奇術師幻想図 阿部徳蔵 ---------------------  素晴らしいことって、そうざらにあるもんじゃあないってことぐらい、彼も心得ているんだ が……。さてとなって、これという名案も浮かばないと、ついじれったくもなる。しかし何かP 何か工夫しなければ、と、また思いなおしては一心不乱に考えつづけている。  うっかりすると、奇術の演技中舞台の上でさえ…-。で彼は思わずはっとすることもある。 「俺はこの頃どうかしている」  書斎の安楽椅子にうずまり込んでこんなことも言った。もう考えあぐんでしまったのだ。 「ないかねえP」 「考えつきませんわ」  スターの|瑠璃子《るりこ》だった。 「君は……P」 「僕にはとても……」  やはり一座のインド人が頭をかいた。 「弱ったなあ」  彼は、書棚から古今東西の奇術書を手あたり次第にひきずり出しては目をとおした。が、これ という考案も浮かばなかった。  もう開演の日も近づいている。今度こそは、是非尊敬にあたいする傑作を提出せねばならぬ。 と思うと、急に彼は|焦《いら》だってくる。といって、あせればあせるほど、いよいよ頭の統一を失って、 はては、心は、古書へ花ヘカーテンヘ壼へ、|荘莫《ぽうぼく》とした空間へ、とりとめもなく分散して行くの であった。 (ええい勝手にしやがれ!) 彼はしまいに、こんな投げやりの気持にもなる。  といった日がもうずいぶん長くつづいていた。 A ミラノ妖女 水蓮の葉が暗い池の上で動いた。鯉のはねる音がやかましくきこえる晩である。 風にさらわれた雨が、窓のガラス戸へ来て笑った。 (笑ってる! たしかに、今夜の雨は笑ってる) ふとこんなことを考えた。と、だしぬけに、 「雨が笑いますことP」 (おや…:O一) と思った。 彼の前に、両手を正しく膝においた女であった。 「雨、笑いませんわ。あれは風なのよ」 (妙だ! この女には僕の考えていることがつつ抜けに……)  と考えたら、 「ふふふふふ」  女が笑った。 (しかし、雨も笑う。これは吹き上がらせるんだ。花束へ五色の電気をつけて、それから水を…・- つまり噴水のからくりにすれば……) 「おお美しいこと、五色の光へ水が散って、鍵がおどって、そうすれば水だって笑いますわ」 (こりゃあ妙だ、いよいよ……。僕の考えていることがそっくりそのまま女にはわかっている) 「ええ、あたし|読心術師《マインドリ ダ 》……」 (出来た。上演のプログラムの中へふたあつ。ミラノの妖女と笑う噴水……)  で、彼は、ふと目あたらしい心持でまともから女を見た。見ながら今はふたりっきりだなと気 がついたら、急に女の肉体を彼の心が意識しはじめた。と、にわかに、矯笑が女の肩から腰へゆ れ出した。 「いいことよ。ほんとうに……」 (しまったH なんでもわかるんだった)  彼の心が、ちいさくなって眩いたら、急に女の姿態が乱れだして、 「いいんですわ。あなたを赤面させたりなんかしないことよ」  さわやかな、その女の声は、花火のように爆笑する窓外の雨の中へ、ガラスを抜けて消えてい った。 。池ち  畔芝  の  亭た  て: ねころびながら彼はひとりでさとりという|人《ち ち》心を|看破《かんぱ》する妖怪について考えていた B 空へ登る奇術師  横浜港の波を、初夏の浜風が嬢弗と渡って来た。七轡ん慰印臥洋服店の屋根のてっぺんでは、へんぼ んと青い旗がひるがえっていた。  太平洋を後ろにして、ニュi・グランド|旅館《ホテル》の角を曲がると、左側に雑草のしげった広場があ る。みると、雑草の中で、一群の人々が円形にかたまっていた。ふと、好奇心が彼の頭を彼らの 上へ突き出させた。  人々の円内では、インド人が奇術をつかっていたのだった。そばには十三、四になるやはりイ ンドの子供が奇術師の助手をつとめていた。  彼は人々を押し分けて前列へのり出した。