文化史上より見たる日本の数学 三上義夫著 文化史上より見たる日本の数学  緒論()  本論() 数学発達前の特色() 早く数学の発達せざりし理由 数学発達の機運() 支那の数学の影響() 発達の原因() 和算家の趣味() 和算家の趣味(続き)() 和算と和歌() 支那数学の応用及び改造() 算盤。その改良と影響() 算木及びその影響。支那数学の改造() 西洋数学の影響() 西洋数学の影響(続き)() 和算の問題とその変遷() 和算の方法とその変遷() インド及びアラビアの関係() 帰納的推論() 解義と証明() 日本人の論理的思想() 数学と星学() 数学者の地方分布() 和算研究の中心地() 江戸の数学と実験学科() 実験学科の和算上における影響() 哲学思想() 知識を尊重する精神の欠乏 単純化の傾向() 代数型と幾何型() 和算の廃滅() 和算時代と明治・大正時代 和算と後の実験学科() 結論() 和算の社会的・芸術的特性について 芸術と数学及び科学 付論数学史の研究に就きて 序  「文化史上より見たる日本の数学」に他の一両篇を添えて再び世に問われることは思 い出が深い。物質は極端に窮迫し、人手も自由に任せぬ今日この頃、創元社がこの企て をしてくれられたのは何よりも有難い。大矢真一、平田寛の両君が編集校訂に当たられ たのも感謝の至りである。大矢君は東京物理学校で和漢数学史の講義を聴かれた旧門生 で、後の同僚であり、今は私の後継者として科学史の探究紹介に該博適切な努力を捧げ られているのは、老弱の余生にとって大きな希望である。  平田君は語学の専門家で、主として泰西の科学史に傾倒せられ、幾つかの著訳がある し、温情懇篤の性格で、こういう人を同僚、友人、後援者として持つのは歓喜である。 和算家などの遺族を尋ね、墓碑など調査して、地下に眠る故人を呼び起こし、再び斯道 進歩のための回顧に役立ってもらいたいと心がけたが、今平田君あるがために私自らこ の同じ暖かさに浸っている。  「文化史上より見たる日本の数学」は大正十年の稿である。『哲学雑誌』上に大正十一 年とあるのは十年の誤植である。臥床中に考えては起きて書き、一字一句の参照もなく、 京都と大阪〔坂〕を間違ったりした所もある。実はプランでそのまま発表のつもりでもな かった。これを基礎にまとまった著述をしたかったのである。しかるに蒲柳の質で疲れ やすい身の容易にその願望が実現に至らなかった。この篇も休養旅行から帰ってある事 情のためになかなか恢復しない時の作である。同十二年竿一年〕に至り、雑誌の編者か ら寄稿を求められ余儀なく差し出したが、校正もできず、誤記誤植も少なくなかった。 後に訂正したのもあったが何時か失われた。同じ年には心理学談話会で「日本数学者の 性格と国民性」について談話した。最も正直であるべきはずの数学者に虚構のことが多 く、古今の歴史上にも同様のことが珍しからず、不正偽隔はわが国民性だという趣意に 説いたのである。相前後して末弘|厳太郎《いずたろう》博士は「うその効用」を説かれ、それも尊重す べきであるが、しかも私見も意味を失わぬ。今時の戦争についてはその見解が全面的に 現われたようであり、戦後の新聞にも同じ悲しい記事が多い。  学問知識尊重の精神に乏しいのもまた関連し、米国あたりの事情を思うと、進歩発達 の素因から工業能力増大のことも考えられ、組織と設備が戦争の遂行にも、あれだけの 堅実さを見せ、戦後にも世界を動かす力となっている。二、三十年前の所説が思い出さ れ、社会的に考慮されなかったのが残念である。これは反省の料とさるべきである。け れども日本人は芸術感に優れたものがあり、和算も芸術として長所を持ったし、芸術的 に開拓したのが意外の価値を増した。唐の太宗皇帝が鏡を見て姿を整えるように、過去 の歴史を省みて、わが行動を律すべしとしたのは名言であるが、わが日本にも『今鏡』、 『増鏡』、『吾妻鑑』等の諸書も作られた。和算史でもその回顧反省によって血も肉も通 い活き活きした精神を育てるものであって欲しい。私の数学史への関心は一にこの点に かかっている。  箕作《みつくり》元ハ先生から西洋史の教えを受けたが、大正三年大学院〔入学〕の時、先生から囗 頭試問があり、研究方針をも尋ねられて同感の意を示され、精進するよう頼まれたのは 忘れられない。元来動物学専門の先生が検鏡ができなくなって留学中に歴史に転ぜられ、 動物生態の知見を人類社会にも考え及ぼされたのは、よほどの参考になっている。先生 が早く永眠されて本篇を先生の覧に呈し得なかった。東洋史の市村噴次郎先生も本篇は 『史学雑誌』へもらえばよかったと激励されたが、先頃老齢で物故された。帝国学士院 で多大の便宜を与えられたのは故菊池大麓先生の恩顧であった。先生はある事情から深 く私の真意を諒解せられ、それからは全く慈父のようであった。先生がもっと長命であ ったならばと、念頭を去らない。箕作先生は先生の令弟である。  今別項の通り菊池学士院長の遠藤利貞遺著序文草稿を付刊し、和算史についての先生 の希望のあったところを世に伝えたい。先生に対する私の心情が理解されるならばしあ わせである。原稿の整理ができて、先生から院長としての序文の起稿を命ぜられたのは、 大正六年夏で、先生にお目にかかった最後となった。先生は茅ケ崎の別邸へ行かれ私は 信州の採訪に出張した。先生は提出してあった書類を取り揃えて返され序文原稿にも意 見を記して返送され、名代として、三上参次先生へ序文の添削を頼んでくれよとのこと であった。信州で先生の計音に接し、急いで帰京し直ちに三上先生へ依頼した。その添 削された序文草稿は東京の戦災にも失われず、手許に持ち帰っているので、今これを世 に問う好い機会となった。文章は改まっているが、意味はあまり変わっていない。ただ し[凵内は三上先生の加筆である。私の名の上に文学士とあるのは私は妥当でないか と思うが、先生は大学院入学試験の頃の文科大学長代理であった。前に選科へ入学した のも先生と菊池先生とが、和算史研究に好都合と見て取り運んでくれられたのである。 菊池先生の注記は先生の絶筆らしい。 本文ハ三上君ノ原稿ナルヲ以テ同氏ノ功労ヲ云フコト甚ダ少シ、整理二関シ諸人ノ間二奔 走シ寝食ヲ忘レテ之ヲ完成シタルハ全ク同人ノカナリ。此事ヲ序文中二記セザル可ラズ、 遠藤氏モ同人二対シテ感謝スル所アルナラン。  この序文原稿はそのままで載せられず、院長名義を改めて個人の資格とし、 き改められたる事情は三上先生の次の付言で知られる。 内容も書 本文ハ序ト例言トヲ合セタルモノニシテ、体裁甚ダ可ナラズ、故二桜井幹事、藤沢会員ノ 意見二従ヒ序ト例言トヲ分チテ更メテ起稿スルヲ可トス、故菊池院長ノ一閲ヲ経タルモノ ナレドモ、改善スルコトニハ故院長ノ霊モ異存ナカルベシト信ズ   大正七年四月十ハ日                 三 上(参次花押) 序  また著者の嘱託という肩書も刊本には削られている。『増修日本数学史』 ないが、菊池先生の二つの序文を併せ読めば思い半ばに過ぎるものがある。 は今手元に 先生在世中 の 『和算之方陣問題』 序の一部をも掲げて置く。 明治三十九年我ガ帝国学士院ニ於テ和算史調査ノ事業ニ従事シテヨリ約十年、其間蒐集ス ル所ノ材料ハ頗多ク、研究事項ノ稍々完備二近ヅケルモノモ亦鮮ナカラザルヲ快トス。嘱 託故遠藤利貞ノ調査中ナリシ一、二事項ノ研究ハ同嘱託ノ物故ニョリテ中止ノ止ムナキニ 至レルヲ悲シムト雖モ、同嘱託ノ遺稿大日本数学史増補ハ今ヤ原稿整理中ニ在リテ近ク発 表ノ運ビニ至ルベク、余ガ監督ノ下二嘱託三上義夫ノ調査二従事セル諸項ノ中、和算之方 陣問題モ亦脱稿セルヲ以テ、舷ニ本院ニ於テ之ヲ発表シ世ニ頒ツコトト為シタリ・…-   大正六年三月十六日               髄盥欝廿院飴韻菊池大麓  大正十二年後には蔵書の整理、目録作製のみ企てられ、およそ七、八年を要したが、 その事業がどういうものであったかは、刊行された二部の目録で知られよう。菊池先生 の後をうけて担当会員に自薦した藤沢利喜太郎博士が物故して藤原松三郎博士がこれに 代わり、それから再び真摯な研究が再開の運びとなり、後には学士院で日本科学史編纂 の事業も始まり、私も間接ながら関係するし、また岩波書店で『増修日本数学史』の再 版をということであり、私からの充分の注記補訂を加えてという意見も採用せられ、私 がこれに当たることになっていた。これに関連して算書解説をも別に作るつもりだった し、頭注を終わったものも多かった。けれども戦禍の増進と健康の都合で、ついに終末 にならずに昭和二十年春、一時上総大原に避難し、芸北の郷里に帰臥するの止むなきに 至った。私の校訂は大矢君が知られている。同君は現に科学史物理学の部の嘱託をして いられる。  目録の作製中にも私が和算史の研究を進め得たのは兼ねて蒐集した書類のおかげであ り、上野公園内で駅の付近なのに焼爆にも逢わず、和算書類は無事に残され、東北帝大 の蔵書などとともに将来長く学界に役立とうことは、ここに初めて菊池先生の霊へ報じ たいところである。帝国学士院並びに藤原博士へも謝意を表する。同博士並びに平山|清 次《きよつぐ》博士、桑木|或雄《あやお》博士が編纂の事業半ばに物故されたのは悲しいが、菊池先生の遺志が こうして芽を出してきたのは嬉しい。  数学科学を芸術として解することは、大正三年前後からの着想であるが、当時は師友 の中にほとんど受け入れられないので、早く公表することはしなかった。後には賛意を 示す人も多くなり、極力反対した向きからも類似の言説を聞くようになった。それにつ いては音楽を学んだ妻やその学友たちからの刺激が大いに関係あることを、最早この世 に亡い妻に報じておく。 国際科学史委員会すなわち後の国際科学史学士院から贈られた辞令写しをもこの機会 に付けて出すが、この事業も学界から助成されることを望む。 昭和廿二年四月廿五日 病中に識るす    三上義夫 増修日本数学史の菊池帝国学士院長序文稿 序  帝国学士院嘱託故遠藤利貞君ノ遺著増修日本数学史草稿ノ整理校訂成リ、今ヤ之ヲ刊 行シテ世二公ニスルノ運ビトナレリ。因テ本書ノ来歴ニツキ聊力述ブル所アラントス。  日本数学史ノ原版ハ著者十有六年ノ長年月二亙レル研究二成レルモノニシテ明治二十 六年二稿ヲ脱シ、三年ノ後即チ明治廿九年男爵三丼ハ郎右衛門君ノ助力ニヨリテ出版シ 得タルモノナリ。  此書一タビ出デシヨリ和算史始メテ世人ノ注意二上リ、和算史研究ノ端緒舷二開ケタ リト謂フベシ。爾来二十有余年、其間和算史上ノ事実ハ益々世ニ紹介セラレ、海外ノ識 者亦之ヲ重要視スルニ至レリ。本書原版出版ノ時余ハ只序文ヲ草シ此書ヲ以テ和算史ノ 研究上適当ナル予察地図トシテノ効果ヲ奏スルモノト云ヒシガ、今ニシテ弥ヨ其誤ラザ リシヲ信ズ。遠藤君ガ和算史上ノ陳渉呉広タリシ功労ハ蓋シ偉大ナリトス。  遠藤君ハ本書原版ノ刊行後モ常二斯道ノ研鑽ヲ怠ラズ絶エズ之ガ増補訂正二力メタリ。 明治二十ハ年東京理科大学ニ於テ余ガ監督ノ下ニ和算書蒐集ノ事業ヲ起スニ当リ、遠藤 君主トシテ其事二任ジ、同三十九年帝国学士院二於テ同一ノ事業ヲ開始スルニ際シテモ 同ジク遠藤君ヲ煩ハシシカバ君ハ各地二出張シテ資料ヲ調査スルト共二、又諸般ノ研究 ニモ着手セリ。而シテ公務ノ余暇最モ其心志ヲ労シタルモノハ本書ノ増訂ナリトス。此 ノ如キモノ凡ソ九年、以テ大正四年四月物故ノ時二及ベリ。本書ハ斯ノ如キ事情ノ下二 成レリ。其材料ヲ求ムルニ於テ洵二豊富ナルモノアリ。サレドモ未ダ稿ヲ脱セザルノ故 ヲ以テ生前嘗テ之ヲ人二示サザリキ。  本書ノ原稿ハ此ノ如キモノナルニヨリ叙述甚ダ乱雑ニシテ、著者自ラモ以テ足レリト 為セルモノニアラズ。其如何二之二苦心シタリシヤハ其第四稿第五稿ノ存在スルニ由リ テ之ヲ察スベシ。然レドモ第五稿ハ其前半ノ稍々完成二近ヅケルニ反シ、後半ハ尚記述 ヲ終ヘザルヲ以テ、此部分ハ第四稿二拠ルノ外ナシ。前半ト雖モ第四稿ト対照スルニ非 ザレバ解シ難キ形〔所〕アリ。此ノ如キ事情アルノミナラズ、其原稿ハ原版ノ本文中ニ訂 正文ヲ書キ入レタル所ノ外ハ、書中諸所二いろはノ符号ヲ付シ訂正増補ノ原稿ヲ之二連 接セシムルモノナルガ、往々ニシテ符号ノ脱落セルモノアリ、同一記事ノ重複セルアリ、 年代ノ錯誤アリ、書名人名ノ誤記アリ、論断ノ正鵠ヲ得ザルモノ亦無キニ非ズ。加之其 記事二出典ヲ示サぐルハ遺憾トスル所ナリ。 序  本書ノ原稿ハ此ノ如キ未定稿ナリト雖モ和算史上ノ新事実ヲ挙ゲタルモノ極メテ多ク、 之ヲ明治廿九年ノ原版二比スルニ其量二於テ優二二倍以上ノ大冊ヲ為シ斯界無二ノ大著 ナリトス。此ノ多数ノ史実ヲ伝フルニ就キテハ、著者ノ労苦ノ多大ナリシコト想像スル ニ余リアリ、其功績ノ大二発揚スベキモノアルハ誰力之ヲ否ムモノアラン。其原稿ヲ整 理シ之ヲ校訂シテ世二公ニスルノ価値アルコト亦誰力之ヲ否マンヤ。  遠藤君病篤キニ及ビ本書ノ原稿ヲ出シテ之ヲ友人岡本則録及ビ門人理学博士岡田武松 ノ両君二委ネ託スルニ後事ヲ以テセシカバ、両君乃チ原稿ヲ本院二提出セラレタリ。之 ヲ検スルニ前述ノ如キ次第ナルヲ以テ両君及ビ遠藤君ノ義兄竹貫登代多君ト相議シ本院 二於テ整理校訂ノ労ヲ取リテ然ル後二出版スルコトトシ[本院嘱託文学士三上義夫君ヲ シテ其任二当ラシメタリ。凵而シテ曩二本書原版ノ出版二際シテ、其資ヲ給セラレタル 男爵三井ハ郎右衛門君ハ本書ノ学術界ヲ益スベキモノナルヲ認メ、再ビ金一千円ヲ本院 二寄贈シ、其刊行頒布ヲ助ケラレタリ。本書ノ如ク購買者ノ多カラザルベキ著書ニシテ 之ヲ公ニスルコトヲ得タルハ全ク三丼男爵ノ賜ナリ。  本書原稿ノ整理校訂ニハ主トシテ三上義夫君ヲシテ其任二当ラシメタレドモ、岡本則 録君及ビ理学士大谷亮吉君等モ亦大二助力セラル所アリテ、概要左記ノ如キ方針ニヨリ テ之ヲ遂行シタリ。   第一、記事ノ重要ナルモノニハ成ルベク出典ヲ明記スルコト   第二、所説ニ疑ハシキモノアルトキハ之ニ対スル意見ヲ付記スルコト   第三、記事ノ重複セルモノハ之ヲ削除スルコト   第四、年代錯誤ノ記事ハ之ヲ適当ノ所二改メ記スコト   第五、人名書名ノ誤記其他字句ノ誤謬ト認メラルモノハ之ヲ訂正スルコト   第六、算式及ビ挿図ノ誤謬ハ成ルベク其記事関係ノ原本二基キテ校訂スルコト   第七、文意ノ通ジ難キモノハ之ヲ改訂シ、其全ク解シ得ザルモノハ已ムヲ得ズ之ヲ    削除スルコト   第八、冒頭二於ケル数学進歩ノ程度ヲ図示セル一覧表、籌算二関スル精細ノ記事、    及ビ巻末二付シタル「数学古今ノ大勢ヲ論ズ」ト題セル一章等ハ之ヲ原版ニ譲リ    テ本書ニハ削除スルコト   第九、頁ハ全篇二通ジテ之ヲ付スルコト  上記九項ノ中第一第二ノ二項ニ於テハ記入者ノ名ヲ書シテ責任ヲ明カニシタレドモ、 其他ノ訂正ニツキテハ煩ヲ厭ヒテ之ヲ避ケタリ、但シ著者自筆ノ原稿ニハ少シモ雌黄ヲ 加フルコトナク原形ノママ之ヲ本院二保存スルコトトセリ  本書ヲ刊行スルニ臨ミ[三上義夫君ガ殆ンド寝食ヲ忘レテ困難ナル原稿整理ノ事業二 従ハレタル労苦二対シ満腔ノ謝意ヲ表セザルヲ得ズ、遠藤君モ亦地下二感謝セルナラ ン。凵又前記諸君ノ出版二関シテノ多大ナル尽力及ビ三井男爵ノ出資ノ好意ヲ感謝スル ト共二、文学博士狩野亨吉君ヲ始メ多クノ方面ヨリ著者並ビニ本院二対シテ本書編纂ノ 材料ヲ供給セラレタル芳志ヲ感謝スルノ機会ヲ得タルヲ喜ブ。書肆岩波茂雄君ガ本書ノ 出版ヲ引受ケ、長沢孝享君ガ印刷ノ校正二少カラザル労ヲ執ラレタルコトモ亦大二感謝 スル所ナリ。  本書既二刊行セラレ故遠藤嘱託ノ事業ハ舷二結了シタレドモ、本書ハ要スルニ和算ノ 編年史ナリ。和算研究ノ全目的ハ之ヲ以テ尽キタリト謂フベカラズ。和算ノ方法術理二 就キテモ進ンデ之ヲ調査スルノ要アリ。此種ノ研究ハ余ガ先年東京数学物理学会記事二 数篇ノ論文ヲ掲載セル以来、諸家輩出シテ漸ク精二亙リ細二入ルノ観アレドモ、尚研究 スベキ事項頗ル多シ。特二多数ノ材料ヲ渉猟シテ網羅記述セルモノニ至リテハ殆ンド之 ヲ見ルコトナク、其方法術理ノ出ヅル所ノ由来二就キテモ亦根本的ノ研究ハ未ダ之ヲ見 ザルヲ遺憾トス。故二本院二於テハ年来此種ノ方面ニモ研究ノ歩ヲ進メ、和算之方陣問 題ニツキテハ既二其研究ノ一端ヲ発表セリ。将来益々努力シテ和算一切ノ精細ナル研究 調査ヲ遂ゲントスルコト切ナリ。而シテ文化史的若クハ社会学的見解ノ下二和算史ヲ完 成スルコト是レ本院調査二於ケル最後ノ目的タルナリ。事是二至リテハ固ヨリ容易ノ業 ニアラザレドモ着々トシテ其準備ノ整頓二力メ、其成功期シテ待ツベキモノアリ。問題 ハ唯時日ノ一点二在ルノミ。世ノ識者希クハ本院ノ意ヲ諒トシテ此事業ノ為二十分ノ同 情ト助力トヲ与ヘラレンコトヲ。 大正六年 月 日 院 長 識  本文ハ三上君ノ原稿ナルヲ以テ同氏ノ功労ヲ云フコト甚ダ少シ、整理二関シ諸人ノ間 二奔走シ寝食ヲ忘レテ之ヲ完成シタルハ全ク同氏ノカナリ。此事ヲ序文中二記セザル可 カラズ。遠藤氏モ同人二対シテ感謝スル所アルナラン。 文化史上より見たる日本の数学  日本で数学の発達したのは徳川時代及びそれ以前〔後〕のことであって、上古以来戦国 時代の終わりまでは数学に関して幾らも知られたことがなく、また明治大正時代の数学 は西洋の学問を宗として起こったもので、未だあまり特色も見えないし、未だこれを歴 史的に観察して充分な意見を発表し得るまでに研究が進んでおらぬから、しばらく徳川 時代の数学、いわゆる和算なるものを主として論ずることとする。もし数学者の立場で 和算を見るならば、如何なる問題、如何なる方法、得た結果等が如何なる時代に如何に 変遷したかの由来を明らかにし、これを現今の数学と比較して優劣を定め、もしくは西 洋の数学史上の事実に対比する等のことをするだけで満足されるのか知れないけれども、 我等は決してこれだけで満足し得るものでない。こんな見地の下における研究ももとよ り大切であることはいうまでもなく、我等もその研究の完成に向かって過去においても また現在においても努力もしているが、我等にとってはこれは目的ではなく、手段なの である。どうしても文化史的立場の上から広い眼界の下に見て行って、社会状態、国民 性、ないしは文化一般の発達上に如何なる関係を有するかを見定めなければならぬ。こ の意味における観察を加うるには、数学者の立場から見た和算の研究が充分に進んで和 算の性質を明らかにした上でないと、あるいは観察を誤る恐れがあるが、和算の研究は まだその緒につきかけたばかりであって、今の時に文化史的の研究に手を下すのは未だ 早計であるかも知れない。けれどもこの観察を行うことによって数学者としての和算の 研究に対して有力なる指導となり、これに方針を与え、かつその研究のはなはだ重要な ることを知らしめるものであって、もとより両々相俟って進むことを必要とする。私が 多年来和算史の研究に従事しつつこれが準備に幾多の歳月を費やしたのはこれがためで ある。数学者の眼中から見れば和算は現今の数学に比してすこぶる見劣りのしたもので あるから、その研究はさまで重大でないように見えるのも無理からぬことではあるが、 文化史的に解するときは決してそんなものではない。和算に対して文化史的の解釈を下 すことはそれ自身に、はなはだ趣味ある問題でもあるし、またかくすることによりて将 来の発展を期する上に大いなる参考となり得べき当然の性質を有するものであると信ず る。こうして教育上の参考に役立ち得るものともなるのである。数学者の立場からの研 究よりは、文化史的の研究の方がはるかに重要な意義を有するのであって、前者は後者 の完成を期するための方便に供せられ、これに従属させてしかるべきものである。  本篇においては江戸時代の和算の観察を主眼とするけれども、それ以前及び以後の時 代についても、できるならばこれを参照したいのであって、多少これに論及するつもり である。    一 数学発達前の特色  日本の神話にはハ百万《やおよろず》の神とか、千五百秋《ちいほあき 》だのというような、数を形容詞に使ったも のが多く、またそれが古今を通じて人口に艪炙している。『万葉集』にはハ十一と書い て「く》」と訓んだ例もあり、古来数を歌に詠み込んだものも多く、子供の命名に太郎、 次郎と順番を付するようなことも行われた。この事実は数の観念に切であったことを示 すのである。  奈良、平安の都に街路の命名法として一方を一条二条と名づけ、これに交叉する道路 には別の名称を付し、この縦横路線の交叉とその交叉点からの上下もしくは東西により て地点を決定する方法を用いたのは、元来都城そのものの構成が支那のものを模したの であるから、あるいは支那で行われた命名法を採用したのか知らぬけれども、ともかく、 こんな命名法が行われたというのもまた注意しておく必要がある。  徳川以前には数学に関する事蹟は極めて少なく、多く伝えられているものはないので あるが、わずかに伝えられたる事実の中に継子立《ままこだて 》という一種のものがある。継子立とは 実子と継子とを並列させある方法にて一人ずつ抜いて最後に残ったものを相続人にする というその並べ方に関係の遊戯であるが、もとより数学に関係のものである。この事項 は保元頃、日向守通憲が伝えたといわれ、また種々の古書に見えている。これと類似の 問題はジョセフスの問題といって西洋にもあるから、外国伝来のものかどうかは分から ぬけれども、これがよほど注意をひいていたというのは、この種の事項に趣味があった からにほかならぬ。  これらのことは日本人が古来、数または数学関係の事項に深い興味のあったことを示 すものであって、この興味はやがて機会さえあらば数学の発達し得べきことを暗示する ものであったかと思われる。徳川時代に至りて数学が鬱然として勃興し得たのは偶然で ない。別して数学関係の事項が遊戯に使用され、一種芸術的に解せられていたというの は意味あることであって、後に発達した和算に芸術的の気分が濃厚に現われたのも、ま たよって来るところがあったのである。     継子立の 図 (三宅賢隆『正術算学図会』1795年版による) 主人が算盤を持って左手に立ち,後妻が右手に立って いる.継子15人,実子15人が池を円状に囲んでいる. その解説については,230-231頁の注を見よ. 二 早く数学の発達せざりし理由  前章説くところのごとく、日本人は古来数または関係事項に趣味を持っていたと考え られるが、しかも実際において数学はさらに発達しない。むかし大学の設けられたとき 算博士、算生をおいて数学を教授し、支那の算書が使用されていたが、その後多く振る わず、日本で新たに算書の著述のあったことはさらに聞かないのである。暦法において は初めは支那のものを採用し支障なくこれを運用していたが、後には支那ではしばしば 改暦があっても、日本では同一のものに固執して支那の新暦法を採用することもせず、 朔望に大きな誤差を生ずるに至ってもどうすることもできないのであったが、これは単 に暦術の進歩しなかったばかりの罪ではなく、数学が振るわないで暦法の進歩に刺激を 与え得なかったこともあずかって力がある。ともかく、この暦法の不振はすなわち数学 の萎微鬥萎靡〕していたことを示すのである。故に中世より戦国の頃にかけては数学は見 る影もなく衰えて、割算を解するものもないほどになったとさえいわれている。これほ どまでになったかどうかは分からぬが、数学上にさらに見るべきもののなかったことは 事実である。日本では徳川時代の初めまでは数学は起こらなかったといってもよろしい。  数学に趣味があり素質がありながら、何故にかくも長い間、数学が起きなかったもの であろうか。これはけだし重大な問題であって、今容易に解決し得ないけれども、社会 の状態がしからしめたものと解して大過なかろうと思う。日本は元来農業国であって、 商工業は極めて幼稚であり、都会は発達せず、交通の便も少なく、浪人が諸方に移動し たごとき形跡はあるが、浪人といっても元来が農民からでてまた農民になるものに過ぎ ないから別にいうべきほどのことはなく、農業といっても地域は狭く、灌漉は便利であ り、気候温順にして天変地異少なく、ただ種子を播いて培って刈り取りさえすればよい という有り様であるから、何等数学の発達を促すべき要素もなかったといってもよい。  武家時代になっても、武家は地方の地主であって、質素簡潔を喜び、弓馬の術に慣れ ればそれでよいのであるから、武士の社会から数学の起こるべき道理もなかった。  数学には限らず一般に学問の発達には外国との関係が重要な要素になるのが普通であ って、ギリシア数学はエジプト、バビロニア等の文明に接触してから起こり、西欧の諸 国ではアラビアから伝えられたのが大いなる刺激となり、近世の日本では初めは支那、 後には西洋の学問を受け入れて始〔初〕めて数学及び諸般学術の勃興をきたしたのである。 けれども発達すべき素質のないところには如何なるものを受け入れても発達を見ること はできない。ギリシアの学問を受け入れながら何等見るべきもののできなかったロ1マ はその適例である。  日本でも、古くから三韓にことがあって、三韓から文字を伝え、儒を伝え、仏を伝え、 美術を伝え、医薬を伝え、また暦法算学をも伝えて、ここに算博士も置かれ算生も任ぜ られて数学の教授もできることになったのである。しかし当時は法典でも国史でも、漢 文で書いたほどに、模倣をのみこととしたのであって数学のごときも隋唐の制に倣って 始めたというに過ぎない。社会の内部に必要があって起こったのではない。それに外国 との関係は打ち切られ、外国からの刺激もなくなる、従っていくばくならずしてまた廃 れるのも故なきにあらずである。  もちろん暦法の運用、都城の新設、宮殿諸寺の建築、開墾、道路、橋梁等の事業にお いて多少数学が必要でないのではない。しかし日本人は何事によらず理論を作らずして 実際の運用を主とする。これらの諸事業においても、ただその設計測量等の実行さえで きれば、それで満足したであろう。まだこれだけで数学を発達させることにはならなか ったのである。  暦法には数学が要る。しかし当時の暦術では加減乗除さえ達者にできれば足りたので ある。いわんや、やや後れて時々改正を要する暦法において、幾年経てもさらに改正し ないのだから、正確に計算を施しても正確なことはできないようになっているから、算 法の正確を期することも次第に廃れたのであろう。暦法上にも数学はあまり要らなくな る。日本では暦法が数学を発達せしむべき動力にはなっていない。 三 数学発達の機運  上述のごとく社会の状態が未だ数学の発達を必要とするに至らなかったために、数学 は長く勃興することとならなかったのであるが、事情は次第に変わって来る。物々交換 の状態から貨幣経済に次第に進み、貸借の関係は複雑になって、頼母子《たのもし》のごときものも 発達する。商工業がまた次第に発達し、交通も頻繁となる。  かくして戦国時代の頃にもなると、国家としての秩序は乱れるけれども、社会として は何等衰退した形跡だになく、当時の事情を見るに、群雄割拠して互いに統一を企て、 戦術は一変して従来の一騎打ちから隊伍の動作となる。その上に戦乱長く続きて、従来 農村に散在した武士は城下に集まることとなり、城下町が形造られるようになる。武士 はすでに農村を離れた以上、もはや生産者ではない。彼等を相手としても商業の必要が 生ずる。山上不便の地にあった城砦は平地に移され、大河を利用したりなどして経済の 中心となる。戦争には自然に大部隊が動かされ、物資の供給も大規模となって、ここに 軍事上に経済の基礎ができてくる。経済の発達は実に著しいもので、交通の発達もまた これに伴い、堺のごとき自由都市ともいうべきようなものも現われる。  経済が発達するとともに商工業も発達する。市邑の発達、交通の発達は知識の練磨と なる。城郭も著しく発達するが、築城には必ず測量等の必要があったろう。  あるいは検地の事業が始まる。鉱山を開発する。貨幣の鋳造が行われる。水利等も起 こさなければならぬ。財政のことも等閑にはならぬ。  かくして社会の状態は数学の発達を促さないでは止まなくなっている。それに個人の 自覚の高まったことがその発達を助ける上に決して無力でない。群雄の割拠して相争う たとき、その競争は極めて激烈であって、また極めて真剣なものであるから、知力のあ らん限りを尽くさなければならない。従来のごとく家格や門地ばかりでは如何ともでき ない。勢い個人の能力が発達する。それに社会の秩序は乱れる。何人でも才能あるもの は活動の舞台に立つことができた。個人主義の色彩が著しくなって、個人の自覚も著し く高まったのである。  経済・軍事・財政等の社会状態が数学の勃興を必要としたところへ、個人の自覚が高 まって才能の認められる時代となるから、どうしてもその発達は現われないでは止まぬ。 数学の発達が切に感ぜられたことを証すべき事実も幾らか伝えられている。小田原の北 条氏において大導寺駿河守が世子の教育に算法から始めんことを建議して許されたこと、 清水|宗治《むねはる》が高松落城の際の遺言状に算用の重んずべきことを記したこと、秀吉が算家毛 利|重能《しげよし》を明に留学させたというのは事実かどうか知らぬけれども、ともかく重能を登用 したこと、これらはすべて数学の必要を感じてのことにほかならぬ。長束《なつか》正家が算術に 通じていたとかいうが、当時の財政家たる彼にしては当然のことであろうし、また秀吉 は一文銭を障子の目に二倍しておくだけ、どうしたとかいう伝説もあり、曾呂利新左衛 門が紙袋に米を一杯といって倉庫を蔽うほどの袋を作ったとかいう伝説などあるのも、 すでに数学的気分の豊富になったことを示すもののようである。  かかる機運に向かったところへ文禄の役が始まって、朝鮮及び支那に接触する。朝鮮 から持ち帰って来た書物中には算書もあったかと思われる。毛利重能がはたして支那へ 派遣されたかは疑問であるが、一説には朝鮮へ留学したのだともいう。ともかく、『算 学啓蒙』、『算法統宗』等の書物が伝わり、これを基礎として日本の数学は起こることと なった。実は経済上の状態などからいえば、も少し早く発達してもよかったものかも知 れないが、支那の学問が伝わって刺激を与えるまではまだ勃與するに至らず、この刺激 に基づいて、熟しつつあった機運に花が咲いた形である。これは当然の成り行きでもあ ろうが、数学においても自発的に新しいものを創造せずして外国のものを採り入れてこ れを運用するという日本の文化一般の発達と同じ径路を取ったことの有力な一証である。 四 支那の数学の影響  日本の数学勃興の時に当たりて支那算書の伝えられたものは幾らもあったであろうが、 主として影響を与えたのは『算学啓蒙』と『算法統宗』の二書にほかならぬ。毛利重能 も『算法統宗』を得てこれを学んだといわれている。『統宗』は万暦二十年程大位作の 書にして算盤《そろばん》の算法をも説き、毛利は算盤を伝授した。門弟数百人もあったというから よほど行われたと見える。前田利家が名護屋の陣中に携えたという懐中用の算盤は現に 前田家に保存されている。その後大津で算盤を製作販売することとなり、算盤の算法を 説いた書物もできて、算盤は大いに普及した。算盤は何時代の頃に何人が伝えたかは明 瞭でないが、ともかく支那から伝わったのは確かであって、毛利等の伝授から広まった ものであろう。  吉田光由の『塵劫記《じんこうき》』は『統宗』に基づいて著作したといわれている。『塵劫記』と いえばほとんど算術書の異名のようになって、非常に行われたのであるが、この書物が 『統宗』に負うところ少なからずとせば、支那の算法が日本で広く学修されたこととも なるのである。『統宗』の書物も後に日本で翻刻された。  けれども、なお一層重大な関係のあったのは『算学啓蒙』である。