ああ玉杯に花うけて 佐藤紅緑  豆腐屋《とうふや》のチピ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日 が森をはなれて黄金《こがね》の光の雨を緑の麦畑に、黄色な、菜畑にげんげさくくれないの田に降らす、 あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉《と》を開き、たんぽぽはオレ ンジ色の冠《かんむり》をささげる。堰《せき》の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからな きだす準備にとりかかっている。  チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景 色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役 場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、 ところどころに立つ炊煙《すいえん》はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後《うしろ》へなびき、それからう っとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。  そこの畠《はたけ》にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中に忽《こつ》としてねぎの坊主《ぼうず》がつっ 立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる、春とはいえども暁《あかつき》は寒い、 奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の 人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐《とうふ》も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばな らぬのだ。  だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦 畑で、そのつぎには生《い》け垣《がき》があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それ はこの町の医者の家である。  医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、お じの話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってす べての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人《ひとり》のおじの厄介《やつかい》になっ た、それはかれの二歳のときである。 「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」  おじはチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもね ぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。 「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」  今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいて やっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたって小さい、村でかれは千三と呼ぶ人はな い、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人 よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽し みにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであっ た。  かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱《ぶじよく》を受けることがある。そ れは役場の助役の子で阪井|巌《いわお》というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれ を見てもなぐる、かれはけんかが強くてむこう見ずで、いつでも身体《からだ》に生きずが絶えない、か れは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度 落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどか したり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。 「やい、おめえはできると思っていばってるんだろう、やい、このへびを食ってみろ」  かれはすべての者にこういってつっかかった、かれはいま中学校へ通っている、豆腐おけを かついだチビ公はかれを見ると遠くへさけていた、だがどうかするとかれは途中でばったりあ うことがある。 「てめえはいつ見ても小せえな、少し大きくしてやろうか」  かれはチビ公の両耳をつかんで、ぐっと上へ引きあげ、足が地上から五寸もはなれたところ で、どしんと下へおろす。これにはチビ公もまったく閉口《へいこう》した。  かれが今町の入り口へさしかかると向こうから巌がやってきた、かれは頭に鉢巻《はちま》きをして柔 道のけいこ着を着ていた。チビ公ははっと思って小路《こうじ》にはいろうとすると巌がよびとめた。 「やいチビ、逃げるのかきさま」 「逃げやしません」 コ豆腐をくれ」 「はい」  チビ公は不安そうに顔を見あげた。 「いかほど?」 「食えるだけ食うんだよ、おれは朝飯前に柔道のけいこをしてぎたから腹がへってたまらない、 焼き豆腐があるか」 「はい」  チビ公がふたをあけると巌はすぐ手をつっこんだ、それから焼き豆腐をつかみあげて皮ぽか りぺろぺろと食べて中身を大地にすてた。 「皮はうまいな」 「そうですか」とチビ公はしかたなしにいった。 「もう一つ」  かれは三つの焼き豆腐の皮を食べおわって、ぬれた手をチビ公の頭でふいた。 「銭はこのつぎだよ」 「はい」 「用がないからゆけよ、おれはここで八百屋《やおや》の豊公を待っているんだ、あいつおれの犬に石を ほうりやがったからここでいもをぶんどってやるんだ」  チビ公はやっと虎口《ここう》をのがれて町へはいった、そうして悲しくらっぽをふいた。らっばをふ く口元に涙がはてしなくこぼれた。  どうしてあんなやつにこうまで侮辱されなきゃならないんだろう、あいつは学校でなんにも できないのだ、おやじが役場の書記だからいぽってるんだ、金があるから中学校へゆける、親 があるから中学校へゆける。それにおれは金もない親もない。なぐられてもだまっていなきゃ ならない、生涯豆腐をかついでらっばをふかなきゃならない。  かれの胸は憤怒《ふんぬ》に燃えた、かれはだまって歩きつづけた。 「おい豆腐屋、売るのか売らないのか、らっばを落としたのか」  職人風の男が二人、こういってわらってすぎた。チビ公はらっぽをふいた、その音はいかに も悲しそうにひびいた。町にはちらちら中学生が登校する姿が見えだした、それはたいてい去 年まで自分と同級の生徒であった。チビ公は鳥打帽《とりうちぽう》のひさしを深くして通りすぎた。 「おはよう青木君」と明るい声がきこえた。 「お早う」とチビ公はふりかえっていった、声をかけたのは昔の学友|柳光一《やなぎこういち》という少年であっ た、柳は黒い制服をきちんと着て肩に草色の雑嚢《ざつのう》をかけ、手に長くまいた画用紙を持っていた。 かれはいかなるときでもチビ公にあうとこう声をかける、かれは小学校にあるときにはいつも チビ公と曄を争うていた、双方とも勉強家であるが、たがいにその学力をきそうていた、これ といって親密にしたわけでもないが、光一の態度は昔もいまもかわらなかった、一方が中学生 となり一方は豆腐屋となっても。 「ぼくはね、きみを時計にしてるんだよ」と光一はいった。「きみに逢った時には非常に早い し、きみにあわなかったときにはおそいんだ」 「そうですか」 「重たいだろうね、きみ」  光一はチビの荷を見やっていった。 「なあになれましたから」 「そうかね」と、光一はチビの顔をしみじみと見やって、「ひまがあったら遊びにきてくれた まえね、ぼくのところにはいろいろな雑誌があるから、ぼくはきみにあげようと思ってとって おいてあるよ」 「ありがとう」 「じゃ失敬」  チビ公は光一にわかれた、なんとなくうれしいようななつかしいような思いはむらむらと胸 にわいた、でかれはらっばをふいた、らっばはほがらかにひびいた、といったんわかれた光一 は大急ぎに走りもどった。 「このつぎの日曜にね、ぼくの誕生日だから、昼からでも……晩からでも遊びにきてくれたま えね」 「そうですか……しかし」とチビ公はもじもじした。 「かまわないだろ、日曜だから……」 「ああ、そうだけれども」 「いいからね、遠慮せずとも、ぼくは昔の友達にみんなきてもらうんだ」 「じゃゆきましょう」  と。昔は成績のよしあしで席順を決めた。  光一はふたたび走って去った。雑嚢《さつのう》を片手にかかえ、片手に画用紙を持ち両ひじをわきにぴ ったりと着けて姿勢正して走りゆく、それを見送ってチビ公は昔小学校時代のことをまざまざ と思いだした。なんとなく光一の前途にはその名のごとく光があふれてるように見える、学問 ができて体力が十分で品行がよくて、人望がある、ああいう人はいまにりっぽな学者になるだ ろう。  そこでかれはまたらっぽをふいた、劉喨《りゆうりよう》たる音は町中にひびいた。チビ公が売りきれるま で町を歩いているその日の十二時ごろ、中学校の校庭で巌はものほしそうにみんなが昼飯を食 っているのをながめていた、かれはたいてい十時ごろに昼の弁当を食ってしまうので正午《ひる》にな るとまたもや空腹を感ずるのであった。そういうときにはかならずだれかにけんかをふきかけ てその弁当を掠奪《りやくだつ》するのである。自分の弁当を食うよりは掠奪のほうがはるかにうまい。 「みんな集まれい」とかれはどなった。だが何人も集まらなかった、いつものこととて生徒ら はこそこそと木立《こだ》ちの蔭にかくれた。 「へびの芸当だ」とかれはいった、そうしてポケットから青大将をだした。 「そもそもこれは漢の沛公《はいこう》が函谷関《かんこくかん》を越ゆるときに二つに斬《き》った白蛇《はくじや》の子孫でござい」  調子おもしろくはやしたてたので人々は少しずつ遠くから見ていた、少年らはまた始まった といわぬばかりに眉《まゆ》をしかめていた。 「おいしゃもじ!」とかれは背後《うしろ》を向いて飯を食ってる一人の少年をよんだ、しゃもじはおわ りの一口をぐっとのみこんで走ってきた、かれはやせて敏捷《びんしよう》そうな少年だが、頭は扇のように 開いてほおが細いので友達はしゃもじというあだ名をつけた。かれは身体《からだ》も気も弱いので、い つでも強そうな人の子分になって手先に使われている。 「おい口上《こうじよう》をいえ」と巌がいった。 「なんの?」 「へびに芸をさせるんだ」 「よしきた……そもそもこれは漢の沛公が二つに斬った白蛇の子孫でござい」  調子おもしろくはやしたてたので人々は少しずつ集まりかけた。 「さあさあごろうじろごろうじろ」  しゃもじの調子にのって巌はへびをひたいに巻きつけほおをはわし首に巻き、右のそで口か ら左のそで口から中央のふところから白由白在になわのごとくあやなした。 「うまいぞうまいそ」と喝采《かつさい》するものがある。最後にかれはへびをひとまとめにして口の中へ 入れた。人々は驚いてさかんに喝采した。 「おいどうだ」  かれはへびを口からはきだしてからみんなにいった。 「うまいうまい」 「みんな見たか」 「うまいそ」 「見たものは弁当をだせ」  人々はだまって顔を見合った、そうして後列の方からそろそろと逃げかけた。 「おい、こらッ」  いまにぎり飯を食いながら逃げようとする一人の少年の口元めがけてへびを投げた。少年は にぎり飯を落とした。 「つぎはだれだ」  かれは器械体操のたなの下にうずくまってる少年の弁当をのぞいた、弁当の中には玉子焼き とさけとあった。 「うまそうだな」  かれは手を伸ばしてそれを食った。そして半分をしゃもじにやった。 「つぎは?」  もうだれもいなかった、投げられたへびはぐんにゃりと弱っていた。かれはそれを拾うと裏 の林の方へ急いだ。そこには多くの生徒が群れていた、かれらの大部分は水田に糸をたれてか えるをつっていた。その他の者は木蔭《こかげ》木蔭に腰をおろして雑誌を読んだり、宿題を解いたりし ていた。巌はずらりとかれらを見まわした、これというやつがあったらけんかをしてやろう。  だがあいにく弱そうなやつぽかりで相手とするにたらぬ、そこでかれは木の下に立って一同 を見おろしていた、かれの胸はいつも元気がみちみちている、かれは毎朝眼がさめるとうれし さを感ずる、学校へいって多くの学生をなぐったりけとばしたり、自由に使役《しえき》したりするのが さらにうれしい。かれはいろいろな冒険談を読んだり、英雄の歴史を読んだりした、そうして ロビンソンやクライブやナポレオンや秀吉は白分ににていると思った。 「クライブは不良少年で親ももてあました、それでインドへ追いやられて会社の腰弁《こしべん》になって るうちに自分の手腕をふるってついにインドを英国のものにしてしまった。おれもどこかへ追 いだされたら、一つの国を占領して日本の領土を拡張しよう」  こういう考えは毎日のようにおこった、かれは実際けんかに強いところをもって見ると、ク ライブになりうる資格があると自信している。 「おれは英雄だ」  かれはナポレオンになろうと思ったときには胸のところにざぶとんを入れて反身《そりみ》になって歩 いた。秀吉になろうと思った時にはおそろしく目をむきだしてさるのごとくに歯を出して歩く。 かれの子分のしぬ、もじは国定忠治や清水の次郎長がすぎであった、かれはまき舌《じた》でものをいう のがじょうずで、博徒《ばくと》の挨拶《あいさつ》を暗記していた。 「おれはおまえのような下卑《げび》たやつはきらいだ」と巌がしゃもじにいった。 「なにが下卑てる?」 「国定忠治だの次郎長だの、博徒じゃないか、尻をまくって外を歩くような下卑たやつはおれ の仲間にゃされない」 「じゃどうすればいいんだ」 「おれは秀吉だからおまえは加藤か小西になれよ」  かれはとうとうしゃもじを加藤清正にしてしまった。だがこの清正はいたって弱虫でいつも 同級生になぐられている。たいていのけんかは加藤しゃもじの守《かみ》から発生する、しゃもじがな ぐられて巌に報告すると巌は復讐《ふくしゆう》してくれるのである。  いずれの中学校でも一番生意気で横暴なのは三年生である、四年五年は分別が定まり、自重 心も生ずるとともに年少者をあわれむ心もできるが、三年はちょうど新兵が二年兵になったよ うに、年少者に対して傲慢《ごうまん》であるとともに年長者に対しても傲慢である。  浦和中学の三年生と二年生はいつも仲が悪かった、年少の悲しさは戦いのあるたびに二年が 負けた、巌はいつもそれを憤慨《ふんがい》したがやはりかなわなかった。 「二年の名誉にかかわるぞ」  かれはこういいいいした、かれはいま木の下に立って群童を見おろしてるうちに、なにしろ 五人分の弁当を食った腹加減はばかに重く、背中を春日に照られてとろとろと眠くなった。で かれは木の根に腰をおろして眠った。 「やあ生蕃《せいばん》が眠ってらあ」  学生どもはこういいあった。生蕃とは巌のあだ名である、かれは色黒く目大きく頭の毛がち ぢれていた、それからかれはおどろくべき厚みのあるくちびるをもっていた。  うとうととなったかと思うと巌は犬のほえる声を聞いた。はじめは普通の声で、それは学生 らの混雑した話し声や足音とともに夢のような調節《ハセモニ》をなしていたが、突然犬の声は憤怒と変じ た。巌ははっと目を開いた。もうすべての学生が犬の周囲に集まっていた。二年生の手塚とい う医者の子が鹿毛のポインターをしっかりとおさえていた、するとそれと向きあって三年の細 井という学生は大きな赤毛のブルドヅグの首環《くびわ》をつかんでいた。 「そっちへつれていってくれ」と手塚が当惑《とうわく》らしくいった。 「おまえの方から先に逃げろ」と三年の細井がいった。 「やらせろやらせろおもしろいそ」としゃもじが中間にはいっていった。犬と犬とが顔を見あ ったときまたほえあった。 「やれやれやれ」と一年が叫びだした。 「やるならやろう」と三年がいった。 「よせよ」  人々を押しわけて光一が進みでた、かれは手に代数の筆記帳を持っていた。 「やらせろ」と双方が叫んだ。 「つまらないじゃないか、犬と犬とをけんかさせたところでおもしろくもなんともないよ、見 たまえ犬がかわいそうじゃないか、犬にはけんかの意志がないのだよ」 「降参するならゆるしてやろう」と三年がいった。 「降参とかなんとか、そんなことをいうからけんかになるんだ」と光一はいった。 「だっておまえの方で、かなわないからやめてくれといったじゃないか」 「かなうのかなわないのという問題じゃないよ、ただね、つまらないことは……」 「なにお?」  三年の群れからライオンとあだ名された木俣《きまた》という学生がおどりだした、木俣といえぽ全校 を通じて戦慄《ゆせんりつ》せぬものがない、かれは柔道がすでに三段で小相撲のように肥《ふと》って腕力は抜群で ある、かれは鉄棒に両手をくっつけてぶらさがり、そのまま反動もつけずにひじを立ててぬっ くとひざまでせりあげるので有名である。柔道のじまんばかりでなく剣道もじまんで、どうか すると短刀をふところにしのばせたり、小刀をボケットにかくしたりしている。  木俣がおどりだしたので人々は沈黙した。 「おじぎをしたらゆるしてやるよ、なあおい」  とかれは同級生をふりかえっていった。 コニベんまわっておじぎしろ」  光一はもうこの人たちにかかりあうことの愚を知ったのでひきさがろうとした。 「逃げるかッ」  木俣は光一の手首をたたいた、筆記帳は地上に落ちて、さっとページをひるがえした。光一 はだまってそれを拾いあげしずかに人群れをでた。むろんかれは平素人と争うたことがないの であった。 「弱いやつだ」  三年生は嘲笑した。 「いったいこの犬はだれの犬だ」と木俣はいった。人々は手塚の顔を見た。 「ぼくのだ」 「てめえに似て臆病だな」 幅なにをいってるんだ」と手塚は負けおしみをいった。 「二年生は犬まで弱虫だということよ」  三年生は声をそろえてわらった。一年生はたがいに顔を見あったがなにもいう者はなかった。 「やっしいやっしい」と木俣はブルドックのしりをたたいた。赤犬はおそろしい声をだして突 進した、鹿毛は少ししりごみをしたがこのときしゃもじがその首環を引いて赤犬の鼻に鼻をつ きあてた、こうなると鹿毛もだまっていない、疾風《しつぶう》のごとく赤犬にたちかかった、赤は前足で 受けとめて鹿毛の首筋の横にかみついた、かまれじと鹿毛は体をかわして赤の耳をねらった。 一|離《り》一|合《こう》! 殺気があふれた。  二、三度同じことをくりかえして双方たがいに下手をねらって首を地にすえた。 「やっしいやっしい」  両軍の応援はしだいに熱した。このとき二年生は歓喜の声をあげた。のそりのぞり眠そうな 目をこすりながら生蕃がやってきたからである。 「生蕃がきた」 「たのむぞ」 「やってくれ」  声々が起こった。生蕃は一言もいわずに敵軍をジロリと見やったとき、ライオンがまた同じ くジロリとかれを見た。二年の名誉を負うて立つ生蕃! 三年の王たるライオン! 正にこれ 山雨《さんう》きたらんとして風楼《かぜろう》に満つるの概《がい》。  犬の方は一向にはかどらなかった、かれらはたがいにうなり合ったが、その声は急に稀薄に なった、そうして双方歩み寄ってかぎ合った。多分かれらはこう中しあわしたであろう。 「このわんぱくどもに煽動《せんどう》されておたがいにうらみもないものがけんかしたところで実につま らない、シナを見てもわかることだが、英国やアメリカやロシアにしりを押されて南北たがい に戦争している。こんな割りにあわない話はないんだよ」  赤は鹿毛の耳をなめると鹿毛は赤のしっぽをなめた。  犬が妥協したにかかわらず、人間の方は反対に與奮が加わった。 「やあ逃げやがった」と三年がわらった。 「赤が逃げた」と二年がわらった。 「もういっぺんやろうか」と細井がいった。 「ああやるとも」と手塚がいった、元来生蕃は手塚をすかなかった、手塚は医者の子でなかな か勢力があり智恵と弁才がある、が、生蕃はどうしても親しむ気になれなかった。  ふたたび犬がひきだされた、しゃもじと細井は犬と犬との鼻をつきあてた。「シナの時勢に かんがみておたがいに和睦《わぼく》したのにきさまはなんだ」と鹿毛がいった。 「和睦もへちまもあるものか、きさまはおれの貴重な鼻をガンと打ったね」 「きさまが先に打ったじゃないか」 「いやきさまが先だ」 「さあこい」 「こい」 「ワン」 「ワンワン」  すべて戦争なるものは気をもって勝敗がわかれるのである、兵の多少にあらず武器の利鈍《りどん》に あらず、士気旺盛《しきおうせい》なるものは勝ち、うしろさびしいものは負ける、とくに犬のけんかをもって しかりとする、犬のたよるところはただ主人にある、声援が強ければ犬が強くなる、ゆえに犬 を戦わさんとすれぽまず主人同士が戦わねばならぬ。  三年と二年! 双方の陣に一道の殺気陰々として相格《あいかく》し相摩《あいま》した。 「おい」と木俣は巌にいった。 「犬にけんかをさせるのか、人間がやるのか」 「両方だ」と巌は重い口調でいった。 「うむ、いいことをいった、わすれるなよ」と木俣はいった。このときおそろしい犬の格闘が 始まった。  犬はもう憤怒に熱狂した、いましも赤はその扁平《へんぺい》な鼻を地上にたれておおかみのごとき両耳 をきっと立てた。かれの醜悪《しゆうあく》なる面はますます獰猛《とうもう》を加えてその前足《まえあし》を低くしりを高く、背中 にらんらんたる力こぶを隆起してじりじりとつめよる。  鹿毛はその広い胸をぐっとひきしめて耳を後方へぴたりとさか立てた。かれは尋常《じんじよう》ならぬ敵 と見てまず前足をつっぱり、あと足を低くしてあごを前方につき出した。かれは赤が第一に耳 をめがけてくることを知っていた、でかれはもし敵がとんできたら前足で一撃を食わしよろめ くところをのどにかみつこうと考えた。四つの目は黄金色《こがねいろ》に輝いて歯は雪のごとく白く、赤と 鹿毛の毛波はきらきらと輝いた。八つの足はたがいに大地にしっかりとくいこみ双方の尾は棒 のごとく屹立《きつりっ》した。尾は犬の聯《れん》隊旗である。 「やっしいやっしい」  人間どもの叫喚《きようかん》は刻《こく》一刻に熱した、二つの犬はすきを見あって一合二合三合、四合目にがっ きと組んで立ちあがった。このとき木俣の身体《からだ》がひらりとおどりでて右足高く鹿毛の横腹に飛 ぶよと見るまもあらず、巌のこぶしが早く木俣のえりにかかった。 「えいッ」  声とともに獅子《しし》王の足が宙にひるがえってばったり地上にたおれた。 「いけッ」  二年生はこれに気を得て突進した。 「くるなヅ」  巌がこうさけんだ、かれは倒れた敵をおさえつけようともせずだまって見ていた、かれは木 俣の寝わざをおそれたのである、木俣の十八番は寝わざである。 「生意気な」  木俣は立ちあがって猛《たけ》り獅子《じし》のごとく巌を襲うた、捕えられては巌は七分の損である、かれ は十七歳、これは十五歳、柔道においても段がちがう、だが柔道や剣術と実戦とは別個のこと である。けんかになれた巌は進みくる木俣を右に透《すか》しざまに片手の目つぶしを食わした。木俣 のあっとひるんだ拍子に巌は左へまわって向こうずねをけとばした。 「畜生《ちくしよう》」  木俣は片ひざをついた、がこのときかれの手は早くもボケヅトに入った、一|挺《ちよう》の角柄《つのえ》の小刀 がその手にきらりと輝いた。 「刃物をもって……卑劣なやつ」  巌の憤怒は絶頂に達した、およそ学生のけんかは双方|木剣《ぼつけん》をもって戦うことを第一とし、格 闘を第二とする、刀刃や銃器をもってすることは下劣《げれつ》であり醜悪であり、学生としてよわいす るにたらざることとしている、これ古来学生の武士道すなわち学生道である。 「殺されてもかまわん」と生蕃は決心した。かれの赤銅色の顔の皮膚は緊張してその厚いくち びるは朱《しゆ》のごとく赤くなった。 「さあ、こい」  木俣は再度の失敗にもう気が顛倒《てんとう》してきた。かれはいまここで生蕃を殺さなければふたたび 世人に顔向けがならないと思った。かれは波濤《はとう》にたてがみをふるう獅子のごとくまっしぐらに 突進した、小刀は人々の目を射《い》た、敵も味方も恐怖に打たれて何人《なんびと》もとめようともせずに両人 の命がけの勝負を見ていた。  生蕃は右にかわし左にかわしてたくみに敵の手をくぐりぬけ、敵の足元のみだれるのを待っ ていた、だが木俣は心にあせりながらもからだにみだれはなかった、かれは縦横に生蕃を追い つめた。そこは学校の垣根である、歩一歩に詰められた生蕃はうしろを垣にさえぎられた。 「しまった」とかれは思った、だが、逃げることは絶対にきらいである。敵を垣根におびきよ せ自分が開放の地位に立つ方が利益だと思った、しかしかれのこの方策《ほうさく》はあやまった、敵をし て方向を転換させるべく、そこに大きな障害がある、かれの右に三《の》尺ばかりの扁平な石がある のに気がつかなかった。 「畜生《ちくしよう》」  ライオンは声とともに生蕃の肩先めがけて飛びこんだ。ひらりと身をかわしたが生蕃は石に つまずいてぽたりとたおれた。 「あっ!」  二年生はいっせいに叫んだ、ライオンは生蕃の上に疾風《しつぶう》のごとくおどりあがった。とこのと き非常な迅速《すばや》さをもって垣根の横からライオンの足元に飛びこんだものがある、ライオンはそ れにつまずいてたおれた、かれの手には小刀がやはり光っていた。 飛びこんだ学生はライオンにつまずかした上で起きあがってライオンをだきしめた、ライオ ンはやたらに小刀をふってかれをつこうとした。 「しめたッ」 起きあがった生蕃は背後からライオンののどをしめた。ライオンはぐったりとまいってしま った。 「けがしなかったか、柳君」と生蕃はまっさおな顔をしていった。 「なんでもないよ」 光一は手からしたたる血潮《ちしお》をハンケチでふいていた。 「早いことをするな」 「柳にあんな勇気があったのか」  同級生はあっけに取られてささやきあった。双方ともふたたび戦う気もなくなった、犬はい つのまにか戦いをやめて逃げてしまった。  五分間の後、木俣は回気した。生蕃と光一は水を飲ませて介抱《かいほう》した。 「今日はやられた」と木俣はいった。 「明日《あづ》もやられるよ」と生蕃がいった。 「いずれね」 「堂々とこいよ」  木俣は去った、三年生が去った、二年生ははじめてときの声をあげた。 「きみのおかげだよ」と生蕃はしみじみと光一にいった。「きみは強いんだね」 「いやぼくは弱いよ」 「そうじゃない、あの場合きみがライオンのまたぐらへ飛びこんでくれなかったら、ぼくはあ の小刀で一つきにされるところだったんだ」と生蕃がいった。 「もしぼくがつかれて死んだらきみはどうするつもりだ」と光一は友の顔をのぞくようにして いった。 「君が死んだらか」と生蕃はいった。「おれも死ぬよ」 「そうしてぼくを殺した木俣も生きていられないとすれぽ……三人だ……三人死ぬことになる、 つまらないと思わんか」 「うむ」  生蕃はしぽらく考えたが、やがて大きな声でわらいだした。 「おまえおれにけんかをよさせようと思ってるんだろう、それだけはいけない」  同級生は一度にわっとわらいだした。 「だが柳」と生蕃はまたいった。「ぼくはきみに頭があがらなくなったね」 二  商売を早くしまってチビ公はやくそくどおり柳光一の誕生日にいくことにした。豆腐屋のは んてんをぬぎすててかすりの着物にはかまをはいたときチビ公はたまらなくうれしかった。一 年前まではこうして学校へいったものだと思うとかれは自分ながら懐旧《かいきゆう》の情がたかまってくる ように思われた。母はてぬぐいと紙とをだしてくれた。 「柳さんの家は金持ちだからね、行儀をよくして人にわらわれないようにおしよ」  こうくりかえしくりかえしいった、それからご飯のときの心得や、挨拶のしかたまでおしえ た。そういうことは母はじゅうぶんにくわしく知っていた。 「かまわねえ、豆腐屋の子だから豆腐屋らしくしろよ、なにも金持ちだからっておせじをいう にゃあたらねえ」とおじの覚平《かくへい》がいった。覚平は元来金持ちと役人はきらいであった、かれは 朝から晩まで働いて、ただ楽しむところは晩酌《ばんしやく》の一合であった。だがかれは一合だけですまな かった。二合になり三合になり、相手があると一升の酒を飲む。それだけでやまずにおりおり 外へでてけんかをする、かれは酔うとかならずけんかをするのであった。そのくせ飲まないと きにはほとんど別人のごとく温和でやさしくてにこにこしている。 「じゃいってまいります」 「いっておいで」  チビ公はあたらしいてぬぐいをはかまのひもにぶらさげ、あたらしいげたをはいて家をでた。 光一の家へゆくとすでに五、六人の友だちがきていた、その中には医者の子の手塚もいた、光 一の家は雑貨店であるが光一の書斎ははなれの六畳であった。となりの六畳部屋のふすまをは ずしてそこにざぶとんがたくさんにしいてあった、先客はすでに蓄音機《ちくおんき》をかけてきいていた。 「よくきてくれたね、青木君」と光一はうれしそうにいった。 「今日はおめでとう」とチビ公はていねいにおじぎをした。あまりに礼儀正しいので友だちは みなわらった。 「やあ青木君」 「やあ」  一年前の同級生のこととてかれらは昔のごとくチビ公を仲間に入れた。しだいしだいに客の 数がふえてもはや十二、三人になった、かれらはざぶとんを敷かずに縁側にすわったり、庭へ でたりしたがお菓子やくだものがでたので急に室内に集まった。手塚はこういう会合にはなく てならない男であった、かれは蓄音…機係として一枚一枚に説明を加えた。 「ぼくはね、カルメンよりトラビヤタの方がすきだよ」とかれがいった。 「ぼくは鴨緑江節《おうりよくこうぶし》がいい」とだれかがいった。 「低級趣味を発揮するなよ」と手塚はいった。そうしてトラビヤタをかけてひとりでなにもか も知ってるような顔をして首をふったり感心した表情をしたりした。  片隅では光一をとりまいた四、五人が幾何学によってざぶとん二枚を対比して論じていた。 「そら、角度が同じければ辺が同じだろう」とひとりがいう。 「等辺三角形は角度も相等しだ」と青木がいった。  チビ公に近いところにたむろした一団は物体と影の関係について論じていた、洋画式でいう と物体にはかならず光の反射がある、どんなに影になっている点でもかすかな反射がある、こ の反射と影とは非常にまぎらわしいので困るとひとりがいった。するとひとりは影そのものに も反射があるといいだした。  チビ公はびっくりしてものがいえなかった、かれはたった一年のあいだに友だちの学問が非 常に進歩し、いまではとてもおよびもつかぬほど自分がおくれたことを知った。幾何や物理や 英語、それだけでもいまでは異国人のように差異ができた、こうして白分が豆腐屋になりだん だんこの人たちとちがった世界へ堕落してゆくのだと思った。 「ねえぎみ、ぼくらにはなんの話だかわからないね」  かれは隣席の豊松という少年にこうささやいた。豊松は八百屋の子で小学を卒業するまでに 二度ほど落第した、チビ公よりは二つも年上だが、そのかわりに身体が大きく力が強い、その わりあいにけんかが弱く、よく生蕃になぐられては目のまん中から大粒の涙をぽろりと一粒こ ぼしたものだ、A,日集まった人々の中で中学校へもいかずに家業においつかわれているものは 豊公とチビ公の二人だけであった、かれは学問やなにかの話よりも昔の友だちがみな制服を着 てるのに白分だけが和服でいるのがはずかしかった。 「あの人たちは学者になるんだよ、おれたちとはちがうんだ」とかれはいった。 「そうだね、おれたちはなんになろうたってできやしない」とチビ公がいった。 「金持ちはいいなあ」と豊公は嗟嘆《さたん》した。「いい着物を着ておいしいものを食べて学校へ遊び にゆく、貧乏人は朝から晩まで働いても息もつけねえ、本を読みかけると昼のつかれで眠って しまうしな」 「ぎみ、お父さんがあるの?」とチビ公がきいた。 「ないよ、きみは?」 「ぼくもない」 「親がないのはお金がないよりも悲しいことだね」 「それにぼくは力がない、きみは力があるからいいさ」 「力があってもだめだ」と豊公は急に腹だたしく「おれは毎朝生蕃になぐられるんだ、そして いもだの豆だのなしだのかきだのぶんどられるんだ、それでもおれはだまってなきゃならな い」 「ぼくは毎朝豆腐を食われるよ、きみなぞは力があるからなぐりかえしてやるといいんだ」 「だめだよ」と豊公はあやうくこぼれようとする涙をこらえていった「あいつのお父さんは役 場の役人だろう」  チビ公はだまってため息をついた。向こうではいま手塚が得意になって活動弁士の口まねを していた。 「主はだれ、むらさきの覆面《ふくめん》二十三|騎《き》くつわをならべて……タララララタ、タララララタ、プ カフカフカララララララ」 「うまいぞうまいそ」と一同が喝采した。 「もう一つもう一っ」  手塚は得意になってうぐいすのなき声、やぎ、ペリカン、ねこ、ねこが屋根から落ちて水た まりにぴしゃりとおちた音などをつづけざまにやった。かれはものまねがじょうずでなにごと についても器用であった。それからかれはハイカラなはやりうたをうたった。 「ぼくらにゃわからない」とチビ公はいった、実際見るもの聞くものごとにかれは旧友たちよ りはるかにおくれたことに気がついた、朝は学校へゆく、必要な書籍…や雑誌は金をおしまず買 ってもらう、学校から帰ると活動写真を見にいっていろいろなことをおぼえてくるのだ、てん びん棒をかついで家をいで、つかれて家へ帰りそのまま寝てしまう自分らとはあまりに身分の 差がある。  お膳が運ばれた、チビ公は小さくなって部屋の隅《すみ》にすわった、かれは今日この席へこなけれ ぽよかったと思った。いろいろな空想は失望や憤慨にともなって頭の中に往来した。人々はさ かんにお膳をあらした、チビ公はだまってお膳を見るとたいの焼きざかなにきんとん、かまぽ ご、まぐろの刺身《さしみ》は赤く輝き、吸《す》い物は暖かに湯気をたてている。かれはおじさんを思いだし た、おじさんはいつも口ぐせにこういった。 「まぐろの刺身《さしみ》で一杯やらかしたいもんだなあ」  これをおじさんへ持っていったらどんなに喜ぶだろう、かれはこう思いかえした、そうして ったり、流行を追ったり、新しがったりすること。 たいはおぽさんと母が好きだからかまぼこだけは家へかえってからぼくが食べよう。  食事がおわってからまたもや余與《よきよう》がはじまった、チビ公はいとまをつげてひと足早く光一の 家をでた、かれはてぬぐいに包んださかなの折《お》り紺《まこ》を後生大事に片手にぶらさげ、昼のごとく 明るい月の町をひとりたんぽ道へさしかかった。道のかなたに見える大きな建物は一年前に通 いなれた小学校である。月下の小学校はいま、安らかに眠っている。はしご形の屋根のむねか らななめにひろがるかわらの波、思いだしたようにぎらぎら反射する窓のガラス、こんもりと しげった校庭の大樹、そこで自分は六年のあいだ平和に育った、そこにはあらい風もふかず冷 たい雨も降らず、やさしい先生の慈愛の目に見まもられて、春の草に遊ぶ小ばとのごとくうた いつ走りつおどりつわらった、そこには階級の偏頗《へんば》もなく、貧富の差異もなく、勉強するもの は一番になりなまけるものは落第した、だが六年のおわり! おおそれは喜ぶべき卒業式か、 はたまた悲しむべき卒業式か、告別の歌をうたうとともに同じ巣のはとやすずめは西と東、上 と下へ画然《かくぜん》とわかれた。  親のある者、金のある者はなお学府の階段をよじ登って高等へ進み師範《しはん》へ進み商業学校へ進 む、しからざるものはこの日をかぎりに学問と永久にわかれてしまった。  チビ公は月光をあびながら立ちどまって感慨にふけった。 「やいチビ」  突然声が聞こえて路地の垣根から生蕃があらわれた。 「折詰《おりづめ》をよこせ」 「いやだよ」とチビ公は折り箱をふところに押しこんだ。 「いやだ? こら豊松はおとなしくおれにみつぎをささげたのにおまえはいやだというのか」 「いやだ、これはおじさんにあげるんだから」 「やい、こらヅ、きさまはおれのげんこつがこわくないかよ」  生蕃が豊公から掠奪《りやくだつ》したたいの尾をつかんで胴のところをむしめ、むしゃ食べながらいった。 「阪井君、ぼくは毎朝きみに豆腐を食われてもなんともいわなかった、これだけは堪忍《かんにん》してく れたまえ、きみは豊公のを食べたならそれでいいじゃないか」 「きさまは豊公をぎせいにして自分の義務をのがれようというのか」 「義務だって? ぼくはなにもきみにさかなをやる義務はないよ」 「やい小僧、こらッ、三年のライオンを退治た生蕃を知らないか、よしッ」  生蕃の手が早くもチビ公のふところにはいった。 「いやだいやだぼくは死んでもいやだ」  チビ公は両腕を組んでふところを守った。 「えい、面倒《めんどう》だ」  生蕃はずるずると折り箱をひきだした、チビ公は必死になって争うた。一はおじを喜ばせよ うという一心にのぼせつめている、 一はわが腹をみたそうという欲望に気狂わしくなっている。 大兵《たいひよう》とチビ公、むろん敵し得《う》べくもない、生蕃はチビ公の横面《よこづら》をぴしゃりとなぐった、なぐら れながらチビ公はてぬぐいの端をにぎってはなさない。 「えいッ」  声とともにけあげた足先! チビ公はばったりたおれた。ふたたび起きあがったときはるか に生蕃の琵琶歌《びわうた》が聞こえた。 「それ達人は大観す……栄枯《えいこ》は夢か幻《まぼろし》か……」  チビ公の目から熱い涙がとめどなく流れた、金のためにさいなまれたかれは、腕力のために さいなまれる、この世のありとあらゆる迫害はただわれにのみ集まってくるのだと思った。  はかまのどうをはらってとぽとぽと歩きだしたが、いろいろな悲憤が胸に燃えてどこをどう 歩いたかわからなかった、かれはひょろ長いポプラの下に立ったときはじめてわが家へきたこ とを知った、家の中では暗い電燈の下でおじが豆をひいている音が聞こえる。 「ぎいぎいざらざらざら」  うすをもるる豆の音がちょうどあられのようにいかめしい中に、うすのすれる音はいかにも 隙攣ある・店の奥には母が一生懸命に着物を縫うている。やせた顔算くれ毛がたれて切れ 目の長い目で針を追いながらふと手をやめたのはわが子の足音を聞きつけたためであろう。 「折詰がない」  こう思ったときチビ公はこらえられなくなってなきだした。 「だれだえ」  母の声がした。 「千三か」  石うすの音がやんだ。そうして戸をあけるとともにおじの首だけが外へ出た。 「なにをしてるんだ千三」  チビ公はだまっている。 「おい、ないてるのか」  おじは手をひいて家へいれた。母は心配そうにこのありさまを見ていた、おばはすでに寝て しまったらしい。 「どうしたんだ」 「おじさんにあげようと思ってぼくは……」  チビ公はとぎれとぎれに仔細《しさい》を語った。 「まあ着物はやぶけて、はかまはどうだらけに……」  と母も悲憤の涙にくれていった。 「助役の子だね、阪井の子だね、よしッ」  おじの顔はまっかになったかと思うとすぐまっさおになった。かれは水槽《みずおけ》の縁《へり》にのせたてぬ ぐいを、ふところに押しこんで家を飛びだした。 「おじさんをとめて」と母が叫んだ。チビ公はすぐ外へ飛びだした。 「だいじょうぶだ、心配すな、みんな寝てもいいよ」  おじさんは走りながらこういった。 「待っておいで」  母はこういってぞうりをひっかけておじのあとを追うた。チビ公は茶の間へあがって時計を 見た、それは九時を打ったぽかりであった。チビ公はあがりかまちに腰をかけておじと母の帰 りを待っていた。おぽさんは昼のうちは口やかましいにかかわらず夜になるとまったく意気地《いくじ》 がなくなって眠ってしまうので起こしたところで起きそうにもない。豆腐屋は未明に起きねば ならぬ商売だ、チビ公は昼の疲れにうとうとと眠くなった。 「眠っちゃいけねえ」とかれは自分をしかりつけた、がいったん襲いきたった睡魔《すいま》はなかなか しりぞかない、ぐらりぐらりと左右に首を動かしたかと思うと障子《しようじ》に頭をこつんと打った、は っと目をさまして庭へ出て顔を洗った、月はポプラの枝々をもれて青白い光を戸板や石うすや こもや水槽に落とすと、それらの影がまざまざと生きたようにういてくる。