高砂屋浦舟著『江戸の夕栄』大正十一年四月十八日発行 著作兼発行者 鹿島萬兵衛 発行所 紅葉堂書房 自序 私は嘉永二年戊酉十一月、江戸堀江町四丁目(今の三番地)に|生声《うぶごゑ》を上げたのであります。そ れより大正七年四月まで同所に住居してをりました。この間足掛け七十年余り、短かくはありま せん。産れてから十歳(安政五年)ぐらゐまでは、茫として夢のごとく記憶してをりましたもの もございましたが、後に両親や老人等に聞いて思ひ起しましたこともございました。十歳以後は 記憶もやうやく|慥《たしか》になつてまゐりました。御維新の時(慶応四年)は二十歳でございましたゆゑ、 幕末より王政の始めに見聞したことは大概に覚えてをります。今日上野の戦争当時のことはとに かく、西南戦争前後のことはどなたも御存じのもののやうに思つてをりましたが、よくよく考へ てみますれば熊本籠城は既に四十五年にたりますから、それを覚えてゐらつしやいます方は少な くも五十四五歳六十に近きお方でなくてはならぬ、さすれば明治以前のことを御見聞なさつた方 の少なきは当然で、私も甚だ心細くなつてまゐりました。本所や深川へ車の通行を許さなかつた と言へば、そんな不自由なのでしたか、と詰らぬことも今日は珍らしくお聞きになる方もござい ますゆゑ、江戸の末年より明治の始めに至る記憶のままを書き並べ、江戸の|夕栄《ゆふぱえ》と名づけ一小冊 に綴りました。お若い方々の御参考にもならば甚だ満足に存じます。特にお断り申し上げますは、 元来無学の私、文章の不整は勿論、間違ひの点も少なからぬやも存じませぬが、お気付きのこと がございましたら御注告願ひ上げます。訂正してなるたけ間違ひ少なきものとして残し置きたい と存じます。 大正十年九月 府下大崎町の寓居にて 高砂屋浦舟記す 江戸の夕栄目次 第一章 江都の府政 自身番 出火 火事の焼跡 鳶の内職と本職 家屋及び土蔵 町内の若衆頭 喧嘩 伊勢屋 稲荷 犬の糞 不潔の都府 通貨及び両替商 為換両替店 菱垣廻船問屋及び樽船問屋 十組諸問屋 正月初荷 江戸湾内及び各河川運漕船 奥川筋運漕船 慶応元年頃江戸諸商店 江戸草分けの問屋業 幕府献納金及び御用金 飛脚屋 第二章 日本橋魚市場 見附及び辻番所 江戸に二つなきもの 迷子探し 京橋の四方蔵 引廻しと叩き放し 遊女の強盗と拷問に堪へて大赦に逢ふ 御老中の印形の紐 富士見御金蔵の窃盗 幕末鉞強盗 日本橋の曝場 流行の神仏 千杜札及び楽書 縁日商人及び植木屋 能楽 相撲 芝居及び芝居茶屋 木戸芸者と合羽 猿若町三芝居出勤役者人名 納涼 花及び花園 府下の名園 ばからしき江戸名所 江戸の髪切り 盆踊り 江戸内の人口 寄席 軍談定席 講談師 落語家 講釈場及び野天講釈 大道芸人及び商人 砂絵 住吉踊り 一人角力 長井兵助居合抜 大道芸人の内 心太寒天の曲突き 竹田機関 願人坊主 乞食芝居 江戸と横浜と始めての汽船 船律 官船火輪飛客船 第三章 江戸ッ子に二種類あること 蔵前の札差業 武家の内職 徳川将軍御成 他国に類なき江戸渋味の食物 料理店 江戸の交通機関、船、駕籠 輿、辻駕籠 荷車及び牛車 芸妓娼女 四大橋 府内飲料水道、神田上水、玉川上水 蠣殻町の今昔 維新前後の兜町付近 兜神杜の勧進状 通商司為換会杜と東京商杜 お名目金貸付所 江戸横浜生糸荷為替組合開始 佐野松御紋章の御咎め 大芝居は猿若町三座に限る 浅草奥山の音吉いか蔵芝居 第四章 府内武家の行列と抜参宮 厄払ひ 節季候 鳥追 寒中の裸参り 宝船売り 年礼者の泥酔 府内外の別荘地 医者 幕府御抱へ医師 葬礼 東錦絵 最下級の淫売 姣童 遊芸の師匠 書家画家 安政二年大地震要略 自然の飛行機 お札降る 貧窮組の打壊し 雪踏直し 非人頭 親仁橋架橋の負担 上野戦争前後の見聞 江戸の夕栄拾遺 千代を経る鴻鶴の終り 第一章  江都の府政 江戸の府政は南北両町奉行の支配に属し、町奉行は隔月交代、訴訟その他を受け付くるなり (前々よりの継続事件は続行す)。町奉行は旗本中の人材を抜擢して命ぜらるるなり。幕政の始め より名奉行のしばしば出でたることは皆人の知るところなるが、その権限は今日の警視総監と高 等裁判所長と検事長とを兼たるよりなほ以上の権力あり(杜寺に関せることは府内といへども一 切寺社奉行の支配に属す)。御役料は三千石高にして、与力二十五騎同心百二十人づつを付属せ しめられ、御政治にも参与せしめらるるなり。 南町奉行所は今の数寄屋橋府、有楽町山手線停車場の辺、外堀土手に向ひ表門あり。その向合 ひに奥行四五間、間口およそ十間ばかりの腰掛茶屋すなはち訴訟人待合所あり。 北町奉行所は呉服橋内、今の東京駅の出口のやや東寄りのところ、鍛冶橋への道路の西側土手 に向ひ表門あり。相対して腰掛茶屋あり。御奉行所にて日々取り扱はるる事件なかなか多く、喧 嘩口論、金銭貸借、間男、離婚、盗難、火元争ひ、詐欺、横領、家督争ひ、その他種々の訴ヘ、 強窃盗の吟味は奉行自身に調べらろることあるも、概して吟味役人の調べらるる方多く、また孝 子、義僕、節婦、奇特者を賞表御褒美を賜る等なかなか繁多にして、その間大火ある時は深夜に ても奉行自身騎馬にて巡見せらるることは毎度なり。私は北の御番所へ主人の代に奇特者として の御褒美銀十枚頂きに出頭せしこと一回、また店前にてカッパラヒに遭ひたる引合ひに一辺参り しが、いづれもお白洲の砂利の上に|荒莚《あらむしろ》敷きたるに坐し、厳めしき鉄張りの戸をガチヤンドシ ンと音させて閉めるには気持がよくはありませんでした。町奉行より各町々ヘのお|触《ふれ》はまづ町年 寄より名主に達し、名主よりさらに支配各町自身番へ通ずる順序なり。 町年寄は、|館《たて》市右衛門、|樽屋《たるや》三右衛門、喜多村彦右衛門三名なり。 名主は組合各町に一人を置き世襲せるがごとし。名主手代には事理に通ぜるものあり。支配町 内に何か事故を生ぜし場合には、名主様の玄関に行きて|訳《わけ》て貰ふといつて、|原被《げんぴ》相伴うて出掛け、 説諭してもらふこともあり。諺に、名主の玄関や砂利の上、といふ砂利の上とは奉行所のことを 指せしなり。金銭貸借上のこと、夫婦喧嘩その他の争ひ事は大概名主にて勧解せるなり。名主の 報酬は、各町地主が地面の|小間割《こまわり》より支出せるによると聞けり。ここに堀江町四ヶ町・堀江六軒 町・堺町・葺屋町の名主に熊井理左衛門といふ潤達明敏の人あり。常に八町堀同心等の内、不良 専横の者に対して|忌揮《きたん》なく反抗するをもつて平素より彼等に遺恨を含まれゐたるが、米沢町名主 村松某か|檜物《ひもの》町名主福島某と計り、砂糖問屋再興の計画をせしを聞き込み、収賄せると|詫訴《ざんそ》せら れ、三氏ともひさしく入牢しゐたるが、そのうち村松、福島の両氏は牢内に病残し、熊井氏のみ 江戸構へにて釈放せられ、船橋に晩年を送られけり。府内名主の無用論を発せるは、享保七年の 春、麹町の町医小川|笙船《せんせん》なる者、窮民救助施療のため名主に給する費途を施療院に用ひられたし と建議せり。これは全部採用せられざりしも、幾分か採用せられしと聞けり。 地面につき江戸第一と称せられしは、本船町魚がしの角、今明治商業銀行のある|角屋敷《かどやしき》なり。 当時は瀬戸物店ありし地所なり。同地は南面せる|魚川岸通《うをがしどほ》りの方が表口、伊勢町通りの方裏坪に して、小間割を課せらるること少なく、また表側裏側とも|河岸《かし》に向ひをれるがゆゑ、両川岸地は 拝借の権利あるがためなり。その拝借料は、有名なる白河楽翁公、閣老の時定められし七分積金 と称せる備荒貯蓄に当られて、数十万人の救助をせる基金となりしなり。 維新の始め、諸藩の|上地《じやうち》、旗本の返地を無代にても望む人なきといひしは、江戸各町の入費負 担次第に増加、|地持《ぢもち》が小間割をもつて支出せざるを得ぬわけゆゑ、その当時見込みなかりし地は、 誰しも手の出ぬは時勢が承知せなかつたのです。  自身番 家主書役定番(町役人ト云フ) 御府内には各町ごとに|自身番屋《じしんばんや》あり (二ヶ町ま丸は三ケ町に一軒置けるもあり)て、町内の事 務一切を取り扱ふなり。地主等集り自身で番をするといふわけにて自身番と称へしなりしも、そ の実は町内の各地面差配人(俗に家主または大家さんといふ)の代理に書役と|定番《ぢやうばん》といふ雇人を 置きて事務を代理せしめ、小使には番人(俗に番太郎といふ)といつて、町ごとの入口と出口と に大なる二枚開きの木戸の傍らに小ぐくりを付しあるところに、九尺に二間ぐらゐの番屋に住居 せしめ、|草履《ざうり》、わらんじ、|箒《はうき》、雑菓子、雑貨、焼芋等の|商内《あきなひ》を許し、夜間木戸の開閉をなさしむ。 夜中は拍子木を撃ちて時を報じ、出火等の折は太鼓を打ち鳴らして警戒せしむる役を勤む。この 番太郎なるものは、繁昌の町にては収入多きゆゑ、株にて当時一千両ないし四五百両を下らざる よし、家主も書役・定番も皆株にて売買するを黙認せしものなり。さりながら書役・定番にもな かなかうるさき勤めあり。出火ある時は昼夜とも弁当を作り番人に負はせ、昼は町の|目標《めじるし》の|幟《のぼり》、 夜は|高張《たかはり》を持ちて火事場に行かねばならず、大火の時などは二回も三回も出づることあり。また 自身番へはお預け者とて、町方同心の手先が逮捕し来る罪人を預けらるることあり。鎖にてつな ぎ、「ほた」といヘる鉄の輪にて作りし物を足にはめ錠を卸し、左右の手は縛しあるも、時として 油断のうち取り逃がす等のこと稀にありて、その責を負ふなど随分迷惑を蒙ることあり。その他 行倒れ、病者、乱酔者のごときは毎月少なからず、町内に強盗または乱暴者ある時は、第一に取 押へまたは取鎮めに当らねばならぬなり。自身番には、|突棒《つくぼう》、|刺又《さすまた》、袖がらみ、六尺棒などの|捕《とり》 具あれども役立ちしことは稀なり。南茅場町の大番屋、本材木町三四の番屋にては、八町堀町方 役人の手先出張して、罪人の拷問をなすこと毎日のごとく打ち続き、悲鳴の声戸外に漏るること 書珍らしからず。  出火 火事喧嘩伊勢や稲荷に犬の糞とて、火事も江戸名物に数へられしも、実際は大火の際などは目 も当られぬすさまじき光景にして、火事の警鐘を聞き屋上(二階家の屋上には多く火の見櫓々設 けあり)に登りて火事の方角を見定め、近火ならざれば大音にて、遠い遠い浅草通りとか新橋通 りとか呼ばはれば、その声を聞きて安心するあり。また親戚や知己ある者は火事装束を身に着け て見舞に出懸るもあり。近火なれば|摺半《すりばん》とく半鐘を乱打するゆゑ、各家いづれも家具家財を運び 出す用意をなす。土蔵のある家はこれを土蔵に搬入し、穴蔵ある家は穴蔵に運ぴ入る等その混雑 は容易ならず、婦人老幼は|風脇《かざわき》の親戚や知己に立ち退かさせ、また土蔵の目塗りをなす等一と通 りならず。出入りの職人、友人、懇意の人駆け付け来りともに手伝ひするが常にて、勘当せられ し道楽息子も、不都合ありて追ひ出されし奉公人も、かかる場合に駈け付けて手伝ひなす時は、 あるひは勘当も許され出はひりも許さるることは一般の|慣例《ならはし》なり。大火の時といへば烈風のとも なふこと多く、空は一面紅を|濃《みなぎ》らせしごとく、物の倒るる音、風のほゆる声、火の子は砂子を蒔 たるがごとく飛散し、その音その響き何とも名状すべからず。火の子追へ追への警声を、物なれ たる都会の人も歯の根の合ざることあり。道路はいづこも荷物家財を持ち運ぴて右往左往に逃げ 行くうちに、老幼手を引き連れて逃げ行くあり、子を負ひ大包みを抱へて逃げるもあり、畳また は戸板二三枚を重ねその上に家具を載せ四人にてかつぎ行くあり、|箪笥《たんす》長持を荷ひ行くあり、そ の混雑の中へ火元見の乗馬にて駆け通るあり、|躓《つまづ》きころびたる上に家財を負ひてまた倒れるもあ り、火に追はれて人にふまれ命からがら避難するあり。一度運び出せし家財も風向き変じて焼失 せしむること少なからず。弥次馬の焼死または命からがら助かりたる例は度々なり。江戸の名物 も実に悲惨このうへなきものと謂ふべL。殊に吉原廓内の火災の時などは一層の惨状目もあてら れぬこと多く、三千の婦女子しどけなきなりふりにて火に追はれ、|跳橋《はねばし》を渡り損じお|鉄醤溝《はぐろどぶ》へ|裲襠《しかけ》のままにて陥る者など多く、大切の物を持ち出ださず、かへつて丸行燈などさげて大門口に逃 げ来るもあり、その罪のなさ加減あはれ至極なり。弥次馬はその有様を見んとて土手はいつも黒 山なり。廓内の出火には町火消人夫を入れしめず、俗に焼け放題なり。これは妓楼の方でも望む 傾きあり。その訳は廓が焼失すれば普請中|仮宅《かりたく》といふ名義にて、浅草山の宿、花川戸、本所松井 町、深川|櫓下《やぐらした》、仲町の|町内《まちうち》に仮宅営業を許さるるゆゑなり。遊女は出火より三目間は籠の鳥の|放 生会《はうじやうゑ》に逢たるごとく、|間夫《まぶ》のところへ行くも我家に戻り両親の許に寝泊りすることも許さるるな り。今日のごとく火災保険、家具保険等のなき当時にては、三十分前までは大身代の大尽も焼失 後は無一物となり、家族打ち集り悲歎に暮るるの例は年ごとに何百人といふを知らす。御府内居 住の中流以上の家族が零落せる話しを聞くに、十の七八は何々の火事に丸焼けになつて以来かく のごとくの身分に落ぶれました、と語るもの多かりしは事実なり。 そもそも徳川氏が都府を江戸に開きし以来、一千戸以上を焼き尽せる火災は年ごとに多く、慶 長より慶応末年までその数算へ尽されず。目黒|行人坂《ぎゃうにんざか》の火事、明暦の振袖火事のごとき、数多き 人命を失ひたることについては、政府当局者も苦心せざるにあらざりしといへども、その根本を 深く研究して予防せざりし罪、三百年近くの慣習となり江戸名物の一に数へられしは、代々慢然 たる為政者の失政にほかならざりしなり。江戸出火の原因は、|粗相火《そさうび》も多からんが放火もまた甚 だ多し。直接の付け火のほか飛火に|仮托《かこつけ》ての放火あり、|蛬籠然《きりぎりすかご》然たる粗造の家屋板葺家根の冬季乾燥 して|火口《ほくち》のごとく、|蔀板《しとみいた》も反り返りて好|焚付《たきつけ》となりて常に火災の起るを待つもののごとし。武蔵 野の原野地勢として、冬春風強く、町幅狭く、加ふるに府の真中に火災を吸ひ寄せる一種の引力 建物あり。それは他ならず大伝馬町の牢屋敷これなり。この囚獄中には首のなき重罪犯も少なか らず、命の親と頼む親分も居れば無実にして入牢せる愛息も居るなり。一朝にして火災近く延焼 し来れば、獄中の者全部解放し、三日以内に浅草の新寺町の善慶寺に帰り来る、のを罪一等を減 ぜらるるは昔よりの規定なれば、この三日中は絶えて久しき我家に帰り来り、|可愛《カあ》ゆき妻子と寝 起すること、とてもこの世にては見ること難きとあきらめたる我家に入ることも束の間にても許 さるるわけゆゑ、本人は申すまでもなく、妻子|春族《けんぞく》の祈らぬものもなからん。親分を助けんと思 ふ子分等の出来得る限りの手段を尽すなるべし。誰が知らするにや、火災の牢獄近くに延焼し来 る時は大勢の罪人牢内にて|国《とき》の声を揚ぐる、その声のすさまじきなり。なほ第二の引力は、本町、 大伝馬町、堀留辺には有名の大|商費《しやうか》軒を並べゐるが、一朝この辺が火災に罹れば出入りの諸職人 は三年遊んで喰へるとの|讐《たと》へあるほどゆゑ、力を尽して消防するや否や覚束なく思はるるたり。 たほ各所の貧民窟のごときは、寒風の吹き来る冬季に近付くも夜の物も用意なく、夫婦老幼寒さ のため夢を結ぶこともならざるに、付近に大火ある時は一夜の内に夜の物や寒さを|凌《しの》ぐ物も出来 ることは珍らしからず。これらは出火の原因を生ぜざるや甚だ疑はし。 元来、江戸の消防夫の意気はすこぶる盛んにして古武士の勇あれども、消防の真の力は甚だ乏 しきものなりき。消防具のごときはなしと断言するを|揮《はばか》らず。|目標《めじるし》として一と組の動静を整ふる ための|纏《まとひ》はその組の進退を示す信号たるに過ぎず、二挺の|竹階子《たけぱしご》は家の軒に架して消防夫を昇降 せしむるのみ。消防夫は屋上に昇り、手にて瓦を取りはがし、家根板をめくり、火勢の圧迫を放 散せしめ、|棟木梁《むなぎはり》を引き落し、高きところに焼草たきやう取り除く手段を取り、|蔀《しとみ》をはがし塀を 破りて火勢の連絡を断つの作業は、ほとんど器械を使用せず。稀に刺又を用ひて棟木を倒すぐら ゐの用をなすに過ぎず、|鳶口《とぴぐち》は喧嘩の時に使用するのみ、消|防《 》用に用ひず。|竜吐水《りゆうどすゐ》といふ木製不 完全なる水出しあり。これは明和元年十二月|御曲輪《おんくるわ》近くの十三組へ始めて御下付になり、その後 追々各組にも|出来《しゆつたい》せしと聞けり。この竜吐水は纏持に水をそそぐくらゐにて消火には大なる役に は立たぬものなり。纏持は纏の半面黒こげになるも容易に去らざるを自慢となす。この不完全の 水の手消防器の不備のうちに、ある特種の場合に四面猛火に包まれし家屋を安全に救助せる例し ばしばあり。人をして驚歎せしめしことは毎度なり。水の手は井戸水、川水等を|玄蕃《げんぽ》といふ大桶 に吸み取り、それを竜吐水に入れて使用し、または|番手桶《ばんてをけ》といふ底浅き桶に移して火焔に向つて 打ち掛くるなどなすなり。 府内消防夫の数は少なきにあらず。享保四年に、時の町奉行大岡越前守、町火消いろは四十八 組、ほかに土手組と称し場末にも消防夫を組織せるなり。四十八組のうち、多きは一組七百余人、 少なきは飯田町|万組《まんぐみ》三十余名を最少とす。そのほか公儀の消防、諸大名抱ヘの者、例の|加賀鳶《かがとび》の ごとき有名のものもありし。 文久三亥年十一月二十三日巳の刻、駿河町三井(越後屋)呉服店より自火を出し、室町二三町、 小田原町、|魚川岸《うをがし》の一部を焼失せしめしことあり。この時類焼各戸に、表店十両裏店五両づつ、 戸毎に見舞金を出せり。その当時の落首に、 駿河町富士を三井の|大焚《おほかがり》裏が五両で表十両  火事の焼跡 江戸の火事は山の手に少なく下町に多し。山の手の商家は屋敷町の間に介在せるがゆゑに空地 の多きため、出火ありても自然大火となること少なし。下町にては火事の焼け落るや否や、火元 にあらざる家にては灰を掻き外囲ひを手早くなすを自慢とす。大家にては平素本所・深川その他 場末の地に別荘を構へ、非常立退所とたす。その別邸には板小屋の|切組《きりくみ》を用意に作り置き、一朝 本家類焼の場合には、ただちにその切組小屋を建て外囲ひ等をなし、翌日より仮家にて商売する を得るなり。焼け落たる後数日囲ひをもなさぬを恥とす。ゆゑに宵に類焼するも翌日の夕には、 町内皆外囲ひ成りて、いづかたに出火ありしやを疑ふくらゐなり。焼土、焼瓦等は道路に搬出山 積するも、皆船にて深川海岸の低地に持ち運び、埋立ての用に供す。越中島等は多年の火災のた め埋築せられしなり。焼土搬出の際、下級の女、子供、老婆等集り来り、焼釘、焼金物を拾ふ。 なかには金銀器を拾ふこともありと。焼材木などは湯屋の木拾ひ来り持ち行くなり。いづれも跡 片付けはすこぶる迅速なり。外囲ひには板に立退所を記すあり。染出しの職に家名を記せしを建 つる家もありて、見舞人来訪の便に供せり。  鳶の内職と本職 (仕事師) 消防火消人足といへば、それが本職のやうに思ふ人もあらんが、火消の手当金ではとても妻子 をやしなふことは出来ざれば、実際の本職は家屋建築に際して、地形建方、|足代《あじろ》組方、|上屋《うはや》掛方、 道路普請、下水路の工事、大工・左官・石工の手伝ひ、井戸替へ、|溝《どぶ》さらへまで皆|鳶職《とぴしよく》の仕事と してありました。今日は土方仕事となり、従前鳶職の仕事の区域を土方に|蚕食《さんしよく》された姿ですが、 これは昔と違ひ土木仕事が多くなり分業的になつてきたゆゑ仕方がたいのです。なほ内職のやう な仕事は、俗にお|店《たな》と唱へたお出入りの店に、何か祝儀不祝儀その他立ち入りたる面倒なことが 生じたる時は|頭《かしら》を呼んで来いとて、その面倒を取り|捌《さぱ》かさせるなり。|縄売《さしうり》、ゆすりなど毎日のご とし。店員のごたごた、取扱ひの難易にょりてお心付を戴き、盆暮両度に印半纏を与へられ、出 火の折は第一に駆け付けるゆゑにかけ付の鳶といふ。このお店を多く持つ者は彼等仲間には顔役 と崇めらるるなり。縄張り内は、他人の来り無断に仕事するを許さぬ習慣なりしが、維新後警察 を置かれし以来、頭の厄介も自ら少なくなるなり。  家屋及び土蔵 江戸の家屋は割合に粗造のもの多し。その故はとかく江戸ッ子は借家住居を恥とし、商人は店 の㈹評伽に入れる資本よりもまづ家を建つるを誉とす。京大阪の商人とは正反対なりき。火災保 険などのなき時代に一年に二度または三度も類焼すること珍らしからぬ上に、それを我慢に借金 しても家を建つるゆゑ、きりぎりす籠然たる建物の多きもまた当然なり。それゆゑ富豪は多く土 蔵となす店土蔵袖蔵と唱へ、店の片方あるひは両方、その他奥土蔵、荷物蔵は多く河岸に造 る等、火災の患少なきやう構造すその土蔵の建築法は数百年の火災に鑑み充分研究を尽せるが ゆゑに、まづ江戸倉庫の築造法は日本一と言ふを揮らず。猛火に包まれて一昼夜以上を経過する も安全なるもの多し。たまたま土蔵の火災に罹るは、多く門扉を閉ざさぬか、または狼狽して火 の気ある物を持ち込む等より、庫中より燃え出すこと少なからず。府内にては三階建は禁制、ま た平民は承塵造りその他禁制多し。土蔵の新築または修繕に上屋を作るには、火消屋敷等の消防 手より出火見通しの邪魔になるとの口実の下にゆすられ、相当の金を出させらるるを例とす。  町内の若衆頭 これは各町ごとに必ずあるわけではないやうですが、多くは遊人の顔役、鳶の頭などが別に頼 みもせぬに町内を代表して、お開帳の奉納芝居などの興行に幕を贈るとか、御祭礼の支度などあ るごとに町内に入費を負担せしめ、自分等の顔を売り飲食の種とす。その入費の支出をかれこれ 言ひて快よく出金せぬ家へは、祭礼の|砌神輿《みぎりみこし》をかつぎ込み格子戸を破り軒をこはす等の悪報をな すゆゑに、目を眠りて出金する者多し。今は無論あるまじ。  喧嘩 喧嘩も江戸名物の一に数へられてをるが、実際江戸|気質《かたぎ》として喧嘩早く何か相触れ合ふ時は必 ず喧嘩を生ず。多くは根も葉もなきことより起る。昔神明にてめ組の鳶の者と|角力《すまふ》との有名な大 喧嘩ありて多くの死傷も出せるがごとき、あまり類のなき出入りなり。魚河岸及び川通りと唱へ る小網町(南北新堀等にては、喧嘩の際死傷者を出せる場合に下手人として名乗つて出づるもの を常に遊ばせ養ひ置くなり。火事場にて鳶の者同士の出入かはしばしばありしこと、これは一方 が規約に背きたること等より生ず。仲裁人ありて和解手打の式に|遍頗《へんぱ》の取扱ひありしとて、仲裁 者と喧嘩の再発することあり。「アヽ痛い痛い、私の足をなぜ踏みなさつたのだ」「ナンダ足を踏 んだ、手めえが俺の足の下へ足を突つ込みやあがったんだ、この|唐変木《たうへんぽく》め」とポカリ頭をなぐる、 「おめえ、おらがの足を踏んでおいて、おれが頭をどやすとは乱暴でねえか」「何をぬかしやあが るのだ、踏み殺して仕舞ふぞ」、弥次馬といふ馬が飛び出し、「なんだ、なんだ」「ナニ今この野 良が俺の足の下へ足を突つ込みやあがつて、足を踏んだとぬかしやあがつたからなぐり付けたと ころだ」「ヨセヤイ、こんな百姓をなぐつたつて仕方がねえ、なぐるなら骨のあるものをなぐれ」 「ナンダおつなことを言ふな、骨ッぷしのある者と言ふな、手前が骨ッぷしがあると言ふのか」 「コイツハ面白え、サア手前が相手だ」「ナンダ俺が相手だと、ありがてえ、今朝から腕がむづむ づしてゐたのだと終に双方|擲合《なぐりあ》ひむしり合ひを始める。またほかの弥次馬が加はり、二タ組も 三組も組打が始ります。最初喧嘩の発頭人はいづれへか行つて仕舞ひ、弥次馬同士の喧嘩で終る などのことは毎日のごとく、別けて吉原などにては毎夜のごとくなりし。 文久年間の頃と記憶してゐましたが、土用中のことでした。新場の魚市場と芝の|雑魚場《ざこば》と何か 争ひが起り、白昼雑魚場より本材木町新場べ押して来るとのことで、新場にては|白襷《しろだすき》うしろ鉢巻 にてまぐろ庖丁または刀をさし、竹槍、目つぶし、|筋鉄《すぢがね》入りの棒など用意し、|庇《ひさし》の上にあがり押 し寄せ来るを今や遅しと待ち構へたり。私どもは木戸銭なしの|実際《ほんもの》の芝居見物が出来るものと喜 んで待ちたるに、途中にて某々の顔役の仲裁にて和解になりしとて、あたら活劇を見損じたるは 残念でありました。かくのごとき白昼刃物を公然とひらめかしてゐるに拘はらず、八町堀町方役 人は一向知らぬ振りして手を下さざりき。  伊勢屋 徳川氏江戸開都の際、伊勢及び近江より商人移り住み、節倹をもつぱらにし忍耐して家産を起 せるもの他国人に優り、この両国の商人最も多く、その店舗に奉公し資本及び|暖簾《のれん》を貰ひて一戸 を開店し、伊勢屋号を付くるものすこぶる多し。川柳点にては|吝嗇《りんしよく》の者を伊勢屋と代名詞に用ふ るに至りしはこのゆゑなり。 初鰹伊勢やの前は通り過ぎ 初代目 初鰹伊勢やの前に荷を卸し 二代目 三代目伊勢やの前に初勝男 三代目 満都伊勢屋号多かりしこと推して知るべし。  稲荷 府下有名の稲荷少なからず。しかるに名もなき|我楽多《がらくた》稲荷また甚だ多し。本所.深川辺にては 一地面に必ず一ツの稲荷あり。毎年二月の|初午《はつうま》または二の午には、ケチな|絵行燈《ゑあんどう》、|地口《ぢんぐち》などを路 地口に掛け、幟二三本ぐらゐを建て子供集りて太鼓を叩き、そのうちの餓鬼大将|絵馬《ゑま》を持ちて各 戸ごとに立ちて、 稲荷|万年講《まんねんかう》「お稲荷さんのお初穂お十二銅を上げおあげに戸あげ上げない内は いごかねえ、画に書た地震か壁にかいた○○だ」などと銭を集め焼芋の|資本《もとで》を作るなり。  犬の糞 徳川五代将軍を俗に|犬公方《いぬくばう》様といふ。その当時ばかに犬を大切にした時代の遺物として、府下 には飼犬のほか野犬すこぶる多く、到る処に犬糞散在す。なかには犬に似た人糞も交りしならん、 ゆゑに暗夜などは足元甚だ危険なりし。昔は街燈なく、稀に常夜燈を出だせる家あるも薄暗けれ ば、夜分は銘々提灯を携へ行けり。 当時小便所以外に放尿するも持主が小言を言ふくらゐにて、罰金などのことなきゆゑ、|庇合《ひあは》ひ や塀の隅などへたれ流す者多きをもつて張札をなし、この所小便無用花の山、たどと記し置くも あり。露骨に鳥居を画き男根を|鋏《はさみ》にて切つてゐる図を張り置くもあり。 それを見てかへつてたれ る場所を気付きてやらかす者あり。  不潔の都府 今より思へば明治以前の江戸は随分不潔の都でありました。道路に小便溜りの黄金水流れ出し 小河を作れるは珍らしからず、横町の銭湯の前などは義経八艘飛びより今一層余分に飛越しの煩 ひあり、まつすぐに|歩行《ある》くことはとても出来ません。府下一流の町でも路地に入れば、掃溜めに |塵芥《ちりあくた》山をなし、猫や鼠の死体芥とともに堆積し、夏季などは臭気甚だしく総|雪隠《せついん》は列をなし、 秋口に至れば夜中人魂の飛び出すことあり。場末の貧民窟のごときは路地の入口より鼻を被ふて 出はひりするほどでありました。|泥溝板《どぶいた》は跳ね返り、溝の悪臭に|嘔吐《おうと》を催す、それでも住居せる 人々は馴れて平気なものです。道路は勝手に盛土をなし我家の前だけ砂利を敷くなど、凹凸あり て躓きまろぶ人も多し。  通貨及び両替商 江戸の各商店にては店の帳場の上に必ず左記のごとき張紙あり。 定 一小判 六拾目 銭時の相場 現金掛直なし 以上  月 日 維新後貨幣制度の定まる前までは、物価を定むるに数種あり。金何程といふあり、銀何匁何分 といふあり、銭何百何十文といふあり、丁銭あり、九六銭あり。呉服物、小間物等の直段は、手 拭一反三匁五分どか、お召|縮緬《ちりめん》一疋何百何十匁とかいふゆゑに、昔の受取書などには一金何 十何両何分何朱、銀何貫何百何十匁、銭何百何十文と記しあり。京阪より関西はおほよそ銀匁の 取引にて、北浜の銀相場取引所にて関西諸国の銀相場を左右せるは、常に金融を伸縮せしむる機 関となる。江戸は小判一両は六十匁と定め、銀との高下を常に一定せしめしなり。ただ銭相場だ けは両替商の上下さするを許せり、ゆゑに銭時の相場と張り出し置くなり。神仏の|寮銭《さいせん》または小 売商人の銭の集る時はかなり厄介なものにて、|藁《わら》の|銭繕《ぜにさし》に通し束になし車にて運搬す。一朱銀、 二朱金などあるも今日のごとく便利ならず。とにかくその煩雑なることは言語のほかなり。その 当時にありてはさのみにも思はざりしは、のん気なる時勢でありましたからです。安政の末には 天保小判も一分金も姿をかくせしものと見え、市中取引は一分銀、一朱銀もつばらにして、古二 朱金を稀に見るくらゐ、嘉永六年品川のお台場築造の時新鋳の一朱銀は多く通用せり。この一朱 を民間ではお台場といふ。 お台場の土かつぎ先きで|飯食《ままくつ》て、二百と|五十《ごんじふ》こいつアまたありがてえ その頃のはやり歌なり。 安政小判といふ子供の迷子札ぐらゐの小判発行せられしも、話しに聞きて実物を見ざる人多か りしが、いつの間にそれも影を隠して終りとなれり。 文久元申年正月二十一日通用金御引替仰出ださる。|尤追而《もつともおつて》御沙汰|被為在《あらせられ》候迄は左の通り通用、 と定めらる。 一、保字小判 一枚 金三両一分二朱 一、同一分金 一個 金三分一朱 一、正字小判 一枚 金二両二分三朱 一、同一分 一個 金二分三朱 右之通り来る二月|朔日《ついたち》より通用|可致《いたすべく》旨、御書付出づる。 安政の末年より明治四年頃までの通貨は、 天保銭 (当百といふ) 九十六文通用 天保六年新鋳 寛永通宝 四文銭 二十四枚以テ 同上 同 一文銭 九十六枚以テ 同上 文久通宝 四文銭 二十四枚以テ 同上  文久年間越前春嶽公、総裁職の時発行せられ、文久通宝と書せられしゆゑ宝を崩せしとて、口 さがなき京わらべらはそしれり。 