蓬莱曲

北村透谷

  序

蓬莱曲将に稿を脱せんとす、友人某来りて之を一読し詰て日く、蓬莱山は古来瑞雲の靉靆くところ、楽仙の盤桓するところ、汝何すれぞ濫に霊山を不祥なる舞台に仮り来つて狂想者を悲死せしむる。又た何すれぞわが邦固有の戯曲の体を破って擅に新奇を衒はんとはする。

余は直に之を遮つて白く、わが蓬莱曲は戯曲の体を為すと難も敢て舞台に曲げられんとの野思あるにあらず、余が乱雑なる詩体は詩と謂へ詩と謂はざれ余が深く関する所にあらず、韻文の戦争は江湖に文壇の良将あり、唯だ余が此編を作す所以の者は、余が胸中に蟠拠せる感慨の幾分を寒燈の下に、彼の蚕娘の営々として繊糸を其口より延べ出る如く余が筆端に露洩せしむるに過ぎざるのみ、然も彼れが労むるは家を造りて之に入らんとするなれども余が昼間劇務の後に滴々半烹の句を成すところの者は徒に余をして債を起して価ある白紙を反古と化せしむるに止まらんを知る。蓬莱山は大東に詩の精を迸発する、千古不変の泉源を置けり、田夫も之に謝してはインスピレイションを感じ、学童も之に謝して詩人となる、余も亦た彼等と同じく蓬莱嶽に対する詩人となれること久し、回顧すれば十有六歳の夏よりし孤?其絶巓に登りたりし時に余は始めて世に鬼神なる者の存するを信ぜんとせし事ありし。崎嶇たる人生の行路遂に余をして彼の瑞雲横はり仙翁楽しく棲めると言ふ霊嶽を仮り来つて幽冥界に擬し半狂半真なる柳田素雄を悲死せしむるに至れるなり。友人再び日く、然らば汝は魔鬼魅魎の類を信ずるや。余答へて日く、信ずるにもあらず、信ぜざるにもあらず悲哀極つて頓眠する時に神女を夢み、劇熱を病んで壁上に怪物の横行するを見るが如きのみ。友人乃ち放笑して去る。此に於て童子をして燈に油を加へしめ筆を走らせて談話の概略を記し以て序に代ふ。

          透谷橋外の小楼に於て
 明治二十四晩春            蝉羽子識
 

蓬莱曲

   曲中の人物
 
    鶴 翁  (蓬莱山の道士)
    源 六  (樵夫)
    雲 丸  (仙童)
    柳田素雄 (子爵、修行者)
    勝山清兵衛(柳田の従者)
    露 姫  (仙姫)
    大魔王、鬼玉若干、小鬼若干、
    恋の魅、青鬼、等。
 

第一齣

 (一場)

蓬莱山麓の森の中
日没後
 (柳田素雄琵琶を抱きて森中に徘徊し)
 (従者勝山清兵衛少し晩れて来る、素)
 (雄琵琶を取出て一弾調を成さず仰で蓬)
 (莱嶽の方を眺盻する所)
素、  
雲の絶間もあれよかし、
わが燈火なる可き星も現はれよ、
この身さながら浮萍の
西に東に漂ふひまのあけくれに
なぐさめなりし斯の霊山、
いかなれば今宵しも、麓に着きて
見えぬ、悲しきかな/\。
恋しき御姿の見えぬはいかに、
わが心、千々に砕くるこの夕暮」
都を出でゝ
わがさすらへは春いくつ秋いくつ、
守る関なき歳月を、軽しとて仇し
草わらんじ、会釈なく履きては
捨て、履きては捨て、踏みてはのこし
踏みてはのこす其迹は
白波立ち消ゆ大海原
越え来し方を眺むれば
泡沫の如くに失行く浮き世。」
牢獄ながらの世は逃げ延びて
幾夜旅寝の草枕、
夢路はる/\たどりたどれど
頼まれぬものは行末なり。
折々に音づるゝと覚しきは
彼の岸に咲けるめでたき法の華、
からくも悶え手探れば、こはいかに、
まことゝ見しもの、これも夢の中なる。」
浮世の水は何所とも知ず流れ行く、
われも亦た流るゝ侭の旅の身を、
寄せて息めんたのめもなし。
早瀬緩瀬と変るは水のならひなる、
変れど止まることはなし、
わが旅もまた急ぐ急がぬ折こそあれ
いつかはまことに静まらん、
その稍しづまる渚には、
蛋の刈藻の根を絶たで、
うたてや意をしがらむなる。」
あちこちのめづらしき山、めづらしき水、
愛づるが中こそ稍安く、
蝉の羽のひえわたる寝床にも眠りけれ、
眠るといふも眼のみ、
心は常に明らけく、世の無情をば
睨みつ慨きつ卿ちけれ。
左程にきらはるゝわれなれば、
逃げ出んこそ易けれど
わが出る路にはくろがねの
連鎖は誰がいかなる心ぞ、
去らばとて留まらんとすれば
苔を挙げて追ふものぞある。」
家出せし時
つらく別れし恋人は、はかなくも、
無常の風の誘ひ来て
無き人の数に入れりと聞きしより
花のみやこも故郷も
空しくなりて、われをのまむとする
菩提所のみぞ待つなる可し。」
去ねよ、去ねよ、彼世には汝が友の
待ちあくがれて招くものを
と罵る声は、「死」のつかひよりや出らん、
われも世を去らまくほしき
思ひ出の昨日今日にはあらなくに如何せん
招けば「死」もわが友ならす。」
いづこを見ても鞭持つ鬼、
わか背、わが面を囲むなり、
往け往けと追はるゝ侭に
行衛定めぬ旅衣、
汚れやつれて見る影もなき態
鬼の姿にもまがうべし。
左ればとて世を避る身は
何どか新衣のひまあらん。」
世の鞭苔稍や遠ければ
深山霞立籠めて空しく迷す夕もあり、
浮世の風こやみするところには
朝霧渡れる水の音に驚き覚る折もあり、
いづこを宿と定めねば
追はれぬ時は心も急かず夢は現と
かはりつゝ
書取上げて眠を駆りつ
燈火効疲れはてゝ自らに消ゆるまで、
書の無き折はまた
狂ふまで読む自然の書、世のあやしき奥、
物の理、世の態も
早や荒方は窮め学びつ、生命の終り、
未来の世の事まで
自づから神に入りてぞ悟りにき。」
指屈むれば侭き難き
名所の数々に、昔と今を訪ひはたし
月をも花をも厭ぬる程に眺めにき、
さても西の都の麗はしきも、
また東方の花の堤の
屋形の船の酔心地、おもひかへせば
仇なりし夢なりし幻なりし。
南の末にたゞよひし時に烟?く山
北の極をあさりし時には凍氷の丘、
めづらし、めづらしと
たゝへ喜びしが、これも亦た瞬刻
の慰快なりし、今は早や、夢にも
上らず、回想も動かす。
われには早や珍らしき
者あらず、楽しき者あらず、
この世、この世、美くしき
この世の悲しきかな、抑今は何者ぞ、
山を河を、野を里を、殿を城を、
載せ余し置飾りても、わが眼には
空虚とのみぞ見ゆるなる。」
空しくも見ゆるかな山と積む書の中、
われに来よとや、招かずもがな、
何に楽しからん、其が中に、蠹ならぬわれ。
空しくも見ゆるかな、美くしき恋心、
われに来よとや、招かずもがな、
何に嬉しからん、狂ふばかり欺かるゝを。
空しくも見ゆるかな、いかめしき家づくり、
われに来よとや、招かずもがな、
何に喜ばん、人をひれ伏せて、鬼ならぬわれ。
位も爵もあらずもがな、わが為には。」
去は去ながら捨てし世の
いまはしき縄は我を、なほ幾重
巻きつ繋ぎつ、
逃しはやらじこの漢、と罵る声の
いづれよりともなくきこゆるなり。
ぬぐへども、ぬぐへども、わが精神の鏡の
くもりを如何せん、
其の鏡にはつれなくも、
過ぎこし方のみ明らかに、
行手は悲し暗の暗。
その常暗の中を尋ねめぐり、あさりまはりて
いまだ真理の光見ず、
見るは唯いつはりの、立消ゆる漁火のみ。」
悲しきはこの身なり、世に従ひ難くて、
世に充つる魔霊の軍兵になり終らで、
在家も出家もおしなべて
うち靡かせて、世を、我物顔なる怪しの
鬼の、囲みの中にあればぞよ、
四辺は暗く人は眠るに、
われひとりねの床に涙の露雫。」
 (清兵衝素雄が袖をひきて)
清、  
暫時、しばし、
心を注め玉へや怪しき声のするに。
素、  
何に、怪しき声とや、
われは聞かず、其は何の声ぞや。
近き彼方の森を襲ふ風の鳴るにもや。
清、  
否左ならず‥‥‥あら復た聞こゆ‥‥‥
今聞ゆるに、はて何所なる、怪しきかな。
素、  
我はえきかず、そはいづこに?
清、  
何所とも知らず‥‥‥彼方此方につぶやく声。
素、  
彼方此方に? つぶやくこゑ? あやし!
然なり然なり、声すなり、われも今聞きぬ。
いかに、いかに、如何なる者の声ならん、
鬼神の類や近づける、さもあらずば、
御山の霊や迎へ出でぬるか。
清、  
走りても兎てもいまは詮なし、
怖ろしき目に会ひなんも計られず。
素、  
何にを清兵衝は恐るゝぞ、おに神は
爰のみならじ、何所にも住むなるを。
静まれよ、われは今、
彼を呼び出でん、いかなる様の者なりや。
あら声すなり、声すなり、
われに語ると覚ゆるぞ、おもしろし。
空中の声、  何れより来りしや、さかしらしくも世を罵る
壮者、塵をあつめて造られながら!
世の鬼に悩められて、世を逃れんともがくとや、
あら笑止! いつまでの旅路に思ひを遂げん、
五十の年月長し短かし問ふひまも
暴風雨吹き起り、秋の気躍り、
波に呑まるゝ捨小舟、散り落つる樹の葉。
死の波寄する時いかん、身の秋来る折いかん、
あはれ、あはれ塵を蒐めし空蝉の五尺、
なほ傲り顔に、狭き世を旅び渡り、
暫時留まる春の駒に、
むちあげて、おのれの終りを急がする。
素、  
おかしくも馴るかな、
抑も何物にてか、定まれる人の運命を
おのれを外に譏るらん。
空中の声、  
おろかなるかな、われを知らずや、
この霊山に棲み馴れて、世の神々を
下女下男と召使ひ、ひれふさするもの
われなるを知らずや。
素、  
怪しきことを言ふものかな、
さては神々の上の神なるは汝か、
まことや、痴愚なるは神と呼べるもの、
世に禍危の業をのみなし、正しき者を
滅びさせ、偽はれるものを昌させ、
なほ神とは自から名告るなり!
空中の声、  
まだ罵るや塵の生物!
狭き世の旅は早や為さずとも、
わが住む山に登れかし、高き神気を
受けなば誤まれる理の夢の覚めもやせん。
雲を踏みて登らずや神の力もて。
語らんことは彼方にて、
おさらばよ、爰は浮世、長くは談らじ。
素、  
あな怪しの神よ、はや去ぬるか、
まだゝくひまに顕はれて早や消ぬるか、
めづらしき声、めづらしき罵言、
いづれに失せて行きぬるや。
濃き雲を離れて現はるゝ星ひとつ、
それか? それならじ、それも早や隠れぬ、
何所にや去りけん、も一度顕はれずや、
いなよ、早や呼び返すべき術はあらじ。」
御雪を踏み登れと言へり、
神の力もて登れと言へり、
かねての望みはありながら、
いかでわれ、このわれが、
神の力なくて登るべきや雪の御山に。」
清兵衝、これをいかにす可き?
清、  
父君に托ねられて都を跡に旅鳥の、
ねぐらをどこと白波の
打ちかへし打ちかへす君が心の荒磯を、
主なればこそ、‥‥頼なればこそ、‥‥
わが身は良しや深山路の
苔の袂に老ひ朽ちぬとも、
君が身に恙あらせじと祈りつ
願ぎつ歳月空しく過にけり。」
君のありこし不満、不平、不和の
はじめ、をはり知れるこの身、
兎ても世には帰へり玉はじと、
涙ながらに思ひあきらめても
さて悲しきかな、君が心の荒らくして
悪魔を呼びて朋友となすとは!
今宵いかなる故やらん
樫の根を枕の昨夜の夢裡も、
こゝろにかゝる折しもや、今の悪鬼の
罵り嘲する声音、わが健き足の、
歩めぬほどに怖ろしや、怖ろしや。」
素、  
昨夜の夢と? おかしきこともあらば
何どか今まで隠しつる。」
清、  
否、おかしきことならず、おそろしき
目に会ひぬ。
素、  
其の怒ろしきことこそおかしきなれ
いざ語れ、語らずや。
清、  
きみは彼方の樫の根を、
われはこなたの樫の根を、枕となして、
狼の遠吠絶て、息めば心は早や眠り、
眠ると思へばまた覚めて、
眠る覚むるの境もわかずなりしころ、
世を去り玉ひしと聞きつる
露姫‥‥‥の、端なくも、わが枕辺に
佇まれける。」
素、  
何に、露! 露姫とや!
露がいかに‥‥‥姫がいかにせし。」
清、  
姫はやつれ衰へし姿して、
「素雄どのを何どよこさぬ」
と、ひと言は聞しも、あとは野風
のそよ吹くのみ。」
素、  
笑しや、夢はいつはり多し、
其を心にかけなば、世には、
まことはなかりなん。
姫がこと、われも思はぬにはあらねども
空蝉のからは此世に止まれど、魂魄は
飛んで億万里外にあるものを、
つら/\思へば、このわれも、
世の形骸だに脱ぎ得たらんには、
姫が清よき魂の飜々たる胡蝶をば、
追ふて舞ふ可し空高く。
人の世の塵の境を離れ得で
今日までも、愚や墟坑に呻吟けり。
とても限りなき苦悶をば
こよひ解き去り、形骸をば
世に捨てゝ行かんや、「死」とも「滅」とも
世の名を付けて、われを忘れさせ、
彼方の御山の底の無き
生命の谷に魂を投げいれん。」
清、  
「死」とや、「滅」とや? 其は怒ろしき
者なりかし、わが君これを願玉ふ
あな悲し護り玉へや神よ仏よ
素、  
徒らに神の名を呼びそ。
死は恐るべき者ならず、
暫しが程の別れの悲しみのみ、
わが如く世に縁なきものは、
死こそ帰ると同じ喜びなれ。去るならず
別るゝならず、めぐり会ふ人もあるべし
うれしとこそは思ふ可けれ。
世にありて、
梁を走せ、仏壇に潜み、
棚を掠め、鍋を覗ふ業、
鼠はなせど、人の事ならじ、
鉄の鎖につながれて、窓には風も通はさぬ
囚牢の中に、世の人安々眠れども、
悲しみ覚えし身にはまどろまれず、
したしむものは寂しく懸る軒の月。
軒下に狭まく穢さき籠の中、
擦餌に育てあげられし鴬の、
春になれば鳴かぬや何ぜ鳴かぬと責られて、
声は折々揚げしかど
庭面の梅が香欲くて鳴しのみ。」
この囚牢、この籠を、
こよひならねば何時破るべき!
おさらばよ清兵衛!
この囚牢、この籠にもおさらばよ!
これよりはわれわが君ぞ!
魔にもあれ鬼にもあれ、来れかし来れかし
わが道案内させてん、
早や行かん、おさらばよ!
清、  
待ちたまへ、わが君よ、
悲しき思出をせらるゝかな、
みやこには恋し恋しと父母の
老ひたる君や待ち詫び玉ふなるに、
そを捨てゝ何地へ渡り玉ふぞや。
素、  
要なきことは言はずもあれ、この世
わが物ならず、わが物ならずかぞいろも。
恋ひし親しの睦みとて
母が落せしひとしづくとても
思へば長からぬ世の宝ぞ。」
誰が抑も何心にてや造りたりけん、
このわれ、塵のわれ、ひとやの中のわれ、
くらさ、さびしさ、やましさ、かなしさを
知らず顔なる造りぬしや誰れ?
 (素雄行んとす)
清、  
こはいかに、わが君狂ひたまふか?
いづこへや行き玉ふなる。
素、  
狂ひはせず、静かに家に踊るなれ、
われを捨ておけ、汝は行きて、
ひとやのうちの家を守れかし。
おさらばよ、かねて背きしたらちねにも!
清、  
否、いづこへなりと従はしてよ、
君が偽には何にか借まん。
素、  
否よ、否よ、われひとりならでは‥‥‥
雲の中には件は要なし。
いざや、いざや、別れぞ、別れぞ、
生別れとも、死別れとも
ならばなれ!