チビ公は口笛をふ いた。  時計は十時を打った。 「おじさんがけんかをしてるんじゃなかろうか、もしそうだとすると」  チビ公はこう考えたとき少年の血潮が五体になりひびいた。 「阪井の家へいったにちがいない、だが阪井の親父は助役だ、子分が大勢だ、おじさんひとり ではとてもかなわないだろう、そうすると……」  かれはもうだまっていることができなくなった、身体は小さいがおれの方が正しいんだ、お じさんを助けてあげなきゃならない。  かれは雨戸のしんばり棒をはずして手にさげた、それからじょうぶそうなぞうりにはきかえ て外へでた、めざすところは阪井の家である、かれは今にもおじが乱闘乱戦に火花をちらして いるかのように思った、胸が高鳴りして身体がふるえた。町に松月楼《しようげつろう》という料理屋がある、そ の前にさしかかったときかれはただならぬ物音を聞いた。ひとりの男がはだしのまま、 「医者を医者を」と叫んで走った。すると他の男がまた同じことをいって走った。 「もしやおじがここで……」とチビ公は直感した、とたんに暗がりから母が飛びだしてチビ公 の肩にもたれた。 「大変だよ千三、おじさんが……」  母はなかぽなき声であった。ぼらぽらと玄関に五、六人の影があらわれた。 「悪いやつをなぐるのはあたりまえだ、おれの家の小僧をおどかして毎朝豆腐を強奪《こうだつ》しやがる、 おれは貧乏人だ、貧乏人のものをぬすんでも助役の息子ならかまわないというのか」  たしかにおじさんの声である。 「子どものけんかにでしゃばって、相手の親をなぐるという法があるか」  二、三人がどなった。 「あやまらないからなぐったんだ」 「ぐずぐずいわんと早く歩け」 「おれをどうするんだ」  五、六人の人々が玄関口で押しあった。その中からおじさんの半裸体の姿があらわれた、お じさんの顔はまっさおになってくちびるから血がしたたっていた、かれのやせた肩は呼吸の度《たび》 ごとにはげしく動いた。 「さあでろ」と巡査がいった。 「はきものがない」とおじさんがいった。 「そのままでいい」 「おれはけだものじゃねえ」  だれかが外からぞうりを投げてやった、おじさんはそれをはいた。 「おじさん!」とチビ公は門内にかけこんでいった。 「おお千三か、おまえのかたきは討《う》ってやったぞ、いいか明日《あす》から商売に出るときにはな、鉄 砲となぎなたとわきざしとまさかりと七つ道具をしょってでろ、いいか、助役のせがれが強盗 にでても警察では豆腐屋を保護してくれないんだからな」  こういったおじさんの息は酒くさかった。 「歩け」と巡査がいった。 「待ってくださいおまわりさん」とチビ公は巡査の前にすわった。 「おじさんが酔ってるんです、おじさんをゆるしてください、明日の朝になって酒がさめたら おじさんといっしょに警察へあやまりにまいります、おじさんがいなければ私一人では豆腐を 作ることができません」  チビ公の声は涙にふるえていた。 「なにをぬかすかぽか」とおじさんがどなった。 「商売ができなかったらやめてしまえ、商売をしたからって助役の息子に食われてしまうぽか りだ」  おじさんはのそのそと歩き出した、かれは門の外になくなく立っている妹(チビ公の母)を 見やって少し躊躇《ちゆうちよ》したが、 「あとはたのむぜ、おれは強盗の親玉を退治たんだから、これから警察へごほうびをもらいに ゆくんだ」  母がなにかいおうとしたがおじはずんずんいってしまった、ひとりの巡査と、ふたりの町の 人がつきそうていった。チビ公と母はどこまでもそのあとについた、おじさんは警察の門をは いるときちらとふたりの方をふり向いた。 「困ったねえ」と母がいった。 「阪井にけがをさしたんでしょうか」 「そうらしいよ、たいしたこともないようだが、それでも相手が助役さんだからね」 「今晩帰ってくるでしょう」 「さあ」  ふたりは思い思いの憂鬱《ゆううつ》をいだいて家へ帰った、母は戸口に立ちどまって深いため息をつい た、彼女はおぽのお仙をおそれているのである、おじは親切だがおぽはなにかにつけて邪慳《しやけん》で ある、たよるべき親類もない母子《おやこ》は、毎日おばの顔色をうかがわねばならぬのであった。  ふたりはようやく家へはいった、そうしておぽを起こして仔細《しさい》を語った。 「へん」とおぽは冷ややかにわらった「なんてえばかな人だろう、この子がかわいいからって 助役さんをなぐるなんて……明日から商売をどうするつもりだろう、どうしてご飯を食べてゆ くつもりなの?」  お仙は眠い目もすっかりさめて口ぎたなく良人《おつと》をののしった。 「商売はぼくがやります、おぽさん、そんなにおじさんを悪くいわないでください」  チビ公は決然とこういった。 「やれるならやってみるがいいや、おら知らないよ」  お仙はふたたび寝床《ねどこ》へもぐりこんだ、チビ公と母のお美代は床へはいったがなかなか眠れな い。 「なによりもね、さしいれ物をしなくちゃね」とお美代がいった。 「さしいれ物ってなあに?」 「警察へね、毛布だのお弁当だのを持っていくんだよ、警察だけですめばいいけれどもね」 「お母さんが弁当をこさえてくれれぽぼくが持っていくよ」 「それがね、お金を弁当屋にはらって、さしいれしてもらうのでなきゃいけないんだよ」 「いくらp」 二ぺんの弁当は一番安いので二十五銭だろうね」 コニ度なら七十五銭ですね」 「ああ」 「七十五銭!」  七十五銭はチビ公ひとりが一日歩いてもうける分である、それをことごとく弁当代にしてし まえぽ三人がどうして食べてゆけよう。チビ公は当惑《とうわく》した。 コ豆をひくにしても煮るにしても、おまえの腕ではとてもできないし、私の考えでは当分休む よりほかにしかたがないが、そうすると」  お美代はしみじみといった。 「休みません、おじさんのできることならぼくがやってみせます、ぼくのために助役をなぐっ たおじさんに対してもぼくはるす中りっぱにやってみせます」 「でもさしいれ物はな」 「お母さん、ぼくの考えではね、お母さんもぼくといっしょに豆腐を作って、それからおじさ んのまわり場所を売りにでてください、二人でやればだいじょうぶです」 「そうだ」とお美代はうれしそうにいった「そうだよ千三、私は女だからなにもできないと思 っていたが、今夜から男になれぽいいのだ、おじさんと同じ人になれぽいいのだ、そうしよう ね」 「お母さんに荷をかつがせて豆腐を売らせたくはないんだけれども……お母さん、ぼくはまだ 小さいからしかたがありません、大きくなったらきっとこのうめあわせをします」  チビ公の與奮した目はるりのごとくすみわたって瞳は敢為《かんい》の勇気に燃えた。  うとうとと眠ったかと思うともう東が白みかけたので母に起こされた、チビ公はいきおいよ く起きて仕事にとりかかった、お美代もともに火をたきつけた、このいきおいにおされてお仙 はぶつぶついいながらもやはり働きだした。 「おぽさんはなにもしなくてもいいからただ指図《さしず》だけしてください」  とチビ公はいった。  至誠《しせい》はかならず天に通ずる、チビ公の真剣な労働は邪慳《じやけん》のお仙の角《つの》をおってしまった、三人 は心を一つにして、覚平が作る豆腐におとらないものを作りあげた。 「さあいこうぜ」とお美代はいせいよくいった。脚絆《きやはん》をはいてたびはだしになり、しりぽしょ りをして頭にほおかむりをなしその上におじさんのまんじゅう笠をかぶった母のしたくを見た ときチビ公は胸がいっぽいになった。 「らっばはふけないから鈴にするよ」とお美代はわらっていった。 「じゃお先に」  チビ公は荷をかついで家をでた、なんとなく戦場へでもでるような緊張した気持ちが五体に あふれた、かれは生まれてはじめて責任を感じた、いままでは寒いにつけ暑いにつけ商売を休 みたいと思ったこともあった、またおじさんにしかられるからしかたなしにでていったことも あった、しかしこの日は全然それと異なった一大革命が精神の上に稲妻《いなずま》のごとく起こった。 「おれがしっかりしなけれぽみんなが困る」  かれは警察にあるおじさんもおぽも母もやせ腕一本で養わねばならぬ大責任を感ずるととも に奔湍《ほんたん》のごとき勇気がいかなる困難をもうちくだいてやろうと決心させた。  らっぽの音はほがらかにひびいた。かれは例のたんぽ道から町へはいろうとしたとき、今日 も生蕃が待っているだろうと思った。  かれは微笑した、それはいかにも自然に腹の中からわきでたおだやかな微笑であった。いつ もかれはこのところでいくどか躊躇《ちゆうちよ》した、かれは生蕃をおそれたのであった、がかれはいま、 それを考えたとき恐怖の念が夢のごとく消えてしまった。でかれは堂々とらっばをふいた。  町の角に……はたして生蕃が立っていた。 「やい」と生蕃は血走った目でチビ公をにらんだ。 「おまえに食わせる豆腐はないそ」とチビ公は昂然《こうぜん》といった。 「なにお?」  生蕃はびっくりして叫んだがつぎの句がつげなかった、かれはいつも涙ぐんでぺこぺこ頭を 下げるチビ助が、しかも昨夜《ゆうべ》かれのおじがおれの父をなぐったことを知ってるチビ助が、復讐 のおそれも感ぜずにいつもより勇敢なのを見ると、実際これほどふしぎな現象はないのであっ た。 「待てッ」 「待っていられないよ、明日の朝またあおうね」  チビ公はずんずん去ろうとした。 「こらヅ」  生蕃の手がてんびん棒にかかった、とこのとき電柱の蔭から声が聞こえた。 「阪井、よせよ」  それは柳光一であった。 「なんでえ」 「きみは悪いよ」と光一は歩みよった。 「なんでえ」と生蕃がほえた。 「きみはぼくと親友になるといったことをわすれたか」 「わすれはしねえ」 「じゃ、いっしょに学校へいこう」 「しかし」 「もういいよ」  光一は生蕃のひじをとった、そうしてチビ公ににっこりしてふりかえった。チビ公は鳥打帽《とりうちぽう》 をぬいで一礼した。  この日ほど豆腐の売れた日はなかった、町では覚平が助役をなぐって拘留《こうりゆう》されたという噂が 一円にひろがった、しかもそれは貧しき豆腐屋の子がになってくる豆腐を強奪したうらみだと わかったので町内の同情は流れの低きにつくがごとくチビ公に集まった。 「買ってやれ買ってやれかわいそうに」  豆腐のきらいな家までが争うて豆腐を買った、チビ公のふくらっばは凱歌《がいか》のごとく鳴りひび いた。  二時間にして売りつくしたのでチビ公は警察へいった。 「おじさんをゆるしてください、おじさんが悪いんでないのです、酒が悪いんですから」  かれは警部にこう哀願《あいがん》した。 「警察ではゆるしてやりたいんだ」と警部は同情の目をまたたいていった「だが阪井の方で示 談《ゆじだん》にしないと警察では困るんだ」 「監獄へいくんでしょうか」 「そうなるかもしれない、きみの方で阪井にかけあってなんとかしてもらうんだね」  チビ公はがっかりして警察をでた、それからその足でさしいれ屋へゆき、売りだめから七十 五銭をだしていった。 「どうかよろしくお願いします」 「覚平さんだったね」とさしいれ屋の亭主がいった。 「はあ」 「覚平さんのさしいれはすんでるよ」 「三度分の弁当ですよ」 慚ああすんでる」 「だれがしてくれたのです」 醐だれだかわからないがすんでる、五十銭の弁当が三本」 「へえ、それじゃちり紙を一つ……」 「ちり紙とてぬぐいと、毛布二枚とまくらと……それもすんでる」 「それも?」とチビ公はあきれて「どなたがやってくだすったのですか」 「それもいえない、いわずにいてくれというんだから」 「じゃさしいれするものはほかになんでしょう」 「その人がみんなやってくれるからいいだろう」  チビ公はあっけにとられて言葉がでなかった、親類とてほかにはなし、友だちはあるだろう が、しかし匿名《とくめい》にしてさしいれするのでは、ふだんにさほど懇意《こんい》にしている人でないかもしれ ぬ、自分では想像もできぬが、母にきいたら思いあたることもあるだろう、こう思ってかれは そこをでた、家へ帰ると母もすでに帰っていた。生まれてはじめててんびん棒をかついだので 母はがっかりつかれて、肩を冷水で冷やしていた。 「どうでしたお母さん一とチビ公がいった。 「大変によく売れたよ」と母はわらっていた。 「ぼくの方も非常によかったです、二時間のうちに」  か治はからのおけを見せ、それから売りだめをおぽにわたしてさしいれものの一件を語った。 「だれだろうね」 「さあだれだろう」  おぽと母はしきりに知り人の名を数えあげたが、それはみんな匿名《とくめい》の必要のない人であり、 毛布二枚を買う資力のない人ばかりであった。  その日の夕飯はさびしかった、酒を飲んでけんかをするのは困るが、さてその人が牢獄《ろうごく》にあ ると思えばさびしさがいっそうしみじみと身に迫《せま》る。 「阪井にかけあって示談にしてもらうようにしましょうかね」と母はおばにいった。 「まあ、そうするよりほかにしかたがありますまい」とおぽがいった。チビ公をるすにして二 人はそれぞれ知人をたよって示談の運動をした。 「よろしい、なんとかしましょう」  こう快諾《かいだく》してくれた人は四、五人もあったが、翌日になると悄然《しようぜん》としてこういう。 「どうも阪井のやつはどうしてもききませんよ、このうえは弁護士にたのんで……」  望みの綱も切れはてて一家三人はたがいにため息をついた。もとより女と子どものことであ る、心は勇気にみちてもからだの疲労は三日目の朝にはげしくおそうてきた、母の肩は紫に腫《は》 れて荷を負うことができない、チビ公は睡眠の不足と過度の労働のために頭が大磐石《だいばんじゃく》のごとく 重くなり動悸《どうき》が高まり息苦しくなってきた。  豆腐を買う人は多くなったが、作る人がなくなり売りにでる者がなくなった。  示談が不調で覚平は監獄へまわされた。 ● 三  何人《なんびと》が覚平のさしいれ物をしたかは永久の疑問として葬《ほうむ》られた。しかしチビ公の一家はしだ いしだいに貧苦に迫った。夜中の二時に起きて豆腐を作れぽ朝にはもうつかれて町をまわるこ とができない。町をまわろうとすれぽ夜中に豆腐を作ることができない。このためにお美代は 女手一つでわずかばかりの豆腐をつくり、チビ公一人が売りに出ることにきめた。  製作の量が少ないので、いくら売れてももうける金額はきわめて少なくなった。チビ公はい つも帰り道に古田からたにしを拾うて帰った。一家三人のおかずはたにしとおからぼかりであ った。おぽのお仙は毎日のように愚痴《ぐち》をこぼした。 「おまえのためにこんなことになったよ」  これを聞くたびにチビ公はいつも涙ぐんでいった。 「おぽさん、ぼくはどんなにもかせぐから、そんなことをいわないでくださいよ」  ある日かれは豆腐おけをかついで例の裏道を通った、かれの耳に突然異様の音響が聞こえた。 それは医者の手塚の家であった。夕日はかっと植え込みを染めて土蔵の壁が燃ゆるように赤く 反射していた。欝蒼《うつそう》と茂った樹々の緑のあいだに、明るいぼたんの花が目ざむるぽかりにさき ほこっているのが見える。そこに大きな池があって土橋をかけわたし水際《みぎわ》には白いしょうぶも 見える。それよりずっと奥に回廊紆曲して障子の色まっ白に、そこらからピアノの音が栄華を ほこるかのごとく流れてくる。 「ああその家はぼくの父の家だったのだ」  チビ公は暗然としておけを路傍《ろぽう》におろして腕をくんだ。 「お父さんは政党のためにこの家までなくしてしまったのだ。お父さんはずいぶん人の世話も し、この町のためになることをしたのだが、いまではだれひとりそれをいう者がない。その子 のぼくは豆腐を売って……それでもご飯を食べることができない」  チビ公は急になきたくなった、かれは自分が生まれたときには、この邸《やしき》の中を女中や乳母《うば》に だかれて子守り歌を聞きながら眠ったことだろうと想像した。 「つまらないな」とかれは歎息した。「いくら働いてもご飯が食べられないのだ、働かないほ うがいい、死んでしまうほうがいい、ぼくなぞは生きてる資格がないのだ、路傍のかえるのよ うに人にふまれてへたぼってしまうのだ」  暗い憂鬱《ゆううつ》はかれの心を閉ざした。かれは自分の影法師《かげぼうし》がいかにも哀れに細長く垣根に屈折し ているのを見ながらため息をはいた。 「影法師までなんだか見すぼらしいや」  ピアノの音は樹々の葉をゆすって涼風《すずかぜ》に乗ってくる。 「お父さんのある者は幸福だなあ、ああしてぽうんぽうんピアノをひいて楽しんでいる」  かれはがっかりしておけをかついだ。つかれた足をひきずって二、三間歩きだすとそこでひ とりの女の子にあった。それは光一の妹の文子であった。彼女は尋常《じんじよう》の五年であった。下《しも》ぶく れのうりざね顔で目は大きすぎるほどばっちりとして髪を二つに割って両耳のところで結び玉 をこさえている。元禄袖《げんろくそで》のセルに海老茶《えびちや》のはかまをはき、一生懸命にゴムほおずきを口で鳴ら していた。 「今晩は」とチビ公は声をかけた。 「今晩は」と文子はにっこりしていった。がすぐ思いだしたように「青木さん、兄さんがあな たを探してたわ」 「兄さんが2」 「ああ」 「何か用事があるんですか」 「そうでしょう、私知らないけれども」 文子はこういってまたぶうぶうほおずきをならした。 「急用なの?」 「そうでしょう」 「なんだろう」 「会えばわかるじゃないの2」 「それはそうですな」 「兄さんがいま、家にいるでしょう、いってちょうだいね」  文子はこういったがすぐ「私もいっしょにいくわ、あそこに大きな犬がいるからおいはらっ てちょうだいね」 「ああ酒屋の犬ですか」  ふたりは並んで歩きだした。小学校にいたときには文子はまだまだおさなかった。げたのは なおが切れて難儀《なんぎ》してるのを見てチビ公はてぬぐいをさいてはなおをすげてやったことがある。 そのとき肩につかまって片足をチビ公の片足の上に載《の》せたことをかれは記憶している。  ふたりは光一の家の裏口の前へきた。 「待っててね」  文子は足をけあげて走りだし、勝手口の戸をあけたかと思うと大きな声で叫んだ。 「兄さん、青木さんつれてきたわ、兄さん早く」  光一の姿が戸のあいだからあらわれた。 「やかましいやつだな、おてんば!」 「そんなことをいったら青木さんをつれてきてあげないわ」 「おまえがつれてこなくても青木君はここにいるじゃないか」  光一はわらいながらチビ公の方を向き、 「きみ、ちょっとはいってくれたまえ」 「ぼくはどうあしですから」 「そうか、じゃ庭へいこう」  チビ公はおけを片隅において光一のうしろにしたがった。ふたりはうの花が雪のごとくさき みちている中庭へでた。そこの鶏舎《けいしや》にいましも追いこまれたにわとりどもは、まだごたごたひ しめきあっていた。 「きみに相談があるんだがね」と光一は謹直《むきんちよく》な顔をしていいだした。 「ぼくはぼくの父ともよく相談のうえでこのことをきめたんだが」 「どんなことですか」 「つまり、きみにもいろいろ不幸な事情が重なってるようだがきみはもう少し学問をする気が ないかね」 「それはぼくだって……」とチビ公は早口にいった。「学問はしたいけれどもぼくの家は……」 「だからねえきみ、きみが中学校をやって大学をやるまでの学資ならぼくの父がだしてあげる とこういうのだ。きみは学校でいつも優等《ゆうとう》だったしね、それからきみの性質や品行のことにつ いてはこの町の人はだれでも知ってるんだからね、豆腐屋をしてるよりも、学問をしたら、き っと成功するだろうと父もいうんだ、実はね、こんど生蕃の親父《おやじ》の一件できみのおじさんがあ んなことになったろう、それできみは夜も昼もかせぎどおしにかせいでいるのを見てぼくの父 は……」 「ああわかった」と、チビ公は思わず叫んだ。「おじさんのさしいれ物をしてくれたのはあな たのお父さんですね」 「いやいや、そんなことは……」と光一は頭をふって、「ぼくは知らない、なんにも知らない」 「かくさないでいってください、ぼくはお礼をいわないと気がすまないから」 「そうじゃないよきみ、決してそうじゃない、ところできみ、いまの話はどうする、きみはぼ くといっしょに中学へ通わないか、ねえきみ、きみはぼくよりもできるんだからね、ぼくの家 はきみに学資をだすくらいの余裕があるんだ、決して遠慮することはないよ、ぼくの父は商人 だけれども金を貯めることぽかり考えてやしない、金より大切なのは人間だってしじゅういっ てるよ、きみのような有望な人間を世話することは父が一番すきなことなんだから、ねえきみ、 ふたりでいっしょにやろう、大学をでるまでね、きみは二年の試験を受けたまえ、きっと入学 ができるよ、ねえきみ」  光一の目はしだいに熱気をおびてきた、かれの心はいまどうかして親友の危難《きなん》を救い、親友 をして光ある世界に活躍せしめようという友情にみたされていた。 「ねえ青木君、ねえ、そうしたまえよ」  かれは千三の手をしっかりとにぎって顔をのぞいた。うの花がふたりの胸にたもとにちらり ちらりとちりしきる。千三はだまってうつむいていた。  社会のどん底にけおとされて、貧苦に小さな胸をいため、おじは牢獄《ろうごく》にあり、わが身はどう にあえぐふなのごときいまの場合に、ただひとり万斛の同情と親愛をよせてくれる人があると 思うと、千三の胸に感激の血が高波のごとくおどらざるを得ない。かれは石のごとく沈黙した。 「ねえ青木君、ぼくの心持ちがわかってくれたろうね」 「……」 「明日からでも商売をやめてね、おじさんがでてくるまで休んでね、そうしてきみは試験の準 備にかかるんだね、決して不白由な思いはさせないよ」 「……」 「ぼくはね、金持ちだからといっていぼるわけじゃないよ、それはぎみもわかってくれるだろ うね」 「むろん……むろん……ぼくは……」  千三ははじめて口を聞いたが、胸がいっぽいになって、なんにもいえなくなった。はげしい すすりなきが一度に破裂した。 「ありがとう……ぼくはうれしい」  涙はほうを伝うて滴々《てきてき》として足元に落ちた。足にはわらじをはいている。 「じゃね、そうしてくれるかね」と光一も涙をほろほろこぼしながらいった。 「いいや」と千三は頭をふった。 「いやなのかい」 「お志は感謝します。だが柳さん」  千三はふたたび沈黙した。肩をゆする大ぎなため息がいくども起こった。 「わがままのようだけれども、ぼくはお世話になることはできません」 「どうして?」 「ぼくはねえ柳さん、ぼくは独力でやりとおしたいんです、人の世話になって成功するのはだ れでもできます、ぼくはひとりで……ひとりでやって失敗したところがだれにも迷惑をかけま せん、ぼくはひとりでやりたいのです」 「しかしきみ」  光一は千三の手をきびしくにぎりしめてじっと顔を見詰めたが、やがて茫然と手を放した。 「失敬した、きみのいうところは実にもっともだ、ぼくはなんにもいえない」  庭の茂りのあいだから文子の声が聞こえた。 「兄さん! ご飯よ、今日はコロッケよ」 「そんなことをいうものじゃない」と光一はしかるようにいった、文子の声はやんだ。 「どうか悪く思わないようにね」と千三がいった。 「いや、ぼくこそ失敬したよ」と光一はいった。 「いままでどおりにお願いします」 「ぼくもね」  ふたりはふたたびかたい握手をした。 「コロヅケがさめるわよ」と文子は窓から顔をだしていった。 「うるさいやつだな」と光一はわらった。 「さようなら」  千三はおけをかついでふらふらと歩きだした。光一はだまってうしろ姿を見送ったが、 を顔にあててなきだした。日はしだいに暮れかけてうの花だけがおぼろに白く残った。  翌日光一は学校へゆくと手塚がかれを待っていた。 「きみ、気をつけなきゃいけないよ、生蕃がきみを殺すといってるよ」 「なぜだ」 「きみの父《フアサ》がチビ公のおじさんのさしいれ物をしたそうじゃないか」 「だれがそんなことをいったんだ」 両手 「町ではもっぱら評判だよ」 「そんなことはぼくは知らん、よしんば事実にしたところで、生蕃がなにもぼくを殺すにあた らない話だ」 「ぼくもそう思うがね、あの問題はチビと生蕃のことから起こって、大人同士のけんかになっ たんだからな」 「かまわんさ、ほっとけ、ぼくは生蕃をおそれやしないよ」 「きみはいつも傲慢《こうまん》な面《つら》をしてるとそういってたよ」 「なんとでもいうがいい」 「しかし気をつけなけりゃ」  手塚はいつも表裏反覆つねなき少年で、今日は西に味方し明日は東に味方し、好んで人の間 柄をさいて喜んでるので、光一はかれのいうことをさまで気にとめなかった。  そのころ生蕃は得意の絶頂にあった、かれが三年のライオンを征服してから驍名校《ねぎようめい》中にとど ろいた。かれは肩幅を広く見せようと両ひじをつっぱり、下腹を前へつきだして歩くと、その 幕下《ばつか》どもは左右にしたがって同じような態度をまねるのであった。とくにかれは覚平の一件が あってから凶暴《きようぽう》がますます凶暴を加えた。  学校の小使いは廃兵《はいへい》であった。かれはらっばをふくことがじょうずで時間時間には玄関へで て腹いっぱいにふきあげる。それから右と左のろうかへふきこむと生徒がぞろぞろ教室をでる。 それを見るとかれは愉快でたまらない。 「生意気なことをいってもおれのらっばででたりはいったりするんだ、おまえたちはおれの命 令にしたがってるんじゃないか」  こうかれは生徒どもにいうのであった。かれはもう五十をすぎたが女房《にようぼう》も子もない、ほんの ひとりぽっちで毎日生徒を相手に気焔《きえん》をはいてくらしている、かれは日清戦争に出征《しゆつせい》して牙山《がざん》 の役《えき》に敵の大将を銃剣で刺したくだりを話すときにはその目が輝きその顔は昔のほこりにみち て朱《しゆ》のごとく赤くなるのであった。 「そのときわが鎌田聯隊長《かまたれんたいちよう》殿は、馬の上で剣を高くふって突貫《とつかん》! と号令をかけた。そこで大 沢一等卒はまっさきかけて疾風《しっぶう》のごとく突貫した。敵は名に負う袁世凱《えんせいがい》の手兵だ、どッどヅど ッと煙をたてて寄せくる兵は何千何万、とてもかなうべきはずがない」 「逃げたか」とだれかがいう。 「逃げるもんか、日本男児だ、大沢一等卒は銃剣をまっこうにふりかぶって……」 「らっぽはどうした」 「らっばは背中へせおいこんだ」 「らっば卒にも銃剣があるのか」 「あるとも、兵たる以上は……まあだまって聞け大沢一等卒は……」 「いまや小使いになってる」  生徒は「わっ」とわらいだす、たいていこのぐらいのところで軍談は中止になるのだが、か れはそれにもこりず生徒をつかまえては懐旧談《かいきゆうだん》をつづけるのであった。大沢一等卒がはたして それだけの武功があったかどうかは何人《なんびと》も知らないことなのだが、生徒間ではそれを信ずる者 がなかった。大沢小使いの一番おそれていたのは体操の先生の阪本少尉であった、かれは少尉 の顔を見るといつも直立不動の姿勢で最敬礼をするのであった。 「小使い! お茶をくれ」 「はい、お茶を持ってまいります」  実際大沢は校長に対するよりも少尉に対する方が慇懃《いんぎん》であった、生徒はかれを最敬礼とあだ 名した。  最敬礼のもっともきらいなのは生蕃であった、生蕃はいつもかれを罵倒《ばとう》した。生蕃は大沢一 一九=年辛亥革命によって首相。一二年清帝の退位後、中華民国初代大統領。ついで白ら帝位についたが失脚した。 等卒が牙山《かさん》の戦いで一生懸命に逃げてアンペラを頭からかぶって雪隠《せつちん》でお念仏をとなえていた といった。それに対して大沢は顔を赤くして反駁《はんばく》した。 「見もしないでそんなことをいうものじゃない」 「おれは見ないけれども官報にちゃんとでていたよ」と生蕃がいった。 「とほうもねえ、そんな官報があるもんですか」  なにかにつけて大沢と生蕃はけんかした、それがある日らっばのことで破裂した。大沢が他 の用事をしているときに生蕃がらっぱをぬすんでどこかへいってしまった。これは大沢にとっ てゆゆしき大事であった。大沢は血眼《ちまなこ》になってらっばを探した、そうしてとうとう生蕃があめ 屋にくれてやったことがわかったのでかれは自分の秘蔵《ひぞう》している馬の尾で編んだ朝鮮帽をあめ 屋にやってらっばをとりかえした。 「助役のせがれでなけりゃ口の中へらっばをつっこんでやるんだ」とかれは憤慨した。  生蕃の素行についてはしばしば学校の会議にのぼったが、しかしどうすることもできなかっ た。英語の先生に通称カトレヅトという三十歳ぐらいの人があった、この先生は若いに似ずい つも和服に木綿《もめん》のはかまをはいている、先生の発音はおそろしく旧式なもので生徒はみんな不 服であった。先生はキャット(ねこ)をカットと発音する、カツレツをカトレットと発音する。 「先生は旧式です」と生徒がいう。 「語学に新旧の区別があるか」と先生は恬然《てんぜん》としていう。 「しかし外国人と話をするときに先生の発音では通じません」 「それだからきみらはいかん、語学をおさめるのは外人と話すためじゃない、外国の本を読む ためだ、本を読んでかれの長所を取りもってわが薬籠《やくろう》におさめればいい、それだけだ、通弁に なって、日光《につこう》の案内をしようという下劣《げれつ》な根性のものは明日から学校へくるな」  生徒は沈黙した。生徒間には先生の言は道理だというものがあり、また、頑固で困るという ものもあった、が結局先生に対してはなにもいわなくなった、英語の先生とはいうものの、こ の朝井先生は猛烈な国粋主義者《こくすいしゆぎしや》であった、ある日生徒は英語の和訳を左から右へ横に書いた。 それを見て先生は烈火《れつか》のごとくおこった。 「きみらは夷狄《いてき》のまねをするか、日本の文字が右から左へ書くことは昔からの国風である、日 本人が米の飯を食うことと、顔が黄色であることと目玉がうるしのごとく黒く美しいことと、 きみに忠なることと親に孝なることと友にあつきことと先輩をうやまうことは世界に対してほ こる美点である、それをきみらは浅薄《せんばく》な欧米の蛮風《ばんふう》を模倣《もはう》するとは何事だ、さあ手をあげて見 たまえ、諸君のうちに目玉が青くなりたいやつがあるか、天皇にそむこうとするやつがあるか、 日本を欧米のどれいにしようとするやつがあるか」  先生の目には憤怒の涙が輝いた、生徒はすっかり感激してなきだしてしまった。 「新聞の広告や、町の看板にも不心得千万な左からの文字がある、それは日本を愛しないやつ らのしわざだ。諸君はそれに悪化されてはいかん、いいか、こういう不心得なやつらを感化し て純日本に復活せしむるのは諸君の責任だぞ、いいか、わかったか」  この日ほどはげしい感動を生徒にあたえたことはなかった。 「カトレットはえらいな」と人々はささやきあった。  光一はこのほかにもっとも尊敬していたのは校長の久保井先生であった。元来光一は心の底 から浦和中学を愛した。とくに数多《あまた》の先生に対しては単に教師と生徒の関係以上に深い尊敬と 親しみをもっていた。校長は修身を受け持っているので、生徒は中江藤樹《なかえとうじゆ》の称をたてまつった。 校長の口ぐせは実践躬行《じつせんきゆうこう》の四字であった、かれの訓話にはかならず中江藤樹がひっばりだされ る、世界大哲人の全集を残らず読んでもそれを実地におこなわなけれぽなんの役にもたたない、 たとえばその……こう先生はなにか譬喩《ひゆ》を考えだそうとする。先生は譬喩がきわめてじょうず であった、謹厳そのもののような人が、どうしてこう奇抜な譬喩がでるかとふしぎに思うこと がある、たとえぽその、ぼたもちを見て食わないと同じことだ、ぼたもちは目に見るべきもの でなくして、口に食すべきものだ、書籍は読むべきものでなくして行ないにあらわすべきもの だ、いもは浦和の名産である、だが諸君と同じ大きさのいもの重さが異なるゆえんを知ってい るか、量においては同じである。重さにおいて一斤《きん》と二斤の差があるのは、肥料の培養法《ばいようほう》によ ってである、よき肥料と精密な培養はいもの量をふやしまた重さをふやす、よき修養とよき勉 強は同じ人間を優等にすることができる、諸君はすなわちいもである。  この訓話については「人をばかにしてる。おれたちをいもだといったぜおい」と不平をこぼ した者もあった。  普通の教師は学校以外の場所では中折帽《なかおれぽう》をかぶったり鳥打帽《とりうちぽう》に着流しで散歩することもある が、校長だけは年百年中《ねんびやくねんじゆう》学校の制帽で押し通している、白髪のはみだした学帽には浦和中学 のマークがいつも燦然《さんぜん》と輝いている。校長のマークもぼくらのマークも同じものだと思うと光 一はたまらなくうれしかった。  とここに一大事件が起こった。ある日学校の横手にひとりのたい焼き屋が屋台をすえた。そ れはよぼよぼのおじいさんで、銀の針のような短いひげがあごに生《は》え、目にはいつも涙をため てそれをきたないてぬぐいでふきふきするのであった。まずかまどの下に粉炭《こなずみ》をくべ、上に鉄 の板をのせる。板にはたいのような形が彫ってあるので、じいさんはそれにメリケン粉をどろ りと流す、それから目やにをちょっとふいてつぎにあんを入れその上にまたメリケン粉を流す。  最初はじいさんがきたないのでだれも近よらなかったが、ひとりそれを買ったものがあった ので、われもわれもと雷同《らいどう》した、二年生はてんでにたい焼きをほおばって、道路をうろうろし た、中学校のうしろは師範学校である、由来いずれの県でも中学と師範とは仲が悪い、前者は 後者をののしって官費の食客だといい、後者は前者をののしって親のすねかじりだという。  師範の生徒は中学生がたい焼きを食っているのを見て手をうってわらった。わらったのが悪 いといって阪井生蕃が石の雨を降らした。逃げ去った師範生は同級生を引率《いんそつ》してはるかに嘲 笑《ちようしよう》した。 「たい焼き買って、あめ買って、のらくらするのは浦中ちゅう、ちゅうちゅうちゅう、おやち ゅうちゅうちゅう」  妙な節でもってうたいだした。すると中学も応戦してうたった。 「官費じゃ食えめえ気の毒だ、あんこやるからおじぎしろ、たまには、たいでも食べてみろ」  このさわぎを聞いた例のらっば卒は早速校長に報告した。校長はだまってそれを聞いていた がやがておごそかにいった。 「たい焼き屋に退却を命じろ」  いかなることかとびくびくしていた生徒どもは校長の措置にほっと安心した、たい焼き屋は すぐに退却した、だが哀れなるたい焼き屋! 一時間のうちに数十のたいが飛ぶがごとく売れ るような結構な場所はほかにあるべくもない。かれは翌日またもや屋台をひいてきた。それと 見た校長は生徒を校庭に集めた。 「たい焼きを食うものは厳罰に処すべし」  生徒は戦慄《せんりつ》した、とその日の昼飯時である。生徒はそれぞれに弁当を食いおわったころ、生 蕃は屋台をがらがらと校庭にひきこんできた。 {さあみんなこい、たい焼きの大安売りだぞ」  かれはメリケン粉を鉄の型に流しこんで大きな声でどなった。人々は一度に集まった。 「おれにくれ」 「おれにも」  焼ける間も待たずに一同はメリケン粉を平らげてしまった。これが校中の大問題になった。 じじいが横を向いてるすきをうかがつて足を引いてさかさまにころばし、あっと悲鳴をあげて る間に屋台をがらがらとひいてぎた阪井の早業《はやわさ》にはだれも感心した。  わいわいなきながらじじいは学校へ訴えた。たい焼きを食ったものはわらって喝采した、食 わないものは阪井の乱暴を非難した。だがそれはどういう風に始末をつけたかは何人も知らな かった。 「阪井は罰を食うそ」  みながこううわさしあった、だが一向なんの沙汰《さた》もなかった。それはこうであった。阪井は 校長室によばれた。 「屋台をひきずりこんだのはきみか」 「はい、そうです」 「なぜそんなことをしたか」 「たい焼き屋がきたためにみなが校則をおかすようになりますから、みなの誘惑を防ぐために ぼくがやりました」 「本当か」 「本当です」 「よしヅ、わかった」  阪井が部屋をでてから校長は歎息《たんそく》していった。 「阪井は悪いところもあるが、なかなかよいところもあるよ「  しかし問題はそれだけでなかった、ちょうどそのときは第一期の試験であった、試験! そ れは生徒に取って地獄の苦しみである、もし平素|善根《ぜんこん》を積んだものが死んで極楽にゆけるもの なら、平素勉強しているものは試験こそ極楽の関門である、だがその日その日を遊んでくらす ものに取っては、ちょうどなまけ者が節季《せつき》に狼狽《ろうばい》すると同じもので、いまさらながら地獄のお そろしさをしみじみと知るのである。  浦和中学は古来の関東|気質《かたぎ》の粋《すい》として豪邁不屈《こうまいふくつ》な校風をもって名あるが、この年の二年には どういうわけか奇妙な悪風がきざしかけた。それは東京の中学校を落第して仕方なしに浦和へ きた怠惰生《たいだせい》からの感染であった。孔子は一人《いちにん》貪婪《どんらん》なれぽ一|国乱《こくらん》をなすといった、ひとりの不良 があると、全級がくさりはじめる。  カンニングということがはやりだした、それは平素勉強をせない者が人の答案をぬすみみた り、あるいは謄写《とうしや》したりして教師の目をくらますことである、それには全級の連絡《れんらく》がやくそく せられ、甲から乙へ、乙から丙へと回送するのであった、もっと巧妙な作戦は、なにがしの分 はなしがしが受け持つと、分担を定める。  この場合にいつもぎせい者となるのは勉強家である、怠惰の一団が勉強家を脅迫して答案の 回送を負担せしめる。もし応じなけれぽ鉄拳が頭に雨《あま》くだりする。たいてい学課に勉強な者は 腕力が弱く怠け者は強い。  カンニングの連中にいつも脅迫されながら敢然として応じながったのは光一であった。もっ ともたくみなのは手塚であった。  この日は幾何学の試験であった。朝のうちに手塚が光一のそばへきてささやいた。 「きみ、今日だけ一つ生蕃を助けてやってくれたまえね」 「いやだ」と光一はいった。 「それじゃ生蕃がかわいそうだよ」 「しかたがないさ」 「一つでも二つでもいいからね」 「ぼくは自分の力でもって人を助けることは決していといはせんさ、だが、先生の目をぬすん でこそこそとやる気持ちがいやなんだ、悪いことでも公明正大にやるならぼくは賛成する、こ そこそはぼくにできない、絶対にできないよ」 「偽善者だねきみは」と手塚はいった。 「なんとでもいいたまえ、ぼくは卑劣なことはしたくないからふだんに苦しんで勉強してるん だ、ぎみらはなまけて楽をして試験をパスしようというんだ。その方が利口かもしらんがぼく にはできないよ」 「きみは後悔するよ、生蕃はなにをするか知れないからね」  光一は答えなかつた。光一の席のうしろは生蕃である、光一が教室にはいったとき、生蕃は 青い顔をしてだまっていた。  幾何学の題はしごく平易なのであった、光一はすらすらと解説を書いた、かれは立って先生 の卓上に答案をのせ机と机のあいだを通って扉《ドアぐち》ロへ歩いたとき、血眼《ちまなこ》になってカンニングの応 援を待っているいくつかの顔を見た。阪井は頭をまっすぐに立てたまま動きもしなかった。手 塚は狭猾《こうかつ》な目をしきりに働かせて先生の顔を、ちらちらと見やっては隣席の人の手元をのぞい ていた。 「気の毒だなあ」  光一の胸に憐愍《れんびん》の情がいっぱいになった。かれは自分の解説があやまつていないかをたしか めるために控え席へと急いだ。  ひとりひとり教室からでてきた、かれらの中には頭をかきかぎやってくるものもあり、また 大功名をしたかのごとくにこにこしてくるものもあり、あわただしく走ってきてノートを開い て見るものもあった、人々は光一をかこんで解説をきいた、そうして白分のあやまれるをさと ってしょげかえるものもありまた、おどりあがって喜ぶものもあった、この騒ぎの中に阪井が 青い顔をしてのそりとあらわれた。 「どうした、きみはいくつ書いた」と人々は阪井にいった。 「書かない」と阪井は沈痛にいった。 二つもか」 二つも」 「なんにもか」 「ただこう書いたよ、援軍きたらず零敗《れいはい》すと」人々はおどろいて阪井の顔を見詰めた、阪井の 口元に冷ややかな苦笑が浮かんだ。 「だれかなんとかすれぽいいんだ」と手塚がいった。 「ぼくは自分のだけがやっとなんだよ」とだれかがいった。 二番先にできたのはだれだ」と手塚がいった。 「柳だよ」「そうだ柳だ」 「柳は卑劣だ、利己主義だ」  声がおわるかおわらないうちに阪井は弁当箱をふりあげた。光一はあっと声をあげて目の上 に手をあてた。眉《まゆ》と指とのあいだから血がたらたらと流れた。血を見た阪井はますます狂暴に なっていすを両手につかんだ。 「よせよ、よせ、よせ」人々は総立ちになって阪井をとめた。 「あんなやつ、殺してしまうんだ、とめるな、そこ退《ど》け」  阪井は上衣《うわぎ》を脱ぎ捨てて荒れまわった、このさわぎの最中に最敬礼のらっば卒がやってきた、 かれは満身の力でもって阪井をうしろからはがいぜめにした。「このやろう、今日こそは承知 ができねえぞ、さああばれるならあばれて見ろ、牙山《がざん》の腕前を知らしてやらあ」 四  阪井が柳を打擲して負傷させたということはすぐ全校にひびきわたった。