ちょうどマンゴー樹の奇術が終わったところだった。  相当のたくみさで、インド人はインド系統の奇術をつづけていた。  ステッキと指環、ガラス箱の中の玉、踊りをおどる|鷲鳥《がちよう》、等等等lI  終わると、子供が金属製の皿をさげて人々の前を廻った。感嘆した人々から、銀貨が、およそ |時雨《しぐれ》ほどは降った。インド人は|満悦《まんえつ》しつつ人々を眺めていた。  子供が金を集め終わると、インド人は次の奇術にとりかかった。インド人は、かたわらの大き な袋の中へ手を入れると、一振りの剣を引き出して|鞘《さや》をはらった。つづいて、太い紐の一束を荷 物のかげから草の中へほうり出した。  彼には、奇術師の取り出す道具と材料とによって、次に行なわれるであろう奇術の種目がわか らねばならぬはずだ。  さて、紐と剣η 彼は考えた。しかし何に使用するためだかわからなかった。紐を切ってつな ぐ奇術は、古典奇術のひとつである。そしてインド系統に属するものもある。しかし、それにし ては紐が長くて頑丈すぎる。剣も、紐を切るためならばあんな|仰《ぎようぎよう》々しいものは不必要だ。  と、考えていると、インド人は、環状にたばねた紐の一端をとって、ひょいと空へ向かって投 げ上げた。と、みるみる、紐の末端が、空間から何かの力で引かれるように、高く高く空中へ登 って行った。そうして、紐は、地上から空中へ垂直に立った。紐のはては空のはてへつづいてい た。  インド人は、子供に登れと命じた。子供は身軽に紐へ飛びついた。そしてからくり人形のよう にするすると紐を登って行った。  彼は、この光景を見て愕然とした。さては有名なインドの紐奇術かな、と。  しかしこの紐奇術というのは、インドにあるともあったともいう話だけが、1たしかに見た という人もあれば、見たという記事を書いた文献もあって、1ー世界のはてのはてまでひろがっ ていながら、実際は存在しない奇術である。現代の奇術師や好事家達が、しらべぬいた結果、イ ンドはもちろん、この地上には全然存在しないと断定された奇術である。その奇術が今目前に行 なわれようとしているではないか。彼が驚いたのも当然のことであった。  子供は高く高く紐を登った。そしてある高さまで到達すると、突然、その姿は|荘洋《ぽうよう》とした空の 中で消失した。  と、ムユ度は、奇術師が抜身をひっさげてしゃにむに紐を登りはじめた。人々は呼吸をつめた。 そして空へ登る奇怪な奇術師を仰ぎながら固まってただひとつの石のように立っていた。  やがて空間のどこからか、子供の叫び声が流れて来た。つづいて、血にまみれた子供の肢体が ちりぢりに分かれて雑草の上へふって来た。と今度は、奇術師が彼自身重力の法則そのものであ るかのように、まっしぐらに空の紐をすべり下りた。  手に握った剣からは、なまなましい血液がしたたっていた。インド人は雑草を分けて、分散し た肢体をかき集めた。そのかたわらに立った。そしておごそかに呪文を唱えはじめると、ちりぢ りの肢体が動き出して、また元の子供になってしまった。  ああ、やっぱりインドの紐奇術だったのだ。 入々の中で、人々の誰よりも驚嘆したのはやはり彼であった。彼自身奇術師であるだけに、そ してこの奇術の存在しない理由を熟知していただけに。  人々は、唖然として風のように散った。 彼は無生物のように立ちすくんだ。  インド人は微笑を浮かべながら彼のそばへ寄って来た。 「びっくりしましたかP」 彼は言葉も出なかった。 「まだまだ不思議なことがありますよ。私の宿へいらっしゃい」  インド人は、あたり散らばった小道具を袋の中へほうり込むと、それを子供の肩へのせた。 「お宿は……P」 彼はようやく口をひらいた。 「桜山のトンネルのそばなんです」 「遠くはありませんね。歩きましょう」  で、三人は、無言のまま支那劇場の前へ出た。