岩野泡鳴『ぼんち』 「ほんまに、頼りない友人や、なア、人の苦しいのんもほツたらかし といて、|女《をたこ》チにばかり相手になつて」と、|定《さだ》さんは|私《ひそ》かに溜らなくな つた。  づんく痛むあたまを、組んで後ろへまわした両手でしツかり押さ へて、大広間の床の|間《ま》を枕にしてゐるのは、ほんの、酔つた振りをよ そほつてゐるに過ぎないので。  実は、あたまの|心《しん》まで痛くツて溜らないのである。  芸者も芸者だ。気の|利《き》かない奴ばかりで、|酒落《しやれ》を云つたり、|三味《しやみ》を じやく鳴らしたり、四人も来てゐた癖に、誰れ|一人《ひとり》として世話をし て呉れるものがない。 「ええツ、こツちやもほツたらかして往んだろかい」とも心が激して 来た。  渠は実際何が為めにこんなところへ来たのかを考へて見た。夕飯を 喰,へてから、近頃おぼえ出した玉突をやりに行くと、百点を突く|長《ちやう》さ んと八十点の|繁《しげ》さんとが来てゐた。  長さんはさすが上手で、繁さんの半分さ.行かないうちに勝つてしま つた。  定さんは上手な人に|使《つか》ふて貰ふ方がいいと思つて|捧《キユウ》を持ちかけると、 横介から繁さんが出て来て、 「わたいとやりまひよーよんべはわたいが負けて敷島を散財したさ かい、今晩はなかく負けまへん。」 「わたいも負けまへん。」 「ほたら、ビールだツせ。」 「よろしゆおます。」  定さんは持つた|棒《キユウ》を置いて、|非《ぴ》朋|翠《すゐ》の輪が付いた胸の|紐《ひも》をはづし、鉄 色無地の|紹羽織《ろばおり》をぬぎ棄㎡Lた。二、して白紹に黒色の形を染めた|儒神《じゆにん》の 両袖を折り返し、|絹立万筋《きぬたで まんすぢ》の越後|縮《ちぢみ》を紋紗の角帯で結んだ腰を後ろの 方へ突き出し、|生真向日《きまじ 》た顔を|縁《  シン》のそばへ持つて行つた。目をぱちく り、ぱちくりさせながら、ねらひを定めて、|棒《キユウ》を二三度しごく度毎に 顔が自分の手とさき|玉《だま》とを往復するその様子が|如何《いか》にもをかしいと云 つて皆が笑つた。で、長さんが黙笑をつづけながら椅子を離れて来て、 「そないなこツちや|明《あ》きまへん。」そして定さんの尻を押して右へ寄 らせ、そのから一だの|据《す》ゑかたとねらひの付け方とを教へた。  兎に角、弱い方から突き初めるのが規則だと云ふので、定さんから 突き初めたが、最初の一突きも、そのやり直しも当らなかつた。三回 [にうんと突いた玉は当つたが、ただの一光だッた。 「ちよツ!」定さんはわれ知らず|舌打《したう》ちをして、長さんを見た。 「占め、占め」と叫ん一で、繁さんはねらひ寄つた。 -、しツかりせんと負けまツせ。」長さんは親切らしく応援をした。 -,負けたかて、よろしゆおまツさ。」かう云つて、定さんは鮭初から の不戊績を|身《み》."から弁護してゐたが、それでも最初の勝nには勝つ-た。 フてれから、然し、.、…つづけて失敗した。そしてどちらからも、負け た度毎に朝ロビール々∴木づつ明けた、  二…つ。"けて勝つた-ト一のが満足書つにコップを依竺」り(あを見ろ と、残A、心.で〜\溜らないので、定さんから進んで今一…を要求して、 また見事に負けた。渠はつひに往生しf、、一息しながら、四本目のビ ールが半分になるのを見てゐた頃、松さんだ一、旭人つ、て来た。 「またけたいな|奴《やっ》が火トろた」と思つた。定さんから児ると、松さん は身なりが余りよ/、ない上に、乱暴肌の男なのが気になつた。 「さア、ぽんちの散財だツせ」と、繁さんは連勝を誇りがにコッブを 新来者にさし出した。 「ふン」と、松さんは不満足さうに手を出しf、コップを受けた。渠は 既に一杯機嫌の顔をしてゐた。 「ビールやあきまへん、なア。」 「けど、なア、わたいが続けて三番勝ちましたのんや。」 「ほたら、ぽんち」と、松さんはあけたコップを下に置♪.一ご、「わたい と一番七十で行}、ヒまひよか?」 三-、りや無理だす。L長さんは定さんの肩を持つて呉れるやうに、 「松さんも八十で行きなはれ。」 「、え、えッ、負けたろ!7ての代り、なア」と、|樺坑《キユウじり》を|床《ゆか》にとんと突い て、 その響を今思ひ出すと、定さんのあたまへは一しほぴんと来 るのである、「宝塚だツせ、宝塚。」 「そりや面白い。」繁さんも側から賛成した。 -ぽんち、しツかりやんなはれや。」長さんが云ひ添へたのに力を得 て、定さんは一生懸命になつた。 フ〃、ないに月の色まで変へんかてええやないか」と云つて、松さんは 憎いほど落ち付いf、ゐた。.一点、五点、七点、十点と身づからの声で 数へながら、渠は、定さんが三回もから|棒《キユウ》を突き、二回二点と三点を 取つたうちに、あがつてしまつた。 「さア、宝塚や、宝塚や!」松さんは|小躍《こをだ》りして喜んだ。渠は長さん と繁さんとに|頻《し 》りに何か耳打ちをしてゐたが、やがで、うち|揃《モろ》つ」てそこ を出た. 「わたいも一"けまへんか」と、 ボーイが」一ムつたが、{止さんがそんなに 大勢は迷、惑だと云ふ顔をしたので、他のもの等が遠慮して引ツ、張らな かつた。 「あの時、いツそのこと、皆をことわつてしもたらよかつた」と定さ んは考へて見て4、跡のまつら、で.仕方がない。  江戸.橋から市中の.電車に乗つたが、松さんは景気よく大きな声を出 して、|相生《あひおひ》にしレ」うか、|菱富《ひしとみ》にしようかと皆に相談してゐた。 いづれ酒を飲む場所のモ差ら一うから、他の人々の手前、こツヲ'、り 相談すれぱいいのにと、定さんには何だか晴れがましく思はれた。が、 松さんは人前もかまはず嬉しさうににこ付きながら、づかくと渠の 腰かけてゐるところへやつて来て、渠の意向を聴いたのである。渠は 自分のお、ごりだから結局自分のさし図を他のもの等が受けるのだと思 つて・少々得意にたつたと同時に、い三がいいのやら一向勝手が分ら ないのを恥妥」あると思つた.そして、おど--㍉た。ビ↓も飲キ、、 なかつたのに顔…に少しほてりをおぽえながら、暗にどこがいいのだと 尋ねる目附きを松さ.んに向けた。 でも、松さんはそはくしてゐて、定去㍉の心持ちを判じて娯㌃ 、藁.背は低いが、緯に鼠灘の獲を構せ、その腰に白縮緬の 兵児帯をしたやうなからだを釣り革にぶらさ力らせ、車台のゆれる通 りにゆれながら、 「おい、どツちヤにしヨう?」 「::…」定さんはこの時ほど恥かしいことはなかつた。溜りかねて 座席から立ちあがり、人々に聴えないやうに松さんの耳もとへ口を持 つて行つて、「どツちやが.え.え?」 「そりや菱富の方が 」と、松さんは自分のよく行く方の名を云つ た。 「ほたら、その方にしまひよ。」 「わたいの通りだ.ツせ」と、また大占一-.な声をして松さんは他の友人冷-. 返り見た。  定さんはどちらに決つたのかを|不図《ふと》おぼ、え落したが、"}、の声.で自分 等の秘密を人の前であばかれたのをひ}、りと感じて腰、r、}、,ろ.した。す ると、松さんはつづけて渠を呈.ψろし、 「|廿《げ》、|五子《いニ》は四人と決つたぜ.」 「芸子までも」と、k問しようとしたが、ロには出なかつた。デてんなも の圭蜘けたのぢや三いと云ひたかつたのだが、兼て一度は呼ん.で 見た∵一思つて皇㌻一のが呼べると考へると、嬉しさと恥かしさとに ζふらだがすくんでしまつた。それに、行く人数だけ呼ぶのだとす れば、自分にも一名当るのだから、自分はその当つた女とどうすれば いいのだらうと云ふことに考へ及んで、身ぶるひをした。        二  梅田から郊外の勢仙電車に乗り換へる前に、松さんはそのそぱの郵 便局から今行くからそのつもりでゐて呉れいと云ふ電話をかけた。 ≡すが、松さんや、なγ。」定さんは、かう心で感心しながら、遠 距離二+五銭の電話料を出してやつた。  