春嶽と按摩めやうな名を付て上を揉だり下を揉だり 以上のほかに|鍋銭《なべせん》といふ鉄の四文一文も|交《かは》り通用せしなり。  金銀貨にては (慶応元年に文久四文銭八文トナリ青銭十二文トナリシ) 安政小判金一両 保字小判改鋳後俗に新小判又は迷子札といふ 同 金二分判 二個以テ一両 同 金二分判 同前一名馬鹿二分といふ 同 金二朱判 八個以テ一両 同 桜銀一分 古一分ともいふ四個を以一両に当る 同 新銀一分 弗銀改鋳のもの多し 同前 安政古銀一朱 俗に小常一朱といふ十六を以一両に替る 同 新銀一朱 俗に川常一朱といふ同前 |小常《こつね》、|川常《かはつね》といふは裏面|常是《じやうぜ》とある常の字の頭 小と 川と区別あり。桜一分とこの小常一朱には 少量の金を含有しあるゆゑ区別あるなり。 両替商は天保小判、古二朱金の改鋳には相応の利潤を得たる者多し。その後明治元辰年の秋、 太政官より通用十三ケ年限りといふ不換紙幣の発行あり。府内両替屋が百両は百両の通用にて売 買は許されぬにかかはらず、|内所《ないしよ》の表向き盛んに売買せらるるやうになつた。これは政府にても 黙許せねばならぬのは、|横浜にて外人より物を買ふにはその当時、一分銀何個、またはメキシコ 弗何枚といふ取引ゆゑ、不換紙幣を受け取るはずなく、故に南京両替屋店にて売買するか、東京 の両替屋で一分銀と換へるかせねばならぬゆゑに、政府も|拠《よんどころ》なく黙許せしならん。両替屋の取 引も実際現物にて|先物《さきもの》などとてその月末取引ぐらゐにて、二ケ月三ケ月の|延取引《のべとりひき》はなかつたので す。また取引も極めて信用のみにて書付の|取為替《とりかはせ》等のこともなく口約にて違約する者もなかつた のです。また身元もなき|才取《さいとり》に千両二千両の札を渡してやつても間違ひのあつたことがありませ んでした。売買の場所は両替町の池の尾といふ待合茶屋の二階で毎日一回売買を開き、その後は 各両替店にて売買せるたり。明治二年二月頃より堀江町四丁目に|相場所《さうばしよ》を開き公然と売買せるな り。 日の本はいかに神国なればとて |金《かね》まで|紙幣《かみ》になし給ふとは 金札はとんだ所に穴があり(紙幣の上の所に穴あり) 上は通つて下は通らぬ 明治元年の暮には正金七十両(紙幣百両は)より八十両の間にて取引せしもの、二年の正月に は次第に下落して六十両台より漸次五十両、四十両、三月末には三十八両二分まで下落せり。か くのごとく暴落せるは、いまだ政府の信用なきが主なる原因なれども、両替屋のうちに極端の|安 気者《やすきもの》ありて、始めより売の一点張りにてやや|成功《せいこう》せし味を占めてゐるゆゑ、その頃預合ひまたは 入替へと称して紙幣を預けて正金を借りる。これは両替商仲間にて互ひにやりつつある事ゆゑ別 忙借用証も入れず、日歩も安くあるひは無利息のこともありし。安気者はその預合ひに取りし|札《さつ》 を売に出す、買うた者はまた預合ひに入れる、その物がまた市場に売に出る。俗にいふ|籠抜《かごぬけ》また は|盥廻《たらひまは》しといふ。預主もそれを感付きゐても、正金にて纏めて引き取る勇気もなく、また資産家 が現金にて買ひ置くものも顕れざれば、安気やは籠抜策ますます図に乗り、終に前記のごとき大 暴落となりしなり。政府もあまりの下落際限なきに驚き、急に布告を発して売買を禁じ、犯す者 は厳科に処すとのこ之にて両替商一同恐怖し売買を止め、|強気者《つよきもの》は蘇生の思ひをたし、籠抜勝利 者は兜をぬぎて降参の悲況と変化せり。さりながら横浜にて外人取引のため依然内密にて七十五 六両より次第に復活して、終には正価同一となれり。しかしこれは他に事情ありて復活せるも、 他日大なる下落を生ぜしなり。この理由は、慶応二三年の頃より|贋金《がんきん》が次第に増加して明治にな つてますます多く、とても|素人《しろうと》には真贋が見分けがたく、ゆゑに各店にて受け取りたる金銀は信 用ある両替店に持ち行きて鑑定の上封包みしてもらひ、その|改包料《かいはうれう》は百両に付き銀一匁ないし一 匁五分を出し、その両替店の封のままにて授受するなり。その包のまま多く信用取引せるは、通 商司、為替会社、霊巌島銭祐、小舟町安田屋、堀江町|紅万《べにまん》等なり。この贋金の増加せるは、維新 前後諸藩にて鋳造せるもの多く、その主なるものを記すれば、 大阪と称ふる物二分判百両は市価金七十両位 筑前と称ふる物二分判百両に付き市価金五十二三両位 新筑州と称ふる物同市価金四十八九両位  前二種は筑前藩にて作わしものといへり。 以上の三種はほとんど正貨との判定むつかしきくらゐなり。 薩州と称ふる物同 市価金三十八両位 以上は銀台にて多少金も含有しある。その他はただ銀台に|鍍金《めつき》せしもの。俗に会津と称へし物 は百両に付き正価五両ぐらゐ、その他銅に鍍金せるものにて、少しく鑑識ある人は一見偽物とす る程の物のみなり。これらはかへつてその数は少なく、人に害を与ふる程度も少なかりしが如し。 明治四年五月と記憶せるが、東京市中に主立ちたる両替屋の主人または番頭及び両替商の才取 の主なる者数十名、突然捕縛投艦せらる。いづれも何の故なるやを知らず。一同心配せるうち、 これは横浜の外国人に似せ金を売り渡せしといふ嫌疑と知れ、やや安堵せるものの、この頃のこ とゆゑ結果いかなるやと家族の心配一方ならず、|手蔓《てづる》を求めて運動するもあり。神仏に祈願する もあつて、日々指入物やら何やかや奔走するなどなかなかの騒ぎなりし。だんだんとその元を聞 ただにせがね き糺せば、横浜の支那人両替屋の悪漢が安く贋金を買ひ入れ西洋人の悪漢と共謀し、その偽金を 税金に仕払はんとせるに、税関にては受取方を拒絶せるより、かの外人等は日本通用の貨幣の善 悪は我々外人には判別ができぬ、かくのごときものを通用させ置くは政府に責任ありと主張し、 終に領事までが|捻込《ねぢこ》み来りしゆゑ、その頃の政府は閉口して秘密に探偵を入れたるもののごとく、 その飛ばつちりが東京の両替商の悪策と推測せられ、有無も糺さず大勢の者を入檻せしむるに至 りしなど実に乱暴の処置なれども、その当時にありては珍らしからざることなりき。その後追々 探偵もし帳簿等も引き上げて取り調べみたるに、大阪造幣寮へ地金として改鋳に納入しつつある 両替商の売買も百両に付き一朱または二朱一分の口銭にて取引なし、暴利を貧りて外人に売り渡 せし形跡ある者もなく、政府も今更その処置に苦しみ、終に少額の罰金と叱責にて一同放免せら れたり。当時炎暑中、数日入檻せられ|無柳《むれう》に苦しめる才取等のなかには|犢鼻褌《ふんどし》を繋ぎ合せて綱渡 りなどして日を送りし者もありしとぞ。なほ夜中白洲にて吟味中、あくびをなすものまた|放庇《はうひ》せ る者等ありしを|解部《ときべ》(判事)が聞き付け、その方どもはこの炎暑のなかに入濫せられ定めて困難 であらうと不便に存じ、かくのごとく夜中に取調べをなし遣はしつつあるに、あくびをなす者ま たけしからぬことをなすものあるは言語道断であると立腹せられしかば、才取等の不謹慎には心 ある人々は手に汗を握りしなりしと。 その後横浜にてメキシコ|弗《ドル》銀の相場を許され、始めは一弗が六十一匁ぐらゐより次第に高くな り、紙幣の出廻り多くたるにつれて六十二匁三匁より、十年西南役後紙幣増発せられしと見え、 十二年末には一弗は一円八十銭以上となり、大蔵省にても驚き、時の大蔵大臣の英断にて紙幣収 縮を量りしが、これは少しく急激に過ぎ|俄《にはか》に不景気となり、物価大下落金利暴騰して商人の苦痛 一方ならざりしも追々に恢復、その苦しみのお蔭に不換紙幣は消えて|免換券《だくわんけん》の通用を見ることと なりしなり。 維新前後市中主なる両替商は、 よし町大兼 ごふく町伊勢吉 れいがんじま銭祐 れいがんじま藤田 せともの町伊勢源 せともの町杉村 せともの町石関 磯田屋 むろ町三伊勢善 小舟町安田屋 小舟町亀清 小舟町広田屋 榎坂屋 ほり江町四紅万 人形町増田 人形町森丈 ばくろ町美の佐 なには町山城屋 はこざき神戸 きたしんぼり梶半 江どばし山城屋 きんざ小川屋 かんだ村田 井の池 ふきや町小木曾 品川町園村屋 富沢町河半 本石町中治 河伊 通一丁目白木屋 島新 このほか本両替町組その他数店あり。 維新後の紙幣 太政官札十両 五両 一両 二分 一分 二朱 一朱 開拓使金札 十両 五両 為替会社免換券(俗にバンクといふ)金二十五両 同 銀三匁七分五厘 これは一時小札大払底|小商人《こあきうど》困難の場合、為替会社にて発行せるに偽物多く出来たるため引き揚げたり。 新貨幣発行後、古金銀及び地金銀は年ごとに改鋳せられ、一時両替屋の取り扱ふものなきに至 り、有力者は銀行家となりその他は取引所仲買等に転業せる者多く、しばらく両替商の跡を絶つ に至れり。 徳川時代の古金銀と明治新貨と対照表 名称枚数 含有金 含有銀 同銅 総量目 新貨幣 慶長小判百枚 40100 7400 - 47600 90512 武蔵小判同 40100 7400 - 同 同 乾字小判 21100 3900 - 25000 47520 元禄小判百枚 26470 20200 - 47600 63503 享保同 41300 6200 - 47600 93612 同大判一枚 3460 760 100 4410 7810 慶長大判 3460 760 100 4410 元禄大判 2600 1600 100 4410 新大判 1120 1600 300 5000 真文小判百枚 23050 12000 - 35000 艸文小判百枚 19750 15200 - 35000 真文二分二百枚 19700 15200 - 35000 艸文二分二百枚 17050 17800 - 35000 古二朱八百枚 10500 24300 - 35000 安政二分二百枚 6100 23500 - 30000 保字小判百枚 17100 12800 - 30000 一朱金一六〇〇枚 7200 52700 - 60000 新小判百枚 5100 3700 五両判二十枚 15100 2800 - 18000 正字小判百枚 13800 10000 - 24000 徳川二分二百枚 3675 12250 - 16000 白銀之部(量目不出合アリ) 名称 含有銀 同銅 慶長銀 8000 2000 元禄銀 6400 3600 艸文銀 3600 6400 政字銀 1250 8750 永宝銀 4000 6000 四ツ宝銀 2000 8000 三ツ宝銀 3200 6800 宝来銀 5000 5000 保字銀 2600 7400 安永南鐐 1960((目方216匁) 200 佐渡金 330 銀14800 赤ゼリ金 060 銀15200 名称 含有銀 真文五匁銀 4600 新一分銀(目方9200) 653 古一分観(目方9200) 753 一朱銀(目方800) 780 文政一朱(目方112) 1960 文化南錬鐐(目方16匁) 1480 大形新二朱(2096) 2400 偽二分判之部 〓(丸に十)金 540匁 銀14700匁 筑金 1870 銀13400 青金 350 銀14800 金貨之部 明治四年新鋳ノ分 銀貨之部 同前  為換両替店 江戸の諸問屋は商品の仕入を大阪及び関西地方に仰ぐこと多く、その代金仕払ひは常に|片為替《かたかはせ》 となるがゆゑに、自然大阪両替店によりて為替取組をなすこと多し(江戸より大阪方面に送ゐ荷 物は少なく、現送金をなすなどはすこぶる費用嵩む)。大阪の為換両替商は有名の豪家多きゆゑ、 これらの融通を得て大阪荷主より手形を振り出し、荷受人はその手形の仕払ひをなす。その取立 店は、 室町三丁目 竹原文右衛門 金吹町 中井新右衛門 南茅場町 竹川彦太郎 本船町 島田新七 このほかに三井組両替店、三谷三九郎の両店ありしも普通の商家の為替は少なきやに聞けり。 その他神田須田町村田、霊巌島の銭祐などへも折々廻り来りしことを記憶せり。 その他相対の|出合為替《であひかはせ》の取引も少なからぬことも聞き及べり。 私は維新前、京阪及び関西と江戸との間、諸商品の代価為替決算のことに付き書きたるものも また人に聞きたることもなきが、江戸ヘ輸入の諸商品代価の仕払金は莫大にして、この仕払金の 片為替となるをいかにして決済を円満にせしやを常に疑ひたるが、江戸在勤の諸藩邸の費途及び 幕府関西よりの徴集年貢金、御用達商人の手にておほよそ決済せられしことに漸く気付きて了解 す。  菱垣廻船問屋及ぴ樽船問屋 大阪を始めとして、摂・河・泉・京都、その他関西諸国の荷物廻漕問屋として、政府及び諸藩 邸の御用達九店、その他諸商店の荷扱ひをなせしは左の両家となす。 日本橋北岸鞘町川岸 利倉屋金三郎 同 銭屋卯兵衛 両家は|菱垣廻船問屋《ひしがきくわいせんどひや》としてもつばら荷扱ひをなす。今日郵船会社の|荷捌所《にさばきじよ》には及ばざるも、江 戸輸入の百貨|輻榛《ふくそう》して大八車または|艀下《はしけ》に積み移り搬出するはこれも江戸名所の一なり。両店の ほかに、 樽船廻漕問屋として、井上重太郎、南新堀町にあり。同店はもつばら池田、伊丹、灘にて醸造 の清酒を輸送する、その荷捌店なり。雑荷も船腹都合にて扱ふなり。 毎年秋季には、大阪より|新綿番船《しんわたばんせん》とて新綿を輸送する。その番船ははなばなしきものにて、第 一番に着船せるは市中荷主の各店へ太鼓を叩き、赤き儒神を着し、紅白の采配を振りて、「そりや 一だ、何でも一ヂャ」と、いつて舞ひ込み来る。一番に着船せる船は、翌年第一に荷物積込みの 特典を得ると、船頭始め賞与を得るなりと。|樽船《たるぶね》の方も新酒番船あり。この盛事も今は昔語りと たれるのみ。 三州よりの新綿番船一番到着、祝儀五百疋、手拭五反、二番着三百疋、手拭三反、三着は二百 疋と手拭二反なり。 江戸交通の商船は、文久の始め総数およそ三百艘余あり。 内訳 菱垣廻船およそ千五百石積より千八九百石積のもの四十二三艘 樽船千石以上の物およそ七十艘 俗に田舎船と称する洩荷物を運送する六七百石積より千四五百石積までの船およそ百艘 紀勢尾参より江戸に通ひし商船七八百石積より千七八百石積およそ百艘 右のほか播州、四国よりの廻船は、塩船と称へ江戸商人も積荷を托せるなり。 運賃は古来平均禁石銀八匁と定め計算するなり(次第に高くなる)。 難船振合勘定 菱垣樽船その他江戸問屋にて世話する船々の海難については、皆破損は荷主損、荷打ちまたは 乗揚げ等の場合には積荷の元価を書き出さしめ、その上にて救助せられし荷物は荷受主に引き渡 し、丸濡れ大破の物は入札になし、その落札価格と総元価と差し引き、その割合にて現存荷物を 引奪取りたる人もその元価の割合にて損失額の負担をなす次第ゆゑ、元価をばかに高価に申し出 でかへつて負担を余分になす人あり。入札は地方にてなすことあるも、房相地方にての救助品は 江戸に積み取り、茅場町薬師前の料理店伊勢太にてなすを例とす。いつも盛会なり。高値入札者 には山伏山伏と言ふて唯す。これは山伏の夕立貝かぶりといふ意。安値は薪や大薪やと唯し、適 当の入札者を本阿弥本阿弥と評するなり。  十組諸問屋 菱垣廼船十組の諸問屋は、江戸輸入の十組諸商店の商品専売同様、組合ほか江戸直接送荷取引 を禁ぜるため、年々組合より政府へ|冥加金《みやうがきん》として一万二百両づつ上納せるを、天保十二年水野越 みぎりこれびと 前守改革の瑚、自今この冥加金上納に及ばず、然る上は十組問屋を廃止し、誰人が誰人に直接荷 物を送るも勝手たるべき、物価引下げ手段として行はれし政策なり。その後再び九店(砂糖屋を 除き)問屋を許さる。従前は何々の株とか名を付して専売主義を行なひしも、水野侯は自由開放 主義を取られしなり。嘉永四年諸問屋再興す。九店とは、 油問屋、|蝋《らふ》問屋、|繰綿《くりわた》問屋、釘鉄物問屋、木綿問屋、白子組|太物《ふともの》問屋、砂糖商組合、紙問屋、 薬種問屋の九店と記憶せり(当時問屋へ加入するには加入金披露の宴会に千金を費せるなり)。  正月初荷 江戸の各商店の問屋は、例年十二月|大晦日《おほみそか》は徹夜にて得意先へ廻り、売懸代金の取り集め勘定 の決済をなし、新正月の初荷約束をなすを例とす。昔は商売品により、一年一回十二月大晦日勘 定または盆暮勘定なるもありしが、おほよそは盆暮の間、五節句、三月・五月・七月・九月・十 二月、五回の仕払ひ多く、小売商にも定得意へは五節句払ひなりしが、次第に世の信用薄くなり しと、資本運転のせはしくなるに連れて、十四日、晦日払ひ多くなれり。大晦日は大決算期ゆゑ、 この日皆済するか、内金を入れて済ますか、とにかく始末を付けて、初荷引込みといふことにな るなり。安政の末年頃まではさのみ派手にはせざりしも(一文獅子を雇ひ入れて荷の上にて|囃子子《はやし》 をさせるぐらゐなりし)、多くは車力に揃ひの|印半纏《しるしぱんてん》、出入りの諸職人も同様にて、荷物を荷車 に積み重ね車の梶へ横に丸太を付け、左右にて「エンサカホイ、ソコダアホイ」と掛声する若者 |丁稚《でつち》等はチヨン|髭《まげ》に鉢巻、車の先ヘ綱を着け、「ヤアイヤアイ」と声を揚げて曳く荷物へは数張 の|弓張提燈《ゆみはりちやうちん》を付し{勢ひよく得意の店先へ挽き込み、先方にても酒肴の用意して待ちつつあり、 車力へは相当の祝儀心付あり、相互ひに手を打ち合せ、お目出たうの挨拶を交し、また他店に行 く、夜明れば一同休息す。かくのごとく三日四日を持ち運ぶなり。近来は広告利用を兼ね、|万燈《まんどう》 を点じ真の馬鹿唯子を雇ひ入れ、日中町々を引き廻るやうになりけり。  江戸湾内及び各河川運漕船 |木更津船 上総国《きさらづぶねかづさのくに》木更津船は、江戸橋土手倉脇より毎夕発船、荷客を運送す。大形|五大力船《ごだいりきぶね》なり。 登戸|曾我野《そがの》行 上総国登戸曾我野往復、荷客を運送す。小網町一丁目思案橋側より毎夜発船す。 明治の始め前原一誠反逆の折より名高くなる。五大力船なり。 |行徳船《ぎやうとくぶね》 下総《しもふさ》行徳行客船なり。小形の|茶船《ちやぶね》造り。 上総下総行の旅客、成田芝山の参詣客、講中団体にて借切りまたは乗合ひもあり。小網町三丁 目|函崎橋《はこざきばし》の北岸、俗に行徳川岸より発船す。川岸には数軒の旅店ありて、乗降の船客のためすこ ぶる便利なりし。  奥川筋運漕船 (小網町一二三の河岸及び函崎川三股辺までに碇泊) |上野《かうづけ》、|下野《しもつけ》、|常陸《ひたち》、下総及び遠く奥羽の一部の諸荷物は、利根・|鬼怒《きぬ》の両川を利用して、|高瀬《たかせ》 といふ底浅く平盤の船にて運漕す。また|関宿《せきやど》にて本利根を下りて銚子港に通ず。この河川には諸 藩の用船ありてすべての取締りをなす。その主なるは水戸殿、井伊家、古河、関宿、前橋、高崎 等の用船の船頭は帯刀赤房の十手を差し、難船等ある場合には相当の保護をなし、不正の者は捕 縛をなす、なかなか権威ありしものなりし。このほか荒川上流、上州、武州行の川船も皆小網町 川岸に繋船するがゆゑに、日本橋川の三分の二はこれらの川船にて埋められ、小網町河岸白壁の 土蔵数町の間軒を並べ、川にはこの多くの船々の荷積み荷卸しの光景を江戸橋、|荒布橋《あらめばし》上より眺 めて、始めて江戸見物に来りし田舎人の目を驚かすは無理ならず。当時江戸名所の一ッなりし。 |奥川筋《おくがはすぢ》運漕問屋の主なるは左の数店なり。 奥川筋船積問屋、イセ丁高橋屋勘兵衛、小舟町一金屋作右衛門、錠屋喜平治、同三枝屋勘次郎、 島田屋清七、三河屋次郎右衛門、同二竹村弥右衛門、佐野屋半右衛門、森田屋万兵衛、ホリエ一 湯浅屋市兵衛、同四真岡屋庄兵衛、小アミ三伊藤屋藤七、同二蔦屋宇八、小室屋定次郎、山口屋清六、 同三津久井屋理右衛門、布川屋庄左衛門、河内屋佐兵衛、絹川屋茂兵衛、土浦屋太兵衛、 加田屋長右衛門、広屋吉右衛門、金子屋紋兵衛、宮屋善兵衛、同二、伊世屋藤兵衛、伊世屋喜右衛門、 利根川屋平八、坂井屋勝太郎、常陸屋治郎兵衛、小アミ一、石橋屋久兵衛、箱サキ二、近江屋長兵衛、 竜ケ崎屋惣次郎、佐原屋庄兵衛、小アミ三、乙女屋文吉、箱サ二、野田屋卯兵衛計三十五軒、 奥州筋石巻船積問屋、瀬戸物町伊世屋六右衛門 甲府方面、信州諏訪等への荷物は、品川にて駿州清水港行に船積みし、富士川口|鰍沢《かじかざわ》にて川船 に積み替へ甲府より駄送す。  慶応元年頃江戸諸商店 酒問屋 富士本店、鹿島本店、同中店、米房、伊阪、山田、坂ノ上、小西利、浅井、播新、尼甚、 大善、溜平、小又、松兼、近吉、紙八、小惣、鴻栄鴻太、尼治、池々、小栄、千代倉、 加世利、高門、中幸、溜久 酒問屋若者等が俗に、|小惣の頭を|播新でヲヲ|伊阪カッタヲヲ|伊阪カッタ。 呉服太物問屋 田庄、大吉、大又、近与、佐野長、下二、松治郎、辻新、亀源、いせ清、布宇、 松藤、中磯、富善、大幸、大惣、町直、信又、遠五、三源内正、津七 紙問屋 小津、大橋、大三、村七、湊屋、森半、深山、紙弥、大和屋、 小泉、紙庄、いせ屋、 勝善、吉伝、丸彦、松坂、川忠、槌新、紙長、加賀長、寺本、万彦、内金、鹿島、鍵長、讃岐屋 西洋織物問屋 佐羽吉、大六、丁甚、堀越、八木屋、結城屋、中屋、亀屋、西川、にし川、 中金、阿蘭陀屋、高橋、中村、高橋、信伝、松葉、平の屋、大坂屋、中島、近与、大三、扇久、 近善、炭松、大の屋、水戸新、大里、町直、万定、大庄、小塚、吉の、伊伝、中島、長岡 西洋器具器物問屋 駒形みの平、同村田、四日市塚口、同米沢屋、同伊世善、垂近江屋、南伝馬三和泉屋、 同柏屋、今川橋東国屋、通三中徳、通四堺屋 茶問屋 山本、豊田、 大橋、ゑびや、宇治万、 大阪屋、やはた屋、ゐづつ屋、万屋、増田、いせ治、山本、中屋 いづみ屋、中村屋、米田、大茂、山越屋、井筒、江一屋、宮田、豊田、杵屋、 いせ屋、幸崎、粂屋、松の尾、笹屋深谷、いせ留 小間物問屋 唐七、炭八、木九、丸柏、勝五、炭喜、近源、大喜、西沢、大彦、 和久井、三桝屋、亀松、京又、伊世屋、駿与、糸加、山徳、菱友、岸本、 糸惣、大惣 材木問屋 鹿島、万和、ての字、雑治、遠徳、 太田屋、宝田屋、遠太、雑善、栖原、信庄、万又、小川屋、木内、遠三、穂坂、 角点、信金、信宇、桝屋、金星、樫木屋、信和、タ、雑清、丸与、雑仙 香具屋 両がへ町下村、よし町芳屋、 車坂桜香、通二柳屋、花露、百助、菊寿、ささ屋、南なベ町うの丸、 すみよし町松本、五十嵐、岡崎、 ほん町玉屋、すは町紅屋、山本、玉井、村田、いが屋、北しんぼり久、いせ久、 いけのはた仲町たしから屋、槌屋、菊一、山形屋、万千、をはり町白牡丹、八丁ぼり和泉屋 呉服屋 三ッ井、白木屋、大でんま町大丸屋、をはり町恵比寿屋、 三井向店、かうぢ町三岩城舛屋、しんばし松坂屋、をはり町布袋屋、 市がや近江屋、うへの松坂屋、 本がう伊豆倉、万藤、中川、下や川越屋、山形屋、加納屋、 こまがた丸屋、よしの、丸屋、森田、加賀屋、島屋、大黒  江戸草分けの問屋業 大伝馬町一丁目の|太物《ふともの》問屋は、慶長年間の創始にて、徳川家康公江戸御入国以来、尾参勢 三州の木綿商人どもを御呼び下し、唯今の|竜《たつ》の|口《くち》に地を賜り木綿商売相始め、その後元和年中右 の地所御本城築造御用地となり、その代地として大伝馬町一丁目の地を下し賜り、家作等美麗に なすべきやう御仰せ付け、特に太物問屋に限り、銅瓦、箱棟、家切、|四間梁《よんけんばり》、犬走り、前棚、腰 瓦、八ケ間、|乳掛《ちちかけ》の太鼓幕等御免許あり。寛永三寅年、家作皆|出来《しゆたい》せり。竜の口開店以来の問屋 業、すなはち江戸草分けの問屋なり。今に至るまで三百二十余年、なほ連綿として盛大に相続せ る店数軒あり。これらの諸店の営業振りは、普通商店と変り、仕入元の取引先を|買次《かひつぎ》と称へ前金、 をもつて仕入の取次をなさしむゆゑに、買次人等出京せる時、各店に至るもただちに店前に上ら ず|権《かまち》に手を置き|蹟露《かがみ》居りて、「マアお上りお上り」と再三の勧めを受けて畳の上に入り、仕入掛 番頭及び隠居役に挨拶するを慣例となすくらゐなり。また得意先を売子と称へ皆懸売にて、多く は年二期または五節句払ひにて現金は稀なるがごとし。近代得意先の風儀やや乱れ昔のごとき円 満の取引は困難なるがごとし、古来連続の諸店左のごとし。 伊勢屋清左衛門(小津ナラン)、布袋屋万右衛門、川喜多久太夫、同新店、伊勢屋利助、 長谷川治郎吉、長谷川源右衛門、丹波屋治郎兵衛、大和屋九郎右衛門、綿屋惣兵衛、 川喜多平四郎、蛭子屋六郎治、亀屋武右衛門、丸屋藤助、島屋六兵衛、 升屋七右衛門、 升屋佐太郎、 田端屋治郎左衛門、同新店、大和屋三郎兵衛、奈良屋伊右衛門  幕府献納金及び御用金 安政六未年十月十七日申刻(午後四時)、江戸御城御本丸炎上、御殿向き残らず|潮見櫓《しほみやぐら》も三重御 櫓もことごとく焼失、亥下刻鎮火す。右につき蠣荒物問屋|榎並屋《えなみや》(中村)庄兵衛が金百両を献納 せしが、同十月二十日日本橋通り一丁目の木戸開戸に左の張紙出る。 堀江町四丁目家主万兵衛地借 庄兵衛 右之者今般御本丸御炎上に付御費用の内金百両御冥加として献納願出寄特の至に付御聞届相成候事 十月十九日 右願出で翌十月二十一日、伝馬町・白子両組木綿問屋より金千両上納せし後、各問屋個人より 続々献納ありしと聞けり。 文久元年五月三日、身柄の町人を南奉行所に御呼出しの上、御用金仰せ付けられしなり。 慶応三年卯十二月十五日、急場御用金仰せ渡さる。 一金二万五千両宛 伝馬町組太物問屋、白子組同問屋材木問屋、茶問屋、紙問屋、釘鉄問屋 一金二万両宛 呉服問屋、酒問屋 一金一万五千両宛 砂糖仲間、繰綿問屋 一金七千五百両宛 醤油問屋 一金五千両宛 蠣問屋、小間物問屋、糸問屋、藍玉問屋、干鰯問屋、下り水油問屋 一金二千両 瀬戸物問屋 一金千両宛 浜吉組(鰹節)下り塩問屋 以上二十組、合計金二十六万千五百両也。 右いづれも暮に差し迫りて困難を究めたるも、政府非常急場の御入用とも聞き|不得已《やむをえず》上納せり といへり。ただし一時|御用達金《ごようだてきん》の名義なりしと記憶す。  飛脚屋 郵便制度のなき時代は、不完全なる飛脚屋によりて信書を托するのほかなかりき。 その取扱店の主なるは、 佐内町 和泉屋甚兵衛 京、大阪、関西、奥羽地方 室町二丁目 京屋弥兵衛 同前 瀬戸物町 島屋佐右衛門 同前 呉服町 江戸屋仁三郎 同前 瀬戸物町 島屋上州屋 上州信州筋 岩附町 行田飛脚店 武州忍行田付近 芳町 立花屋 横浜 大伝馬町 三ッ木屋 同 以上のうち毎日発信または一六とか三八とか四九五十といふごときあり。房総の書信は荷物運 漕店にて取り扱ひくれる所もありき。 大阪へは通常は十日目ぐらゐに到達。正六といふは六日目ぐらゐに|至《たつ》するはずなるに、実際は 八九日を費すは常なりし。夏秋の頃東海道河川満水の折などは、五日も十日も延着することあり。 正四日限差込みといふ|便《たより》あり。これは臨時に仕立てるものゆゑ、三日に一回あるか十日に一回あ るか定らず㍗齢府または諸侯方に属するものか、維新前に至りほとんど毎日のごとく発送せられ しなり。これに差込みの料金は信書一通金一分なり。差込便のある時は、昼のうち飛脚店より、 今晩差込みがあります、と各得意に触れ来る。正六並便の信書は、毎夜飛脚屋より集めに来り、 |通帳《かよひちやう》に記入して受け取り行くを例とす。 明治四年郵便制度の実行せられぬ前は、京、大阪、名古屋等有名の地は信書の送達もやや自由 なれども、少しく僻遠の地には半年にして達するか一年かかるか覚束なきなり。それを思へば、 一銃五厘にて国内なればいかなる山間僻在の地にても十日を出ず通信なし得るは、 実に文明の賜ものといふべきなり。 定飛脚賃銀広告 当分御弁利定日便賃銀附 京都大阪東海道筋共 一、書状 一通 賃銀四分 但し百匁より五百匁迄百匁に付一匁五分の割 一、小包物類 五十匁迄 一匁 百匁迄 一匁五分 一、金百両に付 賃銀 十五匁 但し二朱より五両迄 銀一匁 五両より十両迄 銀一匁五分 余は百両之割 一、一分銀一朱銀百両に付 賃銀 二十匁 但し壱分より五両迄 銀一匁五分 五両より十両迄 銀二匁 余は百両の割 一、手形入証文入之類は状賃の外銀一匁増し 右之賃銀を以京大阪迄十五六日目を以飛脚差立申候。 一、十一月二十六日より差立候京大阪迄十二三日目着早便飛脚の義追日道中筋開候に付去る十 六日出より京大阪迄八日九日目着に相勤申候間右両様とも不相変御用向被仰付可被下候以上。 定飛脚問屋 寅十二月二十五日仕来之出日十八済さし立申候。 京屋弥兵衛 山田屋八左衛門 注日(嘉永七すなはち安政元年十二月二十二日ならん) 第二章  日本橋魚市場 日本橋と魚市場は、江戸を紹介する著述物にはいづれも委しく記されてあれば、私は幕末より 明治に渉る当時の有様をのみ見聞せるままを記さんに、日本橋は慶長八年始めて架橋せられし以 来府の中心とせられ、また便利の上よりも大正の今日に至るも、他の地には交通機関の上多少の 変化を来せるが、日本橋は依然市の中央の位置を失はず。同所魚市場のごときも、架橋当時開市 以来三百有余年連綿として昔に変らざるのみか、次第に拡張繁盛の傾きあり(近時魚市場の移転 論しばしばあるも、実際はいつ実行せらるるかを知らず、また実行せねばならぬ必要の可否も知 らず)。維新の前は区域も狭く、本船町|川岸通《かしどほり》、今の一番地より十二三番地、|安針町《あんじんちやう》、長浜町の一 部と小田原町の小部分、川岸は日本橋際より十二番地辺まで、|納屋《なや》も狭くかつ汚く、川の岸には 板船並びゐて漁船の荷揚場となる。小田原町、安針町、長浜町には、川魚問屋、蒲鉾屋、ほてい茶 屋多く生魚問屋は少なきやう記憶せり。塩魚間屋、鰹節屋は十三四番地に多く、他は向川岸、 四日市は表裏とも軒並み塩魚間屋は今日に変らず。生魚問屋は前記のほかに、本材木町二三海 賊橋と|新場橋《しんばばし》との間にしんばなる生魚市場あり。これは泉屋三郎兵衛、即ちいづさぶが元締せる やに聞き及べるが、維新後いつかこの市場はなくなれり。当時魚川岸へ輸入せる生物は、江戸湾 内は勿論、房州内外沿岸、三浦三崎、|相豆《さうづ》沿海、遠くは駿遠等より来ることもありし由、上総は 九十九里、銚子、常陸よりも輸入せり。