次の角を左へ、橋を渡って元町通りへ出た。も う薄暮が迫っていた。  店々では電燈が輝いていた。  三人は、大きな古家具屋の前まで来た。その店では、ベッドの前の安楽椅子へ、若い娘が安閑 と腰をかけて往来を眺めていた。その隣はレース店である。店いっぱいにならべられたハンケチ の白さの中で、一葉のテーブル掛けがきらびやかな花模様を浮かせていた。 「どうです。ちょっと食事をしましょうか」 「そうですね」  インド人の返事もまたないで、彼はその隣の骨董店の中へはいって行った。ふたりもその後に つづいた。  この店では・隅のくらがりに安置された仏像が、襯蓬げあってたえず微笑しつづけていた。上 からは、能面がぎやまんのふらすこを見おろしていた。甲胃は、昔日の威容を保ちつつもろもろ の商品を|脾睨《へいげい》していた。三人は、この雑多な骨董品の間をぬけて、奥の階段から二階のレストラ ンヘ行った。そして、窓際の卓をかこんだ。  彼はインド人と向かい合って椅子へかけた。  ボーイが、コニャックをふたりの洋杯に注いだ。インド人はかなり酒豪であった。  杯を重ねても平然としていた。彼は、洋杯の半分も干さないうちに、もう全身に酔がまわって しまった。 「さっきの紐奇術ですが、あれは魔法ですか奇術ですか」  魔法の存在を根底から否定している彼だのに、こんな情けない質問をしなければならないはめ になった。 「もちろん奇術です」  インド人は鰯鰐として言い放った。 「奇術…:々 とすれば種があるんですね」 「むろんの話です」 「しかし、見たところではどうしても種があるとは思われません。ことにあの奇術は、世界の奇 術師と学者とがその存在を否定している現象です」 .「否定したい人達は否定するがよろしい。が、現在あなたが見たという事実をどう否定しますか」  彼は一言もなかった。見た、見ている、という事実は何ものよりも力強いのだ。が、もしや幻 影では、とも彼は考えた。 「僕は幻影を見たのではなかったでしょうかP」 「幻影P ……とんでもないことです。が、もし幻影と思うなら、もう一度ここでやってみまし ょうか」  インド人は語気をつよめていうのだった。 「是非、是非見せてください」  彼は真顔をむけてインド人を熟視した。  インド人は、彼から窓外へ眼を転じると、澄み渡った空を仰いだのである。そして空の一角を 指しながら、 「ご覧なさい! あの遠い空のはてを。|光芒《こうぼう》と光を放っている星があるではありませんか。あれ は北斗星でしょう」 「そうです」 「あの星と、今われわれがもたれているこの窓とを、私は、奇術の紐で結びつけます。そして私 達ふたりは、奇術の紐にのって、北斗星座のアルファをめがけて飛行しようと思います」  そういうと、インド人は袋の中から奇術の紐を取り出した。そして窓から上半身をのり出すと、 ぱっ!紐の一端を星明りの空に向かって投げやった。と、紐のさきは、夜の虚空を一直線に突 き進んだ。  インド人は子供をかえり見た。 「行け!」  |荘重《そうちよう》な声であった。  子供は、奇術の袋を肩にかけると、ひらり、紐の上へ飛びのった。とみるまに、影絵のように 紐の上を飛んで、その姿は消えてしまった。  インド人は、微笑しながら頑丈な手を、彼の前にさし出した。 「では、私の敬愛する日本の奇術師よ! さようなら..・-・」  この一言を後に、身をおどらせると窓外の紐の上へ飛び移った。そうしてわれわれが、北斗! を意識するであろう思想のような|速《すみ》やかさで、群星の乱れ輝く空間を、インド人は真一文字に飛 行し去った。  彼の前の洋杯には、まだコニャックがなかば以上残っていた。彼は全身の神経を集中しつつ北 方の空に輝く北斗星を睨んでいた。  伝説にしか存在しないインド人の紐奇術を、いかにしたなら舞台の上で表現出来るかについて 考えながら……。