上級の同情は一 に柳に集まった。 「阪井をなぐれなぐれ」  声はすみからすみへと流れた。 「この機会に阪井を退校さすべし」  この説は一番多かった。ある者は校長に談判しようといい、ある者は阪井の家へ襲撃しよう といい、ある者は阪井をとらえて鉄棒《かなぼう》にさかさまにつるそうといった。憤激!興奮!平素阪 井の傲慢《こうまん》や乱暴をにがにがしく思っていたかれらはこの際徹底的に懲罰《ちようばつ》しようと思った。二時 の放課になっても生徒はひとりも去らなかった。ものものしい気分が全校にみなぎった。  なにごとか始まるだろうという期待の下に人々は校庭に集まった。 「諸君!」  大きな声でもってどなったのはかつて阪井とけんかをした木俣ライオンであった。 「わが校のために不良少年を駆逐《くちく》しなければならん、かれは温厚なる柳を傷つけた、そうし て」 「わかってる、わかってる」と叫ぶものがある。 「おまえも不良じゃないか」と叫ぶものがある。  木俣はなにかいいつづけようとしたが頭を掻《か》いて引込《ひつこ》んだ。人々はどっとわらった。これを 口切りとして二、三人の三年や四年の生徒があらわれた。 「校長に談判しよう」 「やれやれ」 「徹底的にやれ」  少年の血潮は時々刻々《じじこつこく》に熱した。 「待てッ、諸君、待ちたまえ」  五年生の小原という青年は木馬の上に立って叫んだ。小原は平素沈黙|寡言《かけん》、学力はさほどで ないが、野球部の捕手として全校に信頼されている。肩幅が広く顔は四角でどうのごとく黒い が、大きな目はセンターからでもマスクをとおしてみえるので有名である、だれかがかれを評 して馬のような目だといったとき、かれはそうじめ、ない、おれの目は古今東西の書を読みつく したからこんなに大きくなったのだといった。  身体が大きくて腕力もあるが人と争うたことはないので何人《なんびと》もかれと親しんだ、木馬の上に 立ったかれを見たとき、人々は鳴りをしずめた。小原の黒い顔は朱のごとく赤かった、かれは 両手を高くあげてふたたび叫んだ。 「諸君は校長を信ずるか」 「信ずる」と一同が叫んだ。 「生徒の賞罰は校長の権利である、われわれは校長に一任して可なりだ、静粛に静粛にわれわ れは決してさわいではいかん」 「賛成賛成」の声が四方から起こった。狂瀾《きようらん》のごとき公憤の波はおさまって一同はぞろぞろ家 へ帰った。  そのとき職員室では秘密な取り調べが行なわれた。職員たちはどれもどれもにがい顔をして いた。当時その場にいあわせた重なる生徒が五、六人ひとりずつ職員室へよぽれることになっ た。一番最初に呼ばれたのは手塚であった、手塚はいつも阪井の保護を受けている、いつか三 年と犬のけんかのときに阪井のおかげで勝利を占めた、かれはなんとかして阪井を助けてやり たい、そうしていっそう阪井に親しくしてもらおうと思った。 「柳の方からけんかをしかけたといえばそれでいい」  かれはこう心に決めた、が職員室へはいるとかれは第一に厳粛な室内の空気におどろいた。 中央に校長のまぽらに白い頭と謹直な顔が見えた、その左に背の高いつるのごとくやせた漢文 の先生、それととなりあって例の英語の朝井先生、磊落《らいらく》な数学の先生、右側には身体のわりに 大きな声をだす歴史の先生、人のよい図画の先生、一番おわりには扉口《とぐち》に近く体操の先生の少 尉がひかえている。 「あとをしめて」と少尉がどなった。手塚はあわてて扉をしめた。 「阪井はどうして柳をうったのか」と少尉がいった。 「ぼくにはわかりません」 「わからんということがあるかッ」  少尉はかみつくようにどなった。 「知ってるだけをいいたまえ」と朝井先生がおだやかにいった。 「幾何の答案をだして体操場へゆきますと柳がいました。そこへ阪井がきました、それから ……」  手塚はさっと顔を赤めてだまった。 「それからどうした」と少尉がうながした。 「けんかをしました」 「ごまかしちゃいかん」と少尉はどなった。「どういう動機でけんかをしたか、男らしくいっ てしまわんときみのためにならんぞ」 「カンニングのその……」 「どうした」 「柳が阪井に教えてやらないので」 「それで阪井がうったのか」 「はい」 「一番先に答案ができたのは柳だ、それに柳が阪井を救わずに教室を出たのは卑怯だ、利己主 義だといったのはだれか」 「ぼくじゃありません」と手塚はしどうになっていった。 「きみでなければだれか」 「知りません」 「知らんというか」 「多分桑田でしょう」 「桑田か」 「はい」 「きみもカンニングをやるか」 「やりません」 「きみは一番うまいという話だぞ」 「それはまちがいです」 「よしヅ帰ってもよい」  手塚はねずみの逃ぐるがごとく部屋をでてほっと息をついた。雑嚢《ざつのう》を肩にかけて歩ぎながら 考えてみると阪井を弁護しようと思ったはじめの志と全然反対にかえって阪井の不利益をのべ たてたことになっている。 「これが阪井に知れたら、どんなめにあうかも知れない」  怜悧《れいり》なる手塚はすぐ→策を案じて阪井をたずねた、阪井は竹刀《しない》をさげて友だちのもとへいく ところであった。 「やあきみ、大変だぞ」と手塚は忠義顔にいった。 「なにが大変だ」と阪井はおちついていった。 「先生も校長も非常におこってきみを退校させるといってる」 「退校させるならさせるがいいさ、片っ端からたたききってやるから」 「短気を起こすなよ、ぼくがうまくごまかしてきたからたぶんだいじょうぶだ」 「なんといった」 「柳の方からけんかを売ったのです。柳は生蕃に向かっておまえはふだんにいばってもなんに もできやしないじゃないかといっても生蕃はだまっていると……」 「おい生蕃とはだれのことだ」 「やあ失敬」 「それから?」 「柳が生《せい》……生……じゃない阪井につぽをはきかけたから阪井がおこってたちあがると柳は阪 井の顔を打ったので阪井は弁当をほうりつけたのです」 「うまいことをいうな、きみはなかなか口がうまいよ」 「そういわなければ弁護のしようがないじゃないか」 「だがおれはいやだ、おれはきみと絶交だ」と阪井は急にあらたまっていった。 「なぜだ」 「ばかやろう! おれは人につぼを吐《は》きかけられたらそやつを殺してしまわなきゃ承知しない んだ、つばを吐きかけられたとあっては阪井は世間へ顔出しができない、うそもいい加減に言 えよばかヅ」  阪井はずんずん急ぎ足で去った、手塚はうらめしそうにその方を見やった。 「どっちがばかか、おれがしょうじきに白状したのも知らないで……いまに見ろ退校されるか ら」  かれはこうひとりでいって角《かど》を曲がった。 「だが先生たちの顔色で見ると、柳の方へつく方が利益だ、そうだ、柳の見舞《みま》いにいってやろ う」  学校では職員会議がたけなわであった。阪井の乱暴については何人《なんびと》も平素憤慨していること である。人々は口をそろえて阪井を退校に処すべき旨を主張した。 「試験の答案に、援軍きたらず零敗《れいはい》すと書くなんて、こんな乱暴な話はありません」と幾何学 の先生がいった。 「しかし」漢学の先生がいった、「阪井は乱暴だがきわめて純な点があります、うそをつかな い、手塚のように小細工をしない、おだてられてけんかをするが、ものの理屈がわからないほ うでもない、むろん今度のことは等閑《とうかん》に附すべからざることですが、退校は少しく酷にすぎは しますまいか」 「いや、あいつは破廉恥罪《はれんちざい》をおかして平気でいます、人の畑のいもを掘る、駄菓子屋《だがしや》の菓子を かっぱらう、ついこのごろ豆腐屋の折詰を強奪してそのために豆腐屋の親父が復讐をして牢獄《ろうごく》 に投ぜられた始末、私がいくども訓戒したがききません、かれのために全校の気風が悪化して きました、雑草を刈り取らなけれぽ他の優秀な草が生長をさまたげられます、これはなんとか して断固たる処分にでなけれぽなりますまい、いかがですか校長」  朝井先生がこういったとき、一同の目が校長に注がれた。校長は先刻から黙然として一言も いわずにまなごを閉じていたがこのときようやくまなごをみひらいた。涙が睫毛《まつげ》を伝うてテー ブルにぽたりぽたりこぼれた。 「わかりました、諸君のいうところがよくわかりました、実は私はこのことあるを憂《うれ》いて、前 後五回ほど阪井の父をたずねて忠告したのです、それにかかわらずかれの父はかれを厳重にい ましめないのです、これだけに手を尽しても改悛《かいしゆん》せず、その悪風を全校におよぼすのを見ると、 いまは断固たる処置をとらなきゃならない場合だと思います。しかしながら諸君、しかしなが ら……」  校長の語気はしだいに熱してきた。 「キリストの言葉に九十九のひつじをさしおいても一頭の迷えるひつじを救えというのがあり ます、あれだけ悪い家庭に育ってあれだけ悪い事をする阪井は憎いにちがいないが、それだけ になおかわいそうじゃありませんか、あんな悪いことを働いてそれが悪いことだと知らずにい る阪井巌をだれが救うてくれるでしょうか、善良なひつじは手をかけずとも善良に育つが、悪 いひつじを善良にするのはひつじかいの義務ではありますまいか、いまここで退校されればか れは不良少年としてふたたび正しき学校へ行くことができなくなり、ますます自暴自棄《じぼうじき》になり ます、そうすると、ひとりの男をみすみす堕落させるようなものです、救い得る道があるなら 救うてやりたいですな」 「いかにもなア」  感嘆の声が起こった、人々は校長が生徒を愛する念の深きにいまさらながらおどろいた。 「ごもっともです」と朝井先生はいった「校長の情け深いお説に対してはもうしあげようもあ りません、しかし教育者は一頭のひつじのために九十九のひつじを捨てることはできません、 ひとりのコレラ患者のために全校の生徒を殺すことはできません、阪井については師範校から も苦情がきております、かれの父はかれよりも兇悪です、しかも政党の有力者であり助役であ るところからしてその子がどんな悪いことをしても罰することができないのだと、世間で学校 を嘲笑しています、学校の威厳がひとたびくずれると生徒が決してわれわれの訓戒をきかなく なります。かたがたこの場合断固たる処置をとられることを希望致します」 「よろしい、きめましょう、一週間の停学にしましょう、それでもだめだったら退校にしまし よう、どんな罪があろうと、その罪の一|半《ばん》は私の徳の足らないためだと私は思います、私も深 く反省しましょう、諸君もより以上に注意してください、悪い親を持った一少年を学校が見捨 てたら、もうそれっきりですからなあ」  寛大すぎるとは思ったが朝井先生は校長の美しい心に打たれて反対することができなくなっ た、人々は沈黙した。そうしてしずかに会議をおわった。 「こんなにありがたい校長および職員一同の心持ちが阪井にわからんのかなア」と少尉は涙ぐ んでいった。  停学を命ずるという掲示が翌日掲げられたとき、生徒一同は万歳を叫んだ。だがそれと同時 に阪井は退校届けをだした。校長はいくども阪井の家を訪《と》うて退校届の撤回をすすめたがきか なかった。  校長はまたまた柳の見舞《みま》いにいった。光一の負傷は浅かったが、なにかの黴菌《ばいきん》にふれて顔が 一面にはれあがった。かれの母は毎日見舞いの人々にこういって涙をこぼした。 「阪井のせがれにこんなひどいめにあわされましたよ」  それを見て父の利三郎は母をしかりつけた。 「愚痴《ぐち》をいうなよ、男の子は外へでるとけんかをするのはしかたがない、先方の子をけがさせ るよりも家《うち》の子がけがするほうがいい」  そのころ町々は町会議員の選挙で鼎《かなえ》のわくがごとく混乱した、あらゆる商店の主人はほとん ど店を空《から》にして奔走《ほんそう》した、演説会のビラが電信柱や辻々にはりだされ、家々は運動員の応接に せわしく、料理屋には同志会専属のものと立憲党の専属のものとができた。  阪井猛太は巌の父である、昔から同志会に属しその幹部として知られている、その反対に柳 利三郎は立憲党であった、そういう事情から両家はなんとなく不和である、のみならずこのせ わしい選挙さわぎの最中に阪井の息子が柳の息子の額《ひたい》をわったというので、それを政党争いの 意味にいいふらすものもあった。  しだいしだいに恢復《かいふく》に向かった光一は聞くともなしに選挙の話を聞いた。 「私は商人だからな、政党にはあまり深入りせんようにしている」  こういつもいっていた父が、急に選挙に熱してきたことをふしぎに思った、選挙は補欠選挙 であるから、たったひとりの争奪である、だがひとりであるだけに競争がはげしい。政党のこ となんかどうでもかまわないと思った光一も、父が熱し親戚が熱し出入りの者どもが熱するに つれて、自然なんとかして立憲党が勝てばよいと思うようになった。  選挙の期日が近づくにしたがって町々の狂熱がますます加わった。ちょうどそのときだれが 言うとなく、豆腐屋の覚平が出獄するといううわさがひろまった。 「おもしろい、覚平がぎっと復讐するにちがいない」と人々はいった。  ある日光一は覚平を見た、それはよごれたあわせに古いはかまをはいて首にてぬぐいをまい ていた、一月《ひとつき》の獄中生活でかれはすっかりやせて野良犬《のらいぬ》のようにきたなくなり目ばかりが奇妙 に光っていた、かれは非常に鄭重《ていちよう》な態度で畳に頭をすりつけてないていた。 「ご恩は決してわすれません、きっとぎっとお返し中します」  かれはぎっときっとというたびに涙をぼろぼろこぼした。 「もういいもういいわかりました、だれにもいわないようにしてな、いいかね、いわないよう にな」  と父はしきりにいった。 「きっと、きっと!」  覚平はこういって家をでていった、光一ははじめて例のさしいれものは父であることをさと った。その翌日から町々を顛倒《てんとう》させるような滑稽なものがあらわれた。懲役人《ちようえきにん》の着る衣服と同 じものを着た覚平は大きな旗をまっすぐにたてて町々を歩きまわるのである。旗には墨痕淋漓《ぽつこんりんり》 とこう書いてある。 「同志会の幹事は強盗の親分である」  かれは辻々に立ち、それから町役場の前に立ち、つぎに阪井の家の前に立ってどなった。 「折詰をぬすんだやつ、豆腐をぬすんだやつ、学校を追いだされたやつ、そのやつの親父は阪 井猛太だ」  巡査が退去を命ずればさからわずにおとなしく退去するが、巡査が去るとすぐまたあらわれ る、町の人々はすこぶる興味を感じた、立憲党の人々はさかんに喝采《かつさい》した、ときには金や品物 をおくるのであったが、覚平は一切拒絶した。  これがどれだけの効果があったかは知らぬが選挙はついに立憲党の勝利に帰した。覚平は町 町をおどり歩いた。 「ざまあ見ろ阪井のどうぽう!」  もう光一は学校へ通うようになった、とこのとき校内で悲しいうわさがどこからとなく起こ った。 「校長が転任する」  このうわさは日一日と濃厚になった、生徒の二、三が他の先生たちにきいた。 「そんなことはありますまい」  こう答えるのだが、そういう先生の顔にも悲しそうな色がかくしきれなかった。生徒の主な る者がよりよりひたいをあつめて協議した。 「本当だろうか」  このうたがいのとけぬ矢先《やさき》に手塚はこういう報告をもたらした。 「校長が立憲党のために運動したので諭旨免官《ゆしめんかん》となるんだそうだ」  これは生徒にとってあまりにふしぎなことであった。 「どういうわけだ」 }、校長はね、柳の家へしばしぼ出入りしたのを見た者があるんだよ」と手塚がいった「それで 阪井の親父が校長|排斥《はいせき》をやったんだ」 「,それは大変なまちがいだ」と光一は叫んだ。「先生がぼくの家へきたのは二度だ、それは学 校で負傷させたのは校長の責任だというので校長自身でぼくの父にあやまりにきたのと、いま 一つはぼくの見舞いのためだ、先生はぼくの枕元にすわってぼくの顔を見つめたままほかのこ と。 とはなんにもいわない、ぼくの父とふたりで話したこともないのだ」 「そりゃ、そうだろうとも」と人々はいった。 「もしそれでも校長が悪いというなら、われわれはかくごを決めなきゃならん」と捕手の小原 がいった。 「むろんだ、学校を焼いてしまえ」とライオンがいった。 「へんなことをいうな」と捕手はライオンをしかりつけて「こんどこそはだぞ、諸君! 関東 男児の意気を示すのはこのときだ、いいか諸君! 天下広しといえども久保井先生のごとき人 格が高く識見があり、われわれ生徒を自分の子のごとく愛してくれる校長が他にあると思うか、 この校長ありてこの職員ありだ、どの先生だってことごとくりっぱな人格者ぼかりだ、久保井 先生がいなくなったら第一カトレット先生がでてゆく、三角先生もでてゆく、山のいも先生も、 ナポレオン先生……」 「最敬礼も」どだれかがいった。 「まじめな話だよ」と捕手は怫然《ふつぜん》としてとがめた、そうしてつづけた。 「いいか諸君、久保井先生がなければ学校がほろびるんだぞ、ぼくらはなんのために漢文や修 身や歴史で古今の偉人の事歴を学んでるのだ、『士はおのれを知るもののために死す』だ、い いかぼくらは久保井先生のため浦和中学のため、死をもってあたらなきゃならん」 「それでなければ男じゃないそ」と叫んだものがある。  その日学校の広庭に全校の生徒が集まった。そうして一級から三人ずつの委員を選定して事 実をたしかめることにした、もしそれが事実であるとすれぽ、全校連署のうえ県庁へ留任を哀 頼しようというのである。光一は二年の委員にあげられた。  光一は悲しかった、かれの心は政党に対する憤怒に燃えていた。どういう理由か知らぬが、 校長がぼくの家へ見舞いにきただけで政党が校長を排斥するのはあまりに陋劣《ろうれつ》だ。  小原のいうごとく久保井先生のようなりっぽな校長はふたたび得られない。いまの先生方の ようなりっぱな先生もふたたび得られない。それにかかわらず学校がめちゃめちゃになる、そ れではぼくらをどうしようというんだろう、政党の都合がよけれぽ学校がどうなってもかまわ ないのだろうか。  そんなばかな話はない、これは正義をもって戦えばかならず勝てる、父に仔細《しさい》を話してなん とかしてもらおう。  いろいろな感慨が胸にあふれて歩くともなく歩いてくると、かれは町の辻々に数名の巡査が 立ってるのを見た、町はなにやら騒々しく、いろいろな人が往来し、店々の人は不安そうに外 をのぞいている。 「なにがはじまったんだろう」  こう考えながら光一は家の近くへくると、向こうからおじさんの総兵衛《そうぺえ》が急ぎ足でやってき た、かれはしまの羽織を着てふところいっぱいなにか入れこんで、きわめて旧式な出高帽をか ぶっていた。おじさんはいつも鳥打帽であるが、葬式や婚礼のときだけ出高帽をかぶるのであ った、ほていさんのようにふとってほおがたれてあごが二重にも三重にもなっている、その胸 のところにはくまのような毛が生えている、光一は子どものときにいつもおじさんにだかれて 胸の毛をひっぱったものだ。 「おじさんどこへいってきたの一と光一はきいた。 「ああ光一か、おれは今町会|傍聴《ぽうちよろ》にいってきた、おもしろいそ、うむ畜生《ちくしよう》! おもしろいそ、 畜生め、うむ畜生」  おもしろいのに畜生よばわりは光一に合点がゆかなかった。 「なにがおもしろいの?」 「なにがっておまえ、くそッ」おじさんはひどく興奮《こうふん》していた。 「どうぽうめが、畜生」 「どうぽうがいたの?」 「どうぽうじゃねえか、一部の議員と阪井とがぐるになって、道路の修繕費をごまかして選挙 費用に使用しやがった、それをおまえ大庭《おおば》さんがギュウギュウ質問したもんだから、困りやが って休憩にしやがった、さあおもしろい、お父さんがいるか」 「ぼくはいま学校の帰りですから知らない」 「知らない? ぼかヅ、そんならそうとなぜ早くいわないのだ、そんな風じゃ出世しないそ」  おじさんはぶりぶりして足を急がせたが、なにしろふとってるので頭と背中がゆれる割合に 一向足がはかどらなかった。  そういう政党の争いは光一にとってなんの與味もなかった、かれが家へはいると、もうおじ さんの大きな声が聞こえていた。 「どうぽうのやつめ、畜生ヅ、さあおもしろいそ」  父はげらげらわらっていた、母もわらっていた、おじさんが憤慨すればするほど女中たちや 店の者どもに滑稽に聞こえた。おじさんはそそっかしいのが有名で、光一の家へくるたびに帽 子を忘れるとか、げたをはきちがえるとか、ただしはなにかだまって持ってゆくとかするので ある。  光一は父と語るひまがなかった、父はおじさんとともに外出して夜おそく帰った、光一は床《とこ》 にはいってから校長のことばかりを考えた。 「停学された復讐として阪井の父は校長を追いだすのだ」  こう思うとはてしなく涙がこぼれた。  翌日学校へいくとなにごともなかった、正午の食事がすむと委員が校長に面会をこう手はず になっている。 「堂々とやるんだぞ、われわれの血と涙をもってやるんだ、至誠《しせい》もって鬼神《きしん》を動かすに足《た》る だ」と小原が委員を激励した。  委員はそこそこに食事をすまして校長室へいこうとしたとき、突然最敬礼のらっばがひびい た。 「講堂へ集まれい」と少尉が叫びまわった。 「なんだろう」  人々はたがいにあやしみながら講堂へ集まった、講堂にはすでに各先生が講壇の左右にひか えていた、どれもどれも悲痛な顔をしてこぶしをにぎりしめていた。もっとも目にたつのは漢 文の先生であった、ひょろひょろとやせて高いその目に涙がいっぱいたまっていた。 「あの一件だぞ」と委員たちは早くもさとった、そうして委員は期せずして一番前に腰をかけ た。ざわざわと動く人波がしずまるのを待って少尉はおそろしい厳格な顔をして講壇に立っ た。 「諸君もあるいは知っているかもしらんが、こんど久保井校長が東京へ栄転さるることになり ました、ついては告別のため校長から諸君にお話があるそうですから謹聴なさるがいい、決し て軽卒なことがないように注意をしておく」  この声がおわるかおわらないうちに講堂は潮《うしお》のごとくわきたった。 「なぜ校長先生がこの学校をでるのですか」 「栄転ですか、免官ですか」 「先生がぼくらをすてるんですか」 「先生を追いだすやつがあるんですか」  小さな声大きな声、バスとバリトンの差はあれども声々は熱狂にふるえていた、実際それは 若き純粋な血と涙が一度に潰裂《かいれつ》した至情《しじよう》の洪水であった。 「諸君p・」  小原|捕手《キヤッチヤ》は講壇の下におどり出して一同の方へ両手をひろげて立った。 「校長先生が諸君に告別の辞をたまわるそうだが、諸君は先生とわかれる意志があるか、意志 があるなら告別の辞を聴《き》ぐべしだ、意志のない者は……どうしても先生とわかれたくないもの はお話を聴く必要がないと思うがどうだ」 「そうだ、むろんだ」  講堂の壁がわれるばかりの喝采と拍手が起こった。 「小原、おねがいしてくれ、先生におねがいしてくれ」  だれかがすきとおる声でこういった。校長はまっさおになってこの体《てい》を見ていた。かれは自 分が手塩にかけて教育した生徒がかほどまで自分を信じてくれるかと思うと心の中でなかずに はいられなかった。 [先生!」  小原は校長の方へ向きなおっていった、そのまっ黒な顔に燃ゆるごとき炎がひらめいた、広 い肩と太い首が波のごとくふるえている。 「先生!」  かれはふたたびいったが涙がのどにつまってなにもいえなくなった。 「校長先生!」  こういうやいなやかれは急に声をたててすすりあげ、その太い腕《かいな》を目にあててしまった。講 堂は水を打ったようにしずまった、しぐれに打たるる冬草のごとくそこごこからなき声が起こ った、とそれがやがてこらえきれなくなって一度になきだした。漢文の先生は両手で顔をかく した、朝井先生は扉《ドア》をあけて外へでた、他の先生たちは右に傾き左に傾いて涙をかくした。  校長はしずかに諳壇に立った。低いしかも底力のある声は、くちびるからもれた。 「諸君! 不肖《ふしよう》久保井|克巳《かつみ》が当校に奉職《ほうしよく》してよりここに六年、いまだ日浅きにかかわらず、前 校長ののこされた美風と当地方の健全なる空気と、職員諸氏の篤実《とくじつ》とによって幸いに大瑕《たいか》なく 校長の任務を尽くし得たることを満足に思っています、今回当局の命《めい》により本校を去り諸君と わかれることになったことは実に遺憾《いかん》とするところでありますが事情まことにやむを得ません。 おもうに離合集散《りこうしゆうさん》は人生のつね、あえて悲しむに足らざることであります、ただ、諸君にして 私を思う心あるならその美しき友情をつぎにきたるべぎ校長にささげてくれたまえ、諸君の一 言一行にしてもし道をあやまるようなことがあれば、前校長の久保井は無能者であるとわらわ れるだろう、諸君の健全なる、剛毅果敢《こうきかかん》なる、正義にあつく友情に富める、この気風を失わざ れぽそれはやがて久保井克巳の名誉である、私は諸君が、いかに私を愛してくれるかを知って いる、諸君もまた私の心を知っているだろう、雲山煙水相隔《うんざんえんすいあいへだ》つれども一片の至情ここに相許せ ぽ、わかれることはなんでもない、私を思うなら、しずかにしずかに私をこの地から去らしめ てくれたまえ、私も諸君を思えぽこそこの地を去るのだ……」  声はしずかなしずかな夕波が岸を打つかのごとくであったが、しだいに興奮して飛沫《ひまつ》がさっ と岩頭にはねかかるかと思うと、それをおさえるごとく元のしずかさに返るのであった、一同 は大鳥の翼にだきこまれた雛鳥《ひなどり》のごとく鳴りをしずめた。 「もし諸君にして私を思うあまりに軽卒な行動をとると、私が六年間この浦和町につくした志 は全然葬られてしまうことになる、諸君は学生の分を知らなければならん、学生は決して俗世 界のことに指を染めてはならん、ただ、私は諸君にいう、ジョン・ブライトは『界のことに指を染めてはならん、ただ、私は諸君にいう、ジョン・ブライトは『正《ハル》でおそるるなかれ』といった、私はこの格言を諸君に教えた、私が去るのもそれでもまたこの格言をわすれてはならぬ、五年生は来年だ、一年生も五年の後には卒業そのときにはまた会える、はるかに浦和の天をながめて諸君の健全を祈ろう、諸君までどおりにりっぱに勉強したまえ」 小原はぐったりと頭をたれてだまった、もう何人《なんひと》もいうものがない、校長がいかに一同を見おろして一礼した、生徒はことごとく起立しておじぎをした。そうしてたたびなきだした。 後列の方から扉口《とぐち》へくずれだした、いとしめやかな足取り、葬式のごとく悲しげ堂をでた。「だめかなア」 光一は人々とはなれてひとりなきたいと思った、かれは夢のごとく町を歩いた、の背後からいそがしそうにあるいてくる足音を聞いた、足音はしだいに近づいた、》しきを踏ん でおそるるなかれ』といった、私はこの格言を諸君に教えた、私が去るのもそれである、諸君 もまたこの格言をわすれてはならぬ、五年生は来年だ、一年生も五年の後には卒業するだろう、 そのときにはまた会える、はるかに浦和の天をながめて諸君の健全を祈ろう、諸君もまたいま までどおりにりっぱに勉強したまえ」  小原はぐったりと頭をたれてだまった、もう何人《なんひと》もいうものがない、校長がいかにも悲しげ に一同を見おろして一礼した、生徒はことごとく起立しておじぎをした。そうしてそのままふ たたびなきだした。  後列の方から扉口《とぐち》へくずれだした、いとしめやかな足取り、葬式のごとく悲しげに一同は講 堂をでた。 「だめかなア」  光一は人々とはなれてひとりなきたいと思った、かれは夢のごとく町を歩いた、かれは自分 の背後からいそがしそうにあるいてくる足音を聞いた、足音はしだいに近づいた、そうして光 一を通りすごした。 「青木君」かれは呼びとめた。 「ああ柳さん」 「どこへゆくり・」  光一はチビ公が豆腐おけもかつがないのをふしぎに思った。 「ぼくのおじさんを見ませんか」と千三はうろうろしていった。 「いや、見ない」 「ああそうですか、今朝《けさ》から家をでたきりですからな、また阪井の家へどなりこみにいったの ではないかと思ってね」  千三はなきだしそうな顔をしていた。 「心配だろうね、ぼくもいっしょにさがしてあげよう」 五 チビ公と光一は裏門通りから清水屋横町へでた。そこでチビ公は知り合いの八百屋にきい た。 「家《うち》のおじさんを見ませんか」 「ああ見たよ」と八百屋がいった。 「さっきね丸太ん棒のようなものを持ってね、ここを通ったから声をかけるとね、おれは大ど うぽうを打ち殺しにゆくんだといってたっけ」 「どこへいったでしょう」 「さあ、停車場の方へいったようだ」 「酔ってましたか」 「ちとばかり酒臭かったようだったが、なあチビ公早くゆかないと、とんだことになるかもし れないよ」 「ありがとう」  チビ公はもう胸がいっぽいになった、ようやく監獄からでてきたものがまたしても阪井に手 荒なことをしてはおじさんの身体はここにほろぶるよりほかはない、どんなにしてもおじさん をさがしだし家へつれて帰らねばならぬ。  ふたりは足を早めた。停車場へゆくとおじさんの姿が見えない、チビ公は巡査にきいた。 「ああきたよ」 「何分ぽかり前ですか」 「さあ三十分ぼかり前かね」 「どっちの方へゆきましたか」 「さあ」と巡査は首をかしげて「常盤町通《ときわちようどお》りをまっすぐにいったように思うが……」  ふたりは大通りへ道を取った。 「どうしてこういやなことばかりあるんだろうね」と光一はいった。 「ぼくが思うに、この世の中にひとり悪いやつがあると世の中全体が悪くなるんです」とチビ 公はいった。 「だがきみ、社会が正しいものであるなら、ひとりやふたりぐらい悪いやつがあってもそれを 撃退する力があるべきはずだ」 「それはそうだが、しかし悪いやつの方が正しい人よりも知恵がありますからね、つまり君の 学校の校長さんよりも阪井の方が知恵があります、どうしても悪いやつにはかないません」 「そんなことはない」と光一は顔をまっかにして叫んだ。「もしこの世に正義がなかったらぼ くらは一日だって生きていられないのだ、ぼくらは悪いやつと戦わなきゃならない、この世の 悪漢をことごとく撃退して正義の国にしようと思えばこそぼくらは学問をするんじゃないか」 「それはそうだが、しかし強いやつにはかないません、正義正義といったところで、ぼくのお ll2 じは監獄へやられる、阪井は助役でいばってる、それはどうともならないじゃありませんか」  ふたりは警察署の前へきた、いましも七、八人の人々がひとりの男を引き立てて門内へはい るところであった。チビ公は電気に感じたようにおどりあがって人々の後を追うた。とまたす ぐもどってきた。 「おじさんかと思ったらそうでなかった」  かれは安心したもののごとく目を輝かした、そうしてこういった。 「けんかして人をきったんですって、それはいいことではないが、ぼくはああいう人を見ると、 なんだか、その人の方が正しいような気がしてなりません、時によるとぼくもね、ぼくがもし 身体《からだ》がこんなにチビでなかったら、もう少し腕に力があったら、悪いやつを片っ端から斬って やりたいと思うことがあります、身体が小さくて貧乏で、弱い母親とふたりでおじさんの厄介《やつかい》 になっているんでは、いいたいことがあってもいえない、いっそぼくの頭がガムシャラで乱暴 で阪井のように善と悪との差別がないならぼくはもう少し幸福かもしらないけれども、学校で 先生に教わったことをわすれないし、道にはずれたことをしたくないために、人に踏まれても けられてもがまんする気になります、そんなことでは損です、世の中に生きていられません、 そう思いながらやはり悪いことはしたくないしね」  チビ公は涙ぐんで歎息した、光一はなにもいうことができなくなった。かれはいままで正義 はかならず邪悪に勝つものと信じていた。それが今日もっとも尊敬する久保井校長が阪井のた めにおいはらわれたのを見て、正義に対する疑惑が青天に群がる白雲のごとくわきだしたとこ ろであった。かれはいまチビ公の嗟歎《さたん》を聞き、覚平の薄倖《はつこう》を思うとこの世ははたしてそんなに けがらわしきものであるかと考えずにいられなかった。  ふたりはだまって歩きつづけた。と米屋の横合いから突然声をかけたものがある。 「柳君!」  それは手塚であった。このごろ手塚は裏切り者として何人《なんびと》にもきらわれた、でかれは光一に もたれるより策がなかった。かれはなにかさぐるように狡猾《こうかつ》な目を光一に向けて微笑した。 「ぼくはすてきにおもしろい小説を買ったからきみに見せようと思ってね……いまは持ってい ないけれども晩に届けるよ。『春の悩み』というんだ」 「ぼくは小説はきらいだ」と光一はいった。 「ああそうか」と手塚はべつに恥じもせず「それじゃ『世界の怪奇』てやつを君に見せよう、 胴体が百五十|間《けん》もあるいかだの、鼻に輪を通した蕃人《ばんじん》だの、着色写真が百枚もあるよ、あれを 持ってゆこう」  かれは軽快にこういってからつぎにさげすむような口調でチビ公にいった。 「どうだチビ公、その後は……商売をやってるの?」 「毎日やっています」とチビ公はいった。 「たまにはぼくの家へもよりたまえね、豆腐を買ってあげるからね、チビ公」 「チビ公というのは失敬じゃないか、ぼくらの学友だよ」と光一はむっとしていった。 「そうだ、やあ失敬、堪忍《かんにん》堪忍」  手塚は流暢《りゆうちよう》にあやまった。がすぐ思いだしたようにいった。 「きみのおじさんがいまあそこであばれていたよ」 「どこで?」とチビ公は顔色をかえた。 「税務署で」 「税務署2」 「よっぽらってるから役場と税務署とをまちがえて飛びこんだのだよ、阪井を出せ、どうぽう をだせってどなっていたよ」 「ありがとう」  チビ公は奔馬《ほんば》のごとく走りだした。光一も走りだした。  少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって 政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために白分の信ずる人を代議士に 選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。  これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義をともにする者は集ま って一団となる、それを政党という。  政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義 を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、 なかには国家の利益よりも政党の利益ぼかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分た ちの政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とあ る、そうして善党はきわめてまれであって、悪党が非常に多い。これが日本の今日の政界であ る。  阪井猛太は白党の多数をたのみにして助役の地位にあるのを幸いに、不正工事を起こして自 党の利益にしようとした、これに対する立憲党は町会において断々固《だんだんご》としてその不正を責めた てた。もしことやぶるれぽ町長の不名誉、助役の漬職《とくしよく》、そうして同志会の潰裂《かいれつ》になる。猛太は いま浮沈《ふちん》の境《きよう》に立っている。  巌はまだ学生の身である。政治のことはわからないが、かれは絶対に父を信じていた。かれ は町へでるとあちらこちらで不正工事のうわさを聞くのであった、だがかれははらのうちでせ せらわらっていた。 「ばかなやつらだ、あいつらにぼくの親父の値うちがわかるもんか」  かれは何人《なんびと》よりも父が好きであった、父は雄弁家で博識で法律に明るくて腕力があって、町 の人々におそれられている、父はいつも口をきわめて当代の知名の政治家、大臣、政党首領な どを罵倒《ばとう》する、文部大臣のごときも父は自分の親友のごとくにいいなす。それを見て巌はます ます父はえらいと思った。  その日かれは理髪床《かみどこ》でふたりの客が話しているのをきいた。 「さすがの猛太も今日こそは往生したらしいぜ、町長にひどくしかられたそうだよ」とひとり がいった。 「町長だってどうやら臭いものだ」とひとりがいう。 「いや町長はなかなかいい人だ」  ふたりの話を聞きながら巌はまたしてもはらのうちで冷笑した。 「町長なんて、それはおれの親父にふりまわされてるでくのぼうだってことを知らないんだ」  かれはこう思うて家に帰った、父はすでに帰っていた、だまってにがりきった顔をして坐《すわ》っ ていたので巌はつぎの部屋へひっこんだ、機嫌《きげん》の悪いときに近づくとげんこつが飛んでくるお それがあるからである、父は短気だからげんこつが非常に早い。 「おい巌」と猛太は呼んだ。 「はい」 「きさま、どこへいってきた」 「床屋へゆきました」 「なにしにいつた」 「頭を刈りに」 「ぽかッ頭を刈ったってきさまの頭がよくなるかヅ」 「お母さんがゆけといったから」 「お母さんもばかだ、頭はいくらだ」 「二十銭です」 「二十銭で頭を刈りやがって、学校を退校されやがって」  巌はだまった、二十銭の頭と自分の退校といかなる関係があるかと考えてみたがかれにはわ からなかった。こういうときに家にいるとろくなことがないと思ったのでかれはそっと外へで た。町を一|巡《じゆん》してふたたび帰ると父の部屋に来客があった。それは役場の庶務《しよむ》課長の土井とい う老人であった、この老人は非常に好人物という評判も高いが、非常によくぼりだという評判 も高い、つまり好人物であってよくばりなのである。  母はどこへいったか姿が見えない、父と土井老人は酒を飲みながら話はよほど佳境《かきよう》に入った らしい。 「心配するなよ、なんでもないさ、そんな小さな量見では天下が取れないぜ」  父の声は快活豪放であった。 「でも-:-そのね、町会があんなにさわぎだすと、どうしてもね……」 「もういいよわかったよ、おれに考えがあるから、なにをばかな、はヅはッはッ」  わらいがでるようでは父はよほど酔っていると巌は思った。 「しかし、いよいよ明日ごろ……多分明日ごろ、検事が……あるいは検事が調べにくるかもし れんので……」 「なにをいうか、検事がきたところでなんだ、証拠があるかッ」 「帳簿はその……」 「焼いてしまえ」  老人は「あっ」と声をあげたきりだまってしまった。 「はッはッはッ」と猛太はわらった。が巌の足音を聞いてすぐどなった。 「だれだッ」 「ぼくです」 「巌か、何。へん床屋へゆくんだ、いくら頭をかっても利口《りこう》にならんぞ」  巌はだまって自分の部屋にはいり机に向かって本を読みはじめた、かれは本を読むと眠くな るのがくせである、いく時間机にもたれて眠ったかわからないが、がらがらと戸をあける音に 眼をさますと、客はすでに去り、母も床についたらしい。 「なんだろう」  こう思ったときかれは父が外へでる姿を見た。 「どこへゆくんだろう」  俄然《がぜん》としてかれの頭に浮かんだのは、チビ公のおじ覚平が父猛太をうかがって復讐せんとし ていることである、今日も役場をまちがって税務署へ闖入《ちんにゆう》したところをチビ公がきてつれてい ったそうだ、へびのごとく執念深いやつだから、いつどんなところから飛びだして暴行を加え るかもしれない。 「父を保護しなきゃならん」  巌は立ちあがった、かれは細身の刀をしこんだ黒塗りのステヅキ(父が昔愛用したもの)を 小脇にかかえて父のあとをつけた。二十日《はつか》あまりの月がねぼけたように町の片側をうすねずみ 色に明るくしていた。父の足元は巌が予想したほどみだれてはいなかった、かれは町の暗い方 の側を急ぎ足で歩いた。 「どこへゆくんだろう」  巌はこう思いながら父と二十歩ぼかりの間隔を取ってさとられぬように軒ドに沿うていった。 父はそれとも知らずにまっすぐに本通りへ出て左へ曲がった。 「役場へゆくんだ」  この深夜に役場へゆくのはなんのためだろう、巌の頭に一朶《た》の疑雲がただようた。とかれは さらにおどろくべきものを見た、父は役場の入り口から入らずにしばらく窓の下にたたずんで いたがやがて軽々と窓わくによじのぼった、手をガラス窓にかけたかと思うと、ガラスがかす かに反射の光とともに動いた。父の姿はもう見えない。 「どうしたことだろう」  巌はあっけに取られたがすぐこう思いかえした。 「なにかわすれものをしたのだろう」  だがこのときかれはばっと一|閃《せん》の火光が窓のガラスに映ったような気がした、そうしてそれ がすぐ消えた。 「なぜ電燈をつけないんだろう」  ふたたび火光がばっとひらめいた。ゆがんだような反射がガラスをきらきらさせた、それは ろうそくの光でもなければガラスの光でもない、穂末《ほずえ》の煙が黒みと白みと混合して牛乳色に天 井に立ちのぼった。  巌はわれをわすれて窓によじのぼり、奔馬のごとくろうかへ降りた。窓から南風がさっとふ きこんだ、炎々たる火光と黒煙のあいだに父は非常な迅速さをもって帳簿箱に油を注いでいる、 石油の臭いは窒息するばかりにはげしく鼻をつく、そうしてすさまじい勢いをもって煙をいっ ぽいにみなぎらす、焔《ほのお》の舌は見る見る床板《ゆかいた》をなめ、テーブルをなめ、壁を伝うて天井を這《は》わん としつつある。  