しかし九十九里物といへば上等の料理店にては使用せず、 よくよくの|時化《しけ》の時には内々遣ふことあるも、客の舌がなかなか合点せず大目玉を喰はさるるこ とあり。今時はその辺は料理人も安心なり。漁舟の着するは暁方に多く、夕方着船するを|夕川岸《ゆふがし》 と称へ、湾内漁獲の物は澄刺として多く食物通の口に入るなり。したがつて価も貴し。当時ごく 手近の地方へ出るのほか生物はなかなか他地方へは出ず。慶応二年の四月、上州高崎一流の料理 店にて、ゆでたる|飽《あはび》の|酢貝《すがひ》を出されしことあり。同地方の|戎講《ゑびすかう》にはさんまが第一幅を利かすぐら ゐゆゑ、地方へ引けるは横浜開港後同地の需用に引け出せるぐらゐにて、魚川岸の繁閑も察し得 らるるなり。しかるに交通次第に便利となり、中国、四国、瀬戸内海の|鰆《さはら》、九州の|鰤《ぶり》は勿論、朝 鮮の真名鰹、五島の烏賊、渤海の鯛、台湾のあご鯛、北海道の比目、牒、函館・仙台の鮪、樺太、 沿海州の|生鮭《なまざけ》、|生鱈《なまたら》。汽車に汽船に発動船に、二六時中絶間なく輸入す。また地方への輸出も氷 詰冷蔵装置の荷車を利用し、甲州、信州、その他山間の僻地へも送り出すこととなる、既往の幾 層倍なるを知らず。江戸三千両の内「なんのその日に千両は朝の内」と言つて自慢せるが、今何 十万円は朝の内といふこととなりしならん。日本橋の外、芝の|雑魚場《ざこば》、佃島、深川大島町に小市 場あり。これらは佃沖、品川付近にて|漁《すなど》りせしものにて、味ひ最もよろしきゆゑ下町一部の人の 口に入り、山の手住居の人の口に入るほどはなきなり。「オイその|鯛《てい》と鰈とはいくらだ」「三枚で 口明けだ安くまけて四貫だ、ナニ、三貫にしろと、何を寝惚けてゐるんだ、今日は鉄の|草鮭《わらんぢ》をは いて川岸中探しても、ありやしねえ、いやなら、よしねえ、三贋五百だと、エヽまけといてやれ、 持つて行きねえ、ナニこの鰹か、安くして三百五十よ、|下駄目《げため》に負けろと、オイ顔を洗つて来ね え、ナンダと、目が赤くなつてゐる、と、馬鹿は休み休み言ひねえ、今しがたまで、|放《はね》くりかヘ つてゐたのだ、人間だつて、この|東風《こち》ぢやあ、|昂《のぼ》せて目も赤くならあ、ヤイ、ヤイ、気の短けえ やつだ、エヽ、負けてやれ」などと、喧嘩でもしてゐるのかと思ふ。これが魚河岸の|商内《あきなひ》振り、 客も更にあやしまぬなり。  見附及び辻番所 江戸城廓には三十六見附ありしことを聞きゐたれども、内廓にあるものを知らず。幕府末年ま で残りありしは、 本丸大手 桔梗(内桜田) 平河 竹橋 雑子橋 清水 田安 半蔵 桜田 西丸大手 坂下 和田倉 馬場先 日比谷 山下 虎の門 数寄屋橋 赤坂 四谷 牛込 小石川 筋違橋 浅草 一ツ橋 神田橋 常盤橋 鍛冶橋 幸橋 市谷 呉服橋 合計三十ケ所 このほかに芝口御門あり。宝永七年建造、享保九焼失。竹橋内に不浄門あり、平常閉門せり。 辻番所は諸大名専属の建物あり。これら番士には棒の一と手ぐらゐは知りたるものあれども、旗 本屋敷の組合辻番所にては壮者は稀にして老人多く、内職には|小楊枝削《こやうじけづ》りなどやりをるなり。そ れでち後押しなき荷車などはコラコラと呼止め、小言を言ふてなかなか通さず。それゆゑ辻番所 近くに至れば、往来の小僧でも女でも、たのみ車の後につかまつてゐてもらひ、辻番の前を通り 過ぐればそれでよいのありしなり。昔は、ソウヨボケテは仕方がないな、日当りのいい辻番の株 でも買つてやらうというたのです。 見附の警衛は御譜代大名及び二名づつ十一日交代、大手は十日目ごとに交代す。旗本の守備も あり、侍分も数十名守り居り、式日などは|裃《かみしも》着用、|下座見《げざみ》などといふ専門的の見張人を置き、 役向きの大名通過の折は敷台に下りて礼をなす等やかましきものなり。常に御門内外の掃除等は 俗に|我縁《がえん》といふ人夫を雇ひ置き、彼等水撒き、|箒芥《はききよめ》等は手際よく、至りて見事にやり得るなり。 葬式通行の跡を清める。コレラ流行の|瑚《みぎり》は、彼等至極困難せるよし。田舎人など御門前に立ち止 まり見物するを、大音にて通れと言はれ驚き去るは日々何回あるか知れず。見附通過に裸体を許 さず、駕籠かき雲助などは肩に手拭を開き揖けそれで通過をゆるす。  江戸に二つなきもの 文久年間、江戸に二つないものといふ|見立角力番付《みたてずまふばんづけ》あり。そのうち二三記憶のものを|誌《しる》せば、 ○大名小路ギヤマンの引戸 これは細川侯のお駕籠の引戸が、ガラスなりしなり。 ○|黏《てん》の皮の投鞘 脇坂侯の鎗の鞘。 ○永田町張子の獅子 |渡御《とぎよ》の瑚は下に居れといふ、山王宮三代将軍お手習|双紙《ざうし》にて張り抜きたる獅子。 ○佐竹の|人飾《ひとかざり》 佐竹侯は正月の松飾の代りに人飾をさす。 ○本郷|盲目《めくら》長家 加賀邸窓なし長家(大久保彦左衛門一件の長家)。 ○海賊橋二階の髪結床 今海運橋南側の髪結床にて、明治四年散髪床となり、今は植木店に転居せり。本町の|庄司《しやうじ》と同 時たり。 ○室町屋根の上の稲荷 安針町入口の角{屋根上に安置す。 ○永代橋十三の小便所 小便樽十三並列す。 北新堀町お|船手組《ふなてくみ》屋敷門外にあり、 今の保険会社前なり。 このほか三四十点ありしも忘却せり。  迷子探し 夏期は割合に少なきも、冬分木枯し吹きすさむ頃になると、弓張提灯をつけ夜中四五人の|一連《ひとむれ》、 鉦を太鼓を打つかなしげな声で、「迷子の迷子の|何某《なにがし》やあーい」と呼びあるく。これは子供のみ にあらず、老人もあり、妻女もありて、いかにもかなしげな陰声なり。両国橋、一石橋等には、 迷ひ子のしるべといふ石碑あり。尋るかた教ゆるかたの二方面あり、これに張札するものあり。 警察はなし新聞紙なき時代には、自力をもつて尋るのほかなかりしなり。  京橋の四方蔵 京橋の|四方蔵《しはうぐら》は江戸名所の一 つなりし。南伝馬町三丁目の四ツ辻は四方表土蔵作りなりし。 南西の角は有名な|太刀伊勢屋《たちいせや》とて、紙類茶両替屋にて|暖簾《のれん》に大太刀を画きあり。この店は伊勢 |店《たな》にて南朝の忠臣楠七郎右衛門の|末孫《ばつそん》なりしと。|昔時《むかし》暖簾に|葵《あふひ》の御紋章を付けありしを町奉行よ り御各めありしが、由緒中し出しにより葵の紋を太刀の下げ緒に付けるを許可せられしなりと。 |対側《むかふがは》の堺屋薬種店にては、店の若者(縁類の者なりといふ)が家付の娘の養子となる望みたり しが、娘が嫌ひしか親達が許さざりしか他家より養子を迎へしを、かの若者無念に思ひ養子を殺 さんとせるに、養子は柔道の心得ありしゆゑ刃物を取られて取り押へられし結果、町中引廻しの 上死刑に処せられし。その際堺屋の前に引き来られたるに、追つてこの家に草をはやさせしてみ せる、と引かれ者の小歌に言ひたりとの事。ただ昔よりの制規とて、馬前に持ち来る罪状を記せ し|紙幟《かみのぽり》を、罪人を出せし家に預けらるるは気持の悪いいやな預りものなり。若者は商人に珍らし き二の腕に|昂竜《のぼりりゆう》の彫物ありし。堤薬種店は堺屋筋向店なりしが、出火のため|角蔵《かどぐら》焼失跡ヘ土蔵 を建てる者ならでは貸さぬど言ひしため、ひさしく空地となりをりしが、|水松《みづまち》といふ(水屋白玉 店)が辛抱?して角蔵を建築せりと。今一方は山崎といへる酒店なりき。 引廻しと叩き放し 礫刑 町中引廻しの上死罪は、牢屋敷の裏門より罪人を引き出し、後へ左右の手を縛し、駄馬の鞍上 に|莚《むしろ》を敷きその上に乗せ、非人両名両方より押へ、まつさきに四角の紙幟に、何々無宿何某(重 罪人には無宿者多し)此者儀何々の罪を以て町中引廻しの上死罪申付るもの也、とその罪状を記 し、またほかに捨札とて松の六分板を横にし垂木にて足を付し名前罪状を記せしものを持ち行き、 これは|梟首《けうしゆ》の場へ首とともに建て置くものなり。左右に|捕具《とりぐ》、突棒、刺叉、袖がらみなどにて警 固し、裏門前より大伝馬町通り本町十軒店を過ぎて目[本橋を渡り、左へ四日市お|納屋前《なやまへ》より江戸 橋・|荒布橋《あらめばし》を渡り、今の第三銀行前の所に小舟町の自身番あり、そこにて馬より下ろし、罪人の 望む食物は何なりとも与へるなれども多くは望む者なし。今の安田銀行のある所に福本といふ |蕎麦屋《そばや》ありしが、その蕎麦を望む者あるも、多く食するものは少なきよし、再び乗馬させ小舟町通 堀留町を通り、小伝馬上町の牢屋敷表門に入りて死刑を執行せられしなり。鈴ケ森または小塚原 にて|礫刑《はりつけ》・|火刑《ひあぶり》に行はるる者は日本橋通りをまつすぐに品川に至る、小塚原行きはこれまたまつ すぐに浅草通り千住に至るなり。死刑執行の後は鈴ケ森または小塚原にて三日間臭首せらるるな り(徳川刑罰は『風俗画報』に委し)。 叩き放しは牢屋敷裏門前にて役人立会ひの上、罪人をうつ伏しとして左右の腕を押へ麻縄を|撚《より》 て|牛努《ごばう》のごとき格好せし物を振りかぶり、一ツ二ツ三ツと数へながら背中を打ち叩く。この際内 内鼻薬の廻りてゐる者には加減して叩き、また数も十八、二十、二十五と数字を飛ばして減ずる ことあるも役人等も気付かぬふうにて終らしむ。その後二の腕に入墨して何年間江戸に立ち入る ことを禁じて放免す。 実際の怪談、慶応の初年頃と記憶せるが、箱崎町永久橋の南川岸に何々屋といひし銀座お出入 りの有名な船宿ありし。その家族はいかがせるにや、その当時は五十近い婆アさん一人にてあり しが養子として三十ぐらゐの男を迎へしに、近所の噂にてはそれは婆アさんの男妾なりと言ふ者 多し。ある日その養子が婆アさんを川崎の大師へ連れ行かんと自分の家の小船に乗せ、自身櫓を 押して朝早く出掛け、翌日の夕暮に養子一人船にて戻り来りしを近隣にても知らざりしぐらゐな りしと。養子の帰り来りし時我家の桟橋の所に女の土左衛門が流れ着きてゐたのを見てギヨツと せしも、夕暮のこととて他人の気付かぬを幸ひとして死人へは莚を掛け、大川へ船にて引きゆき 永代辺にて突き放せしに、その翌朝再び桟橋へ流れ着き、こんどは近辺の人々の眼にも触れ八町 堀手先の聞くところとなり、養子は揚げられ白状せしところにては、婆アさんを殺して家をその まま横領して|馴染《なじみ》の女を引き入れるつもりで大師参りを口実に連れ出し、品川沖にて絞め殺し、 石を重りに着けて海に沈め、その晩は品川の馴染の所に泊りて翌日夕方に戻り来りしが、早くも 死体の流れ着きたるに恐れをなし、また再び流れ着きしに、なほなほ恐怖して包まず白状せしな りと。この男の引廻しは箱崎町の家の前を通り、箱崎橋・小網町思案橋を渡り堀留を通過し、小 塚原にて親殺しの罪にて|礫《はりつけ》に行はれしなり。  遊女の強盗と拷問に堪へて大赦に逢ふ 慶応初年の頃より世の中次第に物騒となり、 府の内外日夜強盗の沙汰頻々として、人々安き心 なく枕を高く眠られぬ折柄、近頃次第に噂高くなりしは、四五名徒党の強盗に美人が加はりゐる とのこと。その筋にても手を尽し探偵するも容易に手に入らず、日中押し入るべき家を見定め置 き、夜に入り|抜刀《ぬきみ》にて押し入り家人を脅迫して金銀を強奪す。その進退の速かにして跡を暗ます の巧みなるには手先の人々もすこぶる苦慮せし結果漸く突き留めしは、本所小梅町小倉庵といふ 有名な会席料理店を謀議所となし、旗下の士青木弥太郎を首謀者とし、同氏の情婦深川仮宅の遊 女屋永喜岡本楼のお職遊女|賑《にぎはひ》その他の同類四五名と小倉庵主長次郎を案内者として諸方押し入 ることを突き留め、一網打尽に捕縛せしなりと。賑は黒の頭巾をかぶり男装して押し入りしたり と。その当時の評判甚だしく、錦絵に青木を雲霧仁左衛門|芝翫《しぐわん》の似顔、賑は|素走《すばし》りお熊市村羽左 衛門、鼠小僧治郎吉紫若、忠信利平河原崎権十郎、その他小倉庵長次郎、皆五人男に見立て出板 せられしなり。小倉庵長次郎等は皆自白せるも、独り青木弥太郎は再三の拷問に罹るも同類の白 状を非認して数年牢舎の内、明治維新の大赦に放免せられしは、その強情我慢によるもすこぶる 幸運の者と評すべきなり。賑等は知らず、長次郎は牢死せりと聞きし。青木の牢問の際、お|徒士《かち》 目付を勤められし吉見某は検分しての戻りに語られしによると、牢内拷問所にて吟味役等の前に て、樫木の板に山形の鋸歯を付けたる上に坐せしめ、左右の手は後ろの柱に縛し、平盤の自然石 の一個十二貫あるものを膝の上に載せ獄卒が左右よりゆり動かす、山形の木板は|向脛《むかふずね》に喰ひ入る、 一枚二枚と重ね、速かに白状してお慈悲を願へと言へども覚えなしと答ふるのみ、足よりは血流 れ出で肉破れ骨砕くるも歯を喰ひしばり名状すべからぬうなり声を立てるのみ、石六枚を重ね抱 きたるが終に気絶す。傍らに控へたる医師気付を与へてその日の拷問は中止となる。疵療治の上 またさらに何回も執行するものなりと話せり。大赦後の青木は、堺町|楽屋新道《がくやしんみち》席亭の主人となり 木戸口にゐたるが、その後どこの金主ありしか府下王子有名の料理屋|海老屋《えびや》の主となり、同家に て病残せり。  御老中の印形の紐 諺に長き物を見て御老中の|印形《いんぎやう》の|紐《ひも》のやうだといひたりしが、それは死刑確定罪人の刑実行の 認可調印を当番閣老に請ふ時、老中はなるべく自分の調印をきらひ印形の紐の長きをそろそろ解 きゐるうち、ほかに何か御用ができると、そのまま立つてその日調印はお流れとなる、それゆゑ 紐をばかに長くせしたりと。  富士見御金蔵の窃盗 安政三年の三月日不詳、御城内の石垣へ天保銭を挾みて足掛りとし、富士見御金蔵へ忍び入り 小判金四千両を盗み取る。|上槙町《かみまきちやう》清兵衛地借藤十郎三十九歳(藤岡と名字の称ふ)、野州都賀郡 犬伏村無宿入墨富蔵、加州にて召し捕られ、安政四年五月十三日引廻しの上礫に行はる。藤十郎 は九百両、 富蔵は三千百両を奪ひ取りし由。  幕末鋏強盗 慶応三年十一月頃より江戸市中に|鋏強《まさかり》盗とて市内有数の豪家を目指し、隊伍を組んで押し入 り強盗を働くこと毎夜数軒に及ぶも、町奉行付の役人等さらに手を下さず、ほとんどなすがまま に横行せしむるがゆゑに、市内の|物持連《ものもちれん》は安き心なく、夜に入れば門戸の締りを二重または三重 にして警戒するもその効なし。私の一軒置きたる隣家に、|久住《くずみ》伝吉といふ下り|玄米問屋《くろごめどひや》伊勢出店 の豪家ありし。当時小網町一丁目に米の定期取引ありしが、その売買証拠金を久住店にて保管し、 店の床下の穴蔵に毎日仕舞ひあることを探知せしものとみえ、十二月二十日頃と記憶せるが夜の 九ツ半時(一時)の頃、同店入ロの戸を打ち破る音聴き付け、スハ隣家へ鋏り組が来りしなりとて 一同起き出で、二階格子戸の雨戸を開き覗き見るに、この夜|瀧月夜《おぼろづきよ》にて川岸土蔵の前に十名ばか り鉄砲を持ちたる者整列し居り。|親父橋《おやぢばし》の角にも思案橋の方にも見張りの者を置きて|斥候《せきこう》なしつ つあるもののごとく、町内中は勿論、隣町にても早拍子木を打ちならし各町々へ非常を知らする のみ手を出し方もなし。賊の見張りは世間構はぬ大声にて、「ばかにカチカチ叩きやあがるな」 などと話しゐるうち、呼子笛の音を相図に千両箱を担ひたる者を中に取り巻き一同思案橋の方に 引き揚げたり。程経て恐る恐る久住店へ見舞に至りしに、店員等はただ呆然としてなすことを知 らず。聴くところによれば始め店の潜り戸を打ち破る音に驚き目覚むれば、鋏を持ちたる者二人 店の穴蔵の畳を揚げ穴蔵に入る、ほか五六人手に弓張提灯を持ちたる者等は店員に静かに致して をれとて一所に集合せしめ、塀越に退れ出でんとせし者を引き卸し脱出せしめず、そのうち穴蔵 に入りし者は錠を鋏の尻にて打ち破り、庫中|金函《かねばこ》に入りしまま一分判二分銀取ヶ交ぜ九千何百両 といふ巨額の金を盗み取り、そのまま引き揚げしなり。Lかし店員等には何の危害も加へず、そ の手配りの行き届けるは決して普通の草賊にあらざることはいふまでもなし。世間噂の薩摩強盗 と言ひしも無根とは言ひ消し難きがごとし。その翌夜に霊岸島の鹿島質店へ押し入らんとせし時、 市中警衛の庄内藩新徴組来り討合ひあり、負傷者をも出だせるよしなるも強盗連は退散せしと。 その後芝新銭座の新徴組|屯所《とんしよ》へ向け発砲せしとかにて、いよいよ三田の薩摩藩邸の焼討となりし なり。これは十二月二十五六日かと記憶せるが、私はその朝物好きにも三田の藩邸へ見物に至り し。途中京橋にも新橋にも歩兵隊詰め居れり。既に薩摩邸は盛んに焼けつつありて、付近には兵 隊も各所に陣取り居りしも戦ひのありし模様も見えざりし。聴くところにては、同邸にありし連 中は夜のうちに同邸を立ち退き、途中品州の遊女屋にて酒食し、|鮫洲《さめず》より|艀下《はしけ》にて薩摩藩の商船 品川沖に|碇泊《ていはく》せる某丸汽船に乗り込み脱走せしなりと。時経て品川碇泊の徳川家の軍艦追ひ掛け しも、夜に入り終に見失ひしと。この船は神戸にて徳川家の軍艦に追はれ、土州の海岸に乗り上 げたりと聴けり。  日本橋の晒場 近年新刊の『日本橋史』やその他の書籍に、日本橋南側の|晒場《さらしぱ》と大業に記しあるも、小塚原や 鈴ケ森の刑場と違ひ、もとも之四日市町と|万町《よろづちやう》と日本橋側の三角地点にして、道路を除きその頃 は今より狭き場所ゆゑおよそ五十坪ほどもありし三角地なりし。今日の村井銀行の入口の所、万 町の方を向ふ入口とせし淡雪といふ茶漬店診りし。その横手に井戸あり。その前より三角形の広 場ありて、平日は露天講釈師が手拭で蛇を持へ何か昔話しをなし人を集めて銭を貰ひをりし所、 一年に一度か二度|女犯《によはん》の坊主を晒すことあり。その時は今の村井銀行入口の辺へ間口五間くらゐ 奥行九尺ぐらゐの仮小屋を作りその内に座せしめ、見張人付き添へ三日間晒しの上、傘一本にて 江戸の地を追ひ払ふなり。その他心中のやり損じなど三日晒しありとのこと、これは稀なるくら ゐ。ある年主殺しの者自殺せるを|瓶《かめ》に入れ塩漬とせるを見しことありしも、頭を少し出せるのみ にて面体も見えず。|鋸引《のこぎルび》きなどと画にて見しのみにて、いつの年代にありしか聞きたることなし。 打首さへ牢内にて執行するに臼本橋橋側に惨刑の近くに行はれしを信ずることは出来ません。し かし明治の初年まで小塚原、鈴ケ森の両刑場にて火あぶり礫の刑は衆人の見るところにて行ひし なり。獄門も両所にて白昼三日間梟首せしなり。  流行の神仏 天保年間に流行の神仏は|田甫《たんぼ》の太郎稲荷、四ツ谷新宿の|三途河《さうずか》の婆さん(|脱衣婆《だつえば》)の像、四日 市の翁稲荷、この二者は優り劣りなき参詣にて、当時両関として首つ引の錦絵にも出しくらゐの 繁盛なりしも、今はその影も失せにき。その後は四ツ谷のお岩稲荷、これは本末の争ひより参詣 も少なくなりし。赤羽根有馬邸の水天宮、毎月五日は非常の参詣なりし、維新後一時赤坂に移り し頃は参詣も少なかりしが、|蠣殻町《かきがらちやう》に移転後今日の繁盛を来せるなり。虎の門|生駒《いこま》邸内の金比羅 宮も、維新前毎月十日のほかは参詣を許さぬ頃は随分群集せるも、今は年中参詣を許すゆゑ割合 に混雑はせぬやうに見受けらる。しかし神主の懐の増減は知らず。明治初年浜町細川邸内の清正 公も柳橋、芳町辺の芸者、芸人の参詣多く、毎月二十四日大川端は混雑せるが、熊本の本社出開 帳より人気うすらぎ、今日では参詣者稀なるに至る。何といつても浅草の観音は横綱大関日の下 開山なり。深川の成田山不動尊は以前茅場町にありし、昔はさのみ参詣者もなかりしよしなりし も、蔵前八幡社内に移りしより参詣人増加し、その後今の地に移転せられますます繁盛となられ しなり。そのほか一時|山師連《やましれん》のあふりにてお倒巧連の参詣するものは土左衛門様といひ、その他 何々様といふも一二ヶ月で影もなくなるもの多し。羽根田の|穴守《あなもり》、砂村の|価気《せんき》の稲荷などは寿命 長き内なり。人形町の大観音のごとき、明治の始めお船蔵跡に輸出ものとして搬出せられしが、 急に御利益ありとて信徒が今の地に安置せるなり。私もこの御利益の取次ぎにさせられし珍談も ありますが、マア止めておきます。 縁切榎 いつ頃の時代より起りしにや知らざれど、中仙道板橋宿の西側に年古|榎樹《えのき》あり、この 榎を削りそれを湯茶または酒に入れて対手に呑ますれば、自然に縁が切れるといふ迷信から願掛 する者多し。文久二年|和宮《かずのみや》様家茂将軍と御結婚御東下の際、不吉なりとて伐採するとの評あり しも、その当時板にて高き塀を作り外面に出ぬやう囲ひ置きたるなりと。しかるに近年|枯朽《こきう》せる よしにて樹根より|代芽《かはりめ》を出だせるを榎様とし、|側《かたはら》の家の内に|小祠《せうし》を造りそこにて祈願せしめ、榎 の削りたる物に何かまぜものして祈願者に与へるたりと。それを用ふる時は必ず効験ありとて、 府下より行きて祈願する人は、芸人、芸妓、囲ひ物、妾等の男女最も多く、これは男女の縁切り のみならず、酒好きの者が酒ぎらひになるなどの|験《しるし》もありと。願ひの叶ひし人々内々金品を礼物 として持ち来るゆゑ、祠掌は常に福々なりと。  千社札及び楽書 いつ頃の年代に始りしや知らざれども、かなり古くからありしやに思はるる。神杜仏閣の柱と いはず軒といはず、長方形の紙に大間富大吉利など符牒のごときものを張り付くること流行せり。 名を売るためか迷信か、府下のみならず近郷近在まで行はれつつあり。維新前に至りますます大 業となり、色刷りの立派なる印刷物を張る者ができました。この道楽もなかなか安くはなくなり ましたやうです。それに引きかへ、昔は土蔵の白壁や立派な檜木作りの板塀などに墨や焼瓦や白 墨のやうなもので合相傘をかき、お染久松いろいろとか、おまつ竹吉いろいろとか、甚だしきは 男女の陰部を書きちらす悪太郎等多かりしが、近来学校にて生徒に訓戒するゆゑか稀に見るくら ゐ少なくなりましたは結構ですが、それに反して他人の入口の前の電柱に大文字に俗悪無遠慮に 麻病花柳病などの売薬の広告を出す者あり、これが一ケ年何十万円の収入あるがゆゑ人の迷惑を 顧みざるなどは、驚き入つたる世の中であります。  縁日商人及び植木屋 縁日は天気さへよくば三百六十五日各所にあります。たとへば一六の日はここ、二七、三八は かしこ、四九、五十はどこ、ほとんど毎日です。臨時祭礼やら開帳仏会等に人の集る所には必ず 縁日商人の店出しあり、商人出で賑はしきゆゑ人集る、人多く集るゆゑ、商人もまた多く出づる、 といふがごとくでも、縁日の神主や堂守は縁日商人に金を与へて出てもらふ類もありと。繁昌の 縁日は茅場町の薬師、|薬研堀《やげんぼり》の不動尊、上野三橋の摩利支天、神楽坂の毘沙門、虎の門の金比羅、 西川岸の地蔵、内神田六毘沙、数へ尽されず。そのうち茅場町と薬研堀へは|植木店《うゑきだな》多く出づる。 近時茅場町辺は賑やかの街となるに反し、縁日の方は衰微の傾きにて昔の面影はなく、植木店の 名を残すのみとなれるやも知らず。暮の薬研堀の市などには植木屋多く、盆栽の松、梅、福寿草や 南天、その他の植木または|室咲物《むろざきもの》など持ち出し、道路の往来もなり難きほどの人出なり。客「オ イその鉢の梅はいくらだ、植木屋「旦那コリヤア随分の古木デス、お安く負けて二両二分にして置 きませう、客「こつちの鉢なしのは、植「こつちは三貫五百デス、客「両方で二朱やらう、櫃「旦 那御じよう談をおつしやらないで買つて下さい、客「イヤなら御縁がないのだ、植「モシモシ旦 那、ソンナラ両方で一分やつて下さい、客「それならモウ三百やらう、植「エヽ|口明《くちあけ》だ、願つて 置きませう、と吹き掛け、三両余の物を二朱と三百文で|商内《あきなひ》ができる。植木の売買は田舎の人が 聞いてゐて驚き、あまりの値切り方で喧嘩にでもならぬかと気遣へども、平気で負けるにも驚く なり。他の商人はさのみ揖値はせぬなり。草花類は別して掛値をなすなり。春は彼岸桜、山桜よ り、牡丹、|芍薬《しやくやく》、|海棠《かいだう》、|躑躅《つつじ》、|藤《ふぢ》、|菖蒲《しやうぶ》、朝顔や、秋は、七草や菊そのほか、四季折々の草花、 西洋花も出すゆゑ四時花物の絶える期少なく、ほかに縁日に多く出る商ひ物は小間物屋、おもち や屋、菓子屋、水菓子屋、せんべい屋、金魚屋、虫売、|鰑《するめ》の付焼、あやめ団子、ドツコイドツコ イ、飴屋、飴細工、|新粉《しんこ》細工、文字焼、水屋、白玉、|心太《ところてん》、寒天、燈籠売、|枇杷葉湯《びはえふたう》、はじけ豆、 椎の実、稲荷鮨、古道具、絵双紙、御神燈具、蠣燭、その他時々の流行物あり。縁日商人も、か へつて店商人より余分に商内するものあり。しかし、夕立など降り来る時は、その騒動は一方な らず、長雨の頃は、縁日商人の御難なりと。仲間には、世話やき、親方株ありて、なかなか地割 などやかましきなりといふ。 |新宿《にひじゆく》の指の灸 水戸海道新宿の手前に、千住亀有在大谷田村に百姓の正兵衛といふ、指一切の 疾患は灸にて治すとの評高く、府下より遠路治療を請ふもの多し。|指疽《しそ》、打疵、切疵、|撞物《はれもの》、な んらの病源を問はず。足手の甲より指一切に、足は足、手は手の小指にごく小さなる|交《もぐさ》を灸点す。 治癒すること神のごとし。古びたる百姓家にて六十以上の正兵衛老夫婦にて灸点する者日々数十 人に及ぶ。灸点料は心任せとして何程と定めず。軽きは一回、重きも二三回にて全治す。庭中に 碑あり。嘉永年間の建碑ゆゑ、天保末年頃より起りしものならん。聞くところにては海岸線鉄道 開通以来ますます治を請ふ者多く、亀有駅を乗降する十中の九は灸点に到るものなり。今日は正 兵衛老人の惇と孫らしく、ほかに女の助手二三名居り。多き日は一日四百余名に及ぶといふ、そ の繁昌驚くべし。  能楽 勧進能は私の覚えてからは催されたことはありません。天保二年に観世一代能、嘉永元年に |宝生《はうじやう》勧進能のありしことは聞いてゐましたが見たことはありません。十三四歳の頃、銀座西仲通、 俗に観世新道の観世の宅にて拝見せしことが始めてで、なかなか見識張つたるものでした。|切《きり》が 紅葉狩でしたから秋の頃かとも思ひました。十四代家茂公将軍宣下の町入の御能、文久三年三月 二十三日御催しの時、私の義兄は町内総代として拝観に参りました。麻上下に紙で切抜いた紋を ひるすぎかつら 張り付け、昼後から参りました。昼前昼後の二度に分けて拝見を許さるるなりし。大森豊を被り しものあり、祥にたすきをあやどるもの、異容異体の風俗で参りました。この日は一切無礼講 にてお各めはあらせられず、将軍出御の時は|警躍《けいひつ》の声にて|御簾《おんみす》を捲き上げると同時に、拝観人は 「親玉」と言ふあり「成田屋」と叫ぶものあり。番組のうち鉢の木あり。|最明寺《さいみやうじ》のワキが「一夜 の宿を貸しくれ」と言ひし時、見物より、「|人別《にんべつ》がやかましうござりますぞ」とどなりしものあ り、町奉行始め役人一同うつ向きて笑ひをこらへしと。これはこの頃水戸浪士の騒がしき時にて |狼《みだり》に宿泊を禁ぜしゆゑなり(町入の能はこれが仕舞ひなりし)。退散のせつ舞台前に飾りありし |錫《すず》の|御神酒《おみき》徳利は拝観人に下さるる例にて、義兄はやうやう一本を持ちかへりました。それと銘 銘へ雨傘一本づつ下される。拝観者の迎へに各町より高張や万燈をともし、盛んに迎へました。 能役者も、御一新後は実に一時、気の毒の境界でありました。薬研堀の結城座で興行の時はまだ よいはうでしたが、薬師寄席宮松でやつた時など見物が十五六人で、気の毒で見てゐられません でした。それを思へば今日の盛況は雲泥の相違であります。 能役者は芝居を見ることを禁じられありしと、芝居役者には能の見物を許さざりしと聞く。そ れゆゑに市川団十郎が我家の|十八番《おはこ》勧進帳のため参考に能の|安宅《あたか》を拝見なしたく、多年の宿望を 気の毒に思ひ、木場の材木問屋|雑賀《さいが》屋の主人、自宅に立派なる能舞台ありしゆゑ能役者(宝生太 夫?)招き安宅を演じさせ、ひそかに団十郎に内見させしことありしと。  相撲 一年両度春夏の候、両国回向院にて晴天十日勧進大角力の興行は、明治以前も今日に劣らぬ繁 昌でした。ある点は今日以上かも知れません。東西の力士は多く諸侯のお抱へで、触太鼓の廻る 翌日から諸家のお家来は桟敷にて見張りをなし、場外には数頭の乗馬を繋ぎおき、お抱へ力士の 勝敗は一々早馬にて御本邸へ注進する。ある年阿州侯のお抱へ力士、大関鬼面山、陣幕、大鳴門、 虹ケ嶽の四人が雲井嶽改め小柳のために、四日続けて敗を取りしゆゑ非常の騒ぎとなりし。その 翌夜小柳暗殺せられしゆゑ、いろいろの取沙汰流言百出せるが、小柳の加害者は同部屋の朋輩同 士の争ひの結果と、知れ、漸く沈静せるが、一時はよほどの騒ぎでありました。当時は莚張りの小 屋ゆゑ、夏場所入梅季に太鼓を廻すと翌日は雨にて、十日の興行に二十日も三十日もかかること は珍らしからぬゆゑ、大兵肥満の勧進元親方連が痩せて骨と皮となること多し。それに反し今日 の大鉄傘内の興行は安心のものです。十日目のほかは婦人の見物は許しませなんだ。場の内外に て勝負の賭は盛んなものでした。場の中での喧嘩は|合中力士《あひちゆうりきし》がつかみ出します。  芝居及び芝居茶屋 天保御改革の折、堺町中村・市村の両座、及び木挽町の守田座を、浅草の観音の裏手猿若町に 移転せしめらる。中村座は一丁目、市村座は二丁目、守田座は三丁目と定まり興行せしめらる。 しかし中央の地よりおよそ一里を離れて随分不便なる土地なりし。ことに交通不備の時代見物人 に取りては迷惑の至りなりしも、好める道とてさのみ遠しとも思はず、乗物によるものは十中の 一二に過ぎず、多くは徒歩にて行くなり。婦女子は前夜より髪を結ひ、夜の明けざる頃より化粧 して家を出づるもの多し。芝居始り三番聖・脇狂言などは夜明け頃に始め、序幕は五ツ(朝八時) には開幕す。打出し(閉場)は早き時は夜の五ツ(夜八時)、遅き時は九ツ(夜十二時)過ぎることあ り。それより山の手辺などにてくてくかへる人は暁になることあり。芝居見物に一昼夜半を費す など、のん気の時代でありました(狂言に時間の制限なし)。