この書は元の朱世 傑の作であるが、支那では伝を失うているけれども、朝鮮に伝わって、朝鮮では洪武頃 と順治十七年とに翻刻したこともあるから、おそらくは朝鮮から日本へ伝えたものであ ろう。日本では訓点を付したり、あるいは注を付けて三回も翻刻されたのは、それのは なはだ貴ばれたことを示す。『啓蒙』に説くところは天元術であって、天元術とは算木 を使用して行うところの一種の器械的代数学であるが、この器械的代数学が実に日本数 学の基礎になった。天元術の代数学は日本では算盤の算法よりもやや後れて発達するこ ととなった。  支那の数学が日本に伝えられたものは、算盤の算法、及び天元術の外にも、方陣及び 円攅、方程すなわち算木にて一次連立方程式を解く方法、剰一術、招差法等幾らもあげ ることができる。剰一術と招差法は上記二書から伝わったのではない。  『統宗』、『啓蒙』の二書に見える問題または類似のものもまた日本で広く行われたも のがある。  かくして支那の数学が日本で大なる影響を与えたことは著しいもので、支那の数学を 抜きにしては日本の数学は実際発達したような形のものに発達することは到底できない のであった。 五 発達の原因  戦国から豊臣氏の頃にかけて数学発達の機運の熟したところへ支那の数学が伝わって、 それから数学が起きて来たことは前に説くところで明らかであるが、徳川時代になって から如何なる原因があって発達したかというに、前に述べた経済上等の理由は今も続い ている。経済は益々発展する。諸侯が全国に配置されて城下には市邑が発達し、藩士は 城下に住して閑散な生涯を送り、経済上のことは一切商家の手に落ちた。交通は益々発 達して海運も進み、参覲交替は人智発達の上に少なからざる関係がある。この時代には 兵学なども発達するが、兵学者には築城等のことから測量のことなども大切であった。 有名な兵学者北条氏長〔の季子北条氏如〕の門人でやはり兵学者として知られた松宮観山が 測量の書物『分度余術』を著述したがごときはその一例であろう。兵学者中に数学上の 著述のあった者には山県大弐の『牙籌譜』などもある。佐久間象山も数学に関係があっ たようである。  徳川幕府になってからは浪人がたくさんにある。統一事業のでき上がる前に滅びた大 名の家も幾らもあるが、一統後にも徳川氏は大きい大名をなるべく絶滅さす方針を取っ ていたから、浪人が増加する。天草の乱に小西、大野等の浪人の関係があり、由井正雪 の事件によって、幕府がはなはだ浪人の処分に窮し、大名の相続問題についての政策を 一変したほどであって、浪人の勢力は侮り難いものであった。かかる浪人のおったこと が、数学の発達に関係がある。数学だけにはかぎらぬが、数学にも関係があった。数学 以外でいえば、山鹿素行の兵学におけるごときがそれである。数学においても荒木村英、 久留島|義太《よしひろ》等のごときがそれで、久留島は備中松山の水谷家の浪人であるが、浪人しな ければ算術家にはなれなかったかも知れない。  浪人は種々の学問などした。従って浪人であって諸藩に抱えられたものも多いが、数 学のために抱えられた人達も少なくない。星野実宣は福岡藩に仕え、磯村吉徳は二本松 藩に仕え、平賀保秀は水戸藩に仕え、島田貞継及び安藤有益は会津藩に仕え、村松茂清 は赤穂藩に仕え、金沢刑部左衛門は津軽藩に仕えたなどがそれである。これらの人々は すべて浪人であったとはいえないが浪人出身の人が多い。  諸藩で浪人などを数学の故に抱えたのは何故かといえば、水利や財政経済のことなど に従事せしむるためであった。星野実宣が筑前で企てた事業や、安藤有益が会津で経済 上に功績のあったことや、磯村吉徳が二本松城下に流るる水道を引いたことなどはその 実例である。数学のためこの種の地位を得られる希望があるので数学を修めたような動 機もあるいはあったであろう。少なくも数学の奨励になったであろう。  かくのごとき事情のあったのは、もちろん水利だの財政経済等の必要から数学に影響 したのである。後の時代になっても実用的の数学に重きをおいた人は幾らもあり、実用 の方面を全く度外視した人は少ないようである。実用上の関係が発達上の原因になった ことは否まれぬ。  また幕府及び諸藩に勘定方のあったことが大いに関係がある。勘定方の人達は職務上 ある程度の数学が必要であるから学修を始める。それが動機となって数学者になった人 が幾らもあったようである。関孝和も勘定方の家に人となり、自らも勘定方として身を 立てた。後には幕府の勘定奉行であった川井|久徳《ひさよし》及び古川氏清のごときも数学者になっ たのである。  これらは数学者の経歴を取り調べて推定し得られる事柄であるが、また算書中の問題 を研究しても実用の問題が発達上に大いなる関係を有したことが知られる。貸借問題、 利足問題、年賦問題、反別問題、銀と灰吹問題、築堤の問題、材積の問題、物価関係の 問題、暦術の問題、この種のものが幾らも見えているのは有力にこれを語るのである。  数学者の教授上に初歩の人へは実用向きのものから教えたかの観あることもまたこの 関係からであり、測量なども大概の和算家がやったもので、また教授もしているが、こ れもその関係からである。  幕府及び諸藩に追々と天文方を置いたり、また算学師範を任命して数学を教授させた りしたことも数学の発達を助けることとなった。山路主住が幕府の天文方に入り、戸板 保佑が仙台藩の保護の下に山路に師事したごときはその例であって、ずっと後には諸藩 の数学者に師範役の人も少なくなかった。  民間から幾多の人物の出たこともまた著しいのであって、地方の庄屋など勤めている 人達が勘定方の人が数学に入ったのと同様に数学を始めたものもあるが、また商家の出 身もあれば、諸侯中にもその人が出て全く実用上に関係のない人物中にも少なからず広 まったのである。これにはもとより原因がなければならぬ。これはもとより趣味の問題 であった。 和算家の趣味  和算のまだ発達せざる遠き以前に継子立のごとき趣味の問題が行われて、数学に対す る趣味は日本人元来の素質中に含まれていようとは、それからだけでも推察し得られる のであるが、支那の数学を受け入れて数学の学修が起こってから、この趣味ははたして 多大に現われてきた。『塵劫記』は支那の『算法統宗』を土台としてできたといわれる けれども、この書物からして例の継子立の問題を説いている。鼠算といって鼠はどれだ け繁殖するかの問題もあるが、ことさらに鼠算の形になっているところに趣味を味わう 精神が見える。継子立の問題は後に諸算家が色々に説いている。  和算の問題中において実用を離れたり、実用に遠いものはたくさんにあって、一々枚 挙するのは容易でないが、今その主なるものをあげることとする。  一、方陣。数を方形に並べて縦横並びに対角線上の和がすべて等しくなるようにした もので、支那から伝わったのであるが、支那よりも著しく発達したものになった。  二、円擯。同じく数を円形に配列したもの。  三、角術。正多角形に関する算法で、あまり実用があるらしくもないが、非常に注意 して研究されたものである。  四、円周率五十位まで計算したなども実用はない。  五、何千次という方程式になるような問題をも好んでやった時代があるが、こんな複 雑なものが実用になろうはずはない。  六、面積と辺の長さとその平方根との数を加えて、どうしたとかいうような問題もあ るが、これらも同様である。  七、四角や三角や円の中へ、円や正方形を容れたような問題が極めて多いが、これら は一向に実用はない。  ハ、一つの問題を幾つもの方法で解いて見る。反対に一つの式で解き得べき幾つもの 図形を作ったりなどして喜んだこともある。  これらの例はまだ幾らでも書き加えられる。これらはすべて実用から離れたもので、 これらが和算の主要部分を成しているのは、すなわち実用を去りて実用以上に進んだこ とを示すのである。  和算家は問題を解いただけでは満足しない。得た結果を必ず術文の形に起草する。こ れは支那算書から伝わった風ではあるが、これを極端にやっている。これも実用のない ことで、かえって数学研究上には有害なくらいなものであった。  数学が実用を離れて進むのはいずれの国も同じことで、こうならなければ進歩はでき ないのであるが、いったいに何でも理論的にやって行かない日本人が、数学だけは実地 適用の範囲を棄てて実用もないところまでやって行くのであるから、そこにある意味を 認めなければならぬ。これは全く趣味としてやったものといい得られよう。  数学の上でこの趣味性の大いに現われているものの実例をあぐるときは、和算書には 図入りのものが極めて多く、『塵劫記』にも大きな絵が入れてあり、それ以後のものに も、絵入りの算書ははなはだ多い。はなはだしいのになると、一冊の書物が絵ばかりで、 その上に歌のようなものを加えて問題を説明しているだけのもある。  算額といって額面に算法の問題や解を書いて神社仏閣の絵馬にあげる風は盛んに行わ れたもので、現今でも諸方の神社の拝殿や絵馬堂などに幾らも見られる。福岡の箱崎及 び住吉、厳島の絵馬堂、備中の一宮、道後のハ幡、播州の尾上及び龍野、大阪の住吉、 伏見の御香の宮、京都の祗園及び安井神社、大津の三井寺、信州諏訪及び別所、碓氷峠 の熊野神社、上州妙義山、前橋の八幡社、上総の鹿野山、常陸の土浦、磐城の三春、そ れから塩釜神社等にはいずれも現存し、東京付近でも千住在の梅田不動、府中の六所明 神、大宮の氷川神社等がある。  近年はこの種の額を見に行くものもなければ、無用のものとなりて破棄され、はなは だ少なくなったのであるが、それでも上記のもの及びその他にまだ幾らもある。算額写 しの残ったものもはなはだ多く、刊行になったものでも二、三種のみではない。和算の 盛時にはよほど算額の奉納のあったものと考えられる。算額は寛文の頃から行われて、 現存中最も古いものは元禄中、京都の祗園に奉納されたものである。従って和算の起こ って間のない頃からのことで、その最後まで続いたのである。現存のものを見ても、ま た写しや原稿の残れるものを見ても、図形に彩色を施したものもある。この算額奉納の ことは絵馬の流行に倣ったもので、俳句などの額と同様の意味のものであろうが、要す るに芸術視してのことにほかならぬ。  吉田光由がかつて『塵劫記』の寛永十ハ年版において十二の問題を出して解答を求め てから、他の学者が後の著述においてこれを解いてまた別の問題を提出し、さらにこの 問題を解いて第三回目の問題を掲げた書物が出版されるという風で、百余年間も継続し たことがある。かくして出した問題を遺題というが、遺題あるがために学者の研究心を そそり、その趣味を迎えたことは少なくなかったであろう。遺題を解いて公にするのは 得意とするところであり、一種の競技ともなったように見える。ある意味では数学が競 技に使われたともいい得られる。  算額もまたそれ自身芸術〔晶〕になったばかりでなく、やはり競技の役に立った。甲の 算額に対して乙が改術を試みて他の額を上げるというようなことも行われ、これについ て激しい論争の行われたこともある。  和算の先生が門人に教授している間に、日を定めて競技の会を催し、問題を出し合っ て互いに解くというようなこともあって、その競技の問題集の残ったものもある。  学友間においても面白い問題など得た場合には、こんな問題があるが君はできるか、 などいって対者の能力を試して見るようなことは始終行われておった。  和算家の中には武者修業のように諸方を遊歴して地方地方で算家として知られた人々 を訪れては、問題を出したり出されたりしてそれを解くことをやったが、もしできない ならば大いなる恥辱としたもので、数学上の道場破りがあったのである。中根元圭が久 留島義太の塾を訪うてその道場を破ったことがあるが、それなどは著しいものの一つで あろう。  かく競技の行われたことは数学に趣味を感じてのことで、これらのことがその進歩に 貢献しているのはいうまでもない。  和算書には歌によって算法を説いたものなども往々にあるが、これもまた趣味の問題 からきている。もちろん支那書にもその例はあるけれども、趣味の問題であるから行わ れたのである。   七 和算家の趣味(続き) 和算には実用を離れた問題が多く、 算額として神前にあげたり、また競技などに用い たことのあるのは前に説く通りであるが、和算家の人物から見ても趣味でやったもので あることが知られる。  和算はもと実用の必要から起きたことは前に論じた。ずっと後の時代になっても必要 の分子は常に離れ去ることがなかった。しかし実用のない方面に進歩した。もはや実用 上の必要のみによりてその進歩を説明することはできない。ここにおいて趣味の問題と して学修されたことが大いなる原因になったことが知られるのであるが、和算家が如何 なる地位を保ち、如何なる人物が和算に従事したかを考えるときは益々趣味に生きたも のなることが明瞭になろう。  和算家には種々の階級の人があるけれども、士族が最も多い。これは士族は遊食の民 で余裕の多かったことも一原因に相違ない。けれども士族階級のものは算盤を手にする ことさえ卑しんだものである。勘定を卑しむ風のできたのは何時頃からかは知らぬけれ ども、士族は扶持に生きて他の仕事に手を出すべき性質のものでないから、経済のこと などには迂闊になったのと、また一方にはこんな階級の連中が勘定高くなっては統御に 困るところから益々経済に迂闊になるように奨励したのではないかとも思うが、ともか くも算盤を卑しんだのは事実である。算盤を卑しむから数学も卑しまれる。従って士族 であって数学を修めたものは親には叱られる。友達には馬鹿にされる。全く人に隠れて 内証で習ったのである。幕末の頃になってもその事情に変わりはない。現に近年物故し た川北|朝鄰《ともちか》翁のごときもそんなことをいっていられた。ある藩では武芸を尊んで数学な ど修めることは極端に抑えた所もある。若州小浜藩には算家というものは出ていないが、 全くその一例である。地方の農家の人達が数学を修めたものでも土地によっては卑しむ ことをしなかったところもあるらしく、越中の石黒信由のごときは卑しめられた形跡が ないけれども、数学のために尊ばれたというようなことは、まあ、ないといってもよか ろう。こんな事情であるにもかかわらず、和算家がどうして和算を修めたかは問題であ る。勘定方などの人は初歩を修める必要から自然に趣味を感じてきたと思われるが、そ の他の人達はどうであったろう。和算家の中には関孝和の門人中に建部賢弘《たけぺかたひろ》の兄弟三人 があるが、旗本の有力家の子であった。有馬|頼憧《よりゆき》は久留米侯で数学に達し、著述中には 見るべきものもある。一関の家老梶山次俊も数学に達した。紀州侯の子で桑名藩主にな った人も和算を修めた。磐城平侯内藤政樹も数学に長じた人である。こういう身分の人 にも数学に達した人のあったのは、他に何等の目的があったとも考えられない。全く趣 味のためであったというほかには理由がない。  地方の農家で数学を学んだ人は概して富裕の人が多いようであるが、中には数学に没 頭して家事を意とせざるがために家を失うたものもある。上州の斎藤宜義のごときがそ れで、家を失わぬまでも生活に窮するようになったものは少なくないらしい。数学者と して名を知られ、弟子でもたくさんに集まるようになると、謝礼といって幾らも受ける ではなし、家に寄宿させて飯料もろくに貰わぬといったような工合で教授が商売になっ たものではなかった。  都会では数学の教授によりて生業としたものもある。会田安明、坂部|広胖《こうはん》、長谷川父 子などがその例であり、山路主住は天文方に出ているが教授を内職として多少の収入も あったようである。藤田貞資、白石長忠、内田|五観《いつみ》なども同様であったろう。しかしそ れはこれらの名望家であって始〔初〕めてできるのであって、その他の人物に至りては、 みじめなものであった。和田|寧《ねい》は幕末における最大の大家であるけれども、数学の教授 では生計が立てられないで、かたわら易占をしたり、習字の師匠をして収入を補い、ま た発明術を売って酒に代えたというが、その死後未亡人から人に送った書簡を見れば、 和田の没したときは極端に窮しておって、ただ一人世話してくれるものもなくよほど貧 乏なものであったことが知られる。御粥安本《ごかゆやすもと》の書状にも生計に窮している様子が見える。 日下誠《くさか 》は名望家で門下に多数の大家を輩出さしたので名高いが、しかし三畳か四畳の一 室の所におったとかいうことが伝えられ、内田五観は著書の出版費がなくて叔母が小金 を持っていたのをだまして取り上げたという話もある。こんな事実は幾らもあるが、和 算が職業として成り立たなかったことはいうまでもない。書物を作っても『精要算法』、 『点竄指南録』、『算法新書』、『求積通考』等は部数も多く売れたようであるが、普通の ものは幾らも売れはしない。全く著者が版木を負担しなければならない有り様であった。  かくのごとき事情であるから、和算家は世間から卑しまれながら、何の収入も名誉も 地位も得られないことを覚悟をして、農家や商家の人になれば、家財を傾けてまでも和 算の学修をあえてしたのであった。故に和算の老大家の存生せる人について聞いたとこ ろによれば、他に何の望みもなくただに碁や将棋を闘わすのも同じ意味で修めたという ことであった。全然道楽にしたのである。和算家の中には幾人かは和算のために諸藩に 抱えられたり、または教授によって生計を立てたり、少なくも謝礼で小遣ぐらいにはな った人があるとはいえ、それは現今でも囲碁を弄ぶ人が中には上達して師匠となり、そ れで相当に暮らしているのと全く同一である。上州の萩原禎助翁のごときは自分等は道 楽に数学を修めたので、少しも収入や応用などのことを思ったのではないから、今の人 が職業を得るために修学するのとは違うと口癖のようにいっていられた。和算は趣味の 問題であったと前にいったが、これを和算家の生活問題と併せ考うるときは、いよいよ その見解を確かめられるのである。 八 和算と和歌  和算家は趣味の問題として和算を開拓したもので、実用を離れて芸術的に解したもの が多いように前に述べたのであるが、日本では和歌が一般に普及していることと対比し て、はなはだ面白いことであると考える。和歌はもと貴族の間に行われているが、武家 が勢力を得るに及んでは武家の間にも広まり、徳川時代は平民が勢力を得る時代であっ て、商人階級が勃興し、狹客も現われ、平民が士族の株を買うて士族にもなれば、平民 文学も起こり平民芸術もまた起こったほどで、全く四民平等を理想とした明治大正時代 の準備をした時期であるだけあって、和歌のごときも人民の間にも広まってくる。数学 のごときもやはり同じ時代の産物であるから士農工商各種の階級の人の間にしきりに学 修者を輩出せしめた。和歌が平民的嗜好の産物といい得るなら、和算もまた国民嗜好の 産物であったといい得られよう。  和歌もしくは俳句ははなはだ短篇であって、神意即妙、感ずるままに囗に従って出で、 筆に拠りて成る。そして何人でもこれを作ることができる。いわば国民ことごとく詩人 たり得るのである。いずれの国でも長篇名作はあろう。国民のあまねくこれを謡い、こ れを楽しむことはできる。けれども何人でも詩人たり得るものではない。漢詩は短いに は短いけれども、何人でも作り得ざるにおいては他国の詩歌と同じく重厚である。ひと り和歌、俳句に至りては軽快であって情味に秀でている。その間に何等理智的なものを 挟まぬ。そこに日本の特色が現われている。  和算は趣味の問題たるにおいて和歌と同じい。日本人は元来趣味に生くるものである。 故に碁でも、将棋でも、剣術柔道にしても、茶の湯や琴、三味線にしても、文学美術に しても、従って国民的の嗜好としてあまねく行き渡っている。この趣味の国において初 めて和歌があんなに発達し得た。そうしてそこに和算が発達した。和算は全く和歌も同 様な精神でできている。歌を詠むからといって、人にあまり尊ばれるわけでもないが、 和算も同様にこれに通ずればとて、さまで尊ばれたのでない。和算家が老年になると大 概は和歌や俳句を喜び、幾多の詠吟を残している。少し古い人については草稿も残って いなければ、子孫について尋ねることもできないけれども、さまで年代の経過せぬ人達 はその子孫の家に俳句を記したものなどが無数に残存し、その事情をうかがうことがで きるのである。これらの人達について考うるに年少の頃に数学を修め、壮年時代に数学 に苦心したのと全く同じ心持ちで俳句を作ったらしい。萩原禎助翁から現に聞いたこと であるが、数学も俳句も別に変わったことはない、面白いことは同じだといわれたこと がある。  数学者ことごとく詩人たりとは面白い現象である。現在、物理学者〔寺田博士及び〕石原《いしわら》 博士等が和歌の名手であるのも、和算家時代のことを思えば不思議はないのである。  和算が如何に幼稚であり、数学として整うていないものであるといっても、和歌や俳 句のように簡単ではない。従って歌人の多いほどに和算家は多くなかった。しかし和算 家のすべての人がむずかしい術理を考えることを何の苦ともせずに、これを楽しんだの は歌人が歌を詠んで楽しんだのと同様であった。  和算は数学である。数学は論理的に固めたものである。しかしながら和算においては 必ずしも論理に拘泥せず、従って誤ったものもずいぶんあるが、和歌のように簡潔にで きているような気味があるかと思われる。途中の処理方法などは略してしまって、最後 の結果にのみ重きをおいた。その見込みを付けるところが歌の想を得るのと同じように ゆくのである。そこを楽しんだのである。 九 支那数学の応用及び改造  和算は支那の数学を伝えてその上に進んだものである。しかしながら支那から伝えた そのままで模倣のみしていたのではない。極めてよくこれを応用運転し、もしくは改造 同化した跡が見える。  例えば招差法は元の授時暦に使用されたものが伝わったと思われるが、直接もしくは 間接にこれを応用して諸種の問題を解いている。剰一術は秦九韶著『数書九章』中に見 るところの大衍求一術と全く同一でただ配列の仕方が違うだけで、やはり支那から伝わ ったものと思われるが、これを使用して処理した問題は支那の算書中にはあまり見当た らぬにもかかわらず、日本では諸種の問題に応用して、立派な成績を得たものであった。  勾股玄の関係でも支那の算書中にあったのだけれど、これを適用して図形関係の問題 は何でもやったものである。後には他の進んだ関係をも作ってそれを手段に問題の処理 をするようにもなったが、初めは勾股玄応用の一天旦点〕張りでありながら、種々様々 に活用したものである。  この種の例ははなはだ多く、支那数学をよく応用した頃から、応用の才能は明らかに 認められ、後には和算家自らの創意したる事項をも巧みに応用している。これ全く日本 の文明一般に見るところであって、日清日露の両役において、西洋の戦術を使用しなが ら、これが活用を巧妙にしたのも一般であろう。昔の律令制定でも、明治の法典編纂で も全く外国のものに依拠して、それがうまく運用されているのもまた同じである。  和算家は支那数学を巧みに応用し得るばかりでなく、またはなはだよくこれを改造し た跡も見える。 十 算盤。 その改良と影響  算盤《そろばん》は支那にもあって支那から伝わったものであることは明らかである。初めこれを 支那から伝えて、そうして幾年かの後にはあまねく用いらるるに至った。これも日本人 が外国のものをよく採用することの一例であるが、しかし支那から伝わったそのままの 形で何時までも存続したのではない。支那の算盤は『数学通軌』及び『算法統宗』に初 めてその図が見えているが、現今各地で使用されるものもこの図に見るところと大同小 異で、三百数十年後の今日に至るまで、さまで変化していないように思われる。その形 状は梁上が二珠であって、梁下の軸は極めて長く、はなはだしいのになるとあいたとこ ろが五珠の占めた長さほどあるものもあり、珠形は横断面がまず楕円形ともいうべく、 はなはだ鈍いものである。こんな形のものであるから、われわれ日本人から見ると敏活 を欠いたように見える。もっとも支那人は爪を長くしているとか、風俗が同一でないと かのために、支那人にとってはあんな形である方が使用しやすいのであるかも知れない けれども、日本人の目からは妙に見える。  しかるに日本で現今行われている算盤は梁上二珠のものもないではないが、まず一珠 のものが多く、珠形は稜張って、梁下の軸にあいた場所が極めて短い。支那の算盤のよ うにゆったりしたところがなく、はなはだ繊細で、軽便で、よほどきびきびしているよ うに見える。実際の使用上においても逓信省貯金局あたりでやっているように極めて敏 捷なものである。支那と日本の算盤の形状はただちに両国民の気風を表現するものとい いたい。  日本の現今の算盤のような形になったのは、次第に変遷したのであるが、現存の最も 古い算盤は前田利家の遺物で、梁上の二珠であることは支那のものに同じく、珠形に厚 みのあることなども支那のものに近いけれど、この算盤ですらも、もはや支那のものそ のままではない。『塵劫記』が算盤の図を載せた日本最古の書物であるが、その図には 珠形が支那のものに似ている。それが少し後の時代になれば現今のもののような形に変 わってくる。  かく算盤の形が次第に変わったのは、国民の性格に適するように改造同化したもので ある。  算盤の形状ばかりではない。使用の方法においても、『算法統宗』に書いてあるよう な仕方ばかりしてはいなかった。次第に軽便になって、開平開立には半九々などいうも のも現われ、計算を簡単にすることになった。算盤は日本人の性格に極めて適当したと 見えて、その算法の改良進歩は、鋭意これを企てたのである。  算盤では開平開立もできるけれども、算盤の長所は加減乗除の捷軽なところにある。 支那では古来算木が用いられ、算木は日本へも早くから伝わっていたようで、天元術の 代数学は実に算木で行うたものであるが、算木で高次方程式を解くのは理論としては、 はなはだ進歩したものであるけれども、実際の運用は決して容易なものではなかった。 現に算木を並べてやってみても、ずいぶん厄介なもので、手数を要することもはなはだ しく、またはなはだ間違いやすい。しかるに軽便な算盤がある。できるならば算木を使 用せずに算盤に依頼したい。しかし算盤では高次方程式を解くことはできない。何とか して工夫してみたいというのが和算家の間に広く行き渡った考えであった。かくしてむ ずかしい問題をも加減乗除の演算だけ繰り返し繰り返し使用して解き得るような方法が 考え出された。あるいは級数の使用となったり、または逐次近似法とでもいうべき種々 のものの成り立ったのは、その結果である。和算には方程式解法について幾らも見るべ きものがあるが、算木を避けて算盤でやりたいという理想の実現したものにほかならぬ。  日本では支那から伝わった算盤を改良し、敏捷にし、そうしてこれが適用によって数 学上の大いなる進歩ともなったが、支那では算盤は商業用等に使用されたばかりで、算 盤について日本で見たような理想も起こらず、またあんな結果もあげられたことはない ようである。この点においても日本人が運用の上に常に敏活を期し、よく成功するもの なることを示している。 十一 算木及びその影響。 支那数学の改造  算盤の改良及びその影響によりて日本の数学が幾多の進歩を成したことは今説いた通 りであるが、算木もまた支那から伝わり、日本の数学構成上に著しい関係を持ったもの である。図形関係のもの等を除き、日本数学の根幹は大体において算木関係の算法から 換骨脱体したものといっても大過あるまい。  算木はもと竿、籌、算、策等の名をもって呼ばれ、その形状大小もしくは使用法等に つきて多少の相違はあったろうけれども、要するに後の算木の前身であって、支那では 古い時代から行われたものである。支那で早くから開平開立の算法が立派に整い、その 方法を推し広めて二次三次の方程式の解法も成立し、また一次連立方程式の解法もでき るし、後には古来の開平開立の方法を拡張して高次方程式の近似解法が成り、天元術、 四元術の進歩した代数学が発達したなど、皆算木を使用してできたのであった。支那の 算木使用に基づける器械的代数学の成立は極めて著しいことである。数学史上、いずれ の国についてもかくのごとき類例はかつて知られておらぬ。  かくして成り立った支那の代数学が日本へ伝わった。これを伝えた書物は『算学啓 蒙』である。『啓蒙』には天元術は使用されているが、容易に理解され得るような説明 はされておらぬ。支那では宋元時代に発達した天元術が明時代にその伝を失い、清初に は天元術を記した書物はあっても理解することができなくなって、西洋の代数学が伝わ ったのでこれと比較して、ようやく理解されることになったような事実があるが、日本 では難解の『啓蒙』に基づいて独力で天元術を理解し得たのは、清初の支那数学者より もやや優れていたようである。和算家が天元術を理解し得た筋道は未だ充分に明らかに されないが、よほど苦心した跡は種々の史料に基づいて察せられる。天元術及び天元術 によりて得たる方程式の近似解法は和算家の間に広く行われ、これに使用せる算木も現 に存するものが必ずしも珍しくない。  支那の天元術においては方程式の一根のみ採り、二根以上に注意することはなかった のであるが、日本では天元術が理解されて間もなく、二根以上あることを注意するに至 った。しかも初めは問題に無理があるとして放棄したこともある。天元術で試みるよう な代数演算を二重三重に試みて行う算法もできた。和算家のいわゆる演段術はこれであ る。平たくいえば補助未知数を使って二つの方程式を作り、その補助未知数を消去する ものである。支那の四元術は二つもしくは四つの方程式を作って消去を行うことはやっ ているが、日本の演段術は、四元術とは仕方が同じでなく、また四元術を記した『四元 玉鑑』が日本に伝わっていたらしい形跡が見えない。  関孝和の『伏題』に初見のいわゆる維乗法は西洋数学の行列式に当たり、西洋より先 だって日本で発達したものであるが、これは演段術の一種であると同時にまた一次連立 方程式の解法にも関係したものであった。従ってやはり算木の代数学を基礎として、そ の上から成り立ったものであった。  演段術から点竄術が出で、それから天元術の解法から二項展開法を生じ、これを応用 して円理の算法が成立し、円理が発達して日本の数学は極致に達するのである。  かくのごとき事情であるから方程及び天元術の器械的代数学があって、それから一歩 を進めて日本の代数学はできあがったといい得られる。従って算木の算法から系統を引 いたものである。けれども方程及び天元術が元来算木を使用して演算すべきものであっ たに似ず、日本の演段術、維乗法、点竄術、円理等はいずれも筆算式の数学であった。 故に算木の系統をば引いているけれども、算木の影響は間接であって、直接のものでは ない。よって支那の代数学は算木の直接の影響から生まれ、日本の代数学は間接の影響 によって成立したといってよいのである。かく和算家は支那の器械的代数学を改造して 日本の筆算式代数学を造りあげたのである。全く支那数学の改造にほかならぬ。    十二 西洋数学の影響  日本の代数学は器械的代数学から系統を引いているとはいえ、筆算式に発達したのが 特色であって、筆算式の代数学はその当時西洋で行われていたところである。