巌はいきなり、そこにある机かけをとって床の上の火炎をたたきだした。 「だれだ」と父は忍び声にどなった。 「ぼくですお父さん」 「おまえか……なにをする」 「消しましょう」 「あぶない、早く逃げろ」 「消しましょう」と巌はなおも火をたたきながらいった。 「危ない、早く早く、逃げろ」  ばちばちばちとけたたましい音がして黒煙はいくつとなく並んだテーブルの下をくぐって噴 水のごとく向こうの穴から噴きだした。窓という窓のガラスは昼のごとく反射した。 「もうだめだ、早く早く、下を這《よ》え、立ってるとむせるぞ、下を這って……這って逃げろ」 「消しましょう」  と巌は三度いった。 「なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ」 「死んでもかまいません、消しましょう、お父さん」 「ばかッ、こい」  父はむずと巌の手をつかんだ、巌はその手をにぎりしめながらいった。 「お父さん、あなたは証拠書類を焼くために、この役場を焼くんですか」 「なにをp」  父は手を放してよろよろとしざった。 「消してください、お父さん」  巌は炎の中へ飛びこんだ、かれは右に走り左に走り、あらゆるテーブルを火に遠くころがし、 それから壁やたなや箱の下をかけずりまわって火の手をさえぎりたたきのめし、ふみしだき、 阿修羅王《あしゆらおう》が炎の車にのって火の粉を降らし煙の雲をわかしゆくがごとくあば勲まわった。だが それはむだであった。油と木材の燃ゆる悪臭と、まっ黒な煙とは巌の五体を包んだ。 「消してください」と巌は苦しそうになおも叫びつづけた。 「巌! どこだ、巌!」  父はわが身をわすれて煙の中に巌をさがした。 「消して……消して……お父さん」  こぶこぶこぶと湯のたぎるような音が、そこごこに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、 ふとんなどが燃ゆる音であった。そうしてそのあいだにガチンガチンというガラスの割れる音 が聞こえた。 「巌! 巌!」  父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。 「巌! 巌!」  やっばり答えがない。  猛太は仰天《ぎようてん》した、かれはふたたび火中に飛びこんだ、もう火の手は床《ゆか》一面にひろがった、右 を見ても左を見ても火の波がおどっている。天井には火竜《かりゆう》の舌が輝きだした。 「巌!」  猛太の胸ははりさけるぼかりである、かれはもう凶悪な三百代言でもなければ、不正な政党 屋でもない、かれのあらゆる血はわが子を救おうとする一心に燃えたった。  かれは煙にまかれて窒息している巌の体に足をふれた、かれは狂気のごとくそれを肩にかけ た、そうしてきっと窓の方を見やった。がかれは欄々《らんらん》たる炎の鏡に射られて目がくらんだ、五 色の虹霓《もこうげい》がかっと脳を刺したかと思うとその光の中に画然とひとりの男の顔があらわれた。 「やあ覚平!」  かれはこう叫んで倒れそうになった、とたんに覚平の腕は早くもかれの胴体をかかえた。 「おい、しっかりしろ」と覚平はいった。 「きさまはおれを殺しにきたのか」 「助けにきたんだ」  覚平は猛太と巌を左右にかかえた、そうして全力をこめて窓の外へおどりでた。  当直の人々や近所の人々によって火は消されたが、室内の什器《しゆうき》はほとんど用をなさなかった。 重要な書類はことごとく消失した。  人々は窓の外に倒れている猛太|父子《おやこ》を病院に送った。覚平は人々とともに消火につとめた、 さわぎのうちに夜がほのぼのと明けた。 道具。  町は鼎《かなえ》のわくがごとく流言蜚語《りゆうげんひご》が起こった。不正工事の問題が起こりつつあり、大疑獄《だいぎごく》がこ こに開かれんとする矢先に役場に放火をしたものがあるということは何人《なんびと》といえども疑わずに いられない。甲はこういう。 「これは同志会すなわち役場派の者が証拠を堙滅《いんめつ》させるために放火したのである」  乙はこういう。 「役場反対派すなわち立憲党のやつらが役場を疑わせるために故意に放火したのだ」  色眼鏡をもってみるといずれも道理のように思える。だが多数の人はこういった。 「猛太|父子《おやこ》が一命を投げだして消火につとめたところをもってみると、役場派が放火したので はなかろう」  こういって人々は猛太が浦和町のためにめざましい働きをしたことを口をきわめて称讀した、 それと同時に巌の功労に対する称讃も八方から起こった。  半死半生のまま病院へ運ばれたまでは意識していたがその後のことは巌はなんにも知らなか った。かれが病院の一室に目がさめたとき、全身も顔も繃帯《ほうたい》されているのに気がついた。 「目がさめて?」 母の声が枕元《まくらもと》に聞こえた、同時にやさしい母の目がはっきりと見えた、母の顔はあおざめて いた。 鞘お父さんは?」と巌がきいた。 「そこにやすんでいらっしゃいます」  巌は向きなおろうとしたが痛くてたまらないのでやっと首だけを向けた、ちょうど並んだ隣 の寝台に父は繃帯《ほうたい》した片手を胸にあてて眠っている、ひげもびんも焼けちぢれてところどころ 黒ずんでいるほおは繃帯のあいだからもれて見える。 「お父さんはどんなですか」 「大したこともないのです、手だけが少しひどいようですよ」 「それはよかった」  巌はこういってふたたびつくづくと父の寝顔を見やった。 「これがぼくのお父さんなのかなあ」  ふとつぶやくようにこういった。 「なにをいってるの?」と母は微笑した。 「いや、なんでもありません」  巌はだまった、かれの頭にはふしぎな疑惑が生じた。これがはたしてぼくの父だろうか。わ が身の罪を隠蔽《いんぺい》するために役場を焼こうとした凶悪な昨夜の行為! それがぼくの父だろう 、 O カ  かれは幼少からわが父を尊敬し崇拝《すうはい》していた、学識があり胆力《たんりよく》があり、東京の知名の士と親 しく交わって浦和の町にすばらしい勢力のある父、正義を叫び人道を叫び、政治の覚醒《かくせい》を叫ん でいる父!  実際かれはわが父を唯一の矜持《きようじ》としていた、がいまやそれらの尊敬や信仰や矜持は卒《も》然とし てすべて胸の中から消え失せた。 「お父さんは悪い人だ」  かれは大声を出してなきたくなった。かれにはなにものもなくなった。 「悪い人だ!」  いままで父に教えられたこと、しかられたこと、それらはみんなうそのように思えた。  焼けてちぢれたひげがむにゃむにゃと動いて、口がぽっかりあいて乱《らん》ぐいの歯があらわれた かと思うと猛太は目をばっちりと開いた。父と子の視線が合った。 「おう、目がさめたのか、どうだ、痛むか」  父は起きなおっていった。 「なんでもありません」と巌は冷ややかにいった、父は寝台を降りようとして首につった繃帯 を気にしながら巌の寝台へ寄りそうた、そうして心配そうな目を巌の顔に近づけた。 「元気をだせよ、いいか、どこも痛みはしないか、苦しかったら苦しいといえよ」  巌はだまって顔をそむけた、苦しさは首をのこぎりでひかれるより苦しい、しかしそれは 火傷《やけど》の痛みではない、父をさげすむ心の深傷《ふかて》である。この世の中に神であり仏であり正義の英 雄であると信じていたものが一夜のうちに悪魔波旬《あくまはじゆん》となった絶望の苦しみである。  猛太|父子《おやこ》の見舞いにとて来客が殺到した、町の人々はいろいろな物品を贈った、猛太は左の 腕と左の脚《あし》を焼いたので外出はできなかった、かれは寝台の上に坐って来客に接した。かれは こう人々にいった。 「せがれが命がけでやってくれたもんだからやっと消しとめましたよ」  それからかれはせがれとふたりで役場の前を通ると火の光が見えたので、窓をたたきこわし て中へはいったがその時は重要書類が焼けてしまったあとであったのがなにより残念だといっ た。人々はますますふたりの勇気に感激した。そうして町会は決議をもってふたりに感謝状を 贈ろうという相談があるなどといった。 「うそをつくことはじつにうまい」と巌はおどろいて胸をとどろかした。そうして町の人がな にも知らずに、役場を焼こうとした犯人に感謝状を贈るとはなにごとだろうと思った。 修道をさまたげようとした魔王の名。  二、三日はすぎた、町のうわさがますます高くなった、だがある日町長が顔色を変えてやっ てきた。 「みょうなうわさがでてきたよ」とかれはいった「放火犯人は役場員だというのでな」 「けしからんことだ」と猛太は叫んだ。 「警察の方では、どうもその方にかたむいているらしい。そこでだね、きみになにか心あたり があるならいってもらいたいんだが」 「なんにもありやしない」と猛太はにがりぎっていった。 「きみがいったとき、犯人らしいものの姿を見なかったかね」 「さあ」  猛太は下くちびるをかんでじっと考えこんだ。 「かれらがいうには、阪井が工事の帳簿を焼こうとしたんだとね、こういうもんだから、まさ か親子連れで火をつけに歩きまわるやつもなかろうじゃないかと私は嘲笑してやったんだ、そ れにしても疑われるのは損だからね、なにかくせものらしいものの姿でも見たのなら非常に有 利なんだが」 「見た」と猛太は力なき声でいった。 「見た?「 「ああ見た」 「どんな風態《ふうてい》の者だ」 「それは覚平によく似たやつだった」  巌は頭の脳天《のうてん》から氷の棒を打ち込まれたような気がして思わず叫んだ。 「ちがいますお父さん」 「だまっておれ」と猛太はどなって巌をハタとにらんだ、目は殺気をおびている。 「覚平か」と町長は身体《からだ》をぐっとそらしたがすぐ両手をぴしゃりとうった。 「そうだ、それにちがいない。あいつはきみにうらみがあるから、きみに放火犯人の疑いをか けさせようと思って放火したにちがいない、例の工事問題が起こってる最中だから、きみが帳 簿を焼くために火をつけたのだろうとは、ちょっとだれでも考えることだからな、いやあいつ はじつにうまく考えたものだ」 「そうだ、ことにょると立憲党のやつらが覚平を煽動《せんどう》したのかもしれんぜ」 「いよいよおもしろい」と町長はいすを乗りだして「これを機会に根底から立憲党を潰滅《かいめつ》する んだね、そうだ、じつに好機会だ、わざわいが転じて福となるぜ、おい、早く退院してくれ」 「ちがいます」と巌はふたたび叫んだ「覚平はぼくらを救いだしてくれたのです、ぼくもお父 さんも煙にまかれて倒れたところをあの人が火の中をくぐって助けてくれました」 13; 「ばかッ、だまってろ、おまえはなんにも知らないくせに」と猛太はどなった。 「なんにしてもあいつがその場にいたということがふしぎじゃないか」と町長がいった。 「そうだそうだ」  町長は喜び勇んで部屋をでていった。あとで猛太はそのまま身動きもせずに考えこんだ。巌 は繃帯《ほうたい》だらけの顔を天井に向けたままだまった、父と子はたがいに眼を見あわすことをおそれ た。陰惨な沈黙が長いあいだつづいた。  巌の目からはてしなく涙が流れた、かれはそれをこらえようとしたがこらえきれずにしゃく りあげた。 「お父さん」とかれはとうとういった。父はやはりだまっている。 「お父さん、あなたはぼくのお父さんでなくなりましたね」 「なにをいうか」と父はどなった。 「お父さんはぼくにうそをつくなと教えました。それだのにあなたはうそをついています、あ なたはぼくに義浹《ぎきよう》ということを教えました。それだのにあなたは命を助けてくれた恩人を罪に おとしいれようとしています、ぼくのお父さんはそんなお父さんじゃなかった」 「生意気なことをいうな、おまえなぞの知ったことじゃない、おれはなおれひとりの身体《からだ》じゃ ない、同志会をしょって立ってる身体だ、浦和町のために生きてる身体だ、豆腐屋ひとりぐら いをぎせいにしても天下国家の利益をはからねばならんのだ」 「むつかしいことはぼくにわかりませんが、お父さん、自分の罪を他人に着せて、それでもっ て天下国家がおさまるでしょうか」 「ぼかばかばか」と父は大喝《たいかつ》した。そうして急いで部屋をでようとした。 「待ってください」  巌は痛さをわすれて寝台の上に這《は》いあがり片手を仲ぽして父のそでをつかんだ。 「ちょっとまってください、お父さん、ぼくの一生のおねがいです」 「放せ、放さんか」と父は叫んだ。 「放しません、お父さん、たった一言いわしてください、お父さん、ぼくは不孝者です、学校 を退学されました、町の者ににくまれました、それはねえお父さん、ぼくの考えがまちがって いたからです、お父さんはぼくがおさないときからぼくに強くなれ強くなれ、人よりえらくな れと教えました、ぼくはどんなことをしても人よりえらくなろうと思いました、それでぼくは えらくなるためには悪い手段でもかまわないと信じていました、ぼくは小刀やピストルをふり まわして友だちをおびやかしました。柔道や剣道で腕をきたえて、片っ端から人をなぐりまし た、豆腐屋や八百屋のものをぶんどりました、みながぼくをおそれました、ぼくは自分でえら いものだと思いました、それから学校でカンニングをやって試験をのがれました、手段が不正 でもえらくなりさえすればいいと思ったからです、それはお父さんがぼくに教えたのです、お 父さんは天下国家のためだから悪いことをしてもかまわない、同志会のためなら恩人を懲役《ちようえき》に してもかまわないと思っていらっしゃる、あなたもぼくも同じです、それがいまぼくにはっき りわかりました、腕力で人を征服するよりも心のうちから尊敬されるのが本当にえらい人で す、カンニングで試験をパスするよりかむしろ落第する方がりっぱです、人に罪を着せて自分 がえらそうな顔をしてることは、一番肌ずべきことではないでしょうか、ぼくはおさないから お父さんは浦和中で一番えらい人だとそれをじまんにしていました、だが今になって考えると ぼくは浦和甲で一番劣等なお父さんをもっていたのでした、ねえお父さん……」 一きさまはきさまはぎさまは」と猛太はまっかになってそでをはらった。 「ばかやろう! 親不孝者! 大行《たいこう》は細瑾《さいきん》をかえりみずということわざを知らんか、阪井猛太 は天下の志士だぞ、ばかッ」  父はさっさとでていった。 「お父さん!「  巌は寝台の縁に片手をかけ、幽霊のごとくはいだして父のあとを追わんとしたが、火傷《やけど》の痛 みに中心を失って思わず寝台の下にドウと落ちた。 「お父さん待って…触:」  かれは痛みをこらえて起きあがろうとしたが繃帯にひかれて右の方へ倒れた。 「待ってください……お父さん!」  ふたたび起きあがるとまた左の方へ倒れる。 「おとう・…-とう---と、と、と、……」  声はしだいに弱った、涙は泉のごとくわいた、そうして肩息《かたいき》になって寝台に手をかけた、 う這《は》いあがる力もない。  病院の外で子供らがうたう声が聞こえる。 「夕やけこやけ、あした天気になあれ」 も 亠 ノ丶  小原捕手はいつもよりはやく目をさましそれから十杯のつるべ水を浴び心身をきよめてから 屋根にあがって朝日をおがんだ。これはいかなる厳冬といえども一度も休んだことのないかれ の日課である。冷水によって眠気と惰気《たき》とをはらい、さわやかな朝日をおがんで清新な英気を 受ける。  だがこの日はいつもより悲しかった、全校生徒の歎願があったにかかわらず久保井校長の転 任をひるがえすことができなかった。  今日は校長がいよいよ浦和を去る日である。  大急ぎで朝飯をすましかれはすぐ柳の家をたずねた、柳もまた小原をたずねようと家をでか けたところであった。 「いよいよだめだね」と柳はいった、平素温和なかれに似ずこの日はさっと顔を染めて一|抹悲 憤《まつひふん》の気が顔にあふれていた。 「しかたがないよ」と小原はいった。ふたりは朝日の光が縦に流れる町を東に向かって歩いた。 「ところでね君」と小原はしばらくあっていった。 「今日の見送りだがね、もし生徒が軽々しくさわぎだすようなことがあると、校長先生がぼく らを煽動したと疑られるから、この点だけはどうしてもつつしまなきゃならんよ」 「ぼくもそう思ったからきみに相談しようと思ってでかけたんだ」 「そうか、そうか」と小原はおとならしくうなずいて「一番猛烈なのは三年だからね、ぼくは 昨夜《ゆうぺ》もおそくまで歩きまわって説法したよ、二年は君にたのむよ、いいか、どうしてもわかれ なきゃならないものならぼくらは静粛に校長を見送ろうじゃないか」 「ぼくもそう思うよ一 「じゃそのつもりでやってくれ、だが三年はどうかな」  小原はしきりに三年のことを心配していた、いずれの中学校でも一番|御《ぎよ》しがたいのは三年生 である、一年二年はまだ子供らしい点がある、四年五年になると、そろそろ思慮分別ができる、 ひとり三年は単純であるかわりに元気が撥刺《はつらつ》として常軌《じようき》を逸《いつ》する、しかも有名な木俣ライオン が牛耳をとっている、校長転任の披露があってからライオンは十ぴきのへびを町役場へ放そう と計画しているといううわさを聞いた、また校長を見送ってからその足で県庁や役場を襲おう という計画もあると聞いている。  小原にはかれらの気持ちはじゅうぶんにわかっていた、かれらがそんなことをせずとも、小 原自身がまっさきになって暴動を起こしたいのである、だがかれは校長の熱烈な演説と、その いわんとしていわざる満腹の不平をしのんで、学生は学生らしくすべしという訓戒をたれた敬 虔《けいけん》な態度を見ると、竹やりむしろ旗の暴動よりも、静粛の方がどれだけりっばかしれないとい う溶々大海《ようようたいかい》のごとき寛濶《かんかっ》な気持ちが全身にみなぎった。かれははじめて校長先生の偉大さがわ かった。先生はなんの抵抗もせずにこの地方の教育界の将来のために喜んで十|字架《じか》についたの である、先生は浦和の町人がかならずその不正不義を反省するときがくると自信しているの だ。  小原はこういうことを柳に語った。 「ねえきみ、ぼくにはよく先生の気持ちがわかった、それはね、ぼくが捕手《キヤツチヤ》をやってるからだ よ、捕手は決して自分だけのことを考えちゃいかんのだ、全体のことを……みんなのことを第 一に考えなけりゃならない、ちょうど校長は捕手のようなものだからね」 「そうかね」  柳はひどく感慨にうたれていった。そうして口の中で「みんなのことみんなのこと」とくり かえした。  ふたりは停車場へゆくとはや東から西から南から北から見送りの生徒が三々五々集まりっっ あった。昨日《きのう》の甲しあわせで生徒はことごとく和服で集まることになっていた、白がすりに小 倉《こくら》のはかま、手ぬぐいを左の腰《こし》にさげて、ほうぽのげたをがらがら引きずるさまがめずらしい ので、町の人々はなにごとがはじまったかとあやしんだ。  集まるものはことごとく少壮《しようそう》の士、ふきだしそうな血は全身におどっている、その欝勃《うつぼつ》たる 客気《かつき》はなにものかにふれると爆発する、しかも今や涙をもって慈父《じふ》のごとく敬愛する校長とわ かれんとするのである。危険は刻々にせまってくる。かれらはなにを見てもさわいだ。馬が荷 車をひいて走ったといってぱ喝采《かつさい》し、おばあさんが転んだといっては喝采し、巡査がまんじゅ うを食っているのを見ては喝采した。  小原はきわめて手際《てぎわ》よくかれらを鎮撫《もちんぶ》した、かれは平素沈黙であるかわりにこういうときに はわれ鐘のような声で一同を制するのであった。野球試A口のときどんな難戦《なんせん》におちいってもか れはマスクをぬぎ両手をあげて「しっかりやれよ」と叫ぶと、三軍の元気にわかに振粛《しんしゆく》するの であった。  かれは一同を広場の片側に整列させた、何人《なんびと》も彼の命にそむくものはなかった、がしかし人 人の悲痛と憤怒はどうしてもおさえきることはできなかった。一年を制すれば二年が騒ぎだし、 二年を制すればまた一年がくずれる、さすがに四年五年は粛然として涙をのんでいる。  これらの動揺の波濤《はとう》の中をくぐりぬけて小原は東西にかけずりまわった、かれは帽子をぬい でそれを目標にふりふり叫んだ。その単衣《ひとえ》は汗にびしょぬれていた、かれはひたいから雨のこ とく伝わり落ちる汗を手ぬぐいで拭《ふ》き拭きした。  このさわぎのうちに人々はいっそう不安の念を起こしたのは三年生の全部が見えないことで あった。 「三年がこない」  口から口に伝わって人々はののしりたてた。 「三年のやつは不埓《ふらち》だ」  だがこのののしりはすぐ一種の反撥的《はんばつてき》な喝采とかわった。 「三年は全部|結束《けつそく》してつぎの駅の蕨《わわび》で校長を見送るらしい」 「いや赤羽まで校長と同車する計画だ」  この報知はたしかに人々の胸をうった、とまた飛報がきた。 「カトレット先生が辞表をだしたそうだ、漢文の先生は校長を見送ってから辞職するそうだ」  このうわさはますます一同の神経をいらだたせた。 「学校を焼いてしまえ」  だれいうとなくこの声が非常な力をもって伝播《てんば》した。 「しずかにしたまえ。諸君、決して軽々しいことをしてくれるな」  小原は血眼《ちまなこ》になって叫びまわった、とこのとき三年生は調神社《つきのみやじんじや》に集まって何事かを計画し ているといううわさがたった。 「いってみる」と小原はいった「柳君、しばらくたのむぜ」  かれはげたをぬぎすててはだしになった、そうしてはかまを高くかかげて走りだした。  この熱烈な小原の誠意に何人《なんびと》も感嘆せぬものはなかった。 「おれもゆく」 「おれも……」  後藤という投手と浜井という三塁手はすぐにつづいた。 「学校の体面を思えぽこそ小原も浜井も後藤もあのとおりに奔走《ほんそう》してるんだ、諸君はどう思う か」  柳がこういったとき一同は沈黙した。 「ああありがたいものは先輩だ」と柳はつくづく感じた。  ものの二十分とたたぬうちに町のかなたにさっと土ほこりがたった。大通りの曲がり角から 三年生の一隊があらわれた、かれらはちょうど送葬《そうそう》の人のごとくうちしおれてだまっていた、 そのまっさきに木俣ライオンが長い旗ざおをになっていた、旗には「浦和に正義なし」と大書 せるものがあったが、小原の強硬な忠告によってそれをまくことにした、かれらはいずれもい ずれも暗涙《あんるい》にむせんで歯をくいしばっていた。 「たのむぞ木俣、なあおい」  小原はライオンの肩をたたいてしきりになだめると、木俣はもうねこのごとく柔順《じゆうじゆん》になっ て、おわりにはひとり群をはなれて人蔭《ひとかげ》でないていた。  純粋|無垢《むく》な鏡のごとき青年、澄徹清水《ゆちようてつしみず》のごとき学生! それは神武以来|仁侠《にんきよう》の熱血をもって 名ある関東男児の尊き伝統である。この伝統を無視して正義を迫害した政党者流に対する公憤 は神のごとき学生の胸に勃発《ぽつばつ》した。  かかるさわぎがあろうとは夢にも思わなかった久保井校長は、五人の子と夫人と、女中とそ れから八十にあまるひとりの老母とともにあらわれた。 「やあ、これは……」  かれは両側に整列した生徒を見やって立ちどまった。生徒はひとりとして顔をあげ得なかっ た、水々とした黒い頭、生気のみなぎる首筋《くびすじ》が、糸を引いたようにまっすぐにならぶ、そのわ かやかな胸には万斛《ばんこく》の血が高波をおどらしている。  校長はほっとして立ちどまったまま動かない。かれはなにかいおうとしたが涙がのどにつま っていえなかった。かれは全校生徒がかくまで自分を慕《した》ってくれるとは思わなかった。  生徒はやはりなんにもいわなかった。かれらはこの厳粛な刹那《せつな》において、校長と自分の霊魂 がふれあったような気がした。 「ありがとう、どうもありがとう」  校長の口からこういう低い声がもれた。実際校長の心持ちは千万言を費やすよりもありがと うの一語につきているのであった、かれはいま九百の青少年から人間としてもっとも美しい精 霊《せいれい》を感受することができたのであった。  かれはこういってから老母の手をとってなにやらささやいた。老母は雪のような白髪頭《しらがあたま》をま っすぐに起こして一同を見まわした、その気高くきざんだ顔のしわじわが波のようにふるえる と、あわててハンケチをふところからだして顔にあてた。  こら、兄こらえた悲しみは大河の決するごとく場内にあふれだした。ライオンはおどりでて叫《さけ》 んだ。 「やれッ」  一同は校歌をうたいだした。  いつ先生が汽車に乗ったか、乗ったときにどんなふうであったか、それをつまびらかに知っ てるものはなかった、一同がプラットホームへ流れでたときにはや汽車が動きだした。 「久保井先生|万歳《ばんざい》」  熱狂の声が怒濤《どとう》のごとく起こった。  窓から半身をだした校長の顔はわかやかに輝いた。かれは両手を高くあげて声のあらんかぎ りに叫んだ。 「浦和中学バンザァイ」 「久保井先生バンザアイ」  もう汽車は見えなくなった、生徒はぞろりぞろりと力なく停車場をでた。  ちょうど汽車が動きだしたとき、ひとりの少年が大急ぎでやってきた、改札口が閉鎖された のでかれはさくを乗り越えようとした。 「いけません」  駅員はかれをつきとばした。かれはよろよろと倒れそうになって泳ぐように五、六歩じさっ た、そうしてやっと壁に灘をもたらして醫をきらしながらだまった・その片手は緲楡にま かれて首からつられてある。彼の胸があらわになったときその胸元もまた繃帯されてあるのが 見えた。  かれはだまって便所と倉庫らしい建物のあいだへでた、そこには焼きくいの柵が結《ゆ》われてあ る、かれはそこに立って片ひじを柵においた、青黒い病人じみた顔は目ばかり光って見えた、 帯がとけかけたのも、ぞうりのはなおが切れたのもいっさいかれは気がつかぬもののごとく汽 車を見つめていた。  万歳《ぱんざい》万歳の声とともに校長の顔があらわれたとぎかれはじっと目を校長に据《す》えた。かれの胸 はふるえるかれの口元は悲痛と悔恨《かいこん》にゆるみ、そうしてかれの目から大粒の涙がこぼれた。  かれは阪井巌である。  汽車が見えなくなったときかれはようやく柵をはなれて長いため息《いき》をついた。それからじっ と大通りの方を見やった。そこには学校の友だちが波のくずれるごとく、帰りゆく、阪井は顔 をたれてしずかに歩いた。  とだれかの声がした。 「生蕃がいる」 「阪井のやつがきている」  少年たちの目は一度に阪井にそそがれた、阪井は棒のごとく立ちすくんだ。 「やい生蕃」  まっさきにつめよったのはライオンであった。 「やい」  阪井はだまっている。 「きさまはなにしにきた」 「久保井先生に用事があってきたよ」と阪井はやはり顔もあげずにいった。 「きさまは久保井先生を学校からおいだしたんじゃないか、どの面《つら》さげてやってきたんだ」 「   」 「おい、犬でも畜生《ちくしよう》でも恩は知ってるよ、おれはずいぶん不良だが校長先生の恩だけは知って るんだ、きさまは先生をおいだした、犬畜生にもおとるやつだ」 「   」 「きさまのようなやつはくたばってしまやがれ、きさまのようなやつがいるのは浦和の恥辱《ちしよく》だ ぞ、どうだ諸君、こいつを打ち殺そうか」 「やっちまえやっちまえ」と声々が叫んだ。かれらはいま五分前に先生と悲しい別れをした、 満々たる憤怒と悲痛はもらすこともできずに胸の中でうずまいている、なにかの刺戟《げき》あれば爆 発せずにいられないほど血潮がわき立っている。それらの炎々たる炎はすべて阪井の上に燃え うつった。 「やれやれ」 「制裁制裁」  激昂した声は刻一刻に猛烈になった。人々は潮《うしお》のごとく阪井に向かって突進した。 「なぐってくれ!」  いままで罪人のごとく沈黙していた阪井はなんともいえぬ悲痛な顔をして、押しよせくる学 友の前に決然と進みでた、そうしてぴたりと大地に坐った。 「おれはあやまりにきたんだ、おれは先生にあやまりにきたんだ、おれはおまえたちに殺され れば本望だ、さあ殺してくれ、おれは……おれは……犬にちがいない、畜生《ちくしよう》にちがいない… …」  繃帯を首からつった片手をそのままに、片手は大地について首をさしのべた、火事場のあと をそのままの髪の毛はところどころ焼けちぢれている、かれは眉毛《まゆげ》一つも動かさない。 「あやまりにきたとぬかしやがる、弱いやつだ、さあ覚悟しろ」  ライオンはほうばのげたのまま、かれの眉間《みけん》をはたとけった。阪井はぐっと頭をそらして倒 れそうになったがじっと姿勢をもどして片手を大地からはなさない。 「畜生!」 「ぼかやろう!」 「恩知らず」声々がわいた。 「なぐるのは手のけがれだ、つばをはぎかけてやれ」  とだれかがいった。つばの雨がかれの顔となく首となく背中となく降りそそいだ。 「ぼかやろう!」  最後に手塚がつばをはきかけた、 「手塚、おまえまでが」  巌はじっと手塚を見つめたので手塚は人中へかくれた。 「さあ帰ろう」とライオンがいった「最後にのぞんで足であいつの頭をなでてやろう、さあみ んないっしょだぞ、 一!二!三!」  げたの乱箭《ゆらんせん》が飛ぶかと思う一刹那。 「待ってくれ」  はらわたをえぐるような声とともに柳は巌の身体《からだ》の上にかぶさった。 「待ってくれ、阪井は火傷《やけど》をしてるんだ、あやまりにきたものをなぐるって法があるか、火傷 をしてるものをなぐるって法があるか」  つるが病むときには友のつるが翼をひろげて五体を温めてやる、ちょうどそのように柳はど ろやつばによごれた阪井の全身をその胸の下に包み、きっと顔をあげて瞋恚《しんい》に燃ゆる数十の目 を見あげた、その目には友情の至誠が輝き、その口元にはおかすべからざる勇気があふれた。 「なぜ阪井をなぐるか、なぐったところで校長がふたたび帰ってきやしない、今日はぼくらが 泣きたい日なんだ、先生にわかれて一日泣くべき日なんだ、人をなぐるべき日ではない、阪井 だって……阪井だって……先生を見送りにきたんじゃないか、……諸君、帰ってくれたまえ、 なあ阪井君も帰れよ、諸君帰ってくれ、阪井帰れよ、諸君……阪井……」  柳はまっさおになって歎願《たんがん》するように一同にいった。もうだれも手をくだそうとするものも なかった。かれらは凱歌《がいか》をあげた、そうしてげたをひきずりがらがら引きあげた。  あとに残った柳は、屈辱と悲憤にむせんでいる阪井の頭や背中のどうやつばをふいてやった。 「さあいこう」 阪井はだまっている。 「どこかいたいか、えっ? 歩けないか」 阪井はやはりだまっている。 「さあいこう、ねえ、みっともないじゃないか、車でも呼ぽうか」  手を取ってたすけ起こそうとする柳の手をぐっとにぎって阪井は目をかっとあいた。 「柳、ゆるしてくれ」 「なにをいうんだ、過去のことはおたがいにわすれよう」 「おれはおまえに悪いことばかりした、それだのにおまえは二度ともおれを救うてくれた」 「そんなことはどうでもいいよ、さあいこう」 柳は阪井を強《し》いて立たした、ふたりはだまって裏通りへでた。 「おれはなあ柳」  阪井は感慨に堪《た》えぬもののごとくいった。 「おれは今日から生まれかわるんだぞ」 「どうしてだ」 「おれが今までよいと思っていたことはすべて悪いことなんだ、それがわかったよ」 「それはどういうことだ」 「どういうことっておまえ、すべてだよ、すべてだ、なにもかもおれは悪いことをして悪いと 思わなかったのだ、親父《おやじ》はおれになんでも学校で一番強い人間になれというだろう、だからお れはけんかをした、活動を見ると人を斬ったり賭博《ばくち》をしたりするのが侠客《きようかく》だという人だ、だか らおれはそれをまねてみたんだ、だがそれはまちがってるね、悪いことをして人よりえらくな ろうというのは泥棒して金持ちになろうとするのと同じものだね、そう思わないか」 「そうだとも」 「だからさ……」  阪井はこういったとき、傷がいたむので眉《まゆ》をひそめた。 「君の家まで送ってゆこう」と柳はいった。 「かまわない、もう少し歩こう」  阪非はふたたびなにかいいつづけようとしたが急に口をつぐんで悲しそうな顔をした。 「車に乗れよ」 「なんでもないよ……ねえ柳、ぼくはおまえにききたいことがあるんだが」 「なんだ」 「一年のとき、重盛《しけもり》の諌言《かんげん》を読んだね」 「ああ、忠孝両道《ちゆうこうりようどう》のところだろう」 「うん、君に忠ならんとすれば親に孝ならず、重盛はかわいそうだね」 「ああ」 「清盛は悪いやつだね」 「ああ」 「重盛がいくらいさめても清盛が改心しなかったのだね」 「ああ」 「それで重盛はどうしたろう」 「熊野の神様に死を祈ったじゃないか」 「そうだ、死を祈った、なぜ死のうとしたんだろう」 「忠孝両道をまっとうできないからさ」 「困ったから死のうというんだね」 「ああ」 「ではおまえ」 阪井の語気はあらかった。 「困るときに死んでしまえぽいいのかえ」 「それが問題だよ」 「なにが?」 「自分だけ楽をすれぽあとはどうなってもかまわないというのは卑怯《ひきよう》だからね」 「じゃ重盛は卑怯かえ」 「理論からいうと、そうなるよ、しかし重盛だってよくよく考えたろうと思うよ」 「そうかね」 阪井は長大息をした。かれはだまって歩きつづけた。そうしてやがてしずかにいった。 「清盛が改心するまで重盛が生きていなけれぽならなかったね」 「さあぼくにはわからないが」 「ぼくにはわかってるよ、わかってるとも、そうでなかったら無責任だ」  柳は阪井を家まで送ってわが家へ帰ってくると途中で手塚に逢った。 「やあ、いま、きみのところへいこうと思ってきたんだよ」 「そうか」  柳は手塚の行為について少なからぬ悪感をもっていたのできわめて冷淡に答えた。 「生蕃はどうした」 「帰ったよ」 「きゃつ、ぼくのことをおこっていたろう」 「どうだか知らんよ、だがおこっているだろうさ、いままできみと阪井とは一番親しかったん だろう、それをきみがみんなといっしょになってつぼをはきかけたんだからね」 「だってあいつは悪徒だからさ」 「きみほど悪徒ではないよ」  柳は思わずこういった。手塚はさっと顔をあからめたがそれは憤慨のためではなかった。か れは柳に肚《はら》の中を見すかされたのがはずかしかったのである。だがこのくらいの侮辱はかれに 取っては耳なれている。かれはぬすむように柳の顔を見やって、 「きみ、活動へゆかないか」 「いやだ」 「クララ・キンポールヤングすてきだぜ」 「それはなんだ、西洋のこじきか」 「ははははきみはクラちゃんを知らないのかえ」 「知らないよ」 「話せねえな、一ぺん見たまえ、ぼくがおごるから」 「活動というものはね、きみのようなやつが見て喜ぶものだよ」  さすがに手塚は目をぱちくりさせて言葉がでなかった。だがこのくらいのことにひるむよう な手塚ではない。かれはこびるような目をむけていった。 「きみ、ぼくのカナリアが子をかえしたからあげようね」 「いらないよ」 「じゃね、きみは犬を好きだろう、ぼくのポインターをあげようね」 「ぼくの家にもポインターがいるよ」 「そうだね」  手塚はひどく当惑してだまったが、もうこらえきれずにいった。 「きみは生蕃が好きになったのか」 一もとから好きだよ」 「だってあいつはきみを負傷させたじゃないか」 「けんかはおたがいだ、生蕃は男らしいところがあるよ」 「じゃ失敬」 「失敬」二人は冷然とわかれた。  光一に送られた巌は家へはいるやいなやわが部屋へころがりこんだ。いままでこらえこらえ た腹だたしさと悲しさと全身のいたみが、急にひしひしとせまってくる。かれは畳にころりと 倒れたまま天井を見つめて深い考えにしずんだ。  かれの頭の中には停車場前において学友に打たれなぐられつばをはきかけられた光景が浮か んだ。げたで踏まれたひたいのこぶがしくしく痛みだす。がかれはそれよりも痛いのは胸の底 を刺されるような大なる傷であった。  父の不正! 校長の転任! 学友の反感! 数えきたればすべての非はわれにある。 「巌、どこへいってたの?」  母は心配そうにかれの部屋をのぞいた。巌は答えなかった。 「おなかがすいたろう。ご飯を食べない?」 「ほしくありません」 「火傷《やけど》がなおらないうちに外へ出歩いてはいけないよ、おやひたいをどうしたんです」 「なんでもありません」 「またけんかかえ」 「あちらへいっててください」と巌はかみつくようにいった。 「なにをそんなにおこってるんです」  母はきっと目をすえた。その目には不安の色が浮かび、口元には慈愛が満ちている。 「なんでもいいです」 「なにか気にさわることがあるならおいいなさい」 「あちらへいってくださいというに」  母はしおしおとでていった。・巌は起きあがって母のうしろ姿を見やった。なんともいいよう のない悲しみがいっぱいになる。お母さんにはあんな乱暴な言葉を使うんじゃなかったという 後悔がむらむらとでてくる。 「どうしようか」  実際かれは進退にまようた。いままで神のごとく尊敬していた父は悪人なのだ。この失望は かれの単純な自尊心を谷底へ突き落としてしまった。かれにはまったく光がなくなった。  死んでしまおうか。  いや! 平重盛はぽかだ。  二つの心持ちが惑乱《わくらん》して脳の底が重たくだるくなった。かれはじっと机の上を見た。そこに 友だちから借りた漢文の本がひらいたまま載っている。 「周処三害《しゆうしよがい》」  支那《しな》に周処という不良少年があった。けんかはする。強奪はする。村の者をいじめる、田畑《でんばた》 をあらす、どうもこうもしようのない悪者であった。あるときかれの母が大変にふさぎこんで いるのを見てかれはこうきいた。 「お母さんなにかご心配があるのですか」 「ああ、私はもう心配で死にそうだ」と母がいった。 「なにがそんなにご心配なのですか」 「この村に三害といって三つの害物がある。そのために私も村の人も毎日毎日心配している」 「三害とはなんですか」 「南山《なんさん》に白額《はくがく》のとらが出《い》でて村の人をくらう、長橋《ちようきよう》の下に赤竜《せきりゆう》がでて村の人をくらう、いま 一つは……」  こういって母は周処《しゆうしよ》の顔を見やった。 「いま一つはなんですか」 「おまえだ、おまえがわるいことをして村の害をなす、とらと竜とおまえがこの村の三害だ」  この話を聞いた周処は俄然としてさとった。 「お母さん、ご安心なさい、ぼくは三害をのぞきましょう」  周処は南山へ行って白虎《はくこり》を殺し、長橋へいって赤竜を殺し、白分は品行を正しくして村のた めに善事をつくした。ここにおいてこの村は太平和楽になった。  巌は読むともなしにそれを読んだ。突然かれの頭に透明な光がさしこんだ。かれは呼吸《いき》もつ かずにもう一度読んだ。 「三害を除こう、おれは男だ」かれはこう叫んだ。 「おれに悪いところがあるならおれが改めれぽいい、お父様に悪いところがあるならおれがい さめて改めさせればいい、ふたりが善人になればこの町はよくなるのだ、南出にとらをうちに ゆく必要もなけれぼ長橋に竜をほふりにゆく必要もない、第]の害はおれだ、おれを改めて父 を改める、それでいいのだ」  かれは立って部屋を一周した、得《え》もいえぬ勇気は全身にみなぎって歓喜の声をあげて高く叫 びたくなった。  かれは窓を開いて外を見やった、すずしい風が庭の若葉をふいてすだれがさらさらと動いた、 木々の緑はめざめるようにあざやかである。 「豆腐イ……」  らっばの音と交代にチビ公の声が聞こえる。 「チビ公だ」かれは仲ぴあがってへいの外を見やった。 「とうふいー」  暑い日光をものともせず、大きなおけをにのうてゆくチビ公のすげ笠がわずかに見える。 「おれはあいつにあやまらなきゃならない」巌は脱兎《たつと》のごとくはだしのままで外へでた。そう して突然チビ公の前に立ちふさがった。 「青木! おい、堪忍《かんにん》してくれ、なあおいおれは悪かった、おれは今日から一..害を除くんだ」 七  お宮のいちょうが黄色になればあぜにはすすぎ、水引き、たでの花、露草などが薄日をたよ りにさきみだれて、その下をゆくちょろちょろの水の音に秋が深くなりゆく。  役場の火事については町の人はなにもいわなくなった、阪井猛太は助役をやめてせがれの巌 とともに川越の方へうつった、中学校には新しい校長がきた。浦和の町は太平である。  チビ公はやはり一日も休まずに豆腐を売りまわった、それでも一家のまずしさは以前とかわ りがなかった、かれは毎日らっばをふいて町々を歩いているうちにいくどとなく昔の小学校友 だちにあうのである、中には光一のようにやさしい言葉をかけてくれるものもあるが、多くは 顔をそむけて通るのである。チビ公としても先方《せんぽう》の体面をはばかってそしらぬ顔をせねばなら ぬこともあった、とくにかれの心を悲しませるものは小学校時代にいつも先生にしかられてい た不成績の子が、りっぱな中学生の服装で雑嚢《ざつのう》を肩にかけ、徽章《きしよう》のついた帽子を輝かして行く のを見たときである。 「金持ちの家に生まれればできない子でも大学までいける、貧乏人の子は学校へもいけない、 かれらが学士になり博士になるときにもおれはやはり豆腐屋でいるだろう」  こう思うとなさけないような気が胸いっぱいになる。 