見えなくはなったが、その過ぎるところの蘆の穂が、 次ぎから次ぎと動揺しているのだけは見えていた。  その|留《とま》ったところに、船は|繋《かか》ったのであろう。葭原雀は又しても|囀《さえず》り出した。  海の方からして、真黒な雲が出て来たと思うと、|早手《はやて》の風が吹起って、川浪も立てば、 穂波も立ち、見る見る昼も夜の如く暗くなって、大夕立、大|雷鳴《かみなり》。川上の矢口の渡で|新田 義興《につたよしおき》の亡霊が、|江戸遠江守《えどとおとうみのかみ》を|震死《しんし》せしめた、その大雷雨の時もかくやと思わしめた。 六 「仏罰恐るべし恐るべし。女難除けの御守を代参で受け様なんて、御前の心得方が違って いるので、|忽《たちま》ちこの大夕立だ。田を三廻りの神ならばどころでないね。しかし我々は百姓 |家《や》に飛込んで、雨宿りは出来た様なものの船ではどうも仕様が無かったろう」と宗匠は雪 駄を市助に持って貰い、脱いだ足袋を自分で持って、裾をからげながら|田甫路《たんぼみち》を歩いた。 「どうせお|旦那《だんな》はお|濡《ぬ》れなさいましたよ。どうしても|清元《きよもと》の|出語《でがた》りでね、役者がこちとら と違って、両方とも好う御座いまさア」と市助も|跣足《はだし》で夕立後の|道悪《みちわる》を歩いて行った。 「よもや、鳶の者の二の舞はなされまい。何しろ御旗本でも御裕福な|六浦琴之丞《むつうらきんのじよう》様。先殿 の御役目が好かッたので、八万騎の中でも大パリパリ……だが、これが悪縁になってくれ なければ好いが、少々心配だて」 「宗匠、大層、月並の事を|仰有《おつしや》いますね」 「何が月並だよ」 「だって、|吉《よ》かれ|凶《あ》しかれ|事件《こと》さえ起れば、あなたの|懐中《ふところ》へお宝は流れ込むんで」 「金星、大当りだ。はははは」  笑いながら土手の上に出て見ると、そこには船は見えなかった。 「おや、今の夕立で船が沈んだか。それとも|雷鳴《かみなり》が落ちて、|微塵《みじん》になったか」 「そんな事はありませんや。どこかへ|交《かわ》しているんでしょう。なにしろ呼んで見ましょう」 「なんと云って呼ぶかね。羽田の弁天娘のお玉の船やアーい、か」  二人が土手で騒いでいる声を聴いて、中洲の蘆間を分けて出て来たのは、|苫《とま》の代りに帆 で屋根を張った荷足り船で、艪を漕いでいるのは、弁天娘のお玉だが、若殿六浦琴之丞の 姿は見えなかった。 「宗匠、いよいよ|遣《や》られましたぜ。鳶の者が櫂で叩落されたと同じ様に、御前も川ヘドブ ンですぜ。|肱鉄砲《ひじでつぼう》だけなら好いが、水鉄砲まで食わされては|溜《たま》りませんな」 「そんな事かも知れない。若殿の姿が見えないのだからな」 「こうなると主人の|敵《かたき》だから、|打棄《うつちや》っては置かれない。宗匠も助太刀に出て下さい」 「女ながらも強そうだ。返り討は下さらないね」  そう云っているところへ、船は段々近寄って来た。 「娘の髪が余りキチンとしていますぜ。|些《ちつ》とも乱れていませんが、能く蘆の間で|引懸《ひつかか》らな かッたもので」 「巻直したのだろう」 「濡れていませんぜ」 「|当前《あたりまえ》さ、帆で屋根が張ってあるから大丈夫だ」 「おやおや、帆屋根の下に|屍骸《しがい》がある。若殿が殺されていますぜ」 「なに、寝ていらッしゃるんだろう」 六浦琴之丞、起上って極り悪るそうに、帆の下から顔を出して。 「えらい夕立だッたね」  こちらの二人は顔を見合せて。 「まア好かッた。しかし、顔色がお悪いね。未だ御腹痛かも知れない」 「腹痛に雷鳴に女船頭、三|題噺《ぱなし》ですね」と|囁《ささや》き合った。 