西洋との 交通は戦国の頃から行われ、鉄砲も伝わり、医薬も伝わり、家康は英人三浦按針を用い て造船のことを司《つかさど》らしめ、ポルトガルの帰化人沢野忠庵は西洋の天文学を伝え、林吉左 衛門及び小林義信等が西洋の天文学を学んだこともあり、いわゆる町見術すなわち測量 法はオランダ人カスパルが伝えたといわれ、寛永中から鎖国になったとはいうものの、 それ以後に外国から医術を学んで帰った鳩野宗巴がいるし、同じ時代にオランダのライ デン大学で医学を学び、そうして数学をヴァン・ショーテンに学んだという日本人 勹睥三。。串貧邑擣一畠のおったこともあり、日本の数学はあるいは西洋の影響を受けたで はないであろうか。  それは何人にも自然に起こる疑問である。少しく論じなければならぬ。  日本で代数学の発達する〔の〕は寛文頃から以後のことである。西洋の影響を受けたと すればこの時代のことでなければならぬが、この頃にはすでに鎖国になって、わずかに オランダとの交通はあるけれども、その交通も長崎の一港に限られ、蘭書を読むことも ほとんどなかったのであるから、直接に影響を及ぼし得ることに大いなる可能性はない。 西洋の天文学を伝えた人はあっても極めて幼稚なもので、代数学にまで関係したほどの ものではなかったようである。オランダで数学を学んだ日本人はあっても、日本へ帰っ た形跡がない。もし帰ったとすれば、幾何学に造詣のあった人らしいから幾何学を伝え そうなものであるが、幾何学然たるものは発達しなかったのが事実である。南蛮から帰 ったという医者も数学に関係のあった人ではないようである。これらの方面からはどう もオランダの数学が伝わったろうという証迹があがりかねる。  関孝和が方程式論関係の事項について種々の記述を残しているし、中心周の問題のご ときは西洋では関より少し前にスイスのグルダンが同様のことを得ているような事実も あるから、もし西洋の影響を受けているならば、これらの事項であったろう。関孝和は 日本の数学を樹立する上に最も大なる功績のあった人であるが、関はある時奈良のある 寺に何であるか分からぬ書物があると聞いてこれを調査し、それから数学が上進したと いう話もあり、また関の著書を検するに、年代を記したものは刊行の一冊を除きて、お よそ五年の間に限られている、という不思議な事実がある。この二つの事実を併せ考う るときは、関の業績については大いに疑うべきものがあるかと思われる。はたしてしか らば上述のごとき事項はオランダもしくは西洋から伝わったものではないか、と推定し 得られようか。この推定を得るためには少し理由が薄弱なようである。  関孝和は如何にも方程式論めいたものを説いているが、それ以前にも方程式に二根あ ることが知れ、しかし問題が悪いためにこんなことになるのだから、二根が出ないよう に問題の諸数を改めなければならぬ、というような考えを出した人がある。その問題と いうのは例の遺題として出たものであった。天元術を正当に理解するために努力して成 功した和算家が、天元術の応用において一歩を進めて、ここまで来たのは、外国伝来の 知識によらずともでき得べきことであったろう。関孝和がその後を受けて、方程式の吟 味を行うたり、根数のことなどを考え及んだのは自然の進路を進んだもののように思わ れる。特に関が演段術を立てたのは偶然に提出された問題を解くために使用したのであ って、その問題は従来の天元術だけでは容易に解き得べきものでなかった。この演段術 は方程式論様のものの記述よりも数年前にできている。かつ演段術の一部として成り立 関孝和『発微算法』延宝2年(1674)刊(編者蔵)の 扉 沢ロー之『古今算法記』の15の遺題に答えた関生前 唯一の刊本.「発微」は,「釈鎖」すなわち「秘技を明 かす」と同義と解釈しうるとする人もいないではない が,関の序から明らかなように,「微意ヲ発シ」を意 味する.関の謙虚さの吐露にほかならない. った維乗法すなわち行列式の処理は西洋の数学上未だないものであって、関の発明か否 かは不明であるが、ともかく、和算上に初めて現われたものである。すでに演段術及び 維乗法が成り立ち得るほどならば、方程式論様のものの論究され得ることも、またもと より当然である。必ずしも西洋からその知識を伝来することをまたない。もしはたして 疑うべしとせば、支那及びインドの関係如何ということの方が一層重要らしいのである が、現在の歴史知識の程度においては、それも未だ問題とするに足らぬようである。こ れについては後に少しく説くこととする。  ただ少しく疑うべきは中心周の問題である。関はこれを公理的に使用しているが、前 の時代にこれが準備になり得たろうと思われるような事項が見いだされていない。しか しこの一事だけで論定することはできない。  今説いたのは和算上の知識についてのことであるが、筆算式の代数学の発達したとい う点はどうであろう。これは問題の主要点であるが、上述のごとき論断を下し得るもの ならば、この点においても、また必ずしも西洋の影響はなかったといい得ようと思われ る。  筆算式の代数学はまず演段術において初めて現われたといってよろしい。演段術は大 体において天元術で行うような仕方で方程式を作る。その天元術と違うところは、補助 未知数を使うから、今いったような方程式の係数が代数式になっていることである。従 って算木で並べることはできない。筆算式で書いて行うものとなった。しかるにかくし て現われた代数記法を見るに、『算学啓蒙』等において方程等の算法を記述する上に使 用した書き方をそのままに採用し、場合によってはこれを推し広めたものにほかならぬ。 特に記号としては勾とか股とかいうごとき漢字をそのままに記して用うることができる のであるから、字母で文句を綴る西洋で代数記号がその代表する数量の名称そのままの ものを使用することができないので記号の使用を考案することが至難であったのと同日 の談ではない。漢字の流行が和算家の代数記号使用上に大いなる便宜を与えたことは認 めないわけにはゆかない。  点竄術といえば和算上では極めて重要なものであるが、その起原についてもその真義 についても実ははなはだ不明である。しかし大体において記号を使用し筆算式に代数学 をやってゆく仕方であると見て差し支えなかろう。かく解き〔し〕得るものならば、点竄 術の代数紀法は演段術に使用されたものから起こったのである。かく日本の代数記号は 支那数学の系統を引いたもので、単に文字だけを使用せず、必ず縦に一線を引いてその 右方に文字を記す風があったのは、算木の算法を標準に取ったからであって、方程式の 書き方なども始終支那で行われた通りの形式を改めなかった。日本では西洋のように筆 算式の算術も起こらず、数字はすべてアラビア数字に拠ることをしなかった。  しかし支那では算木使用の代数学は立派な発達を遂げ、かつその演算を記載する仕方 もできたにかかわらず、一歩進んで筆算式に改めて盛んに運用することは支那ではつい に発達しなかったのに、日本でばかりその改造及び流行を見たのであった。 十三 西洋数学の影響(続き)  前章説くところのごとく、日本数学の根幹は西洋の影響でできたものでないと思われ るけれども、西洋数学の知識が全く入り来らぬわけにはゆかなかった。  支那では明末から西洋の伝道師等が盛んに幾何学、天文暦術等の西洋の学術を輸入し、 これを修むるものも断続している。伝道師等の手に成った訳書も多少日本に伝わったか も知れないが、いわゆる禁書の中に入れられたので未だ影響を与えることにならなかっ た。しかるに清の梅文鼎は『暦算全書』を作り、官撰の『数理精蘊』のごとき書物もで きて、西洋の数学をも記述したものが日本に伝わった。特に『暦算全書』のごときは訓 点さえ付され、西洋の三角法はこの書によりて日本に伝わった。『数理精纏』には対数 表も採用され、日本でも後には対数を使用することになった。球面三角並びに対数に関 する問題は和算家の注意をひき、諸書に多く見えている。  楕円に関する問題は早くからあるけれども、寛政暦作製のときに支那の『暦象考成後 篇』によりて楕円軌道の説を採用した前後の頃から、楕円に関する研究は著しく盛んに なったかとも思われる。  重心の問題もまた西洋から伝わって和算家の注意をひいたらしく、擺線の問題も洋書 を見て思いついたものであろう。少なくとも西洋天文学における星辰運行の軌道を見て からその研究は起こったものらしい。  かくのごとく、和算上には西洋の影響によって成り立った部分も少ないとはいわれぬ。 寛政以後、特に文化文政以来は西洋の暦算書が幾らも伝わった事実があり、天文暦術に おいてはラランドの天文書すら読破されているが、しかし数学の方面ではそこまでに行 かなかった。高橋|至時《よしとき》の『暦書管見』を見るに、天文書のことであるから、積分の記号 などにも出会ったことが知られるが、日本の極数術の結果と同一であるから西洋の算法 も正確なことが知られるなどと記している。文化頃に出た川井久徳の草稿にもローマ字 を記したところがあったり、また、ローマ字で印を作ったものなどがあり、白石長忠な ども同様で、それ以後にはこの種のことはよく行われ、内田五観は蘭書を所有していた 事実もあるし、その塾をマテマテカ塾と呼んだり五観の門派において詳証学と称してマ テシスと仮名を付したこともあるし、また他に度学と称して西洋まがいの数学の書物を 作ったものもあった。これらの事実から推すときは、和算は意外に西洋の影響が多いの ではないかと思われるかも知れないが、実際においてはさまで影響はなかったと思われ る。  天文方の暦術家には蘭語などのできた人もあった。しかし天文方の人々は数学のこと にはあまり関係しない。数学者には蘭学に通じた人はないようであった。内田五観は詳 証学ということをいったり、マテマテカ塾という名称は使用しても、実際蘭学の知識が どのくらいあったかは疑問である。この人でさえも蘭書を読んだのではなくして図など 見て考えただけだろうという話もある。詳証学と称した書物がはたして作られたかも知 れておらぬ。度学という書物は残っているものがあるが、もとより初歩のものである。  洋算の算術書の刊行されたのは柳河|春三及《しゆんさん》び福田理軒などの書物が初めであって、 幕末のことであった。洋算の代数書は維新前には一冊だも刊行されたものがなく、写本 で伝わったものも見ないのである。いわんや、それ以上の高等のものに至りては何等成 書の書かれたものがない。  一方において和算家が西洋の数学を如何に見ていたかも考えて見なければならぬが、 天文暦術においては支那・西洋は日本よりも優れているが、数学の一科に至りては神国 は世界に冠たりというようなことを記したものが、多く諸書に見えている。これはあな がち誇言ではあるまいと思う。日本の数学はもともと支那から伝わったものであるけれ ども、今や支那より進んでいるのは事実であった。特に、支那の新しい算書が多く日本 へ伝わっていたようでもないから、支那数学の一部分と比較すれば、益々日本の方が優 っている。西洋の数学は日本の数学に比して、すこぶる優秀であったに相違ないが、高 尚なものは語学の実力なき和算家の読破し得べき道理もなく、初歩のものはまたいうに 足らぬ。こんなわけで和算家は西洋数学の優秀なところに接触し得ず、従って何等の理 解も持たなかったのである。しからば和算家の眼中に西洋数学が日本より劣ったものに 見えたのも無理からぬことであった。内田五観のごとくマテマテカ塾という塾名を用う るほどの人でさえも、日本が最も優れているといった。和算家の間に広くこんな思想が 行き渡っていたというのは、実際西洋の数学から影響されたことの、はなはだ少なかっ たことを示す一つの証拠であろう。  支那で西洋の微積分書『代微積拾級』の訳されてから、この書は日本へ伝えられ、訓 点を付した翻刻もできた。後その原書たるルーミスの書物が伝えられ、これを読もうと しても、さらに理解ができないので支那訳書を土台として大なる努力を費やし、それか らわずかに了解し得るようになったということも伝えられている。 十四 和算の問題とその変遷  前節において和算上に西洋の影響はもとよりあるけれども、実際は意外に少ないこと であろうと述べたが、和算家の研究した問題が如何なる性質のもので如何に変遷したか を調査することは、それ自身にも極めて重要であるとともに、また外国の影響如何を決 定する上にも有力な論拠となり得るのである。  和算の栄えた二百余年間に取り扱われた問題は極めて多い。けれどもその来歴を明ら かにし変遷を尋ねるときは、少数のものから転化発展したことが知られる。今微細の点 までことごとく列挙することはできないが、主要のもの数種をあげてみよう。  一、楔形の問題はもと支那算書から伝わったもので、和算書にも早くから見えている が、諸算書に多く出ているからよほど注意されていたのである。初めは長方形のものに 限っているけれど、後には円形の底を有するものが現われ、さらに楕円底のものも取り 扱われ、初めは体積の問題が主であったが、後には円楔等の表面積も問題になり、截囗 の曲線も問題になる。この曲線は和算上には大切なものである。  二、円の弧を回転して得た立体に関する問題は関孝和の著書に初めて現われたが、こ れも諸算書に種々に論ぜられ、和算上の重要なるものである。初めは体積及び表面積の 問題であったものが、後にはその立体内に球を幾つも容れたものを問題にすることも起 こり、またその立体面の截口の曲線も論ぜられるようになった。環楕円と称する曲線は、 かくして見いだされたのである。  三、正多角形の内接円の半径と辺の長さの関係はずっと古くから問題になっているが、 後の時代まで常に論究せられ、処理方法が段々に進んだ。これに関する文献は少なくな い。  四、円周率及び円の弧に関する問題もまた最も早く現われたもので、その後種々論究 せられ、ついに円理の一科を成すに至った。円の処理が進みて楕円も同様に扱われるよ うになった。  五、球、角錐、円錐、円柱等の問題も早くからあるが、円の処理の進むにつれて円柱 を角柱にて突き貫いた体積の問題が出る。これに引き続いて円柱を円柱にて穿去したも のの問題が処理され、それに成功すると二つの円柱を一つの円柱で穿去したもの、球を 円柱で穿去したもの、角柱で穿去したもの、円錐を円柱で穿去したものなどが現われ、 初めは穿去体の体積の問題であったものが、穿去した交叉線の周、内面積などの問題も 考えられるようになる。  六、初め円の中に二小円と他の一円とを容れた問題がある。それからその二小円が等 しくないものの問題となる。かく円内に三円を容れたものから数円を環容したものにな る。この種の問題から種々異様に変わったものが生じ、また種々の面白い結果も得られ た。  七、勾股の長さを整数にて得たいとの問題がある,それが斜三角形にも広められ、他 の種々の図形の場合にもなって来た。  こうしてまだ幾らもあげることはできるが、途中から突然と発現した問題というもの は幾らもない。この種の研究を試みて新奇に現われた問題を検出し、外来のものか否か を考察することが大切であるが、和算の諸問題は大部分由来するところがあって、少な くも問題だけでも日本固有のものが多いように思われる。この問題は研究着手中である けれども、和算の問題に外来のものの少ないことだけは、あらかじめいい得られるであ ろう。もとより初めに支那から伝わったものは論外である。 十五 和算の方法とその変遷  和算家の使用した諸方法が如何なるものであって、また如何に変遷したかは最も大切 な事項であって、数学史に指を染めるほどの人ならば、これを度外におくものはないの である。従ってこの方面は最も明らかになっているが、その研究もまだまだ完成の域に 達せぬ。かつそれらの方法がはたして日本独創のものであるか、外来のものであるかを 決定することは決して容易の業ではない。日本で他の国に先だってできたものがあれば、 それは独創のものといえるが、この種のものは多くない。しかし外国にあるからといっ て、それが必ずしも外来のものであるとは決していわれぬ。どうして成り立ったかを考 え、外来の形跡があるかないかを察し、外来の影響なくとも成り立ち得たのであるか否 かの準備及び機運などを決定して、それから論じなければならぬ。  第一に維乗法すなわち西洋の行列式関係のものが西洋に先だって発達した。整数論に 関する文献は非常に多いのであるが、その中で西洋よりも先鞭を付けたものが幾らもあ って、ヂクソン氏の整数論史を見てもその事情が知られる。氏はわれわれが外国語で発 表した僅少の資料に基づいて調査されたのでも幾らか独創のものが見いだされたのであ るから、整数論関係のものだけでも精査したら、外国よりも先だってできたものがかな りあるであろう。一つの円に接する四円の六接線の関係も西洋でケージーが得たよりも 三十年も以前に日本で知られ、かつ盛んに応用されておった。他にもなお外国になかっ たもので日本で得られたものは幾らもあるであろう。これら外国に先だってできた事項 が幾らもある以上は、日本の数学は全部ことごとく外国から借りきたったものでないこ とはもちろんである。日本の数学に独創的の部分のあることはもとより事実である。  角術すなわち正多角形の算法に関するものもまたよほど発達したものであった。その 調査は一通りできているが、まだ発表しておらぬ。この事項が外国で如何に発達してい るかはまだこれを明らかにせぬが、その発達の事情から考えて日本固有に成り立ったも のであるように思われる。支那及びインド等にはこんな発達はなかったようである。  廉術または逐索術と称し、もし充分に発達すれば数学的帰納法のごとき証明法にもな り得たろうと思われるような研究方法があるが、前述の角術のごときもこの方法に訴え たもの多く、維乗法もこれにより、円理の算法中にもまたこれを採用したところがあり、 別して円内に多数の円を環容したものの問題のごときは全くこの方法によってできたの であるが、この方法の行われたことも固有の発達であろうと思われる。そうしてその結 果、幾らも面白い関係を得ている。まことに面白い仕方であるが、証明が充分にできて いるとはいわれぬ。そうして不完全帰納法は和算家の好んで用うるところであったが、 それと関係のあるところなども、日本固有の発達に属することを示すように思われる。 廉術が証明法にならないで、一種の研究方法になったのは、論理思想に短にして運用に 長じた日本人の特色の現われであるとも見られよう。逐索術の研究も着手中であるが、 まだ完成しておらぬ。  和算には幾何学らしいものはない。図形に関する問題ははなはだ多いが、概して代数 的の処理によって解くのである。その処理に当たりては初めは勾股玄の関係ばかり利用し たものであるが、後には次第に他の関係も使用されるようになり、ついには安島直円《あじまなおのぶ》が 二円と接線との関係について立てた関係式ができて幾何学的の処理上に有用なるものと なり、次いでこれに代わりて別の関係式が成り立って種々のこみいった問題が取り扱わ れ、例のケ1ジ1に先だってケ1ジ1の定理を立し得たのもこれに基づいてのことであ り、ケージーの関係を得てからは、これがまた他の問題を解くために役立つに至った。 かようにして一種の幾何学が成立しかけていた、といってもよい。極形術と称するもの は理論としては不完全で、往々誤ることもあるが、また役立つことも多かった。これに よって、そうして一歩を進めたものは西洋の反形法に類するごときものになったのであ るが、この時すでに幕末にして和算は放棄さるることとなり、なお一段の進歩を見ずに 終わった。しかもこれらはすべて日本固有に発達したものと見て差し支えないようであ る。日本の代数的幾何学には他に見ざる一種の特色があった。  円理は西洋の微積分学に対比されるもので、あるいは西洋の影響がその発達上に関係 してはおらぬか、と最も多くの疑いを寄せられるものである。しかし日本で発達した径 路をつまびらかにするときは、さまで疑わないでもよさそうである。もちろん断然いさ さかの影響もなかったとはいい得られぬが、次第に発達した各段階の前に相当に準備の あったこと、大体において支那の天元術を基礎として成り立った方法を土台とし、日本 固有らしい特色のそなわっていることなどから推して、外国の影響はなくとも、日本で 固有にあれだけのものは成り立ち得たのであろうと考える。これについては研究がまだ 不充分であるが、詳論は別に企て、準備中である。  この種の研究は、これを和算の各部分全体について試みてみるのに、どうしても和算 の発達は外国の影響が多少あったのはいうまでもないが、大体においては独特の発達を したものと見られるのである。かくして方法を調査しての結果は問題の考察からきた推 論と一致する。    十六 インド及びアラビアの関係  以上の論究において和算は大体において固有の発達をしたといい得られようと思うが、 ここに少し疑問としたいのはインドなどの関係である。この関係は従来ほとんど問題に されたことはない。しかし問題となり得るのである。  関孝和の事蹟について少し疑わしいもののあることは前に述べておいた。関が奈良で 見たという未知の算書ははたして何ものであろう。伝うるところによれば、何時の頃に 伝わったものであるかは知らぬものであったという。無論支那から伝わったもので、漢 文で記されたものに相違ない。漢文であるから関孝和が読み得たのであろう。しからば 支那のものか、もしくはインドのものの支那訳ではなかったろうか。疑いは支那、イン ド、それからやや下ってアラビアにかかわる。  支那では古来数学がしばしば起こりまたしばしば衰えた。そうして古来多くあった算 書が大部分は滅して伝を失うた。関の事蹟に対して、しばしば引き合いに出される劉宋 の祖沖之の著書も伝わらなかった一つである。最後に発展したのは宋元時代であって、 それ以後は見るかげもなく衰退し、宋元時代のものも理解されなくなるし、またこの時 代の算書中には一時伝を失い、支那では後に朝鮮版を発見して回復したものもあるし、 日本に保存されて支那にはなくなっていたものもあった。この時代のものがあるいは関 の手に入らぬともせぬ。元の『四元玉鑑』は日本へ伝わったらしくないけれども、四つ 以下の方程式を立てて消去を行うというのは関孝和の演段法とやや趣意が一致する。 『四元玉鑑』を作るほどの才能をもってしては、まだそれ以外に種々の創発術があり得 なかったであろうか。かつ授時暦の作者郭守敬のごときもよほど才能のあった偉人であ るが、その著書が多く伝わっておらぬことは記録に徴して察せられる。  授時暦に使用した原則のごときは、支那の前代からの暦術上の準備を考えるときは、 外来の影響なきも成就し得られようと思われるけれども、しかしあの時代にはアラビア の関係がある。元では支那の天文台とともに回々の天文台をも置いてあった。西域から 轍《ほう》手竈手〕も聘せられる。当時の数学の発達は根本においては断じて支那固有のもので あるが、多少の影響を受けたことはもちろんあろう。少なくもアラビアに接したことが 好個の刺激にはなったろう。アラビアの実験を尚ぶ実風〔学風〕は多少伝わったらしい。 郭守敬の作暦に際して観測の事を厳にしたのはその影響ではなかったであろうか。しか らば郭守敬またはその他の人の手でアラビアの数学が伝えられているかも知れないし、 また郭氏自身等が立派な著述があったかも知れない。しかし後の時代がはなはだしき衰 退の時期であるし、元は久しからずして滅びるから、算書のごときも伝わり難い事情が あったろう。しからばその当時のものが奈良を経て関の手に入ったことがないともしな いのである。  奈良の疑問の書物が宋元時代のもの、または当時のアラビア訳書でないとすれば、い ずれの時代かのインドの訳書ではなかったろうか。インドの数学はよほど発達したもの であった。そして隋書等にインド算書の支那訳書のあったことも明記されている。その 後唐になっては崔曇姓の人が天文方の長官ともなり、暦書の漢訳などしたこともある。 故に未知の印度算書が漢訳されて関孝和に伝わらなかったとはいわれぬ。  かくして演段法あるいは維乗法は支那でできたものではなかったろうか。関孝和の説 いている方程式論のようなものはインドまたはアラビアから伝わったのではなかろうか。 これは極めて不確実であるけれども、全くあり得ないことではなかった。  しかしまた一方においては、関孝和は従来考えられたように当時において他の学者よ り段が違って傑出していたとは考えられない。歴史の研究が次第に進むに従って、当時 の人の中にも関の業績中の一部分と同等、またはそれ以上のものを残したもののあるこ とが追々と知られてきた。維乗法のごときは、関と同時代に大阪におって説いた人もあ り、特にその人は公刊している。この時代の写本類は残存のもの極めて少なく、関孝和 の著述類は関流が栄えたために幸い幾らも保存されたのであるが、他の人達の流派はほ とんど後世に存続しないので、刊本以外の著述は一、二の例外は別としてほとんど伝わ っていない。もしそれが伝わっていたとすれば、立派なものもずいぶんとあったであろ うし、関との業績上の懸隔はさまで著しくないことが知られたであろう。維乗法のごと きはあるいは関以外の人が創意したものかも知れぬ。かく考うるときは、奈良の一件は 当時の人の業績が集められておって、関はそれを手に入れたものかも知れぬ。こう考え れば外国の関係ではなくなる。要するに維乗法は支那にあったか否かは、まだ分からぬ のであって、日本でできたものと見るのが穏やかである。  この二様の見方はできるが、そうしてこの二様の見方によって関孝和に関する疑問は 解決し得られるのであるが、この二つのいずれが成り立つにしても、これだけで日本の 数学の歴史的価値は多少動くとするも、全然没却されてしまうものではない。  この関係においてもう一つ考えて見たいのは、日本の数学がインドに似たところがあ るらしいことである。これは充分に比較してからではないと論定はできないが、とにか く、整数論、連分数、統術などの方法または結果に類似したものが幾つか存在すること を注意しておきたい。しかし類似は如何にあっても、インドと全く同一でないこともま たもちろんである。従って、たとい陰密鬥隠密〕の間にインドの影響を受けたことがある と仮に考えたにしたところで、整数論等において日本固有の発達のあったことを否定し 得られない。前に推論した結果は今の議論のためにあまり動かぬのである。 十七 帰納的推論  和算家の使用した推理の仕方には帰納的のものがはなはだ多い。前にも述べた廉術ま たは逐索術と称せらるるもののごときはそれである。角術においては五角形、六角形、 七角形と次第に各場合の方程式を作り、その諸方程式を表に現わして、それから次々の 方程式の成立する法則を推すことになっている。行列式でいえば、三行の場合から四行 の場合、五行の場合と次第に進む。円内に多数の円を環容した問題にしても円数が四つ のとき、五つの時などについてこれを解き、その次々の関係を定め、それから次へ次へ と推して一般の通術を求めるという風であった。  建部賢弘の『不休綴術』は種々の算法について数が三である場合には云々、四である 場合には云々、五である場合には云々、従ってそれから推して一般に云々の仕方を取る べきものであるというように考えて、帰納的に算法の説明を試みたもので、いわば建部 が理想とせる数学的推理の方法を教えた教科書であり、方法論の著述であるとも見られ る。この書をもって有限もしくは無限級数によりて説いたものだと説く人もあるが、論 理上そうも見られぬことはないが、そう見ただけでこの著作の真意を解し得たものとは いわれない。帰納的に推論したいという精神を寓した、意義深いものと見るのが至当で ある。和算の方法に帰納的のものが如何に多きかを考え、また最も重要な部分を占めて いることを考うるときは、『不休綴術』があれだけでまとまった一冊のものになってい るというのは、この精神を高潮するためのものであったことはいうまでもあるまいと思 われるのである。  零約術というのはまず連分数であるが、これを説く仕方を見ても、やはり同様な精神 が見える。初めに数字上の値を出しておいて、その値を処理して公式を作って行く。初 めに幼稚であったときの遣り方もそうであるし、連分数の考えが整うた頃にもやはりそ うであり、ずっと後にこれと関連して面白い公式が案出される頃になってもやはりそう であった。  円理は和算上最も大切なものであると見なされたものであるが、初めに円理で公式を 作ることになったのも、また同様の手数によったのである。その例は『括要算法』に見 える。次に級数の形になるのも、やはり同様であって、その仕方は『大成算経』等にで ている。宅間流の円理なども、皆同じ趣意が認められる。初めに数字上の値を算出して、 それから推論するという仕方を止めて、二項展開法を用いて初めから解析的の方法を適 用することになってからも、やはり帰納的の推論を避け得なかった。弧を二分した場合、 四分した場合、ハ分した場合と次第に展開法を進めるが、その次々の展開の結果を対比 して諸級数の係数を比較し、それから帰納して一般の場合を確かめ、さらに無限に推し 及ぼすという仕方である。帰納といっても、もとより不完全の帰納である。もし論理の 厳密を期するときは、これだけでははなはだ物足りない。従って西洋人の目からは、こ の解析方法が極めて不完全に見え、西洋数学の結果を知って試みたもののように、解せ らるることもありがちである。しかしながら和算家の好んで使用した論理的過程が、如 何なるものであったかを考え、なお前後の事情等を参酌するときは、ここに極めて日本 的のものがあることを認められるのである。  円理の推論上にしばしば使用される探積、すなわち諸種の有限級数の総和法において も、また帰納的の推理によって公式を得たものであった。そうしてこれを使用して円理 の諸公式が表に作られるようになるが、その作製のごときも、やはり帰納的の分子を含 んだものであった。  方程式の解法において和算家は諸種の方法を考案したものであるが、初めに推定の概 値を立てて算法を施し、その結果を用いてその算法を繰り返し、かくして次第に精密な 結果に近づくというような方法も好んで用いられた。統術、開方盈肭術、起超術、重乗 算顆術、還累術等と名づくるものはいずれもこの部類に属する。この種の例はまだ幾ら もある。  かくのごとく数字上の値からその成立の法則を推したり、特殊の場合若干を考えてそ れから一般の場合を得たり、概値から出発して次第に精密になるようにして見たり、こ んな手段を賞用したのは実に著しいことであって、ここに和算の一つの特色が現われて いるのである。 十ハ 解義と証明  刊行の和算書には方法を説明したものもあるにはあるが、しかし和算書の大部分は問 題と答術とのみ記したものである。その答術を得るための過程まで記述しては大部の書 物となりて出版費が嵩むのでやむを得なかったという事情もあろうが、一つには方法よ りも結果に重きをおいたことも関係があろう。  和算家は一つの問題を分析してその解答を得るための手段過程を演段と称した。演段 という術語は支那でも宋の頃から多少行われたようであるが、和算家もその術語を襲用 した。しかし後にはこの演段のことを解義と称するに至った。和算には演段術と称する 一種特別の算法があるから、混同を恐れてのためでもあったろう。  この演段もしくは解義については和算家は、はなはだ力《つと》めたものであった。刊本にも これを記したものがあり、写本類の多くは問題の解義を記したものである。