「学校へいきたいな」  かれの帰り道は県庁の横手の小川の堤である、かれは堤の露草をふみふみぐったりと顔をた れて同じことをくりかえしくりかえし考えるのであった。  ときとしてかれは師範学校の裏手を通る、そこの寄宿舎には灯影《ほかげ》が並んでおりおりわかやか な唱歌の声が聞こえる。 「官費でいいから学校へゆきたい」  こうも考える、だがかれはすぐそれをうちけす。かれの目の前におじ覚平の老顔がありあり と見えるのである。 「おれが働かなきゃ、みんなが食べていけない」  そこでかれは夕闍に残る西雲の微明《びめい》に向かってらっばをふく。らっばの音は遠くの森にひび き、近くのわらやねに反響してわが胸に悲しい思いをうちかえす。  ある日おじの覚平は突然かれにこういった。 「千三、おまえ学校へゆきたいだろうな」 「いいえ」とチビ公は答えた。 「おれだっておめえを豆腐屋にしたくないんだ、なあ千三、そのうちになんとかするからしん ぼうしてくれ、そのかわりに夜学へいったらどうか、昼のつかれで眠たかろうが、一心にやれ ばやれないこともなかろう」 「夜学にいってもいいんですか」  千三の目は喜びに輝《かがや》いた。 「夜学だけならかまわないよ、お宮の近くに夜学の先生があるだろう」 「黙々《もくもく》先生ですか」 「うむ、かわり者だがなかなかえらい人だって評判だよ」 「こわいな」と千三は思わずいった。黙々先生といえば、本名の篠原浩蔵《しのはらこうぞう》をいわなくとも浦和 の人はだれでも知っている。先生はいま五十五、六歳、まだ老人という歳でもないが、頭とひ げは雪のように白くそれとともに左の眉《まゆ》に二寸ばかり長い毛が一本つきでている、おこるとき にはこの長い毛が上に動き、わらうときには下にたれる、町の人はこの毛をもって先生の機嫌《きげん》 のバロメーターにしている。  先生の履歴について町の人はくわしく知らなかった、ある人はかつて文部省の参事官であっ たといい、ある人は地方の長官であったといい、ある人はまた馬賊《ばぞく》の頭目《とうもく》であったともいう。 真偽はわからぬがかれは熊谷《くまかい》の豪族の子孫であることだけはあきらかであり、また帝国大学初 期の卒業者であることもあきらかである、なんのために官職を辞して浦和に帰臥《きが》したのか、そ れらの点についてはかれは一度も人に語ったことはない。  かれが浦和に帰ったのは十年前である、そのときは独身であったが人のすすめによって後妻 を迎えた、だがかれは朝から晩まで家にあるときには読書ばかりしている、妻がなにをいって も「うんうん」とうなずくばかりでなにもいわない。で妻はかれに詰問《きつもん》した。 「あなたなにかいってください」 一うん」 「うんだけではいけません」 「うん」 「あなたはなにもおっしゃることがないんですか」 「うん」 「なにか用事があるでしょう」 「うん」 「ご飯はどうなさるの?」 「うん」 「めしあがらないんですか」 「うん」 妻はあきれて三日目に離縁《りえん》した。かれはその小さな軒に英漢数教授という看板をだした。妻 にものをいわない人だから生徒に対しても、ものをいわないだろうと人々はあやぶんだが、い ったん講義にとりかかるとまったくそれと反対であった。 最初の一、二年は生徒が少なかったが、年を経《ふ》るにしたがってしだいに増加した。かれには て問いただすこと。 月謝の制定がない、五円もあれぽ五十銭もある、米や豆やいもなどを持ってくるものもある、 独身の先生だからというので魚を贈る人がいたって少ない、そこで先生はおりおり一|竿《かん》を肩に して河へつりにゆく、一|尾《び》のふなもつれないときには町で魚をかってそのあぎとをはりにつら ぬき揚々として肩に荷《にの》うて帰る、ときにはあじ、ときにはいわし、時にはたこ、ときには塩ざ けの切り身! 「先生! つれましたか2」と人が問えぽ先生は軽く答える。 「うん」 「はりにひっかかってるのはかまぼこじゃありませんか」 「かまぼこは魚なり」  千三は子供のときからなんとなく黙々先生がこわかった。しかしかれとしても学問するには この私塾より他にはない。  翌日千三は夕飯をすまして黙々先生をたずねた、そこにはもう五、六の学生がいた。それは 中学の二年生もあれば五年生もあり、またひげの生えた人もあり、百姓もあれば商家のでっち もある。千三がはいったときちょうど小学校の教師がむずかしい漢文を読んでいた。 「いかんいかん」と先生はどなった「もっと声を大きくして漢文は朗々として吟《ぎん》ずべきものだ、 語尾をはっきりせんのは心が臆しているからだ、聖賢《せいけん》の書を読むになんのやましいところがあ る、この家がこわれるような声で読め」  教師はまっかな顔をして大きな声で読んだ、先生はだまって聞いていた。 「よしっ、きみは子弟を教育するんだ、とかくに今日《こんにち》の学校は朗読法をないがしろにするきら いがある、大切なことだぜ」  先生はひょろ長いやせた首を仲ばして末座にちぢまっている千三を見おろした。 「きみ、ここへきたまえ」 「はあ」 「きみの名は?」 「青木千三です」 「うむ、なにをやるか」 「英漢数です」 「よしッ、これを読んでみい」  先生は一冊の本を千三の前へ投げだした。それは黒茶色の表紙の着いた日本つづりであった、 標箋《ひようせん》に大学と書いてある。 「これをですか」 千三は中学校一、二年生の国語漢文読本をおそわるつもりであった、いま大学という書を見 て急におどろいた。大学という本の名を知ったのもはじめてである。 「うむ」 「どこを読むのですか」 「どこでもいい」 千三は中をひらいた。むずかしい漢字が並んだばかりでどう読んでいいのかわからない。 「読めません」とかれはいった。 「読める字だけ読め」 「湯》……日《いわく》……日《ひ》…:・新《しん》……日《ひ》……日《ひ》:…・新又日新《しんまたひしん》」  千三は読める字だけを読んだ、汗万ひたいににじんで胸が波のごとくおどる。 「よし、よく読んだ」と先生は微笑して「その意味はなんだ」 「わかりません」 「考えてみい」  千三は考えこんだ。 「これは毎日毎日お湯へはいって新しくなれというのでしょう」 「えらい!」  先生は思わず叫んだ、そうして千三の顔をじっと見つめながら読みくだした。 「湯《とう》の盤《ばん》の銘《めい》に曰《いわ》く、まことに日に新たにせぽ日々に新たにし又日に新たにせん……こう読む のだ」 「はあ」 「湯はお湯でない、王様の名だ、盤はたらいだ、たらいに格言をほりつけたのだ、人間は毎日 顔を洗い口をすすいでわが身を新たにするごとく、その心をも毎日毎日洗いきよめて新たな気 持ちにならなければならん、とこういうのだ、だがきみの解釈は字句においてまちがいがあるが 大体の意義においてまちがいはない、書を読むに文字を読むものがある、そんなやつは帳面づ けや詩人などになるがいい。また文字に拘泥《こうでい》せずにその大意をにぎる人がある、それが本当 の活眼《かつがん》をもって活書を読むものだ、よいか、文字を知らないのは決して恥でない、意味を知ら ないのが恥辱だぞ」  こういって先生はつぎの少年どもに向かった。 「日本の歴史中に悪い人物はたれか」  いろいろな声が一度にでた。 「弓削道鏡《ゆげのどうきよう》です」 「蘇我入鹿《そがのいるか》です」 「足利尊氏《あしかがたかうじ》です」 「源頼朝《みなもとのよりとも》です」 「頼朝はどうして悪いか」と先生が口をいれた。 「武力をもって皇室の大権をおかしました」 「うん、それから」 武田信玄というものがある。 「信玄はどうして」 「親を幽閉《ゆうへい》して国をうばいました」 「うん」 「徳川家康!」 「どうして7・」 「皇室に無礼を働きました」 「うん、それで、きみらはなにをもって悪い人物、よい人物を区別するか」 「君に不忠、親に不孝なるものは、他にどんなよいことをしても悪い人物です、忠孝の士は他 に欠点があってもよい人物です」 「よしッ、それでよい」  先生は、いかにも快然といった、先生の教えるところはつねにこういう風なのであった、先 生はどんな事件に対してもかならずはっきりした判断をさせるのであった、たとえそれがまち がいであっても、それを臆面なく告白すれば先生が喜ぶ。  千三はその日から毎夜先生のもとへ通うた、先生はまた地理と歴史の関係をもっとも精密に 教えてくれた、それは普通の中学校ではきわめてゆるがせにしていることであった、中学校で は地理の先生と歴史の先生とべつな人であるのが多い、そのために密接な二つの関係が分離さ れてしまうが、黙々先生は歴史の進行とともに地理を展開させた、神武以来|大和《やまと》は発祥《はつしよう》の地に なっている、そこで先生は大和の地理を教える、同時に大和に活躍した人物の伝記や逸話等《いつわとう》を 教える。学生の頭にはその人とその地とその時代が深くきざまれる。先生は代数や幾何を教え るにもすべてその方法で、決してまわりくどい術語を用いたり、強いて頭を混惑させるような 問題を提供したりしなかった。その英語のごときもいちいち漢文の文法と対照した、そのため に生徒は英漢の文法を一度に知ることができた。  先生はいかなる場合にも虚偽と臆病をきらった。臆病は虚偽の基である、かれは講義をなし つつあるあいだに突然こういうとぎがある。 「眠い人があるか」 「あります」と千三が手をあげた。 「庭へ出て水をあびてこい」  先生は千三の正直が気にいった。  冬がぎた、正月も間近になる、せめて母に新しく綿のはいったもの一枚でも着せてやりたい、 こういう考えから千三は一生懸命に働いた、しかも通学は一晩も休まなかった、かれは先生の 家をでるとすぐぐらぐら眠りながら家へ帰る夜が多かった。  と、災厄《さいやく》はつぎからつぎへと起こる、ある夜かれが家へ帰ると母が麻糸つなぎをやっていた、 いくらにもならないのだが、彼女はいくらかでも働かねば正月を迎えることができないのであ った。 「ただいま」  千三は勢いよく声をかけた。 「お帰り、寒かったろう」と母は火鉢の火をかきたてた、灰の中にはわずかにほたるのような 光が見えた、外はひゅうひゅう風がうなっている。 「寒いなあ」と千三は思わずいった。 「お待ちよ。いま消し炭を持ってくるから」  母は麻糸をかたよせて立とうとした。 「おや」  母は立てなかった。 「おや」 母はふたたびいって立とうとしたが顔がさっと青くなってうしろに倒れた。 「お母さん」 千三はだき起こそうとした。母の目は上の方へつった。 「お母さん」  声におどろいておじ夫婦が起きてきた。千三は早速手塚医師のもとへかけつけた。元来かれ は手塚のもとへいくのを好まなかった、しかし火急《かきゆう》の場合、他へ走ることもできなかった。  粉雪まじりの師走《しわす》の風が電線にうなっていた、町はもう寝しずまって、風呂屋から流れてく る下水の湯気がどぶ板のすきまから、もやもやと凍てついた地面をはっていた。 「今晩は…・:今晩は……」  千三は手塚の門をたたいた。  音がない。 「今晩は!」  かれは声をかぎりに呼《よ》び力をかぎりにたたいた。奥にはまだ人の声がする。 「どうしたんだろう」  千三は手塚なる医者が金持ちには幇間《ほうかん》のごとくちやほやするが、貧乏人にはきわめて冷淡だ という人のうわさを思いだした、それと同時にこの深夜に来診を請《こ》うと、ずいぶん少なからぬ お礼をださねばなるまいが、それもできずにむやみと門をたたくのはいかにも厚かましいこと だと考えたりした。  やっとのことで書生の声がした。 「どなた7・」 「豆腐屋の青木ですが、母が急病ですからどうかちょっとおいでを願いたいんです」 「はああー」とみょうに気のぬけた返事が聞こえた。「豆腐屋の……青木冫●」 「はい」 「先生は風邪気《かぜけ》でおやすみですから……どうですかうかがってみましょう」 「どうぞお願いします、急病ですから」  千三は暗い門前でしずかに耳をそばだてた、奥で碁石《こいし》をくずす音がちゃらちゃらと聞こえる。 「なんだ、碁を打ってるのにおやすみだなんて」  こう千三は思った。とふたたび小さな窓が開いた。 「ただいまうかがいます」 「ありがとうございます」と千三は思わず大きな声でいった。 「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」  千三は一足先に家へ帰った、母はまだ正体がない。 「冷えたんだから足をあたためるがいい」  こうおじがいった。おばはただうろうろして仏壇に灯《ひ》をともしたりしている。千三はすぐ火 をおこしかけた。そこへ車の音がした。 「どうもごくろうさまで……どうぞ」  くぐりの戸をはいってきたのは手塚医師でなくて代診の森という男である。この森というの は、ずいぶん古くから手塚の薬局にいるが、代診として患者を往診した事はきわめてまれであ る、千三はいつも森が白い薬局服を着て往来でキャッチボールをやってるのを見ているのでは なはだおぼつかなく思った。 「先生が風邪気《かぜけ》なんで……」  森はこういってずんずん奥へあがりこんだ、かれはその外套《がいとう》と帽子を車夫にわたした、それ から眼鏡《めがね》をちょっと鼻の上へせりあげて病人を見やった。 「どんなに悪いんですか、ああん2」  かれはお美代の腕をとって脈をしらべた。それから発病の模様を聞きながら聴診器を胸にあ てたり、眼瞼《まぶた》をひっくりかえしてみたりした、その態度はいかにもおちつきはらっている。こ れがおりおり玄関で手塚と腕押しをしたりしゃちほこ立ちをしたり、近所の子供をからかった りする人とは思えない。門口で車夫がしきりにせきぽらいをしている、それは「寒くてたまら ないからいい加減にして帰ってくれ」というかのごとく見えた。 「はあん……これは脳貧血ですな、ああん、たいしたことはありません、頭寒足熱ですかな、 足をあたためて頭をひやして安眠させるといいです、ああん、薬は散薬と水薬……ああん、す ぐでよろしい」  かれはこういって先生から借りて来たかばんを取り上げて部屋を出た。 「おい幸吉《こうきち》!」  幸吉とは車夫の名である、かれはいつも朝と晩に尻はしょりをして幸吉とふたりで門前に水 をまいているのである。書生と車夫は同じくこれ奉公人仲間、いわば同階級である。それがい ま傲然《こうぜん》と呼び捨てにされたので幸吉たるもの胸中いささかおだやかでない、かれはだまって答 えなかった。 「おい幸吉! なにをしとるかッ、ああん」 「早くゆきましょうよ森さん」と幸吉は業腹《こごうはら》まぎれにいった。 「こらッ外套と帽子をおくれ、ああん」  森は外へ出た、車の走る音が聞こえた、寒さは寒し不平は不平なり、おそらくは幸吉、車も くつがえれとばかり走ったことであろう。  車におくれじと千三も走った、かれが医者の玄関に着いたとき、奥ではやはり囲碁の音が聞 こえていた。  母の病状はそれ以上に進まなかった。が、さりとて床《とこ》をでることはできなかった。 「明日になったら起きられるだろう」  こう母はいった、だが翌日も起きられなかった。病弱な彼女が寒さをおかして毎日毎夜内職 を働いたその疲れがつもりつもって脳におよんだのである。千三は豆腐をかついで町まわりの 帰りしなに手塚の家へよって薬をもらうのであった、最初薬は二日分ずつであったが、母のお 美代はそれをこぽんだ。 「じきになおるから一日分ずつでいい、二日分もらってもむだになるから」  これはいかにも道理ある言葉であった、どういうわけか医者は二日分ずつの薬をくれる、そ れも一つはかならず胃の薬である、金持ちの家は薬代にも困らぬが、まずしき家では一日分の 薬価は一日分の米代に相当する。お美代は毎日薬を飲むたびにもったいないもったいないとい った。  ある日千三は帰って母にこういった。 「お母さん、手塚の家の天井は格子になって一つ一つに絵を貼《は》ってあります、絹にかいたきれ いな絵!」 「あれを見たかえ」と母は病におとろえた目を向けてさびしくいった。「あれは応接室だった んです、お父さんが支那風が好きだったから」 「そう?」 「あの隣の部屋のもう一つ隣の部屋は茶室風でおまえがそこで生まれたのです、萩《はき》の天井です、 床《とこ》の間《ま》には……」  母の声はハタとやんだ、彼女は目をうっとりとさせて昔その夫が世にありしときの全盛な生 活を回想したのであった。 「あのときには女中が五人、書生が三人……」  睫毛《まつげ》を伝うて玉の露がほろりとこぼれる。 「お母さん! つまらないことをいうのはよしてください、ぼくはいまにあれ以上の家を建て てあげます」 「そうそう、そうだね」  母はさびしくわらった、千三はたまらなく苦しくなった、いままで胸の底におさえつけてお いた憂欝がむらむらと雲のごとくわいた。かれは薬をもらいに医者の家へゆく、支那風の天井 の下に小さく坐っていると例の憂欝がひしひしとせまってくる。 「ああこれがおれの生まれたところなんだ、おれが生まれたときに手塚の親父《おやし》がぺこぺこ頭を さげて見舞いにきたんだ、それがいまそいつに占領されてあべこべにおれの方が頭をさげて薬 をもらいにきてる」  ある日かれはこんなことを考えながら門をはいろうとするとそこで代診森君が手塚とキャッ チボールをしていた。 「そらこんどはドロップだぞ」  手塚は得意になって球をにぎりかえてモーションをつけた。 「よしきた」  森君ばへっぴり腰になって片足を浮かしてかまえた、もし足にあたりそうな球がきたら片足 をあげて逃がそうという腹なのである。 「さあこい」 「よしッ」  球は大地をたたいて横の塀《へい》を打ちさらにおどりあがって千三の豆腐おけを打ち、ころころと どぶの方へころがった。 「おい豆腐屋! 早く球をとれよ」手塚が叫んだ。 「はっ」  千三はおけをかついだまま球をおっかけた、おけの水はだぶだぶと波をおどらしてふたも包 丁も大地に落ちた。 「やあやあ勇敢勇敢」と森君は偈采した、千三は球が石のどぶ端《ばた》を伝って泥の中へ落ちこもう とするやつをやっとおさえようとした、てんびん棒が土塀《どべい》にがたんとつきあたったと思うとか れははねかえされて豆腐おけもろとも尻もちをついた。豆腐は魚のごとくはねて地上に散った。 「ぼかだね、おけを置いて走ればいいんだ、ばかッ」  手塚はこういって自分でどぶどうの中から球をつまみあげ、いきなり千三のおけの中で球を 洗った。 「それは困ります」と千三は訴えるようにいった。 「豆腐代を払ったら文句がないだろう」  手塚はわらって奥へひっこんだ。 「待てッ」と千三は呼びとめようとしたがじっと下くちびるをかんだ。 「いま手塚とけんかをすれば母の薬をもらうことができなくなる」  かれの目から熱い涙がわきでた。人間の貴重な食料品! そのおけの中にどぶどうにまみれ た球をつっこんで洗うなんてあまりの乱暴である。だが貧乏の悲しさ、かれと争うことはでき ない。  どれだけないたかしれない。かれはもうらっばをふく力もなくなった。 「おれはだめだ」  かれはこう考えた、どんなに勉強してもやはり金持ちにはかなわない。 「おれとおじさんは夜の目も寝ずに豆腐を作る、だがそれを食うものは金持ちだ、作ったおれ たちの口にはいるのはそのあまりかすのおからだけだ、学問はやめよう」  かれはがっかりして家へ帰った、かれは黙々先生の夜学を休んで早く寝床にはいった。翌朝 起きて町へ出た。もうかれの考えは全然いままでとかわってしまった。かれは町々のりっぱな 商店、会社、銀行それらを見るとそれがすべてのろわしきものとなった。 「あいつらは悪いことをして金をためていばってるんだ、あいつらはおれたちの血と汗をしぼ り取る鬼どもだ」  その夜も夜学を休んだ、その翌日も……。 「おれがチビだからみんながおれをばかにしてるんだ、おれが貧乏だからみんながおれをばか にしてるんだ」  かれの母はかれが夜学へもいかなくなったのを見て心配そうにたずねた。 「千三、おまえ今夜も休むの2」 「ああ」 「どうしてだ」 「ゆきたくないからゆきません」  かれの声はつっけんどんであった、母は悲しそうな目でかれを見やったなりなにもいわなか った、千三は夜具の中に首をつっこんでから心の中で母にあやまった。 「お母さん堪忍してください、ぼくは自分で自分をどうすることもできないのです」  このすさんだ心持ちが五日も六日もつづいた、とある日かれは夕日に向かってらっばをふき もてゆくと突然かれの背後《うしろ》からよびとめるものがある。 「おい青木!」  夕方の町は人通りがひんばんである、あまりに大きな声なので往来の人は立ちどまった。 「おい、青木!」  千三がふりかえるとそれは黙々先生であった、先生は肩につりざおを荷《に》ない、片手に炭だわ らをかかえている、たわらの底からいものしっぽがこぼれそうにぶらぶらしている。 「おい、君のおけの上にこれを載せてくれ」  千三はだまって一礼した。先生は炭だわらをおけの上に載せ、そのまま自分の肩を入れて歩 きだした。 「先生! ぼくがかついでお宅まで持ってゆきます」  と千三がいった。 「いやかまわん、おれについてこい」  ひょろ長い先生のおけをかついだ影法師が夕日にかっきりと地上に映った。 「きみは病気か」 「いいえ」 「どうしてこない?」 「なんだかいやになりました」 「そうか」 先生はそれについてなにもいわなかった。 黙々先生がいもだわらを載せた豆腐をにない、そのそばに豆腐屋のチビ公がついてゆくのを 見て町の人々はみんな笑いだした。ふたりは黙々塾へ着いた。 「はいれ」と先生はてんびんをおろしてからいった。 「はい」  もう日が暮れかけて家の中は薄暗かった、千三はわらじをぬいで縁端に坐った。先生はだま って七輪を取りだし、それに粉炭をくべてなべをかけ、七、八本のいもをそのままほうりこん だ。 「洗ってまいりましょうか」 「洗わんほうがうまいそ」  こういってから先生はふたたび立って書棚を探したがやがて二、三枚の紙つづりを千三の前 においた。 「おい、これを見い、わしはきみに見せようと思って書いておいたのだ」 「なんですか」 「きみの先祖からの由緒《ゆいしよ》書きだ」 「はあ」  千三は由緒書きなるものはなんであるかを知らなかった、でかれはそれをひらいた。 「村上天皇の皇子中務卿具平親王《おうじなかっかさきようともひらしんのう》」  千三は最初の一段高く記した一行を読んでびっくりした。 「先生なんですか、これは」 「あとを読め」 「右大臣|師房卿《もろふさきよろ》i後一条天皇のときはじめて源朝臣《あそん》の姓を賜《たま》わる」 「へんなものですね」  先生は七輪の火をふいたので火の粉がばちばちと散った。 「1雅家《まさいえ》、北畠《きたばたけ》と号す1北畠親房《ゆきたばたけちかふさ》その子|顕家《あきいえ》、顕信《あきのぶ》、顕能《あきよし》の三子とともに南朝《なんちよう》無二の忠臣《ちゆうしん》、 楠公《なんこう》父子と比肩《ひけん》すべきもの、神皇正統記《じんのうしようとうき》を著《あら》わして皇国《こうこく》の正統をあきらかにす」 「北畠親房を知ってるか」 「よくは知りません、歴史で少しぽかり」 「日本第一の忠臣を知らんか、そのあとを読め」 「親房《ちかふさ》の第二子|顕信《あきのぶ》の子|守親《もりちか》、陸奥守《むつのかみ》に任ぜらる……その孫|武蔵《むさし》に住み相模扇《さがみおおぎ》ケ谷《やつ》に転ず、上 杉家に任《つか》う、上杉家滅ぶるにおよび姓を扇に改め後青木に改む、……青木竜平-長男千三… …チビ公と称す、懦弱《ゆだじやく》取るに足らず……」  なべのいもは湯気を立ててふたはおどりあがった。先生はじっと千三の顔を見つめた。 「どうだ」 「先生!」 「きみの父祖は南朝《なんちよう》の忠臣だ、きみの血の中に祖先の血が活《い》きてるはずだ、君の精神のうちに 祖先の魂が残ってるはずだ、君は選ばれたる国民だ、大切な身体《からだ》だ、日本になくてはならない 身体だ、そうは思わんか」 「先生!」 「なにもいうことはない、祖先の名をはずかしめないように奮発《ふんばつ》するか」 「先生」 「それとも生涯豆腐屋でくちはてるか」 「先生! 私は……」 「なにもいうな、さあいもを食ってから返事をしろ」  先生はいものなべをおろした、庭はすでに暮れて落ち葉がさらさらと鳴る、七輪の火が風に 吹かれてばっと燃えあがると白髪白髯《はくはつゆはくぜん》の黙々先生の顔とはりさけるようにすずしい目をみひら いた少年の赤い顔とが暗《やみ》の中に浮きだして見える。 八  黙々先生に系図を見せられたその夜、千三はまんじりともせずに考えこんだ、かれの胸のう ちに新しい光がさしこんだ。かれは嬉しくてたまらなかった、なんとも知れぬ勇気がひしひし とおどり出す。かれは大きな声をだしてどなりたくなった。  眠らなければ、朋日の商売にさわる、かれは足を十分に仲ばし胸いっぱいに呼吸をして一、 二、三、四と数えた。そうしてかれは淡《あわ》い淡い夢に包まれた。  ふと見るとかれはある山路を歩いている。道の両側には桜の老樹が並んでいまをさかりにさ きほこっている。 「ああここはどこだろう」  こう思って目をあげると谷をへだてた向こうの山々もことごとく桜である。右も桜左も桜、 上も桜下も桜、天地は桜の花にうずもれて白《はく》一|白《ばく》、落英繽紛《らくえいひんぷん》として顔に冷たい。 「ああきれいなところだなあ」  こう思うとたんにしずかにしずかに馬蹄《はてい》の音がどこからとなくきこえる。 「ばかばかばかばか」  煙のごとくかすむ花の薄絹を透して人馬の行列が見える。にしきの御《み》旗、にしきの御輿《みこし》! その前後をまもるよろい武者! さながらにしき絵のよう。  行列は花の木の間を縫うて薄絹の中から、そろりそうりと現われてくる。 「下に坐って下に坐って」  声が聞こえるのでわきを見るとひとりの白髪の老翁《ろうおう》が大地にひざまずいている。 「おじいさんこれはなんの行列ですか」  こうたずねるとおじいさんは千《な》三の顔をじっと眺めた、それは紙幣で見たことのある武内 宿禰《むたけのうちのすくね》に似た顔であった。 「あれはな、後村上天皇がいま行幸《みゆき》になったところだ」 「ああそれじゃここは?」 「吉野だ」 「どうしてここへいらっしやったのです」  じいさんは千三をじろりと見やったがその目から涙がぽろぽろこぼれた。一円|紙幣《さつ》がぬれて は困ると千三は思った。 「逆臣尊氏《ぎやくしんたかうじ》に攻められて、天《あめ》が下御衣《したぎよい》の御袖乾《おんそでかわ》く間も在《おわ》さぬのじゃ」 「それでは……これが……本当の……」  千三は仰天《ぎようてん》して思わず大地にひざまずいた。このとき行列が静々とお通りになる。 「まっ先にきた小桜縅《ござくらおどし》のよろい着て葦毛《あしげ》の馬に乗り、重藤《しげとう》の弓《ゆみ》を持って鷹《たか》の切斑《きりふ》の矢《や》を負い、 くわ形《がた》のかぶとを馬の平首につけたのはあれは楠正行《くすのきまさつら》じゃ」  とおじいさんがいった。 「ああそうですか、それと並んで紺青《こんじよう》のよろいを着て鉢巻きをしているのはどなたですか」 「あれは正行《まさっら》の従兄弟和田正朝《いとこわだまさとも》じゃ」 「へえ」 「そら御輿《みこし》がお通りになる、頭をさげい、ああおやせましましたこと、一天万乗《てんばんじよう》の御君《おんきみ》が戦塵《せんじん》 にまみれて山また山、谷また谷、北に南に御《おん》さすらいなさる。ああおそれ多いことじゃ」  おじいさんは頭を大地につけてないている、千三は涙が目にたまって玉顔《ぎよくがん》を拝《おが》むことができ なかった。 「御輿の御後《おんあと》に供奉《ぐぶ》する人はあれは北畠親房《きたばたけちかふさ》じゃ」 「えっp」  千三は顔をあげた。  赤地にしきの直垂《ひたたれ》に緋縅《ひおどし》のよろい着て、頭に鳥帽子《えぼし》をいただき、弓と矢は従者に持たせ、徒 歩《かち》にて御輿にひたと供奉《ぐぶ》する三十六、七の男、鼻高く眉秀《まゆひい》で、目には誠忠《せいちゆう》の光を湛《たた》え口元には 知勇の色を蔵《ぞう》す、威風堂々《いふうどうどう》としてあたりをはらって見える。  千三は呼吸《いき》もできなかった。 「いずれも皆忠臣の亀鑑《きかん》、真の日本男児じゃ、ああこの人たちがあればこそ日本は万々歳まで 滅びないのだ」  こうおじいさんがいったかと思うととっとと走っていく、その早いこと百メートル五秒間ぐ らいである。 「待ってくださいおじいさん、お紙幣《さつ》になるにはまだ早いから」  こういったが聞こえない。おじいさんは桜の中に消えてしまった。  にわかにとどろく軍馬の音!法螺《ゆほら》! 陣太鼓《じんだいこ》! 銅鑼《どら》ぶうぶうどんどん。  向こうの丘に現われた敵軍の大勢! 丸二つ引きの旗、をへんぽんとひるがえして落日をうし うに丘の尖端《とつばな》! ぬっくと立った馬上の大将は、これ歴史で見た足利尊氏である。  すわとぼかりに正行、正朝、親房の面々|屹《きつ》と御輿《みこし》を護《まも》って賊軍をにらんだ、その目は血走り 憤怒の歯噛《はが》み、毛髪ことごとく逆立《さかだ》って見える。 「やれやれッ逆賊をたたき殺せ」と千三は叫んだ。 「これ千三、これ」  母の声におどろいて目がさめればこれなん正《まさ》しく南柯《なんか》の夢であった。 「どうしたんだい」 「どうもこうもねえや、畜生《ちくしよう》ッ、足利尊氏の畜生ッ」と千三はまだ夢中である。 「けんかの夢でも見たのか、足利の高《たか》さんとけんかしたのかえ」 「なんだって畜生ッ、高慢《こうまん》な面《っら》あしやがって、天子様《てんしさま》に指でも指してみろ、おれが承知しねえ、 豆腐屋だと思って尊氏の畜生ばかにするない」 「千三どうしたのさ、千三」 「お母さんですか」  千三はこういってはじめてわれにかえった。母はじっと千三を見つめた、千三の顔はしだい しだいにいきいきと輝いた。 「お母さん、ぼくは勉強します」  母はだまっている。 「ぼくは今日先生にぼくのご先祖のことを聞きました。北畠|顕家《あきいえ》、親房《ちかふさ》……南朝《なんちよう》の忠臣です。 その血を受けたぼくはえらくなれない法がありません」 「だけれどもね、このとおり貧乏ではおまえを学校へやることもできずね」  母はほろりとした。 「貧乏でもかまいません。お母さん、顕家親房《あきいえちかふさ》はほんのはだか身でもって奥州や伊勢や諸所方 方で軍《いくさ》を起こして負けては逃げ、逃げてはまた義兵を集め、一日だって休むひまもなく天子様《てんしさま》 のために働きましたよ、それにくらべると日に三度ずつご飯を食べているぼくなぞはもったい ないと思います。ねえお母さん、ぼくはいま夢を見たんです。先祖の親房という人はじつにり っぽな顔でした、ぼくのようにチビではありませんよ、尊氏のほうをきっとにらんだ顔は体中 忠義の炎が燃えあがっています。ぼくだって忠臣になれます。ぼくだってね、チビでも忠臣に なれないことはないでしょう」 「いい夢を見たね」  母は病みほおけた身体《からだ》を起こして仏壇に向かっておじぎをした。  千三は生まれかわった。翌日からなにを見ても嬉しい。かれは外を歩きながらそれぼかりを 考えている。 「やあ向こうから八百屋の半公がきたな、あれも忠臣にしてやるんだ。おれの旗持ちぐらいだ、 ああぶりき屋の浅公、あれは母親の財布《さいふ》をごまかして活動にぽかりいくが、あれもなにかに使 えるから忠臣にしてやる、やあ酒屋のブルドッグ、あれは馬のかわりにならないから使ってや らない」  黙々先生はチビ公が急に活気づいたのを見てひとりほくほく喜んでいた。  ある日かれはひとりの学生を先生に紹介された。それは昨年第一高等学校に入学した安場《やすば》五 郎という青年である。黙々塾をでて高等学校へはいれたのは安場ひとりきりである。先生は安 場が好きであった。色が赤黒く顔は七輪に似て、ようかん色になった制服を着て腰にてぬぐい をさげ、帽子はこけ色になっている。かれは一年のあいだに身体《からだ》がめきめきと発達したので制 服の腕や胴は身体の肉がはちきれそうに見える。かれは代書人の息子である。かれは東京から 家へ帰るとすぐ黙々先生のご機嫌をうかがいにくる。 「先生ただいま」 「うむ帰ったか」  先生は注意深くかれの一挙一動を見る。 「学校はどうだ」  まず学校のようすをきき、それから友だちのことをきく。 「どんな友だちができたか」 「あんこうというやつがあります。口がおそろしく大きいんでりんごを皮ごと二口で食ってし まいます。それからフンプンというやつがあります。これは一年に一ぺんもさるまたを洗濯し ませんから、いつでもフンプンとしています。それからまむしというやつ、これは生きたへび を頭からかじります」 「ふん、勇敢だな」  先生はにこにこする。 「この三人はみんなできるやつです。頭がおそろしくいいやつです、三人とも政治をやるとい ってます」 「たのもしいな、きみとどうだ」 「ぼくよりえらいやつです」 「そうか」  先生が一番注意をはらうのは友だちのことである。かれはそのまむしやフンフンやあんこう がどんな話をしてどんな遊びをしてどんな本を読んでるかまでくわしくきいた。 「活動を見るか」 「さかんに見ましたが、あれは非常に下卑《げび》たものだとわかったからこのごろは見ません」 「それがいい」  先生は安場がいつも友だちの自慢をするのをすこぶる嬉しそうに聞いていた。人の悪口をい ったり、自慢をいったりするのは先生のもっともこのまざるところであった。  安場は実際先生思いであった。かれは帰省中には毎朝かならず先生をたずねて水をくみ飯を たき夜の掃除をした。先生は外へ出ると安場の自慢ばかりいう。 「あいつはいまに大きなものになる」  先生はわずかばかりの汽車賃があれぽそっと東京へ出て一高を視察にでかける、そうして安 場がどんな生活をしているかを人知れず監視するのであった。そのくせかれは安場に向かって は一度もほめたことはない。 「きみは英雄をなんと思うか」 「英雄は歴史の花です」と安場は即座に答える。 「カアライルをまねてはいかん。英雄は花じゃない、実である。もし花であるならそれは泛々《はんはん》 たる軽薄の徒といわなきゃならん。名誉、物質欲、それらをもって目的とするものは真の英雄 とはいえないそ、いいか。英雄は人類の中心点である、そうだ、中心点だ、車の軸だ、国家を 支える大黒柱だ。ギリシャの神話にアトラス山は天が墜《お》ちるのを支えている山としてある。天 がおちるのを支えるのは英雄だ、花だなんてそんな浮わついた考えではまだ語るにたらん。も っと修養しろぼかッ」  すべてこういう風である、どんなにぼかといわれても安場はそれを喜んでいた。 「先生はありがたいな」  かれはいつもこういった。かれとチビ公はすぐに親友になった。おりおりふたりは郊外へで て長い長い堤の上を散歩した。寒い寒い風がひゅうひゅう野面《のづら》をふく、かれあしはざわざわ鳴 って雲が低くたれる、安場は平気である。かれは高い堤に立って胸いっぱいにはって高らかに 歌う。   ああ玉杯《ぎよくはい》に花うけて、緑酒《りよくしゆ》に月の影やどし、   治安の夢にふけりたる、栄華《えいが》の巷低《ちまた》く見て、   向ケ岡にそそり立つ、   五寮の健児《けんじ》意気高し。……  バリトンの声であるが、量は豊かに力がみちている。それは遠くの森に反響し、近くの野面《のづら》 をわたり、べきべきたる落雲を破って、天と地との広大無辺な間隙《かんげき》をいっぱいにふるわす、チ ビ公はだまってそれを聞いていると、体内の血が躍々と跳《おど》るような気がする。自由豪放な青春 の気はその疲れた肉体や、衰えた精神に金蛇銀蛇《きんだぎんだ》の赫耀《かくよう》たる光をあたえる。 「もっとやってくれ」とかれはいう。 「うむ、よしッ」  安場は七輪のような顔をぐっと屹立《きつりっ》させると同時に鼻穴をばっと大きくする、とすぐ猪《いのしし》の ようにあらい呼吸《いき》をぷうとふく。   ふようの雪の精をとり、芳野《よしの》の花の華《か》をうばい、   清き心のますらおが、剣《つるぎ》と筆とをとり持ちて、   一たび起《た》たば何事か、   人生の偉業成らざらん。  うたっていくうちにかれの顔はますます黒く赤らみ、その目は輝き、わが校を愛する熱情と 永遠の理想と現在力学の勇気と、すべての高邁《こうまい》な不撓《ふとう》な奮闘的な気魄《きはく》があらしのごとく突出し てくる。チビ公は涙をたれた。 「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と安場はいった。「貧乏ほど愉快なことはないんだ」  かれはチビ公のかたわらに坐《すわ》っていいつづけた。  おれは貧乏だから書物が買えなかった。おれは雑誌すら読んだことはなかった。すると先生 はおれに本を貸してくれた。先生の本は二十年も三十年も前の本だ、先生がおれに貸してくれ   しじつがん た本はスミスの代数とスウイントンの万国史と資治通鑑それだけだ、あんな本は東京の古本屋 にだってありやしない。だが新刊の本が買えないから、古い本でもそれを読むよりほかにしよ うがなかった、そこでおれはそれを読んだ、友だちが遊びにきておれの机のLをジロジロ見る とき、おれははずかしくて本をかくしたものだ、太政官《だじようかん》印刷なんて本があるんだからな、実際 はずかしかったよ。おれはこんな時代おくれの本を読んでも役に立つまいと思った、だが、先 生が貸してくれた本だから読まないわけにゆかない、それ以外には本がないんだからな、そこ でおれは読んだ。最初はむずかしくもありつまらないと思ったが、だんだんおもしろくなって きた、一日一日と自分が肥《ふと》っていくような気がした。おれは入学試験を受けるとき、ほんの十 日ぼかり先生が準備復習をしてくれた。 「こんな旧式なのでもいいのか知らん」とおれは思った。 「だいじょうぶだいけ」と先生がいった、おれはいった、そうしてうまく入学した。 「なあチビ公」  安場はなにを思ったか目にいっぱい涙をたたえた。 「試験の前日、先生はおれにこういった」 「安場、腕ずもうをやろう」 「ぼくですか」 「うむ」  先生はがちょうのように首が長く、ひょろひょろやせて、年が老いている。おれはこのとお り力が自慢だ、負かすのは失礼だと思ったが、さりとて故意に負けるとへつら㌻ことになる、 互角ぐらいにしておこうと思った。 「やりましょう一  先生は長いひざを開いて畳にうつぶしになった。さながら栄養不良のかわずのよう! 「さあこい」 「よしッ」  おれもひじを畳についた、がっきと手と手を組んだ、おれはいい加減にあしらうつもりであ った、先生の痩《や》せた長い腕がぶるぶるふるえた。 「弱虫! なき虫! いも虫! へっびり虫!」と先生はいった。 「先生こそ弱虫です」 「なにを!」 「どっこい」  おれは少しずつ力をだして不動直立の態度をとるつもりであった。だが先生の押す力がずっ とひじにこたえる。 「弱いやつだ、青年がそれでどうする、米の飯を食わせておくのはおしいものだ、やい、いも 虫、なき虫、わらじ虫1・」  あまりしつこく虫づくしをいうのでおれもちょっとしゃくにさわった。 一いいですか、本気をだしますそ」 「よしッ、虫けらの本気はどんなものか、へっびり虫!」 「よしッ」  おれは満身の力をこめて一気に先生を押したおそうとした、先生の腕が少しかたむいた。 「いいかな」  先生はこういって、「うん」と一つうなった、たよたよとした細い腕はがっきと組んだまま 大磐石《だいばんじやく》! 「おやッ」  おれは頭を畳にすりつけ、左の掌《てのひら》で畳をしっかとおさえ肩先に力をあつめて押しだした。 「虫があばれるあばれる」と先生はげらげらわらった。おれはどうもふしぎでたまらない、負 けるはずがないのだ。 「いいかな」  先生はこういっておれのこぶしをひた押しに倒してしまった。おれは汗をびっしょりかいて、 ふうふう息をはずませた。 「どうだ」  首を傾《かし》げてふしぎがってるおれの顔を見て先生はわらった。 「ふしぎですな」 「おまえはばかだ」 「なんといわれてもしようがありません」 「いよいよジャクチュウかな」 「ジャクチュウとはなんですか」 「弱虫だ、はッはッはッ」 「先生はどうして強いんですか」 「わしが強いんでない、おまえがジャクチュウなんだ」 「ぼくはそんなに弱いはずがないのです」 「おまえはどこに力を入れてるか」 「ひじです」 「腕《うで》をだしてみい」 先生のひょろひょろした青ざめた腕とおれのハチ切れそうに肥《ふと》ったまるい赤い腕が並んだ。 「ひじとひじの力ならわしの方がとてもかなわないはずじゃないか」と先生がいった。 「じゃ先生は2」  先生はにっこり笑って、胸の下を指さした。 