七  秋晴の気も爽やかなる日に、羽田要島の弁天社内、例の茶店へ|入来《いりきた》ったのは、俳譜の宗 匠、|一水舎半丘《いつすいしやはんきゆつ》。 「お|嬶《かみ》さん、いつぞやは世話になった」と裾の塵を払いながら、|床几《しようぎ》に腰を掛けた。 「おや、今日は御一人で御座いますか。この夏には余分にお茶代を頂きまして……」と嬶 さんは|世辞《せじ》が好い。 「や、お嬶さん、今日は一人で来たけれど、お茶代はズッと張込むよ。小判一枚、投げ出すよ」 「へへへへ、どうか沢山お置き下さいまし」 「いや、冗談じゃア無い、真剣なんだ。その代り|悉皆《すつかり》こっちの味方になって、大働きに働 いて貰わなければならないんだがね」 「へえ、お宝になる事なら、どんなにでも働きます」 「実は、例の羽田の弁天娘、女船頭のお玉に就いてな」 「分りましたよ。どうもそんな事だろうとこの間|内《うち》から察しておりましたよ。お玉坊がブ ラブラ病。時々それでも私のところへだけは出て来ましてね。この間の御武家様は、未だ 入らッしゃらないかッて、私を責めるんですから困って了います」 「お玉坊がブラブラ病とは不思議だね。実はこちらでも若殿がブラブラ病。ブラとブラと の鉢合せでは|提灯屋《ちようちんや》の店へ|颶風《はやて》が吹込んだ様なものだ」 「なんですか知りませんが、あれは本物で御座いますよ。初めて男の優しさを知ったので 御座いますからね。でもお玉が惚れるのも道理で御座いますよ。あんな立派な殿様は、羽 田の漁師町にはありませんからね」 「それは無いに極っている」 「似合の二人、どうにかして夫婦にして遣りたいと思いますが、何分にも身分が身分です からね」 「それなんだ。そこがどうにも行悩みだが、|御隠居《ごいんきよ》奥様も|大層《たいそう》物のお分りになった方だし、 御親類内にも|捌《さぱ》けた方が多いので、そんな訳なら、とにかく、屋敷へ呼寄せたい。母親の |生活《くらし》は又どうにでもしてやると、親元には相当の人を立て、そこから改めて嫁入り……と、 まア、そこまで行かない分が、二千八百石御旗本の|御側女《おそぱめ》になら、今日が今日にでも成ら れるので、支度料の二百両、重いけれど愚庵は、これ、ここに入れて来ているのだがね」 「それはどうも有難う御座います」 「待ってくれ、礼には早い」 「左様ですか」 「若い同士二人でモヤモヤしている|間《うち》は、顔が美しくッて、気立が優しくッて、他に浮気 もせず、殿を大事にさえしておれば、好いに相違無いが、いずれは二人の間に、子宝が出 来ると考えなければならない」 「それはそうで御座いますよ。あの娘は、六人や七人は大丈夫産みますね」 「その時にだ、|能《よ》くある|奴《やつ》で、元の身分を洗って見ると、一件だッてね」 「一件?」 「一件で無いにしたところで、|癩病《なりんぼう》の筋なんか全く困る」 「それはそうで御座いますねえ」 「どうも世継の若様が眉毛が無くッては、二千八百石は譲られない」  家の相続、系統上の心配は、現代の我々が想像出来ない程昔は苦労にしたもので、|断家《だんけ》 という事は非常に恐れていた時代だから、血統に注意するのは無理では無かった。 「そこで、念には念を入れて、身元を洗って来てくれ。これは金銭に換えられぬ家の一大 事だからと、御隠居奥様から、入用として別に頂いて来ているので、それを残らずお前に 上げては、愚庵も困る。そこで、お嬶さん、何もかも打明けての話なんだ。お前を味方と 抱き込んでの話なんだ」 「へえへえ、いくらでも抱き込まれますよ」 「そんなに傍へ寄って来なくッても好い。