|上下《じやうちう》の見物人は多く茶屋によりて 入るを便利とす。大入の時などは予約なきものは空しく戻るか、他座に入るのほかなし。茶屋に 前々より申し込むにも電話の便なく郵便もなきゆゑ、わざわざ小僧などを使ひに出す。この使ひ には無料にて桟敷裏より見物させる。それを楽しみに使ひに行くを小僧等の役得とす。初日は無 料、二日・三日は半額、狂言全部出揃ひは一週日ないし十日ぐらゐの後なり。茶屋には表茶屋、 裏茶屋といひて、表茶屋には料理人も抱へあり。猿若町の料理人は上の部なり。幕間に酒食する 弁当は|打抜《うちぬき》多く、今日のごとき|雑風景《さつぷうけい》なる料理にあらず。また茶屋に至りて飲食する客もあり。 茶屋の主なるは、(一丁目・二丁目の茶屋は共通、三丁目は別) 二丁目中菊 二丁目伊世半 三丁目川島 二丁目万吉 一丁目若松 三丁目菊岡  一丁目松村 三丁目武田や 二丁目大遊 二丁目若文 一丁目岩附 二丁目水近江  三丁目猿や 三丁目亀田 一丁目中島 三丁目紀の国や 三丁目魚島  三丁目いづみや 一丁目沢潟 三丁目高はし 二丁目市川や 一丁目中文  三丁目梅林 三丁旦高麗や 一丁目浜松や 三丁旦三よしや 著荷越前藤や中泉綿清尾の丸玉きん 計三十三軒なり。 大入の時などは裏茶屋は、桟敷その他の上等場所は大茶屋に占められ、取ることならず。芝居 の造りは、今の歌舞伎座の半分ぐらゐ天井は|葭簾《よしず》にて|牛丸太《うしまるた》むき出し(天井を張りたるは新富座 が始めなり)、それへ水引といふ細幅の幕に役者の定紋を染め出し、ひいきより贈らるるもの多 し。幕が閉れば茶屋の男女が「|小用《おてうづ》はいかが」と聞きにくる。茶食物を運ぶ伸売りは、「お菓子 松風ヨシカ、|九年母《くねんぼ》ヨシカ、|鵬鵡石《あうむいし》役割前番付(役者のせりふ)ヨシカ」と売りあるく。幕の長 き時は|一時《いつとき》(二時間)ぐらゐかかることあり。この間役者が茶屋の二階で客と酒食することある も、さのみ見物はやかましく言はず、手を叩くくらゐのことなり。|放《は》ね(閉場)となれば、船に てかへる上等客には茶屋の看板を付けて芝居川岸まで送り来るを例とす。大多数は、てくるなり。 芝居の大入の時は、府内宿屋も大入のことあり。小団治の佐倉宗五郎の時など、馬喰町の宿屋客 止めせしことありしくらゐなりき。 三芝居とも、夜のまだ明け切らぬ薄暗いうち、ペイペイ役者が三番隻を勤め、その後で脇狂言 といつて中村座は|酒顛童子《しゆてんどうじ》、市村座は七福神、守田座は|狸々《しやうじやう》|舞《うまひ》といふ首まではいるぼて|鬘《かつら》を被 りて旧式の舞をなし、終りて後本狂言の序幕を開くなり。  木戸芸者と合羽 |木戸《きど》芸者といふ男衆あり。主なる役者に随ひ、客席に送り迎へす。平素お召縮緬に派手な友禅 の下着など着てゐる者多し。客がひいき役者を茶屋・料理屋に招くに、この者等に渡りの厚薄に よりその厚き方に導き、薄き方へはなかなか連れゆかぬなり。|流行《はやり》役者などは、客が待ちぼけを 喰はせらるること珍らしからぬよし、まづこの社会の寄生虫ならん。 |合羽《かつぱ》といへるは晴雨とも半合羽を着て木戸口に居り、|振《ふり》の客、田舎ものなど引き込み、ぼるこ とあり、ゆゑに|河童《かつぱ》といふが自然合羽が通名となれる。 昔は俳優を河原乞食といふて賎めしものなり。それは始め京の河原に莚を敷き、その上にて演 芸をなせしによりしなりしと。それゆゑ何かの引合ひに町奉行所に呼び出さるる時は、編笠を被 りて出でしなり。明治の初年、町奉行所に役者大勢呼び出されしことありしに、中村仲蔵のみは 編笠を携帯し行きたるを、人々昔を忘れぬ心掛けに感心せしと聞けり。  猿若町三芝居出勤役者人名 亀蔵、薪水、芝翫、田之助、家橘、|下《くだ》り友右衛門、訥弁、福助、鶴蔵、 三津五郎、左団治、米三郎、|歌女之丞《かめのじよう》、国太郎、錦升、新之助、 |八百蔵《やほざう》、竹松、梅幸、市松米五郎、雁八、三八、吉六、小半治、 薪左衛門、幸升、駒十郎、広蔵、菊栄、かめ三、三すじ、武次郎、松次郎、 丸きく、かつみ、市之丞、七郎左衛門、|橘十郎《きつじふらう》うた介、 市太郎、紅市、ひな松、百之助、ふく六、桃十郎、孫六、鯉三郎、市五郎、 島八、七蔵、紀二郎、巴二右衛門、成蔵、団八、千代飛、武十、にしき、いてう、 菊四郎、芝歌、米次郎、佐十郎、相蔵、源之助、しげ松、冠五郎、翫太郎又太郎、 仲太郎、玉三郎、小文治、現十郎、九蔵、新車、三十郎、三升、紫若、団蔵、 菊次郎、小団次。  納涼 御府内のすずみは|不忍《しのばず》池の端、湯島天神社内、神田明神境内、九段坂上、愛宕山上の茶見世、 洲崎の土手、または露天にて、|涼《すずみ》を|納《い》るる人も多けれど、|蚊軍《ぶんぐん》に責められ、|団扇《うちは》を放すことなら ず、大河に浮ぶのに優ることなし。元禄・享保の頃|三囲《みめぐり》の|鷹木《がんぎ》にて船涼みせることその頃の書物 にも見えしゆゑ、両国の橋間も古めかしと、一夕山谷の洲竹屋の鷹木に行ぎたることありしも、 籔蚊にてハフハフ逃げ出し、首尾の松の下に至りしも同様、やつばり橋間が安全なりし。|家形汁《やかたじる》 こぽし船は文久時代以後は見しことを記憶せず。普通の涼船に対し、写し絵、八人芸、猿廻し、 影芝居、新内、その他水菓子、しるこ、|茄玉子《ゆでたまご》等のうろうろ船は、東西南北に漕ぎ廻りて|納涼客《すずみきやく》 の需めに応ずることは昔にかはらぬとぞ。 下見れば及ばぬ事の多ければ上見て通れ両国のはし |鋳掛松《いかけまつ》が橋の欄干より川中ヘ道具を投げ込んで賊となりしは安政前のことたらん。  花及び花園 初春は、まづ第一に、亀井戸天神裏の|臥竜梅《ぐわりゆうばい》、|木下川《きねがは》の梅、大森の梅屋敷、とまだ肌寒き頃よ り通人粋客は、梅見に出掛けるもの多し。船を横川に入れ柳島の橋本にて枯れ野を見晴しつつ、 鯉こくで一酌して戻るなどは、この頃の楽しみなりし。|弥生《やよひ》の桜花、御殿山は外国公使館建設続 いて焼失以来花見はゼロとなり、上野、|飛鳥山《あすかやま》も老木次第に少なくなれり。花の頃は上野東叡山 は徳川家の御廟所輪王寺の宮様御境内とて山同心の見廻りも厳重ゆゑ、,花見連も|毛耗《まうせん》を敷き|割籠 竹筒《わりかごささへ》を開き静粛に花をめづるのみ、鳴物などは許されぬゆゑ、乱酔者も少なく雑風景のことなし。 諸侯の奥向大連もあれど、やはり飛鳥山、向島の無礼講的の方興味多きゆゑ、この方に人出多し。 当時飛鳥山も今より広ぐ、今日の渋沢邸なども飛鳥山の芝生なりし。定紋の慢幕を張り廻し|団居《まどゐ》 せる諸侯の奥向、お煮しめならぬ椎茸も、美しく見ゆるなり。これらを当て込み、茶番など仕組 みて繰り出すあり。『八笑人』の左次郎的の二の舞も度々ありしを聞けり。踊りの師匠連、富本・ 常磐津の娘連、今日を晴と着飾りし連中もしどけなき振となりて、|鬼事《おにごと》・目かくしなど芝生一面、 一家同輩と人の酒呑むもの勧むるもの、乱酔者も多くできるも割合に喧嘩口論は少なし。当時は 放任主義にて、官の干渉はなし。向島は土手狭きゆゑ、秋葉社内ヘ陣取る者多し。それに引き替 へ、今日の向島は甚だ雑風景にて、煙突はニヨキニヨキ、土手下の田の|面《も》は職工長屋と化し、定 紋の慢幕は代りて子供のおしめやおかかの下帯の干場とたり、桜樹は次第に少なくなり、対岸の 橋場今戸の朝煙りといふ|竃《かまど》もなくなり、高層の別荘|彊《いらか》を並べすこぶる立派とはなりしも風情は更 になくなり、都鳥もいつとなく逃げ出して影も止めず。業平|朝臣《あそん》が再び東下りしていざ言問はん と言はるれば、堤上の団子見世の女中が返事するくらゐのこと、白魚の四ツ手網に桜の散りかか る画題もなくなれり。その代りに赤白青の|端艇《たんてい》競争は年ごとに盛んになりしは、土手のお茶屋の 幸福なり。荒川堤の桜には名種も多くあれども、昔は見物少なく、今日は荒川改修のためそれも どうなるか。小金井は汽車の便利となりしゆゑ見物も多くなれり。江戸川端、赤坂堀端辺の桜は 昔より多く(維新前には弁慶橋なし)、花の頃は見物も多し。亀井戸天神社内の藤の花は、昔に 変らず|由縁《ゆかり》の色も槌せず花房も長かりしも、度々の出水のためやや|凋落《てうらく》せりと。近来は汽車の便 をもつて|粕壁《かすかべ》の藤、館林の|騰燭《つつじ》を見に行く人多し。一時大久保のつつじ見物に行きし人ありしも 今は聞かず。四ツ目の牡丹、目黒の牡丹もさほど人足を曳くに至らず。堀切の菖蒲、吉野園の菖 蒲も蒲田のも、これまたさのみ人出も少なし。入谷の朝顔は皆無となり、染井の菊、団子坂の菊 は国技館の菊細工に踏み付けられ、かへつて素人の邸宅に|稀物《まれもの》を見るのみ。百花園の秋の七草名 残りを止むるのみ。|紅葉《もみぢ》は滝野川紅葉寺は昔のごとくにて変りなし。 「アレ見やしやんせ海曼寺」、 と歌沢の曲もあれど、今は海曇寺に杖を引くものなし。  府下の名園 府下の名園は吹上・浜御殿等は別として、諸侯の|上中下《かみなかしも》の邸内には相当の庭園少なからぬも、 そのうち最も名高きは、 小石川水戸家本邸の後楽園 今砲兵工廠内に現存す 田安家三ツ股の庭園 明治七八年の頃取り崩し貸家地となる 佐竹侯の吾妻橋庭園 大日本|麦酒《ビール》会杜の工場とたる 松平三河侯蠣殻町庭園 豪商杉村甚兵衛氏の有となり現存す 扇橋鴻儀の庭園 (東海道五十三次の模景ありし)三井家の倉庫となれり 本所津軽侯の庭園 今はなし 駒込柳沢侯の六義園 (染井富士前町)元禄八年四月柳沢|吉保《よしやす》に賜りし四万余坪の庭園なり、有名なる朝妻船を淀べし池あり、今は三菱家邸内 以上のほか諸家の庭園残りあるも、昔の面影を止むるものは少なしと聞けり。  ばからしき江戸名所 広重の江戸名所百景などにも出てゐますが、王子の|装束榎《しやうぞくえのき》に大晦日の夜、近所にゐる狐どもが 元旦に王子稲荷に参拝なす装束をするため集るとて、その狐火を府内の粋狂人が汽車もない時代、 寒風を冒して見に来るものあり。実際秋季には狐火を見しことも度々ありましたが、冬枯時の乾 燥季に狐火の起るはずなく、これは大晦日の夜、豊島梶原辺へ掛取などに往来する提灯の火影が、 広き田甫中にチラホラと動くを飛鳥山から遠見すれば、狐火とも見ゆるのならん。もとよりはる ばる出て来る時からつままれてゐる人々ゆゑ、|真物《ほんもの》ならんとするも無理ならず。土地の者はよく 知つてゐる。お茶屋などは閑の頃ゆゑ、今年はお狐火も沢山ともりましたゆゑ来年は豊作でござ います、と真顔で客をつまむも|面悪《つらにく》し。  江戸の髪切り 明和二年の秋頃、髪切りといふこと流行せしよし『武江年表』に記せるが、元来府下にて髪切 りといへることは毎年諸方にあり。|妙齢《としごろ》の女子に多きがごとし。髪を切られし人について聞くと ころによれば、多くは雪隠の中、井戸端、|庇間《ひあは》ひ等の人通り少なき所等にて、後方より肩に昇り しものありと思ふ間に、髭が前に落ちたり。猫のやうなものなりといひ、狐に似たものが肩に上 りしと言ふものあり。一様ならざるも、いづれも切口は刃物にて切り取りしがごときもの多し。 切口がねばりゐるといへども疑はし。明治二三年の夏の夕方、横浜にて有名の引取商あり。その 家の客用雪隠は店の傍らにあり。店員は店先きにて涼み居たるに、あはただしく客雪隠より飛び 出でたる一人の若者、頭を|双手《もろて》にて押へ駆け出し来り、何かあやしいものに髭を切られしとてま つさをになりふるへ居れるに、一同驚き実見するに|髭節《まげぶし》切り取られあり、|襟《えり》の所に爪で引つ掻い たるやうな跡あり。多分狐の所為ならん、いな狸ならんなど評議まちまちにして、雪隠へは花火 を揚げ当分恐れて誰も夜分ははひるものなかりしが、その後一ケ月ほど経てその家の内室が奥土 蔵の二階に昇りしに、店員の衣服箪笥の引出しが二三寸明きありしに、何心なく内を見しに白紙 の上に男の髭節の載せありしを見て驚き、二階よりかけ降りて主人に話せしにぞ。早速取り調べ たるに前夜髪を切られし|何某《なにがし》といふ男の髭なりしゆゑ、だんだんと糺問せしに他の義理あしき借 財の申し訳に髪を切りて謝罪せしことと判明し、前夜のことを思ひ出してばかばかしく一同大笑 せりと。それより一ケ月ほどの後、東京甚左衛門町にて有名なる料理店にて、|下番《したばん》の女中平常お となしき内気ものお何十八が、少し不快なりとて打ち臥せしが、その夜いつのまにか島田髭の根 元より切り坂られたるゆゑ、酒井の中屋敷の狐の業ならん、いな狸ならんと小田原評定まちまち なりしも、多くの女中若き芸者連同楼への出入りを恐れ、それを面白きこととして驚かす客もあ り、一時評判なりし。多分熱のため我知らず切りたるならんなど推量せる人ありしも、実際は内 密に情夫ありてその男の嫉妬のためにやられしと解りしなり。江戸の髪切りは情夫のため嫁入り の前に多く、本人または親達の世間を隔着する怪談にて、かへつて地方にはかくのごときばから しきことは少なしと。  盆踊り 昔から江戸には北越や東北の地に行はるる盆踊りなし。正徳の頃より享保の始め頃まで、中橋 の広小路へ盆時分に各方面より人々集り来りて盆踊りをせしことありしも、いつとなく止みたり とは『武江年表』に記してあります。その以後聞いたることもありませんが、私が子供の時代、 佃島の|一向宗《もんとしゆう》の信徒の婆アさん連が、築地本願寺の|茶所講《ちやじよかう》の家々を、盆近くの夕暮または夜に入 り踊りに参つたことを記憶してゐましたが、あまり色気のなさすぎたるもののやうでした。今で もありますか知りませんが、維新前までは町内の娘子供七八歳より十五六歳ぐらゐの一と群が、 盆になると夕暮より同じ年ぐらゐの者七八名づつ一列となり、|年長《としうへ》のものは順々に後に列して五 六列をなし、手を連ね、竹の先きに紅ちやうちんまたは切子燈籠を持つものもありて、声張り揚 げて、 盆々ぼんの十六日に、お閻魔様ヘ参ろとしたら、 数珠の緒が切れて鼻緒が切れて、南無釈迦 如来手でをがむく 茲と堺町は海ならよかろ、 朝鮮船流して源之助を乗せて、 跡から岩井粂三郎/\ などと歌ひつれて町々を練りあるきしを記憶してゐました。  江戸内の人口 江戸の人口は(安政三辰年四月書上、男女五十七万人余、市内総人別や前年九月より二千〇三 人増とあり)安政時代が最も多き時なりしやに思はれたり。享保六年以後三四年間の調べを書き たるものを左に記せば、 享保六年十一月町方総人数高 五十万千三百九十四人内(男三十二万三千二百八十五人) 女十七万八千百〇九人 但し地借店借召仕等迄の人数なり。 同七年寅四月町方支配町人数 四十八万三千三百五十五人内(男三十一万二千八百八十七人) 女十七万四千〇七十七人 六年十一月比較一万八千〇三十九人減(男一万〇四百一人) 女七千六百三十八人 享保七寅年九月総町方人数内男三十万七千二百七十七人 女十六万八千九百五十九人 七年寅年四月人数より男五千六百人 女千五百十二人減 同八年卯四月総人員 四十五万九千八百四十二人男二十九万○二百七十九人 女十六万九千五百六十三人 七年寅九月に比較一万六千三百九十四人減内男一万六千三百九十四人減 女六百〇四人過上 同八卯年九月総人員 四十七万三千八百四十人内男三十万四千六百八十六人 女十六万九千百五十四人 一万三千八百四十人過内男一万四千四百七人過上 女四百九人過上 右は当年迄の員数にて、此外能役者並に町宅にても武家の家来且又支配区の町人は相除き申候 以上。 辰閏四月十四日御奉行所に差出し(『環斎記聞』) 右によりて考へる時は、当時諸侯及び藩士・旗本・御家人を加ふれば、百万に近き人口ありし と察せらる。|爾来《じらい》百四十年後の安政年代には、無論百万以上、百三四十万の人口ありしやに思は る。いささか参考のために記し置くのみ。  寄席 寄席は各所にあり。講釈の定席あり、落語及び色物と称へ、音曲、八人芸、足芸、手品、写絵、 男及び女義太夫、新内節、手踊、芝居話と種々あり。一寄席の主なるものは、(|中入《なかいり》に茶と菓子を 売りに来る。同時に前座の役徳として|閤《くじ》を売りに来る) 京ばしときはてう左の松、日本ばし瀬戸物町い世本、神田龍閑橋りう閑、 外神田わらだな藤本、日本ばし万町一力亭、日本ばし木原店木原亭、 江戸ばし四日市土手蔵、かやば町宮ま津、今川ばし山のゑ、四谷原よこ町おし原、 音羽目白亭、下谷金杉竹の内、れいがんじま川はた、すきやがし山本、 下谷広小路三橋亭、三田春日春日亭、本郷四丁目あらき、浅草広小路ひろ本、 同南真美馬道西の宮、下谷池はた吹抜、大伝馬町赤岩横丁清川、おはりちやう石川 麹町四丁目万長、赤坂一つ木一ツ木亭、芝土葢まち万寿亭、同じく神明前松本、 深川三かく古山亭  軍談定席 (講釈場にては〓を売りに来らず) 浅草御門うち太平記場、銀座一よこ町喜代竹、矢大臣門内経堂弁天山定席、 京ばし大根がし都川、下谷広小路本牧亭、同じく池はた松山亭、今川橋染川、 神田小柳町小柳亭、よし町中川、江戸ばし四日市定席、中ばし埋立松川 軍談昼席には、短冊形の盆の内に菓子を入れて客の間々に出して置き、客の自由に取るに任す。 一個八文づつなるに誰ひとり代価をごまかす者なく、講釈場の道徳を守るの美挙とす。  講談師 南竜、馬琴、旭堂、如水、花澐、千山、 伯竜、麗山、伯竜子、有窓、魯山、万丸、錦紅、昇山、 南国、東山、貞林、澐晴、南海、貞豊、燕辰、花山、 伯勇、馬谷、潮花、南玉、燕凌、伯山、 燕玉、花清、文車、凌潮、燕尾、凌西、伯円、琴凌、貞山 南遊、太琉、桃林、東燕、伯りん、 貞水、吾岳、晴海、貞魚琴鶴、潮鯨、小東山、 語集、燕国、貞朝、南桂、一琉  落語家 玉輔、米蔵、馬生、大和、松玉、さん馬、勝次郎、馬之助、小さん、春輔、円馬、 あゐ玉、馬風、柳花、円蔵、馬石、玉造、鯉橋、円流、福助、扇太郎、円録、 東里、円の介、正蝶、才次良、かん次、夢助、扇造、しん橋、柳枝、柳橋、円朝、 左楽、むらく、談志、りう馬、柳朝、燕枝、扇歌、さん馬、花山文、金馬、丈蝶、 馬楽、文楽、小勝、金朝、円太郎、志らく、今輔、小石、梅生、文太、馬勇、 新朝、善馬、玉造、古楽  講釈場及び野天講釈 江戸の兄イ株の中以下の教育には、講釈師先生に負ふところ大なりと思ふ。まづ魚河岸、青物 市場等には昼前に忙しく|昼後《ひるすぎ》には用少なき家業多くあり。これらの人々は湯屋の二階、髪結床の 奥にて|平凡《へぼ》碁、平凡将棋を戦はして日を消すか、しからざれば講釈の昼席定連として、お家騒動 または武勇伝、義士、銘々伝、幡随院長兵衛・国定忠治等の侠客伝記、甲越軍記・太閤記・後風 土記・|真田《さなだ》三代記その他の歴史戦記を聞きて、自然に自分長兵衛になり助六に任じ、弱きを助け 強きをくじくといふ江戸ツ子気を養成せるなり。野天講釈もおほむね同一なれども木戸銭なし。 その講談の漸く佳境に入らんとするところへ来れば、先生自ら|笊《ざる》を提げて持ち廻り銭を集めてま た話し始む。天気なれば夕景より始め四ツ時近くまで、納屋前あるひは川岸蔵前などにてやる。 その他辻講釈とて箱崎川岸、|筋違《すぢかひ》、両国の広場などに葭簾を張り廻し莚を敷きて客を集む。これ らは野天講釈よりは一段上の部なり。聴衆は銭を出さぬも敢て答めず。これらの|聞き人《ききて》は無銭にて 勧善懲悪を会得し、無学者も仁義忠孝を知るの|捷径《ちかみち》となるなり。  大道芸人及ぴ商人 浅草の御蔵前、上野山下、筋違、八辻ケ原、久保町その他の広場にて、天気の日は夏冬とも、 往来の人を当てに興行するもののうちに有名なるは猫八なり。弟子・小僧二三名を連れ、十五六 坪の場所に見物人で垣を造らせ、その中央に長さ五尺ばかり丸さの径三尺ぐらゐの目の粗き竹籠 を一尺五六寸の台上に載せ、真中を赤き丸ぐけの紐で結び飾り置き、自分は素裸|揮《ふんどし》一ッ、寒き 時はただ半纏を被ふのみ。前芸は一尺差を口中に入れ抜差しさせ、後には抜身の刀一尺余の物を 口中に入れ木の|槌《つち》で叩きなどなすは、素裸ゆゑ種も仕掛けもなきならん。それより|小盥《こたらひ》に水を入 れそれを呑み、その後へお砂糖なりとて道路の土を掘り取りその土のどろどろになるをまた呑み、 お茶菓子なりとて縫針を十五六本口の中に入れ、ムシヤ、ムシャ、たべる真似をなし、さてこれ より泥水と清水と吹き分け三段を御覧に入れますとて、頭をとんとん叩く真似をなし口中より清 水を吹き出し、この次は泥水とて頬をつねる真似をして口中より泥水を吐き出す、その後は|咽《のど》を ひねるまねして針を五六本出し、また前のやうなことをして清水と針と泥水とを再三出す。その 手際のあざやかにて、仕掛けあるとしても感心のほかなし。終りには籠抜けの芸なりとて籠の内 中央に蠣燭に火を|点《とも》して立て置き、その上を飛び抜けるなり。|裸体《はだか》のまま籠の中を駆け来りて飛 び抜け、籠の外にでんぐり返りて小布団の上に倒るるなり。大詰めには籠の中央に抜身の刀一尺 ばかりを出して立て置き、その上を飛び抜ける、万一誤る時は腹を竪に引き裂くなりとて再三駆 け抜ける真似をなし、見物に手に汗を握らせ、終りにみごと飛び抜ける。その技芸は驚くばかり なり。そのほか猫の泣声をなすに近所の猫ども集り来るも妙なり、ゆゑに猫八の称ある|所以《ゆゑん》か。 後米国に渡航せしと聞きしもその後のことを知らず。  砂絵 砂絵は五十あまりのはげ頭の大男、常に徳利を傍らに置いて酒を呑みつつ、布袋に入れある砂 を手に握り、掌中より砂を糸のごとく出して吉備大臣と|野馬台《やばたい》の詩を画き、または加藤清正が朝 鮮より富士を見る図、明智左馬之助の湖水渡り、その他種々の物をかく。甲冑などには赤き砂や 青き砂を交ぜて色取りをなす。筆にて画くより速し。雨天続きの時などには各家の店前に来り、 花鳥あるひは春画などかきて銭を貰ひ|歩行《あるき》しことありし。その後いかがせしやを知らず。  住吉踊り 大小の笠の|周囲《まはり》に赤き|切《き》れを下げ真中にお|祓《はら》ひを挾み、長き竹の棒を拍子木で叩き、白の綿服 に鼠の腰衣を着けたる坊主頭の者五六名打ち揃つて伊勢音頭を唱へ、または沖の暗いのに白帆が 見ゆるあれは紀の国蜜柑船、と手を揃へ足を上げて踊る。|紋日《もんび》または祭礼の時などには市中を流 し、呼び込まるれば踊る。その手振の軽くして一種独得の妙技あり。踊りのほかに滑稽問答、道 化、他に類なき|可笑《をか》しみあり。この一連の頭分を十公といひ、座頭人気男を平坊主といふ。後に 梅坊主といふが出て、浅草六区の常設館に興行をするやうになつた。このカッポレは芸者の座敷 芸となり、しばしば芝居役者も演ずることあり。  一人角力 一人角力は御蔵前、浅草門跡の広場、筋違その他の広小路にて、年頃五十ばかり色の黒き痩形 の小男、元来角力道楽から思ひ付いたものか、|〆込《しめこみ》をなし充分力士を気取り、まづ呼出しの真似 して東西の幕の内を呼び出し、塵|手水《てうづ》をなし行司の真似より取組合ひの|得手《えて》を見せる。見物がひ いきの名を呼んで銭を投げるとその力士に勝たす、またほかの見物が名を呼んで銭を投げ与へる と、またその力士に勝たす。見物もうかうかこの|親父《おやぢ》に釣り込まれて思はぬ散財するもはたで見 るにばからしく、親父も一生懸命調子に乗つて大地に倒れ痛さを我慢するもをかし、しかし知ら ず知らず自然真にせまるゆゑならん。 日本橋より通一丁目の木戸を入れば、両側の往来右側黒江屋、古梅園、須原屋書店、左側近江 店と白木屋店前数歩の所へ、莚または薄べり一二枚を敷きその上に坐して商内をなす。いづれも 天気なれば|定見世《ぢやうみせ》なり。 錆落し銀流し 六十ばかりの爺さんが、二尺ばかりの刀身の半ば赤錆になりし物、白き一二寸 |短冊形《たんざくなり》に堅めし物に油を着けてこすりをり、「サアサお求めなさい、錆落しでございますよ。ソ ラかう油を着けない方で磨けば磨くほど|鉄《かね》に光が出ます。今日錆落しをお買ひのお方には銀流し はおまけでね、代価わづか十二丈」。 |早接合《はやつぎ》の粉 前に蜜柑の|明箱《あきばこ》、蓋は薄きへなへたせる板にて張り、前に皿・鉢・丼・土瓶・徳 利の欠けたる物接ぎ合せたる物を並べ、「サア御重宝の|早接《はやつぎ》の|粉《こ》でございます。お膳のふちの取 れたのもお丼の欠けたのも、ソレかうやつて水でねつてかうやつてお着けなされば、スグこのと ほり|付着《くつつ》きます。このとほり打ち付けましても大丈夫、取れることはございません。モソット手 荒く打ち付けてもこのとほり」と、前の箱の蓋の上に振り上げてソツト打ち付けてみせ、「ホレ ごらうじろこのとほり」などと言つて、一包十六文。 長太郎玉「これは至つて御重宝の長太郎玉でございますよ、夜分、ソレお客様お帰りだ、お履 物をといふ時、ちよつと行燈の火の所へ持ちまゐりますと火の方から来てこのやうにすぐつきま す、お履物がわかれば長太郎さん御苦労と、このやうに手のひらで丸めますとすぐ消えます」 (|樟脳《しやうなう》を赤く色付け五粒で八文)、また火の付いたまま手の平にころがしても熱くないが不思議です。 心学の書物売り(太平の腹鼓)総髪の老人、真面目くさつて机に向ひ坐し、半紙半折ぐらゐ の書冊数十冊を重ね置き、「サア皆さんお聞きなさい、買ふと買はぬはお心まかせぢや」。 それ太平の有難さ、弓は袋に矢は|筥《はこ》に、鎧兜といふ物も、五月人形に見たばかり、屏風襖や画 双紙に、唐や大和の|戦《いくさ》ごと、能や芝居や唱ひ物、見たり聞いたり慰むも、皆太平のお影ぞや、そ のわきまへもあら磯の、浪間に遊ぶ鯛平目、雲間の雁や鴨や維子、煮たり焼いたり飲食ひに、不 足言ふたり好みごと、これ何ゆゑと問ふたれば、世の浮節を知らぬゆゑ、|餓《ひ》だるい寒いといふこ とは、乞食非人の身の上の、ことと思へばことたるに、たるに任せて好み言、|真《まこと》の戦の切合ひを、 見たいなどとの|虚口《あだぐち》も、ああ勿体なや恐ろしや、昔度々大合戦、ここに石火矢かしこに矢叫び、 貝鐘太鼓関の声、子の手を曳いて逃ぐるもあり、またなかには腹に子を持ちて、いつ潮時とも知 れぬ身の、|何国《いづく》いかなる野末にて、いつ身が二つになることや、松の下臥草枕、枕並べん夜るべ もなく、息もすうすう足ひよろひよろ、逃げ行くうちに流矢にて、あへなく命果すもあり、切る るやら突かるるやら、話に聞くも恐ろしや、オイ一冊おくれ、ハイ有難十六文です、さて源平の 大戦、|鵯越《ひよどりごえ》の坂落し、切つつ切られつ修羅の道、皆これ雲の上人の、荒い風にも当ぬ身を、 |討死《うちじに》手負ひ生け捕られ、あるひは姫君局方、花の姿も浪の底、|鰐競鉾《わにしやちほこ》の餌食となり、あはれと言ふ も愚なり、かく|貴《やんごとな》き方々の、御身の上に比ぶれば、数にもたらぬ我々が、かく安楽に暮すのも、 皆太平のお蔭なり、旅に出るも道直ぐに、川には橋が架けてあり、橋のない所は船渡し、馬やろ うか籠やろうか、甘酒上かん|塩味《あんばい》よし、それでお腹も塩味よし、夫婦にこにこ|塩梅《あんばい》よし。これ太 平の腹つづみ。 ひよこりひよこりサアお膳の上でもお盆の上でも箸箱の中でも、ヒヨコリヒヨコリの俵が四文。 迷子札売り 真鍮にて小判形または瓢箪形の札に十二支を彫刻し、また注文に随ひて町所名前 を点字で彫り、子供の迷はぬ|記《しるし》、巾着に付け置くを売るなり。  長井兵助居合抜 長井兵助はお蔵前に定見世あり。本業は歯抜きと歯磨粉を商ふ。家の前の広場に出で、うしろ に九尺ばかりの長刀と六尺三尺ぐらゐ中小刀を刀掛けに飾り、自分は袴の|股立《ももだち》を取り|檸《たすき》を十字に あやどり|高足駄《たかあしだ》にて台に昇り、「そもそも居合といつぱ一刀流には|真影流《しんかげりう》まつた無念無骨流と派 はわかれても、鯉口のくつろぎ腰のひねり加減にて、一丈二丈の長刀を二尺三尺のくつろぎ付か ぬ箱の内にても見事抜けるに居合の一曲、アイ、アイ、さやうでござい」などと言つて人を集め 歯磨を売る。大太刀は一日一回ぐらゐは抜いて見せる。これは蔵前の名物の一なり。  大道芸人の内 紅かん文久年間|紅《べに》かんといふ|飴《あめ》売り、もとは浅草駒形の紅勘といふ有名な小間物香具店の主 人なりと。道楽のはて勘当されしかおん出たのかは知らず、五十ばかりの元気な老人、|萌黄《もえぎ》の頭 巾を被り木綿の派手な衣服を着、|立付《たちつけ》をはき、三ッ引出しの小箱を肩より下げ、|百眼《ひやくまなこ》を掛け、 |曲物《まげもの》を三味線の胴となし猫皮を張り、|悼《さを》は|磨竹《みがきたけ》、天神はお玉杓子、特別製と見え音も真の三味線に 変らず。踊りたがら二挺三味線の音を出し唄ひ弾き踊る。その|音〆《ねじめ》のよきにはほとんど|玄人《くろうと》も皆 感心す。その|間《あひ》に飴を売る。舞台にて紅勘を演ぜし役者もありき。 鎌倉節飴売り 角行燈のごとき格好にて上下に箱を造り、上の箱の上|小人形《こにんぎやう》が糸を引くと前に ある鉦を叩くやうに作り、自分は台に腰を掛け三味線を弾き鎌倉節を唄ふ。 本町二町目の糸屋アのむウすめ、姉は二十一チ、ナアア、アよひこの、妹とオワ、はあたチ、 妹とほしさアニ御りよ願、かあけて伊勢へ七度ナアア、あ熊野をへさあん度愛宕さんへは、ナ アァ月まゐりイ、 |美声《よいこゑ》にて唄ひ飴を売る。五代目菊五郎が演ぜしことを記憶せり。  心太寒天の曲突き 心太寒天の曲発きは六十近い威勢のいい爺さん、細長き手桶のやうな二つの桶を天秤棒で担 ひ、桶の中には心太と寒天とを入れ、蓋の上には五六枚の平皿と酢と醤油の入りし徳利と砂糖壼 とを載せ、桶の傍らには木製角形の細長き寒天突きの管と箸立を釣り下げ、自分は白髪のチヨン 髭頭に白地の手拭で鉢巻をなし、童子格子の派手な単衣を左右の裾をじんじんばしよりとし、緋 |縮緬《ぢりめん》のたすきを掛け、勢ひよく「サアサ御評判の心太の曲突きでございます、お好みによりまし てお二階へも突き上げます、またギヤマンの箸で挾んで御覧に入れます」とて、自分のうしろよ り家の棟ほど高く突き上げて、|硝子《ガラス》の箸で見事にはさみ留めます。またお客の方で二階の廊下か 窓より皿を出してゐるとその皿の中へ突き入れます。