第二齣

 第一場 蓬莱原之一

 (柳田素雄琵琶を抱きてたゞひとり)
 (この原を過るところ。)
素、  
おさらばよ! 烟の中に消えよ浮世、
おさらばよ! 住み古りし旅馴れし
塵の世、
これよりは罵らじ、われにも物を思はせす、
かたみに忘れん、敵意も恨ごゝろも、
わが在りし跡も無からせよ。」
思ひぞ出づる、
終日歩みの疲れに、仮の宿なる
草叢に、しばしまどろめば、
歯を切ませ、眼をひらかせし野ばら!
その花のゆかりに、あやしくも
ひと夜を眠りもやらず過ごせしを、
明くる朝は無残刺ゆゑに、
わが掌に紅の斑見し。」
木の枝を、
其が侭なる旅の杖、投げ置きて
ひとむら繁き花の野に、
横雲眺めて熱ねむり、
日紅々と登れるころに起出でて、
見ればわが杖花の蔓にまとはれて、
われと共には起たざりけり、
うち捨てたるは人なき山路、
今はいかに、おどろがもとに
朽ちはてゝあらんそも。」
われのみと思ひは差ひて、
情なき人に飼はれてや、
あはれ小狗の痩せさらばへたるが、
わが前に悲しく尾を垂れて
物欲し気に鳴きしにわれも
物言はぬ涙を催して
糧を分ちて取らしつゝ
旅路の伴とせし事もありき、
彼狗今はいかになりし、
桀にや飼はれて堯に吠ゆる
たぐひとなりもやしてん。」
実に思ひ出れば限無し、
みな共に彼方の烟に埋もれよ。」
こゝ新らしき世なる可し
夜陰の中にも物の景色変りて見ゆ、
雪の御山よりおくる山おろし
高き所に雲の宿をあらすらん、
見るが内に濃雲淡くなりもてゆきつ
おもしろやたちまちに星の天」!
御山を遶りてひろがれる
裾野原、見渡す限り草ばかり、
さてかすかに見ゆる遠山々、
それに交はる模糊たるけふりは
上界、下界の墻にやあらん、
その墻を踰え来しわが身の
今立つところは神が原、
払ひ尽せる浮世の。」
いまは神の時にもあらん、
外方にては怖ろしとまでに聞きし
雪崩の音も全たく止み、
世にありし頃には胸とゞろきし流星も
今眺る天には絶えて落ちず。
誰が連ねけん、眼なき虚空を隙もなく
美くしき星の華を咲かせて、歌人に、
おもしろき曲うたへよと促すなる、
こゝに来りてわが胸は、
燃ゆる火焔の消えかゝり、世ならぬ春風
そよ/\吹くに、流石にわれも嫋々にて、
かつて笑ひし岸の柳の今はわが身なる
吹けよ神風、ひるがへし
ひるがへし連れ行けよ。」
見上れば雲の外なる蓬莱の山、
雲の上は白雪、雲の下は春の緑、
下には卑しき神の住みて
上には尊ときものや住むらん。
まぼろしの眼に入るや聖き霊体、
星を隣にほゝえむらし。
美しきかないはほの白妙、
わが踏行くは彼方ぞや/\。」
いぬるかし、いぬるかし浮世の響、
立消ゆる下雲の彼方に静まりぬ。
聞慣し詛の車輾るおと、
憂目見し罪の火燃ゆるさま、
早やわが傍にあらずなりぬ。
吹く春風に送られて
何に白雲の彼方を的に、
心の駒の手綱弛めていざ歩む。」
 (再び立止まりて)
わが琵琶の音しばらくきかず
恋しきものは汝なるを、
この寂しさ、このをもしろさに、
好しや昔の恋妻と、
野の月を窓の内までのぞかせて
歌ひつ弾きつむつれしころの
たのしさはなしとも、
心地さは/\物に思ひの繁らぬ今宵、
あたりの草花に耳かしがせ、
空を歩く鬼神の霊精をも
驚ろかしてん/\。」
 (背より琵琶を取下ろし熟視)
これなるかな、これなるかな、この琵琶ま
いつしも変らぬわが友は、
朽ち行き、廃れはつる味気無き世に
ほろびの身、塵の身を、あはれと
音に慰むるもの、
弱きわが心、狭きわが胸の、たのみなき
末来をはかなみて消えまほしと
祈り願しときよ、この琵琶が、
わがむねの門叩きそめけり。
これよりは朝暮の世浪寄する憂時も、
月に浮るゝ小夜中も、花の霞の其中も
ひと時離れぬ連となりけり。
ひとり寐の、眠りの成らぬ
暗の夜に、覚めながら切歯る苦悩も
起き出でゝこの琵琶を取上げ、
切々と揚げて輝けば、陰るゝ悲湧上り
?々と抑へてひけば重ね積る憂は消ゆ、
毒を吐く大蛇の蟠渦に途塞れ
こわさ、かなしさ、なさけなさを
この琵琶よ! 一調高く、毒氛散らせ、
大蛇の形見えずならせぬ。
この琵琶よ! この琵琶よ!
夜鴉苦しく枯梢に叫ぶ夜半も、
鳴血鳥?を掠めて飛行く時も、
汝をたのみて、調乱れながら、
わが魂の手を尽して奏でぬれば
忽如現世も真如のひかり!
まばゆきばかりの其光に、
かき眩まされていつしか再た曇る、わが
魂鏡、これをしもまた琵琶の音に、
再び回へすほとけの面!
世の人のいたづらなる恋の闇路も、
この琵琶やわが燈火なりし、
世の人の空しき慾の争ひにも
この琵琶やわれを静めにき、
世の人の様々の狂ひの業にも
この琵琶やわれを定めにき、
さても険しき世に、いかでわが琵琶の如
わが悲哀にもわが歓喜にも
朋友となり分学者となる者や無ん。
 (調を整ふ)
みやまの裾には鬼岬棲むと聞けり、
鳴れよ、鳴れよ、驚かすまで!
 (かき鳴らす)
いかなる曲をや弾かん、
誰が作をや弾かん、どの詩人のを、
 (黙量しつゝありて)
何の曲をや弾かん、どの曲を。
 (空中に唱歌の声あり)
素、  
あらあやしいづれより途るぞ妙なる声、
此方の森の千代の松、風に浮れて
歌ひ出るか、
彼方の雲の巌間より落る雪解の
水音が、わが琵琶の普を浮べて
自然なる歌曲よむか。
左なくば天津乙女や降り来て
虚空よりもたらす天歌かも。
歌へかし! 歌へかし!
さてわが琵琶を合せてん。
 (仙姫内にて歌ふ)
歌、  きみ思ひ、きみ待つ夜の更け易く、
ひとりさまよふ野やひろし、
彼方なる丘の上に咲く草花を
たをりきつゝも運なき身、
誰が胸にかざし眺めん由もなく、
思はずも揉めば散りける花片を、
また集むれど花ならず。
 ******
 ******
 (仙姫過ぐ、二頭の鹿之に隣ふ)
素、  
怪しきかな、怪しきかな、人の来ぬ!
獣ひとつだに住まぬところと思ひしに。
さても其の人は、其人は
あやしの光を先に立て、
美しや、美しや山乙女!
やさしめづらしの鹿もともに。
われけふ迄の長のへめぐりに
この姫のごときを見ざりけり、
前に聞きし歌は、ことはりや
この姫の朱唇洩れし者なれば、
あな知らず顔に過るやわが前を、
露も見ぬ浅茅生に足元珠玉を転して。
知るや知らずやわが在るを、
何にめづらしとてか天のみ仰ぐ、
数ふればとて、よも星の数は尽じ。
鹿もなどてや心なき、ひい!——との其声は、
誰を呼らん、誰を恋しと幕ふらん」
 (琴を置捨て歩み寄り)
それなる山姫に物申さん、
これは登山のものよ、もの問はん。
姫、  
あらおどろかされぬるよ。
素、  
許せかし許せかし、はからぬところの
めぐりあひ、思はぬ琵琶の合せ歌、
その歌のこゝろ、さて問はで
別れんことのをしさに、
無礼とは知れど君留めぬ。」
姫、  
其声は人の世のものらしや、こゝは世ならぬ
ところなるに、いかにして君、‥‥‥
まがふ方なく世の人なるよ! さても
この人の調べやらん、先に聞し琵琶の
天高く鳴り渡りて、彼所の家のわが住を
迷ひ出でゝこの原に君に逢ふかな。
素、  
恥かしや未熟のしらべごと、
思はぬところまで鳴りさはぎて、
きみが妙なる天津縟のさまたげをしぬ。
さても亦めづらしや
こゝは名にしあふ広野目も?に、
幾十里に亙る寂寥を、
きみいかに、ひとりこのわたりに棲玉ふ。
夜は更けて世に聞馴れし夕梵の
鐘の音も、奈良も吾妻も彼方の天、
その天の、あの浮雲の下よ/\
麻にからめる世のもつれ!
さては、さては、わが美しの姫も、
あの世に詛れてや、おやはらからにも離れてや
鷹隼に追れし小鳥かも。
いな、いな、いな、鬼が人とて、人が鬼とて
左はむごくせじこの花を、この玉を。
姫、  
ほゝ何の怪しむことかは、鬼が人とて
人が鬼とて、世のものならねば
——愛るもなく、詛ふもなきものを。」
素、  
はていぶかし、その声音の
むかしのわが妹に能く肖つる。」
わが妹よ、わが妹ょ、彼ぞ、彼ぞ、
始めて世のあはれをわれに教へしもの、
狂ふが上に狂はせたりしもの、
また彼のみよ、
われに優しさ教へしもの、
われに楽しさ覚えさせしもの、
左は言ながら冷渡る
さびしき墳墓に入りてより早や幾とせ、
天が下に新らしきものは無き歳々の
梓弓春の足早み、行く秋の飛鳥川
枯梢枯葉もしがらまぬ。
思ひ思ひ廻らせば
行く水の流れ流れて彼の一葉、今は
いづくの江海に漂ふやらん闇の先き。」
或夜寝畳の夢まくら
おどろき起てば、君がすがた
燈火の裡に消え行くを、
呼止かねて明石潟、