そこでお娯さん、愚庵の|立前《たちまえ》を引いて、お前さ んに、小判で十両上げよう」 「小判十両! 結構で御座います」 「まアお待ちよ。この十両はだね、この十両は巧く話が|纏《まと》まったら、御礼として上げるの だよ」 「だと、話が纏まらない時は、頂け無いのですか」 「そこだよ。愚庵も江戸ッ子だ。話がバレたとしても十両上げるよ」 「だと、お玉坊の本統の身元を申上げて、それが為にバレになりましても、十両……」 「その代り、話が纏まっても十両、どっちへ転んでも十両で、お前に損は無いのだから、 本統の事さえ教えて貰えば好いのだよ。|嘘偽《うそいつわ》りを教えられたのでは後日になって、愚庵が 申分けが無い。申分けが無いとなると、切腹するより他には無いのだが、同じ死ぬのなら お前のドテッ腹へ風穴を|穿《あ》けて、屍骸が|痩《や》せるまで血を流さした上で、覚悟をする」 「いえ、正直のところを申しますよ。決して嘘偽りは申しません。本統の事を申しますよ」        八 「さア、それでは、小判で十枚……その代り茶代に一両置くと云ったのは取消すよ」と一 水舎半丘、なかなかズルイ。 「ええ、もう沢山で御座います。十両の金は我々に取っては大変な物で御座いますよ。早 速|亭主《うち》の野郎に見せて腰を抜かさして遣ります」と嬶さんは急いで小判を|納《しま》い出した。 「そこでどうだい、一件の家筋、非人の家筋という心配は無いかね」 「そんな事は御座いませんよ。一件でも非人でも、そんな気は|些《ちつ》ともありませんから、そ の方は|請合《うけあい》ます」 「やれ、それで一安心。そこで、肝腎の血の筋だ。|癩病《なりんぼう》の方はどうだね」 「その方は大丈夫です。あの家には昔から悪い病のあったという事を聞きません。あの家 に限らず羽田には、そんな血筋は無い様で……私だッて大丈夫で」 「分った分った、それならもう心配する事は無い」 「それがね、ただ一ツ御座いましてね。いえ、隠しても直ぐ分る事で御座いますから、あ の娘に取ってはまことに気の毒ですが、余り知れ切った話ですからね、申しますがね」 「ふむ、なんだい、どんな|曰《いわ》くが有るんだね」 「あの娘の|父親《てておや》は、名代の海賊で御座いました」 「えッ、海賊?」 「|竜神松五郎《りゆうじんまつごろう》と云って、|遠州灘《えんしゆうなだ》から|相模灘《さがみなだ》、江戸の海へも乗り廻して、大きな仕事をし ていましたよ」 「おう、竜神松五郎と云ったら、|和蘭船《おらんだぷね》の帆の張り方を知って、どんな逆の風でも船を走 らして、出没自在の海賊の|棟梁《とうりよう》、なんでも|八丈島《はちじようじま》沖の無人島で、黒船と取引もしていたッ てえ、あ、あ、あの松五郎の娘……あの松五郎の娘が、お玉だッたか」 「それで御座いますよ。その松五郎も運の尽きで、二百十日の夜に|浦賀《うらが》の船番所の前を乗 切る時、|莨《たぱこ》の火を見られて、船が通ると感附かれて、木更津沖で追詰められて、到頭子分 達は召捕りになりましたが、松五郎ばかりは五十貫もある異国の|大錨《いかり》を身に巻附けて、海 へ飛込んで死んで了いましたので、未だその他に|同累《どうるい》も御座いましたのですが、それはお 調べにならないで了ったそうで……」 「竜神松五郎の娘。|嗚呼《ああ》、あのお玉が海賊の娘かい……どうもこれは飛んでも無い事が出 来て了った」 「ねえ、先生、それはそうで御座いますが、どうにかそこがならない者で御座いましょう か。