その頃には、もう、長さんや繁さんの顔にも酔ひが+分に,出てゐた。 それでも、最も多く日に立つほどはしやいでゐたのは松さんば、りで、 どこかで飲んだ|下地《したち》があつたので腰がふらくしてゐるにも|拘《かか 》らず、 電車の中を別々に離れた長さんのところや繁さんの前へ渡つて行つて、 何か面白さうに度々耳打ちをしてゐた一uそのあげくが定さんの隣りへ 腰をおろして、その肩に痛いほど  実際、痛かつたが  抱き付い た。そして、わざとだらうと思へたほど酔つた振りをして、 「おい、こら、ぼんち」と、定さんをゆす振り、渠の鼻のさ♪さへ|熟柿《じゆくし》 のやうにな-つた円敵を、ぬツと突き出した。「あんたにも、なア、え え|女子《ウ なご》を世請してあげ↓、{ツせ。」  定さんはそれが恥かしかつた。目をそらして、きよろくと誰"と も知れない隣りの人や正、向の人を見た。そして、椿う云ふ人々が若し うちの人や出人りの男であつたら、直ぐおやぢや姉さんに知れ'-、.し工よ うだらうに  と、 「おい、ぼんら、心配するな、大丈夫や。」松さん舛.芝|無性《むしやう》にはし やい、でゐて、琴えや繁さんが禰神の肌ぬぎに}、4つたのを見て、 「おらもやつたろ」と云つて、同じやうに肌をぬいだが、禰搾を着て ゐたかつたので、血肌4じあつた。 「肌をお入れドさい、規則ですから」と、車掌にやツつけられて。、松 さんがすごく肌を人れたのは、定さんには|気味《きみ》がよかつた。  松さんはなほしつこく定さんの肩に取りすがつて見たり、低い歯の 向ふ|附《づ》き|利久《りきう》をはいた足さきで|空《くう》を蹴ツて見たりしてゐたが、そこに は落ち付けないで、定さんの向ふ側の席へもどつた。その時、渠はど うした拍子か、 見てゐた定さんが思ひ出してもをかしくなるのだ が、  自分の|脱《ぬ》いで置いた|麦藁帽《むぎわらぱうし》チと隣席の人のとを取り違へ、隣 席の人の|被《かぶ》つてゐた帽子をその人のあたまから取つて自分のあたまへ 上せた。 「どうした?」東京口調で怒つた隣りの人は、それを|突差《とつさ》の問に奪ひ 返した。 松さんも自分の失敗に自分でぴツくりしたのか、失敬しましたとも 何とも云はず、腰をあげて、自分の帽子がアての脇にころがつてゐるの を探し取つた。そして黙つて再ぴそこに腰をかけ、乎なる帽子を 失敗の時と同じ手早さで  あたまに上せた。  他の友達は二人ではツはと笑ひながら、何かしやべり合つてゐたの で、それに気がつかなかつた。が、多くの乗客は東京弁の怒り声がし た方へす.、へての注意を向けた。中には、その時の様子を見てゐたので、 思はず吹き出したのもある。 松さんは独り興ざめた顔をして、席をまた定さん9てばに移し、 「暑い、なア」と云つた切り、窓から外をの"ていた。  同じ側の乗客でまたわざとらしく吹き出したものがあるが、定さん は をかしいとは思ひながらもーi笑ふだけの余裕がなかつた。 「四人の料理に四人卑、五了や。なんぽかかるやろか?ふところには、 二、ないに|仰山銭《きやうさんユ に》持つてやへんのに。足らんだけは、.肛話でうちへ一云ふ て、|助《すけ》さんに|持《も》て来f、もろたらええ、、i」こんなことを考へながら、何 だか嬉しいやうな、おえてろしいやうな、|賑《にヰしや》かなやうな、悲しいやうな 気分に律来せられ'-、、行くさきばかりが急がれた。で、松さんと一緒 に無.言で外を眺めf、ゐると、、電車が切つて進む涼しい風がほてつた顔 に当つて、からだの|汗臭《あせくさ》いのをも吹き払つて呉れる、  |新淀川《しんよとがは》の鉄橋を渡る時など、向ふに|焚《た》い|松《まつ》をともして.|漁《れふ》でもしてゐ る光が水の上にきらくと映つて、玉突屋などではとても見られない 涼しさであつた。 「もう、|鮎《あゆ》が取れるのんや、なア。」 「さうだツしやろ.、」  こんなことを小さな声で語つてるうちに、+|三駅《じふモうえき》も過ぎてしまつた。  大阪の方の空がぽうツと赤くなつてゐるのが見、える。あの下にうち の者や好きな|女子《をたご》等が、殊に、隣家の静江さんも住んでゐるのだ、な、   そして、その空が車の向きで隠れて行くのを追ふ為めに、定さん は窓から首を出した。そのとたん、頑固なおやにでも太い棒を以つて |投《なぐ》られでもしたやうに、渠のあたまをいやと云ふほどがんとやつ付け て行つたものがある。 ∵のぶない!L松さんの手がいつのまにか定さんのあたまをさすつて ゐた。 「|何《なん》や、何や?」長さんも、繁さんも、松さんの声に驚いてやつて来 た. 「あたまを柱で打ちゃはッたのやコ」 「|怪我《けが》しやへんか?」 「したか知れへん。」松さんは定さんの無言で押さへてゐる手を無雑 作に押し|除《お》けて、そのあたりを方々|円《まる》く撫でて見た。 「てん、ご、つすな」と、出疋さんは云つてやりたいほどであつた。 「異状はありませんか?」車掌4.やつて火て、見舞ひを云つた。 「えらいこと4ないやうだす。」松さんはこの揚合、かう云つ÷.遣か た玉ければ、口的地へ行けないと思つたのだらうと、定さんは跡になつ で、考へられたド、 一あの時直ぐ引ツ返して大阪病院にでも行たらよかつたのに 今で は、もう、|手後《ておく》れか知れへん.」考へて見ると、A、にも自分の死が近 ,ついてゐるのではないかと思はれる。押さへてゐるあたまが段々張れ ぽッたくなつて来るやうで、その張れぼツたいのは、|頭蓋骨《つがいこつ 》の砕けた 間から、脳味噌が|溢《あふ》れ出たのではなからうかと。 三  両手で押さへてゐても、づんくあたまが痛む。が、世話役の松さ んは少しも思ひやつて呉れない。おのればかりがえらさうな|風《ムう》をして、 長さんや繁さんを番娘ででもあるかのやうに取り扱ひ、来てゐる芸者 を皆までわが物にして、 「おい、ぼんち、不景気に|何《なん》ぢやい、しツかりしなはれ」もあきれて しまう。 「宝塚へ行たら、医者に見てもろたらええ」と云つたではないか? それを、終点で下りると全く忘れてしまつて、直ぐ酒だ、芸子だ.とさ わぎ出した。  玉突には負けたが、一体、こ札は誰れのおごりだ?皆おれの|財布《さいふ》 を当て込んでゐるのぢやアないかと定さんは憤慨すると同時に、あの 時、電車の窓から首を出さなかつたらよかつたにと云ふことを|祈蒔《きたう》の やうに繰り返してゐるのである。  電柱と云ふものは、電車|軌道《きだう》の両側に立つてゐるものとぱかり思つ てゐた。ところが、さうでない揚所もある。 「この辺と螢ゲ池とは、柱が真中に立ツとりますから、お顔を出すと あぶないです」と車掌が説明レた。  定さんはそれを知らなかつた。  なぜまたこんなところへ来たのだ?首を出さなけれぱよかつた。 いや、電車に乗らなければ上かつた。いや、王突で一懸けなければよか つた。と、かう云ふ風に考へを繰り返して見ても、往に衝突した小実 は取り返しの付けようがないのでー  定さんはあの時驚きと痛さとをじツと|辛抱《しんはう》して、窓を背にして席に もたれたまま、 「何ともおまへん」と苦笑したが、膝の上に置いて見た、向手がおのづ からあたまへ行つた。すると、松さんは、 「痛いか」と聴いた。 「アてないに痛いことありやへん」と云ふつもりで手を膝におろし、首 を左右に振つたが、いつのまにか又手を上へやつてゐる。 痛いか」と、また同じことを松さんが聴いた。 「そないでもありやへん」と答へた|切《き》り、うるさいので、手をおろし f、ゐようと思つても、直ぐまたそれがあたまに行くのである。  じツとしてゐると、その痛みに堪へ切れなかつた。直ぐそばに立つ てゐる|莫鍮柱《しんちうぽしら》にあたまをもたせかけ、ひイやりする気持ちに痛みを忘 れようとして見ても、自分の呼吸が辿つて来る。