展転反側る牀の中、
暁の烏の音、待たれし。」
 (はるかに牧笛を聞く)
姫、  
わがわらべならん、あの笛は。
 (仙童雪丸来る)
雪、  
わが姫はこゝに在すか、彼方此方と
索ねくたびれぬ、いざ来まさすや。
 (素雄を顧みて)
こゝなる人は何者ぞ?
姫、  
めづらしき旅の客なる。
雪、  
おもしろき物語にてもありしや、
いざ、姫君よ、まからふよ。
素、  
 (姫に向ひて)
さても君が身は、
楽しき境遇ならずや。
姫、  
左ればよ、自らは楽し苦しを覚えねど、
日となく夜となく野遊びして
疲るゝまではあさりありく。
また疲るれば、
森の樹蔭に自然がしつらへし
草の菴、蓬を被ぎて床となせば、
夜風いさゝか寒しとも、
うつくしき楽しき夢のみ結ぶなれ。
紅々と樹落に朝日のうつるとき、
起出れば鹿の集むる
山樹の果香ばし
足らぬときは自らも立出て、
堀りとる草の根甘し。」
素、  
其は楽しさの極みなり、
わが苦しさに、恋の苦しさに引代へて、
露姫! 露姫! 汝のみが
老ゆるも知らぬ平穏は?
姫、  
露姫と!
そはいかなる人なりや?
素、  
かくすまじ、かくすまじ、
汝こそわが懸人ならずや。
 (仙姫も仙童も鹿も去る)
素、  
喃、喃、待てや露姫!
ひとことだにも、われを思ふと言はずして、
復た新らしき物思ひせよとや。
ひとことをのこせ、われを愛すと、
愛せずや懸せずや、喃、喃、露姫!
腹立しや腹立しや、この琵琶よ、
彼を呼出し汝は罪負へよ、
もふ汝にも益はなし、
うち破りてん、
 (琵琶を取上れば鏗然響あり)
否、否、否、汝は破らじ
わが膓の被るゝに任せなん。

 第二場 蓬莱原の二

 (蓬莱原の道士鶴翁と柳田素雄連立)
 (ちて出づ。雲重く垂れて夜は暗黒)
素、  
わが眼はあやしくもわが内をのみ見て外は
見ず、わが内なる諸々の奇しきことがらは
必らず究めて残すことあらず。
且つあやしむ、光にありて内をのみ注視た
りしわが眼の、いま暗に向ひては内を捨て
外なるものを明らかに見きはめんとぞ
すなる。
暗のなかには忌はしきもの這へるを認る、
然れどもおのれは彼を怖るゝものならず、
暗の中には嫌はしき者住めるを認る、
然れとも己れは彼を厭ふ者ならず、
暗の中には激しき性の者歩むを認る、
然れども己れは彼の前を逃ぐる者ならず。
わが内をのみ見る眼は光にこそ外の、この
世のものにも甚く悩みてそこを逃れけれ、
いかで暗の中にわが敵を見ん。
暗を厭ふは己れが幼かりしときのみ、
光りの中に敵を得てしより暗は却われを
隠すに便あるのみ。
今己れが友なる暗に己れの閉ぢくちたりし
眼を円く開きて、
今日迄おのれを病ませ疾はせたりし種々の
光に住める異形の者の悪気なく眠れる態を
見る中に、‥‥‥またおのれは今暗に住める
あやしきものどもの楽しみ遊べるさまを見
る中に、たゞひとことの足らぬ心地ぞする。
鶴、 
 其はいかなる事ぞや。
世の人に煩累あるは常なり、然れども凡そ
わが道の術にて愈さぬものはなし、
きみが足らぬと言へるはいかなる事ぞ、
語り聞せよ、己れは之を立どころに愈して
ん。
素、  
われ未だわが足らぬところを愈す者にあは
ず、そもわが足らはぬはわがおのれの中よ
り出ればなり。世は己れに向ひて空しき紙
の如し、そが中に有らゆる者はいたづらな
るものゝ仇なる墨のすさみなれ、然れども
己れが目には墨の色は唯だ其のおもてに浮
べるのみにて、其の中こそは空しき紙なる
をうつすなれ。
われ世の中に敵をもてりき、われ世の中に
きらはしきものをもてりき、然れどもこは
わが世を逃れしまこと理由ならす。
わが世を捨つるは紙一片を置るに異ならず、
唯だこのおのれを捨て、このおのれを——
このおのれてふ物思はするもの、このおの
れてふあやしきもの、このおのれてふ満ち
足らはぬがちなるものを捨てゝ去なんこそ
かたけれ。
鶴、 
 これ、これ若き旅人、その、おのれてふも
のを御することを難んするも是非なけれ。
わが道の術とはそこぞそこぞ、
そのおのれてふものは自侭者、そのおのれ
てふものは法則不案内、そのおのれてふも
のは向不見、聞けよかし、
わが道術は外ならす、自然に逆はぬを基
となすのみ。
そのおのれてふ自侭者は種々の趣好あるも
のよ、石塊を拝むも彼なり、酒に沈むも彼
なり、佳人に楽しむも彼なり、墨に現ずる
山水に酔ふも彼なり、蠹と同に書庫に眠る
も彼なり、無邪気のおのれかな、是はわが
道術にて済度しつるものどもなればなる。
世にはまたくさ/\の苦しみあれば、われ
は「望」てふものをわが術にて世の人の懐裡
に投げ入れ、なやみ恨めるものゝ蒼めし頬
に血の色を顕はし、またわが術にて世の、見
えずして権勢つよきものゝ繋縛をほどく
「自由」てふものを憤り慨けるものゝ手に渡
し、嬉しみの弊を高く掌げしむる。斯くして
仏とならぬものはなし、
素、  
休めよ休めよ、わが時間は迅きこと彼方の
峯を駆けまはる電光に似て、わが誕生とわ
が最後とは地に近ける迷星の火となりて走
り下り消え失する暇よりも速く、わが物を
思ふは恰も秋の蝉の樹に倚りて小息なき声
を振り立つるが如くにして
汝が説く詐?の道にて仏となる可き性なら
ず。
自由? これ頑童の戯具のみ!
望? これ老ひたる嫗の寝醒の囈言のみ!
哲学も偶像も美術も亦美人も、わが身を托
する宿ならず、唯わが意は
見よ、あれなる空間を馳する雲なり、
見よ、あれなる峯を包める精気なり、
雲もなほ己れがまことの願ならず、精気も
なほまこと己れが願ならず、
然はあれども人界とこの「己れ」とを離る
ゝばかり今の楽しき欲望なるべけれ。
鶴、 
あはれなる不満を訴ふものかな、人界を離
るゝは、身を人界に置きてもかなはぬ事や
ある。好し人界を離れ得るとも、
汝が如きはまことの安慰ある者ならじ。
考へよ、蒼穹にも星くずの数は限なく、
争は日として夜として絶間なく、
砕かれて、敗られて落ち来る者は
多からずや、
好しや汝が光を放つ者となり得て、
高く彼方に懸るとも、汝の願は盈
つまじきぞ。
素、  
われ願を盈すが欲ならず、われ願てふものを
蓄へず、われ盈つる?くるを意に止めず、
唯わが心は、時に離れ間に隔り、
恰も彼の芒星と呼ばるゝ君の、
己れの軌道を、何に物煩なく駆奔る如きを
こそ楽しまんとするなれ。
この退屈の世、この所業なきの世、この偽
形の世、この詐滑の世、この醜悪の世、
この塵芥の世いかで己れの心をひと時息む
可き。
地のいと穢きほとりに楽しく棲みて夜に入
れば悲し気におもしろき音を為す地龍子を、
頑童等は鉤の頭に苦しめて、魚を欺むく料
となせど、われは世の頑兒が遂に彼に似た
るを憐れむなり、彼も己れを料らず頑童も
己れを知らず、彼も其住ところを美くしき
家と思ひ、これも己れの宿を此上なきとこ
ろと思ふ、彼も其声をおもしろしと夜すが
ら鳴きつ、これも其情を楽しと短き世に倣
り、夜の白むまではおのれを見る眼さへあ
らず。
おのれは怪しむ、人間が智徳の窓なり、
美の門なりとほめちぎる愛の眼の、
まことに開けるものなりや?
開かば、いづれを観る? まことに開かば
観る可きに、あはれ人の世の態を、
その穢れたる鼻孔を、その爛れたる口を、
その渇ける状を、その餓ゆる態を、
その膿める膓を、その壊れたる内神を。
聖しとて、気高しとて、厳格なりとて、
万類の長なりとて傲り驕れる人類は、
わが涙の色を紅になすもの、
いかでいかでわか安慰を人の世に得ん、
いかでいかで、道師が優しき術にて
この暴れたる心の風を静め得ん。
鶴翁、  
希有なるかな、わが術は然らん者
に施さん由なし。
汝はおのれを頼みて生く可き者ならず、
またおのれをたのみて死ぬ可き者ならず、
わがいましに為す可き事あらず、
往きね、往きて汝が心の侭になせよ、
極楽——地獄——岐は明らかに
この二道に別る、共の何れをも汝が
択ぶまゝならん。
 (鶴翁去る)
素、  
咄! わが行く可きところ
この二道の外なきや?
極楽? 地獄? 抑もわが
露姫は何方へや行きし?
汝が逝にし世は何方? そこぞ
わが行く可きところなる、地獄、極楽は
わが深く意に注むるものならじ。
汝あらば地獄いかで地獄ならん、
汝なくば極楽いかで極楽ならん、
わが汝を思ふは恋のいたづら心にはあらず、
われ、まことに汝なくば笑ふ可き機なけれ
ばなり。
露姫! 露姫! いづれにあるや、
いづくに待つや、いづくに臥するや、
思へば奇しき恋なるかな。