皿を持つた人がじつとしてゐれば百発百中、 きつと突き入れます。それに酢か砂糖を掛けて食べるのです。夏向き天王祭や山王祭などの時に は、|家毎《かどなろ》のやうにこの曲突きをやらせます。  竹田機関 竹田|機関《からくり》は縁日や祭礼など、 人多く集る所に出るなり。男女の子供等に多く見せる目的なり。 田舎の爺さん婆アさんたども覗くことあり。高さ四尺ばかり幅も四尺余、中央に|目鏡《めがね》を四ツばか り並べ、.それより内部を覗くやうになしあり。上の方に美しき絵看板、たとへば八百屋お七なら ば正面の所、鈴ケ森に十六七の美女が|十字架《はりつけばしら》に縛られ|火刑《ひあぶり》に行はれんとするところ、左右の細き 看板にはお七が火の見櫓に|駆《か》け上がりて太鼓を打つところ一方には吉三(小姓)が学問する後ろ よりお七が付け文を出すところなどを画き、亭主と女房らしきもの目鏡の左右小高き台に乗り、 「サアサ評判の竹田大からくり、八百やお七一代記、お早く御覧なさい」などと囃し立て、見物 がのぞくと、「ソリヤお寺さんはよ駒込吉祥寺」などと、左右交る交るにひやうしを付けて|画解《ゑとき》 をなしつつ綱を曳いて、中の画面を取り替へるなり。見する物は八百屋お七、忠臣蔵、小夜の中 山、夜泣石の由来、鈴木|主水《もんど》など多く見しことあり。見料は四文なりしが、八文に値上げまでは 記憶せるもその後を知らず。  願人坊主 |願人坊主《ぐわんにんぱうず》は、公儀へ何か知らず、晴天一万日の願人なりとて、墨染の|法衣《ころも》の肩を巻き上げ、ま たは腰衣のみの者あり、坊主頭に鉢巻をなすものなどあり、いろいろの趣向をなして銭を貰ひに 来る。紙の|小片《こぎれ》に瓦板にて隠句を書き、「ヘイお考への和尚にお布施を願ひます」などとしやれ て申します。一文やつてその隠句を見ますれば、「友達はいるかとおいらんに聞けば魚四ッの考」 (|鮎鯖鯛鯵《あいこちにいなまづ》)、「あめと風、魚一ッと青物一ッ考」(|蕗蜘《ふきぶり》)などの類、毎日取り替へ引き替へ考案し て来る。その他見立て百人一首なども作り来る。また木魚二個をカツカ、ポコ、カツカ、ポコ、 と叩き、|阿房陀羅経《あほだらきやう》を読み来るあり。これは時として時世を誠刺する文句甚だ多く、なかなか面 白く作製せるもの少なからず。毎日十数名来るが、多くは万年町、堂前、橋本町に住居のものな りとぞ。  乞食芝居 乞食芝居は|平日《ふだん》も来ることあれど、多くは三日または物日に来る。安政二年大地震後は堀江町 四丁目の川岸に水道の落水あるより、朝早くから役者自分包を抱へ来り、土蔵の石崖に|自惚鏡《うぬぽれかがみ》を 立て掛け、水道にて顔を拵へ、鬘と衣裳を着けて支度調へば往来に出て、自身で拍子木を叩き、 東西東西このところ御覧に入れまするは|妹背山婦女庭訓《いもせやまをんなていきん》御殿場の段始まり、さやうカチカチ|歩行《あるき》 ながらせりふを言つてその町の|尽処《はづれ》まで行き、それから|軒別《かどなみ》銭を貰つてあるきます。衣裳はいろ いろあるやうですが、妹背山は|鱶七《ふかしち》とお三輪と半面づつ、かつらも|藁縄裃《わらでかみしも》振袖と上手に片面で わかるやうに拵へてあります。また普通の衣裳鬘の|半面赤《はんぶんあか》の|面《つら》白の面の不破名古屋の鞘当てなど |演《や》ることもあり、その当時芝居の当り狂言を真似ることもあり、なかなか上手にやつたものでし た。この役者は|大体《たいてい》橋本町辺より来るもの多かりしがごとし。  江戸と横浜と始めての汽船 横浜開港は万延元年六月四日なりしも、|江都《えど》との交通機関は例の山籠と駄馬のほかなかりしが、 開港後英国領事館より築地のホテルまで郵便馬車の便乗のこと前に記せしが、漸く慶応の二年か と記憶せしが、岸田|吟香《ぎんかう》氏が政府より稲川丸といふ小蒸汽船を拝借して、江戸横浜間往復旅客の 運送を開きしなり。その時の広告を左に記す。 此度官府にて蒸汽飛脚船御備に相成、諸人便利の為東都横浜間を毎日風雨にかかはらず往復い たし候様私共へ差配仰付られ候につき、各様へ招帖にて申上候。 この船毎朝八点鐘をかぎり搭容の多少にかかわらず片時も猶予なく出帆いたし、蒸汽の力を十 分にしてさしいそがせ候間、十一点鐘には江都へ着船いたし可申候。江都にては二点鐘を刻限 と定め、是又乗合の多少を論ぜず出帆致し、五点鐘までには横浜へ着岸いたし候間、急用の御 客様は朝御出府なされ、其晩方迄には御帰港にも相成申候。又は都よりは一夜泊りにて横浜へ 御出なされ候とも誠に御便利にござ候。 船賃は両方とも壱人まへ金壱分弐朱と、別に艀賃として三百文御受取可申候。その外船中にて 御入用少もかかり申さず候間、何卒刻限迄に待合所まで御いそぎ御出向のほどひとへに奉願上候。 急用御手紙は勿論なみ御書状にても、 此船着次第すぐと御用状どうやう夫々くばり届させ可申候。  船律 御武家様方にても御用私用に限らず船賃御払可被成候○如何程御急ぎにても刻限より前には出 帆致し申さず候○いかやうの御用筋にても刻限のばし御待申事一切不仕候○荷物は壱人小ふろ しき包一つに限り申候その余は目方によりて船賃御払可被下候○犬猫その外いきものうゑ木な ど御積込の儀は堅く御ことわり申上候○小児五歳以トは無賃なり○船中禁酒  規則 一番笛 是は今日出船あるのしらせなり早く待合所へあつまるべし 横浜朝六ッ時 東都九ツ時 二番笛 此時人々船へのりこむべし 浜六ッ七分 都九ッ半 是は出船のしらせなり 三番笛 浜五ッ時 都八ツ時 毎朝出帆 蒸 汽 飛 脚 船 即往江都 岸銀 横浜 毎朝五ッ時出帆 待合所 本町一丁目 岸田屋銀治 江都 毎日八ッ時出帆 待合所 霊巌島東港町 松坂屋弥兵衛  官船火輪飛客船 八月二十九日より弥々往還相始め申候。毎朝五ッ時出帆四ッ半時江戸着○江戸は九ツはん時出 船にて七ッ時浜着○御書翰は出帆前に待合所まで御出し可被下候。二時限に先方へ御届け申上 候、賃銭は江戸より横浜への分は皆二百文尤大封金銀品物入は別談に御座候。浜より江戸行の 御書状賃銭は下町辺は二百文下谷浅草神田小石川丸ノ内外桜田四谷番町遡町麻布芝辺本所深川 等は一朱より二朱まで○其外山の手叉は品川新宿板橋千住井に近在は二朱より三朱一分○いづ れも金子入或は大封箱入紙包は別儀に御座候○御評判可然奉祈候 江戸出帆は短日の節は九ッ半時に候。 待合所は横浜本町一丁目フランス公使館向に近く新に家作致候ヘ共夫迄の内は当分かりに、 弁天通三丁目鹿島屋亀吉方に可致候。 江戸も霊岸島に取立候迄当分の内仮に、 永代橋際藤棚に可致候。 この時代には多く年号を記さざるゆゑ不明なるが、慶応二年頃かと想像せらる。岸田屋銀治と あるは岸田吟香氏のことにて、同氏はこの時代有名のヘボン先生の英和辞書の共著者、漢学者に して自然広告文も一種風変りなり。同氏は目薬の|精埼《せいき》|水《すゐ》で名を知らる。 第三章  江戸ッ子に二種類あること 一と口に江戸ッ子と申しますが、その実江戸ッ子には二種類ありまして一様には申されません。 他国に出て、あの方達はお江戸の衆だと多少尊敬されしは、将軍のお膝元に居住し田舎人に較ぶ れば少しは物も解り、それに銭遣ひもきたなくないゆゑなのでした。しかるに随分威張りながら 銭遣ひのきたない江戸ッ子もありました。これは二本差してゐる人に多いやうでした。二種類の 一は山の手風、一は下町風といつて風俗も多少変つてゐました。女の風俗でも山の手は諸侯方奥 向と御家中・お旗本・御家人が大部を占めてゐるゆゑ自然に野暮地味の風でした(「野暮なやの 字の屋敷もの」と清元にも出てゐるくらゐ)。それに引き替ヘ下町の風俗は、元禄より享保の頃、 例の紀文・奈良茂の輩、金にあかせし賛沢の系統の、かの十八大通といひし連中、金銀座の坐人、 八町堀の与力.同心、札差、御用達商人、木場の材木商、山城川岸津藤のごとき、順次通客顕れ 出でしがため新進の流行品を作り出す。それに花柳の|街《ちまた》は下町に多く、また宵越の銭を持たぬ的 の人々の七八割は下町に住居し山の手には少なく、半纏を殺して初鰹を買ふといふ人々は神田ツ 子に多きがごとし。山の手方面にてはお旗本・御家人衆も、御役目によりては収入の豊かの方々 には、宵越をお遣ひなさらぬ方もありしやに聞く。諸侯の|御留守居《おるすゐやく》は当時の外交官にして、通人 も少なからず。下町一流の料理店中、お留守居専門の家数軒ありし。お留守居連は吉原へはあま り行かず、新宿を主として品川にも遊びしゆゑに、宿場に似合ず新宿も品川も吉原に劣らぬ遊女 屋も遊女も居りしなりと。お旗本・御家人にもいろいろあります。その頃武家方のお買物振りは 今日から見ると随分珍なものでした。お長屋の武者窓から首を出し、「コリヤコリヤコリヤ肴や、お |乾魚《ひどと》はあるか、価は何ほどじや、五枚十二銅(十二文)ぢやと、それはたいへん高価ぢやアない か、八銅(八文)でよろしいであらう、まけておきや」「コリヤ豆腐屋、卯の花二銅くりや」な どと、商人は虫けらのやうでした。それでもその方々も江戸で産れた江戸ツ子ださうです。川柳 点に「江戸ツ子の産れそこなひ金を溜め」、今日では追々生れそこなひが多くなつたとみえ大分 限がふえました。  蔵前の札差業 札差とは、旗本・御家人等が自分の受けるところの扶持米を年三回浅草御米蔵にて渡す、 その 請取り送り方をこの札差が托され、少しばかりの手数料にて委托を受くる営業たり。最初はその 扱ひに過ぎざりしが、その請くる米を引当てに金の融通をなすやうになり(その便利の味を占め 不必要の金を借り無用に浪費するの風を生じ、その結果いつしか借金|嵩《かさ》み追々金利も引き上げら れ苦痛に沈む一方、貸方はますます富を増すに随ひ著修の風募り、終に贅沢の仕放題より十八大 通など出るやうになりし。時の奉行も旗下の士の困窮するを聞き、札差等に取締りの手を下し救 助せしことあるもぢきに元に戻りしなりと。かれらは米の高値を祈るがため、例年秋の厄日、八 朔・二百十日・二百二十日の天候無事なる時は、店前に祭りし風雨神に供へし|神酒《みき》徳利を往来道 路に投げ捨てる。それを拾ひに行く閑人もありし。  武家の内職 俗に三ピンといふ下役の武家家来あり、足軽・小者の輩ならん。一ケ年金三両に一人扶持(ゆ ゑに|三一《さんピン》といふ)。二本差もあり。それのみにては自分だけをも支へるに足らぬゆゑ、種々の内 職をする。大名の中下の邸にてはないしよの表向きとして許されありしなり。|傘《からかさ》、提灯張り、扇、 団扇、下駄の表、麻裏草履、摺物、その他数多くあり。本職よりかへつて収入多きなりしと。  徳川将軍御成 旧幕時代の書物には、政治上のことは勿論、徳川家に係ることは些細のことでも記載せず、う つかりやると軽くて江戸構へ、少し重く取らるる時は遠島などといふ目に逢ふを恐れて、『江戸 名所図会』その他の書物に|記載《のせ》てあるべきと思ふものもさらに記さず。将軍各所に御成のことな どは、口碑に伝ふるのみゆゑ間違ひも多く当てにならず。私の時代には産れた年(嘉永二年)小 金ケ原|御猪狩《おししがり》ありし。そのほかは日光御社参もなく、千住辺へ鶴御成はありしも委しきことを聞 かず。吹上御成、紅葉山御成は折々あり。これは御城内のお庭内に御出遊になるのであるに、府 下へお触ありて、還御までは湯屋その他とも大火を焚くこと煙を揚げることやかましく、昔仁徳 天皇は民の竈の賑はへるを御覧ありて、高き|台《や》の御製ありしに反せるばかばかしきことなりし。 各町々にては鈴虫(金棒に似たものにて虫の音のごとき音するもの)や金棒を曳きて警戒する。 御浜御殿御成の時は、竜の口御乗船にて八代洲橋・道三橋・一石橋・日本橋・江戸橋・湊橋・御 留橋各橋下を通過して大河に出で、御浜御殿に成らせらる。その間は日本橋川の両岸の各家々は 厳重に警戒し、二階の窓や雨戸には細き紙にて横に目張りをせらる。各町は木戸を閉ざして市民 の往来を止め(御船川筋御通過の間)る(日本橋川筋は両岸とも土蔵または納屋ほか市民の住居 を許さぬはこの御都合によりてならんか)。将軍還御の後、御船の竜の口より御船蔵に戻る時に 警戒を解くゆゑ通過の時拝観するのみ。その時はお旗も吹抜きもその他の飾りも仕舞ふゆゑ、お 船手の|水主《かこ》が揃ひの衣服にてお船歌を唱へ魑拍子揃へて漕ぎ戻るを見るのみ。慶応元丑年五月、 十四代家茂公長州追討御進発数日前、駒場ケ原に勢揃への御成ありし時は、これまでの制規一変 し、我々は青山宮様御門前にて始めて御見上げ申せしなり。この時は普通大名が参勤交代の|砌《みぎり》海 道筋にて出逢ひたるくらゐのことなりし。前年御上洛の時はいかがかは知らず、還御の時は品川 まで汽船なりし。駒場より還御の時は真つ先きは歩兵隊にて、蘭式ならん大太鼓を胸に当たる人 一人、小太鼓は肩より釣り下げ二人、横笛二人、指揮官は|韮山笠《にらやまがさ》・筒袖の陣羽織にだん袋、両刀 を差し、手に鞭を持ちて先きに立ち、その後に笛太鼓の楽隊、ヒウヒヤラドンド、ドンドコ、ド ンドンドンヒウヒヤラ、ドドンと奏しながら、引き続き同様の歩兵数隊続いて、旧式の陣太鼓を 負はせ、太鼓・|法螺貝《ほらがひ》にてドンカドンカドン/\/\ドンカプウー/\/\と吹き立て、鎗を下 げ列をなし数百徒歩なり。御先乗騎馬続いて、将軍家茂公裏金の陣笠に黒羅紗の陣羽織に白にて 葵といふ字を縫紋せるを召し、騎馬にて威風凛々とうたせ玉ふ。御馬に付き添ひの|徒士《かち》も少なか らず。御馬の尻辺に徒士にてお付き添ひ申せるは、有名の剣客榊原健吉氏なりといひ|伊庭《いぱ》軍兵衛 なりしともいへり。その後にも|夥《おびただ》しき御人数にて、弓組・大砲もありしやに記憶せり。この時 には御道筋に警固の士も見受けざりしなり。 御船蔵 は本所御船蔵町(両国・新大橋の間|大河《おほかは》の東岸)に数棟並びあり。その中間に、有名 な|安宅丸《あたけまる》を埋めし小山あり(芝居や小説にある堀田侯関係の安宅丸のお船が、毎夜「伊豆へ行か う/\/\」と泣いたといふ半怪談は他の書物にあれば略す)。そのほか永代橋の東西岸E棟 づつありし。 御船歌の二三を記せば、  御代永久 三「みよながく、たみも、ゆたかに、すみければ ツケ「いざうちよりて、うたひ酒もりあそぶ もの 三「いけのみきはにナア、つる、とナ亀が ツケ「あゝ、つるとナ、かめが、うたひ、さ へづり、まひあそぶ 三「さへづりナア、さへづり ツケ「うたひうたひさへづりまひあそぶ、 きみはちよませナアごえふの松よ、アヽごえふの、まつよ、いつもかはらぬ、わかみどり  三「ひちく、かんちく、はちくの竹よ、あゝはちくの竹よ世々を 三「かさねて、すゑながく、か さねてナアかさねて世々を、かさねてすゑ永く、  住吉ぶし 「おさかでゝから「すみよしさまへ松にねほれてあらはるゝ 三「松にソリヤッ ツケ「ねほれてあ らはるゝ ツケ「花が見たくば吉野へござれ今はよしのゝ花ざかり 三「今はソリャ吉野のはな ざかり 三「おもてみじかの ツケ「さらさのねまきうらみなからもきておよれ 三「うらみソリ ヤ ツケ「なからもきておよれ「松になりたや ツケ「はりまの松にふしにまかれてたよ/\/\ と 三「ふしにソリヤまかれてたよくくと、  長崎 タシ「なか崎の鳥はソリヤ ツケ「時しらぬ鳥でソリヤまよ中に 三「うたふてソリヤ ツケ「さま を戻した、しゆんらいな 三「長崎と琉球がソリヤ ツケ「陸ならよかろソリヤ馬にくら 三「お いてソリヤ ツケ「いたり、きたりしよ、しゆんらいな 三「たは川のいけハ、ソリヤ  ツケ「|千尋《ちひろ》とおしやるソリヤそれよりも 三「深きソリヤ ツケ「しつがおもひさ、しゆんらいな 三「長崎の 女郎にソリヤ「おさかつきを「もらふてソリヤ ツケ「りうきうでかたるさ、しゆんらいな  三「かのさまのもんにソリヤ ツケ「やんまからくさつけてそや、かやせ、やんまと ツケ「いは バソリヤとんてかかるさ、しゆんらいな、 付言原書は誤字落字あり。おまけになまりなどある故、なるたけ|原文《もとのまま》を写し|記載《しる》す。三「ツ ケなどとは拍子かそれともシテ、ワキといふ記号か。  他国に類なき江戸渋味の食物 |鰻蒲焼《うなぎかぱやき》は江戸自慢の食物にて、近くは他でも真似して職人を雇ひ入れて焼いてをりますが、 江戸ッ子の口には合ひませぬ。昔の鰻通は自分で船からざるに揚げ、魚を見て焼かせます。それ も|団扇《うちは》二枚であふつてくれなどと注文をなさる人も毎度ありましたが、今はそのやうな鰻通も少 たくなりました。しかしそれでも一年に一度や二度はあるさうです。昔と違ひ鰻の需要がすこぶ る多くなつたので、魚が常にたらぬがちださうです。昔は江戸前の揃つた魚のない時一流の鰻屋 は「魚切れにつき相休み申し候」といふ札を掛けたものです。近年までは仙台その他の地方より 入り込む物は|旅鰻《たぴうなぎ》といつて鰻通などは口に入れぬものでしたが、今では魚の引け道が多くなつて 仙台様などもなかなか幅をきかせてゐるやうです。そのほか上方の方面より鉄道で送つてくるも あり、舞坂辺の養魚などもはひる様子です。|鰻丼《どんぶり》の元祖は|葺屋町《ふきやちやう》の大野屋(大鉄)です。人形町 尾張屋の|川丼《かはどん》は三百文で、鰻が|二タ側《ふたかは》はひつてをり、飯もたんと盛つてありました。慶応の始め、 府内主なる鰻屋は、 和田平 大黒や 深川や 大金 尾張や 椎の木 鮒儀 春木 喜多川 湊や 和田久  神田川 野田や 和田定 鮒定 桜や 洲崎 奴 竹葉 尾重 鮒半  山庄 清水 恵沢 親仁橋大和田 鮒治 錦や 米本 中村や 福本 東や  大伝馬大和田 柳川 穴鰻 佃治 いづ熊 丹波や 近江や 鮒かめ 大きん  ふか川村田 ふか川大黒や 露月町大和田 山下町尾張 山口  清光 東ばしいづ熊 富清 ふきや町大鉄 石はら大和田 原文 かや町隅田川  桜川 千住まつ 小づかはら鮒文 |天麩羅《てんぶら》は上流の料理に出さぬではなきも、多くは即席料理店の出し物にして天鉄羅専門の料 理店というほどの家はあらず。多くは家台見世のものにて天麩羅茶漬店、飯付き一人前二十四文 か三十二文、せいぜい四十八文ぐらゐのものにして、百文となりしは維新になつてからと記憶し てゐます。立喰ひの方かへつて上等でした。福井町の|扇夫《せんぶ》といふ人出揚座敷天麩羅を始めてから やや上等の位置となりましたやうに思ひます。当時の天麩羅屋は、 新堀喜六 銀座丸金 安針町銀造 塩町丸新 今川橋百足 人形町茂七  日本橋丸吉 人形町ひろの 等を主なるものとす。芝海老、馬鹿貝の柱、あなご等に至つては他にない材料です。 蕎麦屋 に二種あり、一は手打そばといひ、一を二八そばまたは駄そばといふ。盛・掛とも二 八の十六文ゆゑ二八そばといふ。手打そばの方はやや上等にして、場末に到れば料理を兼業する 家多し。そばは|何国《いづく》に至りてもあるものですが、さて他国に出てはとても江戸で喰べるやうな蕎 麦はたべられぬのです。手打の主なるは、 うへの無極庵 ふか川やぶ 松井町滝そば 本郷蘭めん 入谷松下亭 谷中やぶ 浅草道好 あざぶ更科  ふか川石中 冬木米市 はしば鴎花 池のはた蓮玉 七けん丁らん麺 芝口出世  霊巌島三橋亭 馬喰一鴨南ばん 向島柳中庵 小梅植木 押上らんめん 三軒町松風中通いづ本 二八そばの主たるは、 浪花丁大村 回向院前田宮 久松丁十一や 蔵前浅田 通一丁目東橋庵 かやば丁砂場  南てんま町大村 猿若丁らんめん ふか川あぶみや れいがん太打 その他数百軒あり 鮨 は他国にもいろいろの名物がありますが、京阪の押ずしなどと違ひ江戸の握り鮨は、一種 特別の味を持つてをりまして、とても他では戴けません。材料のまぐろの油味や|鰭《こはだ》などはなおさ らです。毛抜鮨は一個ごと笹に巻いて押しをしてありますゆゑ、暑中二日ぐらゐは大丈夫です。 主なるは、 代地松の鮨 両国与兵衛 浪花丁毛抜 玉鮨 ごふく丁松の鮨 東両国蛇の目  本郷玉鮨 尾張町長門 横山町戎 麹町うの丸 通二小吉田 村松丁あやめ  通丁帆掛 室町みさご 大門通与兵衛 小あみみなと こうぢ町日の出  今川ばしちとせ くぼ町玉ずし さや丁亀甲 おふく 蛇の目 麹町乙女  ごふく丁蛇の目 みさご 玄冶店いそべ 通三浮世 しんばあやめ さが丁虎ずし  南新堀入船 いひぐら鳴門 稲荷ずし 御府内各所に定見世また家台見世にあり。油揚の中に野菜を入れし鮨なり。主なる は、お蔵前の玉ずし、十軒店の治郎公、吉原江戸町角の夜あかし、千住大橋際、和泉町、人形町 通り夜店、久保町そのほか各町にあり。価廉にして風味佳なる物あり。十軒店の治郎公は、毎夜 本石町十軒店大道にて、治郎公本人はいつも半酔の風にて、通行の|丁稚《でつち》等が治郎公を呼ぶと、 「兄弟寄つて行きやあな、そつちの方へ、一服呑みやあな、そつちの|莨《たばこ》で、コンリヤくく焼 けて女の湯が一所にたつたトサ、御利生、おんがらかいて、|石榴《じやくろぐち》ロを出ることができなかつたと、 サ、コンリヤ/\/\」と、台を叩き銭をからんからんやつてゐたが、後に石町三丁目に土蔵付 きの家を買つてその後は家台をかつぎ出さなくなりました。  料理店 会席料理 八百善 平清 酔月 松本 川長 大七 万千 誰袖 青柳 松源 百尺  川口 田川 梅川 翁庵 有明楼 八百半 橋本 豊田屋 即席料理 海老屋 扇屋 寿仙 小桜 伊勢源 中重 松保 車屋  平松 川文 魚佐 魚半 鳥八十 魚仙  万久 鷹鍋 讃岐や 太橋 川舛 岡村 丸竹 吉浦 播磨や いせ勘 浜田  田川 万清 増田 いせ源 蛤 平松 魚幸 高橋 魚十 魚安 魚鉄 立場  木屋 綿や 八辻 高砂 精進料理 吉見や 八百善 和泉や いせ綱 武蔵庄 武蔵治 大阪や 朝倉  尾張 菊や 八百仙 玉藤 池田 森田 八百十 田川や 八百久 いせ忠  八百栄 松よし 茶漬見世 両ごく五色 ぎんざ玉の井 馬くろ町しがらき 通二宇治里 くらまへ宝来  北しんぼり明ぼの 人形丁万安 かはらまち万久 よろづ丁さゝ岡 南てんま七浦  くらまへ福来 同朋丁ゑび甚 いづも丁山ぶき すは丁宇治里 ふか川立川  下や宇治里 なみき五色 外かんだ宇治里 なみき七色 菓子舗 鈴木 金沢 蟹屋 鳥飼 越後屋 金沢 鈴木 阿波屋 大和屋  茗荷や 京ばし風月 光玉堂 せともの丁松岡 雷門船橋 一つ目越後や  大てんまかめや 村田 船ばし 岡の 西久保つぼや なみき鯉屋  船ばし 一円堂 松林 竹川町点心堂 ひもの町野村 さが町船橋  本郷藤村 小うめ耕月 くらまへ松屋 斎藤 外かんだ甘林堂 栄太楼  太平堂 万年 なみき松露庵 てんま町梅花錠 氷室 石はら紅屋 百花園  遠月 よし町栄寿 小松や 林国堂 下谷三橋堂 田月 松翁 花月 あさくさ岡の 浅草海苔 は東海の佳品にして、一千年前より江戸名産の一に数へられし物です。隅田川を宮 戸川と称へし頃は、今の駒形辺にて採れしゆゑに浅草海苔の名称を付せしならん。それより次第 に下流に南遷して、江戸時代には高縄の海岸から江戸川尻、堀江猫実辺にて採収するやうになり、 その後品川御台場の築造後は、粗朶を建てるは御台場外より大森、鮫洲、浜川、羽根田辺が採収 |海面《ば》となれり。上総|水零《みよ》の方も次第に面積広がり、年々の産額も増加せるなり。横浜の開港前、 野毛・戸部の入江にても採取せるなりし。元来浅草が|根元《ほんもと》ゆゑ、並木町、雷門付近には海苔専門 の店軒を並べて繁昌せり。当時有名の見世は、 並木丁永楽や 田原丁三中島や 並木正本 山形や 通四上州や 山本  江戸ばし三浦や 通一丁目滝田 桔梗や せともの丁久保田 江戸ばし広田や  金杉ばし中村や いづみばし野田や 池ノ端仲町酒好 同酒祝 酒袋 ゆしま坂田や  江戸の交通機関、船、駕籠 江戸の交通機関としては、元禄以前には吉原通ひに駄馬に乗り編笠をかぶり日本堤を通る古図 などに見るのみ。平民は騎馬を許されず、府内は|口付《くちつき》なきものは通行を許されぬゆゑ、追々馬に て吉原通ひをするもの稀となり、浅草に馬道の名を止むるのみとなり。多くは船と駕籠との時代 となりし。殊に三芝居の猿若町に移転せる以来は、一層船宿全盛の時期となれり。当時の船の種 類を記すれば、 将軍家御座船及び付属の御船を除き、 家形船 しるこばし、屋形の小形なるもの 日覆船 一名、家根船あるひは|簾船《すだれぶね》ともいふ 障子船 これは家根船に障子を取り付けるなり、御用船となりし時に用ふ |猪牙船《ちよきぶね》 元禄の頃より行はれ、正徳三年より猪牙の二挺櫓を禁じられたり、川筋交通には至極|利便《べんり》なりし 三丁船 猪牙船の少し大形 茶船 品川沖などより荷物瀬取に用ふ 大伝馬船 中伝馬、荷物川内の運搬用、小伝馬、その他渡船 水船 本所・深川の飲料水、肥船、糞尿の運搬船なり |塵船《あくたせん》 塵芥運搬船、押送船、漁船川に入れば八挺櫓禁ず 高瀬船 利根川・荒川等通ひの荷船、網船、釣船、田船 |荷足船《にたりせん》 船饅頭・涼船の時物売船に用ふ、小荷物運搬にも用ふ 五大力船 内海荷物運漕船 屋形船は宝永の頃より流行出して百艘に極りしとぞ。東国丸といへるを大船の始めとし、 より続いて熊市丸・山市丸あり。 熊市丸は座敷九間に台所一間あるゆゑなり。山市丸は座敷八間 台所一間ありしゆゑの名なり。 神田市丸といへるは神田川一番の大船なりしとぞ。天和の頃の屋形船の名目は 『紫のひともと』に見えたり。またこの頃の船に窮屈丸とて一人乗りの吉原通ひの 船にきりぎりすなどいふ名を載せたり。 川一丸・芳野丸も同書に記しあればこの頃よりありしこ とと知られたり(『東都歳事記』にあり)。屋形船は大形にして諸侯方船遊山等に多く用ひられし もののごとく、艫と家根上に数名の船頭棹差し多数の人を要するゆゑ、自然家根船の方便利とな り、終にすたりたるならん。安政の末年にはまだ川開きなどには見えたるも、その後はあまり見 かけず。文久年間親父橋の北東岸に川市丸は半沈没して終りを示せり。その当時の流行歌に、 時世時節とあきらめしやんせ家形船さへ大根積む 吹けよ川風あがれよすだれ中の小唱の顔見たや 船宿 維新後遊船宿と称ふ。 船宿は両国付近、柳橋辺最も多し。慶応初年における各所主なる船宿は左記のごとし。 柳橋船宿の部 同朋町桝田屋 同中村屋 同亀や 同藤もと 同飯村や 同若竹 同新上総  続新地伊豆や 石かけ相摸や 同山田や 同長門や 続新地たんばや 同上総や  同日野や 裏川岸中松や 裏川岸丸屋 石かげ三芳や 同信のや 同埼玉や 各所船宿 汐留山崎 同太田屋 木挽町立花や 金杉松本 松村町舛や 松村町川崎や  南八丁いづみや おほり吉のや 同万年や 同大槌や さや町岡松 同三浦や  同緑や 江戸ばし吉田や 八けん東や ほりえ町上総や 小あみ丁中村や  堀江四武蔵や よろひ中村や 新堀新上総 れいがんした越後や さが町吉川  木挽町桜や さゑもんがしいせや すは町がし浅利や ほり竹屋 同大津や  しやうでん町遠洲や 東ばし遠州や 駒形大和や 箱崎鈴木や よねざは町長島  同福よし 元柳ばし鈴木や 同二〓や 同いせや 同桔梗や 駒形越後や  神田川村田 左右衛門町金沢や 代地八幡や すぢかひ小松や 牛込吉田や  同丸や 本所湊や 同駿河や 同浅利や 木場松本 同大黒や 三河や  やぐら下百足や 小あみ一大市や等なり。 船宿には常に少なきも二三人、多きは七八人の若者を抱へ置き、客よりの需めに応じ、即時に 船を仕立て発船さするなり。元来船宿の亭主も女房も苦労人多く、客扱ひも行届き世辞もよく|痒《かゆ》 き所に手の届くまでのもてなしすることは感心なり。当時は今日のごとき待合なく、多ぐは船宿 の二階にて意気事も出来るとの噂も聞けり。堀の船宿などはまだ仲に繰込みも時刻早くちよつと 一と口と一酌のうち夜に入り、それより吉原に入るは通客に多し。また朝帰りにも朝の身仕度し て船に乗る人多し。  輿、辻駕籠 平民の乗物は、あんぽつ、四ッ手駕籠と山駕籠の三種。まづあんぽつは上流の人々または病者 あるひは葬礼の輿の代用となす。四方竹の網代漆塗りにして引戸を付す。四ッ手駕籠は吉原通ひ または至急を要する時は、三枚または四枚とて三人または四人に交代して|舁《か》かせ、「遊廓通ひは ホイヤ/\/\」と掛声して廓に乗り込む。客も茶屋もこの駕籠の多く入り来るを見得となす。 四ッ手駕籠は竹駕籠の四方に|莫座《ござ》にて前後を包み左右に垂れを卸し、雨天の時などはその上を|桐《とう》 油にて包む・夜中は垂れ・外に大なる提灯をぶら下げる。かなり窮屈にて乗心地よきものにあら ず。山駕籠は四ッ手よりはやや広けれども前後覆ひなく左右にも垂れなく、雨天の時は桐油を覆 ふのみ、冬などは随分寒し。四ッ手より走るには不便なり。辻駕籠は夜分四ッ辻または橋のたも となどに居りて通行人に勧むるに多く、帰り駕籠ですからお安く致します、と言ふは普通文句な り。中には甚だ宜からぬ輩ありて、|店者《たなもの》などと見るとゆすりて不当の金を取ることあり。ここに 滑稽なる実話あり。私の知人にて少しく武芸の心得あり、殊に柔術は目録以上たれども一見芝居 の色男然たる人、ある夜吉原に遊び、引け過ぎに廓内よりほろ酔機嫌で土手に歩み来りしに、辻 駕籠界出し抜きに、「ヘエ駕籠」と声掛けられびつくりし、「アヽびつくりさせやあがつた」「旦 那、駕籠かきが、ヘエ駕籠、と申しますのはあたりまへでございます、どうか帰りなみでやりま すから乗つて下ざいまし」「サゥカ親父橋までいくらでやる」「旦那大もがきでやりますから一分 やつて下さい」「馬鹿言へ、宿からでも一分なんて取るものか、二朱なら乗つてやらう」「それぢ やあ旦那一〆|《くわん》下さい」「二朱が値打だがマア乗つてやらうか」と乗り込みました。