からだをねぢつて顔 を窓の|枠《わく》に押し当てて見ても、いのちが|縮《ちぢ》こまつて行くやうだ。が、 今から帰りたいと云ふやうな|弱音《よわね》も男としで二云ひ出廿左い気がした。 「馬鹿だ、なア」と云ふ東京人の声が車台の隅から聴えた。また、見 、える限りの乗客等は、すべて日を見張つて、あざけりの顔をこちらに 向けてゐる。  定さんは内と外とから押し苦しめられて、水の中から息をしに出た 時のやうに、恥ぢも構はず、すツくりと立ちあがつて見たが、まだし も自分の家の隣りの静江さんがここにゐないのを大丈夫だと思つた。 飛んでもない、あの子に乙んな失敗を見られたら、ここらの人と同じ やうに冷遇し出して、楽しみにしてゐる云はず恋も全く物になるまい。  が、白分の意中をまだ云はず語らずのうちに、こんなことで死んで しまうのは詰らないとも思つた。  そのとたん、電車が不意に大ゆれがして、足をすくひかけられた。 同時に、くら/、と目まひがして、あたりかまはずうツ|伏《ぷ》してしまつ た。  尋常に進行してゐる冠車の響に背中が痛いのを感じて、再ぴ気が付 いた時は、定さんは松さんの人つた膝の上につツ伏してゐるのであつ た。}てのkに松さんは.|向肱《りやうハニめ》f、.顛づゑを突いてゐたらしい、それが痛く て重}古しい感じを与へた。 「苫しい、置いて呉れ」と云ふやうに背中をゆすると、松さんはその 固く重みのある両肱を離れさせて、両の|平乎《ひらて》を載せた。が、なほ人臭 いあツたか味が定さんの鼻のあたりに付いてゐた。  |渠《かれ》は母の|懐《ふとこ》ろを出て以来、人のにほひをかう近く嗅いだことはなか つた。 「これが静江はんの膝やつたら、なア」と思ひ及ぶと、この刺戟があ るだけでも松さんを懐かしい気持ちがした。男は男で、女でないにせ よ、かうして、いつまでも抱かれてゐたいものだと。  で、かうした姿勢のまま、定さんは両手をあまへたままに柔かにあ たまへ持つて行つたら、松さんもその手の行つたところを撫でて呉れ ながら、 「ソリヤキコエマセヌーデンベヱサとと諮つてゐたが、やがて定さ んの耳もとへ口を寄せて、 「しツかりしなはれ、な、行たら、女子を抱かせてやるさかい、な ア。」  低い声ではあつたが、定さんはそれが人に聴こ・えたらとあわてた。 そして、その声の下から|俄《には》かにからだを起して見た、.すると、松さん の隣りにゐる人が|真而目腐《まじめくさ》つた顔をしてこちらを見つめてゐた。で、 定さんの手がまたあたまへ行つた。  松さんは然しそんな二とには|頓若《とんちやく》なく、その座をつるりと抜けて、 先刻から筋違ひの所へ移つで.腰かけてゐる長さんと繁さんとの問に行 つて.、どツかり腰をおろし、窓の方に罪れたまま、先づ'長さんを首に 手をかけて引ツ帳り舟せ、何かヰ打ちをした。すると、長さんは松さ んのF二τ振り切つ.「.、 「知りまへん」と逃げ、日じりを下げて松さんを横目に見た,一次ぎ.に 又松さんは繁さんに4向じ耳打ちをして、だらしない笑ひを|呈《てい》せしめ た。 「ぼんち大明神やさかい、なア」と叫んf、、松さんは、ベツたりと背を 窓の方にもたれさ廿.、た.だにこ!\とそら|囎《うさ バしぶ》いて、また|利久下駄《リャ うげノ》の両 足で空をかたみ代りに蹴ツてゐた。  いづ一れ、呼ぶ女の話だらうと定さんは推察して見ないふりをし'.ゐ たが、渠も渠答のと同じ楽しみを心に、|向《ゑ》がいてゐればこそ、あたまの 痛くて苦しいのをも辛抱しf、行くのであつた。 四 「けど、お|父《た つ》さんやお|母《かあ》はんに知れたら、どないしヨう?」  この疑問は、定さんには、おそろしいよりむ一恥かしいの.であつた。 「長はんとこで|泊《と》めてもろた云ふとこか」とも考へて見た。が、「行 かん、行かん。往んでから、医者を呼んでもろたら、直ぐ白状せんなら ん。」  最終電車に乗り後れて宝塚に泊つたと云ひ為して置かうかとも思案 して見たが、 三、やく、電話をかけて、あの助さんに|銭《ぜ に》持て来い云はんならんの や!」跡で調べられたら、「芸子遊ぴ」したと云ふ化けの皮が剥げて しま・フ。 「けど、あの時は、まだここ、三-.せツぱ|詰《つま》つてをらなんだ」と思ふと、 定さんの心には、二度目に気が遠くた,りかけた町のことが浮んだ。  じツと|堪《こら》へて、自分の口をどこか一ケ所に据ゑてゐようと思2Lも、 その日から先きに動いて行つて、からだを菰かに落ち付けて置くこと が出来なくなつた.右を向いて見た.人りを向いて見た。坐わつて兄 た。また膿かけて見た一u執れにしても、結局は、手があたまへ行つ'、て、 行つて 「人がおだてたかて、か⊥.=ん-」と決心し'、、自分のfの行く-.一モ三 して見たが、ツてれも亦子、の艦.↑、ほ続い'、ゐなかつた.  まだしも電市が進行してゐて呉れれば、多少.でも気だ一書、れ.一-、ゐる が、あの石橋の分岐点で、さ♪'、」の箕面行・o'、」電車に故障が山来、自分等 の車台が一、+分ばかり進行を停止した時は、自分の呼吸広、二、二に全く とまつてし↓.小うの.ではないかとま.で思へた.  やツと動き出した.が、今度は、また、その動}.】'.出した電車フての物ま .でが白分の苦しい呼吸をしてゐるやうに思はれて、定さんは今夜おぼ えようとする芸者買ひの天罰を、前以つて、ここに受けてゐるのだと 感じて来た。 「石橋で下りたら、よかつた。」かう思へば思ふほど、息が詰るやう でー  そのうち、池田停留所へとまつた電車は発車した。と同時に、もう、 辛抱がし切れなく、|一時《いつとき》も早く下車したくなつた。で、先づ立ちあが つて、よろくしながら、松さんの前へ行つて、皆を怒らせないやう に、先づ、渠に和談して見た。 「わたいだけ下りまひよか?」 「どこで?」松さんは、じツと、おどかすやうな怖ろしい目付きをし て見せた。「こないな寂しいとこで下りたかて、どないしなはる?」  定さんはこの反問にいぢけた。黙つて、|睡《ねむ》い時のやうに重くなつた |上目蓋《うはまぶた》をあげて、ちよツと松さんを見返したまま、またしぶくとも との席へもどつた。そして、てれ隠しに窓の外を見ると、池田の|小蘭 山《せうらんざん》と云はれる五月山の|麓《ふもと》に、ちらほら涼しさうな光が見え、電車はが うがう響きを立てて、|猪名川《ゐながは》の鉄橋を渡つてゐるのであつた。 「ここまで来たら、なア」と、繁さんも松さんに賛成するやうに、 「梅出へもどるよりや、先き.へ|行《い》た|方《ほ》が|近《ちこ》おまツせ。」 「そないし給へ、そないし給へ。」長さんも|亦《また》ぞんざいに口を添へて、 ぐたくしたからだを窓へもたせかけた。 「人の苦しいのんも知らんと!」かう目に云はせて友を見た。あたま の痛いのは、もう、全く自分一個の間題だと分つて来た。一番親切だ と田心へた、長さんまでがこの揚合の相手にもなつて呉れなかつた。まだ 皆日は浅いが、玉突で知り合になつた友人は友人だ.のに、揃ひも揃つ て、たツた三十点の初歩者をばかり喰ひ物にして、ただおのれ等の楽 しみをしたらいいのかと云ふ、|僻《ひが》みも出た。 「何をしなはる」と云ふ|角《かど》立つた声が聴えたので、定さんは注意をそ の方に向けた。 「済んまへん。」かう云つて、松さんは自分の下駄の片あしが渠の正 面にゐる客の足もとにころがつたのを拾ひに行つた。 「阿呆かいな」と心で叫んで、定さんは松さんを初め一、長さんや繁さ んの至つて冷淡なのを聯想し、「わたいは死にかけてんねやで」と云 つてやりたかつた。  我慢すればするほど、刻】刻に死が迫つて来るやうな気がして来た。 で、花屋敷を通過して、段々日的地へ近づいたのを知りながら、待ち かまへたーやがてこの電車から救はれるが早いか、他のもの等はう ツちやらかして置いて、白分は自分で、どんな医者でもいい、医者と 云ふ名の付くうちへころがり込まうと。 