 第三場 蓬莱原之三、広野

素、  
われ我心を知る能はず、われわが足の行く
所を定むる能はず、何を願ひてこゝなる荒
野に入り来りしや、
わが願ふところ如何? わが思ふ所如何?
大地を開かしめ、蒼海を乾かして、
過ぎし世々の出来事と、其中に働きし巨人
どもを呼出でしおもしろき物語をなさんか、
こはわが力ならず。
然はあれども、然はあれども、これを為では、
死せるものを呼活さでは、わが美くしの者、
わが慰箱の者、わが露姫を
呼び出づることかなはじ。
仙姫と化りて其の姿を現はせし露姫、物を
得言はず、露姫よ露姫よ、きみが妹よと言
ひ得ぬは、「死」なる悪鬼のつきまとへば
なり。
われ軽き草鞋に足跡到らぬところなけれど、
未だひとたびも得踏入ぬは死の関の彼方なり。」
こよひしも、死せる者を呼活ることのいよ難
からば、われから、好し、死の関を踏踰えん。
然なり! 然なり!
 (樵夫源六出づ)
源、  
其処なるは何人ぞや。
素、  
われは諸国遍歴の者。
源、  
いづこより来り、いづこへや行玉ふぞ。
素、  
われ来りしところ知らず、行くところをも
知らぬなり。
風は北より来れど、其の行くところは南な
るにあらず、北に帰る可き為なり。
われも亦行くところあるに似たれど、
まことは元に帰るのみ。
源、  
元に帰るとは、いづれに行かふずるなる。
素、  
知らずや、「死」するは帰へるなるを。
源、  
エヽ! 「死」するは帰へるなりとは!
彼処の無底坑より微に聞ゆる梭の昔を君何
と聞玉ふぞ。
あれこそは名にしあふ
死の坑なれ、人の彼処に落つるものあれば
再び還らぬ別れなり。誰れ言ふとなく彼の
坑の中には美くしき姫ありて誰が為めに織
る衣ならん梭の音、
ほのかに聞けば彼の梭の書は、
変はり無き歌を唱ふとなむ。
恨める男のありて、共男の来ん迄は彼の坑
に梭の昔を絶たぬ可しとよ。
素、  
足れり、足れり、もふ誘くなかれ、
其の坑こそはわが到るべきところなれ。
源、  
何を言はるゝぞ、其処は恐しき地獄の道
なるを知り玉はぬや。
素、  
否、否、地獄を怒るゝものと思ふや。
源、  
恐ろしや、恐ろしや。
素、  
何をか恐れん、わが恐るゝところは
世なりかし。死は帰へるなれ、
死は帰へるなれ!
おさらばよ!

 第四場 蓬莱原の四、坑中。

素、  
暗の源なる死の坑よ!
人生の凡ての業根を焼尽して、人を
善ならしむると聞ける死の坑よ!
吾人の限なき情緒を断切りて、
黒暗のうちに入らしむると言ふなる
死の坑よ!
善悪の岐を踏みたがへしも踏み守りしも一
様並等に安寂なる眠に就かしむると聞ける
死の坑よ!
われ汝に問ふことあり、
汝が中に、ひとりの姫を、日となく夜とな
く休まぬ梭の昔を作しむるはいかに、
いまも其の梭の音は
わが耳を擘裂く如くにきこゆるなる、
恨めるごとく、哀しむごとく、訴ふる如く
責むるごとく、欺く如く、卿つごとし。
「死」よ!汝いかなる権ありて、
この音を、この楽を、この歌を、この詩を
作さしむる。
暗の暗なる死よ!われ汝を愛す、
然れども、汝がこの梭の音の理由を、
詳らにわれに語らぬうちは
われ我身を汝に任さじ。
 (一醜魅出づ)
素、  
流石に、暗の源泉なる死の坑の鬼なるかな、
みにくさ面なるよ。
汝は何者ぞ。
魅、  
われは「死」の使者ふるが、汝の問に答へん
とて出で来れるなり。
素、  
おもしろし、おもしろし、左らば語れよ。
魅、  
凡そ死の使者数多あるうちに、われは「恋」
てふ魔にて、世に行きて痴愚なるものを捉
へ来る役目に従ふなり。
われ真実は君が今視る如き醜くき魅なれど、
世に行きて働らく時は、
希に美くしき姿と化りて心空しき男女を
尋ねありく、
これに会ふときは、先づ其眼をわが魔術に
て眩ませ置きつ、然して後に其胸に乗入る
なり。わが乗入る後は賢きものも愚になり、
痴愚なる者も賢くなる。
素、  
待て待て、さては汝にぞある、恋の魅と聞
きつる鬼は。
鬼よ、われ語る可きことあれば——われ語
る可きことあれど、汝が醜くき面見ては、
流石にわれも語り難きぞ、汝が魔術もて暫
らく美はしき者となりてわが前に現はれよ。
われ恋てふものを嫌はぬにあらねど、其恋
の本性を極めぬにもあらねど、止み難きは
露姫を思ふの情!
美くしき恋しの姫の姿となりて、いまわが
前に現はれよ。
 (醜魅消去りて後なる襖を開けば露姫)
 (機に向ひて梭を止む)
素、  
露姫よ、露姫よ!
これを二度目なる今宵の逢瀬、
何ど物言はぬ、
露姫よ、露姫よ! わが汝を愛するは世に
言ふ意にはあらぬかし。
何ど物言はぬ、
露よ露よ、わが汝を思ふは、世の物を思ふ
の情にはあらぬかし。
紅蓮大紅蓮、浄園浄池ありとも、汝なくて
われに何の楽かあらん。
何ど物言はぬ、
其のやつれし姿は、われを恨める心なりや、
思出れば
六とせの昔日に早やなりし、世に激するこ
とありて家出の心急はしく世をはかなみつ、
己れを迷ひつ如法闇夜、
せかし裁せし旅衣、
露の玉をぬひこめて、袖に隠るゝ小櫛をば
踏折りて思ひ残すこと、
梨子の杖ひとつ、これに生命の導させ、
をちこちにさまよひて長の年月、
小夜月のおぼろの中に世の態も、
人の態も学び学びて早やくも疲れぬ。」
恋てふものゝ綱手の力足らなくて、
世の荒浪に流れ出でしは捨小舟、
寄せてはかへり、かへりてはまた寄する
無情の波。
このわれ何どか世をし悪まんや、
世も亦左程にはわれを悪まざ
りし者を、
あやしくも、いつの間やらん、
世はわが敵となり、われは世の仇と化りぬ。
彼が寄するや我が寄するや、
誰が撃つや鼓、誰が閃すや劔、
見えぬが内に怒るしき戦とはなりはてぬ。
この戦争はわれを狂はして、
出家の旅も住家と同じく、
苦痛の中に悶へしめ、ひとの楽はわが楽
ならず、ひとの栄誉はわが栄誉ならず、人
の欲、人の望は、わが欲わが室ならず、人
の喜、人の悲はわが喜、わが悲ならずなり
ゆけり。
今更思へは訳も無き
人の笑ひも泣きもせぬところに、われは
おとがひ解もしたり血涙流しもしぬ。」
露姫! 露姫! 何ど物言はぬ。」
秋風の松の葉越しに鳴る声を聞けば、きみが
終りを音信るなりけり、
悲しやな、悲しやな、わが胸に
これより凍つく冬氷、
早や散りたまひしか、
正木のかつら幹離れ、
招きもせぬ秋は疾く寄せて葛葉の飜々と落
ち散りたまひしか、あな無残!
露姫! 露姫! 何ど物言はぬ。」
散りにし後の露姫は、魂魄わが旅寝の天に
舞ひ乗らで、
いな乗りしかども、夢にのみ。
いづくの宿に身を置くなる。
浮世の旅の修行の間を、
しばしは離れ乖くとも
いつかは元の比翼の空、
高砂の尾上の松を下に見て
連れ飛ぶべしと思ひきに、
げにつれなき別れなりし。」
露姫! 露姫! 何ど物言はぬ。
 (露姫梭を弾)
 (きて歌ふ)
露、  
露なれば、露なれば、
消え行く可しと予て知る、
露なれば、露なれば
草葉の陰を宿と知る。」
露なれば、露なれば
月澄む野辺に置く可しと知る、
露なれば、露なれば
ひとたび消えても再た結ぶなれ。」
露が身を恋しと思はゞ尋ね来よ
すみれ咲くなる谷の下みち。」