始めは駆足で 参りましたが、蔵前辺へ参りました頃は普通の歩行と同様、杖ばかりしてゆらゆらあるいてをり ますゆゑ、「ヤイあまりお|練《ね》りではないか」「旦那相棒が腹が痛んで|歩行《あるけ》ねえと申します、どうか いくらか酒手をきばつてやつて下さい、我慢して今一ともがきやらせますから、ねえ旦那」「馬 鹿にするない、始めて駕籠に乗りやしめえし、行く所までやつてその上でくれと言ふなら格別だ、 こんな所でいふなら卸せ、四文もやるこッちやあねえぞ」、夜は更けて人通りも少なくなつたの で吹き掛けてみたがちよつと手強ひと見て仕方なしに浅草見附を入り、富沢町の橋側に来り駕籠 を卸し、「ヘイ旦那、お約束まで参りました」と言ふゆゑ駕籠から出てみますと富沢町の橋手前 ゆゑ、「イヤどうしたんだ親父橋といふ約束だのに、ここは富沢町ぢやあねえか、馬鹿にしやが るな」「ナニ馬鹿にするものか、約束通り一分下さい」と喧嘩面で手を出しましたところ、うし ろを向いて尻をまくると見る間に、ブウと一発はなしましたところ、駕籠舁も驚きまして、「ナ ンで人に庇をひり揖やあがつたな」「手前土手で乗る前庇を臭がうと言つておれをびつくりさし やあがつたから、約束通り庇を臭がせてやつたがどうした」「ナニこの野郎、尋常に一分だせ」 と突き飛ばさんとする。その腕を片だすきに引つかつぎ、富沢町の橋の欄干の側へいやといふほ どたたき付けましたところ、相棒の一人が息杖を振り上げて打つてまゐりますのを足で腰の所を 蹴飛しその息杖をひつたくり肩の所をいやといふほどなぐりましたら、「人殺し人殺し」と大声 にどなりながら逃げ出しました。今一人の奴もいつ逃げ出したか居りません。夜は八ッ近くで人 一人通りは致しませんが、無銭で乗るのも気の毒と思ひましたが、あいにく銭一貫文がありませ ぬゆゑ三朱紙に包みて布団の上に置いて来た、と翌日の話しで大笑ひを致しました。 宿駕籠の一流は大伝馬町の赤岩にて、いつでも|倶利《くり》|迦羅《から》紋々で達者の若い衆十四五人も居りて 客を待つ。この辺は本町・伝馬町辺大店の番頭若い衆が定得意なり。そのころ宿駕籠の主なるは 左のごとし。 赤岩 初音 江戸勘 重ノ字 油屋 むさしや 岡崎 竹や 神奈川や 玉久  相伊 荒木 上州や はし本 ときは 高田や ゑん州 わか松 岩本 ひら松  巴や等なり。  荷車及び牛車 車は荷物の運搬用に使用する物にして、大八車・大七車いづれも心棒樫の木にて丈夫に作りし もの、今日のごとく鉄輪も鉄の心棒もなく、また小形の車、俗に|三泣車《さんなきぐるま》のごとき軽便のものなく、 大荷物運送の時は前の梶棒の所へ横に丸木を結び付け、「エンヤアホイソコダアホイ」と掛声し て曳く後より二人押すもあり。永代・両国など本所・深川の地には車の通行は禁止なり。 牛車高輪大木戸側の仙波太郎兵衛氏由緒ありて許可せられあり。馬車は一切用ひられざりし。  芸妓娼女 深川に全盛を極めし羽織芸者の名残りも止めず。嘉永・安政以後慶応末年までは、黒船の渡来 より安政元年の関西の大地震・津浪、二年の江戸大地震、三年の大嵐・|海潚《かいしう》、五年のコレラ流行、 引き続き麻疹と、天変地妖のみならず常野の辺浪士の騒乱穏か次らざる御時節。自然花柳界は衰 微の極に近く、柳橋芸妓も大九十四五名、|雛妓《おしやく》三十名ばかりとなれり。芳町などは大小にて三十 名以下となれり。それでも明治以前の芸妓はそれぞれ何か一芸に達しゐるは勿論、中には遊芸一 と通り茶道・立花・俳譜・狂歌等の心得ありしものも珍らしからず。芸妓として客の取扱ひ、祝 儀・不祝儀の大一坐の配膳・始末・料理の取分け(当時は祝儀の時などは大皿・硯蓋などに高 砂・富士・羽衣その他意匠をこらせしむき物に料理を配す)、老妓や姉さん株のもの小皿に取り 分けて配膳に添ふる等の役目あり。今日はさほどなる飾物の出るも稀にして、またありても芸妓 の御厄介等になることなし。今日の芸妓を一口に評すれば、芸妓は客を遊ばせることを知らず、 客もまた芸妓を招ぎて遊ぶことを知らぬ、と言ふを当れりと思ふ。 府内の芸者は第一に柳橋、次は吉原・芳町、それから深川仲町・日本橋大工町と指を屈す。そ の他堀や猿若町は慶応の末年には指を屈するに足らず。新橋・烏森などは第三四流に下りしなり しが、維新の始め時を得たる|縉紳貴顕《しんしんきけん》の士が柳橋の名妓数名を根曳きして|手生《ていけ》の花となせしゆゑ 同所に目ぼしき者を失い、同時に新橋の芸者屋は申し合せたるごとく早くより時勢の変化に気付 き即売主義お手軽専一に勉強せるがゆゑ、地方より出京の顕官連はもとより芸の|如何《いかに》は顧みると ころならず、故に芸妓として客に接する、風一変せるもやむを得ぬ次第たり。故に芸者屋は資金 を惜しまず容貌艶なる美女を集むるに至り、一時名古屋種のオキアセ美人の|輻輳《ふくそう》せる時代もあり き。次に赤坂も劣らず美女を集中せるなり。その妖艶の姿に対して新聞などの名妓某と、名妓の 尊称を与ふるは我輩その|所以《ゆゑん》を解せず。明治十年前後の頃誉高き美人も、今日は既に頭に白妙の 雪を戴き、あまり終りよきものは少なくかへつて平凡の者の方終りを全うせるもの多きがごとし。 元来江戸の芸者は宵越しの銭を持たぬ輩多く、しかし仕立卸しの友禅の長儒神のままでごろ寝 もしたが、近頃のは金持芸者のくせに、待合や宿屋の貸浴衣と着替へ自分の衣類を敷き伸してた たみ、それから寝るといふのは少し色消しのやうです。ここに金持芸者と貧乏芸者好一対の話あ り。明治始めの頃仲の町お茶屋あり。老妓某が開業せるなり。一夕某紳商の誘引にて、某有名の |悪戯《いたづら》紳商(今日もなほますます健在なり)同行せるが、女将は某紳商が馬車にて行きたるゆゑ、 悪戯紳商に向ひ、「あなたもどうぞ今度お出でのせつは馬車でお出で下さいよ、ねえ」と言はれ たのが大いに績に障り(当時馬車に乗りあるくものは大臣さへ稀なる頃ゆゑ同業への自慢にツイ 口に出せしものと見ゆ)、その後少し顔の知れてゐる芸者で最も貧乏な芸者二人を探索するに、 新橋にも柳橋に、なく、芳町にて有名の|貧突《びんつく》の姉さん株二人ありとのこと、それよからんとこの 二人を同行し、円太郎馬車のぼろぼろ幌を被ひ、骨だらけの痩馬二頭引きに乗つて、真昼中前記 仲の町の茶屋に乗り込みしに、女将驚き別当に頼んで外へ車をどけてくれと歎願するも、紳士の 申付けあるゆゑ一向聞き入れずさんざねだられ、紳商も充分腹いせして帰られし奇談あり。この 当時両芸妓が二人連帯で五円の貸手もなき大貧乏であつたのださうです。その貧突芸者の一人は その後浜町で有名なる割烹店の女主となりし。今一人は有名の老俳優の細君となり、今日は三十 万以上の身代、楽隠居さまなりと。また一方に、 明治二十年頃新橋に何某といふちよつと姉さん 株の芸者あり。容姿は美人とまではゆかざるも上品にして、いかにも畳ざはりのしとやかなとこ ろあり。生れは徳川旗下の令嬢なりしと。新橋へ弘めの頃は、身を捨ててこそ浮む瀬ありとの悟 道に随ひ、雨しよぼを踊りて売り出し、追々抱へも置くやうになり、蓄財も次第に増加し、銀座 通りの大商店の主人等の座敷に出ることも度々ありしが、いつも話題はかの女の所得税が歴々の 旦那株より多しとの噂、少なくも三十万円以上の身代とならんのことなり。彼いかにしてこの数 十万の蓄財をなせるにや、実にその辛抱感服の至りなりと褒めぬ者なきほどなり。彼も追々取る 年ゆゑ夫を持つて安心の生活に入らんと心掛くるも、この蓄財を目掛くる人多きに恐れ入り、夫 を求めざりし由。しかるに近来聞くところにては、某鉱山に関係ある人を夫として、つひにこの 雨しよぼ苦心の蓄財を煙となせしよしなりと聞き、その無残なるを同人のために|悼《いた》まざるを得ぬ 次第、前に記せし貧乏芸者と正反対、実に気の毒の至りといふべきなり。 昔から芸者や遊女は、寒中でも足袋を履かぬのは何か理由のあることたらん。あるひは上より 禁ぜられしものならんと思ひをりしに、ある通人の言に、それは決して禁ぜられしにはあらずし て、|伊達《だて》の素足といふ、意気を喜ぶ習慣より来りしものならんと言へり。あるひは|然《しか》らん。昔の 遊女や芸者の画に足袋を履いたるを見ず。明治初年までは現に履かざりし。おいらんが廻しに行 き、氷のごとき足を突っ込み、「つめたうざますがかんにんして暖めてくんなまし」などと言は れるはあまり|悪《にく》くもなかりし。 柳橋芸者之部 のぶ人、しほ、わか、たけ、のぶ吉、小つな、かく、才吉、きよ、てる、きくもと、 こん、ふで、さん、れん、小六、三八、やへ吉、みよ吉、ぬひ、いと、大吉、ふぢ、 大かう、金太、きんし、そめ吉、つた、やま、まつ、ふき、りき、つね、きん、小きん、 かる、小ちよ、ほの、小かま、ひやく、小てふ、こま吉、つな吉、小しげ、とり、 小ひな、つる吉、小よね、しか、豊つが、豆吉、島吉、小とく、はな、すみ、たつ、 梅吉、りう、さと、ふみ、せん吉、市かつ、ひで、八万吉、だい、ゑい吉、かめ吉、 小ゑつ、はん、たか、きん八、みさ吉、かん吉、よさ吉、豊八、せん、小いと、 よし浜、小てつ、ふく、小かね、三吉、よね吉、小ぎく、うめ、みつ、小よし、やす、 たき、うら、小ゑい、はつ、ふさ八、合計九十四妓。 同半玉の部 小はま、小市、やつこ、ひで、ゆき、小すず、はま次、きん、とし、よの、みわ、 小屋ま、しか、三代、かめ八、さだ、こま、小みの、小みね、なべ、小かつ、 小すみ、そめ、小かね、小ふじ、小ゑひ、小ひさ、升吉、しゆん、ふく、まき、 小介、小とく、合計三十三妓。 芳町芸者之部 千代、ひさ、すみ、小まつ、かね、たけ、かね吉、政吉、きん、とみ、かめ吉、 きく、とく、かよ、浅吉、たみ、小三、小つる、せん、はる、小金、とら、小きく、 市右衛門、合計二十四妓 深川芸者之部 小三、しゆん、ゆき、たま、喜久寿、はん、小糸、よし、つな、千吉、小つる、 小ぎく、まん、小ぎん、 小松町芸妓之部 升吉、小とら、花金、小若、小勝、こう、みね吉、ゑい三、さく、小勝、まめ助、 とき、わか、かめ、 各所主なる芸妓之部 一山谷堀 小万、奴、ちやら、猿若町、小花、小ふぢ、 二浅草 ゆき、下谷、うた、いの介、小つゆ、あき、 三新橋 六金、金春、まつ、小つる、 四中橋 小みよ、梅吉、ゆき、 五霊巌島 きく、ろく、網吉、小玉、小富、  四大橋 永代橋 は元禄十一寅年、始めて深川と交通のため北新堀町通りよりまっすぐに深川佐賀町ヘ 西より東へ架設せる長さ百十九間江戸第一の長橋なり。西岸日本橋川へ向ひ南面|御止橋《おんとめぱし》(後、豊 海橋といふ)に並びてお船手見張番所あり。その裏手永代橋通り右側には永代団子しる粉屋、左 側には高尾茶屋、その隣りに居酒屋、そのうしろに高尾稲荷の|小祠《せうし》はお船蔵の側にあり。橋の中 央には木造の番小家ありて、日中は|放生会《はうじやうゑ》の亀の子と放し鰻を商ふ。対岸橋側左右には何もたく、 突当りに有名な乳熊といふ酒店と蒲鉾屋ありし。平常は割合に往来も繁からざりき。享保の末年 永代も新大橋も大破せるゆゑ、時の老中よりの下命に、両橋のうち一橋を取り除くべき御沙汰あ り。町奉行の評議に、新大橋は万一両国橋に故障ある時に差支へあるゆゑ永代の方を取り崩すこ とと決せるを、深川方面の各町民より難渋申し立て、自今自分等にて永代修繕するゆゑ下付|有度《ありたき》 旨願ひ出で聞済みとなりし。その後数年ならずして橋銭取立てを出願せしに聞き届けなかりしが、 いつしか許されしものとみえ、文化六年永代・新大橋・大川橋の三橋橋銭止むとありしゆゑ、そ れまでは取り立てゐたるものならん。文化四年八月十九日八幡祭礼の際非常の群集あり。その重 量に堪へずして中途より落橋し、水中に陥るもの霧しく、あとより押し来る者は落橋せしことを 知らず、ゆゑに防ぎ止むることを得ず。折から心利きたる武士帯せし長刀を引き抜き、「進み来 る者は斬り倒すぞ」と大音に呼ばはり刀を振り廻せしを見て、「それ喧嘩だ、侍が抜いたぞ」と いつてやうやう押し来る者を止め得たりと。この際水中に落ち入り死傷せる者数十名なりしと。 この騒ぎを後の芝居にて綴り合せ、|縮屋《ちぢみや》新助美代吉殺しを演じ、大入なりしことを記憶せり。文 化五年架替へ成る(委しきことは蜀山人の『夢の浮橋』を見るべし)。永代の橋上より四季の眺 望は、まづ正月元旦の暁には、橋上より東の方に向ひ旭の昇るを拝せんとする人出中を、多くお こそ頭巾に半面を覆ひし美人が、革羽織を着せる供の男衆に|繭玉《まいだま》の大なるをかつがせ橋の東より 来るは、早く八幡杜恵方参りの戻りなるべく、万歳は才蔵を連れ|素抱《すはう》の折目新らしきを着け、吉 例の得意先に急ぎ行くならん。十二三歳の|丁稚《でつち》新らしき仕着せ千草の股引尻端折り雪駄履きにて、 橋板を左右より合せし上を覆ひたる長き角材の上に霜の白く置きたる上を走り渡る。羽織・袴・ 一本差の礼者、獅子頭を負ひ、首に新らしき手拭を巻き、太鼓叩き、ほか二三名を連れし一文獅 子は、急ぎ足に渡り行くはまた初御祝儀にありつかぬならん。橋の両岸にて子供等凧揚げうなり の音空中に響き、その声を聞き一陽来福の心地するなり。南西佃島と鉄砲洲め間に碇泊せる数百 艘の商船は、|帆檣《はんしやう》林立いづれも帆柱と|舶櫨《ぢくろ》に飾りをなし、新年の航海安全を海神に祈るたるべく、 当日は大川筋一体に往来の船も稀にして、川の上流新大橋の方はさながら波幕を敷きたるごとく 広々と旭の影を写すなりき。夕景に至れば西方富士の白峰夕日に輝き、また夕南の風と上げ汐を 利用して白帆を|孕《はら》ませたる船々の入り来る光景は、実に東都の美観といふべし。夜に入れば佃沖 漁船の|篝火《かがりび》闇夜をてらす。四ッ手に入るはまだ子持とならぬ|少女《をとめ》白魚、江戸名物の一にして、昔 家康公御入国後、尾張の国より移殖せられしもの、今は繁殖して江戸ッ子の舌鼓を打つ獲物なり。 三月は品川沖の汐干狩の戻り船の上流に遡ぽる光景も面白く、夏は橋上の涼み、秋は中秋の月見、 二十六夜待ち、冬は雪中銀世界もまた一段の美景なり。四時の眺めにあかぬは衆人の知るところ なりき。 新大橋 は元禄六年五月六日老中能勢出雲守の御沙汰にて、浜町水戸殿の|上地《あげち》より深川元町へ 新たに架設せられ、上地内には|乙《をと》ヶ|淵《ふち》といふあり。その他池等ありしを埋め立てられし。後享保 四年掛替へ成る。御費用は六千二十七両なりしと。新大橋の西、浜町川岸の方十数軒の床見世に て付焼団子と薩摩芋を串刺付焼を商ふ。また橋の西北側に八ッ橋といふ名物団子屋あり。この家 は一種風がはりの商ひぶりにて、一串に五個づつさして長銭の五女なり。二十串にて天保銭一枚 と|青銅銭《あをせん》四文たり。風味宜くすこぶる繁昌して店前顧客絶えず。涼船など崖下につなぎて焼きた てを待つもの多し。橋の東側には建物もなく、|中央《なかほど》に番小家あるのみ。四時の眺望のうち月雪の 景殊によし、夏の夜景中洲・三ッ股の暁は格別の趣きあり。橋上にて夕立に逢ひたる時は染みと なりて抜けぬといへども、|安宅《あたけ》の夕立とて名高し。「身は一ッ、心は二つ三ッ股の、流れに淀む うたかたの、君を待夜の梶枕、暁がたの雲の帯、鳴くか中洲の|時鳥《ほととぎす》」 両国橋 は寛文元丑年始めて架橋に着手、二年にして落成す。昔の武総の国境として往来の人 繁く、府内第一といふ(日本橋以上なりと)。殊に夏の夜の賑ひは一層にして、付近の繁昌他に 類ひ少なし。その|光景《ありさま》は拙き筆に書き尽しがたきも、ただ大要を記さんに、まづ西両国(西川 岸)の方、橋の西北は将軍家御船より御上陸の地として広場あり、平日は草生地となりてあり。 西南の方には有名の並び茶屋あり。いづれも川に面し|葭箕《よしや》張りにして雨天には|営業《しやうばい》はできぬたり。 商ふ物は麦湯・桜ゆ・煎茶のみ。店の看板美人の愛矯とお世辞にて客を招く見世にて、猥らなこ となく客の置く茶代を収入とする(金箱旦の有無は知らず)もののごどく、夏期は軒並みいづれ も繁昌す。慶応初年の頃の軒別美人を挙げれば、 小川かつ、上総やかめ、武蔵やたけ、江戸やきん、井筒やいの、泉やてる、近江やいは、鈴木 やなる、橋木さへ、いろはもと、立花ゑびや、竹や中、鈴木宇田川ふく、よしのやふく、武蔵 や出張、いせやかね、上総やくめ、桜やひさ、橋金あや等なりし。 以上茶見世の向う側広小路一体は、村右衛門座芝居、三人姉妹の女芝居、忠臣蔵の大目鏡、浪 花節(チョボクレといふ)、|歌祭女《うたさいもん》(デロレンといふ)、講釈、楊弓場、髪結床、揉療治、その廻 りには手遊や、枇杷葉湯、冷水、白玉、道明寺、|心太《ところてん》、寒天、鮨屋、天麩羅屋、団子屋、稲荷ず し、鰻の肝焼、虫売り、燈籠売り、流しの按摩、流しの新内節、その他さまざまの物売り、吹矢、 どつこいくく、襟に提灯をぶらさげし辻|占易者《うらなひ》、夜鷹そば、酔ばらい、喧嘩、野次馬、野小 便。群集のうちには町方手先(俗に|岡引《をかつぴき》といふ)も無論見廻りをれども、すりかつばらひ等の 犯罪人のほかに手を出さず、自由我儘の時代でありました。吉川町広小路、米沢町、柳橋辺一体 の地に来往の群集は、かんてらの火・魚蝋の火・燈火等の熱のため涼み所にはあらざるも、夕刻 よりわざわざ集り来るは、夏の虫の火を取りに来るに似たると一般ならん。付近に名高き料理屋、 飲食店その他の諸商店、橋の東西を一括して記せば、 角力膏薬、幾世餅、菓子見世、筆や、五臓円、薄荷円、芭蕉膏、兜膏薬、いけま膏、 四ッ目や、丸竹、坊主そば、都鮨、笛や、五色茶漬、名倉、柳ゆ、大橋庵、軽焼や、 梅川、万八、青柳、河半、川長、洲崎やの鰻、与兵衛鮨、松の鮨、深川亭、 もゝんじや、(柳橋芸者、船宿は別記す) 東岸には見世物小屋も西両国と違ひ概して下等にして、蛇遣ひ、一寸法師のやれつけなどとい ふ最下級の|菰張《こもぱり》小屋見世もの多し。川岸水中に|垢離場《こりぱ》あり、ゆゑに垢離場といふ。 見世物 看板は目につきの輪のくま女人の肝をもつぶさせにけり 仙台千柳亭 からくりの糸より縄を引切て見世物小家をのぞく菰穴 琴通舎 木戸銭もぴた八文は極安い天の岩戸を見する両ごく 田守 雪の日は土弓太鼓の音たえて天の岩戸の明たてもなし 本住 大川橋 (俗に吾妻橋といふ)長サ七十六間安永三年浅草材木町と花川戸町の間より本所竹 町へ新たに架せらる。水戸海道に到る近路と、亀戸・押上・向島の通路にして、往来の人は両国 に続く。花見の頃は雑踏甚だしく、橋上より四季の眺めもよく、西に富士ケ峰北には筑波といふ 第一の呼物あり。河上には浅草寺の屋上に|鴻鶴《こうかく》の巣籠るも五重の塔・楼門も近く見え、山谷の中 洲、竹屋の渡し、|真乳山《まつちやま》の森、今戸・橋場の瓦焼きの朝煙、対岸枕橋より隅田堤、|三囲《みめぐり》の鳥居前 辺は花の有無に拘らず美景なり。遠く橋場の渡しより水神辺を見越せるはまた格別なり。水面に は都鳥の|雌雄《めを》楽しげに浮みつつある、その傍らを|筏《いかだ》の流し来るもゆたかなり。三月花の頃には四 ッ手網に|孕白魚《はらみしらうを》の得物もあり。月雪花はまづ東都第一の絶景ならん。橋の下流には青海苔も採れ 香気あり。厩の渡し、首尾の松辺より神田川落口辺までの|蜆《しじみ》は、貝よりは実の方大にして業平蜆 と称へ、美味は蜆中第一位なり。 「夕暮に眺め見あかぬ隅田川、月に風情を真乳山、帆上げた船が見ゆるぞえ、アレ鳥がなく鳥の 名の、都に名所があるわいな」  府吋飲料水道、神田上水、玉川上水 元来江戸の地は飲料水に乏しきゆゑに、三代将軍御治世の時大久保主水に命じ、武蔵国多摩郡 井の頭の池水を、|木樋《とゆ》にて数里の距離を江戸の井水に引用し、承応年間落成す。その後玉川上水 も引用す。元禄元年河村瑞賢計画、千川用水もなる。いまだ我国にて樋をもつて引水せし地なき ゆゑ、ややもすれば江戸ッ子の自慢の種となるなり。「ヤイベラ棒、こう見えてもな、ぎやつと 産れりやあ、スートする水道の水で産湯をつかつたアン兄だ、見そくなやあがると、どてつ腹を 蹴破り臓臆を引き出し、鳶にさらはせてやるぞ」などと言つて力みかヘつて地方人を驚かす奇談 も毎度のことなり。深川辺は水悪しきゆゑ、竜の口にて水道の余り水を船に受けて運ぴ、一荷何 程として飲料に売り歩く。この水船が河水とすれすれぐらゐゆゑ、沈没船と間違へ笑はれる人あ りo 江戸ッ子は|皐月《さつき》の鯉の吹流し口先ばかり|腸《はらわた》はなし 神田上水の御普請金は、各町々の地主が小間割に負担せしものとみえ、左の割当をみる。 神田上水北方総名高合六十四万八千四百十二石六升七勺五方御普請金割合 小間二百二十七間一万千三百五十石 堀江町四ケ町 同 二十三間半 千百七十五石  同六軒町 新規井戸の分は二石五斗の割 嘉永六丑年より慶応四辰年迄平均米価表 年代 米相場 その年出来事 嘉永六丑年 百俵に付四十九両 一両に付七斗一升 百文に付一升〇〇 異国船浦賀に来る小田原大地震 家定公将軍 安政元寅年 百俵六十両 一両五斗八升 百文八合五夕 一朱銀通用始まる 大阪木津川大つなみ 東海道大地震津浪 同二丑年 四十五両 七斗八升 一斗二合 十月二日江戸大地震人多く死す 同三辰年 七十二両 一両に付四斗八升五合 百文に付七合 八月二十五日江戸大嵐津浪 同四巳年 百俵に付六十三両 六斗五升 七合五夕 同五午年 百俵に付八十九両 一両三斗九升 百文に付五合五夕 家定公御他界 コレラ流行人多く死す 同六未年 百俵に付百五両 一両に付三斗三升 百文に付四合七夕 十月御本丸炎上 六月四日横浜貿易開市お救米下さる 万延元申年 百俵に付九十九両 一両に付三斗五升 百文に付五合二夕 三月三日桜田変井伊大老死す 女人富士登山 文久元酉年 百五両 三斗一升 四合六夕 同二戌年 百俵に付百二十三両 一両に付二斗八升四合 百文に付四合 はしか大流行バ多く死すお救米下さる 同三亥年 百二十五両 三斗八升 三合八夕 二月家茂公御上洛 丈久銭通用始まる 御上洛御帰京御土産とし 市内一戸に付丈久銭天保銭三貫文づつ下賜さる 元治元子年 百俵に付百五十両 一両に付二斗三升 百文に付三合二夕 七月十五日二十日京都大火蛤御門変 慶応元丑年 百俵に付二百五両 一両に付一斗七升 百文に付二合二夕 文久銭八文青銭十二丈となる 両国広小路に獄門二首級出る 本所小笠原邸に浪人入込 同二寅年 二百七十両 一斗二升 一合八夕 春市中打壊 貧窮組騒ぐ 同三卯年 四百二十両 八升三合 一合一夕 市中巡羅始る諸式高直救小屋建つ 千住大橋固め付 大阪チバニテ 戦ある 南京米始めて渡る 十二月二十五日赤羽根大火事 同四辰年 三百五十両 一斗 一合二夕 諸大名諸国へ引込 五月十五日上野戦争  蠣殻町の今昔 蠣殻町の昔と今維新前の蠣殻町は、酒井|雅楽頭《うたのかみ》の中邸にて大半を占め、その他は銀座と|常是《じやうぜ》 跡、残りは小大名旗本屋敷ばかり、至つて淋しき土地にして、小網町二三丁目の裏、安藤対馬守 邸との間の道路を|稲荷堀《たうかんぼり》といつて、江戸の真中の地でありながら、白昼若き婦女子等は一人にて 通行すれば下郎など戯れること等あり、それゆゑわざわざ小網町通りを廻り道する者ありしくら ゐなりし。築地・鉄砲洲・八町堀辺より両国・浅草に行くには、鎧の渡しを渡り、葺屋町・堺 町・和泉町・久松町より両国に出づるを近道便利とすれど、鎧の渡しは夜分は通行を止むるゆゑ すこぶる不便なりし。箱崎橋より思案橋までおよそ三町余あれども、東へ通ずる道路なきゆゑ別 して淋しく人通りも少なきゆゑなり。酒井邸の芳町へ隣りし方は一時西郷隆盛氏住居せられしも、 同氏鹿児島へ引退せられし跡を越前家にて拝領せるならん。元大阪町十三番地と蠣殻町二丁目十 四番地一体は旧銀座なりし。人形町通り南谷陳列所の所に銀座の表門あり。角の瀬戸物屋の所が 常是なり。銀座裏門は、今の東華学校に向ひ正面して建てられし。そのうちに一分銀や一朱銀を 作られし工場ありしなり。当時は鋳造は皆座にての請負ひにて御用の多く出づるは座人の利益な るが、老中や勘定奉行に運動する費用も少なからざりしがごとし。その頃の総年寄役は小南宗左 衛門なりき。慶応の末年には、メキシコ|弗《ドル》を一分銀に改鋳することを許可せられしにょり、民間 商人よりも盛んに願ひ出でたり。維新後、銀座御廃止に付き旧年寄役始め重役等へ鋳造所跡の土 砂を賜りしゆゑ、裏門外梅堀の下水吐出口下の土までも掘り取り|淘《よな》げ、含有しある銀も少なから ざりし。およそ三ケ年に亙りて採収し相当収益ありしと聞けり。銀座役所の跡は、一時通商司為 替会杜を置き、金二十五両の|兌換券《だくわんけん》も発行、一部銀行の業務を取られたり。この総頭取は三井、 小野その他市内豪家の主人が帯刀にて出勤せられしたり。明治五年、鎧の渡しを架橋して浜町人 形町通り(越前邸を中断して)次第に新道を開き、築地・八町堀方面より新大橋へ直通する便利 となり、水天宮を赤坂より(赤羽根より赤坂へ)再転し、浜町辺の武家邸も追々町家となり、旧 銀座の稲荷杜辺にお船蔵に安置しありし大観音を移転せしめ、元大阪町銀座火除地を開き、また 梅堀を埋めて道路を広げ、多く仲買店となり繁盛の地と変化せり。切られ与三郎が|蠕幅安《かうもりやす》を切害 せる地は、豊国銀行の南横町安田氏門前の辺なり。人形町通り梅園汁粉店の横通りに、中島座と いふ芝居ありて繁昌せるも、出火のため今はなし。市区改正の結果、山の手辺の淋しき地が今 |熱閙《ねつたう》の地と変りし所各所にあれど、この蠣殻町のごときは稀なりと思ふ。  維新前後の兜町付近 兜町の地は、越後長岡の藩主牧野豊前守の上屋敷にて、兜町の一角地全部同邸にして兜橋など もなく、今の海運橋通り(元は海賊橋といふ故に海賊牧野といへり)南面坂本町に向ひ中央に表 門あり。橋の下り際南側に工階店の髪結所あり(江戸に二つなき物の一)、坂本町の角鈴木商店 の所に奈良屋といふ紙店あり、田中銀行の所には米本といふ鰻屋あり、裏茅場町角に砂場といふ 蕎麦屋あり、その東角は麻屋と並び森田砂糖店と鎧の中村屋といふ船宿あり、その右の通りは表 茅場町突当りの河岸蔵と牧野邸土塀の間を川岸に出れば、小網町二丁目に渡る鎧の渡場なり(今 の鎧橋の所)。裏茅場町は狭くごちやごちやせしに引き替へ、表茅場町は静かにて軒並み清酒問 屋にて、川岸土蔵の中間に大番家ありて、平日罪人の下調べをなす自身番小屋あり。茅場町薬師 は、山王御旅所といつて山王大祭の旅所が主にして、薬師は付属なりし。表門前に伊勢太といふ 有名なる諸問屋の寄合茶屋あり。この辺は毎月八目・十二日の薬師の縁日のほかは割合に静かな る町なり。海賊橋西面、今の玉塚店の所は、紀文の末裔なりといへる五十嵐香具店ありし。江戸 橋橋上より南に向ひ、橋台の左右には粗末の床見世あり、西側には|稲延《いなのぶ》といふ下駄屋その隣家に お萩屋あり(慶応年間出火して築地まで焼き払ひたり)。左側は一定せざる床見世その裏手は物 揚場と船宿あり。今の森岡鉄物店の南隣、今の兜橋の所に辻番所あり、その隣りは蕎麦屋と瀬戸 物屋の納屋なり。お萩屋の後方、今の七ッ蔵と江戸橋の間に木更津船の乗船場。中央に広き路地 あり、角に東やといふ鰻屋と板木屋との間に薬湯あり。江戸やと中村屋といふ船宿、土手倉とい ふ寄席あり。今の郵便局に向ひたる四日市北側は皆床店にて目立ちたる商人なし。郵便局の所は 隅切形に往来よりやや引き込みて御納屋とて公儀御用の魚類調進所の門あり。この役所の手代等 は|時化《しけ》などの折御膳所御用の魚整はざる時、市内の魚屋は勿論、料理屋にまで至りて引き揚げ行 くこと稀たらず。その|代価《あたひ》は時の相場に関せず俗にいふあてがひ扶持にて持ち行くなり。かれこ れ言ふも御用の二字で|拠《よんどころ》なく我慢する。時としては真の御用にあらざる高を調発し行くことあ り。故に何か無理に持ち行かるる時、「アヽ御納屋にあつてたうたう持つて行かれた」などと讐ヘ に言ふこととなれり。その御納屋の跡が今の郵便局となりしなり。同局の南隣に赤玉三ッ星とい ふ膏薬屋あり。西隣には有名なる竹屋の羊嚢といふ|紙莨入屋《かみたばこいれや》ありし。その裏手には天保年間非常 に参詣群集せる|翁稲荷《おきないなり》と楊弓場ありし所たり(「いやになりんこ松田のおりん子ひつつりお○○ こちおらんこちやん」と唱はれ娘の居た水茶屋は、稲荷の路地口四日市通りの竹屋の並びにあり)。 明治初年牧野邸は一時民部省通商司となり、後維新の際会計局の御用に功労ありし賞として、 三井・小野・島田の三家へこの土地を下賜せられしと聞けり。同時に兜町と命名す。明治三年の 冬築地にありし東京商社が旧牧野御殿跡へ移転し来り(今の帝商銀行の所にて)、米水油の定期 取引を開き盛んに売買をなす。また銭相場もなせり。江戸橋の川に向ひし角に一時船改所ありし も、まもなく住吉町にありし三井組御用所引き移り来り、貸付を継続す。東京商社移転後まもな く、鎧の渡船場に木橋を架し鎧橋と命名し、交通の便著しき所となれり(数年ならず鉄橋と改む)。 明治五年今の第一銀行の所へ三井組にて二階建五階の物見を付せし西洋館を建築せられしが、人 呼んで海賊橋のホテルと言ふ(当時洋館をホテルといふことと思ひ違へしなり)。功成る頃、国 立銀行条例発布せられしゆゑ、同館をそのまま第一銀行となし、三井組は駿河町の旧地へ新たに 建築して三井銀行を開店し、屋上に|競《しやちほこ》を置く。三井も第一も改築して今日の宏大なる建物とな れり。 「今度御一新太政官に民部省通商会杜、 出勤十字四字は退出、一六ドンタク大一座」  兜神社の勧進状 安宅の勧進帳は武蔵坊が智謀にて虎口を遁れ、神社仏閣の勧進帳は御託宣ことごとしといへど も、止まるところは福徳円満・子孫長久・家内安全・息災延命と、|纔《わづか》な寄付に慾張るを、おつと 承知と請け込みて釈氏も杓子を定規となし、|大下価《おほやすうり》に衆生を済度し法弁の|虚言《うそ》八百万神を祈念し て|利益《りやく》を|詠《な》がむ。凡夫心これを現未来の二世に及ぼす。さあれど、神仏へ寄進をなして寿百歳を 保ち、また一時巨万の財宝を得て二世安楽せしといへる郵便も極楽浄土より電信機の便りを聞き たることもなし。ここに鎧の渡してふ辺りに対せる兜塚は、往古源朝臣義家公奥州平定凱陣の|刻《きざみ》 天下泰平となり、弓は袋に太刀は鞘に納まる御代となりぬれば、兜も|鐙《しころ》もいらばこそとこの|楓川《かひでがは》 のほとりに埋め玉ひ、一塊の塚となし兜塚と|号《なづ》け給へり。その後数百歳の星霜を経て今世に至る まで、兜は土に埋まるとも|称《となへ》と利益は世に著はれ、その塚去る頃田辺の邸中に鎮座ましましてよ り知る人世に稀なりけるを、御一新のありがたさ、この邸地こたぴ民家となりしかば、かの塚を 清浄の地に移転して兜の神杜と尊崇し、鎧稲荷と合祭せば、旧地は忽ち地価の高徳を得、地主は 思はぬ福徳の一助となるも定利益の現当たる証なるべし。