お  |清荒神《きよしくおうじん》の梅林や|竹藪《たけやぶ》の暗い蔭を出て、涼しく開らけた夜の空気に、 新温泉のイルミネシヨンが山と山との間を照らして、ぱツと皆の目を 射初めた。 「さア、宝塚の終点や!」かう思つたら、然し、張り詰めてゐた精神 が|忽《たちま》ちゆるんだので、定さんは意識がぼうツとなつ一た。空気の外、さ えぎる物もないのに、温泉装飾の電光が見えなくなつた.そし.て.電車 の中も、自分のからだも、殆ど全く真ツ暗に暗い。 「脳味噌が|早《は》やわたいを死ぬ方へ引ツ込むのんやないか?」ふと、|総 身《そうしん》に身ぶるひを感じた時、どんと電車のとまつた反動が来て、定さん はあたまの、つんノ\するわれに返つた。 「どなたも終点で、ございます。お忘れ物のないやうに,」 「来たぞ、来た叶て!」かう他の三名は争つて、立ちあ.がつた。そして 定さんを廿.き立、一、た、、、が、渠は立つr、渠等の手にがツくりと取りすが るより外に力が出なかつた。 「お医者はんーー呼んでー欲しい!」 「医者がおまツしやろか?」頼りなげに云つて皆を見まわしたのは繁 さんだ。 「おまツしやろ、ここでも|仰山《ぎやうさん》人の来るとこだツさかいな」と云って、 長さんは車台の出ロヘ集つた人のどれかに聴いて見ようとした。 「おまツさ」と、車掌は気の毒さうに言葉を引き取つて、医者の家の ありかを説明した。 「おましたかて、-先きへ行てから呼んだかてえ・えやないか?」松 さんは叱り付けるやうに促した。  他の乗客箏が憎々しさうに松さんの顔を見たり、冷笑するやうに定 さんの様子を熟視したりして出て行く跡から、定さんは重苦しいから だを松さんと長さんとの肩にもたせかけた。フてして改札口を出てから、 餅菓子屋の角を曲り、氷屋と食道楽との向ひ合つた電燈が明るい道を |殆《ほとん》ど夢中で歩いて、相生楼に突き当ると、 「あ、何で至三や」と安心しかけた。が、なほ左の方へ引ツ張られ て、その隣りの門へ這入つた。 「お出でやす」と云ふ男や女の揃つて山したのが見える声が、定さん にはどこかの遠い一斉射撃の音のやうに聴えた。そして背の低い|樽男《たるをとこ》 が真ツさきにわざとらしく大股に足をあげて、式台をあがつて行くの が、定さんの目に|檬瀧《もモろう》と映つた。その時、|渠《かれ》は長さんと繁さんとに助 けられてあがつて行つた。  にこくして出て火た女中に松さんは先づ-声をかけた。 「おい、お菊、また来たで。」 「ようお出でやす!」お菊と呼ばれたのが莫つ七、わざと大きな声を 出した。「顔見たら、来たのんは分つてまツさ なア、且那」と、 かの|女《ぢよ》は長さんにとも繁さんにとも付かず八,心を押した。 「何をぬかす」と云つて、松さんは女の首に取りすがつた。 「いやア」と大きく叫んで、女は渠の手をふりもぎつて.身をかはした。 そして渠がまたさし延べた手をぺたりとうち払つて、にらみ付けなが ら、「いたづ'らツ児!やんちやはん1」  |媚《なまめ》かしい東京語や大阪.亘芙と|奇麗《ぎれい》な姿とに、定さんは姉のことを川心 ひ出した。そして自分の、あの姉でも、男に|冗談《じやモさだん》を一ムはれると、二ん な真似をするのであらう。白分の隠してゐる慾望も、して見ると、遠 慮には及ばない。かまうものかと、目の光までが俄かに明るくなつた。 「おい、ぼんち、|大事《だじ》ないか?」松さんがふり向いたので、 「大事ない」と笑つて見せた。 「ちツとア勢ひようなつたやうや、なアーおい、繁はん、大いに飲 ま・つ。} 「,飲まいでかい、な?」 「あんたもしツかりしなはれ。」長さんの肩をぐいと引ツ張つて、 「玉突に勝つたんやないか?今となつては、ぼんちがいや云ふても、 わたい等が承知しまへん。なア、繁はん。」 「もツとも、もツとも!」 「どうや、ぼんち、そやないか?」 「………」定さんはただ|苦笑《にがわら》ひをしてゐる。 「大事ない云ふたやないか?ぼんち」と、跡戻りをして来て、相手 の肩をぽんと|叩《たた》いた、「しツかりしなはれ!わたいは酔うてるやう でも、酔うてやへん。これからまだく飲みまツせ。」 「・…:…」 「返仁しなはれーえ}えか?」 「よろしゆおます。わたいも飲みます。」 「|面《おも》んろい、而んろい∴松さんはまた皆のさきへ立一つ七、わざと大 股に歩いた。  長さんも繁さんも、元気づくと同時に、定さんから手を放してしま つたので、定さんは独りで元気をふり起し、苦し虫.でれににや!\笑 つて見せながら、皆の跡から廊下を進んだ。  が、お菊は渠だけが様子が違つてゐるのを見て、踏みとど、より、 」,あんたはん、どないしなはつたーそないに青い顔して?L 定さんは何か云つて人並みの相手にならうと思つたが、矢ッ.張り苦 笑の問にただにやくしてゐる外なかつた。 フ〕いつは、なア」と、松さんが跡戻りして来て、「電車の柱であた まを打ちやはつたんや。」 「まア、あぶのおました、なア。」 「けど、案じたことやおまへんやうや」と長さんもふり返つて、|浮付《うはつ》 いた調子だ。 「|大事《だじ》おまへんか?」 「-・…-」定さんは、うんと首をたてに振つたが、その首を振つただ けでからだがふらくした。 「|先生《せんせ》呼んで来まひようか?」 「そないなことせんかて」と、松さんはまた先きに立ちながら、「芸 子はんが来たら、ようなりまツさ。」 「大事ないのんなら、よろしゆおますけど、なア。」かう心配さうに 云ひながら、女は定さんの背中に手を持つて行つて、渠の羽織の|退《の》け |衣紋《えもん》になつて、|而《しか》も左りの肩からはづれさうになつてゐるのを直して 呉れた。  その時、定さんの鼻に、後ろの方から、女のしみ渡るやうなにほひ がした。|蟹附《びんつ》けのにほひもまじつてゐるやうだから、あたまに結つた 髪のにほひだらうとは思へたが、それを渠には女その物の慣れくし さと離れて考へることが出米なくなつた。 六  真ン中を大きな|菱形《ひしがた》に張つた大井の電燈の下へ来た時、定さんは血 ぐ二ろりと横になつて、両手であたまを押さへてゐた。 「しツかりしなはれ、ぼんち」と、定さんの上に馬乗りになつて、、両 手で肩のところを押し付けた。 「痛い、痛い!-定さんはあたまから手を放して、アての、向手で昼に力 を持たせながら、からだをひねつて、上の重みから免れようと|藻《も》がい た。 「弱い奴ちや、なア。」松さんは立ちあがつた。そして他の二人の方 に行つた。二人は温泉道の松並木が風に少しゆられてゐるのが見える |手摺《てす》りのそぱにあぐらをかき、全く肌ぬぎになつて、巻煙草に火をつ けたり、|扇子《せんす》を使つたりしてゐた。で、これも亦|直肌《ぢかはだ》ぬぎのあぐらに なつて、「どうやろ、なア、ぼんちがあんまり悪いやうなら、ぼんち だけ、どこぞ静かなとこへ寝さして置こか?」 「それもよろしゆおまん、なア。」繁さんはかう答へて、開らいた扇 子をばたノ\使つた。 「けど、なア、まア、医者に見てもろたらどうやllどもなつてをら なんだらええがl」長さんは定さんの方を見て、早くさうせいと促 す様子をした。 「そやく、見てむ一ろて行かなんだら、ぽんちだけに芸子はん見せた げへんのや。」かう云ひながら、松さんはまた定さんのそばへやつて 来た。  定さんは聴かない振りをして聴いてゐたのだが、.二人が三人ともな ぜ自分をかう|退《の》け物にしようとするのか分らなかつた。  三二梅田から電話をかけた料金も、定さんの財布から川した。往 復の電車賃も同じ財布からだ。それだのに、あたまが砕けたかも知れ ないほどの目に会つた渠をそばに置いて、車中ででも渠等ばかり.面白 さうにさわいでゐて、渠の苦しみを少しも思ひやつて呉れる様子は見 えなかつた。