 第五場 蓬莱原の五。

 (素雄懸瀑に謝する崖径に立つ)
素、  
雲解に層める沢水何を憤りて轟わたれ
る。
まろび落ちころげ下るたきつ瀬何を追ふて
電火よりもはやく落る。
湧き騰り捲登る瀑烟何を包まんとて狂ひま
はれる。」
われは見る、白龍の水を離れて奔躍跳舞を。
白龍! 白龍! われ汝称ぶに、
暫し静まらずや。
われ興無き世に生れて、幽欝を友
とする故に、
あたりに騒ぐ小鳥の声もわれを
慰むる者ならす、
また孤棲山の奥にも、わが心には休みなく
騒がしき響の絶ねば
声なく渡る杜鵑も、わが耳には百雷合
せて落る如くにて、
長き夜をまばたき少なく窓を睨みて
わが身の滅びを近寄せし。
滅びもわが物ならす、招けば背を向けて走
るまどろしさに、
われ己れを促しつ世の縄を断切りて、
美はしき自然の中に入らんとせし。
自然も亦われを迎へず喜ばず罵りて言へ
り、死す可き者よ、何ど夙く死なぬと。
白龍! 白龍! 今汝を嘱まん事あり、
むごく悲しく世のあらゆる者に捨られし
このわれを、汝こそわが友なれや、抱きて
渦まき怒れる底無き水に伴はずや。
龍よ龍よ、鬼に従はず神に従はぬ龍よ、
われ、このわれを汝に任してむ。
 (黙坐稍久し)
 (雲を開きて月皎々と中天に)
 (照り、雄鹿雌鹿相追ふて崖)
 (を登り乗り、続いて仙姫も)
 (蘿にすがりて登る。)
素、  
美なるかな、美なるかな、白玉の盤、
美なるかな、美なるかな、清涼宮、
月輪よ、汝を思ふごとに、見る毎に、
雲に桟橋なきを怨むかし、
暗き夜の寒き衾、
浦のしほ風吹くときに、
われ汝を招びてわが琵琶を
夜と共にかなで明せしこといくそたび、
今もわれ、命することを白龍聴かず、
白龍聴かずして、わが胸に
汝に聞かす可き訴ごとの積り起りぬ。
いでわが琵琶に。
 (仙姫歌はんとす)
素、  
其の歌は誰ぞや誰ぞや、
歌へや歌へや、其声は恋しき者なり、
其声は、わが琵琶の慕ふ声なり、
 (仙姫の歌)
美くしや大空歩むひかりのひめ、
物をおそれずひとりたび、
星をあたりに散り失なせ、
雲を行手に消えしむる。」
われもひとり住むなり、この山に、
寂しと思ふけふこよひ、
松が枝伝ひて降り玉はずや、
かたり明さむ短夜を。」
羽衣無き身をいかにせん、
君を恋ふとて舞ひ難し、
つばさ並べて舞ひたらばと
仇し思ひぞ是非なけれ。」
大空たのしき旅なめれ、
こゝにも楽しきことぞある、
来まきずや、来まさすや、わが洞に、
草花束ねてまゐらせん。」
姫、  
月や聴かぬ、いたづらなる願を
するかな。松が枝悪くし
其陰に、光を残して入りにけり。
左らばわなみも洞に帰り、
寝待ば明日の太陽は出でん。
鹿よ左こそ疲れけめ、
こよひのいとま取らしてん。」
 (雄鹿雌鹿去る)
 (素雄仙姫に歩み寄りて)
素、  
仙姫よ再び逢ひまゐらする。
姫、  
先程の旅客ならずや、いといとふ悲しき顔
色におはすはいかに。
素、  
然なり、われ白龍の騰降するを見て、己
れを連れて水底に沈めよと命ぜしに聴かず、
われ月を見て君が歌ひしごとく、雲に桟橋
を得て登り行かむとすれども得ず、
猛落つる瀑浪、岩根を揺ぎて砕け砕け湧く
うしほ、これを見る己れが胸も其の如く、
内の乱れ故に、外には悲しさ溢るゝなれ。
然れども、然れども、わが悲を拭ふ道な
きにあらず、拭ふ道なきにあらず。
姫、  
其はいかなる事ぞや。
素、  
露姫なる! 露姫なる! 己れが悲を拭
ふ可きものは。
仙姫よ、仙姫よ、露姫は君に其侭似たる者
よ、仙姫よ、仙姫よ、君は其侭露姫なるよ、
露姫! 露姫! わが汝思ふ心知らずや。
いましなくてはこの琵琶も、この琵琶も
悲さを鳴るのみなる。
この琵琶が招び出たる仙姫は
露よ、露よ、いましに甚く似たる、
いましならぬか、露よ、露よ!
姫、  
其の露姫に似たると云ふ、
君が恋人に似たると云ふ
わなみも今宵は、何故か寂しき心地のする。
素、  
何ど寂びしとは言ふ。
姫、  
寂びしと思ふ心地けふまでは覚えざりし、
何故とも知らず寂しきなり。
わが洞には焚火の用意もあり、‥
‥‥今朝集めし、よもぎもあれば‥‥‥
いざまれびとよ来れかし、
来れかし、来れかし、ためらはで。

第三齣

 第一場 仙姫洞

 (素雄仙姫洞の外に立出て)
素、 
眠! いましをあやしきものと
今ぞ知る、何ど仙姫にのみ臨りて
われには臨らぬ。
いまし来らねばわれひとり夢の如くに
醒めてこの洞のうちには得堪へぬ心地
すなる。
こゝに立出ればむら雲の、
行衛も知らず月のみさえまさりて、
草も花も、樹も土も眠らぬはなき。
眼! あやしきはいましなり、この原の
なべての物を安ませて、何とわれひとり
を安ませぬ。」
なほあやしきは露姫なり、我が安まぬ
胸の彼には通はずやある、彼がむかしの
恋はいかにせし?
眠てふもの恋の友ならじ、彼れの恋、
ありしまゝなれば、いかでおのれを
斯くまでに寂しき洞に覚めて
あらせん。
 (素雄再び洞に入る)
さても美はしや仙姫、いづこの宝の
山よりぞ、このめづらしき珠玉を取りもて
来て、誰がたくみの業にてや彫り成せるぞ
この姫を?
蔽へるよもぎのなくもがな、蔭なせる
松の樹梢をば残りなく折り去りて、満々
たるあの月をこゝに下し来りて
天が成せる真の美をしらべ尽さまし、
堅く結べる其の花の口元には、時代をし
知らぬ春含み、
其唇頭にはしのゝめの、丹き雲を
迷はせり、
黄金のかたきもいかでかは、其の暖かき
吐気に会ふて解ざらん。
緩くは握れど、きみが掌中には、尽ぬ
終らぬ平和と至善、
かたくは閉づれどきみが眼中には、不老
不死の詩歌と権威をあつむるとぞ
見ゆる、
黒髪のひと節二節、きみが前額には
天地に盈つる美を凝らすとおぼし。」
霊ぞ神ぞ、おごそかなる」!
抑も誰やらんこの姫は? わが露姫
か? いな、われ然らぬを悟りぬ。
然らぬか、然らぬか、わが露姫の姿なるを
いかにせん。
是幻なる可きや? これ現なる可きや?
これ真なる可きや? これ偽なる可きや?
わが想と、わが恋と、わが迷とが、ともに
わが為のたくみとなりて
この原に、露姫を、この原の気より
つくりいでしや?
誰知らぬものぞなきわが想の態、恋
の態、迷の態、悪魔、わが敵なる悪魔
まで詳にこれを知るならめ。
悪魔、彼か、こゝに露姫を活し出しは。
然れどもこの露姫はもとの露姫ならず、
わが恋せし露姫は斯る情なき姫には
あらざりき。
 (あたりを見廻して)
笑止、笑止、誰に科あらん、われを迷はせし
もの、このおのれの外ならぬに、われを眠
らせぬもの、このおのれの外ならぬに。
逝ねよ逝ねよむかしの記臆、恋てふ
魔魅に、このおのれを、あたら卑下なる
迷悶の僕となすは悲し。
恋! いましとわれといかばかりのちなみ
かある? いくたびか汝を退けて、わが
肉を腐らすもの汝なれと罵りながら、
この身いつしか汝が愛しき朋と
なる。いまし故には、地獄と極楽の
境に咫尺を舞えぬ霧を重ぬる
ことを常なる。
露姫起きよ! 露姫起きよ!
見よ、この露姫は性なき珠なり。
露姫! 露姫! 何ど起きぬ。
何が故に眠る?
安息てふもの、汝が無意無欲の世
には用なかる可きに。
何を夢見て眠る?
世の煩累も恋のもつれもなきいましが
仙棲に。
何を楽しみて眠る?
憂悲のひまにしばしの慰籍を求めて
うつくしき嬰児になる為ならで。
眠れる人よ、眠れる人よ、抑も誰がためぞ、
その快よげなる莞然る顔容は?
露姫か、あらぬか、抑もわが恋人か?
あらぬか?
わが暗に求め、光に呼び、天にあさり地
に探れる露姫は、
このくるしき胸の、乱るゝ絃をおさむる
者にはあらぬ。
 (高らかに笑ふ声松樹の中より起る)
素、  
叱! 何者ぞ? そも眠れる天地の
寂寞を破りて怪しき笑ひ声をなすは?
 (松樹を伝ひて降れるは一青鬼)
青鬼、  
われよ、おかしさに得堪へで笑ひし者は。
素、  
何者ぞ、何者ぞ? 鬼か、鬼か、
めづらしや、
さても汝が顔色の蒼く苦きことよ、
何に悲しきことありて然はなれる。
其は後に更に間はん、抑も何が故に
わが前に笑ひしぞ。
青鬼、  
わが笑ひしは、いましが為すことの、あまり
におかしければなり。
素、  
何が故におかしきや。
恋てふものを知らずや、わが狂へるは、事
故なくしてならす。
青鬼、  
恋とはいかなる痴愚を迷はす雲ならん、
其雲の中に迷へる者を見る毎に、
われおかしさに得堪へで思はずも笑ひ
嘲るなり。
人之れを呼びて神聖ものとなす。
是をよろこばぬものなく、これを願はぬも
のなし、その為すところを見れば暗きあた
りに手を取合ひて、
きみなくばわがいのちもなにかせんと言ふ
に、答へてわれも亦きみ故にこそながらふ
れと、愚なるかな、明朝は死ぬ可きいのち
を、恋てふものに一夜を千歳も更らじと契
るこそ。
われ数多き小女の、小暗き窓の下風の通ひ
もせぬあたりにて人に知れぬ露の玉をこぼ
すを見き、これを間へば恋ゆゑと。われいく
千度少年の悲し気の面して燈の油尽きに
しあとに膝を組み思ひを廻らす者を見き、
これを問へば愚ゆゑぞと。
また山をも抜きたる喜にやと思はるゝ程
に散り楽しむ者を見き、これを問へば恋の
成りし故ぞと。
死するも生くるも恋故に、春も秋も恋故に、
泣くも笑ふも恋故に——其恋てふ者は人を
楽しますとは聞けど、わが見るところを言
へば、楽しますにあらで苦しますなり。仮な
る、偽なる、まぼろしなる恋てふもの故に
——人の美はしき顔は価なき動物のひとつ
と見ゆるぞあはれ!
素、  
扨は一度も恋てふものを味はぬ鬼よな、汝
が蒼き面にては、誰が恋衣縫ふおろかをせ
ん、何ど愛化の術をもて、美くしき男となり
て、世に来り、優しき乙女の門に立たずや。
青鬼、  
戯むれぞ、われ恋てふものに狂ふ愚ならず。
わが婦を見るときは、其の何が故に優しき
かを疑はぬ事なし。
美なし、情なし、わが胸には。いかで汝が迷
へるこゝろをくむを得ん。
来よ、この仙姫を呼覚して彼が恋心いかな
らんを尋ぬべし。
 (素雄推し止め)
素、  
其仙姫はわが物なれば汝が荒さべる手を触
けしむること能はず。眠れるひとよ、眠る
うちに怖ろしき夢をや見ん、これも是非な
し、わが悪人よ、われは今去可きぞ、今去
可きぞ、眠れよ眠れよ、畳むること勿れ。
 (素雄行かんとし、鬼を顧みて)
鬼よ、来れ、汝と共に山に登らん。
青鬼、  
山に登ることは、鬼と魔の外かなはじ、汝
いかにして登る権を得んや。
素、  
おろかや、われ人の世に届とは言へども風
を御し雲を攫むことを難しとする者ならず。
青鬼、  
然れども汝は塵の兒なり、いかでか精なる
ものゝ為る業を為し得ん。
素、  
われ塵の兒なりと雖、塵ならぬ霊をも持て
り、この霊を洗ひ清めんために、いで御山
に登らん。
青鬼、  
然らばひとり行きね、われは止まる可き。
素、  
何ど行かぬ?
青鬼、  
御山にはわが権の元なる王住みて、われに
は山の根を守れと命じ玉ひて登ることを許
されず。こゝには、鬼と魔が身を養ふ可き、
気の中の物——
 (そも鬼の食ふものは見ゆる肉にあらずして
 気の中に流るゝ精なればなり)——
を得ること易からずして、わが躯を肥すに
由なく、いたづらに世のおかしき者を、多
く見て多く笑ふのみ。
素、  
左ればこそ、いましが顔の蒼ざめて見ゆる
なれ、実にあはれなる鬼よ。
鬼の中にも汝が如き幸なき者を見るはわが
期はざりしところなる。
然れども貸す可き力なし、われも鬼の世に
わが為す可きところなく、汝も鬼ならぬわ
れに借る可きものはなからん。
往け、樹蔭に入りて再び形なきものとなれ
よ。
然れども、われ必らず汝を誡めん、こ
の仙姫を覚ます勿れ。
 (青鬼は樹に登り、素雄は去る)