|加之《しかのみならず》鎧神杜は漁舟|入津《にふしん》ごとに大漁円 満を祈誓し、船中より杜前へ鮮魚を投げて献上す。ゆゑに必ず大漁を得る者少なからず。かく利 益広大の両社合祭をなして諸人の参詣を自由なさしめんと、地主を始め杜中のたれかれ協力して 勧進せむと衆議を凝す折しも、一睡の枕辺近く、一天俄に黒羅紗の洋服を着せし異翁忽然と顕れ いで、善哉善哉も古めかしければ、流行の西洋語にてベリグードなどと|不分明事《わからぬこと》を|曰《のたま》ひ、両杜の 合祭は商杜の名義空しからず、現金懸値なしの利益を授与せずんば年頃埋まれし名を顕しがたし、 よつて即座に利益を与へん勉めよかし、と曰ふとおもへば眼覚む。これ|南柯《なんか》の一夢なり。社中い よいよ慾心魂に徹し有志の信者を勧進す。各一人ごと新貨一円を寄付し賜へば、僥倖福徳を得玉 ふことさらに疑ひあるべからず。信心も慾のあまりといへば、必ず寄付に名顕するを厭ひいふこ となかれ。これも開化の一つなるべしと|敬白《うやまつてまうす》。  通商司為換会杜と東京商社 付小金ケ原開懇会杜 明治二巳年一月、王政維新新政の手始めに、海外貿易対等策として通商司為替会杜と東京商杜 の二杜を創立せしむ。前者は府下にて五人衆とか十人衆とか称へし旧幕用達の富豪、それらに劣 らぬ各富豪を集め、三井八郎右衛門・小野善助・島田八郎左衛門三氏を総頭取となし、欧米に行 はるるバンク(此頃ハ未ダ銀行トハ言ハズ)の仕組に習ひ、兌換券を発行して金融機関になさん とす。始めは牧野邸内に置かれしが、後に蠣殻町旧銀座役所の跡にて開業し、二十五両と一両の、 玉章筆帆掛船と裏面に|横文《わうぶん》を記せし兌換券を発行す。一時小札非常に払底して小商人の困難一方 ならざりし際、会社にて応急の策とし銀三匁七分五厘すなはち金一朱に当る小兌換券を出だし、 救ひを得せしめしごとくなりしも、お祝ひの飴袋のごときものゆゑ直ちに贋造でき真偽半ばせる くらゐにて、この損害の方大なるゆゑ俄に引き揚げられし。会社の業務は一向振るはざりしがご とく、その後国立銀行条令出でて、真の銀行業者諸方に開業せられたるゆゑ自然解散せられたり。 横浜の支店は第二国立銀行となれり。また東京商社は府下知名の商人を集め、三井八郎右衛門を 総頭取とし、商人中より十名の頭取を選任して各部の指揮に当て、|肝煎《きもいり》百名余を選任し、また組 合世話掛り数名を置きて、入杜希望者その他の周旋をたさしむ。団体の目的は、外国商人と直接 取引をなし、小商人に代りて大なる契約をも結ぶ。また地方よりの委托も引き請け、荷為替等の 利便も与へんとし、各種湘場の標準を知らするため杜内に米穀及び水油の定期売買を開始す。そ の大体の仕組みは時世に適当なる|目論見《もくろみ》なりしも、第一地理不便、最初開業の地は、築地南小田 原町の数馬橋北詰、元田沼玄蕃と青山下野の下邸の跡(今明石町六一、六二、六三ノ地)外国人 居留地に当し原、風雨の折は海面より吹き来る風強く往来もならぬ場所、人力車もたき時代。殊 に肝煎の諸氏としては、商杜が目的どほり繁盛する場合には自分の営業に障る者もある恐れあれ ば、身を入れて尽す者少なき、これ第二の理由。そのうち暴風のため一部の家屋倒潰、圧死人を 出だせしことありしゆゑ、商業中心地に近付く必要を感じ、兜町旧牧野邸内に引き移りしは明治 三年の冬かと記憶せり。移転後は引き続き米水油定規と銭相場も開始せり。同時期に米倉一平氏 等許可を得て、蠣殻町に定期米市場を開始す。その後東京商杜は主として牛耳を取る人失せ、次 第に衰滅して明治七八年の頃閉鎖せられしと。東京商社設立後間もなく、官よりの内誘ありしか 知らざるも、明治二年二月、東京商社有志の者より窮民救助の目的をもつて小金ケ原の貸付を願 ひ出で、小金ケ原開墾会社を創立せり。総頭取には三井八郎右衛門、頭取には西村七右衛門荒 尾亀次郎・中村庄兵衛その他数名にて経営せり。まづ第一に徳川旗本の倍臣等の窮民移住を計る。 元来小金ケ原は長延九里幅員平均およそ三里の地をそれぞれ区劃して開墾せしむ。貧民生活の途 相立つまで一日一人に付き白米五合づつ三ケ年間救助する目的にて、総予算は左のごとし、 開発原野平均長延九里幅員三里と見積り、一里四方の土地二十七ヶ所、一里四方の地は、 四百六十六万五千六百坪 二十七ケ所 合計一億二千五百九十七万千二百坪 此場所一ケ年五千坪開発と見積、此人員凡二万五千百九十四人余 此白米数三ケ年分十三万 六千五十三石、人歩一人に付農具料見積一人に付金二両づつ 合金五万三百九十両づつ 人歩一人に付家具夜具釜鍋一式一人三両づつ 合金七万五千五百八十五両づつ 外に貧院病院四方柵矢来見積金二万四千両 総合計金十四万九千九百七十五両 白米十三万六千五十三石 右米金貸渡し相願ひ返納は開発三ケ年と相定め、四ケ年より向う三ケ年間に返納|可致《いたすべく》との趣旨 にて出願、ただし右を三ケ年に割当て一ケ年分白米四万石貸渡しを願ひ、金子は半高貸渡しを願 ひ後は商杜中にて支弁可致と、三井総頭取ほか一同名義にて出願せるなり。全部許可せられしや 否は知らざるも、北島五位殿総裁として出張せられしをみれば採用されしと思はる。しかるに事 業の進行なかなか予想の半ばにも至らず。元来坐して衣食せる者に向ひ、俄に|鋤鍬《すきくは》の業を強ひる も到底なし得べくもあらず。頭取等も皆少なからざる私財を費し、困難に困難を重ねたりとの話 は度々耳にせるが、近頃聞くところにては、最初より辛抱忍耐せし人は勿論やむを得ず我慢せし 人々も、今日は大地主として土着せる人々は子孫ますます繁昌なりとは聞くも嬉しき心地するな りo 東京商社は明治二年九月、北海道函館に出張所を置きて北海道産物の荷為替を開始す。また石 巻にも出張所を置き三陸米の輸入を計る。同時期に汽船廻漕丸を購入して運輸事業をもなせり。  お名目金貸付所 お名目金とは御三家または宮方の御名前を利用して貸付金をなす。水戸殿御貸付所は深川佐賀 町下の橋の右岸、水戸家下邸中にあり。本尊は伊藤八兵衛氏なりと聞けり。紀伊殿は大橋向万年 橋の下邸にあり。尾州家にもありしと聞きしも所在を漏せり。仏光寺御門跡の貸付所は浅草猿屋 町にあり、本尊は|関斎宮《せきいつき》氏なりしと。いづれも高利にて、利息は天引礼金その他手代等への手数 料も皆前取なりと。貸付の時の有様は、水戸殿にては一段高き座敷に具足を飾り、その前に座布 団を敷き、貸付主坐すると三宝の上に貸付の金全部を乗せ持ち出だす。借用人連帯者は一段低き 所に坐し、手代両人左右に付き添ひ借用願人某、連帯保証人何町某と申し上げると、主任何町某、 連帯者某等御当家御貸付金拝借願出御聴済御貸下仰付らるにより、|難有《ありがたく》相心得期限相違なく返納 致すべく、この儀堅く申し付けると言つて、襖のうちに入ると、手代等は三宝の金を持ちて別室 に入り、利息手数料一切を引き去り、残金を借主に渡すなりと。期限に至り返済する者は異議な きも、返済せぬ者本人または代人にても留め置き戻さず、三食の弁当は与へるが座敷牢に入れ置 くなり、夜に入れば密に抜け来り、入湯してまたもとヘソッと戻り入るなど、上海警察の留置場 のごときなりと。維新の際、恐らくは踏倒され多かりしならんと聞けり。  江戸横浜生糸荷為替組合開始 徳川幕府の財政はすこぶる窮迫せるやに誰人も想像する者多きも、その実しからざるがごとき 跡あり。慶応三年の七月海外貿易奨励のため御勘定所御用金をもつて生糸荷為替組合を取り立て、 その取扱ひむ三井組に命ぜらる。同組にては住吉町にて有名なりし香具店松本広也の家屋に、三 井組御用所なるものを新設す。その当時の横浜組合人は左の八名なりし。 横浜本町四丁目 野沢屋惣兵衛 同町 吉村屋幸兵衛 同二丁目 増田屋嘉兵衛 同 糸屋勘助 同 小松屋平兵衛 同五丁目 綿屋政吉 同 石川屋金右衛門 同 橋本屋弥兵衛 江戸表貸付日歩は百両に付一ケ月六十匁の割 横浜は同七十五匁の割 暫時拝借の分百両に付一日銀三匁の割 十日限の事 横浜より引取荷物に対して深川三井倉庫入は貸付せられしなり。 当時にありては金利一般に高く、生糸荷為替のごとき別して安からざりし。この為替組合に反 対妨害者もありしやに聞く。この英断は御勘定出頭小栗上野介殿の計画なりしと聞けり。  佐野松御紋章の御答め 南伝馬町三丁目東側の新道に佐野松といふ|席亭《よせ》あり。|駒雀《こまじやく》といふ子供役者を坐頭にして、首振 りを演じいつも大入続きなりしが、ある時先代萩の衣裳に葵の御紋章の付いたるを用ひたりとて |殺度《さつと》を受け、役者も席亭も罰せられしことありし。  大芝居は猿若町三座に限る 三座には慰廿に櫓を上ること、花道廻り舞台引幕は許さるるも、宮芝居には許されぬなり。ゆ ゑに宮芝居を|鈍帳芝居《どんちやうしばゐ》といふ。  浅草奥山の音吉いか蔵芝居 観音念仏堂のうしろに間口四五間奥行も同じくらゐ、|柿葺《こけらぶき》で軒の低き平家、丈高き人は頭のつ かへるくらゐの板張りの建物、表口には三尺の入口あり。木戸もなく婆アさんが綱を引つ張つて 番をなし客入り来れば綱を引き込めて通す。この口にて木戸銭を取りしやを|記憶《おぼへ》せず。取りたり としても八文か十二文ぐらゐ、表正面はその三尺の木戸口のほかに、腰三尺ばかりの板張りで高 さ三四尺横二間ばかりのあけ放しの窓にて、|往来《とほり》より舞台にて狂言をなすを見得るやうになしあ り。|無銭《ただ》にても見るを自由にまかす。客は下足のままにて土間に入れば、不細工に板を横に並べ 小学校のベンチのやうに腰をかけ見物す。上等もなければ下等もなく、一幕終れば役者が衣裳を つけたまま幡随院の長兵衛や平井権八が旅を持つて銭を集めに廻る。出すもよし出さぬも各めぬ もやうなりしと思へり。幕の間には二人出で来りて道化問答をなす。この真似を住吉踊りや太神 楽が今まねるのなり。いか蔵芝居も同じ。 第四章  府内武家の行列と祓参宮 御府内諸侯方の行列は御三家(尾張・紀州・水戸)御三卿(田安橋・清水・一ッ橋)のほか路傍 の者に下に居れと下坐はさせぬなり。それゆゑ、百万石も|痃癖《げんぴき》もすれ違ふたる江戸の春、と何や らの本に誌されしごとく、加賀様でも按摩でも同格なり。その癖加賀侯の奥方は下に居れなり。 これは将軍様の御娘御守殿なればなり。諸侯の行列も正月元旦五節句その他の式日にはお位の高 下により、|烏帽子直垂《えぼしひたたれ》もあり、また|裃《かみしも》長袴もあり、輿脇の|徒士《かち》も|素砲《すはう》侍烏帽子も裃|股立《ももだち》もあ り。普通登城の行列六七万石の大名にても供先より合羽担ぎまでは四十間以上も続くなり。私が 六七歳の頃浜町辺の大名が、今親父橋を渡り行列の先供が|照降町《てりふりちやう》に差しかかりて進み行くを、子 供心に早く向側に行きたしと思ひ行列を突き切り走り抜けしを、先供の徒士追ひ来り横抱きにか かへ、先に駆け抜けたる徒士と徒士の間を通り元の場所に下してそのまま行列は|通過《ゆきすぎ》しなり。自 分は子供心にいかなる目に逢ふかと思ひ泣き出だせしも何の仔細もなかりし。ただ御供先を切られし といふ御幣に過ぎざるなり。しかし斬捨てに逢ひたる例もありしと聞く。島津三郎が生麦で 英国人を斬り捨てたのは、これを重く処分せしならん。諸侯方は勿論、お旗本も御家人もお役向 きによりては、道中に出れば下に居れ下に居れと、小旗本や御家人の先払ひは多く問屋場にて子 供の乞食を雇ひ細き竹を持ち、下に下に下に、と行き過ぎる。田舎人はそれでも下坐するもをかし。 東海道にては抜参りの小僧などを先払ひに雇ふなり(抜参りとは江戸の職人の子弟なり)。「建 具屋の熊も大吉の寅と一所抜参りにいつて京大阪まで見て来たと威張つてゐやがつた、どうだ親 方に|内所《ねえしよ》で行かうぢやねえか、銭も何にも入らねえ柄杓一本持つて行きやあ飯なんかどこでも食 はせてくれるとよ、帰つて来れば威張れるぜ、それに仕事の腕があがるとよ」、「サウカそんなら これから出かけやう」などと飛び出す。これらの輩は先払ひなどに雇はるれば都合よきなれど、 神奈川に泊り小田原に泊り三日目に箱根山に掛り始めて山を見て胆を潰し、急に家が恋しくなつ て山手前より帰つて来る者多し。  厄払ひ 厄払ひは大晦日または年越の夜来る。年頃の男多くは職人風、 縞の半纏に|盲縞《めくらじま》の股引、腹掛 に手拭を吉原かぶりに肩に白き布の袋を掛け、夜に入り諸処の門口に立ちて、「御厄払ひませう、 厄落とし」といふて|歩行《ある》く。多くは茶屋や待合芸者屋にて呼び込み、まづ役者尽し、魚尽し、虫 尽し、その他好みによりて種々文句を代へる。 「アヽラ目出度ナ目出度ナ、今晩今宵の御酒宴に、お肴尽しで払ひましよ、目出度平目嬉しい 茸、粋な吸口花ゆずに、ちよつと手際を味噌吸物と、その高慢な口取りが、どうでも差身の生 聞きと、悪く言ふのも焼肴、心は煮肴あんこ鍋、ソレぬらぬらとじゆん菜が、鰻の蒲焼玉子焼、 うま煮すの物香の物、あらゆる珍味を取り揃へ、並べ立てたる広ぶたの、蔭にうかがふドラ猫 が、にやんぐり喰はうといふところ、この厄払ひがかいつかみ、西の海とは思へども、お肴尽 しのことなれば、戸棚の中へさらり御厄払ひませう、厄落し」 と言つて十二銅のおひねりと切餅五切か十切もらつてまたほかへ行くなり。  節季候 節季候 は物貰ひにて、年末二十五六日の頃各商家のせはしき見世さきへ付け込んで、いちや う形の編笠をかぶりし女三味線を弾き、頭巾または鉢巻の男や子供と太鼓・ささら・拍子木を打 ち鳴らし五六人のもの一むれとなり、「ドンドンガチガチ、サァサ節季|候《ぞろ》毎年毎とし旦那のお庭 へ飛び込めはね込め、サアサ節季候/\、ドンチヤン/\/\」、やかましくうるさきゆゑ銭を やつて追ひ払ふ。 これは物貰ひの年中行事として暮には必ずやつて来るなり。  鳥追 鳥追 は例年正月元旦より七草まで来たる。皆小屋者、編笠を冠り衣類は一切綿服にて絹物を 用ひず、いづれも仕付の掛りしままを着す。ただ編笠の紐を結ぶ|腮《あご》の所へは|緋鹿《ひが》の|子《と》、紫鹿の子 縮緬を捻りて当て、白粉化粧美しく、衣類の着こなしもきりりとして姿よく美人多し。大体は二 人連れにて三味線を弾き、三下りの、チヤンチヤラスチヤラカ、と鳥追歌を唱ヘ来る。町内受持 ちの小屋頭付き来たる者へは十二銅のおひねりを与ふ。  寒中の裸参り 寒中の裸参り 江戸職人の子弟が、自分仕事の腕の上達するやう神仏に祈誓し、寒三十日裸参 りをなす者多し。いつ頃より始まりしや年代を知らざるも、とにかく百年近く行はれしと思はる。 二十歳前後の者多く、三十歳ぐらゐまたは十四五歳の者も稀に見る。多くは二人三人連れ立つな り。|晒木綿《さらしもめん》の後鉢巻と同じ腹巻と|犢鼻揮《ふんどし》を締め、家を出づる時|水垢離《みづごり》をなし、手に日参と記せし 細長き提灯を持ち|鐸《れい》をたらし、駆け足にて日頃信ずる神仏に至る。深川の不動尊、浅草の三社、 上野の東照宮、神田明神、根津杜、山王神杜、金毘羅社、その他摩利支天等に詣づる者多し。目 的の社等に至れば、再び水をあびて祈願し終り、駆足にて戻るなり。これ迷信とのみ評すべから ず、江戸気質を顕すの一端なり。稀に寒気のため途中凍死せることもありたり。近年は警察にて やかましく、素肌は許されず白木綿の儒神を着す。また|醴《あまざけ》・|薄粥《うすがゆ》の接待ありと。  宝船売り 宝船売り 一月二日夜は初夢を見てその年の吉凶を判ずる者多し。わけて都下花柳界には用ふ る人多し。それは下等の半紙を四つ切にしたるものへ七福神乗合ひの宝船の図を画き、「なかき よのとをのねふりのみなめざめなみのりふねのをとのよきかな」(逆に読みても)と印刷せるを 枕の下に敷きて眠り吉夢を結ばんとするなり。その宝船は二日の夜、その日ぐらしの男等売りに 来るを、宝船を売ればその年は縁起がよいと、職人や若き店者が売りに廓内、仮宅、芸者新道な どを、「お宝/\/\宝船/\/\」売りあるく、「オヤ意気なお宝やさんだねえ、一枚頂戴な」 「私にも一枚ちやうだい」と、我が懐中の宝まで皆せしめられて宝をあまさぬ者多し。 |太神楽《だいかぐら》太神楽は昔は太々神楽といつて、一万度の|御祓《おはらひ》を|長櫃《ながびつ》の上に立つて獅子舞をなす古図 あり。諸侯方の奥向に入るにこの長櫃のため間違ひありしゆゑ禁ぜられ、今は挾箱に道具を入れ ることとなれり。獅子舞のほかに|籠鞠《かごまり》の曲芸、|撥《ばち》と鞠との芸、お福の滑稽、これらは皆江戸趣味 の芸にして、正月のほか祭礼五節句などに来り演ず。近来は宴会の余興に招くやうになり、曲芸 も多くなりしと。丈久年間には丸一、大丸、鶴の丸、海老一等にていづれも同じ曲芸を演ぜり。 万歳 万歳は三河の国より都下へ正月出稼ぎに来たる。|古徳《いにしへ》川家に何か由緒ありしがため許 されて、諸侯方の奥向に吉例として入る。その他府下の豪家、主なる|商費《しやうか》を得意と称して毎年正 月は必ず来たる。才蔵は信越の者多く、毎年十二月大晦日の夜日本橋西河岸の往来にて才蔵市が 立ち、才蔵志願の者集り来たる。この才蔵の巧拙により大いに万歳の興味を増減すみゆゑに、巧 者なる才蔵は前もつて予約ありて、駆出し万歳の手に入らぬ由。万歳は素抱風折烏帽子、手に |中啓《ちゆうけい》を持ち、才蔵は素抱侍烏帽子、手に鼓を打ちつつ、万歳の千代を寿ぶく歌に次いで唱ふ、次第 に道化の態度となり、種々に顔面を変化させる。女中連は物珍らしきに笑ひ|屈折《くづをれ》るを、才蔵調子 に乗り我知らず狼なることをなし、厳しき各めを受けしことありしと。正月過ぐれば田舎廻りに 出るなり。 山里は万歳おそし藤の花 万歳の破れ素砲や時鳥 鹿也 |小鰭《こはだ》の鮨売りと払扇箱買ひ この二つはいづれも正月の景物ですが、小鰭のすし売りは、意気 な風で新らしき短冊形の重ね箱を担げ、よい声にて「|鰭《こはだ》のすうし」と呼びあるくは春らしく陽気 なり。それに引きかへ扇箱買ひはよそゆきの紙屑買ひとでも評する風俗にて、風呂敷を負ひ手に 台付の扇箱を下げ、「払扇箱、扇箱お払ひはございませんか」と門並み聞きあるくは淋しく、正 月の終りを感ずるなり。  年礼者の泥酔 正月になると元日より十五六日までの間は泥酔者多く、上ドとも往来にて醜体を顕すことは都 下一日数十名に及ぷ。新らしき印半纏二三枚|重着《かさねぎ》、倉縞の股引腹掛、白足袋に突掛け草履、片方 はどこかに脱ぎ捨て、往来の天水桶の横に倒れ片手は天水桶につかまり片手枕とたり、口よりは 小間物の開業傍らに白ぶちの犬が看護婦代りに舌の先でぺろぺろ掃除し、|聰《あご》の廻りをなめ廻すも 御当人は一向平気で、「ナニもう呑まねえのかと、馬鹿言ひねえ、これからが真剣に呑めるのだ、 いくらでも持つて来ねえ」などと、力みかへつたまま路傍に寝てゐる。この類少なからず。昼過 ぎから夕方へかけては、やや旦那株の酔払ひ多く、紋付の羽織、。ハッチばき、小袖の尻はしより 脇差は前へ抜け落ちんばかり、縮緬の襟巻をしだらたく首に巻き付け、左右へ首をまげはつたり |歩行《あるき》のうしろに、十三四の小僧、首から|柳行李《やなきがうり》のふたを風呂敷で包み、手拭をだして首にかけ年 玉物を配り切りたりとみえ、主人の平袴をくちやくちやに押し込み、気遣はしげにはつたり歩行 の供して付き来る。折節娘|連《たち》が羽根つき遊びのところへ生酔先生うつかり顔を出す、とたん間違 へられて鼻の先へ白粉をべつたり塗られ生酔も驚く、娘連も驚きわびる。その滑稽中に二枚張り の|達磨凧《だるまだこ》落ち来たり、生酔さんの頭へこつん、それでやうやう気が付きしとみえ、顔をふきふき 立ち去るもをかし。また革羽織を着たる三十格好年礼者の供らしきが手拭で鉢巻をなし、十五六 の小僧の肩にかかり倒れんばかりになつて行く。番頭らしき人社杯を付けたるまま挾箱を仕方な しにかつぎ行くもあり。市中は真に春らしくのんびりして見ゆるなり。 本材木町二丁目、しんば通りの道せまき所にて、年玉物を出ださんと道の傍らに寄りて挾箱の 内より出しをる。折柄先供二人騎馬の武家、馬の左右にも|徒士《かち》付き添ひ槍持・挾箱・合羽籠・草 旗取八九名を連れたるこれも年礼廻りと見ゆる旗本らしき一行来除しが、馬脇の徒士が前の年礼 者の挾箱の棒に蹟きたるが、その侍大いに立腹し、「コリヤ下郎、ナゼ往来中へ棒を出し置くの ぢや、不届のやつだ」と怒鳴りつけられ、年礼者驚き真青になりしも挾箱担ぎの下男はさらに驚 かず、酔うてはゐれどさほどにもあらざりしが、今徒士の侍より下郎と言はれしを大いに立腹し、 「なんだ下郎とは無礼な、棒を往来に出したゆゑそれに蹟きしとてこの方を答立てするはその意 を得ぬことだ、天下の往来七分お武家方の通路、三分は我々町人の通路と定められてある、その 三分の所にある物に蹟きなすつたのはそちらがお悪いのだ、それに下郎よばはりなさるとは何の ことです、出る所に出て黒白を別けてもらひませう」となかなか合点せず、傍らより主人がなだ むるも聞かず。徒士も今さら引き込むこともならず、物見高き所ゆゑ、「お旗本と権助と喧嘩だ」 「ナニ手討になつたのだ」「死体は向うヘ運んでいつた」などと大騒ぎ。騎馬の殿様もほとんども てあまし居るところへ、町内の口利き来り武家にあやまり一方をなだめやうやう終り、武家もは ふはふの体にて行き過ぎし実話あり。この下男、講釈好きにて講釈師よりの耳学問なりし。  府内外の別荘地 府内中央の地よりあまり遠からざる閑静の別荘地としては、根岸の里を第一に屈指す。同地は 上野の山林を南に被ひて府下の塵芥を除け、したがつて火災の延焼を避け土地にも火災少なく、 下根岸・三河島の近くを除き水災もなく風害も稀にして、ただ冬期は日光と筑波|颪《おろし》はなかなか寒 く、春は鶯の初音を聞くも早く、|哺鳥《ほととぎす》も自由自在とはゆかざれども常に聴くことを得る。しかし 酒屋へも豆腐屋へも下谷坂本に行けば日用品一切不自由なく、御用聞の商人問ひ来るも繁し。た だ夜に入れば淋しく人通り稀にして、他所より来りし者道を間違へる時は八幡知らずにはひりし ごとくなりし。別荘地として豪家の控家、水火災の避難所、隠宅、妾宅、幽雅を好む丈人墨客な ど好みて永住する人多し。欠点は一年のうち八九ヶ月は藪蚊多し。 第二に屈指するは、柳島・亀井戸辺とす。陽気の地にして冬暖かに夏涼し。ただ入梅中や秋期 に出水の御難あり。向島・小梅・今戸・真崎辺は吉原遊女屋の控家多し。今日ならば今戸・橋場 辺は俳優の意気な軒並びを見るのでせろが、この当時の千両役者も大部分貧的多く、猿若町東裏 通りの借家住居多かりし。  医者 御本丸御抱への医師方(お|匙《さじ》といふ)は勿論、諸大名お抱への医師には名医も少なからざりし。 しかし多くは漢方医なれども、|和蘭《オランダ》交通以来長崎より西洋医術も伝来し、次第に用ひらるる時期 となれり。なかには名医もすこぶる多く、私の産れた嘉永二年には既に種痘の種も渡りて、もつ ばら種痘も行はるるに至りし。しかるに西洋医は荒療治なりとて老人や婦女子はなかなか信用し て薬用も依頼するもの少なく、やはり土瓶にて水一杯半と|生姜《しやうが》二片を入れ一杯に煎じて用ふる面 倒な服薬を喜び、コツプ一杯の水薬を信用せず。この時代なかなか永く、藪医殿の命数案外久し く明治年代の終りまで続けるが`ことし。この漢方家の巨頭浅田宗伯老などは、今日もなほ神のご とく信じをるものなかなか多しと聞けり。元来昔より医は仁術なりとありて人々尊敬するがゆゑ に、常に人の上座に座するを|彼我《ひが》ともに許す。それゆゑにたとへ藪医にても表面薬価を請求せず。 五節句または盆暮の二期に|御薬礼《おやくれい》として、薬一服低きは銀二分または三分、上の部は五分礼のほ かに、御菓子料として百疋(一分)より五百疋、千疋と病気の軽重身代の厚薄にょりて謝礼する。 中以下はそれぞれ高下あり。西洋家には薬価現金もありし。御殿医は禄に応じ、長棒の駕籠・徒 士・足軽・薬籠持・草履取まで召し連れるあり。駕籠舁には医者六といつてすこぶる宜しからぬ 者あり、病家先にて|強請《ねだ》るものあり。天保度の御改革の折の町触にも禁じあれども、何の効もな かりしと聞く。切棒あんぽつにて来たるあり。普通は薬籠持一人または単身に来るもの多し。御 殿医は勿論大部分は、医者の玄関と唇へにいへるごとく玄関は立派なるもの、藪医でも敷台あり。 常に近所の子守等の遊び場となりをるもの多く、稀には深更に近辺の戸を叩き、無形の病者より ・迎へに来たりしやうに|街《てら》ふ者もありしやに聞けり。多くのなかには、病家に至り病人の診療より も主人へ妾の周旋、娘ないし悼の嫁の橋渡し等に最も功者たる先生ありと。私の知人の先生は懐 中には|百眼《ひやくまなこ》など常に持てり、|野幕間《のだいこ》などは遠く及ばぬ大博士ありし。しかし今時はありますま い、それともあるやも存じません。  幕府御抱へ医師 奥御医師 御番料二百俵 大膳毫弘玄院 多紀永春院 井上玄瑠 篠崎三伯 小川玄叔 三上快奄  津軽良春院 服部了元 戸塚静春院 伊東貫斎 竹内滑川院 遠田澄庵  半井卜仙 林洞海 石川玄貞 緒方洪庵 奥御外科 御番料百俵 村山自伯 桂川甫周 小堀祐真 村山伯元 奥御鍼治 御番料百俵 吉田秀頁 杉枝仙貞 石坂宗哲 奥御口科 御番料百俵 本康宗達 佐藤道碩 奥御眼科 御番料百俵 土生玄昌 渡辺雄伯 表御番医師 二百俵以下御番料百俵 久志本右近 井上齢奄 生野松寿 井上三奄 丹羽玄奄 池田玄胱 岡仁奄  吉田元卓 武田道安 奈須玄竹 滝野為伯 森専益 長尾全奄 塙主齢 大石元栄  塙宗悦 高麗元衡 福井立助 内田玄勝 杉浦昌順 岡田昌春 木下道円  小森西清 山田宗徳谷辺玄珠 中村周伯 小柴池奄 望月杏碩 吉田梅胤 表御番外科 二百俵以下御番料百俵 村山元重 曾谷仙奄 山本甫斎 古田休甫 栗崎道有 古田瑞奄 丸山昌貞  吉田自奄 村山元脩 坂本養禎 鹿倉以伯 吉田玄奄 増山元甫 古田休奄 慶応元年五月十四代将軍御進発供奉御医師 奥御医師 竹内滑川院 伊東瑞川院 林洞海 石川玄貞 大淵祐玄 松本良順  吉田秀貞 奥詰医師 岡田昌碩 川島宗瑞 池田玄仲 御番医師 井関正英 小野葱畝 坂本玄安 谷部玄珠 小紫池奄 大膳亮好奄  丸山昌貞 栗崎道有 鹿倉以伯 山本甫斎  葬礼 葬式には身代に応じ上中下あれども、商家普通上の部を左に記す。武家は割合に質素なり。 一家のうち主人たり尊長なり内令または愛子の死去する場合、商家にては店の雨戸を半分下し (これは祝儀・不祝儀・正月.・五節句の休日も同様)、店前へは竹の|簾《すだれ》を裏返しに掛け、紙に「忌 中」と記しその下に葬送は何日何時何町何某寺院と記す。親類の不幸なれば「親類忌中」と記す。 簾の下に|暖簾《のれん》を裏がへしに掛る。当日出棺はおほよそ|二《ふ》タ|時《とき》または|三時《みとき》ぐらゐ遅れるを普通とす。 俗に葬ひ時刻といふ。田舎の親戚の到着を待ち合すこと、甚だしくは寺より迎僧の遅るるあり、 多勢の会葬者を門口の|橡台《えんだい》に待たすこと常なり(近来この葬式時間が一番正確になりしは有勲者 に儀杖兵を付せらるるより、一般それに習ふやうになりて)。場所によりては出棺前、一番鐘・ 二番鐘とて合図の鐘をならす所もあり(従前は多く坐棺に天蓋を被ふ。寝棺は近来より用ひ始め らる)。出棺に際し門口に竹の輪を出だし、その下をくぐりて棺を出す。町内は棺を中腰にて通 過せしむ。行列は鳶の者、出入りの職人、印半纏または縞の揃への羽織、多くの地所持ちは地所 の家主連白張りの|行燈《ぼんぼり》を提げ(昔は生花・造花とも少なし)、|冷人《れいにん》または迎僧徒歩、竜頭四|籏《き》、 香炉、位牌、枢及び輿脇数名、いづれも編笠にて袴の股立を取り、輿の跡に高張、施主・親戚社 朴または羽織袴、会葬者居付地主は自宅にて湯灌せしめたる印に|盥《たらひ》と手桶とを荷ひ行く。菩提寺 の門前には紙に何某の寺と、何某家などとは記さず。門内に入れば玄関または桟敷を造りその上 にて会葬者の名を記すもの数名あり(昔は名刺を出す者は稀なり)。下足番なきゆゑ自身履物を 側に持ち行くたり(その代りシヤツポなし)。寺の門に入る時鐘を打ちならし|読経《どきやう》を始む。その 読経の長きを自慢とす(祭文弔詞等は稀なり)。会葬者座に着くと同時に茶を出し、|強飯《こはめし》の竹の 皮包を出す(遠路徒歩し来るゆゑ空腹の者多し)。強飯は死者五十歳以上は赤、以下なれば白き強 めしなり。|菜《さい》はがんもどき・焼豆腐・蓮根・日光唐がらし・奈良漬・味噌漬等なり。この会葬中、 俗に強飯もらひを半職業になしをるもの、場末の寺にはなかなか多し。施主・親戚焼香終れば会 葬者に向つて施主の挨拶あり、それより会葬者は退散す。近来は挨拶を待たずして退散する者多 し。葬式の出し跡へは物貰ひ群をなし来るゆゑに、小屋頭に托して処分せしむ。惣録屋敷の座頭 などはなかなか退散せずぐずり居るあり。物貰ひの取締り等は一切なかりし。下等の葬式には、 早桶に入れ夜明前または夜中、両国の|回向院《ゑかうゐん》等へ三百文で投込みにするものあり。場末の寺はこ の類多く、土葬は過半、火葬は浅草・本所・深川の寺に多かりし。その火葬場の不完全なりした め往々悪事行はれしは当然なりと思へり。維新前は無論耶蘇教の葬式のあるはずなく、神葬祭も すこぶる稀にして武家に見ることあれども町家にはなし。  東錦絵 江戸の錦絵は名物の一ツで、江戸見物に来る人は国への土産に買ひ求むること多し。また徳川 家大奥を始め、諸侯方奥勤めのお女中方、平常狼りに芝居見物に行かれぬ人々は、狂言の代りめ ごとに出る自分ひいきの役者の似顔絵を買ひ取り、お守り同様肌身につけて寝る等少なからざり し。男珍らしき奥女中や良家の令嬢達が役者に対する感情は今の時代の想像以外にて、似顔絵の 多く売れ行きしも当然なりし。かんざしその他の持物に役者の紋を付くるを両親も答めざりしな り。風景画・武者画・見立画等の出版も彩しきことなりしが売行きもまた盛んなりし。 絵双紙問屋の主なるは、 神明前泉市 同丸甚 同若与 同山甚 南てんま町葛吉 馬喰町山口藤 人形町上州屋  親父ばし山本 てりふり町蛭子屋 両国大黒屋 浅草寺内大橋堂 田甫文正堂 当時は画工より立ち優りし彫師・摺師あり。天保年間国芳・豊国の盛んなりし時代にも、両画 伯さへ一目置きたる彫師に伝吉といへる者、彫刻の前に宜しく頼むと画工より頼まれ、ヨウガス と呑み込む時は下図以上立派に仕上げるを常とす。