そしてここへ来ると、直ぐ、松さんを初め、おのれ等が 身づから出し合つて散財するかの様に幅を利かせて、「+云子を見せた らん」とは何のことだ?渠等は渠の金でおごつて貰ふのだが、おご り|主《ぬし》が不意の|怪我《けか》をしたのを幸ひにして、その分迄も渠等だけで占領 してしまはうとするのかとも、定さんは考へて見た。 「気の|小《し》さ.い|奴《やつ 》等や、なアーわたいかて、部屋住みかて、大けえあ きんどの息子や。一且はずむ一.Aふたら、ちツとのことは惜しみやへん。 その代りわたいも一緒に仲間入りさして貰ふ。」かう憤慨した心を起 したが、渠の分に当ゑ云者には、仲岡の年順から云つてもきツと一番 若いのが来るのにきまつてゐる。と、渠はふいとほほゑみの目を明け た。そして松さんがそばに坐つてこちらをにこく見てゐるのに|出会《てくわ》 した。  松さんは、定さんの様子を、痛いのを|胡麻化《ごまくお》して苦笑してゐるもの と見た。 「こら、ぼんち」と、定さんの手を押しのけるやうにしてあたまを無 雑作に撫でてやりながら、「どうや、痛いか?」 「・-……」定さんは、かう乱暴に取り扱はれても、そばに来て貰ふの を|寧《むし》ろなつかしいやうな気がして目に涙を|湛《たた》へたが、返事にかぶりを 振つた切りだ。 「医者を呼ばんかてええか?」 「……・」矢ツ張り無言でうなづいた。 「ほたら、置きまひよ。」松さんはこちらを見つめてゐた長さん等の 方へ顔を向けて、その方が余ほど面倒でないと云ふ風をした。 「ええかいな、見て|貰《もら》はんかて」と、長さんが心配さうに立つて来た。 「本人がええ云ふたら、ええやないか?」 「けど、なア、.悲いやうなことやしたら、行かんよつて」と云ひなが ら、長さんも坐わつて、定さんの額に手を置いて見たり、また、来よ うとする芸者に関する想像が血管にまわつて|脈搏《みやくはく》を強く打つてゐる、 定さんの|手頸《てくび》の脈を取つて見たりした。  定さんは|却《かへ》って干.れをうるさくまたわざとらしく感じた。そして松 さんよりも長さん等の方がそ.んなことをして、わざとにも仲間を|外《はづ》さ せようと強いるのではないかと云ふまわり気を持つた。 「|痛《いと》おまツか、ぼんち」と、繁さんが|橡端《えんはな》から声をかけたのには返乎 をしなかつた。  そこへお菊が茶を運んで来た。先、つ一.[二人集つ'てるところへそれを分 配してから、繁さんの方へ持つて行つたが、それから定さんが横にま るまつてゐる背中のところに坐つた。定さんのいらくしてゐる神経 には、やアわりと香ばしい風が当つたやうで、渠はおのづからからだ が縮みあがつた。 「|悪《おる》おまん、なア、痛うては、、」 「痛うない云ふてまツさ。」 「けど、なアー」 「痛うないことはないやうやけど」と、長さんは定さんのどこを見る ともなく明けてゐる目を見詰めながら、「医者よりや芸子はん見たい のんやろかい?」 「そやない!」定さんは顔を赤らめて、淡泊さうに、抗議した。そし て長さん等の方から寝返りしたとたん、今度はお菊と顔を向き合せた ので、急いで目をつぶつて、あたまへまわしてゐた両手の肱で顔を蔽 つた。 「芸子はん見せたら、直りまツさ」と、松さんはわけもなく.ムつて、 橡の方へ離れて行つたのを、定さんは目で追つて、呼ぶなら早く呼、.へ と命令したかつた。  そして、 「どもないか、ほんまに」と、長さんがまだ心配さうに背中へ手をか けてゐたのをも、早く離れて呉れればいいと思つ一た。どうせ|若《 も》し病人 として世話をして貰ふなら、渠等のやうな|直性《どくしやモ》のものでなく、この 「ねえはん」にして貰ふ。さうしたら、芸子などは来なくてもいいの だがー 「ぼんち」と、手を肩に置いてお菊に呼ばれたのが、誰れにさう呼ば         止            せんせ れたのよりも胸に溶みた。「どうだす、先生呼んで来まひよか?」 「毛う、ええ云ふてたら、ええやないか」と、松さんは叱るやうな声 だ。そして|団扇《うちは》を大きくあふぎながら、「早う酒を持て、酒を持.て。」 「は、はアー殿の|仰《おほ》せに従ひまして」と、お菊はわざと|畏《かしこ》まつた様 子をした。 「芝居だツか」と真顔で云ひながら、別な女中が|浴衣《ゆかた》を持つーて来た。 「兎も角も、皆はん、お着かへやしたらどうだす」と、お菊が注意し たので、橡がはのものが先づ一そのつもりになつた。 「あんた、着かへまツか」と、長さんが定さんに云つた。 「ほんまに、大事おまへんか?」また、お菊が聴いた。 「うん。」かう、定さんは答へなければならないやうな気がしてしま つた。が、その実、お菊と五はれるこの女だけになつたら、.医者を呼 んで貰ふやうに頼むつる.りであつたのである。  さうもしたいが、また".葦子も見たい。 「かまへん、かまへん、成るやうに成れ」と、|私《ひモ》かに決心して、定さ んも起きあがつた。そして、長さんの後ろで、帯を解き初めた。おの づからしがんで行くその顔をお菊に見られないやうにして、横向きで かの|女《ぢょ》に衣物を脱がせて貰ひながら、「長はんも、繁はんも、羽織も 着ず、見ツとむない風をして来た、なアしと考へた。 七  定さんはこの料理屋の浴衣に着かへるのが珍らしさ、嬉しさに、元 気をふり起した。そして皆が「芸子、芸子」ばかり一ムつてるさもしさ に、自分ばかりはさうでないぞと云ふことを見せて、さツき恥かしか つた時の意趣返しでもしてやるつもりで、新温泉へ這入つて来ようと 云ひ出した。 「偉さうなこと云やはる。」松さんはかう一言のもとにはね付けて、 煙草盆のそばに浴衣に改まつたあぐらをかいた。 「およしやす。新温泉など、当り前のお湯やおまへんか?」 「それにせい、いつでもまた行けまツさ。」かう云つて、長さんや繁 さんも進まないで、ただ立つてゐた。  それではやめようと、直ぐ素直には云へなかつた、何となく、自分 の位をおとすやうな気がして。で、少しむツとして、鉄色モスリンの 帯をしめながら、 「ほたら、わたい独り行て火まひよ。」 「ぼんち」と、松さん竺層強く出て、「なんで、そないな無理云ひ なはんのや? あんたが行たら、皆ついて行かんならん。そないな世 話やかさんかてええやないか?」 「うちのお湯にしときなはれ」と、お菊も口を出した。そして笑ひな がら、「うちのんも新温泉だツせ。」 「ほたら、置きまひよ。」かう云つて、松さんの方をじツと児た、あ たまのづきんく痛むのを辛抱して、それでも、|渠《かれ》の云ひ分には、定 さんも脇を落ちつけた。  そして皆でざツと一あぴしてから、膳に向つた。暑いからとて、皆 わざと橡へ並んだ。松並木に最も近い隅の柱を境にして、その右の板 の間に長さんから松さん、左のに繁さんから定さんだ。定さんの方の 列は、丁度、誰れかの山水の|三幅対《さんぶくつゐ》を懸けて、大きな松の植木鉢をあ しらつた床の間に、畳をへだてて、さし向つてゐた。 「今晩は」と、入り口の|襖《ふすま》の明きからfをついたものは、誰れも誰れ も、まどゐの遠いのに驚いた。|裾《すモ》を曳きながら、 「とうない遠方だす、なア」と云つて来たものもあれば、 「威があつて、なかくあんた方のねきへは寄れまへん」と、わざと 座敷の真ン中につツ立つてゐたものもあつた。定さんには、それが面 白いことを云ふものだと思へた。来た中で、勘七と云つて、薄藍の濃 淡で|亀甲形《きつかふがた》の出た|紋壁透綾《もんかべすきや》を着たのが、最も年若らしかつたが、それ が松さんのそぱへ坐わつて、渠にばかり、.へちやくしやべくり出した。 そして、 「口一那、こないだのお方どないしやはりました」とか、「裸か踊り、 おもしろおました、なア」とか云つた。 「おれも一つ今晩踊つたるぞ。」