 第二場 蓬莱山頂

 (柳田素雄山頂に達して四望眺矚する所)
素、  
大地は渺々、天は漠々、
三界諸天の境際明らかなり。
万景万色一様になりて広がりつ、
山河都邑無差別夜陰の中。」
六道八維雲に隠れ雲に現はれつ、
凡てわが脚下に瞰おろすなり。
鉄囲——金鋼、——須弥、——幻視界の中
に眺る。
無辺無涯無方の仏法も、玄々無色の自然も、
この霊山に於てこそ悟るなれ、
こざかしき小鬼! 無益なる世の智慧!
大地大ならす、蒼天高からず!
我眼! 我心眼! 今神に入れよ、
この瞬時をわが生命の鍵とせん。」
いで御雲を踏立てゝ彼方なる危巌の上に立
たむ。
 (危巌の上に登る)
 (雪崩の響凄まし)
大地今崩壊るや?
用なき大地今崩壊や?
くづるゝも惜からず、いな、いな、いな、
聞くは雪崩の響なり。」
 (俯瞰して)
底は見えず断崖幾千仭、
誰が立掛しぞこの壁を。
鬼神とても、よもやこゝをば飛登らじ、
電光とても鳴神とても、この山側には
住まざらむ。
思へばわが身は羽毛ならぬに、
雪さへ積れるこの巌の、角に
立つとは如何、如何。
人か? 神か? 人の世は夙く去りて
神の世や来れる?
神ならねば、いかで、この業は?
神かわれ? われ神か? 咄!
咄! いかでこのわれ!
依々形骸あり! 形骸、形骸!
塵の形骸! 昨日の侭の塵の
形骸! 咄、なほ入なる。
われ神ならす。天地の神は父なる。
いで父を呼ばむ、神を祈らむ。
 (巌上に危坐して祈請す)
天地に盈つる霊、照覧あれ照覧あれ、
日を鋳り、月を円めしもの、耳を傾け玉へ、
われ世の形骸を脱ぎ去らんと願ふこと久し、
霊山に上りて、魂は、魂は浄められしかども、
未だ存る形骸やわが仇の巣なる。
悪鬼夜叉に攻め立られて今迄の生命は、長
き一夜の、寝られぬ暗の中。
脱去らしてよ、この形骸、この形骸!
雪ぐ可き恥辱の山高み、
払ふ可き迷の虚空広み、
脱去らしてよ、この形骸、この塵骸」!
 (鬼王三個部下若干を率ひて出づ)
第一鬼王、  
叱! 愚の物よ! 何をか斬る?
 (素雄飛起きて)
素、  
誰ぞ、誰ぞ、おろかと嘲るは?
第一鬼王、  
われよ、このわれよ、さても愚の片!
塵にて造られながら形骸を厭ふとは。
往け、往け、再び世に還りて
草小屋の陰に隠れよかし。
素、  
咄! 罵るか、生々しき鬼奴!
第二鬼王、  
愚ろかなる物! 静まれや!
この山の魔に従はぬか、
この山の鬼の眷族にならずや。
素、  
叱! 悪鬼われを知らずや!
義の兒ぞよ! 汝とは異ある性ぞよ!
第三鬼王、  
蹂践れ! 蹶?せ!
粉末にして、細塵になして、地下に
投ふぞ、こざかしき少年思ひ知らせでは。」
 (小鬼共哄然笑ふ)
素、  
鍼默! 小鬼共! 神に背きて
人を詛ひ、世を逆行かす白徒!
さばきの日を待ちて、汝を、汝を、熱火に
投げ入れふぞ。
怪しきかな、この霊山に悪鬼を見んとは、
左ては霊山も頼なき澆季になり果しや。」
 (小鬼共再びどっと笑ふ)
第一鬼王、  
神とや? おろかなるかな、神なるものは
早や地の上には臨まぬを知らずや。
われらの主なる大魔王、こゝを攻取りて
年経たり。
汝がごと愚なる物は悶へ滅びさせ、
かしこきものには富と栄華を給ふことを知
らずや。
さばきの日とや? あら不愍なるかな、
けふこのごろの裁判を知らで、いたづらに
頸延べて知らぬ未来を待つや。」
素、  
煩はし、汝が如き、わが言葉敵ならず、
往け、われ魔王を待たむ、
往け小鬼ども」!
小鬼の一個、  しれもの奴、生ざかしき漢、
諸共に撃ち砕きてこの岩より投ふぞ。
いざ、いざ皆のもの!——来れ、来れ。」
 (大魔王出づ)
大魔王、  
またしても小鬼共の働らき立、無盆/\、
うち捨てよ、引去れよ、鬼共、
この男、塵とは言へど面白き、
骨のあればぞ、こゝへは呼びしなれ。
早や性け、引き退けよ」!
鬼王とも一声に、  王のおほせぞ、
わが大王のおほせぞ、みな慎みて聴けよ、
万づ世に生きよ、わが魔王!
万づ歳、万づ歳君が物なれ!
 (鬼王小鬼皆去る)
大魔王、  
塵! われを覚ゆるやいかに。
素、  
然り、汝は山門に現れし者よ、
声のみは彼処にて聞きし。
大魔王、  
汝がことはわれ始め終り尽な知る、世を憤
り、世を笑ひ、世を罵り、世を去り、恋人
を捨て、なほ足らずして己れの滅を欲ふは
愍然塵の子かな! 抑も何故に斯くはなり
し。
素、  
わが悲しみは、魔王よ、汝が知る所ならず、
わが憤は、魔王よ、汝が喜び躍る所ならず
や、わが笑ふ者、わが罵る者、人生の深き奥
を思ひ念らせばなり。
大魔王、  
おかしやな、おかしやな、
王侯貴族は、珍宝権威を得れば、
勇み喜びて世を此上なき者と思ふ、
商估は黄金の光の輝々を見れば、
苦もなく疚もなく笑ひ興して世を渡る、
農家は秋の穂並の美くしきを見ば
濁酒三杯の楽しさ忘れずと言へり、
少女は賎の夜業の小唄のかたばらに
恋のさゝやき聞くことを
またなき憂晴しと思ふなる、
少年は目元涼しきをとめの肩に
椅りつゝ胸の動揺めくを、
天が下に唯一の極楽と思ふなる、
然るに怪しきは汝なり、何を左は苦しみ悶
ゆるぞ。」
素、  
凡そわが眼の向ふところは浮世の迅速き楽
事にあらずかし、
望にも未来にも欺かれ尽してわが心は早や
世の詐?を坐して待つ忍耐を失せたりける。
始めには楽しと思ひしこと、後には其の後
面をのみ窺ふ習慣となりつ、
自然にわが眼、塵の世を離れて高きが上に
弥高く形而上をのみぞ注視ける、われに大
鵬の翼なくとも能く世の雑紛を摶きて、
蒼穹に精魂を舞ひ遊ばしめし、わが精魂の
蒼穹に舞ひて心地はつかに清しくなりけれ
ば、わが苦める顔色も和らぎて——茲に始
めて嘗むる恋の味、あだかも百種の草花一
度に咲ける花園に、われと彼、彼とわれ、
抱き合ふて歩める如く、この世の中に、忌
はしき地獄を排して、一朝に変れる極楽園。
然はあれども、世の極楽は長からず、
忽如に悪鳥花を啄み去り、
暴風も草をなぎて行けり、
恋てふ者も果なき夢の迹、これも
いつはれるたのしみと悲しみ初にき。」
大魔王、  
さてもさても怪しき漢かな、
語れよ、語れよ、息まで語れよ。」
素、  
おもへばわが内には、かならず和らがぬ両
つの性のあるらし、ひとつは神性、ひとつ
は人性、このふたつはわが内に、
小休なき戦ひをなして、わが死ぬ生命の謎
くる時までは、われを病ませ疲らせ悩ます
らん。
つら/\わが身の過去を思へ回せば、
光と暗とが入り交りてわが内に、われと共
に成育て、
このふたつのもの、たがひに主権を争ひつ、
屈竟の武器を装ひて、いつはつべしとも知
らぬ長き恨を醸しつあるなり。
この戦ひを息まする者、「眠」てふ神女の贈
る物あれど、眠の中にも恐ろしく氷の汗を
しぼることもあるなれ、
眠はた長き者ならず、起出れば野に充つる
小幟大旗、山を崩す軍叫喚、
鳴神の銃の音、電光の剱の火、
外の敵には、露懼るゝこと知らぬ我ながら、
内なる斯のたゝかひには、
眼を瞑ぎて、いたづらに胸の中なる兵士を
睨むのみ。」
大魔王、  
説くなかれ説くなかれ、
さても愚なる苦しみかな、われ其たゝかひ
を止め汝を穏やかに、楽しき者となさん、
いかに。」
素、  
汝が力にて能はゞおもしろし。
大魔王、  
去らば来よ、彼方の巌に登らん。
 (両個歩み出て彼方へ登る)
大魔王、  
暫時爰にて眺めて居よ、わが再び還り来ん
迄は、おさらばよ!
(大魔王去る)
素、  
あやしき魔王かな、こゝにて何を見よと謂
ふや。天の美か、地の和か、われを静むる
者いかん。
 (俯し覗ひて)
素、  
あら間近なるあの烟は?
燃上る、あの火は? 其色の白き黒き、赤
き青き入雑れるは、何事ぞ、何事ぞ!
あれ、あれ、あの火は都の方よ!
都よ! 都! 都のいつの間にかこの山の麓
に移れりと覚ゆる、
その火! その火! 都! 都!
みやこ! さてもわが呱々の声を挙げしと
ころ、
みやこ! わが戯れしところ、無邪気なり
しところ、
みやこ! われを迷せし学の巷も、わが狂
ひ初めしいつはりの理も、
わがあやまりし智慧の木も、親しかりしもの
も悪かりしものも、そこに、
あれ、あれ、あの火の中に」!
さてもあの白き火は?
これは出づ、高廈珠殿の間より、
さてもあの黒ろき火は?
これは群箱宝典の真中より、
さてもあの赤き火は?
これは謝辞踏舞の際より、
さてもあの青き火は?
これは茅屋廃家のかたはらより、
陰々陽々瞹々憺々、烟となっては火に還り、
火となっては再た烟となりつ、
立登り立騰る——虚空もこげて星も落ち散
る、物凄や/\。
あの火の下に、あれ、あれ、何者ぞ?
 (巌の極角に進みて)
あれ、あれ、わが住馴れしあたりは早や灰
となれる、早や、早や灰よ、灰よ!
むかしの家はなく生命の気もなし、
むつみ遊びしものも優しかりし乙女子も、
わが植たりし草も樹も、
ひとつは髑髏となりて路に仆れ、
他は死の色に変れる。あれ、あれいまはし
や悪鬼ども友を蹴立て、飛びつ躍りつ挙ぐ
るかちどき、
白鬼、黒鬼、赤鬼、青鬼、入り乱れ行き違
ひ、叫びつ舞ひつ、鼓撃ち跳ね遊び、祝ひ
歌唱ひ、酒庭ひろげ、酔ふてはなほも狂ひ
躍り、
落散る骨をかき集めて打たゝき、
まだ足らぬ、まだ足らぬと
つぶやく声のきこゆる。
鳴呼、わがみやこ! あれ、あれ、みやこ!
捨てたりとは言へ、還へるまじとは言へ、
わがみやこ、悲しきかな、あの火!
無残、限りなき人を
晩からす尽な灰にす可きぞ。」
いづこにや隠れし妙なる法の道、
いづこにや逃れし、まこと世を愛る人、
あの火に焼かれしか、はた恐れて去るか、
あなや! あなや!
 (大魔王再ひ出づ)
大魔王、  
何にを左は悲しむぞ。
素、  
おそろしき世の態を見ればなり。
大魔王、  
何ど左は悲しむぞ。