毛彫りは最も得意とす。普通の乱れ毛と濡毛 とを自然に別けるやうに彫り上ぐるは、普通職工の及ばぬところ。同業中では神業なりといへる くらゐなりしと。そのほかに彫竹といへるも上手なりし。また摺師にもばら垣の|巳《み》のといへるは 上手の摺師にて、もとは武家なりしが美男にして品川の遊女を妻としをりし者。また泉市の仕事 のみせるジヤク|政《まさ》とその養子の|字名《あだな》を宮様の|文《ぶん》といひしは親子とも上手なりし。そのほかに神田 の水吉といへる変り者あり。常に女のやうなる姿してほとんど婦人のごとく色男を持ち、折々そ の男を代へる。仕事して取りたる金は色男につぎ込み、自身男色の的となりて楽しむ。仕事の腕 前は上手なりしと。 前記問屋中、|浅草田甫《あさくさたんぼ》の文正堂の主人は珍らしき変り者で、自分は江戸ッ子のチャキチャキで 父は有名の鳶の|頭取《かしら》い組の伊兵衛の惇なるに、火事を恐るること人並み外れにて、浅草田甫の中 に飛び放れて一軒家を作り、その家にて玩具画専門にて他の画を扱はぬなり。一種の奇人なりき。 錦絵のほか草双紙・合巻物に有名なる物数種あり。例の絶版せられし種彦作豊国画の『田舎源 氏』を最とし、『|児雷也豪傑諏《じらいやがうけつものがたり》』『|白縫讃《しらぬひものがたり》』『北雪美談』『弓張月』『犬の双紙』その他、多く皆 絵双紙問屋発行にて、維新前は毎月数冊発刊せられしなり。寺子屋でいろは四十八文字を習ひ覚 えし婦女子や子供のすらすら読み得るものを、今旦高等科を卒業せる人々の読み得ぬは不思議な り。  最下級の淫売 京大阪にては辻君または|惣嫁《そうか》といひ、 江戸では夜鷹または|引《ひつ》ばりといふ。春夏秋冬、 雨雪なら ねば日の暮れるを待つていつもの|場所《ところ》に出て客を引く。夜鷹の方は|一定《きまり》の場所に莚小家を造りあ り。引張りは川岸土蔵の庇合または材木や石置場などの物蔭に客を引き込み淫を|蔑《ひさ》ぐ。いづれも 妓夫が付き添へ居りて|妨害者《じやまもの》を防ぐ。夜たか|小家《ごや》は柳原土手・外向う両国・牛込外堀へん・永代 御船蔵脇その他に店を張り、もつばら仲間・折助・水夫・|車曳《しやふ》などを常客となす。折々は田舎者 の上客のかかることも少なくはないさうです。引張りは新材木町・伊勢町川岸・小網町新堀・茅 場町辺、商店の|権助《めしたき》・下働男・三助・土方その他下働人等の客が重なるがごとし。日暮より出て 四ッ頃にはしまつてかへるなり。これらの者は多く本所吉田町辺に住居す。それゆゑ俗えうに、 「本所吉田町には小鳥が住まぬ、すまぬはずだよ鷹が居る」、夕景に吉田町辺に立ち止まりて見れ ば、実に百鬼夜行の絵巻を見るがごとく、若きは十四五歳年老たるは五十路を越えたる者、びつ こ、目つかち、鼻の落ちてをるもの、大じやんこつら、|咽《のど》の廻りふくれいでて膏薬を張りをるも の、小髭がはげあがり髪の毛の抜けて|付髭《つけげ》するあり、その|見悪《みに》くき顔へ面かぶりに白粉をべたに つけ、木綿着物の裾をまくり上げ白や赤の木綿のゆもじを出し、日和下駄をはき三三五五にベチ ヤベチャ話し行く姿を一目見たらんには、いかなる|好色《すけべゑ》ものも驚き恐るるならんも、もとより|暗 中《くらやみ》の出逢ひ、恐ろしとも感ぜざるならん。この梅毒伝染所を時の政府が知りつつ黙許せるは驚く べきなり。 船まんぢゆうは前者よりはたちまさりたるものにて、小形の|荷足船《にたりぶね》に売婦三四名のせ妓夫が櫓 を漕ぎ、日暮より鉄砲洲・佃島・船松町・永代橋辺より新堀小網町川岸の荷物船・高瀬船へ、饅 頭はよろしまんぢゆう、と呼びつつ漕ぎ廻る。品川沖へも親船へ売りに出るものあり。前に述べ たる梅毒伝染・風俗壊乱を黙認せるやと思ひしにつらつらその当時の事情を察すれば、今日のご とく上下とも衛生思想に乏しく、それよりは差当り困難する者を救助するの急務とするほかに、 下級の者等の情欲を散ぜしめ犯罪者を作らしめざるために黙許せるがごとし。左に記するものは 秘密にその筋に取り調べ上申せしめしもののごとく、前後を省略せり。 天正度以来江戸町方は東は大河境、南は芝金杉橋境、西は赤坂、麹町、四谷、北は浅草御門外、 茅町、神田佐久間町、元飯田町境を市中と唱、諸商人諸職人住居致し候、此境界の内を町方に 御定の処、住居町人は勿論諸国より出稼町人又旅人共追々相増、武家家来国元より出府勤番人 数彩敷相増候に付、所々に風呂屋女又は湯女と唱遊所同様の稼方致候もの数多有之。 麹町八丁目 鎌倉町 京橋角町 此横町は龍の口道三橋の辺御本丸御宮御造に付町屋敷取払 柳町 此遊所は元請願寺へ引 市中所々に有之風呂屋之外に、此遊所は京都六条、駿府弥勒町遊女屋共出府稼方致候処、遊所 ケ所多端に相成候に付、元和三年遊所町を高砂町、浪花町、住吉町、此三ケ町葭沼之頃引地吉 原町より被仰付、一廓に遊女屋住居いたし市中所々の遊女屋風呂屋不残御停止に候得共、前後 市中四方の境界内の人数故武家勤番並下々独身の者旅人差支無之処、明暦二申年此吉原町を日 本堤の内田端地へ引地被付候、後寛文二寅年市中近く浅草下谷辺、芝金杉橋より外、高輪、麻 布辺、町方之内江御差加、正徳三巳年関口水道、牛込、小石川辺、本所、深川町方の内江御差 加相成候に付、市中人数古来の町家よりは倍に相増候に付、遊所吉原町一廓に而は実用不弁利 其上道法も遠く候間、吉原町に遊興致候武家奉公人等は往還手間取主用間欠に相成下々のもの も同様の事に付、深川永代寺門前町屋は承応元辰年御免町屋に而前々より淫売女に紛敷稼方の 者も有之、永代寺より度々取締方も致候由に候得共申伝而已に而碇等突留兼、享保十四酉年中 門前町屋衰微致候に付、料理茶屋二拾軒取建度旨寺杜御奉行小出信濃守役所へ願出候処、糺の 上役筋に而差免候儀は至兼候間、永代寺了簡を以差免候儀は不苦旨の及沙汰願書は差戻、其後 永代寺門前町之内に而料理茶屋四十一軒相続致、寛政度御改正の節も有来の儘沙汰無之、天保 十三寅年迄隠遊所相続いたし候。 一、赤坂田町五丁目、下俗麦飯より唱候料理茶屋同所水茶屋、延享三辰年より相続いたし候。 一、鮫ケ橋谷町水茶屋、寛文四辰年より相続いたし候。 一、市谷谷町同断、宝永六申年より相続いたし候。 一、麻布今井寺町(此場所一般に兵衛町と唱う)同断、延享三辰年中より相続いたし候。 一、根津門前町料理茶屋水茶屋共御宮の役をも相勤元禄度より相続致候。 一、音羽町七八丁目料理茶屋桜木町水茶屋。 一、麻布宮村町水茶屋、下俗藪下等唱候。 一、根津宮永町料理茶屋。 一、谷中天王寺門前同断。 一、本所松井町同断。 一、同所八郎兵衛屋敷同断、下俗猫と唱候。 一、同所入江町同断、下俗鏡突台又四軒とも唱候。 一、同所水茶屋。 一、同所長岡町同断、下俗下と唱候。 一、同所陸尺屋敷同断、下俗吉田町と唱候内。 一、深川御船蔵前町料理茶屋、下俗お族と唱候。 一、同所松村町水茶屋、下俗網打場と唱候。 一、同所佃町料理茶屋水茶屋、下俗ウミ又アヒルと唱候。 一、浅草竜宝寺門前水茶屋、下俗堂前と唱候。 但し此外深川築出新地同所古石場新石場芝寿命院上屋敷は料理茶屋引払跡武家屋敷拝領被仰付候。 此場所寛政九巳年より天保度之始迄、隠遊所二拾二ケ所取払被付候処、皆無に而は前段下々差 支候意味合も有之、殊に端々場末に而此渡世之者に而も住居不致候而は、門前地は寺院収納、 小身之武家拝領地は地代上り高も皆無同様に相成、町役入用整兼候程の事に付、右場所は寛政 度以来も無何と宥免有之処、天保十三寅年皆無御停止相成候以来、此町方は町役勤方も不行届、 寺領、拝領地主等は及難渋、最寄住居町人共は営方及断絶、離散致候者所少候由、一幼年より 隠遊所に生立候女子共は生来淫婦不身持に而、正路之行儀は窮屈に存、誘場所引地相成候以来 無宿同様之身柄に相成候而も、夜分市中を歩行辻売女相稼候而、露命を凌候者多人数有之候ゆ ゑ、却而下賎下々に而も強淫等之及所行候者も無之候得共、取締方に於ては所々之往還に辻売 女狼に相成、無余儀次第には候得共、右隠遊所有之時節は辻売女稼方も所下々に而定有之、市 中往還一般に夜分狼成所行は無之候。  妓童 |妓童《かげま》茶屋は近時、湯島天神の境内、不忍池畔、葭町等にありしと聞きしも、芳町は天保御趣意 の時堺町芝居とともに取り払はれ、私の成長の頃は見得ざりしが、維新前までは湯島には残りあ りしと。文久の末年に、両国川涼船にて妓童の振袖若衆姿を見しは、始めの終りでありし。美し き振袖に紫の袴を着け、頭は大たぶさの若衆髭、白粉をつけし十五六歳前後の者五六名なりし。 客は船中にありて見えざりし。各寺院の僧侶、女犯を禁止せられし宗門の坊主等、特に男色を好 む者等の客に接せるなりしと。  遊芸の師匠 一中節 都 一中 六二 松兵工 権平 米八 童中 以十 半中 近中 有中 鯉中 文国 栄中 一浪 一楽 一徳 一島 一艶 一藤 一佐味 一亀 一米 一鈴 一芝 一仲 一勝 一国 一きさ 一くめ 一葛 一ゆう 一広  一うめ 一高 菅野 序槌 序国 思声 うた 序藤 序松 文治郎 里八 不三 てる  つる いく序光 しの しが はな きせ 序鶴 たき 栄二郎  ふで 千代 かめ いね 序柳 九二 はま 琴 序説 宇治 倭文 さ久 桂子 たき だい ふみ 美代 みね 澄紫 はつ とよ 綾 せい ひやく 千代 きん むめ ます みき よし いと ひで きく 小わか 小はる 河東 可慶 東佐 巴州 東暁 松宇 東味 源四良 良波 秀示 青巴  桃子 良子 山子 桂子 栄子 可運子 和歌 波津 豊元 豊前 豊珠 宮登 喜代 斎宮 染太夫 松見 八百 七五三 豊仲  豊春 豊閑 八重 珠古柳 寿美 のし 豊名 見名登 浪尾 元太  清寿 八寿 豊満 曾我 美雪 小国 家男寿 名見崎徳治 八五郎  長佐 鶴寿 与惣治 勇三 忠五郎 兼治 徳蔵 金蔵 喜蝶 柳勢  滝兵衛 徳三郎 佐重 半平 仲助 さの 百助 幸二 亀治 常磐津 文中 文正 兼太 吾妻 国太 三国 綱太 喜代 文賀 岡太  官戸 緑太 歌妻 政太 松尾 歌太 三輪 鎌太 組太 登国 綾太  文左衛門 八五郎 文字兵衛 三重郎 文字助 芝江 三八 三良介  三平 三四郎 兼蔵 市治 文七 栄治郎 円蔵 文字太郎 文調  文三郎 市五郎 清元 延寿 家内 菊寿 美代 美佐 鳴尾 千代 美家 真寿 志津 美喜  初音 八重 佐代 家寿 倉太 名美 駒太 円太 一太 美千 梅尾  三登勢 寿和 栄技 小美佐 染太 真喜 真寿美 喜和 和歌  岸沢式佐 三登勢 仲助 組太夫 千歳 登美 都摩八 式造 都賀  綾尾 喜代 喜代吉 登美 式三郎 美代 佐久 千代 清元延しん 延津賀 延鉄 延菊 延栄寿 延人 延栄 延家恵 延しづ  延女佐 延福 延やを 延玉 延みさ 延みつ 延佐名 延三安  延みね 小しん 延ゑみ 延らく 延みや 延とぬ 延いへ 延さな  若八 鳴勢 斎兵衛 千蔵 徳兵衛 順三 東三郎 梅次郎 彦次郎 栄造 和三蔵  太助 磯八 千六 太満吉 徳蔵 小安 愛造 鉄造 三家蔵 栄三  梅吉 和三郎 当寿八 徳太郎 小梅 寿作 津加寿 千寿斎 房寿斎  久米寿 歌沢 相摸 定吉 治郎吉 安治 美喜 美代 政治 美佐 美の吉 美寿  婦佐 雛治 雛吉 小玉 満佐 鶴治 佐登 知加 美知 婦佐 美津  せん 小とき 佐多 ひな 家寿 勝蔵 美喜 しゆん 小とら ふさ  寿 栄吉 三代 みね 小やす 美よし 勝次 ふさ吉 ふく かつ吉  ふさ竹 かつ代 みき やへ吉 小花 千代 長歌唯子 きねや六左衛門 勝三郎 望月太喜蔵 古住小八 瓢二 吉村伊三郎 岸田門左衛門 望月鶴三郎  住田叉兵衛 勝次郎 長五郎 弥十郎 喜三郎 太左造 孝十郎 長吉  佐太郎 伊十郎 太市 和八 六太郎 和吉 和三造 竹次郎 辰三郎  勝十郎 弥吉 太造 茶の宗匠不白 宗寿 宗三 抱鶴 宗也 道通 宗賀 露斎 陸正 了白  宗鑑 宗達 宗順 宗一 宗伯 宗玉 立花宗匠本松 貞陽 春秋 貞槙 庭松 里松 窓月 雪交 泉松 松養  宝松 長松 寿松 桃松 谷月 晴松 豊松 松井 一歌女 一喜 一玉  一竹 一姿 一恵女 一木 一哉 一船 一桂  書家画家 書家 やげんぽり雪城 おかちまち秋巌 だいまるしんみち掖山 ほんじよ潭香 桂洲 憲斎 遂奄 董斎 石斎 随庵 雪香  竜塘 敬斎 由義 董義 綾岡 やげんぼり大竹  天山 鳳眠 竜岱 英斎 竜原 慶義 井雨 柳山 蘭山 鶯浦 南明 画家 したや容斎 ふかがは交山 南漠 孤村 いしきりがし是真 雪堤 驚湖 求海 林斎 一蒲 圭岳  芥庵 柳圃 雪潭 隣春 守一 南華  千載 椿岳 雪潭 一蜻 椿圭 行年 波山 雲鳳 武一 永斎 林静 浮世画師清満 貞秀 芳虎 芳艶 国貞 広重 芳幾 国周 芳藤 芳年  国輝 房種 芳豊 芳春 芳延 芳滝 艶豊 艶政 幾丸 幾年  安政二年大地震要略 安政二卯年十月二日江戸大地震の災害は諸書に|詳《つまびら》かたるをもつて省略し、市中取締掛より書 き上げたるは、 変死人 三千八百九十五人 内 男千六百十六人 女二千二百七十九人 潰家 一万四千三百四十六軒と千七百二十一軒 同土蔵 千四百四ケ所 同罹災民江富豪の町人より施行差出高 金一万千五百三十五両三合二朱 銀百十六匁 白米二十八石一斗四升 此代金四十二両二分二朱と六百文 銭五百六十五貫五百七十九文 此金八十五両二分二朱と四百五十八文(一両六〆六百替) 総計金一万千六百六十六両二朱と七百五十九文 右に対し御褒美銀四百七十枚 此人数二十八人 外に御誉置の分七十一人 此調後叉々沢山出る。  自然の飛行機 安政三辰年八月二十五日江戸の大暴風雨|海囎《つなみ》は他の書物に詳かたるをもつて略し、そのうち風 神の玩弄にあひつつ無難に助かりし話しを記さんに、芝ロ三丁目の裏通り伊達家の表門前に住居 せる煎餅の型作り、鍛冶職の悼繁といへる者、同夜戌の刻頃より辰巳の暴風吹き起り、戌の中刻 (午後十一時)より未申の暴風と変じ|大時化《おほじけ》となりしが、折節我家の雨戸風のため吹き倒れんとせ しゆゑ、吹き飛ばさじと左右の手に力を籠め押へしと思ひしが、しかと楓みて戸を放たずをりし うち、自分は地上に居りし心持せしうち風も軟らぎ気を付け四方を見るに、我が町内とも覚えぬ 処ゆゑうろうろせしうち、天より人が降りたりとて人々集り来り、手当てを加へくれて始めて気 付き、よくよく聞きみるに神田のお玉が池の近き空地に落されしなり。幸ひにも少しの怪我もな かりしは仕合せなりし。芝口よりは三十余町を飛び来りしなり。翌朝同町の人に送られ自宅に戻 り来りしに、家にては吹き飛ばされしとは心付かず、突然に姿が見えなくなりしを心配して諸処 を尋ねしも居らぬに、神隠しなどに逢ひたるにあらずやと一同苦労せるところへ無事で戻り来り しゆゑ、打ち寄りてその飛び行きし様子など尋ぬるも本人夢中にて何の覚えもなかりし由。是は 自然の飛行機の実験でありしなり。  お札降る 文久二三年の十一二月の頃と記憶せるが、御府内下町に徐々お札が降るといふことあり。これ は誰人がなせし業か多く夜に入りてのこと。我が家の軒先に太神宮様の御祓が降つてゐた、誰の 庭内に神明様のお札が降つた、誰家へは不動様、某方へは金比羅様、我が家は夜明方八幡様が降 つてゐた、と自慢半分にほこるもあり、実か嘘かは判明せざる。そのうちにある日の夕暮に大伝 馬町一丁目の田端屋の店前、戸締り間もなく表戸にどしんと音を立て何か落ちたる物ありしゆゑ、 戸口に居りし若衆立ち出でて見しに、掛物入りの箱ありしゆゑ恐る恐る持ち来りしに軸物の入り しごとく、番頭の前にて立ち会ひ開き見るに大黒天の画幅なり。コリヤ大黒様が降つたのだと一 同喜び合ひたりしが、誰か持主の名前にても記しあらんと箱の内外を見しに、裏の方に浜松町二 某所有と記しあり。そのままにはなし置き難く、|重《おも》なる手代に持たせて浜松町を尋ねさせしに、 裏家なれども同苗字の家ありしゆゑその家に入りて、今夕この措軸の店前に降り居たるを改め見 るに浜松町某所有とあり、「もしや貴家御所蔵ならばお戻し申し上げまゐるやう|重役《おもやく》の申付けに より罷り出でたるなり」と申し述べしに、その家の主不思議さうなる顔付にて、「なるほど私方 の物のやうですが」と立ち上がり戸棚の中を取り調べみて、「これは甚だ不思議でございます」 と持ち参りし軸を開き見て溜息を吐き、「さてはいよいよ神仏にも見放されしか、実をお話し申 し上げませんければお解りにはなりませんゆゑ、恥を包まず申し上げますが、もと私はこの家の 養子で相当の身代もございましたが、両親が死去致しましてから私が道楽を始め、その埋草に米 相場に手を出し失敗の後、家内も死去致しました。沢山もございませぬ家財も売却致しましたが、 この大黒様は前々代より持ち伝へましたので、これだけは先祖への申し訳に売りますまいと戸棚 へ仕舞ひ置きましたのに、神様は私の家を見限りお店に降り下りしとは、実に何とも申し上げや うもございません、私方はこれまでの運と観念致し、お|店《たな》へ授かりし物ゆゑ御神慮のとほりお店 へお納め下されるやうに願ひます」と何と言つても受け取らぬゆゑ、「さやうならば帰つて今一 応重役に申し述べます」と別れて戻り来りしとぞ。同店は伊勢店にて家内中敬神家ゆゑそのまま 受け納め、その返礼に大枚金二十五両を遣はすことと決定し持参せしめしに、涙を流して受け納 めしと。始めより同店を目差しての狂言なることは同店重役も承知の上なれども、大店の襟度広 く、この大金を与へたるには皆感服せしところなり。  貧窮組の打壊し 慶応二年の春の頃かと記憶せるが、貧窮組の打壊しといふこと江戸市中下町に行はれしなり。 いづかたより来りしものか、五十格好の背の高き白髪交りの老人、鼻は高く眼はきよろきよろせ るが、身には白のよごれたる|単《ひとへ》を羽織り、一本歯の高足駄を履き、手には丸太の杖を突き、さん ばら髪に不潔なる天狗のごとき男先きに立ち、その後より貧民の男女ぞろぞろと付き来り、諸商 店に入り手当りまかせに打ち壊し行くも、品物一切盗み行くにはあらず。大道に引き出し土足に て踏みにじりずたずたに切り裂くなどのことをなし、各所を荒し押し行くのみなり。人々天狗な りとて手を出さず、堀留町|丁吟《ていぎん》にては二階に昇り、紅白の縮緬その地高価の物往来へ投げ出され しが、この乱暴を見ながら町方役人等手を下さずしてそのままなり。  雪踏直し  非人頭  親父橋架橋の負担 昔から不思議と思ふことは弘法大師の発見とし、面白き狂歌は蜀山、名裁判は大岡様、と相場 が極つたやうですが、照降町より芳町に架せる橋は、|古浪《いにしへ》花町に吉原の遊廓ありし当時、遊客 のため庄司甚右衛門が架設せるゆゑ親父橋と名付けしなりと(庄司のことを廓にて親父といひし ゆゑなり)。しかるに後年この橋の掛替・修繕割合を、享保年間町奉行大岡越前守より、浜町辺 居住の大名登城の通路ゆゑ武家方に七分負担せしめ、堀江町四ヶ町・堀江六軒町にて三分の負担 と定められしゆゑ、少し腐朽すれば大工等は武家方掛り役人を勧めて修繕、掛替を計るゆゑに、 橋の大破を見ることなしと。名奉行の良策百年の後に及べり。  上野戦争前後の見聞 慶応四戊辰五月十日頃、上野駐屯の彰義隊より駿河町の三井組へ、同隊用途金千両用達くれる やう、即日下谷山下の某待合茶屋まで持参ありたしとのことゆゑ、三井組より金千両を持参せし めけるが、その翌日同隊より前日用達金申し入れたるは隊の名義を詐称せし|漢者《しれもの》の所業に付き、 その者はただちに|誅罰《ちゆうばつ》を加へたるにより金子は返還する、とのことにて一千両を戻し来たる。し かるに五月十三日に至り同隊より使者をもつて懲葱に述べて曰く、今や徳川家が危急存亡の|秋《とき》に 際し、我々恩顧を蒙りし有志の輩、主家のために身命を拠ち相尽さざるを得ぬ場合用途金必要に 付き、貴組も多年徳川家の恩沢を蒙りたる御奉公として、ぜひとも明日夕刻までに金二万両用達 せられたく、持参の場所は上野彰義隊営所へ持参せられたく、隊長より証文等はただちに御渡し 致すべくとのことゆゑ寸追つて重役相談の上、明夕までに御返事申し上げべしとて、使者を戻して 後評議せるに、前日千両を戻せしほどゆゑ、この度の用金は少額にては聞き入れまじく、さりと て二万両を用達べくもあらず、とにかく二千両持たせ遺はして歎願せしむること、もし聞き入れ なき時はまた評議すべしと決せしが、さてこの使者に行く者皆|逡巡《しりごみ》して行かんと言ふ者なし。当 時の彰義隊は殺伐を何とも思はざるがごとく、毎日官軍の諸藩士と市中にて衝突死傷せしむるこ と多きがゆゑ、怒りに触れなばいかなる所置に出でられんも知れざるがゆゑなり。その時私の父 萬平この使者に立たんことを諾し、拝司金造氏とともに十四日七ッ時頃(午後四時)千両箱二個 に金二千両を入れ、下男四人に差し担はせ上野彰義隊本営に至り、三井組名代の名をもつて隊長 に面会を求めけるに、長時間待たせ置きて隊長小田井|蔵太《くらた》氏出で来り、挨拶も終らざるに小田井 氏を迎ひに来たる。同氏は立ち去りまた暫く待たせ置かれけるが、営所の内外とも混雑甚だしく、 荷車は各種の物品を積んで挽き込み来るあり。また抜身の鎗に血の付着せるものを|提《ひつさ》げ来るあり。 これは坂本にて官軍の某藩士と衝突殺傷せしとかにて、隊士もさらに落ち付かず、何となく皆殺 気を帯びて物凄かりしと。やや暫くして菅沼三五郎といふ隊長株の人出で来りしゆゑ、急場のこ ととて仰せの金額調達仕り難く金二千両を持参せし旨申し入れけるに、何の有無もなく承諾せら れたりと。かねては、容易に承諾すまじと思ひ心配せしも、案外手軽に聞き済みしは余程切迫せ る事情ありしゆゑならんと後にて推考せり。既に夜に入りければ、帰路御成街道の知人の家にて 夕食をなし、戻り来りしは夜半過ぎなり。留守宅にてはいかがせしやと一同安き心もあらざりし に、無事に戻りしを喜びあへり。父の話しには、戻り路筋違御門は既に狼りの出入を許さざりし ゆゑ、あすあたりは多分戦争を始めるならん、と言はれしが、果せるかな十五日未明より大砲の 音聞えけるゆゑ、いよいよ戦争が始りしならんと、私は薄暗き内に朝食を終り、まづ筋違御門に 至りしに、ここは藤堂(津藩)の兵固め居り、我々弥次馬連の集り来るを抜身にて追ひ散らし御 門を通行せしめず。昌平橋も〆切りて通行を禁ぜり。やむを得ず家に戻り火の見に登りて上野の 方を遠見するに、湯島台(今の岩崎邸)榊原邸の辺より大砲にて寛永寺中堂に向つて発砲するも のとみえ、黒煙をあげ樹間より火は高く燃え上がる。この日は曇天にて折々|五月雨《さみだれ》降り出しいか にも物凄く、あの|大慶《たいか》高楼を空しく灰儘に化するかと思へばそぞろに涙止めあへざりし。時間は 四ッ前(午前九時半頃)と記憶せり。そのうち新大橋の菅沼邸屯集の竜虎隊が上野に加勢するとの ことを聞き、ソリヤ面白しとて新大橋に走り行きしが、竜虎隊は同邸内に居るも総勢もあまり多 からぬ様子(菅沼邸は橋の西詰角、今学校のある地)、陣羽織、義経袴、鎖り|帷子《かたぴら》を着込み、小 具足に太刀を下げをる者もありて、門前を迫遙しをれるはいづれも立派の|装《よそほひ》なりき。自分等は 川岸の団子茶屋にて待ち居たるも、いつまでたちても出掛る模様もなきゆゑ失望して帰宅せり。 夜に入りなば魚がし連が加勢に出る、イヤ赤坂の紀州の邸からも加勢に出るとて、弥次馬連中は 終日西に走り東に馳せて、夜に入りたるも何ごともなく、上野は日のうちに落居せる由の風評に て、市民の落胆せるも少なからざりしと聞けり。 翌十六日未明に私は朋友二名とともに朝食もせず上野に至りしに、前日と違ひて筋違御門も自 由に通行を許せり。まづ三枚橋を渡り黒門前に至りしに、今の山王台下の石階の前の(当時正面 に石段なし)辺に、畳十玉六畳を重ねたる物およそ三側、これは仮の障壁に造り、下寺よりの連 絡を取るためと見えたり。しかし敵味方とも死体などは既に片付きしにや一つもなかりし。また 黒門及び付近の樹木は折れ弾丸の跡はおびただしかりし。武器などの落ち散りし物もなく、激戦 のありし跡とは見えざりき。黒門を入り山王台に登りしに、精工を尽せる杜殿も焼けて余儘なほ 消えやらず、後にて聞きしに、隊の将校勇土この社内にて自殉せる者数名ありしと。あはれ中堂 は全部炎上して残火なほ鎮らず。宮様御門前には(今の博物館正門)大砲一門と水浅黄の|法被《はつぴ》を 着せし人夫体の者二名発れ居たり。谷中門にては激戦ありしと聞きしも別に変りたることも目に 触れざりし。それより天王寺に至りしに、本堂はいまだ盛んに燃えゐたるが敵も味方も影を止め ず。もはや見るべき物なければ、根岸の方を廻り見んと諏訪の台より坂を下りしに(今の前田家 の墓地下)、石神井川の用水の石橋の下に、肩に赤地錦の|徽章《きしやう》を付けたる士分の死体二人重なり 打ち捨てありし(官軍の士は皆左肩に赤地錦の小切れを徽章に付けをりしなり)。それより |日暮里《につぽり》下通りを根岸に出でしも、各戸に人影少なく多く立ち退きしもののごとく、自分等三名とも空 腹となりしも菓子一ッ商ふ家なくほとんど困却し、屏風坂通り清島町を経て浅草に出でんとせる に、毎日の五月雨にてこの辺一面に浸水し、私はこの頃まだ人の用ひざるゴムの長靴を履きゐた りしに、その上より靴の中に水入り歩行に苦しみ、腹はへる足は重く、ヘトヘトになりて漸く |雷神《かみなり》門に出でしも、|菜飯茶屋《なめしぢやや》その他商売せる家は一軒もなく、雷門に行きたればと我慢して来りし に、この有様にがつかりし息もすうすう。蔵前の天王社前に来りしに団予屋が荷を下せし|周囲《まはり》に 数十名取り巻き居るを見、錨を付けるも焼くも間に合はぬゆゑ、白団子のまま五六串を食し漸く 腹の虫をなだめ、浅草見附を入りて帰宅せしが、弥次馬なる者もなかなか骨の折れるものと思へ りo  江戸の夕栄拾遺 明治の始め頃までは、上等の料理店と芸者連は正月お年玉にお馴染のお客へ自家の名または紋 を染めたる手拭を出す。一つは御愛嬌、一つは|広告《ひろめ》の意も含む。中元には|団扇《うちは》を配る。私の親友 にごの団扇の絵と手拭を画帖として所持せる人あり。五六十年前の昔を思ひ出づる感深し。ちよ つと面白き記念品なり。 |瓦斯《ガス》電燈のなき時代、江戸の中以上の料理店にては、客の夜に入りて戻る時には自家の名を記 せし小田原提灯を出すを例とす。このちやうちん他人が持ち来りし物を提げて、自分がおごり来 りしやうに見得する酔ばらひもありし。 明治二年の夏、用事ありて友人四五名連れにて木場に至りし。|帰路《もどり》昼食かたがた八幡前の|平清《ひらせい》 に|到《あが》りしに、女中来りて風呂の沸きあるゆゑ浴せんことを勧む。そのうちの一人、深川の水は塩 気がありて茶のやうなりと聞きしがさうでもないな、と言ふゆゑへこれは一荷何ほどといふ水道 の水で沸かせしなりと説明せるに、皆驚き早々に上りしもをかし。.それまではよかりしが、その うちの一人が床脇に蝿除けの|水瓜《すゐくわ》ありしをみて、.これは妙だとあんぐりやらかせしには、女中始 めほかの者等吹き出だせしに、本人は気付かず平気なりしを、蝿集めの水瓜なりしと聞き驚きほ き出せしは大笑ひなりし。またこれに似寄りたる笑話あり。同年近き夏の夕がた、大伝馬町辺大 店の隠居、番頭二三人連にて高砂町の万千楼へ到りしに、二階に昇る同時に表を、「|鰯《いわし》こい/\」 と夕河岸の鰯を売りに来りしを、連れの一人が、「姉さん姉さん早くあの鰯を買つてぬたにして くれ」と注文す。女中は|畏《かしこま》りましたと|料理人《いたまいにん》に通し、やがて鰯のぬた出できしゆゑ、皆々一流の お料理をよそにして鰯のぬたで舌鼓するもをかし。そのうち丼鉢に豆腐を小半丁づつ入れて銘々 の膳に添へしに、連れの一人炉、「オイ姉さんこの奴豆腐は馬鹿に|大切《おほぎり》だナ、それに何をつけて たべるのだ」と言はれて女中は|可笑《をかし》さを堪らヘ、「イエこれはお箸洗ひでござゐます、このおと うふへそのおはしをおつつ込み遊ばしますと生ぐさきがとれます」と言はれ、隠居連恥入りては ふはふの体にて戻りし滑稽もありし。 吉原仲の町のお茶屋で、お歳暮だかお中元だか忘れしが、何でも|軒別《のきなみ》に見せ先で懇意の芸者達 やそこのうちの|消炭《けしずみ》女中(お茶屋の若衆や女中のことを消炭といふは何時でも起されるゆゑ)や その家の妻君が指揮官となりて、青梅の種を抜きて紫蘇巻とせる甘露梅を、桐の腰高の小意気で 中から露の流れ出ぬやうに四隅へ|漆《うるし》を流せる折に入れて配る。私は甘露梅が好物で喜んで食べま したが、今聞きても知らぬ人多し。なんでも明治初年までありしと思ふ。別品連が頭へ置手拭を して手伝つてゐるは、意気でありしと記憶す。 |廓内《くるわ》にて雨または雪の朝、っれづれのあまり遊びに、白魚の骨を口の内で抜きたり、美濃干は りはり大根の皮を破らずにむきたり、白滝を口の中にて結んだり、|薫菜《じゆんさい》を天井に吹き着けたりし て日を暮し居続け遊びをなせし者もありたり。  千代を経る鴻鶴の終り 深川霊巌寺の東裏手の町俗に藪と唱へる所に、増上寺派の末寺法禅寺といふ立派の寺、その表 門の傍らに空を摩するばかりの丈高き|椋《むく》の木の頂きに|鴻鶴《こうづる》の|雌雄《めを》巣を造りて住まひたりしが、い かがせしかその雌の方餌もあさりに出でず病臥せしもののごとく、傍らに雄の心配気に守り折々 餌を|麗《ついば》み来りては雌に与へをりしが、その後|雄鶴《をす》の姿四五日見得ざりしが、いづちに至りしもの か、戻り来りし時には|雌鶴《めす》は既に死しゐたるらしく、数日ならずして雄鶴は行方を失ひけりと。 後に巣の内を見しに、満洲長白山に自生する|野蓼《やさん》数根ありしと。思ふに雌の病中、長白山に遠く |飛翔《ひしやう》し行きこの野蓼を|求食《あさり》胆来りしものと察せらる。その留守に雌の失せたるはいかばかり残念 にありしならん。千歳の齢を保つべき鶴も、時来ぬれば死す。徳川氏二百余年の覇権も、慶応三 年に返上して|普通《なみ》の諸侯に列せるもまた時世なりき。さりながら江戸は慶応四年帝都となりてま すます繁盛し、今は世界の五大都市に数へらるるに至りしは皇国民の光栄なり。