『精要算法』 は教科書として最も広く行われたのであるが、単に問題と答術のみあげ、解義はしてい ない。和算家は門人たちにその問題の解義をさして、それで教えたのである。『点竄指 南録』もまた行われたものであるが、この書物には解義も出ているが、一冊に問題と答 術とを記し、別の所に解義がしてある。教科用の書物でなくとも、問題と答術のみ記し たものについては、和算家は競うて解義を試みる。そうして誤りを発見したり、迂遠な 所などがあれば、どしどし訂正して別の書物を公刊する。他の人はまたこの書物の問題 について解義を施し、さらに訂正を加える。これは数学上の競技の一手段ともなったが、 また和算家が問題の解義に趣味の深かったことをも示すのである。和算は大半、解義だ けで成り立ったといっても過言でない。  和算の解義はある意味において証明である。勾股玄の問題等の解義といえば、もとよ り証明にほかならぬ。勾股玄については幾多の証明が成り立っておった。他の問題に関 しても立派な証明のできているものがあるし、また幾通りの証明のあるものもある。和 算家は円柱の斜截面を側円と称したが、円錐の斜截面が側円なりや否やについては疑い もあったようで、これを証明したものもある。和算家が全く証明の精神を有せず、証明 を度外においたとはいい得られぬ。しかしギリシア以来の西洋数学に見るごとき厳密な る意味における証明という精神は、和算家の間にこれを求めることができない。解義は 必ずしも証明になっていないのである。  関孝和の『伏題』は行列式の問題が初めて現われたもので、大切なものであるが、そ の解析方法には二つの誤りがあった。その誤りの一方は関自身またはその没後幾ばくも なく訂正して著述をしたものも残っているが、一方の誤りは次の時代になってもそのま まに押し通して、およそ百年間も行われた。これはある問題に解義を施してある結果を 得た場合に、これだけで満足し、その結果が正しいか正しくないかを検証してみなかっ たからの過であった。換言すれば、解義はするが、証明は試みなかったということに帰 着する。  極形術はずっと後に成り立ったものであるが、一種の解析方法を試みて結果を得るも ので、ある場合には至って便利でないでもない。しかし誤った結果に陥ることも珍しく なかった。これは方法そのものに欠陥があるからにもよるけれども、その解義だけに満 足して、得たる結果についてその正否を検証することをしないからの罪であった。  これらは、一、二の例であるが、要するに和算家はある方法によって解義を施し、そ れである結果に到達するときは、ただちにこれを正当のものとして採用するの風があっ たのである。その結果を検証することは普通の例でなかった。  こんな事情であるから、和算の問題には答術の誤ったものが、けだし少なくない。内 田五観が二等辺梯形内に容れたる楕円の四隅に四つの円を描いて、その直径が互いに比 例することを示したが、正しいものでなかったというごときは、その一例である。和算 家の中にも実地に四つの直径の長さを算定して、その値を適用することによって、その 結果の正しいものでないことを示したものはあるが、それ以上に正しくないという立派 な証明をした人はなかった。萩原禎助のごとき有力家でさえも、この問題の解義を施し てうまく結果が得られないで、自分の工夫が足らぬのか、もしくは問題に誤りがあるの か決定しかねるといっていたほどである。  今いったごとく四直径の数字上の長さを測って、それで検証するようなやり方が、和 % 算家の間では証明によく用いられたのであった。こんな例は幾らもある。またある曲線 が楕円であることを証するためにその面積を算定し、楕円の面積と同一であるから、そ の曲線は楕円であるといったようなものもある。  和算家は諸算書の問題について解義を施し術文を訂正することが非常に流行したので あるが、その訂正されたものを見るに実際誤ったのを訂正したのもあるが、数学上の意 義からいえば異同もないのに叙述の文句のみ変更して字数の多少などやかましくいった こともある。二通りの解き方があるような場合には数学上の意味からその優劣をいわな いで、これを叙述するに要する字数の多少でその多い方は迂であるといったこともある。 この術であれば何字で書き表わされるが、かの術には何字を要するというようなことも しきりに論ぜられている。術文をなるべく簡潔に叙述すること、もしくはなるべく簡潔 に術文の叙述され得るような術を得ることに非常の努力を捧げたのであった。和算最後 の大家萩原禎助と会談したときにもしばしばこの種の事項に談話の及んだことがあった。  和算家は種々の問題を取り扱って、実際は定理と称すべきものも幾らも得ているが、 それが如何なる場合にも必ず問題の形に記され、決して叙述的命題の形に記されておら ぬことも著しいのである。 十九 日本人の論理的思想  和算家は問題の解義には力めたが、証明ということは全く企てないではな〔い〕けれど、 証明という精神があまり鋭敏なものでなく、証明の厳密を期することをしておらぬは、 前節に論じた通りである。従って過誤を犯したことも珍しくなかった。  かくのごときは決して数学の上にのみ現われたことではなかった。全く日本人の性格 からきたことである。国民の性格の最もよく現われるのは文芸や音楽の上にあるかと思 われるが、田辺尚雄氏の音楽史に関する研究から見ても日本人は感情的の民族であって、 感情的の音楽ばかり発達したことが知られる。日本の文芸もまたその通りであって、べ ーコンやエマーソンのような理《 》智に勝った大文芸家の出たためしがなく、社会一般に理 智的というよりは感情的である。宗教にしても理性的のものは発達しない。哲学倫理も 論理的に組織されず、論理学の成立しなかったのは最も著しい。因明《いんみよう》の論理学が伝わっ て多少その伝統を見たのはともかく、徳川時代のごとく諸般の学術が並び起こった時代 においてすら、論理学らしい論理学はさらに発達しなかったのである。三浦梅園の著書 中に多少見るべきものはあるにしても、もとより例外たるに過ぎない。論理学が自発的 に発達し得るためには日本人はあまりに感情的であったのである。故に一切のものが芸 術として発達し、最も理智的で没感情的であるべきはずの数学までが芸術化されて現わ れ、数学者が相率いて詩人となるというような有り様にもなったのである。西洋でもク ローネッカーやシルベスターが数学を詩歌と見なし、ヂリクレーがこれを音楽と感じた ような例もあり、また数学者にして詩を作った人も稀にはあるが、和算家のごとく、そ の大部分が傍ら詩人であったようなことは、おそらくは絶無である。  徳川時代の日本に論理学が発達しなかったばかりでなく、日本人は元来論理思想に長 じたものでないのは、今福忍氏が雑誌『東亜之光』に論ぜられた通りで、第一日本語の 組織からして論理的に発達したものでない。その言葉使いが如何に非論理的であり、ま た何事も道理によらずして感情で判断されるかは、少しく注意を払うときは容易に認め られる。  日本人の論理思想をもってして、日本の数学が証明の精神に欠如するところがあり、 過誤の少なくなかったというのはもとより当然のことであって、それにもかかわらずあ れだけの結果を得たのは、芸術的気分に支配されたことがあずかって力なきものでなか ったであろう。 二十 数学と星学  数学と星学の発達は大概相俟って進むもののように思われるが、徳川時代にも大体に おいてその傾向が認められる。バビロニア、インド、支那、アラビア等では時代によっ て多少の相違はあるけれども、概して暦術家天文家が数学の進歩に貢献したことが多か った。けれども和算の発達は、星学上の必要が割合にあずかっておらぬ。数学が進歩を 始めてから後に星学が起こってくる。それも西洋の影響が多少加わって支那の暦法が研 究され始める、数学者が暦術のことなどに注意するようになる、現行暦法の不完全なこ とが知られて、革新の機運が開ける。こんな風にして貞享の改革はできたのである。そ の改暦の功労者渋川|春海《はるみ》は数学者でなくして星学者であるが、実際その新暦法を作った ものは数学者の手に成り、渋川はこれを伝えられて改暦の運動をしたのだということで ある。かくして星学発達のために数学が起こったというよりは、数学の発達に促されて 暦術が影響を受けたといい得られる。  その後に至っても数学と星学は大体において別々の径路を取ったようである。数学者 であって暦術のことに通じた人はもとより多い。暦術に蘭係のない数学者はあるいは少 なかったであろう。建部賢弘、中根元圭、山路主住等の数学大家は星学上にも関係があ り、山路のごときは宝暦の改暦にあずかった人である。星学上の問題から数学上の方法 の成り立ったものも、建部が暦術上の必要から円周率の研究をしたこと、中根彦循の 『開方盈肭術』のごときものがあるにはある。しかしそのような例は少ないのであって、 数学者が星学を取り扱うたのは主として暦術の問題を数学的にやってみたのみに過ぎな いようである。いわば数学者の試練場となったに過ぎないのである。久留島義太のごと きは、数学者は数学の問題をやっておればよいのであるが、問題がないので暦術の問題 などをいじくることになったのは慨《なげ》かわしい、というようなこともいっている。建部、 山路等が星学にたずさわったのはこんな意味ではなかったが、ともかく、久留島の言葉 によりて数学者が如何なる考えでいたかが察せられよう。こんな有り様であるから数学 は星学暦術のために至大の影響を受けたというよりは、かえって数学の発達が暦術の発 達を誘起さすこととなったのである。数学が主にして、天文暦術はむしろ客であったと もいい得られよう。  宝暦及び寛政の改暦の頃からは、,星学の方面は西洋の知識によってよほど面目も変わ り、星学の問題によりて数学上に好影響のあったこともあるが、この頃からは天文方の 星学者は数学にはあまり干与せず、数学者はわずかに暦法などのことを、ひそかにいじ くったくらいのもので、星学上に貢献することなどもなく、別々の歩調を取ったようで ある。数学と星学との相互の関係は、まだ精査することを要するが大体こんなものであ った。  和算上においては星学上の影響を受けることが案外に少ないようなのは、日本では実 験の学問が起こらず、従って星学も実験観測によって進歩することが少なく、数学者を 動かすほどに大なる勢力とならなかったのが一因であろう。  日本では実験観測の科学の起こらなかったことは実に著しい。刀剣鍛錬の術は極めて よく発達したにもかかわらず、その鍛錬法を具体的に記述組織したものすらほとんどな いということであるが、この一事によってもその間の消息がうかがい得られる。日本で は工業の発達が著しくないのと、物を理論化せずに運用に長ずるというので、実験科学 の発達は必要でなかったので、星学もまた実験的に進むことができず、かえって芸術的 の意義において発達した数学の進歩のために反対に影響されるようなことになったもの と見てしかるべきであろう。 はない。 この事項はもとより管見に過ぎない、 深く主張するわけで 二十一 数学者の地方分布  和算は主として武士という遊食階級が一種の娯楽として開拓したのであるが、しかし 商家農家の人達にも諸大家が輩出して、数学者の大多数は江戸にいたというものの、ま た広く全国各地にも広まって、その分布は決して局部的のものではなかった。けれども その分布は決して一様でない。ある地方には幾多の大家が出たが、またある地方にはほ とんど数学を修めた人もなかったというような有り様である。これはもとより事情がな ければならない。人情風俗から経済上の事情、交通の便否、人物の輩出、奨励の有無等 幾多の要素が加わっている。故に広く人物の分布をかんがえ、その分布の事情をつまび らかにするときは、社会研究上に極めて有益な結果が得られ、教育上等に好個の参考資 料となり得るのである。しかも事はなはだ複雑にして一朝一夕に成し得べきでもなく、 また数学だけでなく諸般の事項にわたりて同時に調査する方が一層有益であるが、私は もとより数学者のみについてでも試みてみるつもりで着手している。  今著しい事情のみをあげるならば、上州は和算の諸大家の出た土地であるが、維新後 には数学者または科学的方面に多く人物が出でず、かえって文科関係の方面に人物が多 いようである。上州の諸中学校に教鞭を執れる人に聞いてみても、上州学生の数学はあ まりよくないように思われる。上州は元来小藩の分立した場所であり、政治上にかなり 圧迫も受けているし、また長脇差の本場であったことなども参酌して考えなければなら ない。こんな上州に芸術的の気分の勝った数学が起こったのはいわれなきことでない。 こんな事情のある所へ感化力ある人物が出たのが原因であったろう。  仙台藩では宝暦の頃に戸板保佑に資を給して江戸〔京都〕に上らせ、山路主住について 数学を修めさせたほどで、奨励のあったためか仙台領にはいたるところに数学が普及し て和算家の多かったことは他にほとんど比類がない。しかし数学者の多かった割にずば ぬけた人物は輩出しておらぬようである。  薩州はあの雄藩で、天文理化の学を奨励したほどのところであるけれども、和算はさ っぱり駄目であった。全くなかったといっても差し支えあるまい。土佐にも数学はなか った。長州及び佐賀にも一、二の人はあるが、いうに足らぬ。幕末に雄飛した薩長土肥 四藩に娯楽を主とした和算の発達していなかったのは、けだし注意に値する。和算は実 利的精神の勝った土地には栄えずして、理想的精神の流れているところにのみ起こった らしい。  久留米侯有馬頼憧は自身も立派な数学者であり、また藤田貞資のごとき大家を抱えな どしたが、その後久留米藩ではあまり数学が引き続いて重んぜられた様子もないし、日 向延岡の内藤侯も数学に通じ、久留島、松永の両大家を抱えてもいるし、久留島は延岡 に下って教授をしていたこともあるが、次の代には何等数学に関する事項は知られなく なり、後には数学の振るわざること他藩と毫もえらぶところがなかった。九州はいった いに実利的の精神が盛んであって、たといこの二藩におけるごとく一時は奨励があって も和算のごとき非実用的のものは永続発展し得なかったと見える。 二十二 和算研究の中心地  和算は毛利重能から始まるのであって、毛利は京都で教授した。 は毛利の門下から出る。その当時はもとより京都が中心地である。 吉田、高原、今村等 その後にも京都に幾 らも人物があり、大和郡山にも『改算記』の著者が出る。次いで大阪に島田尚政がおり、 大阪で宅間流が発達する。京都には中根元圭の一派がある。  しかし京都または京阪地方が和算研究の中心地であったというのは長い間のことでは ない。中心はたちまち江戸に移る。別して関孝和が江戸におって日本の数学は著しく発 達することになったのである。これからは江戸が和算の発達の中心になって、江戸が一 番多くの大家を輩出させたところである。諸地方に幾多の人物が出ても、地方におって は大なる勢力を他に及ぼすことはできないばかりでなく、江戸にいた人達に比して人数 においても業績においてもはるかに劣り、和算上の業績中目星しいものは大概は江戸で できたらしい。  大阪あたりには宅間流があり、京都には中根の一派がおり、金沢には大阪の関係から 起こった三池流があり、紀州には小川流があり、後には大阪で武田、福田等が覇を称え ているし、京阪地方から出た和算家の総数はかなりに多人数であるようだけれど、これ ら諸家はもちろん幾多の研究もあり幾多の業績もあげているには相違ないが、江戸の和 算に比べては決して同日の談でないのである。江戸は一旦中心になってから和算の終末 に至るまで終始その中心勢力たる地歩を失わなかった。  江戸が和算研究の中心になるのは、和算は主として武士階級の間に起こったもので、 江戸には諸国の武士が多く集まり、江戸の武士は閑散であり、また江戸では修学上の便 宜が多いから、自然に江戸が中心地として続くことができたのである。京阪地方は政治 の中心でなくなるとともに武士が多くいなくなる。それが京阪の数学の江戸に対抗し得 べからざるに至った一大原因であろう。和算は閑散なる遊食階級たる武士を中心として 発達したものなので、あんな芸術的気分のものに発達するというのも無理からぬことで あった。  江戸におって数学にたずさわった人達には諸藩の武士も少なくなかったけれど、多く は江戸詰の人々であるから、これらの人達の数学上における仕事は江戸のものと見るの がもとより至当である。  諸藩の人達は江戸詰でなくとも参覲交替などで江戸に集まるものが多く、江戸で数学 を学んで、これを地方に伝えたものも少なくない。金沢には大阪の系統を引いた三池流 があっても、富山及び大聖寺では江戸の数学を伝えておった。和算は江戸で最も多く学 修されたばかりでなく、全国各地の数学は大概江戸の数学を受けて起こったもので、い ずれも皆しからざるはなかった。仙台藩で戸板保佑を江戸【京都〕に遣わして学ばせたり、 またその他にも藩命で江戸の和算家から学んだものもあり、一私人として江戸で学んだ ものなどもその例は幾らもある。久留米侯有馬頼憧は和算家として一廉《ひとかど》の人物であるが、 もとより江戸で天文方の山路主住から学んだもので、当時随一の大家であった藤田貞資 を抱えたといっても、藤田は江戸にいたのであった。 二十三 江戸の数学と実験学科  日本では実験の学科はまず何も発達しなかった。暦術でも観測を厳にして実験検証す るということはあまりしないで、既知の事項へ数学を適用して算定するくらいのもので あった。このような間に立って発達した数学は実用的のものではなく、芸術的に発達し たのである。特に遊食の人の娯楽として発達するから益々その傾向が現われる。  しかるにこれに対して一つ注意すべき事実が認められる。徳川時代にも実験的の学科 は幾らずつか現われてくるし、また多少発達もするのであるが、その発達の跡を見るに、 芸術的の数学が江戸を中心として発達して、大阪辺ではよほど劣っていたに反して、実 験的の学科は京阪といってよいか、むしろ西の方から起こったのではないかと思われる のである。これは精査を要することであるが、一、二の例をあげていうときは、貝原益 軒は福岡から出で、将軍吉宗の天文観測の顧問になりかつ日本の楽律を作った中根元圭 は近江の人で半ば京都におり、『解体新書』翻訳以前に実地に解剖を試みて得るところ のあった山脇東洋は京都におり、日本の医学史上最も尊重すべき吉益東洞は安芸の人で 大阪〔京都〕におり、天文の観測に最も意を注いだ麻田剛立は豊後の人でまた同じく大阪 におり、その門下から高橋至時及び間重富のごとき大家が出で、この三人の手で伊能忠 敬の事業は準備が成るのであるが、その仕事が大阪で始められて江戸で完成したのであ る。砲術上弾道の研究は阿波の小出長十郎、肥後の池部啓太、丹後の人で大阪におった 田徳荘〔田結荘《たゆいのしよう》〕斉治等のごとき人物の著書中に伝わっている。電気のことを初めて伝え た平賀源内は讃岐の人であり、飛行機を作ったという伝説の伝えられたのも備前の人で あり、地下を掘って水道を通じサイフォンの理を実現したのは金沢城であり、薩藩では 理化学を奨励する。帆足万里、三浦梅園は豊後の人である。大阪の緒方塾は実験科学を 伝うる上において、けだし大なる功績があった。  これらの事実は極めて多い。諸方の人材の広く集まれる江戸においても実験科学の勃 與に対して全く何等の事蹟もないというではないけれども、上述のごとき西方諸国の著 しいものに比すれば、決して同日の談ではない。数学において江戸が研究の中心であり 数学上の最も著しい事業はほとんど全部江戸で成り立ったものとはすこぶる趣きが違う。 丸山〔円山〕派、四条派の写生画の画風が京都で発達し、江戸で発達したものでないこと もまたもとより関係があろう。  この著しい事実はどうして成り立ったであろうか。江戸もしくは江戸を中心とした東 方と、京阪を中心とした西方とにおいて、社会上の事情がすこぶる同一でないことが、 その原因でなければならぬ。長崎が唯一の貿易港で、長崎から外国の知識が伝えられる から、西の方の諸国は自然外国の学問に接触しやすいとはいえ、単にそれだけの理由か ら来たものではないようである。現今においても美術界の状態を見るに、東京の日本画 は主として古典的なるに反し、京都では写実的の傾向がうかがわれるようであるが、こ れは丸山冐出四条の流を汲んだというのみではなかろうと思われる。  かく考えて見ると、日本の西方は経済的に発達し、そして人心が著しく功利的で、ま たこせこせしているが、東方は経済の発達は後れ、遊楽的でのんびりしている。現在日 本の各地を旅行して見ても分かるが、東北地方では苗代の跡へは稲を作らないで一夏全 く遊ばせてあるのが幾らも目につくが、西の方ではこんな実例は見られない。この一事 のみでも大体の情勢は察せられる。西方の人は未知の人に対しても社交的であるが、し かし実は軽薄である。東北の方へ行くと容易に人を信じない代わりに後には極めて親密 になる。これは交通の発達したのとせぬとの結果であろう。西方はよく開けているが、 東北は冬期積雪の間に閉ざされて瞑想に耽るような風のあることもまた一つの事情であ る。かくして日本は東西によって気候・風土・経済から人情風俗まで際だって区画され る。この東西の対立は一朝一夕のことではない。蝦夷征伐、武士道の発達、鎌倉と京都 の対抗、これ等を通じての歴史からが違っている。徳川時代になっては江戸が政治の中 心となり、武士の本場となるが、経済の中心は依然として大阪及び西方から東方に移ら ぬ。現今に至りても、その傾向が未だ充分に消え去らぬのである。故に戊辰の役には西 方と東方との対抗と見られるような現象も見られた。  日本は東西によってこんな相違があるのであって、経済の進まぬ東北地方を控えて遊 食の武士を中心としての和算が江戸に栄えたに反して、文化の早く進み経済が発達し功 利的の精神に富んだ西方で実験科学の起こって来たのは決して怪しむべきでない。ひと り外国の知識に対する門戸ともいうべき長崎が西方にあるからというだけではなかった のである。  和算そのものにおいては、九州などは早く起こって早く衰え、京阪地方には芸術的色 彩が江戸に比してやや薄く、東北諸国は発達は後れたが、その代わりにずっと後までも 続いて、今日に至るまで奧羽の各地に和算を教授し、もしくは学修するものが往々にあ るが、西方においては全く見られぬのである。 二十四 実験学科の和算上における影響  和算は芸術的の気分を主として、江戸が中心になって発達し、実験学科はこれとは反 対に江戸を中心とせずして西の方から起こって来るが、しかし実験科学は元来日本には 発達しなかったのであって、天文暦術でも実験観測はあまり栄えずにかえって数学的に 処理されたような形跡がある。  日本において実験的の学問の起こらなかったことは実に著しく、ほとんど全く見るべ きものはなかった。物理や化学、それから力学等のごときものも外国の知識を伝えて 徐々に起こるのであって、それも極めて幼稚のものに過ぎなかった。高橋至時は傑出し た人物であってラランデの天文書を読破して『管見』を作ったのは日本の科学史上にお いて注意すべきことであったが、それでも物理関係の事項については多くの理解がなか ったらしい。その後『気海観瀾』等の物理学書はできるけれどもこれはいうて知れたも のである。  日本で実験科学がこんな有り様にあったことは、数学の上にもとより関係が絶無では ない。和算家が重心問題を取り扱ったり、擺線の問題に興味を持つなどは無論星学や物 理の考えが入って来たのであるけれども、これ以上にはさまでの影響がなかったようで ある。和算上に物理関係の問題はあまり多くない。  古くは象を船に乗せて水中に沈んだ深さによってその重量を考えたような問題などあ り、後には楕円体形の容器のものに水を盛ってひっくり返ることの問題や、比重関係の ものや、ある形の立体を水中に浮かばせて直立したものについての問題などが往々諸算 書に出ているから、全く物理関係の事項が和算中に現われていないとはいえないけれど も、これら物理関係の問題は正しいものもあるにはあるが、実は間違ったものも少なく ない。『円理三台』中の比重問題、『尖円豁通』の問題などがその例である。物理学の発 達が著しくなく、和算家が物理問題を正当に理解していなかったことが知られる。  暦術において楕円軌道の説は伝わっている。諸天体運行のことはもとより論究される。 これについて力学的事項も多少取り扱われないではなかった。『暦象新書』、高橋至時の 『管見』、及び日本で著述された諸暦書を見てもその事情が分かる。しかし運動というも のを連続したものと見なし、これに変数、函数の観念を立てて厳密に論じてゆくという までの思想が現われて来るまでにはなっていない。運動そのものを論ぜずして、運動し た距離とかなんかいうようなものをでき上がったものとして取り扱うのが普通であるか ら、どうしても哲学的に透徹したような考えは出てこない。これには哲学上の状態もま たもとより関係しているが、物理学または力学の考えが進んで来なかったということは 争われないのである。こんな事情であったことは日本の数学上に大いなる関係がある。  和算の発達上円理は最も重要視されるもので、西洋の微積分学にも比較されるのであ るが、この円理の様式が今いった事情によって著しく限定されている。西洋の微積分学 は運動のことを論じたり、曲線へ接線を引くことなどの問題から誘発されて、極微部分 の性質を考うることが大いにあずかっているけれども、日本では弧の長さまたは面積と いう場合に限られて、定積分の格段の場合というようなものしかできてこない。従って 西洋で微分学も発達し、また不定積分も考えられたのと同様にはならなかった。これは 単に結果を得るだけが眼目であって、定積分を使用して試みたのと同じような結果はず いぶん巧みに得ているけれども、積分学といったような立派な学科になることもできな かったのである。  こんな結果になるのは物理学の考えが足らないで、誘発された問題の違っていること が一大原因であろうが、また一つには哲学思想の貧弱であったことが原因になったとい うことができよう。哲学思想の貧弱なことには物理学的の観念が起こってこないことも、 もとより関係している。 二十五 哲学思想  江戸時代には支那の諸種哲学は、もとより伝わっておった。朱子学派は当時の哲学で あって、最も広まっているけれども、古学派もあれば陽明学派もあり、儒学の流行は広 く全国各地に行き渡って、決して和算の広まったくらいのものではなかった。従って儒 学者として傑出した人物も少なくない。そうして各々特色もそなわっておった。けれど も大体において支那の学問を尊重し、これを遵奉したのであって、日本独特の哲学体系 を組織するほどのものではなかった。日本の国情、民俗に適するように同化改造するこ とはあり、日本の社会を基礎として適当の意見をも出し、実際に役立つような形のもの にはなっているけれども、ここに実際社会上の適用に長じていることはうかがわれるが、 純哲学上の学説の樹立に至りては支那の諸先哲に一籌を輸したものであった。これが江 戸時代の全体を通じてのわが国哲学界の実情である。当時の哲学者は実地運用の上には 優れた技能があったけれども、哲学的思索には深刻なものがなかったのである。明治大 正の時代になっても、この事情はあまり変わっていないかと思われる。  哲学すでにしかりである。他のすべての学科においても、おそらくは同様であろう。 新井白石が歴史研究上または経済上の原則において非凡の見識を持っておったような例 はありもするが、大体において一切のものがすべて実地の運用に巧妙なのであって、理 論の樹立に長じているものではないのである。これはひとり江戸時代だけにかぎってい ない。仏教でも外国のものをそのままに受け入れてこれを同化改造したのであって、日 本ではたしてどれだけの教理ができたであろうか。日清日露の戦役を見ても、ほとんど 外国の戦術を踏襲して、あまり新機軸を出したことも認められないが、しかも実際にお いて立派な戦捷を収めて、よく運用の妙を尽くしたのであった。日本人は如何なるもの でも他から受け入れてよくこれを運用する。その実例は幾らでもある。事々物々ほとん どしからざるものはない。しからば江戸時代の哲学があんなものであったのは当然のこ とであった。どこまでも理智的でなくして技能的である。  哲学そのものがすでにこんな状態にあるのだから、和算家の間にも多少数理哲学然た るものの考えがないでもないが、和算の全時代を通じて見るべきものはさらになかった。 そうして和算家の中に儒者として有力の人物もないし、儒者が和算に貢献したことも少 ない。西洋の数学者が多くは哲学に通じ、哲学大家で兼ねて数学の大家であった人の多 いのとは同日の談でない。支那でも数学と儒学を兼ねた人物が幾らもあるが、日本では よほど違っておった。そうして和算は学としてよりも術として発達したのであった。  和算の当時、数学という言葉もあれば、算学、算術、算法などいう言葉もあった。い ずれも支那から伝わった術語である。しかし最も広く行われたのは算法というので、和 算書はほとんど全部「算法何々」といわなければ「何々算法」という表題を持っている。 『算学小筌』などいうのもあるが、こんな例は極めて少ない。そうして和算の方法術理 について考えても、招差法、適尽法など法字のついたのや、廉術、逐索術、零約術、傍 斜術などのごとく術字のついたのが多く、円理といって理の字を用いたごときは稀有の ことである。それもまたただちに円理弧背術といったり、または算法円理云々とくる。 和算には法または術の字が付きものである。今の数学では定理になるべきものでも、和 算ではすべてその関係中のあるものを知って他のものを問う形の問題になっておって、 得るところの結果をば何々術といっているし、問題の解をいい表わす事項は必ず「術日 云々」と記されるのである。和算は術として終始している。  和算のこの態度は、すべてが技能的である日本のものとしては極めて自然のことであ った。和算は理論としては支那のものを土台として、これを改造同化したのであるが、 しかも支那で見ざる方面に発達し、応用の才を現わしている。これは支那の美術を学ん で、しかも特色あるものを作ったことや、支那の医学を学んでやはり特色のあったのに も比すべきである。  こんな風で、すでに深刻独創的の哲学がないところに、数学そのものも学理的という よりは、法であり、術であり、技能的であったからには、数学上の観念も深刻透徹のも のが発現しようはずもなく、円理のごとき術理は成立しながらも、いたずらにこれが運 用に長ずるばかりで、西洋の微積分学のような組織あるものにならなかったのは、やむ を得ざる勢いであった。 二十六 知識を尊重する精神の欠乏  日本は論理の進まなかった国であり、哲学は独創の体系を作らずして実地に活用する ことを尊び、すべてのものが理論的にならないで運用することに長じたものであって、 数学もまたその数に漏れず、理論的に発達したというよりも、芸術化されて問題の処理 などが進んだのであるが、武士は算盤を手にすることを恥じたほどで、数学は卑しまれ つつ発達したのであった。数学が尊ばれ、数学者が重んぜられた、というようなことは ほとんどないのである。数学のために多少地位を得た人や、多少待遇を進められた人な どが、絶無ではないが、概して数学者は貧苦に甘んじて、世の軽蔑をも意とせず、一心 にこれが開拓を楽しんだのであった。  