素、  
出でしとて世はわがまことに悪む所ならず、
まことに忘れ果る所ならねばなり。」
 (大魔王から/\と笑ひて)
大魔王、  
おろかやな! 世は笑ひつ泣きつ消え行くに、
汝ひとりは忘れぬとや、忘られぬとや。
神とし尊崇るもの此世にては早や
権なきを知らずや。
素、  
あれ、あれ、あの火の中には、神も仏も、よ
も住まざらん。
任まざらんとはおろかなり、神より彊きも
の、彼に打ち勝ちて、彼の権威を奪ひ取れ
るを知らずや。
素、  
其は誰ぞ、何物ぞ?
大魔王、  
其彊き者を知らば汝は降り拝くや。
尊崇て汝が王となすや如何。
素、  
もとよりなり。
そはわれぞ。罪の火をもやして白き黒き
赤き青き、その火を以てこの世を焼尽さん
とするものわれぞ。
人を、世を、灰と化し、昔の塵にかへすも
のは、斯く言ふわれぞ。
火を、風を、電火を、鳴雷を、洪水を、高
き山を、ひろき海を、思ふが侭に使ふもの、
斯く言ふわれぞ。
暗をひろげ、死を使ひ、始めより終りまで
世を暴し、世を玩弄ぶもの斯く言ふわれぞ。
ひれふせょ今、ひれふせよ、塵!
 (素雄黙然)
大魔王、  
千万の小鬼大鬼を随へて雲に乗り風に鞭う
ち、雨に交りて天上天下を横行するもの斯
く言ふわれぞ。
俯伏せよ、ひれふせよ、降らずや。
 (素雄なほ黙然)
大魔王、  
いまだ降らずや、
汝が通例ならぬ胆あるを見て、こゝへ召寄
せ、わが鬼の頭のひとりとなさんと思ふに、
いまだ俯伏さずや。
 (素雄なほ黙然)
いまだひれふさぬ、
さらばわが魔力もて滅さんに、
火に投入れて灰となさんに、
なほ降らじと思ふや。
 (素雄奮然として立ち)
素、  
叱! 悪魔! 狂ひぞ、狂ひぞ、
汝が雲の住居、汝が飛行の術、汝が制御の
権はわが友とするに足ど、
限なき詛ひの業、尽くるなき破壊の業は過
去未来永劫の我が仇ぞ。
大魔王、  
口さかしや! 降らずや!
素、  
降れとや、あな、けがらはし天地の尽くる
迄は、汝とわれと睦む時あらじ、
往け、往け、往かずば、わが真如の剱の
鋒尖を見せんか、いかに。
おもしろし汝が減の力、
試みよ、今まこのわれに。
大魔王、  
滅ぼすは易き業なれど、滅ぼすは、
滅ぼすは、泡沫を消すより迅速けれど、
流石に、汝を滅ぼさんは。
降れ、降れ、も一度思ひ念らせよ。
素、  
いまだ往かぬ、いまだ降れと言ふ、
穢らはしき魔、咄、悪魔、思ひ知らせでは。
 (大魔王大笑して去る)
素、  
あやしわが眼自然に見ずなりぬ、
明相無明相にまだゝきもせず開きし我眼。
魔声、  
わが力知らずや。
素、  
あな魑魅、毒魔、わが滅尽の業を、いまはじ
むるや。
いで、いで、この鉄拳にて戦はんや。
あらあやしわが腕動かずなりぬ。
魔声、  
わが力知らずや。
素、  
口惜しや、口惜しや、おのれ悪鬼われを玩
弄ぶや、左らばわが脚を挙て蹴らんや。
あやし双の脚しびれて立たず。
魔声、  
わが力知らずや。
あはれのものかな! 思ひ知れ!
いざ行かん、空しく時を費やしけり。
おさらばよ、塵!
 (素雄眼を瞬開きて)
素、  
いかに、いかに、重くかゝりし雲に終はれ
し天の門開らけ、清く流るゝ天の河。
いかに、いかに、わが眼の再び物の色を別
ち、脚も立ち、腕も動くぞうれしき。
見へず早や、あのいまはしき魔、魔よ、魔
よ、いづこへや往ける。
無念骨髄に透りて、御雪には熱を催せしわ
がふところより迸り出る凍れる血。
無念、無念、われなほ神ならす霊ならず、
死ぬ可き定にうごめく塵の生命なほわれに
纏へる。」
事間はん、その「我」に、いましが
行く可きところいづこぞ?
世か、還るか、世に?
世に還らば、いづこに住みて、いかなる業
をやなす?
嵯、吁、わが還へる路には、猛虎あり、毒
蛇あり、猛虎毒蛇わが恐るゝ所ならず、然
れどもわが戦ふを好まぬもの、戦ふを好ま
ぬにあらず、わが性は戦争に習れぬなり。
世よ、わが行きて住むべき家ありや、
世よ、わが還りて為すべき業ありや、世よ、
汝しが曾て興へし古寺の朽ちし下壁の、煽
蝠と共なる巣は、「寂寥」を宿すには足れど、
この暗幽に眠らぬものには一夜をも送らる
べきところならす。」
われ世を家とせず、世よ汝もわれを待
ぬ可し、
わが家いづこ? わが行くところ?
咄! 咄! 魔、われをいかにせんずる。」
見おろせば限知られぬ山の底、
あやしき火や登る、そこよ、そこよ、
わが行く可きところ、そこ地獄、
死の水の流は速し、そこよ、そこよ、
わが筏おろさん、そこよ陰市道、
この身、生きて甲斐なし、ありて要なし、
悪ひ極めて、いで一躍して奈落の真中に!
風の如く、火の如く、雷の如く、流星の如く
落下らんや。
さもあらばあれ、粉となれ、塵と化れ、
舞下らん! 舞下らん!
思へば安し、もとより塵なれ。
世のおきて乱し、世のさだめ被るものわが
後に生れざれ。
いま去らん、消え失せん、世の外に。
 (一躍巌を離れんとする時)
 (樵夫源六走来りて抱止む)
素、  
誰ぞ、誰ぞ、何者ぞ、われを止めていかに
する?
源、  
待ちね、待ちね旅人。
素、  
樵夫ならずや、いかにしてこゝへは来し。
またいかなればわが死を止むる?
源、  
危ふかりし、危ふかりし、そこは険し、辷り
落ちては‥‥‥此方へ此方へ。
素、  
いなよ、この世はわれを苦しめ、また欺む
けり、われを無からせんとせり。
いかで長く留るべき、早や興なければ。
見よ、世の方に燃へさかる火、われいかで
ながらへん、今こそ時なれ、死ぬ可き時。
見よや彼方におもしろく翼張る者あり、あ
れ、あれ、あの鳥、あの鷲、このわれ、い
かで劣らん、いでひとおどり、奈落への旅
路急がん。
 (源六素雄を捉へて動かせず)
源、  
あわれ旅人のむごく狂ふかな、
おそろしやこの頂より舞下りんとは、
しばし、みやこ人、しばし静まりてよ。
こはいかに、こはいかに、
何どて、左はもがくらん。
素、  
なだめぞ、なだめぞ、虚偽のかたち、汝も
小鬼のひとりなるべし。
思へば人誰れか鬼ならぬ、
美くしき顔なるも、柔しき態なるも、いみじ
き言吐くも、けだかき行ひするも、おごそ
かに説くも、あらたかに論ふも、優なる
挙動も、清らなる意も、外こそは神なれ、
内は鬼なる。
人は皆な鬼なるか、
わが見しごとく灰の中にときめけるものど
もは人か鬼か、鬼ならん、鬼ならば人なら
ん、人ならば鬼ならん。
往け樵夫、われ鬼の世には還らじ、
知らぬ地獄にはまた楽しきこともあらん。
 (源六素雄が仙姫洞に)
 (遺せし琵琶を取出て)
源、  
おそろしく狂ふかな。さても旅人よ、
この琵琶を覚へずや、わが鬼ならぬはこれ
にても知りたまへ。
素、  
其はわが琵琶ならずや、いかに、わが精神
のいとも親しき者ならずや。
 (一滴の涙凄然として落つ)
いかに、いかにわが琵琶よ、わが為に、い
かなる音を鳴らんとする、そも此処に。
琵琶よ、わが乱るゝ胸は汝が慰籍の界を踰
えて‥‥‥果なし。
見よや、われを納むべき天は眺るが内に高
きより高きに、蒼きより蒼きにのぼりのぼ
りて、わが入る可き門はいや遠み。
見よやわが離る可き地は、唯だ見る、蛟龍
の背を樹つる如く怒涛の湧く如わが方に近
寄り近寄り、埋めんとす、呑まんとす、そ
の暗き墟に。
琵琶よ汝を件なふて何かせん、汝を頼みて
何かせん。
わが精神の、わが意情の誠実の友なりし
わが琵琶よ、早や用なし、
清くいさぎよき蓮華の上に、汝を携へて、
浄土の快楽長からんと思ひしことはいつは
りなるかも、実にいつはりなるかな。
いまは早や汝のいとま取らす可し、
わが埋もる可き世の奥なる地獄の地に、汝
が通ふ道あるやいかに、疑はし、
行け、往け、夜も懼れず空を?るあの、あ
の鷲の跡追へよ、汝も自由の身! 琵琶よ
汝も不羈の身! 天地心なからんや、汝が
為に流す涙なからんや、
往け、 逝け、 わが先駆せよ!
いづこへや行く? 往け、いづこなりとも!
われと共なる可きや? 往け、行かば汝が
通ふ所あらん、わが通ふところは未だ知ら
ず。
 (琵琶を投下ろす)
おもしろやおもしろやわが琵琶の、風にひ
るがへり、気を払ひ退けて、
怒れるや、恨めるや、泣けるや、笑へるや、
喜ぶや、悲しむや其音?
自然の手に弾かれて、わが胸と汝が心とを
契り合せつゝ、
落ち行なり、落ち行くなり!
ヱー、ヱー其音は、ヱー、ヱー其の琵琶の、
ヱー、ヱーわが琵琶の其昔はわれに最後を
促すなる!
いでこのわれをも舞ひ下らせん、
舞ひ下らせん抑もや
烈火の中にか熱鉄の上にか。
いでいでわれも行かん、
地よわれを噛むに虎の牙現はせ、海よわれ
をのむに鰐の口開け、いで、いで、わが中に
も、生命われを脱けんともがくと覚ゆる。
 (素雄振りきりて飛び躍んとす)
源、  
危ふし、危ふし、さても怪しの旅客かな。
素、  
怪しと? 世の生涯こそ怪しけれ、
過ぎこし経験や鏡なる‥‥‥
死こそ物の終りなれ、死して消ゆるこそ、
死すればこそ、復た他の生涯にも入るらめ、
来れ死! 来れ死!
この崖を舞ひ下らでも、わが最後の力、世
に充つる精気の力と相協ひてわが死を致す
に難さことやある、
いでわが命ずるに‥‥‥いでわが命ずるに
‥‥‥いでわが命ずるに‥‥‥わが召ぶに
‥‥‥わが召ぶに‥‥‥
死! 来れるよ汝!
来れるよ汝! 笑めるもの!
来れ、来れ、疾く刺せよ其針にて、
いま衰ろへぬ、いま物を弁えぬ、いま消え
行く、いま死、いま死! 死よ、汝を愛す
なり、死よ、汝より易き者はあらじ。
おさらばよ!
 (仆る)
源、  
こはいかに、こはいかに、舞下りもせでこ
ゝに終りぬるか、あやしやな、あな無残! た
び人よ、たび人よ! 早や起きず、其の魂
はいづこに行くならん、
おそろしや、おそろしや!
あはれ、あはれ、死なしけり、失なしけり。