松さんは|面肌《ぢかはだ》の腕で腕まくりをする 真似をして、一、北気を附けてゐた。 「iあんたはよう知つてなはる仲だツか?」かう、繁さんが聴いたのに 答へて、 「そやとも、なア」と、松さんは勘七を両手で引占,」寄せて、「なかな かわけのある仲やもん、なア。」 「よろしゆおました、なア」と、かの|女《ぢよ》は押さへられた肩をすくめて 身をのがれ、笑ひながら、くづれた膝を整へ、元の通りに坐わり直し た。 「わたい等もそないなりとおまん、なア」と云つて、長さんはさがつ た目じりで.自分のそばの…、ム者を見た。 「|合《あ》ふたり、|叶《かの》たりだツか?」それが気まづい顔をしながらも答へた。 そして定さんにさへ|珍《ちん》ころめいたと見える目鼻を動かして、「わたい 〆|子《しめこ》と云ひます、どうぞよろしう。」 「今から、もう、妥協しやはるんや困りまん、なア。」かう云つて繁 さんも話の相手を求めた。すると、渠のそばにゐたのがまた涼しい声 で、 「且那、妥協やおまへん、ラツキヨウだツせ。」 「こりや、やられた。」繁さんは|僖《はし》で|摘《つま》んで口へ持つて行きかけた |薙《らつきやう》のやうな物を宙にまごつかせた。  松さんは相変らず勘七ばかりを相手にして、悪口を云ひ合つたり、 叩き合つたりしてゐた。  定さんのそばには、初めに坐わり後れた婆々ア芸者で、顔も籔くち やな「愛助ねえちやん」と呼ばれるのが来てゐた。渠が何の|油落《しやれ》も云 へない上に、手をあたまへ持つて行つたり、日をぱちくりさせたり、 顔をしがめたりしてゐるので、かの女も渠にとツ付くすべがなく、た だ渠の|猪口《ちよく》が一二度明いた時、ツての跡へお酌をしただけで、他のむの 等の話に調子を合はせてゐた。 渠はその芸者のふけた.顔と、一番遠い揚所にゐる松さんのそばの子 の膝に透いて.見える桃色とを町々見比べながら、何だか勝手が違ふや うに思はれた。 「年から云ふたかて、松さんがあの子を取ス、わけがないーまた、誰 れを取ると云ふことかて、銭を出すわたいが決めたら^え、えやろ」.と、 |私《ひた》かに不平を起した。  然し定さんの目的の勘七は、「わしが国さ」と今一つ渠の分らない 物とを踊つてから、他のお座敷へ貰はれて行つた。それを渠は|烏渡《ちょつと》行 つたので、また来るのだら一うとも思つたが、出て行つーた時の挨拶振り では、むう来ないのだらうかと失架し初めた。然し、あからさまにつて れを誰れに尋ねて兇一ようと云ふ気は、出さうと思って4出せなかつた、.  折角張り詰めてゐた精神がその揚にゆるんで来て、またあたまの痛 みを擁り返し、それへ堪へられなくなつた。そして酔つ-た振りをして 立ちあがつた。 「どこへ行きなはる、ぼんち?」松さんは皆と同時に定さんの方を見 て、かう詰間した。 「どこへも行きやへん」と答へて、床の間の前へ行つて、|床《とニ》に横たへ た|紫檀《したん》の|敷木《しぎぎ》を枕にした。 渠が「思ひ切つて帰つたろかどと激したのはこの時だ。        八 「あんたはん、|珊《よ》をおまん、なア」と云つて、例の愛助が落ち付いた 声でくくり枕を持つて来て呉れたが、それも直ぐ皆の方へ行つてしま つた。そして、三味を鳴らして、 「さア、お歌ひやし、な」と云つてゐる。それに付いて、松さんが都 |都一《どいつ》を二つ一二つ続けて歌つた。すると、繁さんが|二上《にあか》りだと云つて、 「|隅田《すムだ》のほとりに」とか、何とか云ふのをやつた。 「ほたら、わたいもやりまひよか」と云つて、長さんも何かやつた。  松さんがまたやり出した時、一方では繁さんとそのそばの芸者とが 何とか一ムふ|拳《けん》を初めた。ワ'、して繁さんが二、二度負けた. 「おい、京八、おれと来い、おれと。」松さんががさつな調子でちよ いは、とん/\たどやつてゐたが、|俄《には》かにやめて、鼻で物を嗅ぐ音を わ'、」とらしく大きくさ廿一!、、「臭い、たア、何ぢや? ヨードホルム のかざや。あんた、瘡亦だツか?」 「あほらしい」と、京八と云はれたのが涼しい声で怒つえやうに叫ん だ。 「けど、なア、くさいやないか?」 「くさいかて、|瘡毒《ひえ》と決つたわけやおまへんがな。」 「あツちやへ行きなはれ。病人は病人の世話なとしなはれ。」 「着護婦だツかいたごと、愛助がU合ひを人れた。 「負けたさかい、そないな|毒性《どくしやう》云ふてーなアねえちやん」と、京八 は笑ひながら立ちあがつて、「わたいかて、女子一匹、へん、精神が ありまツさ。」 「えろおまん、なア」と、〆チがその方を見あげた。 「そないにおこんなはんな」と、松さんは猪口の酒を吸つた。 「おこりやへんけど、なアー」 「ノゥく、おこる、べし、おこるべし」と、愛助がけしをかけた。 「ぽんちはどこぞ悪いのんだツか」と云ひながら、京八は定さんの方 に足を運んだ。 「うん」と、松さんが答へて、「どたまを|電《ヤ  》車の柱にぶつけたのん や。」 「ほんまに?」と松さんの方にふり返つて、「どたまりこぶしもな《   ヤ》|い ー」 「酒落なはんな」と、松さんは云つたが、愛助にも聴かれて、定さん のことを残酷な言葉で説明し初めた。 定さんは枕の上で、両手であたまを押さへたまま、賑やかな方に,円 いてにやくしながら、目を明けたり、つぶつたりしてゐたが、 「なア、ぽんち」と云はれて苦笑の目を明けた時、赤い|蹴出《けだ》しがちら と見えたかと思ふ間もなく、太さうな膝が渠の|肱《ひち》さきに坐わつた。繁 さんのそぱで鈴のやうな声を以つてラツキヨウの酒落を云つた女で、 この女ばかりが裾も曳かず一、|廟髪《ひさしがみ》に結つて、奥斗。」ん然と地味なお|召《めし》を 着てゐるのは、どうしたわけだらうと思はれた、それが皆に聴、えるや う三一.H葉をつづけ.て、「すり傷にかてヨードは付けまツさーきのふ、 家族温泉へ|行《し》て、|手拭《てぬぐ》ひで腰んとこをすりむいたのんや。」 「あやしいもんや-新温泉の家族風呂は、なア」と、松さんが追窮 したのに、愛助が調子を合はせて、 「そりや、さまぐなすりむき方もおまツさかい、なア。」 「そやく!」〆子もそれに賛成した。 「ええ人があんまり奇麗にしで.やらうとおもたんやろ」と、長さんも 口を出した。 「よかつた、なア」と、京八はわざと嬉しさうに手を叩いた。 「へーえ」と、入口の外で女中が返事をした。 「違ひまツせ、こツちやのことやし」と、愛助が向ふへうち消して、 こちらでわざとらしくふき出した。  京八は首をすくめて、定さんににツと笑つて見せた。定さんも|苦《にが》さ うにだが、にツこりした。そして、ぷんと鼻さきへにほつて来る薬の にほひを、却つて香水か何ぞのやうにやさしいものと感じて、そのに ほひの|主《ぬし》となら、この痛みを分けて、一緒に死んで貰つてもいいと云 ふ気になつた。 「|痛《いと》おまツか」と云つて、やわらかい手を肩に置かれた時、渠の姉よ りも|別嬢《べつぴん》と思へた顔を下からじツと兄詰めて、涙に目をしよぼつかせ ながら、それでもかぶりを振つた。 九  |外《ほか》からも、二三ケ所一二味や歌の声が聴えてゐる。  明け放つた広間へは、さツといい風が這人つて来た。 「おう、ええ風や、なア」と云つて、京八が定さんのそばを立つた時 は、再ぴ皆のものの歌さわぎが初まつてゐた。  渠の好きな子までが浮かれ川して、松さんの踊るかツぽれに合はせ て、「沖の暗いのに、サツサ」などとやつ一てゐる。  定さんも寂しい気がまた一しほ引き立つ!-、米た。fをあたまから放 して起きようとしたが、垂い.石で押さへられてゐるやうなので、再ぴ 枕"上に肱枕をした。 「どないせい、死ぬのんや。死ぬのんなら、うちの者を呼んで|叱《しか》られ るよか、こツそり思ひ切り楽しんで、跡の|勘定《かんちやう》だけをうちの者にさせ たかてええ。」  