「腹ですか」 「うむ、力はすべて腹からでるものだ、西洋人の力は小手先からでる、東洋人の力は腹からで る、日露戦争に勝つゆえんだ」 「うむ」 「学問も腹だ、人生に処する道も腹だ、気が逆上すると力が逆上して浮きたつ、だから弱くな る・腹をしっかりとおちつけると気施騰聴熾町に収まるから精神踏慌、力が全身的になる、中 心が腹にできる、いいかおまえはへそをなんと思うか」 「よけいなものだと思います」 「それだからいかん、人間の身体《からだ》のうちで一番大切なものはへそだよ」 「しかしなんの役にも立ちません」 「そうじゃない、いまのやつらはへそを軽蔑するからみな軽佻浮薄《けいちようふはく》なのだ、へそは力の中心点 だ、人間はすべての力をへそに集注すれば、どっしりとおちついて威武《いぶ》も屈《くつ》するあたわず富貴《ふうき》 も淫するあたわず、沈毅、剛勇、冷静、明智になるのだ、孟子のいわゆる浩然の気はへそを讃 美した言葉だ、へそだ、へそだ、へそだ、おまえは試験場で頭がぐらぐらしたらふところから 手を入れてしずかにへそをなでろ」  おれは試験場でへそをなでなかったが、難問題にぶつかったときに先生のこの言葉を忠いだ した、そうして、 「へそだ、へそだ、へそだ」と口の中でいった、と急におかしくなってふしぎに気がしずまる、 かっと頭にのぼせた熱がずんとさがって下腹に力がみちてくる。  旧式の本、それを読んだことはいわゆる試験準備のために印刷された本よりもはるかに有効 であった。  どんな本でも、詳しく詳しくいくどもいくども読んで研究すればすべての学問に応用するこ とができる、数多くの本を、いろいろざっと見流すよりたった一冊の本を精読する方がいい。  おれが受験から帰ってくると先生ぱぼくを待ちかねている、おれは試験の問題とおれの書い た答案を語る、先生はそれについていちいち批評してくれた、そうしておれににわとりのすき 焼きをご馳走《ちそう》してくれる。 「うんと滋養物を食わんといかんぞ」  こう先生がいう。七日のあいだに先生が大切に飼っていた三羽のにわとりがみんななくなっ た。 「おれは先生の恩はわすれない、もし先生のような人がこの世に十人もあったら、すべての青 年はどんなに幸福だろう、町のやつは……師範学校や中学校のやつらは先生の教授法を旧式だ という、旧式かも知らんが先生はおれのようなつまらない人間でもはげましたり打ったりして 一人前にしたててくれるからね」  安場はこういって口をつぐんだ、かれはたえきれなくなってなき出した。 「なあ青木、おまえも責任があるぞ、先生がおまえをかわいがってくれる、先生に対してもお まえは奮発しろよ」 「やるとも」千三は無量の感慨に打たれていった。 「さあ帰ろう」  夕闍がせまる武蔵野の枯れ葦《あし》の中をふたりは帰る。   花さき花はうつろいて、露おき露のひるがごと、   星霜《せいそう》移り人は去り、舵《かじ》とる舵手《かこ》はかわるとも、   われ乗る船は永久《とこしえ》に、理想の自治に進むなり。  日はとっぷりと暮れた、安場ははたと歌をやめてふりかえった。 「なあおい青木、いっしょに進もうな」 「うむ」  たがいの顔が見えなかった。 「おれも早くその歌をうたいたいな」とチビ公はいった、安場は答えなかった、ざわざわと枯 れ草が風に鳴った。 「おれの歌よりもなあ青木」と安場はいった「おまえのらっぽの方が尊《とうと》いそ」 「そうかなあ」 「進軍のらっばだ」 「うむ」 「いさましいらっばだ、ふけッ大いにおけ、ふいてふいてふきまくれ」  ひゅうひゅう風がふくので声が散ってしまった。  幸福の神はいつまでも青木一家にしぶい顔を見せなかった、おじさんとチビ公の勉強によっ て一家はしだいに回復した。チビ公の母は病気がなおってから店のすみにわずかばかりの雑穀 を並べた、黙々先生はまっさきになって知人|朋友《ほうゆう》を勧誘したので、雑穀は見る見る売れだした。 生蕃親子がこの地を去ってからもはやチビ公を迫害するものはない、店はますます繁昌し、大 した収入がなくとも不自由なく暮らせるようになった。  安場は日曜ごとに浦和へきた、そうして千三にキャヅチボールを教えたりした、元来黙々塾 に通学するものはすべて貧乏人の子で、でっち、小僧、工場通いの息子、なかには大工や左官 の内弟子もあった。、かれらはみんな仲よしであった、ハイカラな制服制帽を着ることができぬ ので、たいてい和服にはかまをはいていた。  チビ公は日曜ごとに朝から晩まで遊ぶことができるようになった、塾の生徒は師範学校や中 学の生徒のように費用に飽《あ》かして遠足したり活動を見にゆくことができないのでいつも塾の前 の広場でラソニング、高跳《たかと》びなどをして遊んでいた。それが安場がきてからキャッチボールが はやりだした、安場は東京の友だちからりっぱなミットをもらってきてくれた、チビ公は光一 のところヘグローブの古いやつをもらいにいった。 「あるよ、いくらでもあるよ」  光一は古いグローブ二つと新しいグローブ一つとをだしてくれた。 「こんなにもらってもいいんですか」と千三はいった。 「ぼくは買ってもらうからいいよ」と光一はいった。 「これは新しいんですね」 「心配するなよ」  グローブ三つにボール二つ、それをもらって千三が塾へいったとき一同は万歳を唱えた、勉 強はできなくとも貧乏人の子はスポーッがうまい、一同はだんだん上達した。  あるとき千三が豆腐を売りまわってると道で光一にあった。 「おいボールがうまくなったそうだね」  光一は例のごとく上品な目に笑《え》みをたたえていった。 「少しうまくなりました」  光一は妙にしずんだ顔をして千三の目を見つめた。 「きみ、たのむからね、ぼくに向かってていねいな言葉を使ってくれるなよ、ね、きみは豆腐 屋の子、ぼくは雑貨屋の子、同じ商人《あぎんど》の子じゃないか、ねえきみ、きみもぼくも同じ小学校に いたときのように対等の友だちとして交わりたいんだ、きみも学生だからね」 「ああ」  いまにはじめぬ光一のりっぱな態度に、千三はひどく感激した。 「それからね、きみ、きみの塾とぼくの学校と試合をやらないか」 「ああ、だけれども弱いから」 「弱くてもいいよ、おたがいに練習だからね」 「相談してみよう」 「きみはなにをやってるか」 「ぼくはショートだ」 「それがいい、きみは頭がよくて敏捷《びんしよう》だから」 「きみは」 「ぼくは今度からピッチャーをやってるんだよ」 「すてきだね」 「なかなかまずいんだよ、手塚はショートだ、あいつなかなかうまいよ」  その夜千三は塾で一同に相談した。 「やろうやろう」というものがある。 「とてもかなわない」というものもある。諸論はいろいろにわれたが結局安場にぎてもらって きめることになった。  安場は翌日やってきた。 「やれやれ、大いにやれ、親から金をもらって洋服を着て学問するやつに強いやつがあるもの か、わが校の威風《いふう》を示すのはこのときだ」  一同はすぐ決心した、毎夜課業がすむとこそこそそのことばかりを語りあった、だが悲しい ことには貧乏人の子である、マークのついた帽子や、ユニフォームを買うことはできない、い わんやスパイクのついた靴、プロテクター、すねあてにおいておやである。 「銭がほしいなあ」と一同はいった、この話がいつしか黙々先生にもれた、先生は早速一同を 集めた。 「遊戯は精神修養をもって主とするもので形式を主とするものでない、みんなはだかでやるな らゆるす、おれはバットを作ってやる、はだかが寒いならシャツにさるまた、それでいい、そ れが当塾の塾風である」 「先生のいうとおりにします」と一同はいった。  翌日先生は庭先にでて大きなまさかりでかしの丸太を割っていた。 「先生なにをなさるんですか」と、チビ公がきいた。 「パットを作ってやるんだ」  放課後も先生はのこぎりやらかんなやらでバット製作にとりかかった。と仕立屋の小僧で呉 田《た》というのがぼろきれをいくえにも縫いあわせて捕手のプロテクターを作った。すると古道具 屋の子は撃剣の鉄面《めん》でマスクを作った。道具は一とおりそろった。安場が日曜にきて、各シー トを決めた、安場は東京からの汽車賃を倹約するためにいつも五里の道を歩いてくるのであ る。  投手は馬夫《まご》の子で松下というのである、かれは十六であるが十九ぐらいの身長があった。ち いさい時に火傷《やけど》をしたので頭に大きなあとがある、みなはそれをあだ名して五大州と称《しよう》した。 かれの球はおそろしく速かった。  捕手は「クラモゥ」というあだ名で左官の子である、なぜクラモウというかというに、いつ もだまってものをいわないのは暗がりの牛のようだからである、身体は横に肥ってかにのよう にまたがあいている。一塁手は「旗竿《はたざお》」と称せられる細長い大工の子で、二塁手は「すずめ」 というあだ名で駄菓子屋の子である、すずめはボールは上手《じようず》でたいが講釈がなかなかうまい、 かれは安場コーチの横合いから口をだしていつも安場にしかられた。  三塁手にはどんな球でもかならず止める橋本というのがある、かれはおそろしい勢いで一直 線にとんできた球を鼻で止めたのでうしろにひっくりかえった。それからかれを橋本とよばず に鼻本《はなもと》とよんだ。  外野にもなかなか勇敢な少年があった、ショートはチビ公であった。チピ公は身丈《みたけ》が低いが 非常に敏捷《びんしよう》であった、かれは球を捕るには一種の天才であった、かれはわずかばかりの練習で ゴロにいろいろなものがあることを感じた、大きく波を打ってくるもの、小さくきざんでくる もの、球の回転なしにまっすぐにすうと地をすってくるもの、左に旋回するもの、右に旋回す るもの、約十種ばかりの性質によって握り方をかえなければならぬ。チビ公は無意識ながらも それを感じた。  一生懸命に汗を流してけずり上げた先生のバットはあまり感心したものでなかった。それは あらけずりのいぼだらけで途中にふしがあるものであった。 「なんだこれは」 「すりこぎのようだ」 「犬殺しの棒だ」 「いやだな、おまえが使えよ」 「おれもいやだ」  少年どもはてんでにしりごみをした。さりとてこれを使わねば先生の機嫌が悪い。一同は途 方に暮れた。 「ぼくのにする」とチビ公はいった「このバットには先生がぼくらを愛する慈愛の魂がこもっ てる、ぼくはかならずこれでホームランを打ってみせるよ、ぼくが打つんじゃない先生が打っ んだ」 九  浦和中学と黙々塾が野球の試合をやるといううわさが町内に伝わったとぎ人々は冷笑した。 「勝負になりやしないよ」  実際それは至当《めしとう》な評である、浦和中学は師範学校と戦っていつも優勝し、その実力は埼玉県 を圧倒しているのだ、昨日今日《きのうきよう》ようやく野球を始めた黙々塾などはとても敵し得べきばずがな い。それに浦中の捕手は沈毅をもって名ある小原である、投手の柳は新米《しんまい》だがその変化に富め る球と頭脳の明敏《めいびん》ははやくも専門家に嘱目《しよくもく》されている、そのうえに手塚のショートも実際うま いものであった、かれはスタートが機敏で、跳躍《ジヤンプ》して片手で高い球を取ることがもっとも得意 であった。 「練習しようね」と柳は一同にいった。 「練習なんかしなくてもいいよ、黙兵衛《もくぺえ》のやつらは相手にならんよ」と手塚がいった。 「そうだそうだ」と一同は賛成した。だが二、三日経ってから小原が顔色を変えて一同を招集 した。 「ぼくは昨日《きのう》黙々の練習を見たがね、火のでるような猛練習だ、それに投手の五大州はおそろ しく速力《スピード》のある球をだす、あのうえにもしカーブがでたらだれも打てやしまい、ショートのチ ビ公もなかなかうまいし、捕手のクラモゥはロングヒットを打つ、なかなかゆだんができない よ、一体今度の試合は敵に三分の利があり味方に三分の損がある、敵は新米だから負けても さまで恥にならないが、味方は古い歴史を持っているから、もし負けれぽ世間の物笑いになる よ」 「あんなやつはだいじょうぶだよ」と手塚はいった。 「そうじゃない、もしひとりでも傑出《けつしゆつ》した打手があってホームランを三本打てぽ三点取られる からね、勝負はそのときの拍子だ、強いからってゆだんがならない」 「だからぼくは練習をしようというんだ、青木千三は小学校時代には実にうまかったからね、 身体が小さいがおそろしいのはかれだよ」  と光一はいった。 「豆腐屋のごときは眼中にないね」と手塚がいった。 「それがいけないよ手塚君、きみはうまいけれども敵をあなどるのは悪いくせだ、ぼくは青木 の方がぼくよりうまいと思う」 「きみは青木を買いかぶってるよ、あいつはまだ腰が決まらない」 「いざとなれぽ強くなるよ」 「弱虫だねきみは」と手塚は嘲笑した。 「きみよりか青木の方がうまい」と光一もしゃくにさわっていった。 「あんなやつにくらべられてたまるものか」  多人数の前なので手塚は虚勢を張っていった。 「そうじゃない手塚」と小原はどなった「おまえはいつもうまいと人に見られようと思って、 片手で球をとったりする、あれはよくないそ、へたに見られてもいいから堅実でなけりゃいけ ない」  先輩の一言に手塚は顔を赤めてだまった。その日から練習をはじめた。  }方黙々塾では学業のひまひまに猛練習をつづけた。だが家業がいそがしいために練習にく ることのできない者もあるので、人数はいつもそろわなかった、安場は日曜以外には帰省しな い、ここにおいて黙々先生が白身にあき地へ出張した、先生は野球のことをよくは知らない、 がかれは撃剣の達人なので打撃はうまかった、かれはさるまた一つとシャツ一枚の姿で、白製 のパヅトでノックをする、それは実に奇妙ふしぎなノックであった、先生の打つ球には方向が 一定しない、三塁へいったり一塁へいったり、ゴロかと思えば外野へ飛んだり、ファウルにな ったり、ホームランになったりする。 「先生! シートノックはシートの方へ打ってください」と千三が歎願した。 「ぽかヅ、方向がきまってるならだれでもとれる、敵はどこへ打つかわかりゃしないじゃない か」  先生はこういって長いバットを持って力のありたけで打つのだからたまらない、鉄砲玉のよ うなおそろしく早い球はぶんぶんうなって飛んでくる。選手はいずれも汗だらけになって走り まわる。それがおわるとフリーパッティングをやる、それも投球するものは先生である。先生 の球はノックのごとくコントロールが悪い、右に左に頭上高く、あるいは足元にバウンドし、 あるいは腰骨を打つ。 「先生! まっすぐな球をください」と千三がいう。 「ばかッ敵はいつもまっすぐに投《ほう》るかよ」  それがおわると先生は千三に投球させて自分で五、六本を打つ。だが先生の造ったパットは こぶこぶだらけなので、打った球はみんなファゥルになり、チップになる。で先生が満足に打 つまで球を投《ほう》らなけれぽ機嫌が悪い、ようやく直球を一本打つと先生はにっこりと子供らしく わらう、そうしてこういう。 「おれの造ったバットはなかなかいいわい」  練習がすむと先生は一同にいもを煮てくれる、それがなによりの楽しみであった。だが先生 は野球のために決して学課をおろそかにしなかった、もし生徒の中に学課をおこたる者がある と先生は厳然として一同を叱《しか》りつける。 「野球をやめてしまえッ」  このために生徒はいっそう学課にはげまざるを得なかった。  日がだんだん迫ってきた、ある日安場が来た、コーチがすんで一同が去った後、先生はいか にも心配そうに安場にいった。 「今度中学校に勝てるだろうか」 「さあ」と安場は躊躇《ちゆうちよ》した。 「どうかして勝たしてもらいたい、わしが生徒に野球をゆるしたのは少し考えがあってのこと だ、この町の者は官学を尊敬して私学を軽蔑する、いいか、中学校や師範学校の生徒はいばる が、黙々塾の生徒は小さくなっている、なあ安場、きみもおぼえがあるだろう」 「そうです、ぼくもずいぶん中学校のやつらにぽかにされました」 「そうだ、金があって時間があって学問するものは幸福だ、わしの塾の生徒はみんな不幸なや つぼかりだ、同じ土地に生まれ同じ年ごろでありながら、ただ、金のために甲は意気揚々とし 乙は悄然《しようぜん》とする、こんな不公平な話はないのだ、いいか安場、そこでだ、わしは生徒どもの肩 身を広くさしてやりたい、金ずくではかなわない、かれらの学校は洋風の堂々たるものだ、わ しの塾は壁が落ち屋根がもり畳がぽろぽろだ、生徒は町を歩くにいつも小さくなってしょぽし よぽしている、だからせめて野球でもいいからいっぺん勝たしてやりたい、実力のあるものは 貧富にかかわらず優勝者になれるものだということを知らしめたい、師範生も中学生も黙々生 も同等のものであると思わせたい、大手をふって町を歩く気にならせたい、だからどうしても 今度は勝たねばならん、わしもこの年になって、なにをくるしんですっぱだかになってあき地 でバヅトをふり生徒らを相手に遊んでいたかろう、生徒の自尊心を養成したいためだ、そうし て一方において町の人々や官学崇拝者を見かえしてやりたいためだ、野球の勝敗は一小事だが、 ここで負ければわしの生徒はますます白尊心を失い肩身を小さくする、実に一大事件だ、なあ 安場、今度こそはだ、なあおい、しっかりやってくれ」  先生の声はしだいに涙をおびてきた。 「先生!」  安場は燃ゆるような目を先生に向けていった。 「ぼくもそう思ってます、ぼくはかならず勝たしてごらんに入れます」  安場は翌日規則正しい練習をした、 一回二回三回一同は夜色が迫るまでつづけた。いよいよ 明日《あす》になった土曜日の早朝から一同が集まった。 「今日は休むよ」と安場はいった。 「明日が試合ですから、是非今日一日みっちりと練習してください」と一同がいった。 「いやいや」と安場は頭をふった。 「今日はゆっくり遊んで晩には早く寝ることにしよう、いいか、熟睡するんだぞ、ひとりでも 夜ふかしをすると明日は負けるぞ{  その日は一日遊んで安場は東京における野球界の話を聞かしてくれた、かれは一高と三高の 試合の光景などをおもしろく語った。 一同はすっかり興奮して目に涙をたたえ、まっかな顔を して聞いていた。  その夜千三は明日の商売のしたくをおわってから窓から外を見やった、外は暗いが空はなご りなく晴れて星は豆をまいたように輝いていた、千三は明日の好天気を予想してしずかに眠っ た。  目がさめると、もう朝日がいっばいに窓からさしこんですずめの声が楽しそうに聞こえる。 「やあ寝すごした」と千三はあわてて飛び起きた。 「もっと寝ててもいいよ」とおじさんはにこにこして店から声をかけた、かれはもう豆腐をお けに移してわらじをはいている。 「おじさん、ぼくが商売に出ますからおじさんはやすんでください」と千三はいった。 「今日は日曜だからおまえは休め、おまえは今日大事な戦争にゆかなきめ、ならないじぬ、ない か」 門野球は午後ですから、朝だけぼくは売りにでます」 「,いやかまわない、わしもおひるからは見物にゆくそ、しっかりやってくれ」 「ありがとうおじさん、それじゃ今日は休ましてもらいます」 「うむ、うまくやれよ、金持ちの学校に負けちゃ貧乏人の顔にかからあ」  おじさんはこういってらっぽをぷうと鳴らしてでていった。千三は井戸|端《ばた》へでて胸いっぱい に新鮮な空気を呼吸した、それからかれはすっぱだかになって十杯のつるべ水を浴びて身をき よめた。 「どうぞ神様、ぼくの塾をまもってください」  じっと目を閉じて祈念《きねん》するとふしぎにも勇気がしだいに全身に充満する。朝飯をすまして塾 へゆくと安場がすでにきていた。一|分時《ぷんじ》の違いもなく全員がうちそろうた。そこで先生が先頭 になって調神社《つきのみゃじんじや》へ参詣《さんけい》する、それから例のあき地へでて猛烈な練習をはじめた。  春もすでに三月なかばである、木々のこずえには若やかな緑がふきだして、桜のつぼみが輝 きわたる青天に向かって薄紅の爪先をそろえている。向こうの並み木は朝日に照らされてその 影をぞくぞくと畑道の上に映していると、そこにはにわとりやすずめなどが嬉しそうに飛びま わる。  昨夜《ゆうべ》熟睡したのと、昨日一日練習を休んだために一同の元気はすぼらしいものであった、安 場はすっかり感激した。 「このあんばいではかならず勝つぞ」  一同は練習をおわって汗をふいた。 「集まれい」と先生は号令をかけた、一同は集まった。 「みんなはだかになれ」  一同ははだかになった。 「へそをだせい、おい」  一同はわらった、しかし先生はにこりともしなかった。一同はさるまたのひもをさげてへそ をだした。先生は第一番の五大州(投手)のへそのところを押してみた。 「おい、きみは下腹《したはら》に力がないそ、胸のところをへこまして下腹をふくらますようにせい」 「はい」  先生はつぎのクラモゥのへそを押した。 「おい、大きなへそだなあ」 「ぼくはいま力を入れてつきだしてるのです」 「いかん、へそのところをつきだすのじゃない、へその下へ食べたものをみんなさげてやるん だ、いいか、胸がせかせかして負けまい負けまいとあせればあせるほど下腹がへこんで、肩先 に力がはいり頭がのぼせるんだ、味方が負け色になったらみんなへそに気をおちつけろ、いい か、わすれるな、黙々塾は一名へそ学校だぞ、そう思え」  先生はひとりひとりにへそを押してみた。 「あまり押すと先生、小便がもります」と二塁手のすずめがいった。そこで先生もわらった。  その日の試合は製粉会社の裏の広場でやることになった、中学の運動場は修繕のために使用 ができなかった、朝からの快晴でかつ日曜であるために見物人はどしどしでかけた。豆腐屋の 覚平は早く商売をしまって肩にらっばをかけたままでかけた、見ると正面に大きな網をはり、 白い線を大地に引いて、三ヵ所に大きなまくらのようなものをおいてある、二本の長い線の両 側に見物人が陣取っているが、草の上に新聞紙を敷いて坐ってるのもあり、またむしろやこし かけを持ち出したのもあった。覚平はかくまで野球が人気をひくとは思いもよらなかった。か れは野球とはどんなことをするものか知らなかった。かれは豆腐おけをになって町を歩くとき、 おりおり子供らに球を頭にあてられたり背骨を打たれたりするのでむしろ野球に対して反感を いだいていた。 「すりこぎをふりまわすなんてつまらねえまねをするもんだ」  こうかれはいつもいった、だがいまきてみると子供らばかりでなく、労働者も商人も紳士も 役人も集まっている。 「大変なことになったものだ」  かれは肝《きも》をつぶしてまごまごしているとうしろから声をかけたものがある。 「覚平さん」  ふりかえるとそれは八百屋の善兵衛《ぜんべえ》であった、善兵衛はなによりも野球が好きであった、野 球が好きだというよりも、野球を見ながらちびりちびりと二合の酒を飲むのが好きなのである、 かれもあまり野球の知識はないほうだが、それでも覚平よりはすべてを知っていた。 「やあおまえさんもきてるね」と覚平がいった。 「おらあハア三度のご飯を四度食べても野球は見たいほうで」と善兵衛がいった。 「おれにゃわからねえ」と覚平がいった。 「じゃおらあ教えてやるべえ」と善兵衛はいった。 「ところで一|杯《ばい》どうです」 「これはこれは」  ふたりは一つのさかずきを献酬《けんしゆう》した。善兵衛はいろいろ野球の方法を話したが覚平にはやは りわからなかった。 「つまり球を打ってとれないところへ飛ぽしてやればいいんです」 「なるほどね」  ふたりが草に坐ってかつ飲みかつ語ってるうちに見物人は刻々に加わった。中学の生徒は制 服制帽整然とうちそろうて一塁側に並んだ。その背後には中学びいきの大人《おとな》連が陣取《じんど》っている、 その中に光一のおじさん総兵衛《そうべえ》がその肥った胸を拡《ひろ》げて汗をふきふきさかんに応援者を狩り集 めていた、かれは甥《おい》の光一を勝たせたいために商売を休んでやってきたのである。  この日師範学校の生徒は黙々塾に応援するつもりであった、師範と中学とは犬とさるのごと く仲が悪い、だがこの応援は中止になった、いかんとなれば審判者は師範の選手がたのまれた からである、で師範は中立隊として正面に陣取《じんど》った。 「早く始めろ」 「なにをぐずぐずしてるんだ」  気の短かい連中は声々に叫んだ、この温《あふ》るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっ そうとして場内に現われた、そろいの帽子ユニフォーム、靴は黒と白の二段抜き、靴のスパイ クは朝日に輝き、胸のマーク横文字のξ⇔。ゲ¢はいかにも名を重んずる若き武士のごとく見え た。  見物人は拍手喝采した、すねあてとプロテクターをつけた肩幅の広い小原はマスクをわきに はさみ、ミットをさげて先頭に立った、それにつづいて眉目秀麗《むびもくしゆうれい》の柳光一、敏捷《びんしよう》らしい手塚、 その他が一糸みだれずしずかに歩を運んでくる。 「バンザァイ、浦中万歳「  総兵衛はありったけの声で叫んだ。浦中応援隊は応援歌をうたった、手に手に持った赤い旗 は波のごとく一起一伏して声調律呂《せいちようりつりよ》はきちんきちんとそろう。  選手は入場するやいなやすぐキャッチボールを始めた、それがすむと、 一同さっと散ってめ いめいのシートシートに走った。やがてノックが始まった。ノッカーは慶応の選手であった出 田という青年である、正確なノックは士気をいっそう緊粛《きんしゆく》させた、三塁から一塁までノックし て外野におよびまた内野におよぶまでひとりの過失もなかった、しだいに興奮しきたる技術の 早業《はやわざ》はその花やかな服装と、いかにも得意然たる顔色とともに見物人を圧倒した、ダブルプレ ー、トリプルプレー、その中に手塚のできばえはべっしてすばらしかった、かれはどんなゴロ でも完全につかんだ、かれは頭上高き球をジャンプしてとった、左側に打たれた難球を転んで つかんだ、つかむやいなや二塁に送った。その機敏さ、洒脱《しやだつ》さはさながら軽業師《かるわざし》のごとく見物 人を酔わした。 「手塚! 手塚!」  の声が鳴りわたった。ちょうどそのとき黙々塾の一隊が入場した。 「きたきたきた」  見物人は立ちあがってその方を見やった、同時に「わあッ」という笑声《しようせい》が一度に起こった。  見よ! 黙々塾の一隊! それはマークの着いた帽子もなくそろいのユニフォームもない、 かれらは一様にてぬぐいで鉢巻《はちま》きをしていた、かれらのきたシャッにはメリャスもあればねず み色に古びたフランネルもあり、腕のないじゅばんもあった、かれらはたいていさるまたの上 にへこ帯をきりきりと巻《ま》き、結び玉をうしろへたれていた、かれらのはいてるのは車夫のゴム 足袋《たび》もあれぽ兵隊の古靴もある。九人はことごとくちがった服装、その先頭にコーチャーの安 場は七輪のような黒い顔をしてこけ色になった一高の制服制帽で堂々と歩いてくる。  いずれを見てもそれはいかにもみじめな一隊であった、かの花やかな浦中と対照してこれは 何というきたならしい選手たちだろう、見物人は戦わぬうちに勝敗を知った。 「だめだよ、つまらない」  もう見かぎりをつけて帰ったものもある。一同は肩ならしをやったうえで、さっとシートに 着いた、安場は上衣《うわぎ》をぬいでノヅクした。それはなんということだろう。  元来晴れの戦場におけるノックには一種の秘訣がある、それは難球を打ってやらぬことであ る、だれでも取れるような球を打ってやれぽ過失がない、過失がなければ気がおちつく、特に 試合になれぬチームに対してはノッカーはよほど寛大に手心せねばいたずらに選手をあがらし てしまうおそれがある。  なにを思ったか安場のノヅクは峻辣《しゆんらつ》をきわめたものであった、難球また難球! 第一番に三 塁手がミスする、ついでショートの青木、これもみごとにミスする、やりなおす、またミスす る、三度、四度! 千三はしだいに胸が鼓動した、見物人は口々にののしる。 「やあい、豆腐屋、だめだぞ」  嘲笑罵声を聞くたびに千三は頭に血が逆上して目がくらみそうになってきた。かれが血眼《ちまなご》に なればなるほど、安場のノックが猛烈になる。やっと球をつかんだかと思うと一塁へ三《の》尺も高 い球をほうりつける。見物人はますますわらう。  さんざんな悪罵《あくば》のうちにノヅクはおわった。千三はいくどもいくども滑ったので身体はどう だらけになった、その他の人々も同様であった。  やがて審判者がおごそかに宣告した。 「プレーボール!」  浦中は先攻である。黙々の投手五大州ははじめてまん中にたった、かれは十六歳ではあるが 身長五|尺二寸《しやくすん》、投手としてはもうしぶんなき体格である、かれは手製のシャツを着ていた、そ れは白木綿《しろもめん》で母が縫うてくれたのだが、かれはその胸のところに墨黒々と片仮名で「モクモ ク」と右から左に書いた。かれがこれを着たとき、すずめがそれだけはよしてくれといった、 かれは頑としてきかない。 「おれは日本人だから日本の文字のしるしを書くんだ、毛唐《けとう》のまねなんか死んでもしやしない よ」  これを聞いて黙々先生は感嘆した。 「松下! おまえはいまにえらいものになるよ」  見物人はいまかれの胸の片仮名を見て一度にどっとわらった。 「やあい、モクモク」 「モクネンジンやあい」 「砂もぐりやあい」 「モグ兵衛《ぺえ》やあい」  だがかれは少しもひるまなかった、かれの鉄砲のごとき速球はまたたく間にふたりを三振せ しめた、つぎは柳光一である。光一はボヅクスに立ってきっと投手を見やった、かれは速球に 対して確信がある。千三は小学校にありしとき光一のくせをよく知っている、かれは光一がか ならず自分の方へ打つだろうと思った。 「打たしてもいいよ」と千三は五大州にいった。 「よしッ」  五大州はまっすぐな球をだした。戞然《かつぜん》と音がした、見物人はひやりとした、球ははたして千 三に向かった、千三は早くも右の方へよった。 「しめたッ」  と思う間もなくかれは足をすべらした、喝采の声が起こった、球は一直線に中堅《ちゆうけん》の方へ転が った。千三の目から涙がこぼれた。光一は早くも二塁へ走った。  つぎの打手は敵の主将小原である。ホームランか三塁か、いずれにしても、点は取るだろう と人々は思った、投手五大州はじっと腕をくんで捕手のサインを見やった。第一球は高目のカ ーブであった。五大州はそのとおりに球を投げた。小原はボールを取るだろうと思いのほか、 かれはおどり上がってそれを打った、球はショートの頭をはるかに高く飛んだ、千三はうしろ に走った、と球は仲びるかと思いのほか、途中で切れてさか落としに落ちた、ハヅと思う間も ない、光一は疾風《しつぶう》のごとく本塁を襲うた、千三はあわててホームに投げた、球は高くネットを 打った。  次の打者の三振でわずかに食い止めたものの、第一回において黙々は一点を負けた。千三は 顔をあげることができなかった、かれはなくにもなけなかった。  ぼんやりベンチへ帰ると安場はにこにこしていた。 「おい、だいじょうぶ今日の試合はこっちのものだぞ」 「ぼくはだめだ」と千三がいった。 「いやなかなかいい、すてきにいい」と安場はいった。  柳がダイヤモンドに立ったとき群集は一度に喝采した。実際柳の風采、その鷹揚《おうよう》な態度はす でに群衆を酔わした、それに対して小原の剛健沈毅《こうけんちんき》な気宇《きう》、ふたりの対照はたまらなく美し い。 「柳!」 「小原!」  この声とともに学校の応援歌がとどろいた。黙々の第一打者は五大州である、かれはかんか んにおこっていた。かれは頭の鉢巻《はちま》きをかなぐりすてたとき、その斑々《はんはん》たる火傷《やけど》のあとが現わ れたので見物人はまたまた喝采した。  柳は静かに敵の姿勢を見やった、そうして美しいボディスイングを起こした。のびのびとし た四肢《し》や胴体のあざやかさ、さながら画《え》に見るがよう、球が手をはなれた。五大州がバヅトを ふったかと見ると球は左翼の頭上はるかに飛んだ、外野手は走った、内野手も走った、陣営騒 然《じんえいそうぜん》とみだれた、小原はあっけに取られてマスクをぬぎ捨てたまま本塁に立っている。 「ホームイン」  五大州の一撃で一点を恢復《かいふく》した。このとき三塁の背後の松の枝高くらっばの音が聞こえた。 ついで気ちがいじみた声! 「もくもく万歳! もくもく勝ったぞ」 「ぷうぶうぶうぽうぽうぶう」  らっばは千三のおじ覚平《かくへい》で、叫んでるのは善兵衛である。  この声援とともにここにおどろくべき声援者が現われた、それは製粉会社の職工四、五十名 と、木材会社その他の労働者、百姓、人足、馬夫《まご》! あらゆる貧民階級が一度にどっとときの 声をあげた。 「もくもく勝った勝った」  これに対して総兵衛ははじめは羽織を脱ぎつぎは肌脱ぎになりおわりにすっぱだかになって おどりだした。 「フレー、フレー、浦中!」  野球場は見物人と見物人との応援戦となった。  回が進んだ、一対一が二対二となり、五回、六回におよんだとき、浦中は五点、黙々は三点 になった。二点の相違! このままで押し通すであろうか。千三は回ごとに、・・スをした、しか もかれは三振二つ、ピーゴロ一つを打っただけである。かれはすみに小さくなって涙ぐんでい た。覚平はもう松の枝に乗りながららっぽをふく勇気もなくなった。 「勝てないかなあ」とかれは善兵衛にいった。 「勝てそうもないなあ」と善兵衛がいった。すべての応援者も力が抜けてしまった。実際柳の 成績はおどろくべきものであった、かれの球は速力において五大州におとっているが、その縦 横自在な正奇《せいき》の球は回が重なるにしたがって熱気をおびてきた、どうかしてかれが敵に打たれ こむときには小原がマスクをぬいでダイヤモンドへ進んでくる、そうしてこういう。 「おい、おれの鼻穴になにかはいってないか見てくれ」 「なにもないよ」と柳は小原の鼻を見ていう。 「そうか、かにが一ぴきはいってるような気がするよ」 「そんなことがあるもんか」と柳はわらいだす。  それを見て小原はまたいう。 「五大州の頭にかにを這《は》わせてやろうか」 「なぜだ」 「天下横行だ」 「はッはッはヅ」  これで柳の気がしっかりとおちつくのである、柳は小原の老巧《ろうこう》に感謝するのはいつもこうい う点にある。  柳ばかりでない、手塚もいろいろな快技曲技をやって見物人を酔わした、かれはもっとも得 意であった、ファインプレ!をやるたびに見物人の方を見やって微笑した、ときには帽子をぬ いで応援者におじぎをした。  千三は暗い暗い気分におされてだまっていた。かれはこのままこの場を逃げだしたいと思っ た。と安場がにこにこしてきた。 「そろそろいい時分だよ」 「なにが?」 「ラッキーセブンだ」 「ぼくにラヅキーはない、だめだ」 「ぽかいえ、きみはたしかに勝てるのに勝たずにいるんだ」 「どうして?」 「きみは大事なことをわすれてる」 「なにを? 大事なことを?」 「うむ、先生に教《おそ》わったことを」  千三はじっと考えた。 「あッ、へそか」 「人間がへそをわすれたら、もうおしまいだ」 「そうか、うむ、ああへそだ、はッはッはッ」  と千三はわらった。 「わかったか」  安場はぐっと千三のへそを押した。ふしぎに千三は頭がすヅと軽くなった、胸につかえたも じゃもじゃしたものが煙のごとく消えて、どっしりと腹の底に重みができた。 「見ろ! あの手塚てえやつはいまに大変なミスをやるぞ、見物人に賞められることばかりを 考えてるからね」 「やる!きっとやる」と千三はいった。このとき五大州は安打して一塁を取った、つぎのク ラモゥはバントした、手塚はそれを取って二塁へ投げようか一塁へ投げようかと疑惧《ゆぎぐ》してるう ちに双方を生かしてしまった。三番は千三である。 「ぷうぶうぽうぽう」とらっばが鳴った。 「青木! 青木! フレイフレイ」と善兵衛がどなる。 「豆腐屋ア」と敵方がひやかす。  千三はボックスに立つ前にバットを一ふりふった、それは先生の手製のこぶこぶだらけのバ ヅトである。かれは血眼《ちまなご》になって光一をにらんだ。いままでかれは光一を見るとぎ一種の弱気 を感じたのであった、かれはわがおじが入獄中に受けた柳家の高恩を思い、わが貧をあわれん で学資をだしてやろうとした光一の友情を思うと、かれの球を打つ気合いが抜けてどうするこ ともできないのであった。  いまかれは臍下に気をしずめ、先生のバットをさげて立ったとき、ぱじめて野球の意義がわ かった。  私情は私情である、恩義は恩義である、だが野球は先生および全校の名誉を荷のうて戦うの である、私情をはなれて公々然と戦ってこそそれが本当の野球精神である、このバットは先生 を代表したものである、ぼくが打つのでない、先生が打つのだ。  こう思って光一の顔を見やると光一は微笑している、その男らしい口元、上品な目の中には こういってるかのごとく見える。 「おたがいに全力を尽くして技術を戦わそうじゃないか、負けても勝ってもいい、敵となり味 方となってもよく戦ってこそおたがいの本望だ」  千三はたまらなく嬉しくなった、かれはボヅクスに立った。それを見て光一は思った。 「かわいそうに青木は今日はぽかにしょげかえっている、一本ぐらいは打たしてやりたいな」  だがかれはすぐに考えなおした。 「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことはかえって青木を侮辱 しかつ学校と野球道を侮辱するものだ」  実際敵の走者が第一第二塁にある、少しもゆだんのならぬ場合である、かれは捕手のサイン を見た、小原はすでに青木をあなどっている、かれは第一にウエストボールをサインした、第 二もまた……第三には直球である。それは青木の予想するところであった。  かれは光一の球が燦然《さんぜん》たる光を放ってわが思う壺《つぼ》をまっすぐにきたと思った、かれは八分の 力をもってふった。  わっという喊声《かんせい》とともに千三は球がたしかに手塚に取られたと思った、が球は手塚の靴先に バウンドした、手塚はダブルプレーを食わして喝采を博そうとあせったのでスタートをあやま ったのである、かれはパウンドした球をつかもうとしてグローブの上ではね返した、ふたたび 拾おうとしたとき二塁手と衝突して倒れた。かれは起きあがったがあわてたために球が見えな かった、球はかれの靴のかかとのところにあったのである。 「ボールがボールが」とかれは悲鳴をあげた。中堅手がそれを拾うてホームへ投げた、がこの ときはすでにおそかった、五大州とクラモゥは長駆《ちようく》してホームへ入り、千三は三塁にすべり込 んだ。 「バンザァイ」  天地をゆるがすぼかりに群集は叫んだ、この叫びがおわらぬうちにすぐにふしぎな喝采が起 こった。  松の枝に乗っていた覚平と善兵衛はバンザイを叫んだ拍子に両手をあげたので、松の上から 転がり落ちたのであった。落ちたまま覚平はらっぽをふくことをやめなかった。 「ぶうぶうぽうぽう」 「パンザァイ」  こうなってくると黙々隊は急に活気づいてきた。一塁手の旗竿《はたさお》は二塁打を打って千三が本塁 に入った。黙々は一点を勝ち越した。つぎのすずめはパウンドを打って旗竿を三塁に進めた。  とつぎには安場の作戦が奇巧《きこう》を奏《そう》し、スクイズプレーでまた一点を取った。  浦中は必死になった、小原、柳は死《し》に物狂《ものぐる》いに戦った、が千三の快技はあらゆる難球を食い とめた、かれはしっかりと腹を落ちつけた、かれの頭は透明で気がほがらかであった。  七ー五  黙々は勝った、波濤《はとう》のごとき喝采が起こった、中立を標榜《ひようほう》していた師範生はことごとく黙々 の味方となった。安場が先頭になって一同は中学の門前で凱歌《がいか》をあげた、そうして町を練り歩 いた。町々では手おけに水をくんで接待したのもあった。善兵衛は自分の店のみかんを残らず かつぎ込んでみかんをまきながら選手のあとについて行った。一同は喜び勇んで塾へ帰った。 かれらは塾の前でみんなシャツを脱ぎ、へそをだして門内へはいった。  先生は一帳羅《いつちようら》の羽織とはかまをつけて出迎えた。 「勝ちました」と安場がいった。 「それは最初からわかってる」と先生がいった、そうして「ボールをやると同じ気持ちで学問 をすれば天下の大選手になれる」とつけくわえた。 十  へその秘伝をおぼえてから千三はめきめきと腕が上達した。浦中と黙々は復讐戦をやる、そ のつぎには決勝をやる、復讐のまた復讐戦をやるという風にこの町の呼び物になった。 「チビ公のやつ、どうしておれの球をあんなに打つんだろう」  光一はふしぎでたまらなかった、実際千三はいかなる球をも打ちこなした、対師範校との試 合にはオールヒットの成績をあげた。それは光一に取ってもっとも苦しい敵であったが、しか し光一はそのためにおどろくぺき進歩を示した、かれはどうかしてチビ公に打たれまい、チビ 公を三振させようと研究した。昔武田信玄と上杉謙信はたがいに覇業《はぎよう》を争うた、その結果とし て双方はたがいに研究しあい、武田流の軍学や上杉風の戦法などが日本に生まれた。もっとも よき敵はもっともよき友である、他出の石は相砥礪《あいしれい》して珠《たま》になるのだ。千三があるために光一 が進み、光一があるために千三が進む。  戦場においては敵となりしのぎをけずって戦うものの光一と千三は家へ帰ると兄弟のごとく 親しかった。 「今日は一本も打たせなかったね」 「このつぎにはかならず打つぞ」  二人はわらって話しあう。どんなに親しい間柄でもおおやけの戦場では一歩もゆずらないの がふたりの約束であった。時として光一は家へ帰ってもものもいわずにふさぎこんでることが ある、だが千三がたずねてくると愉快な気持ちになるのであった。  あるとき光一はまじめな顔をしてこういった。 「青木君、ぼくの学校へ入学したまえよ」 「いまさらそんなことはできないから、=咼でいっしょになろう、もう二、三年経てぽぼくの 家も楽になるから」 て、品性・学問などを修養すること。 