蓬莱曲別篇を附するに就て

余が自責の兒なる蓬莱曲は初め両篇に別ちて世に出でんと企てられたり。即ち素雄が山頂に死する迄を第一篇となし、慈航湖を過ぎて彼岸に達するより尚其後を綴りて後篇を成きんとせしも痼疾余を苦むる事筆を握る毎に甚しきを覚ゆるを以て中道にして変じて之れを一巻となす事とせり。故に僅に慈航湖の一筋を附加するの止を得ざるに至れるなり。然れども他日病魔の退くを待ちて別に一篇を成すの心なきにあらず、姑らく之を未定稿と著して巻尾に附するのみ、読者之を諒せよ。

                著者識
 
 

蓬莱曲別篇(未定稿)

  慈航湖
 
 (露姫玉樟を遣ひ素雄失心して)
 (船中に在り)
露、  
これは慈航の湖の上、波穏かに、水滑らか
に、岩静かに、水鳥の何気なく戯はれ游げ
る、松の上に昨夜の月の軽く残れる、富士
の白峯に微けく日光の匐ひ登れる、おもし
ろき此処の眺望を打捨てゝ、
いざ急がなん西の国。
 (仆れたる素雄に向ひ)
素雄ぬしよ、はや覚たまへ、
世とは離れて、きみが恐るゝ者のひとつだ
にこゝには在らねば、
きみの為めに死にし露は今きみを載せて、
この船に、
きみを迎へ出でゝ原の彼方に相見てし
露は今きみの傍らに。
起きよ、起きよ、素雄ぬし
西の国への旅路めづらしきに。
まだ起きぬ、去らばこの琵琶を以て
呼覚してん。
 (琵琶を取上て弾ず)
素雄ぬし、いかなる夢に——楽めるか、
悩めるか、まだ起きぬ。
 (再び琵琶を鳴す)
素雄ぬし、何ど覚め玉はぬ。
いで最一度。
 (三たび琵琶を鳴す)
素、  
誰ぞ、誰ぞ、わが魂を撹き乱すもの?
その鐘の音はいかに、わが行可きところ
未た定らぬか。
空しく澄むかな梵音、われ己れを悪魔の手
に任せ、——否な、任せしとは言へ、わが
好意にて興へたれば、其の音いかに美くし
とも、其の調いかに甘しとも、わが地獄の
路を閉づ可きや。
露、  
まだ覚めぬ、己れを魔に興へしと言ひ玉ふ、
はかなく狂ひ果しかな。
いで最一度、この琵琶を澄さん。
 (四度琵琶を鳴す)
素、  
走れ、走れ、急げ、急げ、あれ、そなたに、
それ、こなたに、こゝにも居る、彼処にも
居る、鬼共急げ、急げ、急げ、
われを陰府に連れ行けよ。
兎は言ながら、好し、
このわれは永遠毒火に焼かるゝとも‥
‥‥思へば、いとしき彼人は、
彼こそはわが行く道に在らぬべし。
左すれば永き離別もこの一時よな、
悲しきはこの事なり。
露、  
まだ狂ふよ、いで最一度、
 (五度琵琶を鳴す)
素、  
それなるは如何、棹の形せるものは陰府の
鎗なるか、わが苦痛の時は来れるか、それ
なるは如何、優しき鬼なるかな、その優し
き顔以てわれをいかにする。
露、  
わなみは鬼にあらず、露姫よ、露姫よ
きみが妻なるよ!
 (六度琵琶を鳴ず)
 (素雄かつぱと起きて)
わが露姫とや?その音はわが琵琶
ならずや、わが精神ならずや。
 (四方を顧みて)
こゝはあやしき霞の中、いかにいかに
わが露姫のこゝに居るとは。
露、  
そは語るまじ、蓬莱が原にて仙姫と化りて
きみに会ひしときにも語らざりし、死の坑
にて梭を止めて相見しときにも語らざりし、
すみれ咲く谷の下道なる洞にても語らざり
し、
わなみこれを語る可き権なし。
素、  
それよ、それよ、われ蓬莱山の霊野に入り
しことを覚ゆ、露姫よ、汝が鹿を連れて過
りしを見き、汝が死の坑に梭の音を止めし
ことも、また瀑をめぐりてあやしき谷の洞
にも汝の眠れるを劫かせしことも‥‥‥ま
たこのわれが雪を踏んで霊山に登り、世の
王の嘲罵に得堪へで‥‥‥仆れしまでは現
に覚ゆれど後は知らず。
さてはわれ早や世とは離れぬるか、死の関
も早や越えぬるか、めづらしきこの和平の
湖は、これぞ神の境に入る可き水ならん、
餓鬼道に入るも惜らじこの身と思ひ定めし
を、
われ終に世を出ぬ。
われ終に救はれぬ。
われ遂に家に帰りぬ。
 (奇鳥過ぐ)
素、  
あれ見よ、あやしの霊鳥ならずや
彼の名を知るやいかに。
露、  
わなみは知らず。
素、  
見よ彼鳥はわが方を注視つゝ、浮木に憑り
て、物言ひだ気に見ゆるなり。
言はしめん、言はしめん、霊なる鳥よ、い
づれより来りいづれに飛ぶを尋ねはせず、
語れ語れ、語るべき事あらば。
 (鳥は水を離れて語を残して飛ぶ)
〔悟れ! 悟れ! 夢より醒るもの、
〔祝へ! 祝へ! 世より繰るもの、
〔楽しき西に疾く急げ!
〔彼の岸に疾く上れ!
〔魔はこれより汝が敵ならす!
〔よろづのもの尽な汝が友なる可し!
〔たのしめよ、たのしめよ!
 (霊鳥去る)
素、  
まことなり、われもわが長き夢を初めて破
り、けさぞ生命に帰る心地する。
露姫よ! 露姫よ! われ初めて悟りぬ。
其の玉の手を借せよ。
 (露姫手を出せば握りて)
露姫よ、一昨日は恋の暗路の侶連、
昨日は世の苦悩の安慰者、
昨夜は変りて眠を撹す者なりしを、
忽ち今朝は倶誓の慈航の友。
日輪霞の彼方に立登りぬるに、
ためらはゞ遅れん、
疾く彼の岸に到らん。
露姫、  彼の岸よ、彼岸よ、楽しきところは彼岸よ、
恨なく憂なく辛なきは彼岸よ、
素雄、  彼岸よ、実‥‥‥
友を追ひ、分け来し雲は消行きて
尽きぬやどりに帰る厂金。