この事情はけだし和算においてだけのことではない。日本ではいったいに知識や学問 を楽しむという美風はあるが、これを尊ぶの精神はすこぶる欠如しているのではないか と思われる。明治大正時代になってもその風は決して改まらぬ。これについては特に一 篇の文を起草している。  これについて、和算家の間に行われた一種の風習が面白い関係を持っている。和算書 中の刊本は大概「甲某閲、乙某編、丙某訂」というような署名になっているが、実際に おいては乙某の著述ではなくして甲某の手に成り、丙某に至りては単に姓名を記されて いるだけに過ぎないのが多いようである。『算法新書』は、千葉胤秀編となっているが、 実際は閲者として署名されている長谷川|寛《ひろし》の著述であるとはあまねく伝えられているの である。こんな例はいずれも皆しかりで、白石長忠閲、岩井重遠編の『算法雑爼』が実 際白石の著述であることは、白石の書状によって極めて明白である。算書中に付録など を付けて、著者の門人多数者の名で算題を列挙したものなども、大概は署名者の業績で はなく、師匠の作ったものだと信ぜられている。算額流行のことは前に説いたが、算額 には某門人某々という名前で、諸問題の答術をしたものが多い。神前に捧げるのである から正直にやってありそうなものであるが、実際は著書の付録などに出ているのと同趣 意で署名者の手に成ったものでない。算額をあげたときの事情はまだ諸所で伝わってい るが、大概どこでも同様に聞くのである。  和算家の間にかく実際の作者と名義の作者と一致せざるものの多かったのは、明治大 正時代に無名の書生の著訳が老大家の名義で出版される風のあったことと同じである。 いずれも主として経済上の事情から来ているが、要するに虚偽を意とせざるの風あるこ とをまぬがれぬ。最も論理的でまた最も正直であるべきはずの数学者ですらそうなのだ から、他は推して知るべきである。和算家自身すでにあんな虚偽に慣れているほどで、 知識の重んずべきことを知らないのであって、和算の重んぜられなかったのもまことに やむを得ないのである。日本人のこの性格は淵源するところ深く、近くは文相二枚舌事 件の起こったのも偶然ではなく、虚偽を意とせざるがために社会全般にわたって多くの 弊害がかもされている。和算家の間にあんな風の行われたのはただその一つの発現であ ったと見るべきである。 二十七 単純化の傾向  和算は芸術的の意味が多く、理論としては短であるけれども、しかし見るべきものが 必ずしも少なかった、とはいわれぬ。術として考えられ、学としての意味は少なかった ようでもあるが、しかし次第に純化され、簡単化されて理論的になってゆくような傾向 はあった。  和算の初期には立積と面積と長さとその平方根とを加減してどうするなどいうような 妙な問題もあって、無闇に複雑にするのが高尚でもあるかのように考え、千何百次とい うような方程式を得るものもあったが、次第に複雑を避けて簡単にしたいという傾向が 進んでくる。関孝和のごときもこの精神が見られる。そうして久留島義太などになると その精神は益々進み、安島直円に至りてはよほど和算を単純化するの功を奏した。初め にはよほどの高次の式を得たものが、次第に低次の式で解き得られることになって、安 島等の時にはずっと簡単なものになったような実例もある。安島と同時代の会田安明な どになると簡単を尊ぶのあまり、術文の字数が一字でも少ないのを喜ぶようなことにま でなった。これはもとより行き過ぎたのであるが、確かにその精神の現われである。こ ういう風になって通術ということが尊ばれるようになる。通術とは種々の場合に通じて 適用し得らるべき術のことである。すなわち一般に通ずる術ということである。益々一 般のものを得んとする理想は和算家もこれを抱き、そうして実現につとめたのである。 この努力はすなわち科学的精神にほかならぬ。故に和算は概して個々別々の性質を有し て組織が欠けているらしく見えるけれども、全然乱雑なものでは決してなかった。  和算発達の順序から見ても、関孝和が初期以来の発達をまとめて後の時代を控えてい るような形であって、一つの焦点を形造っていると見れば、関孝和以来の発達を受けて 第二の焦点となったのが安島直円で、安島がかなりにまとまった方法を立てたのが、そ の後の時代の発足点になっている。そうして安島に至って単純化の実現が著しくあげら れたのであった。  一つの例として幾何学的事項の取り扱い方のことをあげてみよう。初めは勾股玄のみ 使ったので、図形に関する問題も代数的に取り扱ったのであって、あまり取りまとまっ たものはなかった。しかるに追々に式の簡単を喜ぶようになって、正多角形の事項など は通術ができるようになる。廉術等から幾何学的の関係も発見される。安島直円の手で 傍斜術というものが成り、幾多の問題に適用し得ることになるが、後には別の傍斜術が できて種々のこみいった問題を解き、四円六接線すなわちケージーの定理をも得た。そ の関係を使ってまた別の問題が解ける。それから極形術もできる。『観新考算変』に見 るごとき方法も現われた。こうして幾何学的図形の取り扱いは西洋の幾何学とは違った 過程を成して進んだのである。西洋の幾何学のようにまとまってはいないし、また一歩 一歩に証明を厳にして組織的に演繹体系を構成したものにはならぬけれども、ある原則 の下に統一されて、ある程度までは科学的に意義ある発達を成しつつあったといい得ら れぬことはないのである。 二十ハ 代数型と幾何型  和算は支那の数学を土台としたもので、支那の数学は代数の発達が特色であるから、 和算もまた支那数学の後を受けて、代数学及びその系統を引いた円理が発達したのであ る。幾何学的の事項でも概して代数的に取り扱っている。こんな観察点から考えると、 和算はどこまでも、代数的の色彩が勝っているように見える。これはもとより一面観で ある。  しかしまた他の方から見ると、和算家の取り扱った問題には幾何学的の図形に関係し たものがすこぶる多い。ほとんど大部分がそうであった。これは、図形のことに趣味が あったからにほかならぬ。その幾何学的図形に関する問題または解義において、何等の 説明をも用いないでただちに「如図云々」と説いているものが多い。これは視覚型の性 格の現われたものであろう。絵入りの算書の多いというのも同じ傾向が大いに関係して いる。こんな事情であるからこそ、幾何学らしいものはないにもかかわらず、また証明 という考えは幼稚であるにもかかわらず、一種固有の幾何学的組織に進まんとする傾向 も現われたのである。また容題と称して円や方形の中に他の図形を容れたものの問題が 大いに流行することともなったのである。従って、幾何学に対する能力が全く欠如して いたわけではない。故に西洋の数学が伝わってからは幾何学的方面も著しく取り入れら れ、菊池博士のごとき幾何学者も出れば、沢山勇三郎氏のごとき幾何学問題にのみ没頭 する人の発現をも見られるわけである。  元来数学者には代数型と幾何型との区別がある。これはポアンカレーもいっている。 個々の人にこの区別があるばかりでなく、ギリシアは幾何型、インドは代数型であった ような著しい実例もある。しかるに和算の発達上には上述のごとき事情があって、はっ きりそのいずれが著しいかを決定するには困難であるが、要するに、あまりいずれへも 偏していないのではないかとも思われる。  故に西洋の数学が伝わってからもある人は幾何学者となり、ある人は代数的の方面に 長じているようなことはあるが、ともかく、一方にのみ偏しないで数学諸般の方面を適 宜に取り入れ得ている。この結果になることは和算時代においてその徴候が現われてい たといっても差し支えなかろうと思われる。 二十九 和算の廃滅  和算は江戸時代に栄えたもので、維新後には和算は廃れ、西洋数学がこれに代わるに 至った。西洋の数学は維新前から少しずつ伝わっていたけれども、和算の終末に至るま ではあまり大なる勢力を持っていなかった。しかるに維新の頃になって和算を棄てて西 洋数学を採用することになる。諸学校の教科においてそうなったのである。初めに幕府 で設けた海軍の講習所などでそうやったので、諸学校の置かれるようになっても、和算 をば全く棄ててしまった。というのは、海軍でも、また諸学校でも、主として外国の技 能を学ばなければならぬので、自然に西洋数学を知る必要が起こったのでやむを得なか ったのである。もちろん当時の知識としては和算が洋算より劣っていたとはいわれぬ。 しかもこの実際上の必要があるために大英断をもって洋算が採用された。数学だけの状 態から見ては、この変革の理由はあまり理解されないが、他の実験科学等のことから考 えて見ればもちろん当然であった。  大化の新政及び維新の改革をさえ、大なる変乱を惹起することなしに、断行し得た日 本民族であるから、この政治上社会上の改革に伴いて、数学上の改革の断行され得たの は怪しむに足らない。  かくして諸学校で洋算が採用されるようになると和算家は次第に影を潜めた。洋算も 多くは和算出身の人によりて学ばれたのである。しかし維新後に士族の特権が廃止され てから、士族の反抗がないでもなかったが西南役で全く挫けてしまったように、和算家 の中には洋算に対して反抗の気焔をあげんとするものもあったけれど、大勢は如何とも することができないで、これから新たに和算家になるものもなく、和算の老大家は次第 に死滅して、和算はここに終わりを告げたのであった。  和算が捨てられて洋算の時代になると、数学の研究は一時は多少衰えたかと思われる けれど、幾ばくもなくして、新しい研究が現われることとなって、わが国の数学は面目 を改めることになった。    三十 和算時代と明治・大正時代  江戸には和算が発達した。元来支那の数学を基礎として進んだものであるけれども、 日本固有の特色も現われ、はなはだ見るべきものであった。もとよりこれを西洋の数学 に比すれば、はなはだしく見劣りもするが、しかし西洋では発達の期間も日本よりはは るかに久しく、かつ英・仏・独・伊等の国々がそれぞれ変わった社会状態と国民の性格 とをもって、互いに相補いつつ進んだのであるから、よほど有利な条件の下にあったと いうことも認められなければならぬ。しからば和算が孤立した国土の中で、経済の状態 も諸外国に比して有望でなかった間に、あれだけの発達を遂げたのは極めて推称に値す る。和算がこれだけの発達をする間に実験関係の諸学科は多く見るべきものがなかった。  しかるに江戸時代が終わってからは、西洋の学問が稻々として入り来り、和算は廃れ て西洋数学がこれに代わる。実験学科も著しく這入って来る。西洋風の数学と実験学科 と相並んで進むこととなった。  かくして明治・大正時代の数学はもちろん和算当時の比ではない。すこぶる面目を改 めた。しかしながら数学の状態よりも物理学等の実験諸学科の方が一歩をぬきんでたの ではないかとの感がある。どうしてこんなに主客転倒の有り様になったのであろうか。 これには社会状態の変化がここに大なる関係を有する。  和算時代には商人階級が台頭して経済生活は著しく違って来たには相違ないが、まだ 工芸が大いに起こるということにならない。従って機械だの製造だのいうものの必要が 少なかった。実験学科によりて社会を運転し、もしくは支持するというところにはなっ ていなかったのである。しかるに西洋の勢力に接触する。これと対抗するためには科学 的の知識が足らない。開国の必要はこれから生ずる。かくして維新の改革を来し、明治 の時代になるのであるが、明治時代は西洋との対抗が最大の急務であり、よく国力を維 持して発展し得るためにはすべて科学的知識によらなければならない。故に西洋の学問 が奨励される。実験の学科特に応用の諸学科は最も重きをなさざるを得ぬ。この社会の 必要に応じて物理化学等の実験諸学科は長足の進歩を遂げたのである。  しかるに数学はどうであるか。もとより社会の進運に必要であるから相当に奨励もさ れ、また進歩を見ないでもなかったのであるが、しかしその社会上の必要はむしろ間接 であって実験諸学科のごとく直接の必要を感ずることが少ない。この事情はすなわち数 学をして他の諸学科よりも一歩を後れたかの観あらしむるに至ったゆえんの一因である。  けれどもこれについてなお考察を要することがある。和算家は主として武士のものず きに従事したものであるが、しかし他の諸階級からも多くの人物が輩出して、いわば国 民的努力の結晶であった。和算が奨励を待たずして発達したのはこれがためである。和 算には幾多の流派があった。秘伝ということもあった。これは封建制度と家族主義の下 に発達したことの反映であって如何にもやむを得ないのであるが、しかし必ずしも流派 の伝統ばかりに支配されたわけでない。久留島義太が流派外に卓立したことや、会田安 明が流派に反抗して自ら大流派を立てたごときは著しいことであった。それに一流派に 属しながら、また他流派を学ぶこともできた。会田安明が寛政の三奇人等と前後して台 頭したのは意味あることである。会田の前には有馬頼憧が関流の秘伝を破って『拾磯算 法』を公刊したこともあり、会田は関流の学閥に敵意をはさんでこれと争いつつ衆望を 一身に集めることができて、その新流派ははなはだ栄えたばかりでなく、これから数学 は著しく民間に普及するに至った。これ勤王論の起こったのも同じく国民自覚の高まっ たために起こった事件であって、閥族に対する反抗の気運に乗じたので、関流に対する 抗争には力強い根底があり、そうして大なる力となり得たのである。  会田の争いが動機となってか、はた社会状態の変わったためであるかはともかくとし て、寛政より文化文政となるに従い和算は著しく世に広まり、社会の各階級から、また 全国の各地から和算家が輩出したのは事実である。  故に和算は一方には遊食階級たる武士を中心として、この階級の産物たる色彩も濃厚 ではあるが、また一方には武士であっても何であっても、武士としての仕事ではなく、 等しく一私人としての仕事であったこともまた否定すべきでない。  しかるに維新後には事情が一変した。武士支配の封建制度は破れて四民平等の世界に なる。故に諸方から多くの人材が輩出して数学でもまたその他諸般の学科でも学修する ことになるから、一方においては平民時代の現出であるが、しかし諸般の制度が制定さ れて学問の研究は専門学者の専門職業というような形になってくる。生存の競争は次第 に激しくなり、もはや遊食階級の閑事業たることを許さぬ。従って官立大学が自然に中 心になるようになった。数学においても実際その通りになっている。故に平民の仕事で はなくして知識的貴族ともいうべきものの出現となった。ここにおいてか強固なる基礎 の上における制度と設備が大なる影響を与えることとなり、そうして主宰者の人物が著 しく働くこととなる。数学が他の実験学科に一籌を輸するごとき観があるのは、この設 備において及ばざるところのあったのも一原因であるが、人物の如何もまたはなはだ影 響している。大学紀要並びに数物会記事に数学の論文が至って少ないのは著しい。東北 大学の開設以来同大学を中心として数学の研究は再び活気を恢復しつつあるように見え 年 三十一 和算と後の実験学科  和算時代には数学のみ栄えて実験学科は微々として振るわなかったのに、今では数学 よりもかえって実験学科の方が振興してきた。これは社会上の事情からきたことではあ るが、維新の前後によって日本人の能力が変わったというのではもとよりないから、和 算時代にはその素質のあったことはもちろんであろう。この素質は和算の上にも現われ ている。  和算には帰納的の処理の多いことは前に述べておいた。この帰納的の処理方法はすな わち実験学科の学修に当たってただちに当てはまるのである。そうして和算家は種々の 問題を取り扱うに色々な仕方をやってみて、できるまで試みるという風があった。故に 和算の教授には問題を出して自分でそれをやらすのであって、手を取って教えるような ことはしておらぬ。種々にやってみてできるまで努力する。まあ何かなしに数学の問題 の上に実験を施したのであった。この色々にやってみて結果を改めて行くのは日本では 一切のことに適用される仕方である。それにある場合には和算家は物の形について研究 するのに、餅を高い所から落として、へちゃげた形を観察し実験を試みたこともあった ということである。  暦術は、初めに実験的のことをあまりやらなかった。しかし麻田剛立のごときは観測 を重んじているし、西の方から実験的学問の気風が次第に進んだことも前に述べたが、 高橋至時、伊能忠敬等のごときは暦術及び測量のことについて単に伝習的もしくは外来 の知識を襲用し、よくこれを運用したというばかりでなく、実験的に色々のことをやっ て沿海測量の大業も成り立ったのである。伊能の事業はその結果が立派なものであった というだけではなく、日本人は実験学科の研究においても堪能なるものであることを示 すところの生きた実例であったのである。  和算家の使用した手段の精神といい、伊能の実現といい、当時において維新後の実験 科学のまさに隆盛を見るべきことは当然予期せられ得たのである。ただ江戸時代には実 験科学の勃與すべき社会上の要素が未だそなわらないので、発達の速度を速めなかった のみである。  故に外国の刺激があり、外国の知識も伝わり、そしてこれを必要とする原因が具備し た維新後になっては、江戸時代に当時の社会状態の反映であった遊楽的気分の数学より も、かえって実験学科の方面において見るべき発達を将来することとなるのも決して怪 しむべきものではないのである。    三十二結論  以上、幾多の項目に分かって説いてきた事柄をつづめていえば、次のような結論に達 する。  和算は徳川時代の産物であるけれども、それ以前においても日本人はすでに数、また は数学的事項に趣味がないものではなく、刺激さえあれば数学の発達し得べき素質を持 っていたのである。けれども日本は農業国であって、商工業の発達が著しくないから、 数学の必要に迫られなかったものであろう。鎌倉時代の頃から頼母子などのことが現わ れ、利息計算のことからでも数学が発達してよさそうなものであるが、まだそれだけで 発達するようにはならなかったらしい。あるいは多少の数学はあったであろうが、伝わ っておらぬ。  しかるに戦国時代の頃から経済は発達する。商工業も開ける。検地水利などの必要も 起こる。築城その他軍事上の関係もある。数学は大いにその必要を感ぜられざるを得な い。そうして社会の状態は一変し、個人の自覚が大いに高まって、諸般の学術も発達を 始める。この時に当たって文禄の役が起こり、支那・朝鮮の文化に接触する。支那の算 書も伝わり、算盤も伝えられるという風で、ここに数学の学習が始まる。こうして江戸 時代の和算は起こったのである。  和算はもと社会の必要上から実用の目的をもって始まったもので、和算の問題には実 用上のものが極めて多いのであるが、しかし実用的でない趣味の問題も初めから現われ て、実用上のものよりも非実用的のものが一層の発達をしたのであった。これは和算の 起こらない遠い昔からの傾向が発現したので、いわば国民的趣味から来ているが、また 江戸時代には勘定方の人達が初めは職務上から多少学修を始めたのが動機になって必要 以上のところまで深入りするに至ったなどが中心になり、武士という遊食階級を中心に しているから、自然に道楽としての気分が多大に現われたのであった。従って和算には 芸術的の意味が深い。  日本は元来論理学の発達しなかった国で、言語も思想も至って論理的でない。従って 数学においても証明という考えは発達せず、推理上取り扱い上の欠陥も少なくないが、 一つの問題に出会うときは、またこれに類似したものを考え、一つの方法でできなけれ ば、他の方法に訴えるという風で、問題を解くことに、はなはだ苦心したことでもあり、 帰納的の取り扱いをしたことが極めて多いのであって、これが和算上に一面の特色を与 えているが、また後になって実験学科の伝わるに及んで、よくこれを理解し開拓すべき 能力はこの態度の上にすでに現われていたかとも思われる。和算家がこんな態度を取っ たことは、よく支那から伝わった数学を改造し、そうして徐々に改良を加えつつ、次第 に理論化するに至った。日本には独特の哲学がなく、外来の哲学によりてこれを改造同 化し、よく実地に運用したものであるが、こんなことでは深刻な思想はできない。従っ て哲学の上にも意義深い観念が発達して急激な進歩を成したようなことはないが、しか し数学においても若干の原則や方法を巧みに運用し、そうしてその原則や方法にも少し ずつ改造を施すこともできて、次第に単純となり一般となるの傾向が現われたのであっ た。和算の繁栄は近々二百余年に過ぎないので、しかも外国の関係から離れ、孤立して 進んだので、極めて不利の地位にいたにもかかわらず、その割合には結果の見るべきも のがあった。もし今少し長い期間にわたりて発達を継続し得たならば、おそらくはさら に優越なるものができたに相違ないのである。この発達の継続は維新後における西洋数 学の学習と同化との上に現われたのである。維新後の数学は、もとより和算と同日の談 ではないが、しかし前に発達しなかった実験科学よりも、今ではかえって遜色があるか のうらみがないでもない。これは社会状態の変化に伴いて実験学科が差し迫って要求さ れ、従って奨励が行き届いて便宜が多いのに反して、数学はさまで要求されないし、奨 励の行き届かなかったことが原因している。 和算の社会的・芸術的特性について  〈一和算とは〉  日本の数学を普通に和算という。和算とは洋算に対しての名称であり、主として維新 後に呼びなされた。けれどもこの名称の行われたのは、数学がひとり西洋伝来のものの みにあらず、わが国にも前から厳として存在し、価値の高いものであったことを、この 名称によって指示しているのである。西洋の数学が学校教科に採用されつつある頃に、 かくのごとき現象の見られたのは決して無意義のことでない。  和算というのは前にもいわれたことがある。その頃には漢算に対する和算であり、ま た和術もしくは倭術とも称した。天元術の器械的代数学に依頼するものは漢算であり、 支那伝来の算法であるが、天元術の高次方程式を避けて簡便に算盤の解法に訴え得るも のを賞用して、これを和術と呼んだのである。この点にいわゆる和算、すなわち日本の 数学の理想が極めて明瞭に顕われている。単純化を貴ぶ精神が無くして、なんぞ、この 種のことが起きて来ようぞ。算盤は支那で行われ、わが国へは支那から伝えたことに疑 いはないが、しかし支那では日常の計算用に行われたのみに過ぎない算盤が、日本では 複雑な数学の単純化のために重用せられ、そのために方程式の逐次近似解法や級数展開 法の発達を促すことにもなった。その結果は極めて重大である。しかも支那ではそうい う事情はついに見られなかった。これ故に特に和術、和算の名称が用いられ、漢算と区 別しようと企てたのも、当然のことであろう。その区別を立てた和算家の間に、支那で は見られなかった特殊の発達が顕現したのも、自然の勢いであったろう。  〈二和算から洋算へ〉  事情すでにかくのごとくなるが故に、天文暦術においては支那西洋は優れているけれ ども、数学の一科に至ってはわが神州は世界に冠たりと考え、優秀な能力を自ら誇った ものであるが、少なくも支那に対しては、当然の誇りであった。西洋の天文暦術や理化 学、航海砲術等が盛んに学習されたにもかかわらず、和算家が依然として多く西洋から 学ぶことをしなかったのも、}方にはこの自負心あるがためであったろう。もちろん、 三角法や対数などは西洋から伝えられたものを好んで研究し教授し、これを卑しむとか、 これを避けようとしたのでもないから、ことさらに西洋の数学に接触しないように努め たわけでもないが、天文暦術家などに比して、その接触の機会に乏しかったという事情 もあるが、常に独特の優秀観を有するが故に、悠然として独自の道を進むこともできた 和算の社会的・芸術的特性について のであったろう。  故に西洋数学の学習が大勢上から必要になってからもこれに対して和算と称して、一 時は対抗の態度も現われないでは済むまい。しかし学科課程上の西洋数学の採用は世界 の角逐場裏に出て、科学の力で世界と争わなければならぬという状態になったので、軍事 や工芸など学ぶものの必要からどうしても、西洋の数学が必要であるから、そのための 必須のことであって、ひとり和算家の力でその大勢の赴くところを阻止し得べくもない のであった。故に高久守静のごとき極端の和算主義者は極めて強く反抗したにかかわら ず、和算の有力家中には自ら洋算を修めて、その教授の任に当たったものも少なからず、 和算家は次第に凋落し、ついに明治二十年前後の頃に至って和算の勢力は地に堕ち、西 洋数学の教授法は整い、新しく研究の業績もあげられることになるのである。故に維新 後から明治二十年過ぎの頃までは、学校教科書の整頓と、教科書の作製と、西洋数学書 の翻訳などが最も主要な事項となる。鏡光照のごとき和算時代に相当の独創能力を発揮 した人物も独自の研究を止めて、数学講議講義〕録の発行等に全力を集中するようにな った。川北朝鄰、岡本|則録《のりぶみ》、遠藤利貞、関囗|開《ひらく》などという面々もやはり同様の傾向をた どった。長沢亀之助、上野清、中条澄清、山本信実などという人達が教科書作者として 現われるのも、この時代の産物であった。川北朝郵は和算家としての名声をにないつつ、 洋算の造詣は深からず、かつ外国語の素養もないので、初め上野清と合同して諸算書の 翻訳刊行を企て、上野と衝突するに及んで、門下の後進たる長沢亀之助をしてそのこと に当たらしめ、長沢の訳したものを、川北が浄書し校閲の銘打って、わが手でこれを発 行し洋算普及の上に少なからざる効果をもたらした。この一事から見ても、その当時に は和算家としての川北朝郵の名望が洋算普及の上に効力のあったという著しい事実を思 うべく、その事業の進行につれて長沢亀之助は造詣を深くし、また株があがって教科書 作者としての重要な地歩を成すこととなった。しかるに川北朝鄰はすでにして陸軍の教 官たる地位を失い大阪に行って和算教授の塾を開かんとしたこともあるが、再び陸地測 量部の事業に従事することになって、その塾は実現しないで終わった。しかも過渡期に おける和算家の役目を表現しているものとしては、好個の一標本たるを失わぬであろう。  一方には長沢、上野、中条、鏡、田中|矢徳等《のぶよし》のごとき民間の数学教育家ないしは教科 書著訳者が盛んに出現すると共に、やや後れて菊池大麓、寺尾寿、藤沢利喜太郎等のご とき大学教授にして、中等教科書の作製に深き興味を感じ、多大の研究を積んで良教科 書を編纂し、一世を風靡するという有り様となった。その努力の跡は、長沢亀之助等が 和算の社会的・芸術的特性について 驚くべき短時日の間に一、二の原書から手軽に作りだすごとき比ではなかった。しかも 堂々たる大学教授が相率いて中等教科書の作者になったというのも、いかにその事業が 重要なことであり、任務の重いものであったかを語る。  これら明治維新後より同三十五年に至るまでのわが国の数学教育史については、理学 博士小倉金之助氏著『数学教育史』に新研究が説かれているから、私は識者のこれを参 照されんことを望み、併せて社会学者の側から適切な評論の出ることを期待する。同書 には明治三十五年に数学教授要目が制定されたが、時の文部大臣菊池大麓及び大学教授 藤沢利喜太郎編纂の教科書の内容に近いものであることを指摘し、かつ欧米諸国で数学 教授の改革運動が始まっており、その要目の規定は世界の大勢に逆行したものであった として筆をおく。小倉博士のこの書は、すこぶる数学教育界の注意をひき、教授上に少 なからざる参考の料とならんとするの機運が見える。  〈三和算の起こり〉  和算は支那の数学を基礎として発達した。そうして全く江戸時代のものであった。奈 良朝時代の頃にも支那の制度によって数学が教授されたこともあるが、その実行の程度 は今においてこれをつまびらかにすることができない。しかもさまで行われたものでは なかったらしい。鎌倉、室町の武家時代には数学に関する事蹟の知られたものも少なく、 かつさまで見るべきものはなかったらしい。暦法上において一の宣明暦を採用して七、 ハ百年という長い年期間にわたって、ついにこれを改変しなかったことからでも、その 事情は充分に察し得られる。  武家時代の社会状態は、応仁乱後になると著しく変動する。旧勢力が倒れて新勢力が これに代わり、軍事や経済生活上にも新しい活動を見る。美術も発達すれば、医学もま たその面目を一新する。この時に当たって数学もまた発達しなければなるまいと思われ る。けれどもほとんどその史実に接することができない。ただ大導寺駿河守が北条氏の 世子の教育に当たって、軍勢、兵根、築城等の必要上から算用の習練から始めなければ ならぬと主張したということがあり、清水宗治は備中高松城で秀吉のために水攻めにせ られ、切腹に際して、遺子への遺言状に算用を大切にしなければならぬことをいい、織 田信長は天正七、ハ年頃から全国の検地に着手し、豊臣秀吉もまた遺志を継いだのであ ろうか、天正十三年頃から同じ事業に着手し、長束正家は算用に明るいがために秀吉に 用いられたということであり、これらのことは支配者たる武家の間に数学の必要が起き 和算の社会的・芸術的特性について つつあったことを語るものである。  故に豊臣秀吉が毛利重能を朝鮮または明に遣わして算法を学ばせたという伝説がある のも、その史料が明瞭でなく疑わしいけれども、しかも数学の必要に迫りつつあったこ とを示すところの伝説と見てよろしい。重能は京都の二条京極の辺に住し、天下一割算 指南の看板を掛けて教授し門人も多かったという。その門下からでた吉田光由は洛西嵯 峨の角倉家の一族にして、著わすところの『塵劫記』は極めて広く行われた。この書は わが国で色摺版画の用いられた最初のものということであり、また絵なども多く入れら れ、與味深い書き方をしたものである。広く長く行われたのも畢竟そのためである。外 国との交通貿易や河川の開通や嵯峨本の印刷等に関して功績の著しい角倉一族から光由 がでたのは偶然ではあるまい。光由は肥後侯細川忠利に聘せられて算術を教授したこと があり、没後には略伝を加賀候へ書いて差し出したことがあって加賀候との関係も思わ れるのであり、諸大名の間に数学を学ぶ必要も多少は感ぜられて来たのであろう。 〈四『改算記』と『算法闕疑抄』〉 『塵劫記』と前後した頃から数学教科用の書物は幾らも作られているが、 『塵劫記』ほ どに行われたものはない。後の『改算記』『算法闕疑抄』などは、これについで広く用 いられたものである。『塵劫記』が出たのが寛永四年(エハ二七)であり、爾後若干年間は この種初期和算書の著作を主とする時代であった。この頃の諸算書を見るに、築城、河 川、売買貸借、測量検地、度量衡、金銀の換算、租税、木材、その他の実用に関するも の多く、卑近な商工業用とともに武士階級に必要なるものも説かれている。これに加う るに趣味的のものに富むのが特色である。  この時代には算数をもって諸侯に抱えられたものが幾人もあり、これらの人々は測量 や土木事業や、経済関係のことなど担当することが多かった。浪人して算学を学び、こ れを教授しているものなどが必要に応じて召し抱えられたのであろうが、武士は算盤を 手にすることを賤しみながらもその必要を思うたことは当然であろう。  