「検定《けんてい》を受けるつもりか」 「ああ、そうとも」 「じゃ=咼でいっしょになろう、きみがショートでぼくが投手で小原さんが捕手だったら愉快 だな」  ふたりは顔を見るたびにそれを語りあった。ふたりははたして=咼でいっしょになり得るだ ろうか、いまは読者にそれをもらすべきときでない。とにかく花は咲き花は散り、月日は青春 の希望とともに仲びやかに輝きながらうつりゆく。柳光一は四年生になった。  そのころ学校内で奇怪な風説が伝わった、生徒のうちで女学生と交際し、ピアノやヴァイオ リンの合奏をしたり、手紙を交換したり、飲食店に出入りしたりするものがある、いまのうち に探しだして制裁を加えなけれぽ浦和中学の体面に関する。  憤慨の声々が起こった。 「だれだろう」 「だれだろう」  最初のうちはこの風評をとりあげるものはなかった。 「師範のやつらがいいふらしたんだ」  実際それは師範生徒からでたうわさである、師範生徒は中学生にくらべると学資も少なし、 また富める父兄をもたぬところからなにかにつけて不白由がちである、それに反して中学生は 多くは相当の資産ある家の子である、かれらは自由にぜいたくなシャツを買い、八イカラな文 房具を用い、活動や芝居などを見物し、洋食屋へも出入りする、そうさせることを不純だと思 わない父兄が多いのである。  寄宿舎に閉じこめられてかごの鳥のごとく小さくなっている師範生の目から見ると、中学生 の生活はまったく不潔であり放縦《ほうじゆう》であり頽廃的《たいはいてき》である。  久保井校長のつぎにきた熊田校長というのはおそろしく厳格な人であった、久保井先生は温 厚で謙遜《けんそん》で中和の人であったが、熊田先生は直情径行《ちよくじようけいこう》、火のごとき熱血と、雷霆《ゆらいてい》のごとき果 断《かだん》をもっている。もし久保井校長が春なら熊田校長は冬である、前者は春風駘蕩《しゆんぶうたいとう》、後者は寒風 凛烈《かんぶうりんれつ》!どんなに寒い日でも熊田校長は外套を着ない、校長室に火鉢もおかない、かつて大 吹雪《おおふぶき》の日、生徒はことごとくふるえていた日、校長は校庭にでて雪だるまを転がしまわった、 その髪となく目となく口となく、雪だらけになったが少しもひるまなかった。  久保井先生が去ってからつぎにきたるべき校長に対して生徒も町の人も一種の反感をもって いた、だが日を経《ふ》るにしたがって新校長の実践躬行的《じっせんきゆうこうてき》な人格は全校を圧し町を圧し、いまでは だれひとり尊敬せぬものはない。 「黙々先生と熊田先生とどっちがこわいだろう」  町の人々はこううわさした。それだけ厳格な熊田先生が今中学校内に不良少年があると聞い たのだからたまらない。 「厳罰に処すべしだ、よく調べてくれ」  校長の命令に職員は目を皿のごとく大きくしてさがしたてた。  と、まただれがいうとなくそれは手塚だといううわさが立った。このことを中し立てたのは 中村という同級生であった、中村は善良な青年だが、思慮にとぼしく言葉が多いのが欠点であ る、かれは学校中のすべてのことを知っているのでみながかれを探偵と呼んでいた、だがこの 探偵は決して人に危害を加えない、口からでまかせにすきなことをしゃべりちらして喜んでい るだけである。中村は手塚が昨日不良少女と活動写真館からでたのを見た、そうしてあとをつ けていくと洋食屋へはいったというのであった。  級の重なるものが五人集まって相談会を開いた、もし手塚であるなら同級の恥辱だからなん とかいまのうちに相当の手段を講じなけれぽなるまい。これが会議の主眼であった。 「きゃつは一体生意気だからぶんなぐるがいいよ」  と浜本という剣道の選手がいった。浜本はすべてハイカラなものはきらいであった、かれは 洋服の上にはかまをはいて学校へ来たことがあるので、人々はかれを彰義隊とあだ名した。 「なぐる前に一応忠告するがいいよ」と渋谷がいった、渋谷は手塚と親しかった、かれは日曜 ごとに手塚の家へいってご馳走《ちそう》になるのであった。かれはまた手塚から真珠入りの小刀だの、 水晶のペンつぼなどをもらった。かれが手塚をかばったことがかえって一同の憤激をたきつけ ることになったo 「ばかッ、きさまは医者の子からわいろをもらってるからそんなことをいうんだろう、だれが なんといってもおれはなぐる、あいつは一体小利口で陰険《いんけん》だぞ」 「そうだそうだ」とみなが賛成した。 「いつか生蕃カンニング事件のときにも生蕃は手塚の犠牲にされたんだぞ」  こういうものもあった。 「待ってくれ」と光一はいった。二体手塚のなにが悪いんだ、問題の要点がぼくにわからな 徳川慶喜の恭順に不満な旧幕府軍有志が結成、江戸開城後も、上野寛永寺を根拠として気勢をあげたが、大村益次郎の 率いる政府軍によって壊滅させられた。 いから説明してくれたまえ」 「飲食店へ出入りするが悪いよ」と彰義隊がいった。 「それはね、学生としていいことではないが、ぼくらだってそばが食いたかったり、しるこ屋 へはいることもあるから手塚ばかり責められないよ」と光一はいった。 「活動を見にゆくのはけしからん」 「しかし、諸君の中に活動を見ない人があるかね、どうだ」  光一は四人を見まわした、一同はだまった。 「女と合奏したり、手紙をやりとりするのはどうだ」 「それはぼくもよくないと思う、しかしそんなことは忠告ですむことだ、一度忠告してきかな かったらそのときに第二の方法を考えようじゃないか、ぼくは生蕃のことでこりた、生蕃は決 して悪いやつじゃなかった、だがあのとき諸君がぼくに同情して生蕃を根底からにくんだ、そ のために彼はふたたび学校へくることができなくなった、ぼくはいつもそれを思うと、われわ れは感情に激したためにひとりの有為《ゆうい》の青年を社会から葬ることになったことが実に残念でた まらん、人を罰するには慎重に考えなけれぽならん、そうじゃないか」  光一の真剣な態度は一同の心を動かした。 「そういえぽそうだ」と彰義隊は快然といった。 「それじゃだれが手塚に忠告するか」 「ぼくでよけれぽぼくがいおう」と光→はいった。 「よし、それできまった、だがもしそれでも反省しなかったらそのときにはだれがなんといっ てもぼくはあいつをなぐり殺すそ」 「よしッ、ぼくはかならず反省さしてみせる」  会議はおわった、光一はみなとわかれてひとり町を歩いた。悲しい情緒が胸にあふれた。か れは他人の欠点をいうことはなにより嫌いであった、ましてその人に向かってその人を侮辱す るのは忍び得ざることである。  だがいわねばならぬ、いわねば手塚はなぐられる、なぐられるのはかまわないとしたところ で、手塚は自分の悪事を悪事と思わずにますます堕落するだろう、かれには美点がある、だが 欠点が多い、かれは美点を養わずに欠点のみを増長させている、かくてかれは終生救うぺから ざる淵にしずむだろう。  こうかれは決心した。かれはすぐ手塚の家をたずねた。ちょうど勝手口に手塚の母が立って いた、光一は手塚の母がおりおり三味線《しやみせん》を弾いているのを見たことがあるので、いつもなんと なく普通の人でないような気がするのであった。 「手塚君は?」 「まだ学校から帰りません」と母がいった。 「いいえお帰りになりました」と女中が横合いから声をだした。 「そうかえ」 「お着かえになってすぐおでましになりました」 「どこへいったんですか」と光一がきく。 「さあどこですか、なんだか大変にお急ぎでいらっしぬ、いました」 「活動じゃないかえ」と母がいった。 「そうかも知れません」 光一は一礼して外へ出た。 「活動だ、それにちがいない」  光一は手塚の母が平気で、「活動じゃないかえ」  といった言葉をおもいだした。  あの家では活動を見ることを公然ゆるしていると見える、お母さんが承知の上なのだ、それ に対して学校がいくら活動を禁じてもなんの役にもたたない話だ。  一体あの家では手塚が学校から帰ったかどうかもよく知らずにいる、それでは手塚が外でな にをしてるかを知らないのも無理がない。 「手塚は不幸な男だ」  光一はふとこう考えると目が熱くなった、家庭に楽しみがないから、外に楽しみを求めるの だ、活動、飲食店、不良少女、遊びの友だち! かくてかれはなぐられねばならなくなる。  いろいろな感慨が胸に盗《あふ》れた、かれはそのまま足を活動小屋に向けた。  光一とても絶対に活動写真を見ないではなかった、かれは新聞や雑誌や世間のうわさに高い ものを五つ六つは見にいった、だがかれはいつもたえきれないような醜悪を感じて帰るのであ った。  活動館の前に五色の旗が立って春風にふかれている、そこからいかにも無知な子守りや女工 などが喜びそうな楽隊の音がもれて聞こえる、小屋の前の軒の下に写真がいくつもいくつも掲 げられてその下に大勢の子供、米屋の小僧、小料理屋の出前持ち、子を背負うた女中などが群 れていた。光一が第一に不愉快なのは切符の売り場に大きなあぐらをかいてしりまであらわし ているほていのような男が横柄《おうへい》な顔をしてお客を下目に見おろしていることである、それと向 かいあって栄養不良のような小娘が浅黄《あさぎ》の事務服を着てきわめてひややかに切符を受けとる。 光一はそれをがまんしなければならなかった。  暗い幕をくぐって中にはいると正面のスクリーンに西洋人の女の顔が現われた、うす明かり に見物人の頭が見える、土曜日のこととてお客はいっぱいである。光一はようやく中ほどへ進 んでようやくこしかけの端に腰をおろした、手塚がきていやしまいかとあたりを見まわしたが 暗がりで見えない。  場内はたばこの煙がもうもうと立ちこもって不潔な悪臭が脳を甘くするほどに襲うてくる、 こしかけといってもそれはきわめて幅のせまい板を杭にうちつけたもので、どうかすると尻が はずれて地にすべりこみそうになる、それを支えているのはなかなか容易なことではない、な ぜこんな不親切な設備をするかというに、三等席を不自由にしておくとお客はすぐ疲れて二等 席に移るからである。お客を苦しめて金もうけをしようという與行師の策略だからたまらない。  実際與行師ばかりが悪いのでない、お客そのものも、そんなことは平気である、そのかわり にかれらはたぽこものめぽ、物も食う、みかん、塩せんべい、南京豆、キャラメル、かれらは 絶えず口を動かしている。みかんなどは音がせぬから無事だが、隣席の人が塩せんべいをボリ ボリ食うのでその音だけでも写真を見る興味を減ずることおびただしい、いろいろな食物から 発する臭気やたばこの煙や不潔な身体《からだ》から発する熱気が混合して一種のにごった空気となり、 人間の鼻穴《びけつ》や口腔《こうこう》から侵入するために、たいていの人はのどの渇《かわ》きを感ずる、ここにおいてラ ムネを飲んだりサイダーを飲んだりする。足元はどうかというとみかんの皮や南京豆のから、 あらゆる不潔物ではきだめのごとくみだれている。  かくのごとく無知で不行儀な客を相手にするのだから與行師もそれ相当に不親切をつくすご とになる。 「こんなぎたないはきだめによくがまんできるものだ」と光一は思った。  写真は西洋のもので、いやにきらきら針のような斑点が光って見えるおそろしく古いもので あった、光一はだまってそれを眺めた。ひとりの男とひとりの女が現われて肩に手をふれあっ た。見物人は声を挙げて喝采した。光一は思わず眼を閉じた。それはいやしくも潔白な人間が 目に見るべからざる不純な光景である。 「ばかやろう!」  見物人の拍手の音の中でわれがねのようにどなったものがある。 「毛唐のけだものめ、ひっこめ」  声は彰義隊であった、かれは光一のちょうど鼻先に陣取っていた。 「おい」と光一は肩をたたいた。 「おう」  彰義隊はふりかえった。 「きてるのか」 「うむ、きみが忠告するはずだったが、おれはどうしてもあいつをぶんなぐらなきゃ腹の虫が おさまらないからやってきた」 「待ってくれよ、ね、決議にそむいちゃいかんよ」 「いや、おれはなぐる、忠告なんて手ぬるいことではだめだ、あれを見い、毛唐人《けとうじん》は犬やねこ のようなまねをしてそれが愛だというんだ、おれはそれが気に食わねえ、日本の写真はそのま ねをしてるんだぜ、日本の役者……そうだおれはなにかの雑誌を読んだがね、米国では人間の うちで一番劣等なものは活動役者だって……そうだろう、劣等でなければ、あんな醜悪な動作 をしてはずかしいとも思わず平気でやっておられんからな、けだものめ」  あたりの人はみなわらいだした。 「なにをわらうかぼかやろう、おまえたちは趣味が劣等だから劣等なものを見て喜んでるんだ、 うじ虫がくそを臭いと思わないように、おまえたちは活動写真を劣等だと思わないんだ、気の 毒なやつだ、ぼかなやつだ、死んでしまう方が国家の経済だ、やいそこにいる会社員見たいな やつ、帽子をぬげよ、そんな安っぽい帽子をおれに見せようたっておれは見てやらないそ、イ ンバネスを着やがってするめじゃあるまいし、やい女、ぽりぽりせんべいを食うなよ」  彰義隊はすっかり昂奮してどなりつづけた。 「もういいよ、どなるのはよせよ」と光一はなだめた。 「おれだってどなりたくないさ、だが……ああ女がでた、あれはなんとかいう女なんだね、ど うだ、毛唐の面《つら》はみんなさるに似ているね」  写真はおわった、場内が明るくなった。彰義隊は立ちあがって前後左右を見まわした。光一 も同じく見まわした。かれは二階の欄干にひたと身体を添えて顔をかくしている手塚の姿を見 た、はっと思ったがすぐ思い返した、いまここで彰義隊に知らしたら大さわぎになる。 「いないね」と彰義隊がいった。 「いないよ」 「畜生《ちくしよう》め、どこかにかくれてるんだ」  こういったときふたたび電燈が消えた。 「この間に手塚が逃げてくれれぽいい」と光一は思った。とこのとき彰義隊は拍手喝采した。 「やあやあ、近藤勇だ、やあやあ」  かれは「幕末烈士《ばくまつれつし》近藤勇」という標題を見て拍手したのであった。とすぐちょんまげの顔が 現われた。 「あれは近藤勇か」と光一がきいた。 「ちがう、近藤勇はあんな懦弱《だじやく》な顔をしておらんぞ」 「きみは近藤勇を知ってるのか」 「知らんよ、だがあんな下等ないものような面《つら》じゃない」 「元来ちょんまげの頭は下等なものだよ、ぼくはあれを見るとたまらなくいやになる」 「それでも近藤勇ならいいよ、国定忠次だの鼠小僧だの、博徒やどうぽうなどを見て喜んでる やつはくそだめへほうりこむがいい、おれは近藤勇だ」  だが彰義隊君の期待するような近藤勇は現われなかった、のどに魚の骨を刺したような声で 弁士は説明した、それによるといものような面《つら》は近藤勇なのである。 「だめだだめだ」と彰義隊はまたもや憤慨した。 「そら敵がきた、足をくぼって、足、足! 足を……右足を軽くせんと横から斬りこまれたと きに体が固くなるぞ、ああああだめだ、あの役者はすきだらけだ、あんな近藤勇があるもんか、 ああぼかヅ、上段にふりかぶるやつがあるか、手元につけこんで胴を斬られるぞ、ぼかッ切っ 先がさがってる、切っ先が、そんな剣客が、ああああばかぽかぽか」  彰義隊があまりに憤慨するので周囲の人々はこそこそと逃げてしまった。実際彰義隊の目か ら見ると……光一の目から見てもこの役者の剣闘はめちゃめちゃなものであった、それでも見 物人は喝采していた。 「おれは帰る」と彰義隊は立ちあがった、「ぽかぽかしくて見ておられん」  彰義隊はかんかんにおこって帰った、光一はほっとため息をついた、そうしてしずかに二階 へあがった。暗がりの欄干のそばに手塚は頭から羽織をかぶって一生懸命にスクリーンを眺め ながら声をかけている。 「いよう、大統領!」  その隣にいた小さい女の子が皮もむかずにりんごをかじっている、その隣で手塚より首一つ だけ背の高いろぽとあだ名されてる青年が奇妙な声で叫んだ。 「いよう、清《せい》ちゃん!」 「清ちゃん、しっかり!」と手塚は叫んだ。近藤勇に扮《ふん》した役者は清ちゃんという名前なのだ。 手塚はこういう場所で、役者やなにかの事をくわしく知っているということを見物人にほこり たいのであった。 「手塚君」と光一は声をかけた。手塚はふりむいたがすぐ横を向いた。 「手塚君」と光一ぱそばへ歩みよったとぎろばのひざに足をあてた。 「痛えな、気をつけやがれ」とろぽはいった。 「失敬」  光一はあやまった、ろばは中学を二度ほど落第して退学してから、ぶらぶら家に遊んでは手 塚とともにどこへでもいく男である。 「手塚君、ぼくはちょっときみに話したいことがあるんだが外へでてくれんか」と光一はいっ た。 「いやだ」と手塚はいった。 「ちょっとでいいんだよ」 「いやだというものを無理にひっばりださなくたっていいだろう」とろばがいった。 「大事なことだからさ、でないときみの身体が危ないんだ」 「いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、おもしろいなぐって もらおう」  ろぽはほえた。 「おまえはだまってろ」と光一はきっといった「おまえに用があるんじゃない、手塚に用があ るんだ」 「なにを2」 「けんかか、けんかするなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て」  光一はこういってじっとろばの顔をのぞいた、ろばはだまった、そうして隣席の女の子がか じりかけたりんごを取ってがぶりとかじった。  手塚は光一の権幕《けんまく》におそれてしぶしぶ席を立った。ふたりは外へでた。と向こうのくだもの 屋の前で彰義隊がひとりの学生と話をしていた。光一はハッと思った。 「手塚隠れろ、荷車の横を歩いていこう」  ふたりは彰義隊に見つからぬように群衆にまぎれて材木屋の前へ出た。 「なんの用だ」と手塚は不平そうにいった。 「きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの 忠告をきいてくれたらぼくは生命《いのち》にかえてもきみを保護しようし、また学校でもきみをゆるす ことになっている」 「ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない」 「それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」 「ぼくに改めるべき点があるのか」 「あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、そ の候補者としてきみが数えられている」 「ぼくが不良?」 「きみはよく考えて見たまえ」 「ぼくは考える必要がない」 「じゃ君、活動へいくのは?」 「活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ」 「そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ」 「おもしろいからさ」 「おもしろいかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものはおもしろいかね」 「人はすきずきだよ、他人の趣味に干渉してもらいたくないね」 「いやそうじゃない、ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみ の堕落を見すごすごとはできない、ねえ手塚、きみは活動が好きだから見てもさしつかえない というが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動はもっとも低級で俗悪で下劣《げれつ》な趣 味だ、下劣な趣味にふけると人格が下劣になる、ぼくはそれをいうのだ」 「活動は決して下劣じゃない」と手塚はいった、かれは光一のいったことがじゅうぶんにわか らないのである。 「じゃきみは活動のどういう点が好きか」 「近藤勇は義侠の志士じゃないか」 「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたけれぽ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役 者が扮《ふん》した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考えるほうがどれだけ おもしろいか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を 呼吸するよりも山や野やただしは君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、 活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚で 健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれ を考えないのか」 「ぼくは劣等だとは思わない」と手塚はくりかえした、光一はどうしても高尚な意義を理解す ることができない手塚の低級にあきれてじっと顔を見つめた。歴史を読み聖賢や英雄の伝記を 読み、山に野に遊び、野球を練習する。それだけでも活動よりはるかにおもしろかるべきはず なのに、どうして見る見るはきだめの中におちていくんだろう。 「気の毒だ、かわいそうだ」  光一は胸いっぱいになった。 「じゃ活動のことはそれでよしにしよう、第二にきみは飲食店へ出入りするそうだね」 「ああ、それがいけないのか、だれだって飲んだり食ったりするだろう」 「手塚君、ぼくだって人が洋食を食えば食いたくなる、そば屋へはいることもある、だがね、 学生はどこまでも純潔でなければならないのだ、飲食店はたいてい大人《おとな》にけがされている、不 潔な女が出入りする、学生はそういう……少しでも不潔な場所へいってはいけないのだ、身体《からだ》 がけがれるからだ、いいか、りっぱな玉はきりの箱に入れてしまっておくだろう、学生はけが れのない玉だ、それをきみはどぶどうの中に飛びこんでるのだ、きみは家にいれぽ洋食でもな んでも食える身分じゃないか、なぜ食べたければ家で食べないのだ、学校でやかましくいうの も形式ではない、そんなくさった趣味を喜ぶようにならないようにするためだ、きみのことば かりをいうのじゃないよ、ぼくだっておりおり大人のまねをしたいと思うことがある、だがそ れはいやしいことだと思いかえすだけだ」 「いやだ、ぼくはぼくの銭でぼくの好きなところへゆくのに学校がなにも干渉するにはあたら ないじゃないか」 「手塚君、きみはどうしてもぼくの忠告をきいてくれないのか」 「いやだ、ぼくに悪いことがないんだ」 「それではきみ」と光一は憤然《ふんぜん》として目をみはった。「ぼくはきみを侮辱したくないからこれ だけいってあとはきみの反省にゆずるつもりでいたのだ。が、きみがあくまでもがんばるなら ぼくはいわなぎゃならん」 「なんでもいうがいい」 「きみの心は潔白か」 「むろんだ」 「良心に対してやましくないか」 「やましくない」 「きみは不良少女と遊んでるね、いまきみの隣にいてりんごをかじっていた女の子はなんだ」 「あれは……」と手塚はどもった。 「あれはどうぽうして二、三度警察へあげられた子じゃないか」 「あれは……ろぽの友だちだよ」 「ろぽはきみの親友だろう」  手塚はだまった。春の日は暮れかけて軒なみに灯がともりだした、積みあげた材木にかんな くずがつまだちをして風にふかれゆくとはるかに豆腐屋のらっばがあわれに聞こえる。光一は 手塚の肩に寄り添うてその手をしっかりとにぎった。 「手塚! いま聞こえるらっばはだれだか知ってるだろう、青木だ、青木は学校へ行きたくて も銭がない、小学校にいたときはかれはいつも一番か二番であった、きみやぼくよりも頭がい いのだ、学問をしたらぼくらよりはるかにりっぽになる人間だ、それでも家が貧乏で父親がな いために、毎日毎日らっばをふいて豆腐を売り歩いている、きみやぼくは両親のおかげで何不 自由なくぜいたくに学問しているが、青木は一銭二銭の銭をもうけるにもなかなか容易でない、 きみが活動を見にいく銭だけで青木は本を買ったり月謝を払ったり、着物を買うのだ、きみの 一日の小遣《こづか》いは青木の一ヵ月働いた分よりも多い、そんなにぜいたくしてもきみやぼくはあり がたいと思わない、あんなに貧乏しても青木はおじさんをありがたいと思っている、なあ手塚、 青木は活動も見ない、洋食も食べたことはない、バイオリンもひかない、女の子と遊びやしな い、かれはただ一高の寮歌をうたって楽しんでいる、不器用な調子はずれな声をだして、ああ はどうだ、活動、洋食、バイオリン、君の楽しみは金のかかる楽しみだ、青木は堤の草に寝こ ろんで玉杯をうたってるとき、きみはがま口から銀貨をつかみだして不良どもにふりまいてい る、どっちの楽しみが純潔だろう、ぼくはきみを攻撃する資格がない、ぼくだって青木に比べ るとはるかに劣等だ、劣等なぼくらが不白由なく学問しているのに、優秀な青木は豆腐を売っ ている、もったいないことだ、もしぼくらが親を失い貧乏になったら青木のごとく苦学するだ ろうか、きみはいつも青木を軽蔑するが、それがきみの劣等の証拠だ、活動に趣味を有するも のは高尚な精神的なものがわからない、なあ手塚、腹が立つなら奮発してくれ、ぼくのお願い だ、ぼくは一生きみと親友でありたいのだ」  光一の言葉は一語ごとに熱気をおびてきた、かれは手塚の自尊心を傷つけまい傷つけまいと つとめながらも、しだいにこみあげてくる感情にから2兜て果ては涙をはらはらと流した。 「柳!」  手塚はぐったりと首をたれていった。 「堪忍《かんにん》してくれ、ぼくは改心する」 「そうか」  光一は嬉しさのあまり手塚をだきしめたが急に声をだしてないた。手塚もないた。日は暮れ てなにも見えなくなった。横合いの小路をらっばをふきふきチビ公が荷をゆすってうたいゆく。 「……清き心のますらおが、剣と筆とをとり持ちて、一たびたたぽ何事か、人生の偉業成らざ らん、ぷうぶう、豆腐イ、ぷうぶう」 十一  柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、かれの一番好きな のは朝である。かれは朝に目をさますと寝床の中で校歌を一つうたう、それから床《とこ》をでて手水《ちようず》 をつかい茶の間へゆくと父と母と妹が待っている。 「お兄さんは寝坊ね」  妹の文子はいつもこうわらう、兄妹の規約としておそく起きたものがおじぎをすることにな っている、光一は毎日妹におじぎをせねばならなかった。しゃくにさわるがしかたがない。  茶の間にはさわやかな朝日がいっぱいに射《さ》しこむ。飯びつやなべからあがる湯気はむつまじ げに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、母は三人のお給仕にいそ がしく自分で食べるひまもなかった。彼女は光一と文子の食力を計算する事を決してわすれ なかった、今日はいつもより多く食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではない かと心配する。たいてい光一は五杯の飯を食べるが文子は三杯であった、5対3ではあるが、 光一の方はスピードが速いのでほとんど同時におしまいになる、それからいっしょに家をで る。 「おまえあとからおいで」 「兄さんは男だからあとになさいよ」  この争いは絶ゆることがない、二、三年前まではいっしょに肩を並べていったものだが、こ のごろではふたりそろうてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては迷惑至極であった。 「きみの妹はきれいだね」  こう友だちにいわれてからかれはたとえ親父《おやじ》の葬式の日でも妹といっしょには歩かないと覚 悟を決めた。  だがかれは妹が好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの脳天に水色のちょうちょ うのリボンをつけているが、それが朝日に輝いていかにもかわいらしい、かれはまた文子の長 いえび茶のはかまやその下から見えるまっすぐな脚《あし》と靴のかっこうが好きであった。文子は洋 服よりも和服が似合う。文子はまただれよりも兄さんが好きであった、野球試合のあるときに は彼女はいつも応援旗を持ってでかけた、兄さんが負けたときには家へ帰って夕飯も食べずに 寝てしまうのでいつも母にわらわれた。  そのくせふたりはおりおりけんかをした、文子の一番嫌いなことは顔がふくれたといわれる ことである。 「おい、おまえの頬《ほ》っぺたがだんだんふくれてきたね」 「いいわ」 「うしろから見るとほっぺたが耳のわぎにつきでてるぞ」 「いいわ」 「ぼくは八百屋の前を通ったらおまえの頬っぺたを売ってたよ、買ってこようと思ったら丸い なすだった」 「いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの2」 「これはじきなおるよ」 「口のはたに黒子《ほくろ》があるから大食いだわ」 「食うに困らない黒子なんだ」  けんかのおわりはいつも光一が母に叱られることになっている。だがふたりのむつまじさは よその見る目もうらやましいほどであった。文子は心の底から兄を尊敬していた、というのは 彼女は学校から帰って兄に英語や漢文の下読みをしてもらう、それには一つもあやまりがない からである。彼女の友だちもことごとく光一を好きであった、彼女らが文子のもとへ遊びにく ると、文子は兄の書斎を一覧させる、大きな書棚に並べられた和洋の書籍を見て彼女らはいず れも驚歎《きようたん》の声をあげる。兄がほめられるのは文子にとって無上の喜びであった。  ある日文子は雑誌を買おうと思ってがま口を懐《ふところ》にして外へでた、雑誌屋の店頭に男女の学 生が群れていた。この店は二年前までは至極小さな店で文房具少しぽかりと絵本少しを並べて いたのだが、見る見る繁昌《はんじよう》しだして書籍や雑誌がくずれるまでに積まれてある。やせた神経質 らしいおかみさんはひとりのいつも眠そうにしている小僧をひどくどなりつけてお客の手先と 商品とを監視させているが、それでも毎日一冊ぐらいは盗まれるのである。  学生のうちには毎日決まって雑誌を読みにくるのがある、それが一冊でも買うのかと思うと 一冊も買わない、二時間も立って一とおり読みおわると翌日また別なのを読みにくる、こうい うのはただ読んでゆくだけだから罪が軽いが、ひどいのになると五、六人団結してあれやこれ やとひっくりかえしてその混雑にまぎれてふところへかきこむ。たいていはその顔を知ってい るものの、ことをあらだてるとかえって店の人気がなくなる。そこでおかみさんの癇癪《かんしやく》が小僧 の頭に破裂する。 「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしやりヅ。  小僧だって朝から晩までどうぽうのはり番をするということはなかなかつらい、かれは十七 になるが、十三か十四ぐらいにしきゃ見えない、毎日毎日頭をなぐられるから上の方へ仲びな いのだとかれ自ら信じている。  文子は新刊の少女雑誌と英語の雑誌を買った、それから書棚を見ると漢文の字典があったの でそれを引きぬいた、それでやめにしようと思ったがこのとき彼女は現代名画集というのを見 た、それは叢書《そうしよ》の第一巻で彼女がつねにほしいほしいと思っていたのであった。彼女はそれも ひきぬいておかみさんにいった。 「これだけでいくらですか」  おかみさんはこれが柳家の令嬢だとは気づかなかった。 「五円六十銭です」と彼女はいった。 「そう2」  文子はがま口をあけて銀貨を掌《てのひら》に数えた、一枚二枚三枚……。五円二十銭しきゃない。 「あら、たりないわ」  文子は顔をまっかにしていった、彼女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を見てる ような気がした。おかみさんは冷ややかに文子を見やった。  家へ帰ってお母さんにお銭《あし》をいただいてこようかしら、と文子は考えた、だがそのあいだに この本が他人に買われると困る、彼女はまったく途方にくれた。もし彼女が私は柳の娘ですか ら宅へ届けてくださいといったなら、おかみさんは二つ返事で応ずるのであった、ところが文 子にはそれができなかった。 「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。 「四十銭たりないのよ」 「へえ」  おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が文子に声をかけた。 「文子さん、私だしてあげますわ」  文子はその人を見た、そ2/は彼女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、 新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした手提《てさ》げ袋から銀貨を取りだ した。 「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。 「いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ」 「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」 「あらいいわ」  文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んでもらった。 「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない? お金をお返しするから」と文 子はもう一度いった。 「いやねえ、あなたは水臭《みずくさ》いわ」  文子は水臭いという意味がわからなかった。 「でもお借りしたんだから」 「いっしょに散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは大通りから斜《はす》の横町に出た、そ この材木屋の材木の上に大勢の子供が戦争ごっこをしていた。それから少しはなれて生《い》け垣《カき》の 下で三人の学生がなにやらこそこそ相談をしていた。 「いやだ」とひとりがいう。 「おれもいやだ」と他のひとりがいう。 「おれにまかせろ」と背の高いひとりがいう、それはろばというあだ名のある青年であった。 かれらは新ちゃんと文子を見るやいなやだまった。 「なにしてるの冫・」と新ちゃんがいった。 「ちょっとおいで」とひとりがいった。新ちゃんは三人のまどいにはいった。四人を顔をつき あわしてなにか語った。文子はろばをはじめとして他のふたりの少年とはあまり親しくなかっ たのでなんとなき不安を感じながら立っていた。 「いきましょう」と新ちゃんは文子に近づいていった。 「私の家へいってくださる?」 「ああお寄りするわ、でもなにか食べてからにしましょうよ」 「なにを食べるの?」 「私ね、おしるこを食べたいわ、それともチャンにしましょうか」 「チャンてなあに」 「支那料理よ」 「私食べたことはないわ」 「おいしいわ」  文子は学校で友だちから支那料理のおいしいことを聞いていた。どんなものか食べてみたい と母にいったとき、母はそんなものはいけませんと拒絶した。 「だが食べてみたい」  好奇心が動いた。 「でも私お金が……」 「私持ってるからいいわ」 「いけない」と文子は猛然と思い返した、母に禁ぜられたものを食べること、他人のご馳走《ちそう》に なること、これはつつしまねばならぬ。 「私|叱《しか》られるから」 「叱られる7・」  新ちゃんはにやにやとわらったがやがてまたいった。 「じゃよしましょうね」  ふたりは活動写真館の前へ出た、日曜のこととて館前は楽隊の音にぎやかに五色の旗がひる がえっている。新ちゃんは立ちどまった。 「はいってみましょうか、私切符があるわ」 「ああちょっとだけね」  文子はこのうえ反対ができなかった、彼女は五、六度女中や店の者とともにここへきたこと があるのだ。写真を見たとて母に叱られはしまい。こう思った。  新ちゃんと文子は暗がりを探って二階の正面に陣取《じんど》った、写真は一向おもしろくなかった、 がだんだん画面が進行するにつれて最初に醜悪と感じた部分も、弁士の黄色な声もにごった空 気もさまでいやでなくなった、そうして家庭や学校では聞かれない野卑な言葉や、放縦な画面 にしだいしだいに興味をもつようになり、おわりには筋書きの進行につれてないたりわらった りするようになった。 「おもしろい?」と新ちゃんはいくどもきいた。 「おもしろいわ」  ばっと場内が明るくなるといつのまにかさっきの三人がうしろにきていた。 「出ようよ」とひとりがいう。 「うむ」  新ちゃんと文子も二階を降りた。 「こっちが近い」  ひとりがいった、一同は路地口からどぶいたをわたった、そうして、とある扉《ドア》を押してそこ から階段を昇った、昇りつめるとそれは明るいガラス戸のついた支那料理屋の二階であった、 向こう側の呉服屋その隣りの時計屋なども見える。 「私帰るわ」と文子はおどろいていった。 「いいじゃないの? ワンタンを一っ食べていきましょう」と新ちゃんがいった。 「でも……私」 「お金のことを気にしてるんでしょう、かまわないわ、この人たちはね、いま材木屋の前でお 金を拾ったんですとさ、いくらおごらしてもかまやしない、ねえろぽ」 「ろばろばというなよ」とろばがいった。  新ちゃんはだまってがま口をろぽになげつけた。銀貨がざらざらとこぼれた。 「いくら使ったえ」と他のひとりがいった。 「二人前の切符代だけもらったよ」と新ちゃんがいった。 「拾ったお金で活動を見たの?」と文子は仰天《ぎようてん》していった。だれもそれには答えなかった。 「帰らしてちょうだい」と文子はなき声になった。 「帰ってもいいよ、どうせおれたちの仲間になったんだから、帰りたけれぽ帰ってもいい」 「私が仲間?」 「おまえたちはだまっておいで」と新ちゃんは男どもを制した、そうして文子にこうささやい た。 「こわいことはないのよ、あの人らはぽかなんだから……でも文子さん、あなたも同じがま口 の金を使ったんだからお友だちにおなりさいね、そうしないとあの人らはお宅へいってお母さ んになにをいうか知れませんよ、ねえ、毎日でなくても、たまにちょいちょい私たちと遊びま しょう、ね、お母さんに知れたら困るでしょう」  文子は呼吸もできなかった、実際すでに不正な銭のご馳走になったのである、こんなことが 母に知れたら母はどんなに怒るだろう、怒られてもしかたがないが、母が歎《なげ》きのあまり病気に なりはしないか、それからまた兄さんは……兄さんの名誉にかかわることがあると……。  哀《あわ》れ文子は四苦八苦の死地に陥った、彼女は去るにも去られなくなった。と階段の音が聞こ えてひとりの学生が現われた。 「やあ」  文子は顔をあげた、それは兄の友の手塚であった。かれはロシアの百姓が着るというルパシ カに大きな縁のあるビロードの帽子をかぶっていた。 「どうしたの2 文子さん」とかれはいった。文子は手塚の胸にすがりついてなきだした。 「おまえたちはどうかしたんじゃないか」と手塚はなじるように一同に向かっていった。 「なにもしないよ」とろばがいった。 「悪いことを教えると承知せんぞ」  手塚の語気はますます鋭い。 「いやにいぽるのね」と新ちゃんがいった。 「だまってろ」と手塚はどなりつけて文子の涙をハンケチでふいてやり、 「心配しなくてもいいよ、さあ僕といっしょに行きましょう」  手塚につれられて文子は外へ出た、文子は歩きながら一伍一什《いちぶしじゆう》を手塚に語った。 「わかってるよ」と手塚はいかにも侠客のような顔をしていった。 「あいつらはね、あなたをわなにかけて銭をゆすろうて計略なんだ、ぼくが引きうけていいよ うにするから安心していらっしゃい」 「でも私新ちゃんに四十銭と活動のお銭《あし》を返さなきゃならないわ」 「いいよ、それも僕が引きうけたから」  手塚は文子の家近くまで送ってきた。かれはわかれぎわにこういった。 「兄さんに秘密だよ」 「ええ」  読者諸君! 世に不良少年少女というものがある、かれらとても決して生来の悪人ではない のだ、だがそれらの多くは意志が薄弱で忍耐力がなく、健全な道徳観念がないところからわが ままになり野卑《やひ》になり学校が嫌いになり、そのかわりに娯楽を求める念が盛んになる、上品な 娯楽は人間の霊の慰安になるが、下等な娯楽は霊を腐蝕《ふしよく》する黴菌《ばいきん》である。  読者諸君! 諸君は決してゆだんをしてはならぬ、諸君の前にいろいろな陥《おと》しあなが口をあ いて待っているのだ、諸君は右を見ても左を見ても諸君を誘惑するものが並び立っているとき、 白らの理性に訴えて悪をしりぞけ善を採用せねばならぬ、諸君の思慮にあまる場合にはそれを 隠さずに父母や兄や姉や学校の先生に相談せねばならぬ。  災難や過失は何人《なにびと》もまぬかれることはできない、が、その場合に父母に叱られることをおそ れたり、先生にわらわれることをおそれたりして、あさはかな白分の知恵で秘密にことを運ぽ うとするとその結果たるやますます悪くなるぽかりである。