|父親《てておや》は海賊でも、母親は善人で御座いましてね、それにあの通り娘は出来が好いので 御座いますから、これは私の|慾得《よくとく》を離れて、どうにか纏めて遣りたいもので御座いますが ……」 「それがどうもそう行かない。や、行かない訳が有るんだ。なるべくなら愚庵も纏めて遣 りたい。又六浦家の方でも、ナニ海賊なら大仕掛で、同じ泥棒でも好いよと、マサカ|仰有《おつしや》 りもしないが、そう仰有ったところで、娘の方で承知出来ない」 「へえ、それはどういう訳で御座いますか」 「その海賊竜神松五郎を|退治《たいじ》た浦賀奉行は、六浦の御先代、|和泉守友純《いずみのかみともずみ》様だ」 「えッ」 「琴之丞様の父上が御指揮で、海賊船を木更津沖まで追詰めて、竜神松五郎に自滅をおさ せなさったので、それが為に五百石の御加増まで頂いていらッしゃるので、お玉の父の敵 は琴之丞様の御父上、敵同士の悪縁だから、纏まりッこは無い」 「なる程、それじゃア夫婦にはなれませんや」  悪縁というのは正しくこれだ。今の若い人の考えで見ると、恋愛は神聖だ。親と親とが、 どんな関係だろうが、子は子で又別の者だ。互いに愛し合っているのに不思議は無い。早 速自由結婚をしよう、戸籍面なんかどうでも好いという風に、ドシドシ新解釈で運んで了 うが、天保時代にはとてもそうは行かなかった。  金儲けになる事だから、どうにかして纏めたいと考えたのだが、こればかりはどうにも ならぬので、宗匠と茶店の嬶さんと顔を見合せて、溜息を|吐《つ》くばかり。  此時、|葭簀《よしず》の陰で、不意に女の泣声がした。|喫驚《びつくり》して見ると、それはお玉。 「まアお玉さん、聴いていたかい。まア能く三人で相談を仕直すから、こちらへお出で」 と、嬶さんが云うのも|肯《き》かず、そのまま走り出した。 「や、飛んだ事になったね。早く行って留めなければ身を投げて死ぬかも知れないね」と 半丘も顔色を変えた。 「なに、泳ぎが出来るから、身は投げませんよ。投げても浮いて死なれやアしません」 これは|道理《もつとも》だ。 九  一水舎半丘の報告は、どの位琴之丞をして失望せしめたか分らなかった。病気は益々悪 くなって来た。六浦家の|後室《こうしつ》始め、一門の心配は|一通《ひととお》りではなくなった。 「どうも半丘宗匠の取調べが物足りねえ様に私は考えます。なる程お玉という娘の父親は 竜神松五郎という海賊かも知れませんが、そんな奴には|種《いろいろ》々又|魂胆《こんたん》がありまして、人の知 らねえ|機関《からくり》も御座いますから、|再調《さいしら》べの役目を|私奴《わたくしめ》にお|云附《いいつ》け下せえまし」と中間市助 が願い出た。 「なる程、それはそうだ。ではも一度調べて見てくれないか」  こいつも運動費をウンと貰って、飛出して行った。他へは行こう筈がない。|矢張《やはり》弁天社 内の茶店であった。 「おや|入《い》らッしゃいまし。どうも飛んだ事で御座いましたねえ」と|嬶《かみ》さん未だに以て、ガッ カリしていた。 「お嬶さん、今度は私が調べに来たんだ。礼はウンと出すよ。宗匠は何程出したか知らね えが、この市助はケチな上前なんか跳ねやアしねえ。五十両出すよ、五十両」 「それがねえ、五十両が百両お出しになりましても、いけないので御座いますよ」 「いけねえのは分っているが、そこを活かすのが市助の智謀なんだ。お前にしろ、宗匠に しろ、正直だからいけねえのだ。俺に法を書かせるとこういう筋にするんだ。好いかい、 先ず羽田で一番慾張りで年を取った者を味方に附けるんだ。その年寄にお玉の素姓を問合 せて見たところが、その年寄の云うのには、あれは松五郎の実の娘では御座いません。こ れには一条の物語が御座いますと云わせるんだ」 「ああそんな役廻りなら、宅の隠居をお遣い下さいまし。