和算は支那の数学から出発しながら、単に支那の数学を翻訳したというものではない。 円周率なども大工などの間で用いられたらしいものが、一般に採用され、支那算書とは 初めから色彩を異にした。そうして吉田光由が寛永十ハ年刊の『塵劫記』において十二 の問題を提出してから諸算書にこれを解き、また新問題を提出して一種の競技が始まり、 やや後れて数学の問題及び答術を絵馬に仕立てて諸社寺に奉納することも始まった。こ 和算の社会的・芸術的特性について れは全く数学を芸術として取り扱ったのである。この数学の絵馬というものは、おそら く日本独特のことであったろう。芸術趣味の豊かな日本の国にふさわしいことであった。 和算家の趣味は主として芸術として開拓したところに存する。和算家は常に芸に遊ぶと いうことをいい、会田安明のごときは数学が云々の条件を具備しなければ「人に賞観さ れない」というようなことをもいっている。芸術として鑑賞するのが何よりの主眼であ ったのである。  私は先に『改算記』と『闕疑抄』という二部の算書の名をあげた。『改算記』とは先 輩の諸算書に誤りが多いので、これを改訂した著述であることを意味し、『闕疑抄』も また同様に疑わしいものが多いから、その疑いを闡明するという趣意である。この二つ の書名から見ても、初期の和算書は如何に誤りの多いものであったかを、極めて雄弁に 物語る。和算家は趣味性に富み、また難問題の研究に努力を惜しまなかった。けれども、 誤りを犯したものは実におびただしい。初期の諸算書においてしかるのみならず、後代 になっても引き続いて同様であった。和算家は粗漏勝ちであったという大きな弱点を暴 露しているのである。  『算法闕疑抄』は礒村吉徳が万治三年(一六六〇)雰治二年(一六五九)〕に著わすところ、 巻末に一百の新問題を提出したが、この諸問の中には極めて注意すべきものがある。関 孝和が『闕疑抄答術』を作り、その業績中の主要なものの大半はこれに基づいたのでは ないかと思われる。関孝和の業績が和算の創始ともいうべき価値あるものなるにおいて、 『闕疑抄』の問題はその歴史的重要性が思われよう。新問題の提出がどれだけの役目を したかは、ほとんど計り知るべからざるほどに大きい。この礒村吉徳はもと浪人であっ て、二本松藩に抱えられ安達太郎山から二本松城に引いた水利はこの人の施設にかかり、 今も現に存在して、私もその現状を見たのである。礒村吉徳の閲歴といいその著書とい い、『塵劫記』以来、関孝和以前における代表的のものといってよかろう。  〈五『古今算法記』〉  関孝和の業績が現われる前には、一方には沢囗一之の『古今算法記』(寛文十年、一六七 〇)が出たことも注意すべき一つの要点である。初期和算書の多くは算術的のものであ るが、元の朱世傑の『算学啓蒙』(一二九九)が豊公の時代に伝えられ、後にこの本によっ てかどうかはしばらくおき、日本で翻刻も作られ、また所載の算法たる天元術も了解さ れ応用され得ることになる。沢口のこの書中では『算法根源記』の一百五十の問題をこ 和算の社会的・芸術的特性について の天元術によって解くまでに進んだ。そうして方程式に両根のあることをも注意しなが ら、唯一の解答を得ることを理想とし、問題を翻狂すなわち病的だと解して、与えられ たる数を改めたものである。その処理は感服し難いけれども、支那では唯一根のみしか 注意していなかったのに比すれば、明らかに進歩であり、かつ後の進歩を促成しなけれ ば止まぬものであった。関孝和の方程式論ともいうべきものの開拓はこれから発足した のではないかと思われる。なお巻末に十五の新題を提出したが、普通の天元術では解き 難きものであり、関孝和は演段術を用いて解いたのである。天元術は算木すなわち小さ な木片を使って代数演算を行うところの器械的算法であるが、演段術は天元術から出な がら、算木を用いずして筆算式に行うところの新数学であった。日本の筆算式新代数学 はかくして創始された。この新しい創意があるために、後の発達を促進することも著し いのであり、巧みに代数演算の運用されたのは、近代の西洋を除いては、ひとりわが日 本の和算あるのみに過ぎないのも、この創意に基づくのである。漢字を記号に使いなが ら、支那ではついに発現しないものであった。具体的の意義ある漢字を用うるが故に、 西洋で記号使用の代数学が発達するのよりも、割合に容易に発展し得たようにも思われ る。けれどもこれに関する関孝和の功績はまことに大きい。  〈六関孝和の業績〉  関孝和の業績と称せられるものの中にも、剰一術及び招差法などいうものは明らかに 支那にも前に存したのであるが、しかし一般にその算法の原則をも巧みに了解して適切 に運用したことが思われる。支那の方程、すなわち一次連立方程式解法を極めて巧妙に 応用して諸般の研究をよくしたと思われることのごときはその手腕の凡ならざるもので あった。要するに関孝和はある原則をもとめて深く研究を進めたために、大きな業績を 建て得たのである。関孝和はその伝記にも、その業績にも従来世に伝えられたものは、 疑わしいことが多く、この人最高の発明といわれた『乾坤之巻』所載の円理のごときは、 その実は門人建部賢弘から始まったらしいのであるが、またその業績として確実なもの の中でも行列式《デタ ミナント》の展開に関する交式斜乗の両方法はともに誤っており、適尽諸級法と 称する算法について方程式の諸項の極大極小を決定しようというのも同じく誤っている が、しかしこれらのものを取り除いても、その業績の偉大であったことは否定し得べく もない。関孝和のごとき偉人にこの種の誤りがあるのは速断の誤りであること極めて明 瞭であり、前にいう和算家一般の弱点をまぬがれ得なかったのである。そうしてその成 和算の社会的・芸術的特性について 功した部分は伝来のものを一般化し、理論的に考察し、新しい工夫を加えたことに存す る。惜しいかな、病没の二十二、三年前から、おそらく神経の疾患のためであったらし く、その研究の意義あるものは、全く中断したように思われる。その当時の文化の中心 は京都にあったが、関孝和が江戸に出て、数学だけは江戸で和算固有の形式に開拓され たのは、異例のことであろう。けれども諸算家の有力なものは、多くは諸大名に抱えら れているし、また江戸では北条氏長のごとき、幕府の兵学者が測量や地図作製のことな どに造詣があり、関孝和は四代将軍の弟甲州公徳川綱重に仕え、保護を加えられたらし く、また甲州家には前に算家柴村盛之もあり、相当に数学的気分の横溢した中におった ように思われるので、その頃に関孝和が江戸から出たというのも偶然ではなかったであ ろう。日本の数学は武士階級の芸術的生活を反映して発展したといってもよろしい。関 孝和及びその門人建部兄弟等のごとく、戦国時代において武士の花ともいうべき動作を 顕わした人々の子孫の中から出ているのも注意を要する。戦国の頃に戦術の、著しく発 達した後をうけて、数学などの方面にその智力の発現が方向を転換して、ここに偉大な 構成をなすことになったもののようにも思われる。  〈七建部賢弘の帰納法〉  建部賢弘は関孝和が天才的の能力を発揮する人であったことをいっている。これに反 し、建部自らは天才的でないから、着実にこつこつと一から二へ、二から三へという風 に、帰納的に探会するという研究方法を賞用したことを主張する。その著『不休綴術』 (享保七年、一七二二)はこの主張を実現するために作られたのであり、いわば一種の数学 方法論の述作である。こういう研究方法は関孝和ももちろんこれを用い、これによって 重要な業績をもあげているけれども、建部が探会という二字でいい表わしたところの方 法を中心に取って、まとまった方法論に作り上げたのは、建部賢弘の著述を措いては他 に見られぬのである。この頃からして、そういう研究方法は一般に数学界を風靡したと もいうべく、続々と帰納的の探会に拠った算法が現出した。この算法、この方法論は一 方には建部賢弘その人の人物を表現すると同時に、またその当時並びに以後における和 算界の傾向を示すものである。そうして関孝和と建部賢弘との人物並びに学業の相違は あたかもよく建部がこれを喝破し得たように思われる。関孝和は如何にも天才的であっ た。故に天元術の器械的代数学を学んでは、これを運用しやすき筆算式のものに改造す る。一次連立方程式の解法に通じては、これを行列式の構成並びに展開に役立たせ、普 和算の社会的・芸術的特性について 通人の容易に企て及ばぬ多くの発明創意をも能くし得たのである。この偉大なる関孝和 にして、前にいったごとき重大な過誤を犯したというのも、つまり天才的に想い及んだ のであり、充分に吟味することをしなかったための結果に過ぎないと思われる。もし実 地に当たって検証することをしたならば、容易に補訂し得たのであったろう。  和算界に誤りの極めて多いことは、和算の終末まで続くのであり、刊行された多くの 算書に先輩の発表中の誤りを訂したもののはなはだ多いことからでも思われる。上州の 萩原禎助のごときは、和算終末の大家であるが、諸算書の問題を綿密に研究してこれを 補訂するのが、この人の最も主要な事業であった。内田五観が『古今算鑑』中に発表し た、梯形内に楕円と四円を容れた問題のごときも、計算上に符号を錯誤して誤ったのだ とかいうことである。平野喜房の『浅致算法』付録に相接する三円間に杉成形《すぎなり》に内容し た諸円の間題のごときも、また少数の場合から一般を帰納した誤りであった。斎藤宜義 の『数理神篇』には、算法は正しく行いながら、術文に起草するに際して一項を取り落 としたものと推定すべきようなこともある。ともかく粗漏という点は和算家一般のまぬ がれ難き弱点であった。単に粗漏であるばかりでなく、また証明という精神にも乏しく 証明の実行も下手であって、理論的にはその点に大きな短所があった。  〈八秘伝の公開〉  かくのごとき欠陥がありながら、しかも幾多の業績があげられ、全体としてまことに 立派なものであったのは、要するに天才の閃きであり、また着々と歩武を進めて研究を 遂行する熱情に富んだがためである。会田安明が諸種の問題を捉えていろいろとこれを 検討し、種々の場合を尽くして遺漏のないことを期したごときは、この後者の好個の標 本的の一例となる。会田は千数百巻の著述があり、この人ほど著述に富んだものはない。  会田は山形の人、江戸に出て関流の数学を学ばんとしたが、覇気に富める彼は、関流 の学閥に屈することができないで、藤田定資に対抗して一大論争を惹起するに至った。 時あたかも、天明寛政中のことにして、国民の自覚の高まりつつあった時代であり、こ の論争が人気に投合して、会田の名望が極めて高められたのも、世態の傾向に無関係で はない。これより先、久留米侯有馬頼憧は関流山路主住に師事したが、関流秘伝の算法 を取りまとめて『拾磯算法』を作り、これを公刊した。想うにこれは山路が伝授料をぼ ったりなどするために憤慨して、大名という地位を利用して、秘伝を公開したのであっ たろう。会田安明はその後を受けて論争を開始したのであるが、ある意味では有馬頼憧 和算の社会的・芸術的特性について の後継者とも見られよう。会田は才気の優れた人物であるが、秘伝を主とする当時にお いては、関流の門に入らなければ秘伝を受ける便宜がない。故に藤田の門を叩きもした。 藤田は関流の大立物という地位を擁してともかく尊大に構えている。二人の人物の相違 は、時代の精神と相俟って互いに争わなければならぬことになったのである。  和算界に秘伝ということがあったのは、古くからのことであった。関孝和のごときも 秘伝は容易に伝えなかったということである。秘伝は和算には限らず、すべての学芸に わたってそうであったが、和算もまたその風習に従ったのである。これは封建社会の当 然の事情であったろう。最高の秘伝は特殊の高弟にのみ授けられ、次から次へと伝わっ てここに系図を構成する。家の系図と同じように、算家系図というものも、幾らも作ら れている。かくして数学にも流派を生じた。その諸流派の中で最も盛大なのが関流であ った。会田安明が流外にあって、この関流の最大権威と対抗せんとしたのは、剛胆なる 彼にして初めてよくなし得るところであった。そうしてその対抗により充分に効果をも あげ得たのである。この対抗が続けば続くだけ、会田は益々自信を強めたらしく、いか にしてか関流の秘伝算書も多くその手に入り、発明創意もまた次第に多きを加うるに至 った。会田安明は才気あるものが旧套の権威に対抗して、光輝ある成功をかち得た適例 である。この論争の事情から見ても、権威を擁する藤田定資は極めて卑劣であり、陰険 であったらしい。会田安明は論争中において、自ら一つの流派を創め、これを最上流と 称した。最上《もがみ》山形の人であるから、出身の地名を採ったのであるが、しかも「さいじょ う流」と音読して、最優位の流派たることを示さんとした。会田は関流への反抗は猛烈 であったが、しかし門人知友に対しては懇切であり、最上流の諸学徒は宗派の元祖に対 するがごとく、最上流の元祖を尊崇景慕し、その勢力ははなはだ盛大なものとなるけれ ども、これがためにかえって最上流には独創的の偉人は輩出し得なくなったらしい。最 上流は単なる数学の流派というだけでなく一種の宗派的気分の濃厚なものであった。  初め関孝和は高弟荒木村英に皆伝したが、他の高弟建部賢弘には皆伝しなかったとい われている。けれども、この伝えはおそらく確実なものではあるまい。京都の算家中根 元圭は建部について、その高弟となり、久留島義太の天才を認めて幾多の便宜を与え、 久留島が多く創意があったのも、その結果に負うところであろう。久留島の友人に松永 |良弼《よしすけ》があり、荒木村英の高弟であって、普通には荒木松永派が関流の正系とされている。 けれども、その頃の事情は厳密に建部中根派との区別を画するごときものではなかった らしい。久留島義太は関流中の人ではないが、関流の便宜を提供されて大成し、その業 和算の社会的・芸術的特性について 績は関流の伝授に加えられたのである。故に秘伝というものは存したであろう。けれど も、秘伝が厳密に守られるのは、群小算家に対してのことであり、少数の偉人は場合に よっては、流派の門戸も厳守されないのが事実であったろう。しかるに山路主住の時に 及んで、中根、久留島、松永の三人の教えを受けながら、学統としては関孝和から荒木、 松永と伝わった正系であるごとく主張し、関流の免状にもそういう風に記載することに した。これはもとより家の系図の伝統によったものにほかならざるべく、かくして他と 区別を付けて自ら高しとしたのであったろう。故に山路の門下から、有馬久留米侯が反 抗の態度を取って秘伝のあるものを公刊することにもなる。山路の高弟なる藤田定資は、 会田安明の反抗を激発することにもなったのである。藤田は『精要算法』の作者にして、 この書は学習用に極めて重きを成して、これがために藤田は大いに名望を博したのであ るが、しかもその門下からは有力な数学者は出なかった。当時最も有力な人物は藤田と 同門の安島直円であった。安島は独創的の業績に富む。この人の手で前代以来の発達を 引き受け、次の時代への展開を成就せしめて、関孝和と安島直円とが和算の全歴史を通 じての、二大焦点を成すとも考えられる。しかも静かに研究に没頭して、専門算家以外 にはほとんど知らるるところもないという有り様であった。しかるに安島と藤田の関係 は、はなはだ密接なものであり、『精要算法』のごときも実は藤田一人の作ではなく、 安島の力が多かったのではないかと思われる。安島の『不朽算法』はこの書の続篇とす るつもりであった。藤田の稿本類にも安島から借りたものがあるのではあるまいか。藤 田が安島の対数原理の研究をわが物にしたために、安島と仲違いすることになったとは 会田安明の記載であるが、必ずしも虚構の談でもあるまい。安島直円は数学の単純化に 著しい功績のあった人であり、良教科書『精要算法』の著作もこの人の力が加わらない では出現し得ないのであったろう。安島の門人には日下誠、坂部広胖等があり、日下は 特に専門諸算家の養成に優れた人物であった。  〈九和算の教授〉  かくして文政天保の頃に至り、有力な算家が多く輩出し、和田寧のごとき大家も出た。 和田寧は学力造詣がはなはだ優れていたにかかわらず、酒ばかり飲んで生計にも追われ、 算学の外に手習いの師匠をもしたほどであり、発明術を売って酒に替えたともいわれて いる。この故に当時の諸大家はこの人について伝授を受けたものも多く、またこれを基 礎として研究を進め、従って和田寧の円理は比較的容易に諸方に広められた。その功績 は偉大であるが、一般世間からはほとんど知られないのであり、天保十一年(一八四〇) に没した時のごときも、諸算家すらも顧みないほどの気の毒な有り様であった。これに 反して内田五観、長谷川|寛《ひろし》等のごときは著述もあるし、特に長谷川は良教科書『算法 新書』(文政十三年、一八三〇)を刊行して、名声隆々たるものであった。この事情から見 ても純学者は孤立するに反して、数学教育家がはるかに世間の受けがよいものであるこ とが思われる。  この時代には和田や内田、長谷川等は江戸にいるが、しかし諸地方でも諸大家が多く 輩出して上州の斎藤父子、熊本の牛島盛庸等のごときは、すこぶる見るべきものがあっ た。これには諸藩で藩校を置き、数学の教授も行われることになったことに関係がある が、また今いう斎藤父子でも江戸の長谷川でも武士階級の人ではないのであり、民間か ら有力な算家が出ることにもなったのである。長谷川寛は全く数学教授を稼業にしたも のであり、教授のためには非常の努力を積んだのである。故にこの人の手で『算法新 書』が作られて、数学教科書の極めて良好なものが成立し、養子|弘《ひろむ》に至って、その続篇 ともいうような意味で『算法求積通考』が作られたのも、極めてよく世間の需用に応じ たのである。  これと同時に地方では遊歴算家なるものが盛んに活躍した。山囗|和《やわら》、千葉胤秀、剣持 章行、佐藤一清、法道寺善、小松鈍斎などいう人々は皆遊歴して教授したものであり、 地方で算法に志あるものがこれらの算家を迎えて逗留せしめその教授を受けるのが例で あった。小都会の武家仲間でも遊歴算家に学ぶものもあったが、主として農家の余裕あ る人々が多かった。かかる地方の算家が輩出するに至ったのは、社会事情の変遷を示す ものにほかならない。江戸が数学の中心たる地位は終始継続されたけれども、しかも地 方の勢力が著しく伸びてきたのである。地方でも次第に数学の必要が感ぜられ、実用上 の目的から入って芸術的に学修を進めるという精神が、すべての場合に発揮されている ように思われる。それには伊能忠敬の沿岸測量のことなども、地方人士の向学心を刺激 したことであろう。また種々の関係がみられるのであるが、要するに和算の学修は、前 よりも増して地方に広まったのが著しい。  かくて和算は天文暦術や砲術航海等のことに関して西洋の学問が伝えられつつある間 において、これらの関係も多大にありながら、比較的に西洋の影響を受けることが著し からずして、その終末に至った。和算家は洋算の勢力に対抗せんことを欲し、和算の勢 力を維持したい希望もあったけれども、もはや時勢の必要には如何ともすることができ 和算の社会的・芸術的特性について ないで、和算は次第に地歩を失うこととなった。けれども京浜鉄道の開設に際して小野 友五郎がその測量に従事したり、地租改正の時に備中の和算家平松誠一が諸県下に出張 して測量術など教授したごとき事実も多く遺されたのであり、和算から洋算に代わる過 渡期には和算家が世用を充たしたことも少なくないのである。  和算家はこの過渡期において実用の方面に活動したというだけではなく、和算の起き た初期からして実用のことに深い関係の〔を〕もったのは、もとよりいうまでもない。試 みに和算書のあるものを採って点検するがよい。ある特殊のものを除くの外は、必ず多 くの実用上の問題を取り扱っていないものはない。和算家として測量等のことに関心を 持たなかった人もいないようであるし、和算を教授する以上は別して初心の人へは日常 生活に関係ある問題を課したものであった。もしこの種の事項を抽出して、これから立 論するときは、和算は実用的の関係、経済生活上の関係のみから動かされて発展したも のでもあるように論ずることも決して不可能ではあるまい。しかしながらかくのごとき は一面観に過ぎないであろう。  〈十和算と芸術〉  しからば他に如何なる方面があるか。芸術的に取り扱ったことが、極めて重要な地歩 を示す。『塵劫記』が優良な教科書であったというのも、趣味深くできているからであ る。『塵劫記』には継子立の問題というものが出ているが、これは実子と継子が十五人 ずつあり、輪形に環列せしめて、ある一人から数え始め十人目に当たる毎にふるい落と して最後に残った一人を相続人にしようというのであるが、継子十四人まで数え抜かれ たときに、一人残された継子が抗議を提出し、これからは逆の順に数えることにされた いと申し出たので継母もこれに同意し、そうして遂にその継子一人が最後に残って父の 家を嗣ぐことになったというのである。  この問題は如何に見ても、日常生活、経済もしくは社会関係のものではない。すべて 趣味の問題に外ならない。しかもこの種のものは、わが日本人の芸術的生活に極めて好 く適合したのであり、和算の初期からして単に実生活の関係にのみ局限せずして、数学 を芸術的趣味的に取り扱って行こうという精神が極めて濃厚であったことを示す。後に なっても和算には、非実用的のものが多いのであるが、すべてこれは芸術の精神をもっ て開拓したので、ここにはなはだ偉大な発達をも遂げ得たのである。この芸術的趣味的 和算の社会的・芸術的特性について ということは、一方に実用的精神のはなはだ大切であるのに対して、決して、これに劣 らざる大切な要素であって、和算家の間にその精神が極めて濃厚であったことは、名状 し得べからざるほどに崇高な強味であった。もしこの精神に欠くるところがあったなら ば、和算は決してあれだけの発達を成就し得なかったに違いないのである。  この精神は、もちろん和算の学修によって初めて開発されたのではない。わが国文化 の諸方面にわたって一般に顕現しているのであり、おそらくわが国民性の長所ともいう べきものであろう。わが国中世の戦闘史上において武士道の精華を発揮したもののごと きも、全く芸術的に処したものなることを見る。仇討に苦心を積んだのも芸術の大きな ものであった。和算の開発上にもその同じ精神が、著しく趣味的に現われて、良好な成 果を結ばないでは済まないのであった。ここにおいて私は和算史の全般をもって、一大 芸術の展開であったと見ないではいられないのである。和算が実用を離れて、芸術的趣 味的に発達したのは、武士という比較的に閑散な階級が存在し、この閑散な武士階級を 中心として開拓されたことにもよるけれども、さらに、一層根本的に芸術的精神の旺盛 なものが働いたのではないかと思われる。しかしながら和算は主として武士階級を中心 に消費経済の都会であった江戸の産物であるのに対し、実験的科学らしいものが、西方 から起きて来たという著しい事実があるのは、その点からは経済的生活の反映があった と認めなければならぬのも、またもちろんである。  〈十一和算と社会〉  関孝和が江戸から出て和算を創始した時代に当たり、貞享の改暦をよくした渋川春海 は、近畿の人であった。寛政の改暦は大阪の暦学者高橋至時及び間重富が徴せられて、 これをよくし得たのである。初め豊後の人麻田剛立は脱藩して大阪に来り、医を業とし て生計を立てつつ、暦術星学の研究に専念した。至時、重富等が剛立の門に入って益々 その研究を進めた。これがためにわが国の暦学は一大革新を遂げたが、幕府は江戸の天 文方がよくなすなきをもって、これを召し出してそのことに当たらしめたのである。こ の時伊能忠敬が高橋について学ぶに至り、高橋は星学研究の必要上から伊能の測地事業 を推挙し、そうしてラランデ暦書の訳解の事業も天文方の手で遂行されることとなり、 それから暦局内に翻訳局が設けられ、一方に高橋景保、渋川景佑等の手で『新考暦書』 等が作られ、一方には訳官の人達によって『厚生新編』のごとき大部の書の翻訳書が作 られ、ここにおいて蘭学の発達は極めて著しいものとなった。この事業は天文暦術の関 和算の社会的・芸術的特性について 係が、最も主要な基底を成して進んだのであり、それから他方面のことが付随したもの であったことが、決して見逃してはならないところであろうと思う。  この翻訳事業において天文暦術書中に西洋数学に接触したことの多かったのはいうま でもないのであるが、しかも数学の関係においては、さまで重大な影響をしたらしくも ないようである。これは天文方の暦学者と当時の専門算家との間に密接な関係が乏しか ったからでもあろうが、また双方ともに密接に関係を結ぶことを心がけたらしい形跡も ないのである。この一事から見ても当時の数学が如何に実用方面から没交渉であったか が充分に思い及ばれるであろう。  数学がかく天文暦術とすらも、密接な交渉を付けなかったごとき事実は、決してほめ たものではないが、しかしそういう状態にあっても、ずいぶん目醒ましい発達が成就し 得られるということは、注意すべきことと思われる。  ここにおいて思うに、数学の教育上にはなるべく、実生活と関係を密にすることが望 ましいであろう。けれどもまたこれを趣味的芸術的に取り扱って、若き心の数学に対す る趣味を開発し、進境を打開すべき曙光が全く認められないではあるまい。私は和算の 発達に顧み、趣味的芸術的生活は生活上の重大な要素であろうことを考えたい。 芸術と数学及び科学  われらは今この表題を掲げて少しばかり見るところを説きたい。人あるいはいうであ ろう。数学ないし諸科学と芸術とは全く相反し、その相互の関係はかつて存するところ はない。全然無関係なものであろうと。あるいはそうかもしれない。大体においては、 そういう傾向もあるであろう。  現にわが国には美術界に竹内栖鳳等を初め多くの有力な巨匠があるが、これらの美術 大家が数学なり、他の科学なりに通じているという事実はない。九条武子、柳原白蓮等 の女流歌人にしても、同時に科学者ではない。普通に芸術家たると同時にまた数学者、 科学者たる者を求めるならば、全然絶無ではあるまいけれども、おそらく絶無に近いで あろう。  この種の関係から論ずるときは、数学、科学と芸術との間に直接の関係はないといっ てよい。これにはわれらも異論はない、何人といえどもすべて同感であろう。  事情かくのごとくなるにかかわらず、われらはあえてその関係を論題に掲ぐることを した。無謀といえば無謀であろう。いかに無謀であろうとも、われらはこれを明らかに しなければならぬ。われらは歴史的発展の上において、すこぶる密接な関係あるべきこ とを思う。これを了解して初めて灌溂たる意義の流れていることが見られるのである。 これをもし〔「しも」、あるいは「すら」〕了解し得ないでは、歴史の流れの真の意義はつかみ 得られぬのである。われらはあえてこの点に向かい論歩を進める。  〈一和歌と俳句〉  わが国では江戸時代に多くの数学者が輩出した。多数の人物があるから、委細にこれ を論ずるときは、種々雑多の分子が存したであろう。けれども江戸時代の算家について、 芸術的の要素が多大に見られることはおおわれぬ。そのことについてはかつて「文化史 上より見たる日本の数学」の篇中にも説き及ぶところがあった。  中につきて、著しく目につくのは、江戸時代の算家には和歌や俳句の嗜みがすこぶる 行き渡っていたことである。今村知商の『因帰算歌』(一六四〇)のごとく歌によって算術 を記そうという企ても早くから見えている。  一部の書物全体を通じてかくのごとき企てをしたものは、他に多く類例を求め難いけ 芸術と数学及び科学 れども、書中に若干の詩歌を記したもののごときは、幾らも見られるのである。これら は初期以来の刊行算書中に、往々その例がある。  関孝和、建部兄弟、松永良弼等のごとき諸大家がこの種のことに関係が有ったか無か ったかについては、今ほとんどその証拠を得ることができない。それというのは年代が やや古く、多く史料の伝わらないからであったろう。幕末の諸算家になると、大概は和 歌か俳句に、関係の無いものは無いというような有り様となる。山囗和は越後|水原《すいばら》の人 で、広く諸国を遊歴したのであるが、その旅行の記事を見るときは、諸方で見聞した算 題をも記しているが、また歌や俳句などをも盛んに記入している。これによりその人の 趣味を見ることができる。奥州三春の算家佐久間|纉《つづく》が諸国を遊歴した時にも、諸方で書 画や詩歌を書いてもらった冊子を作ったのであった。この人の作に『千代見草』と題す る歌集もある。  『社盟算譜』などの著者白石長忠も和歌を記したものが幾らも残っている。馬場正督、 正統の父子は俳諧では其日庵と称して、宗匠であった。日光清瀧にその俳諧の碑が建て られている。  川北朝郵は内田五観門人として、関流宗統の算家であったが、俳諧においては馬場氏 の伝を受け、晩年富士山下に隠棲して、多く富士の景色を詠んでいる。上州の萩原禎助 は最も緻密な数学の研究家であり、風流気などありそうもない人であったけれど、それ でも俳諧は盛んにやったものであった。和算家には詩を作った人はまれであるが、和歌 や俳諧をやった人はすこぶる多い。もとより、ことごとくこれを網羅することはできな い。  〈二算額の現状〉  諸国の神社仏閣に絵馬が多く奉納されていることは、人の皆知るところである。その 絵馬には数学の題術を記し、円や三角など色彩を施して美装し、他の絵馬と同じような 形式に仕立てて拝殿などに奉納したものも幾らもあった。明治初年の頃にはその数もず いぶん多かったというが、今では次第に廃滅して新しく奉納する者もなく、その数はな はだしく減少した。しかも今でもなお諸所で見られるものがある。ここにその例を述べ てみよう。  東京付近では府中の六所明神、大宮の氷川神社などがその例であり、少し離れては千 葉の千葉寺、成田の不動、芝山の閻魔、それから上総の鹿野山、上州前橋のハ幡宮、上 芸術と数学及び科学 信国境の碓氷峠における熊野神社等を数えることができる。上州の妙義神社にもまたこ れを見る。一の宮にも数面が現存する。これらは私の実見したものである。塩釜の御宮 にも大きな額がある。  京阪地方になると、京都の北野天満宮、安井神社、伏見の御香宮などに残ったものが あり、京都の舐園すなわち八坂神社には現存最古の算額がある、すなわち元禄年中のも のである。これらは京都であるが、大阪には住吉に大きなのがある。  少し西して播州に入ると、尾上神社、龍野の八幡宮等で見られる。姫路の八幡宮にも また存している。安芸の宮島にも一面の算額あり、広島の鶴羽根神社にも現存のものが ある。伊予の道後のハ幡宮には算額が多数に存在し、おそらく今日において、かくも多 数に残ったところは他に一つも無いのである。  さらに西に向かい九州に入ると、福岡の箱崎及び住吉両神社にあり、筑後の秋月にも あり、柳河にもあり、また長崎の諏訪神社でも見られる。  これらはすべて現存のものであるが、近年まで存在したということであったのが、す でに見られなくなったのもある。例えば羽前羽黒山のごときはそれであり、播州石の宝 殿でも近年見たという人があるけれども、現に行って見ても見当たらないし、神官に聞 いても知らぬというのである。