かう考へては見たが、渠をそそる楽しみとは歌でもない。酒を飲み たいの.で広、ない。 松さん等の嘉ぎがぎか遠くの方で聴えるやうな嵐特ち窪4 来た時、定さんには、電燈で明るいが然しひツそりした小間でー而も 呼べば直ぐ母も姉も来るやうな安全な、然しひツそりした小間で 好きな女の膝に抱かれて、自分の死んで行くそのありさまが浮んでゐ た。 が、それも|暫時《ぎんじ》のことで、渠が実際の痛みを|堪《こら》へる為めに目を堅く つぶつてゐるのをおぼえると、           「おい、ぽんち」と云ふ松さんの声が最も近くにして、「不景気に何 ぢやい?ちょつとお出なはれ、相談がある。」  定さんはふらノ\するからだを踏みこたへて、松さんについて、広 間の人々の返り見る視線の範囲を出た。そして便所への道の廊、トに立 つた。 「どないするのんや、寝てばツかりゐよつて?」 「:…-」青い顔に、ただ口ぴるのさきをとがらせて|額《ふる》はせながら、 松さんの酔ひの出切つた赤い顔を見詰めた。 「帰る云ふたかて、毛-つ電車がありやへんで。」 「わたいかて、帰る気やない」と、不」平たツぷりにまた口をとがら.サ. た。 「それで占めたもんや=去ふ風にほ〜パ臭みて、松さんは低い声を つづけた。ぼて、|女《をなこ》チはどないし、{う?」 「さう火てこそ順当や」と心に云はせて、定さんは全く得意になつた。 そして自分の女を撰べと云ふことだ.と合点した。でも、特に低い声を し」て、一ムひに/・誉つに答へた。 「あのーさツきに1帰つた子がえ♪え。」  「ひえー」と、松さんはあきれてわざと跡ずさりした。「まだそない なこと聴いてやへん。あの、なア、芸チを往なそか? じやこ寝さそ か?それとも、来とるのなり、別たのなりを皆で別走.取ろか? それを和談するのんや。」 「わたい、知りまへんが、な、リてたいなこと。」 「ぷッ」と、松さんは|堪《こら》え兼て、押へてゐた笑ひを吹き出した。そし て広間の人りロヘ行つて首を突き出し、「おい、ぼんちや勘七さんに 惚れてやはる!」 「うそや、うそや!」定さんはわれ知らず入り口から飛ぴ込んだ、そ の背の高いからだをつツ立てた。そして酒の酔ひが加㌃加て一しほ痛 むあたまを両手でかかへながら、胸に溢れる恥しさを真顔になつて胡 魔化した。「そないなこと云やへん。」 愛助は〆子と顔を見合はせて、冷笑し合つた。 「まア、きなはれ。」松さんは今度は定さんの手をぐツと引いて、つ れ出した。             窪 「人気役者は矢張り違ひまん、なア。」定さん等二人に聴土えるのを揮 らず、〆子がここにゐない朋輩を羨むやうにかう云つたのには答へな いで、愛助は笑ひながら叫んだ。 「わたいではどうだす、お乳をたんと飲ませてあげまツせ。」 「は、は」と、繁さんは笑つた。 「サ㌣ぱばだん、-なア」と、また京八の口合ひだ。そして首をすく めて、「わたいかて、どうだす?」 「みな、あのぼんちの散財だツか?」愛助は生-真而日になつて長さん に聴いた。 「ぽんちが玉突きに負けたおごりや。」 「負けた上に、又散財だツかい、なーえ}えぼんちやのんに、生ノ。」  こんな話が聴えるのをすべて冷かしだと見f.、定。一dんは聴かないふ りをしながらも、困つたことを云つてしまつたと思つた。そしてさ一一t. な日を見ひらいて、相手をただ見つめてゐた。 「あの子は、なア」と、松さんも真.血目腐つて、「わたいの聴いたと ころでは、毎晩H那があつて、あかんのやさうや。」 「ほたら、もう、ええ」と一ムひ切つた.そして今の失敗を回復したや うな気がして、元の場所へ戻り、またどたりと身を横になげた、..何だ か松さん等が黙つて勘七を帰したのがうらめしい、かの|女《ぢよ》が行けなけ れば、京八をと云ふ下心があつて、一刻も早く楽に乙のからだを介抱 して貰ひたい外、何も願ふところがない。が、この場合、何ごとでも 云ひ出せばまた失敗を重ねるかも知れないので、尋常にあたまが痛む から早く死の床へ入れて呉れいとさへ口に出せなくなつた。そしてぶ り返して来たやうに痛む痛みを|堪《にら》へる為めに、床の間の方へ寝返りし て、胸の中では独りあせつて、 「やけ糞や、このままここで死んだれ」と云ふ無言の叫ぴをあげた。 δ 「ほたら、もう、帰りまひよか?」長さんは先づ興ざめた声を出した。 定さんが御機嫌を失つたと見たやうすだ。 「電車がおまツかいな?」繁dんは進まなささうだ。 「もう、|大阪《おさか》へはおまへんが、な。」かう一ムつて、愛助は落ち付きを 失つて来たのを隠して、細い|銀煙管《ぎんませる》で煙草の火をつけてゐる。 「何のこツちやい、わたいにはわけが|分《わか》らん。」松さんも皆の不興に 釣り込まれて、「ぼんちも男やないか、一旦はずむ云ふたらi」 「はずんでるやないか」と、定さんは後ろ向きのまま口をとがらかせ た声でこぽした。「けど、わたいは|大怪我《おほけが》をしたのんや。」 「怪我したもんが、勘七でむ、ないやないか?ぼんちはわが勝手ばか り云ふて、ー|来《き》やへんもんは無理やないか?」 「無珊やない」と云つて、こちらへ勢ひよく向き血り、「ほたら、松 さんに怪我人の世話がでけまツか?」 「わたい、看護婦やおまへん、」  男も女も一|度期《どぎ》にわヅと笑つ一た。定さんはまた反対に寝返りして、 「笑ひたい人はもツと笑ひなはれ!」 「ほたら」と、松さんは定一一⊂んの機嫌を取るやうに優しくなつた。 「どないしよ云ふのんや?」 「あんた等は勝手にしなはれ、わたい医者を呼ん.で.貰ひまひよ。」 「一医者!」松さんは今吏らのやうに驚いたが、他の友人に気の進まな い相談をかけた。「ほたら、医者を呼んでもろて、iわたい等は皆 でじやこ寝しまひよか?」 「さア」と、長さんが確答しかねたのを見て、 「なんの、お|銭《あし》の心配は入りやへんーどツちや|道《みち》、ぼんちの持ちに しまツさ。」 「それもよろしゆおまツしやろが、なア」と、繁さんもどツち付かず の様子だ。 「君も、お|銭《あし》の心配は人りやへんで。」 「けど、なこと、長さんがそれを受けて、「ぼんちの工合が分らん とー?・- 「そやさかい、医者を呼んで貰ふ云ふてるやないか?」 「呼んで見てから、また相談したらどうや?」長さんはなほ心がもぢ 付いてゐた。 「ほたら、この人達に済まんやないか?」かう云つ一て松さんは芸者の 方を返り見て、「あんた等の都合はどうや、な? たとへ十二時過ぎ てからの線香代は、わたい等で受け持つことになつても、あんた等に は割前はかけまへんで。」 「どうも恐れ入ります」と、愛助は松さんの冗談を受け流して、他の 子どもの顔を見た。そして暫く目話しをしてゐたが、誰もどうと口に 出すものがなかつたので、かの女がまた代表者のやうになつて答へた。 「さしつかへない子だけは、なア。」 「そりや、さしつかへたら仕やうがおまへん-京八さんはどう や?」 「さアー」 「さア」と、松さんもかの女の返事を真似して、趾ハざめた座をつくろ ひながら、「〆子はんはどうや?」 「さアー ヨりや、あかん。」松さんはてれ隠しにあたまを|抱《かか》へた。すると、 愛助が、 「ぽんちの真似だツか?」  男達はそれにつれて煮え切れない笑ひを挙げた。  そこへお菊が出て来て、京八を貰つて行くことになつた。かの女は 丁度よかつたと云ふ風で身がまへを初め、他の皆に挨拶してから、定 さんの背中のところ.で腰を下げ、渠の顔をのぞくやうにして、 「ぽんち、さいなら。」  「:.::  一 一    ..」 「き.いならーおこツてやはるのんや.」 「おこツてやへん、ゐてて欲しいのんや」と答へたかつたのだが、定 さんは肯葉に出しかねた。そしてこのまま死んだら、あれにもこれに も、二度と再ぴ逢ふことが出来ないのに 「をつて呉れたらええの んに、なア」と云ふ訴へが|私《ひモ》かに胸一杯になつた。 