慾張りでは羽田一番ですから」 「そこで、その一条の物語というのを書卸すのだがね。竜神松五郎が房州沖で、江戸へ行 く客船を|脅《おびや》かして、|乗組《のりくみ》残らず|叩殺《たたきころ》したが、中に未だ産れ立の赤ン坊がいた。松五郎の 様な悪人でも、ちょうど自分の女房が産をする頃なので、まア、それに引かされて連れて 帰って見ると、自分の子は死んで産れたところで……これこそ虫が知らせたので、ちょう ど好い。産婦に血を|上《あが》らしてはいけねえと、連れて来た赤ン坊を今産れたと偽る様に産婆 と腹を合せてその場を|繕《つくろ》ったのが今のお玉。実のお|母親《ふくろ》の気でいても全くは他人、この魂 胆を知っているのは松五郎の生前に聴いた|俺《おれ》ばかりだ……とお前のところの隠居に云わせ るのだ」 「お前さんは実に偉い。|智慧者《ちえしや》だねえ。そうすればお玉さんは松五郎の子で無いのだから、 |敵《かたき》同士の悪縁という方は消えて了うね」 「そうだよ。それで双方申分が立つてえものだ。なアにどっちからも|惚《ほ》れ合っているのだ から、こいつは少々怪しいと思っても、筋さえ立っている分には、それで通して了おうじや アねえか。人間このくらいな細工をするのは仕方がねえよ。嘘も方便で、仏様でも神様で も、大目に見て下さろうじゃアねえか」 「では早速そういう事に取掛るに就ては、内の|老爺《おやじ》をここへ呼んで来ますよ」 「その|序《つい》でにお玉坊のところへも|一寸《ちよつと》立寄って、悪い様にはしねえ。近い内に好い便りを 聴かせるから、楽しみにして待っていねえと、そう云って喜ばして置くが好いぜ」 「ああそうしましょう」 「留守の|間《うち》に店の菓子を片っ端から食べるが好いかい」 「好いどころじゃア無い、前祝いに一升|提《さ》げて来ますよ」 「有難い。魚は|海鱒《かいず》も結構だッたが、子持の蟹が有ったら二三バイ頼むぜ」 「好う御座んす。探して来ましょう」  慾に目の|眩《くら》んだ茶店の嬶さんは、駈出して行った。 「これせえ纏まれア、御主人もお喜び。お玉坊だッて喜び、俺達も甘え汁が吸えるという ものだ。我ながら好い智慧を出したものだ」  市助はもう物になった了簡。煎豆をボリボリ|噛《かじ》って待っているところへ、顔色を変えて 嬶さんが戻って来た。 「どうしたい」 「大変です」 「何が大変だ」 「死にましたよ」 「お前の|老爺《おやじ》が死んだのか」 「なアに、家の老爺はピンピンしていますが、大事なお玉さんが血を吐いて死にましたよ」 「えッお玉坊が死んだ?」  血を吐いて死んだというのは肺病であったかも知れぬ。肺病なら矢張今日では|癩病《らいぴよう》に 次いで嫌われるのだが、その頃には一向問題にしていなかった。 「一足違いだッた。その事を聴かしたら病気も|快《よ》くなって、死なずに出世も出来たろうの に……」  慾は慾として、あわれ薄命なお玉の為に茶店のお嬶は泣いた。市助も泣いた。  海賊の娘は遂に旗本の奥方になり得ずして死んだ。  その墓は、|朗羽山長照寺《ろううざんちようしようじ》内に建てられた。六浦琴之丞は、一水舎宗匠及び市助と共に、 一度墓参に来たが、間もなく又琴之丞も吐血して死んで、六浦の家は断絶して了った。琴 之丞の肺病がお玉に感染したのか、お玉の方にその気があって感染したのか、そこは不明。  六郷川の中洲の蘆間にただ一度の|契《ちぎ》りから、海賊の娘と旗本の若殿との間に、|業病《ごうぴよう》の 感染。|悪因縁《あくいんねん》の|怨《うらみ》は今も|仰々子《ぎようぎようし》が語り伝えている。