こういうわけであるから、私が実見した算額でもあるい は数年内に廃滅したり、取りおろされたりしたものが無いともいわれない。  東京でも湯島明神に震災前まではあったというが、もちろん焼失したのである。震災 前においても東京市内のものは、芝の愛宕などのごとく元来は多数に存したものといえ ども、一面だも見ることができず、神官に尋ねてもさらに分からなかったのである。東 京市内は最も早く算額が影を潜めたらしく見える。  幕末の頃にはこの種の絵馬を見に来る人も相当に多く、注意に上っていたので大切に もされたけれど、維新後になると、まれには新たに奉納したものもあり、京都の北野天 満宮、成田及び大宮のものなどがその例であるが、しかし従前に比すれば、はるかに減 少したことはいうまでもなく、奉納の新額は次第にその数を減少し、そうして一方には 焼失したり、破壊したり、風雨に曝されて磨滅し、取り払われるという風で、今でこそ 未だ若干の遺物があるというものの、将来においては益々減少し珍奇のものとなるであ ろうこと、当然の勢いである。 〈三算額の風習〉  日本の算家が数学の題術を絵馬に仕立てて、お宮やお寺に奉納したというのは、ずい ぶん古くからのことであった。 前にもいうごとく、京都の祗園に現存するものは元禄四年(一六九一)に長谷川鄰完な るものの奉納であり、天和三年(一六ハ三)に同門山本宗信が伏見御香宮に奉額して二つ の問題を提出したものの答術であった。伏見御香宮の山本宗信算額なるものは、もちろ ん今は残っておらぬ。  この祗園の算額につき『増修日本数学史』には東海坊なる人の奉納なるごとくいい、 芸術と数学及び科学 元禄四年……東海坊、山本宗信ノ奉額題ヲ解シテコレヲ京ノ舐園神社二掲グー 海坊、其姓名ヲ知ラズ、蓋シ逸号ナラム.: -東 と見えているが、これは誤りであって、明らかに署名されている通りに長谷川鄰完の奉 額である。そうして東海坊と記しているのは、その奉額の取り次ぎをした坊名にほかな らず、しかも東海坊とあるは東梅坊の見違いである。この算額は現存中の最古のもので あるが、この算額あるによりて天和から元禄の頃にかけ、算額奉納の風のあったことは 明らかに知られる。  けれどもこの風習はさらに古くから行われたのである。そのことは『算法勿憚改』に 見える。『勿揮改』は延宝元年(一六七三)村瀬義益の作であるが、中に武州目黒村の不動 堂に算額を奉納した者があって、片岡豊忠の『算法|直解《じきげ 》』にもその答術があり、『勿憚 改』もまた別に答術を作ったのであることを記す。  『算法直解』は寛文十年(一六七〇)の作にて、不動堂の算額はその以前のものと知られ る。  『勿憚改』にいうところによれば、なお以前より算額の奉掲が行われていたらしい。 このことは『増修日本数学史』にその記載がある。従って寛文年中の頃から算額奉納の 風のあったことは明らかであり、算学発達上の早い時代からのものであることが知られ るのである。  岩本梧友の『勾股泝原』は安永八年(一七七九)の作であるが、この書中には算法の額 を云々したということも見える。  この時代になるとかなり算額奉納の風が盛んに行われたらしい。  藤田貞資は『神壁算法』及び『続神壁算法』を作り、諸神社に奉納したる算額を集め 芸術と数学及び科学 て公刊したのである。この両書は寛政元年(一七ハ九)及び文化三年(一八〇六)の作であり、 貞資の閲にしてその子嘉言編という名義になっているが、貞資の碑文には貞資自身の編 纂といっているから、実際そうであったろうと思う。藤田貞資は初め定資の字を用い、 晩年に至りて貞資と改めたのである。  この『神壁算法』の正続二篇が作られたことから見ても、藤田貞資の時代に算額奉納 の風習が盛行したことが知られる。  会田安明が藤田貞資と抗争して自ら最上流の一派を立て、盛んに論争を続け、関流の 向こうを張ったのは有名な話であるが、その事件の起こりは会田が藤田の門人で親交の 間柄であったところの神谷定令の紹介で藤田を訪い、教えを請うたところ、会田がかつ て浅草観音に奉納した算額中に不適当な個所があるから、改竄せよといわれて受け入れ ず、それで争いになったといわれている。  これはおそらく表面のことであろう。内実は学閥外の天才者流たる会田安明が関流の 学閥に反抗した真剣の争いであったと見たい。それはともかく、二十年近くも会田、藤 田の両雄が互いにしのぎを削って相争ったという数学史上の大事件が、算額上の文句の ことから引き起こされたと伝えられていることでも、いかに算額が当時の数学者にとつ て重視されたものであったかが知られよう。『神壁算法』のごとき書物が作られ刊行さ れるというのも当然のことであった。  藤田派以外においても同様に、多数の算額が奉納されたこともいうまでもない。  『神壁算法』という書名も、神社の壁間に奉納した算題集というほどの意味であった。 後に白石長忠は『社盟算譜』を作ったが、これもまた神社の前に盟《ちか》ったところの算題集 ということであり、『神壁算法』というのと同じい。内田五観の『古今算鑑』などいう 書物も同じく奉納の算題を集めた刊本である。この種の刊行物は少なくなかった。  写本類では諸所の算額を集めて編纂したものが幾らもある。『額題輯録』などいうも のがそれであり、今一々これを列挙することは、もとよりその煩にたえない。その数す こぶる多いのである。  これらの刊本や写本類に記載された算額の数も、ずいぶんおびただしいものであるが、 現在の算額中にもこれら書類に見えないものがあるから、実際奉納された算額の数は、 予想外に多かったのであろう。そうして記録なしに廃れて行ったのであろう。  算額流行の盛んなものであったことは、充分に思われる。  数学の問題を額面に仕立てて、宮や寺の壁間に掲げたというごとき例は、おそらくわ が日本をおいては他に全く見られぬ図であったろう。西洋の数学史家の著書を見ても、 日本の算額のことは記しながらも、他国での例をあげたものはさらに見当たらぬのであ る。  大小の算家が皆相率いて和歌や俳諧を学んだという詩趣豊かな国において、算題が盛 んに絵馬に仕立てられ彩色などを加えて、一種の美術品に作られたというのも、決して 偶然のことではなかったろうと見たい。  私はかく見るのであるが、これは私一人の僻目《ひがめ》であろうか。読者の判断を望むのであ る。 芸術と数学及び科学  〈四日本の美〉  日本の算書には絵入りのものもずいぶんあった。最も早く作られた一つである『塵劫 記』のごときも大きな絵を入れたものであった。『塵劫記』の図には色刷も試みられ、 日本の色刷版画の先駆をなしたというのは、日本の数学書は芸術史上においても馬鹿に できないのである。  『改算記』や『算法闕疑抄』などいう諸算書にも絵はずいぶんたくさんに記されてい る。後の時代になっても教科用の算書には絵入りのものがはなはだ多い。  『絵本工夫之錦』という算書もあるが、その表題を見ただけで内容が察せられよう。 この点にも芸術味の豊かなことが思われる。  なおこの外にも数学遊戯に関するものなども多く論述せられ、数学が、はなはだ芸術 的に取り扱われたことの例証は幾らもあげられるのである。  私は日本の数学には、かく芸術的の要素が豊富に見られることを主張する。その要素 は江戸時代に数学が発達した時に及んで、初めて現われたのでない。前からその傾向が 著しく見えていたことも、またわれらはこれを認める。  中世の頃においては、数学らしい数学はほとんど無いのであるが、しかるにもかかわ らず、その時代において家の紋章が著しい発達を遂げたのは、すこぶる顕著なことであ ったろうと思う。紋章の発達については沼田頼輔氏の有益な研究があって、はなはだ明 らかであるが、幾何学的の図形を用いて家の識《しるし》としたこと、ずいぶん芸術的な仕方であ った。中国にも紋章類似のものはあったであろうけれど、日本の紋章ほど鮮やかなもの は、もちろん無かったのである。紋付が礼服になったというのも、日本独特のことであ ろう。継子立などの遊戯が平安朝末期から行われたというのも、数学的の事項が遊戯に 芸術と数学及び科学 用いられたのであり、ここにも数学の芸術化が見られるのである。  数学的の事項が数学の未だ発達せざる前に芸術化された国柄において、数学の発達す べき時期に到来して芸術的の数学が行われ、そうして多大の進歩を見たというのは決し て不思議ではあるまい。  われらは田舎を旅行して、山麓や森の間に草葺の農家が散在するのを見るとき、その 閑寂優雅なのに見とれるのである。近頃流行の文化住宅などいうものの無格好な、無趣 味なものの比ではないのである。  老木の森に囲まれた苔むすお宮に参詣して見ても、はなはだ森厳な霊気に打たれる。 たとい一坪か半坪の小社といえども、前を通れば自然に頭も下げたくなる。その社殿の 構造、樹木の配置等に何となく霊妙なものがあるかに感ぜられる。  私は日本の建築美は決して他国のものに劣っていないと思う。石造の大宮殿や、派手 やかな摩天楼などいうものはもちろん日本にはない。仏教の寺院といえども、かの国と は違い、すべて木造であり、雄大の点においては欠けるであろう。しかしながら優美で あり、鑑賞の価値に富む。  エジプトやインドの古建築や、またギリシア、西洋の有名な美術的建築などは、もと より悪くはない。私は日本の建築がそれに優るとはいわない。その世界的建築の中に伍 して、さまで遜色なきものがあるかを感ずるのである。  近頃、文学士藤田元春氏は『日本民家史』なる一書を刊行した。わが国に如何なる種 類の民家が存在するかを列挙し、その発達の由来を明らかにしたのである。その着眼は 鋭敏であり、観察は正鵠に当たっていると思われるが、屋根の形状にしても広く世界に ありとあらゆるものが、ことごとく一国内に集められたかの観があり、すこぶる優美な のが特色だといっている。その優美なわが国の民家の建築様式を今後に維持して行くこ とは、あるいはむずかしいであろう。悲しいといえば悲しい。  けれども民家の建築においてさえも、過去において誰がしたということもなしに、自 然にかくも優美な優秀なものが作られたというのは、趣味性に富んだ民族性からきた結 果であり、今後も外来の様式を採り入れて、たとい一時は堕落趣味に堕することがあろ うとも、遠からずして再び特殊な優雅なものに変造し、別様の趣味を発揮するであろう ことは、容易に期待される。  絵画や彫刻にしても、もちろんその初めは多く支那やインドのものを学んだのであろ うけれど、明らかに支那、インド等に見ぎる特殊な立派なものが数限りなく造り出され 芸術と数学及び科学 ている。雪舟が支那に遊んで、その師事するところよりも、はるかに超越したとは世に 名高いことであるが、多く支那の絵画に接し、そして後に雪舟の絵を見るとき、素人目 にも如何にもと思われる。  中世以来発達した大和絵は支那式によったものでなく、特殊の構成をなしたものであ った。  江戸時代に浮世絵版画の盛んに作られたのも、全く固有の発達であり、色刷版画の発 達において他国に類例の求められぬものであった。この故に一たび西洋に知られて以来、 非常に珍重されることとなったのも道理である。  江戸時代の絵画の名匠の作品を見ても、西洋の諸名家の名高い逸品に比し、単に画風 や手法の異同を感ずるばかりで、彼のみひとり価値あり、われははるかに劣るというよ うな感じは少しも起こらぬ。独特の妙味に感慨はなはだ深きものがなくてはならぬ。  日本の絵画は確かに優秀なあるものを有する。 〈五西洋伝来〉 かくのごとき絵画を生み出した日本人の趣味性には必ず浅からざる根底があるに違い ない。  運慶の彫刻というようなものを見ても、まことに優れたものがある。私はかつて上野 の博物館において、その模造品であったけれど、極めて優れた作であることを感歎し止 まなかったことがあった。その頃には私はまだ彫刻について何等の眼識もなかった。し かも真に迫り、神韻のあふれているのに、覚えず感じ入ったのである。日本にはかくの ごとき名作がある。あるいはギリシア彫刻の影響を受けたことがあるのであろう。しか もギリシアの古彫刻の写真など見るのとは、すこぶる感じが同じくない。支那やインド を経て学んだのであるが、要するに日本の古い彫刻は極めて優れたものであると思った のであった。  その後、諸方においてあるいは行基菩薩、あるいは弘法大師の作などいう、古い仏像 をも多く見るの機会を得た。  実際に行基や弘法の作であるかは知らないけれども、ずいぶん彫刻として立派なもの のあることは事実である。奈良の博物館に陳列された幾多の作品のごときも、実に優秀 なものが多く、日本の彫刻は早くからよほどの手腕が発揮されていること、われらは実 際に見て感慨がはなはだ深い。 芸術と数学及び科学  新進の美術史家団伊能氏の談話によるに、わが国の古彫刻はもとよりギリシアの影響 を受けている。その影響は受けているけれども、源泉をいうときは、インドの建陀羅《ガンダラ》芸 術から来たものであって、仏教の拡布とともに中央アジアに伝わり、それから支那に入 り、さらにわが国に伝わったのである。その伝来の道筋はすこぶる明らかにせられ、疑 うべきものはない。  建陀羅の仏教芸術がギリシアから学ぶところのあったのはもちろんであるが、その当 時においてはギリシアの芸術はもとより末期であった。ほとんど多くの力を持たぬ。い わんや中央アジアにおいてギリシアの植民地であり、ギリシア人の勢力が最も長く維持 されたバクトリア、すなわち支那でいう大夏の国のごときはその歴史から考えて多くギ リシアの文化を東方へ伝播したであろう、と思われようけれども、その実この国のギリ シア人は人数も少なかったらしく、ギリシアの美術や文化を、はたして如何なる程度ま で開発し維持したであろうかも、はなはだ問題であり、近年その国都の遺跡を発掘した 成果にしても、何等得るところはなかったということである。  こういうわけであるから、建陀羅の仏教芸術が起きた時は、ギリシアの彫刻などの影 響を受けた程度も、おそらく知れたものであったろう。  しからば中央アジアや支那、朝鮮へ伝えたその関係もまた大概察することができる。  建陀羅の遺跡を始め中央アジアや支那等に存するところの遺物は幾らもあるし、試み にこれを見るがよい。実のところさまで優秀な作品はないのである。もちろんギリシア 盛期の彫刻に比してはすこぶる劣っているし、日本へ来てからできたのに比しても比較 にならない。日本の彫刻は建陀羅の仏教芸術を仲介として明らかにギリシアの彫刻から 影響され、教えられているところはあるが、しかし一旦日本人の手に移ると、これを伝 えた先生よりも、ずっと立派なものを作り出したのである。他から学びはしたけれども、 単にこれを学んだというだけではなくして、一層優秀な成績をあげたのであった。  これは日本人の芸術能力がギリシアに次いで有力なものであるからのことにほかなら ぬ。その能力が欠けていては、かくのごとき事実は到底あり得ないのである。  団君は新しい研究の結果として、かくのごとく語る。私が日本の古彫刻を多く目撃し、 その妙味に打たれたゆえんのものは、ここに全くそのよって来たるところを解決された のである。 〈六法隆寺〉 芸術と数学及び科学  大和の法隆寺は推古天皇の時の古建築であるが、一説には天智天皇の時に焼失して再 建されたという。しかもその再建非再建の両説は、はなはだ錯雑して容易に決定されぬ。  それはしばらくおき、法隆寺の建築は韓人がその任に当たりもしたであろうけれども、 建設者たる聖徳太子の希望が加わっていることももちろんであり、堂塔の配置などは支 那や朝鮮における仏寺の建築に見ざる形式のものであるという。  これは東洋建築史の泰斗伊東忠太博士の意見であるから、もちろん安んじて信懣すべ きである。わが祖先は法隆寺建築の古代において、すでに外国文化の単なる模倣者では なかったのである。  法隆寺の円柱は上下が細く、中央部が徳利形にふくらんだものがある。これはまこと に著しいことであり、ギリシアの古建築においても、また見られるのであって、これを エンタシス(の耳舅芭というのであるが、円柱にエンタシスを施したものは見た目がま ことに気持よく、ギリシア美術の天来の神韻の一つだといわれ、ギリシアの芸術心があ って、初めて考案されたと見なされたものであるから、ギリシア以外にて法隆寺の建築 中に、この同じエンタシスのある円柱が見いだされたので、これは定めてギリシア建築 の様式が伝わったのであったろうとは、ほとんど定説であった。  しかるに団伊能君はこれらについても、また疑問をはさんだ。ギリシアで同様にエン タシスを施したのはギリシア芸術の盛大期でのことであった。その衰退期に及ぶと次第 にエンタシスは見られなくなる。インドの建陀羅芸術はギリシアの影響を受けたもので あるけれども、しかもその盛大期の影響を受けたのではない。衰退期の芸術を伝えたの である。そうして建陀羅の建築を見るに、同様のエンタシスは一つも発見することがで きない。中央アジアや支那、朝鮮の仏教建築においても皆同様である。  事情かくのごとくなるにかかわらず、その仏教建築がわが国に来て法隆寺の建築にな ると、ここに再び円柱のエンタシスが現われた。これはまことに怪しい。  この事実から見るときは、ギリシアの手法が伝わったものであると認めるのは、あま りに無理である。  法隆寺の円柱のふくらみは、外来の関係からできたのではなく、他に事情があっての ことと認めなければならぬ。  ギリシアの円柱にエンタシスのあるのは、元来ギリシアでは木造の建築が行われ、そ れから石造に進んだのであるが、木造の円柱では上下の寸法は決定しておかなければな らないが、鉋《かんな》のない時代のことで、斧でけずるのであるから、中間はふくらみのあるよ 芸術と数学及び科学 うなものになるのも自然のことでもあったろう。そう成り勝ちであったろうとも見られ る。そういう風にして木造の円柱にエンタシスが発生して、石造になってもその形式が 伝わったのではないかと思われる。  日本でもやはり同じことで、全く木造建築であるから、同様の事情でエンタシスのあ る円柱が作られたのであろうと見ることができる。しからば必ずしも、ギリシアの様式 を学んで円柱のエンタシスを作ったのではない。  かく見るのは団氏の新見解である。この新見解は旧来のほとんど定説であったものを 破壊するのであるが、旧説ではギリシアから伝わったろうという、道筋における状態を 考えずして、みだりにギリシアと日本の東西両端における、実物の単なる類似から漫然 とその説を立てたものに比するときは、われらはこの新見解をもってすこぶる首肯すべ きであろうと考える。これについては、なお諸大家から賛否の論を聞くことであろうけ れど、われらはしばらくこれに聴従する。  円柱のエンタシスが、かくギリシアと日本とで別々に作られたものであり、そうして 他の国々には見られぬものであって、かつこのエンタシスはすこぶる見た目に好感を与 えるものとすれば、ギリシアと並んでこれを用いたわが祖先の美感覚の鋭、かつ敏であ ったことの一証とするに足るであろう。  〈七芸術と科学(一)〉  日本は上述のごとく種々の方面から見て芸術の優れた国であり、芸術においては決し て凡庸ではなかったのである。建築でも絵画でも彫刻でも、すべて支那やインドのもの を学び、その仲介によってギリシアの流れにも接していることは事実である。このこと は決して否定することができないし、また否定しようという必要もない。支那、インド、 ギリシア、それから朝鮮に対しても、諸般の芸術なり、科学なり、また一般に文化事項 を豊富に多大に供給せられ、深く教えられるところのあったことは、感謝をもってこれ を記念する。この諸国は皆わが師長であった。その師恩は決して忘れてはならないので ある。また決して忘れもせぬ。  けれどもわが祖先はすべてのことにおいて、その師授のままに単なる模倣として受け ていたのではない。必ず改造し、同化し、新味を出していないものはない。そうして学 ぶところよりも、優秀な結果を産みだしたのである。  かくのごとくして王朝時代から中世の武家時代にかけて、わが国の特段な芸術が造ら 芸術と数学及び科学 れ、まことに立派なものができたのである。  前にはいわなかったけれども、わが国では刀剣鍛冶の技術が他国に類例のない優秀な 発展を遂げたのも、またこの時代のことである。  けれどもこの時代において数学でも他の科学でも、学問らしい形式に発達することは、 さらに見られなかった。単に技術として存在したのみにすぎぬ。  しかるに江戸時代になると、数学も発達した。諸科学も発達した。これらの発達は全 く江戸時代の産物といってよろしい。  しからばわが日本においてはまず芸術が発展して、しかるに〔しかる〕後に数学並びに 諸科学が発達したのである。芸術が長い期間の発達をしてから後に初めて科学の発達を 見たのである。その期間が余りに長いために、すこぶる注意に触れる。  ここにおいてわれらは思う。優秀な芸術を造りだすことを得た民族は、機会さえあれ ば優秀な科学をも造りだすだけの素質を具備するのである、といい得られるのではある まいか。私はそういう考えがやたらに浮いてきてならない。  反面からいえば、芸術なき国に立派な科学は成り立ち得ないのではないのであろうか。  優秀な技術を有するわが日本は、数学及び科学においてもまた優秀なのであった。 】  以上私はわが日本では、まず建築、絵画、彫刻等の諸芸術が開け、芸術においてはそ の学ぶところの師長をも凌駕して優秀な成績をあげ、芸術能力が必ずしも凡なるもので 無かったことを示し、そうしてその芸術の発達した後に、数学並びに他の科学が発達し たのであり、芸術なきところには科学の発達は望まれないのではないかを論じたのであ る。  しかし一方から考えると、数学だの科学だのを深く学ぶと、人はとかくに理屈っぽく なる。人問味が弱少する。人間味が弱少すれば、従って芸術味もまた失われよう。美術 を見ても、形や色が自然に類するや否やは益々識別するの能力も発達しようが、単に形 似の鑑別に止まり、芸術的の真価が那辺にありやはおいて問わなくなる。科学的の知識 が進むだけ、益々芸術の鑑賞眼を失う。  こういう傾向はおそらくあるであろう。科学と芸術とは両立せぬ、また両立し得ぬと もいいたくなる。  私はかつて二本松に遊んだ。二本松に発句が好きで、しきりにやっている人があった。 二本松辺の旧和算家も例に漏れず、ずいぶん発句など詠んでいたもので、その短冊など も遺っているのであるが、発句の先生はこれらの遺篇を見て一向に感服しない。発句は こういう風に理屈っぽく詠んではいかぬ。今少し平明に感情が流露しなくては駄目だと いうのであった。算家はやっぱり算家で、たとい発句を詠んでも、算家らしい発句しか できないというのであった。  これはもちろん二、三の人々の詠を見て評したもので、全般の議論ではない。しかし ながら一般にこの非難はあるいは、まぬがれないかも知れぬ。たといまれに例外の人物 はあるにしても、この種の弊害に罹ることもおそらく一般の習いであろう。  私はもとより、この種のことがあるのを否定せぬ。そうあってよいことと思う。しか しながら前に述べたところが、これがために変動を生ずるであろうとは思わぬ。全く別 事である。 芸術と数学及び科学  〈八芸術と科学(二)〉  諸外国ではどうであろうか、少しばかり説いて見たい。  ペルシアの有名な詩人にオマール・カイヤム()がある。ペルシアの詩 人としてこれほど名高い人はない。ササン朝時代のペルシアにはフィルドオシー ()のごとき史詩をもって顕われた人もあるが、回教時代になってからのペルシ アの詩人としてオマール・カイヤムと肩を並べ得る人は、他に求められない。この人の 詩についてはわが国でも時折り推称される。  このオマール・カイヤムは如何なる人物であったかというに、もちろん単なる詩人で はないのである。彼は代数学者としてもすこぶるその名を知られている。  カジョリ(9一亀)の数学史にはこの人のことにつき、 代数方程式を円錐曲線の交わりによりて解くことを、一種の方法として成り立たせ るために最も功労のあった一人は、コラッサン(9貧窰。。碧)の詩人オマール・カイ ヤム(約一〇四五ー一一二三)であった。この人は三次方程式を三項式と四項式との二 種に区別し、その各種をそれぞれ族《ファミリ 》に別ち、各族を属《スペ シス》に別けた。その各属は別々 に論じたのであるが、しかし一種の一般|方式《プラン》に拠ったのである。三次方程式は計算 にては解くことができず、四次方程式は幾何学を用いても解き得られぬと信じた。 負根を採ることはしなかった。また正根もことごとく求めることは、しばしば成功 しておらぬ。 芸術と数学及び科学  かくいえば、オマール・カイヤムが成就し得なかったことをもあげてあるので、あま り実力のあった人らしくも思われないかも知れぬ。しかしその当時において、かくのご とき成功を収めたのは、もとより特筆すべきであった。  オマール・カイヤムのごとき回教国の代数学者が方程式解法について幾何学的方法を 用いたのが、中国でホルナーの方法に比すべき近似解法を立てたのとは、全く様子の異 なることは、注意しておかねばならぬところであろう。  オマール・カイヤムの出身地コラッサンはペルシアの一地方である。この地方からは 回教治下の暦算家が多く輩出したのであった。  カジョリの書にもオマール・カイヤム等の著書は回教国の数学の最高潮に達した時で あり、これからは退潮に向かったといっている。  回教国の科学がオマール・カイヤムの時に発達の絶頂に達し、これから下り坂になる ことはサートン博士の『科学史概論』にその事情を巧みに説いている。  オマール・カイヤムほどの大数学者が兼ねてペルシア第一流の詩人であり、ペルシア だけでなく詩人としては古今を通じて偉大なものの一人であったというのは、数学者必 ずしも大詩人たり得べからずとの見解を根底から打ち砕くものでなければならぬ。  オマール・カイヤムは数学者でありながら、この人の詩は理屈っぼくて困るなどとい う非難がない。  レオナルド・ダ・ヴィンチはオマール・カイヤムとともに、最もこれらのために有力 な実例を供する人であった。  ダ・ヴィンチが有名な画家であり、有名な彫刻家であり、有名な建築家であったこと は、人よくこれを知る。  ダ・ヴィンチはまた同時に科学史上に抜くべからざる地歩を成した人であった。そう して数学にも通じた。数学においては、もとより第一流の人ではない。しかし数学史上 の記載に漏れぬ人であった。  『カジョリ初等数学史』には、ダ・ヴィンチが内接正多角形の作図に注意したことを いい、その説くところの方法中の若干のものは単に近似的の作図であって、実用上の価 値はあるが、理論的の興味には乏しい。円内に正七辺形を内接したもののごときは、正 確であると考えたけれども、もちろん近似的に過ぎなかった。またダ・ヴィンチはコン パスの唯一つの開きによりて作図することを試みたが、この試みはギリシアのパッポス ホ ()もかつて説いたことがあり、回教時代はアブール・ウェフア(≧巳≦。邑もま た試みているし、降ってダ・ヴィンチ等がさらに試みるに至ってついに有名なものとな ったのである。  また定規とコンパス以外の手段によって作図を行うことも、またダ・ヴィンチはこれ を行うところがあった。円柱を用いて円積問題を取り扱ったごときがそれである。  大美術家、大建築家たるダ・ヴィンチが数学においてこの種の業績を遺したのは、あ るいは物足りないほど少ないかも知れぬ。しかしながら数学上の業績が美術大家たるこ とと同時に成立し得た実例としては、全く教訓的であろう。  レオナルド・ダ・ヴィンチは美術の大家であり、また同時に科学の大家でもあるから、 その伝記のごときもこれを述べたものがはなはだ多い。あるいはこれをあげる必要はな いかも知れぬ。けれども一通り記さなければ、事情が分からぬ。  今『カジョリ初等数学史』の脚注を引きて、これを記することとしよう。補訳者諸君 に敬意を表せんがためにこれを仮用したのである。  レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリアの人、フィレンツェ近在のヴィンチの村に生ま れた。その父は公証人であり、私生児として生まれたのであった。父には正妻があった けれど、その家に引き取られて、幼少時代は淋しく送られたのであった。十歳の頃には 父の事務所の所在地フィレンツェに出て、有名な画家ウェロッキオに弟子入りした。画 家の天才が発揮されたのは、これからである。後年科学事項に興味を感ずるようになっ たのも、この師の感化によるという。一四ハ二年三十歳の時にミラ1ノ公に仕えて、銅 像の設計、壁画の描写等をしたが、ミラーノの陥落後にはフランスにおもむき、国王の 知遇を受けた。  ダ・ヴィンチは幾何学を実際に応用したのが著しく、「数学の応用のみが知識を正確 にする」と考えたのである。「神の光の学」として透視法を研究した。力学上で力の平 行四辺形、鳥の飛行の力学的研究などがあるし、飛行機の発明にも腐心し、物理学に関 する発見も多く、ガリレオなどの研究の先駆者となっている。しかしながら、その研究 の多くは未成晶のままに遺されたのである。  またダ・ヴィンチが地質学上において山岳の構成のことなど説いたのも、はなはだ傾 聴すべきものがあった。  ダ・ヴィンチは解剖学者のために解剖図を作ったので、解剖のことについても造詣が 深かったという。  ダ・ヴィンチは芸術といい、科学といい、いたるところにその天才の跡を深く刻み付 芸術と数学及び科学 けないでは止まなかった。  われらはレオナルド・ダ・ヴィンチの人物を想うとき、芸術と科学とが完全に結び付 いている最良の適例を見るのである。科学と芸術とが両立し得ずと思うものあらば、よ ろしくこの偉人の伝記を委細に学ぶがよい。その疑問はこれがためにただちに霧散する であろう。  ドイツの画家アルブレヒト●デュ1レル(≧ぴ帛8一0旨2一四七一・一五二八)はイタリ アのダ・ヴィンチとおよそ同時に出た人で、画家として有名な者であるが、この人もま たダ・ヴィンチと同じく円に正多角形を内接する作図など試みた。ダ・ヴィンチは近似 的の作図をも正確だと思ったようなこともあるが、デューレルはこの作図は近似的であ り、彼の作図は正確であると、常に明瞭に述べたものであった。そういうことをしたの はこの人をもって嚆矢とする。  デューレルもまたダ●ヴィンチと同じくコンパスの唯一つの開きで作図をすることを した。  デューレルはハンガリー生まれの一鍛工の子にして、ドイツのニュールンベルクに生 まれた。木彫と絵画を学び、イタリアのヴェネチァに行って大いに得るところがあった。 絵画においても木彫においても、はなはだ成功を収め、多くの傑作を作った。宗教改革 家として名高いマルチン・ルーテル(髻貰ヨ冒夢臼)の心からなる友であった。  デューレルが数学上の著述として最も重要なものは、一五二五年の作であるが、その 中には透視画法、図的解法などをも説いたのであった。  デューレルは紙上に正多面体及び半正多面体の側面をなすところの諸多角形を接続し て描き、その縁に沿うて紙を折り、その多面体を作ることを考えたが、これはデューレ ルが初めて試みたことであった。  デューレルはまた外擺線(晋毫。5§のことをも説き、その作図をもしたのであるが、 この種の曲線のことはギリシアの数学に多少の痕跡はあるが、デューレルが説いたもの は全くこの時から始まる。