「今夜死ぬ。きツと死ぬ。廿.めて死ぬまでゐてて呉れ!」かう|喉《のど》もと までは来て毛.、声に出せなかつた。そして自分のからだが独りぼツち の寂しい闇に圧搾せられて、その結果としての如く、目から自然に、 とめ度なく、涙がほど走つた。  そし,て、心の奥まで浸み込んだヨードのにほひと涼しい声の足音と を追つて耳をこツそりそば立てながら、自分の家は何でも」不自由のな い大商人だと云ふことが、この揚合、女どもに認められてゐないのを 絶望的に残念がつた。  松4一」ん等が話して呉れたらいいではないか? 三口耳うちして呉れ たらいいで.はたいか?金はいくらでも貰つてやるから、一晩だけと まれ、一晩でこの男は死ぬのだから、と.  思ひやりのない友人達だ、なアー自分に|容易《たやす》く女を与へてやると約 束したのは初めからうそで、ただそんなことを出しにして、おのれ等 の勝手な飲み喰ひをしようが為めに、自分を一怪我させてまでここまで 引ツ張3」火たのだらうと云ふ恨みと失架とが、心のうちで段々太い あたまをもち上げて来た. 同時に、またかう云ふ疑ひが起つた 芸子と云ふ者は、皆の云ふ 通り、慾でその身を売るのではないか? 今晩に限り、さうした様チ が見えないのは、松さん等のやうな|風体《ふちごい》の悪い人問と一緒に来たので か知らん? 「何にせい、賑はしい要のやう三緒に火とつたかて、順々に影のや うに消えて行くのんや それも、美くしい方から」と考へると、も う黙つてばかりゐられなくなつた。 「さいなら」と、また例の涼しい声が遠くの方で響くのが聴えた。す ると、定さんの目の前には、はツきりと、先刻一.旭人つて来た時の、こ の家の門前門内の様子が見えた。さツさと帰つて行く奥さん風の芸子   庭掃除や下駄番の男衆  多くの女中1その中から、最もいい にほひのしたお菊-最初に帰つてしまつた薄桃色卑.オ子  赤い色   ヨードホルムー「さいなら、おこツてやはるのんや。」  かう云ふ影や一一一、目葉などが、その瞬問に一度期に定さんを襲つて、渠 の神経を高ぶらせた。渠の全身には、あたまの痛みと同志打ちをする、 何だか椥れない強い力が遠慮た、く勃興した。そして、恥かしみの薄ら いだ脇腹の問から、 「どないな女子でもええ」と云ふ声が出た。この時、愛助がわざとさ り気ないふりをして、 「もう、十二時だツせ わたい箏はどないしまひよ?」 「そや、なア」と、松さんが受けて、「どうや、ぼんち?」 「-…-・」定さんは、それでも、暫く返事が出来なかつ-た。が、これ を最後に芸子どもがみな帰つてしまうのでは困る。胸がただどぎまぎ した一、渠はあたまからfを離し、思ひ切つて皆の方へ"返りした.そ して、松さんが畳の土で愛助のそばにあぐらをかいて、こちらを見て ゐるのに尋ねた、「じや二寝たら、何だす?- 「わツ、はツ、は」と、繁さんと長さんとは|檬《えん》がはでまだ膳に向つて ゐながら、一度に笑つた、二人とも箸を持つたままで、こちらを呈-、 ゐた。 「何がをかしいーいやしい|奴《やつ》ちや、なア」と、定さんは心で云つ-た が、おもてにはただいやな顔をした。 「あの、なア」と、松さんはほほゑみながら、小学校の先生を思ひ出 させるやうな口調で、「皆と、なア、芸子はんも一緒に並んで寝るの んや、 但し、なア、手む足も出すべからずだツせ。」 「|結《ゆ》はへときまほかい、なア。」愛助が無駄な口を出したのにつれて、 〆子も|亦《また》笑ひながら、 「わたい等の方が結はへられたら往生や、なア。」 「そないな詰らんこと置きまひよ!」 「は、は、は、は」と、他の皆が揃つて笑ひを挙げた。 = 定さんは皆が自分を馬鹿にしてゐるのだと見て、ぷりく怒つた。 そしてそれを反省して見る余裕もないほど、あたまの痛みが辛抱し切 れなくなつて来た。想像にせよ、うその影にせよ、それが目の前にち らついて、隠れた慾望をそそつて呉れる間は、何となく痛みのもたせ 柱があるやうであつたが、その柱も亦渠のあたまにぶつかつた柱であ つたのが溜らなく残念だ。 「二甫の衝突!」かう云ふ考へに思ひ及んだ時、定さんの女に対する 情が全くあたまの痛みに変つて、腹のどん底まで通つて、からだ中を 煮えくり返す。そして、一座が互ひに興ざめて黙つてゐる広間を、あ たまをしツかり両手で抱いたまま、ころげ廻つて泣き叫んだ。 「、医者を呼んで呉れ!医者を呼んで呉れ!」 松さん等は…渠を少しでむ。落ち付か廿ようと努めて、酒の酔ひは全く りて二退けになつてしまつた。  芸者どもはまた|魂消《たまげ》てしまつて、皆そこくに引きさがつた。  碁を打ちに行つてまだ帰らないと云ふ医者を探し当てて、店のもの が連れて来た。そしてそれに病人の云ふ通りあたまのいやに張れぼツ たい容態を云つ一て、よく診察して貰ふと、 「÷つ、手後れやさかどと独皇一、おやうに一ムつて、顔を肯ざめて、 病人の寝かされてゐる小部屋を出て行つた。  それでも、皆は医者が何か取りに行つたのだらうと思つた。で、定 さんのまはりを取りまいてゐる友人や、店のかみさんや、お菊、その 他の女中は、心配の余り、別に言葉を出さないでゐた。 「うん、うん」とぱかり、定さんは|坤《うな》つてゐる。  やがて医者が手に持つて来たコップの物を定さんに飲ま廿.た。が、 定さんは半分ばかり飲んでからそれをつツ返し、苦しさうな声で、 「水は-入らん-薬を」と云つた。  医者はこの、言葉を聴いてをののき|顧《ふる》へた。が、それをまぎらせる為 めに、そのしがめ顔に苦い笑を帯ぴて、かみさんを見あげた。かみさ んは、膝を突いてのしあがりながら、そこで|窺《のぞ》いてゐたのである。か の女の心配さうな顔と渠の苦笑とがぶつかつた時、渠は別に手当ての 仕やうがないと弁解する口調で訴へた。 「あたまの鉢が砕けて、病人の云ふ通り、脳味噛が外に出てるやうや さかい、なアー」 「えツ!」かみさんは、腰をぬかしたやうにべつたりと坐わつて、今 更らの如く.医者の顔を見詰めた。 「矢張りそれか、なア」と、定さんには自分の想像してゐるところが 事実らしくなつた。そしてしツかり目をつぶつたまま、初めて実際に 自分を|危篤《きとく》だと考へた。そして、また、玉突のたツた三十点がいのち 取りのゲームであつたかも知れないことばかりを悔みに悔まないわけ に行かなかつた。「でも、人にただの水など飲ませてーこないなへ ぽ医者の云ふことなどまだ分りやへん」と云ふ心頼みもあつた。そし 「よう、まア、その聞辛抱でけた、なア」と、医者がてれ隠しに感心 して見せたのが|幽《かす》かに聴えた。すると、お菊の声もした、 「きついぽんちや、なア。」 「わたいかて、男や」と、定さんは訴へかけてもUには出なかつた。 涙はほろくと枕の上にこぽれた.そして、それを隠す力も.なく、 今しがたまでのあまい夢の、赤い色や親しいにほひの名残りを思 ひ浮、、へて見た。 「ぼんち」と、松さんが呼ぴかけて、「しツかりしてなはれや、|大阪《おさか》 へ電信も引いたんやし、ええ医者もおこすやうに云ふたさかい、な ア。」  かう力づけられた時には、-もう土地の無方針な医者もゐなかつた。 多くの女中もゐなかつた。そしてそこにゐるかみさんや友人等の顔も 見えないほど、定さんは「死にとむない」ばかりの痛みと後悔とにも だえて、おのれの愚かであつたことを責めた。 「馬鹿だ、なア」と電車の隅から、あの時聴えた東京弁が憎いほど思 ひ出された。誰れに向つても助けを呼ぶことさへ、もう、手後れにな つたと云ふやうな心細さに押し詰まつた。  そして、はたからなだめ|嫌《ナか》すものがあるのをかまはないで、ただ、 頻りに、 「早う、姉さんーおかアはんーお父さん」とばかり待ち受けてゐ た。                        (大正二年.三月)