もし文子が早くも父母もしくは兄 の光一にすべてを打ちあけたなら、災難はその日かぎりで無事にすんだのである。人の子たる ものは父母に対して秘密を作ってはならぬ、人の弟や妹たるものは兄や姉に対して、そうして 人の弟子たるものは師に対して秘密を作ってはならぬ、秘密を打ちあけることははずかしいが、 打ちあけなけれぽ罪がしだいに深くなるのだ。秘密を打ちあけたとて決してそれを叱ったりわ らったりするような父母兄弟や先生はこの世にない。  読者諸君! 少年時代に一番つつしまねばならぬのは娯楽である。娯楽にはいろいろある、 目の娯楽、耳の娯楽、口の娯楽、それらよりももっとも有益なのは心の娯楽である。  活動写真、飲食店、諸君がいつも誘惑を受けるのはこれである。娯楽には友だちが必要であ る、諸君はこのために活動の友だちや飲食の友だちができる。不良気分がここから胚胎《ゆはいたい》する。 そのうちに奸智《かんち》あるもの、良心にとぼしきものはこの娯楽を得るために盗賊を働く、ひとりで は心細いから相棒《あいぼう》を作る、弱いものを脅迫して金品をまきあげる、他の子女を誘惑して同類に ひっこむ、一度《ひとたび》この泥田《どうた》に足をつっこむともう身動きができなくなる。  読者諸君! 孝子は巌牆《がんしよう》の下《もと》に立たずといにしえの聖人がいった、親のあるものは自重せね ぽならぬ、兄弟姉妹のあるもの、先輩のあるものは自重せねばならぬ、いやしい娯楽場へ足を ふみ入れて生涯をあやまることは愚の極《きわ》みである。  さて文子はどうなったか、文子の兄光一はそのころ野球にいそがしかった、かれの学業はま すます進み同時に野球の技術がすぼらしいものになった。かれの身の丈《たけ》は五尺四寸、腕は鉄の ごとく黒く、隆々とした肉が肩に隆起し、胸は春の野のごとく広く伸びやかである。かれの母 はいつもかれを見やって微笑した。 「私より首一つだけ大きくなった、この子はしようがないね、去年の着物がみんな間にあわな くなった」  こうこぼしながらも心中の喜びは抑えきれない。それと同時に文子もしだいに美しくなった、 が文子の顔になにやら一点の曇りがたなびきはじめた。 「おまえどうかしたのかえ」と母がきく。 「なんでもないわ」と文子はわらった。だが文子は決してなんでもなくはなかったのである。 彼女は例の一件があってからその秘密を手塚ににぎられてしまった。もし彼女が家へ帰って母 に打ちあけたなら、こんな苦しみはせずにすんだのである。  手塚はいったん光一に忠告されて改心したもののそれはほんのつかの間であった、かれはど うしても娯楽なしには生きていられなかった、活動写真で低級な演劇趣味をふきこまれたかれ は自分で芝居をしてみたくなった。かれは活動を見ては家へ帰ってそのまねをした、もしかれ が恥を知る学生であったなら、本当の正しき魂がある少年であるなら、国定忠次だの鼠小僧だ の、ぼくち打ちやどうぽうのまねを恥ずべきはずだが、かれにはそんな良心はなかった、かれ はただ人まねがしたいのである、実際かれはそれがじょうずであった、かれはしゃものような 声で弁士の似声《こわいろ》を使ったり、また箒《ほうき》を提《さ》げて剣劇のまねをするので女中たちは喜んで喝采した。 「坊っちゃまはお上手《じようず》でいらっしゃること」 「男ぶりがいいから役者におなんなさるといい」  この声々を聞くと手塚はすこぶる得意であった、それと同時に母は鼻の下を長くして喜んだ、 かれの母はすべて芸事が好きで一月《ひとつさ》に三度は東京へ芝居見物にゆくのである。  父は患者をことわっておおかみのような声で謡《うたい》をうたう、母は三味線を弾いてチントンシャ ンとおどる、そうして手塚は箒をふるって、やあやあ者どもと目玉をむき出す。たいていこの 場合に箒で斬られる役になるのは、代診の森君や車夫の幸吉である。だが森君も幸吉もそうそ うはいつも斬られてばかりいられぬ、たまに癇癪《かんしやく》を起こして国定忠次を縁側からほうりだす ことがある。そこで手塚の…機嫌が悪くなる、したがって奥様も、だんな様も、一家が不機嫌に なる。  それやこれやで家の中ぼかりの芝居はおもしろくなくなった、そこで手塚は同志を糾合《ゆきゆうこう》して 少年劇をやろうと考えた。幸いなことにろばの父は製粉工場の番人である、この工場は二年前 に破産していまではなかば貸し倉庫のようになっている、その一部分だけでも優に芝居に使用 することができる。  手塚は毎日そこへ出張して芝居の襟青をした、かれは監督であり座長であった、ろば臨離徴 や老役《ふけやく》を引きうけた、新ちゃんは母親やお婆さんになった、若くてきれいで人気のある役は手 塚が取ったが、ここに一番困ったのは若い娘に扮《ふん》する女の子がないことである、手塚はそれを 文子にあてた。 「いやよ、私いやよ」と文子は顔をまっかにして拒絶した。 「いやならいいよ、ぼくはあなたのお母さんにたのんでくる、これこれのわけで文子さんはぼ くらの仲間になったのだからってね」  文子は当惑した、母に秘密をあぼかれては大変である。 「じゃ私やるわ」  毎日集まるたびに一同は何か食べることにぎまっていた、うなぎやてんぷら、支那料理、文 子はいろいろなものをご馳走になった、それらの費用はたいてい手塚から出た。だが手塚とて も無尽蔵ではない、かれもしだいに小遣《こづか》い銭《せん》に困りだした。 「文子さん、どうにかならないか」  毎日人のご馳走になってすましているわけにゆかない、文子は母にもらった小遣い銭を残ら ずだした、二、三日すぎて彼女は貯金箱に手をつけた、それからつぎに本を買うつもりで母を だました。そうしなけれぽ秘密をあぼかれるからである。こういう状態をつづけてるうちに彼 女はだんだんこの団体の不規則で野卑な生活が好きになった、母の前で行儀をよくしたり、学 校の本を復習したりするよりも、男の子と遊んで食べたいものを食べているほうがいい。  文子の母はいままでとうってかわった文子の態度に気がついた。彼女は文子をぎびしくいま しめようと思った、だがその原因をきわめずにいたずらにさわぎを大きくしてはなんの役にも 立たぬ、これにはなにか力強い誘惑があるにちがいない。  こう思うものの悲しいかな彼女はそれを探偵すべき手がかりがないのであった、父にいえぽ どんなに叱られるかしれない、十六にもなれぽ人の目につく年ごろだからめったなことをして 奉公人どもにうしろ指をさされることになると、あの子の名誉にもかかわる、さりとてうちす ておくこともできない。  わが子を叱りたくはないが、叱らねば救うことはでぎない、母は思案に暮れた。彼女はとう とう光一の部屋へいった。 「光一、おまえに相談があるんだが……」 「なんですか、なにかうまいものでもぼくにくれるの2」と光一は微笑していった。 「それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?」 「変ですな」 「そうだろう」 「ほっぺたがますますふくれる」 「そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい」 「居残りの稽古があるんです」 「でもね、お金使いがあらいのよ」 「本を買うんです、いまが一番本を買いたい歳《とし》なんです、ぼくにも少しください」 「おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろう か」 「そうです」 「でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ」 「作文の稽古ですよ、あいつなかなか文章がうまいんです」 「このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ」 「男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道つれになることがある、隣の珠子《たまご》さんが犬に 追われたとき、ぼくはおんぶして帰ってきた」 「おまえはなんとも思わないかね」 「だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あな たの娘です」 「そうかね、それならいいが」  母は安心して部屋を出た、あとでひとり光一はテーブルにほおづえをついて考えこんだ、文 子が毎日おそく帰る、たまに早く帰っても道具をほうりだしたままどこかへでてゆく、それに ついては光一もおもしろからず思っている、のみならず、このごろはしみじみと話をしたこと もない、母の言葉によってさてはなにかよからぬことがあるかもしらぬ、と思ったものの、母 に心配をかけるのはなによりつらい、できることなら白分ひとりで事の実否《しつひ》をきわめてみたい、 そうして不幸にも妹に危険なことがあるなら母にも父にも知らさずに、白分ひとりで万事を解 決してやろう、こう思ってわざと平気を装うて母に安心さした。  だが文子ははたして悪魔の手に落ちたであろうか。  光一は、じっとそれを考えつづけるうちに階下《した》の方で文子の声がした。 「ただいま!」  光一は立ちあがった、二階を降りると文子は靴をはくところであった。 「文さん」と光一は呼びとめた。 「なあにp」 「どこへいくの?」 「お友だちが待ってるのよ、テニスよ、今日は復讐戦よ、大変よ」 「ちょっと待ってくれ」 「だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ」  彼女は風呂敷包みをほうりだしてさっさとでていった。光一は風呂敷包みを持ったまましば らく妹のうしろ姿を見送ったが、急に二階の書斎へかけあがった。かれは風呂敷包みを解いた、 中から歴史や地理や図画や筆箱などがでた、かれはそれらを一つ一つしらべると雑記帳の間か ら一封の手紙が落ちた。封筒にはただ「文子様」と書いてある、かれは中をひらいた。 「一昨日《おととい》逢って昨日《きのう》逢わなかった、いつものところへ来てください、今日は大事な相談があり ます。文子さん……千三より」 「あっ」とばかりに光一は思わず声をあげた。 「千三! 千三! 青木か、ああ青木が……あのチビ公が、畜生《ちくしよう》!」  茫然《ほうぜん》としりもちをついた光一の顔は見る見る火のごとく赤くなった。畜生! 恩知らず! あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつがおれもおれの 父もあれだけにつくしてやったにかかわらず妹を誘惑して妹から銭を取りやがった、ああチビ 公! そんなやつだとは思わなかった、おれは売られた、おれは……おれは……。  光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐ に千三の家へ走った。 「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は留守ですよ」と千三の母がいった。 「商売から帰らないのですか」 「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」 「さようなら」  光一はすぐ引きかえして黙々塾へでかけた。塾にはだれもいなかった。光一はひっかえそう とすると窓から瘠《や》せたひげ面《づら》がぬっと現われた。 「やあ柳君、ちょっとはいれ」 「ぼくは急ぎますから失礼します」 「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の 大事な場合にのみ用《もち》うべしだ」 「ですが先生、ぼくは……」 「敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者は浦中にあるかもしらんが、黙々塾にはひ とりもないそ」 「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は中腹《ちゆうばら》になっていった。 「よしッ、じゃぎみにきくがきみは水を飲むか」 「飲みます」 「一日何升の水を飲むか」 「そんなに飲みません」 「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回《がんかい》は一|瓢《びよう》の飲《いん》といったが、あれは三升入りの ふくべだ、聖人は」 「さようなら」  光一はたまらなくなって逃げだした。 「ばかにしてやがる、塾長があんな風だから弟子どもまでろくなものがない、あん畜生《ちくしよう》! チ ビのやつ、どこへいったろう」  光一は赫々《かっかく》と燃え立つ怒りにかられながら血眼《ちまなご》になって千三を探しまわった、かれはたいて い千三が散歩する道を知っていたので調神社《つきのみやじんじや》の方へ走った。かれは夢中に並み木と並み木の 間をのぞいたりお宮をぐるぐるまわったりした。と、かれはふと大きな松の下で人影を見た。 十二  わが妹を誘惑して堕落の境にひきこもうとしつつあるチビ公をさがしまわった光一がいま松 の下蔭で見たのはたしかに妹文子の片袖とえび茶のはかまである。 「ひとりだろうか、ふたりだろうか」  かれにはそれがわからなかった。十幾本となく並んだ松と松との間はせまい。 「どうしてこんなところへ来てるんだろう、多分チビ公といっしょだろう」  光一はこう考えた、だが急にふたりの前へ出たらふたりはおどろいて逃げるかもしれない。 かれはこう思ってしずかに足をのばした。と突然横合いの松かげから口笛が起こった。と思う 間もなく石のつぶてが四方から飛んできた。 「だれだ」と光一は背後《うしろ》を向いていった。が人の姿は見えない。菜の花畑の間や肥料小屋の間 からさかんにつぶてが飛んでくる。 「卑劣なやつだ、でてこい」  かれはこういいながら八方をにらんだ。そうしてふたたび文子の方を見やると文子の姿はも う見えない。 「しまった、どこへ逃げたろう」  かれは血眼になってさがした。もうつぶては飛んでこないが、お宮の境内はしんとして人の 音もない。風が出て松のこずえをさらさらと鳴らした。こまかい葉の影のところどころに春の 日がこぼれたように大地に光っている。光一はお堂の前にでた。そこの桜の下に千三が立って いる。光一は赫《かつ》とした。かれは野猪《のじし》のごとく突進した。 「おい、チビ!」とかれは叫んだ。千三はおどろいて顔をあげた。かれはいま石獅子《いししし》の写生を していたのであった。 「やい、きさまはおれをだましたな、きさまはおれの妹をきさまは……きさまは……」  あまりにせきこんだので光一の声がのどにつまった。千三はあきれて目をきょろきょろさせ た。かれは光一がいたずらにこんなことをいってるのだと思った。 「やい、きさまはここでなにをしてるんだ」 「ぼくは高麗《こま》犬の写生をしてるんだよ、どうもね、一つの方が口をあいて一つの方が口をしめ てるのがふしぎでならねえ」と千三はいった。 「なにがふしぎだ、きさまがここにいる方がよっぽどふしぎだ、ばかやろう!」 「きみは本当にそんなことをいってるのか」と千三は改まった。 「あたりまえだ、きさまはおれの妹を誘惑したろう」 「ぼくが!」 「あそこの松のところで妹と話をしていたのだ、それをおれが見た、きさまから妹にやった手 紙も見た、知らないとはいわせないよ、ばかッ」 「おい柳! どうしたというんだ、ぼくがきみの妹を? きみ! きみ! それはうそだ、と んでもないことだ、きみ、誤解しちゐ、いけないよ」 「白ばっくれるなよ、おれには証拠がある」 「じゃ証拠を見せたまえ」 「証拠はこれだ」  光一はげんこつを固めて千三の横面《よこづら》をなぐった。あっと千三は頬に手をあてた。かれは火の ごとく顔を赤くしたがやがて目にいっぱいの涙をためた。 「きみはぼくをなぐったね」 「むろんだ、文句があるならかかってこい」 「柳君!」と千三は光一の腕をとった。「きみは後悔するぞ、きみはぼくをそんな人間だと思 っていたのか、きみは……」 「なにを? 生意気な」  光一は千三を横に払った。千三は松の根につまずいて倒れた。筒袖《つつそで》の袷《あわせ》にしめた三尺帯がほ どけて懐《ふところ》の写生帳が鉛筆とともに大地に落ちた。このときお宮の背後《うしろ》から手塚が現われた。 「やあ柳! どうしたのだ」と手塚がいった。 「こいつはね、不都合なことをするからこらしてやったんだ」 「チビじゃないか、おいチビ、おまえ一体生意気だよ、おまえはなんだろう、いま、ここで文 子さんと話していたんだろう」と手塚はいった。 「ぼくはひとりだよ」と千三は起《た》とうともせず大地に坐りながらいった。 「隠すなよ、おれがちゃんと見ていたんだ、なあ柳、こいつはゆだんがならないよ、気をつけ たまえね、しかしこのくらいやっつけたら二度と悪いことはしまいから堪忍《かんにん》してやれ、かわい そうに、おいチビ、改心しろよ」  手塚は光一をなだめなだめして手を曳《ひ》いて去った。境内はふたたびもとの静寂にかえった。 さらさらさらと動く松の梢《こずえ》の上に名も知らぬ小鳥が一つどこからともなく飛んできてさえずり だした。その間から遠くの空の白い雲が見える。千三は坐ったまま動かなかった。かれはなに がなにやらわからなかった。かれの第一に感じたのは光一の乱暴! そのつぎに起こったのは 金の力と腕の力の相異によってだまって侮辱に甘んじなければならぬ悲しさであった。柳は財 産家の子だ、それに腕力が強い、貧乏で身体が小さいおれはかれに対して抵抗することがな い。  いやいやとかれは思い返した。これにはなにか事情がある。おれが第一になすべきことはお れの潔白を明らかにすることだ。もし文子さんを誘惑したという疑いがおれにかかってるもの とすればおれはその事実をきわめて柳に謝罪させなけれぽならぬ。そのときこそはおれは決し て一歩もゆずらない。かれがいま、おれをなぐったほどおれもかれをなぐってやる。  このことがあってから光一と千三は仇敵のごとくになった。ふたりは道で逢っても顔をそむ けた。 「いまに復讐してやるぞ」  千三はこう肚《はら》の中でいった。文子は光一にきびしく説諭《せっゆ》されてふたたび手塚のもとへゆかな くなった。月日はすぎて、暑中休暇が近づいた。するとここにめずらしい事件が起こった。  浦和学生弁論会!  野球の試合ばかりが学生の興味でない。体力を養成するとともに知識を求めなけれぽならぬ。 浦和各中等学校の学生が一堂に会して弁論を研究しよう、これが目的で学生弁論会なるものが 組織された。元来浦和に他出会《たざんかい》なるものがあって、師範学校と中学校の学生有志が一つの問題 を提供して両方にわかれて闘論《とうろん》したのであった。だがこの会には弊害《へいがい》があった。師範学校と中 学校と、学校によって議論をわけたので、つまり対校試合と同じものになった。それがために 中学生が師範生の説に賛成することができなかったり、師範生が自分の校友の説に反対するこ とができなかったりそのために個人個人の自由意志が束縛されて弁論の主義が立たなくなった。 そこで浦和弁論会はいずれの学校に属する学生でも自由に所懐《しよかい》を述べてさしつかえないことに した。そうして黙々塾をも勧誘した。いよいよ当日となった。場所は師範学校の大講堂である。 時は夕方から。  この催《もよお》しを聞いて浦和の町の父兄たちも定刻前に会場へつめかけた。各学校の先生たちはわ が生徒に勝たせようとしのびしのびに群集の中にまぎれこんでいった。時刻になると師範生の おそろしく丈《せ》の高い男が演壇に現われた。かれはすこぶる愛嬌者《あいきようもの》で頭の横に二銭銅貨ぐらいの はげがあるので銅貨のあだ名があった。かれは妙にきどって両手を腰の左右にくの字につっば った。 「玩具《おもちや》の兵隊!」とだれかが声をかけた。かれはそれを聞いて脚《あし》を固くつっばって歩くまねを したので群集はどっとわらった。こういう滑稽な男が司会をしたということは会の威厳を損じ たにちがいないが、しかし二つの学校の生徒がしのぎをけずって戦おうという殺気立った会場 を春のごとく平和にしたのはこの男のおかげである。  弁論の題はこの席上で多数決で決めることになっている。  各自の抱負をのべること、  科学について、  英雄論、  この三つが提出された。英雄論を提出したのは手塚であった。司会者は採決した。英雄論が 大多数をもって通過した。それはいかにも青年にふさわしき題であった。学生の眼はことごと く異様に輝き、その呼吸がしだいにせまってきた。しかしだれあってまっさきに立つ者がなか った。すべてこういう場合に先登をする者はきわめて損である。いかんとなればあとの弁士に 攻撃されるからである。中学生はことごとく手塚と柳の方を見やった。手塚はしきりにノート をくっている。光一は微笑している、師範学校側では野淵《のぶち》という上級生と矢島というのが人々 に肩をつかれていた。黙々塾ではみながチビ公をめざした。チビ公は頭を縮めてひっこんだ。 と、突然演壇に立った青年がある。それは例の浜本彰義隊であった。かれは剣道の稽古着に白 いはかまをはき、紐《ひも》の横にきたない手ぬぐいをぶらさげたまま、のそのそとテーブルの上の水 さしからコヅプで水を飲んだ。 「水を飲みにあがっちゃいかん」とだれかがいった。実際彰義隊は弁舌《ぺんぜつ》がへたなので何人《なんびと》もか れが演説するとは思わなかったのである。 「満場の諸君!」  彰義隊はきっと直立して両手をはかまの紐《ひも》の間にはさみ、おそろしく大きな声でどなった。 会衆はわっとわらいだしたがすぐしずかになった。 「満場の諸君!」とかれはふたたびいった。そうしてまた「満場の諸君!」とどなった。会衆 は沸《わ》くがごとくわらった。 「わが輩は英雄を崇拝する、わが輩は英雄たらんとしつつある。わが輩は諸君が英雄たること を望む、小説や音楽や芝居やさらにもっとも下劣なる活動写真を見るようなやつはとうてい英 雄にはなれない。わが輩はそいつらをばかやろうと呼ぶ、今夜ここに英雄もきているだろうが、 ぽかやろうもなかなか多い、わが輩は片っ端からぶんなぐって首を抜いてやるからそう思え」 「脱線脱線」と叫んだものがある。 「なにを? ……」 「暴言はやめてください」と司会者の銅貨が注意した。 「よしッ、わかりました、そこで満場の諸君!」  彰義隊はこう向きなおってなにかつづけようとしたがなにをいうつもりであったか忘れたの でしきりに頭をかいた。 「おわりッ」  かれは壇を降りた、拍手と笑声とが一度にとどろいた。 「ただいまのは少し脱線しました、次は……」と銅貨がいった。このとき手塚がみなに押され て座席をはなれた。会衆は波のごとく動いた。手塚は器用でとんちがある、人まねがじょうず で、活動の弁士の仮声《こわいろ》はもっとも得意とするところであり、かつ毎月多くの雑誌を読んであら ゆる流行語を知っている。かれは新しい制服を着てなめらかに光る靴をはいていた。  拍手に送られてかれは演壇に立った。 「私は英雄を非認するためにこの演壇に上がりました、私は歴史のあらゆる頁《ぺーシ》から英雄を抹殺 したいと思います。英雄なる文字は畢竟奴隷《ゆひっきようどれい》なる文字の対象であります、私どもの祖先は英雄 の奴隷であったのです、個人の権利を侵掠《しんりやく》して自己の征服慾を満足させたものは英雄でありま す、もし今日……デモクラシーの今日においてなお英雄を崇拝するものあらばそれは個人の生 存権利を知らないふるい頭の持ち主であります」  一気にすらすらといいだした流暢な弁舌《べんぜつ》はさわやかに美しい、彼の日はいかにも聡明《そうめい》に輝き、 その頬は得意の心状とともにあからんだ。 「よくしゃべるやつだ」と彰義隊が叫んだ。 「しッしッ」と制する声。  手塚は会衆を満足そうに見おろしてつづけた。 「一|将功《しようこう》成りて万骨《ばんこつ》枯《か》るという古言があります、ひとりの殿様がお城をきずくに、万人の百姓 を苦しめました、しかも殿様は英雄とうたわれ百姓は草莽《そうもう》の間につかれて死にます、清盛、頼 朝、太閤、家康、諸君はかれらを英雄なりというでしょう、しかしかれらがどれだけ諸君の祖 先を幸福にしましたか、個人がその知力と腕力をもって他の多くの個人を征服し、侵掠し、し かもその子孫にまでおよぼすということは今日の世にゆるすべからざることであります、すで に世界においては欧州戦争以来すべてがデモクラシーになりました、民衆がすなわち国家であ ります、民衆の意志が国家の意志であります、ここにおいて昔のように英雄なる一人の暴虐者《ぽうぎやくしや》 の下に膝を屈するということは断じてやめなければなりません。諸君はナポレオンを英雄なり という、しかしナポレオンのためにフランスはどれだけ英国やロシヤやドイッの圧迫を受けた か、一英雄のために国は疲れ民は疲れついにめめしくも城下のちかいをなして彼《か》の英雄をセン トヘレナへ流したではないか、おそるべきは英雄である、忌《うら》むべきは英雄である、現代の日本 は英雄崇拝の妄念《もうねん》を去って平等と自由に向かって進まねばならぬ、すべての偶像を焼いて世界 の趨勢《すうせい》にしたがわねばならぬ、私の論はこれをもっておわりとします」  会衆は恍惚《こうこつ》としてかれの声をきいていた、それはきわめて大胆で奇抜で、そうして斬新《ざんしん》な論 旨《うんし》である、偶像破壊! 平等と白由! デモクラシーの意義!  わるるぽかりの拍手に送られて手塚は壇をおりた。かれの左右から校友がかわりがわりに握 手するやら肩を打つやらした。手塚は揚々として席についた。 「反対!」と叫んだものがある。人々はその方を見ると師範学校の野淵であった。野淵という のは模範生と称せられている青年で、漢文や英語に長じその学問の豊かな点において先生たち も舌を巻いておそれている。かれは底力のある声量と悠然たる態度でまずこういった。 「ただいまの弁士の新知識を尊敬するとともにわが輩はその論旨に大なる疑いをはさまねばな らないことを遺憾《いかん》に思います、弁士は英雄不必要を唱えました。英雄の対象は奴隷であるとい いました。偶像を破壊して民衆的にならねばならぬといいました。はたしてそうでしょうか、 ああはたしてしかるか」  語調は}変して大石急阪《たいせききゆうはん》を下る勢いをもって進行した。 「もしこの世に英雄なかりせば人間はいかにみじめなものであろう、古人は桜を花の王と称し にあるいは勿来の関にあるいは吉野の旧跡に、古来幾億万人、春の桜の花を愛でて大白然の摂 理《り》に感謝したのである、もし桜がなかったらどうであろう、春風長堤《しゆんぶうちようてい》をふけども落花にいな なける駒もなし、南朝《なんちよう》四百八|十《しん》寺、甍青苔《いらかせいたい》にうるおえども鎧《よろい》の袖《そで》に涙《なみだ》をしぼりし忠臣の面影《おもかげ》を しのぶ由《よし》もなかろう、花ありてこそ吾人は天地の美を知る、英雄ありてこそ人間の偉《へ》なるを見 る、人類の中にもっとも捌でたるものは英雄である、英雄は目標である・難蟹である・吾人 はその経歴や功績を見てたどるべき道を知る、前弁士は清盛、頼朝、太閤、家康、ナポレオン を列挙し吾人の祖先がかれらに侵掠せられ、隷使《れいし》されたといったが、いずれのときにおいても 民衆の上に傑出せる英雄が生ずるのである。清盛、頼朝、太閤、家康、ナポレオンが生まれな けれぽ、他の英雄が生まれて天下を統一するであろう、非凡の才あるものが凡人を駆使するの は、非凡の科学者が電気や磁気や害虫や毒液を駆使すると同じである。露国はソビエト政府を 建てたがかれらを指揮するものはレニンとトロヅキーである。イタリーはデモクラシーを廃し てムッソリー二を英雄として崇拝している、英雄主義は永遠にほろびるものでない、英雄のな き国は国でない、宇宙に真理があるごとく人間に英雄があるものである、いたずらに英雄を無 視せんとするものは白ら英雄たるあたわざる者の絶望の嫉妬である」 「そうだそうだ」と彰義隊は頭に鉢巻きをしておどりあがった。「おれのいいたいことをみん ないってくれた」  人々は野淵の荘重《そうちよう》な漢文口調の演説を旧式だと思いつつもその熱烈な声に魅せられて、狂す るがごとく喝采した、手塚はきまりわるそうに頭を垂れた。実をいうとかれの論旨はある社会 主義の同人雑誌から盗んだものなので、その新しそうに見えるところがすこぶる気にいったの であった。かれはこの演説で大いに「新人」ぶりを見せびらかすつもりであったが、野淵に一 |蹴《しゆう》されたのでたまらなく羞恥《しゆうち》を感じた。そうして救いを求むるように光一の方を見やった。  光一はだまって演壇の方へ歩いた。人々はさかんに拍手した。光一は平素あまり議論をこの まなかった。かれは白分でも演説はへただと思っている。だがみなのすすめをこぼむことはで ぎなかった。かれは演壇にのぼったとき胸が波のごとくおどった。そうして自分ながら顔がま っかになったことを感じた。だがそれを制することもできなかった。かれは躊躇《ちゆうちよ》した。それは さながら群がるとらの前に出た羊のごとく弱々しい態度であった。  千三はじっと目をすえて光一をにらんでいた。 「畜生《ちくしよう》!あいつなにをいやがるだろう、へんなことをいったらめちゃめちゃに攻撃していつ かの復讐をし、満座の前で恥をかかしてやろう」  おそらく当夜の会場で千三ほど深い注意をもって光一の演説を聴《き》いていたものはなかったろ う〇  一方において手塚はほっと息をついた。救いの船がきたのである。師範の野淵をやっつけて くれるだろう。 「ぼくは演説がへたですからよくしゃべれません」  いかにもおずおずした調子でしかも低い活気のない声で光一はいった。 「へたなやつだなあ」と千三は肚《はら》の中でいった。 「ふだんにいくらいぽっても晴れの場所では物がいえないだろう、へそに力がないからだ」  会衆もまた光一が案外へたなのに失望した。 「しかしぼくは野淵君の説に賛成することはできません。野淵君は英雄と花とを比較して美文 を並べたがそれはカアライルの焼きなおしにすぎません、いかにも英雄は必要です、だが野淵 君のいうような英雄は全然不必要です、いかんとなれば昔の英雄は国利民福を主とせずして自 己の利害のみを主としたからです、豊臣が諸侯《しよこう》を征した。家康が旧恩ある太閤《たいこうの》の遺孤《いこ》を滅ぼし て政権を私《わたくし》した、そうして皇室の大権をぬすむこと三百余年、清盛にしろ頼朝にしろ、ことこ とくそうである、かれらは正義によらざる英雉である、不正の英雄は抜出倒海《ばつどん・とう阜い》の勇あるももっ て尊敬することはできません、武王《ぶおう》は紂王《ちゆうおう》を討った、それは紂王が不正だからである、ナポレ オンは欧州を略した、それは国民の希望であったからである、木曾義仲を討ったとき義経は都 に入るやいなや第一番に皇居を守護した、かれは正義の英雄である、楠正成《くすのきまさしげ》の忠はいうまで もない。藤原鎌足《ふじわらのかまたり》の忠もまたいうまでもない。そもそも諸君は足利尊氏、平清盛、源頼朝をも 英雄となすであろう。かれらは国賊である、臣子《しんし》の分をみだすものは他に百千の功ありとも英 雄と称することはできない、古来英雄と称するものはたいてい奸雄《ゆかんゆう》、彙雄《きようゆう》、悪雄の類である、 ぼくはこれらの英雄を憎む、それと同時に鎌足のごとき、楠公《なんこう》のごとき、孔子のごとき、キリ ストのごとき、いやしくも正義の士は心をつくし気を傾けて崇拝する、それになんのふしぎが あるか、万人に傑出する材ありといえども甲鵑違響英雄となし得ようか・ゴ蒂を流し.義.り し北条の徒を英雄となし得ようか、諸君! 諸君は西郷南州《さいこうなんしゅう》を英雄なりと称ず、はたしてかれ は英雄であるか、かれは傑出したる人材に相違ないが、いやしくも錦旗《きんき》にたいして銃先《つつさき》を向け たものである、すでに大義に反す、なんぞ英雄といいえよう」  ひつじは俄然虎になった。処女は脱兎になった。いままで湲々《えんえん》と流れた小河《おがわ》の水が一瀉《しや》して 海にいるやいなや怒濤澎湃《どとうほうはい》として岩を砕き石をひるがえした。光一の舌頭《ぜっとう》は火のごとく熱した。 「野淵君は漫然と英雄のご利益《りやく》をといたが、いかなるものがこれ英雄であるかを説かない、正 しき英雄とよこしまなる英雄とを一括して概念的にその可不可を論ずるは論拠においてすでに 薄弱である」 「ひやひや」と手塚は立ちあがって叫んだ。 「待ちたまえ、さらに手塚君の説を駁《ばく》さねばならん、手塚君は英雄は個人主義である、英雄は 民衆を侵掠したといった、侵掠か征服かぼくはいずれたるかを知らずといえども、弱者が強者 に対して侵掠呼ぽわりをするのは今日の悪思想であります、婦人は男に対して乱暴よばわりを なし、貧者は富者に対して圧迫よばわりをなし、なまけ者が勤勉者に対して傲慢《こうまん》よぽわりをな す、ここにおいてプロレタリアはブルジョアをのろい、労働者は資本家をのろい、人民は政府 をのろい、人は親をのろい、妻は良人《おつと》をのろう、そもそもそれははたして正しぎことであるか、 思うに民衆といいデモクラシーと叫ぶこと今日ほどさかんなときはない、しかし心をしずめ耳 をそばだてて民衆の声を聞きなさい、かれらはこういっている。「首領がほしい」「私たちを指 導してくれる人がほしい」「レニンがほしい」「ムヅソリー二がほしい」「ナポレオンがほしい」 と、いかなる場合にも団体は首領が必要である。首領は英雄である。フランス人は革命をもっ て自由を得た、しかし革命には十人をくだらざる首領があった、ローマの国民はなにを望んだ か、シーザーにあらずんぽブルタスであった。日本の国民はなにを望んだか、 源《みなもと》にあらずん ぽ平《たいら》であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民で あったことをわすれてはならない。しかるに手塚君はなんのために英雄を非認するか、英雄い でよ、正しき英雄いでよ、現代の腐敗は英雄主義がおとろえたからである、ぼくのいわゆる英 雄は活動写真の近藤勇ではない、国定忠次ではない、鼠小僧次郎吉ではない、しかもまた尊氏、 清盛、頼朝の類《たぐい》ではない、手塚君の英雄でもければ野淵君の英雄でもない、ぼくは正義の英雄 を讃美する、いやしくも正義であれば武芸がつたなくとも、知謀《ちぽう》がなくとも、学校を落第して も、野球がまずくとも、金持ちでも貧乏でも、すべて英雄である、このゆえにぼくはこういい たい、『すべての人は英雄になり得る資格がある』と」  なんともいいようのない厳粛な気が会場を圧してしぽらく水をうったように沈黙したかと思 うと急に拍手喝采が怒濤《どとう》のごとくみなぎった。手塚はどこへ行ったか姿が見えない。千三は呼 吸《いき》もつけなかった。かれは光一の論旨には一点のすきもないと思った。 「畜生《ちくしよう》ッ、うまくやりやがった」  こう思うとせっかくの復讐心も一|半《ばん》はくじかれてしまった。 「つまらない、こなければよかった」  かれはいまいましさにたえかねて会場をでた。外は漆《うるし》のごとくくらい。ふりかえってみると 学校の窓々からこうこうと灯《ひ》の光がほとばしっていた。千三は一種の侮辱を感じながら歩くと もなく歩きつづけた。とかれは路傍の石につまずいてげたのはなおをふっつりと切らした。 「大変だ」  かれは途方にくれた。 「なわきれが落ちてなかろうか」  こう思って暗い地面を探り探り並み木の間を歩いた。いままで気がつかなかったがこのとき 足のおや指が痛みだした。手をやってみると生爪《なまづめ》がはがれてある、かれは大地に坐りこんだ。 そうしてへこ帯をひきさいて足を繃帯することに決めた。  とどこからとなく人の声が聞こえる。 「きたか」 「まだまだ」 「気をつけろよ」 「にがしちゃいかんよ」  ひとりの声は手塚らしい。あとは四、五人、しのびしのびに三方に埋伏《まいふく》する。 「なにをしてるんだろう」  千三はこう思った。こういうことはめずらしくない。青年のけんかだ。毎日一つぐらいはあ るのだ。 「だがねえ、文子はこのごろちっともこないじゃないか」  ひとりの声がきこえる。 「手紙を見られたらしいよ」と他の声。 「見られてもかまやしない、あれはねチビの名にしてあるんだから……はヅはッはッチビのや つそれでひどくなぐられたっけ」  千三の総身がぶるぶるとふるえた。かれははじめてそれが手塚の奸策《かんさく》だと知ったのである。 かれは立ちあがってかれらのあとを追いかけようと思った。が足の痛みは骨をえぐられるよう にはげしい。 「待て畜生《ちくしよう》! ああいまいましいな」  千三は足をきびしくしばった。そうして残りの布ではなおをすげた。とこのとき五、六間先 に叫び声が起こった。 「なにをするんだ」 「たたんでしまえ、やれやれ」 「どこだ」 「ここだ」 「こん畜生《ちくしよう》!」  なぐり合う音、倒るる音、ばたばたと走る音。 「おいおいみんなこい」とよぶ声。 「生意気な、きさまは手塚だな」  こういう声は光一であった。千三ははっとおどりあがった。かれは片方のげたを手に持った まま走りだした。と見ると三人を相手に光一は奮闘最中である。いったん逃げたふたりは引き かえしてともに光一につかみかかった。光一は一人の頭をけった。けられながらにその男は光 一の脚《あし》を一生懸命につかんだ。背後《うしろ》から光}ののどをしめているのはろばらしい。手塚は前へ 出たりうしろへ出たりして光一の顔を乱打した。五人と一人、かなうべくもない。 「柳、しっかりしろ」  千三はこう声をかけて手に持ったげたで手塚の横面をしたたかに打った。 「チビ!」  手塚は叫んで鼻に手をあてた。千三はろぽの顔を打とうとしたが小さいのでとどかなかった。 かれはおどり上がった。が足の痛みがますますはげしい。かれは手塚に首根をおさえられた。 手塚は力まかせにチビをなぐった。なぐられながらチビは手塚の手をしっかりとつかんではな さない。 「だいじょうぶか柳」とチビが苦しそうにいった。 「だいじょうぶだ。青木、すまないな」と光一はいった。そうしてもののみごとにろばを大地 にたたきつけた。その拍子にかれは片ひざを折った。三人はその上におりかさなった。 「なにを………くそヅ」  こういう光一の声はおぼつかなく聞こえた。 「やられたな」  こうチビは思った。とたんに手塚の手がぐたりとゆるんだ。と思うやいなや手塚はさながら 犬の屍《しかばね》のごとくたたきつけられた。 「青木じゃないか」 「ああ安場さん」 「うむ、おれだ」 「柳を助けてください」 「よしッ」  安場がひらりと動いた。ふたりの姿がもんどりうって倒れた。いまひとり光一がしっかりと ひざに組みしいていた。 「しぽれしばれ」と安場がいった。 「しぼるものがない」 「ふんどしでしぽれ」 「ぼくはさるまただ」 「心がけの悪いやつだ」 「安場さんのは2」 「おれは無フンだ」  千三はまたしても帯をといて手塚をしばりあげた。投げられたろばといまひとりは安場がし ばった。安場は三人を電柱にしぼりつけた。  光一の横顔は腫《は》れ、手首はくじかれていた。千三にはなんのけがもない。 「おい青木」と光一は千三の前にひたと坐っていった。「おれをなぐってくれ、おれは悪かっ た、さあおれがきみにしたようにおれの顔のどこでもなぐってくれ」 「なにをいうか柳」と千三は光一にひたとより添うて手をしっかりとにぎった。 「ぼくは今夜きみの演説で真の英雄がわかった、ぼくらはおたがいに英雄じゃないか、正義の 英雄だよ」 「ゆるしてくれるか一 「ゆるすもゆるさんもないよ」 「ありがとう」  ふたりはふたたび手をにぎりしめた。 「やい、凡人主義のデモクラシーの偶像破壊者ども」と安場は三人に向かっていった。 「平等と自由はどんなものか明日の朝までそこで考えてみろ」 「なわだけはといてやってくれ」と光一が安場にいった。 「いやいや」と安場は頭をふった。「英雄にしばられてなわをとくのはデモクラシ!の役目な んだ、さあゆこう」  こういって安場はマッチをパッとすって三人の顔を見た。手塚は涙ぐんでうなだれていた。 ろばはきょとんとして首を上げて手塚をののしった。 「だからおれはいやだというにおまえが加勢してくれというもんだから」 「ざまあみろ」と安場はわらった。「それが平凡主義の本性なんだ」 安場は歩きだした。そうして快然とうたいだした。 「ああ玉杯に花うけて、緑酒に月の影やどし、治安の夢にふけりたる、栄華の巷低《ちまた》く見て……」  読者諸君、回数にかぎりあり、この物語はこれにて擱筆《ゆかくひつ》します。もし諸君が人々の消息を知 りたけれぽ六年前に=咼の寮舎にありし人について聞くがよい。青木千三と柳光一はどの部屋 の窓からその元気のいい顔をだしてどんな声で玉杯をうたったか。それから一年おくれて入校 した生蕃とあだなのつく阪井巌という青年が非常な勉強をもって首席で大学にはいったことも 同時に聞くがいい。  さらに安場のことがしりたけれぽ黙々先生をたずねなさい。先生は多分こういうだろう。 「安場ですか、あれはいまロンドンの日本大使館にいます」と。  さらに諸君は「安場はロンドンでなにをしてるんですか」ときいてごらんなさい。先生は多 分こう答えるでしょう。 「へそをなでています」