またその後においてもフランスのデザルグ(じ窃貧。口=亀及び ド・ラ・ヒール(淳5宙邑がこれを説くまでは、再び論ずる者がなかった。二人とも に十七世紀に属する。  西洋で方陣(ヨ轟8。。・臺冩)を説いたものも、またデュ1レルが初めであり、その作る ところの名画「メランコリア」の中に見えている。この画は一五一四年の描写であった。  デューレルは美術との関係からして、高次平面曲線をも論じたのであった。 芸術と数学及び科学  ドイッの画家であり彫刻家であったアルブレヒト・デューレルが、イタリアの大美術 家レオナルド・ダ・ヴィンチとほぼ同じ時代に出て、数学史上に今いうごとき業績を遺 したことは、芸術と科学との交渉を思うとき、決して見のがされない一つの重要事とな る。  次にわれらはイギリスのクリストファー・レン(9旁♂嘗實仆篶三六三二1一七二一一一) をあげる。レンはロンドンのセントポール寺院の建築をもって有名な建築家であるが、 数学においてもまた造詣の深い人であった。  ロンドンの大火災は一六六六年のできごとであるが、この頃にレンはオックスフォー ド大学の天文学教授であったけれども、ロンドンの復興工事のために建築技師として活 躍し、セント・ポール寺院を初めとして五十個以上の寺院や官公衙、大建築物などの再 建に尽力したのであった。  クリストファー・レンの姓名が大建築家として著聞するのは、畢竟これがためである。  レンはロンドンの大火災の時に際会しなかったならば、おそらく数学者、天文学者と して終始したであろうといわれているが、あるいはそうであったろう。けれども建築に 関する素養も識見もなくして、あの大事業が遂行されるわけはなかったであろう。  レンは初めウェストミンスターの学校で教育を受け、十七、八歳の頃にオックスフォ ード大学に入り、次いで得業生となり、一六五三年二十一歳で学士(羣キ)となり、こ れから研究員として四年間を過ごし、ロンドン大学の星学教授にあげられ、またオック スフォードの星学教授に転じたのは一六六一年のことで、一六七三年までその職にいた。 一六ハ○年からハ二年までイギリス学士院長になったこともあった。  数学上においては剛体の衝突に関する法則、放物線体形の鏡面の磨き方、透視のこと、 曲線の弧長を求めることなどの研究があり、一張双曲面の二組の母線をも発見した。擺 線(99=)の長さを求め、その重心をも見いだした。重力則のことに関してもニュート ン以前に多少研究するところがあったという。  われらが今あげたところの二、三の例は、美術家、建築家にして、数学並びに科学の 大家であった人物を例示したのであるが、西洋で透視画法などの発達したのは、絵画と 数学との結び付いたものといわなければならぬ。  このことにつきレオナルド・ダ・ヴィンチ及びデューレルの業績のあったことは前に 述べた。  その他にも画家乃至彫刻家あるいは印版師にこの種の研究のあったものは往々に見ら 芸術と数学及び科学 れた。  ピートロ・フランチェスキ(葭卑8一轟ヨ$9一)のごときもその一人であった。一四九 二年に没したというから、ダ・ヴィンチよりも先輩であったろう。この人も透視法に関 する稿本著述があった。ダ・ヴィンチにしても視学についての研究があり、影絵のこと などもいっているが、たしかに前代よりも進境を見せている。  この頃から画法のことに関して視学(あるいは光学)の研究も開け、あるいはデカルト が虹の理を発見することとなったり、またその他、投影画法が工夫されたりするような ことにもなった。  要するに近世の西洋では大美術家にして同時に数学者、科学者たる者もいるので、数 学上から画法の原理など、著しく進むことにもなったのであり、一方には数学、科学の 正確な眼光をもって絵画や彫刻を試みる者もあって、これがために元来の神韻を保ちつ つ、同時に形似のところを発揮することもできたのであった。西洋の絵画に遠近法だの 比例の取れることだのいうことが、やかましく、自然に即したもののできたのは、畢竟 これがためであったであろう。単に芸術的に見た場合において、その関係の利害優劣が どうであったかは、しばらく別とし、かくのごとき事情が実現されたのは、すなわち西 洋で科学的文化が異常に発展すべき有力な基礎をなしている。  西洋についてはあまりに芸術と科学との直接の交渉をのみ説いたのは、如何にもその 関係が密接であったからにほかならぬ。これを大体の事情から見たらどうであったろう。  西洋の中世には科学らしい科学はなかった。数学のごときもほとんど見るに足るもの はない。  芸術からいっても、やはりさまで発達は見られない。西洋の芸術が大いに起きたのは、 文芸復興の時代であった。前にいうところのレオナルド・ダ・ヴィンチが出たのもこの 時であり、ドイツのデューレルが出たのもまたこの時に属する。  文芸復興時代のイタリアにはラファエル、ミケランジェロ、チントレットなどいう大《ネホ 》 画家も輩出した。その後に至り幾多の名匠が出て、多くの傑作を作り出したことはいう までもないが、しかし復興期においてほど華々しい諸大家の出た時はない。あたかも大 天才を一時に集中したかの観があった。  これよりさき西洋の中世において、丘陵の上に巍峨たる石造の山城が構築されたもの や、諸都市における教会の建造物など、ゴシック式の建築がしきりに造られ、ずいぶん 美観の称すべきものがある。 芸術と数学及び科学  文学においてもダンテの『神曲』などいう神韻を伝えたものが作られたのである。ダ ンテは近年の研究によれば、アラビア文学から、著しく教えられているということであ り、美人ベアトリーチェとの恋愛様式までも、回教文学上に先例があるというけれども、 しかもダンテの詩が稀世の傑作であったことに変わりはない。  今委細に詳論することはできないが、中世時代の未だ文化の開けない時代からして、 科学の発達に先だち芸術の方面において、着々有力な作物が出たことはいうまでもなく、 西洋でも、まず芸術が作り出されて、それから科学の発達が長足に歩み出したものに外 ならぬ。  西洋のこの事情は、日本の中世紀に長い間通じてひとり芸術のみ栄え、江戸時代にな って、初めて科学の発達を持ち来たしたというごとく、その時期において顕著な対照は 見られぬのである。これはすこぶる事情が同じくない。しかしながらあらかじめ芸術が 大飛躍を試みて、引き続き数学や科学の発展となり、その発展は益々進んで停止すると ころを知らざるがごとき有り様となったのである。  西洋には大芸術が生まれて、それとともに大なる科学の発生をも見たのである。  ギリシアで数学が、はなはだ論理的の組織を成したことは、著しいものであった。天 文暦術においても同様に、はなはだ顕著な発展を遂げた。医学や博物学などいうものも、 ギリシアで皆一通り成り立たないものはない。ギリシアの科学開発が大天才の発揮であ ったことは、十目の見るところ、十指の指さすところである。ギリシアでも単に科学や 数学のみが開発されたのではない。ギリシアの建築でも、彫刻でもまことに立派なもの であった。  ギリシア文化の歴史は詩聖ホメロスの詩篇をもって始まる。その詩篇の如何に優美で あるかは、人皆これを知る。ギリシアの神話が巧みに構成されたことを見よ。後には悲 劇の作もはなはだ優れたるものができる。  ギリシアの諸神殿の石造建築は、円柱を建て連らね、ゆるやかな直線形の屋根を葺き、 その屋根を重ねた所が淡白であって、少しも嫌味がない。エジプトの石造の大建築に学 んだところはもちろんあるのであろうが、エジプト建築の粗大なところはないけれども、 またエジプトで見られなかった優雅の観に富む。  ギリシアの大理石彫刻は、古代美術の大成であり、全く他に比類がない。形似におい ても優れているし、優雅の中に力があり、われらはその石彫の写真に対してさえも、深 く敬虔の念に打たれる。芸術におけるギリシアの天才は、はるかに先進諸国を凌駕した 芸術と数学及び科学 のである。  芸術において他の先進諸国を凌駕したギリシアは、数学や科学においてもまた同じく、 はるかに先進諸国を凌駕した。  ギリシアで文学芸術の最も栄えたのは、ペルシア戦争後にアテナイが勢力を伸長鬥伸 善した時のことであった。哲学の繁栄したのもまたこの頃であった。この時には数学 ないし諸科学も見るべきものがあることはあるが、未だ最盛期に到来したものでない。  この時たちまち絶世の英雄アレクサンドロス大帝が出現する。ギリシアはペルシアに 対し、東方に対し、大発展の手を広げる。けれども新たに造り出された、さすがの大帝 国も大帝不慮の崩御とともに瓦解したのであるが、従来文化の中心であったアテナイの 勢力は一旦失われて、再び振るうことができなかった。哲学の最盛期はこれで終わるの であるが、文学においても、また芸術においても、アテナイの国勢伸長【伸善期ととも に全く地に堕ち、これからは次第に衰退の時期となる。これ以後の作品といえども、も ちろん優秀なものがあるにはあるが、しかも全盛期のものに比肩し得べくもないのであ る。  しかるに数学にしても、科学にしても、かえってその後に最も優秀な発展を遂げるこ ととなった。エゥクレイデスが『幾何学原本』を作ったのも、アルキメデスやアポッロ ニオスが出たのも、また星学者のエウドクソスやアリスタルコスなどが出たのも、大算 術家ディオパントスの出たのも皆これ以後のことであった。  大芸術の作られたギリシアにおいて数学科学も異常の発展を遂げたのではあるが、芸 術がまず成り、数学や科学はその後に続いたのである。  この順序を取ったのは、全く自然なのであろうと思う。  ローマはギリシアが国家としては不統一であったのとは違い、一大帝国を建てて、政 治軍事の勢力は勢い並ぶものなく、ギリシアもこれがために威圧され、統御されたので あるが、ローマはギリシアとは違い、独自の文化を作り出さなかったといってもよい。 ローマでは文学といい、建築といい、彫刻といい、哲学といい、科学といい、皆ギリシ アのものを襲用した。  けれどもローマ哲学に見るべきものがなかったことは、世に定説がある。彫刻なども ギリシアから学んで、しかもギリシアのごとき神韻はついに得られなかった。  ローマでは数学のごときは、ギリシアの数学を受け入れることさえできなかった。全 く見る影もなかったといえば、それで足るのである。 芸術と数学及び科学  もちろん、ローマで軍事関係の学問など進んだのはいうまでもないし、道路や水道の 築造に優れていたこともいうまでもないが、数学及び諸科学においては、単に実用的に 少しばかり知っていたというに止まり全く開拓するところはなかった。  ギリシアの優秀な芸術を学んで、ギリシアに及ぶことのできなかったローマで数学や 諸科学がかくのごとき有り様であったというのも、またけだし、当然のことであったで あろう。  ここにも芸術と科学と何か内存的〔内在的〕に関係があることを暗示するようにわれら は感ずる。  この問題については、なお説きたいことは幾らもある。しかしながらあまりに紙数を 重ねた。これくらいで割愛するのも、やむを得ないであろう。  〈九結 論〉  今翻ってわが国のことを回顧しよう。わが国は芸術において、常に学ぶところよりも 優れたものを作り出し、科学においても数学においても常に同様であった。われらはす でに芸術と科学との間に存すべき内在的の関係あるべきことを学び、芸術なき国に科学 は栄えぬことをも了解したのである。はたしてしからば、美術国と称せられ、芸術味の はなはだ豊かなわが国において、数学にせよ、諸科学にせよ、注洋として旭日の天に冲 するがごとく、進み進み、また進まんとする勢いあること、決してわれらが架空の妄談 でないことは、賢明なる読者のすでに充分了解されたところであろうことを信ずる。  わが国の数学の前途はこの点からいっても、多幸なりということができよう。  われらは、しかく見ることにおいて誤っていないことを確信する。 付論数学史の研究に就きて  私が数学史の研究に着手したのは、明治三十八年のことであった。これより先米国の 数学者ハルステッド博士とふとしたことから文通上の知りあいとなり、同氏の勧めによ って外国へ紹介する目的で少しばかり日本の数学のことを書いてみるつもりで着手した が、この頃に参考の書類といえば、故遠藤利貞翁の、『大日本数学史』(明治二十九年刊)が あるばかりで、しかもその記事は了解し難きところ多く、古い日本の算書すなわち所謂 和算書について研究しなければならぬことを感じた。しかるに新たに蒐集しようとして も経費があるでもなく、随分苦しんだのであった。幸いに岡本則録翁などの好意によっ て幾多の貴重な書類を供給されることが出来て、幸いにも一通りの記述を成し得たので ある。  私は初め日本の数学の研究に従事するにあたり、元来支那の数学を基礎として発達し たものであるから、支那の数学発達の跡を明らかにすることが先決問題であろうと考え、 出来るだけ支那の数学をも研究してみたけれども、支那の数学についてはわずかに阮元 の『疇人伝』があるだけで、他にほとんど拠るべき書類もなく、支那の算書といっても 帝国図書館などに若干の所蔵があるくらいのもので、資料の欠乏にはいかばかり苦しめ られたかしれない。支那の数学上に最も貴重なる『九章算術』の如きはその頃には未だ 全く見ることを得ないのであったが、幸い本郷の一書店で見いだすことが出来た。しか も「算経十書」一部四円というのが、その頃の私には買い入れることが出来ないで、ま ことに心を苦しめた。その頃あたかも故ありて上総の大原へ転住することとなり、その ままになったのであるが、どうしてもこの書に対する未練が棄てられかねて、やっと四 円の金を工面し、在京の友人に托して買ってもらった。この「算経十書」は私が支那の 数学史をとにかく一通り取りまとめるために、どれだけ役に立ったかもしれない。「算 経十書」は勿論珍本でもなく、またこの書がなくては支那数学の根幹は尋ね得られない 重要なもので、支那の数学史を考えるほどの人は必ず参照すべき普通の算書であるけれ ども、この書物を見つけて、しかも手に入れかねた時のつらさは今に忘れ得られぬので ある。  かくして私は極めて貧弱な資料しか参照することは出来なかったのであるけれども、 ともかく、明治四十二年に至ってかねての約束の如く、独逸《ドイツ》のライプツィッヒ市トイブ ナー社から出版すべき英文の『和漢数学発達史』と、またほかに米国コロンビア大学師 範科の教頭スミス博士と共著の『日本数学史』との原稿を書き上げることが出来た。今 から思えば、こういう貧弱な材料で二部の書を書き上げ、しかも海外で発表するなどい うことをしたのは、無謀の大胆さであったことを恐縮する。  この二部の書の一方は独逸での出版であり、一方は米国の出版ではあるが、これもま た印刷は独逸で行い、その校正は独逸から西比利亜《シベリア》鉄道によって送られ、それを再び米 国へ送るのであって、随分多くの時日をも要した、けれども両書の一方は世界大戦の始 まる一、二年前に出版を終わり、一方はその年の初めに出来上がって、両方ともに戦争 に煩わされることもなく、無事に完了したのであった。スミス博士と共著の方は、同博 士が文筆に達した人であるから、はなはだ流暢に説述せられ、これがために日本の数学 史が欧米の学界に紹介される上に極めて好都合であったのは、しあわせである。  これより先、菊池大麓博士が英文で和算の算法を説いた数篇の論文があり、また藤沢 利喜太郎博士が巴里で開かれた万国数学会議に出席して、日本の数学のことを略述され たものがあつて、この藤沢博士の論文は短篇ではあるが、かの国でははなはだ有名なも のになって居る。そうして林鶴一博士が和蘭《オランダ》の雑誌へ「日本数学略史」と題して紹介を 始め、独逸ではキール大学の教授で、同所の天文台長であるハルツェル博士が、「旧日 本の精密科学」と題し、主として日本の数学史を説いた論文も現われ、それが私の研究 起草中のことであって、これがためにかなりに悩まされもしたが、私のためには起草を 断念するほどの必要にもならないのであった。これらの諸論文に対し、私は少しばかり 意見をかの国の雑誌上で発表したこともあり、それから日本の数学に関する寄稿を依頼 されるようのこともあって、白耳義《ペルギ 》のサルトン博士が科学史専門の雑誌『イジス』を創 刊した時にも、同博士からの依頼によって多少の関係を結ぶこととなり、同雑誌第二巻 へ日本の行列式論のことを紹介したのは、その結果であった。しかもその第二巻の初号 が出て間もなく、世界大戦となり、サルトン博士は蔵書や雑記を庭内に埋めて米国に避 難し、雑誌はしばらく休刊のことになったのである。  世界大戦が勃発してから以後には、和算に関する寄稿を依頼して来るむきは、いっこ うに中絶してしまった。  かくて一九一七年に至り、伊太利《イタリ 》の数学者で希臘《ギリシア》数学史の一方の雄であるローリア博 士が、日本の数学史を論じたことがあるが、その中には私の書いたものが引用中の大半 を占めて居る。博士のこの論文は有益なものであって、和算史の研究上には他山の石と してはなはだ尊重すべきである。なにぶん伊太利語であるために、これを翻訳すること もなし得ないで居るけれども、これを邦文に翻訳してわが学界に伝えることも決して徒 爾ではあるまい。  翻ってわが国内の事情を見るに、明治三十九年に故菊池大麓博士は帝国学士院で和算 史調査の事業を起こし、『大日本数学史』の著者遠藤利貞翁がその算書蒐集及び調査に あたることとなった。菊池博士もその頃には閑地にあったので、遠藤を相手に自らも研 究に従事するつもりであったとは、博士の直話であるが、ついで博士は英国へ行くこと となり、またついで京都帝大総長に就任したので、自ら研究をこととすべき余暇を得ら れないこととなった。遠藤翁は勢州桑名の江戸諸〔詰〕藩士であって、和算家の出身であ るが、洋算に対して和算の萎微塞靡〕振るわざるを慨し、明治十一年の頃から奮って和 算史の研究に従事し、貧苦と闘いつつ、明治二十六年に至って初めてその大著を脱稿し、 三年後の明治二十九年に三丼八郎右衛門氏の出資によってこれを刊行したのである。和 算史のまとまったものが作られたのは、これを嚆矢とする。こより先菊池博士は和算史 の研究を思い立って、これを順天求合社の設立者福田理軒に図ったこともあり、また岡 本則録氏を煩わさんとしたこともあったが、議まとまらずしてそのままとなり、その後、 上州の和算の大家萩原禎助翁を聘してことにあたらしめ、また川北朝鄰翁の如きも算書 を提供したことがあった。しかもこの頃にはさまでその事業は進まなかった。しかるに 遠藤翁の『大日本数学史』の作られたのが機会を与えて、明治二十ハ年から理科大学で 算書を蒐集することとなったが、明治三十二年に菊池博士が大学を去るに及んで、中止 されたのである。東京帝大にはこの時の蒐集にかかれる和算書あるをもって、私は三上 参次博士を介して、その閲覧方を依頼したのであるが、三上博士は特に菊池博士を訪う て紹介の労を執られたのである。しかるに菊池博士は学士院にて再び調査を始める計画 があり、また私が外国で発表した一、二の論文をも見て居られたので、私がその事業に 関係することを希望されたのであった。かくして私は明治四十一年から、自由に資料の 使用を許可するとの条件の下に学士院の嘱託となり、その当時は大原に居たので、未だ あまり便宜を得ることも出来なかったけれど、私が和算史について豊富な資料を自由に することが出来たのは、全く菊池博士の好意によったのである。  菊池博士と同時に狩野亨吉博士もまた和算調査の計画を立て、やはり遠藤翁を煩わす つもりであったが、遠藤氏が学士院の嘱託になったので、その計画は進行せずに終わっ た。  私も初め米国力ーネギー・インスチチューションの研究費支給を仰がんと欲し、米国 の数学史家で去年物故せるカジョーリ博士なども尽力されたのであったが、時経て国内 の研究者が多いからとの理由で成立しなかった。後で聞くと、菊池博士へ問い合せて来 たということで、博士は私を知らないから見合せたがよかろうと言ってやったのである が、実は悪いことをしたと、語られたことがある。狩野博士もまた同じ学院の研究費に 頼ろうとされたのである。  かくして遠藤翁は大正四年四月、七十三歳で殘し、これから私は学士院のために和算 書蒐集のことをも担当することとなり、広く全国各地を跋渉して、諸算家の家につきて 調査し、和算の各地方に広まった状態などのことは、かなりこれをうかがうことも出来 たし、また幾多の算書及び史料を得たことは、まことに感謝するのである。遠藤翁病歿 の時に、その数学史増補の遺稿があって、菊池博士の希望によりてこれを学士院に収め 稍々整理して、『増修日本数学史』の書名を附して刊行したのであり、その出版費につ いても再び三井男爵家から学士院へ寄附し、それで出来たのである。この書は著者にと ってももとより未定稿であり、また不完全のところもはなはだ多いのであるが、しかも また見るべきところがあり、そうして他の諸研究は続々これを発表してその欠陥を補う という計画であったが、この書の刊行前、すなわち大正六年ハ月に菊池博士は脳溢血の ためににわかに他界せられ、その計画もまた実行されることが出来なかったのは、遺憾 このうえもないことであった。  仙台に東北帝国大学が設立されたのは、明治四十四年であるが、林鶴一博士が数学の 主任教授として赴任した。博士は前から和算史の研究に従事して居る人であり、今やま た和算史の調査をすることになって、私に書状を寄せてその事業に関係することを頼ま れたのであるが、私は同一の事業である学士院の方を棄てて仙台に行くことをよしと思 わないし、また研究の結果は、一部分は教授の名義、一部分は共著とし、他の一部分は 私一人の名前で発表するという条件であり、その条件も思わしからぬものであったので、 私はその書状を三上博士に示して相談した上、遺憾ながらお断りした。後いくばくもな く、時の東北大学総長であった沢柳|政太郎《まさたろう》博士から三上博士を介して、前の条件を取消 し、数学主任教授の監督を離れ、総長の直属として和算史調査のために来てもらいたい という交渉を受けたけれども、三上博士の意に従い、沢柳総長を訪いて再びお断りした。 これから東北大学では狩野博士の豊富な蔵書を購入したりなどして、和算書も貴重な蒐 集があり、ついでまた新たに多く集められて、帝国学士院と相並び、和算書蒐集の二大 宝庫となったのである。そうして同大学からは柳原吉次氏の如き人物も出て、和算の研 究をしたりなどしたものであるが、後に同大学を去って山形高等学校の教授となり、そ れからはこの種の研究を発表されなくなった。しかも林博士はその豊富な蒐集を利用し て、屡々多くの研究を発表している。  帝国学士院の和算史調査は、大正十二年十二月に経費の都合というので一旦中止せら れ、私は去ることとなったが、この後においては宇都宮乕雄という英語の教員をした人 が目録を作り、同氏の殘後には和算の老大家岡本則録翁が和算書の整理及び目録の作製 を担当している。しかも調査研究は全く中止された有り様であり、これほど遺憾のこと はないのである。  私は現に東京市史編纂上の依頼を受け、諸算家の事蹟を調査して居るが、何と言って も、和算の発達は江戸を中心としてのものであり、江戸の数学といえば和算の全体に関 係を有するのであって、全部の調査を終わるのは一朝一夕のことでないけれども、いか なる犠牲を払っても、出来るだけは江戸文化の最も主要な一面としてこれを描き出して みたいと思う。この調査は同時に私自身の研究にもなるのであり、その間に分界線を画 することももとより不可能である。この調査によって、私の研究もまたこれを取りまと めることを希望して居る。  大正十五年の秋、東京で汎太平洋学術会議の開かれたとき、学術研究会議では『日本 科学総覧』と題する英文の一書を編纂して、諸外国から来会した人々に分与したが、私 は同会議の会員ではないけれども、特に同会議の依頼によりて和漢数学史の一班を略述 してこれを寄せたのであった。日本の医学史については富士川游博士がその中に執筆さ れている。  昭和三年春には「輓近高等数学講座」の刊行があり、私はその中の『東西数学史』を 担当し、まず日本の数学から説き起こし、支那、印度、亜刺伯《アラビア》、西洋という順序をとっ てみた。勿論短篇の記述であって言うべきほどのものではないが、この種の教育用の刊 行物中に数学史が利用されることになったのは、歓びである。ついでその翌昭和四年に は「輓近高等数学講座」中に『数学史叢話』を説き、和漢数学のこともまた若干の記載 を試みた。私は勿論鼓張や虚構のことは説かぬけれども、和漢ないし印度等の数学上に も見るべき創意に乏しからず、必ずしも西洋にのみ譲るべきでないことを示し、数学史 の回顧によって後進子弟の自覚を促し、鼓舞に努めたつもりである。これから数学史が 数学教育上の実用になるであろうことを、切に希望する。  私が和漢の数学史について包懐するところの大体の見解は、上記の『東西数学史』、 並びに大正十二年〔十一年〕に『哲学雑誌』で公にした「文化史上より見たる日本の数学」 の中に略々記されている。この後者は実は私の研究の「プラン」であり、着々その研究 の実現を望んでいる。支那数学については、『東洋学報』上に載せたる「支那数学の特 色」、「疇人伝論」、「清朝時代の割園術の発達に関する考察」の三篇は、特に支那の数学 史家の評論を待つのである。書肆の依頼で『支那数学史』を作り、昭和四年の夏に脱稿 して印刷中であったが、書肆の都合で印刷を中止している。いずれ多少書き改め、なる べく早く発表したいことを希望する。支那数学の発達並びにその算法の性質を知るため の参考にはなろうことを思うのである。  日本の数学についてもなるべく委細に取りまとめたいと思い、既成の部分も原稿三千 枚ほどとなり、なお補正添加に努めて居る。東京市史稿のための調査を待って一通り完 成したということにしたいことを期待するのである。  民国十九年(すなわち昭和五年)十二月十五日天津にて発行の新聞『大公報』に葉恭綽 という人が宋の沈括の科学上のことを記した通信を載せ、記者はその附記において支那 の科学史のことを言って居るが、 その終わりに次の如く言う。 中国天文数学。歴史甚古。不レ可レ謂レ不二発達'中古受二印度阿刺伯之影響'近古受'禁泰 西耶教徒之影響'其間経路有極難レ明者4又其学問本身之発展。有下逃二出現代西洋該 科学之系統一者'吾人既絶二望於国内専家之闡明'不レ能レ不下先学二日本文'以傾中聴日 本学者之議論一例如レ対下於中国数学史、天文学史上有二疑難一処'取二読日本三上義夫、 新城新蔵、飯島忠夫諸人之著作'雖三議論紛紛。未二必皆可ワ信。要亦能略得二其梗概一 也。吾人対葉避庵君来函4又想二及何炳松君之議論'不レ覚百感交集。  この文中に見えたる新城新蔵、飯島忠夫の両博士は支那古代の天文学史の研究に偉功 ある人、その所説は一は支那起源と言い、一は西方からの伝来といい、両々相反するけ れども、両君の力によってこれまでに組織立てられたのは、実に偉観なりと謂わねばな らぬ。支那で現にこの種の研究のないのは言うまでもない。しかるに私が支那の数学史 について論じたものは片鱗に過ぎず、かつ支那には現に李儼、錢寶綜、張蔭麟、茅以昇 等の諸君があって、支那数学史の闡明に努めつつあるのである。私はこの諸君の中に伍 して多少の新見解を述べたのみである。切にこの諸君の高評を望む。  私はさきに上海の科学者鄭貞文君に会ったとき、支那の数学史家の中で、西洋へ紹介 する人があって欲しいことを話したが、同氏の談では錢君が書けばともかく、外国文に 堪能な数学者は索め難いであろうとの話であった。錢君は浙江大学の教授であり、英国 に留学した人である。しかるに去年の夏同君から贈られた書状には次の如く言う。 対二於貴国算学'琢為二門外漢4以前毫無二研究4今得レ見二大著4史料之豊富。考窮之 精確。万分欽佩。万分慚愧。珠前以レ不レ暗二貴国文字一為レ苦。本年従レ師習読。因得二 粗知二文典4預料半年以後。或可レ閲二覧浅近日語参攷書一矣。将来擬請先生紹介貴国 算学史書籍及和算旧書幾種4以資研究4珠二十年前。嘗在二英国4留学数年。然英文 程度浅薄。祗能読而不レ能レ写。当引以為二憾事'先生能以二英語一宜二伝東洋文化'対二 於世界算学史4貢献実多。亦足二以自豪一矣。  しからば錢寶綜君の如きも、外国文に綴って欧米に紹介する意志はないのであろう。 米国の女流数学者コナンツ女史は、支那数学研究の目的で、北平(旧北京)の燕京大学教 授となり、現に同校の陳教授という人とともに『四元玉鑑』の英訳をしているが、この 人など充分に研究を進めて西洋へ支那の数学を紹介してくれられることを希望するので ある。現に多くその紹介に努めているのは、白耳義人ワネー師であるが、この人には誤 解が多い。私が「疇人伝論」を作ったのは、この人の誤解を解いたのである。  印度の数学史についても近年研究が次第に進むようであるが、先ごろ、カルカッタ大 学教授ダッタ氏が印度と支那との関係を述べて居る中に、二十年前の私の旧著を参照し ているので、近頃私自身もまた支那の数学史家の研究も段々進んでいるから、旧著の不 精確であったのが愧ずかしいというようなことを申し送ったのであった。しかるに同氏 からさらに寄せられた書状は、私も無感覚に読むことが出来ないのであった。試みに和 訳してみよう。 …・私ども支那語日本語に通ぜざる者には、貴下の前著『和漢数学発達史』が今でも 唯一の信頼すべき懣拠に有之候。小生は貴下に対し、その後の御研究によって御増補 に相成り、少なくも英語にて数学史を学び候者の便宜のために、適切なるものに被成 下候事を懇望仕候。かくの如き和漢数学史の包括的にて権威ある著述が作られ候わば、 一般数学史上のために大切に有之候のみならず、非亜細亜的諸学者がともすれば東洋 人は数学について創見なきかの如く見なしがちに相成候処の証拠もなく正しくもあら ざる非難に対して、亜細亜の文化をはなはだ正当に立証することにも相成り可申候事、 容易に御承知可被下と存候。  印度の数学については英国の高官たりしケー氏が随分曲解して、印度には数学の能力 なしという如きことを説いた例もあるが、この人もまた支那との比較については私の前 著を参照したのであった。支那の数学に関しては、ワネー師が支那人の能力なきことを 立証せんとして居る。これも事実を語るものであれば、やむを得ないのであるが、どう も正鵠を得たものとは思われぬ。私も及ばずながら、事情が許すならば、ダッタ教授の 希望に添うような支那数学史を説いてみたく、閑暇さえ得られるならば、再び欧文の著 述に回らぬ筆を執ることにしたい。  巴里に万国科学史委員会なるものがあり、伊太利の科学史家ミーリ氏が主になってや って居るのであるが、私はさきに誤ってこの委員会の通信会員に選挙された。勿論予め 私の承諾を得てのことでも何でもない。けれども未知の人、未知の会からこの選挙に預 ったことは光栄に感ずる。今のところ、東洋人中には私が唯一人でもあるし、相成 るべくは支那日本の科学史特に数学史に関する報告をもしたいことに思う。もし数学史 研究の傍ら欧米へ紹介の労をとることも出来るならば、これだけでもせめて多少の貢献 になろうことを、心ばかりの慰藉とする。  私は数学史の研究について、現にかくのごとき状況に立って居るのであるが、出来る だけは完成を急ぎたいので充分に識者の援助を請いたいのである。  なお『日本数学史概要』はなるべく急いで書き綴り岩波書店から出版することにして 居る。